Tumgik
gkeisuke · 4 years
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今日、いつも定期的にブックマークで巡回していたルノーの認定中古車サイトに、奇跡的に車体の条件ピッタリで、奇跡的に家から最寄りのディーラー(車で15分くらい)のトゥインゴが降臨していたので、勢いで商談を申し込んだ。
コロナ禍で車を手放す人が増えるんじゃないかと思っていたのだけど、私の浅い読みは全く的外れで、この1年で市場相場がむしろ上がっていた。
トゥインゴは2019年にマイナーチェンジがあったのだけど、個人的にはマイナーチェンジ前のルックスが好みで、マイナーチェンジ前としては最後期の車体で、キャンパストップで、狙っていたカラーだった。(認定中古車のサイトで検索すると、俺が買おうと思っている車体と大まかな現住所がバレる)
今年の3月に狙っていたトゥインゴが売れて以降、半年近く、いい条件の車種と巡りあえておらず、今月末に賞与を控えている状況で、3月の時よりも理想的な車体が来たので、これは飛びつくべきタイミングだと感じた。
『商談』という明確に大人の世界の響きが、己に対して降りかかると、まだ身の丈にあってない感じがして笑ってしまう。
そもそも、トゥインゴとの一番最初の巡りあいが、1年前のボーナス査定の時に、車を買おうと思ってて……ミニとか……という話をしたら、副社長がサブカーとしてトゥインゴに乗りたいという話をしてくれたことからだったりする。
調べてみたら、他の車には無いくらいめちゃくちゃ可愛くて、RRで小回りが利いて、所々アナログで手間が掛かりそうで、そして、あまり他の人と被らない(ここは私にとって非常に重要な点である)ところが非常に好みだった。
言い方はあれだけど、私自身の極めてややこしいパーソナルイメージと一番マッチするように感じた車が、このトゥインゴだったのだ。
コストパフォーマンスなどを考えたら、圧倒的に国産の同価格帯のコンパクトカーを買った方がいいと思う。
というか、最近はその辺りを考慮して、やっぱり全然安いしデミオにしようかな……と考えていたところだったのだけど、高い買い物をするに当たって、何年も考えて「本当に欲しい」と思ったものを手にして、所有するための努力を重ねていかないと、この先の人生で諦め癖が付くだろうなとも感じたのだ。
あと、純粋に検索で見つけた時に、やっぱり他の車とは違って、明らかにときめくものがあって、俺が1年間想い続けた結果、トゥインゴに恋をしてしまっているというのもあった。
東京住みにとっての車というのは嗜好品に近いものだと思うし、今の生活環境も車が無いとやっていけないものではない。
何のための嗜好品なのかというと、私は「一人の時間」を生み出すための嗜好品だと感じていて、それは私の人生にとって、無くてはならない時間だと痛切に感じているので、ならばコストパフォーマンスとかではなく、私が一番愛着を持って接することが出来るのが大事なんじゃないかと思ったのもある。
キャンバストップなので屋根が開くのもいい。スポーツカーごっこしてぇ~!
もうすでに買う気マンマンだけど、あくまで"商談”なので、そこで決まるわけでは無いし、いくら顔が好きでも、乗ってみなくちゃ分からないところはありますよね……。
あと、勢いで突っ走りすぎて、納車までの道のりを甘く見すぎている感じもするので、ちゃんと調べたり、人に聞いたりしよう……。
買ったら旅に出まくりてぇ~!(買うつもりしかない)
ディーラーから、土曜日に先約があり、決まった場合は無理かもしれんという連絡があった。
どうあがいても私にとっては最速の動き出しだったので、仕方がないのだけど、世知辛すぎるだろ
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gkeisuke · 4 years
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201016 自信2
昨日の続き。
ヒップホップのスラングに『バイブス』というのがある。
これは、割と一般にも普及してる言葉だと思うけど、元はVibesでVibrationの短縮系、振動という意味を持つ。
転じて、ノリやフィーリング、雰囲気や気持ちのことを指す言葉として扱われているけど、MCバトルにおいては『熱量』のことを指し示すことが多かったように思う。
youtube
NAIKA MCという男がおり、この人はほとんど全く韻を踏まずにラップをするのだけど、大きくてよく通るいい声を持っている。
その声で叫ぶのは理屈ではなく『熱量』そのもので、2016年には日本のMCバトルシーンにおける頂点まで上り詰めた。
2016年頃の私は「NAIKA MCのラップみたいな文章を書きたい」とずっと言っていた気がする。
私も、自分のことを韻を上手く踏むより、熱量で勝負するタイプのラッパー(ラッパーではない)と思っていたし、それが自分の武器だと思っていたからだ。
ただ、それが「上手くいかない」と感じていた原因でもあったのだと思う。
私の熱量を構成していたものは、常に衝動だった。
熱いことを言おうとして、熱いことを書くというのでは、その武器を上手く扱うことができず、人の心を震わせる『心からの想い』にはならなかったのだ。
私が、ライブに関する自分の文章が大学時代がピークだと思っていたのは、この衝動からくる熱量こそが自分の文書の魅力の全てで、それをどんどん「再現」できなくなっていくもどかしさを感じていたからだ。
2016年頃の私は、かつて燃やしていた衝動の燃え残りに、何度も火をつけていたようなものだったのだと思う。
でも、もどかしさの原因が分かってからは、自分の中であまり納得がいってなかった、その時期に必死に書いた文章たちも「それはそれで悪くない」とは思えるようになってきた。
かつてのように衝動で書けなくなっていただけで、私が書いていた言葉や想いに嘘は無かったからだ。
このTumblrを読んでいる人たちと出会ったのも、その時期に書いていた文章がきっかけですしね。
それを今年になってようやく気づけたので、今は一番ちょうどいい熱量で、自然と文章を書けるようになってると思うのだけど、コミケが代…………。
なんというか、私の『自信』の付け方って、こうやって遠回りして、苦しんで、気づいて、反省するというサイクルを何年というスパンでこなしていって、ようやく1センチだけ進むみたいな気の遠くなるプロセスをこなさないとダメなんだろうな……と思っている。
あまりにも自分が肯定できなすぎるし、期待をかけられたくないから、自分が大したことのない人間だと自分で思わせようとしてしまって、それで周りの人たちを傷つけたり、否定したりしてしまう。
ただ、やってくしかないので、考え続けながら1センチずつ這いつくばって進んで行きます……。
この泥臭さは、私の数少ない武器の一つだと思うので。
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gkeisuke · 4 years
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201015 自信
ヒップホップを聴くようになって学んだのは、言葉というのは「何」を言うか以上に「誰」が言うかが重要なのではないかということだった。
例えば、ヒップホップのスラングに『プロップス』というものがあって、これは概ねその人の人気や名声のことを指す言葉だ。
多くの人が思い浮かべるフリースタイルダンジョンは例外で、MCバトルにおける勝敗というのは、大体の場合、歓声の大きさで決まる。
極端なことを言えば、地方の小箱のイベントであれば、観客を身内で固めてしまえば、どんなにラップが下手でもバトルに負けることは無いし、実際、明らかにそういう風に勝っているバトルというのも山ほど存在している。
ラップの内容では劣っているのに、観客の人気や「もっとこの人のラップを観たいから」という理由で支持を集め、勝利することを『プロップス勝ち』と言ったりもする。
ただ、それは、その人がこれまでの人生で積み上げてきたものが勝利した結果でもある。
MCバトルというのは、要するにそうした人生の積み重ねを、ラップを通じてさぶつけあう場所でもあるので、決して『プロップス勝ち=卑怯』というわけではなく、これも立派な評価基準の一つだったりする。
とにかく韻をいっぱい踏んで、いっぱい上手いことを言った人が勝ちというものではなく、その人がどこで暮らしていて、どんな活動をしてきて、どんな服を着ていて、どんな音楽を作ってきて、どういう風になろうとしているのか。
