偶然はじまった料理クラブの話
——マイク・ディアーゴ
昨年、僕はニューヨーク州ウエストチェスター郡北部にある高校でソーシャルワーカー[生活相談員]として働き始めた。その中で、追加の業務として「朝の挨拶係」を任命されたのだが、僕はこれがうれしくなかった。僕の朝のエネルギーレベルは起伏が大きい。よく眠り、時間通りに起き、長く熱いシャワーを浴び、しわのない服を着て、たっぷりのコーヒーでしっかり朝食をとれば、調子がいい。そのうちの1つか2つがうまくいかないと、昼までお腹が空いてだるくなる。
「朝の挨拶係」になると、こっそりコーヒーを飲みに行くことも、地下にあるオフィスに隠れることもできない。正面玄関に出て、他の挨拶係のエネルギーレベルに合わせなければならない。これがものすごく元気でハイパーな一団なのだ。僕より20歳も年上の女性が踊って歌い、給食担当たちがベーコンと卵とチーズのサンドイッチを配り(すぐに僕に1つ取っておくことを覚えてくれた)、校長や警備員や先生たちが握手やフィストバンプをしながら「その髪、素敵だね!」とか「ねえ、昨日の試合で見かけたのは君だったかな?」などと声をかける。僕はといえば、手を前後に振ってからひとつ手をたたくという、ぎこちないワンパターンの動きしかできない。
髪を整えてきた女子は立ち止まって先生とおしゃべりするが、多くの子どもたちはぼさぼさのまま、無言で、フードをかぶって、タイルの床に潜り込みたいかのようにじっと下を凝視めたまま歩いてくる。僕はそういう子どもに注目することにした。もともとそういう子どもたちが専門であり(2005年から10代の子どもたちと接してきた)、そういう子たちは普通あまり盛り上がりを期待しない。ある朝、中でも特に孤立していた子ども(マテオと呼ぶことにする)が僕の方に歩いてきて、「チョコチップクッキーを作ってもいいのかな」と言って、他の挨拶係たちを驚かせた。ある教師は僕に近づき、ここ数年、その子とそこまで関われた人間を見たことがないと言った。「あなたがなにをやってるかわからないけれど、うまくいっているようね」。 彼女は僕が月に2回、マテオのカウンセリングを行っていることを知っていて、おそらく僕が最先端のセラピーのテクニックを駆使していると思ったのだろうが、実はセッションはまったくうまくいっていなかった。その前日のセッションで料理クラブを始めるというアイデアを出して初めて、彼は僕と応対してくれたのだ。
そのセッションで、マテオは垂れ下がった長い黒髪で顔を覆って猫背で座り、どんな質問にも沈黙か肩をすくめるかして応えていた。僕は不用意に、料理教室を始めようかな、と言った。すると彼は姿勢を正し、髪をかき上げて、僕を見つめた。僕は、まるで昏睡状態の患者から初めて言葉を聞くかのように、ハラハラしながら待っていた。マテオは低く平坦な調子で、「いつから始めるんだ?」と言った。僕は厄介なことになっていたが、それは彼も同じだった。
それからの数週間、彼は毎日のように訪ねてきて、最初の集まりはいつになるのかと聞いてきたので、僕は手を打たざるをえなくなった。管理者のダニエルズ博士(朝の挨拶で歌って踊る女性だ)は、黒人や褐色の少年たちの機会格差をなくすための全国的な取り組みである「マイ・ブラザーズ・キーパー・プログラム(MBK)」を通じてグループの少年たちを指導するなら、食料品の購入費を出すと同意してくれた。昼休みに、急いであと11人のメンバーを集めた。警備員に "Que lo Que? “(「ワッツ・アップ?」という意味だが、「ほっといてくれ」という意味でもある)と挨拶し、サングラスをかけて食事をする長髪の上級生。テーブルいっぱいの、エクアドルやグアテマラから来た大勢の従兄弟や友人たち。そしてカフェテリアの奥のテーブルでいつもラップトップでビデオゲームをしている内気なアフリカ系アメリカ人の親友2人。
最初の火曜日の夜の集まりに、12人の少年全員が料理教室に現れた。僕は調理台の周りに彼らを集めた。「隔週火曜日に集まって、音楽を聴きながら料理をしよう」と僕は言った。「なんでも好きなものをつくろう。始める前に手を洗うこと。そして、僕に皿洗いはさせるなよ」。僕たちはマテオが選んだチョコレートチップクッキーを作った。生地を混ぜているマテオが、微笑んでいるのを見た。携帯電話からバチャータ[ドミニカのダンスの音楽]を流し始めた子がいたので、携帯電話を金属製のボウルの中に入れて音を大きくするという、昔ながらの厨房のワザを教えてあげた。クッキーをオーブンに入れた後、何人かの男子は手をつないでバチャータのスリーステップを踊り、笑っていた。信じられなかった。マテオさえも本気じゃないケンカやからかいに参加していた。騒々しい、喜びに溢れたキッチンでそうであるように、12人全員があっという間にパテのようにひとつになってしまった。
このグループは、その年の最後まで隔週で火曜日に集まった。ハーブバターを添えたステーキフリット、タコス・デ・カルネアサーダ、ガーリックシュリンプ、バッファローウィング、ライスと豆のトーストーネ[揚げバナナ]添え、アレパ[トウモロコシの薄焼きパン]、ギョウザなどなど、いろいろ作った。時間の都合でいくつかのリクエストを却下せざるを得なかったが、ほとんどの場合、彼らに料理を選ばせた(ゴードン・ラムゼイのビーフ・ウェリントン、そしてゴードン・ラムゼイ全般に関心が高かった)。
誰かが会に遅刻すると、子どもたちは聞き回り、行方不明の子が見つかるまでメールを送りあったりしていた。彼らは、「参加しやすくて、楽しいから」「リラックスできるから」、料理を持ち帰って家族にふるまうのが好きだから、そして習った料理を家で作るのが好きだからという理由で来ていると教えてくれた。
毎月、僕は指導者として彼らの成績をチェックしなければならなかったが、クラブが学業にあまり影響を与えていないことは明らかだった。一人はAをとっていたが、マテオを含む多くの子どもたちは落第生で、 「Que lo Que?」君は授業に出ていなかった。出席率や成績を参加条件とすることも考えたが、その時点ですでに多くの家庭を訪問し、子どもたちの部屋のドア越しに話しかけたりしていたので、プレッシャーをかけて追い詰めるようなことはしたくなかった。中には、彼らが定期的に関わっている学校職員は僕一人という子もいた。僕らの学校で、そして全国的にも、メンタルヘルスは最優先事項となっていた。
CDCによると、2019年には、高校生の3人に1人以上が持続的な悲しみや絶望感を訴え、6人に1人がその年に自殺の計画を立てたと報告しており、いずれも2009年から40%以上増加している。これらの問題は10年前から着実に増加しており、パンデミックが悪化したのち、特に有色人種の子どもたちの間で悪化していた(NPRの記事によると、黒人とヒスパニック系の子どもたちは、保護者を失った可能性が白人の子どもたちの少なくとも2倍あった)。この春、ニューヨーク・タイムズ紙は150人以上の子どもたちにインタビューを行い、ほとんど例外なく、「これまでで最悪の状況だ」と報じた。
僕の学区にはスクールバスがない。毎日朝6時に、これほど多くの生徒がバックパックだけでなくそれと同じくらいの重荷を背負って、急な坂道を学校に通っていることに驚く。個々の事情について詳しく述べることはできないが、子どもたちはコロナで失った愛する人のことを、暴力で失った友人を、移民の過程で離れ離れになった家族のことを嘆いていた。エクアドルやグアテマラから、毎日のように新しく入ってくる子供がいた。彼らは、文化に慣れる過程だったり、あるいは親が自分たちのクィアとしてのアイデンティティを受け入れなかったりすることからストレスを感じ、家賃を払うために働かなければならずに疲れ果てていた。そして当然、10代が社会生活を送っていくことにつきもののしんどさもあった。
料理がこの国に蔓延する思春期のメンタルヘルス問題への解決策だと主張したいわけではないが、子どもたちが大人とつながっていられるような、負担の少ない楽しい環境は、命を救うこともあるほど貴重なものだ。今年発表されたCDCの報告書によると、「学校で大人や仲間とのつながりを感じている若者は、そうでない若者に比べて、持続的な悲しみや絶望感を訴える割合がはるかに少ない」(53%に対して35%)。さらに「真剣に自殺を考える」(26%に対して14���)、「自殺を試みる」(12%に対して6%)という子供も少ないという結果が出ている。「しかし、パンデミックの期間、学校で人とのつながりを感じたと答えた若者は半数以下(47%)であった」という。
一年を通して、12人の子どもたちはクラブのほとんどすべての集まりにやってきた。誰一人として、連絡が取れなくなった子はいなかった。教師も、副校長も、心理学者も、しばらく見かけない子がいれば、僕に様子を聞いてくれるように頼んできた。クラブは成功したのだ。
年末になると、子どもたちを遠足に連れ出してお祝いをするために、ダニエルズ先生が600ドルを出してくれた。僕は、子どもたちに最高レベルの高級レストランに触れさせ、思い出に残る楽しい経験をさせ、また、子どもたちが敬愛するラムゼイのような容姿や行動が持てなくてもキッチンのリーダーになれることを伝える機会だと考えた。そこで、当時「世界のベストレストラン50」でアメリカ最高位をとっていたエンリケ・オルベラのニューヨークのレストラン、「コスメ」にコンタクトを取った。そういう肩書きがあれば、子どもたちやダニエルズ先生にそのステータスを説明しやすかったのだ。料理長のグスタボ・ガルニカ氏は、すぐに僕たちを受け入れることに同意してくれた。1週間後、僕はスウェットパンツで来た子どもたちのために、演劇部から白いシャツと黒いパンツを集めてきた。みんな着替えて、料理クラブとダニエルズ先生は黄色いスクールバスに乗り込み、市内へ向かった。
その夜、子どもたちは、アマランサスのオルチャータ、アボカド、ジャスミンとユズ、パッションフルーツとパイナップルとシナモンなど、底なしに出てくるアグアフレスカ[フルーツ飲料]とともに、自家ニシュタマリゼーション[トウモロコシのアルカリ処理]した生地で作ったワカモレとトスターダを食べ続けた。さらに���ヒマヒのアル・パストール、エパソーテと松の実を散らしたブッラータ、ソフトシェルクラブのモリータ唐辛子とアボカド添えなどを食べ尽くしたのちに、シェフのガルニカ氏に紹介された。それまでは、薄暗い照明、セクシーな常連客、洒落た雰囲気の店内に、少年たちは緊張して黙ってしまっていた。バッド・バニーとオバマ夫妻が常連だと聞いてはなおさらだった。一人を除いて、全員が料理から目を上げようとしなかった。その一人はバーテンダーにカクテルシェーカーを振らせてもらおうと説得するのに忙しかった(ダニエルズ先生は「オー・マイ・ゴッド」と囁き、バーテンダーが折れると僕に怯えたような顔を向けた)。それでも、シェフのガルニカ氏の後に続いてスイング式のキッチンドアを抜け、明るい照明、大きなバチャータ音楽(僕たちのキッチンとまったく同じだ)、キッチンスタッフ全員の「オーラ!」という大きな声で迎えられると、すっかりくつろいだ。
ガルニカシェフが各ステーションを案内し、それぞれの料理人とその故郷を紹介した。ホンジュラス、グアテマラ、マサチューセッツ。パリパリの皮で有名な鴨肉のカルニタスになる鴨を吊るして乾燥させている部屋があり、唐辛子をソースに加工するところがあった。メキシコ人女性チームがトウモロコシのニシュタマリゼーションを担当しているところへ行くと、一人の子がその方法は自分の家でもやっていたやり方だと気づいた。トウモロコシの皮を使ったメレンゲが泡立てられている。ガルニカ氏は少年たちに「これは世界で最も有名なデザートのひとつだ」と言い、「今夜はこれを食べてみてくれ」と付け加えた。ダイニングルームに戻る前に、彼にお礼を言おうと引き止めたところ、「必要なことがあれば何でも言ってくれ。一人二人送り込んで、1日か2日ここで働かせたいなら、それも可能だ 」と言ってくれた。
テーブルに戻ると、一行はそれまでほどびくびくしなくなった。鴨のカルニタスが運ばれてくると、彼らのうめき声や感嘆の声はまわりに迷惑なほどになっていたが、給仕人は決して笑顔を絶やさず、彼らにジョークを飛ばし続けた。トウモロコシの皮で作った巨大な枕のようなメレンゲがテーブルの真ん中に置かれると、少年たちは強奪モードになり、立ち上がり、皿にすくい上げ、口の中に入れて、全て消えてなくなるまで食べ続けた。誰かが 「なんておいしいんだ!」と叫んだ。
その夜、バスに乗って家に帰る途中、僕たちは皆、クラブが単に参加するものではなく、真のチャンスとインスピレーションを生み出すものであることに気づいていたと思う。でも、一人の子どもが欠けていた。マテオを説得することができなかったのだ。
僕は前の週に彼と二人きりで遠足のことを話し、このレストランに行くことがいかにすごいことかを話したのだが、彼は参加を拒否した。僕はなんとかして彼を説得しようとしたが、彼は「たかがレストランじゃないか。とにかく、仕事があるんだ 」と言った。僕は彼に聞こえないように「コーニョ」[damn]とつぶやいたつもりだったが、彼はにやりと笑った。それでも、彼は動かなかった。彼の母親に電話をかけ、彼の仕事の上司に話して休みをもらえることになったが、問題はそこじゃなかった。僕が遠足を大げさに言いすぎたせいで、プレッシャーがかかりすぎたのだ。彼がクラブに来たのは、地味で負担が少ない活動だったからだ。そこに気づいているべきだった。学校の最後の2週間、僕は彼を見かけることはなく、連絡をもらうこともなかった。
6月下旬に学年が終わったが、僕はまだマテオから連絡をもらっていなかった。翌年、彼の部屋のドアの前に立って、「冷たい水に飛び込むように、飛び込んでみなきゃ。そのうちに体が温まるよ」という台詞を使って、学校に来るように説得している自分を想像した。その数週間後、彼から「サマースクールに申し込むのを忘れていた」という一行だけのメールが届いた。僕はあちこちに電話をして彼を受け入れてもらい、「心配ない。参加できるよ」と返信した。
彼は、僕がそういうことの担当者でないことを知っていたが(僕が夏休み中であることも)、それでも助けを求めることができる程度には、僕に親しみを感じていたのだ。もう夏も終わり、彼は11年生に進級する。9月1日には、僕がまだ業務の一環として生徒に挨拶しているであろう校舎の門をくぐる彼に、きっと会えると確信している。彼は僕を無視するかもしれないが、少なくとも姿は見せるだろう。彼が、料理クラブはいつから始まるのかと聞いてくれればうれしい。
「ビットマン・プロジェクト」に掲載。2022.9.9
マイク・ディアーゴはニューヨークのハドソンバレー在住のソーシャルワーカーであり、家庭料理の料理人、文筆家。人々が食を通してカルチャーの中で、そしてカルチャーを跨いでつながることに関心を持っている。
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卒業 ―マイケル・ムーア
デイヴィソン高校の卒業生たちは、50年前の今週末に行われた卒業式で、スピーチをするのは僕だと投票していた。クラスメートは僕を「クラスのお笑い芸人」にも選出した。卒業式のスピーチをクラスのピエロにやらせるというのは、学校側への警告であったはずだ。良い結果にならないことは予想できたはずなのだ。
学年末までの数週間、「成績優秀者」は「ナショナルオーナーソサエティ(全米優等生協会)」に入会させられた。つまり、派手な金の紐をもらって身につけ、卒業式の夜に練り歩いて、自分たちがいかに賢いかを見せびらかすのだ(実際には、テストに長けているということしか意味していなかったけれど)。
ところが、成績が「優」の生徒の一人が、その金色の紐をもらえないことがわかった。ジーンは脳性まひで車椅子に乗っていた。当時の賢明な社会は、彼のような障害を持つ生徒を学校内で教えることは不可能で、ホームスクール(*家庭での教育)しかない、と判断していた。そして、ジーンの「優」は、「ほんとうの」授業を受けている僕らのものとは違うので、尊敬される金色の紐を身につけることはできないのだと説明された。
それを知った僕は、名誉の紐を受け取るのを拒否した。他にも10人ほどの学生がいっしょにボイコットしてくれた。それでも事務局はジーンに紐を渡すことを拒否した。
そしていよいよ、卒業式の夜がやってきた。ぼくは紐を身につけず、帽子とガウンを着て列に並び、フットボール場に出て大事な瞬間を迎えるのを待っていた。すると突然、副校長が現れて列に沿って歩き始め、男子生徒のガウンを一人一人引き下げて、その下に決められたネクタイを着けているかどうか、点検し始めた。
(先週の僕のsubstackを読んだ人へ――そう、この副校長は、この2か月前にシャツの裾をズボンに入れていないという理由で僕を短いクリケットのバットのようなもので殴り、その結果、僕が教育委員会に立候補することになったのと同じ人物だ。僕は卒業式の1週間前に当選した。)
やつは僕らの高校生活最後の数分間に(そして僕が教育委員会に入って5日目に)、再びここに来て、最後にもう一度危害と苦痛を与えようとしていたのだ。そして案の定、僕の二人前に立っていたティミーという男の子を掴んで、叫んだ。「ネクタイがないじゃないか!」
ティミーは、副校長に見えるようにネクタイをひっぱり出して、「ここにあります」と答えた。
「それはネクタイじゃない!」
それは確かにネクタイだった。2本の紐で結ぶ「ボロタイ(ループタイ)」で、たいていは南部出身の貧しい白人がよく締めていたものだった。
「これは僕のネクタイです」とティミーは声を震わせた。「僕のお父さんも同じネクタイをしています!」
その反抗的な態度に、副校長はティミーの襟首をつかんで、列から引きずり出した。
「お前は卒業できない! ここから出て行け! いますぐだ!」
こうしてティミーは、12年間という長い間、学業に励み、あらゆることを言われたとおりに行い、いつも着けているネクタイも着けていたのに、卒業証書を受け取る直前に即座に退学させられた――この副校長が彼のネクタイが気に入らなかったという理由で。
僕は、ティミーが涙を流し始め、ショックで立ち尽くす僕ら全員��らゆっくりと離れていくのを見た。そして、この話の最悪な部分は、僕がそこに立っていて何も言わなかったことだ。 僕はこの残酷な行為を目撃しながら、それを止めるために何も行動しなかった。その5日前、町は僕を教育委員に選出した。つまり、僕はこのサディストのボスだったということだ。僕は「やめろ! もうたくさんだ! ティミー、列に戻れ! この野郎、ティミーに手を出すな。さもないとぶちのめしてやるぞ!」と叫ぶことができたはずだ。
僕はそんなことは一言も言わなかった。黙ったままだった。そして今日に至るまで、何もせずにそこに立っていたことへの恥ずかしさはあまりに強烈だ。週一回のこの文章を書こうとして、非難されるべき自分の無為を認め、僕の人生のあらゆる後悔の中でも、この数秒間目を背けていたことがいちばん苦しいのだと公に言わなければならないことに気がついて、丸1日以上ここに座っている。
そうして僕らは卒業式のためにフットボール場へと行進させられ、スタンドには両親や祖父母がいて、みんな幸せで誇らしげで、いままさに目撃したことには気づいていない。
祈りと誓約があったが、僕らの多くは復唱しなかった。それから、生徒を代表して卒業のスピーチをするために僕は壇上に呼ばれた。その日の夕方、もう少し早い時間に、僕は担当者に自分のスピーチを見せ、承認してもらわなければならなかった。承認はされた。淡々とした真面目なものにしていたので、異論はなかったのだ。
聴衆に向かい、僕はあらゆる卒業式のスピーチの始め方と同じように、学校と先生方に感謝の気持ちを伝えた。 そして、「未来を作るのは僕らであり. . .」と、お決まりの戯言を続けようとした。
ふと見ると、そこにジーンがいた。クラスから離れて車椅子に乗って、芝生の端に一人で座っていた。体は歪んで、常に動いていて、満面の笑みを浮かべ、努力の結果を示す名誉の紐はない。
僕はスピーチを読むのをやめた。僕の後ろに座っている教育委員会メンバーには永遠に感じられたに違いない、長い、含みのある間が続いた。振り返ると、副校長と目が合った。僕は落ち着いてスピーチを折り畳み、ポケットに入れた。
そして、もう自動操縦ではなく、僕と僕の良心だけに頼って、スピーチを続けた。
僕は、学校がいかに僕らの父親や母親が働いていたゼネラルモーターズの組み立てラインに酷似しているかを、観衆に訴えた。気の遠くなるような繰り返しと、責任者が要求する無意味な機械的な行動。表現の自由や思想の自由の余地もない。権威に疑問を持ってはいけない。僕らは商業と強欲の車輪の新しい歯車になるのだ、と僕は言った。「それがほんとうに僕らが地球にいる理由なのでしょうか? 従え! 働け! 静かにしろ!」
僕は続けた。「学校では『3つのR』を学ぶように言われました。Reading(読む)、’Riting(書く、Writing)、’Rithmatic(計算、Arithmatic)。3つの言葉のうち2つは 『R』で始まりもしない。それってどんな教育ですか!?」
「僕らが実際に教わったのは、3つのC、つまり、Consistency(均一性)、Complacency(現状への満足)、Conformity(服従)です」
