Tumgik
roomofsdc · 2 years
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小倉昭和館とポッキー
2006年の口腔外科学会総会・学術大会は北九州市小倉で開催され、遠路遥々参加した私は、学会期間中はずっと小倉の街中にいた。学会関係の知人と飲みに行くこともなく、ましてや九州観光をすることもなく、空き時間を使って映画を観るのが学会出張の楽しみでもあった。 たまたま地元紙を見て、観ようと思っていた「RENT」、そしてその年に見逃していた「ブロークバック・マウンテン」とが上映されていることを知り、足を運んだのがこの映画館。 映画館があるのは北九州市小倉区旦過市場の中、60年代頃の富山駅前を彷彿とさせる古びた狭い商店街の外れで、これまた60〜70年代の、一番よく映画館に通った時代の趣の外観の建物だった。内装も同様に古びているものの、清潔に設られており、「レトロ」と言うよりは、同じ時代背景の映画館で育てられた自分にとって、極めて懐かしい、居心地の良い空間だった。子供の時と同じようにポッキーを一箱購って、4時間弱の幸せな時間を過ごした思い出の映画館だったが、2022年8月10日の大火で消失。かけがえのない空間がなくなったことは残念だが、想いはなくならないだろう。いつの日か再会できますように。
https://twitter.com/showakan
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roomofsdc · 2 years
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SDC小説の部屋「フリッカー、あるいは映画の魔」
UCLAの映画学科教授である「ぼく」には脳裏にこびりついて離れない映画がある。そのB級映画を作ったのはマックス・キャッスル。彼は様々なジャンルのB級映画を何本も作り、これからの活躍が期待されたまさに絶頂期に突然失踪する。それほど秀でているとは言えない映画にも関わらず、彼の残した映画は「ぼく」の心に癒されない渇きのような感情を深く残す。「ぼく」は往年の映画関係者などを訪ねてキャッスルの足跡を辿るが、それは「映画」をとりまく漆黒の闇へと誘う旅となる… 「フリッカー、あるいは映画の魔 」という一風変わったミステリがある。1998年の「このミス」海外長編部門で一位になっているので、映画とミステリが好きな人なら手に取ったことがあるかもしれない。ハードカバーで600ページ近い大作というのは今や珍しくもないが、衒学的で常軌を逸したような展開はミステリの枠を超えてしまっているため、「このミス」ブランドに騙されて買った人の半分くらいは後悔したのではないだろうか。 ちなみに作者のセオドア・ローザックは1933年生まれの大学教授で1960年代の欧米サブカルチャーに詳しいとのこと。確かにこの本は20世紀初頭からの映像技術に関する深い知識に6割方は裏付けられており、残りの4割はその知識を縦横無尽にふるった虚構によって構成されている。 ストーリーを全部説明したとしても、「それで?」と言われそうなくらい複雑で偏執的な物語。というよりはストーリーはこの際関係ない。この物語で重要なのは、「映画」は暗闇の中で白いスクリーンに映して観なければならない、ということ。「映画の魔」に触れるためにはビデオではだめなのだ、と本書の登場人物に語らせている。 私自身はそこまで拘泥するわけではないが、基本的に「映画は映画館で、フィルムを銀幕に映し出された映画を観る」という考え方だ。まず映像の質の問題。さまざまな媒体で映像を見ることは可能だが、フィルムに記された暗黒を正しく表現することは極めて困難だ。特に白黒映画については、暗闇にたたずむ人影など、ディスプレイで見るとコントラストの曖昧な映像となり、本来の演出効果を期待できないこともまま経験する。「第三の男」は暗闇のスクリーンがあって初めて成立する映画ではないだろうか。もちろん、映像技術の発展にともない、かなり鮮明な映像を小さなディスプレイで再現できるようにはなったが、映画館の闇の中で、ほんの数時間、仮想現実の中に身を浸す。その喜びを体験できるのは「映画館で映画を観る」という贅沢の中でこそ許されるのだと信じたい。
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roomofsdc · 2 years
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SDC映画の部屋「メトロポリス(2001)」
私立探偵ヒゲオヤジは甥のケンイチ少年を連れて、ハイテク都市メトロポリスを訪れる。ヒゲオヤジは指名手配されたロボット工学者のロートン博士の消息を追ってこの都市にやってきたのだが、一見平和で繁栄したように見えるメトロポリスは、実はロボットを酷使し同時に職を奪われた労働者たちが下層社会に閉じ込められた歪な理想都市でもあった。ロートン博士の研究所が都市の地下深くのエリアにあることを突き止めたヒゲオヤジとケンイチは、ロボットらの助けを得て地下へ潜入するが、都市を支配する富裕層への革命を準備する反逆者たちと、これを弾圧する政府機関との戦いに巻き込まれる… 大友克洋脚本ということもあり、手塚治虫原作とは言え、「AKIRA」的世界観を手塚治虫のキャラクターで描くという、ちょっと考えれば無理がある映画という印象。書き込まれた美術もやたらと気に障る動きをさせてある動画も本作品あたりから多用されるようになった3DCGも、こんな表現ができるんだ、という作り手側の想いが暴走しているようで正直鬱陶しい。一方で「メトロポリス」の原作(手塚版であれ、フリッツ・ラングの映画版であれ)の持っていたテーマ性はあまり重視されていないように感じる。 「攻殻機動隊」で押井守が描いた近未来世界や独特のアクションが、意外にも外国で評価されたことに触発されたという訳ではないのだろうが、海外向けを視野に入れた大作にあえて手塚原作を題材に選んだのは、りんたろう監督を初めとする企画陣の熱意あってのことだろう、ただしその熱意があまりに強すぎるためか、画像的にはとても作り込まれているにも関わらず、演出や音楽、声優たちの演技など、かつての24時間テレビで放映されていた手塚アニメの延長にしか感じられなかったのは至極残念。結果として興行収入も製作費を回収できなかったのも納得できる。(2003年2月17日記)
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roomofsdc · 2 years
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SDC映画の部屋「ピッチ・ブラック(2000)」
