Tumgik
sorairono-neko · 2 years
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勝生勇利の愛の話
「ヴィクトルもおいでよ」  クリストフに誘われたとき、何かおもしろい集まりでもあるのかとヴィクトルは興味を持った。行ってみてもいい。勇利を連れて。勇利は大勢と会うのは苦手だけれど、スケート仲間に知り合いをつくっておくのはよいことだ。 「いいけど、何だい? 食事会?」 「飲むほうだよ。俺の部屋に集合することになってるんだ」 「楽しそうだね。誰が来る?」  クリストフはアイスショーのために集まっているスケーターの名をいくつか挙げた。ほとんどみんな引退しているプロスケーターばかりだ。現役で活動しているのはヴィクトルとクリストフくらいだった。 「ちょっとした発表会なんだ。ヴィクトルもそのつもりでいてね」 「発表? 何を発表する?」 「これまでの愛の軌跡さ」  クリストフは笑いながら言った。ヴィクトルは眉を上げた。 「おっと、俺の案じゃないよ。先輩方さ。ただのお遊びなんだし、断ることもできないだろう。ヴィクトルなら大丈夫でしょ。これまでの百万人とのいろいろなことを、適当にしゃべればいいんだよ」 「俺が愛しているのは勇利だけだ」 「じゃあそう言えば? そうそう、勇利だって来るんだよ」  クリストフはおもしろそうに笑った。ヴィクトルはびっくりしてしまった。 「なんだって? どうせ彼に会の目的を教えてないんだろう。騙してそんな場に連れ出すなんて感心しない。勇利はそういう話が苦手なんだ。クリスだってわかってるだろ?」 「説明したよ。それでもいいって勇利が言ったんだよ」  ヴィクトルはさらに驚いた。勇利がいいと答えた? 本当だろうか? 「むしろ、わくわくして楽しみにしてるみたいだったよ。うそじゃない。勇利に訊いてみれば? それで? ヴィクトルは来るの? 来ないの?」 「行くにきまってるだろう」  勇利が参加するのに行かないわけがない。しかしヴィクトルはふしぎだった。どういう会合かを聞いてなお、勇利が承知したのはなぜだろう? 彼ならそんなことはひとこと聞いた途端に断りそうなものなのに。ヴィクトルは、「愛されたことを思い出すんだ」と言っただけで勇利に完全に無視されたことを考えた。  ヴィクトルはクリストフに約束の時間を確かめ、そのあと、勇利に会いに行った。彼は平気そうだった。 「本当だよ」 「本当に? 本当に行くのかい?」 「行くよ。どうして? ヴィクトルは行かないの?」 「いや、行くが……」  どうやらクリストフの言葉にまちがいはないようである。勇利はただ行くというだけではなく、確かに楽しみにしているようだ。目は輝いて、言葉つきも弾んでいた。 「大丈夫なのかい?」 「どういうこと? ヴィクトルはいったい何を心配してるの?」  ヴィクトルは「きみがそういう話を嫌いで、話題にしたが最後、無視するような子だからだよ」とは言えなかった。それこそ怒らせてしまいかねない。だから彼は、「じゃあ一緒に行こう」と言うにとどめて勇利はそれを了承した。  その夜、食事を済ませてから、ヴィクトルは勇利とともにクリストフの部屋へ足を運んだ。すでにみんな集まっていて、ベッドやソファに思い思いに座っていた。 「やあ、ヴィクトル」  全員に挨拶され、ヴィクトルも返した。勇利は、かなり年上のスケーターが多いので緊張しているようだけれど、頬が赤いだけで、困っているふうではなかった。彼らは勇利にも親切に接し、「ショーでのすべりは本当によかったよ」「ヴィクトルと一緒に座ったら?」などと言って気遣った。ヴィクトルはベッドのすみのほうに勇利と腰を下ろし、飲み物を受け取った。 「はい、勇利は水ね。お酒でも俺はいいと思うけど」  クリストフが楽しそうにペットボトルを渡したのに、勇利は急いで「水でいい」と答えた。ヴィクトルがもらったのはアルコール飲料の缶だった。  みんな知り合いなので、ヴィクトルとしては気楽だったけれど、勇利はずいぶん緊張してかたくなっているようだ。ヴィクトルは勇利のことをずっと気にしていた。それぞれが歓談し、勇利に話題が及んだときには言葉を添えたりして助けた。そのうち、「じゃあ例の話を……」ということになって、場の雰囲気がすこし変わった。  勇利は大丈夫だろうか? ヴィクトルはちらと横目で彼をうかがった。勇利は相変わらず頬が赤いけれど、困惑してはいないようだ。かえってさっきよりも元気になったように見える。勇利が楽しいならいいことなんだが……とヴィクトルは考え、そこではっとなった。  クリストフは、恋愛遍歴を語る会だと言っていた。そして勇利はそれを楽しみにしていると。つまり、勇利には何か語るべき話があるのだろうか? すてきな思い出があって、それを話したいからここへ来たのだろうか? だとしたら──。  ヴィクトルは一瞬のうちに重苦しい気持ちになった。彼は、勇利にはそういう経験はないと思っていた。いかにも純粋だし、透明とも言えるほど清純だし、何も知らない、やわらかな精神をしているからだ。勇利自身、愛されたことなどないというようなそぶりだった。だからヴィクトルはすっかり安心していたのだ。しかし、勇利はうつくしく、かわいらしく、気高く、上品で魅力的な青年である。彼に心惹かれる者はいくらでもいるだろう。ヴィクトルが勇利にめろめろになっておぼれきっているように、これまでも誰かが──もしかしたら幾人もの者が夢中になっていたのかもしれない。そして勇利はそのうちのひとりと──。  ヴィクトルは強くかぶりを振った。考えたくなかった。そんなことはないと思いたかった。彼は、あり得ない、と自分に言い聞かせた。だが、本当はあり得なくはないことを知っていた。勇利は「ノーコメント」と言っていたけれど、そのとおり、言葉にしなかっただけで、じつは劇的な物語があったのかもしれない。  ヴィクトルは憂うつになり、いますぐ勇利を連れて帰りたいという気持ちだった。実際、喉元までそのひとことが出かかっていた。しかし勇利が頬を上気させ、ひとみを輝かせていかにも楽しみそうにしているのを見て、言うのをやめてしまった。ヴィクトルは苦しんだ。 「じゃあ、まずは俺から……」  先輩スケーターのひとりが手を挙げ、まわりが拍手をした。勇利も子どものようにぱちぱちと手を叩いた。ヴィクトルはなげやりだった。  勇利の愛とはいったいどんなものなのだろう。イマジネーションの豊かなヴィクトルでも、まったく想像がつかない──いや、想像したくなかった。何かそれらしいことを思い浮かべて慣れておき、間もなく襲ってくるであろう衝撃に耐える支度をしたいのに、ヴィクトルの頭は考えることを拒絶して、すこしも働こうとしなかった。ヴィクトルはほかの者の話を何も聞いておらず、しばらく勇利のことばかり思案していた。  笑いが起こったり、ひやかしの声が上がったり、歓声が部屋にあふれたりした。そのうちヴィクトルは、自分の番が来たら何か語らなければならないのだということに気がついた。ヴィクトルは言うべきことなど何も考えつかなかった。クリストフに言ったとおり、勇利を愛していることしか話すことはない。みんなはどういった話をしているのだろう? ここでようやくヴィクトルは、彼らの会話にしぶしぶ耳を傾けた。 「これは引退してからの話なんだ。地中海のある島へ旅行に行ったとき──」  先輩スケーターは、そこで出会った美女との恋物語について得意そうに話した。本当かうそか知らないが、かなり情熱的ななりゆきだった。出会って、恋に落ちて、どんなふうに夜を過ごしたかまで、包み隠さず語った。ほかの者の話も聞いたが、どうやらみんな、恋の話そのものよりも、夜はどんなふうだったか、ベッドの上で相手がどう魅力的だったかということに重点を置き、そこを熱心に説明しているらしい。誰もみな、自分の経験がいちばんだと思っているようだった。  ヴィクトルはめんどうになってきた。勇利とのあいだには何もないけれど、あったとしてもこんなところで話したくはない。彼らは、世界一もてると言われているヴィクトルに期待をしているだろう。適当な作り話をしてごまかすしかないが、勇利に誤解されるようなことは言いたくなかった。そんなこと、冗談ではない。  そこでヴィクトルは、勇利の順番もまわってくるのだということを思い出した。そうだ。勇利はこんな話をするのだろうか? セックスの話を? 彼が誰かとこんな夜を過ごしたというのだろうか? 考えたくない。勇利はまさかいまも──その誰かのことを──。  ヴィクトルは緊張しながら、そっと勇利を見た。そして、彼の顔色を目にした瞬間、愕然とした。勇利はうつむき、まっかな頬をし、泣きだしそうになりながら、両手を握りしめて膝に押しつけていた。気分が悪いのかと思ったけれどちがう。彼は、みんなの話を聞いて、あきらかにつらくなっているのだ。ヴィクトルはうろたえた。こういう会だと知っていたはずなのにこんなふうになっている理由はわからないが、実際直面したら慌ててしまうこともあるだろう。できると思っていたのに無理だったなんていうことは珍しくない。とにかく勇利を助けなければ──。 「じゃあ次は」  先輩のひとりがそう言い、全員��楽しそうに勇利を見た。 「世界一もてる男をこれほどとりこにしてるんだから、きっとすごい武勇伝があるんだろう?」 「試合でのファンの視線も、君の場合はかなりすごいしね」 「さあどうぞ!」 「あ、あの──」  勇利はしどろもどろになった。彼はとりみだしていた。ヴィクトルにはわかる。これは照れているのではない。本当に混乱して、どうしたらいいかわからないのだ。もうすこししたら泣くかもしれない。 「勇利──」 「ぼ、ぼくは、」  ヴィクトルが口をひらくのと同時に、勇利がふるえ声で話し始めた。 「ぼくはそういう……そういう話はなくて……」 「そんなことはないだろう」 「そうそう。スケートもすごくいいしさ。あれに魅了される者は大勢いる」 「あの、本当に、ごめんなさい、ぼくはなんの経験もなくて、みなさんみたいなことはなくて……」 「でもさっき、何か見てにこにこしてただろう?」  ひとりに指摘され、勇利はびくっと肩をふるわせた。確かに彼は、話が始まったとき、うれしそうに白い紙片をのぞきこみ、しあわせそうにみつめていた。 「相手の写真を見てたんじゃないのかい?」 「ぼくの愛してるひとはこのひとです、ってこと? 誰?」 「あっ、あの、それは、えっと、えと──」 「そこにあるやつかい?」 「ち、ちがいます」  勇利はあたふたして顔を上げた。彼の膝には写真があり、彼はその上にさっと手を置いた。 「ちがいます、これはそういうのじゃなくて、あ、愛してるひとだけど、そうじゃ──」 「見せてくれよ、勝生勇利の愛する相手なんだろう?」 「だめです! ちがうんです、そうじゃなくて、これは──」  近くにいた数人の者が写真を見ようとし、勇利は抵抗し、ヴィクトルは止めようとし──勇利の手から、写真が離れた。 「あっ」  写真はひらひらと舞って、床の上に落ちた。みんながそれをのぞきこんだ。ヴィクトルも我慢できず目を向けた。見たくないと思いながら、見ずにはいられなかった。それは──。 「あ、あ、あの……あの……」  それはヴィクトルの写真だった。おそらく昔から持ち歩いているのだろう、端のほうが古くなり、すり減り、全体的にすこし皺の寄った──しかし大切にしていることがひと目でわかる写真だった。  ヴィクトルはものも言えなくなった。わけがわからなかった。なぜ自分の写真なのか? 「なんだ」  クリストフが写真を拾い上げた。 「ヴィクトルの写真じゃないの」 「…………」  勇利はまっかになってうつむいた。クリストフは笑いながらそれを彼の手に返した。 「そんなことだろうと思ったけど」 「あ、あの……あの……あの、ごめんなさい……」  勇利が絞り出すように、かぼそい声で言った。 「ぼく、こういうのだと思ってなくて……あの、そんな話をするのだと思ってなくて……」  勇利の目が恥ずかしさでうるんでいるのを、ヴィクトルはぼうぜんとして見ていた。 「ただ、好きなひとの話をするんだと思って……ぼくほんとにそう思って……ヴィクトルのこと好きだから……ヴィクトルの話ができるんだと思って……みんなが言うみたいな、そんなことだと思ってなくて……」  勇利はぎゅっと胸に写真を押し当てた。 「ヴィクトルがどれだけすてきか、ヴィクトルのことをどれだけ好きか、それを言えたらいいなって……ぼくがヴィクトルのこと好きっていう話、あんまりちゃんとできないから……。でもみんなが言ってるようなことはなくて、本当に、あの、ぼくの片想いで……だからヴィクトルの話なんてここでしたらヴィクトルに迷惑がかかると思って……。ヴィクトルと特別なことがあったわけじゃないんです。ヴィクトルは関係ない……ぼくが一方的に好きなだけ……ヴィクトルはそんなのじゃないんです。ごめんなさい。本当にこういうのだと思ってなかったんです。わからなかった。こんなに場違いだなんて知ってたら来なかったんです。ごめんなさい……」  勇利はうるおいを帯びたひとみでヴィクトルを見た。ヴィクトルはやはりひとことも言えなかった。 「……ほんとうだよ」  ヴィクトルは目をみひらいた。その場にいる全員が、なぜ何も言ってやらないんだというようにヴィクトルに注目した。ヴィクトルは彼らの視線にまったく気がつかなかった。頭の中も、視界も、勇利でいっぱいだった。 「勇利」  ヴィクトルは勇利の手をとると、優しく、しかし急いで引いて立ち上がらせた。勇利が写真を落としてうろたえたので、ヴィクトルが代わりに拾ってやり、彼に丁寧に渡したあと部屋から連れ出した。そのとき、後ろでひやかしの声や口笛が上がったけれど、ヴィクトルの耳には入らなかった。 「あの、ヴィクトル、待って」  勇利が戸惑ったように言い、一生懸��ヴィクトルについてきた。 「ごめん。ごめんなさい。怒ったの?」  そんなわけがない。あんな勇利を見て、いとおしさを感じこそすれ、怒るわけがないではないか。だがヴィクトルは胸がいっぱいで、なかなかものを言うことができなかった。 「ごめんなさい。本当にわからなかったんだ。ごめんなさい。ごめんなさい……」 「勇利、おいで」  ヴィクトルはおかしくなりそうになりながら、まっかな顔の勇利を自分たちの部屋へ連れて入った。彼と向きあうと、勇利は両手で写真を胸に押し当て、相変わらず泣きそうになってしゅんとしていた。 「勇利、まずこれを言うが」  ヴィクトルは喉にからまる声で、やっとのことで言いだした。上手くしゃべることができない。こんなときに。なんて役に立たないんだ、俺の口は! 「俺は怒ってなんかいない。むしろ申し訳ないと思ってるんだ。今夜の会の話を聞いたとき、勇利は大丈夫だろうかと心配した。でもクリスから勇利も楽しみにしていると教えられて安心したんだ。だけどよく考えてみれば、勇利がそんな会合、平気なはずがない。もっとちゃんと説明を求めればよかった。勇利が勘違いしている可能性を考慮すべきだったんだ」  そうだ。それが当たり前だ。本当に勇利がいても問題ないものかどうか、確かめるべきだった。それをおこたってしまった。 「……ぼくが幼稚だから……」  勇利は目を伏せてちいさくつぶやいた。ヴィクトルはかぶりを振った。 「幼稚なんじゃない。勇利は純粋なんだ。それだけのことだ。もちろん経験はその人にいろいろなものをもたらすけれど、経験しないことが悪いというわけじゃない。それぞれ考え方や出会い、感情というものがある。勇利にいけないところはひとつもないんだよ」 「でもヴィクトルに迷惑かけた……」  勇利はしょんぼりと言った。 「ぼくが何も知らなかったせいで……」 「迷惑だなんて思っていない。そんなことはちっとも思ってない」 「みんなで楽しく話してるのに、いきなり真剣にぼくに好きだとか言われて……」 「うれしかった」  ヴィクトルは勇利の手を取り、このうえなくまじめに、かき口説くようにささやいた。 「うれしかったよ」  勇利はまつげをふるわせて力なく言った。 「……ぼくほんとにだめで……恥ずかしかった……」 「何もだめじゃない。みんなもなんとも思ってないさ」 「ぼく……ヴィクトルのこと話すことしか考えてなくて……」 「いいんだ。うれしいよ。そんなふうに思ってくれてたなんてうれしい。本当だ。勇利、信じてくれ」  ヴィクトルはぎゅっと勇利の手を握った。勇利はまだ気恥ずかしそうにしていた。 「いま、ここで、あのとき言おうとしてたことを言ってくれたら俺は……、いや、そうじゃない。俺が言うべきだったんだ。俺が気持ちをはっきりさせないからこんなことになってしまった。俺としてはわかってもらえてると思ってたんだが──、そうじゃないな。それじゃだめなんだ。勇利には言わないとわからないのに、俺はいつも同じ失敗をするんだ。勇利、本当のことを言うとね、俺は勇利があの集まりを楽しみにしてると聞いて、かなり落ちこんだんだ。勇利には語るべきことがあるんだと思った。俺の知らない過去があり、誰かと特別な時間を持ったのだと……。知りたくなかった。ものすごく憂うつだった。勇利がそれを話すときをわくわくしながら待ってるなんて、考えたくもなかったんだ」  勇利はぱちぱちと瞬き、ふしぎそうにヴィクトルをみつめた。 「知らない過去ってなに……? ぼくヴィクトルでずっと頭がいっぱいだよ……」  ヴィクトルはのぼせ上がりそうになった。いけない。ちゃんと話をしなくては。 「勘違いした。やきもちを焼いたんだ」 「やきもち……?」 「ばかだろう? そうなんだ。俺はばかなんだ。勇利のことになるとたちまちばかになるんだ。さっきも、勇利のことをよく見ていて、不安そうになったらすぐ連れ出すべきだったのに、余計なことを考えてばかりいてなんの役にも立たなかった。自分にあきれるし、がっかりするよ。勇利、ごめんね」 「何がごめんなの?」 「勇利、つまり、俺が言いたいのは──」  ヴィクトルは息を吸った。勇利の気持ちを知っていても、全身がふるえそうだった。愛をわかちあうとは、かくも難しく、大変なことなのか。 「俺は勇利を愛してるんだ」  勇利がゆっくりと瞬いた。彼の長いまつげに、ちいさな涙のしずくが光っていた。 「勇利はちがうと言ったけど──、自分だけが好きで、俺はそうじゃないんだと言ったけど……。もちろんわかっている。俺に迷惑がかかると思って、一生懸命否定してくれたんだね。わかってるよ。わかってる。でもちがうんだ。好きなんだ。勇利、好きなんだ。愛してるんだ。おまえを愛してる」 「…………」 「もっと早くにちゃんとしておくべきだった。勇利は俺の愛を知ってるなんてうぬぼれてるんじゃなくてね。俺はいつも大事なところでばかなんだ。勇利、ああいう場で、俺とのことをつまびらかに語って欲しいわけじゃない。ただ──何か訊かれたら、それは俺とふたりだけのひみつだと言って欲しいんだ。語らないけれど、語るべきことはある──そういうふうになって欲しいんだ」 「……それって」  勇利は無垢なひとみをぱちぱちと瞬かせた。 「みんなが言ってたようなことを、ヴィクトルとするっていうこと……?」 「あんなふうじゃなくていいよ!」  ヴィクトルは急いで訂正した。彼らの話はあまりに開放的で直接的だった。勇利は驚いてしまうだろう。 「そういうのじゃなくてもいい。ただ……もし訊かれたときは、愛してるのは俺だと……たとえみんなみたいな過激な話じゃなくても……そう……勇利がさっき言いたかったことを、言って欲しいだけなんだ……」  ヴィクトルはおもてを勇利に近づけ、熱心に、懇願するようにささやいた。 「そして俺が勇利のことを話すのをゆるして欲しい……。ああいうところで、愛について尋ねられたら……愛しているのは勇利だけだと、ひとこと……得意そうに答えるのを、笑ってうなずいて見ていて欲しいんだ……」  勇利はそっと顔を上げた。ヴィクトルは勇利の熱っぽいひとみをのぞきこんだ。勇利が返事をする前から、ヴィクトルには彼の答えが伝わった。目を見ればわかるのだ。 「……はい」  しかし、勇利が澄んだ声でそう答えたとき、どうにかなりそうなほど喜びがこみ上げた。ヴィクトルは勇利の手をとったまま、さらにおもてを近づけた。勇利が黒くて長いまつげをゆっくりと伏せ、まぶたを閉じた。  ヴィクトルは、みっともないほど不器用なキスをした。勇利はほんのりと頬を上気させ、ひどくうれしそうだった。 「まったく、ゆうべはどうなることかと思ったよ」  一緒に歩きながらクリストフが言ったので、ヴィクトルは機嫌よく笑った。 「勇利はかわいいだろう?」 「返事がそれなの? やれやれ、手に負えない」  ヴィクトルは物思いにふけるように言った。 「でも本当に反省してるんだ。もっとちゃんと勇利のことを考えるべきだったし、見ているべきだった。クリス、勇利にどんな説明をしたんだ?」 「君に言ったのと同じだよ。勇利はただ、愛するひとといえばヴィクトルのことしか考えられないんだよ」  ヴィクトルはうれしくてたまらず、黙って胸を張った。クリストフは「言うんじゃなかった」とおおげさに後悔した。 「まあ、上手くおさまってよかったよ。あのあと、みんな心配してたんだよ」  そこでクリストフは足を止めた。ヴィクトルも立ち止まった。廊下のさきのエレベータホールで、勇利が数人のスケーターに囲まれていた。きのう部屋にいた者たちだ。 「ゆうべは配慮が足りなかったよ。悪かったな」  そんな声が聞こえ、勇利ははにかんだ。 「いえ……、こちらこそ、ご迷惑をおかけして……ぼくが悪かったんです。よくわかりもせず参加したりして。すみません……」 「とにかく、ヴィクトルがいてよかった」  ひとりが安心したように言い、別のひとりが身を乗り出した。 「あのあと、どうなったんだい? ヴィクトルと上手くいった? よろしくやった?」  声を弾ませて尋ねる彼を、仲間たちがあきれたように見た。「だって気になるだろう!」と彼は笑いながら言った。 「いえ……あの……上手くというか……」  クリストフが彼らを示し、「助けたほうがいいんじゃない?」と可笑しそうに言うよりもさきに、ヴィクトルは歩きだしていた。勇利は気恥ずかしそうに言いよどんだあと、思いきったように顔を上げた。 「上手くいくってどういうことかわかりま��んけれど、ぼくが好きなのはヴィクトルなんです」  ヴィクトルはぴたりと立ち止まった。遅れてついてきたクリストフも目をまるくした。勇利はまつげを伏せ、さらに恥じらった。 「それで……あの……えっと……」  彼は口元に手を添えてささやいた。 「ヴィクトルとのことは……ぼくとヴィクトルだけの……ひみつです……」  一瞬、先輩たちはしんと静まりかえり、次の瞬間、ひやかすような楽しそうな歓声を上げた。そのとき、勇利が気がついて、ヴィクトルのほうをぱっと振り向いた。 「あっ、ヴィクトル」  彼は駆けてこようとした。クリストフがかるく口笛を吹いた。ヴィクトルは勇利があまりにかわいらしく、いとおしかったので、耐えきれず、その場にあおむけに倒れてしまった。 「ヴィクトル、どうしたの!」  勇利が急いでやってきて、ヴィクトルのつむりの下に膝を入れた。彼の綺麗な指をヴィクトルは握った。 「大丈夫? しっかりして」 「心配いらないよ。ちゃっかり手を握ってるじゃない。どうせ勇利かわいいとか、そういうことを考えてひっくりかえったんでしょ」  クリストフはまったく気にしていない様子だった。  ヴィクトルは、目を閉じたまましあわせだった。勇利、と思った。勇利。勇利……。  勇利は、ゆうべ結んだばかりのヴィクトルとの約束を、誠実に、純粋に、可憐に守ったのだ。
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sorairono-neko · 2 years
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片足だけ靴下を履いて
 ピチットと買い出しをしているとき、勇利は店内のひとすみで足を止め、商品の並んでいる棚をじっとみつめた。 「なに? おやつ買うの?」  ピチットが気がついて振り返った。 「チョコレート?」  勇利は慌ててかぶりを振った。 「買わないよ。ちょっと見てただけ」 「あ、そうか。時期だもんね」  ピチットがすぐに察して笑った。勇利はまっかになった。 「勇利、毎年、この時期になるとそうしてチョコレート見てるよね」 「べつに……」 「買えばいいのに」  ピチットは明るく、存外真剣に勧めた。 「買ってもどうしようもないよ」 「でもヴィクトルにあげたいんでしょ?」  勇利は恥じらってうつむいた。いちばん最初にこうしたとき、普段は見向きもしないのになぜチョコレートを見ているのかと問われ、こう教えたのだ。 「バレンタインだから……」 「日本ではバレンタインってどんな感じなの?」 「えっと、好きなひとにチョコレートを贈る行事かな……女の子が男の子に告白する……」 「女の子じゃないとだめなの?」 「一応そういうことになってるんだよ。一ヶ月後に男の子のほうがお返しするのが一般的かな。でもだめっていうことはないと思う」 「そうだよね。勇利がチョコレート見てるんだもんね。ヴィクトルにあげたいんでしょ?」  そのときも勇利はまっかになって恥ずかしがった。そのとおりだったからだ。 「毎年思ってることだから」  勇利はなんでもないことのようにごまかして笑ったものだ。 「ぼくがヴィクトルのことすぐに考えるのなんて当たり前の習慣だからね……」  勇利はあのとき言ったのと同じ言い訳をした。 「ぼくがヴィクトルのことを考えるのはいつものことだから」 「だったらなおさら買っておいたら?」  ピチットはさらに熱心に言った。 「来月会えるじゃん。世界選手権で」 「ヴィクトルに渡すなんてとんでもないよ」  勇利はびっくりして却下した。 「どうして?」 「ヴィクトルに話しかけるなんてできないよ。そのうえプレゼントなんて……」 「勇利はスケート仲間なんだから大丈夫でしょ」 「ぼくはヴィクトルにとって知らない人だよ」 「そうかなあ」 「来月はバレンタインじゃないしね。贈る理由もないよ」 「説明すればいいじゃない。日本ではバレンタインは好きなひとにチョコレートを贈る行事で、二月に貴方のために買っておいたんですって。ヴィクトルは遅れてもきっと受け取ってくれるよ」  勇利は黙ってかぶりを振った。そんなことはとてもできなかった。ヴィクトルに話しかけるつもりはない。確かにチョコレートを見てヴィクトルのことを考えたけれど、本気で贈ろうと思ったわけではないのだ。そうできたら……と想像しただけだ。 「じゃあ、チョコをあげられるくらい仲よくなればいいよ」  ピチットはそうなれると信じているように元気づけた。 「そうしたら、来年は堂々と渡せる」 「そんなありそうもないことを空想しても仕方ないよ」 「でも友達ならできるでしょ?」  ヴィクトルと友達? 勇利は笑ってしまった。そんなことより、ヴィクトルがいいと思ってくれるスケートをすべれるようになるほうが大切だった。もちろん、そうなれば友人というような関係にもなれるかもしれないけれど、勇利の望みは、ヴィクトルと同じ氷の上に立ち、自分のスケートに興味を持ってもらうことだった。 「ぼくはヴィクトルにチョコレートを渡す機会なんてないよ」  勇利は洋菓子店の前で足を止め、ガラス越しに店の中を真剣に見ていた。そこには上品なチョコレートやクッキー、ケーキなどが並んでおり、どれも美味しそうだった。落ち着いた雰囲気に飾られた大人向けの店内には、数人の客がいた。  もうすぐバレンタインだ。ロシアのバレンタインがどういうものなのか勇利は知らないけれど、毎年思うように、彼はこのときも、ヴィクトルのことを考えていた。  ピチットによく言われたものだ。勇利は二月になるといつもチョコレートを見てるねと。有名な催しに興味はないけれど、好きなひとに、という風習だと、勇利は自然とヴィクトルのことを思い浮かべてしまうのだった。  友達になればヴィクトルにチョコレートが渡せるとピチットは断定していた。いまの勇利は、ヴィクトルと友達とは言えないが、親しい間柄にはちがいない。しかし、彼にチョコレートを贈るということを真剣に検討することはできなかった。あまり意味のないことだし……ぼくがしてもね……。  だが勇利は、なんとなく店に足を踏み入れた。こういうところには入りつけないので、ひどく緊張したけれど、ほかの店ととくに変わった点もなく、ゆっくり商品を見てまわることができた。勇利は、ヴィクトルはどういうものが好きだろうと想像しながらいろいろなチョコレートを観察した。本当にあげるつもりはなく、あげたらヴィクトルはどんな顔をするだろうということを思い浮かべるのが楽しかった。  もちろんヴィクトルは、好きなひとに贈るもの、ということは知らないだろう。もしかしたらファンから何かもらっているのかもしれないけれど、彼はプレゼントなら年じゅう受け取っているので、バレンタインだから特別にという感覚はないはずだ。勇利が渡しても、「ありがとう」とほほえむだけにちがいない。もし──愛の告白だと知っていたらどうだろう? 『勇利、俺を愛してるのかい?』  意外そうにするだろうか? 『そうだよね。勇利は俺のことが大好きだもんね。知ってるよ』  当然だというようににっこりするだろうか? 『美味しそうだね。一緒に食べよう、こぶたちゃん』  そんなふうに、チョコレートなど食べられない勇利をからかうだろうか。勇利はちいさく笑った。  勇利は何も買わずに店を出た。仕事のために数日出掛けていたヴィクトルは、今日帰ってくるはずだ。彼に会えるのが楽しみだった。  タクシーで家に向かっていたヴィクトルは、道沿いの洋菓子店から出てきた勇利に気がつき、急いで手を振った。しかしそのときにはタクシーは勇利を追い越していた。ヴィクトルは彼に連絡しようかと思ったけれど、自宅はすぐそこだ。さきに帰って出迎えたほうが勇利はびっくりするだろう。いまは我慢することにした。  勇利に会うのは数日ぶりで、ヴィクトルはひどくうれしかった。帰りたくて仕方なかったのだ。ようやく勇利とゆっくりできるのだと思うと、胸が躍り、鼓動が高鳴った。ああ、早く会いたい。  ヴィクトルはそこでふと、勇利は何をしていたのだろうということが気になった。彼は甘いものは自分では絶対に買わない。洋菓子店に用事はないはずだ。何を購入したのだろう?  ヴィクトルは、先日四大陸選手権に帯同したおり、ピチットに言われたことを思い出した。 『勇利、毎年バレンタインになるとチョコレートばっかり見てたんだよ。ヴィクトルのこと思い出すんだって。勇利にとってバレンタインっていうのは好きなひとに愛を伝える日なんだ。チョコレートを渡してね。好きなひとって言われるとヴィクトルのことを考えるって話してた。僕は、ヴィクトルと仲よくなればチョコレートを渡せるよっていつも言ってたんだ』  そんなことをこっそり教えてくれたのだ。  ヴィクトルはいま、勇利と仲がよい。ヴィクトルは勇利を愛しているし、勇利もまたそのはずだ。では──今年はバレンタインにチョコレートをもらえるのだろうか?  ヴィクトルの頬は紅潮した。勇利がくれる。チョコレートをくれる。ただのチョコレートではない。愛のこもったチョコレートをくれるのだ。バレンタインは明日だ。勇利はそのために店に入っていたのだろう。  ヴィクトルは楽しみでたまらなくなった。勇利に会えるのもうれしいし、明日になればその彼からチョコレートをもらえるのもうれしい。なんてしあわせなのだろう。  浮かれきっていたヴィクトルは、運転手に「着きましたよ」と五回言われるまでタクシーが停まったことに気づかなかった。 「ヴィクトル、帰ってたの!?」  帰宅した勇利は、玄関で出迎えたヴィクトルを見て目を輝かせた。ヴィクトルは勇利を抱きしめ、「ただいま!」と言った。 「ぼくが帰ってきたのにヴィクトルがただいまって言うのはなんだか変だね。でも正しいよ。おかえりヴィクトル」 「勇利もおかえり。俺がいなくてさびしかったかい?」 「うん」  そっけないことも多い勇利だけれど、こんなふうに、ときおりふいうちのように素直なかわゆい返事をするので、ヴィクトルにはたまらないところだった。 「俺のほうがさびしかったよ」 「なんで対抗してるの?」  勇利が顔を上げてすがすがしく笑った。ヴィクトルは、彼のつややかな髪を撫で、きみが洋菓子店から出てくるのを見たよと言おうとして口をつぐんだ。きっと勇利はひみつのつもりだろう。言わないほうがよい。相手がこっそりプレゼントを支度したことを知っているというのは奇妙な気分だったけれど、わかっていても、勇利がチョコレートをくれるなら、ヴィクトルはその瞬間に大喜びする自信があった。  久しぶりの勇利との食事はすばらしかった。たいした献立ではないのだが、ヴィクトルにはこのうえないごちそうだった。勇利を見ているだけでヴィクトルは天にも昇るここちになるのだ。  彼といられることがうれしくて、ヴィクトルはなんでも勢いよく話したけれど、その実、舞い上がりすぎて自分が何を言っているのかよくわからなかった。勇利に再会できたことで興奮しているうえ、明日にはチョコレートをもらえるのだと思うと、頭が上手く働かないのだ。勇利はヴィクトルがつじつまの合わないことを言っていると言って可笑しそうに笑った。ヴィクトルは自分が冷静でないことには自信を持っていたので、確かに笑いたくなるだろうと納得した。  いつチョコレートをくれるのだろう? 明日の朝起きたら? それとも昼間になにげなく? クラブにいるときだろうか? しかし勇利はみんなの前では渡したくないにちがいない。注目されたり、ひやかされたりするからだ。彼はそういうのが苦手なのだ。それなら家でのことだろう。渡すまでそわそわしてしまうから、もしかしたら今夜、零時を過ぎたらくれるのかもしれない。ヴィクトルは時計を見た。あと数時間だ。  いつもなら、日付が変わる前にベッドへ入ることが多いのだけれど、その夜はいつまでもぐずぐずして、ヴィクトルは居間にいた。勇利はそんな彼をふしぎそうに眺め、「寝ないの?」と何度か尋ねた。 「ああ、まだいいんだ」 「何か用事でもあるの?」  ソファでテレビを見ているだけのヴィクトルは、用事があるとはとても言えなかった。もちろん、このうえなく大切な用があるのだけれど、「きみがチョコレートをくれるのを待ってる」などと打ち明けられるはずもない。 「いや……まあね」 「見たいテレビがあるとか?」  勇利はわかっていて言っているのだろうか? だとしたらとんでもなく悪魔的だとヴィクトルは思った。  ヴィクトルが起きているので勇利もそうすることにしたのか、彼は隣に座って雑誌を読んでいた。彼のそばには何も──つまりヴィクトルに贈るようなものは見当たらなかった。ヴィクトルはチョコレートはどこにあるのだろうと考えた。ひみつのプレゼントなら、もちろんわかるように置いておくようなまねはしないだろうけれど、それにしても勇利が落ち着きはらっているのが気になった。  もしかしたら今夜はもらえないのだろうか? そんなことを思ってそわそわしているうちに零時が過ぎ、勇利はあくびをひとつした。 「ぼくそろそろ寝るけど、ヴィクトルは?」 「あ、ああ……」  やはり今夜ではないのだ。ヴィクトルはがっかりした。しかし、明日にはもらえるのだと思うと楽しみがさきに延びただけだとうれしくなった。けれど本当にもらえるだろうか? 勇利はいろいろと考えこんでしまうたちをしているのだ。買いはしたものの、やっぱりヴィクトルには贈れないなどと言ってやめてしまうのではないだろうか? ヴィクトルに迷惑かもしれないと考えるのだ。いかにも勇利にありそうなことだ。  ヴィクトルは咳払いをした。 「勇利……」 「なに?」  勇利は無邪気にヴィクトルをみつめた。なんと言えばよいのかヴィクトルにはわからなかった。俺はいつでも勇利からのチョコレートを待っているんだよということをさりげなく伝えるにはどうすればいいのだろう? 「チョコレート」なんてはっきり言ってしまうと、勇利がこっそり支度したことを知っていると宣言することになる。だが、わかりづらい表現ではにぶい勇利には伝わらない。 「……プレゼントって、いいものだよね」  やっとのことでヴィクトルはそう言った。勇利は目をまるくし、それから笑いだして「そうだね」と同意した。ヴィクトルは、どうも伝わっていないような気がして悩んだ。 「俺はプレゼントをもらうのが好きなんだよ」  勢いこんでそう言ってから、ちょっと直接的だっただろうかとヴィクトルは心配になった。勇利は幾度か瞬くと、ほほえんで、「そうなの?」とこたえた。 「じゃあ枕元に靴下でも飾っておいたら?」 「え?」 「朝起きたら入ってるんじゃない?」  ヴィクトルはその理屈がよくわからなかった。日本ではバレンタインのチョコレートを靴下に入れる習慣があるのだろうか。 「そうかな」 「もしかしたらね」  勇利は笑いながら居間を出ていった。ヴィクトルはすこし考え、日本のバレンタインはそういうものにちがいないという結論に達した。つまり勇利は、ヴィクトルが寝ているあいだにチョコレートを入れるから、靴下を飾っておいて欲しいとさりげなく頼んだのだ。  ヴィクトルは寝室へ行き、衣類の入っているひきだしから、いくつか靴下を取り出して思案した。どういう靴下がよいのだろう。なんでもかまわないのだろうか? しかし、靴下に入らないかもしれない。そんなに大きなものを買ったとは思えないけれど、勇利のことだからどうかわからない。  ヴィクトルはいろいろと迷ったあげく、何かのパーティのときにくじで当ててそれきりになっていた、やわらかい毛糸の靴下を選んだ。これなら伸びるし、すこしくらい大きなものを入れても平気だ。  チョコレートをふたつ買っているはずはないから、片方だけでよいのだろう。ヴィクトルはそれをまくらべのあたりに置き、マッカチンと一緒にベッドに入った。 「いいかいマッカチン、今夜は勇利がそっと部屋に来るだろうけど、じっとしているんだよ。勇利はチョコレートを持ってきてくれるんだ。寝たふりをしていよう」  マッカチンは心得ましたというように低く「わふっ」とこたえた。  ヴィクトルはあまりにわくわくして、一睡もできないのではないかと思ったのだけれど、そんなことはなかった。気がつくともう朝で、彼はぱっと飛び起きた。二月のロシアは、午前九時ごろまで暗いままだ。起床したのは午前七時だったので、もちろん外は真っ暗だった。だからヴィクトルが起きていちばんにしたのはあかりをつけることで、それから、飛びつくように靴下を取り上げた。  チョコレートは……!?  手の中でくたっとしおれた靴下を見、ヴィクトルはぼうぜんとした。入っていない。チョコレートどころか何もない。 「…………」  ヴィクトルは絶望したといってよいほどがっかりした。チョコレートがもらえないくらいでと人は笑うかもしれないけれど、ヴィクトルにとって、それはいま、もっとも頭を占めている重大な問題だった。 「ない……」  ヴィクトルは、感触からチョコレートなど存在しないことはわかっていたのに、靴下の履き口をひらいて何度も中を確認してしまった。やはりない。  なぜだろう。勇利は結局、ヴィクトルに渡さないことにしたのだろうか。朝になれば靴下に入っているだろうと予言したのに? 勇気が出なかったのだろうか。ヴィクトルがこんなに楽しみにしているというのに! こんなに──こんなに──。  落ち着け。ヴィクトルは深呼吸をした。もらえないときまったわけではない。もしかしたら眠ってしまって、夜に忍んでくることができなかっただけかもしれないではないか。いまごろ目がさめて、しまった、どうしよう、渡しに行けなかった、と勇利は慌てているかもしれない。となると、もらえるのは昼間なのだ。そうだ。そうにきまっている。  ヴィクトルは自分に言い聞かせ、身支度を済ませて居間へ行った。靴下に入れておくなんて言っておいて何もしなかったので、勇利はきっと気まずい思いをしているだろう。ふるまいが変になっているかもしれない。気づかないふりをしようとヴィクトルはこころにきめた。 「おはよう、ヴィクトル」  さきに起きていた勇利は台所に立っており、いつもどおりの態度だった。 「……おはよう」 「ミルク飲む? 紅茶?」 「……紅茶をもらおうかな」  かるい朝食をとるあいだも、クラブへ向かうあいだも、ヴィクトルはそっと勇利の様子をうかがっていた。とくに変わったところはないようだ。いや、そう見えるだけかもしれない。なにしろいまはヴィクトルのほうが動揺しているのだ。しかし、これからチョコレートをもらえるにちがいない。  ヴィクトルは練習のあいまに休憩をとるたび、勇利が「これ……」と気恥ずかしそうにチョコレートを出してくれる予感を持ってどきどきした。けれどそんなことはなかった。勇利が「じゃあ氷へ入るね」とエッジカバーを外すと、クラブではもらえないんだと自分を叱った。そうだ。人に見られるのはいやなのだ、勇利は。知っているではないか。きっと夜だ。帰ってからなのだ。 「今日もがんばった」  帰り道、勇利がぽつんとちいさくつぶやいたので、ヴィクトルは胸がときめいて仕方なかった。勇利がかわいく思えた。そのとおり、勇利はいつもがんばっている。  ヴィクトルは彼からチョコレートをもらいたくてたまらなかった。日本では一ヶ月後にお返しをするものらしいから、そのとき、どんなものを贈ろうと考えると、ヴィクトルは胸が躍るのだった。その前に、勇利からチョコレートをもらいたい。愛を伝えるチョコレート……。 「晩ごはん何にする?」  あまりにもチョコレートのことばかり思案していたので、勇利のこの問いに、ヴィクトルは「チョコレート」と答えてしまった。 「え?」  勇利が驚いて訊き返したので、ヴィクトルは慌てて説明した。 「ビーフストロガノフにチョコレートを入れるとコクが出るらしいよ」 「そうなの? でも家にチョコレートなんてないよ」  もちろんだ。勇利の愛のチョコレートをビーフストロガノフに入れるわけにはいかない。 「今夜はロールキャベツにしよう」  ヴィクトルは提案し、勇利はうなずいた。  ヴィクトルは落ち着かないようだった。何かにそわそわして、上の空になったり、思案にくれたりしている。勇利は何がそんなに気になるのかわからなかった。しかし、あまり考えなくてもいいだろう。ヴィクトルはよく突拍子もないことをしたり言ったりするので、これくらいのことは問題ではないのだ。  そのうちヴィクトルが出掛けるための身支度を始めたので、勇利はびっくりした。 「どこかへ行くの?」 「買い物があるんだ」 「なに?」  食事も終わったというのに、夜にいったいどんなものが必要だというのだろう。 「それはひみつだよ」  ヴィクトルはほほえんで出ていった。勇利は首をかしげた。こころここにあらずというふうだったり買い物に行ったり、おかしなひとだ。さっきから何やら考え深そうにしていたのは、その買い物のことに思いをめぐらせていたからなのだろうか。  勇利はマッカチンを撫でながら、ぼんやりとテレビを見て過ごした。ヴィクトルは間もなく帰宅し、物音がしたので勇利は玄関へ行った。 「おかえり」 「ただいま勇利。これをもらってくれ。うつくしい花はうつくしいきみに似合う」  ヴィクトルがさっと差し出したのは、香り高い、大輪のばらの花束だった。勇利はあぜんとした。なぜくれたのだろう? 「あ、ありがとう……」  勇利は瞬きながら受け取り、ばらを見、それからヴィクトルを見た。 「これを買いに行ってたの?」 「そうだよ」 「どうして?」  ヴィクトルが花をくれることはたびたびあるけれど、いつも帰りに買ってくるものであり、こうして夜に出掛けていったことは一度もなかった。 「バレンタインだからさ」  ヴィクトルは微笑した。 「日本では、愛するひとにチョコレートを贈る日なんだろう?」  勇利は口をわずかにひらいた。 「チョコレートは支度できなかったからね。花でもいいかい? 愛がこもっていればいいのかな。それは保証するよ」  勇利はものが言えなかった。ヴィクトルがバレンタインのことを重要だと考えているとは思っていなかった。ロシアにもバレンタインはあるのだろうけれど、どういう意味の行事なのか勇利はわからないし、勇利のためにヴィクトルが何か計画しているなんて想像もしていなかった。ましてや、日本のやり方に合わせてくれるなんて──。  ヴィクトルはびっくりしている勇利にもう一度笑いかけ、寝室へ歩いていった。勇利はあとをついていった。ヴィクトルはベッドのそばに立つと、まくらべにあった毛糸の靴下を取り上げ、それからつぶやいた。 「何も入っていないね」 「え?」 「朝起きたらチョコレートが入っているんだと思ってた。うぬぼれだったかな。でもいいさ。勇利がしないなら俺が愛の告白をすればいい。勇利はこれまで、毎年、何年もこの日に俺とチョコレートのことを考えてくれてたんだ。今度は俺の番だね。チョコレートがいいなら明日買ってくるよ」  勇利は飛び上がりそうになった。そういうことだったのか! ヴィクトルがプレゼントが欲しいと言ったのは、チョコレートをくれる予定はあるのかと、それをほのめかしていたのだ。勇利はあのとき意味がわからなかった。プレゼントと言われてなんとなくクリスマスを想像し、靴下にプレゼントが入っているかもしれないと答えたのだ。なんてばかなのだろう。いつもヴィクトルに愛を打ち明けることについて空想していたのに、本当にそうできるときはそうしないなんて、まったくおろかだ。もちろんいろいろ考えた。勇利だって考えたのだ。しかし──。  チョコレートはない。いまから買ってくることもできない。けれど、勇利はチョコレートを渡したかったのではなく、愛を告げたかったのだ。ヴィクトルとヴィクトルのスケートを愛していて、彼と一緒にいたいから、身ひとつでロシアまで来た。いま、勇利がヴィクトルに贈れるものは──。 「……ありがとう」  勇利は熱���にヴィクトルをみつめた。 「すごくうれしい」 「喜んでもらえてよかった」 「ヴィクトル──」  勇利はヴィクトルの手から靴下を取った。彼はベッドに腰を下ろし、膝を折り曲げて、片方だけ素足をそれに入れた。左足にのみ靴下を履いて、勇利はヴィクトルの前に立った。 「チョコレートはないけど……」  勇利はきらきらとシリウスのように輝くチョコレート色のひとみでヴィクトルをみつめ、ささやくように言った。 「ヴィクトル、貴方を愛してます」  ヴィクトルが目をみひらいた。彼は頬を紅潮させ、かすれた声で尋ねた。 「……もらっていいのかい?」 「もとから貴方のものだよ」  勇利は初々しくほほえんだ。 「でも、いままで言ったことなかったから、今日……」 「日本では靴下にチョコレートを入れるなんて、変わってるんだね。だけどおもしろいよ」  勇利が花瓶にばらを生けていると、ヴィクトルがそんなことを言ったので笑ってしまった。 「それ、クリスマスのことだよ。変に思わなかったの?」 「クリスマス?」  ヴィクトルはふしぎそうに眉を上げ、それからちいさくうなずいてつぶやいた。 「そういえばそんなふうにするんだったな。そうか、クリスマスか……」 「いまわかったの?」 「クリスマスはそれほど祝わないし、興味もないからね。そのころはたいてい試合だ。勇利、バレンタインじゃなく、クリスマスのことを言ったのか」 「なんでヴィクトルがプレゼントを欲しがってるのかわからなかった」 「ひどいな……俺に渡すつもりがなかったということだね」 「そうじゃないよ。受け取ってもらえると思ってなかったし、愛の告白をするなんて、とてもね……。でも、毎年ヴィクトルのことを考えてたのは本当だよ。どうして知ってるの? もしかしてピチットくんから聞いた? ぼくはいつも恥ずかしいことを暴露されるんだ。今年だって、お店には行ったんだよ。チョコレートを見てた」 「知ってる」  ヴィクトルがソファでゆったりともたれて笑ったので、勇利はばらから手を離して振り返った。 「知ってる?」 「ああ。店から出てくるところを見たよ。だから俺はもらえるものだとすっかり舞い上がって、ばかみたいになってた」 「それでそわそわしてたんだ……」 「そわそわどころじゃなかった。いつもらえるんだ、どうしてもらえないんだって、くるおしく苦しんでいた」  勇利はちいさくほほえんでヴィクトルの隣に座った。 「買えなかったんだよ……。仲よくなったらあげられるなんて言われたけど、仲がいいほうがあげられないくらいだよ。渡したらヴィクトルはどんな顔するんだろうって、そんなことを考えてた」 「もうわかっただろう?」 「え?」 「こんな顔さ……」  ヴィクトルが勇利のひとみをのぞきこんだ。勇利はヴィクトルの愛にあふれる熱い青い目をみつめ、まぶたをほそめた。 「……明日、チョコレートを買ってくるよ」 「いいさ」  ヴィクトルは笑って勇利を引き寄せ、くちびるにキスした。 「これがあるから……」
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sorairono-neko · 2 years
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プレゼントは届いた