僕は、僕らをロボットのようにプログラムすることを拒否し、代わりに僕らが考え、創造し、声を上げるよう励ましてくれた何人もの先生方に感謝した。
そして、ステージから見下ろすと、またジーンが見えた。僕は聴衆に、彼が優等生協会への入会を拒否されたこと、そのために僕らの多くが名誉の紐を身に着けていないのだということを話した。これは学校で行われている残酷なことの一例であり、もうやめなければならないと話した。あまりに多くの生徒が恥をかかされ、罰を受け、劣等感を感じさせられ、他の生徒ほど「賢くない」と信じ込まされる――だから身を潜め、工場に通ってビュイーックを作り始めるのだ、と。ナットを1本ずつ締めるのだ。1分で12本、1時間で672本、1日で5376本。昼食は20分。明日も朝6時に出社して、同じことを45年間繰り返すのだ。
僕は、次の4年間を教育委員会で過ごし、この状況を変えようと思っていると言って締めくくった。民主主義は、市民が批判的思考をするように教えられて初めて存続する。そして、車椅子に乗っているという理由で、本来持てるものを否定される生徒がいることに、誰一人平気でいられるべきではない。
「だから、ジーン、学区を代表して心から謝罪します――それから、あ、ここに持っていた」僕はポケットから8年生のときの優等生の紐を取り出し、ステージから飛び降りて彼に近づき、「これは君のだ」と言った。
紐をかけると、ジーンは大喜びで、しきりにお礼を言った。クラスメートは立ち上がって声援を送った。
次の日、ティミーの両親から電話があった。彼らはとても動揺していた。彼らは式の間中、息子の名前が呼ばれるのを待ち、ティミーが壇上を歩いて高校の卒業証書が手渡されるのを待っていた――もちろん、それは実現しなかった。彼らはあちこち探したが、ティミーは見つからない。結局あきらめて、車で探し続けようと考えて駐車場に行った。車のドアを開けると、後部座席にティミーがいた。胎児のような体勢で、まだ泣いていた。そして何が起きたかを彼らに話した。
電話口で彼らは激怒した。彼らは、副校長がネクタイに対して行ったことにある階級差別を理解していたが、「階級」という言葉を使うという考えは、彼らや「彼らの仲間」たちの中では萎えてしまっていたので、単に自分たちのネクタイを「ネクタイではない」というのは間違っていると言った。
「わかっています」と僕は言った。「こんなことになって、ほんとうに申し訳ない。ティミーには必ず卒業証書を渡して、二度とこんなことが起きないようにします」
僕は事件の目撃者であることも、そのとき何も言わなかったことも黙っていた。
電話を切った後、キッチンのテーブルについて、18歳の僕はすべてを咀嚼しようとした。そして、自分自身に静かに二つの約束をした。
1. 教育委員会を説得して、副校長を解任させるために全力を尽くすこと。
2. どんな状況でも、どんな代償を払っても、二度と黙ったままではいないこと。
副校長は解任された。そこのところは簡単だった。「二度と黙ったままではいない」という方については、この約束が、フリントの警察が僕の新聞社に踏み込んできたり、組合員を支持したために後に別の出版社で解雇されたり、イラクを侵略したアメリカ大統領を罵倒したためにアカデミー賞の舞台でブーイングされたり、そのスピーチの後で僕の家を爆破しようとする男が現れたりするような結果を産むことになるとは、その時は思いもしなかった。
50年前の今週末、高校の卒業式の夜に、僕は単に卒業証書を受け取っただけでなく、様々なことから卒業する結果となった。より良い、より勇敢な人間になれたのだと考えたい。そしていま思えば、あの夜、最もクールだったのは、その卒業式の3時間後にニクソンの侵入団がウォーターゲート・ビル内で捕まり、逮捕されたことだ。2つの出来事には何の関連性もなく、ただカルマがあるだけだ。宇宙が、いくつかの出来事を通して、自らを正す瞬間だったのだ。
―マイク
追伸: Happy Juneteenth!(*奴隷解放記念日) この新しい祝日を実現させてくれたすべての人に感謝する。
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廃墟となって
―ジェームズ・ミーク 2022.2.25
キエフを7日間歩き回り、結果としてそこが「普通の」都市として存在する最後の日の昼間に立ち去った私は、W・G・ゼーバルトの『アウステルリッツ』の一節を思い出そうとしていた。きょう、自宅で見つけたのだが、その一節は記憶していたよりも不吉な内容だった。
正気な人間は、ブリュッセルの昔の絞首刑台の丘にある司法宮殿のような巨大な建造物が好きだなどと心から思うことはない。せいぜい、驚嘆して眺めるくらいだ。その驚嘆は、それ自体、恐怖の芽生えのひとつの形だ。なぜなら私たちは本能的に、巨大な建築物が自らの破壊の影を投げかけ、後に廃墟となることを念頭に置いて設計されていることを知っているか��だ。
「廃墟」とは面白い言葉だ。現代では、平時には、たとえ自然災害の後でも、建物が廃墟と呼ばれる状態に達することはめったにない。修理されるか、静かに放置されるか、あるいは取り壊される。戦争だけが廃墟を生み出す。まるでアウステルリッツが(この本の思索は彼によるものだ)、いずれすべての大型建築物は戦争によって破壊されると言っているかのようだ。まるで戦争が包括的な現実であるかのように。そして実際、ウクライナに侵攻したウラジーミル・プーチンについて、驚くべき数の西側の論者が「現実から切り離されている」と評している。しかし、彼は現実から切り離されてはいない。彼こそが現実だ。プーチンが実在し、彼のほんとうの軍隊がほんとうに人々を殺しているという現実から切り離されているのは我々であり、我々は彼を止めるためにほんとうにあまり多くのことをしていない。なぜなら、我々は自分の子供や他の人の子供を死に向けて送り出す準備がほんとうにできていないからだ。プーチンはほんとうに準備ができている。
しかし、アウステルリッツがすべて正しいわけでもない。平和も戦争と同じように現実であり、永続的なものでもありうる。プーチンがウクライナに自らの暗い心理状態を押し付けた結果起きたことの一つは、ウクライナ人はプーチンが爆撃を始める前のキエフがいかに平和だったかを覚えているが、それ以前を知らず興味もなかった西側の人間にとって、戦争に引きずり込まれた都市は、戦争によって定義されているかのように思えることだ。まるで戦争がその都市の自然な状態でもあるかのように感じられてしまうのだ。ウクライナのニュースサイト「ザボローナ・メディア」の編集長、カテリーナ・セルガツコワが、ロシアの猛攻撃の2日目にツイートで指摘したように、それはまちがっている。「きょうのキエフはとってもきらきらしている」と彼女は書いた。「かつて見ていた私たちの太陽ではなく、偽物の太陽のような気がする。誰かが私たちから現実の世界を奪って、いまは偽物の世界に、黒い鏡の向こう側にいるような」。 いまもキエフにいるべきなのに、という私の歯がゆさに対して一抹の慰めがあるとすれば、それは、私が抱く街の記憶が、少なくとも、戦争がまだ馬鹿げていて、不条理で、空想的であるような、より良い現実世界のものだということだ。
私のホテルはボフダン・フメリニツキー広場に近く、よくそこを横切った。広場は周囲を並外れて大きな建物に囲まれている。平和な都市が平和であることのひとつの印は、古い戦争の痕跡が封じ込められ、殺菌されて存在していることだ。まるで、観光客や散策者向けにきれいにされた昔の紛争の痕跡が、それを過去に縛りつけている鎖から解かれて現在に唸り声を上げることなどないかのように。青と白と金のバロック様式の聖ソフィア大聖堂の塔は、内観は1000年前のものだが外観はもっと新しく、キエフがロシアを建国したのでありその逆ではないことを証明している(プーチンの見方は異なるが、彼はそれをとてもよく理解している)。聖ソフィア大聖堂は戦争によって、さらにモンゴル人とポーランド人の手によって破壊され、そして修復され、それから熱狂的なボルシェビキによって破壊されそうになった。
広場の反対側からは、ヴォロディミルスキー通りから、金色のドームを持つ聖ミカエル修道院を見下ろすことができる。オリジナルは1930年代、スターリンの支配下の無神論の時代に壊され、1990年代に、破壊されたバロック様式に限りなく近い形で再建された。数日前、この建物の前を通ったときには、400マイル離れた国の東部で戦争に巻き込まれて死んだ何千人ものウクライナ人兵士の写真を貼った掲示板が立っていた。しかし、それさえも、いつロシアが攻めてくるかわからない中にあってさえ、平和な街にいるという感覚を損なうことはなかった。その戦争に参加した退役軍人たちが死者の壁のそばに立って祈り、予期されるより大きな戦争を前にして互いの精神を鼓舞するのを、そばに立って聞いていたときでさえ、彼らは遠い昔に起きていまはもう安全になったことに動かされているように思えた。戦車を防ぐ障害壁がないことや、避難所がおろそかになっていることなど、街に戦争準備がまったくなかったことも、その錯覚を維持するのに役立った。市当局が市民のパニックを防ぎたかったためといわれているが、もっと根本的なことだったのかもしれない。もしかしたら、市民のため、さらには自分のために、魔法にかかった状態を破りたくなかったのだろう。
広場の片側には、オクサナがかつて両親と祖母と猫と一緒に住んでいた、アパートの一角がある。オクサナは、私が1991年にキエフで初めて頼んだ通訳だ。当時、私はウクライナ語はおろか、ロシア語もほとんど一言も話せなかった。彼女はすばらしい同時通訳者であり、おもしろくてすばらしい人間だった。過去形ではなく、いまでもそうだ。いまは学者になって米国で暮らしている。彼女はソ連時代のウクライナ政府高官の孫娘で、一族にはある種の特権があった。彼女は学校のカラシニコフ分解チームのスターでもあり、自動小銃を確か30秒で分解することができたと言っていた。ロシア語を覚える前は、私はオクサナに頼って新聞の内容やテレビで言っていること、ソビエト連邦直後の街の標識の意味などを教えてもらっていた。
その頃始まった、ウクライナの独立国家としての自負に対するロシアからのゆるやかな嘲笑と侮蔑は30年間続いたが、キエフ自体がロシアに脅かされているとは思わなかった(誰かに脅かされるとしたら、それはロシアであるとは思ったが)。当時、キエフの街やウクライナ全体への最大の脅威は、そこが貧しく、運営がうまくいかず、ぼろぼろで、それがどんどんひどくなっているということに思えた。それでもキエフは、明るく愉快な人々で溢れ、玄関先にブラックキャビアの1リットル瓶を20ドルで売りにくる男がいて、メトロでビーチに行くことができ、市場には新鮮なコリアンダーや自家製カッテージチーズが山積みされている、のんびりとした人当たりの良さがある街でもあった。平和は不変の状態に思えた。
戦争は地理的にはそれほど遠いものではなかったから、そう感じたのは不思議なことだ。私は、オクサナをウクライナのすぐ隣のトランスニストリアで起きているスラブ人とモルドバ人の紛争の最前線に、彼女の筋の通った抵抗を退けて無理やり連れて行った。そこで私たちは、軍隊と共に飛来した、険しく芝居がかったロシアの将軍アレクサンダー・レベッドに会うことができた。その軍隊はいまでもまだそこにいる。私がオクサナに会う前の夏、彼女は大学の友人たちと黒海沿岸のソビエト連邦アブハジアのリゾート地で休暇を過ごしていた。ある日、私たちがロシアのテレビのニュースを見ていると、彼女は振り向いて、そこでアブハジア人とグルジア人のあいだに戦争が起きたと私に言った。それから何年もして、私はそこが攻撃されているときに行くことになる。アブハジアは現在、ロシアの未承認保護領になっている。
ある意味、今度のことの教訓は、私たちはナイーブだったということだ。キエフ自体が普通で平和であることはもともと許されるはずがなかった。いずれロシアがやってくるのだった。2014年のマイダン革命では100人以上が亡くなった。当時はそうはならなかったものの、ヤヌコビッチ大統領がロシア軍に保護を要請し、ロシア軍がやってきて反政府勢力を鎮圧するという予測は至極合理的なものだった。しかし、そのような考え方をすると、キエフやウクライナ全体が散発的な戦争の発生を運命づけられているというイメージに戻ってしまう。キエフ、ドネツク、カブール、バグダッド、ベオグラードは戦争という不治の病に感染していて、一方、ロンドン、メルボルン、チューリッヒは免疫があるか、あるいは治癒しているという考えだ。前者の中でさえも、ナビ・ブロスのような作家が指摘するように、差異がある。「私は中東で多くの戦争を報道してきたが、ウクライナの戦争に関して見るものと比べて、共感と注目レベルの差に、戸惑いを感じずにはいられない」と彼は書いている。
戦争が始まる前のキエフの街は、とても天候よかった。夏はもっとよかった。とても緑豊かな街なのだ。20年前も、モスクワから休暇に来る人が「リゾート地みたい」と言うのだと友人が教えてくれたのを覚えている。戦争の脅威と、戦争がまったくないことの共存が、ブルジョアの放縦を正当化しているようだった。私は「コロニスト」というオデッサ産のコクのある赤ワインを見つけた。出発前夜、ヤロスラヴィフ・ヴァル通りのバーでアンドレイ・クルコフとコロニストを飲みながら、彼がこのブドウ畑の歴史を語ってくれ流のを聞いていた。彼は、第一次世界大戦後のウクライナ共和国時代を舞台にした犯罪スリラーのシリーズを執筆している。
ある誤謬が、「平和」を繁栄や快適さ、それもそのかなり限定的なかたちと同一視しようとする誘惑が、ここにはある。コロニストは安くない。ヤロスラヴィフ・ヴァル周辺のおしゃれな店のコーヒーも安くない。キエフ全体でも、そしてウクライナ全体ではさらに、貧しい人はまだまだ多い。不平等な社会なのだ。ロシアも不平等だ。ロシアも大都市にはヒップスターの居留区がある。ロシアにも中国と同じように、コーヒーやおいしいワインがある。プーチンは、私の侵略の終わりには、あなたは以前とほとんど同じ生活を送ることができると約束している。何千人もの人々が死に、さらに何千人もが監禁され、(スーツにネクタイ姿の)泥棒や殺人犯が支配し、億万長者の群れが少し入れ替えられるだろうが、破損した建物はグロズヌイのように修理されるか、建て替えられるだろう――廃墟は生まれない! そして人々は素敵なものを買い、ナイトクラブへ行き、コーヒーショップではWiFiがよくつながり、必要に迫られればウクライナ語を話すだろう。ブルジョワはブルジョワのまま、貧乏人は貧乏人のまま、すべてが少し腐敗したままだろう。人々は戦争を乗り越え、痛みを忘れ、浅薄な消費主義的生活が続いていくだろう。その浅薄な消費主義的生活が、ワインバーに座っていかに浅はかな消費者主義的生活であるかを愚痴ることであるとしても、それはそれでいいのだ。ほんとうに何かを変えたいと思わない限りは。
この命題はウクライナにとっておそろしいものだが、西側世界にとっても脅威だ。民主的な資本主義的平和から権威主義的な資本主義的平和への移行に対する根本的な障害が、平和の性質ではなく、単に移行の性質だとしたら――つまり、移行が短い流血の戦争や一回の不正選挙だとしたら――誰もが困ったことになる。しかし、私はそうではないと思う。モスクワの平和と繁栄は、弾圧と天然資源の上に築かれているだけでなく、予測可能性と停滞との上に築かれている。戦前のキエフの平和は、不安で、生き生きとして、予測不可能だった。そこは、実際の民主主義がそうであるように、明らかなまちがいに満ちていた。実際の民主主義がそうであるように、お互いに公然と激しく意見が異なり、より大きな政治力を持つことを望む人々で溢れていた。実際の民主主義がそうであるように、大統領がいかに役立たずかについての恐れ知らずの愚痴で溢れいた。実際の民主主義がそうなりがちであるように、政治からすっかり遠ざかってしまった人々もたくさんいた。キエフの準備不足が、不注意からなのか現実逃避なのか、私にはずっとよくわからなかったが、いまではそれが勇気であったことは明らかだと思う。
ジェームズ・ミーク ロンドン・レビュー・オブ・ブックスに掲載 2022.2.25
ジェームズ・ミークは英国の小説家・ジャーナリスト。1990年代にキエフとモスクワで暮らし、1994から2006までガーディアン誌でモスクワ支局長などを務める。ロンドン在住。
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意志ある狂気
―ジェームズ・ミーク 2022.2.24
昨日、キエフを発つ直前に、息子にプレゼントを買った。(昨日? 何週間も前のようだ。)それは白鳥の背中に乗った少年の磁器の置物だ。6歳の子供には割れやすくて困るものだが、息子は白鳥が好きだし、少年が息子に少し似ていると思った。
今朝6時過ぎに息子が寝室に入ってきたとき、私はその4時間ほど前からTwitterをスクロールしていた。留守のあいだの嵐で屋根の上の何かが風でガタガタ音を立てるようになっていて、2時過ぎに目が覚めたとき、自分が家にいることを思い出す前に、遠くで銃撃が起きているのではないかと思った。携帯電話に手を伸ばし、プーチンの不名誉への転落が一時止まっていないかと期待したが、ウクライナが領空を閉鎖したところだった。まもなくロシアの指導者はウクライナに侵攻することを宣言した。ユダヤ人の先祖をホ��コーストで亡くした男が率いる国を「脱ナチス化」する計画を発表したのだ。ロケット弾が落とされ始めた。プーチンは、月曜日にウクライナの歴史について威嚇的にわめいたときと同じ服を着ていることが指摘され、それはこの二つの演説が同時に録音されたことを示唆していた。同じ服装というより、同じ雰囲気であったことが、より有力な証拠だった。脅迫的で復讐心に燃えた男が他人の子供たちの体でできた大きな杖を振り上げている。
前日、ライアンエアーが離陸のために並んでいたとき、窓の外を見ると、滑走路の横にウクライナ軍の輸送機が並んで駐機しているのが見えた。朝になってもそこにいるのだろうかと思った。いま頃はどうだろう。ロシアはこの数時間、ウクライナの飛行場や防空基地に大量の爆発物を投じている。こうして書くあいだにも、ロシア地上軍は東からハルキウを攻撃し始め、南のヘルソン地方に深く入り込み、2014年までドニエプル川からクリミアに水を運んでいた運河の先を占領し、東は(ウクライナの)スームィ、北はベラルーシの2方向からキエフを脅かしていると考える十分な根拠がある。ロシアの落下傘部隊による数十機のヘリコプターを使った空からの攻撃によって、首都の北西にある貨物飛行場が占拠された。ウクライナ軍は、限られた数の装甲車とミサイルを駆使して反撃している。航空機は撃墜され、戦車は焼き払われ、民間人が死傷している。これまでの状況は、意志ある狂気の頂点のように見える。ロシア軍とウクライナ軍は、チェルノブイリ原子力発電所の支配権をめぐって戦っていると報じられている。
どのような展開になるのだろうか? 最も可能性の高いシナリオは、事態が悪化し、さらに悪化することだ。多くのウクライナ人は、ロシアのロケット弾や巡航ミサイルの攻撃を受けてはいるがいまのところロシアの地上部隊の報告はないウクライナ西部へ、あるいは国境を越えてヨーロッパへ逃げるだろう。大半の人は逃げないだろうし、一部の人は戦うだろう。ウクライナの陸軍、そして空軍さえもが、できる限り立ち向かっている。ロシア側では、プーチンは成功のためのハードルを信じられないほど高く設定している。ウクライナを占領することなく「非武装化」し、国を「脱ナチス化」すること、言い換えれば、ナチス/スターリン主義の手法で、選抜された敵を逮捕し、裁判にかけ、投獄または殺害することだ。これにはウクライナ全体を、最も民族主義的な地域さえも含めて支配することが必要になると思える。彼の人格と名声のすべてが、いま、かつてないほど、無慈悲な武力行使の成功の上に築かれていることを考えると、彼の愚かな軍隊が彼のために獲得した領土を後退させたり失うわけにはいかないのだ。言い換えれば、両者は戦い続ける運命にある。一方は生き残るため、他方は完全な勝利を得るために。最も可能性が高いのは、人命とロシアの威信に莫大な犠牲を払いつつロシアが勝利することだ。もしロシアの威信はこれ以上地に落ちることはないと考えているなら、もう少し様子を見ているのがいいだろう。
ロシアは可能な限り早い機会に傀儡政権を導入し、それを承認するだろう。ウクライナの前大統領ヴィクトール・ヤヌコヴィッチはまだ生きており、おそらく利用できるだろう。ロシアは2014年の彼の失脚を一度も受け入れていない。ヤヌコヴィッチの関与が、誰かに権限を譲渡するというだけになったとしても、少なくともプーチンにとっては、陰惨な行動に合法性の輝きを与えるのに役立つかもしれない。ウクライナの一部がまだ頑なにロシアに抵抗していたとしても、クレムリンはこれを出発点として地元の代理人に強制執行の任務を引き継ぐことができると考えていると思われる。確かに、金と権力と復讐のために、すぐに喜んでモスクワの執行者になるウクライナ人は、東部でなくともいくらかは存在する。しかし、いったい何人いるのだろう? 4,000万人の国民を、疲弊を伴う大規模なロシア軍の駐屯なしで押さえ込むのに十分な人数だろうか?
