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natsumemiura · 22 days
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宿泊当日。今回は雲見・石部・岩地の3浦を歩く三浦歩道(みうらではない、さんぽと読む)をベースにプラスアルファ距離を伸ばして2daysコースとした。
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その1日目の終着地が、岩地温泉の皆徳丸である。予定よりも早く着いたので、岩地海水浴場でしばし遠浅の砂浜を楽しむ。疲れた足に海水が気持ちいい。東洋のコートダジュールと称される岩地、海開き以降のシーズンは賑わうのだろう。今の時期は人もほとんどおらず、とても静かだ。海岸から徒歩3分ほどの民宿密集地に、皆徳丸はある。
予定通り、15時過ぎにチェックイン。ぱりっとお化粧をしたはつらつ女将が迎えてくれる。
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natsumemiura · 22 days
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帰り際に、女将がよかったらこれを、と食事の際に使った箸を持たせてくれた。いわゆる高級割り箸みたいなやつなんだが、普通はそのまま捨てるものを、洗って宿泊者に渡しているらしい。たしかに使い捨てるにはあまりにも勿体無いとてもいい竹箸である。先が普通の箸より細く尖っていて、料理にも使いやすいとのこと。これも考えようだと思うが、私は素直に嬉しく、使えるものは永く使うことの大切さを噛み締めた。女将のそんな心意気が、私は好きだと思った。
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料理を運ぶ際によろめいたり、帰り際にお一人でやられてるんですか、と聞いた時に冗談めかしく、後期高齢者なものですから、と苦笑していた姿が忘れられない。たぶん決まり文句なんだろう。
美しく、はつらつとしているのに、いつかここもまた終わりが来ることを思うと本当に悲しくて悲しくてとてもやりきれない。後継者はいるのだろうか、聞きそびれてしまった。女将の心意気が廃れてしまうこと、あの素晴らしい幾つもの手料理が食べられなくなってしまうのはあまりにも勿体無い。
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私は口下手なので正面切って褒めたりは得意ではないのだけれども、精一杯の気持ちを女将に伝えてきた。とても美味しかった、感動したと。絶対にまた来ると。だから負けずに、女将は女将のままでいつまでも元気でいて欲しい。何も改良なんてしなくていい。酷評のレビューなんて気にしなくていい(そもそも見ていないかもしれないが)。
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きっと私と同じように、女将の流儀に心を打たれた者たちがいることだろう。当たり前のことが、当たり前ではないことのありがたさに、気付かせてくれる素敵な宿だ。ここを愛する者たちで、守っていければと思う。でもそれが難しいんだって、形あるものいつかは廃れゆくことに、気付いていないわけではない。
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natsumemiura · 22 days
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布団を敷くのももちろんセルフだけれども、帰り際にもきちんと畳んで、シーツや浴衣は洗いやすいようにまとめておいた。客なんだからそこまでしなくていいと思うだろうけれども、それだって誰かがやることなのだ。布団を敷くなんて別に当たり前のことなのに、ホテルでは当たり前にやってもらえるから、みなそんなことは気にしない。それがいわゆる「おもてなし」だからだ。
ここでは、女将がほとんど1人でそれをやっている。それを考えると、ゴミ一つとったって、分別大変だろうしペットボトルは持ち帰ろうとか、トイレ掃除大変だろうからなるべく一箇所だけ使おうとか、洗面所の使い捨て紙コップは使い回そうとか、色々気にしてしまう。
ちなみにアメニティとしてあるのは浴衣、フェイスタオル、魔法瓶に入ったお湯と、お茶葉、湯呑みのみである。ドライヤーは申し出れば貸してくれるらしいが今回は持参した(他の宿泊者もいるし部屋でゆっくり使いたかったので)。綿棒みたいな細々したものや、歯ブラシ、バスタオルは備え付けがない。
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なるほど、使い捨てるものが最小限なんだな。ホテルによくある使い捨ての歯ブラシっていつも勿体無いよな、と思っていたから私としてはこのラインナップには大賛成だ。歯ブラシくらい持参すればいい。
もっとこれくらい潔い宿泊施設が増えればいいのにと思うが、経営する側からしたらクレームを受けたり、次第に宿泊者が遠のいたりするのだろう。悲しくてやりきれない。みな便利な世の中に慣れ過ぎなのだ。言えばなんでもすぐに出てきて、使い捨てるのが当たり前で、なくなれば補充されるのが当たり前で、いかに気の利いたサービスが出来るかで価値が決まるような世の中なんて、クソ喰らえだ。
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女将が悲しげに言っていた、ここ最近はずっと空いていますという言葉が忘れられない。ネットの口コミだけで、ここが評価されてほしくない。サービスが残念だなんてとんでもない。むしろ私は女将のこだわりに感服である。
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natsumemiura · 22 days
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朝5時、鳥の鳴き声で目を覚ます。酔いは全く残っていない(いつも酔い潰れても二日目には残らない)。友人もまだ寝ている中、早速朝風呂に浸かりに行く。
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お風呂場も空いていたので、ゆっくり浸かる。静かな西伊豆の朝、鳥たちだけが元気に囀っている。とても爽やかだ。清々しく、最高の気持ち。朝の1人の時間が何より好きだ。
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屋上で朝日の昇るのを眺めたり、雀を観察したりしながら朝ごはんを待つ。ちなみに部屋で飲んだお茶セットはお盆ごと翌朝朝食場所に持っていくことになっている。1人で切り盛りしている女将のことを思うと、客のセルフサービスは当然のことのように思える。