 ホテルの部屋へ戻ると、ヴィクトルはシャワーも浴びずにソファへ身を投げ出し、深い溜息をついて目元を押さえた。時刻は夕方だけれど、冬のロシアは十六時には日が暮れてしまうので、外は夜のようだった。気持ちが沈んだ。いつもなら、太陽の出ている時間が何時間であろうと気にしないのだが、いま、彼はたいへん疲れており、だから暗い風景に何か憂うつなものを感じた。ロシア選手権が終わり、今日は取材対応だけだったけれど、ひどく気がふさいで、晴れ晴れとした気持ちになれなかった。なるほど、金メダルは獲れた。成績も悪くはなかった。しかし、それだけではヴィクトルは満足できなかった。  全日本選手権はロシア選手権と日程が重なっており、勇利はいま日本にいる。ヴィクトルは、彼に付き添うことができなかったのをひどく悔やんでいた。最初からわかっていたことであり、勇利も納得していたし、不安そうでもなかったが、それでもヴィクトルは気になった。ヴィクトル自身が勇利の試合に帯同したかったのだ。コーチとして当たり前のことではないか? 「ヴィクトルは選手でもあるんだから」  勇利は、かえってヴィクトルをなだめるように笑った。 「こういうこともあるよ。それもきちんと了解して一緒にスケートをしてるんだから、ぼくは大丈夫」 「俺は大丈夫じゃない」  ヴィクトルはみたされない思いを持って、こころのわだかまりを吐き出した。勇利は困ったような顔をした。 「ヴィクトルはすごい演技ができるし、優勝できるにきまってるよ」 「そういうことを言ってるんじゃない」 「ぼくもちゃんと金メダル獲るから」 「そういうことを言ってるんでもないんだ」  感情の問題だ。生徒の試合に一緒に行きたいと望むことの何がおかしいのだ? 勇利は何もわかっていないとヴィクトルはふてくされた。  しかし、ロシアで試合に出場し、そのうえで日本の勇利の試合にも付き添うという方法などないのだから、結局はこうなるのだ。ヴィクトルはまた溜息をつき、かぶりを振って、勇利のことを考えた。勇利はいまごろ何をしているだろう? 彼も昨日がエキシビションだったはずだから、今日は取材か、何か対外的な仕事をしているかもしれない。ヴィクトルは時刻を確認した。勇利からはなんの連絡も入っていなかった。まったくつめたいんだからな、とおもしろくなかった。  時間ができたら連絡が欲しいとメッセージを送信しておき、ヴィクトルはシャワーを浴びなければと考えた。しかし、動く気がしない。どうしてもソファから立ち上がることができなかった。試合でこれほどの疲労をおぼえたことはない。確かにひと試合こなすためには、かなりの体力と精神力を使うけれど、そういう重圧とはちがうもっと重いものがのしかかって、ヴィクトルはなんとしても動けないのだった。  ヴィクトルは携帯電話で勇利の試合動画を見た。ヴィクトルの愛する勇利のスケートに、彼は目をほそめた。ヴィクトルが教えたことをひとつひとつ体現し、さらに勇利の勇利らしい情緒的な感情をのせて、彼はすべっていた���ヴィクトルは知らずほほえんだ。勇利のスケートはいつもヴィクトルに力を���え、癒やしてくれるのだ。しかし、彼のスケートがすばらしければすばらしいほど、試合に行けなかったことが思い出されて、また溜息が漏れてくるのも事実だった。  ああ、スピンでひとつレベルを落とした。言ってやらなくちゃ……。ヴィクトルはこめかみを押さえながら考えた。ジャンプもいくつか詰まっている。それに、着氷がつたない。それから……、しかし勇利はうつくしい。  ヴィクトルはしばらくぼんやりした。シャワーを浴びるべきだし、食事もとらなければならない。わかっていたけれど、どうしようもなかった。勇利から連絡はない。もうこのまま寝てしまおうかと思ったとき、携帯電話が鳴った。ヴィクトルは飛びつくようにそれを耳に当てた。 「あ……、ヴィクトル?」  勇利がすこし驚いたような声を出した。ヴィクトルは、一瞬、返事ができなかった。 「あれ? 切れた?」  ヴィクトルは咳払いをした。勇利とこうして回線がつながっていることが奇跡のように思えた。ロシアと日本はどうしてこんなに遠いのだろう。 「聞こえてるよ」 「あ、ほんと。よかった。呼び出し音がほとんど鳴らないうちに途切れたから、何か問題があったのかと思った」 「すぐに出たんだ」 「そうなの? すごい反射神経だね」  勇利はくすくす笑った。 「わかった。えらい人に何か怒られてたんでしょ? それで、ちょっと失礼、電話なので、って助かった気持ちで電話に出たんだ」 「そうじゃない」 「本当?」  勇利の電話を待っていたにきまっているではないか。そんな簡単なこともわからないのだ、このかわゆい勇利は。 「ヴィクトル、優勝おめでとう。演技はまだちゃんと見られてないんだけど……。ああ悔しい」  勇利は本当に悔しそうにこぼした。彼らしい態度にヴィクトルはほほえんだ。 「あとでゆっくり見ればいい」 「そんな悠長な気持ちじゃいられないんだよ、ぼくは」 「俺は勇利の演技を見たよ。勇利も金メダルだったね。俺の勇利なら当然だけど」 「あ、えーっとあの演技は……」  勇利はしどろもどろになった。どうやら、あまりよい演技ができなかったという自覚があるらしい。ヴィクトルは可笑しかった。 「絶好調の勇利には程遠いね。でも悪くはなかったよ。日本のジャッジは厳しい。勇利、いま何をしてる?」 「いま? べつに……。まわりに誰もいないよ」  確かに静かだった。勇利の声以外、何も聞こえてこない。ヴィクトルと同じようにホテルの部屋にいるのかもしれない。 「ヴィクトルは何してたの?」 「すこし前に部屋へ戻ってきた。シャワーを浴びなければと思っていたところだ」 「あ、そうなの? 切ろうか?」 「信じられない。どうしてそんなことが言えるんだ?」 「え? だってヴィクトルがすることありそうだから……」  シャワーなどより勇利との電話のほうが大事にきまっているではないか。ヴィクトルはあきれかえった。本当に勇利のことはよくわからない。勇利はヴィクトルが付き添えなかったことをなんとも思っていないのだろうか。シャワーなんかよりぼくと話しててよ、と言う気にはならないのか。 「シャワーなんかどうでもいいんだ。バンケットはどうだった?」 「バンケット……? うーん……」  勇利は考えこんでしまった。彼はもともとそういうものが苦手なので無理もない。どうせまたすみのほうでちいさくなっていたのだろう。いや、しかし、日本の大会なら、勇利にあこがれている選手がたくさんいるはずだ。彼らに囲まれたりはしないのだろうか? つかまる前にどこかへ逃げているのだろうか。 「ヴィクトルは? 楽しかった?」 「楽しいわけないだろう」 「ヴィクトル、パーティ好きじゃない。いつもにこにこして楽しそうにしてる」 「勇利がいるからだよ」 「ぼくが酔うのを期待してるの? もう……」  そうではないのだが、勇利にはわからないようだ。自分の価値をこの子は理解していないなとヴィクトルは思った。 「いつか、ジャパンナショナルと日程が離れたら、勇利も参加するといい」 「ロシアナショナルのバンケットに? こわいよ」 「何がこわいんだ?」 「よくわからないけど、なんとなく」  その返事がおもしろくて、ヴィクトルはくすくす笑った。勇利はいつもヴィクトルのこころをかるくし、優しく溶かしてくれるのだ。──妙なことを言いだしたときは、その限りではないけれど。 「だいたい、ぼくが行って入れてもらえるの?」 「俺��生徒だから大丈夫だ」 「そういう問題じゃないと思うけど……」  勇利は可笑しそうな、ヴィクトルはやっぱり変わったことを言うなあ、というような口ぶりだった。この、本当に仕方ないヴィクトル、という感じの彼の物言いがヴィクトルはとても好きなのだ。 「勇利」 「なに?」 「誕生日プレゼントは?」  勇利が上品に笑った。 「今回の金メダルって言いたいけど、最高の演技っていうわけじゃなかったし、そんなのは獲って当たり前だってヴィクトルに言われそうだし」 「じゃあそれ以外かい?」 「エキシビションの演技はヴィクトルのものだよっていうのもね……、あれは二十四日だったから。誕生日前にお祝いするのはよくないんでしょ? だけどヴィクトルのこと考えてすべったのは本当だよ。誕生日プレゼントとは別に、あれはヴィクトルに捧げたスケート。見てくれた?」 「ああ、見たよ」 「うそ」 「なんでそんなこと言う? 見てるにきまってるだろう?」  それに、いまの勇利の話しぶりなら、ヴィクトルが見ていることをあきらかに期待しているではないか。 「見ては欲しかったけど……、忙しいから無理だろうなって思ってた。試合の演技はコーチならすぐ見たいだろうけど」 「忙しくても勇利のスケートを見る時間はある」  ヴィクトルとしてはこれは愛の告白のようなものだったのだけれど、なぜか勇利はむきになった。 「ぼくだってヴィクトルのスケートを見ようと思えば見られたよ。でも見なかったんだよ」 「なんの話だ?」 「だって、気持ちを落ち着かせて、静かなこころで見たかったから。みそぎをおこなったうえで」 「みそぎってなんだい?」 「川なんかで水を浴びて身をきよめること。つまりぼくが言いたいのはシャワーのことだけど」  ヴィクトルは笑ってしまった。いかにも勇利の言いそうなことだった。 「だから、ぼくがまだヴィクトルの演技を見てなくて、ヴィクトルのほうは見てるからって威張ることはないよ」 「何を対抗してるんだ。べつに勇利をあなどってはいないよ」 「ちゃんとしてから見たいっていうぼくの考えは崇高じゃない?」  そのとおりだと思ったけれど、ヴィクトルはわざと得意げに言った。 「いますぐに、短い時間でも見たいという俺の考えも崇高だ」 「どたばたしてるときなんてだめだよ」 「そんなことはない」 「見解の相違だね」  ヴィクトルはくすくす笑った。 「とにかく、誕生日プレゼントはあきらめるよ。いや、いまの勇利のおもしろい言葉がそうかな」 「おもしろいことなんて言ってない」 「あるいは、こうして電話をかけてきてくれたのが最高の贈り物だね」 「それだけで?」 「勇利は俺に電話をしてくれない。私的なメッセージもくれない。こんなふうに連絡をよこすなんて奇跡だ。あきらかにプレゼントといえるだろう」 「ぼくを冷血人間みたいに言わないで。電話くらいしてるよ」 「買うものはないかとか、何かを受け取っておいてくれとか、事務的な用事だろう?」 「ほかにもかけてる」 「たとえば?」 「……ミルクを買ってきてとか」  ヴィクトルは声を上げて陽気に笑った。 「そうだね。そういう電話でも俺はうれしいよ」 「だって毎日会ってるんだから、そんなに電話することなんてないよ」  勇利はヴィクトルの言葉をからかいだと受け取ったのか、ちいさな声でぶつぶつ言った。本当なんだけどなとヴィクトルは思った。勇利から、あれを買ってきて欲しい、洗濯物を取りこんでおいて欲しい、というような電話を受けるのがヴィクトルは好きだった。いかにも勇利とふたりで暮らして、日常をいとなんでいるという感じがするではないか。誕生日プレゼントだって、本当はなんだっていいのだ。勇利が当たり前にそばにいてくれることが、ヴィクトルにとってはいちばん幸福だった。勇利はよくわからないたちをしているので、いつだってつかまえておかなければとヴィクトルははらはらしているのだ。そういうところも彼の魅力といえるが。 「プレゼントは、帰ったらちゃんと渡すよ」  勇利は頑固に言い張った。 「なんだい? ただいまのキス?」 「ヴィクトルそういうのがいいの?」 「あらためてそういうのがいいのかと訊かれると照れるね」 「ヴィクトルでも照れるんだ」 「そういうのがいいよ」  ヴィクトルは笑いながら、しかし真剣に言った。本心だった。 「ふうん……。考えておきます」  勇利はあっさりと受け流した。ヴィクトルは可笑しかった。 「その言い方は絶対に考えるつもりがないな」 「前向きに検討します」 「日本人のその言葉は信用ならない」 「誰かに頼みを聞いてもらえなかったことがあるの?」 「考えとくよ、と答えてまったく期待に添うような態度になってくれない子ならいる。勝生勇利っていうスケーターで……」 「ヴィクトル、晩ごはん食べた?」  勇利は話を変えてしまった。ヴィクトルは笑いをこらえた。 「いや、まだだ。──勇利、切らないでくれよ」 「突然なに?」 「俺に用事があるとわかると、勇利はすぐに切ろうとする」 「何か話でもあるの?」 「話がなくちゃ電話しちゃいけないのか?」  ヴィクトルがむきになると、勇利がちいさく笑った。 「そんなこと言ってない。変なひと」  変なのはおまえだとヴィクトルは思った。 「食事はあとでいいんだ。あとで。勇利は食べたのかい?」 「ぼく? うん」 「何を食べた?」 「なんだったかな……魚かな」 「日本では美味しいものを食べられた?」 「美味しいものっていうか、日本の味だなっていうのを食べたよ。同じものでも、やっぱり日本は日本人向けにできてるよね」 「勇利、日本で暮らしたいのかい?」 「なんでそういう話になるの?」 「俺だって一緒に日本へ帰りたかった」 「そんなに日本食が好きなんだ」 「そうじゃない」 「好きじゃないの?」 「好きだけどそういうことじゃないんだ」  勇利と話しているとどうもかみ合わない。それぞれ会話の方法がちがうのだろう。いまに始まったことではないのでヴィクトルは慣れていた。 「ホテルはどんな部屋?」 「どんなって……普通だよ。日本のホテルなんて、ヴィクトルだってよく泊まってるでしょ」 「俺も勇利と泊まりたかったな」 「そんなにホテルが好きなの?」 「そうじゃない……」  勇利にはやはり伝わらないようだ。はっきり言わなければ彼はわからないのだ。 「勇利と一緒にいたかったということだよ」 「コーチと同じ部屋にいる選手なんてひとりもいなかった」 「そういう話をしてるんじゃないんだ」 「南くんっておぼえてる? 日本の地方大会に出場した選手。彼に、コーチと同じ部屋に泊まるっていうのは本当ですかって訊かれたから、そうだよって答えたんだ。びっくりしてた。ふしぎだったけど、そういえば、いままでコーチと同じ部屋に泊まったことなんて、ぼくもなかった。それは困るよ。大変だし、気が休まらない。でもヴィクトルなら、同じじゃないほうが困るかも」 「勇利……」  ヴィクトルは感激して吐息を漏らした。 「いまのはすごく甘い言葉だよ……そういうことを言ってくれ。どんどん言ってくれ」 「同じなら同じで、結局大変ではあるけどね」 「そういうのじゃないんだ」 「だってヴィクトル、なんだかよくわからない話をずっとしてるんだもん」 「勇利の気持ちをくつろがせようとしてるんだ」 「そうなの? 話したいから話してるんだと思ってた」  勇利は明るく笑った。何かよいことがあったのだろうかとヴィクトルは思った。勇利だって、冗談を言ったり笑ったりすることはもちろんあるのだが、普段とはちがう、何か楽しそうな響きが彼の声にはあった。完全な演技ではなかったけれど、やはり優勝できたのがうれしいのだろう。ヴィクトルが金メダルを獲ったことも、電話を切ればその演技をすぐに見られることも、彼をわくわくさせているにちがいない。ヴィクトルは、勇利をはしゃがせるような演技ができたことに満足した。 「ああ、ずいぶんしゃべっちゃった。時間は大丈夫?」 「今日はもう何もないんだ。取材も終わったしね。勇利は?」 「ぼくも全部自由時間だよ」 「長谷津へは帰らないのかい?」 「もともとあまり帰らないから」 「年末にはふたりで帰ろう」 「長谷津で新年を迎えたいってこと? それじゃぼくとんぼ返りになるよ」 「そのまま日本にいればいい。いや、勇利と一緒にただいまと言いたいから、さきに帰らず東京にとどまっていてくれ」 「東京で何をしてればいいの」  勇利は、相変わらずヴィクトルの考えることはわからないというように笑った。 「そうか……。仕方がない。一緒にただいまと言うのは次の機会にとっておくよ」 「長谷津へ帰っても練習ができないよ」 「アイスキャッスルを借りればいい」 「いまからじゃ無理なんじゃないかな……。わからないけど。なんなの、ヴィクトル、ぼくに帰ってきて欲しくないの? めんどうを見なくちゃならない生徒がいないと羽を伸ばせるっていうわけだね」 「そんなわけがない」  ヴィクトルは勢いよく言った。 「いますぐ会いたい気分だよ。勇利が日本に帰ってから、俺がどれだけさびしい思いをしてると思ってる? 追いかけようかと思ったくらいだ。そうか、勇利が日本にとどまったら、会える日がさきになるな……いや、俺が明日にでもこっちを発てば……」 「そういうことしてるとまたえらい人に怒られるよ」 「たいした問題じゃないさ」 「その意見には賛成できない」 「勇利、自分は一度もスケ連を困らせたことがないという態度はよすんだ」 「ぼくはいたって普通だからね」 「勇利……きみが普通なら、世の中がひっくり返るよ。確かに勇利は国を傾けるほどにうつくしいが……」 「すごい、ヴィクトル、そんな表現どうやっておぼえたの?」 「そんなことを気にするより、言われたことの意味を考えてくれ」  ヴィクトルは溜息をついた。勇利には何を言ってもたいてい通用しないのだ。スケートをすれば赤くなってうっとりし、ひとみをうるませてくれるのだけれど。 「そろそろ切らないと」  勇利が言いだした。ヴィクトルは、もちろんこの通話には終わりがあることを知っていたけれど、それでも驚き、憤慨し、抵抗した。 「だめだ。まだ切らないでくれ」 「でも……」 「何か用事でもあるのか? 俺よりも大事な?」 「どうしたの? ヴィクトル、そんなことを言うなんて」 「勇利は俺がいつも大人で落ち着いた男だと思ってるのか?」 「そんなふうには思ってないよ。よくわけのわからないことを言ってはしゃいだり騒いだりしてるじゃない」 「そういうことじゃない」  ヴィクトルは何度目かの溜息をついた。 「勇利……、本当に何かあるのか? さっき、自由時間だと言ってたじゃないか」 「そうだけど、自由時間だからね……」 「自由だから俺と話すよりしたいことがあるっていうのかい? わかった、俺の演技を見るつもりだろう」 「そうじゃないんだよ」 「あやしいものだ。どうしてそんなことが言えるんだ。勇利はつめたい。勇利ほど冷酷なたちの人間を俺は見たことがない」 「おおげさだよ」 「真実だ」  ヴィクトルはふてくされ、勇利はくすくす笑った。 「そんなに言うなら切るのはやめる……」 「しぶしぶなんだな。いやいや俺に付き合うということだろう?」 「どうすればいいの?」 「勇利にはこまやかさがないんだ。精神はあんなに繊細なのに、これはいったいどういうことなんだ?」 「さあ……」 「そうやってとりすましていればいい。どんなにつめたくしたって、俺は勇利に夢中になるのをやめないぞ」 「怒っておまえなんかもう知らないって言うのかと思った」  そのとき、部屋の呼び鈴が鳴った。ヴィクトルは聞かなかったことにした。しかし勇利の耳には届いたようだ。 「誰か来たんじゃない?」 「来てないよ」 「うそ。確かに呼び鈴の音がしたよ」 「俺には聞こえなかったな」 「スケ連の人じゃない? 無視したらまたあとで怒られる」 「試合も、すべきこともすべて済ませたんだ。いまさら用があるなんて言われても困る」 「出ないの?」 「出ない」  ヴィクトルはかたくなに言い張った。出るためには、勇利との通話を切らなければならないではないか。ちょっと待っていてくれと言っても、勇利はもう切ると言うことだろう。彼はさっきから話を終わらせたそうにしている。 「本当に出なくていいの?」  勇利が重ねて注意した。 「いいんだ」 「でも何か届いたのかも」  勇利がすこしだけ笑った。 「今日はヴィクトルの誕生日じゃない」 「ホテルの部屋を知ってる人なんてごくわずかだ」 「だから、そのごくわずかな人のうちの誰かがプレゼントを贈ったのかも」  勇利のその澄んだ声の指摘に、ヴィクトルははっとするものを感じた。彼は息をつめ、瞬き、それから声をひそめてささやいた。 「勇利……、きみが……?」 「さあ」  勇利は笑っていた。 「なんだい? 何を贈ってくれたんだ?」 「知らないよ。出てみればわかる」  ヴィクトルは扉のほうを見た。彼は緊張しきっていた。 「……もし勇利からのプレゼントじゃなかったら俺は絶望するかもしれない」 「また……おおげさなんだよ」 「勇利が何かくれたのかどうか、それだけ教えてくれ」 「切るよ。あんまり出ないでいると、留守だと思って配達人が帰っちゃうかもしれない。じゃあね」 ���待ってくれ! 出る! 出るから! 電話は切らないでくれ。もし勇利からだったらすぐにありがとうと言って気持ちを伝えたいし、ちがってたら甘い言葉でなぐさめて欲しい。勇利、どうして何もプレゼントをくれないんだ?」 「確かめてから言ってよ」  勇利は楽しそうだった。 「もしスケ連のえらい人だったら、そう、ヴィクトルの望むとおり、なぐさめるから」  ヴィクトルは電話を握りしめ、大股に歩いて扉の前まで行った。彼は、ホテルの係員がリボンのかかった大きな箱を抱えて立っているのを想像した。いや、勇利がくれるものだから、ちいさなかわいらしい何かかもしれない。──本当に勇利からだろうか?  ヴィクトルはごくっとつばをのんだ。勇利は何も言わない。切ってしまったのかもしれない。いや、まだ通話はつながっているけれど──でも、早くしないと──。  ヴィクトルは思いきって扉を開けた。 「誕生日おめでとう、ヴィクトル」  電話を握ったまま、笑顔の勇利が言い、その言葉はヴィクトルの電話機からも、すぐそばからも聞こえた。 「遅くなってごめん。また雪が降ってきたよ」  ニット帽からのぞく勇利の髪にも、コートの肩にも、純白の雪が散っていた。ヴィクトルは信じられず、言葉もなく彼をみつめた。それから──、勢いよく、腕いっぱいに勇利を抱きしめた。 「勇利……」 「エキシビションが終わって、そのまま深夜便で来た。バンケットすっぽかしちゃった。ホテルまで歩きながら電話してたんだ。けっこう長く話したね。よかったね、スケ連の人じゃなくて。安心した?」 「…………」  ヴィクトルは黙っていた。黙って勇利をかき抱き、黒髪に頬を寄せて目を閉じていた。 「ヴィクトル……」  勇利がささやいた。 「プレゼントが何もないんだ。練習で忙しくてなかなか買いに行けなかったし、ときどきはお店に行ったりもしたんだけど簡単にはきめられないし、ネットで見ていても、これだっていうものがみつからなかったんだ。でも、ぼくが帰ってくるのがいちばんのプレゼントでしょ?」  勇利はヴィクトルを見上げると、いたずらっぽく笑った。そのとおりだったので、ヴィクトルは何も言わずうなずいた。 「──ぼくがいなくてさびしかった?」  勇利を抱いてベッドに横たわり、やすらかな時間を過ごしていると、勇利が笑いながら尋ねた。 「さびしかったよ」 「ぼくが試合で失敗したっていうのに、ヴィクトルは完璧だったね」 「俺の試合を見て、勇利が俺に会いたくなって、飛んで帰ってきてくれるように、最高の演技をしたんだ」 「演技をまだちゃんと見られてないのは本当だよ。でも飛んで帰ってきた」  勇利はヴィクトルの喉元に額を押し当て、甘えるようにこすりつけた。 「誕生日だからだね」 「…………」  勇利がヴィクトルをみつめた。真剣で熱心できわだってひたむきな、きらめく黒いひとみだった。ヴィクトルはくらくらし、胸が痛むほどときめいた。 「……会いたかったからだよ」  勇利がぽつんとつぶやいた。ヴィクトルは耐えきれず、勇利を抱きしめて髪にキスした。 「そのひとことが、またとないすばらしいプレゼントだ」  勇利はまぶたを閉ざし、ヴィクトルにくっついて安心しきっているようだった。 「ヴィクトルのプレゼントなのに、ぼくのほうがうれしいみたい」 「俺のほうがうれしい」 「対抗するんだ」 「勇利だって対抗してただろう……。俺の試合を見なくていいのかい?」 「いまはヴィクトルとこうしてるからいい。明日見る」 「見たらまたうっとりしてくれるかな」 「する」 「キスしたくなるんじゃないか?」 「演技とキスはつながらない」 「そうかな。俺は勇利の演技を見るとキスしたくなるよ」  勇利はくすくす笑った。そのあと彼はヴィクトルをじっと見、しっとりとうるおったみずみずしいひとみを瞬いた。ヴィクトルはくるおしいほどの気持ちになった。どうしてもヴィクトルの勇利は愛くるしいのだった。勇利は無邪気と純潔だ。 「キスは……」  勇利がふいに顔を上げ、子どものようなしぐさで、ヴィクトルのくちびるに、可憐な接吻をした。ヴィクトルは目をみひらき、それから、たまらなく幸福な気持ちで勇利をかき抱いた。  彼は申し分なくしあわせで、今日は最高の誕生日だった。
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sorairono-neko · 2 years
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夜はときめきに
 ヴィクトルが勇利の部屋をおとずれると、彼は机に向かい、熱心にコンピュータのディスプレイを見ていた。映っているのはヴィクトルで、それはいつかの試合の演技だった。いつのものか、ヴィクトルにはちょっとわからなかった。勇利に訊けば、これは何年前のこの試合のときだと詳細に語ってくれるのだけれど、彼の動画鑑賞を邪魔しないように気遣い、ヴィクトルは黙っていた。  ヴィクトルは勇利のベッドに横たわり、肘をついて片手で頭を支え、勇利の横顔を眺めた。彼はこういうとき、こうして勇利のおもてをみつめるのが好きだった。ヴィクトルを見ているおりの勇利は目がシリウスのようにきらきらと輝いており、愛情にみちて、ひどくかわいらしかった。普段からそうなのだけれど、演技を見ているときはすこし変わるのだ。その変化は言葉では言いあらわせない、難しいものだった。あえて言うなら、尊敬とあこがれが強く出て、親しみがひっこむということだろうか? いずれにしても、勇利がいとおしく、愛らしいことはヴィクトルにとって同じだった。  勇利は気づいていないだろうけれど、ヴィクトルの演技を見ているとき、彼は表情がたいへんゆたかである。驚いたり、うっとりしたり、泣きだしそうになったり、感に堪えないというふうにくちびるをふるわせたり、かなり忙しい。そんな勇利を見るのも好きで、ヴィクトルはほのかな微笑を口元に漂わせながら、愛のこもった目つきで彼をみつめ続けていた。  動画鑑賞は、長いときもあれば短いときもある。どちらでも、ヴィクトルは何か言ったり、催促をしたりすることはない。勇利のしあわせな様子を見ているだけで、ヴィクトルもしあわせになり、楽しく、愉快になってくるのだった。勇利はいろいろな感情を持っており、それをヴィクトルに伝染させるのだ。勇利のさまざまな気持ちを知り、流れこんでくるそれを感じることは、ヴィクトルにとって喜びだった。勇利はヴィクトルにたくさんのことを教えてくれる。  やがて勇利は満足の吐息を漏らし、頬を紅潮させてコンピュータを閉じた。しかし、すぐに何か言ったり、行動したりするわけではない。彼はわずかにおとがいを上げて上向き加減になり、まぶたを閉ざして両手を握りあわせ、陶酔していた。ヴィクトル・ニキフォロフのことについて何か思い出したり、思案したりしているのだろう。ヴィクトルはそのときの勇利のこころをのぞいてみたいものだといつも思っていた。このちいさなかわいらしい頭の中には、いったいどんな考えが渦巻いているのだろうか。  勇利が立ち上がり、ヴィクトルを見た。ヴィクトルは笑いながら眉を上げた。勇利もにこにこしていた。彼はベッドに歩み寄ってくると身体をかがめた。ヴィクトルは起き上がり、両腕を伸べて彼を抱きしめ、引き寄せた。 「ごめん。かなり長く待った?」  勇利がヴィクトルに甘えるように身をすり寄せた。 「どうかな。勇利を見てたからまったく退屈しなかった。満足したのかい?」 「うん。ヴィクトルってすごいんだよ。シットポジション見たことある? すっごく腰の位置が低いんだ。ぼくもあんなふうにできるようになりたい」 「見たことはあるよ。動画だけどね。そして勇利も同じくらいうつくしいポジションを取ることができるよ」 「まだまだだめだよ。ぼくはあんなには……」 「今日はいつの試合を見てたんだい?」 「四年前のワールド」 「そうか」  ヴィクトルは勇利にキスをした。勇利はちいさくあえいでくちびるをひらいた。ヴィクトルは勇利の服を脱がせ、うつくしい裸身をあらわにしてベッドに横たえた。それからみずからも衣服を脱ぎ捨て、彼に覆いかぶさって、夢中になっておぼれた。  時間をかけて愛を交わしたあと、みちたりたヴィクトルはそのまま勇利を抱いて眠りについた。しかし、ふと夜中に目がさめた。部屋はほの暗く、静かだったけれど、机のあたりのちいさなあかりはともっており、人の動く気配もあった。腕の中から勇利がいなくなっていた。  ヴィクトルは身体を横に向け、机のほうへ目をやった。勇利がヘッドフォンをつけ、コンピュータを見ながら何かしていた。いま映っているのはヴィクトルの動画ではない。彼自身の練習中のものだ。勇利はディスプレイをみつめ、演技を観察し、すぐに止めて、ノートに何か書きつけた。それを何度もくり返していた。これは勇利の日課で、その日の練習で得たことを整理し、明日のために考え、今後の目標をさだめるというものだった。ヴィクトルは勇利の真剣な横顔をみつめた。勇利はまじめで勉強熱心だ。いつだってスケートに対して真摯である。  勇利が着ているのは、ショートパンツと、ヴィクトルのシャツだった。ヴィクトルはほほえんだ。勇利のすんなり伸びたうつくしい脚と、すこし袖をまくっているしなやかな腕を、彼はしばらくみつめていた。そうしながら、ちょっとうとうとしたかもしれない。物音がしたと思ったら、あかりが消え、勇利の立ち上がる気配があった。  勇利がベッドに膝をついて入ろうとしたところでヴィクトルは目がさめた。ヴィクトルは腕を伸ばして勇利を抱き寄せた。室内はいつだってあたたかく保たれているけれど、薄着だったせいか、すこし素肌がつめたい気がした。ヴィクトルはあたためるために撫でさすり、勇利は吐息を漏らした。 「ヴィクトル……」 「勉強は終わったかい?」 「うん……」  勇利はヴィクトルにすがりつき、甘えるようにすり寄った。ヴィクトルは勇利の額や鼻先、くちびるに接吻していくつか愛の言葉をささやいた。 「ぼくも……」  勇利のチョコレート色のひとみは、暗い中でもきらめいている。ヴィクトルはこの目にめろめろなのだ。 「あまり無理をしちゃいけないよ」 「うん……でも、ヴィクトルがいてくれる日は安心して……」 「そうなのかい?」 「何をしてても、ヴィクトルが見ててくれるんじゃないかっていう気がして、心強いんだ」  ヴィクトルは微笑した。 「じゃあ、毎晩来ようかな」 「それはだめ……」  勇利は笑ってヴィクトルの首のあたりに額をくっつけた。 「なぜ?」 「ヴィクトルが来てくれるかな、来てくれるかも、来てくれた……っていうときのうれしい気持ちがぼくは好きなんだ」 「すこしわかるよ」  ヴィクトルはうなずいて静かにささやいた。 「俺も、勇利が俺の部屋に来てくれるかもしれないと思うと、甘���て苦しくて眠れない」 「それって、ぼくが行かない日は寝てないってことじゃないの?」  勇利はくすくす笑った。ふたりは最後に愛のこもったくちづけを交わし、身を寄せあって眠りに落ちた。  その日も勇利は、ヴィクトルが私室をおとなったとき、ヴィクトル・ニキフォロフの映像を見ていた。ヴィクトルはベッドに横になりながら、こんなにうっとりしてめろめろになって、ベッドに入ってくるときは気持ちにどう折り合いをつけているのだろうとふしぎで可笑しかった。勇利は変わっているから、そのあたりの変化はよくわからない。一度訊いてみたことはあるけれど、答えは、ヴィクトルには理解できない、難解な言語をしゃべっているかのようだった。英語なのだがわからなかった。勇利はあきらかにヴィクトルとはちがう思考回路で話すのだ。それがヴィクトルにはおもしろくてかわいくて仕方がない。勇利の不可思議な理論立てや感情、説明を聞いていると、まるで宇宙へでも連れていかれたかのようなこころもちになる。 「ヴィクトル」  勇利は動画を見るのを終わらせ、ヴィクトルの胸に寄り添いながらささやいた。 「退屈じゃないの?」 「楽しいよ」 「ヴィクトルって、どんなこと考えながらそうしてるの?」 「勇利はかわいいなと思ってる」 「貴方はときどき──ううん、かなりひんぱんに、よくわからないことを言うね」  その夜もヴィクトルは勇利に熱中し、すみずみまで優しく甘く愛して時間を過ごした。勇利もしあわせそうだった。みちたり、快い疲れを感じながら、ヴィクトルはまぶたを閉じた。ところがどういうわけか、その日は眠りがおとずれなかった。いつもなら、すてきな気持ちのままいつの間にか眠ってしまうのだけれど、今夜はそのすてきな意識が続いたままで、まったくとぎれそうになかった。まあいい。勇利が寝入るのを見守るのもすばらしいことだ。胸が躍る。  しかし、しばらくすると、勇利はヴィクトルの腕枕の上で頭を揺らし、身じろぎした。ヴィクトルは意外な気がした。たいてい勇利はヴィクトルの腕から抜け出して勉強を始めるけれど、すこしは眠ってからそうしているのだと思っていたのだ。こんなにすぐに活動するとは思わなかった。けれど、勇利が勉強を始めるところを見られるのは貴重だ。勇利のうつくしい、凛とした横顔を最初から見るのは心楽しいことだろう。ヴィクトルはうすくまぶたをひらいた。  勇利はまずは眼鏡をかけると、机へは向かわず、部屋のすみの本箱の前に立った。彼はかなりちいさなまくらべのひかりを頼りに、じっくりと本の背表紙を調べているようだった。今日は読書で勉強するのだろうか?  やがて勇利は息をつき、一冊を選び出してそれを持ってきた。すこし大きな、表紙の硬い本だった。そのまま机に向かうのかと思ったら、彼はベッドへ戻ってきた。そしてふとんに脚を入れ、頭板にもたれて、あかりのひかりをわずかばかり強くした。  勇利は腿の上に本をひろげた。今日はベッドで読書をするのか。そう思った瞬間、彼は口をひらき、ゆっくりと、舌足らずな口ぶりで朗読を始めた。 「давным-давно……」  ヴィクトルは驚いた。ロシア語だった。つたなくいとけない発音だけれど、確かにロシア語だったのだ。 「勇利」  ヴィクトルは思わず頭を上げた。 「それはなんだい?」 「昔話だよ」  勇利は物静かに答えた。 「童話。表紙が綺麗だから買ったんだ。どう? いいでしょ?」  勇利はほのかに笑い、自慢げに本の表紙を見せた。なるほど、夜空の様子が描かれた、詩的な本だった。 「なぜいま読むんだい?」  ヴィクトルはさらに尋ねた。 「声に出して」 「ヴィクトルが眠れないようだから」  勇利はやはり穏やかに言った。 「ぼくの声って眠くなるんでしょ? いつかヴィクトル言ってたじゃない」  確かに言ったことがある。勇利の声を聞いていると眠くなると。しかしそれは単純に眠気を誘う声という意味ではなく──そういうやわらかな成分がふくまれているのも事実だけれど──勇利のゆったりとした優しい話しぶりを聞いていると安心して、また、勇利といることがしあわせで、それでよいこころもちになって眠ってしまうという意味だった。 「でも、話してたらヴィクトルは眠れないし、かといってぼくひとりでしゃべることもできないし、それなら本でも読んだほうがいいかなって思ったんだ。じゃあ読むね。目をつぶってて」  ヴィクトルは何か言おうとしたけれど、思い直して口をつぐんだ。彼は微笑してまくらに頭を置き直し、まぶたを閉じて勇利の声に耳を傾けた。 「Давным-давно, когда Плутон ……ещё был планетой……」  勇利はつかえながら読んだ。そのたどたどしさに、ヴィクトルの胸にいとおしさと幸福がこみ上げた。 「 жил……был……、ねえ、これなんて読むの?」 「どれ……」  ヴィクトルは目を開けてページをのぞきこみ、答えてやった。勇利はそのあとも、「これは?」「ねえヴィクトルこれは?」と尋ねるので、ヴィクトルはなかなか眠れなかった。しかしどういうわけか、気がついたときには朝になっており、勇利はヴィクトルの胸にくっついて、顔のそばに手を置き、よい気持ちそうに眠っていた。彼は口の端をちいさく引き上げていて、ほほえんでいるようだった。ヴィクトルはにっこりし、まくらべの棚にある本へ目をやった。机の上を見ると、ゆうべ寝たときとノートの位置がちがっていたので、勇利があのあと、ヴィクトルが寝入ってからまた勉強したことはあきらかだった。 「ありがとう。よく眠れたよ」  勇利が目ざめたとき、ヴィクトルは礼を述べたけれど、勇利はふしぎそうな顔をするばかりだった。 「なんのこと?」 「本を朗読してくれただろう?」 「してない」  ヴィクトルはわけがわからなくなった。 「俺が眠れないからといって読んでくれたじゃないか」 「してないよ」  そんなはずはない。その証拠に、勇利が読んだ童話が枕元に置いたままになっているではないか。しかしヴィクトルはそのときはそれ以上言わず、それから幾日かあと、勇利の部屋を訪問して一緒に寝たときに尋ねた。 「前にこうした夜、本を読んでくれたのに読まなかったと答えたのはなぜなんだい?」 「そのほうがふしぎな感じがして、夢の中みたいで幻想的だと思ったから」  勇利の考え方はよくわからない。だが、ヴィクトルはそういうのは大好きだと思った。すてきな答えではないか。 「今夜も読んでくれるかい?」 「眠れないならね。でも失敗したよ。あの本はぼくには難しすぎる。もっと簡単なのを買ってこなくちゃ」  ヴィクトルは勇利の澄んだビロードのような声での優しい朗読が聞きたくて仕方なかったのだけれど、その夜は残念ながら、気持ちよくすぐに眠ってしまった。眠れないというヴィクトルのために舌足らずに童話を読んでくれる子と一緒にベッドに入るのだ。熱中して、我を忘れて愛してしまって当然ではないか? みちたりた甘い疲労の中で、ヴィクトルはぐっすりと寝た。  しかし、勇利の部屋で眠ったおりには、ヴィクトルはたいてい夜に一度は目がさめる。寝苦しいとか、音が気になるとか、そういうことではなく、ただ、勇利のことが気になるからだった。  その夜もヴィクトルは目ざめ、勇利が机で勉強しているのを発見した。ヴィクトルは黙って彼を眺めた。勇利は自分の動画を見ながら、口元に手を当てたり、手元の本をひらいたり、ノートに何かを書きつけたり、以前の動画とくらべたりして、かなり熱心だった。彼は机に向かっているときでもうつくしい姿勢をしているけれど、ふとした瞬間に片脚を引き上げて抱きしめたり、その膝小僧におとがいをのせたりするのがかわいらしかった。一度、膝のあたりに無意識に指でさわったときなど、ヴィクトルはどきっとしてしまった。そこはヴィクトルが愛撫しながらキスした場所で、くちびるがふれたら、勇利は儚く笑ったのだ。  ときおり勇利が何かつぶやくのも好きだった。そういうときは英語ではなく日本語なので、ヴィクトルには何を言っているのかわからないけれど、その素朴でとろけるような響きを、ヴィクトルはこころから愛していた。あとで「ゆうべ勉強してるときなんて言ってた?」などと訊いてみても、「おぼえてないよ」と返答されるのも気に入っていた。ヴィクトルがこのときに聞いている言葉は永遠に謎なのだ。ヴィクトルには理解できないし、勇利はおぼえていない。しかし、確かにふたりには存在する言葉で、ふたりだけのひみつなのである。  勇利があかりを消した。ベッドのそばへ彼が来たとき、いつものようにヴィクトルは抱き寄せようとしたけれど、腕が重く、動かなかった。自分では起きているつもりだが、身体はほとんど眠っているのかもしれない。命令を聞いてくれなかった。まぶたも下がってきて、ヴィクトルは目を閉じてしまった。勇利を抱きしめられないことがもどかしく、思わずうなり声を上げそうになったとき、勇利がヴィクトルのそばへすべりこんでき、綺麗な指先でくちびるにふれて、吐息のような声でささやいた。 「よく寝てる……」  ヴィクトルの胸がときめかしさでいっぱいになった。 「おやすみ、ヴィクトル」  勇利はヴィクトルに背を向け、その背をヴィクトルの胸元に押しつけた。それからヴィクトルの腕を持ち上げて自分の胸のほうへ引き寄せ、ヴィクトルが彼の身体を抱きしめているかたちにした。そうすると安心したのか、ほそく、長い息が漏れた。 「ヴィクトル……」  ヴィクトルも安心し、勇利の寝息を聞くよりさきに寝入ってしまった。  翌朝、ベッドに起き上がって眠そうに目をこすっている勇利を眺めながら、あれは夢だったのだろうか、それとも現実だったかとヴィクトルは考えこんだ。 「どうしたの……?」 「なんでもないよ」  どちらにしても、ヴィクトルはしあわせだった。  勇利の部屋へは行かず、勇利もヴィクトルの寝室へ来ない夜は、マッカチンと並んで横たわり、マッカチンを撫でながら、ヴィクトルは勇利のことを考えた。今夜も彼は俺の動画を観賞してるんだろうか、そのあと自分の動画を見て、何時間も熱心に勉強をしているんだろうかと、そのことが気になった。すぐにでも勇利の私室をおとなって、それを確かめたい気がするけれど、ヴィクトルは超人的な自制心を使ってそうしなかった。こうして勇利のことを考えて眠る夜というのも、なんとも甘くせつなくすてきなものだった。勇利はヴィクトルが来るかもしれないと思って待っているかもしれない。もう眠っているかもしれない。ヴィクトルの動画に夢中になっているかもしれない。昼間の練習を思い出して、次こそはちゃんとできるようにと悔しがっているかもしれない。勇利はすてきでかわいらしい男の子だ。 「勇利……」  それからいくらかして、ヴィクトルはまた勇利の部屋を訪問した。勇利はヴィクトル・ニキフォロフの動画に熱中していたので、ヴィクトルは笑い、ベッドを占領していつものように勇利を眺めた。今夜はどの試合を見ているのだろう? いつだったか、同じ試合を、ふた晩続けて見ていたことがあった。 「でも、いろんなヴィクトルを見たいから、明日は別のにするよ」  ヴィクトルはその翌日、勇利は本当に別の演技を見ているのだろうかと気になったけれど、三日も途切れず勇利の部屋へ通うのは我慢したほうがよいと自制して耐えた。翌朝に「ちがう試合を見たかい?」と尋ねたら、勇利はうれしそうに答えようとし、しかし急に黙って口元を押さえた。 「どうしたんだい?」 「ひみつ」  勇利はいたずらっぽく声をひそめた。ヴィクトルは笑ってしまった。そんな、わけのわからない、ふしぎなひみつをつくる勇利がかわいくていとしくて仕方なかった。  そんなことを思い出しながら、ヴィクトルは勇利の横顔をみつめていた。彼は勇利と夜を過ごすのが大好きで、幸福を感じるけれど、その時間はこのときからもう始まっているのだ。  勇利はふーっと長い息をつき、ノート型のコンピュータを閉じて、胸に手を当てた。彼の頬は完全に紅潮し、ひとみもうるんでいるようだった。ヴィクトルは静かに瞬いて、微笑しながらそんな勇利を眺めていた。勇利は宙に視線を向け、うっとりとなにごとか考えこんだあと、立ち上がってヴィクトルのところへ来た。気持ちが切り替わったのだろう。おもしろい子だ。 「勇利」  ヴィクトルは手を伸べて彼の手をつかんだ。 「ヴィクトル」  勇利はにこにこしながらヴィクトルの胸にくっついてきた。くちびるが合わさり、勇利のひとみが、さっきとは別の理由でうるおった。ヴィクトルはいとしい勇利を抱きしめた。  その夜もヴィクトルは気持ちよく寝入って、いつもどおり夜半に目がさめた。勇利はベッドにいなかった。今夜も机に向かい、何か勉強しているようだ。本当に熱心だとヴィクトルは思った。まじめで、がんばり屋だ。勇利ほどの努力家をヴィクトルは知らない。  しかしそのうち、ヴィクトルは、なんだかいつもとちがうということに気がついた。勇利は動画を見ていなかった。何かのページを読んで、普段とはちがうノートに文字を書きつけたり、新しく別に検索して調べたりしているようだ。何をしているのだろう? こんなことはいままでになかった。勇利はいつも、自分のスケートの反省と目標をさだめることに打ちこんでいるのだ。  ヴィクトルは身体を起こし、ベッドから降りると、勇利の背後にそっとまわってみた。ディスプレイを見たけれど何なのかわからない。日本語のウェブサイトのようだ。 「勇利」  ヴィクトルは静かに声をかけた。 「なに?」  勇利はペンを走らせながら、まじめな声でこたえた。 「何をしてるんだい?」 「勉強だよ」 「いつもスケートの復習をしている。今夜はちがうね」 「あれはもう終わったんだ。そのあとにやってる」 「いましてるのは何かな?」  スケートとは別の学びごとらしい。しかしディスプレイに並んでいるのは文字ばかりでヴィクトルには見当もつかなかった。 「セックスの勉強」  勇利が率直に答えたので、ヴィクトルは目をまるくした。 「なんだって?」 「セックスの勉強だよ」  勇利は同じ言葉をくり返した。彼はベッドの中では「セックス」なんていう単語は言えない��ずかしがり屋なのだ。熱心に学習するときは切り替わるらしい。 「……なぜそんなことを?」  ヴィクトルは驚きもさめないままに尋ねた。 「ちゃんとヴィクトルを気持ちよくできてるのかなと思って……」  勇利は真剣そのものだった。 「ぼくはこういうこと慣れてないし、ヴィクトルと何度一緒に寝てもふるまいが変な感じになってる気がするし、ヴィクトルに全部まかせてるし」  彼は画面をスクロールし、次の文章に目を向けた。 「ぼくばっかりよくしてもらってる。そういうのはよくない。だから、どういうことしたら喜んでもらえるのか調べてる」 「…………」  ヴィクトルはなんと言ったものかと迷い、結局、間の抜けたことを訊いてしまった。 「できそうかい?」 「ううん……難しいね。あんまりよくわからないんだ。それに、たぶん、いざとなったらぼくは恥ずかしいんじゃないかと思うんだ……。でもそういうことじゃだめだね。がんばってみる」  ヴィクトルはしばらくものが言えなかった。しかし、きまじめに勉強を続ける勇利を見ていると、だんだんと幸福な笑いがこみ上げてきた。勝生勇利はなんてふしぎで変わった子なのだろう。ヴィクトルの、謎でいとしいお砂糖ちゃんだ。 「勇利……」  ヴィクトルは勇利を後ろから抱きしめ、髪にくちびるを寄せた。 「俺がいちばん望んでいることを言おうか?」 「ヴィクトルはあからさまに言うからだめ」  ヴィクトルはくすくす笑った。 「勇利、俺の望みはね……、おまえが俺の腕の中で眠っていてくれることだよ」 「え?」  勇利が振り返った。ヴィクトルはにっこりした。夜中に起き出して、真摯に、純粋な態度でスケートの勉強を始める勇利を、ヴィクトルはこころから愛していた。そんなところもかわゆいし、いとしいし、愉快な、すてきな子だと思っている。けれど、ずっとヴィクトルの腕の中にいてくれるのも、同じくらい魅力的だ。 「それが俺の希望していることかな」 「そうなの?」  勇利はつぶらなひとみを瞬いた。 「じゃあ、そうする?」 「たまにはね」  勇利はてきぱきと机の上を片づけ、にこにこしながらヴィクトルに抱きついた。ヴィクトルも笑って勇利を抱きしめ、キスをして、ベッドの中にエスコートした。それから勇利に腕枕をし、ほっそりしたしなやかな身体に腕をまわした。 「これだけでいいの?」 「セクシーなことは、セックスの最中に直接伝えてみるよ」 「そうされるのが恥ずかしいから調べてたんだよ」 「恥ずかしがる勇利はかわいいからね」 「ふうん……そういう考えなの?」  勇利は可笑しそうに笑ってささやいた。 「ヴィクトルって、変わってるね」  それから数日後、勇利の部屋で眠っているとき、ヴィクトルはいつものように夜更けに目ざめた。勇利はヴィクトルの腕の中におさまっており、ヴィクトルの胸におもてを寄せて、甘えるように、幸福そうにあどけない寝息をたてていた。ヴィクトルもしあわせを感じてにっこりし、ひろくてかわいらしいおでこにキスしてふたたび寝入った。  その次のときは、勇利は夜半、勉強をしていた。セックスのことではなく、自分の演技について復習していた。しかし、一緒に寝るおり、数回に一度は、そういうことをしなくなった。  ある夜、愛のこもったぬくもりを保ったままに、腕の中で勇利が眠ろうとしたとき、ヴィクトルはふと口をひらいた。 「思うんだが、勇利は切り替えがじょうずだよね」 「なんのこと……?」 「気持ちの切り替えだよ」 「よくわからないけど、切り替えが上手いなら、試合のときもそうできればいいなって思う」 「つまり?」 「緊張してるぼくから、勝負に挑む試合用のぼくに、ぱっと切り替わらないかな」 「なるほど」  勇利の希望がかわいくて、ヴィクトルはつい笑ってしまった。 「そうなるといいね」  勇利は「ヴィクトルが気持ちよくなること」を気にしていたので、ヴィクトルは愛を交わしているときそれについて言ってみたことがあるけれど、いつかの予言どおり、彼は恥ずかしがってしまった。ヴィクトルは可笑しかった。本当はそんなことはどうでもよいのだ。ヴィクトルは勇利を抱いているだけで気持ちがよいし、もうめろめろだし、この変わった子に、完全に、永遠に夢中なのだ。
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sorairono-neko · 3 years
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セックスだっていい