プーチンの車陣の中にすすんで戻りたいというウクライナの人々を過大評価したことが、2014年にロシアが犯した過ちであった。今回、ウクライナはお礼状に受け入れないだろう。民族主義者の抵抗――現在の状況で最大の排外主義者はプーチン自身であることを考えると、彼らを民族主義者と呼ぶのはまちがっている。アイルランドの分裂に関連した言葉を借りて、ウクライナ共和主義者(独立を重視する人々)とウクライナ連合主義者(完全な自決よりもロシアとの関係を重視する人々)と呼ぶのがよいだろう。ウクライナ共和主義者の抵抗は避けられず、ウクライナ連合主義者とロシア軍が共同で弾圧を行う状況では、共和主義者の標的は明らかに連合主義者、つまり彼らから見れば敵と協力者になるだろう。そうなれば、怨嗟の上昇スパイラルに陥ってしまう。
私のわかる限りでは、キエフにいる知人のほとんどはいまのところ無事だ。ある家族は、自宅が標的となった基地の近くにあるので、E40高速道路の大きな難民の車列に加わる危険を冒して西へ向かうつもりだ。別の家族は、成長した子供たちを再びウクライナ西部へ送り出し、事態を見守るつもりだ。イリーナはシェルターにいた。夫のアルテムは軍隊に戻る準備をしていた。
私は家に帰ってこれてうれしく、そして家にいることに罪悪感を感じている。ウクライナの人たちがどんな思いをしているかを想像するには、行ったことのない土地に自分の思いを投影しようと頑張りすぎず、自分の日々の見慣れた小さな日常が侵略されたらどうなるかを考えてみるのがいちばんいいかもしれない。あなたやあなたの家族は、窓際に座っているだろうか? その窓は爆発があれば砕け散るのではないか? ミサイルが落ちてくるときに、本気で子供を学校まで送ってそこにおいてきたりするだろうか? 友人とコーヒーを飲もうと思っていたのに、待ち合わせ場所の近くで銃撃戦が起きているとフェイスブックに書かれている。食料品を買いに生協に行ったが、現金しか使えず、ATMには先の角までぐるっと行列が出来ている。コロナの検査が陽性になったが、一人暮らしで、食料を配達してくれる人は誰もいない。いま起きているひどい状況の一つに、ロシアもウクライナもいまだに多くの人々がワクチンを接種しておらず、パンデミックの危機的状況が続く中でのロシアによるウクライナへの侵攻なのだということもある。ロシアがウクライナ人と自国の若い兵士を殺し始めたその日、ロシアはコロナで762人を失った。
(翌日につづく)
ジェームズ・ミーク ロンドン・レビュー・オブ・ブックスに掲載 2022.2.24
ジェームズ・ミークは英国の小説家・ジャーナリスト。1990年代にキエフとモスクワで暮らし、1994から2006までガーディアン誌でモスクワ支局長などを務める。ロンドン在住。
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キエフを離れる
―ジェームズ・ミーク 2022.2.23
早起きして、出発前にもう一度最後にキエフの街を歩いた。戦争が思ったよりも早くこの街にやってくるように感じられ、恐れたとおり戦争がほんとうに始まる前にここを去るのはまちがっているように思える。一方、私の身勝手な心理劇では、キエフがまだパルメザンチーズを削り、ワインを飲み、ガイド付き建築ツアーをやっている段階にあるいま去る方が、攻撃を受けている街に背を向けることになる後よりも楽なのかもしれないとも思う。
キエフには素晴らしい建築物がいくつもあるが、それより美しいのは「銀の時代」の高いアパート群の通りだ。一部は修復され、多くは塗られた色がいまでは色褪せ、それぞれのレンガが独特で、アールデコの鉄細工のバルコニーやカリアティッド(女性像の柱)、凝った漆喰細工が見られるものも多い。この古い街並みに、カフェやレストラン、ブティックなどの新しい消費主義的な資本主義の世界が、しばしば混沌とした形で入り込んでいる。排他的な価格のものもあるし、けっこうな数の巨大な広告スクリーンもあるが、それらはけばけばしいというよりは、むしろブレードランナー的なエネルギーと存在意義を、半分老朽化し、半分愛情を込めて保存された場に作り出している。キエフは、グローバルブランドの飲食店が乱立するのではなく、スモールビジネスやローカルなチェーン店の街となっている。
共産主義末期とポスト共産主義の停滞という過去と、暴力的な抑圧の可能性がある未来とのあいだにひっかかったこの街では、最もありふれた快適さの表れ、つまり私が当たり前のように思っているか、資源を浪費する大量生産品であるために悲しくなるようなもの――ラディソンホテルのシャワージェル、一袋のポテトチップス、ナイキのシューズなど――が、クレーター周辺に散乱した、失った日常を想起させるもののように感じられることがある。1980年代初頭、10代の私はヨーロッパ旅行から戻り、私と友人を親切に泊めてくれたドイツ人家庭のブルジョア的習慣を嘲笑したことを覚えている。父はそれを聞いて、「戦争中に育った人間は、身なりをきちんとすることや整理整頓することがとても大切だと思うんだ」と言った。電気や水道の大切さも知っているし、血液型をカバンに書いて学校に行かなくてもいいということの価値も知っている、と付け加えたかったのかもしれない。
アレクサンドルから何か買おうと思ってアンティークショップに入った。彼は前にきたときよりも少し不安そうだった。東部の友人が指揮する部隊の兵士が、ロシアあるいは反乱軍の爆撃で死んでいた。それでもアレクサンドルはまだ、ウクライナ軍は強い、規模が大きく経験豊富だ、対戦車ミサイルがある、と世間一般で言われているマントラを繰り返していた。しかし私は、ウクライナ人が戦車や兵士の話をすることはあっても、プーチンが豊富に保有している他のもっと恐ろしい兵器、つまり武装ヘリコプター、長距離砲撃ロケット、巡航ミサイル、そして1991年の湾岸戦争でイラク人が使ったスカッドミサイルのかなり近代化したバージョンであるイスカンデル・ロケットについては話すことがないと気づいていた。
アレクサンドルは、週末に仕事でドイツに飛ぶという。ウィズ・エアーを予約していた。「まだ飛んでいるのか」と彼は聞いた。私は「と思うよ」と言ったが、すぐに、どうしてそんなことを言ったのだろうかと思った。知らないのに。
私は平和なキエフ、「キエフα」に到着した。そこは、かつてはどこにでもいた交通警察がほぼいなくなってからも、大きくて���手な車のドライバーでさえ、歩行者に道路を横断させるために停車する街だ。時間とともに大衆意識が変化した驚くべき例だと思う。私が立ち去るのも「キエフα」だ。しかし、「キエフβ」という恐ろしい別の可能性、戦争と、ないがしろにされた者たちの怒りのキエフが近づいていると思われた。そして「キエフβ」の存在によって――特にウクライナが独立した時期に2年半ほどキエフに住んでいた私は――キエフの人々が直面する選択肢を想像せざるを得ないのだ。留まるべきか、逃げるべきか? いつ、どこへ、どうやって逃げるのか? 留まって武器を取るか、避難して家族を優先するか? 防衛に失敗したらどうするのか? レジスタンスに参加するのか? 刑務所や死の危険を冒して新体制に反対するデモに参加するのか? 占領を受け入れるのか? 敵が銃口で権力に返り咲くのを見るのか? そして自分の家はどうなるのか? 土地は? 行きつけのカフェは? まあ、かつてプーチンの怒りの対象であったグロズヌイ〔*チェチェン共和国の首都〕には、いま、もちろん、カフェがある。拷問や拉致、異論への徹底的な不寛容、そして骨や廃墟の上に築かれた新都市だということを克服できれば、あそこはおしゃれな街に見えるはずだ。
私の乗った飛行機がターミナルから離れようとしたそのとき――ライアンエアーはキエフ便を継続していた――ウクライナ政府が非常事態を宣言した。私がロンドンに降り立ったときには、国はサイバー攻撃を受けていた。私は最善を望みつつも、最悪の事態を恐れている。予備役のアルテムは召集される見込みだ。イリーナは、逃げるためではなく仕事のために(アンドレイと)ヨーロッパに行こうとしている。必ず戻るつもりでいる。リナとユラ、そして彼らの息子二人は、標的となりうるウクライナの軍事基地の心配なほど近くに住んでいる。プーチンがウクライナを脅している不正は、あまりにも大きく、あまりの犯罪であり、誇張や過剰な感情移入なしに言って、本質的に、レイプか殺人かを選ぶようなものであり、彼がそれを実行するかもしれないとほんとうに信じられる人間はほとんどいないのだ。
(翌日につづく)
ジェームズ・ミーク ロンドン・レビュー・オブ・ブックスに掲載 2022.2.23
ジェームズ・ミークは英国の小説家・ジャーナリスト。1990年代にキエフとモスクワで暮らし、1994から2006までガーディアン誌でモスクワ支局長などを務める。ロンドン在住。
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22/2/22
―ジェームズ・ミーク 2022.2.22
22日という日には、何かあるのだろうか? 2か月前、かつてはロシア・ナショナリズムの最危険人物と見なされた政治家で、いまはただの老いた一人のプーチンファンであるウラジーミル・ジリノフスキーが、世界は2月22日の午前4時に「我々の新しい政策を体感するだろう」と予言している。ヒトラーがバルバロッサ作戦と呼ばれたソ連への侵攻を開始したのは6月22日のことだった。その数日後に作られ、当時ヒットしたロシア民謡は、この日付をウクライナと軽快に結びつけていた。
あれは6月22日
4時ちょうどに
キエフに爆弾が落ち、ラジオのニュースが
戦争が始まったと伝えた
私はまいにち、キエフの人々に、ロシア大統領が本気でウクライナの首都を攻撃するつもりだと思うかと尋ね、また自分自身にも問いかけている。昨日の暴言、そしてきょうの、ウクライナ軍が支配するドンバス地域はもはやウクライナの一部ではないと考えるという発表の後では、その可能性はより高くなったと感じられる。1940年代のソ連兵の遺体がいまも発見されているキエフ周辺のウクライナの大地で、さらに多くの若者が暴力的に命を捨てるよう命じられるかもしれない。いくつかのボランティアグループが、金属探知機を使ってひんぱんに赤軍兵士を発見している。兵士たちのヘルメットが探知機による発見を容易にしている。パブロ・ネチォソフというボランティアに話を聞いたが、彼のグループは年間50体もの遺体を発見しているという。
ネチォソフ氏には、彼の博物館で会った。2階建て建物のいくつかの暗い小部屋に、ドンバスの戦争で使われた古い武器や、対戦車ミサイルの薬莢などが陳列されている。私は土嚢をソファにしたものに座り、ライフル銃の銃身をスタンドに、ナチスのヘルメットを笠にしたランプが灯る机をはさんで、ネチォソフ氏と向き合った。金属探知機はドイツ軍の遺物も見つけるのだ。
ソ連兵はポケットの中に、認識票の代わりにペンのキャップほどの大きさのエボナイト製のねじ式円筒を入れていて、そこに自分の名前、階級、年齢、家族構成、血液型が書かれた紙が丸められて入っている。
「ドンバス戦争前の2013年、4人の兵士の遺骨が見つかったが、ほとんどが(ロシア南部の)スタヴロポリ出身だった」とネチォソフ氏は言う。「そのうちの一人の息子と連絡を取ることができた。彼には4歳のときの記憶があった。父親がとても緊張していて、母親が別れを告げ、自分は父親に抱きつきに行き、父親は彼を脇にどけて母親と抱き合い、そして去って行った。彼はそれから二度と父親を見ることはなかった」。 ロシアとウクライナの関係が比較的良かった時期には、スタヴロポリから遺骨収集のための代表団が来たという。
ネチォソフ氏は、紛争初期のドンバスの前線にいたが、戦うのではなく、殺されたウクライナ人の遺体を無人地帯から拾い集めていた。そこで彼は、第二次世界大戦の本を熱心に読んでいたにもかかわらず、近代戦の規模を何もわかっていなかったことに気がついた。車両の隊列が吹き飛ばされたところから、8人の遺体が見つかることがあった。しかし、1941年のキエフ防衛の3日間では、赤軍は数平方マイルの中で2,200人を失ったのだ。「『俺が8人の遺体を運ぶのにトラック1台が必要なのに、どうやって2,200人も運ぶんだ?』と考えるだろう。そして、誰も彼らを運ばなかったことを理解するんだ」
ネチォソフ氏に、プーチンの予定について何か推測はないかと聞いた。彼は、向かい側にある警備壁に囲まれた巨大な近代的ビルを指差した。ウクライナらしくないちょっと威圧的な、商品の倉庫のような建物だった。アメリカ大使館だ。「あそこが国旗を降ろして全員出て行ったとき、まずいことになったと思ったよ」と彼は言った。
彼は、1941年に要塞化したキエフの写真を見せてくれた。そこは「ユクレプレヨン」(要塞地区)となり、1920年代から1930年代にかけて、陸側に精巧な防衛施設が建設された。市民が動員されて深い溝が掘られ、人の背丈より高い土嚢の壁があった。装甲車に対する防壁として3本の鉄の桁を十文字に溶接した要塞があった。いまの街にはそんなものはない。
「キエフは土地的に非常に有利な状況にある」とネチォソフ氏は言う。「川と沼地に囲まれている。それはすべて防衛に役立てることができる。しかし、いまは使われていない。明らかにいまの政権は最良の事態を期待している。ドンバスで人々が感じているものと、8年間淡々と自分たちの日常を続けてきたここでの様子とでは、非常に大きな差異がある」
きょうの午後は、イリーナ・ツィリクのたぐい稀なドキュメンタリー『The Earth is Blue as an Orange(地球はオレンジのように青い)』を見た。ドンバス紛争の「グレーゾーン」に住む5人家族――4人の子供とその母親――を描いている。そのクラスノホリッカという町は、反政府支持者が支配し、現在は彼らのロシアのスポンサーが公然と支配する地域から数マイルのところにある。映画の中では、基本的なインフラの崩壊や、砲撃や恐怖に対処しながら、子どもたちの学校はどうにか存続し、家族は自分たちの短編映画を制作している。長女のミラはキエフの大学に入学し、映画撮影を学ぶ。
2020年に公開されたこの映画を見終えると、私は短い距離をタクシーに乗り込んで、イリーナに会いに行った。ドキュメンタリーはバルト諸国を皮切りに巡回ツアーに出ることになり、その家族も同行することになっている。映画が出来てから母親のアンナにはもう一人子供が生まれ、アンナの母親がコロナで亡くなった。家族は暑苦しいアパートに滞在してアニメを観ていた。レモンの入った紅茶と、パンとソーセージのスライスをすすめてくれた。
アンナは家族と一緒に家を離れることに、ある意味、ほっとしている。激しい砲撃があった。人口6,000人の町は断水し、復旧は数か月後という。井戸水を汲むのに2キロも歩かなければならない。以前は町にガスが通っていたが、それが止まると、みんな自分たちでストーブを作って石炭を燃やした。その後、電気が復旧すると、ストーブをやめて電気ストーブを使うようになった。いまは電気がしょっちゅう止まる。ときどき寒さで死人がでる。携帯電話の電波も途切れ途切れ。地雷原やスナイパーに阻まれ、町中の移動はままならない。それでも、その家には帰りたいと思っている。そこに残っていてほしい。しかし、このような時代の混乱の中で、彼女は引っ越しの可能性についても考えている。家を売っても2,000ドルになればいい方だろう。彼女は泣き出した。
「いちばん上の子の子供時代を奪ってしまって、もう、いちばん下の子の子供時代を奪う気にはなれない」と彼女は言った。「もう私たちがあそこにいる理由はなにもない。どうして私たちが我慢しなければならないの? とてもつらいわ」。 2015年、町である家族が座って食事をしていた。外は静かで、彼らは窓の近くにいた。砲弾が爆発し、ガラスの破片が彼らの息子を殺した。
(翌日につづく)
ジェームズ・ミーク ロンドン・レビュー・オブ・ブックスに掲載 2022.2.22
ジェームズ・ミークは英国の小説家・ジャーナリスト。1990年代にキエフとモスクワで暮らし、1994から2006までガーディアン誌でモスクワ支局長などを務める。ロンドン在住。
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ゾーンにて
―ジェームズ・ミーク 2022.2.21
