備忘録やエンタメ諸々の感想、日常雑記、絵の話しなど。雑多です。
Statistics
We looked inside some of the posts by sasaya-fiber and here's what we found interesting.
Inside last 20 posts
Time between posts
8846829.2
Number of posts by type
Photo
0
Video
0
Audio
0
Text
0
Chat
0
Answer
0
Link
0
Quote
0
Explore Tagged Posts
sasaya-fiber · 9 months ago
Text
前へ
久しぶりにここに日記を書く。
日記というよりは備忘録に近い。mixiを読み返してもいいけれど、昨年末ごろにそれを見たときに、余りの幼さに少し失笑が漏れた。若い、というか青い。自分も年を取ったという事なのかもしれない。おそらくこの文章も明日以降見返すと誤字だらけなんだろうと思うが、だいたい私が長文で何かを書き記している時は病状が宜しくない時に無理に自分を奮い立たせているときなので、もうこれも自分を許すほかない。自律神経系がおかしくなると、真っ先に認知のゆがみの兆候として誤字が出るのは患い始めた当時からの一番の痛手だった。今でもありがたいことに文筆でお金を頂くこともあるが、もうおそらく、週単位・月単位の締切に追われるタイプの職には就けないのは間違いない。お金を出して校正をお願いできるだけの稼ぎがなければ無理だ。まあ、中島らもも、最終的には口述を奥様に書き取ってもらって原稿を進めていたというのだから、そういうのもありかもしれないけれど、そこにどれだけの居直りと申し訳なさと戦う葛藤がないとやっていけないのかと考えると、私の真面目くずの真面目の部分が顔を覗かせておびえが先に立ってしまう。
mixiのあの頃にあった私の文章が不意に幼く見えた。幼いことは悪いことでもないし、あの猛烈に生き急いでいて、何かに立ち向かっているようで、その実なにも世間を知らないで、器用に自分の最大の痛手を学生時代から無意識に回避しつづけ、その痛手を無自覚な故に搾取し続けられた周囲の環境も含めて、私はいつのころからかどうやっておかしくなっていったんだろうなと思ったりする。人生に於いて後悔していることはおそらくは世間一般の人たちよりは少ないだろうという自覚はあるが、それでもそれとこれとは別で、ここ数年でようやく自分は不幸で不運なのには間違いないと思った。Youtubeの動画で自分の見聞きしてきた世界や自分が経験したような世界の出来事の話で閲覧数が稼げている時代なので余計、というものがある、テレビでは紹介できない人間生活の様々な側面。それを面白がって再生する、視聴する、それに耐えうるネタだと判断されるくらいにはそういうものは物珍しいらしい。狂った人なんてごまんといると個人的には思うのだけど、割とみんな『自分と自分以外は別』と認識してそういったものをコンテンツとして楽しむという器用なメンタル危機回避能力が備わっているらしい。パートナーに言われた、人にできにくいが自分にはできやすいことの一つが共感覚の強さなんだなと思ったりもするのだが、共感覚のオフというのがメンタルの保持に非常に役立てている人が世の中の大多数だという事もここ数年でわかったことだ。明日は我が身と考えない能力。恐ろしい人や奇妙奇天烈な人、狂った人がもしかすると自分なのかもしれないとか、もしかすると自分の隣の家や階下や、ともすれば同じ屋根の下に住んでいる人の可能性すらあるのではないかとか、思わないのだろうか。不思議な感覚なのだけど、自分の処方箋を見るだに、そう考えるのはやはり不安をあおって不健康にしてしまうらしい。精神科の病院の待合室には常に『見覚えのない人』が座っているのに、なぜ?と思う。今は約三か月に1回、多かったときは2週間~1か月に1回。待合室が物凄く混んでいる時も閑散としている時もあった。それでも最低1回に4人くらいは自分以外に患者がきていた。それを13年ほど繰り返してきている。そしてその誰一人として顔を覚えていない。