 ロシア選手権のヴィクトルの演技を、勇利は全日本選手権の会場で見た。携帯電話にかじりつき、夢中になっている勇利を、彼にあこがれている日本の選手たちが遠巻きに眺めていた。ヴィクトルは金メダルを獲ったし、勇利は彼の演技にうっとりとなった。長いあいだ競技から離れていたけれど、リビングレジェンドはもちろんリビングレジェンドで、勇利を陶酔させ、熱狂させ、めろめろにした。もし勇利のコーチがここにいたら、「勇利、いまから自分もすべるんだよ。わかってる?」とおもしろがりながら厳しい顔で言うことだろう。それくらい勇利は幸福に酔って、ぐでんぐでんという有様だった。  ヴィクトルのインタビューを見ることができたのは後日で、当然ながらロシア語でなされていた。日本語にするとそれはこんな内容だった。 「演技にはもちろん満足してないよ。かなり落ちこんでる。あんな演技しかできなかったのかってね。ヤコフにも怒られたし、俺自身、自分にうんざりしてるところさ。休養してたなんて関係ない。そういう問題じゃないんだ。自分の思う演技とまったくかけ離れていた。あきれるね。みんなも本当はそう思ってるんじゃないか? いちばん心配なのは、俺のかわいい生徒に、コーチはあの程度だったのかと思われていないかということだ。あの子を失望させるようなことはしたくないんだ。とにかく、もうあんなみっともないことはしないよ」  勇利は、ヴィクトルの演技がみっともないなんてまるで思っていなかったので、その発言に心底からびっくりした。勇利はヴィクトルの動画を何度も何度も見直しているし、そのたびに溜息をついて頬を紅潮させ、自分を見失うほどとろけきっているのだ。ヴィクトルの演技はすばらしかった。  しかし、ヴィクトル自身には、そうは思えないのだろう。彼の理想はもっと高いところにあり、勇利には想像もつかないことを考えているにちがいない。軽はずみに「よかった」「すばらしかった」なんて言ってはいけないのかもしれない。ヴィクトルならもっと厳粛で高貴なものができるのだ、きっと。いまでもこれ以上ないというくらい勇利は愛しているけれど、ヴィクトルはさらなる高みを見ているのだろう。  彼は、インタビューには陽気に答えていた。自分の演技はよくなかったと言いながらも笑っていたし、気軽な様子だった。気に病んでいるというふうでも、落ちこんでいるという感じでもなかった。だが勇利は、本当はヴィクトルはかなり気分が沈んでいるのではないかと想像した。きっと、カメラの前では言えない感情や事情がたくさんあるのだ。そうにきまっている。  ヴィクトルを元気づけなくちゃ! 勇利は使命感にかられた。気落ちしている彼を励まし、��復させるのだ。ヴィクトルはいつでも勇利を優しく包みこみ、笑顔にしてくれる。だからこそ、こういうときは勇利のほうがそうしたかった。  しかし、どうすればヴィクトルが元気になるのか、勇利には見当もつかなかった。彼の好きなこと、欲しいものというのがまるでわからない。勇利ならヴィクトルのスケートを見れば有頂天になってうっとりするけれど、ヴィクトルはそういうわけにはいかないだろう。それでは日常的なことでとも思うが、ヴィクトルの日常なんて勇利にはわからない。八ヶ月も一緒に過ごしてきて変だけれど、彼の日々のいとなみ、気持ちの変化というものはいまだに勇利には理解できないことなのだった。  勇利は、これまでヴィクトルに求められたことを思い出そうとした。ヴィクトルが勇利にして欲しいと言ったこと。勇利としたいと言ったこと。それらを考えるのだ。ヴィクトルはカツ丼が好きだと言っていたけれど、一緒に食べたいと望んだのは勇利のほうだ。ふたりでお風呂に入ろうと言われたりもしたが、彼をお風呂に誘っただけで元気になるとはとても思えない。同じベッドで寝ようと言われたことも一度や二度ではないけれど、寝るだけでヴィクトルは気持ちが上向くだろうか? ほかにヴィクトルがしたいと言ったことは……。 「あっ……」  勇利ははっと思い出し、その考えに赤くなってしまった。ある。ヴィクトルがしたいと言ったこと。勇利とふたりでと望んだことが、確かにある。 「勇利とセックスしたいな」  ヴィクトルはバルセロナで別れる前、そんなことを言ってほほえんだ。 「すごくしたい。勇利とセックスがしたい」  勇利は最初、冗談を言っているのだと思った。ヴィクトル流の言葉遊びなのだと感じ、ちょっと怒った。 「そういうこと言わないでくれる? おもしろがって口にすることじゃないでしょ」 「勇利、俺は本気だよ」 「そうですか」  勇利は信じず、つんとそっぽを向いた。それ以上そんな話を続けたくなかった。ぼくを子どもだと思って、と反発する気持ちもあった。どうせぼくはそんな大人の話題になんてついていけませんよ。  けれど、それからすこしして、またヴィクトルは言った。 「勇利、俺とセックスしよう」 「あのね」  勇利はまたかとあきれ、ひとつ厳しく言って聞かせようとヴィクトルをにらんだ。しかしヴィクトルはまじめな顔をしており、勇利を当惑させた。 「勇利とセックスしたいんだ。だめかい?」 「……だめです……」  勇利はこれは本気で言っているのだろうかとあやぶみながら、ぼんやりと答えた。ヴィクトルが真剣だとは思えなかった。態度はあきらかに真剣なのだけれど、果たして彼が自分とセックス��んてしたがるだろうかという、根本的な問題があった。 「勇利、セックスしたい」  しかしヴィクトルは翌日、いよいよ今日で一度別れなければならないというときも、熱心にささやいた。 「勇利とセックスがしたい。おまえを抱きたいんだ」  さすがに、冗談だとはもう思えなかった。ヴィクトルは真摯な目をしており、態度も熱烈で、こころのこもった手つきで勇利の手を握っていた。勇利はしどろもどろになってしまった。本当にヴィクトルはセックスをしたいのだ。勇利と。信じられないけれどそうなのだ。そのことしか考えていないという目つきだった。 「あの……」  勇利は答えられなかった。そのとき初めてヴィクトルとそういうことをするというなりゆきについて考えたのだから、返事などできるはずもない。勇利はぽかんとし、頬を赤くし、うわずった声で答えた。 「それは……ぼくは……あの……」  こころの準備ができていなかった。ヴィクトルとセックスするなんて大変な事態だ。簡単に、いいですよ、じゃあいますぐ? なんて言えるはずがない。  結局ふたりは何もないまま別れ、その話はそれきりしなかった。勇利も試合があったので、それについて思案することはできなかった。でも、もし──もし──ヴィクトルが──。  ヴィクトルは、勇利とセックスをしたら元気になるだろうか?  勇利はヴィクトルに笑ってもらいたかったし、彼の落ちこみを直したかったし、彼にしあわせでいてもらいたかった。ヴィクトルが勇利を抱くことでそうなれるというなら、こころからそうしたいと思えた。ヴィクトルにはいつも陽気で楽しくいてもらいたい。それが勇利のねがいだった。  ヴィクトルの望みは……。  勇利は顔を上げ、こころぎめをしたようにヴィクトルの写真をまっすぐみつめた。  年が明けると、勇利はすぐにロシアへ渡った。もとからの約束だったし、ヴィクトルが一刻も早く会いたがったからである。もちろん勇利も彼に会いたかった。日本のスケート連盟には、いまから行くのかと驚かれたけれど、いつであろうと勇利には同じことだ。それに、シーズン途中に練習場所を変えるのはとくに珍しいことではない。必要なら振付師に会いに行ったり、試合先の国でリンクを確保したり──どんな選手でもやっていることだ。  勇利はヴィクトルのスケートクラブに通い始めた。調子は悪くなく、いい練習ができた。ヴィクトルも楽しそうに稽古に励んでおり、彼のスケートはやはり洗練されてすばらしかった。  勇利の毎日は充実していた。勇利は幸福であり、ヴィクトルとの交流やふれあいにみちたりた日々を送った。しかし気になることもあった。ヴィクトルの元気がないことである。  ヴィクトルが落ちこんでいるというそぶりを見せたことはない。いままでどおり陽気だし、勇利に優しく、楽しそうだ。勇利に会えてうれしいとはしゃいでいたりもする。だが勇利は、それをそのまま──見たまま受け取ることはできなかった。ヴィクトルはきっと気落ちしている。だって自分にがっかりしたと言っていたではないか。 「ヴィクトル」  勇利はヴィクトルに会った日、彼に尋ねた。 「元気?」 「元気だよ」  ヴィクトルはにこにこして答えた。 「もともと元気だったけど、勇利に会えたからもっと元気になった」  勇利は、そんなはずはないと思った。ヴィクトルは落ちこんでいたのだ。勇利に会えたくらいでその気分が消え去るわけがないではないか。 「そう」  しかしそのときはおとなしく引き下がった。落ちこんでいるときに、貴方は落ちこんでいるなんて、はっきり指摘されたいはずがない。そういうそぶりをヴィクトルがあらわしたときにあらためて話そうと思った。  だが翌日、我慢できず、勇利はふたたび訊いた。 「ヴィクトル、元気?」 「もちろんさ」  ヴィクトルは声をはずませて言った。 「元気に見えるだろ? 勇利がいると俺の生活はうるおうんだ」  勇利はやはり、そんなはずはないと考えた。あんなにがっかりしていたのに、勇利がいるくらいで解消されるわけがない。 「ヴィクトル、元気?」  さらに翌日も勇利は確かめた。 「元気だよ」 「本当に?」 「とてもしあわせだ。勇利と一緒に今日もスケートができるんだね。うれしいよ」 「ぼくも」  勇利は、ヴィクトルは自分に心配をかけまいとしているのだと思った。変わっているけれど優しいひとだからきっとそうだ。 「でもヴィクトル、ぼくの前では強がらなくていいんだよ」  言ってから勇利は、自分がそんなことを言える立場だろうかということを考えてすこし赤くなった。 「それは……ぼくは頼りないし、悩みを話す気になんてなれない相手かもしれないけど……」 「勇利を頼りないなんて思ったことはない。勇利はしっかりしすぎるほどしっかりしてるさ。もうちょっとしっかりしないで欲しいと思うくらいだよ」 「そう……」  勇利は考えこんでしまった。それでもヴィクトルは勇利に気持ちを打ち明けようとはしないのだ。どうすれば彼の力になれるだろう? ヴィクトルがこうして表面をとりつくろっている限り、話は進展しないにちがいない。勇利のほうから提案しなければ……。  その日一日、勇利は慎重にヴィクトルのことを観察していた。ヴィクトルは本当に楽しそうで、スケートができることを喜んでおり、みのりのある時間を過ごしているようだった。もちろん常に落ちこんでいるわけではないだろうから、それも本当の気持ちなのだろうけれど、やはり勇利は、気落ちがわからないように上手くふるまっているのだと考えた。  そんなことはしなくていいのに。せめてぼくの前では……。  勇利はその夜、決心をし、居間のソファで読書を楽しんでいるヴィクトルに寄り添うと、彼の本をのぞきこんだ。 「何を読んでるの?」 「勇利の記事が載ってる雑誌さ。俺が日本でコーチをしていたときのことをよく調べて書いている。おもしろいね。もともとこの記者は俺のいい記事をたくさん書いてくれてたんだ。勇利にも好意的だよ」 「そう」  勇利は自分のことはどうでもよかった。彼はヴィクトルの手にそっと手を添え、けなげなひとみでヴィクトルをみつめた。 「ヴィクトル……、落ちこんでない?」  ヴィクトルは笑った。 「最近、勇利はそれをよく訊くね。元気なのかって俺に確かめる。元気だよ。もしかして不調に見えるのかい?」 「ううん、見えない」 「そうだろう? 心配いらないよ。コーチと選手を両方やっているからといって疲れたりしない。ふたつをできないほうがよくないよ。難しいけど、その難しさがいいんだ」 「でもヴィクトルは元気を出すべきだよ」  勇利は真剣に訴えた。ヴィクトルは目をまるくし、それからおもしろそうに勇利を眺めた。 「不調に見えないと言ったばかりだよ、勇利」 「それはヴィクトルが人に見せないようにしてるからでしょ?」  ヴィクトルはますますおもしろそうな顔つきになった。 「なぜそう思う?」 「だって貴方はみんなに弱みを見せられない立場じゃない。いつも皇帝でいなくちゃいけないって思ってない?」 「弱み? よわいところね……、勇利には俺はめっぽうよわいが」 「そんな話をしてるんじゃない」  勇利はすこしこわい顔をした。こんなふうにからかって話をごまかそうとするのはヴィクトルの悪い癖だと思った。 「勇利は……」  ヴィクトルは笑いをこらえながら尋ねた。 「どうして俺が弱みを隠してると思うんだい? 何について落ちこんでると考えてる?」 「がっかりしたって言ってた」 「俺が? 何に?」 「自分に」 「自分に……? いつ?」 「ロシアナショナルのあと」  ヴィクトルが瞬いた。 「自分の演技はあまりよくなかったって。これじゃ生徒がなんて思うかわからないって話してた」 「ああ……あのときか」  ヴィクトルはくすくす笑い、ちいさくうなずいた。 「そうだね。そういう意味では確かにがっかりした。うん、そうだ」 「ヴィクトルはもっと高い水準を目指してるんでしょ? ぼくはすごくすごくすてきだと思ったけど、貴方はいつも上を見てるひとだから……。落胆したところをあからさまに示せなくて、それを隠してるんだ」  ヴィクトルは納得したようなしぐさを何度かし、ひとみに笑みをにじませたまま勇利をみつめた。 「そうだとして……、だから俺に元気を出して欲しいと勇利は思うのかい?」 「うん」  勇利は子どものようにこっくりとうなずいた。 「もちろん、元気を出せって言われてわかりましたと言えないことはわかってる。ぼくだって、わざと明るくふるまって欲しいわけじゃないんだ。本当に、こころから楽しいと思ってもらいたい」 「毎日こころから楽しいと思ってるけどね」 「ぼくには隠さなくていいんだよ」  勇利は熱心に言った。ヴィクトルは相変わらず可笑しそうにしていた。 「困ったな。どうすれば信じてもらえる? どうなったら勇利は満足なんだい?」 「ぼくを満足させようとしないで」 「でもね」 「ぼくにできることがあるなら言って欲しいんだ。ヴィクトルがして欲しいことがあるなら、ぼくは……」 「勇利が一緒にいてくれるだけでしあわせだよ」 「もっと具体的に言って」  勇利が顔を近づけてもヴィクトルは笑うばかりだった。 「具体的に何かしてもらわなくても、勇利と毎日いられるだけで俺にはすばらしいことなんだ」 「本当に? 何もないの?」 「ないね」 「遠慮しなくていいんだよ」 「俺は勇利みたいにゆかしくないから遠慮なんていうものはしない」 「確かにヴィクトルはなんでもすぐ言うけど、変なところで黙ってたりするから」 「俺は黙ってるつもりはないんだよ。伝わってると思ってるだけで」 「ね、言って」  勇利はさらにヴィクトルに顔を寄せた。 「してもらいたいことはないの? マッサージ? 読み聞かせ? ひざまくら?」 「ワオ……」  ヴィクトルが眉を上げてはしゃいだ表情になった。 「どれも魅力的だ。とくにあとのふたつに興味がある」 「してもらいたいの?」 「もちろんだ。でも、勇利の勘違いにかこつけて頼むのはよくない気がするね。ただ……」 「そんなことじゃ元気出ない?」 「そうは言ってないよ。勇利、聞いてる?」 「本当に、読み聞かせでもひざまくらでもするよ。ほかに望みはないの? もっとすごいことでもいいよ」 「じゅうぶんすごいことだよ」 「ヴィクトル……」  勇利はヴィクトルの腕に指をかけ、一生懸命になって夢中で言った。 「セックスでもいいよ!」 「…………」  ヴィクトルが目をみひらいた。勇利は口早に言いつのった。 「べつにいいよ! ヴィクトル、したいって言ってたじゃない。それでもいいよ。ヴィクトルに元気になってもらいたい。そんなことの何がうれしいのかぼくにはわからないけど、ヴィクトルすごくこだわってたし……貴方が望むなら……ぼく……」 「ゆ、勇利」  ヴィクトルが何か言おうとした。一度目を伏せた勇利は、ぱっとヴィクトルを見、こぶしを握って声を高くした。 「ヴィクトルのこと、愛してるし!」 「…………」 「いいよ。かまわないよ。どうする? する? いまからする?」 「ちょ、ちょっと待ってくれ」  ヴィクトルは慌てたように手を上げると、いまにも立ち上がりそうな気配の勇利を制した。 「勇利、いったい……」 「ヴィクトルに元気がないから」  勇利はくり返した。 「元気になってもらいたい」 「俺は元気……いや……堂々めぐりだな……。……勇利」 「なに?」  勇利は勢いこんで尋ねた。 「する? いまから? いますぐ? ヴィクトルのベッド?」 「待ってくれ」  ヴィクトルはすばやくかぶりを振った。 「いいんだ。それはいい」 「どうして?」 「どうしてって……、それは、今日はいいよ。いまはいい」 「いまはいい? そうなの?」  勇利は首をかしげた。今日はセックスしたいほど落ちこんでいないということだろうか? 確かに勇利も、何かあったときでも日によって気持ちの変化がある。 「今日はそういう感じじゃないの?」 「そうだね……」  ヴィクトルは笑いだしそうな、困ったような、難しい表情をしていた。 「今日はいい」 「そう……」  ヴィクトルがそう言うなら仕方がない。本当にそんな感じではないのか、やはり勇利によわいところを見せてはならないととりきめているのかは難しいところだけれど。 「わかったよ」  勇利はこっくりうなずいた。 「そうかい?」 「うん。じゃあ今夜はやめておく」  ヴィクトルがほほえみ、ほっとしたように息をついた。  しかし翌日、勇利はまたしてもヴィクトルに尋ねた。 「ヴィクトル、落ちこんでない? ぼくにできることがあったら言って。セックスでもいいよ!」  カップを口元へ持っていきながらテレビを眺めていたヴィクトルは、紅茶を噴き出しそうになって咳きこんだ。 「なんだって?」 「だから、ヴィクトルは気落ちしてるんでしょ? ぼくでいいなら話してよ」 「いや……」  ヴィクトルは笑いだしそうな、何かをこらえている、うれしげな顔をした。 「その話は終わったんじゃないのかい?」 「終わってないよ」 「ゆうべ言ってたじゃないか。やめておくって」 「ゆうべはね。あのときはそんな感じじゃなかったんでしょ? でも今夜はわからない」 「いや……今夜もそんな感じじゃないよ」  ヴィクトルは可��しそうに肩を揺らした。 「そうなの?」 「ああ……」 「わかった」  それならと引き下がり、勇利はその日はもう何も言わなかった。けれどまた翌日にヴィクトルに尋ねた。 「ヴィクトル、セックスはしなくていいの? ぼくはいつでもいいよ!」  ヴィクトルは持っていた本を取り落とした。 「勇利……なんて言った?」 「ヴィクトル、元気出して! セックスだっていいんだよぼくは!」 「勇利……」  ヴィクトルが勇利を見た。勇利は重々しくうなずいた。 「今夜はそういう感じかもしれないでしょ?」 「……勇利」  ヴィクトルは、やっとのことで、という態度で慎重に口をひらいた。 「勇利……俺はおまえのその言葉だけでうれしいよ……元気になった。もうそんなこと気にしなくていいんだ」 「ヴィクトルがこんなのだけで元気になるはずないよ。セックスしたいでしょ?」 「なぜそんなにセックスを勧めるんだ!?」 「だってヴィクトルがものすごくしたがってたから」  ヴィクトルが勇利にあんなにも望んだのはセックスだけである。だから勇利はヴィクトルを元気にできるのはそれだけだと信じていた。 「勇利……確かに俺は勇利としたいと言った。けれどそれは元気づけてもらうためじゃなく……いや、それでもうれしいよ。ものすごくうれしい。勇利のぬくもりを感じられたら、俺は何かしょげることがあっても、たちまち天にも昇るここちになるだろう」 「そうでしょ?」  勇利はやはりという気持ちになった。しかしヴィクトルは言った。 「でも、最初だからね……。初めて勇利とするときは、そういう理由じゃなく、愛しあっているからということでしたいんだ」 「ぼくヴィクトルのこと愛してるよ」  勇利は率直に言った。 「ヴィクトルはぼくを愛してないの?」 「愛してる! 愛してるよ! けど……なんて言えばいいのかな……まさか勇利が……本当に変わってるなおまえは……」 「なんなの?」  勇利は眉根を寄せた。ヴィクトルはいったい何が言いたいのだろう? 「つまり、今夜もそういう感じじゃないっていうことなの?」 「ああ……、そうだね」  ヴィクトルは楽しそうに、ほかに言いようがないというようにうなずいた。 「まあ、簡単に言えばそういうことだよ」 「わかった」  今夜もちがうらしい。勇利は了解して引き下がることにした。 「今夜はしないんだね」  勇利はその翌日も、さらにその翌日も、「しないの?」「今夜もしないの?」「ヴィクトル落ちこんでるでしょ?」「セックスでもいいんだよ」と言い続けた。ヴィクトルは可笑しくてたまらないのを我慢しているような、しかつめらしい顔つきで、いいよ、しなくていいんだ、と答えた。勇利はだんだんと、ヴィクトルはぼくとセックスがしたくないんじゃないかという気がしてきた。そうではないか? だって、したいなら進んで同じベッドに入ろうと言うだろう。彼はもう何日も断り続けているのだ。したくないにちがいない。気が変わったのだろう。以前はあんなにもしたがっていたけれど、もうそんな気持ちではないのだ。だから勇利の提案に笑うだけなのだ。 「なんだ」  ヴィクトルは気まぐれなので、そういうこともあるだろう。勇利は拍子抜けした。セックスに興味がないのなら、ほかに元気を出してもらう方法を考えなければならない。どうすればよいだろう? そういえば、ヴィクトルが関心を示していたことがふたつばかりあったような気がするけれど……。  しかし勇利はそこで、果たしてヴィクトルは本当に落ちこんでいるのだろうかとあやぶみ始めた。あのときは確かに落胆していたと思うのだが、いつまでもそうしているヴィクトルではないような気がする。彼は前向きで、物事をよいほうへ変える力を持っており、落ち着いた大人なのである。それに、このところのヴィクトルのスケートはひどくすてきで、とても落ちこむような出来映えではない。彼はずっとひとつのことにこだわってはいないだろう。  それを証明するかのように、ヴィクトルは出場したヨーロッパ選手権で、輝かしい成績を示し優勝した。勇利はひとみを輝かせてその演技を見ていた。インタビューでヴィクトルはこんなふうに語った。 「まだ満足じゃないけど、いいものができたと思ってるよ。次はまたちがうものをみんなに見てもらえるはずさ」  彼は終始にこにこしており、まったく悄然としている気配はなかった。ヴィクトルは立ち直ったのだと勇利は思った。彼はもう勇利とのセックスを必要としていないし、元気になったのだ。勇利はうれしさでいっぱいになった。  さらにヴィクトルは宣言のとおり、世界選手権において、「またちがったもの」で世界じゅうを魅了した。勇利も魅了された。勇利はもうめろめろで、金メダルをかかげたヴィクトルにうっとりとなった。 「勇利、どうだい? 俺、金メダルが似合うだろう?」 「うん……」  勇利は喜びの涙に濡れながらささやいた。 「ヴィクトルに勝てなかった……悔しい」  ヴィクトルは笑いだし、表彰台の上で勇利を抱きしめてキスした。 「そういえば」  シーズンが終わり、束の間の休息に入ったころ、思い出したようにヴィクトルが言いだした。 「勇利は最近言わないね」 「何を?」 「セックスしようって」  勇利は驚き、まっかになって激怒した。 「そんなふうに言ったことはないよ!」 「でも一時期、毎晩俺に、ヴィクトル、セックスって……」 「それはぼくにできることを提案してただけだよ! 元気になって欲しかったから、セックスでもいいんだよって訊いてただけ!」 「もう訊かないのかい?」 「ヴィクトルは落ちこんでないってわかったからね」  それに、勇利とはもうセックスもしたくなさそうだ。したくないことをしても元気になれるとは思えない。次にヴィクトルが落ちこんだときはどうしようかという問題を勇利はいまだに抱えていた。 「俺は勇利がいればしあわせなんだってわかってもらえた?」 「ぼくがいればかどうかは知らないけど、しあわせそうなのはわかるよ。ワールドで金メダルも獲ってたし……あれがヴィクトルの目指してた演技なんだね……ぼく泣いちゃった……もちろんあれで何もかもみちたりてるっていうわけじゃないのはわかるよ! 来季はもっと新しいヴィクトルが見られるんだ……楽しみ……ヴィクトルのスケートはぼくにとって──」 「勇利」  ヴィクトルが勇利の言葉を遮って手をとった。勇利は輝くひとみで彼をみつめた。 「なに?」 「セックスしよう」 「……え?」 「俺とセックスしよう。勇利としたい。勇利を抱きたい」  勇利はぽかんとして口をひらいた。 「な──なに言ってるの!?」 「愛してるんだ」 「ぼくだって愛してるけどなに言ってるの!?」 「勇利とセックスしたい」 「したくなさそうだったじゃん!」 「言っただろう。初めてするときにあんな感じなのはためらうっていうだけのことだ。勇利とセックスしたい気持ちは変わらない」 「あんな感じ!? いまと何がちがうの!?」 「ぜんぜんちがうだろう」 「同じだよ!」  勇利には理解できなかった。しかしヴィクトルはそんなことはおかまいなしで、顔を近づけ、熱心に言った。 「しよう」 「…………」  勇利はぼうぜんとしたままつぶやいた。 「今夜はそんな感じじゃないので……」 「そうなのかい? 残念だ」  ヴィクトルは引き下がったけれど、その翌日も、「勇利、今夜こそセックスしよう」と提案した。 「しないって言ったじゃん!」 「ゆうべはね。今夜の勇利は気持ちが変わっているかもしれない」 「変わってません!」 「そうかい?」  ヴィクトルは翌日も、さらに翌日も、「勇利、セックスしよう」「愛してるよ」「勇利を抱きたい」と言い続けた。勇利は完全に混乱してしまった。 「落ちこんでないんでしょ!?」 「落ちこんでないと勇利とセックスできないのか?」 「元気なのにしたいの!?」 「勇利……大事なことだよ。いいかい? セックスは元気になるための特効薬じゃない」 「じゃあなに!?」  ヴィクトルは笑って勇利と鼻先をふれあわせ、優しく答えた。 「愛しあう者同士の愛の証しさ」 「…………」 「俺は勇利を愛してる。勇利は?」 「ぼくもヴィクトルを愛してる」 「じゃあしよう」  ヴィクトルは勇利の手を引いて寝室へ行った。ベッドに座り、彼にキスされたとき、勇利はどきどきしながら思いきって口をひらいた。 「ヴィクトル……、もし、いましたら……」 「なんだい?」  勇利は一生懸命に尋ねた。 「ヴィクトルが落ちこんでるとき、ぼくはどうやって元気づければいいの?」  ヴィクトルは笑いだし、長いあいだそうしていた。やがて彼は勇利を抱きしめ、肩をふるわせてささやいた。 「勇利……、わかった。俺が落ちこんでいたら言ってくれ。ヴィクトル、何かして欲しいことない、セックスだっていいよ、って。そうしたらその言葉だけで俺は元気になる。いまのこのふしぎな勇利を思い出してね。さあ、もうそろそろいいかい? 目を閉じて……」
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sorairono-neko · 3 years
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スケートと寝た勝生勇利
 勇利はベッドの中でうつぶせになり、ぼんやりと頬杖をつき、首を傾けて、まだ眠っているヴィクトルをみつめていた。ヴィクトルは衣服を身に着けておらず、これはいつものことだったけれど、勇利のほうも、つややかな白い肩がふとんからのぞいて清楚に光っていた。  どうしてこんなことになってしまったのだろう?  勇利はそのことをさっきから考えていた。目ざめたときから考えていた。ヴィクトルと一緒に裸で寝たのは初めてで、そんなことになるとは、予想もしていなかった。後悔しているわけではないし、ゆうべはすばらしい幸福の時を過ごしたけれど──、それでも、どうしてこうなったのだろうと勇利にはふしぎだった。  ヴィクトルが強引だったわけではない。彼は優しく、勇利の気持ちを尊重し、最後まで逃げ道を残してくれた。勇利は戸惑い、ためらったけれど、ヴィクトルを拒むことはなかった。ヴィクトルのことをこころから愛しており、彼の愛もせつないほど感じたので、拒絶するなど思いもよらなかったのである。そんなことは発想すらなかった。  それでも……。  勇利は息をついた。ヴィクトルは愛の言葉をささやき、勇利もそれにこたえた。勇利はいつだってヴィクトルに夢中で、彼しか目に入らない。ゆうべは本当にすてきだった。ただ──。  これからも、こういうことがあるのだろうか?  ヴィクトルがどんな心づもりでいるのか、わからなかった。あれはたった一夜のことなのか。それとも、今後はこんな関係も結んでゆくことになるのか。勇利はどちらでもかまわなかった。ヴィクトルの愛情と熱を与えられるこ���は幸福であり、彼の熱っぽい声や熱狂的なまなざし、優しい愛撫は勇利をとろけさせた。しかし、勇利のヴィクトルへの愛は永遠だ。そういうことがなくても愛し、愛されてやってゆけるという気持ちもあった。一度こうして愛を交わして、ヴィクトルがみちたりたというのなら、勇利はそれでよかった。反対に、これからもそうしようということになるのなら……。  いやだというわけではない。ヴィクトルとの特別な時間を持つのはすばらしいことだ。きっとゆたかで輝く日々になることだろう。それはわかっている。わかっているが……。  ヴィクトルがゆっくりとまぶたをひらき、勇利のほうを見た。彼はうれしそうに笑い、勇利を引き寄せてかるくキスした。 「おはよう」 「おはよう」 「よく眠れたかい?」 「うん。朝までぐっすり」 「どこか痛いところは? つらいことはないかい? なにしろ俺は我を失って、勇利に熱中しておぼれてしまったから……」  勇利はすこし赤くなり、みずみずしくほほえんだ。 「大丈夫だよ。とても優しかった」 「そうかい? 本当はもっと優しいんだよ」  ヴィクトルはにこにこしながら、もう一度勇利にくちづけ、髪を撫でてまぶたをほそめた。 「次はちゃんと落ち着いて、せっぱつまったり大慌てになったりしない、きちんとしたところを見せるよ」  勇利はひとみをみひらいた。それをどう受け取ったのか、ヴィクトルが笑った。 「信じてないね? まあ、俺自身も信用ならないと思ってるけどね。勇利を前にすると俺は……」 「あ、そうじゃなくて……」  勇利はためらいがちに目を伏せた。 「そうなんだって思って……」 「そうなんだって?」 「次もあるんだって……」  ヴィクトルが息をのんだ。彼はあきらかに衝撃を受けた表情をし、勇利に顔を寄せて差し迫った声を出した。 「困るのかい?」 「困るっていうか……」 「もう懲りたの? 俺のことがいやになった? 焦ったりのぼせ上がったりみっともないことばかりしてたから、冗談じゃないっていう気持ちになったのか? 謝るよ、確かにゆうべの俺はどうかしてた。そもそも、勇利の前では俺はいつもどうかしてるんだが──」 「そうじゃないんだ。そんなんじゃない」  勇利が静かにかぶりを振ると、ヴィクトルは真剣に勇利をみつめ、絶望したようにささやいた。 「じゃあつまり……、勇利は、一夜限りだと思っていたと……俺をもてあそんだということなのかい……?」 「ちがうんだ」  勇利はすばやく否定し、どう説明したものかと困ってしまった。とにかく彼は、これだけは言っておかなければならないと、まずはいちばん大切なことを伝えた。 「ぼくはヴィクトルのことが好きだよ」 「…………」 「愛してる」 「…………」 「でも、こういうことは初めてで……」  勇利は言いあぐねた。ヴィクトルが口早に尋ねた。 「よくなかったの?」 「そんなんじゃないよ。すてきだった」 「だったらどうして?」 「なんていうのかな、つまり……」  勇利はしばらく思案し、まつげを揺らしていた。ヴィクトルは強いまなざしで勇利の横顔をみつめ続けていた。 「昔の話をしてもいい?」  勇利は首を傾けてヴィクトルを見た。ヴィクトルが低くうめいて暗い顔をした。 「過去のことなんて聞きたくないんだ」 「でもここが大事なんだ。これがないと説明できないんだよ」 「過去の誰かの話なんて……」 「え? 過去の誰か? 過去の誰かっていうか、過去のことだよ」 「だから、勇利の昔の誰かのことだろう?」  勇利は長く考えこみ、ようやく、もしかして、と思い当たった。ヴィクトルは勇利が誰かと付き合ったことがあると思っているのだろうか? そういえば、好きな子は、とか、愛されたことを、とか、そんな話をしたことがあった。勇利は笑ってしまった。 「ちがうよ。ぼくはヴィクトル以外を好きになったことはないし、同じふとんに入ったのもヴィクトルだけだよ」 「本当に?」  ヴィクトルが用心深く尋ねた。 「ぼくがどういう性格か、ヴィクトルはよく知ってるでしょ。でもそう、知らないこともあるだろうね。それをいまから話したいんだ。そのためには昔話が必要なんだよ。いい?」 「わかった」  ヴィクトルは緊張した顔つきでうなずいた。そんなに身構える話でもないのだがと勇利は思った。しかし、そうだ、やはりヴィクトルには言っておかなければならない。 「ぼくって、スケートしか知らないんだ」  勇利は話し始めた。 「ああ、わかってる」 「スケートを始めてから、ずっとスケートのことだけ考えてきた。ヴィクトルを知ってからはスケートとヴィクトルのことだね」  勇利がちいさく笑うと、ヴィクトルは慎重にうなずいた。 「本当に、それだけしか考えてなかった。頭の中はスケートでいっぱいだったんだ。ヴィクトルといつか同じ氷の上に立ちたいと思って、そのためには練習をしなくちゃいけなくて、どうすればもっと上手くなれるか、どんなふうに表現したいか、そんなことばかりだった。身もこころもスケートに捧げた。スケートをしながら誰かと愛しあうリンクメイトもいたけど、ぼくにはそんなこと考えられなかった。ぼくは合ってないんだと思う。誰かとのこころのつながりを持つことがいいほうに働く人もいるけど、ぼくはそうじゃなかったんだ。本当にスケートだけだった。ほかのことはすべて必要じゃなかった。ぼくはそれをおかしいとも思わなかったし、スケート以外の何かが欲しいと感じたこともなかった」  ヴィクトルはもう一度、さっきよりも注意深くうなずいた。 「リンクメイトたちは、もっといろんなものを見たほうがいいって助言してくれたりしたけど、ぼくにはできなかった。そのうちみんな納得して、勝生勇利はそういう人間なんだって理解したみたい。何も言わなくなった。そんなにスケートに夢中なら、スケートが恋人なんだってからかわれたりはしたけど、みんな悪い気持ちで言ってるんじゃなかった。ぼくはそういうことも考えなかったけど。とにかくスケートと、ヴィクトルを追いかけることに一生懸命だった。そのうち……」  勇利が言葉を切ると、ヴィクトルがいよいよ重要なところに近づいたのかというように、ますます真剣な顔になった。 「勝生勇利はスケートと寝たんだ、なんて言われるようになった。スケートにすべてを捧げて生きる、スケートと寝たスケーターだって。そんなふうに見えたらしいよ」  勇利がかすかに笑ってヴィクトルに視線を向けると、ヴィクトルはなんとも言わず、ただ瞬いていた。 「それで……、こんなふうにも言われた。そこまでスケートに対して何もかもを惜しみなく投げ出すなら、誰かと普通の関係は築けないって。絶対におまえはどんな相手よりもスケートを愛して、何かあったらスケートのほうをとるんだって。おまえと親密になろうとする者がいたらきっと傷つくだろうし、苦しむだろう。勝生勇利は自分の世界で、自分の好きなものだけを想って生きていて、そこにほかの人間の入りこむ余地はないんだって」  勇利は言われたことをひとつひとつ思い出し、丁寧に語った。 「これもみんな悪い気で言ってるわけじゃなかった。できることならぼくにスケート以外にも目を向けさせたかったか、そうじゃなかったら、おおげさに言ってそんなことないって否定させて、冗談にして笑いたかったんだ。でもぼくはそのとおりだなって思った」  勇利はひとつうなずいた。彼はヴィクトルをみつめ、澄んだ声で、きまじめに言った。 「だから、つまり……、ぼくってそういう人間なんだ」  勇利は困ったように眉を下げ、がんばって説明した。 「スケートのことだけでここまで来たから、何もわからない。どんなふうに関係を大切にするのかとか、どう表現するのかとか、ぜんぜん……。ぼくにできるのは氷の上での表現だけなんだ。ヴィクトルをいやな気持ちにさせたりもするはず。ぼくは自分の世界だけで生きてる人間で、こういう関係のことは想像もつかない。ヴィクトルもあきれるだろうし、ぼくを相手にしてると疲れると思う」  ヴィクトルが何か言いたげにくちびるを動かした。勇利はそれを優しく押しとどめた。 「最後まで聞いて。とにかくぼくはそうなんだ。どうしようもないんだ。いままでそうだったっていうことは、これからもそうなんだ。スケートのことばっかりなんだ。それが変わることはきっとない。ぼくって本当につまらない、おもしろみのない人間だよ。これは真理だと思う。ヴィクトルがぼくのスケートを好きだって言ってくれて、ただコーチでいてくれるあいだはそれでよかったけど……」  勇利は溜息をついた。 「こうなってしまった以上、それだけではいられないからね。ぼくはヴィクトルに今後迷惑をかけるよ。それに、もっと言うと、予想してただろうし、ゆうべのことで確信しただろうけど……、ぼくはこういうことよくわからないし、不慣れで、上手く対応できない。ヴィクトルはいろいろ気遣ってしてくれたのに、ぼくはちゃんとできてなかったと思う。できればもうすこしこういう行為になじむようになりたいけど、それはあまり期待できない気がしてる。だってぼくは自分の世界ばかり見てるし、スケートのことしか頭にないからね。ヴィクトルが望んでくれるなら努力はしたいけど、ヴィクトルが満足できるほどになるかはわからない」  ヴィクトルに抱かれるということは勇利にとって喜びで、すてきなことだった。勇利を抱くことはよいものだと、同じくらいヴィクトルに喜んでもらいたいが、スケートだけの勇利に果たしてそれができるだろうか? 「ぼくはそういう感じなんだ。それだけの人間なんだ。生徒としてはよくても──生徒としても言うことを聞かないってヴィクトルにはよくこごとを言われるけど──こういう相手には向かないと思うんだ。だからぼくはぼくを勧めない。ただ、誤解しないで欲しいんだけど、ぼくはヴィクトルのことを愛してるんだ。ぼくはスケートのことで頭がいっぱいだけど、スケートってぼくにとってヴィクトルのことだよ」  勇利が長い告白を終えても、ヴィクトルは黙りこんで返事をしなかった。勇利は、やっぱりこういうことを言われたら困るかなと考えた。でも、それならちゃんと説明してよかった。知らないままにこんな間柄をつくり上げてゆくのは、ヴィクトルにとってよくないことだろう。判断できる材料を彼に渡せたことにはほっとした。  勇利はちらと横目でヴィクトルを見た。ヴィクトルはあおのいて、目元に手を当て、まぶたを隠していた。勇利は彼が気の毒になった。 「ヴィクトル、あの、断り文句を考えてるなら、気を遣う必要はないよ。ぼくにはわかってたことだから。スケートの世界だけで生きてるって言われて、ずっとそのとおりだと思ってたから、ぼくは自分がこんなことになるなんて想像してなかったんだ。いまだって信じられない。だから、そういうことならやっぱり無理だって言われても平気だよ。こうなったのがふしぎなんだから。あんまり悩まないで欲しい。ひとつだけ……、ヴィクトルがゆうべのことを後悔してないといいんだけど……」  もしかしてこれは騙したことになるのだろうかと勇利は不安になった。始まる前に言うべきだったのだろうか。しかし、あの魅せられたような瞬間、そんなことを話す時間や考えがいったいどこにあった? 勇利はヴィクトルに求められて本当にうれしかったのだ。 「勇利」  あのとき、ヴィクトルは勇利の耳元で熱心にささやいた。 「おまえのことを愛してる」 「うん」  勇利はほほえんでうなずいた。 「ぼくもだよ」  ヴィクトルはそのあと、長いあいだ何も言わなかった。彼は、黙って勇利の手を握りしめていた。ヴィクトルがふれたがるのはいつものことなので、勇利は手をあずけ、されるがままになっていた。ただ、すこし変だとは思った。食事のあとは、たいていふたりでお茶を飲み、テレビを見たり、スケートの話をしたり、映画観賞をしたりしているのに──確かにそのときもテレビは流れていたけれど、ヴィクトルはあきらかに上の空で、番組の内容が頭に入っていないようだった。勇利は、ヴィクトルに何か緊張したものを感じた。何が彼をそうさせるのかはわからない。とにかく、普段のヴィクトルではなく、思いつめているようだった。 「ヴィクトル、考えごとでもあるの?」  勇利は思いきって尋ねた。ヴィクトルは仕事の点でも勇利より忙しいし、まわりの目も厳しいだろう。思案すべきこと、悩みなどもあるにちがいない。 「もしぼくが邪魔なら──」 「そんなことはない」  ヴィクトルは口早に言い、さらに勇利の手を握りしめた。 「そんなんじゃないんだ。勇利、ここにいてくれ。俺のそばに……」 「……わかった」  勇利はうなずいたけれど、やはり、ヴィクトルはいつもとちがうという気持ちがぬぐえなかった。いったいどうしたというのだろう。何を考えているのだろう? 心配ごとでもあるのだろうか。しかし、自分がヴィクトルの相談に乗れるとはとうてい思えなかった。勇利は人生経験も豊富ではないし──言ってしまえば勇利の「人生経験」はスケートだけで、ほかには何もないのだ。役に立つ助言などできるはずもない。  勇利はずっと気遣うようにヴィクトルを見ていた。ずいぶん時間が経ったころ、ふいにヴィクトルは顔を近づけ、真剣に勇利をみつめた。 「どうしたの?」 「勇利……」  ヴィクトルは熱心に、かすれた声でささやいた。 「いまから、俺と寝室へ来てくれ」 「え?」  勇利は意味がわからなかった。寝室に何かあるのだろうか? 見せたいものでもしまっているのか。 「いいけど……」  戸惑いながらうなずくと、ヴィクトルが不安そうにした。 「どういうことかわかるかい?」 「え? だから寝室に行くんでしょ?」  ヴィクトルはうつむいた。ちがうのかと勇利は慌てた。聞き間違えただろうか? 「ごめん……。俺の言い方がよくなかった。あんまり直接的に言うと勇利はびっくりするかと思って、みっともない誘い方になってしまった。まったくかっこう悪い。俺は勇利の前ではだめなんだ」  勇利はきょとんとした。勇利の前にいるヴィクトルは、何を言っても──ヤコフに叱られているときでさえすてきで、勇利はいつだってヴィクトルを愛しているのだった。 「つまり、勇利……」  ヴィクトルがあらためて言った。 「今夜は、勇利と同じベッドで寝たい……」  勇利はしばし考えこんだ。同じベッドで寝たい。ヴィクトルは寝室へ来て欲しいとも言った。おそらく、ヴィクトルのベッドで一緒に寝るということなのだろう。ヴィクトルはよくそういうことを望むけれど、勇利はすべて断ってきた。今夜も断りたいところだったが、ヴィクトルのこの様子はただごとではない。勇利は気になった。ヴィクトルがこんなふうに悩んでいるときくらい、こたえる準備は勇利にだってある。 「いいよ」  勇利はうなずいた。するとヴィクトルがまたうつむいた。いいと言っているのになぜだろう? まちがって伝わったのかな? 「やっぱりわかってないな、勇利……」 「わかってるよ。一緒に寝たいんでしょ。かまわないよ。ヴィクトル、なんだか様子がおかしいし」 「勇利の思うような『一緒に寝る』じゃない」 「一緒に寝るのに、ぼくが思うとかヴィクトルが思うとか、ちがいがあるの?」  ヴィクトルは熱烈に勇利をみつめた。勇利はすこし驚いた。ヴィクトルがこういう目つきをすることはこのところたびたびあったのだけれど、その中でも、ひどく熱狂的で、求めるような目遣いだった。 「ヴィクトル……」 「勇利」  ヴィクトルが勇利にキスをした。勇利は何をされたのかわからず、ぽかんとしてしまった。一瞬、ほんのすこしくちびるがふれただけだったけれど、確かにそれはキスだった。思いちがいではない。 「ヴィクトル……あの……」 「こういうことなんだ」  ヴィクトルは低く言った。 「こういうことなんだ、勇利」  こういうこと……。勇利は、キスと、一緒に寝るということをよくよく思案してみた。答えを出すのにずいぶん時間がかかった。そんなことが自分の身に起こるとは、勇利はまったく想像したことがなかった。しかし、あるわけがないと笑い飛ばすにはヴィクトルの目はあまりに真剣で、誠実だった。なんの経験もない、そういうことを思い浮かべることさえしない勇利がほかに考えられないほど、ヴィクトルのひとみの語るところはあきらかだった。 「……ヴィクトル」 「もう限界だ」  ヴィクトルが苦しそうにささやいた。 「無理にとは言わない。勇利の気持ちを大切にする。でもおねがいだ、勇利……俺と……」  ヴィクトルが勇利の手を強く握った。 「愛してるんだ」  勇利はものが言えなかった。ヴィクトルは手がふるえ、呼吸も苦しそうだった。彼はくるおしく勇利をみつめていた。愛するヴィクトルにこんな目をされ、こんな愛の告白を受けているのだ。勇利の答えもこころも、初めからひとつだった。初めてだから不安だとか、ヴィクトルがいいと思ってくれるだろうかとか、彼をがっかりさせるかもしれないとか、どうすればよいかわからないとか──そんなことを考える余裕はすこしもなかった。勇利はただ、ヴィクトルを夢中でみつめ、うなずいて彼にもたれかかった。 「……うん……」  勇利は同じようにふるえる手で彼の手を握り返した。 「ぼくも……」  あのとき、あの瞬間に、自分はどういう人間か、どんな性質かなどと、くどくど話すことはできなかった。たとえそうできる機会があったとしても、勇利は完全にとりのぼせ、ヴィクトルに夢中になってとろけてしまい、そんなことはすっかり頭から抜け落ちてしまっていたのだ。  しかし、結局はそれも言い訳なのだろうか? 勇利の落ち度ではあるのかもしれない。ヴィクトルは勇利がおもしろみのないたちをしていること、経験もなく、幼稚であることは知っていたはずだけれど、勇利の過去のことまでは知らなかった。少なくとも、ああなるまでに昔話は語っておいたほうがよかったのかもしれない。けれど──勇利は「ああなる」ことなんて思ってもみなかったの��。 「ヴィクトル……?」  勇利は黙りこんでいるヴィクトルにためらいがちに声をかけた。 「あきれて声も出ないの? 黙ってたのは悪かったよ。ぼくもどきどきして、わけがわからなくなっちゃったものだから。ゆうべのことはなかったことにしてもいいよ。ぼくは忘れないけど……、でも今後言いだしたりはしない。さきに打ち明けておけばよかったね。ごめん」 「……勇利……」  そのときようやくヴィクトルが口をひらき、目元から手をしりぞけた。彼はうつぶせになると勇利に身を寄せ、両手を握って顔を近づけた。 「俺はね……、そんなことはわかってたよ」  ヴィクトルは真剣にささやいた。勇利は瞬いた。 「わかってたって?」 「勇利のいま言ったようなことさ。勇利がスケートだけに打ちこんで、自分だけの世界で生きてるっていうことは知っていた」 「どうして?」 「そんなのは見ていればわかるじゃないか。勇利がスケート以外に興味を示したことがあるかな? ああ、カツ丼はそうだね」  ヴィクトルはちいさく笑った。勇利はきょとんとし、それからほほえんだ。 「そうだね。カツ丼くらいかな」 「もちろん、こまかいことまでは知らないよ。そう……、スケートと寝た、なんて言われてたことはね。さすがにそこまでは……」 「ああ、よかった。そんなことまで知られてたらいくらなんでも恥ずかしいよ。あ、でも、いま言っちゃったんだった」  勇利は口元を押さえた。 「もっとも、それについては……、」  言いさして勇利はやめた。 「とにかく俺は勇利のことをよくわかってるよ。わからないことはたくさんあるけど、勇利のいま話したことは知ってるし、きみについてわからないことがあるということはわかってる」 「どういうこと?」 「勇利は永遠の謎だということさ」  ヴィクトルはくすっと笑った。 「ふたりが結ばれた翌朝に、こんなことをいきなり説明し始めるところもふくめてね」 「必要でしょ」 「そうかな」 「必要だよ」  勇利は当然だというように重々しく言い、きっぱりとうなずいた。ヴィクトルはいとおしそうに勇利をみつめていた。 「じゃあそういうことにしておこう」  勇利はもちろんだともう一度うなずいた。 「勇利が告白してくれたんだから、俺も打ち明けよう」  ヴィクトルがまじめに言いだした。 「何を?」 「勇利……、俺もね、勇利が思っているような人間じゃないんだよ。いや、きみはもう知っているはずだが──、俺は勇利があこがれているような、しっかりした、大人の男じゃないんだ。好きな子を誘うときはみっともない誘い文句しか出てこないし、その意味をわかってもらえない。さらに説明してもやっぱりだめだ。どうにか気持ちを伝えられはしたけれど、そのあいだじゅう、緊張でふるえている。ちっとも洗練された態度でベッドへ連れていけない。おまけに、大事な行為の最中も自分を見失ってわけがわからなくなる。好きな子のためにいろいろしたつもりだけど、その子が本当に気持ちいいとかしあわせだとか思ってくれたのかは、甚だあやしい。俺は尽くしたと思ってるんだが、とにかく舞い上がって、完全にぽんこつといった感じだったからね。かっこう悪い、冴えない男さ。初めてふれあったからそうだったんだと言いたいところだけど、果たして今後俺はまともになるのかどうか、俺にも保証はできない。いつまで経ってものぼせ上がって、おかしいままかもしれない。こっちの可能性のほうが高いね。何をするにもあがってわけがわからなくなり、紳士的になんてできないかもしれない。しどろもどろになったり、へどもどして、何をしているか、何を言っているか理解しないままだろうね。愛を伝えるのに文法だってまちがえて、『なんて言ったの?』と毎回訊き返されるかもしれない。キスもへたくそで、あきれるほどだろう。俺は好きな子の前ではだめなんだ。そうらしい。俺も愛を経験して初めて知ったことだ。勇利、そんな俺でもいいかい? いままで黙っていてごめん。最初に言っておくべきだった。騙してたつもりじゃないんだ。見ていればわかると思った。でも、勇利は言わないと伝わらないこともあるみたいだし、自分にばかり問題があると考えてるようだから、いま、きちんと、包み隠さず話してみたよ。どうだい? こんな俺を勇利はどう思う? 遠くからあこがれているにはいいだろうけど、実際愛しあうには難しいかもしれない。でも俺は勇利と愛しあいたい。愛しあいたいんだ」  ヴィクトルの長い打ち明け話を、勇利は幾度も瞬きながら、一生懸命聞いていた。のみこむのが難解な話だったが、なんとかわかったという気持ちだった。たぶんだけれど……。頼りない理解力ながらも、気になったことがあり、勇利はそれについて確かめることにした。 「ヴィクトル、いまの話だけど……」 「なんだい。こわいな。やっぱりそういうのはいやと言うんじゃないだろうね。ああ、こんな告白なんかするんじゃなかった。本当なら黙っているべきだったんだ。まったくみっともない。ここでも自分のだめなところを証明してしまった。勇利があんなふうに言うからつい……。何か俺に魔法をかけたかな? そういう意味でも、勇利は本当に謎だよ」 「ヴィクトルの『好きな子』って、ぼくでいいの……?」  勇利が知りたいのはそのことだった。ヴィクトルは目をまるくし、口をつぐんでしまった。 「あっ、ちがった? ちがったの? だってそんな感じで言うから……。ごめん、ちょっと……、忘れて。恥ずかしいな……」  勇利がうろたえると、黙りこんでいたヴィクトルが笑いだし、ふいに勇利を抱きしめて身体を揺らした。 「勇利以外にいないだろう! なぜそういうことを訊くんだ?」 「あ……そう……」  勇利はほっとした。よかった。まちがっていなかった。ヴィクトルが黙ったので心配してしまった。 「普通そうだろう。勇利だろう。ほかにいないだろ」 「だって『好きな子』としか言わないから……」 「ああ、そうだった。勇利ははっきり言葉にしないとわからないんだ。学んだはずなのに、だめだな。ゆうべといい、いまといい……」  ヴィクトルは溜息をつき、それから笑って勇利のひとみをのぞきこんだ。 「勇利、返事は?」 「え?」 「スケートのことしか考えてない、ほかは目に入らない勇利と、勇利の前ではかっこうよさなんて消えてなくなってしまう俺だ。じつはそんな姿を隠し持っていたなんて、お似合いじゃないか?」 「…………」  勇利は大きなひとみをぱちぱちと瞬いた。 「俺はスケートのことで頭がいっぱいになって、ほかを必要としない、不器用でいちずな勇利を愛してるんだよ。本当におまえはわけがわからない」 「それって愛の告白なの?」 「そうさ」 「じゃあ言わせてもらうけど……」  勇利はヴィクトルに顔を近づけてささやいた。 「ヴィクトルが洗練されてないとかかっこうよくないとか、何を言ってるのかぜんぜんわからない。ヴィクトルはいつもかっこいいよ。ただ、趣味はどうなの? ヴィクトルは自分はいい趣味をしてるって自信を持ってるみたいだけど、ぼくが勧めないぼくがいいなんてどうかしてるよ。でもそういう変なところもヴィクトルだなと思うし、好きだよ。わけがわからないのは貴方のほう」 「やっぱりお似合いだ」  ヴィクトルはすがすがしく笑って勇利にキスした。 「勇利……、たぶん、そのデトロイト時代の友人たちはね、もしも勇利と親密になろうとする者がいたとしたら傷つくだろうし苦しむだろう……、それがヴィクトル・ニキフォロフなら別だけど。──と言いたかったんじゃないかと思うよ。だって勇利が俺を追いかけてることを彼らは知ってたんだろう?」 「あ……、それ、ぼく思ったことがあるんだ。彼らは『勝生勇利はスケートと寝た』って言ったけど、ゆうべヴィクトルと寝て、あ、本当になったなって。だってぼくにとってのスケートってヴィクトルだから」  ヴィクトルは目をまるくし、可笑しそうに笑いだした。 「やっぱり勇利は謎だね」
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sorairono-neko · 3 years