そういう人生の全てをラップに込めた上で『よりカッコいいと思われた方が勝ち』というのが、MCバトルのルールなのだと思っている。
ちなみに、主人公が地元で『プロップス勝ち』するという様を、真正面からテーマとして取り扱ったヒップホップアニメがあって、プリパラ第135話『スマイル0%』というエピソードなんですけど、興味のある方は見て下さい。
***
これ、何の話をしようとしているかというと、サンドリオンさんのライブの話です。
正直、最後までは観れないまま配信期間が終わってしまったので、すみませんでした……。
私は、アイドルやユニットも、ヒップホップと同じで「何」を歌うかよりも「誰」が歌うかの方が重要だと思っています。
傍からみていて、サンドリオンさんというユニットに必要なのは「��ちゃくちゃ良い楽曲」ではなくて「ユニットとしてどうなりたいのか」という目標意識が感じられる瞬間だったように思っていました。
それは、言い換えるのであれば「ユニットとしての自信を持つこと」とも言えるんじゃないかと思います。
言葉が人の心を震わせる瞬間というのは、言葉そのもの意味に左右されるものではなく、その言葉を表現した人の人生と言葉が重なり、それが「心からの想い」であると受け取った瞬間なのだと思っています。
作られた言葉、作られた感情で人の心を震わせるのが難しいというのは、私が何よりも痛切に感じていることでもあります。
コロナ禍に入り、中止となったライブの一発目で歌った『Familiar base』は心が震えました。
それは、7か月という時間や状況が、言葉と心を重ねやすくしたこともあったと思いますが、それ以上に、この曲が、この言葉が、サンドリオンというユニットの「心からの想い」だと感じる瞬間だったからのように思います。
ユニットとしての自信を手にしたことを強く体感して、そうなってくると、これまで歌ってきた言葉たちも、これまで以上に輝いて見えるようになってきます。
そして、何より彼女たちが心からライブを楽しんでいるのが分かって、そんな彼女たちの姿を観ている会場も、声は出せなくとも、絶対に楽しんでいるんだろうなというのが伝わってくるライブだったと思います。
アイドルにとっての歌というのは武器であり、武器の性能の差で良さが決まるわけではなくて、その武器を「いかに使いこなしているか」の方が重要なのだと思っています。
その武器を使いこなすために必要なのが『自信』なのですが、自信はどうしても一朝一夕で手にできるものではなく、悩んだり、迷ったり、苦しんだりしながら、それでも歌い続けてきた時間の積み重ねの中でだけ、手にすることができるものでもあるのだと思います。
『自信』や『どうなりたいのか』を手にした後の表現というはとても強くて、それは、私であればスフィアでも寿美菜子でも観てきた光景であったように思います。
何より、クリエイターというのは、そういう人たちの味方で、その人が目指す道が決まると、それに相応しい武器を与えてくれるようになります。
なので、これからのサンドリオンさんはめちゃくちゃ良くなっていくんだろうなと思うし、そういう未来の期待感を肯定できたからこそ、楽しい気持ちになったり、自信を持てたりもしたんだろうなとも思いました。
全部ちゃんと観れなかったものからは以上です……。(ラップの話いる?)
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gkeisuke · 4 years
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gkeisuke · 4 years
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201011 旅に出ます
福井県に行ってきます。(-29分)
勢いで宿を取ったのはいいけど、調べれば調べるほど、越前がには11月中旬からがシーズンで、今は食べられないことばかりが明らかになっていく……🦀
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gkeisuke · 4 years
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201010 温泉
4日目にして特に書くことが無くなった……。
若林さんのエッセイの描き下ろし部分を読み終えた。
一遍読み終えるごとに「若林さん……若林さん……」と名前を呼んでしまった。
若林さんは「自信を持つこと」がどうしてもできなかったけど「血の通った関係と没頭」に巡り合えたことで、自信が無くても、競争や世間の目を越えた場所にある己の価値を認めることができて、人格を否定されることが怖くなくなったと話していた。
昨日観返したので、完全に「EP5.0の話だ……」と思っていた。(本当に?)
福井県に行くつもりだったけど、諸々の事情を考えると今週に関しては日帰りの方がいい気がしてきたので、秩父に行くことになるかもしれない。
秩父はいいところで、最寄駅から特急で1時間しないで着く場所にあるのだけど、明確に日常から切り離される感覚を味わえる。
去年の7月、ネットから身を切り離したくなった時も、秩父の温泉宿に泊まって、ただボーっとしていた。
そして、秩父には温泉がたくさんある。
本当に山に籠りたい時は秩父からさらに奥地(星音の湯というバカオシャレ温泉が好きです)に足を運び、普通に休みたい時は、駅前にある祭の湯という施設で1日を過ごす。
自宅からも車で15分圏内に温泉3つくらいあるのだけど、なんとなく、この辺の温泉だと身体はまだしも心が休まらない感じがするんですよね……。
近所の温泉の中で、私が温泉帝国と呼んでいる『スパジャポ』という施設があるのだけど、ここは温泉というよりかは、1日館内着で漫画を読んだりしながら過ごす施設だと思っている。温泉はいつ行っても、何時でも人が多すぎる。
温泉と旅を題材とした漫画としては、kashimr先生の『ぱらのま』が大好き。
一人旅の目的地の条件として、いい温泉を加えがちなのは、この作品の影響も大きいかもしれない。
心が温泉に向かってしまったので終了です。(-4分)
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gkeisuke · 4 years
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201009 ナナシスと約束
脳内に住んでいる黒ギャルが「卑屈やめな」と言っているのと、今週の仕事を省電力モードでこなしていることから、少しずつ心に余裕が出てきたので、ハッピーなことを書こうと思います。
Tokyo 7th シスターズ 『EPISODE 6.0 FINAL -Someday, I'll walk on the Rainbow...-』 が、ついに11月5日(木)から配信されることが発表されました。
まだナナシスをやっていない方はいないと思いますが、恐らく、これが正真正銘の最後の機会となるであろう、エピソード無料開放が10月から始まるので、11月5日までにやっておくといいとされています。
このお知らせと告知動画を観て、自分が思っていた以上に、めちゃくちゃ嬉しかった。
この感覚は、ガルラジ特別編の発表があって、12時にいつものメンバーでワイワイやってた時にも感じたのだけど、自分の中でトクベツになっているものを気づいたり、認めたりするのが、年々難しくなっているのかもしれない。
テンションが上がって、 EPISOE5.0を久しぶりに読み返す。
最初に読んだ時から「これは私にとって大切なエピソードだ」という強い感触があり、個人的には一番心に残っているエピソードなのだけど、今改めて読み返したら、その当時よりも、もっともっと深く胸に突き刺さってしまった。
EPISOE5.0は「大人」と「変化」という言葉がキーワードとしてたびたび登場する。
他人からの評価に気を取られ、自分を信じることが出来なくなり、雨の中、迷ってしまった星柿マノンに「大人」として手を差し伸べる姫宮ソル。
大切な人が目の前からいなくなってしまい、涙を流すことが出来ず、心の部屋にカギをかけても変わろうとしたシンジュと、大人になりきれなかったモモカ。
マノンの自信の無さだったり、モモカの上手く変われない姿だったり、シンジュとターシャの車の中での会話だったり、一つ一つの言葉に、文字通り背中を押してもらった感触があった。
私が今悩んでいることの根本的な原因の9割9分は「自分への自信の無さ」にある。