同じだなと思った人がほとんどいない。もし全員が別人だったとしたら、私が住んでいる市区町村で最低でもその病院に通っている人は単純計算で200人は超えることになるのだろうと思う。あの病院のカルテは何人分あるのだろう。近所で何食わぬ顔で病院に通っている人は何人?自分がおかしいと気づかないで病院に行っていない人は何人?匂いがしないだけで、近所迷惑レベルではないだけで、部屋がごみ溜めの人は何人?障碍者手帳を貰っている人は何人?生活保護を受けている人は何人?…いつのころからか、おそらく覚えている限りでは中学生のころからそうやって考えて生きてきた。
それにつけても、過去の自分の文章で奮い立つことがないくらいには自分もどうやら老いたなと思うし、自分の病状はよくなっているのか悪くなっているのかもわからない。数日前から感じる目の違和感や、白い画面を異様にまぶしく怖く感じるようになったのも要因がわからない。自律神経がいかれたのか、脳神経の何かなのか、腎臓の何かなのか、肝臓のなにかによるものなのか。わからない。病名すら教えてもらっていないので当然なのかもしれない。対応できる薬の飲み方はわかっているが、対処療法にすぎない。もう15年近く通っている病院では治療法というよりは「物事のとらえ方を変えよう」という事を常に教えられてきて、実際問題それはとても大切なのだが、当たり前だが医者なので確定的なことは基本的には言われていない。医師にもよるのだが、ロジックを説明するタイプの医師が主治医ではないので余計に、というのもあるのかもしれない。半年ほど前から待合室のBGMがラジオになったあたりから先生の様子も妙におかしく、同じことを言っているのに同じ人に見える時もあればそうでもないように見えることも増えた。フォロワさんのひとりの言によれば『先生も人間だし病むこともありますよ』とのこと。近所の総合内科の主治医はパソコンやインターネットが人を病ませていると思う、と私に言い、私はパソコンがあったおかげで友人をみつけ生きる気力を見つけた人の話をした。医学的知識があったとしても、医療従事者としてのポリシーが同じとは限らないし、更に世間や病に対する認識も人それぞれで、固定されるものでもないということだろう。セカンドオピニオンは今月後半、もうそろそろ、少し楽しみではある。若い医師。大学の准教授もしているという。さて、どう判断されるのだろうか。
不安や迷いはチリや埃のように積み重なって、気が付いたら急に舞い上がって視界を覆い隠す。体調が優れないで体を起き上がらせられないとき。パートナーとくだらない話に興じているとき。キャラクターのデッサンをしている時。指先でゲームを触っている時。映画を見ている時。老齢になってきた両親と食卓を囲んでいる時。もう先が長くない祖母と話をしている時。大人びて少女という名称が相応しい体躯になった姪っ子を見ている時、何かをうかがうようにこちらを見ている、誕生日が同じ甥っ子と目が合ったとき。父がリビングのソファでまるで死人のように口をぽかんとあけて深く眠りについている時。
私は何歳だった?何歳のつもりで今いた?来年はどうする?明日はどうする?パートナーとのことはどうする?今までやってきたことでミスはしていないか?洗い出してみよう、何がいけなかった?どうして今自分はこんなことになっている?後悔はしていないけれど、どうしてこうなっているか疑問で仕方がない。どうしてこうなっている?どうしてこの風景に自分はいる?では自分はどうなりたい?どうしてそこにいけない?自分はどうすべきだ?洗い直すことから始めよう、でも無意識に回避している部分が必ずある、向き合うべきものはなんだ?悔いのないように突き進むべき明日はどっちだ?という風に。
貧血のように気が遠くなったり、急激に眠気が襲ってきたり、味覚過敏、光過敏、音量過敏、集中力減退、急速な倦怠感、意味もなく出る涙、まったく逆の無感情、制御できない体温感覚、頭にこびりつく夢、ひどい便秘、その他もろもろ…確実に身体に出てくる症状は増えている。逆に言えば、パートナーの言ったとおり『自分はこんなにしんどいものを背負っていたのか』と実感している時期なのかもしれない。過渡期と考えれば楽なのかもしれない。悪化したのか、それとも…?見えない。指標がない。怖い。その怖さとの戦いなのだと思う。