宇宙空間を進む貨客船、費用を抑えるために乗員や生命維持装置は切り詰められており、乗客は冬眠カプセルで眠っている。予期せぬ流星群に遭遇し船長を含む何人もの乗員が犠牲になり、船は軌道を外れ近くの惑星に落ちていくが、乗員の生き残りのフライ(ラダ・ミッチェル)が船を間一髪で地上に不時着させる。生存を喜ぶ乗客たちだったが、3つの太陽に照らされたこの砂の惑星には恐るべき夜行性のクリーチャーが潜んでおり、3つの太陽が同時に衛星の向こうに隠れる「触」が、今まさに目の前に迫っていることが判明する。フライ、巡礼のイスラム教徒一家、一人旅をする訳ありの子供、酒を扱う貿易商、麻薬中毒の賞金稼ぎ(コール・ハウザー)、そして彼に囚われている犯罪者リディック(ヴィン・ディーゼル)は見込みの薄いサバイバルに挑むのだが… 「アライバル(1996)」「ビロウ(2002)」で知られるデヴィッド・トゥーヒー監督は元々が脚本家で、ハリソン・フォード主演の「逃亡者(1993)」をはじめとするサスペンス作品を得意とするが、1989年に「ウォーロック」というジュリアン・サンズ主演の邪悪な魔法使いが現代にタイムスリップするというターミネーター擬きのサスペンスファンタジーの脚本などからキャリアを開いた人だ。従って、もともとホラーやSFなどに造詣が深い脚本を描くのだけれど、本作品も同様に、ジム&ケン・ウィート兄弟とともに「リディック」というダークヒーローを主人公とした世界を作り上げている。本作品はその記念すべき第一作で、主人公についての背景説明は一切せずに、砂漠の惑星に不時着した船と乗員たちに絡む「招かれざる人」の立場に置いて、フライを中心とする乗客たちの物語を少し上から見下ろすような視点を与えている。乗客たちの生存のチャンスが一つ芽生えては一つ消えていく、その設定が巧妙で、このあたりはサスペンス脚本家のトゥーヒー監督ならではの緊張感に溢れている。乗員・乗客もそれぞれにキャラクターが立っており、サスペンス自体の主役は船長代理となるフライが終盤まで緊張感を牽引する好演だ。 本作品は、「3つの太陽に照らされた砂漠の惑星」が、複雑な軌道を持つ衛星やリングの交差で1ヶ月以上に及ぶ「蝕」に入るというSFファンが小躍りする設定に加え、闇の中で���か生きられない凶暴な肉食獣が跋扈する世界、というホラーファンが涙する状況が設られている。デヴィッド・トゥーヒーはこのシチュエーションを淡々と描きながら、あまり感情に追われて物語が滞らないように、シンプルでリズムよいサスペンスアクションに仕上げている。後年の「パーフェクト・ゲッタウェイ(2009)」でもその手腕は十二分に生かされていると思う。 一方でSFとしてのセンス・オブ・ワンダーを示すのは、惑星の面に数十年ぶりの「夜」がやってきて、地下から地上へと無数のクリーチャーが湧いて出てくるシーンだ。すでに漆黒の暗闇(ピッチ・ブラック)に近づきクリーチャーの羽搏く音だけが響く場面で、リディックだけが彼の「眼」に映る獣たちの歓喜の有様を見て呟く「Beautiful…」。まさに花火のような美しいイマジネーションが展開される、異世界SFならではのシーンだ。 そして本作品の最大の魅力は、「招かれざる人」であるリディックの造形と、演じたヴィン・ディーゼルの存在感だろう。ディーゼルは元々脚本や演出などにも明るい俳優で、カンヌ映画祭に出品した短編映画がスピルバーグの目に止まり、誘われて出演した「プライベート・ライアン(1998)」の心優しい二等兵役でブレイクした俳優。本作品ではそんなまだ駆け出しの頃の、研ぎ澄まされた肉体をもつディーゼルが全力で「リディック」というダークヒーローを演じ、このSFピカレスクシリーズの中心となった、記念すべき第一作でもある。ディーゼル自身がこのキャラクターに惚れ込み、他のシリーズでトップスターになってからも、続編「リディック(2004)」・続々編「リディック:ギャラクシー・バトル(2013)」などでは製作も務めたほどだ。彼の魅力はタフな肉体と相反するベビーフェイスにあるのだけれど、「リディック」を演じている時はゴーグルでつぶらな瞳を隠すのが、本当の彼の性に合っているのかも。
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roomofsdc · 2 years
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SDC映画の部屋「スペース・サタン(1980)」
土星の衛星タイタンに建設された巨大な宇宙基地サターン3。基地を管理するのはアダム少佐(カーク・ダグラス)と恋人で研究者のアレックス(ファラ・フ���ーセット)の二人だけで、飼い犬のサリーとともにエデンの園のような生活を続けていた。ある時、地球からベンソン(ハーヴェイ・カイテル)という男がやってくる。ロボット工学を専門とするベンソンはアレックスに興味を抱くが、彼の目的はタイタンが土星の影に隠れる「食」を利用してサターン3を占拠することにあった。やがて「食」が訪れ、ベンソンはロボット兵器を使い二人を監禁しようとするが、ロボットに自我が芽生えたことで惨劇を招く… 「スターウォーズ」第一作や「スーパーマン」などで美術に携わっていたジョン・バリー(作曲家と同姓同名)が企画・監督していたが、初監督ということで円滑に進めることができず、製作のスタンリー・ドーネンと衝突して降板、代わりにスタンリー・ドーネン自身が監督を務めたSFサスペンス映画。 大御所俳優カーク・ダグラス、個性派俳優ハーヴェイ・カイテル、そしてテレビで人気絶頂期(を少し過ぎたあたり)のファラ・フォーセット(この時はまだメジャーズがラストネーム)という高ギャラのスターを揃えたものの、なんともチグハグな展開と演出で、そもそも何の話だったか途中で分からなくなる怪作となった。 ファラ・フォーセットは「チャーリーズ・エンジェル」で世界的なスターとなったが、一度もヌードを公にしたことがない女優だったが、本作品では一瞬だけだがバストを露わにするシーンがあり話題となった。必然性のあるヌードかどうかは微妙なところだけれども、年老いた夫を献身的に支える若い妻といったステレオタイプの美人を好演していたと言える。 ジャンルとしてはSFサスペンスではあるけれど、派手なアクションやスペースオペラ調の派手な特撮シーンはほとんどなく、基本的には密室で繰り広げられる心理的なサスペンスだ。災厄の中心をなすロボットは、首から下の人体を模した骨格に小さな目のようなライトを持つアンドロイドといった造形で、ファラ・フォーセット分する新妻に異様な執着を見せたりする人間っぽさを備えている。こういった美術関係は撮影が行われたイギリス映画らしいマニアックな良さがある。 舞台が土星の衛星で、モンスターが機械で作られたフランケンシュタインものと思えば、なるほどと納得できるものの、当時劇場に見に行ったファラ・フォーセットファンでSFファンの高校生としては、残念ながら納得できる物語ではなかった。テレビシリーズであれほど溌剌と活躍していたファラが、ただただ蹂躙される若妻を演じるのを見る、という諧謔的な楽しみはあるかもしれないが、SFスリラーとしても中途半端(そもそもSFの体を成していない)で、アイドル映画としては大失敗の作品となってしまっている。多くの観客も同じ思いだったのだろう、その年度のゴールデンラズベリー賞を見事受賞してしまったのはドーネン監督の黒歴史だろう。 「人間に対する機械の反乱の物語」は本作品の4年後に「ターミネーター」で見事に映像化されるわけだが、ある意味ではそのプロトタイプだったのかも。
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roomofsdc · 2 years
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SDC映画の部屋「IT/イット THE END “それ”が見えたら,終わり。