根拠が無くてもいいから自信が欲しいのだけど、結局、自信というのは、積み重ねの上でしか得ることが出来ないもので、そういう積み重ねをずっと避けてきた私にとっては、最も遠いところにある言葉なのだということが分かった。
それでも、姫宮ソルがマノンに語りかけたように、結局『自分』から逃げきることは出来ないのだ。
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泣いちゃった……。
ナナシスは私にとって大切な『約束』の一つになっているのだと思う。
変わりたいと願った2019年からずっと隣にいてくれたのは、ナナシスの音楽で、私の物語を見守ってくれた仲間たちと、たくさんの酒を飲み交わし、本当の願いを確かめあって、想いを分かち合ってきた。
10月にどれだけ落ち込むことがあったとしても、11月からEPISOE6.0がスタートするなら、きっと私はナナシスの言葉や音楽に勝手に救われてしまうと思うので、むしろ、這いつくばってでもちゃんと前に進もうと思えた。
大好きな作品と、大切な人たちに、確かに救われているのを感じた今週でもあった。(20分オーバー。30分で書く努力を��ろ)
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gkeisuke · 4 years
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201008 ブルーピリオドとミニマリズム
『ブルーピリオド』第8巻を読んだ。
「でも、矢口くん多分『作品』を作ったことがないんだね~」の部分で、ウッてなった……。
完全に創作でブチ当たり続けている『壁』の核心で、変に選択肢が無かった最初の頃の方が、手持ちの武器でやるしかなかったから、あまり苦しまずに創作を出来ていたという八虎の気づきも己のことのように思えた。
部屋が片付かない。
部屋が片付かないので、少し前にNetflixで『ミニマリズム: 本当に大切なもの』というドキュメンタリーを観た。
ミニマリストと言われると、聲の形冒頭の石田の部屋を思い出してしまうのだけど、これは先輩からの悪影響であると感じる。
断捨離とか、ミニマリズムという言葉が流行り出した頃には、なんとなくネガティブなイメージを持っていた(※意識が高い人たちが、プチ仙人みたいになってる自分に酔っている。酔っていないとやってられないというド偏見)のだけど、なんのことはない『選択』の話なのだなと思った。
年収と幸福度の相関は『800万円』という金額をピークに、概ね頭打ちになるという学説をどこかで読んだ。
競馬を毎週やっていると、一時的に○○万円という金額を得たとしても「この果てはどこにあるんだろうな」と思ってしまうことがある。
例えば、明確に買いたいものがあって、それを買うための勝負であれば、その場ですぐに還元できるけど、物質的な欲求に果てはなくて、今度はテレビとかパソコンとか車とか、もっと高価なものが欲しくなってしまう。
そして、その物質的な欲求の先にあるものが、本当に生きるために必要なものかと問われると、大体の場合は無くても生きていけるものだったりする。
バブルという時代は、それをどれだけ持っているかが世間の『価値』であったのだと思う(これも偏見かもしれん)し、今でも、いい車に乗りたいとか、いい腕時計が欲しいとか、いい家に住みたいとか、そういうことがモチベーションになっている人がいてもいいと思うしいるのだと思う。
ただ、私の場合はそれが己の本質ではないような気がしたし、部屋から溢れ出してしまうくらいに、好きなように好きなものを買えるようになって、幸せになったかというと、冷静に考えると、その相関関係は薄いような気がする。
普通に生きているだけでも、いくらでも情報が入ってきて、選択肢が極めて多くなった現代は、自分にとって本当に必要なものを取捨選択する重要性が増しているのだと思う。
人間の脳は並列処理には向いておらず、基本的にはシングルタスクが最も効率的なのだけど、情報や選択肢が多ければ多いほど、集中することは出来なくなってしむのだ。
ミニマリズムの話に戻ると、程度の差はあれど、己の中の価値を問い直して「生きるために本当に必要なもの」だけを、身の回りに残そうという思想なのだと私は解釈した。
部屋が片付かないというのは、そのまま私の今の脳内を示しているようで、取捨選択をしないまま、いろいろなものが積みあがっていて、本当に必要なものを選び取れていないから、この部屋で集中することが出来ていないのだろうと思う。
豊崎愛生さんと三森すずこさんから頂いた『金言』を胸に抱きながら、ダンボール箱を駿河屋に送れずにいる。
割とマジで、このダンボールを発送できた時に、俺は変わることが出来る気がしている。(24分オーバー)
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gkeisuke · 4 years
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201007 30分日記・改
文章を書くことから離れすぎたこと、集中して物事に取り込む訓練をすること、割と今の自分の心情は書き留めておいた方がいいような気がしていることなどの理由から、1日30分日記を書く習慣を復活させようと思う。
9月下旬くらいから、ずっと凹んでいる。
皆さんからご心配を頂いたり、お話させて頂いたりして、ちょっと元気になったけど、一人になるとやはり凹んでしまって、しばらくは落ち込んでいるかもしれない。
ただ、これは私が28年間の人生で目を背け続けてきたことがブーメランとして返ってきている実感が強烈にあり「お前は本当にしょうがない人間だな」という落ち込みです。
その上で、今年はスフィアや豊崎愛生さんのことを心の神棚から降ろしたことや、コロナ禍の現況もあり、今は自分の問題から逃げることもできない。
どこに進めばいいのか、何のために頑張ればいいのか、これからどんな風になりたいのか、誰かが決めてくれる訳ではない、誰かが教えてくれるわけではない答えを自分自身に問い掛け続けている。
ただ、きっと私が潜在的に求めていた変化は、自分自身の人生を進めるためのもので、そのためには必要な苦しみでもあるのだとも思っている。
去年の1月に読んで、強烈な影響を受けた、若林正恭さんのエッセイ『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』の文庫版が発売されたことを思い出して、仕事終わりに買いに行った。
本編のキューバ旅行記に加えて、文庫版のみの描き下ろしとして『モンゴル』『アイスランド』『コロナ後の東京』の3編が収録されていて、オードリーのオールナイトニッポンで話していたエピソードを、若林さんの当時の心情や、考えていることを交えて、より事細かに語ってくれていた。
私は、よく周りに「考えすぎだよ」と言われる。
今も究極的に「考えすぎ」なんだろうなと思うし「考えすぎ」ていることの弊害として、身動きが取れなくなっているシーンが増えていて、それに関しては本当に良くないことだなと思う。
そんな「考えすぎ」な自分と同じ方向を向いて、偏頭痛を抱えるほどに考え抜いた末に、テレビやラジオの世界に出て「笑い」を届け続けてくれているのが、若林正恭という人だった。
私は、考えすぎることをやめるのではなく、苦しくても、上手くやれなくったとしても、もっともっと色んなことを新鮮に受け止めて、たくさんのことを考えるべきなのかもしれないと思った。
思えば、それが去年から始まった「変わりたい」と思う根源にあった体験であったようにも感じる。
表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬の文庫版に書かれていたDJ松永の解説に、自分の想いを重ねると共に、最近、またオードリーのラジオをよく聴くようになっている理由は、なりたい自分の姿として「今の若林さんの姿」があるからなのだろうなと実感した。
思春期は終わったりなんかしていなくて、むしろ、遅れてきた思春期が今ようやく始まっている。
恥ずかし気もなく、大学時代の後輩にもいろいろと情けない相談しているのだけど「いや、28歳でそれに自分で気づけて良かったですよ」と言ってくれた。
これまで自分が汚れないように生きてきたから、どうしても汚れなくては先に進めない道が立ちふさがって、そこをどう乗り越えていいか分からなくて、全身泥まみれになりながら泣いている28歳男性。
それでも、変わりたいなら、みっともなく、0から始めるしかないんだろうなという答えは分かり切っているはずなのだ。