自分を守るために休むのか。自分を進ませるために戦うのか。今自分がしている無茶はどっちだ?今自分が休んでいるのはどういう意味があってだ?普段生きている人たちはそこのジャッジを無意識かつ割と正確にできているのだろうか。だとしたらとても羨ましい能力である。わけてほしい。
jのライブはアンコールに入った。50歳の誕生日、9月で終わる赤坂ブリッツ。先日のタイムシフトを聴いている。明後日には納品が迫っている。にもかかわらず割と作画コストの高いものをデザインしてしまった。仕方がない。やるしかない。割といいデザインなので気に入っている。体はボロボロなのに、こういったときにいいデザインが沸いてでてくるのは、もう自分の中で追い詰められた感覚が変な形でタガを外して噴出して筆を走らせるからだろう。作家が薬を求めたがるのもわからんではない。感覚的なものを作り続けるには、結構なメンタルのコントロールが必要だ。しかも、それを歌うというなら猶更。
パートナーの感性もあって、Jというミュージシャンをここ半年で掘り下げることとなった。珍しい人種だと思う。清春が『ハードなものを演るにはパワーが必要で、年齢とともにそれは厳しいものなので』と割り切ってSADSを停止させたことも(と、同時におそらくこの調子だと黒夢も止まる方向だろう)あって、自分の年齢と共にクオリティが下がったように見えないようにしつつ自分を、自分たちを守りながらどう『長く』続けていくかが50代を越えたロックバンドの命題となっている。自分のいるバンドもそうだが、人間とは割と愚かしいもので、KISSやガンズなどをはじめ、自分たちが好きなアーティスト達が老いていく中でどんな風に作風やパフォーマンスを変遷させていったかに気づかないで、自分が中高のころに観た数十年前の若かりしアーティストの印象のままそれを自分の活動に落とし込み、ある日、早くて30代後半で『もうあの頃のようにギターを抱えてジャンプできない』と言う人たちは多い。女性のそれとは違って、男性の『老いとの向き合い』はミュージシャンにとっては非常に怖いものだろうと思う。リーダーも一時期ノイローゼに陥っていたようだし、そのタイミングでお母さまの介護や逝去があったことでそれなりにどう向き合い、どう逃げるかは考えたようだった。どうも逃げる方向にしたっぽいのであまり深入りはすまいと思うが、男性としては魅力は衰えそうな予感がしているので少しがっかりしている。まあ、いい父親ではあるようなので、もう私の立ち入る余地はない。問題は自分の逃避行に他人を意地でも巻き込もうとする癖があるので、もうメンバーと自分以外にそれをするのはよせとおもったりするのだが。
ともあれ、BTですら還暦を越えたアニイを考慮し、自分たちの体力などを顧慮してか、年々クオリティはあがったように見えるのに基本的にミドルテンポ、もともとメタル系でないことも幸いしてゆったりした曲での表現が増えてきている(激しい音でさえ実はピックで弦を弾く回数は極端に少ない曲公正なのには驚く、ただしボーカルの負担は激しくなるばかりであるが)にもかかわらず、ルナシーは常にストイックに昔の曲を疾走感のあるままで演りきる。けれどもそれぞれのソロ活動はやはりメンバーそれぞれの体力温存面もかなり目立つ。ルナシー本家でさえ、再結成後の曲で非常に激しい曲は少なく、どちらかといえば『集中力が物を言う』曲が増えてきて、ソロの活動も含めて最終的な『肉体的負担』はプラスマイナスゼロにしている状況の中で、不思議なことにJはソロ活動においてもルナシーにおいても肉体的な負荷は初期からほぼ変わらないようにすら感じる勢いだったりもする。しかも、オンラインライブで初めてきいて驚いたが、口からCD音源レベルのクオリティなので流石としかいいようがなかった。その都度断酒や禁煙、キックボクシング、矯正その他さまざまな試みをしてきただけはあると思う。自分のやりたいことや、これしかやれないというとんでもないコンプレックスを抱えつつ、その上でそれしかできない以上では続けるにはどうしたら?という、いうなれば和菓子屋だしおはぎしか作っていない店なんですけどずっと店を続けるにはどうしたらいいか?みたいな非常に不器用だが頭を使うプロジェクトに取り組んでいるんだなという事実に気が付いたのが1か月ほど前のことであった。