前作から27年経った2015年、かつてペニーワイズを封じ込めた「負け犬クラブ」の面々は当時のことを忘れ、故郷を離れて世界中に散らばっていた。一人マイク(イザイア・ムスタファ)だけは図書館職員としてデリーに残り、街の見張りとしての役割を続けていたが、ある日彼はかつての仲間達に連絡を取る「“それ”が戻ってきた」と… 長大な原作は、二つの時代を行き来して収斂していくトリッキーな構成となっているが、映画化にあたって製作側は「子供時代」と「大人時代」に明確に分ける脚本を採用した。これにより一作目は空前のヒットとなり、ラストで「IT第二章に続く」とプロップが出た時に、原作ファンだけでなく一作目のファンも歓喜した。うまい戦略だ。 一作目と同じように、ほぼ原作に忠実に物語は進んでいく。大人になった「負け犬クラブ」たちは無意識のうちに子供時代のことを忘却し、自分達が如何にしてペニーワイズに打ち勝ったかを思い出せない。そんな彼らに「それ」は容赦無く襲い掛かる。「それ」の最大の武器は、人間が持っている不安や恐怖を増幅させる能力だ。大人になって成功したように見えて、負け犬クラブの面々はやはり「恐怖」から逃げ出せていない。あれほど父親の暴力から逃げたいと渇望していたベヴァリー(ジェシカ・チャスティン)ですら、選んだパートナーは父親よりもひどいDV男だったりする。そんな人間の弱いところを「それ」は的確に、そして執拗に突いてくる。そして、かつての少年少女だった彼らは、子供の時のような信念や結束力、そして創造力を喪っている。一人、また一人と「それ」の攻撃に傷ついていく「負け犬クラブ」の姿は、現代社会で消耗していく私たちの姿にも似ている。「それ」の攻撃が私たちの痛いところも明るみに出すので、前作よりも恐怖映画としてのレベルは上がっていると言えよう(ただ後半に向かうに従って、恐怖のレベルが現代を反映するような「痛さ」を伴うようになってくるのは、昨今のホラー映画に慣れていないオールドファンにはちょっとつらかった)。 勝ち目のない戦いに疲れ、諦めかけたビル・デンブロウ(ジェームズ・マカヴォイ)たちは、それでも最後の戦いに挑む、そこからのクライマックスは、かつてTVミニドラマ版で酷評された「それ」よりも遥かに良くできている。CGや特殊効果の進歩がこの30年弱の間に、酷評されないレベルまで持ち上げてくれたと言える。それでもなお、原作の目眩くイマジネーションまでは至らないと感じるのは、あまりに無いものねだりに過ぎるかも。 最後の最後に一作目の「負け犬クラブ」と二作目の「負け犬クラブ」が交差するシーンは、まさにこの作品が「青春映画」を目指していたことを表している。一作目でファンになった観客もここまで観れば満足できること間違いなし。キング作品、しかも純粋なホラー作品の映画化としては稀に見る成功作・ヒット作と言えよう。
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roomofsdc · 2 years
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SDC映画の部屋「IT/イット “それ”が見えたら、終わり。(2017)」
1988年、アメリカのメイン州デリー。閉鎖的な田舎の小都市で暮らすビル・デンブロウ(ジェイデン・リーバハー)は吃音があることから引っ込み思案で病気がちな少年。ある雨の日、一緒に遊びたがる弟ジョーンジー(ジャクソン・ディラン・グレイザー)のために手作りの小さな紙製ボートを作るが、微熱のせいで外に出るのをためらい、弟を一人で外に出す。渋々ながら雨の中に一人で外に出たジョーンジーは、道にできた水の流れにボートを浮かべ、想像の世界の冒険に興じる。ところがボートは道路際の排水溝に吸い込まれ、慌てたジョーンジーは道路に伏せて排水溝の中を覗き込む。驚いたことに排水溝の中に一人の道化師が居て「君が落としたボートはこれかい?さあ、こっちで一緒に遊ぼうよ」と言いながらボートを差し出す。ジョーンジーはせっかく兄が作ってくれたボートを無くしたくない思いから、恐々と手を伸ばすが、その瞬間に彼の腕は暗闇の中に一気に引き込まれていく… スティーヴン・キングの傑作ホラー長編「IT(1986)」は、キングファンの中でも一、二を争う人気作品(多くの場合は「ザ・スタンド(1978)」との間で票が分かれる)で、1990年にトミー・リー・ウォーレス監督によりTVミニドラマ化されている。こちらはオリヴィア・ハッセーがゲスト出演していたり、セス・グリーンが子役(リッチー・トージア役)で出ていたりしているが、一般的な評価は芳しくない(放映当時の視聴率は良かったらしい)。それでも影の主役とも言うべき道化師ペニーワイズを演じたティム・カリーの怖さは際立っており、「ホラー映画に出てくるピエロ」の代名詞にもなった。もちろん本作品でのイメージもティム・カリー版をかなり引きずっている。 原作は、デリーを舞台として、少年少女たちの仲間(負け犬クラブ)が闇に潜む怪物「イット」と子供だけで戦う1950年代の話と、成長した負け犬クラブの面々が故郷に戻ってきて再び恐怖の源泉と向き合う1980年代の話が交互に語られ、ラストへと集約していく複雑な構成となっている。しかも分量がとても多く(邦訳ハードカバーで二冊、文庫版は四冊)、登場人物たちのそれぞれの「恐怖の源泉」について一章ずつが費やされるため全てを語り尽くすにはかなりの時間を要する。しかもクライマックスに至る展開は小説にしかできないイマジネーションで溢れているので、映像にした瞬間に陳腐化してしまうのがオチだ。 今回の映画化にあたっては複数の脚本家がそれぞれの熱意を持って工夫を凝らし、最終的には「子供時代のデリー」に焦点を絞って再構成がなされた。また時代を現代から遡って1988年とすることで「スティーヴン・キングの子供時代」ではなく映画オリジナルの「子供時代」にシフトした。「スタンド・バイ・ミー(1986)」のノスタルジーを「懐かしい」と感じる世代が明らかに高齢化していくことを考えれば当然の戦略であるとも言える(ちょうど2020年代の日本で80年代の邦楽ポップスが流行るのも同じ理由?)。 今回最終的にメガホンを取ったのはアルゼンチン出身のホラー映画監督であるアンディ・ムスキエティ。ほとんどアメリカでは無名に近かったが、本作品で一躍トップ監督の仲間入りをした。彼が狙ったことの一つは80年代のノスタルジーだろう。世界が現代ほど複雑ではないけれど、60年代ほど単純でもない、子供たちをめぐる様々な問題が噴出しかけているが、まだ「子供が子供扱いされる」時代で、その中で「負け犬クラブ」の面々は悩み葛藤しながらも日々を生きていく。その結束力は大人も打ち砕くことができない。底抜けに明るい笑顔とこれ以上ないほどの絶望との間で揺れ動く少年少女たちの姿は、アメリカの自然が溢れる田舎町の空の下で、陳腐な言い方だがキラキラと輝いている。その姿が明るければ明るいほど絶望や恐怖の暗さが際立つのを監督は承知しているのだと思う。とは言え昨今のガチンコホラーと比べると、本作品の恐怖はマイルドだ。ホラー映画嫌いの家人でも耐えられたくらいだから、ふた昔前くらいのレベルなのだろう。それでもこの映画を見て感じるのは、本当の恐怖は下水道の奥の暗闇に棲んでいるのではなく、自分達が日常を送るすぐそばに潜んでいるという事実である。それは父親や母親といった、普通であれば敬愛や思慕の対象の中にあるかもしれないし、もしかしたら自分自身の体内に宿っているのかもしれない。そういったジワリと染み込んでくるような恐怖を、ローティーンの青春映画のスタイルをとって描いている佳作であると言える。 家人は本作を評して「スタンド・バイ・ミー+女の子×ホラー」と呼んだ。まさにその通りと思う。
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roomofsdc · 2 years
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SDC映画の部屋「ウエスト・サイド・ストーリー(2022)」