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結婚したら…
 厳しい注意をし、それを直すように言ったあと、勇利は確かによくなかった点を修正し、さらに、ヴィクトルが期待したり想像したりした以上の出来映えですべって見せた。ひとみをきらきらと輝かせ、はしゃいだように戻ってきた彼は、「どうだった!?」と声をはずませて尋ねた。 「よかったよ、勇利! すばらしかった! おまえは最高だ!」  ヴィクトルは勇利を抱きしめ、感嘆の吐息をついた。 「いまの感覚を忘れないようにね。誰もを惹きつける、魅惑的な演技だったよ」 「ほんとに? ヴィクトルのことも?」 「もちろんさ。俺がいちばんとりこになるんだよ」  ヴィクトルは勇利の額にキスし、それからつややかな黒髪をいいこいいこと撫でてやった。勇利は頬を紅潮させ、うれしそうににこにこした。 「もう一回すべってきていい? いまのを身体にしみこませるから」 「いいとも。すてきな勇利をたくさん見せてくれ」  勇利は注意されたこともそれで上手くいった演技も忘れることなく、練習時間が終わるまで充実したすべりを見せた。ヴィクトルは更衣室で着替えるときも勇利を褒め、引き寄せて髪に頬を寄せた。 「どんどんよくなってきてるね、勇利。俺は鼻が高いよ」 「試合のときもそう言われるようがんばるよ」  勇利が更衣室から出ようとしたので、ヴィクトルは引き止めて彼と向かいあった。 「ちゃんとしなくちゃだめだ」  ヴィクトルは適当にぐるっと巻いただけだった勇利のマフラーをぐるぐる巻き直して、隙間ができないように工夫した。ヴィクトルにはなんともないけれど、ロシアは寒いので、勇利にはつらいだろうと思ったのだ。ニット帽も耳がきちんと隠れるようにひっぱってやり、眼鏡が曇らないために気遣ってマスクの位置も変えた。 「勇利のかわいい顔が見えなくなるのはさびしいけど、仕方ないね」 「なに言ってるの?」  勇利は本気にしていないようで、楽しそうに笑うばかりだった。勇利に夢中のヴィクトルは本気で言っているのだった。 「それから手袋も……、勇利、なんてことだ、手がつめたいじゃないか」 「えっ、そう? 感覚としてはあったかいんだよ。たくさん動いたから」 「でもふれるとつめたい」  ヴィクトルは大きな手で勇利の手を包みこみ、丁寧にあたためてやった。 「いいよ、そこまでしなくて」 「俺がしたいんだ。おとなしくしておいで」 「ヴィクトルは過保護なんだよ」 「こんな手をしておいて何を言ってるんだ?」 「だから、ぼくとしてはつめたくないんだってば……」 「油断はいけない」 「油断じゃないよ。事実」 「すこしは俺の言うことも聞いてくれ」 「聞いてるよ。いつも」 「いつも……?」 「いつもじゃん」  拗ねて頬をふくらませる勇利が、たまらなくいとおしかった。ヴィクトルは自分の満足がゆくまで勇利の手をあたため、それからふたりでクラブを出た。 「夕食の材料を買って帰ろう」 「ぼくあれ食べたい。ビーツが入った……」 「いいとも」  ヴィクトルは勇利が希望したスープの材料をたっぷりと買いこみ、勇利と連れだって帰宅した。こうして勇利と買い物をして歩くのは、ヴィクトルのもっとも好きな勇利との行動のうちのひとつだ。ヴィクトルは勇利とすることはなんでも好きなので、「もっとも」も何もないのだけれど。 「着替えたら居間でのんびりしているといい」 「ぼくもつくるよ」 「いいんだ。勇利はマッカチンと遊んでてくれ。さびしかっただろうからね」 「うん……」  ヴィクトルが忙しい時期は勇利が毎日食事をつくっていた。それ以外にも家のことをすべてこなして、ヴィクトルの生活がとどこおりないようにしてくれていた。だからヴィクトルは、自分に時間があるときは、できるだけのことをしたいのだった。勇利が来るまで料理なんてしたいと思ったことはなかったし、そうしようという発想すら持っていなかったけれど、いまはちがう。勇利との暮らしをいとなむためならどんなことでも楽しい。 「さあできたよ。こっちへおいで」 「お皿並べる」 「いいよ。席について」 「並べる!」  そう言い張って手伝う勇利があまりにもかわゆく、ヴィクトルはきゅんとして胸を押さえた。かわいい俺の勇利……。  ヴィクトルのスープを、勇利は「フクースナだよ」と言って食べてくれた。そう言うときの笑顔の可憐なことといったら……。 「それはよかった」 「でも、ここのところずっとヴィクトルにつくってもらってる。明日はぼくがやるよ」 「いいんだ。好きでやってるんだ」 「ヴィクトルって料理好きだったの?」  新しいことを知った、と勇利はにこにこした。ヴィクトルにあこがれているあいだに彼が得た情報では、料理好きなんていう項目はなかったらしい。当然だろう。 「好きだよ。日夜研究に励んでいる」  ヴィクトルは胸を張った。そっかー、と勇利は笑った。「そっかー」という発音がかわいいといったらなかった。  入浴はふたりでするようにしている。「温泉とはちがう」と勇利も最初は抵抗したけれど、度重なると慣れたらしく、何も言わなくなった。 「今日も一緒に入るの?」 「入るよ。当たり前だろう」 「はいはい」  初め、身体を洗ってあげるということを提案したのだけれど、それだけはいやだと勇利は激しく反対し、結局、ヴィクトルが彼の髪を洗うということで落ち着いた。ヴィクトルはなぜだめなのかわからなかった。 「そんなに気にすることじゃないだろう」 「気にすることだよ……どういう考え方してるの……」 「俺は洗ってあげたいけどな」 「けっこうです」  ずいぶん前、そんな会話をしたのをおぼえている。  今夜も勇利は身体は自分で洗い、そのあとちいさな椅子に座ってヴィクトルに背を向け、ヴィクトルのしたいようにさせていた。勇利の髪を洗っていると、ヴィクトルは、これがあのさらりとしたつややかな髪か、とときめかしさで胸がいっぱいになる。使うのはもちろんヴィクトルの選んだシャンプーだ。勇利の髪質を考え、いろいろなものをためした結果、これにきまった。勇利はヴィクトルがたくさんのシャンプーの中から選んだことを知らない。一度、シャンプーが切れそうだと言ったとき、彼が「じゃあこれ」と自分で買おうとしたことがある。ヴィクトルからするとそれを使うなんてとんでもないという代物だった。急いで大反対し、俺が買うと主張してシャンプー選びから手を引かせた。勇利は、どれでも同じなのに、という顔つきだった。 「勇利、もうすこし頭を上げてくれ」 「んー……」  ヴィクトルが丁寧に撫でるようにしながら頭皮を指先でこすっていると、勇利が眠そうな声を上げた。ヴィクトルはふわふわした泡を勇利の髪からすくい上げた。 「眠いかい?」 「ヴィクトルのシャンプー眠くなるんだよね……気持ちよすぎて……」 「それは光栄だね」 「ん、口が半開き……」  ヴィクトルは笑いながら、勇利の耳の後ろをそっと掻き上げた。そのついでに、耳のかたちもなぞって綺麗にしておく。 「あ、それ好き」 「そうかい?」 「うん。ヴィクトルに耳さわられるの好き」 「どきっとするせりふだね」 「どうして?」  ヴィクトルはちょうどよい温度でシャワーを使い、「洗い流すから目を閉じて」と注意した。 「はーい」 「口も閉じて」 「よだれは出してないんだよ」  ふくれて言う勇利を抱きしめて髪に頬ずりしたい。泡だらけでもかまうものか。  しかしヴィクトルはその誘惑に耐え、勇利の髪を綺麗に洗い流した。 「さあ、終わりだよ。あとはゆっくりつかってあたたまろう」  浴槽に入るときは、ヴィクトルが後ろから勇利を抱く姿勢だ。勇利はヴィクトルの胸にもたれかかってよい気持ちそうにする。これもヴィクトルがしあわせを感じる瞬間だった。 「もっと脚を伸ばして。身体をこっちへ」 「あんまりもたれると重いかと思って。こぶただからね」  勇利はヴィクトルが「こぶたちゃん」と言うことをいつまでも恨みに思っているのだった。こころのこもった愛称なのだけれど、彼にはわかってもらえない。 「俺は勇利をリフトできる男だよ。勇利は羽のようにかるい。いや、勇利には羽が生えているのかもしれない。なにしろ天使だからね」 「何を言ってるのかわからない」 「いや……、天使以上にかわいいから天使ではないな……そんなものではない。もっと……」 「何を言ってるのかわからない」  ヴィクトルが引き寄せると勇利は素直にもたれかかり、完全に身体をあずけた。ヴィクトルは彼のすらっとした痩身を抱き、ちいさな顔に頬を寄せてまぶたを閉じた。なんてしあわせなんだ……。ヴィクトルは、勇利といつか結婚するということを考えた。  風呂から上がると、勇利は寝巻を着、簡単に髪を拭いただけで部屋へ引き取ろうとした。 「勇利!」  ヴィクトルは呼び止めて居間へ連れていった。勇利はいつもそうなのだ。こんなことをして平然としている。 「ちゃんと乾かさないとだめだ」 「大丈夫だよ。ほうっておけばすぐ乾くから。ロシアはいつだって部屋の中はあたたかいじゃない」 「それでもだめだ。風邪をひくかもしれないし、髪だって傷むんだよ」 「傷まないよ。そうだとしても気になるほどじゃない」 「だめだ! きみはいつもそうだ。俺の言うことを聞くんだ」 「わかったよ……」  ヴィクトルが叱りつけるようにとがめると、勇利はしおらしくうなずいた。しかし内心ではめんどうだと思っているにきまっている。ヴィクトルがいろいろ言うので反省したふりをしているだけだ。 「おいで。俺がやってあげる」 「自分でするよ」 「勇利は信用できない」 「ヴィクトルがぼくを信じないなんて」 「勇利のこういうことに関してはすべて疑ってかかるよ俺は」  ヴィクトルは勇利をソファに座らせ、ドライヤーで丁寧に髪を乾かした。勇利はヴィクトルの手がふれるあいだ、よい気持ちそうに目を閉じてじっとしていた。きっと髪を洗ってやっているときもこんな顔をしているのにちがいない。言うことを聞かない大変な子だけれど、このあどけない表情を見ているだけでヴィクトルは幸福を感じるのだった。 「かわいいな……」 「んー……? なに……?」 「なんでもないよ。すこし髪が伸びたね」 「へん?」 「い���、綺麗だ。勇利はいつも魅力的だよ」  勇利が笑いだした。どうやら冗談だと思っているらしい。 「さあ、これでいい」  ヴィクトルは納得してうなずくと、ついでに自分の髪もさっと乾かした。勇利はそのあいだぼんやりとテレビを眺めていたけれど、ヴィクトルがドライヤーを止めたところで立ち上がって、「じゃあ寝ようかな……」とつぶやいた。 「何を言ってる。まだすることがあるだろう」 「なんだっけ」 「毎日やってるのに勇利はおぼえていない」 「眠いんだよ」  確かに、あれほど練習しているのだから、疲れて眠りたくもなるだろう。しかし、だからといってじゃあおやすみと譲れるものではない。 「こっちへおいで。ここへ座るんだ」  ヴィクトルはソファの上であぐらをかき、膝を叩いた。 「やだよ、もう、そんなの……」 「何を恥ずかしがってる? 毎日裸だって見てるのに」 「変な言い方しないでよ。お風呂に一緒に入ってるだけじゃん」 「それでも裸を見てる」 「いちいち言い方が誤解を招くんだよ、もう……」  勇利は���つぶつ言いながらヴィクトルのあぐらの上に横向きに座った。ヴィクトルは彼を自分に寄りかからせ、ほっそりした手を取って引き寄せた。この手が演技のときしなやかに動くのが、どれほど可憐でうつくしいことか。 「ほら、もっと手を出して……」 「くすぐったいよ」 「勇利が抵抗するからくすぐったいんだ」  ヴィクトルはききめのあるハンドクリームをすくい、それを勇利の手に伸ばして両手で包みこんだ。優しく、静かに揉むようにすると、くすぐったがっていた勇利がぴたりと黙った。 「痛くないかい」 「うん……」 「指先まで綺麗に……」 「こんなことしなくてもいいよ」 「だめだ。勇利は自分に無頓着すぎる」 「ヴィクトルがこだわりすぎなんだと思う」 「おまえはほうっておいたら何もしない」  勇利は溜息をつき、どうでもいいというようにヴィクトルにもたれかかって無抵抗だった。もっと自分のうつくしさについて考えればよいのにとヴィクトルは思った。もっとも、何も考えていなくても勇利は綺麗でかわいい。それに、こうしてなにくれとなく彼の面倒を見るのがヴィクトルは好きだった。可憐な勇利を、さらにうつくしくするのだ。 「もういい?」 「まだだ。片手しか終わってないだろう」 「ぼく、左手は何もしなくても大丈夫なんだ」 「何をわけのわからないことを言ってるんだ」 「ヴィクトルにわけわからないって言われたらおしまいだね……」 「俺こそ勇利にそう言われたらおしまいだ」  ヴィクトルは眠いとぐずる勇利をなだめすかして保湿をした。彼が黒髪やこめかみにキスすると、勇利は「そういうので騙されないから」などとかわゆいことを言った。 「勇利は俺をなんだと思ってるんだ」 「少なくとも、こんなにいろいろ言ってくるひとだとは思ってなかった」  勇利にだから言うのだし、世話を焼くのだけれど、この妙な子はそれをわかっているのだろうか。ヴィクトルは甚だ疑問だった。 「さあできた。勇利、もういいよ」  満足してヴィクトルがクリームのふたを閉じたとき、勇利はヴィクトルにもたれかかったまま動きもしなかった。 「勇利?」  顔をのぞきこむと、彼はすうすうと子どものような寝息をたてて眠っていた。ヴィクトルはほほえんだ。 「おいで、マッカチン」  ヴィクトルはあかりを消し、勇利を抱き上げて寝室へ行った。そして彼を慎重にベッドに横たえ、自分も隣に落ち着くと、優しく抱き寄せて髪を撫でた。 「んー……終わったの……?」 「ああ、終わったよ。もうベッドだ。寝ていいよ」 「そっか……おやすみ……」  勇利は深い眠りに落ちたようだった。ヴィクトルは彼を守るように抱きしめ、鼻先に接吻して目を閉じた。 「ジャージで行くの?」 「ううん、今回はスーツ」  勇利の全日本選手権に付き添ったヴィクトルは、滑走順抽選に向かう勇利がスーツの覆いを取るのを見て溜息をついた。 「俺が贈ったやつにしなさいと言っただろう」 「あんな高価なの、普段遣いにできないよ」 「普段遣いにするために買ったんだ」  勇利は何もわかっていない。しかも彼は、自分で以前から持っている、ヴィクトルには信じられない型のスーツを手に取って気楽そうだ。 「勇利、だめだ」  ヴィクトルは注意をうながした。 「だめだっていっても、これしか持ってきてないんだから」 「そうじゃない。スーツはもう仕方ない。俺はゆるせないけど、いまから買いに行くわけにもいかないしね」 「当たり前じゃん」 「バンケットの前に考えよう」 「バンケットのスーツもこれだよ!」 「とんでもないしろものだ」 「失礼なんだよ」 「ネクタイはちゃんと結ぶんだ」 「結んでる」 「勇利はいつもすこし斜めになる」 「だってこうなるんだよ」 「きちんと丁寧に結べばそうならない。来てごらん」 「ヴィクトル、ぼく時間ないから」 「まだ三十分ある。予定表を見てちゃんと知ってるぞ」  勇利は頬をふくらませた。彼は、いつも予定なんて考えないヴィクトルなのに、とぶつぶつ言った。 「勇利のことではこまやかになる」 「無理しないほうがいいよ」 「好きでやってるんだ」  ヴィクトルは後ろから勇利を抱きこみ、彼のネクタイをゆっくりと結んでやった。勇利はうつむいておとなしくしていた。 「あの、抱きしめないとできないの?」 「勇利、前からネクタイを結べるかい?」  勇利はしばらく思案し、「できないね」と素直に答えた。 「そうだろう」  ヴィクトルはきちんとしたかたちをつくって結び終えると、優しく上着を着せかけ、すぐ前の鏡を示した。 「ほら、見てごらん。うつくしいだろう」  勇利はよくよく自分の姿を観察し、「確かに、ネクタイはいつもより綺麗だね」と同意した。 「俺が言ってるのは勇利自身もふくめてだ。さあ、もういいよ。そんなに時間が気になるなら行っておいで。迷子になりそうならついていこうか?」  勇利は何か言いたげな表情でヴィクトルをじっと見た。 「なんだい?」 「……ヴィクトルってさ……」 「うん?」  勇利は彼独特のうつくしい澄んだ目でヴィクトルをしばらく眺めたあと、「なんでもない」とつぶやいて部屋を出ていった。おかしな子だ。もっとも、勇利はいつでもおかしいけれど。  試合当日も、ヴィクトルは勇利の支度をいろいろと気にした。 「そろそろ着替えるかい?」 「うん。更衣室へ行ってくるよ」 「俺も行こう」 「ひとりで大丈夫だよ。迷子にもならない」 「そういうことを心配してるんじゃない。いつだってそうしているだろう?」  ヴィクトルは更衣室で勇利の着替えを手伝った。彼の後ろから衣装のファスナーを上げてやるとき、つややかな肩がキスしたいくらい綺麗だといつも思うのだ。しかしそうはしなかった。それは演技のあとにとっておこう。 「どこも窮屈じゃないかい」 「うん」 「じゃあこっちへおいで。髪をやってあげよう」  勇利はもう何も言わず、ヴィクトルの言うとおりにした。ヴィクトルは鏡の前に座る彼の背後に立ち、勇利の朱塗りの櫛で髪を梳き上げた。これはまるでおごそかな儀式のようで、ヴィクトルはこうすることをたいへん気に入っていた。勇利もこのときこころを研ぎ澄まし、演技のためにととのえているようだ。ヴィクトルは満足すると、勇利の頬を両手で包んで前を向かせ、彼と一緒に鏡をのぞきこんだ。 「うつくしいよ、勇利」 「そう……」  衣装を身にまとい、こうして戦うための姿になった勇利は、本当に凛々しく綺麗なのだ。 「これからおまえはすてきな演技をするよ。俺を魅了し、勇利自身もどきどきする演技をね。俺にはわかってる。勇利は俺の生徒だ。そして俺の誇りだ。俺のかわいい子だ。愛してるよ、勇利」  ヴィクトルはそう言って勇利を氷の上へ送り出した。  ヴィクトルの予言どおり、勇利はすばらしいプログラムを演じ、ショートプログラムもフリースケーティングも終えた。ヴィクトルは自分のもとへ戻ってきた彼を抱きしめ、頬ずりをしてささやいた。 「すばらしかった。アメージングだよ、勇利。おまえは最高だ! 勇利、俺の勇利。俺はおまえに夢中なんだ……」  勇利が汗にひかるちいさなおもてを上げたので、ヴィクトルは彼の顔じゅうにせわしなく接吻した。勇利が笑いだした。 「みんなが見てるのに……」 「かまうものか」 「カメラもいるよ」 「知ってるよ」  ヴィクトルは勇利にジャージを紳士的に着せかけ、ひざまずいてエッジカバーを左右ひとつずつつけてやった。それからキスアンドクライで膝にマッカチンのティッシュボックスを置いてやり、ファンから贈られたぬいぐるみをまわりに丁寧に並べた。さらに、勇利が飲み物を飲みたそうにしたので、キャップを外して渡した。彼が飲み終えるのを待って、ひとつまだ持っていたおむすびのぬいぐるみを腕に抱かせた。 「大丈夫だったかな。点数悪くない?」 「あんな演技をしておいて何を言ってる?」 「ちゃんとできたつもりだけど不安で。自分でわかってない失敗があったかも」 「何もおそれることはない」  ヴィクトルは勇利を引き寄せ、髪にキスして優しく撫でた。勇利は笑い、それから輝くひとみでヴィクトルをみつめた。 「なんだい?」 「ヴィクトルってさ……」  ヴィクトルは勇利の言葉を聞き逃さないよう、彼の口元に耳を寄せた。そのとき、得点が出、歓声が上がって、勇利がうれしそうに白い歯を見せた。  あのひどいスーツにもかかわらず、バンケットのために着飾った勇利はひどくうつくしかった。ヴィクトルはこのときも勇利のために髪を梳いてやり、すらっとした彼の姿勢と装いに陶酔したように見蕩れた。 「綺麗だよ、勇利」 「ありがとう」 「さあ行こう」  ヴィクトルは会場で勇利をエスコートし、影のように寄り添って離れなかった。勇利はヴィクトルの腕に指をかけ、ほかの選手に話しかけられるとひかえめに返事をした。 「みんな、勇利に声をかけてもらいたいんだね。何か自分から言ってあげればいいのに」 「人が寄ってくるのはヴィクトルがいるからだよ」 「勇利……おまえは何もわかっていない」 「なんのこと?」 「何か食べるかい? 取ってあげよう」  勇利はすこし緊張しているようだ。食べさせないと、自分では何も取ろうとしないだろう。立食形式なので、自分で好きに食べ物を選んでよい。ヴィクトルは勇利が気にしたものをひとつひとつ皿に取り、甲斐甲斐しく彼に差し出した。 「美味しいかい?」 「うん」  勇利は口をもぐもぐさせながらこくっとうなずいた。そのいとけなく愛らしいしぐさにヴィクトルはたまらない気持ちになった。早くこのかわいい子と結婚したいものだ。今回は日本の大会だったけれど、いずれ世界大会で彼が金メダルを獲れたなら……。 「食べてばかりじゃ喉が渇くだろう」  ヴィクトルは水のグラスを取り、勇利に差し出した。勇利は礼を述べてそれを受け取ると、大きな目をぱちりと瞬いてヴィクトルに向けた。 「ヴィクトルってさ……」 「なんだい?」  そのとき、「勇利くん!」とやってきた後輩があったので、勇利はふしぎそうにそちらを向いた。声をかけられてふしぎそうにするのは勇利くらいのものだとヴィクトルは思った。  ���間が経つと、勇利がふうと息をついてつぶやいた。 「なんか酔ってきた」 「勇利、飲んだのかい?」 「水だけだよ。でも人いきれで……」 「もう引き上げよう。じゅうぶんだろう。帰ってる人もいるみたいだ」 「うん……」  勇利の頬がほてっている。ヴィクトルは彼を外へ連れ出し、庭をすこし散策することにした。 「風が気持ちいい」  月明かりを浴びた勇利はうつくしかった。ヴィクトルは彼に見蕩れていたけれど、どこからか話し声が聞こえてきたので、ほっそりした腰を抱いて奥の道へと導いた。こんなとき勇利は人に会いたがらない。 「こっちへおいで。静かだよ」 「うん……、ヴィクトルってさ」  勇利はぱちぱちと瞬いて言った。 「優しいよね」 「突然なんだい?」 「すごく親切だなあって……。もともとファンに優しい人だから当たり前なのかもしれないけど、それだけじゃなくて……。生徒にこんなに優しいなら……ヴィクトル……」  勇利はくすっといたずらっぽく笑った。 「結婚したらどうなっちゃうの?」  ヴィクトルはほほえんだ。もちろん、ずっと、もっともっと勇利に優しくするのさ。そう答えようとした彼に勇利は言った。 「相手の人、びっくりするだろうね」 「……え?」 「ヴィクトルにこんなに優しくされたら舞い上がっちゃうだろうな。生徒にこうなんだから、結婚相手にはもっとでしょ? どんなふうにするの? 想像もつかない……。いったいどうなるんだろ?」  ヴィクトルはぽかんとした。勇利の言う意味がわからなかった。もしかして彼は、生徒だからヴィクトルがこんなに優しくしていると思っているのだろうか? 結婚相手にはそれ以上のことをすると? まさか──。  冗談じゃない! 「結婚相手はおまえだよ!」  ヴィクトルは叫んだ。突然大きな声を出した彼に、勇利は驚いたように目をまるくした。 「え?」 「俺はおまえと婚約してるつもりだし、愛してるからそんなふうに接してるんだ!」 「え……えっ……?」 「結婚したら優しくするよ! もっと別のことでもね!」 「うそ……えっ……ほ、ほんとに……?」  勇利は口元を押さえ、信じられないというように瞬いた。つめたい風でおさまりかけていた彼の頬が、また赤く紅潮した。まったく……自覚のない子だと思ってはいたけれど、まさかこんなことさえわかっていなかったとは……。 「え……うそ……やだ……そうなの……?」 「いや!? 俺と結婚するのがいやなのか!?」 「これ以上優しくされたら……」  勇利はひとみを大きくみひらき、ほのかにきらめかせてつぶやいた。 「ぼく堕落しちゃうじゃない……どうしたらいいの?」  ヴィクトルは驚いた。こんなことを言われるとは思わなかった。さっきから勇利はびっくりさせることばかり言う。  ヴィクトルは笑いだした。 「ヴィクトル、ぼくのこと好きなの?」 「言葉でも態度でもあらわしてたつもりなんだけどね」 「やだ……もう……」 「何がいやなんだ」  勇利はまっかになって両手で口元を覆った。 「そんなの……、照れるよ!」  世界選手権でクリストフに会ったとき、「ヴィクトルは勇利をうつくしくするのに余念が��いね」とからかわれた。ヴィクトルは笑い、勇利は頬をうすあかくして答えた。 「このひと、ぼくのこと愛してるんだって……だからこんなふうなんだって。結婚したら別のことでも優しくしてくれるつもりらしいよ」
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sorairono-neko · 3 years
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キスをしたのは初めてじゃない
 騙されたと勇利は思った。アイスショーが終わったので、食事をしないかとクリストフに誘われ、やってきたものの、それは勇利が想像していたものとちがった。勇利としてはクリストフと夕食をともにするのだと思って気軽に応じたのに、そこにはたくさんのスケーターがいて、どうやら会食という状況らしかった。勇利がうらめしそうな顔をすると、クリストフは平然として肩をすくめた。 「ふたりでなんて言ってないからね」  それはそのとおりだ。そのようには明言されなかった。しかし、いかにもふたりなのだと勘違いしそうな物言いではあった。意図的なものにちがいない。  勇利は絶望し、自分は帰ると主張したかったけれど、そうするといろいろ言われそうなので、果たしてこのまま黙って食事だけしてさっと帰るほうがよいのか、思いきってここでさよならと宣言するほうがよいのか、さっきから天秤にかけていた。  勇利だって、ほかのスケーターとまったく交流しないわけではない。話しかけられれば答えるし、知り合いも幾人かいる。だが、今回はだめなのだ。どうしてもだめなのだ。なぜなら──。 「ヴィクトル! 君のプログラムはよかったよ。すばらしかった。それに、演技のとき以外も、最初から最後までいきいきしてたね」  声をかけられたヴィクトルは笑い、「口やかましいコーチがいないからね」と気楽に答えた。勇利は彼に背を向け、視界に入らないようにするのに大変だった。  ヴィクトルがいるなんて。もうとんでもない。本当に帰りたい。けれど、彼を近くから見るよい機会ではある。ヴィクトルが勇利の存在に気がつかなければよいのだが。もっとも、ヴィクトルは名も知らぬ日本の選手なんて眼中にないにちがいない。それならいてもよいだろうか。ああ、困った。難しい問題だ……。  レストランに入ったとき、クリストフが勇利に小声ですばやく言った。 「ヴィクトルの隣に座りなよ」  勇利はものすごい形相で彼を見た。クリストフは笑い声を上げ、「そうなるようにしてあげようか?」とさらに言った。 「絶対にやめて」 「喜ぶと思ったのに」 「もう帰りたい。それにしてもヴィクトルはかっこいいね……永遠に見ていたいよ……」 「勇利、支離滅裂だよ」  さいわいなことにクリストフのとりはからいはなく、勇利はヴィクトルから離れた席で食事をすることができた。これくらいならバンケットでよくある感じだし、ヴィクトルをみつめていることもできるのでかなり都合がよい。勇利はほっと息をついた。  ヴィクトルは楽しそうに仲間たちと話している。そんな彼に勇利はうっとりして夢中になっていた。何かの拍子にヴィクトルの視線が動いたら、隣のスケーターの陰にさっと隠れることは忘れなかった。そんなことをしなくてもヴィクトルは勇利について思うところなどないだろうし、我ながら自意識過剰だとあきれるのだけれど、ついそうしてしまうのだ。それに、勇利のことをあまりに知らない彼が、「関係ない子がまぎれこんでるよ」などと言う心配もまったくないわけではない。 「ちょっと勇利、人がせっかくヴィクトルと近づきになれるようにしてあげたのに」 「いいの。ぼくのことはほっといて。見てるだけでしあわせだから。ヴィクトルすてき……」  クリストフが近くに来たときそんな会話をした以外は、勇利はほとんどしゃべらず、愉快そうなヴィクトルに感激して過ごした。やがて、すこしずつではあるけれど、スケーターたちがホテルに戻り始めたので、勇利も「じゃあぼくもここで」と席を立ってもよかったのだが、ヴィクトルを見ていられる機会という誘惑になかなかあらがうことができず、そのまま席に座り続けていた。しかし、あまりに仲間の数が少なくなると不安になるので、そうなる前に帰ったほうがよい。  ヴィクトルは酒を飲んでいた。彼は強いようでいくつもグラスを替えていた。勇利は、ヴィクトルってお酒も強いんだ……とめろめろだった。勇利はすこしも飲んでいない。そんなに何度も飲んだことはないけれど、いままで、酒に関してはよい思い出がない。こんなところで失態を見せるわけにはいかない。  勇利は時計を見、あと十分したら帰ろう、と時間をきめた。今日は本当にしあわせだった。ショーの自分のプログラムも悪くなかったし、ヴィクトルの演技も最高だったし、こうしてヴィクトルと食事ができたし──。  勇利がよいこころもちになっていると、ふいに、「ヴィクトル、大丈夫?」というクリストフの声が聞こえた。勇利はどきっとした。具合が悪いのだろうか? 「ああ……、大丈夫だよ」  さっきまで陽気に話していたヴィクトルは、いまは眠そうな様子で笑っていた。どうやら気分がよくないわけではないらしい。彼はあくびをひとつした。 「プログラムのことをいろいろ考えていたものだから、ゆうべあまり寝てなくてね」 「ここで寝ないでよ」 「平気さ。もう二、三杯何か飲めば目がさめる」 「あんまり感心しない方法だね。そろそろ帰ったほうがいいんじゃない」 「クリス、俺を追い払うつもりなのか?」 「心配して言ってるんだよ。ほら、文句言わずに帰りな。そうだ、かわいい子をお目付役につけてあげるから」  勇利は、ヴィクトルが帰るならそのあとに自分もホテルへ戻ろうと考えた。しかしヴィクトルの姿が完全に見えなくなってからだ。もちろん彼は勇利が同じ道にいても通行人としか思わないだろうけれど、勇利は彼に夢中なので、ただ歩くということだけでも平静でいられる自信がないのだ。ヴィクトルが店を出てから十分くらい間をおいて……と計画を立てていると、突然、「勇利!」と名前を呼ばれた。 「は、はい」  反射的に返事をしたところでまわりの選手が自分に注目していることに気がつき、勇利は赤くなった。なんだろう? 「え、えっと……、クリス?」  勇利は声がしたほうへ顔を向けた。そして耳までまっかになった。クリストフがヴィクトルと並んでこちらを見ており、手招きをしているではないか。 「ちょっとおいで」 「い、いえ、あの、けっこうです」 「何を言ってるの? 頼みたいことがあるんだよ」 「ここで聞きます」  クリストフだけならよいけれど、ヴィクトルに近づくなんてとんでもない。勇利は断固として拒絶した。 「まったく君は……。まあいいや。ヴィクトルがホテルへ戻りたいそうなんだ。彼、ちょっと酔ってるし、眠そうであぶないから、一緒に帰ってあげてよ」 「……え?」  勇利はぽかんとした。言われたことを理解するのにかなり時間がかかった。ヴィクトルと一緒に帰る? ヴィクトルに近づくなんてとんでもないと思っていたけれど、それ以上にとんでもない話だった。 「えっ! あ、あの、ぼく……」 「勇利、さっきからもう帰りたいって言ってたじゃない」 「いえあのそれは」 「時計もちらちら見てたでしょ」 「そうだけど、でもぼくもうちょっといたいっていうか」  いたいというわけではないけれどヴィクトルとは帰れない。勇利はぶるぶるとかぶりを振った。クリストフは「そうか」とうなずいて溜息をつき、ヴィクトルのほうを向いた。 「ヴィクトルと一緒に帰るなんて絶対いやだってさ」 「クリス!」  なんてことを言うのだ! 勇利は飛び上がった。 「一緒に帰る! 一緒に帰るよ!」 「よかった。じゃあヴィクトル……」  クリストフがにやっと笑ったので、勇利は罠だと気がついた。しかしもうどうしようもない。勇利はうらみをこめてクリストフを見た。クリストフは笑いをこらえている様子だ。 「ふたりとも上着を忘れないようにね」 「ああ……」 「ヴィクトル、まだ帰らないとか言ってたのに、かわいい子をつけてあげるって言ったら急に素直じゃない」 「へ、変なこと言わないでよ!」  勇利は上着を腕にかけながら声を上げた。ヴィクトルが簡単に否定しそうなことを言わないで欲しい。わかっていることでも、はっきり拒絶されると傷つくのだ。 「じゃあ気をつけてね。とくに勇利、ヴィクトルを部屋に入れないほうがいいよ。何をされるかわからないから」  みんながどっと笑い、勇利はこれには「変なこと言わないで」と言うこともできずうつむいた。泣きたいくらいだった。ヴィクトルに「部屋までついていきたいほど魅力のある子じゃないだろ」と思われたにきまっている。 「それじゃあ」  ヴィクトルがみんなに挨拶し、勇利もぺこりと日本式に頭を下げた。クリストフが視線を合わせて合図するようにうなずき、笑った。勇利のためによいことをしたつもりなのだろう。半分はおもしろがってやっているのだ。勇利は、次に会ったら抗議してやる、とかたい決心をした。  それにしてもホテルまで歩くあいだ、いったい何を話せばよいのだろう? 勇利にはさっぱりわからなかった。ヴィクトルとできる会話なんてひとつもない。ずっと黙っていてもいいのだろうか。そもそも、隣を歩いてもゆるされるのか? 「上着を着ないのかい?」  店から出ると、ヴィクトルは気軽な口ぶりでそう尋ねた。勇利は「上着を着ないのか」というまったく平凡なひとことにさえ、ぼくに向けられた言葉なんだ……と感激した。 「え、ええ……、暑いので……」 「そうかな」  本当はすこし肌寒いくらいかもしれない。しかし勇利はさっきから汗をかいていた。頬も熱い。 「悪かったね」  ヴィクトルが明るく言った。勇利は何を言われているのかわからなかった。 「俺が帰るっていうだけなのにきみを巻きこんでしまって。クリスは、ああ言えば俺が素直に言うことを聞くと思ったんだよ。もっと楽しみたかっただろう?」 「い、いえ……ぼくは……べつに……」 「ああ、心配しないで。部屋に上がりこんだりしないし、何もしないよ。そんなにおびえなくていい」  ヴィクトルは微笑した。勇利は自分がそんなことを心配しているわけではないと──そんなにうぬぼれ屋ではないと言いたかったけれど、彼があんまりすてきなのでぼうっとなった。 「きみはとても魅力的だから、クリスが自分の友達を心配するのもわかるけどね」  あきらかにお世辞ではあったが、勇利はヴィクトルが言ったというだけでのぼせ上がってしまった。しかし、何か話さなければ。ヴィクトルが見ず知らずの勇利にこんなに気さくに接してくれるのだから、自分からも話題を提供するべきだ。だが勇利の頭にはほとんど何も思い��かばなかった。 「あ、あの──、体調が悪いんですか?」  やっと言ったのはそんなことだ。まったく自分はつまらない人間だ。 「いや、そうじゃないよ。眠いだけさ。ショーが終わって気持ちがゆるんだのかもしれない。酔いも今夜は早かったから……、そんなに酔ってはいないけどね」 「そうですか……」  勇利はヴィクトルが心配になった。部屋まで行くつもりなんてなかったけれど、ちゃんと付き添わなければいけないような気がした。ずうずうしいと思われるだろうか? だが、もし廊下で倒れてしまったら……。 「部屋はどこなんですか?」  ホテルへ入ると、勇利は思いきって尋ねてみた。ヴィクトルの部屋は勇利と同じ階で、場所もそれほど離れていなかった。 「付き添います」 「大丈夫だよ」 「でも心配ですから」 「クリスにあとで何か言われる?」 「ぼくが心配なだけです」  ヴィクトルはちょっと勇利を見、かすかに笑ってうなずいた。 「優しい子だね。ありがとう」  そのひとことで、勇利こそ倒れるところだった。不用意にすてきな声でそんなことを言わないで欲しい。  部屋へ戻ったヴィクトルは、さっさとベッドに行って勢いよくあおむけになった。勇利はどきっとしたけれど、体調が悪いのではなく、ただくつろぎたいだけだとすぐにわかった。 「大丈夫ですか? いま水を……」  さいわいなことに、冷蔵庫に水のペットボトルが入っていた。勇利が手渡そうとすると、ヴィクトルはまぶたのあたりを大きな手で覆って、「飲ませてくれるかい?」と言った。 「えっ」 「冗談だよ。こんなことを言ってたら、俺こそクリスに怒られるな。でもきみもちゃんと気をつけないといけないよ。こんなに簡単に部屋についてきたりしちゃだめだ」 「ぼくはヴィクトルが心配で……」 「きみを連れこむために酔ったふりをしているのかもしれない」  ヴィクトルがくすっと笑った。 「……もちろんそんなつもりはないよ。何もしない。でも用心したほうがいい。こういう会合があるたび、あの子は誰かについていってるんじゃないかと心配になるからね」  ぼくはヴィクトルにしかついていきません。そう言いさして勇利は慌てて口をつぐんだ。そんなことを言うわけにはいかない。 「……そんな魅力ぼくにはないから大丈夫です。安心してください」 「きみはひとみが綺麗だ」  ヴィクトルがぽつんと言った。勇利はどきんとした。 「きらきらしている……見ないほうがいい気がするな」 「……もともと、ぼくのことなんか見ていなかったでしょう?」 「よく見てとりこになっちゃったら困るからね」  冗談で言っているのだろうか? もちろん本気ではないだろうけれど、笑えばよいのかよくわからない。ヴィクトルはふしぎな言葉で話すひとだと勇利は思った。英語は理解できても、それ以上の意味ではすこしものみこめない。 「また変なことを言ってしまった……。俺のことを軽薄な男だと思っただろうね?」  ヴィクトルが手の端から目をちらとのぞかせてちいさく笑った。勇利は赤くなった。 「いえ、そんな……」 「誤解しないで欲しいんだが、誰にでもこういうことを言ってるわけじゃないよ。こんなことは初めてさ。人を部屋に入れるのもね。──おっと、こんなふうに言うほうが危険なのかな。忘れてくれ」  ヴィクトルはもう一度笑った。 「今夜はどうかしている。──確かに酔ってるのかもしれないな」  彼は息をつき、ふしぎそうにつぶやいた。 「どうしてこういうことを言ってしまうのかな……。自分でも謎だ。もしかしたらきみが好みなのかもしれない」  そう推定してから彼はさらに笑った。勇利はものも言えなかった。お世辞や冗談にしても度が過ぎているのではないだろうか。 「まずいな。どんどん自分が危険なやつになっている気がする……。大丈夫、冷静になるよ。何もしない。本当に。酔ってるけど酔っぱらいじゃないんだ」 「あ、あの……、頭を冷やせばすこしは楽になるかも」 「ああ、その必要を感じるね」 「洗面所を使ってもいいですか?」 「もちろん」  勇利は洗面所で自分のハンカチを出し、それを水で濡らしてヴィクトルのもとへ戻った。目を閉じているヴィクトルは眠っているように見える。勇利は床に膝をつき、彼の額にハンカチを当てた。 「ああ……、気持ちいいな……」 「よかったです」  ヴィクトルはうすくまぶたを開け、長い銀色の前髪越しに勇利を見た。 「優しいね、きみ」  勇利はしどろもどろになった。 「いえ、そんな……」 「この感じはなんだかおぼえがある」 「え?」  勇利は、誰かとまちがえているのだろうと思った。ヴィクトルの好きなひとだろうか? ──いや、自分と感じが似ているというのだからそうではないだろう。 「あれは……、そう、スケートだ。ショーでスケートを見たんだよ」 「誰のですか?」 「それがわからないんだ。俺は自分の出番のためにいろいろ支度をしていたし、ちょっと問題が起こって振付師と話したりしてた。だからどのときにリンクを見たのか��っきりしない。とにかく、慌ただしくしてるあいまにちらっと見たんだよ。あれは誰の演技だったのか……、青い照明が印象的だったな。その中に調和して、優美にそのひとは舞っていた。音楽に��けこんで、空気も衣装も青い色も、すべてが一体になったようだった……。俺は見蕩れたんだよ。でも、問題を解決するために呼ばれてそこを離れなければならなかった。本当に惜しかったね。もっと見ていたら……」  勇利は頬が熱く、胸がどきどきして、ただ黙ってヴィクトルの額にハンカチを当てていた。勇利のプログラムでは青い照明を使っていた。それ以外の色はなかった。しかし、ほかに青を使ったスケーターはいくらでもいる。青しか使わなかったのは勇利だけだけれど。 「その無垢で上品で清楚なスケートと、きみの感じがよく似ている」  ヴィクトルはちいさく息をついてつぶやいた。 「なつかしいとすら思える慕わしさだったな……」 「……人ちがいです」  勇利はぽつんと言った。それ以外に考えられなかった。 「そうかな……。あの演技と、きみのさっきのきらきら輝く星のようなひとみ……、それをはっきり見たら……」  ヴィクトルは心静かな様子で夢見るように言った。 「俺は恋に落ちるかもしれない……」  勇利は何も言わなかった。何も言えないではないか。ヴィクトルが話しているのはきっと自分のことではないし、自分には彼の言うようなひとみも魅力もない。勘違いなのだからそう指摘したいけれど、すぐにも眠りたいというふうなヴィクトルにうるさく話しかけるのはひかえたい。だから勇利は黙っていた。  ヴィクトルはそれ以上は話さず、それきり、眠ったようだった。勇利は彼の額にハンカチを添えたまま、まぶたを覆っている彼自身の手をみつめてどきどきしていた。 「勇利、考えたんだが」  中国での試合が終わり、ホテルでひと落ち着きしたとき、ヴィクトルが気にしたように言いだした。 「なに?」 「もしかして謝ったほうがいいのかな」 「何を?」 「俺はごく自然にそうしたんだし、勇利もそう受け止めたと思うけど、きみはいろいろ考えこんじゃう性質だからね。あとになって気になるかもしれない。もっとも、まったくなんとも思わず、平気だと感じてる可能性もあるけど」 「なんのこと?」 「勇利のことはまるで読めないからね」 「だからなんの話なの?」  本当にわからなかったので勇利は首をかしげた。ヴィクトルは率直に言った。 「キスしたことだよ」 「ああ」  なるほど。そのことか。本当に気にしていなかった。ヴィクトルもなんとも感じていないようだけれど、勇利が気にしているか気にしていないかということ自体は気になっていたのだろう。 「勇利には初めてのキスだっただろうからね。そういう意味では──」 「ぼく初めてじゃないよ」  勇利が簡単に答えると、ヴィクトルはぎょっとしたような顔になった。 「なんだって?」 「初めてじゃないんだよ──ヴィクトル、そろそろ部屋へ戻ったほうがいいんじゃない? ぼくもやすもうと思う」 「ちょっと待ってくれ。いまの話は……」 「何も重大なことじゃないよ。あいづちみたいなものじゃない。ああ眠い。昨日ほとんど寝てないんだ。本当はね」 「勇利!」  もう寝たいと主張する勇利の肩を、ヴィクトルは両手できつくつかんで、ひどく真剣な顔をした。 「いったいどういうことなんだ?」 「何をそんなにまじめになってるの?」 「勇利には恋人がいたことはないんだよね」 「そう言ったことはないよ。ヴィクトルが勝手にきめてかかってるだけで」 「いたのか!?」 「いないけど」  ヴィクトルは安心したような、しかし納得できないというような、なんとも複雑な表情をした。 「じゃあいったいどういうことなんだ?」 「簡単なことじゃない。恋人はいたことないけど、キスをしたことはあるんだよ」 「恋人でもない相手と!? 勇利はそんな子じゃないだろう!」 「恋人じゃないけど、好きなひととしたんだよ。いいじゃない、もう、そんなの……」 「いいわけないだろう。いいわけないだろう」  どういうわけかヴィクトルはぶつぶつ言いながら部屋の中をうろうろし始め、そんな彼を見て勇利はきょとんとした。まさかこんなに気にするとは思わなかった。しばらくヴィクトルを眺めていた勇利は、なんだか可笑しくなって笑いをこらえなければならなかった。  ヴィクトル、おぼえてないのかな? 無理もないけど。酔ってたし、眠そうだったし、ぼくをあまり見てなかったし。  何年か前のアイスショーで、勇利はヴィクトルに会った。それについては何もおかしなことではない。アイスショーでスケート選手同士が顔を合わせるのは自然なことだ。しかし、ショーのあとクリストフに誘い出されて勇利が食事に行ったのは珍しいことだったし、そのとき、すこし酔ったヴィクトルに付き添って介抱したのもたった一度きりのことだった。  あのとき、勇利はヴィクトルの部屋にいるあいだじゅうどきどきしていた。ヴィクトルの額にハンカチを添え、いつ戻ろうか、もう行っていいのか、ヴィクトルは完全に眠っているのだろうか、彼とこんなふうにいられてなんてしあわせなことだろうと、いろいろ考え、思いみだれた。そのうち、あまり長居してはずうずうしいかもしれないと気がつき、ハンカチを取り上げて、そっと立ち上がろうとした。すると、ヴィクトルが勇利のほそい手首をつかみ、目を閉じたままつぶやいた。 「帰ってしまうのかい……?」 「あの……」 「帰らないでくれ」  勇利はまっかになった。 「まだ具合が悪いですか?」 「具合はもともと悪くない」 「疲れているんでしょう」 「いや……、そうでもないよ」 「でも、やすんだほうがいいように見えます」  勇利の言葉にヴィクトルはしばらく考え、それから優しくささやいた。 「きみがキスしてくれたら元気になるかもしれない」  勇利は言葉を失った。これも冗談なのだろうか? まさか本気ではないだろうけれど、ヴィクトルはどういうつもりで言っているのだろう。からかわれているのかもしれない。 「……ごめん。忘れてくれ。本当に今夜はどうかしている。きみ、俺に何かしたかい? 魔法でもかけた?」 「…………」  ヴィクトルはまぶたを閉じていた。勇利は彼に顔を寄せると、すこし身をかがめ、ヴィクトルのくちびるにこころをこめて接吻した……。 「いったいどういうことなんだ? 好きなひと? 勇利に? 聞いてないぞ。聞いてない……」  ヴィクトルはまだ部屋を歩きまわり、何やら悩んでいるようだ。勇利はくすっと笑った。 「ぼくの好きなひとなんて誰でも知ってるよ」 「俺は知らない。勇利は俺にひみつをつくるのか。いつもそうだ。なんてつめたいんだ。おまえは冷酷だ」 「そんなに知りたいなら話すけど」 「いや、聞きたくない!」  ヴィクトルが両手で耳をふさいだ。勇利は肩をすくめた。 「ぼくもう寝るから……」 「うそだ。知りたい。教えてくれ。──いや、待ってくれ。勇利の好きなひと……知りたいが……知りたいが……だめだ、精神が安定しない。おまえは俺をどうしようというんだ。魔法をかけただろう」  勇利は笑いだした。 「いつだったか、アイスショーのとき……」 「ああ、聞きたくない。聞きたくないぞ」 「…………」 「いや、なんでもないさ。それで?」 「みんなで食事をしたんだよ。ぼくはそういうの苦手だけど、クリスに上手くおびきだされた。そのとき、あるひとがちょっと酔ったみたいだったんだ。酔ったっていうか、眠かったのかな。睡眠が足りてないようだった。だから彼がホテルに戻るとき、ついていってやってくれってクリスに頼まれて……」 「なんだって? 勇利、それでついていったのか? だめだ、もっと気をつけないと。用心すべきだ」  勇利はまた笑いだした。あまり楽しそうに笑っているので、ヴィクトルはなぜなのかわからないというようにふしぎそうにしていた。 「……笑いごとじゃないぞ。俺は真剣なんだ」 「ごめん。わかってるよ」 「それで部屋についていったらキスされたのか?」 「ちがうよ。ただ水を渡して付き添っただけ」 「それだけ? 本当に?」 「濡らしたハンカチを額に当てた」 「ああ、あれは気持ちいいよね。俺もしてもらったことがあるよ」 「誰に?」  ヴィ���トルは答えようとし、それから首をかしげた。勇利は話を続けた。 「彼はなんだかおかしな冗談ばかり言ってた。ぼくをからかってたのかもしれない。でも落ち着いてて、優しかった。ぼくはずっとハンカチを添えてそばにいたよ。黙って座ってるだけだったけど、彼の役にすこしは立ったのかな」 「それは立っただろう。そういうのは、ひどくこころが穏やかになってやすらぐものだよ。俺もしてもらったことがある」 「誰に?」  ヴィクトルはもう一度首をかしげた。彼は考えこんでいる。 「しばらくそうしてたんだけど、いい加減帰らないと邪魔になるかと思って立ち上がろうとしたんだ。そうしたら彼はぼくの手首をつかんだ。もう帰るのかって言われた」 「まったく言語道断な男だな。お話にならない。ずうずうしいにもほどがあるんじゃないか?」 「ぼくはべつにそう思わなかったけど」 「勇利は好きだからゆるしてしまうんだ。つけこまれる。気をつけるんだ。いくら好きな男でも甘い顔をしてはいけない」 「でも、ヴィクトルもそうしたことがあるんじゃないの? 手をつかんでもう帰るのかって言ったことが」 「確かにそれはそうだが。──どうして知ってる?」 「それから、彼は……」  勇利はベッドに浅く座り、胸に手を当ててまつげを伏せた。 「キスしてくれたら元気になるって……ぼくに言った」  ヴィクトルが勇利に一歩近づいた。彼は抗議するように何か言おうとし、それからいぶかしげに眉根を寄せた。勇利は顔を上げてほほえんだ。 「だからしたんだよ。なんだか、そうしなきゃいけない気がしたんだ。それが当たり前っていう感じがした」 「…………」 「後悔してないよ」  勇利はにっこりしてうなずいた。 「勇利……」 「なに?」 「…………」  ヴィクトルはしばらく黙りこみ、口を動かし──、やがてぽつんとつぶやいた。 「……あれは勇利だったのか?」 「誰だと思ってたの?」 「夢だと思っていた。すごくいい夢を見たと……」  ヴィクトルが信じられないというように勇利の手を取り、勇利はゆっくりと立ち上がった。ふたりはみつめあい──、ヴィクトルが腰を引き寄せてキスしようとしたので、勇利はひとさし指一本でそれを押しとどめた。 「勇利」 「だって、好きな男でも甘い顔しちゃいけないって……」  ヴィクトルは勇利をじっと見た。勇利はきらめく黒いひとみで物静かに見返した。ヴィクトルが深い溜息をつき、勇利を離して額に手を当てた。 「ヴィクトル、どうしたの?」 「おまえはなんてつめたいんだ」 「今日眠いのはぼくだね。でもヴィクトルのほうが元気なさそう」 「勇利がキスしてくれたら元気になる」 「そう」  勇利はヴィクトルの前に立ち、まぶたを閉じると、つまさき立って接吻した。あのときのように……。  ヴィクトルが目をみひらいた。勇利は上目遣いで彼を見た。 「どう? 元気になった?」
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sorairono-neko · 3 years
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いくつになったの?