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8:00に1階に降りていくと、既に朝食の準備がされている。目にも美しい、素晴らしい朝食である。すりおろし野菜と濃いトマトの味が絶品の野菜ジュース、鰯の味醂干し、サラダ、しらすと大根おろし、海老出汁の味噌汁、春菊の胡麻和え、昆布煮、ポーチドエッグ、お新香、らっきょの醤油漬け、炊き立てのご飯。どれもこれも美味しい。お味噌汁の海老は昨夜の甘海老の頭のようだ。昨夜の荒汁同様、余すところなく食材を活かしているのが、本当に素晴らしい。
昨日おひつのご飯を完食したせいか、今朝のお米は量が増えていたがもちろん完食。ついでに友人の食べ残しも食べ切り、女将の心意気に応える。野菜ジュースもあと2リットルくらい飲みたかった。
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チェックアウトの10時までテラスに寝そべって空を眺めていた。時間はあっという間に過ぎていく。
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natsumemiura · 22 days
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掘り炬燵の間に行くと、早速前菜が用意されている。肉厚の椎茸やアスパラにセロリの香りが爽やかな和物と、シンプルな卵豆腐、それから大ぶりなサザエの香草バター焼き。どれも素材の一つ一つが活きており、前菜だけで感動がやまない。素材の持ち味を最大限に引き出す調理がなされている印象である。
それに合わせるのは、ビール、は違う。やはり日本酒か。冷酒と燗酒で迷っていると、冷が美味しいとのことなので、そちらをチョイス。そのほかのラインナップとしては主にワイン。赤はなく白のみが3種類取り揃えてありこだわりを感じる。ただしグラスでは頼めず、ボトルのみだ。グラスではどうしても余してしまい、女将が全部1人で飲まなければならなくなるからだ(と冗談を言っていた)。ちなみに温かいお茶はあるが冷水は貰えず、天然水として販売しているものを頼むしかない。我々のオーダーした冷酒(静岡開運純米吟醸)、こちらがまたフルーティな甘さが爽やかで非常に美味しく、料理に合う。マリアージ���が考えられているのを感じる。目が潤むほど染み渡った。
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次にお刺身、この日はアオリイカ、ヒラメ、甘海老の三種盛り。どれも肉厚で新鮮でとても美味しい。添えられた山葵もすりおろしたてで香りが良く、素晴らしい。のちにこのヒラメの荒汁が出てくる。余すところなく食材を活かしており、素晴らしい。単に捨ててしまうところを全て使っているだけではなく、雑味なく洗練されている。荒汁は料理人の腕が試される。
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そして名物、海老のアメリケーヌソース。丁寧に仕込まれているのが良くわかる、旨みの詰まった上品なソースだ。弾力のあるぷりぷりの海老も美味しい。焼きたてのトーストが一緒に出てくるので、ソースを余すことなく楽しめる。皿を舐めたい気持ちを必死に抑えた。
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それからメインの鯛の塩焼き。大きな真鯛が丸ごと一尾出てくる。塩加減焼き加減が絶妙で、ふわふわの肉厚な身は柔らかく口の中でほどける。添えられたレモンを絞っていただくのも乙。なるほどこれは1人では贅沢すぎる。この大きさの鯛だからこそ、この感動があるんだな。お残しは許さない、そしてとっておきを食べてもらいたいという女将の思いを一身に受けながら、2人でペロリとたいらげる。
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このタイミングで炊き立てのご飯も出てくるが、お米もとても美味しい。銘柄を聞きそびれてしまったが、おそらく5分〜7分づきぐらいで胚芽が残っている。米どころ秋田県人の我々はその細かいこだわりにも気がつき、感動。米だけでも無限に食べられるが、丁寧に漬けられた5種のお新香で箸が止まらない。おひつにもお茶碗にも米粒ひとつ残さずに完食する。
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最後に、デザートとして完熟のネーブルが三切れ。今の時期限定らしく、みずみずしくとても甘くて美味しい。いつまでもあの爽やかさを思い出してしまう。
一つとして残念なものはない、完璧なコースであった。宿泊代全てがこの料理に詰まっているといっても過言ではない、むしろ安すぎるくらいだと、私は思った。こんなに思いのこもった美味しい料理はなかなか食べられない。久しぶりにご飯を食べて感動した。美味しくて涙が出るって、そうそうあることじゃない。これが女将にしかなし得ないものだと思うと、少しの寂しさがよぎる。
ちなみに私はこのあとめちゃくちゃ酔いが回ってしまい20時には即爆睡してしまったので夜の記憶はあまりない(友人にはすまなく思っている)。夕食時間も17:30からのみでそれ以外の時間は指定できず、消灯も早い。早寝早起き老人の私には何の不便もないが、多くの人間にとってはすこし早すぎる時間の流れだろう。
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natsumemiura · 22 days
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建物は古いが、古民家の風合いがいい雰囲気を醸し出している。1階部分は食事場所、お風呂、男女別のトイレで、2階より上が客室といった造りだ。2階には洗面所と男女共用のトイレがある。客室はたくさんあったが、今は一日3組ほどしか受けていないらしい。
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外からも見える廊下の古いガラス戸、障子の型番ガラス、板張りの床、照明を落としたこじんまりとした図書室…そしてなんと言っても食事場所の掘り炬燵の間は、民宿のイメージを覆すなんともおしゃれな空間だ。アプローチの至る所に飾ってある壁掛けの一輪挿しや、置物にもセンスを感じる。これらだけでも十分、ここにして良かったと思えるくらいである。
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トイレやお風呂の場所の案内をしてもらって、早速お部屋へ。今回は3階の角部屋、欅の間。一番見晴らしの良いお部屋だった。窓を開けると海が見える。岩地に立ち並ぶ民宿の鮮やかなオレンジ色の屋根が、青い海によく映える。各階から外に出られる扉があり、外階段で繋がっている。2階には水着を干せる広々としたテラスがあり、ここがまた日光浴に最適であった。部屋にいるより、ここで海を眺めながら過ごすのがベターだ。