地面に散らばる瓦礫をアップでうつすキャメラが少しずつ引いていき、古いビルディングが壊されて更地にされていく途中の風景が見えてくる。ここはマンハッタンのアッパーウェストサイド。スラム街が整地されてリンカーンセンターとして再開発されていく途中だ。大きな鉄球がクレーンからぶら下がっている側をキャメラはかすめて、地面に近づいていくと、突然地面が割れて、扉が開く。中から出てきたのは痩せぎすの少年たち、��に手にペイント缶をぶら下げて、次々に地面の穴から這い出してくる。連れ立って歩く少年たちは誰もが見窄らしく薄汚れている。やがて彼らは指を鳴らしてリズムを取り、工事現場のガードを蹴飛ばして通りへと出ていく。彼らの刻むリズムはやがてダンスとなり、通りを歩くうちに仲間が増え、やがて大きな壁に描かれたプエルトリコの国旗の前で足を止める。違いに顔を見合わせ、一斉にペイント缶の中身を壁にぶちまけて国旗を塗りつぶそうとする… かつてロバート・ワイズが監督した「ウエストサイド物語(1962)」の冒頭は、ソール・バスによるマンハッタン遠景のシルエットを図案化した画面が少しずつ色を変えていくのに合わせて「序曲」が流れ���「序曲」の終わりと共に実景に入れ替わるという洒落たものだった。それは例えば、劇場の客席で開演前のベルが鳴り場内が暗くなり、緞帳だけが薄明るく照らされているが、徐々に明るくなりいよいよ幕が上がり芝居が始まる、という高揚感を映画館でも味わうための工夫でもあったと思うが、今回は映画の舞台が自分達の住む場所を追い出されるスラムの弱者たちが主役であることを象徴している。このテーマは、オリジナルの人種問題に加えて、このリメイクで新たに付加されたテーマであると言える。事実、映画全体を通じて、社会の底辺で未来への希望を抱くこともなく、ずっと苦労し続ける少年たちの行き場のない苦しみが強調されており、しかも彼らの住処を壊して建設されたリンカーンセンター(提唱者はロックフェラー三世)が、ミュージカルを始め多くの舞台芸術や音楽の中心となったことが、ショービジネス(とその向こうにいる観客たち)への凄まじいまでの皮肉となっている。そんなシニカルな脚本はスピルバーグとともに「ミュンヘン(2005)」や「リンカーン(2012)」などを作ったトニー・クシュナーだ。この脚本の是非は賛否が大きく分かれるところになるだろう。なぜなら1960年代のミュージカル黄金期傑作の再来を期待するファンにとっては、こんな余計な社会派の視点は邪魔で無意味なものに過ぎないからだ。そもそもオリジナルのファンは、50年代のニューヨークに黒人の姿が映らなかったと言って何か疑問を抱くことなどあろうか。とすれば、スピルバーグとクシュナーの狙いは、オリジナルを知らない世代に、ミュージカルとしての「ウエスト・サイド・ストーリー」の素晴らしさを、現代の視点から提供するというところにあると考えられる。この目的のためにスピルバーグは考えられる最高のスタッフを結集した。プロダクションデザインはウェス・アンダーソンの「グランド・ブダペスト・ホテル(2013)」などのアダム・ストックハウゼン、一見乱雑に見えるが、色彩や構図が綿密に計算されたマンハッタンの街角はどこから見ても均整が取れている。遠景はすべてCGだが、その詳細にも手抜かりはない。キャメラはスピルバーグの盟友の名手ヤヌス・カミンスキー。ジェッツ団が自然光の中で立つ、という単純なシーンでも、自然光の微細な変化が画面で印象的に見えるように工夫されているのは彼のスタイルだ。オリジナルを含めて舞台版の振付は、ほぼジェローム・ロビンスによる伝統的なものだが、今回はそれにジャスティン・ペックというニューヨークシティバレエ団のコリオグラファーによる振付が追加されている。本作品の「クール」はその典型的な例だろう。オリジナルとは全く異なる(そして舞台版とももちろん異なる)斬新な振付は、オールドファンにとっては物足りないかもしれないが、リフとトニーが繰り広げるマーシャルアーツのようなダンスは、若者にとっては魅力的に映るに違いない。そして音楽はもちろんレナード・バーンスタインだが、今回ニューヨークフィルを率いて参加したのは、ヴェネズエラ出身のグスターボ・ドゥダメル(コロナ禍の影響で一部はロサンジェルスフィルの演奏)。彼が世界的に認められるようになったのがシモン・ボリバル・ユース・オーケストラと演奏した「マンボ!」であることを考えると、唯一の選択肢だったとも思える(レニーの弟子という選択であれば佐渡裕でもよかったろうに)。 一方キャストは、ブロードウェイを始め舞台などで認められつつある若手を中心に選ばれた。トニー役のアンセル・エルゴートだけはミュージカルよりも映画での実績が買われているのだろう、他のキャストと比べて声の伸びに差があるのは仕方がない(もちろん「ベイビー・ドライバー(2017)」で見せた繊細で複雑な感情表現は今回も光っている)。トニーとデュエットするマリア(レイチェル・ゼグラー)が素晴らしいソプラノを聴かせるものだから、「トゥナイト」ではちょっと可哀想なくらいだ。アニータを演じたアリアナ・デボースは舞台で高い評価を受けている若手だけに堂々の貫禄。今回アカデミー賞の俳優部門で唯一のノミネートを受けている。オリジナルでアニータを演���たリタ・モレノは、オリジナルのドク役(シェイクスピア原作のロレンス神父の役回り)にあたる薬局店主を演じており、なんと「サムウェア」を歌唱。オリジナルではマリア(声:マーニ・ニクソン)が歌うナンバーで、これは製作者にも名を連ねた特権? 映画としてもクオリティは極めて高いのだけれども、ドラマを重視するのか、ミュージカルを重視するのか、というスタンスの中途半端さがどうも気になってしまった。人種問題に加えて、社会の二極化に関する問題、LGBTqの問題等々、問題意識が目立ち過ぎて、「夢の世界」に入り込ませてもらえないという欠点は大きい。そんな硬質な側面がありながら、フラッシュ・モブ的な「アメリカ」の演出は、群舞をする一段の端に、様々な人種の子供たちが加わって楽しげに踊るというシーンすらある。あまりに他の画面とのギャップがあり過ぎて、これだけで作品の評価がぐっと下がってしまった。スピルバーグの「老い」を周囲の優秀なスタッフが優秀なキャストを揃えて懸命にカバーした作品とでも言えば良いのだろうか。
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roomofsdc · 2 years
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SDC映画の部屋「ALWAYS 続・三丁目の夕日(2007)」