とんでもないコンプ持ちなんだろうと思ったりする。某所で得た不確定な要素からすると、弱音は信頼している女子の前でしか口にしないということのようだが、それはそうだろう。自分だってそうだ。自分が作り上げてきたものと、自分がなりたかったものがもう既に飽和している状況の中で、スイッチングの部分もあいまいになり、自分がどちらなのかわからないこともあっただろうし、なんならステージに立っている最中や、歌っている間すら疑問や葛藤がよぎり、自分を振り切り、冷静に鑑み、の繰り返しになっている可能性すらある。MCでも自分を納得させるように話しながら自分を納得させているような側面が目立つ。割とミュージシャンのMCにありがちなしゃべり方でもあるのだが、常に頭を回転させていないと不安になってしまうタチの人なんだろうなとも思ったりする。止めるつもりはない、というより止まりようがないので、ならどう運転したら事故らないのか、というのと同じなんだなと思ったりする。というわけで、清春のこともありつつ、Jの実業家としては少し弱いながらもやりたいことで生きていく、というスタンスで非常に頭の使い方の賢さに特化したそのスタイルを見ていると、こうやってとりとめもない事を書いていて思うことも少しある。
病院、行く必要は果たしてあるんだろうか?ということである。
いや、病院は行く必要はあるのだと思う。不安神経症の部分を補う薬は確実に必要だろう。それを松葉づえにして、医師の言う言葉は基本的に無視するのがいいのかもしれないということ。今の主治医の言葉は基本的に『ブレーキのかけかたを覚えなさい』『車を乗り換える方法を選びなさい』『事故なんて気にしないで走りなさい』という事ばかりだ。けれど、それはちょっと無理がある。やりたくないし、おそらくできない。自分ではなくなってしまうだろうとすら思う。自分が自分でなくなるのがおそらく人生において一番の後悔になるだろうからだ。
セカンドオピニオンをして、いろいろと考えて決めようと思う。
今後、自分との付き合い方を考えるにあたって、今の主治医や今の自分の病状とどう向き合うべきか。病状を、症状をどう捉えるべきか。自分らしい生き方を続けていくためになにをすべきなのか。そういう事からスタートするのがきっとたぶん、明日からはそれがいいんだろうと思う。
いいねこういうのもたまには。ツイッターだと長文は嫌われるが、とりとめもない文章の掃き出しは自分の脳内の整理にもつながる。やっぱり私は生まれつき『そう』なのかもしれないけれど、自分を抑えつけられるのが何よりも大嫌いなのだ。好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌いだ。今はグオメは作りたくない。吐き気のする連中の存在がフラッシュバックするくらいなら作らないほうがいい。お金にならないものなら、無理をしてやる必要はない。コンテンツのような人生を生きろと神様から言われているならそれをツイートして応援してくれる人を得ていくだけだ。自分の存在そのものを切り売りして生きていくしかない。同情されたり応援されたり内心見下されたり哀れまりたりしながら、最後はお前らより幸せだぜ、羨ましいなって思わせてやるぜ今にみてろよ、というスタンスが結局のところ何年経過しても自分の中で変わらないスタンスなのだということがよくわかっている。
こんな親不孝な人間に生まれて申し訳ないと思う。申し訳ないから、せめて人に羨ましがられる人生を嘘偽りはなるべく少なく生きることが今できる精いっぱいの恩返しだろうとも思う。
生かしてくれている人たちに感謝を。私を恨み、私をねたみ、私を妄信し、私を怯えさせ、私を怒らせ、私を悲しませた全ての存在に中指を立てて感謝を示しつつ、諦めのため息をはきながら、中指を立ててお前らがどれだけクソ真面目に努力しても叶えられなかったことばかり叶えてやる。
お前らがやってきた仕事で声優が担当した仕事なんてごまんとあるだろうが、声優が自分の作品を掲示して宣伝告知してくれたことなんてあったか?