「もうすぐきみの誕生日だね」  ヴィクトルがそう言ったとき、勇利はきょとんとした顔をした。忘れていたのだろう。無理もない。ちょうどその日はグランプリシリーズの日本大会の日程になっており、つまり勇利には試合があるのだ。演技を熟させようというこの時期に、誕生日のことなど考えているはずもない。もっとも、勇利の場合、試合のないときだとしてもおぼえていなさそうではある。そういうことに関心がないのだ。勇利が気になるのは、スケートと、ヴィクトル・ニキフォロフのことだけだ。 「そういえばそうだね」  思ったとおり、彼はとくにどうということもないという挨拶だった。ヴィクトルはほほえんだ。 「ちょうど日本大会だし、お祝いされるんじゃないのかい」 「そうかもしれない。でもそれどころじゃないよ。ああ、誕生日か。いやだな」 「なぜ?」 「みんな何かを期待するだろうから」  ヴィクトルは笑ってしまった。確かに、誕生日をすばらしい演技で飾れるだろうか、というような見方はされるだろう。少なくとも、テレビ放送の実況者はひとことはふれるにちがいない。祝福のケーキなども用意されているかもしれない。勇利はそういったことが苦手だ。 「でも、いいこともあるかもしれないよ」 「いいことってどんな?」 「さあ……」  ヴィクトルは、勇利が生まれてきた日はうれしいから、単純にみずからのそうした感情に照らしあわせ、いいことが起こるにちがいないと言ったのだった。しかし勇利は何か特別なことを想像したらしい。用事があったため、ヴィクトルが勇利より遅く帰宅したとき、彼は居間でなにやらふしぎなことをしていた。 「あ、あの、演技とてもすてきでした。ぼく、見蕩れてしまいました……」  誰と話しているのかと驚いてヴィクトルが部屋をのぞくと、勇利は両手を握りあわせ、うっとりと宙をみつめているところだった。ヴィクトルはわけがわからず、大きく瞬いて彼の姿を凝視してしまった。 「そうかい? どうもありがとう。きみの演技もよかったよ」  勇利は立っている場所をぱっと変え、さっきまで自分のいたところを見てそう言った。どうやら勇利自身とは別人を演じているらしい。 「えっ……見てくださったんですか……!? そんな……」  勇利はもとの位置へ帰り、感激したようにひとみをうるうるとうるませた。ヴィクトルはすこし考え、なんとなくわかったような気がした。 「ああ、そういえばきみは今日が誕生日だったね。おめでとう」 「えっ! ヴィクトル、どうして知って……うそ……うれしい……」 「そうだ。誕生日プレゼントに俺と話をしないか。スケートについて語りあおう」 「ヴィクトル……!」  勇利は忙しく二役を演じ分け、「誕生日をヴィクトル・ニキフォロフに祝ってもらう勝生勇利」というふしぎなひとり芝居をしていた。ヴィクトルは笑いをこらえるのが大変だった。どうやら彼はヴィクトルに演技を見てもらえないと思っているらしいし、ヴィクトルが勇利の誕生日を知らないときめてかかっているようだ。相変わらず勇利の考えることはよくわからない。それにしても、欲しいプレゼントが「スケートについて語りあう」だとは。せっかく妄想するのだから、もっと何かあるのではないかとヴィクトルは可笑しくてたまらなかった。いや、むしろ勇利の最高の望みはそれなのかもしれない。 「ただいま」  あんまり見ているのも悪いので、ヴィクトルはさっさと扉を開けて中に入った。勇利がびっくりして振り返り、ヴィクトルの表情を見て、かーっと耳まで赤くなった。 「み……見た……?」 「見たよ」 「うそ……」  勇利は両手で頬を押さえ、ソファに座りこんでしまった。普通なら「ヴィクトルのことで妄想しているところをヴィクトル本人に見られた」と気恥ずかしくなる場面だけれど、勇利はちがう。彼は笑みをふくんだヴィクトルの視線にそっぽを向くと、拗ねたように言った。 「ぼくだってヴィクトルがこんなふうに親しくしてくれないことくらいわかってるよ! そんなに笑わなくてもいいじゃん!」  このひとことにこそ、ヴィクトルは噴き出すところだった。勇利の頭の中はいったいどうなっているのだろう。本当にわからない……。しかし勇利はこういう子なのだ。 「べつに笑ってなんかいないさ」  ヴィクトルは彼の隣に腰を下ろし、気軽に言った。 「うそ。ぼくがありもしないことを想像していい気になってるって思ってる」 「思ってないよ。それに、もしかしたら本当にそういうことがあるかもしれないだろう?」  勇利は溜息をつき、ゆっくりとかぶりを振った。 「ないよ……。そんなことない」 「そうかな」 「ヴィクトルには試合があるんだよ。一緒に出る選手の誕生日にかかわってる時間なんてないよ。そもそも知らないだろうし」 「それは残念だね」 「いいの。べつに。ただ想像して浮かれてただけだから。ヴィクトルと同じ試合に出られるだけで、ぼくは、もう……」  勇利は頬を紅潮させ、またうっとりとした目つきになった。確かに日本大会にはヴィクトルも出場するけれど、もちろんヴィクトルは勇利の演技を見るし、彼の誕生日も祝うつもりだった。 「……とにかく、運がいいっていうこともあるかもしれないから……、ヴィクトルに見られても恥ずかしくない演技をしなくちゃ」  勇利は決意をあらたにしたように、大きくひとつうなずいた。 「がんばる。……ああ、ヴィクトルはどんな演技を見せてくれるのかな。早く見たいな……」  本番の演技はともかく、ヴィクトルの練習は毎日見ている勇利は、そんなふうに夢見る目をするのだった。  エキシビションの衣装を着て廊下を歩いているとき、物陰に勇利の姿をみつけてヴィクトルはほっと息をついた。いったいどこへ行ったのだろうと思っていたのだ。お互い取材やスケート連盟との打ち合わせがあり、ホテルの部屋へ戻る時間も異なって、せっかくの誕生日だというのに、試合後、なかなか彼に会えなかった。ようやく顔を見られた。  しかし勇利は柱の陰から目元をちょっと出して、通り過ぎるヴィクトルをまっかになってみつめているだけだった。あのとき妄想していたようには、自分から声をかけてきそうにない。それではとヴィクトルは立ち止まり、笑顔で彼に話しかけた。 「やあ、勇利」 「えっ」  勇利は驚き、どぎまぎしてすこし後ろへ下がった。おもしろかったけれど、ヴィクトルはできるだけ平静を装おうとした。 「あ、あの……な、なんですか?」  勇利はいまにも逃げ出しそうだ。なぜなんだとヴィクトルは可笑しかった。ヴィクトルを完全に選手として見ているとしても、彼はヴィクトルに遠く及ばないような成績ではないのだし、友人のように話しかけてくればよいのに。もっとも、勇利にはそれは無理なことなのだろう。ヴィクトルだってそれくらいはもうわかっている。ただ、ふしぎで愉快だ。 「きみの演技を見たよ」  ヴィクトルはにっこりした。勇利は緊張しすぎて、自分から「ヴィクトルの演技すてきでした」とも言えないようだ。 「えっ、あ、え……?」  勇利は二役でしていたお芝居のときより感情をみだし、足元がふらついて、いまにも倒れそうだった。 「演技? 演技って? 演技ってなに? ぼくの? 演技?」 「きみの演技だよ。きみのプログラム。とてもよかったね。叙情的で、音楽的で……音が完全にきみのものになっていた」 「演技……プログラム……え……? え、ぼくの……? あ、ありがとうございます……え……?」  勇利はまだよくわかっていないようだ。しかし自分が言われたことの意味はわからなくても、言うべきことは思い出したようである。 「あっ! ヴィクトル、ぼく貴方の演技見ました!」  彼は突然、まるでいまこの瞬間に���ケートの話を始めたかのような口ぶりで叫んだ。 「すばらしかったです。あの……すばらしかったです……」  勇利のひとみがうるうるとうるんだ。 「あんまりすてきすぎて……ぼく泣いちゃって……」 「ありがとう。きみのスケートも最高だよ」 「ぼくのスケートが……なに……?」 「そうだ。きみ、誕生日だね。おめでとう。いくつになったのかな?」 「何が? 誕生日? いくつ?」 「じつは、勇利がいくつになったのか、俺はよく知ってるんだ。とにかくおめでとう。よかったらあとでお祝いさせてくれないか。きみとスケートの話がしたいな」 「いくつ……お祝い……スケート……話……」  勇利には話の筋道が立てられないようだ。腰を抱いて優しく髪を撫で、ひとつひとつ説明してあげたいけれど、いまは時間がない。 「さあ、そろそろきみの出番だよ。エキシビションもきっとすてきだろうね。行ったほうがいい。楽しみにしてるよ」  勇利は係員に呼ばれ、ふらふらしながら去っていった。彼は口の中で、「出番……エキシビション……ヴィクトル……お祝い……スケート……」とくり返していた。大丈夫だろうか? いや、問題はないだろう。彼は氷の上に立つと豹変するのだ。  ヴィクトルはリンクサイドで勇利の演技を見た。思ったとおり、ライトを浴びた勇利はすずしげな凛々しい顔をしており、すこし緊張してはいるようだけれど、上品で優美な演技を披露した。ヴィクトルはほほえみながらそれをみつめていた。やはり勇利のスケートはすばらしい。どのようにしてあんなふうにすべっているのだろう? 彼のコーチになってもその謎はとけないままだ。永遠にわからないだろうし、それがよい。  勇利が戻ってきたとき、ヴィクトルは、彼がエッジカバーをつけるためにフェンスに置こうとした手を、自分が代わりに取って支えた。勇利はつめたい感触ではなくあたたかなてのひらに受け止められたことに驚き、顔を上げて目をみひらいた。 「しっ」  ヴィクトルは彼の耳元にささやいた。 「次の選手の演技が始まるよ……騒いじゃいけない」  勇利は反対の手で口を押さえ、こくこくと大きくうなずいた。それからヴィクトルに寄りかかりながらカバーをつけた。そのあいだじゅう、彼は必要以上にうつむいていた。ヴィクトルの顔を見られないといった様子だった。 「俺の出番は次なんだ」  ヴィクトルは勇利の耳にさらに口を寄せて低く言った。勇利がまたこっくりとうなずいた。もちろん知っているだろう。彼が知らないはずがない。 「勇利、ここで見ていてくれるね」  勇利がそのつもりでいることをヴィクトルは承知していたけれど、それでも彼に約束して欲しかった。勇利は相変わらずものも言えないという態度で、ヴィクトルを見上げて、やはり声もなくうなずいた。ヴィクトルはにっこりした。ヴィクトルの前の選手の演技を見ながら、勇利は黙りこんでいた。 「眼鏡はかけないほうがいいよ」  ヴィクトルは忠告した。勇利はやっと口をひらいた。 「眼鏡がないと貴方がよく見えません」  ヴィクトルは笑いだした。彼は了解し、それじゃあ、と続けた。 「いつでも外せるようにしているといい」  ヴィクトルはリンクへ出ていき、拍手と喝采を浴びた。しかしすぐに氷の中央へは行かず、係員に寄っていってマイクを受け取った。 「やあ、みんな。さっきの勇利の演技、すばらしかったよね」  ヴィクトルは英語で話したけれど、彼が何かするだろうと待ちかまえていたファンたちは心得ているらしく、歓声を上げてこたえた。 「みんなも知ってるよね。そんなすてきでうつくしい勇利は、この日本大会で誕生日を迎えた」  もう一度歓声が上がった。 「こんなにうれしい日はないよ。俺はいま、ひどく浮かれてはしゃいでるんだ。勇利がいてくれることが俺の幸福なんだ。いまからすべる演技を、愛する俺の勇利に捧げるよ」  この日いちばんの歓声が降りそそぎ、ヴィクトルはマイクを返した。そして言葉どおり、勇利に捧げるために演じた。「離れずにそばにいて」。勇利がヴィクトルを日本へ呼び寄せたプログラムだ。もう以前のような演じ方ではない。ヴィクトルは勇利と出会い、愛を知って変わったのだ。あんなすべりは二度としないだろう。勇利がこれを演じるときともちがう──しかし、魂をわかちあっているとわかる踊り方だった。 「どうだった?」  リンクサイドへ戻ったヴィクトルは、口元を両手で押さえて目をみひらき、涙をいっぱいにたたえている勇利に笑いかけた。勇利の頬はまっかだった。 「さあ、締めくくりだね。おいで。眼鏡は俺が外してあげよう」  ヴィクトルは勇利から眼鏡を取り上げ、彼の手を引いて氷の上にエスコートした。 「ま、待って──待ってください」 「どうしたんだい。おや、戸惑ってるね。気にすることはない。きみはいま氷の上に立つべきひとなんだよ。俺は俺のプログラムをきみに捧げたんだから。大丈夫さ。コーチに怒られる? 俺があとで説明しておくよ」  もちろんこのときに勇利とすべるプログラムはデュエットの「離れずにそばにいて」で、勇利は驚いたことに、緊張のあまりか、何度もつまずきそうになった。ヴィクトルは笑いをこらえながら、彼を助けて上手くすべれるようにしてやった。演じ終わったとき、勇利はいつもより息をはずませ、わけがわからないという様子でほとんど立っていられないようだった。 「大丈夫かい?」 「あ、あの……」 「楽しかったね」 「ええ、でも……」 「いままででいちばん失敗しそうなデュエットだったね。それもいいさ。勇利、誕生日おめでとう」 「ヴィクトル、あの──」  勇利がけなげにヴィクトルをみつめた。ヴィクトルはほほえんで、彼の言葉はひとつも聞き漏らさないようにと顔を近づけた。 「なんだい?」 「あの、あの、ぼく──」 「ああ」 「ぼくはいったいいくつになったんですか?」  ヴィクトルはあぜんとした。次の瞬間、彼は笑いだし、勇利を抱きしめて頬ずりをした。 「それでね、ヴィクトルがね、ぼくのためにすべってくれたんだよ。もう本当に信じられないよ。そんなことってある? ヴィクトルがぼくの誕生日を知ってるだけでもびっくりするのに、ぼくに──ぼくに──プログラムを捧げるなんて──ああ! 夢じゃないのかな? 本当に起こったことなの? まだぼうっとしてるよ。ぼくはまぼろしを見たのかな? 妄想かもしれない。ヴィクトルが好きすぎてとんでもないことを考えるようになっちゃった。ねえ、ぼくおかしい? 大丈夫? あぶないやつに見える? ねえ、どう? 変?」  勇利が興奮して口早に話すのを、ヴィクトルは窓際のソファに座ってテーブルに頬杖をつき、くすくす笑いつつ聞いていた。 「そんなことあるわけないよね? やっぱり夢だったんだ。でも、手を握られた感触が残ってるんだよ……夢の中から感覚まで持ってきちゃうなんて、ぼく……相当……」 「勇利、それは本当にあったことだよ。心配しなくていい。ヴィクトル・ニキフォロフは勇利のために一曲プレゼントしたし、そのあとふたりでデュエットもしてたよ。俺が保証しよう」 「本当?」 「本当さ」 「本当に本当?」 「ああ、まちがいないね」 「…………」  勇利は両手でおもてを覆ってうつむいてしまい、ヴィクトルは笑いながら立ち上がった。彼は勇利の肩を抱きソファに座らせると、冷蔵庫を開けてちいさなケーキを取り出した。 「俺からも祝わせてくれるかい? それとも、俺からの贈り物には勇利は興味がないかな?」  勇利はぱっとおもてを上げると、一生懸命にヴィクトルをみつめ、「そんなことない!」と叫んだ。 「そんなことない……そんなことないよヴィクトル……」  ヴィクトルはにっこりした。 「それはよかった」 「何をくれるの?」  ヴィクトルは勇利の前にケーキを置き、彼の髪を撫でた。 「このケーキと……」  勇利は星のように輝くひとみで熱心にヴィクトルを見た。 「俺の時間だよ」 「時間?」 「このところ、お互い忙しくて、練習以外で話せていなかったからね。だから勇利とゆっくりしたい。勇利の話をなんでも聞くよ。話さなくてもいい。ただそばにいるだけでも。みつめあうのでも、そばで眠るのでも、どんなことでも。今夜ひと晩、俺の時間はおまえのものだ。いらないかな?」 「いる!」  勇利がもう一度叫んだ。 「本当にいいの?」 「いいよ……」  ヴィクトルは勇利の前に座り、ちいさなケーキに一本だけろうそくを立てて火をつけた。ほの暗くしてあった部屋で炎がゆらめき、ふたりだけの空気がやわらかに色づいた。 「さあ、消してごらん」  勇利が大きく息を吸い、ひと息にろうそくを吹き消した。 「おめでとう、勇利」 「……ありがとう」  勇利ははにかんだ。ヴィクトルはフォークを渡した。 「どうぞ」  勇利ははにかんでもじもじした。 「なんだかいけない感じがする……」 「いいよ……コーチがいいと言っているんだからね……。ふたりでいかがわしいことをしよう……」 「いかがわしいわけじゃない。変なこと言わないで」  勇利がヴィクトルをにらみつけ、美味しそうにケーキを食べた。ヴィクトルは頬杖をついて愛らしい彼を見守った。 「カロリーは低くされてるよ。特別につくってもらったやつだからね。砂糖もひかえめだ。普通のケーキとはちがう。そのぶんすこし味気ないかもしれないけど」  勇利は口をもぐもぐと動かした。くちびるの端に白いクリームがついているのが愛らしく、それを指かくちびるでぬぐってやりたいとヴィクトルは思った。 「そんなことない。美味しい。すごく甘いよ」  ごくんとのみこんだあと勇利が言った。 「そうか。普段食べないからそういう感じがするのかもしれないね」 「普通のケーキの味を忘れてる?」 「おそらく」 「ヴィクトルも忘れてる?」 「たぶんね」 「ヴィクトルは食べないの?」 「食べていいのかい?」  勇利はふしぎそうにヴィクトルを見た。ヴィクトルはほほえみながらみつめ返した。しかし勇利は察する気配がない。 「キスしようと言ってるんだよ。わかるだろ?」  勇利は目をみひらき、あぜんとし、それから怒ったように頬をふくらませた。 「そんなのわかるわけないじゃん!」 「そうか」 「そうだよ! わかるほうがおかしい!」  勇利はぷりぷりした。ヴィクトルはくすくす笑った。 「それで? キスは?」 「ふたつケーキを支度すればよかったでしょ!」 「勇利とキスしたくてひとつにしたのかもしれない……」 「ばか!」  勇利は大切そうにひとくちひとくちケーキを食べた。しかしその途中で、勇気を出したように言った。 「『あーん』ならしてあげないこともないよ」  ヴィクトルは笑ってしまった。「あーん」をしてもらう誘惑に打ち勝つのは、彼には大変な困難だった。 「いや、やめておこう。ひとくちぶんのケーキについて考えて、あとで勇利が泣いたら困るからね。きみはかわいい泣き虫だから」 「ケーキのことで泣いたりしないよ。ぼくをなんだと思ってるの?」  人が恥ずかしいのを我慢して言ってるのに、と勇利はふくれてケーキを食べ、口をもぐもぐさせた。何かの小動物のようでたまらなくかわゆい。  食べ終えると、勇利は静かにフォークを置いた。ヴィクトルは、いよいよ勇利が話し始めるものと思って心がまえをした。勇利のことだから、スケートのことにしろ、ヴィクトル・ニキフォロフの演技にしろ、何かしら言いたいことがあるのではないかと思ったのだ。勇利がみずから一生懸命おしゃべりすることといえば、このふたつ以外には何もなかった。  しかし勇利は、口をひらかず、ひとこともしゃべらず、ただヴィクトルをみつめていた。ヴィクトルはふしぎに思った。 「話さないのかい?」 「話さなくてもいいって言ったじゃない」 「もちろんかまわないとも。勇利の時間だからね。きみの好きにしてくれればいい。何かねだるのでも、黙っているのでも。けれど俺は勇利は話がしたいんじゃないかと予想してたんだよ」 「ヴィクトルの時間をめいっぱい使って何か話をするのはすごく贅沢だね」  勇利はかすかに笑った。彼はすぐに言った。 「でも、こうして何も語らず、ただヴィクトルをみつめて一緒にいるだけっていう時間の使い方が、何よりもわがままだから……」  ヴィクトルはほほえんだ。確かにそうだ。そして勇利にはその権利がある。本当は、誕生日だけではなく、いつだって彼はそうしていいのだ。勇利の特権だ。 「今夜、勇利はエキシビションで二度氷に乗ったね」  ヴィクトルは言った。勇利はたちまち不安そうな顔になった。 「うん……いけなかった?」 「いや。彼に誘われたならそうするしかないさ。勇利のことは誘いたくなる。リビングレジェンドと言われている男だってね」 「彼、コーチには説明しておくって言ったのに……」  勇利が口元に手を当てて考えこんだ。ヴィクトルは笑った。 「俺とも踊ってくれるかい?」  勇利はぱっとひとみを輝かせ、勢いよくうなずきそうになった。しかし彼は思い直したようにおとがいを引き、すずしい顔をしてつんとなった。 「もっとちゃんと誘って」 「これは失礼」  ヴィクトルは立ち上がると、勇利の手を取り、洗練されたしぐさで身をかがめ、気取って丁寧に尋ねた。 「踊っていただけますか?」  勇利はさっと立ち、上品に��ィクトルの手に手をすべりこませた。ヴィクトルは勇利のほっそりした腰を抱き寄せた。 「なに?」 「ワルツはどうかな」  勇利はうなずき、ふたりはゆったりとした拍子でステップを踏み始めた。しばらく黙ってそうしていたけれど、そのうち勇利はヴィクトルの肩口に甘えるように顔を寄せてもたれかかり、うっとりと目を閉じた。 「世界一贅沢でわがままな時間……」 「そうかい?」 「だってヴィクトルが、ぼくのことだけ考えて、ぼくのために時間を使ってる……」 「本当は普段からそうなんだけどね。知らなかったかな?」 「うそ。普段はほかのことを考えてる」 「どんなことだい?」  スケートのこと、と勇利が答えるのを予想していたのに、彼はちがうことを言った。 「ヤコフコーチのこととか」  ヴィクトルは笑いをこらえるのにかなりの努力をしなければならなかった。ここでヤコフの名を出してくるとは……。どうして勝生勇利とはこうもかわいらしいのだろう。 「彼は説教がすごいからね。そういう意味では仕方ないんだよ」 「ぼくもヴィクトルにお説教しようかな……」  なんて魅力的な提案なのだとヴィクトルは思った。 「勇利のお説教はこわそうだね」  ヴィクトルはほほえんだ。 「でも、されてみたいな」 「本当にされたいの? 一日じゅう言うよ、ぼくは」 「どんなことを?」 「ぼくのことよりカツ丼のこと考えてたでしょうって。そんなことでコーチが務まると思ってるの、未熟なんだよって」 「俺のカツ丼って勇利だからね……」 「また人をぶただとかなんとか言うつもりなんだ……」 「……いまの言葉の意味がわかる程度には大人だと思ってたんだけどな」  ヴィクトルは笑いをかみころした。いつか自分から「すっごく美味しいカツ丼になる」などと言っていたけれど、あのときのままのようである。勇利ならそうだろう。 「なに? ぼくのこと幼稚だって思ってる? ヴィクトルっていつもそう」 「いや……、ユニークでいいね……」  ヴィクトルがささやくと、勇利がおもてを上げてチョコレート色のみずみずしいひとみを瞬かせた。ヴィクトルは熱烈にその目を見つめた。勇利の頬がうすさくら色に染まった。 「……幼稚だと思っててくれていいですけど……そのまま……」 「そうかい?」 「そう……ええ……」 「困るな……そんなふうに思っていられるか自信がない……」 「え? あの……」  勇利が戸惑ったようにヴィクトルを見た。彼は目をそらすことが難しいほどかわいらしく可憐でうつくしい。ヴィクトルはみつめ続けた。勇利が赤い顔をしてぱちぱちと瞬いた。ヴィクトルはゆっくりとおもてを近づけてゆき、首を傾けて、くちびるを寄せ──。 「あっ」  勇利が驚いて声を上げた。彼がまだ口元につけていたケーキのクリームを舐め取ったヴィクトルは、それを味わってからひとつうなずいた。 「美味しいね。確かに甘い。甘すぎるくらいだ」 「…………」  勇利は信じられないという表情でぽかんとしてヴィクトルをみつめ、それから舐められたところを手で押さえて怒りだした。 「ちょっと! 何するんだよ!」 「クリームがついていた」 「教えてくれればいいじゃん! なんであんな……あんな……」 「でもさっき勇利はケーキをくれなかったからね」 「ひとくちあげるって言ったでしょ!?」  なんなの、もう、信じられない、と勇利は口元に握った手を当ててぶつぶつ言った。ヴィクトルはそんな勇利にいとおしそうなまなざしを夢中で向け、ほほえんでいた。 「困ったな」 「何が!?」 「どうしてもおまえがかわいい」  ヴィクトルは顔を寄せ、くちびるに、今度こそキスをした。勇利はさっきよりも驚いて目をみひらき、あぜんとなった。 「……ヴィクトル……」 「なんだい」 「いまのなに……?」 「それがわかるくらいには大人のはずだけど……」  ヴィクトルは可笑しそうに笑った。 「勇利はいくつになったんだっけ?」  勇利は拗ねてヴィクトルの胸に顔をうめ、子どものように甘えた。 「忘れました!」 「勝生選手、試合が終わりましたが、ファンからはもちろん、大好きなひとにもお祝いされましたし、いい誕生日が過ごせたんじゃないですか?」  そんなふうにマイクを向けられたとき、勇利ははにかんで頬を赤くした。 「ええ……、すてきな誕生日でした」
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sorairono-neko · 3 years
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大ファンです。ヴィクトルコーチは…、
 画面にフリースケーティングを演じている勇利の姿が映し出され、「フィギュアスケート男子シングル、日本のエース、勝生勇利」と説明が入った。勇利の演技はほんのしばらくで終了し、キスアンドクライに座っているところに切り替わった。得点が出、「歴代最高得点」という文字があらわれ、驚き、コーチに抱きしめられる勇利が映った。そして「彼のコーチは……」という言葉のあとに、ヴィクトルの演技映像になり、「ロシアの皇帝、リビングレジェンド、ヴィクトル・ニキフォロフ」と語り手が語った。 『誰もがあこがれるスケーターであり、伝説であるヴィクトル・ニキフォロフに、勝生勇利もまたあこがれていた。彼自身、昔から、ファンであると公言してはばからなかった。そんな彼のコーチにヴィクトル・ニキフォロフが就任したというのは大ニュースだったが、現在、勝生はロシアはサンクトペテルブルクに拠点を移し、ニキフォロフとともに生活し、スケートをしている』  短い解説のあと、画面いっぱいにおおげさな文字があらわれた。 『勝生勇利は、どれくらいヴィクトル・ニキフォロフのファンなのか?』  そこで画面は暗くなり、そのあと、テレビ局の控え室らしい、白い空間がぱっと映し出された。立っているのは諸岡だ。 「というわけで、我が日本のエース、勝生勇利選手の快挙は記憶に新しいですが、今日はその勝生選手について検証をしていきたいと思います。勝生勇利選手がヴィクトル・ニキフォロフ選手の大ファンであることはみなさんご存じだと思います。彼は幼いころから、『目標はニキフォロフ選手です』と言い続けてきました。私もインタビューをさせていただいたとき、たびたび耳にしました。しかし、彼はただ選手としてあこがれているというだけではなく、純粋にファンでもあります。勝生選手のことを物静かな人だと思っているかたも多くみえるかもしれませんが、ニキフォロフ選手のことになるとおおはしゃぎするといううわさもあります。ただ、現在は師弟関係であり、同居もしているということで、そこまで浮かれ騒ぐということはないかもしれません。そういう意味でも勝生選手の心境を知ることができたらと思います」  諸岡は小脇に抱えていたフリップをカメラに向けた。 「さて、どんなふうに調査するかですが、簡単にいえば、ヴィクトル選手のグッズを勝生選手にプレゼントするということです。まずひとつめはこれ」  彼はいちばん上の項目を指し示した。「ヴィクトル選手の写真集を贈る」と書いてあった。 「先日発売されました、こちらの」  諸岡はスタッフから豪華な写真集を受け取り、それを視聴者に見せた。 「写真集をプレゼントしたいと思います。ちなみに、私は直接聞きましたが、すでに保存用と観賞用を何冊かお持ちのようです。そのうえに贈るということです。そして次に」  指が二番目の項目に向いた。 「ヴィクトル選手のブルーレイディスクを贈る。これも発売されたばかりのものです。もちろん勝生選手はすでに購入済みだそうです」  諸岡は写真集から四角くてうすいディスクの箱に持ち替え、それをカメラに近づけた。 「こちらです。かっこいいですね。……三番目は、ヴィクトル選手のポスターをプレゼントしてみようと思います。これは数年前のものですが、ロシアの雑誌の付録でしたので、勝生選手は入手困難だったと思います」  諸岡はヴィクトルのポスターをひろげてにこにこした。 「そして、最後は本物のヴィクトル選手に登場していただきます。そのためにお越しいただきました。ではヴィクトル選手、どうぞ」  ヴィクトルが横合いからすっと画面に入ってきた。諸岡が頭を下げ、「ご足労いただきありがとうございます」と礼を述べた。 「今日はよろしくお願いいたします。すでに趣旨はヴィクトル選手にもご説明していますが、ご自身ではどんな結果が出るとお思いですか?」  諸岡の言葉を、わきから通訳が訳した。ヴィクトルはにっこり笑って身ぶりを加えながら返答した。 「それを俺が話すといきなり答えを言うことになっちゃうよ。みんなの楽しみを奪ってしまうから何も言わないことにしよう。ただ、勇利は、予測不可能な反応をすることもあるからね。俺の考えてる結果が確実だとは言えないかもしれない。そういう意味で俺も楽しみだよ」  ヴィクトルの言葉は日本語の字幕できちんと説明されていた。 「ちなみに、ヴィクトル選手は勝生選手と同居なさっているということですが、家で勝生選手がファン活動をするようなことは……」 「活動っていうのかな……俺に何かを頼んでくることはないよ。ただ、写真集とか動画とかは見てるようだね」 「おふたりでどんなふうに日常生活をいとなんでいらっしゃるのでしょうか」 「ごく普通だよ。みんなも、試合のときの勇利の様子をテレビなんかで見ることがあると思う。そのときは俺も一緒にいるが、あんな感じさ」 「かるい準備運動のときなど、くつろいだふうに会話していらっしゃいますね。なるほど」  諸岡はうなずき、「では早速ですが、検証に移りましょうか」と提案した。 「ヴィクトル選手にはここで待機していただいて、のちほどご登場ねがおうと思います。現在勝生選手は別の控え室にいらっしゃいます。スポーツ番組の収録ということでお越しいただいているのですが、収録前にすこしだけお邪魔させていただいて、そこで贈り物をしようという計画です。ちなみにその様子は、こちらの部屋にあるモニタでヴィクトル選手もごらんになることができます。では、ヴィクトル選手、またあとでよろしくお願いします」 「オーケィ。楽しみだね!」  ヴィクトルが笑顔で手を振り、諸岡は控え室を出た。テレビカメラが彼を追った。 「えー、カメラさんはひとりです。勝生選手にはなんとか説明して、撮影を許可してもらおうと思います。」  諸岡がひとつの扉の前で立ち止まった。扉に「勝生勇利様」と書かれた綺麗な紙が貼ってある。諸岡はそれを指さし、カメラに向かってうなずいてから、扉をかるく叩いた。すぐに「はい」と澄んだ声で返事があった。 「勝生選手、すみません」  諸岡がまず入り、「いますこしだけよろしいでしょうか?」と尋ねた�� 「いいですけど……」 「あの、収録前のちょっとしたくつろぎ時間ということで、撮影をさせていただきたいんですが、かまいませんか?」 「あ、はい。どうせすることもなくてぼうっとしてましたから……」  諸岡が振り返り、カメラに向かって上手くいったというようにこぶしを握って見せた。 「では失礼します」  控え室に入ると、スーツ姿の勇利が畳にちょこんと座っていた。和室だ。座卓の上にあるかごにはお菓子がたくさん並んでいるけれど、手がつけられた様子はない。 「ゆっくりされているところすみません」 「いえ。諸岡アナなら緊張することもないし」  勇利はほほえんだ。確かに緊張はしていないようだ。 「今日は眼鏡を外して出演なさるんですか?」  勇利はすでに眼鏡をかけていない。 「はい。テレビのときはそのほうがいいかなと……。慣れておこうと思って、もう外してます」 「なるほど。ところで……」  すぐに諸岡は本題に入った。 「今日はちょっと勝生選手にプレゼントさせていただきたいものがあるのですが」 「なんですか?」  勇利がすこし不安そうな顔をした。 「あ、いえ、勝生選手に喜んでいただけるものだと思います。いくつかあるので、順番にお渡ししますね」 「はい……」  諸岡は勇利の隣に座り、たずさえてきた大きな布製のかばんをわきへ置いた。そしてその中から写真集を取り出し、裏表紙を上にして膝にのせた。 「まずはこれなんですが……」  勇利が目をみひらいた。彼は一瞬のうちにひとみをきらきらと輝かせ、口元に両手を当てて信じられないというようにつぶやいた。 「ヴィクトルの写真集……」 「え? もうわかるんですか?」  裏表紙は黒一色で統一されており、ヴィクトルの写真は入っていない。しかし勇利は言葉もなくうなずいた。 「さすがですね……。わかるならもったいぶっても仕方ありませんね。勝生選手、どうぞ」 「あ、ありがとうございます……」  勇利がささやき声で礼を言い、両手で受け取った。彼の手はふるえていた。 「…………」  勇利は表紙を熱意のこもった視線でみつめ、それから写真集を胸に抱きしめた。感激で言葉もないようだ。画面に、「注:勝生選手はすでにこの写真集を数冊持っています」という目立つ文字が出た。 「勝生選手……大丈夫ですか?」 「は、はい……すみません……」  勇利は顔を上げると、ためらいがちにおずおずと尋ねた。 「あの……中を見てもいいですか……?」 「もちろんです。勝生選手に贈ったものですので、どうぞごらんください」  彼は相変わらずふるえる手で本をひらき、ゆっくりとページをめくっていった。一ページ一ページ、かなりの時間をかけてみつめたあと、勇利はふいに顔をそむけ、片手で口元をおおって肩をちいさく揺らした。 「か、勝生選手! 大丈夫ですか!?」 「だ、大丈夫です……ごめんなさい、感動しちゃって……」  画面にまた「勝生選手はすでにこの写真集を数冊持っています」という文字が出た。 「ちなみにこちらの写真集をこれまでごらんになったことは……」 「あります」 「そうですか」  しかし勇利の目つきは、あきらかに初めて見る者の感激でいっぱいだった。 「勝生選手……」 「あ、すみません……あの、あとで、家でゆっくり見ます。ちょっと感情がたかぶってしまって……泣いちゃうかもしれないし……」 「わかりました。では次の贈り物ですが……」 「もうこれだけでじゅうぶんです」 「そう言わずぜひ受け取ってください」  諸岡はブルーレイディスクを取り出し、勇利にすっと差し出した。緊張しきった様子の勇利は両手で丁寧にそれを受け取り、まぼろしではないかというような目で夢中でみつめた。 「先日発売されたヴィクトル選手のブルーレイです。もうお持ちかとは思いますが……」 「本当にいただいていいんですか?」  勇利は、まるでそれが消えてしまうのではないかというように大切そうに胸に押し当てながら、うるんだひとみで尋ねた。諸岡は大きくうなずいた。 「どうぞ」 「本当に?」 「はい」 「ぼくが……?」  勇利は何度も表のヴィクトルの写真を確かめ、目を閉じてほそく息をついた。 「よかったらいますこし見てみますか? ノートパソコンも用意してあるんですよ」 「え……でも……あの……」 「どうぞ」  諸岡はさっと支度をととのえ、勇利はおずおずと眼鏡をかけた。まるで、すばやく動いたら消えてしまうとでもいうふうな慎重なしぐさだった。 「では……」  諸岡が動画を再生し、勇利はしばらく画面をみつめていた。しかし、彼の澄んだひとみがみるみるうちに水気をふくみ、それはしずくとなっていまにもまなじりからこぼれ落ちそうになった。 「あ、あの……」  勇利は横を向き、口元に手を当ててちいさな声で言った。 「止めていただいていいですか……見られません……」  感激のあまりヴィクトルを直視できないらしい。諸岡はすぐに動画を停止させた。勇利はそのまま静止しており、ものも言えないという態度だった。画面に「注:勝生選手はこのBDを購入済みです」という文字がぱっとあらわれ、しばらく表示されていた。しかし勇利がいつまでたっても落ち着かないので、画面が暗くなり、「十分後」という文字に変わった。 「す、すみません……とりみだしてしまって」  勇利は息をつき、ようやく平静を取り戻して顔を上げた。 「いえいえ。そんなに喜んでいただけてこちらもうれしいです。これは家でじっくりと観賞なさってください」 「はい……ありがとうございます」 「では次ですが」 「あの、本当にもう……これ以上はしんでしまうので……」 「こちらです」  諸岡は容赦なく筒状になっているポスターを出した。勇利はどんなとんでもないものが贈られるのかというふうに、おそるおそる受け取った。 「開けてみてください」 「なんですか?」 「どうぞ」  勇利は不安そうな表情で諸岡を見ていたけれど、そのうちちいさくうなずき、ポスターを止めていたほそい紙を切って、おびえながらそれをひらいた。 「そんなおそろしいものではありませんから。勝生選手にきっと喜んでいただけると、我々は──」  勇利が突然横を向き、畳に勢いよくつっぷした。諸岡が「勝生選手どうしました!?」と声を上げた。勇利は返事をしなかった。彼の手には、ひらきかけのポスターがあり、そこから銀色のうつくしい髪がのぞいていた。 「あ、具合が悪くなったわけではないようですね。衝撃のあまり座っていられなくなったようです。ではまた勝生選手が正気を取り戻すまでしばらくお待ちください」  ふたたび、画面に「十分後」という文字が出た。 「すみません……ちょっと何が起こったのかわからなくて……」  十分後の勇利は、一応は話せるものの、頬はばら色に紅潮し、瞳はうるおい、ふるえていて、普段の彼とはまったくちがった様子だった。 「ヴィクトル選手のポスターです」 「は、はい……」 「数年前のものですが、お持ちですか?」 「え、ええ……ロシアへ行ってからどうにか手に入れました」 「あ、持っていらっしゃったんですね。じゃあ二枚目ですか?」 「…………」  しかしポスターをひろげてみつめる勇利は、あきらかに初めて手にした者の様子だった。彼にとっては、どんなものでも、ヴィクトル関連の品物なら新鮮で貴重になるらしい。 「……ありがとうございます。部屋に飾ります」 「ロシアのご自身の部屋に……?」 「はい……」  画面の下のほうに、「注:勝生選手はヴィクトル選手と同居しており、常に一緒にいます」と文字が出た。 「……ありがとうございます。こんなによくしていただいて……」 「いえ、来季も応援しているという番組からの贈り物です。すでにお持ちのものばかり贈ってしまって申し訳なかったです」 「とてもうれしいです」  勇利はこころからそう思っているというようににこにこした。 「喜んでいただけてこちらもうれしいです」  諸岡は答えてから、「では……」と切り出した。 「最後ですが……」 「あの、もう本当に……これ以上は……」 「これで終わりですので。これがいちばんの目玉なので、ぜひ……」 「は、はい……。これまででじゅうぶん心臓止まってるのに、これ以上何があるんでしょうか……」  勇利は胸に手を当て、ゆっくりと深呼吸をくり返した。 「もう無理だと思いますけど……こんなにすばらしい体験はほかにできないと──」 「それでは、よろしくおねがいします!」  諸岡が扉のほうへ向かって声高に言い、それと同時にその扉がひらいた。 「ハイ! ヴィクトル・ニキフォロフです!」  ナショナルジャージ姿のヴィクトルが颯爽と入ってきて勇利にほほえみかけた。 「やあ! きみは勝生勇利だね! いつも試合できみの演技を見てるよ。すばらしいね。すてきだね。きみほどうつくしく踊れるスケーター、俺はほかに知らないよ。情緒的なのはもちろん、色っぽいのも、壮大なのも、旋律に乗りきるのも、全部ね。きみは俺のスケート、見てくれてるかな?」 「…………」  勇利は静まり返っていた。彼は目をみひらき、ものも言えない様子でふるえていたかと思うと、さっきよりも勢いよく倒れこみ、本当に気絶したかのように動かなくなってしまった。 「あっ、勝生選手!」 「勇利」  しばらく間があき、画面に「三十分後」という文字が出た。 「えー、みなさん、お騒がせしました。ご心配はいりません。勝生選手は感激のあまり気を失っただけで、体調不良ではありません」  勇利はまだもとの調子に戻らないらしく、にこにこしているヴィクトルの隣で、顔をまっかにして泣きだしそうになりながらふるえていた。画面にはまた「注:勝生選手はヴィクトル選手と同居しています」という説明があった。 「勝生選手、これが最後の贈り物です。ヴィクトル選手が勝生選手のために来てくださいました」 「あ、ありがとうございます……すみません……ぼくのせいで……」 「そんなことはいいよ。俺は勇利を喜ばせたいんだ。ほかにして欲しいことがあったらなんでも言ってくれ」 「これ以上欲しいものなんてありません……」 「そうかい? 欲がないね。もっとも、きみはもともとそういう子だけどね。でも、そんなふうに物静かなのに、それでいて、こころに熱いものを秘めている。精神は繊細でもろいようでいて、芯が強く、凛としている。俺は知ってるよ」 「……そんなに強くありませんけれど……でも、どうして……どうしてぼくのことを……?」  画面に「ヴィクトル選手は勝生選手のコーチです」と注意書きがあった。 「わかるさ……」 「ヴィクトル……」  勇利はうるむひとみでヴィクトルをみつめ、ヴィクトルもまた熱っぽいまなざしで見返した。しかしふいに勇利は顔をそむけると、「ああ、だめ……」と吐息まじりにつぶやいてかぶりを振った。 「ぼく、これ以上ヴィクトルといると変になっちゃう……」 「大丈夫だよ。勇利が変なのはよく知ってるから……」  ヴィクトルは笑顔で答えたあと、勇利に向かって手を差し出した。 「とくに望みはないみたいだけど、とりあえず握手でもしておくかい?」 「ええっ、握手!?」  勇利は大きな声を上げて動揺し、そんなことがあっていいのかというようにうろたえた。画面にまた「注:勝生選手はヴィクトル選手と同居しており、いつも一緒にいます」と文字が出た。 「ま、まさか……握手……ぼく……」 「いやかい?」 「いやだなんてそんな!」  勇利は強く言ったあと、不安そうに小声で付け加えた。 「でも、ぼく、ものすごく汗をかいてるし……てのひらも……恥ずかしい……」 「そんなの気にしないよ」 「ヴィクトルに手を握ってもらうなんておそれ多いし……」  もう注意書きでは足りなくなったのか、画面のすみっこにちいさく映像があらわれた。それは試合のとき、ヴィクトルが勇利の腰を抱いて優しく話しかけている場面だった。勇利はヴィクトルの言うことを聞いているのかいないのか、何度かうなずいてまっすぐ前を向いていた。 「俺は勇利と握手したいな。きみのやわらかい手を握りたいよ」 「ぼ、ぼくの手を……?」  勇利はまっかになり、右手をもう一方の手で押さえてもじもじした。 「そ、そんな……どうして……?」 「どうしてって、きまってるだろう? きみが気に入ってるからさ」  勇利は黙りこみ、しばらく何かの機能が停止したかのように静止し、それから両手でおもてを覆った。 「いいかい? 勇利……きみがいやならもちろん……」 「い、いやじゃないです……」  勇利はかぼそい声で答えた。 「いやじゃないです……ぜんぜん……たいした手じゃないですが、よろしければ……」 「では、お手をどうぞ」  勇利がおずおずと手を出し出すと、ヴィクトルがそれを取り、かるく握った。ごく普通の、誰でもするような握手だった。しかし勇利は目をうるませ、左手でしきりに目元をこすった。握手に感激しているようだけれど、画面の右下には、「グランプリファイナルでのふたり」という説明とともに、ヴィクトルと「離れずにそばにいて」をデュエットする映像が出ていた。そのときの勇利は、ヴィクトルに腰を抱かれ、あるいは抱き上げられ、寄り添って、さらに顔を近づけ、熱いまなざしでみつめあっていた。 「ありがとうございます……」  勇利が胸いっぱいというようにちいさく礼��述べた。 「こちらこそありがとう。勇利とはもっと話したいな。きみさえよかったら、このあと、食事に行かないか」 「えぇっ!? ぼくと!? 食事……!?」  勇利が声を上げて驚き、画面右下の枠は、「勇利とふたりでつくったよ!」とヴィクトルが陽気に投稿したSNSの料理写真になった。 「そうだよ。いやかい?」 「ヴィクトルこそ……あの、本当にぼくでいいんですか……?」 「もちろんさ」 「……でも……やっぱりおそれ多いっていうか……」  勇利がためらった。ヴィクトルは優しい目を勇利に向け、丁寧に尋ねた。 「勇利は俺のことが嫌い?」 「そんな!」  勇利はぱっと顔を上げ、恥じらって視線をそらした。 「だけど……好きだなんて言うのも分不相応っていうか……」  右下の写真が切り替わり、昨季の全日本選手権でよい成績をおさめた勇利が、遠く離れたヴィクトルに向け、「金メダル獲ったよー。I love you, Victor」と珍しくにこにこしながらはしゃいで手を振っている映像になった。 「分不相応? 俺の隣に立つのはきみしかいないというのに」 「ヴィ、ヴィクトル……」 「そのことについてゆっくりと話しあおう。さあ勇利……」  ヴィクトルが勇利の手を引いた。勇利は「え? あの……本気で……?」とうろたえた。 「あ、勝生選手、もうけっこうですよ。撮影は終わりましたので」  諸岡が快く送り出そうとすると、勇利はますますとりみだしたらしく、「終わった? なんで? 何が? え? ぼくヴィクトルとほんとにごはんに行くの?」ときょろきょろした。 「勇利、おいで」 「あ、待って……」  勇利は手に入れたばかりの宝物を慌ててまとめ、それをリュックサックに慎重につめて靴を履いた。部屋を出ていくヴィクトルが、「何をもらったんだい?」と甘い声で尋ね、彼は「えっと、ヴィクトルのポスターと、写真集と、ブルーレイと……」と一生懸命に答えた。 「それはよかったね……」 「はい、よかったです……」  勇利たちが去っていき、残った諸岡はカメラに向かって元気に説明した。 「以上で終わりたいと思います。勝生選手はどのくらいヴィクトル選手のファンなのか、という検証でしたが、これでおわかりいただけたと思います」  彼は大きくうなずき、しめくくるようにひとこと宣言した。 「これくらいファンでした!」  勇利はさっさとテレビを消し、あきれた声を上げた。 「なんなのこれ!」 「何って、この前帰国したとき撮影した番組だよ」  ヴィクトルはソファに深く座って悠々と答えた。 「ぼくがばかみたいじゃん!」  勇利は耐えかねて叫んだ。ヴィクトルは何も気にしていない様子だ。 「みんなほほえましいと思って見守ってたさ」 「こんなのに協力するなんてヴィクトルもヴィクトルだ。ぼくが喜ぶのをわかってて……」 「行かないほうがよかった?」  勇利は言葉につまり、赤くなってそっぽを向いた。 「そ、そうは言ってませんけど……」  ヴィクトルは笑いだし、勇利の肩を抱いて顔を寄せた。 「もっといろいろしたほうがよかったかな?」 「いろいろって?」 「いろいろ……親しく……」  ヴィクトルが熱っぽくささやくので、勇利は目を閉じてきっぱり言った。 「あれくらいでいいです!」 「そうかな」 「むしろやりすぎじゃない?」  勇利はじろっとヴィクトルをにらんだ。ヴィクトルは微笑した。 「普通のファンサービスだ」 「ぼくにはやりすぎだった。もう……、それに、あれ、なに? 下にいちいち変な画像とか映像とか……」 「いいよね、あれ」 「なんかぼくがおかしい人みたい。ふたりは同居してますとか師弟ですとか……そんな説明必要ある?」 「必要ないのに確認を入れないといけないような態度をきみがとるからだと思うよ」 「普通」 「そうだろうか」 「普通だよ。だってヴィクトル・ニキフォロフが目の前にいるんだよ。ああなるのは当たり前じゃん」 「まあ……そうかな」  ヴィクトルがくすくす笑った。 「勇利のファンはあれを予想済みだろうし、ファンじゃなかった人はあれでファンになっただろうから問題ないね」 「なに言ってるの?」  ぼくの言った意味をわかってるんだろうかと勇利は疑いの目を向けた。 「そんな目で見ないでくれ、俺の勇利。……ああ」 「なに?」 「この撮影のときも言ったほうがよかったかな。俺の勇利って」 「だめにきまってるでしょ」 「いまはいいのかい?」 「いまは……」  勇利はぽっと赤くなり、頬に手を当ててぽそぽそと言った。 「……いいです」  ヴィクトルは笑いだし、勇利のまなじりにくちびるを押し当てた。 「そういうのはけっこうです」 「こういうのもいいだろう」 「だめ」 「なぜ? 緊張するから?」 「恥ずかしいから……」 「ファンだから?」 「…………」  勇利はちらと横目でヴィクトルを見、それから甘えるようにささやいた。 「もう……、わかってるくせに……」 「…………」  ヴィクトルは片手で目元を隠し、勢いよくソファにつっぷした。 「あ、ヴィクトル、どうしたの?」 「衝撃を受けてるんだよ……」 「どうして?」  ヴィクトルはそのままじっとしていたけれど、そのうちおもむろに起き上がり、勇利を引き寄せて笑った。 「俺は勇利のファンだけど、勇利のように純粋なファンにはなれそうにないよ」 「なんで?」 「握手で満足するどころか……いろいろしたくなるからさ……」  リンクへ行く途中、ヴィクトルのファンに呼び止められた。ロシアの英雄という立場にある彼だから、こういうことはいくらでもある。勇利はすこしへだたりを取り、にこにこしながらヴィクトルがサインをする光景を眺めていた。ヴィクトルはファンにとても優しいことで有名なのだ。礼を言ってうれしそうに去っていく女性たちを見て、勇利は、わかるなあ、と思った。ヴィクトルにサインをもらえるなんて最高……。  ぼくはあんまり緊張するから、一度もサインをねだれたことなんてないけど。 「ごめんね、待たせて」  ヴィクトルが急いで勇利のところへやってきた。 「ううん」 「怒ってないかい?」 「ぜんぜん」  勇利は感心したように言った。 「彼女たちはすごいね。ぼくはヴィクトルに声をかける勇気なんてないよ……」 「…………」 「かけたことなかったでしょ?」  勇利が横目で見ると、ヴィクトルは笑ってうなずいた。 「遠くから熱いまなざしでみつめるばかりだったってクリスから聞いてる」 「もう、クリスは余計なことばっかり言う……」  クラブにたどり着き、リンクに立った勇利は、フェンス越しにヴィクトルに顔を近づけて熱心に、吐息まじりに、真剣にささやいた。 「ヴィクトル選手はみんなのヴィクトル選手だけど、ヴィクトルコーチはぼくだけのコーチだよ……」  ヴィクトルがひとみをみひらいた。勇利は身をひるがえしてリンクの中央へ行ったが、そこで振り返ったとき、ヴィクトルが撃ち抜かれたというように胸を押さえてその場にふらふらとくずおれたのに目をまるくした。
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sorairono-neko · 3 years
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Yuri and Victor are in different competitions. Victor is told through the screen by Yuri, “I miss you.”