在宅勤務が続いて、自宅と仕事が地続きになってしまったことを、とても窮屈に感じてきたので、久しぶりに一人旅に出かけたいなと思っている。
海が近くて、お魚が美味しくて、温泉があるといい。
でも、カニが食べたいから福井かもしれない。(26分オーバー)
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gkeisuke · 4 years
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私が書く豊崎愛生さんの文章としては、意識的にめちゃくちゃ文章を削ぎ落とす作業を行ったので、語り足りない話をこちらに残しておこうと思います。
人はこれを「野暮」とも言います。
そして、特にまとまっていません……。
のぼる小寺さん
youtube
『のぼる小寺さん』という映画を観た。
(感情を失ったネタバレモンスターなので、これから観る予定がある人はスルーしてください)
端的に言うと、小寺さんというヒロインが、ひたむきに上へと登っていく姿をみて、変わっていく4人の登場人物の姿を描いた映画だ。
小寺さんは"アイドル”の言い換えで、4人は"オタク”の言い換えでもあり、監督自身がそういう言及をしてもいた。
身も蓋もないことを言ってしまえば『俺の映画』だと思った。
ただ『俺の映画』として観ていたからこそ、映画のラストシーンに若干の違和感を覚えることになる。
私が原作漫画から好きな作品だったので、それとは違う帰結を見せたらからだったのかもしれない。
原作漫画における小寺さんは、最後まで人々に『見上げられる』対象、すなわちアイドルとして描かれ続ける。
漫画の後日談では『高校時代に知り合った誰か』と結婚したことが示唆されるが、それが誰なのかは明言されないようになっていた。
しかし、映画版は終盤までホボ完璧に原作のテイストを踏襲しながら、ラストシーンは『見上げられる』対象だった小寺さんが、メインの視点を担う近藤という卓球部の男と同じ高さまで下りてきて、お互いを見つめ合うシーンが帰結として描かれる。
これも原作にあったエピソードから抽出されていたのだけど、小寺さんが纏っていた『神性』は、原作では保たれたままだった。
映画版は『見上げられる』対象だった小寺さんが、普通の人間として、同じ高さから見つめる視点を手にするまでの物語だったように思う。
これがどうしてモヤモヤしてしまったのかと言うと「私が直前に豊崎愛生さんと生電話をしていたから」なんだろうなという結論に至った。
***
この映画で私が一番好きだったのが、二人の他に誰もいない早朝の体育館で、ひたすらに壁を登り続ける小寺さんの姿を見かけた近藤が、小寺さんに声をかけるのではなく、背を向けて、自分もひたすら卓球のサーブ練習に打ち込むというシーンだった。
この時、近藤の視野に入っているのはサーブ練習用のネットであり、小寺さんのことを実際的には見ていないのだけど、他のどのシーンよりも「近藤が小寺さんを見ている」シーンであり、同時に「小寺さんが近藤を見ていた」シーンであることが後に分かる。
近藤はこれまでやる気のなかった卓球部で、県大会ベスト8の成績を残すことになり、最終的には小寺さんと同じ視点に並び立つことになるのだ。
映画の中盤、そんな近藤が、初めて自分から小寺さんに話しかけられるようになって、めちゃくちゃガッツポーズするシーンがある。
このシーンで、私と近藤のシンクロ率はピークに達することになる。
ただ、今の私にとっては"そこ”で物語が終わっているのだと思う。
そして、そこから先、映画の近藤と私が描いていたビジョンは同じではなかった。
私は近藤では無いので、当たり前なのだけど、これが映画のラストシーンに覚えた違和感の正体だったのだろうなと思った。
ちなみに、これが最後まで私として帰結した映画が、去年、その後輩から遠巻きに、お前の映画だから観た方がいいという電波を受信して観た『アンダー・ユア・ベッド』という映画でした。
正直、ストーリーの部分はそんなに関係なくて(※その部分がめちゃくちゃ痛ましくて辛い話なので、あんまりオススメはしないです)主人公が思う、 誰かを想い続けた先の『報われた』と思う形が全く同じだった。
そして、それを報われたと感じるのは、恐らく、広く一般に理解されるものではなく「イカれてる」という意見が多いのだろうなと、今プライムビデオの『アンダー・ユア・ベッド』のレビューを見て思った……。
その点、のぼる小寺さんにおける『報われる』形は、とても王道だったのだとも思う。
蛇足・自己投影の鬼
話は変わるが、先日、後輩(私が後輩という言葉を使う時の8割を占める後輩)に夏川椎菜さんのBDを観てもらって、感想戦をしていた時に言われた「マジで自己投影の鬼だな」という言葉が非常に胸に残っている。
その後輩は私とは真逆で、客観性の鬼なので、だからこそ、私はとても厚く信頼している。
BDで観た夏川椎菜さんのステージについて、二人とも最終的な答えはほとんど同じなのに、使っている途中式が全く違ったのだ。
私は『自分』というフィルターを通して、その答えに辿り着いており、後輩は提示された情報だけで想像しきってその答えに辿り着いていた。
「マジで自己投影の鬼だな」と言われて、色々振り返ってみると、確かに、創作物を受け取る時も、何かを表現する時も、めちゃくちゃ『自分』に寄せた上で観てるな……ということに気づいた。
でも、私の中では、それは客観性を無視するという話ではなく、自分というフィルターを通すからこそ、周辺の情報に筋を通さなくてはいけないと思っているし、別に世界が私で溢れているわけではないので『私みたい=いい作品』というわけでは必ずしもない。
この部分、改めて読み返したら超蛇足だったけど、割と己のモノの捉え方の核心を突かれて面白かったエピソードだったので、とっておくことにする。
どんなオタクになりたい?
ずっと「敵わないな」と勝手に思っているオタクがいる。
小寺さんの話をしたのは、その人が、小寺さん役を務めた工藤遥さんのオタクだったからというのもある。
私がこの世で一番更新を待っているブログでもあるかもしれない。
何に敵わないかというと、文章であり、生き様なのだろうなと思う。
ただ、小寺さんの感想ブログを書いているのを見て、ハッとさせられた部分もあった。
僕は前々から「アイドルはファンが見つめる事によって神性を帯びる幻だ」と書いているが、小寺さんとその周辺の人達の関係性は「アイドルとオタク」に似ている。
近藤は正統派ガチ恋オタク、田崎は何か夢があるオタク、倉田はなんとなくオタクやってるオタク、四条は元ガチ恋で病んで他界しかけたが、それでもオタクやめられなかったら現場で彼女が出来たオタク、のように見える。
近藤がはじめて小寺さんに話しかけるのは物語が中盤を過ぎた頃だが、大した会話も出来ず、名前を覚えられていたことに狂喜乱舞する。その姿は握手会に来たオタクそのものである。
あまりにも似ているので僕たちアイドルオタクは、それがアイドルとオタクの話、あるいはそれを意識したものだとすぐに気が付く。いくらなんでもある程度意図的だろう、と思っていたら、監督のツイッターにまさにそれが書いてあった。
脚本の段階から意図的にそれは織り込まれていた。僕がこの映画を見ている時になんとなく常に居心地が悪い理由がはっきりした。 僕はその「アイドルとファン」の関係に居場所が無い人間だ。
この映画を見て、小寺さん自身に自分を投影できる人は多くないかもしれない。しかし小寺さんの周辺の人物、近藤や田崎や倉田や四条のどこかに自分を投影している人は沢山いるだろう。僕にはとてもそんな事は出来ない。 
僕は小寺さんが照らさない人間だ。日陰に生きている。お天道様が見えない所でジメっと生きている。日向に出てみよう、というテーマに対して「うるせえな、ジメっとした所が好きなんだよ」と思ってしまう。
僕は無気力卓球部員である。同時に派手目な女二人組であり、クライミングウォールを体育館シューズで登ろうとして四条に逆ギレするバカであり、進路希望に「クライマー」と書いた小寺さんを否定も肯定もしない、と見せかけて否定する教師であり、小寺さんを「不思議ちゃん」だと切って捨てる雑音の中の一人である。
「アイドルとファン」という時の「ファン」は「良きファン」のことである。作中で「良きファン」は報われる。では「寂しい人」はどう生きていけばよいのだろうか。さすがにこの歳になると頑張っている人を冷笑する、というような事は少なくなった。しかし日向に出ることへの恐怖感は年々増しているような気がする。
日陰に、いや、もはや日光の届かない深海に生きている僕はどうやって太陽を見上げてのぼっていけば良いのだろうか。太陽の光がどのようなものだったか、僕は既に忘れてしまった。もし「小寺さんに出会わなかった近藤」が居たとしたら、彼は一体どうなるのだろうか。