キエフから北西に車で2時間半ほどのところにある小さな町、オーヴルチに向かった。ベラルーシのマズィルという町あたりを拠点にしているロシア軍が、もしウクライナに侵攻してきたら、この方角から来るかもしれない。運転手のアナトリーと二人、街の中心部を抜け、ネオンが輝くショッピングモールやガソリンスタンドの点在する良路を行く。アナトリーに、プーチンのことをどう思うかと聞いてみた。「狂人だ」と彼は言った。「21世紀にもなって、中央ヨーロッパで戦争をしようとしている。最後の審判だ」
車は新しい高層建築や老朽化したものや、立派な一戸建て住宅を通り過��た。「ミニステルカ」と呼ばれる、ソ連末期に高官たちが土地を与えられた地区だ。市街地を通り抜けるのに50分ほどかかった。家々は、背の高い、ひょろっとしたヨーロッパアカマツやカバノキ、ヤドリギの生い茂るトネリコの森に変わった。時折穴のあいたところもあったが、路面の状態は概ね良かった。軍の車両はほとんど見かけず、ウクライナ国家警備隊の車両が数台走っているだけだった。車線の整備や橋の修理をしている道路作業員ともすれ違った。
「見て、新しい道を作っている」とアナトリーが言った。
「ちょっと待った方がいいんじゃないかな」と私は言った。
出発が遅かったので、日が落ち始めた。雨が降ってきた。汚れた茶色の冬枯れの木々が、道路に向かって首を垂れているようで、なめらかな路面にはぬるぬるとした光沢があった。他の車とはほとんどすれちがわなかった。「ソ連時代には、ここにロケット弾の部隊がたくさん、森の中に隠れていたんだ」とアナトリーは言った。これ以上ない不吉な雰囲気だったが、イヴァンキフの町に着くと、「Chernobyl-tour.ua」〔*チェルノブイリ・ツアー〕という巨大なポスターに迎えられた。
目的地から30キロほどのところで、警察の詰所とストライプのフェンスがあった。カラシニコフを胸にした警察官が通行を許可したが、途中で止まるのは絶対にだめだと警告してきた。どういう意味だろうかと思った。窓にガラスがない比較的近代的な建物を通り過ぎる。大きな居住地区がかなり前に放棄されたように見える。火事で焼けた区域を通る。上の部分が落ちている黒くなったカバノキが、まるで果てしない生垣のように立ち並んでいる。タルコフスキーの「ストーカー」の世界だ。
「これがゾーンか?」と私は尋ねた。
「そうだね」とアナトリーは言った。出発前に地図を見て、この道はチェルノブイリ原発周辺の立ち入り禁止区域を通るのでやめようと決めていたのに、結局通ってしまった。その方が速かったし、警察官の言う通り、止まらなければ放射能にやられることはないのだろう。もしロシア軍が反対側から来ても、同じように考えるかもしれない。
キエフ州のすぐ西にあるジトーミル州のオーヴルチに着いたときには、もう暗かった。人々は夕方の買い物をしていた。「いまのところ、みんな落ち着いて普段通りにしています。みんな心配していますが」と言ったスーパーの店主は名前を伏せたがった。パニックになって買いだめする人もいなければ、立ち去る人もいないという。「どこに行けばいいというのでしょう」と彼女は言った。国境まで6マイルしかない。オーヴルチの人たちは、三つ巴の「スルジク」を話す。ウクライナ語、ベラルーシ語、ロシア語が混ざり合っているのだ。以前はよく国境を越えて買い物に来る人がいた。「向こうの方が給料が高いし、こっちは品物が安いからね」。 いまは国境を越える人が少なくなった。
アレキサンドルさんと20代の男性2人が、店の奥でたむろしていた。彼らはキエフの建築現場で電気技師として働いており、休暇をとって故郷のオーヴルチに帰ってきていた。アレキサンドルさんは、ロシア人が来たらやっつける、と言った。「俺たちは怖くない」と言いながら、拳を打った。軍隊に入ったり、軍事訓練を受けたことがあるのか、と聞くと、「ない」と言う。
「若者はパニックにならない」と彼は言った。「年寄りはメディアを信じている。テレビがいつも正しいと思ってる」
「やつらはオーヴルチを通っては来ないよ」と彼の友人は言った。「他にもっと手っ取り早いルートがある」
帰りの車中では、モバイルWifiがつながったりつながらなかったりする中、プーチンの安全保障会議のニュースを見ていた。戻ってきた街は、森や灯りの少ない国境の町に慣れた目にはとても大きく明るく見えた。それまでには、ロシア大統領の国民への演説の一部を聞くことができた。ホテルの部屋に戻ると、ちょうど終わりの部分に間に合った。おそらく彼は用意されたスピーチを読んでいるのだろうが、何十年にもわたって沸々と湧き上がっていた不平不満、虚偽や妄想、根に持ってきた小さな恨み辛みを、頭の中で文章にしているように思えた。西側諸国に対するむき出しの憎悪と、ウクライナに対する軽蔑は驚くべきものだった。プーチンはロシア国民に語りかけていたが、それはまるで、バーで少し怯えた友人に、自分が正しくて彼女がまちがっている、彼女がこれまでしてきたことすべてを自分は気に入らない、と主張する男のようだった。ため息、義憤で顎を上げる仕草、そして間合いは、自分に対してなされたさまざまな悪行がいまも信じられないということを表現していた。
彼は、ドンバスの二つの自称反政府共和国、ドネツクのDNR(ドネツク人民共和国)とルハンスクのLNR(ルハンスク人民共和国)を承認すると発表した。そしてその後、ロシアの「平和維持軍」をこれらの領土に派遣することを発表したときには誰も驚きはしなかった。2014年に始まったロシアのウクライナ東部への侵攻を正式に承認したのだ。難しいのは、ドンバスの大部分、つまりドネツクとルハンスクの行政区のほとんどが、まだキエフに管理されていることだ。プーチンはロシア軍の力を使って共和国がそれらの地域を含むよう拡大することを目標に掲げているのだろうか? それはウクライナとの直接戦争を意味する。ウクライナは、自国が存在する権利がないと信じている相手にどう対処すればいいというのだろう?
プーチンは、マイダン革命以来二つめの、合法的な選挙で選ばれたウクライナ政府について言及し、その承認を取り消した。そしてウクライナがロシアの侵略から自国を守ろうとすれば、さらなるロシアの侵略によって罰せられると明言した。まるでウクライナが自国を守ること自体が侵略であるかのように。「キエフで権力を掌握し、それを維持し続ける人々に対し、我々は軍事行動の即時停止を要求する」と、自らが不正選挙、暗殺、反対意見の圧殺、メディアの完全支配によって当選したプーチンは言った。「さもなければ、流血の継続の可能性に対するすべての責任は、ウクライナの領土を支配する政権の良心に完全に、徹底的にかかってくるだろう」。 いじめっ子が返り討ちに遭ったときほど、深く感じる怒りはない。その可能性があるだけでも、致命的な侮辱となる。
(翌日につづく)
ジェームズ・ミーク ロンドン・レビュー・オブ・ブックスに掲載 2022.2.21
ジェームズ・ミークは英国の小説家・ジャーナリスト。1990年代にキエフとモスクワで暮らし、1994から2006までガーディアン誌でモスクワ支局長などを務める。ロンドン在住。
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ペレモヒ通りにて
―ジェームズ・ミーク 2022.2.20
作家のアルテム・チェフ、映画監督のイリーナ・ツィリクとふたりの11歳の息子アンドレイは、キエフの中心部から西へ伸びる大通り、プロスペクト・ペレモヒ(「ビクトリー通り」)にあるベージュ色のレンガづくりの一角にアパートを構えている。この通りをずっと進んで行けば、〔*フランスの〕カレまで行ける。古い一角なのだが、エレベーターはかなり新しいのに気づいた。ベラルーシのモギレフ製だ。ベラルーシには航空機、イスカンダル地対地ミサイルなどを含むロシア軍が、演習のためと称して集結しているが、侵略の意図が憶測されている。演習はきょう終了するはずだったが、ロシア軍は結局ロシアには帰らないことが伝えられた。
ベラルーシの労働者たちが、エレベーターのような便利で平和なアイテムを慎重に組み立て、テストし、期待を裏切らないことを確認し(エレベーターの信頼性には人の命がかかっていることもある)、ウクライナへの発送の準備をしているところを想像すると、不思議な気持ちになった。いま、チェルノブイリの近く、ベラル��シの森や沼地では、ロシア軍がロケット弾をテストし、期待を裏切らないことを確認し(ロケット弾の信頼性には人の命がかかっていることもある)、ウクライナに送り出す準備をしているかもしれないのだ。
チェフは2010年代半ばにウクライナ軍に入隊し、ドンバスの最前線にいた。彼はそのことを本に書いている。動員がかかれば、真っ先に召集されるだろう。彼は兵役の時から残る雑多なものが入ったカバンを持っている。ほとんどのものは他の兵士に譲ってしまった。自動小銃用の三点式のストラップ、長靴、夏用の軍服などはまだ持っている。行かなければならなくなったら、彼は行くだろう。
チェフの作品で印象的だったのは、革命後のウクライナの軍隊には自由主義・知的・ブルジョワ階級と労働者や小自作農民が混在しているという彼の観察だ。これは以前の革命にはあまり見られなかったことなのだ。「革命の中心と骨格はブルジョア階級でした」とチェフは言った。私たちは彼らの食卓で、酸っぱいチェリーケーキとトルコ製の新型電気コーヒーメーカーで淹れたコーヒーを飲んでいた。「中産階級の人々、中規模のビジネスを営む人々が、最初の段階でマイダンへと進んでいったのです」
「誰もの代表が少しづつ参加していました」とツィリクは言った。「もちろん、極端な右翼も少しはいましたよ」。 彼女は、ロシアの圧力に抗してキエフで最近行われた「結束のための行進」に触れ、LGBTの横断幕が極端な民族主義者の旗と同じ列で振られていたことを語った。「危機が彼らを団結させるのです」
チェフが従軍した軍隊もそうだった。しかし、彼が招集された頃には、戦争の初期段階――まず本来のウクライナ軍が完全に失敗し、次に志願兵が殺到した――が終わり、酔っ払いばかりの徴集兵に道を譲っていた。「村の連中は、徴兵から隠れる場所がどこにもなかったんです。地元の警察官が来て、『お前、行け』と言うんです。最初のころはアルコールが問題でした。いまはプロの軍隊があるから違うけれど、当時は良心のない徴集担当が、村にいても役に立たない人間を選ぶだけだった。『こいつは酒を飲む、あいつも酒を飲む、村にとってよくないやつだから動員しよう』、とね」
「ちょっと、そんなに大がかりではなかったでしょう」ツィリクが笑いながら口を挟んだ。
「大がかりではなかったかもしれないけれど、その問題は現実に存在した」
「ええ、もちろん当時の軍隊は混沌としていたでしょう」ツィリクが言った。「いまはもっとプロフェッショナルね」
「いろんな人間がいたよ」とチェフが言った。「いつもやる気があるわけじゃない人間の集団だった」
「でも、あなたの兵役時代のことで驚いたのはね. . . チェフは自分でこう書いている(夫婦はお互いを苗字で呼び合っている)。ウクライナを初めて間近で見た気がした、自分の国に住んでいるこの人たちは実際にはどんな人たちなのか。普段は決して交わることのない人たちだからだ。彼の最も親しい同志は鉱夫だった. . . 」
「ドニプロペトロウシクから来た、ね」
「. . . 彼はキエフに行ったこともなく、チェフに会う前はウクライナ語は(極端な民族主義右派の)言語だと考えていた。彼はいまだに私たちを訪ねてきたことがない。彼は東ウクライナから出たことがなかった」
「彼はポルタヴァ以西は極端な民族主義者ばかりだと思い込んでいた」とチェフは言った。「それでも彼は国を守りに行かずにはいられなかったんだ」
チェフは、プーチンが、米国がバグダッドに軍隊を送ったような昔ながらの地上軍の侵攻でキエフを征服するつもりだという見解が理解できない。これは米国と英国が諜報活動に基づいて主張し、ロシアが否定している。キエフの人口は、周辺のベッドタウンを含めて約400万人だ。「部隊が足りない」とチェフは言った。「キエフの人口は、包囲戦のときのレニングラード包囲戦のときよりも多いし、あれさえもうまくいかなかった」
地下鉄まで歩きながら、ナチス撃退に貢献したとしてソ連から「英雄都市」の称号を与えられたソビエトの都市の記念碑を通り過ぎた。キエフもその一つだった。コンクリートのスロープの上に大祖国戦争時代のT34戦車があり、赤い星の中に鎌と槌のエンブレムがある。各英雄都市の柱には巨大なメダルが貼り付けられ、写真と物語が書かれていた。キエフのものには、1943年にドニエプル川を渡ったソ連軍によって街が解放されたことが描かれていた。キエフはその2年前に、ナチスの手に落ちるまで72日間も持ちこたえた街だ。ヒトラーの当初の計画は、文字通り街を瓦礫にすることだったが、ナチスには十分な爆弾と砲弾がなかった。
(翌日につづく)
ジェームズ・ミーク ロンドン・レビュー・オブ・ブックスに掲載 2022.2.20
ジェームズ・ミークは英国の小説家・ジャーナリスト。1990年代にキエフとモスクワで暮らし、1994から2006までガーディアン誌でモスクワ支局長などを務める。ロンドン在住。
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戦争の暗雲
―ジェームズ・ミーク 2022.2.19
朝は曇っていて風が強く、雪は見えなかったが、歩いているとコートの肩に小さな雪の粒が当たっているような、かすかな音がした。昨夜ジョー・バイデンは、ロシアはウクライナ東部だけでなく、キエフそのものを攻撃するつもりだ、という考えを繰り返した。航空機が攻撃しにくいから、灰色の空は恵みと受け止めた方がいいのかもしれない。
私は一度、1995年にチェチェンのシャリで、さらにその同じ日にロストフとバクを結ぶ高速道路で、ロシアの空爆に遭ったことがある。ウラジミール・プーチンではなく、ボリス・イェリツィンの政権下のことだ。朝、イングーシを出てチェチェンに向かうときには濃い霧が出ていたので大丈夫かと思ったが、午前中には晴れてきた。ロシアのジェット機がシャリの市場をとんでもない低空飛行でぐるぐると旋回し、コックピットにいるパイロットの白く丸いヘルメットが見えるほどだった。私は深い塹壕に飛び込んだ。飛行機はすでにロケット弾を市場に撃ち込んでいたが、私がそこにいるあいだにも、さらに撃ってきた。
それが止むと(彼らは後で戻ってきた)、私は町の病院まで歩いた。窓が全部割れていた。中を覗いてみると、そこは机と椅子とファイルがあるごく普通のオフィスだったのだが、血にまみれていた。血は机の表面全体を覆い、側面を流れ落ち、床に広がっていた。廊下のベッドに5歳くらいの男の子が横たわっていた。眠っているようだ。ジャンパーとズボンをきちんと着て、目を閉じて、まったく動かず、何の痕もない。しかし、ベッドにはマットレスがなく、冷たい鉄の輪でできたスプリングの網の目がむき出しになっていて、少年は眠ってはいなかった。
いま、キエフで不気味なのは、店やレストランが通常通り営業し、道路も交通量が多いこともあるが、防御態勢の気配が感じられないことだ。多くの大使館が怯え、スタッフを遠く西部のリヴィウに移しているが、首都には土嚢も検問所も、爆発後の破片を防ぐ窓ガラスへのテーピングもなく、兵士もいないし警察もほとんどいない。ここに来てから、軍の車両を見ていない。きょうは退役軍人のグループを見かけたが(大部分は50代の男性で、2014年の東部での戦闘に参加したことを書いた横断幕を持っていた)、聖ミハエル大聖堂の外の記念壁の近くに集まり、互いに祈り、励まし合っていた。壁の1枚の写真パネルには東部で反政府軍やロシア軍と戦って死亡したウクライナ軍人126人の顔があり、パネルは32枚ある。4,000人以上の死者が出たのだ。その日も二人が反乱軍の銃撃で死亡した。
2014年の「尊厳の革命」におけるマイダンの長い戦いの中で、デモ隊と政府軍が最も激しく衝突した地点を横切り、ウクライナ国会に向かった。いたるところに当時の殉死者を記録するプレートやポスターや花があった。記念碑や神殿は、訪れてはすぐに消えていく。それらは必ずしも見かけ通りではない。聖ミハエル(正式名称は聖ミハエル黄金ドーム修道院)は、レプリカだ。オリジナルはスターリンの支配する高度無神論時代の1930年代に壊され、1990年代にその破壊されたバロック様式に限りなく近い形で再建された。この復刻建築が示しているのは信仰の持久力なのか、頑さなのか、それとも想像力の欠如なのだろうか?