Victor usually relaxes before his performances, but today he was eagerly checking his cell phone to find out the status of the Japanese competition. Because Yuri is competing in the competition in Japan.
As a result, Yuri had won the competition and was being interviewed with flushed cheeks. Victor couldn't understand what he was saying because it was in Japanese, but he listened to his soft voice with his heart thumping. He was hoping that Yuri would say something to his coach at the end — that he would show him his medal and say that he had won.
Yuri answered thoughtfully, as he always did at the competitions, and ended the conversation without mentioning his coach. Victor was disappointed, but Yuri smiled a little embarrassed when the reporter nudged him to do something. Victor thought he heard the words “Coach Victor”. So Yuri was probably encouraged to say something to Victor.
Yuri was silent and thoughtful for a while. He was carrying a box of tissues, a thermos, and two stuffed dolls that were probably given to him by his fans. One of them was Victor, and the other was Yuri.
He suddenly put his stuffed doll in the shape of Yuri in front of the TV camera. Victor could only see his stuffed doll.  Victor waited for him to declare, “Victor, I won the gold medal!” Yuri said.
“Victor, um…, I can't wait to see you…. I miss you….”
Victor opened his eyes wide. He couldn't breathe, he stumbled and leaned against the wall. He felt dizzy and could not stand up straight. He also began to feel as if his vision was not clear.
Half of what Yuri said was in Japanese. But Victor could understand. He can understand simple Japanese. Yuri said that he missed Victor and that he was lonely without Victor. Yuuri. Yuuri….
“Hey, what are you doing?”
Victor heard Yakov's voice, which sounded a little surprised. Yakov approached Victor and grabbed his shoulder, “Are you not feeling well?” He worried.
“Yakov…, help me….”
“What's going on?  Are you sick?”
“Help…” Victor groaned. “Yuuri is just too cute….”
“…What?”
“Yuuri said….” Victor said, his cheeks flushed and entranced as he felt his chest tingle. “Yuuri said he missed me…. He said he was lonely without me…and that he wanted to come back to me as soon as possible….”
“……”
“I don't know what to do…I'm gonna cry….”
Yakov was silent for a while, but he was evidently disgusted. He was furious because Victor had been so euphoric for so long.
“Get ready right now!”
The next day, Victor is motivated and full of energy for free skating. I'm going to win! My sugar Yuuri is waiting for my gold medal!
Victor wants to kiss each other's gold medals when Yuri comes back. He's preoccupied with that.
“Get ready right now!” Yakov gave the same stern warning as yesterday and pushed Victor's shoulder.
“Yakov, what an unemotional coach you are.”
“Coaches don't need emotions.”
“I've always had it. My eternal love for Yuuri….”
“Stop talking nonsense and go!”
Victor walked down the hallway, dissatisfied that Yakov couldn't understand his love for Yuri. Just then, something peeked out from the corner ahead of him. Victor was taken aback. It was the stuffed doll in the shape of Yuri that Yuri hold yesterday.
“Victor….”
The stuffed doll swayed from side to side as it spoke. It's Yuri's voice.
“I've come here to shrug off a lot of things….”
Victor has been still in a daze. The stuffed doll moved and he could see Yuri's embarrassed face beside it.
“Hello.” The stuffed doll that Yuri was holding said. Victor was so shocked that he fell against the wall even harder than yesterday. I absolutely love him…. How cute he is….
When Victor finished his performance and returned to Yuri, he looked at Victor with moist, shining eyes and waved his stuffed doll by his face. His stuffed doll said.
“You're so cool….”
“……”
“Victor, say something….”
“You're so cute I want to kiss you. Did you think I was cool you want to kiss?”
Yuri was pop-eyed with surprise, then laughed delightedly and pressed his stuffed doll against Victor's cheek.
“Smack!”
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sorairono-neko · 3 years
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I really really really really love you.
 試合が終わり、クリストフと話しながらナショナルジャージ姿で廊下を歩いているとき、横合いの通路から勇利が現れ、ヴィクトルは足を止めた。勇利もナショナルジャージを着て、いまは前髪を上げており、眼鏡をかけていた。 「やあ勇利、このあと──」  ヴィクトルが言いさした瞬間、勇利は両手を握りあわせ、赤い頬をして、伸び上がるようにしながら口をひらいた。 「あ、あの!」  その決死の覚悟をきめたという表情、いまにも気絶しそうな一生懸命の様子、泣き出しそうな目つきを見て、ヴィクトルは黙った。隣でクリストフもあぜんとし、なにごとが起こったのかというように勇利を注視した。 「あの、あの、あのあのあの……し、試合……」  勇利がどもりながら何か言おうとした。しかし緊張しているのか、言葉が出ないようで、「あの……」とまたくり返した。 「し、試合……見ました……」  クリストフが当たり前じゃないかという顔をした。もちろん見ただろう。同じ試合に出ていたのだ。見ていないわけがない。 「そ、その……すごく……えっと……ぼくは……つまり……」  勇利はそわそわと視線をそらし、口ごもり、それから思いきったようにまたヴィクトルをみつめた。 「……すてきでした」  クリストフが横を向いた。笑いをこらえているか、咳きこむのを我慢しているか、どちらかをしているのだろう。しかしヴィクトルは笑いも咳きこみもせず、ほほえんで礼を述べた。 「ありがとう」 「あの、いきなりこんなことを言ったらびっくりすると思うんですけど、でも言わずにはいられなくて……ごめんなさい……そう……だから……ぼくは……」  勇利は感情が高ぶったのかそこで言葉を切り、ゆっくりと深呼吸をした。彼はかわいそうなくらい頬を赤くしており、ふるえてさえいて、ヴィクトルは抱きしめてキスしてやりたくなった。 「だ、大好きです……」  勇利がささやいた。彼のひたむきなまなざしやばら色の頬、可憐なくちびる、慎ましやかな物腰や愛くるしい手つき──それらがすべてかわゆいとヴィクトルは思った。 「大好きです」  勇利がもう一度言った。ヴィクトルは黙って聞いていた。 「大好きです! 大好きです、ヴィクトル!」  勇利はいちずに告白を続け、ヴィクトルに顔を近づけてさらに打ち明けた。 「好き! 好き! 好き! 本当に大好き! ──大好き!!」  それだけ言うと、勇利はくるりと背を向け、ものすごい勢いで、一目散に駆けていった。ヴィクトルは彼のすらっとした後ろ姿を見送った。隣でぽかんとしていたクリストフが、そこでようやく我に返って笑いだした。 「なんだい? あれ……」  廊下を歩いていたほかの選手たちや関係者も、いったい何が起こったのかというようにきょとんとしていた。 「俺は時間が逆戻りしたんじゃないかと思ったよ。まるで君がコーチになる前の勇利みたいじゃないか? いや、あのころ、勇利は君にあんな愛の告白をすることはなかったけど……」 「気にすることはないよ」  ヴィクトルはにこにこしながら静かに答えた。 「いつものことだ。時間が戻ったわけじゃないし、俺たちがまぼろしを見ていたわけでもない。勇利がおかしいのでもない。ごく普通の勇利だっていうだけさ」 「ごく普通? あれで?」  クリストフがおおげさに肩を上下させ、勇利の走り去った方向に目を向けた。 「君たち、ロシアであんな日常を過ごしてるわけ?」 「毎日じゃないよ。でもたまにあるんだ。時にああいう気分になるらしい」 「ああいう気分? 好き好き言いまくる気分かい?」  クリストフはからかったのだろうけれど、ヴィクトルは平気でうなずいた。 「そのとおり」 「え? 本当なの?」  クリストフは驚いてヴィクトルを見た。 「勇利は君に好き好き言うのが日課なの? いや、毎日じゃないらしいけど」 「ひんぱんというわけじゃない。でも、ふいに、とにかく言いたくなるらしいよ」 「ヴィクトルが好きだって?」 「俺が好きだって」  ヴィクトルは歩きだしながら、重々しくうなずいた。 「なんだいそれ? まあ、確かに勇利は君が好きだろうから、そういう意味では何もふしぎはないけど、それにしてもあの態度は……」 「発作が起こるらしいんだよ」 「発作ね……君に好きだと言いたくなる発作?」 「そうさ。打ち明けたくてたまらなくなるようだね。言いたくて言いたくて我慢できないんだって。不定期にそうなるらしい。勇利の感情の問題だ」 「今回で言うと……君の演技を見て精神がみだれたっていうこと?」 「さあ……それも理由のひとつではあるだろうけど、勇利の気持ちはよくわからないよ。いままでの発作は、とくにそういう特別なことがないときでも起こってたしね」 「つまり日常生活の中で?」 「ああ。普段どおりの暮らしをしてて、何か黙りこんで思いつめてるなと思ったら、あんなふうに好きって言いだしたことが幾度もある」 「へえ……」  クリストフは感心したような、あきれたような、なんともいえない表情をした。 「勇利は変わってるね……まあ勇利らしいという気もするけど。でも、前ぶれもなく、何度も何度もあんなに熱烈に好き好き言われたら、ちょっと慌てちゃったりするんじゃない? 今回だってこんな公の場だし」 「いや……?」  ヴィクトルはふしぎそうにクリストフを見た。 「うれしいだけだが?」 「……君に訊いた俺がばかだったよ。君たちはまったくお似合いだ。ぴたっと合ってる」 「どうもありがとう。俺もそうだと常日頃から確信してたんだ」 「なんでこんな話を聞かされなきゃいけないんだろう」  クリストフがぼやき、ヴィクトルは気にせず廊下を歩いていった。  こういう症状を起こした勇利がいつ冷静に立ち返るのか、それはヴィクトル自身にもよくわからない。数日こんな状態のときもあるし、ヴィクトルにぴったりと寄り添って好きだと言い続けたら数時間で落ち着くこともある。今回はどうだろう?  ホテルの部屋は同じだ。勇利はその夜、机に向かって何か書き物をしていて、たいへん静かだった。こういうときむやみに話しかけてはいけないとヴィクトルは承知しているので、彼のおとなしやかな背中を愛情をこめて見守った。ひとことも口を利かなかったけれど、ヴィクトルは幸福だったし、勇利をかわいいと思っていた。  翌朝、ヴィクトルが目ざめると勇利はいなかった。朝食を食べに行ったのだろう。ヴィクトルも部屋を出たが、ちょうど廊下でクリストフと会ったのでふたりで行くことにした。 「昨日はどうだった?」 「どうだったって?」 「勇利、正気に返った?」 「彼はずっと正気だよ」 「いや、まあ……ヴィクトルヴィクトルって騒ぐのは確かに勇利にとっては普通のことなのかもしれないけど……そういうことじゃないっていうかね……」 「話はしなかったけど、たいへん健康そうな様子だった」 「そういう話でもないんだよ。君もすこしずれてるな。知ってたけどね」 「ああ、勇利だ」  廊下を曲がったとき、いくらかさきに勇利がいるのが目に入った。彼はピチットと歩いていた。ふたりでレストランへ行くところなのだろう。 「一緒に食べようって誘ったら?」 「やめたほうがいい」 「また好き好き言われたらうれしいんじゃないの?」 「勇利はものも言えなくなるよ。かわいそうだ」 「確かに赤くなってはいたけど、元気に告白してたじゃない」 「勇利から来るときはいいんだ」  ものごとの道理をすべてのみこんでいるかのような落ち着きぶりでヴィクトルは説明した。クリストフはやれやれとかぶりを振った。 「見た!? ピチットくん、見た!?」  勇利が両手をこぶしのかたちにして握りしめ、胸のあたりに押し当てながらはしゃいで言った。 「ヴィクトル見た!? かっこよかった!」 「やっぱり試合が引き金だったんじゃない?」  クリストフがヴィクトルにちいさく言ったとき、勇利がたまらないというように叫んだ。 「あの立ち姿! ヴィクトルはそこに立ってるだけでもかっこいいんだよ!」 「…………」  クリストフが黙りこんだ。ピチットは勇利の話をにこにこしながら聞いているけれど、「うん、そうだね」ともう何度もこの会話をくり返したといういかにも熟練した態度で簡単に答えた。 「すらーっとしてるんだよ! すらーっと! 脚が長いの! 日本からロシアまでの距離より長い!」  ヴィクトルの隣でクリストフが妙な音をたてた。喉がどうにかなったのだろう。 「へえ、そんなに長いんだ」 「うん! 地球から太陽までの距離より長いんだ!」 「そんなわけないでしょ」  クリストフがつぶやいたけれどヴィクトルは黙っていた。 「それにね、腰に手を当ててリンクを見てるときなんか、もう、ポスターの撮影みたいにきまってて……あのとき、彼の頭の中にはきっと何か崇高な考えがあったにちがいないよ」 「どうせ、ふたりでエキシビションやりたいとかそういうこと考えてたんでしょ?」  クリストフに問われ、ヴィクトルは「まあそうだが」と答えた。 「じゅうぶんに崇高なことだろ?」  クリストフは肩をすくめた。 「声もすてきなんだよ。深みがあって、あたたかくて、優しくて、つやっぽくて……彼がコーチと話してるのを聞いたよ。陽気にしゃべってた。コーチには怒られてるみたいだったけど、彼は楽しそうだった」  勇利が上機嫌で語るのに、ヴィクトルは、「もっと甘い声を勇利は直接聞いてるはずなんだが」と考え深そうにつぶやいた。クリストフは返事をしなかった。 「途中から、ぼくは目を閉じて聞いてたんだ。たまらなく魔術的だったよ。ぼくはめろめろになっちゃったんだ……」 「コーチに怒られてるときの会話で?」  ピチットがからかった。しかし勇利は気づかないようだ。 「ヴィクトルはいつでもすばらしい声なんだ……。それから、あの微笑! ピチットくん、ヴィクトルにほほえみかけられたことある?」 「ないよ」 「ぼくもない」  勇利はきっぱりと言った。クリストフが横目でヴィクトルを見た。 「いつも君が勇利だけに意味をこめて笑いかけてるのを気づ���てないの?」 「勇利はそういうところがあるんだよ」  勇利はヴィクトルの甘い声を聞いたことがないらしいから、ほほえみにしても同じなのだろう。 「でも、ぼくのほうを向いてほほえんだことはあるよ。もちろんぼくへじゃない。けど、ぼくに笑ってくれたんじゃないかって勘違いしそうになっちゃった」 「勘違いだそうだよ」  クリストフが勇利のほうを手で示した。 「勇利はそういうところがあるんだよ」 「ぼくへじゃなくてもいいよ……本当にかっこうよかったんだ……気品高くて、水際立って、すぐれて優しい……。きっとヴィクトルは愛してるひとにはああいう笑い方をするんだと思う」  勇利は両手を握りあわせ、うっとりしているようである。ピチットはそろそろ飽きてきたのか、「それはよかったね」と話を切り上げようとした。 「それに、あの目!」  勇利はかまわず力をこめて続けた。クリストフが笑いをこらえながら、気の毒そうな視線をピチットに向けた。彼はつぶやいた。 「俺もああいう役目をさせられたことはあるけど」 「ピチットくん、ヴィクトルのひとみはすごいんだよ。もうものすごい威力なんだ。ぼくはちらっと見られただけで腰から砕けて座りこみそうになるんだよ。実際座りこんだこともあるんだよ。あの澄んだ青い目……熱っぽくてこころのこもったまなざし……彼は落ち着いたひとだと思ってたんだけど、あれほど情熱的だなんて、ぼくもうどうしたらいいかわからないよ……」 「勇利に対してだけ情熱的なんじゃないの?」 「ああ、ヴィクトルって本当にすてきだよ……スケートがたまらないのは当たり前だけど、そこにいるだけでぼくをめろめろにするんだよ……あんなに高貴で誇り高いひと……ぼく……ああ……もう……」  そこまで話したところでふたりはエレベータに乗りこみ、扉が閉まった。ヴィクトルたちはゆっくり歩いていたので、同じエレベータには乗らなかった。 「……大丈夫なの? あれ」  クリストフがちらとヴィクトルを見た。ヴィクトルは肩をすくめた。 「いつものことさ」 「いつも発作のときはあんな感じなんだ……」 「かわゆいだろ?」 「いろんな意味で心配になるよ」  ピチットにたっぷりとヴィクトルのことを語ったのか、そのあと見かけたとき、勇利は機嫌がかなりよいようだった。しかし彼はあまり部屋にはおらず、ヴィクトルはなかなか会うことができなかった。次に顔を見られたのは記者会見のときだ。だが親しく言葉を交わすこともなく、それぞれ仕事にまじめに取り組んだ。それが済んで廊下へ出たとき、クリストフがヴィクトルに小声で言った。 「勇利の発作、まだおさまってないの?」 「そばに来ないんだからそうなんだろう」 「会見では普通に見えたけどね」 「俺と会話するわけじゃないからさ」 「いつになったらもとに戻るわけ?」 「さあ……」  それは勇利自身にもわかっていないことだろう。彼の感情の流れによるのだ。もっとも勇利は、自分の感情が高ぶっていることなど、落ち着かないうちは自覚していないだろうけれど……。 「あ、あの……」  ふたりが歩きだしたとき、後ろから声をかけられた。振り返ると、勇利が頬をまっかにして立っていた。 「やあ。なんだい?」  ヴィクトルは優しく尋ねた。それだけで勇利は感激したようにひとみをうるませたので、クリストフは見ていられないというように笑いをこらえてそっぽを向いた。 「突然こんなこと、失礼だと思うんですけれど……」 「何かな。どんなことでも言ってくれ。失礼なんていうことはすこしもないよ。俺はきみの話が聞きたいんだ」  勇利はしずしずとヴィクトルの前に進み出た。緊張しきっていながら、上品でしとやかな物腰だった。あんまりかたくなっているようなので、ヴィクトルは抱きしめてキスしてやりたくなった。──ヴィクトルは何かあると勇利を抱きしめてキスしたくなるのだ。 「あの……すみません……お時間をとらせて申し訳ないのですが……」 「かまわないよ。俺の時間はすべてきみのものだ」 「こ、これを……」  勇利はふるえる手で一通の白い封筒を差し出した。部屋で書いていた手紙だろう。子どものように、両手で持っていた。 「よかったら読んでください……本当に……ふいのことで戸惑うでしょうし、お困りでしょうけれど……すみません……」 「ちっとも困らない。うれしいよ。どうもありがとう」  ヴィクトルは手紙を受け取った。そのとき、指先がかすかにふれあったので、勇利は驚き、さっと手を引いた。彼は恥じらいにみちた泣きだしそうな目つきでヴィクトルをみつめ、ぺこりとお辞儀をした。 「失礼します!」  勇利がぱたぱたと駆けてゆき、ヴィクトルは彼の可憐な後ろ姿を見送りながら、大切そうにポケットに手紙をしまった。 「なに? 恋文?」  クリストフがひやかした。 「ああ」 「……もらい慣れてる感じだね。もしかしてこれまでの発作でも……」 「もらった」  ヴィクトルは誇らしげにほほえんだ。 「勇利の手紙がどんなものか教えてあげようか? それはうつくしい言葉で書いてあるんだよ。情緒にみちた、花雫のしたたるような清楚な手紙だ。なんとも慎ましやかでね。読んでいるときいい匂いがするよ。思慮深く、やわらかく、つづり方さえ甘美で、文字はみずみずしい。うっとりするような、たえなる手紙なんだよ。英語で書いてあるんだが、彼の国の言葉でならどんな表現をするんだろうと思う。俺は日本語をかなり勉強しているから、いつか勇利は日本語で書いてくれるかもしれないね」  ヴィクトルは部屋へ戻って、たかぶる気持ちをおさえながら手紙の封を切った。いつもは厚ぼったいのに、今日はうすかった。ヴィクトルはふしぎに思った。便せんをひろげたとき、彼は幸福にみちたたまらないという笑みを浮かべた。何枚もの便せんに書き連ねられた勇利の気持ちを読むのがヴィクトルは大好きなのだけれど、今日の手紙も、それにおとらずすばらしかった。  出会ったときから、永遠に最愛のヴィクトルへ  突然のお手紙をおゆるしください。  ひとことだけ申し上げます。  貴方のことを愛しています。  永久に貴方に夢中の勝生勇利  長いあいだ机に向かっていたようだけれど、書いたのはこれなのだ。ヴィクトルはいとおしさのあまり、おかしくなってしまうかと思うほどだった。こんな発作を起こす勇利はなんとかわゆいことだろう。 「手紙、読んだ?」  クロージングバンケットのとき、何を聞かされるかと思うと尋ねるのもためらいがあるけれど、結局訊かずにはいられないというようにクリストフが尋ねた。 「読んだよ」  ヴィクトルは喜びの感情をおさえながら答えた。そうしないと、大声で勇利のかわゆさと可憐さを並べ立ててしまいそうだった。 「すごくいいことが書いてあったのはわかるよ」  クリストフがしみじみ言った。 「いまの君の様子を見ていればね」 「俺はおかしい男に見えるかい?」 「がんばってこらえてるのは伝わってくる」 「勇利の前でみっともないまねをするわけにはいかない」  ヴィクトルはきっぱり言った。 「彼ががっかりするからね」 「君がどんなにおかしな行動に出ても、勇利はやっぱりうっとりして、『ヴィクトル、かっこいい……』ってばら色の溜息をついてると思うよ。で、その勇利は?」 「さあ……会わないんだ」 「愛のあまり避けられてるのかい?」 「わからない。無意識のことだと思うが」  バンケット会場には、大勢の選手や関係者がいた。ざっと見渡したところ、勇利の姿はないようだった。 「いないようだね」  クリストフもあたりを観察しながら言った。 「またピチットに君のすばらしいところを語って時間を忘れてるのかな」  彼は、俺も話しかけられないよう用心しなきゃ、と笑った。  ヴィクトルは食事をしたり、適当に挨拶を済ませたりしながら、勇利のことを探した。勇利は日本チームの席にいなかった。途中、ピチットを見かけたけれど、彼は別の友人と話しこんでいた。どこへ行ったのだろう? まさか部屋へ戻っているのだろうか? 勇利はこういう場は苦手だから……しかしいままで、そういうことをしたことは一度もない。 「勇利見なかったかい?」  ヴィクトルは知り合いの選手に訊いてまわったが、みんなかぶりを振るばかりだった。彼らは「ヴィクトルが溺愛している生徒を追いまわしている」と笑った。 「そうさ。そうするだけの価値がある子だからね。彼のうつくしさは知ってるだろう?」  ヴィクトルが誇らしげに自慢すると、話していた相手が、ふいに顔を上げてヴィクトルの後ろを示した。 「来たんじゃない? 君の秘蔵っ子」  ヴィクトルは振り返った。そして目をみひらいた。確かに勇利だった。彼は前髪を上げ、ヴィクトルの選んだスーツを着こなし、凛と背筋を伸ばしてまっすぐこちらへ歩いてきた。すらっとした姿に、誰もが目を奪われて顔を向けた。こういうときの勇利の器量のよさはすばらしかった。 「……ヴィクトル」  勇利はヴィクトルの前で立ち止まると、静かに呼んだ。ヴィクトルはそのとき、勇利の発作がおさまったのかと思った。けれど彼はりんごのように赤い頬をしていたし、うっとりととろけた表情だったので、そうではないのだとわかった。 「勇利、どこに行ってたんだい? 探したよ」 「話があります」  ヴィクトルは瞬き、それからほほえんだ。 「わかった。部屋に戻る? それともバルコニー? ふたりきりになれるところへ行こうか?」 「ここでけっこうです」  勇利は両手を胸の前で握りあわせると、ヴィクトルをいちずな目でみつめ、何か言いたげな顔をした。彼のチョコレート色のひとみは静かにうるおいを帯び、初々しく、熱愛をふくんで可憐だった。ヴィクトルは夢中になり、視線をそらすことなど思いもよらなかった。 「……ヴィクトル」  勇利がささやいた。 「……なんだい」 「あの……」 「うん」 「ぼく……」  ヴィクトルはちいさく、かすかにうなずいた。勇利はひたむきに、すがるようにヴィクトルをみつめると、やわらかいビロードの声で真剣に告白した。 「……大好きです」 「…………」 「貴方が好きです」 「…………」 「それだけ……」  勇利は「それだけ」と言ったけれど、彼のひとみはそれ以上に愛を語っていた。好きだという言葉だけでは言いあらわせないすべての感情を、はっきりと、たぐいない熱っぽさで伝えていた。 「それじゃあ……」  勇利はこのうえなく大人っぽく、つやがあったけれど、背を向けた彼のしぐさはおさなげを失わず、ひどくかわいらしかった。ヴィクトルは抱きしめてキスしようかと思った。  勇利がいなくなると、ヴィクトルはまわりの選手たちからかなりからかわれた。もちろん喜��しく、鼻が高かった。勇利のようなすてきな子に愛の告白をされて、うれしく思わないはずがない。 「見てたよ」  クリストフもやってきてひやかした。 「まったく、いろんな方法で君に気持ちを打ち明けるものだね。大騒ぎしたり、恋文を渡したり、静かに告白したり……」 「そういうものなんだ」  ヴィクトルは胸を張ってにこにこした。 「しかし、何度経験してもたまらないものだね。勇利のこの症状はうれしいんだが、毎回、いつ自分が抱きしめてキスしてしまうかと気が気じゃない」 「やったことないの?」 「ないよ」  ヴィクトルは笑った。 「あんな状態の勇利にしたら、彼は気絶しちゃうだろうからね」  ヴィクトルは部屋へ帰った。勇利はさきに戻っており、彼は上等な上着をちょうど脱いだところだった。 「今夜は酔っぱらわなかったでしょ?」  勇利は振り向いてヴィクトルを見るなり、いたずらっぽく言った。ヴィクトルはちょっと考え、ソチでのバンケットとくらべているのだと気がついて笑った。どうやら発作はおさまったらしい。 「そのようだね」  ヴィクトルは勇利に大股に近づくと、彼を抱きしめ、くちびるに接吻した。勇利は目を閉じてヴィクトルの背に手を添えた。彼はもちろん気絶などしなかった。 「酔わなくても楽しかったかい?」 「どうしてそんな意地悪言うの?」  勇利がヴィクトルをにらんだ。この目つきがじつに色っぽいとヴィクトルは常日頃から思っていた。それでいてかわいらしいのだからまったく……。 「バンケットは得意じゃないよ。楽しいも何もない」 「普通の人は得意じゃない場でダンスバトルなんかしない」 「ぼくはそれおぼえてないから、たぶんみんなのでまかせだよ。ぼくを騙してる」 「勇利、いつものことだけど今回も確認しておくよ。記憶は失ってないよね?」 「なんの?」 「試合が終わってからのいろいろについてさ」  勇利は目をまるくしてヴィクトルをみつめ、それから笑いだして口元に手を添えた。 「おぼえてるよ」 「そうか。それはよかった」 「みんな何か言ってた?」 「クリスはあきれてたね。あれはなんなんだって。もっとも、おもしろがってるというほうが正しいだろうけど。ほかのみんなもまあ……ひやかしはあったよ」 「恥ずかしかった?」 「いや、誇らしかったね」 「本当は、またやったなこのどうしようもない生徒は、って思ってるんでしょ」 「思ってないよ」 「だってしょうがないじゃん……」  勇利はちょっと目を伏せ、頬を赤くしてもじもじした。 「気持ちがあふれて、ヴィクトルに好きっ��言いたくてたまらなくなっちゃうんだもん……」  ヴィクトルの胸が激しくときめいた。勇利はヴィクトルを見ると、一生懸命にさらに言いつのった。 「どうしても我慢できないんだよ。よくわからないうちに感情がたかぶって、ああ、ヴィクトル好き好きってなっちゃうんだ。頭がへんになりそうなくらい。そういうことってない? ないんだろうね、ヴィクトルには」 「俺はいつだってそういう状態だ」 「クリスがあきれてたって? ヴィクトル、彼に言ったんでしょ。そうなんだ、もうあの勇利の態度には閉口してるんだよ、うんざりだ、って。一度や二度じゃないんだよって愚痴を言ってきたんでしょ。知ってるんだから」 「言ってないよ」 「また始まった、やれやれ、って溜息をついてたんでしょ。迷惑だなあって」 「ついてない」 「でもご安心ください。もう平静に戻りましたからね」  勇利は胸を張っておとがいを上げた。その宣言する様子がたまらなくかわゆかった。 「これからは平穏に暮らせるよ。……永遠に保証するわけじゃないけど」  勇利は言ってから、ちょっと首をかしげた。 「でも、どうしてあんなにとりのぼせちゃうのかな。ヴィクトル好き好きって思って本当におかしくなっちゃう……。ああいうときは感情の操縦はできない」 「クリスには発作って言っておいたよ」 「ちょっと、発作って」 「今回もかわいかったよ」  ヴィクトルは勇利の頬をてのひらでそっと撫でた。勇利はふれられているほうのまぶたを閉じ、じっとしていた。 「次の発作を待とう」 「ばかにしてる」 「してないさ……ついでに言うと、普段の勇利もたいへんかわゆい」  勇利が目を上げてヴィクトルを見た。チョコレートの甘さを秘めた彼の清純なひとみは、むこうみずなほど、星のようにきらきらと輝いていた。それは勇利が「感情がたかぶって気持ちがあふれてしまう」というときと同じだけのきらめきだった。  口に出さないときも、勇利の愛はいつだって、ひとみにあらわれているのだ。
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sorairono-neko · 3 years
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コーチを待っている
 勇利は緊張しているようだった。彼が試合のときにそうなるのはいつものことだけれど、これはシーズン序盤のB級大会で、試合勘を取り戻すためと課題をわかりやすくするために出場しているのだ。もちろん試合は試合だが、普段よりは自由に、好きにすべってよいのである。ヴィクトルとしては、改善点を浮き彫りにしてくれたほうがありがたいくらいだ。しかし勇利はかたくなっており、顔は青白く見えた。ショートプログラムではそうでもなかったのに、フリースケーティングになってこれほど変わるとはどうしたことだろう? 「勇利」  ヴィクトルはただ名を呼んで勇利の手を握った。ひんやりと、つめたい手だった。ヴィクトルは勇利にほほえみかけた。勇利もかすかに微笑した。 「何も心配はない。おまえならできる」 「はい」  勇利はうなずき、氷の中央へひとりで向かった。ヴィクトルは勇利から目をそらさずに、ひたすら彼だけをみつめていた。  最初は問題ないように見えた。動きはすこしかたいけれど、緊張もあるし、まだプログラムが熟していないのだから仕方がない。この程度は予想していたことだった。スケーティングにいつものなめらかさがないが、これもかまわない。試合で初めてプログラムを披露するということに気を取られているせいだ。このぎこちなさでは、ジャンプの回転が不足するかもしれないけれど、アンダーローテーションくらいなら──。  勇利が最初の四回転ジャンプを跳んだ。ヴィクトルははっとした。軸が驚くほどに傾き、勇利は派手に転倒した。観客がどよめき、ヴィクトルも思わずフェンスから身を乗り出した。さいわい、勇利はすぐに立ち上がって続きをすべり始めたけれど、彼の表情から、焦りが大きくなっていることが見て取れた。  まずいな……。  ヴィクトルははらはらし、祈るような気持ちで勇利をみつめた。落ち着いて。いつもどおりやればいいんだ。練習と同じように。練習のときは、あんなに綺麗にすべることができただろう?  しかし勇利は、落ち着くことはなかった。最初のジャンプの失敗が響いているのか、二本目もしくじり、転びこそしなかったもののステップアウトした。三本目はまた転倒した。コンビネーションでは、トリプルアクセルとトリプルサルコウのあいだのシングルジャンプに、あきらかに回転が足りなかった。そのあとも、フリーフットはタッチダウンするし、着氷のときにはこらえるし、さんざんだった。うつくしいはずのスピンでさえ、回転数が少なかったり、基本姿勢が崩れたりした。ステップシークエンスではクラスタができず、ときおりひどくぐらついた。度重なる失敗のせいで心身ともに疲労しているのだろう、かなり息が上がり、体力が続かなくなっているようだった。どうにか最後まですべりきりはしたけれど、終わったときは激しく肩で呼吸しており、痛々しいほどだった。  観客は力いっぱい拍手をしていたし、声援も大きく送っていた。けれど勇利にはなんのなぐさめにもならなかったようで、彼は蒼白になりながら、こころがどこかにいってしまったという表情で挨拶をした。ヴィクトルは早く勇利を抱きしめてやりたくてたまらず、彼が戻ってくるのを待ちわびていた。  ようやく挨拶を終えた勇利が、リンクから出るために出口のほうを見た。そこで待っていたヴィクトルは驚いて息をのんだ。勇利はヴィクトルと目が合うなり、いまにも泣き出しそうなくしゃくしゃの顔つきになり、両手をひろげて、子どもが駆けてくるように帰ってきた。 「勇利」  いきなり抱きついてきた勇利を、ヴィクトルは力いっぱい抱擁した。勇利はヴィクトルの肩に顔を押しつけ、全身をふるわせた。泣いているようだった。 「勇利、大丈夫だ」  ヴィクトルは優しく彼の背を撫でた。激しく動いたため、身体は熱く、汗が噴き出しているのがよくわかった。 「大丈夫だよ」  勇利は何も言わず、しゃくり上げるように呼吸してヴィクトルにしがみついた。ヴィクトルは彼の髪をよしよしと愛撫したあと、エッジカバーをつけてやり、キスアンドクライへ連れていった。そこでナショナルジャージを着せると、勇利がまた泣き顔でぎゅうっとくっついてきた。ひどい得点が出ることはわかっていた。ヴィクトルは勇利をいつくしむように抱き、彼の耳に、こころをこめてささやきかけた。 「気にすることはない。勇利が本当はできることを俺は知っているよ。こういう日もある。グランプリシリーズの前にこうなれて、かえってよかったんだ。いまのうちに失敗しておけばいい。いいかい勇利、おまえの武器は、うつくしいステップシークエンスと、低い、姿勢の動かない速いスピン、それにまるでダブルのようになめらかに跳ぶトリプルアクセル、そして、絶対にエラーのつかないジャンプのエッジだ。勇利のルッツは正確無比だ。それだけできるんだ。勇利は魅力的だよ。俺は知ってる」  勇利はずっと、顔をぐしゃぐしゃにし、ヴィクトル以外にはけっして見せないようにして泣いていた。ヴィクトルは、彼のその泣き顔が忘れられなかった。  グランプリファイナルが終わると、それぞれの国内選手権、ヨーロッパ選手権や四大陸選手権が続き、勇利と会えなかった。四大陸選手権が日本開催だったため、勇利はファイナルのあとすぐ日本へ発ち、国内試合が終わっても帰ってこず、しばらくロシアを留守にした。 「ああ心配だ。勇利が心配だ。大丈夫かな。彼は繊細なんだ」  ヴィクトルは自分の練習をしながらも、勇利が気になって仕方なかった。 「シニア上がりたての選手じゃあるまいし、ひとりで練習する方法くらい知っているだろうが」  ヤコフがあきれかえった。 「ヤコフは勇利のことを知らないからそんなことが言える」  勇利からは毎日のように練習動画が届くし、ヴィクトルも助言や指示、メニューなどをメールで送っているけれど、ヴィクトルがたわいない話題を示しても勇利はそれに返事をせず、ひたすらにスケートの話をしているので、ますます心配になるのだ。勇利はまじめな性格だからそうなるのだろうが、ヴィクトルとしては、何か思うところがあるのではないか、気持ちを隠しているのではないかと気が気ではない。  勇利の四大陸選手権には帯同できない。どうしても予定が合わない。しかし……。 「エキシビションになら間に合うな」  ヴィクトルは自分の日程表をにらんでつぶやいた。 「おい、まさかおまえ」  ヤコフが顔をしかめた。 「よし、行こう」 「近所に散歩に行くみたいに簡単に言うな」 「勇利にはコーチが必要だ」  ヴィクトルはいつかの勇利の泣き顔を思い出した。 「俺がそばにいなくちゃ」 「試合が終わってから行っても意味がない」 「意味はあるさ。そうだろ?」  ヴィクトルはヤコフをじっと見た。 「ヤコフ、俺は行くよ」  ヤコフは苦々しい顔をしていたが、やがて溜息をついた。 「仕方がない」 「ありがとうヤコフ!」 「反対してもおまえは聞かんだろう」  ヤコフはヴィクトルをにらんだ。 「さっさとこのニュースを生徒に教えてやるんだな。きっと喜ぶだろう」  ヴィクトルは眉を上げた。 「何を言ってるんだ。勇利にはないしょだよ。じゃなきゃ驚かないだろ?」 「こんなときにまで驚きを追求するな!」  ヤコフががみがみ言ったけれど、ヴィクトルはやはり、勇利には話さないつもりだった。試合には行けないがエキシビションには行ける、と言われて、彼がどう思うかわからない。喜ぶか、あるいは、それなら試合にも来て欲しかったとせつない思いをするか……。おもてには出さないだろうけれど、胸を痛めるかもしれない。頭では仕方のないことだと理解しても、こういうことは理屈ではないのだ。それに、もし予定が狂って行けなかったら、かえって彼につらい思いをさせることになる。  勇利には話さない。その代わり、彼が驚き、喜び、うれしくて泣くくらいのことをしてやりたかった。勇利はさびしいときほど口には出さない。それをヴィクトルは知っていた。  ヴィクトルは四大陸選手権の主催に連絡を取り、大切な相談をした。 「何をごそごそしとるのか知らんが、どうせおまえのことだからおおがかりなことだろう。勝生勇利が優勝していなければかっこうがつかんぞ」  むっつりとしたヤコフの指摘に、ヴィクトルは平気な顔で答えた。 「勇利なら金メダルさ。俺の勇利だ」  エキシビションは、「離れずにそばにいて」にした。今季の曲はそれとはちがうものなのだが、ヴィクトルがいないとさびしく、勇利はそうせずにはいられなかったのだ。  すべっているあいだじゅう、ヴィクトルのことを考えた。勇利はスケートをしているときはたいていヴィクトルのことを考えているのだけれど、このときはことさらにそうだった。ヴィクトルはいまごろ何をしているだろう? どうしているだろう? 勇利のことをすこしは想ってくれているだろうか? ヴィクトルのことだから、忘れてしまっているかもしれない。でも彼は優しく、「勇利のことは忘れないよ」と言ってくれる。勇利はその言葉を信じた。けれど……、忙しいひとだから、遠く離れている生徒どころではないだろう。きっと。それは仕方のないことだ。  手を差し伸べるところでは、さらにヴィクトルを身近に感じた。彼は勇利のためにこのプログラムをすべってくれたことがある。見ていたのは勇利だけだ。あのとき、ヴィクトルもこうして、勇利のほうへ手を差し伸べて、甘く、いとおしそうにみつめ、情熱的にほほえんだ。  ああ、ヴィクトルに会いたい。この試合が終われば会える。よかったよ、勇利。すてきだった。なんてすばらしいんだ。おまえは俺の誇りだ。そう言って欲しい。勇利の金メダルにキスしてくれるだろうか? 勇利にキスしてくれるだろうか? 早く抱きしめて欲しい。いますぐに……。  曲が終わったとき、観客はすぐには拍手をせず、しんと静まり返っていた。勇利は何か失敗してしまったのかと思って慌てた。まちがっていただろうか? それとも──ヴィクトルのことを考えてすべったのがわかってしまっただろうか。勇利は戸惑い、赤くなった。  ようやく歓声と拍手が起こったので、勇利は深くお辞儀をしてリンクから去ろうとした。彼が最後の演技者だった。これでプログラムは終わりだ。  しかし、一歩踏み出したとき、会場内の大きなモニタが明るくなった。勇利は驚いて振り返り、観客たちも静かになった。映っているのは白い壁で、ただそれだけなのに、勇利はなんとなく見覚えがあるような気がした。どこだったかな……。  横からカメラの前に入ってきたのはヴィクトルだった。勇利ははっとして口元に手をやり、白い壁の前に立つヴィクトルをみつめた。 「やあ、勇利」  ヴィクトルがいつものすてきな声で話し始めた。 「優勝おめでとう。金メダルだね。きみの金メダルにキスするのをずっと楽しみにしてたんだよ」  勇利の頬は紅潮した。ヴィクトルらしい驚かせ方だった。この試合に帯同できなかったことの代わりとして、この動画を贈ってくれたのだろう。それにしても、撮影したのは優勝のきまる前だろうに、もし勇利が金メダルを獲れていなかったらどうするつもりだったのだ。それもヴィクトルらしいと勇利は涙をこぼしそうになりながら笑った。 「今回は一緒に行けなくてごめんね。とてもさびしかった。こっちでひとりでいるのはつまらないよ。勇利はさびしがってるのは自分だけだと思ってるかもしれないけど、俺のほうこそせつない思いをしてるんだよ。きみはそれをわかってないだろう」  ぼくのほうがさびしいもん、と勇利は思った。ヴィクトルこそぜんぜんわかっていない。 「勇利は俺がきみをどれほど愛してるか、ちっとも理解してないからね。いつかしっかり教えてやろうと思ってるんだ。いいかい? お断りだと言われてもそうするよ」  勇利は笑顔になり、客席からも笑い声が聞こえた。 「いま、ヴィクトルったらこんなことを言って、ぼくが金メダルを獲れてなかったらどうするつもり? ──なんて思ってるだろう?」  そのとおりだったので、勇利はさらに笑ってしまった。 「金メダルは獲るさ。俺の勇利だ。当たり前だ」  そのひとことに、勇利は胸がずきずきと甘く痛んだ。ヴィクトルは勇利が勝つといつでも信じてくれている。 「早く勇利に会いたいよ」  ヴィクトルはゆっくりと言った。 「勇利の金メダルにキスがしたい。きみを抱きしめたい。よくやったねと言いたい。ほかにも──いろいろ、話したいこと、したいことがあるよ」  全部して。勇利は苦しいほどにそう思った。ヴィクトルの話を聞きたかったし、彼のぬくもりを感じたかった。 「勇利の声が聞きたい。いつもの、ヴィクトルは何を言ってるのかわからない、っていうあきれた声でもいいよ」  みんながまた笑った。勇利は口元を両手で押さえ続けた。ヴィクトルは何を言ってるのかわからないけど、でも、そんなところが好き……。 「あるいは──、ヴィクトル、またやったんだね、と言うかな。本当に驚かせるのが好きだねって。──勇利、驚いてくれたかい?」 「うん。すごく……」  勇利はちいさく、ぽつんとつぶやいた。ヴィクトルを愛していると思った。どうしてこんなに好きなのだろう? ずっと好きなのに、どんどん好きになっていく。 「でも、もっと別のことを言われるかもしれないな。ヴィクトル、あれなに? そう言って怒るかな。だって、みんなの前でこんなことをしたら、勇利は恥ずかしがるだろうからね。全世界が見守ってる中で、勇利に愛の告白をしているような���のだから」 「ばか……」  客席がわいているけれど、勇利の耳には入らなかった。彼はいま、ヴィクトルしか見えず、ヴィクトルの声しか聞こえなかった。 「何も恥ずかしくはないさ。ただ、愛の告白は会ってちゃんと、直接言うよ。いつも言ってるけどね」  ヴィクトルがほほえんだ。 「勇利」 「なに……」 「俺に会いたいと思ってくれるかい?」 「当たり前だよ……」 「俺のことを考えてくれてる?」 「うん……」 「俺も勇利に会いたいよ」 「会いに来てよ……」 「早くおまえをこの腕につかまえたい」 「そうして……」 「すぐに抱きしめたいんだ──」  勇利のすらっとした後ろ姿を、ヴィクトルはリンクサイドからみつめていた。夢にまで見た勇利の立ち姿だ。「離れずにそばにいて」の青い衣装がよく似合っている。これはヴィクトルがもともと着ていたものと同じ型で、色だけがちがっていた。ヴィクトルは、それに合わせてつくった、もととはちがう衣装を身につけようと思ったのだけれど、やめておいて、黒いスーツにした。自分はいま、勇利のコーチなのだ。そのために来たのだ。それならばこの瞬間は、これ以外、着るべきものはない。  勇利は口元に両手を当て、夢中で大きな画面を見ている。彼がどれほど情熱的な目つきをしているか、後ろからでもわかった。そのまなざしを、もうすぐ浴びることができるのだ。  ヴィクトルは苦しいほどに胸が高鳴った。ほんの二ヶ月のことなのに、もう何年も勇利と会っていない気がした。足がふるえそうで困ってしまった。みっともないまねをするわけにはいかない。転ぶなんてもってのほかだ。勇利の前では、かっこうよいヴィクトルでいなければ。せめて氷の上にいるときは──。  ヴィクトルはエッジカバーを外した。ゆっくりと氷に踏み出すと、すぐに気がついた観客が、ざわっとざわめいた。勇利は熱心に画面のヴィクトルを見ている。まったくまわりに注意を向けていない。ヴィクトルは静かにすべり始めた。 「でも、もっと別のことを言われるかもしれないな。ヴィクトル、あれなに? そう言って怒るかな」  響く自分の声を聞き、ヴィクトルは微笑した。勇利は怒っているときも魅力的だ。とびきりかわゆいのだ。しかし、いまは笑って欲しい。全世界を前に、こんなふうに愛の告白をしても。 「勇利。俺に会いたいと思ってくれるかい?」  勇利の背中が近づいてきた。 「俺のことを考えてくれてる?」  ヴィクトルは頭がおかしくなりそうなほど、勇利のことしか考えていなかった。 「俺も勇利に会いたいよ」  そうだ。だからこうして会いに来たのだ。 「早くおまえをこの腕につかまえたい」  あとすこし。ほんのすこしで……。 「すぐに抱きしめたいんだ」  そう……。  ──いますぐに。  勇利は、歓声がどんどん大きくなっているのに気がついていなかった。彼は画面の中のヴィクトルだけをみつめていた。だから、ヴィクトルが背後から突然腕にふれ、そのまま引き寄せて抱きしめたとき、心底からびっくりしたようだった。 「え……!?」  勇利は振り返り、そのうつくしく澄んだ瞳にヴィクトルを映して、大きく目をみひらいた。彼は悲鳴を上げ、慌てたようにヴィクトルから離れ、向き直って、両手で口元を覆った。信じられないというそのそぶりがかわいくて、ヴィクトルは笑ってしまった。 「え? え? うそ……なに……どういうこと……?」  勇利はかぶりを振りながら、じりじりとあとずさりし、大画面と、すぐ前にいるヴィクトルとを見くらべた。ヴィクトルが腕をひらいても、まだ信じられないようで動かなかった。 「なんで? うそでしょ? なんでヴィクトルが……」  彼はあまりのことに可笑しくなったのか、かすかに笑った。しかしすぐにその表情は泣き顔になり、顔じゅうぐしゃぐしゃにすると、声を上げて泣きながらヴィクトルに駆けよってきた。 「ヴィクトル……!」  勇利はヴィクトルにしがみつき、ヴィクトルも力いっぱい抱き返した。ふたりを祝福の声と拍手が包んだ。 「ヴィクトル、ヴィクトル、ヴィクトル……」  勇利の声は嗚咽にまじって聞き取れないくらいだった。彼はヴィクトルにほっぺたをすり寄せ、顔を上げると、両手を伸べて頬を包みこんだ。ヴィクトルは勇利の腰を抱いたまま、彼に夢中でキスをした。 「勇利……」  幾度もくちびるを合わせては離し、勇利の瞳をのぞきこんだ。それはひどくうるんでいて、涙は、あふれては頬を流れ落ちていった。 「う、ひっく、えっ、ヴィクトル、あぁん、ヴィクトル、う、ううっ、あーん、あーん……」  勇利は泣きじゃくり、またヴィクトルにしがみついた。ヴィクトルは勇利の髪にくちびるを押し当てた。 「勇利、会いたかったよ。ようやくだ……」  勇利はしゃくり上げるばかりで、何も言わなかった。ときおり首をもたげては、本当にヴィクトルなのか、消えはしないのかと確かめるので、そのたびにヴィクトルは接吻した。 「もう離さない。離れないよ」  勇利のふるえる指が、またヴィクトルの頬にふれた。おそるおそる……。ヴィクトルは鼻先をこすりあわせ、くちびるをついばんだ。そして長いあいだ勇利を抱きしめ続けた。勇利はいつまでたっても泣きやまず、ずっと激しく嗚咽を漏らしていた。ヴィクトルはくちびるで勇利の涙をぬぐい、いとしい子の額にくちづけしてささやいた。 「愛してるよ、勇利」  勇利は勢いよくヴィクトルに抱きついた。ヴィクトルはそのしなやかな肢体を横向きにかるがると抱き上げて、たまらなくいとしいという笑顔を向けた。勇利はヴィクトルの首筋にかたく腕をまわし、肩口に顔を伏せて全身をふるわせた。 「驚いた?」 「…………」 「最高だっただろう?」 「…………」 「俺は最高だったよ」  ベッドに並んで座り、ひと落ち着きしても、勇利はヴィクトルの腕を抱きしめ、肩にもたれかかったまま離れようとしなかった。ヴィクトルも彼から離れるつもりはなかったので、それでいっこうにかまわなかった。 「おなかはすいてないかい?」 「…………」 「何か飲む?」 「…………」  勇利が静かに目を上げた。長いまつげと、うるおいを帯びたチョコレート色の瞳を見たヴィクトルは、そっと彼にキスをした。勇利がねだるようにすり寄ってきた。ヴィクトルはもう一度くちびるを合わせた。 「勇利、何か言ってくれ。声が聞きたい」 「…………」  勇利は口元に指を押し当て、じっとヴィクトルをみつめた。その目つきだけでヴィクトルはくらくらした。勇利のこの目によわいのだ……。勇利は可憐なくちびるをひらき、ヴィクトルの耳元にささやいた。 「ヴィクトル……」  名前を呼ばれただけなのに、全身がしびれるような感覚に襲われた。なんという幸福……。ヴィクトルはくるおしいほどの胸のうずきに耐え、勇利の耳に口を近づけた。 「勇利がいることで、俺は完全になれるような気がするよ」 「ヴィクトル……」  勇利が続けた。 「どうしてわかったの……?」 「何がだい……?」 「ぼくが会いに来て欲しいと思ってたこと。それと……、ぼくがいますぐキスして欲しいって思ってたこと──」  ヴィクトルは言葉が終わらないうちにくちびるを合わせた。 「こうかい?」 「…………」 「こう?」  何度も何度もくちびるを押し当てると、「そう……」と吐息のような勇利の声が答えた。彼の目からこぼれた新しい清廉な涙にヴィクトルはキスをした。 「どうして来てくれたの……?」 「会いたかったからさ」 「どうして会いたかったの……?」 「勇利を愛してるし、俺は勇利のコーチだからね。勇利はシーズンの初め、試合で失敗して泣いたね。あのとき、俺は勇利に必要とされてるんだと思った。もし失敗しなくても、やっぱり必要とされてるんだ。失敗したらなぐさめて力になってあげられる。失敗しなかったら──、抱きしめて褒めてあげられる。俺はそれをしたかった。勇利が泣くときも笑うときも、そばにいたいと思ったんだ」  勇利は泣きながらほほえみ、ヴィクトルの頬にふれてキスをしてから、金メダルを取り出した。 「キスして」  ヴィクトルは勇利のメダルにくちづけし、それから勇利にも接吻した。そして彼の黒髪を撫で、微笑してささやいた。 「ジャンプでは転ばなかったね?」 「うん」 「ステップアウトもしなかった?」 「しなかった」 「回転は足りてたかい?」 「ひとつも刺さらなかった」 「タッチダウンは?」 「しなかった」 「スピンも安定してただろうね?」 「ずっと数を数えてた」 「ステップのクラスタは完成した?」 「した」 「全部完璧だね?」 「…………」  勇利は口元に手を当てて考えこんだ。 「完璧かどうか……は……」  ヴィクトルは笑いだした。 「そうだ。その向上心こそ大切なものだよ。次は世界選手権だから」  勇利はヴィクトルのネクタイにふれ、その結び目をすこし直した。彼はつぶやいた。 「かっこいい」 「そうかい?」 「似合ってる」 「勇利にそう言われると得意になるよ」 「ぼく、エキシビションで『離れずにそばにいて』をやったんだ」 「見てたよ。すてきだった。デュエットを一緒にしたかったね。かっこよく似合ってるスーツ姿だけど」 「だめ……」  勇利は甘えるようにかぶりを振った。 「コーチ姿の俺じゃいけないかい?」 「そうじゃなくて」  勇利は気恥ずかしそうに答えた。 「あのときは、ぼく、何がなんだかわからなくて、泣いちゃって、とてもすべれなかったから……」  ヴィクトルはほほえんだ。 「あとで、あの瞬間の動画をふたりで見よう」 「やだ。見ないで」 「なぜ? きっとすてきだよ」 「恥ずかしい」 「ちっとも恥ずかしくなんかないさ……」  ヴィクトルは勇利の手を握った。勇利が顔を上げた。ふたりのくちびるが出会った。勇利がそっとまぶたを上げた。 「ねえ……」 「なんだい?」 「ヴィクトルはいつか、ぼくが失敗したあの試合で、ぼくについて話してくれたね……」 「ああ、そうだったね」 「ぼくのトリプルアクセルはなめらかで、ルッツは正確無比だって」 「そうだ」 「ヴィクトルも……」  勇利は、濡れたまつげの向こうから、みずみずしく澄んだ愛くるしい瞳をきららかに輝かせ、聡明そうに言った。 「ヴィクトルもぼくの望みをかなえるときはなめらかで、ぼくの望みをくみ取る力は正確無比だよ。それと……ぼくも愛してる」
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sorairono-neko · 3 years
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ヴィクトルがネクタイをゆるめたので、ひゃあ!