僕にも近藤にとっての卓球のようなものがあるだろうか。お天道様が照らさない深海で、それでもなにかにひたむきに打ち込むことが出来るだろうか。僕は出来るんじゃないだろうかと思っている。僕は小寺さんと並んで歩く事はできないが、出来るだけ小寺さんのようになろうとすることは出来る。真っ暗な深海で、周りに誰もいなくとも、チョウチンアンコウのように小さな光を灯すことができるんじゃないか、とまだそう思っている。「寂しい人」である僕が感情移入すべきは無気力卓球部員ではなく、小寺さんである。 
映画のぼる小寺さん感想文
相変わらず、嫉妬するほどいい文章で、私には書けない美しさと切実さをはらんでいる。
だけど、割と私は務めて「良きファン」であろうと生きてきた人間なので、近藤が途中まで自己投影の対象となり得た理由も、この文章を読んでようやくハッキリと腑に落ちた気がした。
それは、この人の文章に共感と羨望を覚えつつ、この人のような文章を、書こうと思っても、書けるわけではないのだなということを決定的に突きつけられたことでもあった。
でも、今はそれでもいいのかなとも思う。
きっと何者にもなれない私に
豊崎愛生さんとお話することができて、なおも豊崎愛生さんのことを想い続けた先にある帰結は何なのか。
それが、どこにあったら幸せなのだろうかと未来を想像して書いたのが今回のブログだった。
「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」
大好きな幾原邦彦監督の代表作である『輪るピングドラム』で繰り返し用いられるフレーズだけど、今の私には「どこまで行っても、お前はお前という」意味に響いてくる。
私は私であり、卓球部の近藤ではないし、大好きな人の家のベッドの下に潜る激ヤバストーカー野郎でもないので、彼らの姿を糧にしながら、かつての私がそうしたように、今の私も自分なりの答えを出さなくてはならない。 
その上で、自分のことは自分では分からないと痛感した近年だったので、今回は、これまで書いてきた豊崎愛生さんの文章の中で、初めて分かってもらうための努力をして、言葉を選び、見せ方を考えた文章だったようにも思う。
本当は、冒頭に「私自身のためと、私のめんどくさい話を聴き続けてくれた友人への報告のために書き残しておこうと思う」と書いていたのだけど、この表記は削った。
みっともなくても、至らなくても、想いを伝える努力をしようというのは、豊崎愛生さんに対してだけではないなと思ったからです。
結果として、今回のブログが思いも寄らなかったところにも届いているのを確認できたので、そういう努力はして良かったのだろうなと思っている。
私のめんどくさい話を聴き続けてくれた友人というのは、この文章を目にして下さっている皆さんのことでもあるので、改めてありがとうございました。
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gkeisuke · 4 years
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200702 船場センタービルの漫画
6月は日記をホボ書けていなかったので、日記を書こうと思います。
船場センタービルの漫画
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私が知り得る中でも、トップクラスに女の子がかわいい漫画を描くことで知られている町田洋先生の新作。
大阪にある『船場センタービル』という施設の開業50周年を記念して描かれた広告漫画と、それを原作に作られた『忘れたフリをして』という動画作品の二つが6月30日にリリースされた。
寡作だとは思っていたけど、その事情まで含めて描かれた、町田洋先生初のエッセイ漫画でもある。
2個前のTumblrに書いた、この先、失われていくかもしれない、街に対する寂しさと感情の在処が、最後の2コマと『忘れたフリをして』という動画のタイトルに込められているように感じて、漫画でも動画でも、それぞれにボロボロと泣いてしまった。
この漫画は「広く告知する」という意味での広告漫画としては、きっと正しくない(もう十二分に多くの人に広まったと思うが、それでも正しくは無いと思う)のだけど、最初からそのつもりで町田洋先生に依頼をしていることも分かる。
状況だけとってみても、県を跨いでの渡航が難しいこの時期にリリースしたところで、船場センタービルに人を集めることは難しいはずだ。
それでも、この漫画は、今発表されたことに意味があって、私自身、今だからこそ読めて良かったなと思った。
「広く告知する」という意味では正しくなかったとしても、私にとって、縁もゆかりもない場所だった船場センタービルという施設が、この漫画を読んだことで「行かなくてはならない場所」になり「失われて欲しくない場所」にもなった。
そして、船場センタービルという場所の魅力を一人でも多くの人たちに広めるためには、一時的な数値を稼いで、注目を集めることにはあまり意味はなく「行かなくてはならない場所」「失われて欲しくない場所」という切実さを抱えた人を、一人でも多く増やす必要があったのだと思う。
そのためには、この施設自体を、50年生きた一つの命として捉えて、己もまた一人の人間として、その生き物と対峙した上で、本質に迫るような漫画を描く必要があった。
そこに、町田洋先生が選ばれたのは、非常に大きな納得がある。
『夜とコンクリート』という作品が、まさにそういうお話だったからだ。
個人的には、ヨシダさんの新作Tシャツについてのブログを読み、ヨシダさんと、ある探偵についての話をした直後でもあって、広め方の話とか、失われないようにするにはどうすればいいんだろうと考えていたところでもあったので、その意味でも、出会うべくして出会った漫画だったなとも思っている。
祈りや願いを、自らの中に持つだけでなく、それを抱えた上で、表していくことに意味が宿ることを、この漫画から改めて教えてもらったように思う。
だからこそ、この漫画についての文章は、私なりに残しておかなくてはいけないような気がしたのだ。
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gkeisuke · 4 years
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200602 俺と平岡の大ちゃん(劇場版SHIROBAKOの感想と見せかけた自分語り)
2013年、大学4年生だった私は、周囲の流れに身をまかせるように、なんとなく就職活動をしていた。
今にして振り返ると、自分が「本当にしたいこと」が何なのか。そして、自分にできることが何なのかが、全く把握できていなかったように思う。
それでも、これまでと同じように、何となくそこそこには上手くできるのだろうと思っていたのだけど、そんなメンタリティでいたこと自体が、人生そのものを舐めているに等しかったのだと思う。
「好きなこと」を仕事にしようと思っていた。
一番最初にエントリーシートを送ったのは京都アニメーションだったけど、エントリーシートで落ちた。
二番目にエントリーシートを送ったのはサンライズで、ここは奇跡的にエントリーシートを通過して面接まで進んだ。
しかし、サンライズのオフィスで一次面接を受けて、ガンダムやアイカツ、ラブライブの貴重な資料がたくさん置かれているのを見て、テンションが上がってしまった自分がいて「あ、これはダメだな」と思った。
結局、その「好きなこと」というのは、受け手側としての視点での話であって、私はその中に入って、何がなせるかというビジョンを持たないままに就職活動をしていたのだ。
三番目は、自分が出来そうなことに照準を絞って、小さな印刷会社の面接を受けた。
これは、文芸部部長という自分が外向きに公言できる中で一番強いカードを、上手く結び付けられるのではないかと思ったからだ。
ただ、面接を受けている最中、正直、全然やりたくないなと思ってしまった。
その仕事がいいか悪いかという話ではなく、私自身がここで、この仕事を続けていくビジョンが見えなかった。
にも関わらず、そういう会社に面接を受けにきて、付け焼刃で自分を売り込んでいる自分に気づき、いよいよヤバいのではないかと思い始めた。
そして、しばらく間隔が空いて、四番目に面接を受けた会社で今も働いている。