国会は開かれていなかったが、数十人の国家警備隊が国会を守っていた。それまでキエフで見た制服姿の若い男たちとしては最も多い。彼らは、100人はいるだろうか、抗議行動を起こそうとしている非常に行儀のよい老人たちの隊列を取り締まっていた。演説をする予定の弁護士のナデジダさんは、自分たちは政府を支持しているが(彼女自身、ゼレンスキー大統領に投票している)、公約を果たしてほしいのだと言った。「防衛してほしい。軍需工場を稼働してもらいたい。こんなふうに手を差し出して援助を乞うようなことはしたくない. . . アメリカも、ドイツも、イギリスさえも、みんな助けてくれている。トルコも船を出してくれるし、フランスも、なのにどうして? 昔は何でも自分たちで作っていたのに. . . 核弾頭も自前で持っていたのに、[ウクライナの初期の指導者たちは]何の代償も得ずに手放してしまった。そしてこの国は無防備な状態になった。不可侵条約を結んでおきながら、敵は門前まで来ている。誰が私たちを守ってくれるの?」
「クリミアを戦わずに手放したのよ!」と、年配の別の女性が口を挟んだ。
「国民を守ってもらわないと」とナデジダさんは続けた。「私たちが怖がらないでいいようにしてほしい。このコロナ、戦争、コロナ、戦争. . . テレビには他のニュースが何もない。そんな状態が終わって、どれだけ穀物が実ったか、どれだけ牛がいるか���どれだけ鉱山が掘られたか、どれだけ工場���建てられたか、というようなニュースが聞きたい」
OPFLについて聞いてみた。「彼らはモスクワとプーチンの方に傾いていて、一つの連合になるべきだと考えている。でも、もう連合は無理でしょう。ソビエト連合は30年前に崩壊し、元に戻すことはできない。同じ川に2度入ることはできないんです」
3人目の女性が割り込んだ。「私たちはそれを体験してきたし、その道には進みたくない」
午後遅くに、キエフのすぐ外側、ドニエプル川の東岸(左岸)に位置する���ロヴァリーに住む友人に会いに出かけた。1990年代、キエフのフランス語を話すグループの中では、独立ウクライナの初代外相の一人が、大学のエッセイでフローベールについて書いた論文の中で「ブロヴァリー夫人」とまちがえていたと噂されている。
太陽が顔を出した。地下鉄は広いドニエプル川を横切って進んだ。川沿いの崖にはペチェールシク大修道院が、まるでクラブに行こうとしているグラム時代のファッション学生ふたりのように、突拍子もない金色に輝いている。そこに並ぶように、剣と盾を持った高さ200フィートのステンレス製の女性像である「祖国記念碑」がある。この像は大祖国戦争を記念している。ウクライナ人は、このモニュメントがドイツを向いているのではなく、東のロシアを向いていることを、ずっとおかしいと思ってきた。
ユラは、会社のバンで地下鉄の駅まで迎えに来てくれた。自分の車はちょっとした事故にあって修理中だという。ユラは心臓のバイパス手術から回復したばかりだ。昨年は、コロナを発症した。2020年にカナダから3か月の予定でやってきた娘さんは、コロナのせいで動けなくなり1年半滞在していた。ユラはブロヴァリーをかなり気に入っていた。通勤に便利だからだ。巨大なショッピングセンターと屋内親水公園、何百ものアパートが入っている新しいタワーマンションなどをざっと案内してくれた。ショップやレストランもある。ブロヴァリーには、新しい住人たちのために十分な数の医者がいるが、学校が足りていない。開発業者は公共サービスに金を出しているのに、自治体がその金を流用するのだ、と彼は言った。
彼の庭付き2階建ての広い家に着くと、奥さんのリナも息子も犬も猫もいて、私たちは食事をしてウクライナのワインを飲んだ。7年ぶりの再会だ。近くの森で採れるポルチーニ茸の話、いろいろな種類のブルーベリーの話、ウクライナでブームになっているインターネット宅配の話、ゼレンスキーがやっている電子マネーの実験の話。ワクチンを接種した市民への一種のキャッシュボーナスで、特定のものにしか使えないのだ。ガソリンはいいが薬はダメ、飛行機はいいが食べ物はダメ。私たちは、話したくないことを話さずに、その他のいろいろなことを話したが、結局、その話に行き着いた。
「僕らは宿命論者だ」とユラは言った。「なるようにしかならない. . . ここからロシア軍までは130キロくらいか、それ以下かもしれない」
「こんなに近いから恐ろしいわ」とリナ。
「それに国境は、守りが手薄だ」とユラ。
近くの軍事基地にある射撃クラブは、銃を体験しておきたい人たちでごった返しているという。
「多くの若者たちがバレンタインデーに射撃クラブのチケットを贈りあっていたわ」とリナが言った。
その後、私は川を越えて帰った。夜のインターネットでは、ベラルーシでロシア軍の車列が舟橋を運んでいる映像が流れていた。
(翌日につづく)
ジェームズ・ミーク ロンドン・レビュー・オブ・ブックスに掲載 2022.2.19
ジェームズ・ミークは英国の小説家・ジャーナリスト。1990年代にキエフとモスクワで暮らし、1994から2006までガーディアン誌でモスクワ支局長などを務める。ロンドン在住。
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旧赤軍通りにて
―ジェームズ・ミーク 2022.2.18
キエフから300マイル東に位置するドンバス地域では、ウクライナ政府軍がロシアに支援された分離主義勢力と対峙しており、昨日、支配線上で大きな砲撃があった。新たな戦闘の発生は、ロシアのさらなる介入を示唆しているのかもしれない。予見されていたシナリオの一つは、分離主義勢力が政府の戦線を砲撃し、その後、政府が彼らに対して攻撃を始めたと主張し、ロシアが公然と介入する口実を提供するというものだった。案の定、ドンバスの二つの自称分離主義共和国のうちの一つのリーダーであるデニス・プシーリンは、ウクライナが彼らに対して猛攻撃を仕掛けようとしているという信憑性のない前提で、市民をロシアに避難させなければならないと発言した。2008年、ロシアがジョージアに侵攻するまでの助走期間にも、同じような陰惨な偽装のシナリオが繰り広げられた。
昨夜は作家のアンドレイ・クルコフと、ポジールのトルコ料理店で夕食をとったのだが、彼はキエフには『白衛軍』を置いている本屋がたくさんある、君がたまたままちがったところに行っただけだ、と言った。ウクライナの反ブルガーコフ運動は非常に小さく、ウクライナ生まれのゴーゴリをウクライナ人作家と考える者と、ロシア人作家と考える者の分断の方が、むしろ五分五分だと彼は言っていた。
今朝もブルヴァルノ・クドリャフスカ通りのカフェでアンドレイに会った。ハルキウから来たという彼の版元のアレクサンドルと一緒に、エッグベネディクトを食べていた。ハルキウはドンバスの前線のすぐ北側で、ロシアとの国境に近い。アレクサンドルは、街はよく守られており、いまはドネツクやルハンシクと同じ道を歩むと思われた2014年よりも、はるかにウクライナ的な精神を持っていると教えてくれた。「オデッサよりましだ」と彼は言った。「オデッサにはプーチンを待っている人間がかなりいる」
人々が、自分たちを元気づけようとして荒唐無稽な噂を流すほどになっていた。アレクサンドルは、ウクライナをロシアの空爆から守るためにイギリスが飛行禁止区域を宣言すると聞いたと言う。私が、英国空軍は単独でロシアに飛行禁止区域を適用する能力はないと言うと、彼は悲しそうな顔をした。私はそういう噂話をする意味を勘違いしていた。噂が真実かどうかは問題ではなかったのだ。
アンドレイと私は、これまでウクライナで、汚職という以前に、有能で、自信を持って権威を行使できる統治者や公務員を見つけることがいかに難しかったかという話をした。労働者階級のナショナリストと、ウクライナを忠実な領地にしようとするロシアからの圧力に抵抗するリベラル・ブルジョアのウクライナ人とにむすばれているファウスト的な〔*悪魔の取引のような〕協定についても話した。この協定によって得られるのは、少し安いガスと少し高い年金だけだ。「ウクライナのエリートが発展するための唯一自然な道筋は、ヨーロッパのやり方、おそらくポーランドの、もしかしたらハンガリーの在り方であり、それはあまりいい在り方ではなく、ナショナリズムと結びついていくだろう」とアンドレイは言った。「積極的なナショナリストはウクライナではごく少数派だが、ナショナリストたちの思想は、ナショナリスト的な考えを持っていない人たちにも利用され. . . おそらく道具化されている」
キエフの広い中央大通りをヴァシルキフスカ通りまで歩いた。ここがかつて赤軍通りと呼ばれていたことを市民に忘れさせたいのなら、古い道標を取り外す必要がある。私はこの街の難解な番地の付け方と格闘しながら、表札のないガラスのドアまでたどり着いた。中には、黒服の警備員とピカピカのクローム製の回転ドアがあった。
「『野党プラットフォーム―For Life』の本部を探しているんです」と私は言った。誰もここが正しい場所だと確証を与えてはくれなかったが、ドアを入ってすぐのところにあったカレンダーを見ればわかった。そこには、クレムリンと最も緊密に連携しているウクライナの主流政党である『野党プラットフォーム―For Life』(OPFL)の指導者の写真があった。OPFLは、2014年の革命の結果、最も疎外された人々、つまりロシアに併合されたクリミアと、分離主義者が支配するドンバスの一部の外に残された人々のための包括的な派閥である。合法的に選出された(そして極めて腐敗した)ヤヌコビッチ大統領を打倒した2014年の革命を、西側が支援したクーデターとみなす人々、ウクライナの民族主義をファシズムの手段とみなす人々、ドンバスにウクライナの国家政策に対する拒否権を与えることを望む人々、ウクライナがロシアの言語と文化を意図的に弾圧していると考える人々が集まってきているのだ。それはウクライナがEUから離れ、ロシアやベラルーシと経済統合することを望む人々であり、特権を失った有力財界人や元官僚、さらにはウクライナのロシア離れが貧困の原因だと考えると数十万人の極貧層(その多くは年金生活者)も含まれる。まさにクレムリンのお気に入りのウクライナ政党である。党首は実業家のヴィクトア・メドヴェドシュク。プーチンは彼の娘の名付け親だ。
2021年5月以降、メドヴェドシュクはキエフで自宅軟禁され、反逆罪の容疑で裁判を待っている。この逮捕が、プーチンが開戦する口実となるとの憶測もある。プーチンにとって、ことは個人的なのだ。ウクライナ当局は、ロシアのために嘘を流しているとして、同党を支持するいくつかのテレビ局を閉鎖している。しかし、党はまだ存在し、公然と合法的に活動している。ウクライナは、ロシアのテレビ局やトゥルシ・ギャバード〔*米国ハワイ選出の下院議員〕が主張するような抑圧的な国家ではない。ゼレンスキー大統領の政党は2019年の国政選挙でキエフの議員票を得て完勝したが、2020年の地方選挙では、OPFLが市議会の議席を相次いで獲得した。同党はウクライナの南部と東部に強い支持地域を持つが、国全体では不人気で公正な手段で政権を獲得することはできない。メドヴェドシュクは米国から、将来ロシアがキエフに設置する政権の指導者になる可能性があると指摘されているが、OPFLはこの考えを一笑に付している。
ウクライナ政府と同様、OPFLは深い疑惑と恐怖の時にあって微妙なラインを踏んで行動している。ロンドンの英国王立防衛安全保障研究所はウクライナの安全保障機関に所属する匿名のメンバーから得た情報をもとに報告書を発表したが、ウクライナにはロシアの諜報員が深く入り込んでいるという内容だった。そこには、「キエフではロシアの秘密特殊部隊がおよそ2中隊活動している」という驚くべき主張が含まれていた。
OPFLの青年部部長で、閉鎖されたテレビ局の一つの株主でもあるアルチョム・マルケフスキーが、私を自分の事務所に案内してくれた。彼は机の上に新しいMacBookを置いてはいたが、その賃貸オフィスの一角のつくりはまさにロシア風ウクライナ式の閉鎖空間だった。長い廊下に並ぶ頑丈なドアの先にはまず秘書の応接室があり、さらに進むと部屋の主の大きな机があり、その前に小さな低い机がある。椅子が正面に向かって置かれ、訪問者は幹部を見上げざるを得ないようになっている。マルケフスキーを庇って言うが、彼は小さい方の机に、私の向かい側に座った。彼はキエフで蔓延しているコロナウィルスの症状から回復したばかりだった。彼が呼吸が苦しいのでマスクを外していいかと言うまで、私たちはマスクをしていた。
侵攻はない、とマルケフスキーは言った。ヨーロッパにロシアのガスではなくアメリカのガスを買わせるために、米英がでっち上げたデマだと言うのだ。国境の向こうのロシア軍は、自国内で演習しているだけだ。それは普通のことだろう?
マルケフスキーは、自分の党はウクライナの違法な権力掌握を支持しないと慎重に述べた。「我々は政治政党です。過激派ではない。ウクライナの法律の枠内でのみ行動してきたし、これからも行動する。2014年にドンバスで起きたことは、基本的にいわゆる「尊厳の革命」の際に国中で起きたことだ。行政施設の奪取や違法な武器の携帯は法に反する。我々はそのような行為を支持できないし、今後も支持しない。我々は民主的なやり方を支持している」
同時に、ロシアが軍事的あるいはその他の方法でウクライナの都市における権力交代を企てようとするならば、OPFLという、クレムリンの希望と偶然にも一致するプラットフォームを見つけることができるだろう。
マルケフスキーは「いまのウクライナが独立しているとは思えない」と言った。「我が国の経済は海外から管理されている。政治家も海外からコントロールされている。完全に西側に依存している。完全に信用取引に依存しているのです」
(翌日につづく)
ジェームズ・ミーク ロンドン・レビュー・オブ・ブックスに掲載 2022.2.18
ジェームズ・ミークは英国の小説家・ジャーナリスト。1990年代にキエフとモスクワで暮らし、1994から2006までガーディアン誌でモスクワ支局長などを務める。ロンドン在住。
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ブルガーコフをさがして
―ジェームズ・ミーク 2022.2.17
私はミハイル・ブルガーコフの小説『白衛軍』を買いに出かけた。彼は後年モスクワに移り住んだが、キエフ出身だ。小説は、第一次世界大戦末期にキエフを攻撃した複数の軍隊――ドイツ軍、ウクライナ民族軍、ボルシェビキ、ポーランド軍――を目撃した自身の経験をもとに書かれている。ブルジョワのロシア人家族が、一族と皇帝とに忠誠を誓いながらも、利己的な日和見主義者たちと、まるで神のような遠い存在に思える無慈悲な地政学的力によって崩れていくさまを描く。その部分はブルガーコフ自身が戯曲化した『トゥルビン家の日々』という作品となり、スターリンに愛された。スターリンは自分自身を善悪の外にある神のような存在と考えたがり、ブルジョア一族を打ち砕くことは息をするのと同じくらい自然なことだと思っていたからだろう。しかしその戯曲からはキエフという街が抜け落ちている。ブルガーコフの散文はキエフ自体を神聖化し、小説で描かれる喜びや恐怖、恥辱、愛、血や銃は、実際の通りや地区に埋め込まれている。ブルガーコフはキエフの地図の上に物語の層をかぶせた。そこにある愛情と苦々しさの奇妙な混合、死の危険にさらされた善良な人々の憂鬱は、私が1990年代にキエフに興味を持った大きな理由の一つだった。この本が呼び起こす憂鬱はいま再び存在しているが、いまここでこの本を見つけるのはそれほど簡単ではない。
キエフのどこを探せばいいかわかっていれば、比較的容易に探し出すことはできるのかもしれない。ロシア語の原書はオンラインで簡単に入手できる。私の努力を誇張して語るつもりはない。本屋2軒とブルガーコフ博物館に行っただけだ。しかし、本はそのどこにもなかった。本と共にコーヒーも販売している最初の店を出ながら、私はかつて英語で『白衛軍』を読んだときに、いま思えばなんてナイーブな読み方をしたのだろうかと考えた。国粋主義の一歩手前とも言える愛国的なロシア人であるブルガーコフが、ウクライナ人という民族に対して持っていたアンビバレントな感情を見逃していたか、あるいは無視していた。著者が明らかに帝政ロシアへのシンパシーとボルシェビキへの嫌悪を感じていることの意味を十分に考えなかった。『白衛軍』は素晴らしい本であり、アイデンティティということについて明敏な洞察がある。しかし、著者の描く、ウクライナの農村が広がる深く神秘的な海に浮かぶ帝政ロシアの都市という世界は、20世紀までには急激な変貌を遂げ、独立後、都市のウクライナ化のプロセスは加速していた。現代のウクライナ人が、どの言語を好んでいるにせよ、『白衛門』の底流にある家父長制や植民地主義に違和感を覚えるのは理解できる。
最初の店にはロシア語の『白衛軍』はなかったが、それは当然だとも言える。ノルウェーの本屋が、デンマークの本をデンマーク語でしか置かないということはないだろう。店にはウクライナ語版もなかったが、棚のスペースも十分ではなかった。法律で禁止されているわけでもないし、当局がロシアの古典を排除しているとは言えない。この書店がある大通りの名前は「プーシキンスカ」だ。
私は地下鉄で川沿いのポジールまで行き、別の本屋を覗いた。キエフの地下鉄は深い。古いエスカレーターがホームまでガタンゴトンと降りるのにいつまでもかかる。空襲になればこの深さは心強い、と言いたいところだが、その可能性はまだ空想としか感じられない。私は意識下の、明らかに欠陥のある理屈では、「こんなに素敵なカフェがたくさんある街に、ロシアがミサイルを打ち込めるわけがない」というふうに考えている。自分の潜在意識の話を続ければ、この地下鉄の放置された状態――古い車両、古ぼけた広告、暗くて薄汚い地下鉄が1990年代からあまり変わっていない駅へと向かうさま――が、なぜ私をこんなに不安にさせるのかを考えている。それは、ウクライナに対するプーチンの言動が、怒れる元伴侶を彷彿とさせるから、と解釈できる気がする。自らを激しく虐待した元夫が訪問してくるというときに、元妻が自分の居間の荒れた状態に慌てるシーンがある小説を知っていたら教えてほしい。
ポジールの書店にも『白衛軍』はなかった。「外国文学」のコーナーには、ほかの様々な翻訳書とともにジェフリー・アーチャーもジェフリー・チョーサーも並んでいたが、ウクライナ語の『白衛軍』はなかった。「外国語の文学」のコーナーにもロシア語版はなかった。ブルガーコフもチェーホフもゴーゴリもドストエフスキーもトルストイも見当たらないと思ったが、それはまちがいだった。店長のアナスタシアによると、ウクライナ語の『白衛軍』は置いてあることもあるらしい。在庫切れだった。彼女は、モスクワでブルガーコフが書いた本の一つである『犬の心臓』のウクライナ語訳を見つけてくれた。反ボルシェビキの風刺小説で、酔っぱらって乱闘になった犯罪者の臓器を犬の体に移植する医者を描いたものだ。
はじめのうち、私は23歳のアナスタシアを、新しいウクライナに存在はしていてもまだ出会った���とのないタイプかと思った――ウクライナでウクライナ語を話す人は誰でもロシア語も流暢に話せるだろう、という古い思い込みを打ち破る人だ。彼女はウクライナ語と英語を話し、ロシア語はまったくわからないようだった。しかし徐々に、実際はロシア語を話せるのだが、意識的に話さないようにしていることがわかってきた。彼女はオデッサで、ウクライナ語とロシア語の混ざった「スルジク」という言葉を話す両親のもとに生まれ育ち、ウクライナ語の学校に通ったが、ロシア語もできた。5年前、ロシアのウクライナ東部への軍事介入とロシアのプロパガンダに憤慨した彼女は、自分の頭からロシア語を消し去ろうと決心した。ロシア語はしゃべらない。誰かがロシア語で話しかけてきても、ウクライナ語でしか答えない。ウクライナ語でしか考えないようにする。ドストエフスキーを読むならウクライナ語で読む。ただ一人、マリーナ・ツヴェターエワだけは彼女が認める例外だった。