昭和34年東京下町の三丁目商店街、駄菓子屋の店主にして作家の茶川竜之介(吉岡秀隆)は相変わらず、冒険小説を児童雑誌向けに書きながら、純文学の登竜門芥川賞を目指している。前作のラストで三丁目を去っていったダンサーのヒロミ(小雪)を想いながら悶々とする毎日だが、そんなある日、一緒に暮らす淳之介(須賀健太)の実の父親である川淵社長(小日向文世)が淳之介を引き取りたいと茶川の許を訪れる。あまりに高圧的な態度にカチンときた茶川は、芥川賞を獲って一流の作家になり、淳之介を育てると大見得を切ってしまう… 前作「ALWAYS 三丁目の夕日(2005)」同様、原作コミックのエピソードをベースにしているものの、さらに物語を膨らませて連続テレビ小説のような、流れのある人情噺をつなぎ映画オリジナル脚本で作り上げた続編。前作では十分に語られなかった「鈴木オート」とか「川渕社長」の人間背景を書き込むことで、物語に厚みが加わった。また「ともえさん」や「茶川先生」の過去をたどる事で、より感情移入しやすい人物像を作り出しているが、話を広げすぎて脚本が少々散漫になったきらいもないではない。今回新たに登場したキャラクターたちを含めて、どんどん話が広がるとしたら、そのうちテレビドラマ化されて、日テレの「渡る世間」シリーズにもなるかもしれない。しかもこういった新しいサブキャラの上手いこと! さて前作、本作での通底するテーマとして『戦争による喪失』があげられる。前作では基本的に「宅間先生」のエピソードだけだったが、今回は冒頭の「廃墟となる東京(笑)」に始まり、「戦友会」や「シベリア抑留」など、「前の大戦」が昭和30年代の東京の街に色濃く影を落としている。ほんの少し前まで焼け野原だった町がどんどん変わっていく、でも新たな「喪失」が訪れる予兆、あるいは漠然とした不安感も画面から感じとれるような設計となっている。戦争が終わって15年が過ぎ、町の表側はこざっぱりとしたキレイな街並みになったけれど、そこを歩く人たちはかつてこの街が廃墟だったことを知っているし、それ以前の面影が急速になくなっていくことに戸惑いも感じている。そんな社会の背景が前作同様に力技のVFXで描かれている中で、ラストに描かれる完成した東京タワーからの夕日は、当時の東京(そして日本)に暮らす人たちの「期待された未来」を表すように美しい。「喪失」してしまった世界は二度と同じように戻ることはないが、次の世代の子供たちにとっては、必ず新しい世界になる、あるいはなるべきだ、と言う思いがラストで謳われている。 さて、もう十分にヒットもしたし、この物語はこれで完結しておいて、山崎監督には昔どおりのVFX満載の冒険活劇を撮ってもらいたいというのが個人的な感想。以前にNHKの「トップランナー」で「次は『ナウシカ』を全編作りたい」と豪語していたが、その前に「寄生獣」なんか作ってくれないかなあ…(2007年12月26日記)
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roomofsdc · 2 years
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SDC映画の部屋「ALWAYS 三丁目の夕日(2005)」
昭和33年春の東京、下町の三丁目商店街からは建設途中の東京タワーが半分だけ見えている。商店街の鈴木オート社長の鈴木則文(堤真一)の許に集団就職で星野六子(堀北真希)が青森からやってくる。お互いに勘違いの中で住み込みで働くことになる六子をおかみさんのトモエ(薬師丸ひろ子)や商店街の人たちは暖かく迎える。鈴木オートの向かいには駄菓子屋の店主茶川竜之介(吉岡秀隆)が、執筆に忙しい。いつか純文学で名を立てたいと奮闘努力しているが、今は児童雑誌向けの冒険小説で筆をつないでいる。商店街の一角で居酒屋を営む石崎ヒロミ(小雪)は父親の借金のせいでストリップ劇場で働き、苦労の末ようやく念願のお店を開くことができたものの生活は楽ではない。そんな中、ヒロミの知人(奥貫薫)が息子の淳之介(須賀健太)を連れて三丁目にやってくるのだが… 「三丁目の夕日」はビッグコミック・オリジナルの創成期から「あぶさん」「浮浪雲」と並んで長期連載されていた、原則として一話読み切りのコミックだ。小学生の頃から愛読していた自分としては、「三丁目の夕日」の映画化?何を今さら?と思ったのが正直なところだ。ありきたりの昭和人情噺を平成の時代に映画化する意義はなんぞやと訝しみ、さらにはあのVFX職人にしてSF映画マニアの山崎貴が「リターナー(2002)」の次作として監督すると聞いてますます不安になった。ところが蓋を開けてみたところ、爆発的な大ヒットを記録し一種の社会現象にまでなったのは皆さんご承知の通り。私も公開から少し遅れて、実家の老父母を連れてシネコンへと足を運んだ。 原作のいくつかのエピソードを組み合わせた脚本はお約束どおりではあるが、つぼを押さえた演出により面白いほどに観客の涙腺を緩ませる。なにより全ての出演者の演技が出色。吉岡秀隆はいつもの臭さが少々鼻についたが、それぞれ異なったキャラクターを演じた薬師丸ひろ子と小雪という二人の女優たちは、何気ない仕草や言い回しに感情の機微を感じることができた。そして子役たちの真っ直ぐさ。何回も「泣かせる場面」が出てくるたびに、観客席からはすすりなく声が聞こえ、そしてラストシーンの夕陽に至ると、もう涙をぬぐうのも忘れて頬が上気するのを感じるくらい。実際、多くの映画評で、「『三丁目の夕日』の夕陽は、『スターウォーズ・エピソード3』ラストのタトゥイーンの夕陽の美しさに匹敵する」と絶賛されていた。 山崎貴は「ジュブナイル(2000)」「リターナー(2002)」とVFXを駆使した、SFファンタジーやアクションで密かな人気を博していた人。この2作では鈴木杏をはじめ、少年少女たちが生き生きとした活躍をしていたことが印象に残っている。子供の演出が上手い人は、大人の演出も上手いという好例(「ホーム・アローン」「ハリ・ポタ1、2」のクリス・コロンバス監督も同様)。 本作品の公開時はちょうど「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」の公開と重なり、シネコンは大勢の観客で賑わっていた。本作品は口コミで支持を広げ世代を超えたヒットを続けてロングランとなり、この年度の日本アカデミー賞作品賞・監督賞を始め12部門を独占した。山崎監督は、次世代の本格派監督として一躍スポットライトを浴びることに���る。 映画の後に、両親と子供たちと一緒にシネコンが入っているショッピングモールの回転寿司で遅いランチを食べた。老父は「すごいもんやな、あんな当時のままに映像にできるとは大したもんや」と言い、老母は当時の芸能人や社会の話を楽しそうにしていた。まさに彼ら彼女らの青春の風景がスクリーンに広がったわけだから当然の反応なのだろう。当時を知る人たちにしてみれば、あの時代は決して希望ばかりに満ち溢れていた時代ではないだろうが、その記憶の良いところだけを取り上げて繰り広げる、現実のように見える虚構の「夢の世界」を本作品は提供してくれた。中味の善し悪しはともかく、映画の力の大きさを感じた思い出でもある。
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roomofsdc · 2 years
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SDC映画の部屋「ダンサー・イン・ザ・ダーク(2001)」