ここに関しては、取り扱っているのは「好きなこと」ではあったのだけど、その上で、文章を書くことや、Web関連の知識が生かせる場所でもあり「自分に何が為せるか」という点を見つけてもらえて採用に至ったのだと、今は理解している。
当時は、そういうことも分かっているようで、分かっていなかった。
ただ、半ば就職自体を諦めていた節もあったので、幸運だとは思っていた。
いざ働き始めても「自分が本当にしたいのはこれなのか」という点に対しては、結構、長らく葛藤があった。
仕事自体は、やはり適性はあるように思えたし、辛いことはあったけど、退屈だとか苦痛だとか思ったことは一度もなく、仕事をやりたくないと思ったこともない。私にとっては奇跡のように相性がいい環境だと思っている。
ただ、職業柄、仕方ないのだけど、月火が休みなので、これまでのように好き放題ライブには行けなかったりはした。甘いのかもしれないけど、スフィアや豊崎愛生さんがバリバリ活動していた頃は、これもかなり辛くはあった。
***
私が『SHIROBAKO』という作品に出会ったのは、まさにそうした葛藤と戦っていた、就職2年目、2015年春のことだった。
月火休みで遊び相手がいなかった私は、卒業後もしばらくは、メシを奢り、遊び道具を出資することで、文芸部の後輩に遊んでもらっていた(今考えると最悪なOBだ)のだけど、そこで観た方がいいですよと教えてもらったのが『SHIROBAKO』だった。
当時の私は、まだ夢を諦めきれていなかった。
それは、ライトノベル作家になるという夢で、いつか、作家になって、豊崎愛生さんにヒロインの声優さんをやってもらうんだという青い夢。
仕事に対する葛藤は、その夢を見ないフリをして、日々の糧を得ている自分の中途半端さに、失望し続けていたからなのだろうと思う。
ふかふか団地というサークルを結成して、小説を書くという行為と、自分とを繋ぎ止めておこうとしていたのも、それが大きな理由の一つだった。
『SHIROBAKO』は、私がその場所にいることが叶わなかった「好きなもの」を仕���にして、夢を形にしようとする人たちの話だった。
ただ、自分が叶えられなかった時間が目の前にあって辛いということは無くて、当時の私は、まだ当事者として物語に共感していたように思う。
みんなが夢に向かって前に進んでいく中、苦しんでいたずかちゃんが、ルーシー役の声優に選ばれて、アフレコするシーンでは、宮森と一緒にボロボロ泣いていた。
その中で、平岡大輔という男のことが、どうしても好きになれなかった。
いいものを創ろうと情熱を燃やす人たちの中で、自分にできる最大限をも尽くさずに、拗ねて、嫉妬して、不和を生んでいく様が、当時の私は許せなかったのだと思う。
***
仕事の話に戻ると、2年前、仕事の人事異動と、それに伴う担当変更が重なり、精神的に非常につらい時期があった。
業務の負担的に、私がやっていたことを、新しく部署に入ってきた人(とはいえ年齢は二回り上)に引き継がなくてはいけなかったのだけど、正直、私がやった方が速度もクオリティも数倍上で、それを改善しようという兆しも見えなかった。
しかも、全くと言っていいほど確認をしない人だった。
当然、業務の責任はその人にあるのだけど、私はクオリティが低いものを表に出すぐらいだったら、自分の負荷を強いた方がマシと思っていたので、陰ながらその人の仕事を修正する業務が加わり、結果、業務量が2倍に膨れ上がった。
その上で、私は私で、新しく取り組む業務を勉強せねばならず、最初の頃は数値もついてこなかったので、心身ともにかなり厳しい状況になっていった。
それでいて、その人は私であれば午前中に終わるくらいの仕事量を、1日かけて、低いクオリティで仕上げて定時で帰っていくので、私と一部の人たちだけが、熱量をもって仕事を頑張る現状に対して、徐々に虚しさを覚えるようになっていった。
結果、自分のことも上手くいかなくなって、燃え尽きに近い感情になり、キャパシティを超えた環境でなおも成長を求められることに、周りに当たり始めたり、混乱したまま帳尻合わせのような仕事をし始めていた。
いよいよ小説と向き合うこともままならなくなり、この時期は結構、本気で仕事をやめようか悩んでいた。
そんな時に、ふと平岡大輔のことを思い出して、もしかしたら大ちゃん、こんな気持ちだったのかもな……と思ったのだ。
私は、宮森にはなれなかったのかもしれないと思った。
***
仕事に関しては、上司には、これをダメだと言われたら辞めるか異動する覚悟で「現状では厳しいです」と正直に伝えたら、真摯に受け止めた上で、対策をとってくれた。
これまで、迷惑をかけないようにとコミュニケーションを取らず、一人で抱え込んでいたのだけど、話してみたらするすると上手くいくことを知った。
そして、新年に入ってからは、どうしようもない行き詰まりを感じていた部分を、私を採用してくれた他部署の上司が介入して、大きく動かしてくれた。
その上司と一緒に仕事をする中で、結果的に、私の仕事に対する認識と覚悟が、まだまだ甘かったんだなと痛感させられた。
自分だけが情熱を燃やして、他人にも同等の能力と熱量を求めるのではだめで、組織全体を巻き込んで、強引にでも推し進めるまでがやるべき仕事だったのだと、思い知らされたのだ。
これまでは、自分が頑張っても虚しいだけだと思っていた部分が、そうすれば、もしかしたら変わるかもしれないと思えるようになった。
その上で、それには、もう私が腹を括るしかないのだということを分からされた。
同時に、その立場に私が居られることは、これまで頑張ってきたことが無駄にはならず、ちゃんと私に対する信頼に繋がっていたことを証明してくれた気がしたのだ。
そう覚悟を決めてからは、出来ないことは人に頼るようになり、自分のために、自分だけでなく、組織を上げるためにどうすればいいのかを考えられるようになった。
これが2020年1月~3月の話で、小説も含めた原稿も並行して3つ抱えていたのだけど、腹を括ってからは不思議と走り切ることができた。
***
1月~3月、身を粉にして頑張ってきたプロジェクトだったけど、新型コロナウイルスの影響により、無期限で延期となってしまった。
あと一歩のところまできて、形に出来ないまま停滞してしまっている状況が続いてしまっている状況が常に心の片隅を重たくしていたけど、同時に、在宅でこれ以上動くのは難しいし、時期としても正しくないのも分かっていた。
何かが変わりそうだったのに、その一歩手前でずっと足踏みしている感じで、私自身の動きもどんどん鈍くなっていくのを感じていた。
***
忙しさと情勢によって、上映当時に観る機会を逃してしまっていた『劇場版SHIROBAKO』を、6月1日の映画館の営業再開と共に、ようやく観ることが出来た。
予習などをして来たわけではなかったので、入社2年目に観たSHIROBAKOから、私自身も5年ぶりの再会で、物語もあれから4年後のお話だった。
4年経ったムサニで、宮森はくすぶっていた。
それでも、苦しくても、とにかく転がして、動かし始めてみたら、多くの人を巻き込んで、失いかけていたアニメ制作への情熱に、もう一度火を点けることができた。
平岡大輔は、演出になった高梨太郎とバディを組んでいた。
無責任で、荒唐無稽な夢を語りながら、その夢に向けたエネルギーを失わない太郎を、どこか嬉しそうにサポートする大ちゃんは、かつてのような余裕がない姿ではなく、むしろ、かつての自分のようになりかけていた宮森に、アドバイスを送る立場になっていた。
大ちゃんもまた、どん底から、再び自分の希望を見つけることが出来て、少しずつ良くなって行ったのだろう。
『劇場版SHIROBAKO』は、停滞した現状を、もう一度前に進めるまでの物語だった。
この在宅期間で思い知らされたのは、本質的に私はずっと正しくは在れなくて、おそらく、今も間違っており、この先も、間違ったり、落ちたりするのだろうなと思った。
劇場版SHIROBAKOにおける『正しさ』であり『強さ』の塊が小笠原さんだったような気がして、私は彼女のようにはなれないなと思うのだけど、彼女のように、辛くても、自分のやるべきことに向き合えている人間で在りたいなと強く願っている。
そして、その気持ちを行動に移して、少しずつでも前に進めたのなら、私にとっては、それで上等なのかもしれないとも思った。
***
平岡大輔は、テレビシリーズ第20話で「アニメ作品で初めてカンヌ国際映画祭の『ある視点 exit 』部門賞と国際批評家連盟賞を獲ること」が自分の野望だと、太郎に話していた。
「入って一年も経たずに夢醒めたけどな」「何になりてえとか、何やりてえとか、そんなもんとっくに捨てたよ」と、かつて矢野エリカに語った言葉にも嘘は無いのだろう。
それでも、酒に酔ってつい口に出たその言葉は、心の中から失われてはいなかったのだ。