ポジールから、かつてブルガーコフ一家が住んでいた石畳の急な通りを登って歩いた。雨が激しく降ってきた。ブルガーコフという名前のマジックと、大きなカーブとおもちゃのような教会のある通りのかわいらしさがお金を呼び込み、その絵のような美しさは開発業者に脅かされている。ブルガーコフの家は博物館になっていたが、どちらかというと神殿と言った方が近いかもしれない。解釈というより、崇拝に近い。内部はほとんどすべてが白で統一され、家族の持ち物ではない家具が白く塗られている。博物館のスタッフはブルガーコフの本をほとんど持っているようだったが、『白衛軍』は持っていなかった。ツアーの原稿に忠実で、その本の現代ウクライナとの関連性についての会話にはのってこなかった。
ツアーにはもう一人、やはりオデッサ出身の若い女性がいた。彼女は『巨匠とマルガリータ』を3回読み、そのたびに新しい発見があったそうだが、『白衛軍』は読んだことがないという。私は彼女に、アナスタシアの過激な決断をどう思うかと尋ねた。「尊敬します」と彼女は言った。「私自身はまだそこまでは行っていないんです」
(翌日につづく)
ジェームズ・ミーク ロンドン・レビュー・オブ・ブックスに掲載 2022.2.17
ジェームズ・ミークは英国の小説家・ジャーナリスト。1990年代にキエフとモスクワで暮らし、1994から2006までガーディアン誌でモスクワ支局長などを務める。ロンドン在住。
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「キエフα」と「キエフβ」
―ジェームズ・ミーク 2022.2.16
私がきょう、ロンドンから到着した街は、事前に想定せざるを得なかった二つのあり得るキエフのうちの、「キエフα」だった。「キエフα」は〔*ロンドンの〕スタンステッド空港からライアンエアー〔*アイルランドの格安航空会社〕で3時間で行ける「ヨーロッパのキエフ」だ。小旅行で訪れるキエフ、金のない西側のアーティストやレイヴに通う者たちのキエフ、銀行家やITベンチャーのキエフ。ヒップスターの喧騒、いつ終わるともなくゆっくりと修復される19世紀末の荘厳なファサード、こだわりのフィルターコーヒー、非接触型決済や無線LANのキエフ。同時に、郊外の貧困、ドニエプル川の左岸(東岸)に建つ新しいアパート群がつくる冷たいコンクリートの絶壁があるキエフである。
しかし、2月16日においてあり得たもうひとつのキエフ、「キエフβ」もまた存在する。それはトヨタ車の屋根にマットレスをくくりつけて西へ向かう難民の交通渋滞、政府ビルから立ち上る煙、銀行やデパートの窓から噴き出る炎、怯えた人々が戸口から戸口へと割れたガラスの上を忍び足で歩き、電気も暖房も水道も、携帯電話の電波もインターネットもない街、キエフだ。私が到着したのは「キエフα」であり、夜になったいまも私がいるのは「キエフα」だ。日が落ちていくレイタルスカ通りを歩いていると、鳥の鳴き声が聞こえてきた。「キエフβ」は懸念であり、予測であり、幻影だ。パニックに陥ったアメリカの妄想だと言う人もいるかもしれない。それはまだ姿を現してはいないし、これからも現れないかもしれない。しかし、ロシアはイスカンデルミサイルを飛行機で数分の距離にあるベラルーシに移し、ウクライナのほとんどを軍隊で包囲している。
ライアンエアーのキャビンクルーは、自分たちが「キエフβ」という戦争領域に飛んでいくかもしれないなどと、考えるべきではないと言われている。私は、彼らがボランティアなのかどうか尋ねたが、そうではなかった。そうでないと言われない限り、キエフはマラガやベルリンのようなヨーロッパ内の目的地に過ぎないのだ。私には、二つのキエフに備える余裕があった。ヘルメットと防弾チョッキ、それに衛星電話もあった方がいいと考えた。しかし、それらは場所をとるし、準備するということは諸刃の剣でもある。「キエフβ」に防弾チョッキなしで到着する可能性を避けるために、「キエフα」におしゃれな服をあまり持ってくることができなかった。いまのところ想像の産物である「キエフβ」では私の防備は賢いものに映るだろうが、現実の「キエフα」では、そのような用心深さは、アノラックを引きずってビーチに向かう男のような、希望のない、果敢な抵抗が足りない姿に捉えられるだろう。
「キエフβ」という熱に浮かされたような幻影は、ある意味、私が1990年代初頭に数年間暮らしたキエフにも似ている。もちろん、炎や破壊のことではない。携帯電話やインターネットという常時接続された媒体を持っているいまの状態を失う状況を想像している点だ。私がキエフに移り住んだときには、国際電話をかけるにはオペレーターに電話して予約するしかなかった。「イギリスへの電話を予約させてください」というのは、私が最初に覚えたロシア語のフレーズのひとつだ。オペレーターは、ソビエト的な上等の侮蔑を込めて「お待ちください」と答えた。その5分後か、5時間後か、翌日かはわからない、ある時点で電話が鳴り、応えると、オペレーターが「ロンドンです、話しなさい」と言い、相手とつながる。私は初期のラップトップを持っていたのだが、ソ連が崩壊する直前、アメリカの会社がインターネット以前のデータコネクタのネットワークを国中に設置する契約を結んだ。理論的には、ラップトップを電話線に差し込むだけでメッセージを送れることになったのだ。しかし、ソ連の電話線にはソケットがなかった。昔のキエフ、そして国のどこへいくときにも、私はドライバーを持ち歩き、壁にある配電ボックスを分解して、ノートパソコンから出た2本の裸のケーブルを電話システムに差し込んでいた。
きょうのキエフはすべての営みが開いていて、人々は普通に生活している。天気は曇り、気温は零度を少し越えたくらいで、除雪の難しい場所には汚れた雪の塊が少し残っている。私はヴォロディミルスカ通りを聖ソフィア大聖堂やボフダン・フメリニツキー像に向かって歩き、小さな変化に驚かされた。像の台座には蔦が生え、像の立つ広場は一部石畳になり、通行止めになっている。「ウクライナ秘密警察」あるいは「ウクライナ版FBI」とも呼ぶべき本部のすぐ外には、東部で、分離主義者と彼らを支持するロシア人と戦って死んだ兵士を追悼する新しい彫刻が立っている。ウクライナ人のコサック兵が後脚で立ちあがった馬に乗り、ロシア帝国の紋章にある王冠を乗せた双頭の鷲のような頭に、ドラゴンのような顎と体を持つ生き物の喉に槍を突き刺している像だ。
レイタルスカ通りでアンティークショップに入り、アレクサンドルと話した。彼は、ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFCのトップチームのディフェンダー、マックス・キルマンの自称名付け親だ。(キルマンの亡き父は、アレクサンドルと同じウクライナの骨董商だった。)アレクサンドルは、ロシアがウクライナにあえて侵攻するという考えを笑い飛ばした。東部で7年間戦ってきたウクライナの軍隊は、経験豊富で強くなりすぎているという意見だった。
店内には、磁器製の飾り物でいっぱいのキャビネットがあった。一つにはウクライナのジトーミルにあるゴロドニツァ工場で作られた置き物、もう一つにはソ連・レニングラードのロモノーソフ工場の置物が入っている。ウクライナの農民女性をロシア的に捉え、理想化した、レニングラード製の精巧な像がある。長い刺繍のエプロンと水玉のスカーフを身につけ、背後から彼女の腕を覆うように、金色に塗られた豊かな穀物の穂が立ち上がっている。どちらの工場も帝政ロシアの時代に設立されている。ロシア側の工場は、「帝国磁器製作所」というソ連邦以前の名称を復活させ、健在だ。ウクライナの工場は、安価な輸入品に対抗できず、苦境に立たされて閉鎖されてしまった。
(翌日につづく)
ジェームズ・ミーク ロンドン・レビュー・オブ・ブックスに掲載 2022.2.16
ジェームズ・ミークは英国の小説家・ジャーナリスト。1990年代にキエフとモスクワで暮らし、1994から2006までガーディアン誌でモスクワ支局長などを務める。ロンドン在住。
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書くことができない言語を脚本にするには
—シアン・ヘダー
私の映画『CODA』(邦題『コーダ あいのうた』)では、台詞の半分はアメリカ手話です。
書かれることがない言語を、どうやって書き記せばいいのか? 書かなかったのです。少なくとも初めは。
アメリカ手話を勉強し始めたとき、手話が話しことばである英語といかにちがうかに気づかされました。文法や構文が異なるだけでなく、手話では概念を伝えるための方法が純粋に身体的です。サインだけでなく、表情やエネルギー、周囲の空間も、意味を伝えるために使われます。眉間にしわを寄せることで質問になります。過去は文字通り後ろにあり、未来は正面にある。出来事がいつ起きたかを示すには、時制を使う代わりに、この目に見えない空間的な時間軸に沿ってそれを配置します。私はこういった概念の初心者であり、この文化の部外者でした。そして、仮に私がこの言語を理解しながら書くことができたとしても、十分な表現にはならなかったでしょう。話しことばには限界があります。アメリカ手話は、英語にはできない方法で感情や意味を表現します。
スタートの時点では、このちがいの大きさをほんとうに理解してはいませんでした。私はそれまで書いてきたすべての脚本と同じように、聴覚を通して書きました。独り言をつぶやきながらキーボードを叩いていたのです。私は幼少期のかなりの時期を〔*映画の舞台である〕マサチューセッツ州グロスターで過ごしたので、そこの人々の声は生き生きと立ち上がってきました。私はこの家族のリズムや抑揚に耳を傾けました。特にフランクは、船乗り風のボストン訛りで冗談を言うのが聞こえてくるようでした。フランクとジャッキーは、私の実の両親のような相性と風変わりさを備えていきました。レオとルビーは、私と妹にしかできないようなくだらないやりとりをするようになりました。私はろう者のキャラクターを書いていたのですが、みんな私の家族のように感じられました。食卓で言い争う声が聞こえてくるようでした。私の作家脳は、他の方法を知らなかったのです。
でも、ある時点で、頭の中で流れているラジオドラマを止めなければなりませんでした。私は決してセリフを聞くことはない。「見る」ことになるのだ。これまでの仕事のやり方は通用しない。私は、視覚的にしか存在しない言語のために書いていた。自分のジョークが通用するのかどうか、まったくわかりませんでした。
私より詳しい人が必要でした。そこで登場したのが、アレクサンドリア・ウェイルズとアン・トマセッティ、二人の芸術的手話担当ディレクターです。手話ディレクターは、ドラマツルグのような役割を果たすクリエイティブな共同制作者です。アレクサンドリアとアンはともにろう者でアーティストでもあり、幅広い演劇の経歴を持ち、ろう者の文化や歴史を深く理解しています。私たちは、私の脚本をたたき台にして、その言語に生命を吹き込むべく、集まりました。
最初の打ち合わせでは、アレクサンドリアと私はキッチンにあるテーブルで5時間もかけて、一行一行の翻訳に取り組みました。彼女は、登場人物が何を感じているのか、ひとつひとつのやりとりにどんな意図があるのか、尋ねてきました。それから彼女が候補となる手話の選択肢を示し、その意味について話し合いました。ときには手話がしっくりこなくて変更することもありました。英語のセリフの方を変えることもありました。アレキサンドリアがルビーの「ここで死んでほしいのか」というセリフの手話をするのを見ると、「死ぬ」という手話は、私がキャラクターに感じてほしかった怒りの感情を捉えていないことに気づきました。もっとシャープに、もっとスタッカートで、女優が怒りを表現できることが必要でした。いろいろと試しているうちにアレキサンドリアが 「This is killing me」(殺されている=耐えられない)ということばを見つけました。
この間、アレクサンドリアはアメリカ手話注釈(英単語と図やスケッチを使う手話の表記法)でメモを取っていました。役者のためのビデオも作成してくれました。でも彼女が主にやっていたのは、筋肉の動きを記憶することです。ことばをからだに覚えさせていたのです。
アンは、製作期間中にチームに加わりました。アレクサンドリアが手話に対して叙情的で詩的なアプローチをとるのに対し、アンは実践的で、意味を伝えることに専念します。この二人の女性の異なるアプローチのバランスが、脚本に見事な緊張関係を生み出しました。俳優のマーリー(・マトリン)、トロイ(・コッツアー)、ダニエル(・デュラント)が登場すると、議論はさらに盛り上がりました。彼らはこのキャラクターを生きているのであり、どういう手話を選ぶかについて独自の考えを持っていました。自らのろう者としての豊かで複雑な経験を手話に吹き込んでくれたのです。私たちは、この家族が使う手話のスタイルを作り上げようとしていました。リハーサルは言語の研究室のようになり、ある考えを表現する最善の方法について議論し、ブレインストーミングを行いました。
私のジョークが通用するかどうかという不安は、トロイの登場で消え去りました。トロイは、ほんとうに独創的な手話をします。手話を自在に操る彼の才能は、魔法のようです。私が最初に想像していたフランクの漁師っぽいアクセントは、トロイの手によって生き生きとしたものになりました。彼は下品なユーモアに関して私といい勝負でした。私は、「I'd give my left nut to tell them to go screw themselves」というセリフを書いていました。トロイは、顔の前で睾丸をぶらぶらさせる手話をしてから、左のたまを引き剥がし、それを手榴弾に見立てて、見えないピンを歯で抜き、肩越しに漁師のいる方向へ投げつけました。私は大喜びしました。
私は書きことばを完全に無くしたいと思うようになりました。さまざまな考えが、手話で表した方がより生き生きと感じられました。私はこれまで経験したことのない方法で自分自身が書いたものを掘り起こし、脚本は流動的で呼吸する生き物になりました。
映画のラストで、私はルビーが家族に「愛してる」と手話で語りかけ、車を走らせるシーンを書いていました。当日、アンから、ルビーの名前を表す手話のサインはもう確立している、それはRとYの形を組み合わせたものだと指摘されました。そしてこのサインにはもうひとつ意味がありました。それは「I love you」という手話の指を組んだバージョンで、「ほんとうに愛している」、あるいは「ずっと愛している」という意味でした。彼女は、ルビーがこのサインをすることを提案しました。それには、家族の中での自分のアイデンティティと、家族への愛という、二つの意味を込めることができるのでした。
そうして映画の最後のシーンに、手話が私に最後の贈り物をくれました。私はそこには字幕を付けませんでした。ルビーは車の窓から身を乗り出し、家族が見えなくなる前に、自分の名前と 「ずっと愛している」とをひとつの手話で表現しました。彼女の旅の、完璧な結末でした。それは私の旅の、完璧な結末でもありました。
LAタイムズに掲載 2022.1.18
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「カエターノ効果」 /5
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2018年、ブラジル大統領選挙が近づいた頃、ヴェローゾは初めて独裁政権時代の自分の警察ファイルを目にした。それは300ページあり、官僚的な文体で書かれていた。ある部分には、軍人がヴェローゾに自分の歌「Tropicália」のメロディに乗せて国歌を嘲笑したことがあるかどうかを尋ねた尋問の様子が書かれていた。(国歌が10音節であるのに対し、自分の歌は8音節なので不可能だとヴェローゾは答えていた。)ヴェローゾが投獄されて50年、この文書は時代錯誤で滑稽にさえ思えるものだったはずだ。しかし、保守派の大統領候補は元陸軍大尉の下院議員、ジャイル・ボルソナロであり、軍事独裁政権は十分やりきれていなかったと非難するような男だった。ボルソナロはしばしば、軍事政権の過ちは「拷問はしたが殺さなかったことだ」と発言していた。
ボルソナロは過去何年も、非主流派の政治家としてブラジル国民を憤慨させていた。しかし今回は、現役の軍人や退役軍人を含む上層部からの支持があった。彼らは2011年に独裁政権時代の犯罪を調査する「国家真実委員会」を設置する法律が制定されたことにことさら腹を立てていた。大統領であるジルマ・ルセフは、自身も70年代前半に左翼活動家として拷問を受けた経験があった。ヴェローゾのファイルを発見した歴史家のルーカス・ペドレッティは、「真実委員会は、旧軍人たちを政界に戻らせた大きな理由の一つだった」と語る。「右派の我慢が限界に達したんだ」。 その数年後、国営石油会社ペトロブラスの巨大な汚職事件が発生した。ルセフはかつて、同社の取締役会のトップだった。ルセフが有罪になることはなかったが、対抗勢力はこれを好都合と利用して優位に立った。2015年には、彼女が大統領として採択した予算措置に着目し、汚職事件として立件した。翌年、右派の票を集めて、ルセフは弾劾された。下院議員だったボルソナロは、20代だったルセフを逮捕し拷問した部隊の責任者だった軍人に票を捧げた。ボルソナロは大統領選挙戦で、ヴェローゾを獄中に追いやった1968年の勅令「軍制令第5号」の復活を訴えた。「内戦を起こし、軍事政権がやらなかった仕事をやることでしか、物事は変わらない」とボルソナロはインタビューに答えている。「無実の人間が何人か死ぬくらいはかまわない」。
ヴェローゾが帰国した1971年はまだ独裁政権の時代であり、政府の検閲により、彼とジルの獄中での苦難の体験をジャーナリストが報道することはなかった。1985年に民主主義が回復するまで、それは公然の秘密だった。それ以降、ヴェローゾはアーティストとして、また知識人として政治的な立場を表明してきたが、それはときに変化し、進化していった。彼は、左派にも右派にも警戒心を抱いていた。2003年から2016年まで国を統治した左派労働者党は、ヴェローゾを含むほとんどのアーティストから支持を得ていた。しかし、彼は政権が硬化し、腐敗していると考えるようになった。2期連続で大統領を務め、圧倒的な人気を誇る党首のルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ(通称ルーラ)に対して批判的な態度をとることもあった。(ヴェローゾがインタビューでルーラを「無教養」と呼んだことがあり、当時百二歳の母親が公開謝罪し、息子の意見が家族の意見を反映していないことを明らかにした。)
しかし、2018年の選挙戦は、ヴェローゾのそれ以前からの懸念をさらに暗く覆うような展開となった。3月には、警察が行う超法規的殺人について率直な意見を述べ、広く称賛されていたマリエル・フランコというリオの黒人市議が暗殺された。彼女を殺害したとされる犯人は、ボルソナロの家族とつながりがあった。ボルソナロは、投票日のひと月前の9月に行われた選挙イベントで刺され、一命を取り留めた。投票が始まると、バイーア州で政治論争が起こり、ボルソナロの支持者がヴェローゾの友人を刺殺した。その頃までには、ヴェローゾはインタビューに応じたり、ビデオを投稿したりして、ボルソナロへの反対を表明するようになっていた。「僕はもう老人だが、60年代、70年代は若かったし、忘れはしない。だから、声を上げなければならない」と寄稿している。「僕の音楽、僕の存在は、どんな反民主主義的な未来に対しても、恒久的な抵抗であり続ける」
ある晩、ヴェローゾと私はコパカバーナ・ビーチを歩いていた。リオでの若い頃について話していたとき、話がアメリカに及んだ。遠慮がちな距離をとって人垣ができていて、ヴェローゾは記念写真のために何度も立ち止まった。携帯電話で録画させてほしいという人もいた。そのたびにヴェローゾは快く微笑み、それから私の方に戻って、世界の民主主義のあり方についての難しい議論を再開した。(アルト・リンゼーは、「あなたは素晴らしいと言われ続けるのはなかなかつらいことだが、カエターノはわりあいうまく対処している」と言っていた。)
米国とブラジルは強烈に類似していて、昨今、一方の国を語っていると必ず他方の国との比較に話が及ぶ。ドナルド・トランプとボルソナロは依然として同盟関係にあり、トランプのアドバイザー数名が定期的にリオに出向いてボルソナロに助言を与え、極右のユーザーをつなぐためのソーシャルメディア・ネットワークを構築している。ボルソナロは今年10月の大統領選選挙に出馬するだろう。対立候補はルーラと、2018年の選挙期間中にルーラを収監してボルソナロの当選への道を開いたボルソナロ自身の元法務大臣、セルジオ・モロになると思われる。(モロは最終的にボルソナロと仲違いし、二人は現在、激しいライバル関係にある。)スティーブ・バノンはブラジルの選挙をアメリカの選挙に次いで世界で2番目に重要だと言い、ルーラをグローバル右派にとって唯一最大の脅威と評している。