アメリカの小さな田舎町、移民のセルマ(ビョーク)は小さな息子とトレーラーハウスで暮らしながら、プレス工場の勤務と内職で生計を立てている。彼女には遺伝性の眼疾患による失明の恐れがあり、同じ病を持つ息子のための治療費を密かに蓄えている。トレーラーハウスの持ち主の警官のビル(デヴィッド・モース)、同僚のキャシー(カトリーヌ・ドヌーヴ)やジェフ(ピーター・ストーメア)らの助けを受けながら、仕事を続けるセルマだったが、徐々に視力は失われ、やがて工場で大きな失敗をしてしまい職を失う… デンマークの映画作家ラース・フォン・トリアーが脚本。撮影、監督を手がけた、2000年カンヌ映画祭パルムドール受賞作。日本ではパチスロメーカーのアルゼ(現在のユニバーサルエンターテイメント)が配給スポンサーとなり、これだけ地味で暗い映画にも関わらず大ヒットを飛ばす原動力となったことが記憶に残る。ラース・フォン・トリアーはデンマークにおけるドグマ95と呼ばれる映画運動の提唱者であり、人工照明やスタジオ撮影などを極力排除する独特な映画スタイルが特徴であるが、本作品はセルマの幻想という体裁ではあるが、人工的な照明やセットによるミュージカルシーンが満載(というよりは半分くらいがビョークのミュージックビデオ)で、本来のドグマ95の作品とは言えない。それでもザラザラした音声や自然光を多用した美術、手持ちの不安定なキャメラなど、通常の商業的な洗練された作品を見慣れている観客にとってインパクトは小さくない。ちなみに本作品の舞台は「アメリカの田舎町」とだけ規定されているが、飛行機に乗らない主義のトリアー監督は、この映画の全編をスウェーデンやデンマークなどで撮影している。基本設定自体が「虚構」の上に成り立っているリアリズム映画だ。 しかも物語は一言で言えば「救いのない」映画だ。親身になって支えてくれ、思いを寄せてくれるカトリーヌ・ドヌーヴやピーター・ストーメアは優しい隣人ではあるが、彼らもまた社会的には弱い人間だ。か弱いが故に過ちを進んで犯すデヴィッド・モース(名演!)もまた然り。彼らに囲まれながらセルマだけがぶれることなく、苦しくとも自分の世界を生き続ける。白昼夢の中、幻想的な世界で歌い踊る自分の姿が彼女の生きがいだ。彼女はミュージカルが好きな理由として「ミュージカル映画では不幸なことは起こらない」と言う。現実は名実共に「暗闇」でしかない。その過酷で不条理な運命を背負った小さな女性をアイスランド生まれの歌姫ビョークは見事に演じ抜いた。 ビョークは当初音楽だけを引き受けるつもりだったが、曲作りをするうちにセルマの人生そのものが憑依するような境地に至ったらしい。最初の撮影まで一度もキャメラテストを行わなかったとトリアー監督自身も述懐している。その熱演はカンヌの主演女優賞に結実し、アカデミー賞歌曲賞などにもノミネートされている(なおアカデミー賞授賞式でのビョークのスワンドレスもやはり衝撃的だった)。音楽はほとんどがビョークの筆によるナンバーで、サウンドトラックは後日スタジオ録音で「セルマ・ソングス」としてリリースされ世界中でチャート上位に入った。私も買ったけれど、劇中で最後に披露される「最後から2番目の歌」は収録されていないのは残念至極。 本作品は完成前からビョークとトリアーの衝突が報道され、完成が危ぶまれていたが、クリエーター同士の葛藤があって初めて芸術作品が生まれるのも自明の理(「2001年」のクラークとキューブリックが良い例)。そもそも、この二人が似た者同士であることは最初の邂逅時から分かっていた、と当時のパンフレットにさえ記載されている。2021年に4Kデジタルリマスター版が公開されたが、飽きもせずビョークとトリアーが中傷合戦を再び繰り広げているのも宜なるかな。
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roomofsdc · 2 years
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SDC映画の部屋「エレクトリック・ドリーム(1984)」
オタクで冴えない理系男子マイルズ(レニー・フォン・ドーレン)は、仕事のスケジュール管理のために一台のパソコンを買う。ある夜、誤ってシャンパンをパソコンの上にこぼしてしまい、奇跡的な偶然の結果として、パソコンが自我を持ちマイルズとコミュニケーションをとるようになる。彼のことをエドガー(VC;バッド・コート)と名付けたマイルズは、エドガーの「教育」に没頭するが、そんな時二人の住むアパートの上階にマデリーン(ヴァージニア・マドセン)という若いチェリストが引っ越してきて、マイルズはたちまち恋に落ちる。ところがエドガーもマデリーンに想いを寄せるようになったことから、事態は急展開する… 何度も述べるように1984年はSFやファンタジー映画が大豊作の年だった。「ターミネーター」「エルム街の悪夢」「スターマン」「ゴースト・バスターズ」「グレムリン」等々、枚挙にいとまがない。その中で本作品はマイケル・ジャクソンの「今夜はビート・イット」やa-ha の「テイク・オン・ミー」など、スタイリッシュで物語性のあるミュージックビデオを製作していたスティーヴ・バロンの長編監督作品第一作である。当然、音楽も力が入っていて、ヒットメーカーであるジョルジオ・モロダーが音楽監督を務め、カルチャークラブやELOのジェフ・リンなどによるナンバーに乗せてスタイリッシュでビートの効いた映像が満載されている。MTVのビデオクリップ風にも見えるとの批判もあったが、順番が逆で、本作品のスティーヴ・バロンとジョルジオ・モロダーがこんなスタイルを開拓した創始者であるとも言えよう。 映画本体は基本的にロマンチック・コメディだが、三角関係になるのが人間の男女とコンピュータという非生物というところがSFファンタジーならでは。エドガーは自分の能力を発揮して、マイルズの仕事をメチャクチャにしたり、クレジットカードを無効にしたり、と現代のネット社会の脅威を予見する狡猾ぶりをみせる。その一方でシラノばりの恋文をマデリーンに送り、彼女をキュンとさせるなど、あたかも血肉を持った存在のような振る舞いをみせる。それでも「ボディ」を持たないエドガーはマデリーンと結ばれるはずもなく、やがて絶望するエドガーが選んだのは…というSFとして王道の「人間VS人工知能」テーマが物語の骨格をなして���る。最後まで物語の緊張が失われないのはこうしたSFサスペンスの趣があるからだろう。 ただし本作品の最も魅力的な部分はコンピュータの自我が生まれ、そして人を愛するという過程が、美しくファンタジックな映像で描かれているところだ。コンピュータ内部の基盤をシャンパンが満たし弾けていくVFXは、生命の誕生や愛の歓喜を想起させる美しさに溢れている。一つ間違えば「2001」のHALになってしまうが、恐ろしいモンスターではなく愛すべき存在として描いたことで、後味の悪いサスペンスではなくあくまでラブコメディ映画として成立している。スタイリッシュな映像とクールな音楽が支えるデートムービーとして当時は話題になったが、その後は再映の機会もなくサントラも廃盤となってしまった。現代(2022年)のAIの進化を思えば、今後は現実と物語が交錯する可能性もあるだろうが、前世紀の隠れた名作として(そして当時の若手アイドルだったヴァージニア・マドセンのキュートさを愛でる映画として)評価したい。
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roomofsdc · 2 years
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SDC映画の部屋「残穢 住んではいけない部屋(2015)」