 バックパックを背負い、クラブから出た勇利は、あたりをきょろきょろと見まわして迎えが来ていないか確かめた。まだだった。何をして時間をつぶそうか、あたりをそぞろ歩きしようか、でもそうしたら彼が来たときにみつけられないかも、と迷っているところへ、黒くてぴかぴか光る高級車がすべりこんできて、すっと窓を下ろした。 「おまたせ、かわいこちゃん」  顔を出したのはヴィクトルで、片目を閉じた彼はスーツ姿だった。ヴィクトルのスーツ姿はこれまで何度も目にしたけれど、それで車を運転しているところを見るのは初めてだったので、勇利はいっぺんにのぼせ上がってしまった。バンケットなどでスーツを着ているのは当たり前だが、日常生活にとけこむようにしてこういうかっこうをしているのは、それとはまたちがってとてもふしぎですてきに見えた。勇利は緊張した。  ああ、かっこよか……。  ぎくしゃくと助手席に乗りこんだ勇利はヴィクトルに見蕩れた。 「どうしたんだい?」  ヴィクトルは車を発進させ、ちらと横目で勇利をうかがった。 「無口だね」 「うん……。スーツだなと思って……」 「仕事だったからね」 「そう……」  何か堅苦しいことだったのだろう。ヴィクトルは息をつき、ぐいとネクタイをゆるめた。そのしぐさがまたかっこうよくて、勇利はめろめろになってしまった。 「ゆるめるのを忘れてた。早く勇利に会いたくて、ほかのことなんて頭になかったんだ。めんどうな仕事だったよ」 「うん……」 「夕食は買ってきた。俺の家でいいよね? 一緒に食べよう」 「うん……」 「すぐ着くよ。でもすこし渋滞してるね」 「うん……」  同じ返事しかしない勇利にヴィクトルが笑いだした。 「どうしたんだい?」 「うん……」  勇利は頬を赤くし、うっとりとヴィクトルをみつめていた。ヴィクトルが苦笑いを浮かべた。 「勇利に見られるのは好きだけど、ちょっと困るね」 「どうして……?」 「これから俺の家に帰るんだし、俺の理性だって鉄壁というわけじゃないからね」  勇利は、ヴィクトルの家と、彼の理性と、自分が彼をみつめることに、なんの関係があるのかさっぱりわからなかった。だからヴィクトルをみつめ続けた。 「勇利、頼むから……」 「なに……?」 「まいったな」  ヴィクトルは髪をかき上げ、本当に困ったように溜息をついた。それから彼は信号待ちのあいだに上着を脱ぎ、勇利に渡した。 「持っていてくれ」 「どうして脱ぐの?」 「暑くなってきたよ。視線が熱いからだね」  勇利はヴィクトルの言っていることの意味がひとつもわからなかったけれど、彼が上着をあずけてくれたことはうれしかったので、それをぎゅっと抱きしめた。あたたかくて、ヴィクトルの匂いがしたから、つい顔を埋めるようにしてしまった。ヴィクトルの喉が何か詰まった音をたてた。 「なに?……」 「ああ……、勇利、おねがいだ……」 「何が……?」 「おまえがあんまりかわいいことをしていると……、俺は買った夕食を食べられなくなる……」  勇利は、何もかわいいことはしていないと思った。またヴィクトル独特の謎の思考なのだろう。 「どうして食べられないの……?」 「別のものが食べたくなるからさ」 「食べれば……?」 「そういう危険な発言をするんじゃない」  ヴィクトルは深呼吸をして自分を鎮めているようだった。鎮めるような何があるのか、勇利には見当もつかなかった。勇利は上着に頬を寄せたまま、とろんとした目つきでヴィクトルを見続けた。 「どうしてそんなに見るんだい?」 「かっこいいから」 「俺のスーツ姿なんていくらでも目にしてるだろう」 「普段に着てるところは見たことない」 「やれやれ……」  ヴィクトルはゆっくりとかぶりを振った。 「運転中じゃなかったらキスしてる」 「何に?」 「せめて、誰に、と訊いてくれ」  家に帰りついたとき、ヴィクトルは大きく息をつき、大変なひと仕事をようやく終えることができたといった様子だった。勇利はバックパックを背負い直し、ヴィクトルの上着を抱きしめたまま、彼について家に入った。マッカチンがやってきて、はしゃいだ声を上げた。もこもこした毛並みを撫でたところで、勇利は気がついて慌てた。 「ごめん。上着、しわになっちゃった」 「そんなことはどうでもいいんだ。運転も終わったことだし、キスしていいかい?」 「何に?」  ヴィクトルは溜息をつき、台所へ入っていった。勇利は居間に行き、言われるままに荷物を置いた。ソファに座って上着を抱きしめていたら、「いい加減にそれにすがりつくのはやめてくれ」と取り上げられてしまった。やっぱりしわだらけにしたのがよくなかったのだろう。 「ごめん」 「そういうことじゃないんだ」  勇利は顔を上げてヴィクトルを見た。ヴィクトルはベストを脱いだ。シャツとネクタイという姿になった彼も本当にかっこうよかった。 「だからそんなに見ないでくれ……俺が安全な男だとでも思ってるのか?」 「どんな危険があるの?」 「口では言えないようなことさ」  ヴィクトルが安全ではないなんてまったく想像もつかない勇利は、きょとんとして瞬きした。 「何もわかってないようだね。『危険』にもいろいろあるんだぞ、勇利。さあ、きみの望みどおり安全な男になるから、そこでおとなしくしていてくれ。食事の支度をするよ」 「手伝う」 「いいんだ。買ってきたものを皿に並べるだけだからね。そばに来られると危険になる」 「ぼくだって台所仕事くらいちょっとはできる」 「勇利、はっきり言っておくけど、俺の言う『危険』は俺が突然暴れだすことでもきみが皿を割ることでもない」  ヴィクトルはシャツの袖を幾度か折ってまくり上げ、何か仕事を始めた。 「着替えないの?」 「時間が惜しい」  彼はほほえんで優しく言った。 「すこしでも勇利と一緒にいたいからね。着替えるためにひっこんだら、きみとの時間が減る。もったいないだろう?」  勇利はどぎまぎした。ヴィクトルに言われたことのせいではない。彼が勇利の前で堂々と着替えないことが新鮮だったからだ。長谷津で暮らしているころ、ヴィクトルは当たり前のように勇利のそばで着替えをしたし、温泉だって一緒に入った。日常生活はなじみ、ふたりにとって同じものだった。しかしいまはちがう。勇利はここではヴィクトルのお客で、だからヴィクトルは礼儀として勇利の前では着替えない。そのことがふしぎで、またあんなふうに親しくしてもらいたいと思う反面、新しい発見をしたような気がしてどきどきした。  勇利はヴィクトルから目を離せず、ソファから振り返って、台所にいる彼を見てばかりだった。ヴィクトルはネクタイの先を胸のポケットに押しこんで、邪魔にならないようにしていた。袖をまくってそんなふうにしている彼は初めてで、勇利はまっかになってしまった。 「勇利……」  ヴィクトルが咳払いをした。 「だからそんなに見ないでくれ……」 「え?」  勇利は何を言われたのかわからず、ぼんやりと訊き返した。ヴィクトルは溜息をついてかぶりを振った。 「あんまり信用しないでもらいたい……」 「何を……?」 「いったいなんなんだ、今日は……」  間もなく居間のテーブルに料理の皿が並んだが、勇利はやはりヴィクトルに見蕩れてばかりだった。食事のあいだも、ひとくち口に運んではヴィクトルを見るといったふうで、彼が「英語のチャンネルを映そうか」と言っても、「いい……」と静かに断った。ヴィクトルは台所にいたときと同じかっこうだった。スケートの衣装のときは最高にすてきで、練習着のときもたまらなくかっこうよくて、スーツ姿は胸がときめいて、いまのこの様子は──やっぱり最高に、たまらなく、胸がときめくほどきわだっていた。 「美味しいかい?」 「うん……」 「本当に?」 「うん……」 「聞いてる?」 「うん……」 「聞いてないだろう」 「うん……」  ヴィクトルは笑い、いとおしそうに勇利をみつめた。しかし勇利は彼のそんな様子も目に入らない様子で、自分のほうで勝手にヴィクトルをみつめ続けた。 「いったいなんのスイッチが入ってるんだ?」  ヴィクトルが笑いながら尋ねた。 「ヴィクトル好きスイッチ?」  勇利はヴィクトルに夢中だったけれど、その言葉は聞こえたし、意味もわかった。 「そんなの、いつも入ってるもん……」 「おっと……」  ヴィクトルが目をそらし、おおげさなしぐさでフォークを口に運んだ。 「本当に、理性なんていうものは��ててしまっていいんじゃないかという気がするよ。でも、こうやって必死にあらがっているとき、自分の愛はなんて深いんだろうと酔いもする」 「そう……」  これの意味も勇利にはわからなかったが、ヴィクトルの優しくてあたたかい声と、彼がすぐそばにいる喜び、彼を見続けていられる幸福、彼が支度してくれた美味しい夕食で、すっかり満足してしまった。食事のあと、勇利は完全なしあわせを感じながらヴィクトルのそばに座っており、いつの間にかすやすやと眠っていた。  それほど長くは眠らなかったようで、まぶたをひらいたとき、時計の針はいくらも進んでいなかった。勇利はヴィクトルにもたれかかっ��おり、ヴィクトルも勇利を肩で支えるようにして頬を寄せていた。 「ヴィクトル……」  勇利は目をこすり、ヴィクトルの顔をのぞきこんだ。どうやら彼のほうも寝入っているようで、かすかな寝息が聞こえた。勇利は大好きなヴィクトルのやすらかな寝顔をじっと見た。起きているときもすてきだけれど、眠っているときもたまらなくかっこうよかった。  うっとりとヴィクトルを見続けたあと、勇利は自分でも気がつかないうちに手を上げ、指をヴィクトルのほうへ伸ばしていた。そして指先で研ぎ澄まされた頬をつつき、ほとんど弾力のないすっきりしたその肌に感激した。勇利はいくら痩せてみても、頬にふれるとどうもふっくらしているのだ。「やわらかい」とヴィクトルに楽しげにつつきまわされることもある。「太ってるって言いたいの」とにらんだら、「いや、かわいいということだ」ともっとつつかれる。  ヴィクトルはすごい。ほっぺたも皇帝だ。  勇利は感心しながら、今度は指を彼のくちびるに向けた。うすくてかたちのよいそれに、勇利はふれられたことがある。ほんの一瞬のことだったけれど。驚かせるとかなんとか言って、キスされたのだ。変なひと。  勇利はくちびるにふれてみた。あたたかい息が指をかすめて、ひどくどきどきしてしまった。あんまりびっくりしたので、思わず手を引いてしまったほどだ。ヴィクトルのくちびるにさわっちゃった……。  勇利はもじもじし、それからしばらくヴィクトルに寄り添ったまま、指をいじっていた。ヴィクトルはいっこうに目ざめなかった。疲れているのかもしれない。それなら自分は早く帰ったほうがよい。けれど、帰るためには、ヴィクトルを起こさなければならない。いきなりいなくなったら心配するだろう。しかし起こすのは、せっかく気持ちよく眠っているのに気の毒だ。いっそのこと、書き置きでも残していこうか? だがヴィクトルは、夜にひとりで出歩くと怒るのだ。  勇利はまぶたを閉ざし、ヴィクトルにもたれかかって、幸福な時間を過ごした。ときおり目を開けては彼をみつめ、かっこよか……と頬を赤くして吐息をついたりした。いっこうに飽きなかった。しかし、幾度目か──ヴィクトルをみつめたとき、勇利は無意識のうちに、彼に顔を寄せていた。  ヴィクトル、キスしたら起きるかな? 揺り起こすのはかわいそう……。ホテルで同じ部屋に泊まったりすると、「キスで起こそうかと思ったよ」とか言ってくるんだ。つまり、自分を起こすときはそうしてくれって意味なのかな? そうかもしれない。ヴィクトルってよくわからないし……。  勇利はゆっくりと顔を近づけてゆき、まぶたを閉じて、ヴィクトルのくちびるにそっと接吻した。ヴィクトルは起きなかった。勇利はヴィクトルをみつめ、目をさまさないんだ、とぼんやり思った。そう思ううちに──気恥ずかしくなり、頬が熱くなってきた。  ヴィクトルにキスしちゃった! してよかったのかな? もしかしてぼく、すごいことをしちゃったんじゃない? キスするなんて信じられない。キスなんて簡単にしていいことじゃないんだぞ。なのにどうして? ヴィクトルにばれたらどうしよう!  うろたえ、ヴィクトルから離れようとしたとき、ヴィクトルが何か低くつぶやき、静かにまぶたをひらいた。勇利は心臓が壊れそうなほどどきどきした。ばれたのかもしれない! もしかしてヴィクトルは寝たふりをしてたんじゃ? いま俺にキスしたね、って叱られたらどうしよう……。 「おはよう」  ヴィクトルが勇利に笑いかけた。勇利はしどろもどろになった。 「お、おはよう……」 「どうしたんだい?」 「ううん、ぼくもさっきまで寝てたから……」 「なんだか顔が赤いね」  ヴィクトルが心配そうに勇利の頬にふれた。 「寒かった? 何か身体にかけるべきだった」 「大丈夫。そういうのじゃない」  勇利はヴィクトルのおもてを見られず、ふるふるとかぶりを振った。ヴィクトルが笑った。 「さっきまで俺をずっと見てたのに、もう見ないのかい?」  勇利はどきっとした。 「う、うん」 「なぜ?」 「もういい」 「俺に興味がなくなった?」 「そんなんじゃない」  ヴィクトルが立っていき、「紅茶でも淹れるよ」と言って台所で仕事をし始めた。相変わらず彼はワイシャツにネクタイという姿で、たまらなくかっこうよかったけれど、やはり勇利はもうみつめることはできなかった。ずっとどきどきしていた。本当にヴィクトルは気がつかなかったのだろうか? 勇利がキスしたことを知らない? いまは知らんぷりをして、そのうち突然言いだすのかもしれない。ヴィクトルはそういう間合いの計り方がまったくじょうずなのだ。  どうなのだろうと、勇利はヴィクトルをまっすぐには見られないながらも、そろそろと観察せずにはいられなかった。彼は楽しそうに紅茶を淹れ、香りを楽しんでいる。 「なんだい?」  ヴィクトルが勇利の視線を感じたのか、首をまわした。 「どうかしたのかな?」 「な、なんでもない」  勇利はうつむいてもじもじと指をいじった。さっき俺にキスしたから照れてるんだな、なんて思われてたらどうしよう……。怒っていないのならよかったけれど、そうだとしても気恥ずかしい。 「ミルクやレモンは?」 「い、いらない」 「オーケィ」  ヴィクトルはカップをふたつ持って戻ってき、「さあどうぞ」と勇利の前に置いた。勇利は礼を述べてそれを両手で包むようにした。そっとカップにくちびるをつけ、すこしだけすすってみた。 「美味しい」 「そうか」  勇利は上目遣いでヴィクトルを見た。優しい青い目と視線が合って、慌てておもてを伏せると、袖をまくった彼のたくましい腕が見えた。男らしい筋が走って、なんともかっこうよかった。こんなにすてきなひとにキスをしてしまったのだと思うと、そわそわと落ち着かない気持ちになった。どうしてあんなことができたのだろう? 信じられない。いったいどういう了見なのだ。 「ずいぶん無口だね」  ヴィクトルが楽しそうに言った。 「どうかしたの?」 「ど、どうもしない」 「俺をずっとみつめたり、急に話さなくなったり、勇利は忙しい子だな」  勇利は、やっぱりばれてるんじゃ、という気がしてならなかった。おまえがそんなふうに態度を変えてしまったのはなぜか、俺は知っているぞ──そんなふうに言われているように思われるのだ。 「なんだかいい夢を見たよ」  ヴィクトルが陽気に言った。勇利は返事をしなくてはと焦った。 「ど、どんな夢?」 「どんな夢だったかな……おぼえてないんだ。でも、確かにいい夢だった」 「おぼえてないのにわかるの」 「そうさ。何か幸福なことが起こったにちがいない」  ヴィクトルはほほえんで片目を閉じた。 「俺にとってね」  勇利はのぼせ上がってしまった。 「き、着替えないの?」 「うん?」  ヴィクトルは、ネクタイをポケットにねじこんだままの自身の姿を見下ろした。 「時間がもったいないと言っただろう?」 「でも、そのままじゃ窮屈じゃない」  ヴィクトルはちいさく笑った。 「いまから着替えるとなると……」  意味ぶかそうに言葉を切る理由が勇利にはわからなかった。 「勇利も一緒に連れていかなきゃいけないな」 「手伝うことがあるの?」 「手伝うことはないけど勇利もいなくちゃ」 「いいけど……」  よくわからないままに勇利はうなずいた。どうしようと悩んでいるより、何かすることがあるほうが落ち着くというものだ。  ヴィクトルが笑いだした。 「いいのかい?」 「え? うん……」 「俺が着替えるのは寝室だよ」 「うん……?」  勇利は首をかしげた。 「……うん」  ヴィクトルが天井をあおいだ。 「だめだ。こんな勇利を連れていくのはあまりに罪深い」  なんなのだ。勇利はさっぱりわからなかった。 「お茶をもう一杯、どうだい?」  尋ねられて、勇利は自分が紅茶を飲み干してしまったことに気がついた。緊張と心配のあまり、無意識のうちに口に運んでいたらしい。 「もう帰らないと」 「まだいいだろう」  勇利はヴィクトルの前からすぐにでも消えたかったけれど、帰ったら帰ったで、やっぱりヴィクトルはわかっていたのではないか、ぼくがキスしたことを知っていたのではないかと思い悩むだろうと予想できたので、思いきることができなかった。  ヴィクトルが勇利の手からカップを取り上げ、紅茶を淹れて戻ってきた。勇利はそれを飲みながら、横目でちらと彼をうかがった。ヴィクトルはにっこり笑った。──気づいているような気がする。ヴィクトルにわからないわけがない。ソファで寝るのにそんなに深く眠るはずがないし……。 「どうしたんだい?」  ヴィクトルが丁寧に尋ねた。 「俺を見られないっていうふうだったのに、またそうやって見るんだね。何か話でもあるのかな?」 「えーっと、その……」  勇利は口ごもった。どうにか──さりげなく、それとなく尋ねることはできないだろうか? 「ヴィクトル……」 「なんだい?」 「あの……、何か変わったことはない?」 「変わったこと? どういう意味で?」 「つまり……、あきれるとか、不愉快になるとか、そういうことが身に起こったみたいな」 「俺はすてきな夢を見たからとても機嫌がいいんだよ。そう言っただろう?」 「そう……、でも、その夢を邪魔されたっていうようなことは……」 「何も邪魔されてなんかいないぞ。そもそも、どんな夢だったのかおぼえてないしね」 「…………」  勇利は口元に手を当て、深くうつむきこんだ。ヴィクトルはわけがわからないようで、「どうかしたの?」とふしぎそうだ。やっぱり知らないのだろうか? 勇利がキスをしたなんてわからなかったのだろうか? そうかもしれない。もし知っていたら、ヴィクトルなら、すぐにそのことでからかいそうな気もする。そうしないということは、あのときは眠っていたのだ。  いや、でも、本当にそうかな!?  勇利は混乱し、わからなくなってきた。キスなんてするのではなかった。こんなことになるなんて。どうしてしてしまったのだろう? まったくもう……。  勇利はまたちらとヴィクトルを見た。目が合うと、ヴィクトルがかすかにほほえんだ。勇利はたちまちとろんとなってしまった。ああ、かっこいい……こんなひとにキスしちゃった……ぼくはばかだ……。  あんまりヴィクトルがすてきなので、勇利はだんだんと、懺悔する気持ちが強くなってきた。ヴィクトルに勝手なことをしてしまった。まったく迷惑なことを。ああ……。 「あの、ヴィクトル……」  勇利はおずおずと口をひらいた。 「ぼく、ヴィクトルに言わなくちゃいけないことが……」 「なんだい?」  ヴィクトルは勇利をじっと見た。 「勇利が改まって何か言いだすと緊張するね」  緊張しているのは勇利のほうだ。しかし告白しなければ。 「謝らなくちゃいけないことがあるんだ……」 「ますます不安だ。こわいことを言わないでくれ」 「ヴィクトルも気づいてるかもしれないけど……」 「なんのことだ? 何も気づいてなんかいないさ」 「そうやって知らないふりをしてるのかもしれないけど……」 「勇利。どうしてそう思わせぶりなんだ。俺を振りまわすのはやめてくれ」 「あの……、」  勇利は胸に手を当て、大きく深呼吸をした。そしてヴィクトルをじっと見ると、思いきって打ち明けた。 「ぼく、さっき、ヴィクトルにキスしちゃって……」 「──え?」  ヴィクトルがぽかんとした。彼は目をみひらき、何を言われたのかわからないというふうに瞬いた。 「それで……、えっと、ごめんなさい……」  ヴィクトルはしばらく黙っていた。勇利はどきどきして待った。 「……いつ?」 「え?」 「いつキスしたんだ?」 「ヴィクトルが寝てるとき……」  勇利は口元に手を添えてもじもじした。 「わかってるかと思ったけど……」 「いや……気がつかなかったよ……」  ヴィクトルはまだぼうぜんとしており、信じられないという様子だった。勇利は心配になって身を乗り出した。 「ヴィクトル、怒った……?」 「え? いや……、怒ってないよ」  ヴィクトルはかすかに笑ってかぶりを振った。 「うれしいよ」 「こんなにかっこいいヴィクトルにどうしてそんなことができたのか、ぼくにもよくわからないんだけど。でも、悪かったと思ってるよ……」  ヴィクトルを見ていると、ああ、やっぱりかっこいい、どうしてもかっこいい、というときめきでまたいっぱいになって、勇利は彼から顔をそらしてしまった。 「怒ってないと言ってるだろう? 勇利、こっちを見て」 「無理」 「俺にキスだってできるのに、どうしてだ」 「だから、なんでそんなことができたのかわからないって言ってるじゃん」 「勇利がキスしてくれるなら、これからは眠りを浅くしておかなければならない。気づかないなんて惜しいことをした。せっかくの勇利からのキスだったのに」  ヴィクトルが何を言っているのか理解できないけれど、彼がすてきなので、勇利はまたしてもぼんやりととろけてしまった。 「勇利、聞いてるかい?」 「ん……」 「また聞こえてないんだろう」 「ん……」 「じゃあ俺も告白しよう。勇利、俺はきみにひとつ言わなければならないことがあるんだ」 「なに……?」 「これを聞いたら、そのうっとりした状態は打ち破られると思うよ」 「ん……」  酩酊状態の勇利にヴィクトルは笑い、ふいに耳にくちびるを近づけ、低くささやいた。 「俺もさっき、勇利にキスをした……」 「……え?」  勇利は大きな目をぱちりと瞬き、まじまじとヴィクトルを見た。彼の言うとおり、酩酊は破られた。 「うそ」 「本当さ……」 「……いつ?」 「きみが寝ているときに……。勇利のほうがさきに寝たからね」 「……どうして?」 「どうしてだと思う?」  ヴィクトルが真剣に勇利をみつめた。勇利は混乱し、のぼせ上がって彼を見返していたけれど、そのうち本当にキスをされたのだということがわかってきて、思わず声を上げてしまった。 「ひゃあ!」  ヴィクトルが目をまるくした。それから彼は笑いだした。 「勇利……なんて声を出すんだ……」 「だって驚いて……ヴィクトルがそんなこと……」 「キスしたのは俺がさきだからね。俺の勝ちだ」  ヴィクトルが勝ち誇っているけれど、勇利はそれどころではなかった。ヴィクトルにキスされた? 信じられない……。  勇利はふらふらと立ち上がった。 「どこへ行くんだ?」 「帰る……」 「なぜ? 怒ったの?」 「こんなにかっこいいひとにキスされたなんて、これ以上ぼくの精神がもたない……ちょっと落ち着いて考える必要がある……」 「帰したくないけど、勇利がどうしても帰りたいというなら仕方がない。送っていくよ。でも、その前に……」  ヴィクトルも立ち上がり、勇利の頬をそっと撫でた。勇利はまっかになり、心臓が爆発しそうになった。 「キスされて『ひゃあ』なんて色っぽくないことを言う勇利を、ますますいとおしく思う」 「そ、そうですか……」 「寝てるあいだにくちびるを奪ったのは悪かった。同じ状況になったらまたしてしまうだろうけど」 「そ、そう……」  勇利はヴィクトルの話すことの半分も意味がわからなかった。 「でも、起きてる勇利ともしたいんだ、俺は」 「何を……?」 「だから、つまり……」  ヴィクトルは咳払いをし、息苦しいのか、ゆるんでいるネクタイをさらにゆるめた。勇利は彼のそのしぐさが大好きなので、ますます陶酔してとろけてしまった。 「いま、キスしてもいいかな?」  勇利はふらつき、倒れそうになった。ヴィクトルがさっと支えた。勇利は自分がふらふらになっていることにも気づかなかった。  キスするの? ヴィクトルと? ヴィクトルがぼくとキスしたがってるの? そんなこととてもできない。無理。ヴィクトルとキスなんて、そんな……そんな……。  ──キス? 「ひゃあ!」
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sorairono-neko · 3 years
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ゆうりパンチ
 ヴィクトルは急いでチムピオーンスポーツクラブへ向かっていた。今日は撮影があったので、リンクへ行くことができなかった。このまま帰ってもよいのだけれど、それでは勇利に会えない。ふたりで四六時中一緒にいられた日本での暮らしとはちがい、いまヴィクトルは彼とは別々に暮らしているので、すこしでも顔を見られるのならクラブへ寄るくらいなんでもなかった。たとえそれが、勇利をアパートへ送っていくあいだのほんの十分ほどのことだとしても。 「ヴィクトル」  勇利は建物の外にいて、そのあたりをそぞろ歩きしながらヴィクトルを待っていた。彼は自分のコーチをみつけると瞳を輝かせ、頬を赤くして、はしゃいで駆けだした。その無邪気な様子を見るにつけ、ヴィクトルは、口元を手で覆って目を閉じ、感激に浸りたくなるのだった。 「おかえり。撮影どうだった?」 「…………」 「どうしたの?」 「いや……なんでもないんだ」  ふたりは勇利のアパートへ向かって歩きだし、勇利は、撮影した写真が載る雑誌が発売されたら教えて欲しいと懇願した。 「本ならもらえるよ」 「買いたいからいい」  勇利はにこにこした。彼を見ていると、ヴィクトルもにこにこしてしまうのだった。俺の生徒はこんなにもかわいい。 「勇利は今日どうだった?」 「ちゃんと練習した」 「勇利がちゃんと練習するのはわかっている。午後に取材があっただろう」  ヴィクトルの生徒なら、ロシアでもかなり注目されるので、取材の申し込みはたくさんあった。今日はそのうちのひとつを受けたはずだ。 「それもちゃんとやった」 「そうか」 「緊張したけど……。ヴィクトルのこといっぱい話せるの楽しかった」 「きみの取材なんだからきみの話をしなきゃ」 「したよ。したけど、ヴィクトルのことも訊かれたんだよ」 「本当かな。日本にいるころ、諸岡アナウンサーから、きみは何を質問しても俺の話をすると聞いたことがある」 「それは諸岡アナがおおげさに言ってるんだよ」  勇利はとりすまして言った。ヴィクトルは、おおげさどころか、諸岡はすこしひかえめに表現したのではないかと思った。 「慣れてるから、そういうとき何を話すべきかっていうのはわかってる」  それはそうだろう。勇利は昔からさまざまなインタビューを受けてきたはずだ。しかし。 「慣れてるっていうのと、上手く答えられるかっていうのは別問題だからね。勇利は取材が苦手だろう。その中で、俺のことは喜々として話す」 「もう……」  勇利は頬をふくらませて拗ねてしまった。ヴィクトルが笑うと、彼は右手をこぶしにして、ヴィクトルの腕にぐいと押しつけて言った。 「ゆうりパンチ」 「え?」  ヴィクトルはきょとんとした。それから理解した。どうやら勇利は腹が立ったのでヴィクトルを攻撃したらしい。 「…………」  思わずヴィクトルは、また口元を大きなてのひらで覆い、顔をそむけて感激した。なんというかわゆさ……。 「あ、ごめん。強くしすぎた?」  勇利が心配した。ちっとも痛くなかった。 「いや、大丈夫だ。ずいぶん強力な攻撃だと思ってね」 「もしかしてぼく、ばかにされてる?」 「そんなことはない。上手く取材を受けられたならよかった。でも俺も同席したかったな」 「ヴィクトルは一緒にいると変なことを言ってぼくの返事を遮るからだめ」 「勇利のことを話したかった」 「ヴィクトルこそ、自分の取材でぼくの話するよね」 「プログラムの仕上がりは順調だよ、勇利は今期これで優勝するだろうと言いたかった」 「ちょっと」 「最高得点もまた更新するだろうってね。勇利はすぐ演技構成を変更するから、記録も変更しにかかるにちがいない」 「なにそれ」 「そして勝って、金メダルを獲ったら結婚するんだと宣言したかったね」 「ゆうりパンチ」  勇利がまたこぶしを押しつけてきた。さっきよりも拗ねたようで、もっとかわいいやり方だった。ヴィクトルはあらぬ方を向いた。ゆうりパンチじゃないんだよ、ゆうりパンチじゃ……。どうしてこう俺を惑わせる���だ。かわいすぎる。ヴィクトルガードじゃ歯が立たないぞ……。  あんまり勇利がかわゆいので、ヴィクトルは彼と離れがたくなった。もっと一緒にいたかった。しかし勇利のアパートはもうすぐそこで、彼を送っていったらさよならを言わなければならない。ヴィクトルはどうにかして勇利と離れずに済む方法はないものかと思案した。なさそうだった。ああ、勇利の部屋に入りたい。彼のところで過ごしたい。勇利の部屋に上がって……そして……勇利とベッドに行って……どれほど彼に惑わされているか、丁寧に伝えたい。まだそういうことをしたことはないけれど。ヴィクトルは勇利とセックスがしたい。勇利はどう思っているのだろう?  ヴィクトルはそっと勇利を横目でうかがった。「ゆうりパンチ」で機嫌を直したらしい勇利は、ちらほらと瞬き始めた星を見上げ、うれしそうに歩いていた。彼はヴィクトルの視線に気がつくと、頬を赤くしてにこっと笑った。ヴィクトルとふたりでいられることに喜びをおぼえているのは確かだった。  しかし落ち着かなければならない。ヴィクトルと会えることを喜んでいるからといって、勇利がヴィクトルとセックスしたいと思っているとは限らない。もちろんだ。そんなことは当たり前だ。ちょっとにこにこしたくらいでセックスに結びつけるなんてとんでもない男だ。さぞかし迷惑だろう。自分に都合のよい考えは捨てなければ。  それにしても勇利とセックスがしたい。 「じゃあ、ここで」  彼の部屋の前でヴィクトルが言うと、勇利は「ありがとう」と礼を述べた。 「楽しかったよ。すこしでも会えてよかった」 「うん」  別れの挨拶をしたのだから、さっさときびすを返すべきだった。しかしヴィクトルは立ち去りがたく、ぐずぐずと迷い、その場に突っ立っていた。勇利のことだからきっときょとんとして、「なんで帰らないの?」と言うことだろう。「なんか用があった?」「話でもあるの?」──いかにも勇利が言いそうなことだ。 「その、勇利……」  この場合、ヴィクトルが自分から言わなければ話は進まない。ああ、普段はさまざまなことをいくらでも話せるのに、どうしてこういうことは言いだせないのだろう? 俺は勇利の前では完全なふぬけだ。 「あの、ヴィクトル……」  扉を開けた勇利が、ヴィクトルのほうに身体を向け、頬を赤くして目を伏せた。 「ちょっと、入っていく……?」 「…………」  彼が室内を手で示したのに、ヴィクトルはぼうぜんとなった。入っていく? 入っていくかって? つまり上がっていっていいのか? 勇利のところに──勇利に──。 「は……入っていく……」  ヴィクトルはぼんやりしたまま、ばかのように答えた。自分でも何を言っているのかわからず、返事をしたことにさえ気づけなかった。 「そう」  勇利は赤い顔でにこにこした。 「じゃあどうぞ……狭いところだけど……」  ヴィクトルは彼のあとから玄関へ入った。勇利があかりをともし、靴を脱ぎながら、玄関口にバックパックを置いた。 「ちょっと待って」  ヴィクトルは待てなかった。待てるわけがなかった。彼はすばやく勇利を抱きしめると、壁に押しつけ、耳にくちびるを当てて服の下に手を入れた。 「えっ!」  勇利が驚いた声を上げ、身をかたくした。ヴィクトルはくるおしい気持ちで、勇利の白い肌に幾度もキスした。ちゅっちゅっと音が��て続けに鳴った。 「え、え、ヴィクトル、ま、待って」 「勇利……」 「待って待って待って。え? え?」  ヴィクトルはシャツの下の素肌にふれ、もう一方の手でジャージパンツを下ろそうとした。勇利がびくっとふるえ、ヴィクトルの両腕に指を添えて力をこめた。 「ヴィ、ヴィクトル……」  ヴィクトルは勇利を見た。勇利は大きな黒い瞳をみひらき、まっかになってぼうぜんとヴィクトルをみつめていた。ヴィクトルは混乱した。 「いいんだよね……?」 「な、何が……?」 「部屋に入っていいって……」  ふたりはしばらくみつめあった。そしてヴィクトルはようやく気がついた。自分は勘違いをしていたのだ。勇利はただ「部屋ですこしお茶でも飲んで」というつもりだったのだろう。普通はそうだ。普通は勇利の思うとおり、お茶でも飲んで帰るものだ。しかし勇利とセックスしたくてたまらないヴィクトルは、身体をゆるしてくれるのだと勝手に思いこんだ。あまりに愚かだ。勇利が示してくれた好意に、示された以上の期待をして飛びついたのだ。彼に夢中のヴィクトルは、冷静な判断力を完全に失っており、そんな勘違いをした。 「い、いや、その……」  ヴィクトルはしどろもどろになった。 「ごめん。すまない。俺はとんでもない思い違いを……」 「…………」  勇利はぱちぱちと瞬き、ヴィクトルの顔をまじまじとのぞきこんだ。ヴィクトルはあまりに気まずく、恥じ入る気持ちだったので、彼を見返すことができなかった。まだ手が勇利の服に入っていることに気がついて、慎重に、ゆっくりと抜き取った。 「本当にごめん……俺はばかだ」  勇利はしばらく黙っていたが、ふいにヴィクトルの手にふれた。ヴィクトルはびくっとした。勇利はヴィクトルの手をぐいぐい引いて部屋へ入り、ソファに一緒に座るよううながして、じっとヴィクトルを見た。 「あの、ヴィクトル」 「本当に悪かったと思ってるよ。俺を罵ってくれ」 「そういうのはいいんだけど」  勇利はヴィクトルから視線をそらさなかった。ヴィクトルは彼の純粋な瞳にますます苦しくなった。 「ヴィクトルって……」 「……なんだい」 「ぼくと、その、……そういうことしたいの?」  ヴィクトルはどう答えたものか激しく迷った。つい今し方の自分の行動からそのことはあきらかだし、隠すつもりもない。しかし勇利がどう思うかを考えるとそうだと認めるのが難しい。 「そうだね、それは……なんていうか……その……」  ヴィクトルはつかえながらぼそぼそと言った。勇利は相変わらずまっすぐヴィクトルをみつめており、けなげに答えを待っていた。うなずけば、彼はなんと言うだろう? 「そう! ぼくもだよ」とにっこりしないことだけは確かだ。それはわかりきっている。勇利はそんなこと考えもしなかったという態度ではないか。きっと、「そうなんだ……」と困ったように黙りこまれるだろう。おびえられ、「いますぐ帰って」と追い返されるかもしれない。 「そういう点に関しては……俺は……」 「うん」 「どう言えばいいのかな。つまり……」 「うん」  ヴィクトルがぐずぐず言うのにいらだちもせず、勇利は素直そうな様子だ。彼の純真なまなざしにあらがえず、ヴィクトルは「これはゆうりパンチと同等の攻撃力ではないか」と思い、うつむいた。 「……したい」  勇利の顔は見られなかった。どういう反応があるか、ヴィクトルは断罪を待つような気持ちだった。もう勇利の目を一生見ることはできないかもしれない。そんな気さえした。  しかし勇利があんまり長く黙っているので、そのうち、彼がどういう思いでいるのか知りたくてたまらなくなった。どんな顔をしているのだろう? 嫌悪の感情を浮かべているのか。びっくりしているのか。信じられなくてぼうぜんとしているのか。あるいは、信頼していた相手からそんなことを言われて、深くかなしんでいるのか。  勇利……。  ヴィクトルは思いきって顔を上げた。 「……ヴィクトル」  勇利はぽかんとしていた。彼はかなしそうでもなかったし、怒っているようでもなかった。とにかく、ふいの出来事に驚き、反応できないといった態度だった。 「そうなの?」 「え……」 「そうなの? そんなこと思ってたの?」 「あ、ああ……」  ヴィクトルはどう返事をすればよいかわからず、ただばかのようにうなずくだけだった。ヴィクトルからそうだと認められても、勇利はまだ驚いているようだ。 「そ、そうなんだ」 「ああ」 「そう……」 「…………」  勇利は本当にわかっているのだろうか? ヴィクトルは心配になってきた。だがここで、「セックスのことだよ」と念を押す勇気もない。  そのとき、勇利がもぞもぞと何か始めた。なんだろうと視線を向けると、さっきヴィクトルが手を入れたせいでみだれた衣服を、一生懸命整えているのだった。ヴィクトルは赤面しそうだった。わかるよな。こんなことをされてるんだから、セックスのことだってわかるよな……。 「ゆ、勇利」  ヴィクトルはそこでとんでもないことに気がついた。そもそも、部屋へ上がっていいと言われたからといって、すぐにセックスに及ぼうとするなんて、いかにも軽薄ではないか。勇利にどれほどけがらわしいと思われたことか。セックスを求めるだけでもかなり身勝手なのに、そのうえ性急だったことに彼はいい印象を持っていないのではないだろうか。 「ちがうんだ」 「え、ちがうの?」  勇利が目をみひらいてヴィクトルを見上げた。ヴィクトルは舌がもつれた。 「いや、ちがわないんだが。勇利とセックスしたいということはちがわないんだが」  口早に言うヴィクトルに、勇利がさっとうつむいた。しまった。あまりにあからさまな言いぶりだった。 「ご、ごめん。俺が言いたいのは、勇利を裸にして抱きたいという、それについてはまちがいないということであって」  俺は何を言ってるんだ! さっきよりあからさまじゃないか! ヴィクトルは自分の口をひねり上げたくなった。勇利は顔を上げようとしない。 「すまない。本当にすまない。いま、かなり混乱していて──いや、混乱しているのは勇利のほうだろうが。あんなことをいきなりされて、わけがわからないし気分を悪くしただろう。とにかく俺が言いたいのは──」  ヴィクトルは勇利の身を引き寄せ、訴えるように夢中で叫んだ。 「突然あんなふうにしたけど、身体目当てじゃないということなんだ。部屋へ入るなりふれようとして、あきらかにおかしいし、信じられないだろうが本当なんだ。ただセックスがしたかったわけじゃない。勇利とセックスしたいんだ。俺は勇利を愛してるんだ。だからセックスしたいんだ。やっていることがまったく子どもじみてばかげているけど、本当なんだ。勇利のことを愛していて、勇利がちょっと部屋へ上がってと言っただけで飛びついてしまうほど、俺はおまえに狂ってるんだ。そういう気持ちでセックスしたいんだ。俺はそう思ってるんだ」  言い終えた瞬間、ヴィクトルは絶望しそうになった。セックスセックスと連呼してしまった……。ただでさえあきれることをしているのに、それに加えて……。 「ゆ、勇利」  ヴィクトルは言い訳をしようとした。けれど、口をひらくとさらにみっともない姿をさらしてしまいそうだった。どうして俺は勇利の前ではこうもぽんこつなんだ。 「あの……」  勇利がようやく顔を上げた。しかしヴィクトルのほうは見られないようで、視線をそらしていた。 「あんまり言わないでくれる? そういう……なんていうか……」 「ごめんね。セックスって言いすぎたね。勇利とセックスしたいものだから……」 「…………」 「……あ」  ヴィクトルは「いますぐ出ていって」という言葉を覚悟したのだけれど、勇利は何も言わなかった。彼は背もたれにもたれかかり、ぼんやりと宙をみつめていたかと思うと、ふうと息をついてつぶやいた。 「そっか……」  待ってくれ。どういう意味なんだそれは。どんな感情の「そっか」なんだ。ヴィクトルは恐怖した。勇利が何かを悟ったり決心したりしたときには大変なことが起こる。だが、この状況をつくりだしたのは自分なので何も言うことができない。 「えっと、じゃあ……」  勇利が立ち上がった。ヴィクトルはどきっとした。勇利は着ていた上着を脱ぐと、ソファに無造作に置き、それからベッドのほうへ歩いていった。何が起こるのだろうと、ヴィクトルは目をみひらいて彼の姿を視線で追った。  勇利がベッドに膝をつき、そこに上がった。そして掛布を持ち上げると、もぞもぞと入りこんでしまった。ヴィクトルはうろたえた。何もかもがいやになって、ふて寝をするしかないということなのか。そのあいだに帰って欲しいと彼は言っているのか。もう口も利いてもらえないのか。  勇利のかたちにもこもこしたふとんが、またもぞもぞと動いた。そのうち勇利の白い手がにゅっと出てきて、靴下を落とした。ヴィクトルは予想もしなかったその出来事にぽかんとなった。もう一度手が出てきて、今度はジャージパンツをそっと床に落とした。三度目にあらわれた手は眼鏡を持っていて、それ��まくらべの棚に置かれた。 「……あの」  そのあと、ふとんの隙間から勇利の顔がのぞいた。たいそうかわゆい、ためらいがちの様子だった。 「これ以上は自分で脱げないので……」 「え? あ、ああ……うん?」  ヴィクトルは自分が何を言っているのかよくわからなかったし、何を言われているのかはもっとわからなかった。 「ヴィクトル……」  ヴィクトルがいつまでも動かないので、勇利は清純そうにためらい、それから、部屋へ誘ったときのように恥じらった。 「ちょっと、入っていく……?」  ふとんの陰からひかえめにみつめられて、ヴィクトルは殴られたような気持ちになった。いや、実際、殴られたのだ。なんという強烈なゆうりパンチ……。 「かなり、入っていく」  ヴィクトルは勇利のすこし上げているふとんの中にすべりこんだ。  ふたりしてもぐりこんでいた掛布をはらいのけて起き上がり、ヴィクトルは息をついた。 「大丈夫かい?」  勇利はまぶしそうにあかりにまぶたをほそめ、目が慣れなかったのか、両手で顔を覆って背を向けてしまった。 「勇利?」 「…………」 「どこか痛いの?」  ヴィクトルは心配した。勇利はちいさな声で答えた。 「あんなふうにされるなんて聞いてない……」 「そんな……そんなにすごいことはしてないよ」  ヴィクトルは幸福な気持ちでなぐさめた。しかし勇利はなんとしても承知しなかった。 「したよ……」 「……よくなかった?」 「そんなことないけど……」  ヴィクトルはほっと息をついてにこにこした。そうか。勇利、よかったのか。 「でもあんなのは聞いてないよ」 「そうか。聞いてなかったか」  ヴィクトルはさらににこにこしながら勇利の隣に横たわり、彼に腕枕をした。 「勇利、こっちを向いてごらん」 「まぶしい」 「ふとんで陰をつくってあげる」 「動けない」 「俺が手助けしてあげよう」 「眠い」 「俺のほうを向いて眠ればいい」 「恥ずかしい」 「恥ずかしくないよ。かわいいよ」 「恥ずかしい」  勇利がぶつぶつ言って抵抗するので、ヴィクトルは彼の肩に手を添えて振り返らせた。勇利はおとなしくしていたけれど、言ったとおり気恥ずかしいらしく、目を合わせようとしなかった。ヴィクトルは可笑しくてかわゆくてたまらず、彼の額に接吻した。 「……ヴィクトルはどうだった?」  ようやく勇利がヴィクトルのほうを見、上目遣いをした。その目つきだけで、ヴィクトルは「もう一回」と言いたい気持ちだった。 「あんなにぼくとしたがってたみたいだけど、実際……あの……してみて……」  勇利は赤くなった。 「もういいとか……そういう……」  彼は自信がないようだ。ヴィクトルは、なぜなのかわからなかった。自分が勇利にくるおしいほどの愛情をそそいだことは、さっきのさまざまな熱狂ぶりから伝わるはずなのだが。努力が足りなかったのだろうか。それなら……。 「勇利」  ヴィクトルはまじめに呼んだ。勇利が緊張した顔つきでヴィクトルをみつめた。 「もう一回したい」  勇利はきょとんとし、瞬き、それからまっかになってこぶしをヴィクトルの胸に押しつけた。 「ゆうりパンチ」  勇利はますます綺麗になるようだった。夕暮れの帰りに川沿いの道を歩いているとき、夜遅くなって星明かりを見上げるとき、早起きして早朝の歩道をヴィクトルのほうへ駆けだしてくるとき──どのときもすがすがしく、うつくしく、花雫のようなきよらかさにみちていた。ヴィクトルはいつでも胸をうずかせ、苦しいくらいに彼をいとおしく思った。勇利ともっと一緒にいたかった。けれど、あれから一度も、ヴィクトルは勇利の部屋を訪れていなかった。また、勇利もヴィクトルのところへ来ていなかった。  二度目を誘うのは、一度目よりずいぶん難しい気がした。一度目の大事件のような始まり方を思えば、そんな考えはばかげているのかもしれないけれど、しかし、いまのヴィクトルにとってはそうなのだ。勇利がなんと答えるのか想像もできない。あのとき、彼は幸福そうだったけれど、だからこそ、もうこれで何もいらないと考えるくらいが勝生勇利なのだ。  もちろんそれで終わらせる気などないヴィクトル��、ある日、こころぎめをして勇利に話しかけた。 「今夜きみの部屋へ行っていいかい?」  ヴィクトルがかなりの緊張をして言ったというのに、勇利のほうは気軽に、「いいよ」とあっさり答えた。彼は、リンクの片側を覆っているガラスの向こうの、なんの変哲もない風景を眺めているようだった。ヴィクトルは不安になった。勇利はまた「お茶でも」という気持ちで返事をしているのではないのか? 勇利ならありそうなことだ。部屋へ入ってヴィクトルが抱きしめようものなら、「どうしたの?」ときょとんとして尋ねそうだ。 「勇利」 「んー、なに……」 「わかってる?」 「何が?」  勇利は時計を見た。そして「ヴィクトル、リンクへ入ってよ」とねだった。さっき、四回転フリップを跳んであげると約束したので、それを果たしてもらいたいらしい。 「その前に……」 「ほら、早く早く」  勇利に背中を押され、ヴィクトルは一歩一歩進んだ。エッジカバーを受け取る勇利はにこにこしていた。ヴィクトルは溜息をついた。 「勇利、本当にわかってないんだな」 「だから何が?」  ヴィクトルは振り返って勇利をじっと見た。勇利がぱちりと瞬いた。 「部屋へ行きたいっていうことは、おまえを抱きたいっていうことだよ」  勇利が目をみひらいた。その表情がかわいらしかったので、ヴィクトルは笑いだして氷の中央へ向かっていった。後ろを向くと勇利が顔をまっかにしてぷんぷん怒っていた。 「ヴィクトルのばか!」  声が響き渡り、まわりのリンクメイトたちがなにごとかとふたりに注目した。 「勇利がぜんぜん俺の愛を理解してないからだよ」  ヴィクトルは笑顔で言い返した。すると勇利は反論した。 「わかってるよ!」 「わかってないよ。俺の言葉に耳を貸さないで、そっぽを向いてたじゃないか」 「ちゃんと聞いてたし、わかってるからそうしたんだよ!」 「なぜ?」 「なぜって? わかってないのはヴィクトルのほうじゃん!」  勇利は赤い顔で叫んだ。 「恥ずかしいからだよ!」  ヴィクトルは驚いてぽかんとした。 「いちいち訊かずに、ぼくの部屋へなんかいつでも来ればいいのに!」  勇利は胸の前でぐっとこぶしを握った。 「にぶちん!」  彼はそれを後ろへ引き、勢いよくヴィクトルのほうへ突き出した。  ゆうりパンチ……。  ヴィクトルは思わず胸元を押さえ、ふらふらと後ろへ下がってその場にくずおれた。そしてそのまま氷へ沈み、もうめろめろで立ち上がれないというようにぐったりとなった。  ゆうりパンチ。  なんとおそろしくすてきで甘い攻撃なのだ。
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sorairono-neko · 3 years
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こんなにかわゆいのでは…