ヴェローゾの口からスティーブ・バノンの名前が出るのは、何か特別に辛いものがあった。彼の声に対する冒涜だと感じた。そのことを指摘すると、「不快な思いをさせて申し訳ない」と、彼は言い放った。現政権下での生活は、「独裁政権並みにひどいと感じるが、状況はまったくちがう」という。「ひとつだけ確かなのは、権力者たちは軍事独裁政権を懐かしんでいるということだ。それでも、当時はクーデターが起きて軍が権力を握ったんだ。いまは狂った政府の下ではあるが民主主義の時代だ」
ヴェローゾとラヴィーンは、「権威主義の台頭に対抗する文化的ゲリラ戦に芸術的、そして社会的資産をすべて注ぎ込んでいる」と、映画監督のペトラ・コスタは語る。ボルソナロ大統領は、政府内に軍人を配置し、連邦判事や政敵に対する攻撃を奨励している。ルーラ大統領時代、ブラジルの文化大臣はジルベルト・ジルだった。ボルソナロはといえば、文化省を観光局と合併させた。アマゾンでは環境保護が骨抜きにされ、アグリビジネスに無制限の権限が与えられ、かつてない速度で森林伐採が進んでいる。この夏の調査では、広大な熱帯雨林が、初めて吸収できる量よりも多くの二酸化炭素を排出していることが明らかになった。科学者たちは、熱帯雨林はボルソナロの2期目を乗り切ることはできないだろうと警告している。
ラヴィーンは状況に対抗して、強力なオーガナイザーとなった。自宅で環境保護、先住民の権利、人種間公正などの活動家の会合を開き、夫を含む著名なアーティストのネットワークを駆使してメッセージを広めている。「カエターノがいるから、私はこんなことができる」と彼女は言った。「政治的な考え方はちがうところもあるけれど、私たちは協力し合っている。みんな彼の話を聞きたいのよ」
ラヴィーンとヴェローゾがイーストヴィレッジにアパートを構えるニューヨークでは、2018年と2019年に、国連を訪問するために街にやってきた先住民のオーガナイザーをもてなした。パンデミックの最初の年、ボルソナロが公衆衛生プロトコルを無視し、ブラジル人のためのファイザー製ワクチンを確保するための取引を妨害している時期に、二人の映画制作者が、ラヴィーンのが数年前に構想していたドキュメンタリーを発表した。その中でヴェローゾは1968年の投獄の全貌を語り、自分の古い警察ファイルを読み上げる。監督の一人、レナート・テラは私にこう言った。「カエターノは、ブラジルが全世界に影響を与えることができると考えた世代の一人だ。彼はその考えを具現化している。ボルソナロは、カエターノを逮捕した人々の象徴だ。カエターノは映画の中で一度もボルソナロという名前を口にしなかったが、メッセージは明確だった」
「私はプロデューサーなの。私の仕事は物事を実現させること」とラヴィーンは言った。私たちは二人のリオの家でワインを飲んでいた。携帯電話が鳴り、彼女は立ち上がって電話に出た。そして「こんにちは、上院議員」と言いながら、別の部屋に入っていった。ラヴィーンはボルソナロに対する文化的抵抗を主導しており、ヴェローゾはその名目上のリーダーになっているといっても過言ではない。ミュージシャンとしての彼は、絶え間なく自己改革を続けてきた。そしていま、政治に対する考え方も進化を続けている。「僕は自分よりも左側にいると感じている」と彼は言った。
*
ある朝、ロシーニャというスラム街の近くにあるスタジオに、ヴェローゾの妹、マリア・ベターニアに会いに行った。彼女は長い灰色の髪をおろし、青いリネンのシャツにヒョウ柄のスカーフを巻いていた。レコーディングの合間に、私たちは蔦で覆われた壁に囲まれた庭に腰を下ろした。兄よりは国外では知られていないが、彼女はブラジルのアイコンだ。そして二人とも、もう一人がいなければキャリアをスタートさせることはなかっただろう。ヴェローゾはベターニアのために曲をつくり、ベターニアは彼をリオに連れ出した。曲を書いているときには彼女の声が聞こえていることが多い、とヴェローゾは言う。「ブラジルはずっと変わらない」と彼女は最近のインタビューで答えている。「でもいまは眠っている。恐怖に怯え、病んで、悲しんでいる」。 彼女はこの国について歌い続けるが、話しをするのは好きではないという。「私はブラジルの内側からブラジルを伝えている。いまは空虚があり、大きな沈黙がある」
ヴェローゾの最新アルバムがリリースされる数か月前、彼はそれをミキシングされていない不完全な状態でベターニアに送った。彼女がまず感じたのは、兄がとても若く感じられることだった。1曲を除いてすべて新曲で、似ている曲はない。歌詞にはブラジルの音楽、文学、歴史、政治への言及が色濃くあり、同性愛、人種、ソーシャルメディアによる破壊についての歌もある。ボルソナロの名前は一度も出てこないが、彼のことを考えずにはいられないところもある。「僕らの物語に/干渉するのは許さない」とヴェローゾは歌う。「あなたはもう終わりだと言う/夢は色を失ったと言う/僕は何度でも叫ぶ、そうはさせない!と」
ベターニアがこの新譜で驚いたのは、それが兄の政府への反対を明確にしているだけでなく、抵抗を具現化していることだった。79歳にして、昔のヒット曲に甘んじることなく音楽を作り続けるという彼の決断は、それ自体が政治的な行為だった。「カエターノは叫んでいる」と彼女は言ったが、それは最大限の賛辞だった。アルバムの中の最も政治的な歌詞に匹敵するくらいに、音楽の質自体がメッセージになっていた。
ブラジル人は、自分たちの国が解決できない矛盾を内包しているという事実に直面している。ボルソナロとヴェローゾの両方が、国民精神の本質的な何かを表しているのだ。モレーノ・ヴェローゾは私に、「父はポジティブな考え方を持っている」と言った。「いまは奇妙で暗い政治的なタイミングだ。でも父はこれを波だと考えている。これは反波であり、ブラジルで非常に巨大な良いことが起こっていたことを確信させるものだと考えているんだ」。 ヴェローゾ自身は、そう指摘すると、神秘主義者のように答える。「僕はブラジル人として育った。ブラジルの特異性にはずっと気づいていた。だから僕らが世界に出ることはミッションだと受け止めた。それは、植民地化の残虐性を真に克服することにつながるはずだ」
ヴェローゾは、自分の音楽を聴くことはほとんどない。偶然にせよ、意図的にせよ、聴くときには批判的になる。会話の中で、彼は自分が聴いたものを「まあ聴ける」と��めたことが何度もある。また、昔の曲は遠いものだと感じ、誰かが録音したものを聴くと、「ああ、きれいだな」と自分で言ってから驚くほどだ。長年にわたってあまりに多くの曲を書いてきたので、曲の本質を忘れてしまったと感じることもある。「もう、自分の中にないんだ」と彼は言う。ある夜、彼の家でバイーア出身の友人たちとソファに座っていると、その中の一人、作家のクラウディオ・レアルが、ヴェローゾが自らの歌詞を覚えまちがえているのをやんわりと訂正した。私はそのときのヴェローゾの顔に、誇りにも似たものを感じた。彼の作品は、いまやみんなのものなのだ。
その夜、いつものように居間のテーブルを囲んでみんなが集まり、一本のギターが回された。ギターは歌手で俳優のセウ・ジョルジのところに回ってきた。白いリネンのパンツに薄緑のシャツを着て、胸元のボタンを外している。タバコを吸いながら、震動が伝わるほどの深い声で話している。彼が無造作に演奏を始めると、会話が静まった。
それはヴェローゾの「サンパ」という、サンパウロのことを歌った曲だった。みんなが一緒に歌い始め、隅のほうに座っていたヴェローゾも加わった。歌の途中、サンパウロ出身のラッパー、エミシダが、出遅れたというように部屋に飛び込んできた。そして「お前ら、俺のいないところで俺の街のことを歌い始めたな」とニヤっとして叫んでから、歌の輪に加わった。コーラスが終わりつつある頃、ヴェローゾは立ち上がって台所に行った。ほとんど人目につかないところで、一人で、素早く短いステップを踏みながら腰を振り、ドアに向かって踊っていた。■
ジョナサン・ブリッツァー ニューヨーカーに掲載 2022.2.7
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「カエターノ効果」 /4
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金曜日の午後遅く、イパネマの並木道になった一角に建つ、ライムストーンの小さなアパートを訪ねた。パウラ・ラヴィーンには、ブザーは壊れてるので使わないようにと指示されていた。1階の窓が開いている。「着いたら大声で呼んでね」。 ヴェローゾの息子、ゼカは3階に住んでいた。1階には二つのユニットがあり、そのうちの一つはゼカの弟のトムが妻と1歳の赤ん坊と住んでいる。もう一つに住んでいるのは分厚いメガネをかけて足がむくんでいる70代前半の太った禿頭の男だ。セザール・メンデス、略してセジーニャという。
中に入ると、セジーニャは短パンにTシャツ、黒いビニールのサンダルといういでたちで、太鼓腹に乗せたギターを弾いていた。友人たちが出たり入ったりする中、私は1時間以上そこにいた。セジーニャは弦を弾く手を一度も休めることなく、サント・アマロでヴェローゾ家の数軒隣で育った話をしてくれた。アパートは狭くて、植物やバラバラになった楽譜でいっぱいだ。壁に貼られた楽譜もある。古いシンガーミシンの台座で作った机の上にあるランプが彼の手元を照らしている。
セジーニャは、ヴェローゾ家では特権的な立場にある。カエターノの息子たちにギターを教えたのだ。ゼカは10歳ごろ、トムは15歳ごろからセジーニャと一緒に弾き始めた(「やつは天性の才能の持ち主で、早く弾けるし、怠け癖がなければもっと早く弾けるだろうね」とセジーニャはウインクしながら言った。)セジーニャは、49歳になる異母兄のモレーノがジルベルト・ジルの指導の下で多くを学んだことを認めた上で、「でも、やる気にさせたのは僕なんだ」と言っ��。サッカーのジャージを着たトムが、ギターを抱えて入ってきた。そしてラヴィーンの隣の椅子にあぐらをかいて座り、セジーニャと一緒に弾きはじめた。トムとゼカはラヴィーンの息子だ。トムの名付け親であるモレーノは、1983年に別れたカエターノとデデのあいだに生まれた。
ヴェローゾがラヴィーンと付き合い始めたのは、彼女が13歳、彼が39歳のときだった。ふたりともその事実を隠そうとしたことはない。ヴェローゾは回顧録でそのことに触れている。1998年にはラヴィーンがプレイボーイ誌のインタビューに無防備に答えている。彼女は常に、二人の関係は合意の上であったと主張しており、その後の二人の結婚によって多くのブラジル人はこの問題をプライベートなものとして受け入れ、ほぼ解決していると考えた。それでも疑念は残っており、二人の初期の求愛を――1980年代ブラジルの寛容で限度があいまいな雰囲気の中で起こったことだから、と――寛容に受け止めているファンでさえ、不穏当であったことは認識している。そしてこの4年間、ブラジルの右派の人々がこの問題を再び取り上げた。ある評論家と二人の国会議員がヴェローゾを小児性愛者と呼んだ。ヴェローゾは彼らを名誉毀損と「精神的損害」で訴えたが、部分的な勝訴に終わった。いま、この夫婦は、ブラジル右派の新たな騒動という文脈でこのテーマについて語る。
「私はまだ年寄りではないけれど、スタートが若かったのよ」。 ある夜、50代になったラヴィーンは、ふたりの家でこう語った。二人はあらゆる点で正反対に見える。彼は芸術家で、彼女は実業家だ。彼が慎重で控えめなのに対し、彼女は饒舌で力強い。彼はゆっくりと、省略しながら話すことを好み、彼女は彼の長話をからかう。(「その話、また初めからぜんぶ話すつもりなの?」) 彼は華奢で、彼女は背が高く彫像のようで、鋭い目つきと長い黒髪を持っている。「彼は余裕がありそうに見えるけど、そうじゃないのよ」と彼女は言った。「一家を切り盛りしてお金を稼いでいるのは、私よ」
2004年、ヴェローゾとラヴィーンは別れたが、彼女は引き続き彼のマネージャーを務めた。「仕事も別れるのはやりすぎだと思った」とヴェローゾは言う。「一緒に仕事を続けていくように努力したんだ。それは必ずしも簡単ではなかった。彼女はとても優秀で、いろいろなことを実現してくれる」。 ラヴィーンは、ヴェローゾの代理人であると同時に、ブラジルで最も有名なテレノベラの俳優としてのキャリアもあり、他のアーティストも担当し、超一流のプロデューサーとしての評判を高めていった。
別れは、ヴェローゾをクリエイティブ的にもプライベートでも危機に陥らせた。当時、彼はアメリカの歌を集めたアルバム『A Foreign Sound(異国の香り~アメリカン・ソングス)』を完成させようと奮闘していた。スタジオで遅々として進まないセッションを重ね、9か月かかった。彼の歌声は何度も調子をはずした。落ち込んでいた。アルバムが発売されると、ヴェローゾはプロモーションのためにツアーに出たが、同時に再出発を模索していた。
インスピレーションは、ナポリで訪れた。ペドロ・サーを含む彼のバンドは、12世紀に建てられた「Castel dell’Ovo(卵城)」の城壁を見下ろすホテルに滞在していた。ローマの詩人、ウェルギリウスをめぐる古い寓話から名付けられた城だ。モレーノと幼なじみだったサーは、このツアーでヴェローゾに新しい音楽を聴かせていた。ウィルコ、ピクシーズ、ニューオリンズのファンクバンド、ミーターズもあった。「カエターノが何かを気に入ったときにはすぐわかる」とサーは言う。「考えていることが手に取るようにわかるんだ。小声で『ああ、��れは面白い』と言うときは本気なんだ」。
ヴェローゾは、自分の音楽を徹底的に縮小することに決めた。さまざまなスタイルの演奏者をたくさん必要とした、大きく広がるアレンジをやめた。その代わりにサーがエレキギターを弾き、ヴェローゾはエレキとアコースティックを交互に弾くことにした。そして、ドラマーと、キーボードを弾くベーシストを加えた。「バンダ・セー」と名付けられたこのグループは、洗練されたガレージバンドのようだった。タイトで鋭角的なメロディをディストーションやロックのインプロ、スピードアップしたリズムで聴かせる。「サンバのパレードが乱闘になったみたいだ」と『タイムズ』紙に書いた批評家は、「トロピカリアの衝撃に対する、より冷静で成長したエピローグを示唆している」と書き添えた。しかし、トロピカリアとは異なり、バンダ・セーは批評家から大絶賛された。「当時、ブラジルでいちばんクールだったのはバンダ・セーだ」と、音楽ジャーナリストのレオナルド・リショーテは話す。「彼らはアンタッチャブルな存在だった。カエターノはジーンズのジャケットに紫のTシャツを着ていた。若い世代が彼を聴くようになり、彼の音楽すべてにのめり込んでいった」。 ヴェローゾは64歳だった。
ヴェローゾは2006年から2015年にかけて、バンダ・セーで3枚のスタジオ・アルバムを発表した。「彼には壊れたエネルギーのようなものがあった」とサーは言う。3部作の最初のアルバムのために、ヴェローゾはサーにラブソングと称する作曲を持ち込んだ。それは「Odeio」(私は嫌いだ)というタイトルで、そのコーラスはこんなふうだった。「僕は君が嫌いだ/僕は君が嫌いだ/僕は君が嫌いだ/僕は嫌いだ」。サーは何と言ったらいいのかわからなかった。しかし、ヴェローゾは「『僕は嫌いだ』と言うのは、この人間をほんとうは愛しているからだ」と言った。コーラスを無視すれば、あるいはポルトガル語がわからなければ、この曲は明るくメロディアスに聴こえると批評家たちは指摘した。これは、アルバムに収録されたラヴィーンを歌った3曲のうちの1曲だ。もうひとつは「Não Me Arrependo」(後悔はしない)という曲だ。その中で彼はこう歌っている。「この新しい人間を見てごらん/僕らの中で/僕らから形成されたんだ/何も、たとえ僕らが死んでも/いま僕の声に出るものを否定することはできない」
ゼカとトムはリリース前にラヴィーンに楽曲を聴かせるようにカエターノを説得した。二人が共に仕事でロンドンに滞在しているときに、カエターノはラヴィーンに曲を聴かせた。その夜、セジーニャの家を出てラヴィーンの車に乗り込むと、彼女は「『Odeio』は、カエターノが私について書いた曲の中でいちばん好きよ」と言った。
二人の別居は11年続いた。復縁の直前、再び家族のジレンマがあった。ヴェローゾは、モレーノ、ゼカ、トムと一緒に大きな海外ツアーをすることを長いあいだ夢みていた。モレーノの誕生は、「大人になってからの人生で最も重要な出来事だった」とヴェローゾは語っている。長男は幼少期をバイーアで過ごし、ジルベルト・ジル、ガル・コスタ、ミルトン・ナシメントといったアーティストに囲まれていた。2歳のとき、ヴェローゾはモレーノを膝に乗せて複雑なサンバのショーロを教えた。8歳のとき、モレーノは「Ilê Ayê」〔*いのちの家。地球〕という曲の歌詞を書いて歌い、そのバージョンが国際的にヒットした。その後、自作のアルバムを何枚か作った。ゼカとトムにも家族の才能が流れていたが、音楽を仕事にするまでには説得が必要だった。2017年、4人はツアーに持って行く「Ofertório」〔*捧げ物〕と名付けたコンサート用の曲目リストを作り始めた。ヴェローゾはそれを、家族を祝うものであり、彼の人生に登場する女性たちへのオマージュであると考えた。しかし、それは父親としての臆面もない策略でもあった。「息子たちの近くにいるための方法だよ」と彼は語った。しかし、ラヴィーンには懸念があった。もし観客の反応が悪ければ、ゼカとトムの心に傷をつけることになるのではないか。ゼカは25歳、トムは20歳だった。セットリストにヒット曲が少ないのが気になった。母親が心配するのは当然だが、プロデューサーも同じだった。
ゼカは、両親を共に満足させる外交的解決策を見出した。コンサートは不朽のヒット曲である「アレグリア、アレグリア」で幕を開け、それを家族で演奏するということになったのだ。このツアーは、まったく予想外の形で成功した。ゼカは自作の曲を演奏し、それが非常に高く評価されて、事実上そこからソロ活動が始まった。トムは飄々とした魅力で、ちょっとした人気者になった。昨年トムと父親のカエターノは、トムとセジーニャが共作した曲のレコーディングでラテン・グラミーを受賞した。
(つづく)
ジョナサン・ブリッツァー ニューヨーカーに掲載 2022.2.7
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「カエターノ効果」 /3
*
ヴェローゾには頻繁に、予期せぬインスピレーションが訪れる。彼はほとんどの場合、自身が「歌われた言葉」と呼ぶ音が聞こえてくることから作曲を始める。それはフレーズであったり、ひとつのアイデアだったり、引用だったりする。その言葉がメロディの断片と結びつくと、何かをつかんだと感じる。そういうときはメロディが展開するのを追いかけ、それを自分自身で口ずさみながら歌詞の残りが具体化するのを待つ。ようやくギターを手にするときには、たいてい「もう歌のちょっとした部分を歌っているから、それに合うコードはわかっているんだ」と言う。
そんなひらめきが育って生まれ落ちるまでには何年もかかることもある。最新作の歌詞の一つ(そしてタイトル曲となった知的なひらめき)は、70年代にジルベルトと交わした会話から生まれたものだ。1978年に発表された 『Terra (テーハ)』〔*地球〕の例もある。歌詞は宇宙飛行士が撮影した地球の映像を題材にしていて、こんなふうに始まる。「気がついたら/投獄されていて/刑務所の独房で/初めて/あの有名な写真を見た/彼女の全体が写っている/でも彼女は裸じゃない/だって彼女は/雲を纏ってる」ヴェローゾが刑務所に入って2か月目に、デデが『マンシェーテ』という大判の雑誌を持ってきてくれた。「僕は小さな独房の中にいて、そして地球が初めて撮影されていた」。 その記憶が明確なアイデアとなるのは、10年が経ってからだった。きっかけは『スターウォーズ』を観に行ったこと。彼を捉えたのは、遥か彼方の銀河系で繰り広げられる人間ドラマという設定だった。その時、自分が地球上から一時期姿を消していた時の感覚を思い出したのだという。「地球から遠く離れた人間(human being)がいるということを考えるようになった。地球から遠く��れて人が存在している(human being)。それが曲全体を位置づけた」