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荷物を整理した後、早速お風呂に浸かりに行く。この日我々の他は1組だけだったので(まだ到着していないようだった)、すんなり入れた。お風呂は基本的に空いていれば鍵をかけて貸切で使えるようになっている。お風呂の空間も檜作りの落ち着いた照明で、窓を開ければほとんど露天風呂である。ボディソープとシャンプーは備え付けがある。泉質は塩分濃度の濃い熱めの温泉で、体がよく温まる。石造りの湯舟から溢れ出るほどの豊富な湯量もまたいい。適度に出たり入ったりしてゆったり過ごせた。湯上がりにはすぐそばの中庭に出られるので、ここでもゆっくり涼むことができる。
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テラスや部屋でまったりしつつ、17:30。さて、お待ちかねの夕食である。
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natsumemiura · 22 days
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皆徳丸で女将の流儀に泣いた話
西伊豆の知る人ぞ知る民宿、皆徳丸。日本三大民宿の一つであるらしい。有識者の友人にとにかく飯が美味いと教えてもらい、早速調べた。ホームページは観光協会の紹介ページのみ、ブログも数年前のものしかなく情報収集はなかなか難しかった。
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宿に迷惑をかけたくないので、いつも注意事項やアメニティの有無はなるべく細かく調べるようにしている。最近の記事はないので何年か前のブログやレビューを読むと、まぁひどい。飯は美味いがサービスが良くないという声がほとんどだ。そもそも民宿にサービスを期待するなんてナンセンスじゃないか。おもてなし命のホテルに感化されすぎである。
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私もハイカーの端くれなので屋根があるだけで十分じゃないかと思ってしまうが、しかし今回は育ちのいい女子が同行者であったため、調べられるだけのことは調べ、予約の際にアメニティの有無も確認し、同行者の友人にサービスはあまり期待しない方がいいかもと念を押した。
そもそもなぜ一人で行かないかというと、宿泊は二人以上からしか受け付けていないからである(のちにその理由を理解した)。年度末の忙しい時期に同行してくれた友人には感謝している。何年か前にテレビで取り上げられたらしく、一時は予約困難だったらしい。直前は流石に埋まっていたが、少し先の週末以降はガラ空きですんなり予約できた。
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natsumemiura · 4 months
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こんなに心を鷲掴みしてくる映画は久しぶりだ。最初から最後まで本当に素晴らしくて、何度も泣いた。それも息ができないくらい。周りに人が少なくて良かった。
ジブリを巣立った百瀬さん、西村さんタッグのポノック長編二作目の本作。メアリも古典的な魔女物でとても良かったけれども、本作はずば抜けていい。手描き至上主義だったジブリ作品で培われた画力、ふんだんなCG、美しいビジュアル、アニメーション、そして演出。キャラクターの肌の質感とか、ただの手描きではない作り込みの凄さに驚く。フランスアニメーターとの協働らしく、納得。世界のディズニーに引けを取らない、日本屈指の手描きアニメーション技術はそのままに、CGを克服しついにここまで来たんだなと。
10歳前後で観ていたらきっと人生が変わるくらいの衝撃を受けたかもしれない。今の子供たちは幸せだ。是非すべての子供達に見てほしい。いや、子どもだけじゃない。この作品の良さは、大人にもしっかり響くってことだ。イマジナリーフレンドや、昔自分だけの世界があった人間なら誰もがそのことを思い出すだろう。私もその一人だ。
ラジャーはアマンダが生み出したイマジナリーフレンドだ。アマンダの想像力はすごい。冒頭で見せられる想像の世界が素晴らしい。本屋で育った彼女には、他の子ども以上に豊かな想像力がある。そんな彼女の創り出したイマジナリーフレンドは美しい男の子の姿をしていて、他のぬいぐるみみたいなイマジナリたちとは一線を画している(それらはそれらでかわいらしいのだが)。彼もまた凛として聡明で、なんとも魅力的なキャラクターだ。いつかは忘れられる、でもアマンダには生きていてほしい。その強さと優しさが私たちの心を掴む。
イマジナリーフレンドは満たされた人間には必要ない存在だ。心に穴が空いた時、心を埋めるために、人はイマジナリーフレンドを生み出す。ラジャーもまた、父を失って心の拠り所をなくしたアマンダが絶対に泣かないために生み出した存在だ。アマンダの母リジーが、アマンダが傘の内側に描き残した言葉を見て泣き崩れ、アマンダが父を失い泣いているシーンに繋がり、ラジャーが生みだされるまでの描き方もとても良かった。
イマジナリの世界に出てくるキャラクターたちもとても良い。特にエミリ。並外れた想像力を持った子どもが生み出した彼女もまた人間の姿をしていて、とても魅力的だ。モモンガみたいに空を飛んだり、素敵な道具をたくさん持ってる。
でも一番良かったのは、事故で倒れて眠っていたアマンダが目覚め、忘れかけていたラジャーを思い出し、母リジーに助けを求めるシーンだ。物語のクライマックスである。イマジナリーの存在を信じたリジーは、その瞬間から想像の世界で苦しんでいるアマンダを認識する。リジーがかつて子供だった頃に生み出したイマジナリー(冷蔵庫という名の老犬)を呼ぶと、彼が駆けつける。信じることで全てが報われる素晴らしいシーンだ。もうこの辺りはボロボロ泣いていて、細かい描写を正確に伝えられないが、とにかく凄まじい演出だったのは間違いない。
ラスト、アマンダはラジャーに別れを告げるが、ラジャーはいつも君の中にいるという。イマジナリーフレンドの金字塔といえばやはりクリストファーロビンとプーさんかなと思うけど、彼らの最後と同じ別れなんだよな。とても良い。
主題歌、「Nothing’s Impossible」もやはりとても良かった。予告で聴いて間違いないなって思ったけれど、もう本当に作品の最後を飾るにふさわしくて、この曲を選ぶセンスに感服。素晴らしいです。今もリピート再生している。
百瀬義行 「屋根裏のラジャー」
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natsumemiura · 9 months