 クロージングバンケットのために、ヴィクトルと勇利は部屋で着替えをした。勇利が身に着けたのは、ヴィクトルがバルセロナで彼の誕生日プレゼントとして贈ったスーツで、ヴィクトルはそれを試着以外で着ているのを見たことがなかった。落ち着いた濃い色の生地は上質で上品であり、物静かな勇利の容貌にしっくりと合った。勇利はこれを着て初めて髪を整え、いつでもバンケットに出られるばかりにして、ふうと溜息をついた。  ヴィクトルは勇利のあまりのうつくしさに目もくらむほどだった。すらっとした身体つきも、まっすぐに伸びた背筋も、強く印象づいた。手をわずかに上げて口元にふれたり、瞬きをするしぐささえ品格があり、勇利の気品と器量のよさを、いますぐみんなに見せてまわりたいくらいだった。なんて綺麗なのだろう。  ヴィクトルは身もふるえるほどの勇利の美々しさにうっとりしながら、彼に詩的な讃辞をささやこうとした。ところがそのとき、勇利がためらいがちに、何か言いたげにちらと横目でヴィクトルを見たので、それが気になって思わず尋ねた。 「どうしたんだい?」 「何が?」  勇利はすぐさまそう返事をした。ヴィクトルはますます不安になった。勇利が言いたいことを言わないときはたいへん危険なのだ。 「いま、俺に何か言いたそうにしただろう?」 「してないよ」 「いや、した。俺をちらっと見たじゃないか」  ヴィクトルは粘り強く言った。勇利と話しあいをしないと大変なことになると、彼は身をもって知っているのだ。三ヶ月前は本当におそろしい体験をした。 「見ただけだよ」 「何か言いたいことがあるから見たんだろう」 「ちょっと視線を向けたからってそんなに捜査しないでよ。いいじゃない、ヴィクトルを見るくらい……」 「それはもちろんかまわないが……」  ヴィクトルはまだ納得ができなかったけれど、勇利が何もないと言っているのだからこれ以上打つ手はない。彼は頑固なので、ヴィクトルの力ではどうにもしようがないのだ。別のいとぐちをみつけなければ。 「そんなことより早く行こうよ。遅刻したら怒られる」 「大丈夫だよ」 「ヴィクトルの『大丈夫』はぼくのそれとずいぶんかけ離れてるから……」  勇利は会場に着くと、見知った顔がないかとあたりを見渡した。誰もいなかったようで、彼はかるくかぶりを振り、すみのほうへ歩いていった。もちろんヴィクトルも寄り添った。 「もうそろそろ始まるかな……」 「そうだね。おっと、あそこにヤコフがいる」  ヴィクトルは笑ってそちらに背を向けた。 「どうしたの?」 「怒られるからさ」 「何をしたの」 「何もしてない。ヤコフは俺の顔を見るとがみがみ言ってくるんだ」 「それは、ヴィクトルが何もしてないと思ってるだけで、本当はちがうんじゃないの」  勇利はくすっと笑った。ヴィクトルは俺の勇利は天使よりかわいいし綺麗だとものも言えず、いとおしそうに彼のことをみつめた。勇利は時刻を確認していたけれど、そのうちふと顔を上げ、ちらと──何か秘めたものがある目つきでヴィクトルを見た。ヴィクトルはどきっとした。勇利はすぐに目をそらした。 「……勇利」 「なに?」 「やっぱり何か言いたいことがあるんだろう」 「何もないよ。さっきからどうしたの」  そう訊きたいのはヴィクトルのほうだ。いったい勇利はどうしたというのだ。ヴィクトルと話しているときは物静かだけれど──、しかし、慎重によくよく観察してみると、なんとなく落ち着きを失っているような気がする。考えちがいだろうか? いや、勇利の場合、どんなにささいなことでも見逃してはならない。絶対に何かあるのだ。 「あ、ピチットくんだ」  勇利は人ごみの中にピチットの姿をみつけたらしく、そちらへ向かった。ヴィクトルはついていこうとしたが、途中で別の選手に声をかけられた。 「子どもじゃないんだから大丈夫」  勇利はきっぱり言って行ってしまった。ヴィクトルはあきらめきれないという様子で、すんなりした後ろ姿を見送った。 「なんて目をしてるんだ?」  呼び止めた選手に笑われた。  バンケットが始まり、ヴィクトルはしばらく勇利のそばに行けなかった。ふたりのテーブルは分かれていたし、食事の最中はみんな落ち着いている。ヴィクトルは食べているあいだじゅうそわそわしていた。いますぐ勇利のところへ飛んでいきたい。  にぎやかな時間に移り、みんながあちこちに移動し始めると、ヴィクトルはすぐに立ち上がった。しかし人気のある彼は、こういう場では、一緒に写真を撮って欲しいと多く求められる。それに応じながらなので、なかなか勇利のもとへたどりつくことができなかった。おまけに、ようやく彼のテーブルをみつけたと思ったら、すでに勇利はおらず、ヴィクトルはぽつんと立っているだけになってさびしかった。 「何を落ちこんでるんだい。どうせつまらない理由だろうけど」  クリストフに肩をたたかれ、振り返ったヴィクトルはむきになった。 「つまらないとはなんだ。勇利がどこに行ったかわからないんだから重要なことだ」 「バンケットなんだからそりゃ誰かと話しに行くよ」 「俺のところには来てない」 「毎日会ってるじゃない、二十四時間」 「二十四時間じゃない。寝るときは別だ。俺は同じでいいと何度も言ってるんだが……」 「そういう話は興味ないよ。勇利なら、ほら、あそこにいるよ」  クリストフが示した先に、確かに勇利がいた。彼はピチットとおり、さらに、日本人らしい別の選手も何人か一緒だった。何か声をかけられているのだろう。勇利にあこがれている者も多い。せっかくの時間を邪魔しに行くこともできないので、ヴィクトルは溜息をついて我慢することにした。 「かなり不機嫌じゃない。ちょっと離れたくらいで落ち着きのない男だね」 「ちょっとじゃない……」  勇利が何か考えごとをしているようなんだ、と訴えようとしてヴィクトルは口をつぐんだ。この感覚は自分にしかわからないだろう。ヴィクトルはこころが波立っていたけれど、自分だけがわかる勇利の信号のようなものがあるということで、いくらか得意になった。勇利のことは俺だけが理解できるんだ。……いや、彼の心中はまったく理解不能だが。  そのうち、日本人選手たちが離れていき、別の選手が来て楽しげに声をかけた。ピチットが陽気に答え、勇利もひかえめにほほえんだ。 「見たか? あの微笑。なんてしとやかで上品なんだ。うつくしい。気品というのはああいうことを言うんだ」 「はいはい」  クリストフは飲み物を選ぶのに気を取られているようだった。ヴィクトルは夢中で勇利をみつめた。なんて純粋で可憐なんだ……俺の勇利……。  と──。  そのとき、ふと顔を上げ、勇利がヴィクトルのほうを見た。ヴィクトルは目が合ったことにどきっとし、浮かれ、あまりの幸福にとっさに反応できないほどだった。すると──、勇利が、何か言いたげな、わずかに眉を寄せた、まぶたをほそめるような表情をした。ヴィクトルは目をみひらいた。 「……勇利が変じゃないか?」 「変って?」  クリストフがグラスを取って振り返ったときには、勇利はもうヴィクトルを見てはいなかった。ヴィクトルは説明できなかった。 「彼がさっきから俺に何か言いたいようなんだ」 「期待しすぎなんじゃないの」  クリストフは、ヴィクトルが勇利からの愛の告白を待っていると思っているらしい。そんなすてきな話ではないのだ。そうだったらよいのだけれど。 「俺を見てすぐ目をそらすんだ」 「好きな男と視線が合ったら恥ずかしいんでしょ。勇利らしいじゃない」 「そういう感じじゃない」 「どういう感じなんだい」 「何か俺に対して気になることがあるっていう──」  そのとき、また勇利がちらっとヴィクトルに目を向けた。しかし、やはりすぐに顔を戻し、ピチットが冗談を言うのに笑って答えた。 「……君、勇利に何かしたの?」  クリストフが横目でヴィクトルを見た。 「何もしてない」 「君の場合、自分で気づいてな��だけっていう可能性もあるからね」  確かにそれは否定できない。ヴィクトルはごく普通に思うことを言っているだけなのに、ときおり、勇利からあきれたようなまなざしを向けられることがある。 「……でも近頃は何もなかったはずだ。ついさっきまで彼の態度も平穏だった」 「試合が終わるまで我慢してたんじゃないの」  クリストフがひやかすように言った。 「集中したいときにコーチと言いあいたくなんてないでしょ。君は自分の競技もあるわけだし」  そうなのだろうか。勇利はずっとヴィクトルに不満があったのだろうか。自分は何をしたのだろう。ヴィクトルは真剣に考えこんでしまい、それを見たクリストフがくすくす笑った。 「冗談だよ。あまり深刻にならなくていいと思うけど……」 「俺には勇利の愛が必要だ」 「なんの話をしてるんだか」  ヴィクトルはしばらく、勇利は何に対して怒っているのだろうということを思案し、やってきた知り合いの選手たちに上の空で答えた。ヴィクトルの様子がおかしいとあきれる彼らに、クリストフは肩をすくめて説明した。 「教え子のことしか頭にないんだよ。生徒がそばにいないと言ってさっきからごねてる」 「まるっきりまいってるな」 「そうなんだよ。勇利勇利ってその話ばっかりさ」  いくら考えてもわからなかった。ヴィクトルは溜息をつき、勇利のほうへ首をまわした。すると勇利がまたこちらを見ており、彼は目が合った瞬間、さっと背を向けてしまった。まわりにいた全員が大笑いした。 「何かずけずけと余計なことを言ったんだろう」 「いや、べたべたしすぎなんじゃないか? この溺愛ぶりで四六時中一緒にいられたんじゃ、彼も大変だ」 「ところかまわず寄り添ってるものね。常にさわってるし」 「そんなことはない。勇利はそういうことで怒ったりしない」  ヴィクトルの反論にさらにみんなが笑った。 「でも実際、勇利の態度がそっけないわけだし、何かがあるんだよ」 「…………」  クリストフの言葉で押し黙ったヴィクトルを心配したのか、彼らはまじめになって親切に言った。 「冗談だよ。気にしないほうがいい」 「そうそう。彼だってヴィクトルに夢中じゃない。清楚な感じだし、ただ恥ずかしいだけよ」  ヴィクトルは我慢できなくなってきた。勇利のそばにいられないのがよくない。彼と話もできないではないか。たとえ勇利がどれほど頑固だろうと、何か訊けば手がかりがあるかもしれないし、そもそも、ヴィクトルは勇利と一緒にいないと落ち着かないのだ。  いきなり黙って歩きだした彼に、友人たちが一斉に噴き出した。 「こらえ性のない男だねえ」 「勇利」  ヴィクトルが声をかけると、勇利がどきっとしたように身をふるわせ、おそるおそるといったふうに振り返った。 「……なに?」 「まだ話してるのかい? そろそろ俺のところに戻ってきてくれ」 「試合でしか会えない人がいるんだから、すこしくらい話すよ」 「でも普段の勇利はそんなに社交的じゃない」 「ほっといて」  勇利が頬をふくらませて拗ねたので、やっぱりかわいいとヴィクトルは浮かれそうになった。しかしはしゃいでいる場合ではない。勇利と話をしなければ。彼と会話していた者たちは、ヴィクトルに気を遣ってどこかへ行ってしまった。いまなら時間がありそうだ。 「勇利、さっきから俺のことをときどき見ていたけど、何か用事があったのかい」 「べつに。ヴィクトルがあそこにいるなあって見てただけだよ」 「そういう感じじゃなかった」 「ヴィクトルがどういう感じに見えたかは知らない。ぼくはそういうつもりだったってこと」 「でも、何か言いたそうだった」 「そんなことないよ。ヴィクトルの気のせい」  勇利の答えは最初からずっと変わらない。ヴィクトルはどうにも落ち着かなかった。 「勇利、俺が何かしたのか? 勇利を傷つけた?」 「何も」 「でも俺に言いたいことがあるんだろう?」 「ないってば。ヴィクトルどうしたの」  ヴィクトルは難しい顔をして考えこんだ。勇利がとんでもないことを言いだす前に謎を解きたいけれど、どうすればいいのかわからない。前にとんでもないことを言いだしたときは……あのときは、前ぶれなどなく──かえってヴィクトルが浮かれるようなことがあったくらいだった。だったら今回は問題ないのだろうか。あんなふうに勇利が甘えてこないのなら、心配はいらないのか。いや、安心はできない。勝生勇利のことだから何が起こってもふしぎではない。 「ヴィクトル、大丈夫?」  勇利がヴィクトルの目の前で手を振った。ヴィクトルは顔を上げた。勇利はきょとんとした、純粋そうな大きな瞳でヴィクトルを見ていた。どうしようもなくかわゆい。 「本当に何も問題はないんだね」 「ないよ」 「そうか……」 「…………」  ふたりはしばらく黙りこんで人々を眺めていた。ヴィクトルはグラスに口をつけ、勇利はうつむきがちになって瞬きをしていた。そのうち彼は、指をもじもじといじりながら首をもたげ、ヴィクトルをおずおずと見上げてささやいた。 「あの、ヴィクトル……」 「なんだい」 「…………」  勇利が困ったように口ごもった。その楚々としたそぶりにヴィクトルはたまらないものを感じた。勇利、愛してる。おまえのことは俺がしあわせにするからな。 「えっと……」 「ああ」 「あの……」 「何かな」 「…………」  勇利はもじついたあげく、ぱっと前を向き、「なんでもない」とつぶやいた。ヴィクトルは納得できなかった。 「いま何か言いかけただろう」 「なんでもない。ほんとになんでもないんだ」 「勇利」 「ぼくもう行くね」 「行くってどこへ」 「あそこに友達がいるから」  勇利はさっと立ち去ってしまった。彼はピチットやレオ、グァンホンなどに声をかけられて笑顔を返した。取り残されたヴィクトルは、ぼんやりとするしかなかった。  やっぱり何かある。絶対に何かあるんだ。そう思いはするものの、心当たりはひとつもなかった。日常のいとなみについてだろうか。ヴィクトルの生活態度がよくないのか。家のことはきちんとしているつもりだけれど。それともスケートのことか。悩みがあるのか。試合で何かに気づいたのかもしれない。しかし、それを言いだしかねているとはどういうことだろう。勇利はまるで遠慮でもしているかのようだ。自信がなさそうというか──甘えたそうというか──。 「さっぱりわからん」  ヴィクトルは頭をかきむしりたい気分だった。勇利はどうしてこんなにもヴィクトルのこころを悩ませるのか。なんて魅力的なのだ。  あまりに思い悩んで頭痛がしてきたので、ヴィクトルはつめたい水を取りに行った。 「謎は解けた?」  クリストフが笑いながら話しかけてきた。 「ぜんぜんだよ」 「いまも勇利、君のことをじっと見てたよ」 「えっ」  ヴィクトルは急いで振り返った。 「もう見てないよ。確かに、何か言いたそうではあったね。せつなそうというか、胸が痛そうというか」 「なんてことだ」  ヴィクトルはつぶやいた。 「愛してるとささやいて抱きしめたい」 「そういうので解決しないんじゃない?」 「おまえしか見えないとキスしたい」 「ただ君のしたいことでしょ」 「でも愛を伝えるのは大切なことだ」 「それはそうだけど、勇利が待ってるのは果たしてそういうことなのかな」  ヴィクトルの頭痛はいっこうによくならなかった。 「勇利のことを考えていると、永遠に解けない謎を解いている気がする」 「ヴォイニッチ手稿とか? ロマンティックだね」  そのあとも、勇利はあまりヴィクトルのそばに来なかった。ヴィクトルが近づいていっても、すぐに離れてしまうのだ。俺のそばにいたくないのかとヴィクトルは不満だったけれど、勇利からそういう気配は感じられない。相変わらず、ときおり何か言いたげにヴィクトルを見ているだけだ。 「あんまり難しく考えないほうがいいんじゃない?」  クリストフはなんとも思っていない様子だった。 「確かに勇利は変わってるけど、ヴィクトルのことに関しては、びっくりするほどわかりやすいってこともあるよ」 「たとえば?」 「君を見るときの愛いっぱいの目つきとか」  結局謎は解けないまま、ふたりは部屋へ帰ってきた。ヴィクトルはまだ考え続けており、ベッドに腰を下ろすなり大きく溜息をついてしまった。クリストフはきっとたいした問題ではないと言うけれど、果たしてそうだろうか。勇利のことだから……勇利のことだから……。  何か連絡が入っていたらしく、勇利はすこし携帯電話にさわった。それからしばらくためらうようなそぶりを見せ、もじもじし、ちいさく吐息をつくと、着替えのために上着のボタンを外し始めた。それらの行動だけでも、彼のこころに思うところがあるのはあきらかだった。 「勇利」  勇利は手を止め、不安そうにヴィクトルを見た。 「ここへおいで」  ヴィクトルは隣をかるく叩いた。勇利はまたためらうような様子を示し、しかし結局そこにちょこんと腰を下ろした。 「……なに?」 「そろそろ教えて欲しい」 「何を?」 「俺に言いたいことがあるんだろう? 俺は何をしたんだ? 勇利のためにできることはないのか? きみのそのちいさな頭を悩ませているのはどんなことなんだ?」 「…………」  勇利は黙りこんだけれど、「何もない」とは言わなかった。彼はうつむいて指をいじった。 「たいしたことじゃないんだよ」 「知りたい」 「本当にささいなことなんだ。ヴィクトルが聞いたらあきれる」 「教えてくれ」 「きっと笑うよ。そんなことを考えてたのかって」 「どんなことでも笑わないと誓うよ」  勇利が横目でヴィクトルを見た。ヴィクトルは真剣な顔でうなずき、それから手をかるく上げて宣誓の姿勢をした。 「誓う」 「……ばかって言わない?」 「言わない」 「あきれない?」 「あきれないさ……」  勇利は思いつめたような横顔を見せ、まだためらっているようだった。彼の頬が清楚にほんのりと赤くなっているのは気のせいだろうか? 照れるようなことなのか。しかし、さっきは不安そうでもあった。スケートのことだろうか。 「勇利の演技はすてきだったよ」 「え?」 「何度も言ったけどね……本当だ」  勇利が幾度か瞬き、そして可笑しそうにまぶたをほそめた。彼はつぶやくように言った。 「そんなことじゃないんだよ……」  勇利はおもてをさしうつむけ、てのひらを胸のあたりに当ててゆっくりと話した。 「ただ……、ぼくは……、あの、これどうかなって思って……」  ヴィクトルはきょとんとした。これ? これとはなんだ? 勇利はいつだって最高だ。 「これってなんだい?」 「だから、これだよ……」  勇利が上着のボタンのあたりをかるく握った。ヴィクトルはまだわからず、間の抜けたことに、ぽかんとしたままだった。すると勇利は顔を上げ──そのときにははっきりわかるほど、ずいぶん頬が赤くなっていた──思いきったように口早に言った。 「服のことだよ」 「──え?」  そう言われてもなお、ヴィクトルにはわからなかった。服がどうしたって? そのスーツは、勇利をすばらしく引き立てて、すらっとした立ち姿を印象づけていた。今夜の勇利はきわだってうつくしかった。 「だから……」  勇利がもじもじした。 「これ、ヴィクトルに買ってもらったスーツなんだよ……貴方は忘れてるかもしれないけど」 「忘れるわけがない」 「ぼくは仕立てたやつも、こんな上等なのも着たことないから……、あんまりよすぎて、不釣り合いなんじゃないかっていう気がして」 「…………」 「ヴィクトルから贈られたのを着るのは、初めてだったんだよ」  勇利が何か意味のこもった、せつない声でささやくのに、ヴィクトルは頭を殴られたかのような衝撃をおぼえた。 「だから……その……なんていうか……」  勇利は「似合っている」と言って欲しかったのだ。たったひとこと、そう言われれば安心したのだ。そのことにヴィクトルは思い至り、自分をばかだと思い、勇利のことを、本当に自分の魅力のわからない子なのだといとしく思った。似合わないわけがないではないか。勇利はこんなにうつくしく、その彼のためにヴィクトルが選んだのだ。 「……似合ってるよ。とても」  ヴィクトルは低く言った。すると勇利は溜息をついた。 「こうなるから言いたくなかったんだ……」 「どういうことだ?」 「ぼくにこんなふうに訴えられたら、ヴィクトルはそう答えるしかないでしょ。いや、似合わない、きみには不相応だよ、なんて言おうものなら、またぼくが泣くと思ってるんだ」 「無理に褒めてるわけじゃない」 「ありがとう」  ぽつんと言ったその口ぶりから、彼がまるで信じていないことをヴィクトルは感じ取った。じれったかった。 「本当だ」 「似合ってたら着たときにヴィクトルは言うでしょ。わかってたんだけど……。言ってもらえるかもしれないってそわそわしたくないし、言われなかったら落ちこむからそばにいたくなかったのに、やけにヴィクトルは近づいてくるし」  勇利は拗ねたように苦情を述べた。ヴィクトルは、バンケットのあいだじゅう、勇利はそのことを気にしていたのかと思った。なんて、なんて……。  なんてかわゆいのだろう。 「さあ、話したよ。もういいでしょ。脱ぐよ」  勇利がなげやりに言って立ち上がろうとするのを、ヴィクトルは彼の手首を引いて止めた。勇利がゆっくりと振り返り、せつない顔でヴィクトルを見た。ヴィクトルはほほえんだ。 「ばかだな、勇利」 「……ばかって言わないって言ったのに」 「あきれるよ」 「あきれないって言ったくせに」 「本当におまえは……」  ヴィクトルは笑い、勇利を抱きしめて髪に頬を寄せた。 「笑わない約束はどうしたの」  ヴィクトルは黙って喉の奥でさらに笑った。こんなにかわゆい子が、こんなにかわゆいことを言っているのに、笑わずにいられるだろうか。 「勇利の思ってる意味じゃない。みっつとも」 「じゃあどういう意味?」 「…………」  ヴィクトルはすこし顔を離し、勇利の目をのぞきこんだ。頬にふれても、勇利の不満顔はやわらがなかった。なんてかわいいのだ。 「気にしていたのか。そんなことを」 「そうだよ。気にしてたんだよ。するよ、普通」  勇利が拗ねた。 「ごめんね」  ヴィクトルは勇利の目元に接吻した。 「勇利が着替えたとき、言おうと思ったんだよ。似合うってね。魂もふるえるほどうつくしい装いだとささやきたかった」 「どうして言わなかったの?」 「見蕩れてたからさ」  ヴィクトルは楽しそうに答えた。 「勇利があんまり綺麗で、なかなか言葉が出てこなかった」 「…………」  勇利はヴィクトルの言ったことを慎重に検討するかのように黙りこんだ。 「うそじゃない」  ヴィクトルは彼と額を合わせた。 「俺は勇利のことではすぐに浮かれるが、簡単に綺麗だとは言えない男なんだ」  勇利はすこし笑った。 「わりと不器用でね」  勇利がまた笑った。 「あっさりぺらぺら讃辞を並べ立てるほうが信用ならないだろ?」 「こっちが恥ずかしくなるようなことを矢継ぎ早に言ってくることもあるよ」 「それは勇利があんまり綺麗だから、すぐに伝えたいと思ってるのさ」 「……そう……」  勇利がヴィクトルにもたれかかった。どうやら信じてくれたようである。ヴィクトルは彼の髪を撫でた。 「勇利の様子がおかしいから、バンケットのあいだじゅう悩んでいた」 「そこまで真剣にならなくてもいいんだよ」 「勇利のことだから、すこしでも油断するととんでもないことを言いだすからね」 「どういう意味?」 「クリスに相談した」 「ちょっと……何やってるの……恥ずかしい……」 「クリスは、どうせたいしたことじゃないという態度だった」 「そのとおりだったでしょ」 「いや……」  ヴィクトルはほほえんだ。 「ものすごく重大なことだ」 「そう?」  ヴィクトルは大きくうなずいた。彼は勇利の顔をのぞきこみ、甘い声で優しくささやいた。 「あのとき言いたかったことをいま言わせてくれ」 「もういいよ。似合ってるって思ってくれたならそれで」 「それじゃ俺の気が済まない」 「ぼくの気は済んでるからおかまいなく」 「勇利、綺麗だ」 「いいって言ってるでしょ」 「おまえのうつくしさには天使もかなわない」 「そういうのいいから」 「おまえには気品があり、慎ましやかで、純粋で、楚々として、可憐な……」 「いいって言ってるでしょ」  勇利が頬を赤くして抗議した。 「綺麗とかそういうんじゃなく、似合ってるっていうことだけでいいんだよ」 「そのスーツ、似合ってるよ」  ヴィクトルは真剣に告げた。 「どれくらい似合ってるか言おう」 「う、うん……」  これには勇利も関心を持ったらしい。彼は上目遣いで興味深そうにヴィクトルを見た。ヴィクトルは勇利をやわらかな寝台に押し倒した。 「ベッドでゆっくり、ひとつひとつ脱がせてみたくなるくらい、似合ってるよ。いいかな?」
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sorairono-neko · 3 years
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勝生勇利はヴィクトル・ニキフォロフを愛している。
 あたたかなぬくもりを求めて、勇利は自分が抱きついていた安心できるものに、甘えるようにすり寄った。彼のくちびるは自然と端が上がってほほえんでおり、頬はほんのりとさくら色に上気し、表情は完全な幸福にみちて、すべてにおいて完璧という感じだった。勇利がすり寄ったのに応えて、彼が抱きついている相手も、いつくしむようになおさら手を伸べた。その力強い腕は勇利のしなやかな背を抱き、優しく撫でて、大切なものを取り扱うようなしぐさだった。勇利は甘い吐息をつき、からんでいる素足を、すり、と寄せた。なんてやすらかですてきな気分なのだろう。ずっとこうして抱きしめていてもらいたい……。  それにしても、いったいこれはどうしたことだろう? なぜこんなにあたたかなのか。どうしてみちたりて、何もかも安心していられるのか? それまで眠っていた勇利は、眠りが浅くなったとき、ふとふしぎになり、うっすらとまぶたをひらいた。  いちばんに目に映ったのは、このうえなく好男子で整った、うつくしい容貌だった。こんなひとは世界でヴィクトルしかいない。勇利はひと目で理解したけれど、そのヴィクトルとこんなに接近している理由がわからず、しばらくぼんやりしたのち、我に返ってぱっと目がさめた。  な、なんでヴィクトルが?  これほど近いからにはもちろん同じベッドで寝ているのだし、ヴィクトルに抱きしめられているのだ。なぜだろう? それに、この感じ……。改めて確かめてみると、勇利は衣服をひとつもまとっていない裸身であり、ヴィクトルのほうもまた何も着ていなかった。ヴィクトルの場合、たいてい寝るときは服を着ないのでうなずけるけれど、常識的な勇利は彼とはちがうのだ。なぜ寝巻を着ていないのだろう?  勇利はそろそろと視線を動かした。部屋は見慣れた自室ではなかった。かといってヴィクトルの寝室でもない。ホテルの一室のようだ。そこで勇利は、そうだ、試合だったんだ、と理解した。競技は終わって、昨夜はクロージングバンケットだった。すこしお酒を飲んだことをおぼえている。しかしいつかのように、完全に記憶をなくすほどではないはずだ。ええと、ゆうべは……。 「…………」  慎重に記憶をたぐっていった勇利は、どういう経緯だったか、そこはあいまいなのだけれど、ほろ酔いになり、ヴィクトルとくすくす笑いあいながらくっついて部屋へ戻り、そこで彼に甘やかされて、甘えて、服を脱がされ、そのままベッドで過ごしたことを思い出した。ヴィクトルはそれはそれは情熱的で、優しく、甘く、勇利は初めてのことを濃密な愛のうちに経験したのだった。とても恥ずかしかったけれど、ヴィクトルの熱烈な愛の言葉は勇利をとろけさせ、彼を迎え入れてひとつになった瞬間、このうえない幸福を感じた。ヴィクトルのあたたかな腕に抱かれ、ふたりで想いをわかちあうのはとてもすばらしい体験だった。こんなふうになるのかと驚き、知ったことに感激もしたのだ。  しかし……。  えぇええぇ!? ヴィクトルとえっちしちゃった!? うそでしょ!?  それがいまの勇利の正直な気持ちで、彼は思わず両手で頬を押さえた。うそ。そんな。そんなはずは。まさか。  後悔があるわけではない。とても幸福だし、彼にふれられたこと、彼の熱を教えてもらえたことはうれしい。けれど、それとこれとは別だ。いまからヴィクトルと顔を合わせなければならない。ゆうべのことについて話さなければならない。それがなにより、勇利にとって大変なことだった。  だって恥ずかしい!  裸をヴィクトルに知られてしまった。温泉で見られるのとはちがう。すみずみまで、なかのことまで伝わってしまった。どうされたときどうなるのか、どんな表情になるのか、何をされれば泣いてしまうのか、全部露見してしまった。自分ですら知らなかったことをあばかれてしまった。よくおぼえていないけれど、いろいろなことをされたし、それに──そのとき、声も出したような気がする。聞いていられないような声だ。け、けっこう大きい声だったような……。 「うわあ」  勇利はちいさくつぶやき、ヴィクトルの胸におさまっているのがつらくなった。恥ずかしい。こうしていたら、何をどんなふうにされたのかくわしいことまで思い出してしまいそうだ。恥ずかしさのあまり泣いてしまう。  勇利はヴィクトルの腕を持ち上げ、そろそろとそこから抜け出した。身を起こすと、白い素肌にところどころ紅色の痕がついていて、なんだこれと思ったけれどそれどころではなかった。勇利は豊富な掛け布をひっぱり、身体を隠して息をついた。  これからどうしよう……。  ヴィクトルは間もなく目ざめるだろう。彼はなんと言うだろう? いや、自分はなんと言えばよいのか。いつもどおり「おはよう」「朝ごはん食べに行こう」という会話ができればよいのだけれど、そうできるとはとても思えない。 「うう……」  勇利は泣きそうになりながら、ちらとヴィクトルを見た。ヴィクトルは幸福そうにほほえんでおり、勇利のいた場所を、もういないのに抱いていた。なんなのだ。それにしても……。  ゆうべのヴィクトルの熱狂的な表情、低いささやき声、あまくとろける愛の言葉、そして初めて知った熱さ……。  それらを思い出した勇利は、それぞれ握った両手を口元に当てて、ぎゅっと目を閉じ、ぶんぶんと左右にかぶりを振った。思い出しちゃだめだ!  初めてなのによかったけど……初体験はよくないもの……みたいな話をしてるのを聞いたことがあるけど、そんなことなくて、き、気持ちいい……っていう感じだったけど……すごくよかった……初めてなのによかった! いやそういうことは問題じゃないんだけど!  こんなかっこいい大好きなひとに裸にされて、気持ちいいことをされたなんて、ぼくはいったいどうしたら……。  何も知らなかった勇利にとって、この状況は、かなり衝撃的で混乱するものだった。どうすればいいのかわからない。ヴィクトルと話なんてとてもできない。できるわけがない。好きなひとと一夜を過ごすというのは、こんなにもわけがわからないものだったのか。  とにかく、ヴィクトルと顔を合わせるのは危険だ。  それが勇利の出した結論だった。ヴィクトルと話をしてはいけない。つまり、このままここにいてはいけない。  勇利はベッドから降り、ふらふらと浴室へ向かった。足元がおぼつかず、腰が抜けて座りこんでしまいそうだった。痛いところはないのだけれど、なんとなく全体的に重く、だるく、身体の奥が熱い気がして、全身がとろけそうで、ヴィクトルにされたことがひとつひとつ……。  思い出している場合ではない。  無になろう。勇利はそう決心し、無心になってシャワーを浴びた。てのひらを使って素肌をこすると、ゆうべの何かの感覚が���び起こされそうになったけれど、とにかく無になる努力をした。てきぱきと動き、身支度を整えたところで、ほっと息が漏れた。  これからどうしよう……。  部屋にいるのはよくないといっても、ここは勇利とヴィクトルふたりの部屋だ。ほかに行くところはない。散歩にでも出るしかないだろうか。結局はいずれヴィクトルと話さなければならないのだけれど、問題を先送りすることだけでも勇利にとってはいま大事だった。 「…………」  勇利はじゅうたんに膝をつき、ヴィクトルの端正なおもてをのぞきこんだ。相変わらず彼はしあわせそうに笑っており、にこにことして、表情は輝くようだった。ああ、かっこいい。勇利は胸がうずいてたまらず、両手でベッドのふちを持って身を左右に揺らした。  ヴィクトル、好き。好き好き好き。大好き。  勇利は額をぐりぐりとヴィクトルに押しつけ、さらに甘えるように身体を揺らしてから、すっと立ち上がった。  と、とにかくここから出よう。知らんぷりしよう。だって無理だ。ぼくには刺激が強すぎる。  勇利はまっかになって両手で口元を隠しながら、急いで部屋をあとにした。  なんだか寒くて目がさめた。寒い? おかしい。空調はきちんと効いているし、そうじゃなかったとしても、ゆうべは勇利とベッドに入ったのだ。彼がそばにいるのに寒いなんていうことがあるはずないではないか。ヴィクトルはいま幸福の絶頂なのだ。 「勇利……」  ヴィクトルは半分寝ぼけながら、勇利のすんなりとしたうつくしい裸身を抱き直そうと腕を伸べた。そして、いくら探しても手があたたかいものをとらえることがないのに気がつき、ぱっとまぶたをひらいた。  勇利がいれば寒くはない。勇利とふたりでベッドに入った。勇利がいれば……。  ──勇利がいない!  ヴィクトルは飛び起きた。勇利がいない。勇利がいない。いったいどこへ行ったのだ? 手洗いだろうか? しかし物音はしない。シャワーを浴びているのか。それなら水音が聞こえるだろう。では……。 「勇利?」  ヴィクトルは部屋じゅうを探しまわり、本当に勇利がいないということを知った。彼はしばらく立ち尽くし、なぜだ、とぼうぜんとした。昨日は……バンケットで楽しく飲んで……部屋へ戻って……勇利がいとおしくて……勇利もにこにこしていて……互いにみつめあって……自然とキスをし……そしてそのまま……。  勇利はかわいかった。経験のないことなのでおののいたりためらったりはしていたようだけれど、うるんだ目でヴィクトルをみつめ、甘えるように素肌をすり寄せて気恥ずかしそうなしぐさを見せた。ヴィクトルのいたわりと愛撫に身をふるわせ、愛の言葉には頬を赤くし、純粋な意味のこもった瞳でヴィクトルを見ていた。結ばれた瞬間、ヴィクトルの手をよわく握り返してふるえた指をおぼえている。とても──とてもすてきだった。しあわせだった。こんなにみちたりて気持ちいいことは初めてだと思った。ゆうべのことをヴィクトルは一生忘れないだろう。  勇利、かわいかったな……声も甘くてたまらなかった……言葉は舌足らずになっていて抱きしめたかった……何度も抱きしめたが……それに、あの目……勇利はいつも俺を見るとき感情が目にあらわれるが、いままでのどの瞬間ともちがう、あの……ああ、なんて愛らしいんだ……。  いや、ゆうべのことに浸って浮かれきっている場合ではない。  ヴィクトルは服を着て部屋を飛び出すと、まずはレストランへ行ってみた。愛を語らった翌朝にひとりで朝食をとるというのは、いかにも勇利がしそうなことだった。しかしそこに彼はおらず、クリストフがほかの選手たちとのんびり食事をしていた。 「どうしたんだい、血相変えて。座ったら?」 「勇利を見なかったか?」 「さあね。彼にほうり出されたの? 身勝手なことばかり言ってるからだよ」 「そんなんじゃない。俺たちは愛しあっている」  みんながひやかすように笑い、その声を背に受けながらヴィクトルは店を出た。身勝手なのは勇利のほうだ。しかしそんなおかしな彼をヴィクトルはこころから愛していた。  次にヴィクトルはロビーへ足を運んだ。そこにも勇利はおらず、チェックアウトをするための客がフロントにいるだけだった。外へ食事に行くのか、ヤコフがエレベータから降りてきたので、ヴィクトルは急いで彼に近づいた。 「勇利見なかった?」 「知らんな。なんだ、朝っぱらから」 「いないんだ」 「すこしはひとりにしてやったらどうだ? 試合のあいだも部屋へ戻ってもコーチにつきまとわれては彼も困るだろう」 「そんなことはない」 「わしが四六時中おまえのそばにいたらどうなんだ」 「とんでもない。おそろしいことを言わないでくれ」  あきれた顔をしたヤコフに背を向けてヴィクトルは歩きだした。ほかに勇利がいそうなのはどこだろう? もしかして中庭をそぞろ歩きしているのだろうか? それ以外に思い浮かばなかったので、ヴィクトルはガラスの出入り口から出て、庭のほうへまわっていった。きちんと刈りこまれた樹木や低木、街路灯のあいだを通り抜けていくと、噴水のそばに白いベンチがあった。そこにぽつんと座っているのはヴィクトルの探し求めている愛する子で、彼は両手を脚の上でかるく握りあわせ、静かに空を眺めていた。朝日を浴びた彼は清楚でうつくしく、さわやかで、ヴィクトルはぼんやりしてしまった。勇利、なんて綺麗なんだ……。  ヴィクトルは意気揚々と歩いていき、勇利の隣に腰を下ろした。勇利はなにげなくヴィクトルを見、かすかにほほえんで挨拶した。 「おはよう」 「お、おはよう」  どもってしまった。勇利があんまりうつくしいし、ゆうべの彼の愛らしさを思い出して、なんだか緊張してしまう。 「部屋にいなかったから心配したよ」  みっともない自分を知られないように、ヴィクトルは声に力をこめ、快活に言った。勇利はもう一度微笑した。 「天気がよかったから散歩したくなって。ここ、気持ちいいね」  それだけ答えると、彼はまた空に視線を戻し、澄んだ目をほそめた。ヴィクトルはそれだけでどぎまぎした。勇利は魅力的だ。ゆうべのかわいらしい彼も、いまの楚々としている彼も。 「ゆうべは……」  ヴィクトルは勇利を抱き寄せたいと思いながら口をひらいた。 「とてもよかったよ。すてきだった」 「そう」  勇利はつぶやくように答えてから、すこしいぶかしげにヴィクトルを見た。 「何が?」 「え?」  ヴィクトルは意味がわからず、幾度か瞬いた。一夜をともにして、それについてすてきだったと言っているのに、「何が?」とはどういうことだ。 「あ、バンケット?」  勇利は無邪気に両手を合わせた。 「確かに楽しかったね。ヴィクトルはいつもあれくらい元気だけど」 「ちょっと待ってくれ」  なぜバンケットのことが出てくるのだ。勇利はどうかしているのではないか。 「バンケットの話はしていない」 「そうなの? じゃあ記者会見? そういえば今日の夕方にもあるよね。昨日のは簡単なやつだったから」 「どうして記者会見がいいんだ」  変な子だとは思っていたけれど、こんなことまで言うとは。勇利はいったいどうなっているのだ。 「記者会見の何がすてきなんだ?」 「ぼくは苦手だけど、ヴィクトルはいつもいろいろしゃべってるじゃない」 「だからって俺が特別感想を述べたくなるほどのものだと思うの?」 「じゃあ何がよかったの?」  勇利がわずかに眉根を寄せてヴィクトルをみつめた。そんな勇利もかわゆいと思いながらも、ヴィクトルは混乱した。話が通じない。いったいどうなっているのだ。 「何がって、それはもちろん」  ヴィクトルは率直に答えた。 「セックスだよ」  勇利がわずかに目をみひらき、ぱちぱちと瞬いた。そのそぶりに、ヴィクトルはますますわけがわからなくなった。 「……いきなりなんの話?」 「だからセックスの話だよ」 「そんなこと言わないでよ」  勇利が頬を赤くし、あたりをちらと見渡した。誰もいない。 「言うよ。言いたくなる。勇利と夜を過ごせて俺は最高にしあわせだった。いまもしあわせだ」 「ぼくと?」  勇利が目をまるくした。 「ぼくと……なんだって?」 「だからゆうべ……」  ヴィクトルは言いさして口をつぐんだ。まさか夢だったのだろうか? あれは現実ではなかった? あり得ないとは思うけれど、勇利のこの反応ではそう考えるしかない。しかし、あれほど身近ですてきだったのに。勇利を抱きしめ、彼の肌のやわらかさを知った感覚が、いまもありありと残っているというのに。 「……俺たちは結ばれたよね?」  ヴィクトルは真剣に確かめた。勇利は相変わらずせわしなく瞬いており、首をかしげた。 「ぼくとヴィクトルが……?」 「そうだ」 「ヴィクトル、夢を見たんじゃないの?」  ヴィクトルは片方のてのひらで目元を覆い、空をあおいだ。なんてことだ……。 「勇利……、それ本気かい?」 「だって……」  ヴィクトルは指の隙間からそっと勇利を見た。彼は頬を赤くし、困ったように眉を下げて恥じらっていた。 「ぼくとヴィクトルがそんなこと……」  やはり夢なのか。いや、そんなばかな。勇利の声や吐息がたやすく思い出せるのに。勇利が忘れているだけなのだろうか? 彼はすぐに記憶を失うのだ。とくに酒が入ったときはそうだ。ゆうべは、それほど飲んではいなかったはずだけれど……。 「勇利、酔ってたの?」 「ゆうべ? 正気だよ」 「だったらなぜおぼえていない」 「思いちがいをしてるのはヴィクトルのほうだよ。それは夢だよ。ぼくたち、そんな……」  勇利はジャージのすそをいじってもじもじしている。そんな彼を見ていると、ヴィクトルは、本当に夢なのかもしれないという気がしてくるのだった。セックスの話をしただけでこんなに恥ずかしがるのだから、そんなことはできないのかもしれない。ひどく恥ずかしがって……。いや、ゆうべの勇利は確かに恥ずかしがっていた。かわいかったな……目に浮かんだあの涙も……。 「夢だよ」  勇利が吐息を漏らしてつぶやいた。 「もうそのことについては考えないほうがいいよ」 「だが勇利、きみはゆうべ確かに俺の腕の中で──」 「夢だから」 「とてもかわいくて……俺に甘えてきたし、目つきもこのうえなく……」 「夢だから!」  勇利はかたくなにヴィクトルの言い分を受け付けなかった。ヴィクトルは困惑した。これは忘れているのか、それともなかったことにしたいのか、本当に夢だったのか、どれだろう。夢だとしたら、ヴィクトルがひとりで浮かれていることになる。ヴィクトルは勇利のことを愛しているので、彼とセックスをする夢を見てもひとつもふしぎではないけれど……。  本当に? 「夢だよ」  勇利は口元に手を当て、まっかになって横目でヴィクトルを見た。とびきりかわゆかった。 「夢」  本当に夢なのだろうか? ヴィクトルにはまったく判断ができなかった。自分の記憶や感情、指に残る勇利にふれた感覚は絶対に夢ではないと訴えているのだけれど、勇利があれほど頑固にちがうと言い張るのだ。夢なのかもしれない。しかし納得はできない。  記者会見に出席するためナショナルジャージに着替え、身なりを整えている勇利を、ヴィクトルはちらと見た。勇利にとってはヴィクトルの言ったことは夢だと決定しているようで、彼はそれについてはもう何も言わなかった。それより、会見を気にして緊張しているようだ。ヴィクトルもナショナルジャージを着た。彼は勇利のコーチだけれど、試合に出場した選手でもあるので、一緒に会見にのぞむのだ。  会見場へ行くあいだも、待ち時間にも、勇利はひとこともしゃべらなかった。やってきたクリストフが、「相変わらずだね」と笑った。勇利は会見は試合とは別の意味でかたくなってしまうのである。  記者会見は、なんのとどこおりもさまたげもなく進んだ。ヴィクトルはいつもどおり陽気に話し、クリストフもそつなく答え、勇利は言葉数が少ないながらも一生懸命だった。ゆうべのことが気になるヴィクトルは、すべき仕事が済んでしまうと、もう一度話しあおうと、勇利に慎重に声をかけた。 「勇利、話があるんだ。中庭へ行かないか」  部屋のような閉ざされた場所より、外のほうがよいのではないかと思ってそう提案すると、勇利はたちまち赤くなって、戸惑いながらヴィクトルを見た。 「え……?」 「いいだろう?」 「どうしてですか?」 「どうしてって、勇利と話しあいたいことがあるからさ」 「ぼ、ぼくと……」  勇利は胸に手を当て、熱に浮かされたようにぼんやりとうなずいた。 「え、ええ……かまいません……」 「じゃあ行こう」 「はい……」  勇利はときおり、このような妙なそぶりをすることがある。それはヴィクトルが衣装を着ていたりナショナルジャージを着ていたりするときで、つまり、ヴィクトルが選手だとこうなってしまうらしかった。彼の中では選手とコーチとで線が引かれているようだ。変な子だとヴィクトルは常々思っており、このときもそう思ったけれど、いまは勇利とのセックスのことで頭がいっぱいなのでそれどころではなかった。 「座って」 「…………」  勇利はこっくりうなずき、朝と同じベンチにすとんと腰を下ろした。ヴィクトルも隣に座ったけれど、勇利が赤い頬をしてもじもじ���指をいじりながらうつむいているので、なんとなく落ち着かない気持ちになった。かわいい。 「あ、あの、お話ってなんでしょう……」  勇利がためらいがちに尋ねた。ヴィクトルはもちろんあれは夢なのか夢ではないのかということを問いただしたかったのだけれど、いまのこの「ヴィクトル、貴方にあこがれています。大好きです。愛しています。貴方しか見えない」といった感じの勇利に訊いてよいものかと迷った。たぶん勇利は正常な精神状態ではないだろうし、セックスの話なんてしたら、さらにとりみだしてしまうのではないだろうか。 「そうだね。なんていうか……」  ヴィクトルは言いさし、溜息をついた。いまはやめておいたほうがよい。さきに着替えをすべきだった。 「……いいんだ。ただきみと一緒に歩いてみたかっただけなんだ」 「ぼ、ぼくと……?」 「ああ。きみの演技、とてもすてきだね。最高だったよ」 「…………」  勇利はかーっとますます赤くなり、両手でおもてを覆ってうつむいてしまった。感激しているらしい。演技のすぐあと、ヴィクトルが褒めたときも瞳をきらきらと輝かせてうれしそうにし、抱きついてきたのだけれど、それとはまたちがう喜びようだった。 「あ、ありがとうございます……ヴィクトルの演技も、あの……あの……」  勇利は感想を述べようとし、考え、結局かぶりを振っておもてをさしうつむけた。 「すてきすぎて言葉にできません……」 「そうか。ありがとう」  まあ勇利が喜んでるならいいか、とヴィクトルは思った。セックスの話は時間をおこう。勇利はいろいろと難しい子なので急かさないほうがよい。  ふたりはしばらく黙りこんだ。ヴィクトルは部屋へ戻ろうかと迷ったけれど、勇利とこうしている時間があまりに貴重で、そう言いだすことができなかった。 「あ、あの……」  驚いたことに勇利から話しかけてきた。ヴィクトルは意外に思いつつも、口ぶりは気さくに「なんだい?」と答えた。 「突然こんなことを言って驚かれるかもしれませんが……」 「何かな?」 「相談というか、聞いて欲しいことがあって……ヴィクトルは大人だからわかるだろうと……」 「どんなこと?」  べつに大人でもないぞ、と思った。好きな子とセックスしたのかしていないのかについてさまざまに考えこみ、難解な勇利にどのように接すればよいのかさっぱりわからないと悩む程度には子どもだ。 「あの、ぼくゆうべ……」 「ああ」 「その……」  勇利がぱっと顔を上げ、けなげな目をしてたどたどしく尋ねた。 「コーチとえっちなことをしてしまったんですが、これからどうすればいいと思いますか?」  ヴィクトルは喉に何かがつまったような気がし、激しくせきこんだ。いきなりなんだ!? そういう話なのか!? やっぱり夢じゃなかったんじゃないか! というか俺に訊くのか!? しかもそんなことを率直に! 勇利のすべての思考が理解できない。 「初めてだったから……いろいろ変な反応もしちゃっただろうし、なんて思われたかなって思うと恥ずかしくて、どう話したらいいかわからなくて、コーチにそのことを言われたとき、それは夢だよって答えちゃったんですけど」 「…………」 「それで納得したかわからないし……ぼくはコーチのことが好きだし……態度が不自然になってしまいそうで……、もしまたそのことを言われたらどうしたらいいのかなって……」  ヴィクトルは答えられなかった。いろんなことが頭の中にうずまいて、口を利くことができなかった。勝生勇利はいったいどうなっているんだ……。 「あ、えっと」  ものを言わないヴィクトルに、勇利は何か感じたらしく、慌てた様子で続けた。 「すみません、いきなりこんなことを……こういう相談をされても困りますよね。はしたなかった……。あの、冗談で言ってるわけじゃなくて、ヴィクトルならいい考えを教えてくれそうだなって思って、でも突然ぼくにそんなことを訊かれても困りますよね。ごめんなさい……」  ヴィクトルはこころから同意した。ああ、そうだよ。勇利にそんなことを訊かれたら困るよ。確かに困る。勇利の思っている「困る」とはおそらくちがうだろうがね。俺こそどうしたらいいんだ? 愛する子にこんな相談をされたら、いったい。 「ヴィクトル、あ、あの……」  勇利が「何か言って」という目ですがるようにヴィクトルを見た。彼の目にはなんともいえない魅力と威力がある。ヴィクトルはこの瞳にはどうしようもないのだ。どうしてもめろめろになってしまう。勇利にはいつもめろめろなのだけれど、特別に。 「勇利、それならね」  ヴィクトルはゆっくりと口をひらき、諭すように言った。 「きみもコーチのことを愛しているなら、部屋へ戻ったら、ただ抱きついて、真剣にみつめるだけでいいよ。それですべて上手くいく」 「それだけ……?」  勇利は澄んだ瞳を瞬いた。 「それだけでいいんですか?」 「ああ、いいよ」 「…………」  勇利はほのかにほほえんでまつげを伏せた。 「……わかりました」 「わかったのかい?」 「はい」  彼は手を口元に添え、はにかんだようにうつむいた。 「ヴィクトルが言うなら、それで……」 「…………」  ヴィクトルの胸が激しくうずいた。どうして勇利はこんなにかわいいんだ? 綺麗で純粋な勇利がそばにいると、たまらない気持ちになった。ヴィクトルは勇利の腰を引き寄せ、彼がふしぎそうに顔を上げたところで、おもてを近づけて優しく接吻した。勇利が目をみひらいた。 「…………」 「……あ」  ヴィクトルは完全に上の空で、ほとんどふらつきながら部屋へ戻ってきた。呼び鈴を鳴らすと扉がひらいて、赤い頬をした勇利が立っていた。ヴィクトルは中へ入り、戸口に立ち尽くした。勇利は上目遣いでヴィクトルを見た。彼の頬は赤く、可憐で、くちびるはみずみずしかった。あのくちびるにさっきキスをしたのだ。  勇利はためらっていたけれど、ヴィクトルから目をそらさなかった。それどころか、思いきったようにおもてを上げ、受けた助言のとおり、ヴィクトルのことをいちずにじっとみつめた。その熱烈な、なんとも胸をかきみだす、けがれを知らぬまなざしに、ヴィクトルは手のつけようもないほどときめいた。勇利はヴィクトルに思慮分別など失わせるほど魅力的だった。ヴィクトルは勇利を抱き寄せ、勇利はヴィクトルに抱きついた。勇利がせつない顔をし、ヴィクトルは彼にくちづけした。 「……ヴィクトル」  ヴィクトルの肩に頬を寄せて、勇利は熱っぽくつぶやいた。 「ぼくが言ったのはうそなんだ。夢じゃないんだ……」 「ああ……」  ヴィクトルは勇利の髪を撫でた。そしてもう一度彼にキスした。幸福そうな勇利は清純な黒い瞳でヴィクトルにうっとりと見蕩れ、それからはにかんでささやいた。 「ヴィクトル、あの、相談が……」 「なんだい?」 「その、さっき、あこがれのひとにキスされたんだけど、びっくりして逃げてきちゃって……でもまた会うだろうし……ぼくはどうしたら……」
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