「歌われた言葉」は、初めて聞こえてくるときには完全にできあがっていることもある。ヴェローゾのアルバムの中でも特に興味深い『Noites do Norte(ノイチス・ド・ノルチ)』(「北の夜」)は、19世紀のブラジル人奴隷解放運動家、ジョアキン・ナブーコが書いた文章から名づけられた。ヴェローゾはナブーコの言葉を音楽にして、それからそれを取り囲むように自作を加えた。ブラジルで奴隷制度が廃止されたのは1888年だが、それまでバイーア州は奴隷貿易の中心地だった。サンバがそこで生まれたのには理由があり、ヴェローゾはキャリアを通じてその事実に執拗なまでに立ち戻ってきた。『Noites do Norte』で繰り返し聞こえてくるのは、ティンバレス、ラトル、バスドラム、アタバキ、コンガ、ナイフと皿など、ブラジル北東部のアフリカン・パーカッションの音だ。
ヴェローゾは楽譜の読み書きを習ったことがない。自分で編曲する曲もあるが、人の手を借りることも多い。チェリストであり作曲家、編曲家のジャック・モーレンバウムは語る。「カエターノはギターで曲を弾いて見せて、3つか4つのフレーズを歌ってくれるんだ。僕はメモを取って、家に戻る」。 彼とヴェローゾは80年代後半に出会い、これまでに14枚のアルバムを一緒に作っている。「これほどたくさんの歌詞とメロディーが頭に入っている人間がいるなんて、信じられない。僕は彼の道具にすぎないんだ」。 ヴェローゾがモーレンバウムと取り組むとき、彼はアレンジの「ヒント」を与える。例えば、オーストリアの作曲家アントン・ヴェーベルンの「話法とアクセント」を使うこととか、「低いメロディーを歌うチェロ」を入れて欲しい、などだ。1999年にグラミー賞を受賞したアルバム『Livro(リーヴロ)』は、マイルス・デイヴィスとギル・エヴァンスの『Quiet Nights(クワイエット・ナイツ)』に直接応えた作品だ。ヴェローゾは、バイーアのストリート・パーカッションが、エヴァンスのビッグバンドのサウンドをさらに精緻に表現できると思い描いた。「彼は画家が白紙のページを開くように僕のところにやってくるんだ」とモーレンバウムは言う。「そして色や詩やイメージについて話すんだ」
私がリオでヴェローゾと過ごした1週間、彼はマリリア・メンドンサというブラジルのカントリー歌手、カリオカのラッパーやヒップホップDJのグループ、そしてブルーノ・マーズとアンダーソン・パークのR&Bデュオであるシルクソニックを聴いていた。夜遅く、だいたい朝の3時か4時ごろになると、MTVを模した「マルチショー」というチャンネルでミュージックビデオを見ていた。「彼は、とんでもなく幅広いものを参考にしている」と、ブラジルのペルナンブーコ州で育ち、ヴェローゾと40年近い付き合いのあるアメリカのミュージシャン、アート・リンゼイは教えてくれた。リンゼイはヴェローゾの曲を英語に翻訳し、また彼のアルバム2枚をプロデュースしている。その1枚、1989年の『Estrangeiro(エストランジェイロ)』では電子音と鋭いメロディが気まぐれに混ざり合う。レシフェ出身のビリンバウ奏者ナナ・ヴァスコンセロスとアメリカのギタリスト、ビル・フリゼールが参加している。ヴェローゾとリンゼイは、イーストビレッジ、ウェブスター・ホールのネヴィル・ブラザーズ、リオのマラカナン・スタジアムのプリンスなど、ニューヨークとブラジルのあちこちでコンサートに通っている。
12月のある夜、ヴェローゾの家で、彼とリンゼイは好きだったライブの思い出話に花を咲かせていた。ヴェローゾは1991年にリオのクラブで開かれたプリンスに敬意を表してのパーティでプリンスに会ったときのことを話してくれた。プリンスはボディガードを引き連れてやってきて、軽蔑したような顔で離れて立っていた。ヴェローゾは立ち上がり、プリンスを踊りに誘おうとクラブのフロアーを横切っていった短いドレスとハイヒールの若い女性の物まねをした。「恐れを知らない女だった」と、ヴェローゾはいかめしい感じで言った。そしてそこにプリンスが居るつもりになって周りをくるくる回り、顔の前で拳を合わせて肘を突き出し、腰を振って低い姿勢になり、急にまた立ち上がる。「女は一人で頑張っていた」とヴェローゾは言い、それからからだを硬くした。今度はプリンスになり変わっている。石のように冷たく、まっすぐに立って、揺るがない。ヴェローゾは口を尖らせた。「こんな顔、bicha máの顔だった」大まかに訳せば「ビッチな女王様」だ。
ステージは「カエターノがカエターノになる場所」だと、ギタリストのペドロ・サーは語る。スタジオは「マイクのある冷たい、何もないところだ。何もないところから、すべての感情と魂の動きを生み出さなければならないんだ」とヴェローゾは言う。彼は観客の前では、もっと自由に自分自身と会話できるようだ。条件が整えば、外向的にもなる。サントアマロ流のサンバを踊る。リラックスしていながら、マナーも守っている。共演しているミュージシャンが彼の周りを囲み、そして彼の長いソロのために引き上げる。ヴェローゾは一人でギターを持って立つ。ジョアン・ジルベルトのスタイルだ。
どのコンサートも、ヴェローゾが演出する一本の映画のように感じるのだ、とサーは言っていた。個々のアルバムのコンセプトが、ヴェローゾが演奏することによってより鮮明に、生き生きとしたものになることが多い。ノンサッチ・レコードの社長として32年間ヴェローゾのアルバムをリリースしてきたボブ・ハーウィッツは語る。「それぞれのアルバムには、発売されるときに必ずナラティブ、物語がある。アメリカのポピュラー音楽との関係についてのアルバムがあり、ブラジル北東部のパーカッションのアイデンティティについてのアルバム、フェリーニの映画についてのアルバムがある。アルバムはコンサートになる。アルバムをリリースして、コンサートをする。そして、そのコンサートのアルバムをリリースする。ある意味、それぞれが小さな映画なんだ」
90年代半ば、ヴェローゾはラテンアメリカの名曲をスペイン語で歌ったアルバムのプロモーションのためにツアーをしていたが、50年代のメキシコ民謡で、鳩の鳴き声を模した「Cucurrucucú Paloma(ククルクク・パロマ)」を曲目に加えた。スペインの映画監督ペドロ・アルモドバルはこのコンサートの録音を聴き、この曲とヴェローゾのとりこになってしまった。それ以来、アルモドバルはヴェローゾを「自分にとって兄だ」と言っている。何年もこの曲を映画で使おうとしていた彼は、2002年の『トーク・トゥ・ハー』でついにヴェローゾを招いて演奏してもらった。アルゼンチン出身の俳優ダリオ・グランディネッティが演じるメランコリックな男性主人公は、ヴェローゾが歌うのを涙ながらに見つめる。「あのカエターノというやつを聴くと、全身鳥肌が立つ」と、慰めに来た恋人に言う。場面はスペイン風のヴィラで開かれた小さなコンサート。プールサイドのパティオに数十人が集まり、ヴェローゾはマイクを前にして椅子に座り、神秘主義者か預言者であるかのようにじっと遠くを見詰めている。「この男[グランディネッティのことだ]が泣いていることを確実に理解してもらうために、涙を生み出すもの、観客をも泣かせるものが必要だった」とアルモドバルは語っている。「『トーク・トゥ・ハー』を書きながら「Cucurrucucú Paloma」を聴いて泣いたことを思い出したんだ」
(つづく)
ジョナサン・ブリッツァー ニューヨーカーに掲載 2022.2.7
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「カエターノ効果」 /2
サルバドールでは他にも、それほど詩的ではなくとも大きな意味がある出会いがあった。ある日の午後、チリ通りを歩いていたヴェローゾは、彼の芸術人生の中で最も重要な協力者に偶然出会う。ジルベルト・ジル。鋭いアーチ型の眉毛で、革命家のような雰囲気を漂わせる陽気な黒人音楽家だ。ジルベルトは、ヴェローゾがこれまで見たこともないようなギターを弾き、あらゆることに興味を抱く天才だった。同い年の2人は、ビートルズ、ジミ・ヘンドリックス、ブルースへの憧れで結ばれていた。「ジルの手の位置を真似て、ギターの弾き方を覚えたんだ」とヴェローゾは言う。
まずはサルバドール、そしてリオ、サンパウロと、ライブのあるところならどこででも、バイーア出身組はひとつのユニットだった。ヴェローゾ、ジル、ベターニア、コスタ、そしてヴェローゾのガールフレンドで後に最初の妻となるデデ・ガデーリャという短髪の女の子だ。(ジルはデデの姉のサンドラと結婚した。)初めに成功を収めたのはベターニアだった。リオのミュージカル『オピニオン』で演奏する招待を受けたのだ。ヴェローゾは、付き添い人兼作曲家でマネージャー兼歌手志望という曖昧な立場で彼女に同行した。
1964年、アメリカ政府の密かな支援のもと、ブラジル軍部がクーデターを起こし、左派のジョアン・グラール大統領から政権を奪って掌握した。しかし、ヴェローゾとその仲間たちにとっての真の国家的な試練は、ブラジル大衆音楽の将来をめぐる闘争が始まったことだった。ボサノヴァの芸術的・商業的成功によって、音楽の進む方向をめぐる文化的な戦いの場が開かれたのだ。MPB (Música Popular Brasileira、ムジカ・ポプラール・ブラジレイラ)と呼ばれた運動は、この国の音楽のスタイルのパラメータをめぐる議論として形作られた。右翼独裁政権が権力を強化する中、ブラジルのミュージシャンたちは、エレキギターという帝国主義に反対するストリート・プロテストを展開していた。1967年7月のある夜、400人ほどの人々がサンパウロのダウンタウンを 「frente única da música popular brasiliera」〔*ブラジル大衆音楽統一戦線〕と書かれた大きな白い旗を掲げて行進した。ヴェローゾは派閥争いから逃れ、行進をホテルの部屋の窓からうんざりしながら眺めていた。部屋には、「ボサノヴァのミューズ」と呼ばれた歌手のナラ・レオンが座っていた。群衆が 「エレキギターを追放せよ」と叫ぶと、彼女はヴェローゾに向かって「まるでファシストの行進みたい」と言った。
この年、ヴェローゾはガル・コスタと共に初のレコード���発表した。それはいまだボサノヴァに心酔したままの人間の作品だった。曲はエレガントで控えめで、滑らかな声色で歌われている。しかし、このアルバムの裏ジャケットにヴェローゾは、「現在のインスピレーションは、これまで私がたどってきた道とはまったく違う方向に向かっている」と書いている。アルバムの1曲目、「Coração Vagabundo」(コラサォン・ヴァガブンド、さすらいの心)には、かすかな落ち着きのなさが感じ取れる。「私のさすらいの心は、世界を抱きたがっている 」と、頑ななコードで歌っている。世界に飛び出したことで、彼の心は「さよならも言わずに夢から抜け出した 微笑む女の影」になってしまった。「この曲はカエターノの原点だ」と、リオでジルベルト・ジルが教えてくれた。「天才というのは、人生のごく早い時期に現れることもあれば、遅い時期に現れることもある。彼の場合、21歳だったんだ」
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1967年10月のある夜、ヴェローゾはサンパウロのステージにいた。大騒ぎする大観衆の前に、マスタード色のタートルネックの上に数サイズ大きいチェックのブレザーを着て登場。身を守る盾になるギターは持たず、緊張の面持ちで満面の笑みを浮かべている。毎年、ブラジルの歌のナンバー1が競われるテレビ番組だ。ミュージシャンたちはヴァースの合間に観客に最後まで聴いてくれるように懇願するが、途中で怒鳴られて中断させられたり、卵を投げつけられたりするのが恒例になっていた。ステージ横に座っている審査員たちはヘッドホンをして、音楽が聴こえるように音量を上げている。番組には当時の主要ミュージシャンが勢ぞろいしていた。「ジョヴェン・グアルダ」と呼ばれたロック派のロベルト・カルロス、伝統派と革新派の両方に支持されていた颯爽としたシンガーソングライター、チコ・バルケ、初期のボサノバを体現したエドゥ・ロボらがいた。ヴェローゾは、ジルとともに「トロピカリア」(熱帯主義)と呼ばれるムーブメントを起こし、その使者として参加していた。ブラジルの民族音楽のフォルムとブリティッシュ・ロックを融合させた、折衷的で破天荒な音楽だ。ヴェローゾは、「僕らは、悪趣味といわれるボサノバ以前のものと、暴力的といわれるボサノバ以後の帝国主義的なロックの両方にインスピレーションを得る自由を実現したかったんだ」と語っている。彼らと一緒にステージに立ったのは、ビート・ボーイズと呼ばれたアルゼンチン出身の5人で、マッシュルームカットにエレキギターという出立ちだった。
ヴェローゾは「アレグリア、アレグリア」を歌い始めた。「風に逆らって歩き」、「爆弾とブリジット・バルドー」の世界に飛び込む若い探求者を描いた陽気なアンセムだ。ステージにブーイングが響く。ヴェローゾは両手の置き場に困っている様子で、わずかに体を揺らした。しかし、笑顔は絶やさない。そして、徐々に両手を広げて観客に語りかけると、野次がおさまり喝采に変わった。
「トロピカリア」への反応は、必ずしもそういう熱狂的なものばかりではなかった。運動には詩人や映画監督、映像作家も参加し、挑発的なコンサート、パフォーマンス、展覧会などを行った。どれもみなブラジル人を刺激し、より広い世界からの影響に触れさせようとするものだった。ヴェローゾは、学生や頑なな左翼活動家たちから激しい反発を受けた。彼は髪を伸ばし、クロップトップにぴったりしたパンツを穿き、両性具有的な容姿を強調した。彼と妹のベターニアは瓜二つだった。あるイベントでは、緑と黒のビニール製のジャンプスーツに身を包み、胸には電線でできたネックレスをつけて登場。エロティックなダンスを踊りながら、ポルトガルの作家フェルナンド・ペソアの神秘的な詩を朗読した。そして観客のブーイングが大きくなるほど、激しくからだをくねらせた。彼と頻繁に共演していたロックバンド「オス・ムタンテス」は横で演奏しながら観客に背を向けた。ジルはステージに飛び乗ってヴェローゾの隣に立ち、連帯感を示した。ヴェローゾは詩の朗読をやめて叫んだ。「権力を握りたいという若い奴らとは、おまえらのことか! こんなふうに音楽を扱うのと同じように政治も扱うなら、俺たちはおしまいだ 」
1968年12月13日、軍は議会を封鎖し、政権が公的秩序に反すると判断した者を拘束し拷問する権限を与える「軍制令第5号」を発表した。当時26歳だったヴェローゾは、左翼の論客を意識して「É Proibido Proibir」(「禁止することは禁止だ」)などの曲を作っていた。彼は自分が1966年からつくられていた分厚い政府ファイルの対象になっていることを知らなかった。そこには抗議行動や文化イベントに参加したことなど、彼の罪とされるものが列記されていた。附属書類には、彼の歌の歌詞が書き写されていた。
その2週間後、夜明け前に、連邦警察の一団がサンパウロで彼が借りていたアパートにやって来た。それから、ジルのところへ。2人は警察の車で6時間かけてリオに連れていかれ、そこで軍に引き渡され、兵舎に監禁された。軍事独裁の最も暴力的な局面が始まったばかりだった。何百人ものブラジル人左翼が殺され、さらに何千人もが拷問を受け、隔離されることになる。デデはヴェローゾとジルの居場所を知っていたが、それは自分の車でリオまでずっとパトカーを追って行ったからだった。
数週間後、ヴェローゾは、独房にいる自分を涙をこらえながら見つめる若い看守に気づいた。目を合わせると、兵士は申し訳なさそうに首を横に振った。そこに軍曹と2人の男が現れ、ヴェローゾに服を着るように命じた。4人が外に出ると、兵士は銃を抜いた。軍曹は、後ろを振り返らずに前を歩くようにと言った。軍施設の周りの石畳の道に人影はない。永遠に思えた数秒の後、また命令があった。「止まれ!」 ヴェローゾは立ち止まり、銃声が聞こえてくるのを待った。しかし軍曹は閉じた扉の中に入るように彼に指示した。中に入ると、床屋が大きな鋏を持って待っていた。ヴェローゾが髪を切るのは2年ぶりだった。
ヴェローゾは、迫害を受けたことで、自分ではっきりと望んでいたわけではないキャリアを本格的に歩むことになった。映画を作るのが夢だった。しかし、投獄された後、「人生を変えたいなんて、とても言い出せなくなった」と彼は言う。「僕は受け身だった。音楽に導かれたんだ」。 ヴェローゾとジルは釈放されたが、その後、国外退去を命じられた。有名であったために少しの特権が与えられ、ふたりは1969年、サルバドールのカストロ・アルベス劇場でコンサートを開き、亡命資金を調達する機会を得た。そしてそこから空港まで警官に見送られた。ポルトガルではヨーロッパで最も長い独裁政権が続き、スペインではフランコがまだ支配を続け、フランスは1968年の騒乱がくすぶったままだった。ヴェローゾとジルは、ロンドンに落ち着いた。そしてチェルシーにあるマネージャーが探してくれた3階建ての家に住むことになった。
英国での日々、ヴェローゾはデデと一緒に暮らしたが、うつ病とホームシックに悩まされた。英語は覚えたがたどたどしく、ブラジル人ばかりと付き合い、さらに疎外感を強めた。「ロンドンでの日々は僕にとって、最も脆弱な時期だったと言える」と回想録『トロピカル・トゥルース』に書いている。「一度もイギリスの芝居を観に行かなかったし、クラシック音楽のコンサートにも一度も行かず、図書館や本屋にも一度も入らなかった」。ヴェローゾと旧トロピカリストたちは、ブラジルの共産主義左派を、悪化する軍事弾圧に対抗する味方と見ていた。マリゲーラという有名なゲリラの闘士が政府軍に殺されたとき、ヴェローゾは嫉妬に近い感情を抱いた。「俺たちは死んでいる」と彼は新聞の投稿記事に書いた。「彼は我々よりも生きている」
1971年初め、ヴェローゾは両親の40回目の結婚記念日に出席するためバイーアに戻った。ベターニアは、事前に軍内部の人間と接触して手配をしていた。しかし、リオの空港でヴェローゾは私服警官に拘束され、車でどこかのアパートに連れていかれて新たな脅迫を受けた。彼は動揺した状態でロンドンに戻り、もう二度と故郷には帰れないと確信した。国外追放状態がずっと続くと思われたため、ヴェローゾはこの縁のある都市を楽しもうと決めた。「まず、芝生が好きになった」と彼は言う。「それから、ベンチや、霊柩車みたいなタクシーも」。 イギリスのレコード会社のプロデューサーが彼のギターをとても気に入ってくれたことも大きかった。ブラジルではあまりに多くの名手に囲まれ、人目を気にしていた。ロンドンでは、「恥ずかしいという感覚がなくなった」のだと彼は言う。
その年の暮れ、新しいアルバム『Transa(トランザ)』のレコーディングの最中に、携帯電話が鳴った。サンパウロのスタジオからジョアン・ジルベルトがかけてきたのだ。「カエターノ、ここに来て俺とガルと一緒に歌わないか」。ジルベルトとガル・コスタはテレビの特番を収録中だった。ヴェローゾは、それは無理だと言った。ジルベルトは、「心配するな、みんな君に微笑んでくれるよ。空港で誰かに止められたりしないよ 」と言った。ジルベルトは多くの点で称賛される人間だったが、政治的、現実的な洞察力は必ずしも秀でてはいなかった。どうして安全だとわかったのだろう。「神の啓示だ 」とジルベルトは言った。
「僕は反宗教的だった 」とヴェローゾは語る。「ジョアン・ジルベルトが僕の宗教だった。彼が僕に言うことはすべて神聖なことだったんだ」。 ヴェローゾとデデはパリに飛び、政治に通じた友人と相談し、危険性を判断することにした。そして彼は危険を冒すことを選んだ。予言が的中したようなものだった。機内では、客室乗務員がにこやかに迎えてくれた。空港で待っている警官もいなかったし、駐車場で覆面警備隊の黒いフォルクスワーゲンがアイドリングしていることもなかった。「デデに言ったんだ、『ジョアン・ジルベルトでもそんな魔力はないだろう』ってね。でも、彼にはあったんだ」
(つづく)
ジョナサン・ブリッツァー ニューヨーカーに掲載 2022.2.7
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