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とてもいい映画であった。一本前に観たケイト・ブランシェットのター(こちらもとても面白かったのだが)が霞んでしまうくらいに心をかき乱す良作であった。35mmフィルムの粗く柔らかな映像がまた、とてもいい雰囲気を作り出している。
ミア・ハンセン=ラブは名前は聞いていたが作品を観るのはこれが初めてだ。素晴らしい。ターは絶対に観た後疲れそうな感じだからクールダウンにセドゥを摂取しようと思って観たが、やはり本当に、彼女は、レア・セドゥは本当に、美しい。健康的で豊かな肢体、あどけない少年のような愛らしい横顔、強い眼差し、チャームポイントのすきっ歯。そしてなによりその力強い演技力。彼女の良さがとても引き出されている。
娘であり、母であり、恋する女である強き女性を演じるにはまさにうってつけ。監督も、レア・セドゥをイメージして本作を作り上げたらしい。これはセドゥのための映画なのだ。
シングルマザーのサンドラは、仕事も育児もこなしながら、認知機能が弱まっていく父に徐々に忘れ去られていく寂しさと向き合うこととなる。そして心の拠り所となる、クレマンの存在。妻子がある彼に愛されながらも、自分は所詮愛人なのだ、いつかは捨てられるのだと不安に駆られ涙する。彼女の弱い部分、強い部分がセドゥの繊細な表情で演じられる。一瞬も見逃せない。
親の老い、介護、死の不安というのは誰にでも訪れる苦難だ。目の前で、自分の知っている父親が壊れていくのをゆるやかに見守り続けるというのは、どんなに切ないことだろう。もう一人暮らしは不可能な状態になってから様々な介護施設を転々とする描写はリアルだった。親を施設に預けるというのは、少なからず罪悪感が伴うものだ。それならせめて、少しでもいいところを、人間らしく安心して眠られる場所を探すだろう。
何度も何度も、娘として父に会いにその部屋を訪れるサンドラ。支離滅裂なことをいう父にも、サンドラの向ける眼差しはあたたかい。そのやさしい眼差しの奥に垣間見える悲しみ。その純粋さを繊細に表現している。
不倫関係となるクレマンとのシーンでも、サンドラは様々な表情を見せる。子どものように無垢な照れ笑い、嫉妬、涙。
何か大きな事件が起きるという映画ではない。どこにでもいる、ある一人の女性の人生に光を当てた、そんな映画だ。だからこそ、誰にでも訪れる小さな苦難の連続に、どう心が揺れ動くのか、どんな行動をするのか、そんな細かな感情の変化を繊細に表現できる俳優でなければ、この手の映画は退屈してしまう。きっと監督も、セドゥならサンドラを完璧に演じてくれると信じきっていたことだろうと思う。最後、サンドラ、クレマン、娘のリンの3人で施設の父を訪れ、ホールで行われるボランティアリサイタルを見にいく。楽しげに歌う父を見て居た堪れなくなり泣き出すサンドラ、そしてもう帰るねと施設を飛び出し、3人で街の景色を眺めにいく。このシーンがとても印象的だ。ああ人生ってこうだよねと、少し安心する。どうして良いか分からず、落ち込む時もあるけれど、たまには逃げ出して、弱音を吐いていこう。愛する者たちのさりげない存在感が、彼女の悲しみを少しずつ癒していく。
人生なんて大半は地味で辛いことばかりだと、根暗な私は思ってしまう。奇跡なんて起こらないし、感動的な出来事も、運命の出会いもない。100年未満の途方もないこの時間を、私たちはいかに生くべきか。人生に意味なんてない、ただ通過するだけのもの。そんなことを言うと、寂しいとかそんなの死んでるとか言われる。でもそれが私にとっての人生に対する向き合い方であり、慈しみなのだ。感動的な映画にはならなくていい。サンドラのささやかなこの毎日こそ、美しい人生だと思う。
ミア・ハンセン=ラブ 「それでも私は生きていく」
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natsumemiura · 9 months
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山に惹きつけられる人間、そして山でしか生きられない人間。その山頂を踏み、雪解け水の冷たさを知るものにしかわからないこと。そこで生きていくということの意味。とても良かった。私がミニシアターにハマるきっかけになったと言っても過言ではない映画、「オーバー・ザ・ブルースカイ」の監督が撮る山の映画なんて、そんなの観ないわけにいかないじゃないか。しかも撮影監督はジュリア・デュクルノー作品も手がけるルーベン・インペンス。原作が長編小説なのと、雄大なモンテ・ローザの山麓(そしてヒマラヤまで…)が舞台というだけあって、凄まじい見応えだった。それに音楽がとても良い。オーバー・ザ・ブルースカイではブルーグラスミュージックがとても印象的で、センセーショナルなラストにも使われていた。本作でもところどころに差し込まれる、少し古くさいようなギターの音楽が雄大な山々の映像に深みを与えている。映像と音楽だけでも価値のある映画だ。
都会暮らしの少年ピエトロと、山に暮らす少年ブルーノ、この対極的な二人の切っても切れない友情がテーマの物語だが、切り立った岩場の尾根や氷河の深いクレバスを越えるシーンもあり、映像だけでも登山ドキュメンタリー並みの迫力だ。原作者は一年の半分をアルプス山麓で過ごすガチの山好きらしいので納得である。ピエトロとブルーノ、そしてピエトロの父の三人で氷河に挑むシーンは息を飲んだ。本当に氷河で撮影したんだろうか(それにしても、フィクションとはいえ都会暮らしで登山の経験も浅い子どもをいきなり氷河に連れて行って、ペース乱すなとかクレバス跳べとか体調も気にせず高山病にさせちゃう父はいかがなものかとは思ったが…)。子役含む俳優たち、凄すぎる。
その後ピエトロが成長し、父に反抗して山とも距離を置くようになってから、ブルーノとの繋がりも途絶える。二人が再開するきっかけとなったのは、二人を山で繋げたピエトロの父の死だった。誰もいない山の上に家を建てることを夢見ていた父。その遺志を継いだのは、飲んだくれの実父よりも彼に信頼を寄せていたブルーノだった。久々に再開した二人は共にその家を建てることを決める。髭面のガタイのいい男二人がはしゃぎながら泊まり込みで家(と言っても石造りの山小屋のようなもの)を造り上げていく様がとても良い。二人で山を駆け巡った昔を思い出し、再び山の楽しさを満喫するピエトロが少年のように山頂に駆け上がるシーンが好きだ。山頂で滑稽にダンスをして、目下で屋根を張るブルーノの名を呼ぶ。そしてそれに応えるブルーノ。その雄大な山々をふたり占めしているかのような、非常に清々しいシーンだ。二人は完成した家を前に誓う。ここは二人の家だと。