だから、高梨太郎と組んでいる今も、きっと彼は、上手く立ち回ることを覚えながら、その野望を心の中に持ち続けたままなのだと思う。
***
だから私も、今に至るまで、別に夢を諦めたつもりはない。
ただ、出来ることと出来ないことを知って、形は少し変わったかもしれない。
仕事にしろ、文章にしろ、自分のなすべきことに全力でぶつかり続けて、少しずつ前に進んだその先で、私の人生を照らし続けてくれたあの人に、心の中で温め続けていた感謝を直接伝えられれば、それでいいのかなと今は思っている。
それは具体的に「何になる」という話ではなくて、強いて言うなら、自分がちゃんと良い人生を送れていると自覚できるようになるまでの話なのだろうと思う。
ライトノベル作家になるより難しいことなのかもしれない。死ぬまでゴールが無いので。
『劇場版SHIROBAKO』は、止まった歩みを、また進めるための勇気をくれた一作でした。
俺たちの戦いは、まだまだこれからだ。
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gkeisuke · 4 years
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昨日ひっさしぶりに街に出て、お世話になってるお店の様子を見てきました。おおむねケイスケ日記にあるようなことを僕も思ったわけですが、とりあえず。
・狂った雑貨屋
内容は割愛するけど終始めちゃくちゃ不謹慎な話をしていた。やはり狂ってる。店主は営業自粛期間中、倉庫で肉体労働のバイトをして「こんなに帰ってからの飯がうまく感じたことはない、これが"仕事"かと思いました。一日中座って雑貨売ってたらダメです。明日は島に行って民家解体のバイトをします」と違う方向に目覚めたようです。
・狂った古着屋
普段タイに行って商品を買い付けてたもののそれが不可能になり、どうしたもんか…という感じではあるけど色々動いてポジティブに向かうように頑張っていて感動。
コロナ禍のことを考えるのも大事だけどそればっかりだと落ち込むんで、と「コロナ禍がとあるフェチを生む」説を披露してくれた。「フェチっていうのはその存在を知って意識するところからも始まるんで、この話をしたことで僕は吉田さんの心に爆弾を仕掛けました」という怖すぎる陰謀が明らかとなった。
・商店街
緊急事態宣言が解除され、人通りは従来と同じくらいだったが、あらゆる業種の店がかなーり閉まっていた。一時的なものか潰れてしまったのかは分からんけど。飲食をやってた若い世代が何人か夜逃げをしたみたいなので、これはもう本格的に焼け野原だなと感じた。いつも通りはどこにもない。
・ビアバー
ケイスケ、ピーマンさんと来たあのお店。昨日街に出た最大の目的がここだった。一杯飲んで、マスターにビールのこと教えてもらおうと思っていた。
結果から言うと閉まっていた。SNSやってない上店に張り紙とかもなかったので、自粛なのか最悪の展開なのか分からなかった。
街でビール飲むならここだったし、ようやく突っ込んだビールの質問をぶつけられるくらい知識もついたのに。
正直クラフトビール飲むだけなら他でもいいんですが、そんな中ここを選ぶ理由というのはあのマスターの存在です。ビールを愛してたし、ビール愛を客に伝えようともしてくれていて、僕自身マスターのおかげでビールが好きになった部分が大きい。
自粛かどうかが分からないので余計にツラいのですが、愛とかなんだとか、数値化できないあらゆる要素が「数値化できないんだから"ない"ってことでしょ」「"ない"ものは何の足しにもならないでしょ」と言われているようでした。
それはコロナ禍が浮き彫りにした紛れも無い事実ではあるんですが、ならばそこに対して闘いたいなと、無力感にやられつつちょっとメラメラして帰宅。
またあのビアバーの様子は見に行かなければ。
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gkeisuke · 4 years
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200522 日記
昼間の街を出歩いたのが、相当久しぶりな気がする。
身体が人間であることを忘れないよう、夜は河原に散歩かランニングに出ているのだけど、ここ何週かはドラッグストアとコンビニ以外で、外に直接触れることがなかった。
普段は働いている時間なので、そもそも金曜日の昼間に、地元の駅前商店街にいるのが大学生ぶりだった。
なので「普段」をそもそも知らないのだけど、思っていた以上に人はたくさんいて、思っていた以上にいつも通りの日常のように見えた。
街に出てきたのは、飲食店のテイクアウト弁当を食べたいと思ったからだった。
先日、トオルさんとお話したこともあり、GENNARIさんのラジオを聴いていたのだけど、大釜さんが「西院の食べ歩きMAPを作っている」という話をしていて、そういう方法があったか……と謎の気づきがあったのだ。
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働いている時は外食が占める割合の方が大きいのだけど、実家暮らしなので、在宅期間中は、家でごはんを食べることが多くなっていた。
母の料理は美味しいのだけど、休日は外出して、自分の好きなものを食べることで発散していた部分の鬱憤が日を追うごとに蓄積していたようだ。
久しぶりに商店街に行ったら、ズラリと並ぶ飲食店の全てが、テイクアウトメニューで営業するか、休業するかの2択だった。
ついでにスポーツジムの様子も観に行ったのだけど、そのジムがあるフロアそのものが完全に封鎖されていた。
よく見ると、どこも全く「いつも通り」ではなくて「いつも通り」に見えるよう、懸命に踏ん張っているだけだった。
この2ヶ月、私の生活も確実に変わっているのだけど、仕事は奇跡的に数値の上では「いつも通り」で、外の生活に触れたことで、ようやくそのことがジワジワと実感として沁みてきたような気がする。
「不要不急」という言葉をよく聞くようになった。
今の現状と、この先に待つ生活において、何がいちばん辛いかというと「不要不急」のものが、どんどん淘汰されていく可能性が高いことだなと思う。
例えば、家系ラーメンを売るお店は、この商店街に3つもいらない。
多分、3店舗の中から、一番上手くやれるところ、つまりは大手チェーン店が生き残ることになるだろう。
1ユーザーとしては、前々からこの街に家系ラーメン屋3つもいらんやろ……とは思っていたけど、家系ラーメン屋が3つも「存在を許されている」空間のことは、そんなに嫌いじゃなかったのだ。
めちゃくちゃ好きなわけでは無いし、流行ってる訳でもないけど、たまに無性に食べたくなる「あのお店」というのが、どんどん苦しくなっていくのだろう。
それが資本主義と言われればそれまでなのだけど「必要ではない」という理由で、そうした余地が失われていき、最大公約数的なチェーン店ばかりが生き残る世界というのは、まさにディストピアそのものだなと思う。
飲食店に限った話ではなくて、社会全体にそうした「余地」が失われている予感は前々からあって、そこにとどめを刺されたような感覚がある。
この先、失われていくかもしれないものに対する抵抗の意味としても、私自身が最大限楽しむ上でも、出来ることは、可能な限りそれを愛することでしかないのかなと思った。
無性にからあげが食べたくなったので、個人経営のお店でからあげ弁当を買って帰った。
久しぶりに食べたあたたかい外の食べ物は格別に美味い……。
俺はな、インターネット上では楽しくやってたいんだ。
自分にとって、実になる関係性を築けるのは、楽しそうな人たちの周りだけだと思ってるので、私は常に「楽しい」を発信していたい。
来月からは、会社での仕事に戻ることになる可能性が高い。この生活に終わりが見えてきて、それでも、私自身も、外の世界も、いままで通りというワケにはいかない。
あんましいい日記にならなかった気持ちがあるので、次の休みは、4ヶ月切ってない髪を切りに行き、部屋を片付け、自動車税を払いに行き、車検を受けて、私の生活を取り戻しに行こうと思う。
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gkeisuke · 4 years
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200511 日記
日記を書くという強い気持ちで打席に入った。
特に言いたいことがあった訳ではないです。マジで日記をやる。
やるっきゃないない!