小説家として生業を立てている「私」(竹内結子)はオカルトやホラー色の強い作品も手がけているが、超自然現象については懐疑的な立場をとっている。作品のあとがきで「読者の怖い話」を募っていたある日、読者の久保(橋本愛)から一通の手紙が届く。彼女が住んでいるマンションの1室で夜に仕事をしていると、背後にある誰もいない和室から「畳を何か重いもので擦る音がする」と言うのだ。しかもそのマンションでは入居者が居つかない部屋があって引っ越した人たちが不可解な死を遂げていることも分かり、興味を引かれた「私」は同業のホラー小説家である平岡(佐々木蔵之介)や心霊現象マニアの三澤(坂口健太郎)とともに久保の住むマンションの謎を調べることになる… スティーヴン・キングを敬愛し、ホラーやファンタジー小説でその名を知られる小野不由美の「残穢」の映画化。小野作品の実写映像化としても初めて(ファンタジーの「十二国記」シリーズなどはアニメですでに映像化されている)で、そのジャンルのクラスターではかなり話題になった。私は原作を先に読んだのだが、夜中に家中が寝静まったあとに一人で読んでいて、あまりの怖さにそっと頁を閉じたほどだ(翌日明るい時間帯に読了した)。その後に映画化が発表されたため、期待と不安を半ばにしながら劇場へと足を運んだのだが。 原作で最も怖いところは、起きている異常な現象の本質が分からないことだ。どんな怪異であっても、理由が分かって、それに名前がつけられれば、対処の方法も考えることができる(もちろん諦めてしまう、という選択肢を含めて)。ところが怪異の本質すら分からないままで、理解できない現象だけがいつまでもどこまでも追いかけてくるという状況は、当事者をどんどんと追い込んで、人間の心を蝕み、その人生を破壊してしまう。一方で、懐疑主義者である主人公の「私」は、それを一種の「穢れ」という概念で捉えて、怪異の連鎖を時代を遡って調べていく。やがて自分自身が「穢れ」の真っ只中に陥るのに、合理的な考え方は全くぶれない。そのアンバランスさが小説全体の「怖さ」をさらに強めているが、これは小野不由美自身を投影したかのような主人公の造形が一役買っていると言えよう。作者が安全な場所にいない、という印象は、読者をも不安な気持ちにさせるからだ。その意味で「私」を演じた竹内結子は抑制的な感情表現で、懐疑主義的な小説家というキャラクターを好演している。一方で平岡役の佐々木蔵之介も「編集者役の山下容莉枝も「私」の夫を演じた滝藤賢一も、見るからに人を不安に陥れる演技が持ち味なので、「観客の足元を脅かすような恐怖感」が逆に殺がれてしまったように感じた。 それでも最初に出てくる「畳の表面を何か重いもの、ちょうど帯のようなものが規則的に滑る音がする」という怪異は、現実のイメージと音で体験すると、しばらくは和室を背中にはしたくないなあ、と思わせるほどの怖さがあった、久保役の橋本愛の美人さも恐怖のレベルを押し上げてくれている要因だ。 監督の中村義洋は「ほんとにあった!呪いのビデオ」シリーズなど実録物ホラーに長く携わってきた根っからのホラー映画監督(本作品に合わせて、やはり小野不由美原作の「鬼談百景」というWEB企画もしている。こちらは「残穢」ほど手の込んだ話ではなく様々な監督によるオムニバスとしてまとめた短編ホラー集)。小野不由美の同じようなテイストのホラー「営繕かるかや怪異譚」なんかを作ったら面白そうなんだけど、本作品以降はおもにコメディ時代劇での活躍が主となっている。本作の主演女優の不幸などもあり、簡単には本格ホラーには手を出さないだろうなあ。
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roomofsdc · 2 years
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SDC映画の部屋「寄生獣 完結編(2014)」
前作(「寄生獣(2014)」)のラストで母親に寄生したパラサイトを倒し、人間社会に潜伏し「捕食」を繰り返すパラサイトたちを「駆除」する孤独な戦いを続ける新一(染谷翔太)とミギー(阿部サダヲ)。そんな彼らをパラサイトたちのコミュニティも放置しておくはずもなく、彼らの監視を続けるべきと主張する「田宮良子(深津絵里)」と、排除すべしという代表の広川市長(北村一輝)は対立し、緊張が高まる。一方で人間社会でもパラサイト対策組織によって、パラサイトの発見と「害獣駆除」作戦が進行しつつあった。新一とミギーは両陣営からマークされながら、「田宮良子」と接触を持つことになるが…
岩明均の傑作コミック「寄生獣」の映画化完結編は前作からおよそ半年後に公開されたが、前作以上に戦闘シーンを増やした、SFアクション映画となっている。原作では、主人公たちが葛藤を続けながら最終的な戦いに挑むまでのプロセスを単行本六冊分くらいで描いていたが、さすがにこれを2時間弱に収めるのは乱暴な話だったと思う。 その中で最も印象的だったのは、深津絵里演じる「田宮良子」をめぐるエピソードだ。原作でもこの回はファンたちの間でも最も人気のある部分だろう。異質な生物であるパラサイト、それを異質な敵として描くのはVFXを駆使すれば容易だし、演技力もそれほど必要ではない(東出君を指しているわけではない)が、人間に限りなく近いけれど、人間とは異なる実在を描きながら、ずっと人間らしい重みをもって表現した深津絵里の演技力は特筆に値する。 一方でヒロインとして原作で重要な位置を占めていた村野里美(橋本愛)については、おそらく監督を始めスタッフの中でも、人物造形に迷いがあったように感じる。主人公にとって恋人であり母親であり、そして自分と人間世界(すなわち日常の現実)とをつなぐ唯一のリンクでもあるヒロインであるべきはずが、脚本上十分な設定を入れ込めなかったせいだろう、中途半端な立ち位置のキャラクターに留まってしまった。せっかくセミヌードを見せてベッドシーンまで演じた橋本愛に申し訳ない。 本作品は最後に新井浩文演じるサイコパス浦上との対決で幕を閉じる。映画公開後のレビューでは、蛇足のように扱われて批判されたこのシークエンスだが、戦いの果ての悲劇で終わるのではなく、パラサイトを含めた地球上の一生物としての人間に託された希望として、原作と同じようにラストが締めくくられたことは、この前後編が(いろいろと瑕疵はあるが)原作の精神に「愚直に忠実」に製作されたことの証でもある。いろいろと批判もあったが、コミックを原作とする本格的なSF映画として成功した方と言えるのではないか。
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roomofsdc · 2 years
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SDC映画の部屋「寄生獣(2014)」
ある夜、深海から無数の球体が浮かび上がり、そこから生まれた小さな生物が町中に這い出していく。生物は寝ている人間の耳から体内に入り、やがて朝が来ると、生物に寄生された人間たちは「捕食」を始める。普通の高校生だった泉新一(染谷翔太)は、偶然イヤホンをしていて脳に寄生されずに右腕だけを生物に奪われる。右手に寄生したミギー(阿部サダオ)と新一は想像だにしなかった世界の中へと足を踏み入れることになるのだが… 岩明均の傑作コミック「寄生獣」を、「ALWAYS 三丁目の夕日」で一躍トップ監督にのしあがった山崎貴が映画化した話題作。2014年の東京映画祭でワールドプレミア上映もされた。原作は全10巻の短めの長編となるため、前・後編の二部作として、山崎貴・古沢良太の共同脚本により再構成されている。基本的に原作に「愚直に忠実」ではあるが、尺の関係だろう、重要なエピソードがいくつかすっぱりと割愛され、前後編合わせて4時間程度に収められた。本作品はその前半部分に当たるが、おもに原作の1〜4巻あたりまでとなる。 そもそも「寄生獣」の醍醐味の一つは、人体が想像もしない形へ変形し、あり得ない動き方で人間を「捕食」するというイマジネーションにある。右腕だけを寄生された主人公は、人間の意志や感情を保ったままで肉体の変形や超人的な運動を行うことができるようになる設定だ。ちょうど原作が「モーニング」や「アフタヌーン」に連載され、ファンたちに熱狂的に支持されていた頃(おおよそこの前半の部分にあたる)、「ターミネーター2(1991)」が日本でも公開され、登場する流体金属型のターミネーターのSFXを見て、「これなら『寄生獣』の実写化も実現できる!」と色めきたったファンは多い。