山を離れては暮らせないブルーノは、妻と娘を守りながら放牧で生きていくことを決める。その一方で、何者にもなれないピエトロは山々を巡る旅に出る。そしてさらに時は巡る。借金がかさみ、妻と娘を養っていくことができなくなってしまったブルーノは一人あの山の家にこもり、一方のピエトロはパートナーを見つけ、本を出し、細々ながらネパールで暮らしている。持ちつ持たれつの二人だったが、それをきっかけに、厳冬のなかあの家での再開を果たす。気にかけるピエトロに対し、帰ってくれと突き返すブルーノだが、ある時いきなり、ケロリとスキーに乗ってあの時はごめんと登場する(このシーンはかなりおもしろい)。それでも生活の状況が好転するわけではない。こんな真冬に山にいるなんてと心配するピエトロをよそに、山に傷つけられたことはないと、一人そこに残るブルーノ。ああ、死亡フラグじゃないかと察する。
そこからのラストがとても素敵だった。オーバー・ザ・ブルースカイでも、死は残酷に、突然に訪れた。きっと本作もそうなのだと。この監督は死を演出するのが上手いなと思う。
ブルーノは誰にも見つけられぬまま、一人雪に埋もれ死ぬ。その雪が溶け、皮肉にもいつの日か皆で恐ろしいと話し合った鳥葬によって、生まれ暮らしてきた山での生涯を終えるのだった。彼の死を理解できたのはおそらくピエトロだけだったろう。それが良かったのかどうか。
血のつながりも越える友情というのは、屈強だ。家族ではないからこそ、お互いを思いやれるというのもあるのかもしれない。一生のうちにそのような片割れに出会えるとは限らないだけに、うらやましく思う。原作では、すれ違いのまま終えてしまった父子のシーンがもっと描かれているそうだが、山が人間たちを結びつけ、絡まっていたものを綻ばせるというのも、映画の言わんとしていることかもしれない。一度山に魅せられた者は、山から離れることは難しい。それだけは確かだ。
フェリックス・ヴァン・ヒュルーニンゲン / シャルロッテ・ファンデルメールシュ 「帰れない山」
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natsumemiura · 9 months
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スロヴァキアの山岳地帯に暮らす100歳近い老人たちの暮らしを写真と映像で綴るドキュメンタリー。チェコ映画的なダークな雰囲気がたまらなく、日本での公開は30年ぶりらしい。シュヴァンクマイエルが撮影協力していると知り、これは絶対に観なくてはと思った。
期待を裏切らない、個性的で奇抜な老人たち。冒頭に出てくる男性は、なるべく滑稽に撮ってくれ、そのほうが観るものが喜ぶだろうからと笑う。そして撮られたいくつもの写真たち。なるほどおもしろい。一人一人ちがうその暮らしぶりが、フィクションなのではないかというほどに詩的で滑稽でヘンテコで、そして美しい。
水車で動くからくり人形を作る者、おおきな造花の花輪を作り、儀式のように墓に飾る老婆、なんとも粗暴な見てくれのバグパイプ?のような楽器を吹き鳴らしながら酒を飲み暮らす羊飼いの男性、宇宙への憧れがとまらない者…みなつぎはぎだらけのボロボロの服を着て、ボサボサの髪の毛で、歯も数本しか残っておらず、土埃に塗れており、決して衛生的とは言えない(このような生活でなぜそんなに長生きできるのかが不思議でならない)。その饐えたにおいがこちらまで漂ってくるのではないかというほどに、生々しい映像だ。それなのに、ひとりひとりのその暮らし様がなんとも美しい。スティルショットのひとつひとつが、それこそシュヴァンクマイエルのアート作品のようだ。
深いしわの刻まれたいくつもの顔たち。どの者も自らの人生を謳歌している。これが決してアート作品ではなく、ただ一人の素朴な人生なのだと思うと溜息が出る。彼らの語る言葉は、どこまでも純粋で自由だ。この老人たちはその厳しい山岳地帯を出て暮らそうとは考えない。そこに根を張り、そしてその地で死にゆくことを望んでいる。毎日毎日同じことの繰り返しであれ、多くを必要としない彼らにとってはまったく苦ではないのだろう。
都会に住む人間は我々とはかけ離れている、心が冷たいんだと、老人はいう。そうだ、私は彼らのようにはなれない。平常心で彼らのような暮らしは、絶対にできない。現代社会で暮らす私たちは生まれた地を離れ、職を変え、終の住処を求めて死ぬまで彷徨い続ける。与えられたものだけで生きていくというのは、競争社会の中ではなかなか難しい。だからこそ、スロヴァキアの山岳地帯でひっそりと暮らす人間たちを羨ましく、美しく思うのだ。誰の受け売りでもない、純粋に、己の心だけに従って紡がれる言葉のなんと美しいことか。私にはそれができない。心の贅肉を全て削ぎ落として生きていけたらどんなに楽だろうと思う。
自分の生きる場所や時代とはかけ離れている遠い地に想いを馳せるのが好きだ。チェコ(スロヴァキア)映画の持つ、あの独特の現実とはかけ離れた世界観に惹かれる所以は、そこにある。
ドゥシャン・ハナーク 「百年の夢」
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natsumemiura · 10 months
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アマゾンの先住民、シュアール族たちの生き方、私たち人間のあるべき姿だなと思う。自然の一部としての人間は、決して自然を脅かさない。深い森から賜ったもので美しいものを作り上げ、必要なものだけを受け取り、彼らは暮らしている。その地で採れるものがそのまま彼らの食事や薬になるため、まさに自然と一体となって生きているのだ。これは決して昔の話ではない。彼らは現代文明の中で、同じ時間を生きている。シャーマンを先祖に持つセバスティアンは信念が強く、ただそれだけで美しい。彼の親族らと作り上げたヤシの葉で編み込んだ美しい屋根の家、折に触れて飲まれる大量の口噛み酒…よく働き、身体に必要なものを必要なだけ摂り入れ、植物の力によって呼び覚まされたヴィジョンを通し、過去からの知恵を未来に引き継ごうとするその眼差しの強さ。素晴らしい。
山に登るようになってから、以前にも増して「飲みたい時に綺麗な水が飲めること」「屋根の下、毎日柔らかな布団で眠れること」「食べたいときに食べたいものが食べられること」「ボタンひとつで電気やガスが使えること」そのような様々な、今まではなんとも思っていなかった当たり前のことが、当たり前に受けられる恩恵ではないことを考えるようになった。実体験するまで気が付かなかったというと愚かと言わざるを得ないが、実際多くの人がそうなのではないだろうか。誰も好きで危険を犯したくはないからだ。登山となるとそれなりに危険は伴うし(まして単独となると)、身を案じた何人かは反対するだろう。そこまでしてなぜ?と。それでもやはり、自然の中に足を踏み入れることを、誰かの一言によってやめる理由はないのだと強く思う。それが私の選んだ、私のあるべき姿だからだ。
生まれた時から私は現代文明の中にいて、息をするようにゴミを排出した。添加物たっぷりのいい香りのする洗剤や柔軟剤を使うことになんの疑問も抵抗もなかったし、汚れたら捨てるだけの便利なプラスチックの道具や、袋、現代文明の産み出したあらゆる便利なものを息をするように当たり前に使っていた。もちろん、それらがどのように作られ、廃棄され、最終的にはどこへ行くのか、どんな問題があるのかをまったく考えていなかったわけではない。それでも多くの人がそうであるように、それらを重んじて行動に移すというのが、なかなかできなかった。周りにいる人たちから咎められることもなかったし、便利で楽な暮らしをわざわざ捨ててまで、私個人が環境に優しくなるメリットがないようにぼんやりと感じていたからだと思う。