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新しい生活様式
去年くらいから、休日はとにかく外に出て、どこかに行ったり、誰かと遊んだりすることで生活を動かしてきた節がある。
自分を律することが非常に下手で、この世で一番私を甘やかしてくれるのは私なので、外部からの強制力が働かないと、無限に怠けてしまうのだ。
正直、家が一番自分が停滞してしまう場所だと思っていた。
在宅ワークに向いてないなと思う最大の理由がここにあると思っている。
外に出かけさえしてしまえば、徒歩5分でジムに行けて、車で15分のところに温泉があり、電車で30分で池袋に出れて、全く何もしないままに休日が終わってしまうようなことは無かった。
生活が停滞すると、己のアップデートが非常に難しくなってしまう。
今週のオードリーのオールナイトニッポンを仕事中に聴いていて、若林さんが
「今だからこそ、新しいコンテンツを入れなきゃダメって意識があるけど、結局、実家から送ってもらったドラゴンボールを全巻読み直したり、結局、バック・トゥザ・フューチャー1~3を観返してしまってる」
という話をしていて、やっぱりそうなんだ……と思った。
私も、この機会に新しいアニメを観たり、ゲームをやったり、溜まっていた映画を観たり、本を読んで勉強したりしたいかった。
でも、結局、姉と一度観たセーラームーンを改めて見直したり、ちびまる子ちゃん第1シーズンを振り返って無限に笑ったりしてしまってるもんな……。
月に1度は必ず電話して、お互いの現状を報告しあっている親友がいるのだけど、お互い再放送みたいな生活をしてしまったせいで、全く話すことが無いという状況になり、次に電話する時までには、何か報告しあえるような実績を残しておこうな……と告げて、普段以上に短い通話時間で別れたりもしていた。
新しい生活様式というか、これは大学時代の夏休みに近い感覚のように思う。
1日中、ウイニングポストをやっていたら朝だったみたいな悠久の時間。
「やるべきこと」が「やらなくてはいけないこと」に変わらないと動き出すことが出来ず、ひたすらに「やるべきこと」が積み重なっていく。
想像以上に、私という人間は外の世界に触れることでしか、自分という人間に向き合えないのだなというのを感じている日々です。
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ぼくを探して
在宅期間中だからこそ、インターネット上の知り合いたちとは、時間や場所を超えてお話することが出来ているのはいい点だなと思う。
この前、ヨシダさん、みやっちさん、きりさめさん、せーはくさんと入れ替わりにオンライン飲み会をした時、せーはくさんに「ケイスケさんは田淵さんに似てるんじゃないか」と言われることがあった。
自分で気づいたのだけど、私は「〇〇面白いですよ」と言われるより「〇〇はお前に似ている」とか「〇〇はお前に必要だと思う」と言われる方が、その対象に興味を持つ可能性が高いように思う。
私は、この世で一番自分に甘いくせに、自分のことが未だに一番よく分かっていない。
だから、他の人から(※少なからず信頼していて、仲良くしてもらっている人から)自分がどう見えているのか、どう感じられているのかというのに、とても興味があるのだ。
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あと、昨年あたりから、いろいろな人たちが大切にしている世界に触れさせて頂く機会は多くなっているけど、個人的には、これもその延長線上にあるんじゃないかなと思っている。
これは悪癖ではあるのだけど、私は基本的には「オススメ」では動かない。
誰かがとても楽しそうにしていたり、誰かがとても切実な想いを抱えているなと思った時に、私もそれに触れてみたいから動く。
これは決して、誰かに好かれようとか、誰かに寄り添うためとかではなくて、もっと独善的な理由だ。
誰かの人生に深く根ざしたものを、まずは自分自身で受け止めてみて、その世界に触れた後、話を聴いてみることが、何より「自分を知ること」に繋がっていくことが、なんとなく経験として分かってきたからだ。
それが、めだかさんにとってのスタァライトだったり、姉にとってのセーラームーンだったり、ばんばさんにとっての小沢健二だったり、ヨシダさんにとってのナナシスだったり、青Pさんと話してきたTrySailちゃんや麻倉ももさんの話だったりした。
もちろん、私が好きな人たちが本当に大切にしてきたものなので、私もそうしたものに触れる時は、持てる限り誠実に、全力で向き合ってきたつもりではある。
だから、キッカケは「誰か」にあったとしても、直接、私という個人に投げかけられたボールではなくて、私が勝手にめちゃくちゃ全力でボールを拾いに行っているケースの方が多いような気がする。
これも、尊敬して、信頼している人たちと出会えたからこそできていることなので、その出会いこそが、一番の財産だなと切に思う。
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天堂寺ムスビという女の子、自分を律することが出来ない私とは正反対な真面目な子なのだけど、不思議と彼女の言葉は、自分のことを言っているように感じる瞬間が多かった。
このことに自覚的になれたのも、ヨシダさんのおかげだったりしたので、そういう意味でも、私のことを見てくれてる人と話すことは、何より私にとってたくさんの気づきを与えてくれることだなと思う。
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新しい生活様式2
話を最初に戻すと、私の生活の中で、最大限の外部からの強制力というのが「仕事」なのだと思っている。
かつては「学校」でもあったが、学校や仕事に関しては「やらなければいけないこと」に刻み込まれ続けているからか、自分の能力を自分がある程度把握していて、その枠組みの中で、極端に落ちぶれることはなくやってこれたように思う。
そういう意味でも、私にとっては生活を保つためにも仕事は必要なものだと思っているのだけど、その分、無くなってしまうのが「時間」ではある。
そして、それと引き換えに発生するのがお給料だ。
勤務体系こそホワイトではないが、それに見あった給料を頂いていると思っているので、正直、働き始めたころから、奔放に暮らしていてもお金に困ることはそんなにないなという気がしていた。
でも、人生の大部分を使った見返りとして頂いているものがお給料でもあるので、それを何に使うかというのは、生き方そのものなのかもなとも思う。
去年の生活を経て、私は「人と会うため」に、そのお金が使えればいいなと思った。
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時間には限りがあるけれど、私に会いたいと言ってくれるなら、私と話したいと言ってくれるなら、そして私が会いたいのであれば、場所の制約は私が動けば取り払えるので、私がある程度、お金を自由に使えるうちは、誰かに会いに行くことで、自分のことを知って行こうと思ったのだ。
そして、会いに来てくれる人のために、自分のことを自信を持って発信できる一つの方法として、同人誌を創り、サークル参加をしていたのだろうなと思うと、実は、気づいていなかっただけで、昔からそんなにやりたいことは変わっていなかったのかも知れない。
この話のオチとしては、28歳にして、ようやく上記のように自分の生き方が定まってきたのに、現在の社会情勢によって全て封じられてしまい、ジムで鍛えた筋肉は脂肪に変換されていき、休日はベットの上でぼーっとしてたら一日が終わってしまう男に成り下がっているということだ。
基本的に、この日記を読んでいるような皆さんには、都合が付けばお話しに行くので、自宅で停滞した生活を送る哀しきモンスター・ケイスケちゃんの人生を動かすためにも、今後とも是非お呼び立て下さい。
明日はナナシスのEP5.0をやるのと、フラスタBOOKを読んで過ごそうと思います……。
ちなみに、私も誰かに「オススメ」をするのが下手で、めちゃめちゃ楽しそうにしてたり、切実さを伝えることでしか受け渡せないので、これは私なりのサブリミナルナナシスおすすめ日記です。
エピソード無料開放期間が5月14日(木)までなので、最悪、主要エピソード全スキップでいいので、読めるようにしておいて欲しい気持ちがある。
無料開放期間以外で見るの、正直めちゃくちゃ大変なので……。
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gkeisuke · 4 years
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昨日はお疲れ様でした。
シュウさんが退室されてからは、私が熱い話を始めて、それにトオルさんが応えてくれて、最終的に、ヨシダさんからもとても熱い話をお聞きして、3時半に解散しました。
飲酒して深夜2時を回ると、私にしても、ヨシダさんにしても、どろどろになりながら、内に秘めた熱い部分の話が始まるというのが、酔い方のパターンなのかもしれんと実感しました。(私は好きです)
またよろしくお願いします。
僭越ながら贈らせて頂いたグッズ。
使って頂き光栄です。サワラさんに使ってもらえたぞ、良かったな飲酒グッズよ。
ステイホームもやり方次第だな、楽しくやるぞ。
昨日オンライン飲み会をしましたが、後半の記憶がないのでください。
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gkeisuke · 4 years
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200409 深呼吸
姉が鬼滅の刃を全巻買ったこととTwitterが更新されなかったことにより、おかえりらじおの後、ずっと鬼滅の刃読んでしまったので、今日の日記はありません。
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深呼吸、明確にある一人のリスナーが始まりであることを知っている(冬のあきまつり参照)ので、10年前に立ち戻った時、私が成りかわるのは、少しずるいことをしているなという気持ちはあった。
でも、その上で「もし今日の“おからじ”が緊張の放送第1回だったらおくりたいメール」というメールテーマだったので、もし、今の自分が第1回放送に送れるならばと考えた時、思い浮かんだのは『深呼吸』のことだった。
これは、リスナーから届いたメールの言葉から、その後、パーソナリティとしての彼女の中に深く根ざしていった所作であったことを、覚えていたからなのかもしれない。
もし、10年前に戻れるならば、私は彼女に、そういうことを言える人間でいたいなという憧れの気持ちだったように思う。
このフレーズ自体、10年以上前から彼女のラジオを聴いてる人たちにとって、非常に印象的なものではあるはずなので、多分、私以外にも送っていた人はいた可能性は高い。
全てが虚構で構成されたアルコ&ピースの狂ったラジオを愛しすぎたせいで、メールの温度感を間違えた感触があったのだけど、コーナー終わりで『深呼吸』のことを思い出したと話してくれて、それだけでかなり嬉しかったです。
次の10年もよろしくお願いします。
奇しくも鬼滅の刃も『呼吸』の話なので、冒頭のなんも関係ないと思っていた文章、伏線なんですよね。(雑な回収)
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