2000年頃にもニューラインシネマが映画化権を獲得したとのニュースもあり期待も高まったが、実際の映像化にはさらに10年以上の月日が経ってしまった。「リターナー(2002)」を観た時に、この監督なら「寄生獣」の映像化もできるはず、と私は確信していたが、ニューラインシネマの映画化権が放棄されたときに真っ先に手を挙げたのは彼だったことは個人的に嬉しい限りである。 さて前述の通り、本作品ではできるだけ原作のエッセンスを再現するために、あえて主人公が母子家庭に育ち、父親が早くに亡くなっている設定にして、父親が絡むエピソード(すなわち夫婦で行った旅行先での話)がすべてカットされている。一方で主人公たちの戦いぶりと成長が丁寧に描かれ、「島田秀雄」や「母親」とのシーンがクライマックスに当てられる。もしこの作品が三部作になるようであれば、父親とのエピソードや「ジョー」の話も加えて、「母親」編とするのが妥当だったかもしれないが、これはないものねだりである(第二作を「田村亮子編」、そして第三作が「加奈子」から「後藤」にかけてとすれば収まりが良いようにも思うけどね)。 主人公を演じた染谷翔太は当時若手の演技派を代表する俳優、CGを頻用する作品での不安もあったと思うが、気弱さの残る少年から人間離れした強靭さを持つ青年への変身を好演した。「島田秀雄」を演じた東出昌大は、人間らしい感情を表さない演技(地という説もある)で不気味さが表れていた。 最初に述べた「肉体の変形」に関する表現は、おそらく山崎監督もここに大きなウェイトを置いていたであろう、満足すべき出来である。生物学的にあり得ない動きをするけれど、物理的には制約を受ける運動(例えば分かれた個体の触手は重量が軽くなるので、物にあたっても物理量の影響が小さい)が丁寧に描かれ、荒唐無稽なアクションにリアリティを与えていた。SF映画ファンはこんなところに萌えるのだから、「ヤマト」の失敗を繰り返さなかったのは流石である。
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roomofsdc · 2 years
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SDC映画の部屋「パブリック・アクセス(1993)」
アメリカのとある田舎町にやってきた謎の青年ワイリー(ロン・マークエット)。地元のケーブルテレビ局を訪れ、ゴールデンタイムの番組を買い取りたいと言ってくる。彼が作り始めた番組は、「我が町(Our Town)」というタイトルで、視聴者を電話で参加させて「我が町」の問題点を語ってもらう、という趣向。この田舎町は、犯罪率も失業率も少なく、ごくごく平和な町のようで、住民の不満も少ないように思われたが、蓋を開けてみると、番組は視聴者の支持を得るようになり、青年も町の住民に受け入れられ始める。しかし、この町は本当に平和なのだろうか?青年の意図するところは何なのか?そもそもこの男は何者なのか? 「ユージュアル・サスペクツ(1995)」「X-MEN(2000)」シリーズのブライアン・シンガー監督がサンダンス映画祭で受賞した第一回監督作品。「パブリック・アクセス」とは本来、市民あるいは視聴者が自ら企画立案し、行政や社会機構を修正していくための、市民参加型メディアの形式を指す。アメリカでは一般に地域型ケーブルテレビなどでよく見られる、オリジナルチャンネル番組を意味する一般的な名詞、らしい。 一言で言うと、サンダンス映画祭系の社会派サスペンスドラマ。ブライアン・シンガーの演出は手堅いものの、面白みはなく、「我が町」と主人公の青年の虚飾がはぐられていく過程が、少々退屈なペースで描かれていく。設定だけをみるとスティーヴン・キングの「ニードフル・シングス」のようなサスペンスになるのかと勘繰っていたが、終わってみるとごくごく普通の物語だった。 冒頭から「歩いて」街にやってくるあたりで、主人公が謎の多い人間であることが示唆されている、そんな捉えどころのない主人公の視点で、物語が進められていくため、感情移入が極めてしづらい。彼が何を考えているのか、これから何をしようとしているのかが、物語を追っていてもまったく読めないのだ。そんな不親切な作品ではあるが、それでもラストまで緊張感を持続させる脚本(ブライアン・シンガー自身)と演出は監督の剛腕なのかも。今回はDVDで見たが、映画館で観たとしたなら、どっと疲れがでてしまいそうな作品。(2002年5月7日記)
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roomofsdc · 2 years
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SDC映画の部屋「パール・ハーバー(2001)」
第一次世界大戦後のアメリカ、中西部の田舎でともに育った二人の少年は大空に憧れて、長じてパイロットとなる。その一人レイフ・マッコリー(ベン・アフレック)は看護婦のイヴリン(ケイト・ベッキンセール)と恋に落ちるが、ヨーロッパ戦線の激化に伴いレイフはイギリスへと旅立つ。もう一人のダニー・ウォーカー(ジョシュ・ハートネット)はハワイの航空隊に転地となり、同じく軍の看護婦として赴任していたイヴリンと再会するが、レイフが戦死したとの知らせが届く。悲しみの中で距離を縮める二人だが、奇跡的に生存していたレイフの帰国に伴い、三人の関係は縺れていく。そして1941年12月の運命の日が訪れる…
「どうしてアメリカって国は、勝つまで満足できないんだろう。」一緒に劇場に見に行った家人が最初に漏らした感想だ。まさにこの一言に尽きる。 たしかに真珠湾攻撃のシーンは圧巻だった。満席に近い劇場で、前の方で鑑賞したのだけれど、途中で気持ちが悪くなるほどだった。 戦争映画の常だが、作った側の視点と論理で製作されることは致し方がない。しかしながら本作品は故意に曲げられた歴史認識・ご都合主義・被害者意識の押しつけ等々、つっこめばキリがないので割愛したい。ただし多くのレビューで取り上げられている「この映画の日本軍部の描き方はどうみてもおかしい」点については、むしろファンタジー映画に出てくる架空の帝国かと思わせるほどで、日本の若い世代にこれを見せても「自分の祖国の話ではないでしょ、まさか?」と誤解させる狙いがあるのかなと穿った見方をさせるほど、見事な荒唐無稽ぶり。日系俳優のベテランであるマコ・岩松(彼自身は日本生まれの日本育ち)が山本五十六を演じているが、公開後の取材で「この映画を見ていない」とまで言っている。会議の風景(なぜ海岸の崖の上で開いている?)といい、鳥居の下に掲げられた日章旗と言い、ここまで現実離れした美術はむしろ潔いくらいだ(全く褒めていない)。 そういったことを全部棚に上げておいても、この映画は壮大な失敗作だ。3時間を超える上映時間でかろうじて観られるのは真珠湾攻撃までで、そこで劇場を出てもまったく支障ないと思う。映画の後半は「アメリカが勝つ」まで、といっても終戦までやるわけではなく、ドゥリトル航空隊の東京空襲(1942年4月18日)までなのだが、こちらはレイフとダニー、イヴリンとの三角関係を延々と続けるだけで前半のような戦争アクションのカタルシスも、人間ドラマの深みもないので、個人的には鑑賞中ずっとエンドマークが出るのを心待ちにしていた。 ということで、この映画はここ数年での最悪最低の1本の一つと断定したい(ちなみに「アルマゲドン」もその一つだけど、やっぱりマイケル・ベイは相性が悪いなあ)。(2001年7月22日記)
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