自分が口に入れるもの、排出するもの、そして環境のことを考えるようになったのは、一人になってからだと思う。自分のことをすべて自分でやらなければならない分、自分の信念に従って、身の回りのものに気を遣った。たとえば洗剤。今は無香料で無添加のものを使っている。
でも、一番大きく変えたのは食事かもしれない。私の母は料理が上手で、ほとんど常に食事のことを気にかけていた。腹が減っていなくても何が食べたい?好きなものをもっと食べろと促された。裕福ではなくても、食事にだけは困らせたくないと本人も言っていたくらいだ。だから生まれた時から私は食事に不満足だったことは一度もない。でも、美味しかった、と言って食べ終えることが少なかった。どんなに美味しくても、大量にあってはその価値が薄れてしまう��だろう。満腹で苦しく、食べきれない分は残してしまうことの罪悪感を感じることは多々あった。でも私には何もできなかった。料理好きの母に「食べられない」と出された食事を突き返すのはなかなかの苦しみを伴った。それでもフードロスに罪悪感を感じない訳ではなかったし、食べ過ぎは身体にも悪い。でも母に逆らうくらいなら、後ろめたいとは言え、美味しいものをたくさん食べる方が楽だったのだ。だからどんなにお腹がいっぱいでも、父や妹が箸をつけない分私が食べることがよくあった。すべて食べ切ると母は嬉しそうだった。それでよかったのだ。母も自分が作り過ぎてしまうことは理解していたようだが、いっこうに量が減ることはなかった。私が家を出てからも、帰省するたびにむしろ料理は豪華になり(正月は凄まじかった)、食べ盛りを過ぎた父や私の残す量も増えていった。
私が適正な量を食べるようになったのは親元を離れてからだ。病院で働いているのもかなり大きい。運動不足や飲酒、食べ過ぎ、塩分や糖分の摂り過ぎによって引き起こされる生活習慣病で入院する人が多くいる。そして病床を逼迫する。これは決して他人事ではないと思った。それから病院の食堂で出される定食は見た目は少ないが、食べ終わった時にはすっかり満足している。最近ではごはんが多いと感じるくらいだ。普段の食事でいかに食べ過ぎているかを思い知らされる。これは病院食を食べた入院患者からも、よく聞く声だ。私生活でも、外に出ない日は一日二食にしたり、量を減らした。実家にいた頃のように、ただ家でゴロゴロしているだけにも関わらず、3食しっかり美味しいご飯を食べるなんていうことは、今はもうできない。そんな中、母が糖尿病を発症した。かねてから低血糖だったり、体調不良を訴えていた母だが、会社勤めでないのと、自己管理への自信もあってか、なかなか健康診断を受けなかった。祖父が糖尿病であったのと、母にもその兆候が見られたため私なりに口うるさく受診は勧めていたが、なかなか信念が固く、病院に行ったのはかなり数値が悪くなってからだった。糖尿病にだけはなりたくないと、母は思っていたらしい。遺伝は逃れられないし、あんなに白米を好んで食べ、運動らしい運動もしていなかったのだから、それはなかなか厳しいのではないかと思ったが、とてもそんなことは口に出せなかった。母が受けたショックは計り知れない。それでも、病をきっかけに母の作る食事も変わった。軽くではあるが、運動もしているようだ。そのこともあって、私自身もより一層食事に気を使うようになったのだ。
山に登る時、持っていくのは栄養価の高い行動食と、水と、一食分のおにぎりやラーメンなんかだ。急斜を登ったり、何時間も歩き続けると、お腹が減る。そこで行動食を食べる、活力を得て、山頂まで登る。そこでようやく、しっかりと食事をとる。それが下山も安全に歩くためのエネルギーになる。山行中の欲求とそれに対する対処は、普段都会で暮らしていては得られないものだ。暇さえあればお菓子を食べたり、話題のために見映えのするものを食べたり、何につけてもどこに行っても、「美味しいもの」がある。そこに大した運動を伴わなくとも。私も、どちらかと言えばそれが当たり前だった。休日といえば、体を休める(家でだらだらする)ことが殆どで、運動なんて考えられなかった。もちろん時には休息も必要だ。ただ、日常的に運動したり山に行ったりすると、休息だけが身体を回復させるわけではないということを思い知る。特に、大自然の中で得られる活力と癒しは、そこに到達したものでなければ感じ得ないものがある。最低限の生き物のサイクルとして、運動・食事・休息のバランスをとることが重要なのだ。なんでこんな単純なことができずに、多くの人が病に倒れてしまうのか。現代社会はあまりにも便利になり過ぎてしまった。手を伸ばせば必要なものが手に入る。誰だって苦労はしたくない、苦労せずに楽になりたい。今じゃ病気になったって、薬や治療で寿命が伸ばせてしまう。それでいいんだろうか。いざという時には、もちろん文明の叡智を受け取ってもいいだろう。でもそれに甘えて生きていて、何にも挑まず、何も学ばず、何も感じず生きていて、それでいいんだろうか。アマゾンの奥地で生きる人々にとっては、点滴や錠剤は受け入れ難いものだ。セバスティアンは、それらを投与されたにも関わらず、最後は薬草に頼り、薬草の効能のみを信じる。誘惑だらけのこの世界で強く生きていくには、自分にとってなにが大事なのか、セバスティアンのように揺るぎない信念を持って生きていかなければならない。それは間違っているかもしれないし、間違っていないかもしれない。重要なのは、自分らしく生きること、それが彼らが教えてくれたことだ。
映画の終盤、セバスティアンが森を歩きながら、喉が渇いたといって水を求める。そしてまだ残っているかなと、徐にそばにあった竹を切る。すると切り口から勢いよく流れ出す澄んだ水。すごい。これは是非遭難時に役立てたい、と思うのであった。
最後に、この映画の撮影・制作を7年かけてほとんど一人で成し得た監督を心から称賛する。監督は東日本大震災を経験したのち、日々の生き方や人間と自然との関係に疑問を感じ、映像人類学を学び始めたとのこと。太田さんはたった一人で南米エクアドルのシュアール族の住む村へ飛び込み、1年間そこで彼らと共に暮らし、撮影を行った。実際に撮影した時間は35時間ほどとのことだが、一本の映画に収められたその映像は、1年の間に培った彼らとの友好が感じられ、内容も実に濃密だ。圧倒的存在感を放ったセバスティアンとの出会いは偶然、運命と言っても過言ではない。太田さんは彼らに心を開き、出される食事は全て平らげたとのこと。その真意が伝わったためか、映画で映される人々の表情は豊かで、実に多くのことを語ってくれる。アマゾンの先住民族の漠然としたイメージを覆すその姿は、かつてない知見と衝撃を観たものに与えたことだろう。この映画の制作も��リモートワークによってそれも様々な国のクリエイターたちが集って完成させたというのだから驚き。アマゾンの奥地から世界中へ、たった一つのカメラが映し出した世界が拡がる…これは凄いことだ。ぜひ、生きることに鬱屈しているすべての人に観てほしい。
太田光海 「カナルタ〜螺旋状の夢」
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natsumemiura · 1 year
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どんな人間にも、自分だけの世界、自分だけしか立ち入れない秘密の場所、そして秘密の友達がいることと思う。とりわけ子ども時代には、そういうものが外の世界の脅威から、柔らかく壊れやすい心を守ってくれた。大人になった今も、私はそんな場所を求めている。もしもそんな場所があるなら、こんなルールに縛られた世界を抜け出して飛び込んでしまいたいと思うだろう。でもそううまくはいかない。だから私たちは物語の世界に逃避する。作家は偉大だ。私たちに物語を与えてくれるのだから。想像力さえあれば、本一冊でどんな遠くにだって行けるし、なんにだってなれる。そう、できるなら電子媒体よりも紙の本がいい。脇目も降らず、寝る間も惜しんで、一心不乱に読む。そして私は物語の一部になる。
「私は目を閉じる。その中間的な暗がりの中にしばし留まってから、もう一度目を開ける。間違えて何かを壊してしまわないように、静かに注意深く。そして周りを改めて見回し、その世界がまだ消え失せていないことを確認する」第二部596pより
 
村上作品の中でも群を抜いて甘酸っぱい。強い夏草の匂いと、賑やかな蝉の声がありありと浮かぶ八月のある一日。物語の始まりと終わり(第二部)が同じ情景で描かれるのが非常にいい。
一年前、あの人と川沿いを歩いた時のことを思い出さずにはいられなかった。おだやかな春の昼下がり。空気も風もさわやかないい匂いがした。河川敷で遊ぶ子供たちがシャボン玉で吹いていて、そこらじゅうに虹色の小さな風船が漂っていた。桜吹雪、川のせせらぎ、揺れる足元の草。あの人の少し後ろを歩きながら、私このままここで死んでしまってもいいと思った。
1980年初出の「街と、その不確かな壁」が書き改められた新作とあって、1985年の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読み返すファンが多くいたが、私は事前情報を何も得なかったので、まさか村上作品で一番好きな作品の番外編(というのも何か違う気がするが)とは…と思いつつも、待ちきれずに早速読み始めた。それでも世界の終りの街のことはありありと覚えていたから、十分だった。細部が微妙に違っているけれど、基本的には同じ「あの街」だ。再びあの世界のお話が読めるなんて、と嬉しくて胸が震えた。
主人公が「夢読み」をする街が、この物語の真髄だ。想像の産物でありながら、それを超越した世界。金色の毛を持つ物憂げな一角獣が住む、寂れた幻想の街(私は角のある動物が好きで、博物館のは剥製を何時間でも眺めていられる)。そこでは衣服も道具も食べるものも、自給自足の前時代的なもの。多くは素朴な代用品だ。もう随分前に操業を停止した工場、錆の浮いたストーブのある図書館、(85年の作品では一角獣の頭骨だった)白い埃を被った歪な卵形の「古い夢」。この街には時間というものが存在しておらず(文字通り時計台には針がついていない)、意味のあるものは何もない。かつて栄えていた文明の「記憶」だけが、角笛の音と共にほとんど惰性のように今も生き続けている。廃墟のような建物や生き物、住人たちの静謐さ、そして街の奥に潜む不穏な存在がたまらない。
(「夢読み」とはいったい何なのか。古い夢にとって、夢読みである主人公に読んでもらうことはあくまで通過点でしかないのだろう。彼らの求めているのは、通常の意味合いにおける理解ではない。夢読みを通してその殻に閉じ込められている何かが解き放たれ、あるべき場所に辿り着くことが大事なことのように思う。)
「私は二つの屹立した感情の狭間を抜け、ゆっくり歩いてうちに帰る。この街で自分はもうひとりぼっちではないという思いと、それでも自分はどこまでもひとりぼっちなのだという思いとの間を」第一部60pより
空想とはまさにそのようなものだ。その究極にパーソナルな場所で私ははじめて「本当の私」になれる。でもそこで生まれ暮らす彼らは自分とは違うものであり、ほとんど幽霊のようなものだ。イマジナリーフレンドが大人になるにつれて消えゆくように、いつか現実世界に帰らなければならない自分は、どこまでもひとりぼっちなのである。
「暗い心はどこか遠いよそにやられて、やがて命を失っていきます」第一部59pより
主人公が街にやってきて間もない頃、熱病に苦しむ彼を看病してくれた近所に住むかつて軍人だった老人。この老人の語るエピソードがとてもいい。村上作品に度々登場する、おぞましいメタファーだ。
前線で負傷した老人は宿屋へ湯治に送られ、ある日の晩、その部屋で美しい女の亡霊を見る。毎晩同じ時刻に現れるが、そのたび金縛りに遭うため、老人は女の姿をいつも決まった角度からしか見ることができなかった。しかしその女の美しさに取り憑かれてしまった老人は、なんとしてでも女の「反対側」を見るべく、傷が癒えた後に宿屋を再び訪れる。そして老人はついに女の見たことのない横顔を見ることになる。だがそれは、「人が決して目にしてはならぬ世界の光景」であった。それを目にすれば、人は二度と元には戻れない。老人は教訓のように主人公に語る。そうしたものには近寄るな。その誘惑に抗うのはずいぶんと難しいと。
ハルキストと言われるとなんとなく馬鹿にされたような感じがするので好きではないが、私は村上春樹小説が好きだ。人物たちの語り口がドライだったり現実的ではなかったりするが、それがむしろその独特な世界の雰囲気作りに一躍買っている。登場人物たちのキャラクターや名前は非常に個性豊かだ。本作でもそれは最大限に生かされている。村上作品的主人公は規則正しく、冷静で、ジャズが好きで、どことなく潔癖。おそらく村上さん自身のパーソナリティが大いに反映されていることだろう。そして彼と巡り会う所謂ヒロインは、基本的に美人ではないがどことなく好印象な均整のとれた顔立ち。芯が強く、聡明で、大胆。これがお決まりであるように思う。それから変わり者の「助言者」や、的確かつ親切な「友人たち」、そしてオリジナルの生き物や幻獣もなくてはならない存在だ。
彼の創り出す世界と、夢と現実が折り重なる物語は私の内なる欲求を余すところなく満たしてくれる。もともと本を読むのが好きではあるけれど、こんなに何もかもがドストライクだと思える作家は他にはいない。細かな描写、表現、人物たち、空想の世界…どの作品も比較的酷似していて、メタファーが多く、苦手な人には嫌悪されそうだが、好きな人にはものすごく愛される世界観である。初めて読んだとき(確かノルウェイの森だった)からほとんど中毒のように読み漁った。
「いったん混じりけのない純粋な愛を味わったものは、言うなれば、心の一部が熱く照射されてしまうのです。ある意味焼け切れてしまうのです。とりわけその愛が何らかの理由によって、途中できっぱり断ち切られてしまったような場合には。そのような愛は当人にとって無上の至福であると同時に、ある意味厄介な呪いでもあります。」第二部380pより
本作における「変わり者の助言者」である子易さんのこの言葉への共感は凄まじい。村上さんも、このような心の一部が焼き切れてしまうような愛を味わったことがあるのだろうか。
主人公17歳、彼女16歳のあの夏に足を止めセンセーショナルに締めくくられた第二部から、再び時と場所を駆け巡り、全てがつながる第三部。ここで読者は詠嘆のため息をつかざるを得ない。何て美しく、潔い自信に満ちた締めくくりだろう。村上さんの創り出した(世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドでは書ききれなかった)「街」の物語が、ようやく自身でも納得のいく形として完結したのではないだろうか。
あとがきにて村上さん自身が語っているように、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語の真髄ではあるまいかと。長い時間をかけ、手を変え品を変え、洗練されてきたこの街の物語。村上さんが大切に温め続けてきたこの街は、読んだものの心にも形を変えて残ることだろう。私は村上さんが再びこの街の物語を新たな形で語ってくれる日を願っている。この物語は本作というひとつの世界線で完結はしても、決してそこに静止することはない。この街は移ろう街だと、私は思っている。自分はここでしか生きていけないと、今いる世界を捨てたイエロー・サブマリンの少年と同じように、私も現実世界とこの身を捨て、その街の一部になれたらと願う。それほどまでに魅惑的な街なのだ。初めて読んだ「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」からずっと、いつも心にその街がある。もう一人の私が暮らす、もう一つの世界が。最後に、リスペクトの意味を込めてラストの文を引用する。
「私は胸に大きく息を吸い込み、ひとつ間を置いた。その数秒の間に様々な情景が私の脳裏に次々に浮かんだ。あらゆる情景だ。私が大切にまもっていたすべての情景だ。その中には広大な海に降りしきる雨の光景も含まれていた。でも私はもう迷わなかった。��いはない。おそらく。私は目を閉じて体中の力をひとつに集め、一息でロウソクの炎を吹き消した。暗闇が降りた。それはなにより深く、どこまでも柔らかな暗闇だった。」第三部654p〜655pより
村上春樹 「街とその不確かな壁」
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natsumemiura · 1 year
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マルケータ・ラザロヴァーのようなモノクロームの世界線に、エドワード・ゴーリーとシュヴァンクマイエルのエッセンスを混ぜ込んだような、悪夢のエストニア・ダークファンタジー。本作は「死者の日」を迎える11月のエストニアの寒村が舞台。登場人物たちも非常に個性豊かで、その風貌の異質さや行動に魅せられる。ブロンドの髪が印象的な農村の娘リーナとアンニュイな幼馴染の青年ハンスは村の中では唯一の若者で、純粋な心を持っている。それ故に好きな者に心を奪われ悪魔と契約までしてしまう。しわくちゃの魔女の老婆、その魔女の言いつけに従って自分の糞でクッキーを作って好きな女にプレゼントしてしまうとんでもない奴、いやしい隣人たち、そして精霊、人狼、悪魔。ドイツ人領主の男爵役はなんと、あのムカデ人間の怪優ディーター・ライザー。不気味な笑いと仕草、真っ白いタイツに細長い肢体が独特の存在感である。本作が遺作となったようで、まさに有終の美を飾った。こんな人々が時に憎しみあい、慈しみあい、協力し合ってズボンを頭からかぶりヤギに擬態したペスト菌を追い出したりするのだから、変な薬や酒でも飲まされているかのような実に魅惑的な115分間である。
冒頭、村の牛に忍び寄るのは、ガチャガチャに組み合わさった鉄の棒の先に動物の頭蓋骨がついた使い魔「クラット」。ガラクタでできた魔物は、シュヴァンクマイエルの「アリス」に出てくる古い人形やぬいぐるみや靴下でできたちょっと怖くて不思議な生き物たちを彷彿とさせる。奇怪な動きと音で牛を鎖で締め上げ空を飛ぶ。その滑稽さに思わず吹き出したり。このシーンで一気に観客をダークファンタジーの世界に引き摺り込んでしまう。何十年も前のマイナーで退屈な時代映画かと思いきや、その表現の新しさに、たった6年前に作られた映画なのだということを思い出す。全てのものには霊が宿るというアニミズムの思想に、異形の民話とキリスト教の神話を組み合わせた本作はどのシーンを切り取っても映像的に美しく、非常に詩的だ。マルケータさながらの真っ白な雪と血や闇や森の黒さのコントラスト、月光に照らされる美しい娘…エドワード・ゴーリーのウェスト・ウィングのよう。
たとえばシネコンのアクション映画を嗜むような人々には、本作はとても暗くて気が滅入ると言われるかもしれない。でも私や、あの場所にいた何人かの観客たちは心を鷲掴みにされてしまった。この映画に出会えたことは喜びだと感じる。こんな悪趣味なものを好き好んで観ている自分は本当に根暗で陰湿で悪趣味で、職場の人にはとても言えないと思うと同時に、自分のそんな感性を少し誇らしくも思う。私は悪夢のような、俗世からは嫌厭されるようなものが好きなのだ。
青年ハンスが男爵の娘に恋焦がれるあまり悪魔と契約し得た使い魔は、前世の記憶を持つ雪だるまの姿の詩人のクラットであった。彼の紡ぐ詩の美しさに、ハンスは魅了される。自分もそんな詩を紡げたらと、男爵の娘を想う日々。そしてハンスに片想いの娘リーナは、家宝と引き換えに得たドレスとレースの黒いベールを纏い、男爵の娘に扮してハンスに会いにゆく。雨の降る中、二人が見つめ合うシーンはなんとも言えない美しさだ。その後、ハンスは悪魔に命を奪われ、そのことにショックを受けたリーナは沼に身を沈める。
彼らや、使い魔クラットのいかがわしさと純粋さを兼ね備えたその存在は、どこか愛おしく憎めない。日陰に追いやられたその世界で彼らはとてつもなく美しい。世界中を敵に回しても私は君が好きだよと、そう言ってあげたい存在。きっとこの映画時代が、そうなのだ。
ライナル・サラネット 「ノベンバー」
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natsumemiura · 1 year
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natsumemiura · 1 year
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natsumemiura · 1 year
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