お前らが心酔しているアーティストに取り上げられるようなコメントを計算して書いて実際に取り上げられ、お前らが憧れて一緒に仕事をしたいと思ったアーティストと同じ仕事現場に立つことができたか?お前らが憧れた『アーティストに必要とされたい』をスタッフになることで実現し、夢見て憧れた『アーティストに歌にしてもらう』を体験したことがあるか?私は人より美しくない見た目と体型で、整形も過剰なオシャレもしないで全部手にした。ロケッツの楽屋にもレモンスタジオのセット裏にも入った。お前らにできるか?羨ましいと思うか?ちっとも自慢できるような世界じゃないよ。やる気があればあっという間に行ける。そしてそこからはとてもとても理不尽な地獄が渦をまいていて、尊敬すべきはそこで長年『続ける』事ができた人間がすごいんだよ。私みたいな人間はごまんといる。だから私は自分の実績を立てる中指にすることはできるけど、自分の実績は自慢にはしない。過去を自慢し始めたらもうおしまいだとおもっている。立てる中指の数をこれからも増やして、死ぬときに全部たたきつけて死んでやる。今に見てろ。恨みは深いぞ。
途切れないように、という歌詞が印象的な歌を今彼が歌っている。
50歳、おそらくあと30年生きていられるか。音楽をあと20年続けていけるのか。そんな節目の最後の歌があれでよかったんだと思っている。途切れさせるつもりなんて毛頭ないから、人を奮い立たせるというよりは、老いと向き合う一番怖い日、LUNACYを結成した当初、ガラガラのむなしい客席のライブハウスで必死に歌った自分を思い出させるような無観客の客席に向かって歌いながら自分に意思表示をして逃げられなくするためには最高のシメの曲だと思う。
前へ歩み続けるために。
人のためにうたってなんかいない人が好きだ。自分のために歌っている人が好きだ。清春、今井、櫻井、森岡、藤井、古川、そしてJ。自分のためだけに歌っている人が好きだ。それでしか人を幸せにできないクズ野郎が好きだ。
書いていたら、症状がおさまった。
デトックス。
ライブも終わった。
明日から頑張ろう。どうもありがとう。愛する人と、愛する人たち。
0 notes
sasaya-fiber · 5 years ago
Text
無垢への殺意
どうも体調が宜しくない。 自分の恐怖心とは違うところで、兎に角気分が沈んで仕方がない。 身体の異常なだるさ。
夢を見ているらしいのだが、悪夢らしくあせびっしょりで起床する。 けれど覚えていなくて、ただ、今日の睡眠からの覚醒の合間に女子とも男子とも区別のつかない幼児の声が聞こえてきて、それに恐ろしく憎しみと殺意と苛立ちを感じたのは覚えている。こんな感情いつぶりだろうかという感覚の。排除感覚。願望。 2才になる姪っ子が我侭になってきており(自我の発露?)その駄々のこね具合に先日子供じみているが2才の女児と意地の張り合いのようになったのだが、やはり年齢さはあれどああいうのはいけすかない。 子供は正直だ。嫌悪しているならそれを素直にだす。訝しげというか、『あっちに行けばいいのに』というのが、声でコミュニケーションができない分如実に顔に出る。その印象が鮮明に焼きついたのだろう。私の中で猛烈な嫌悪感とともに焼きついてしまった。困ったものである。子供は素直で敏感で正直だ。
大丈夫、と自分に言い聞かせるのは本当に怖いことである。 体が動かない。やらなければいけないことは着実にある。やらなければ。
0 notes
sasaya-fiber · 5 years ago
Photo
Tumblr media
Tumblr media
”I think I will always see myself as an outsider. I also have a need to feel I’ve protected my individuality and identity as an actor. During the years I’ve been playing Captain Jack I’ve been drawn to his irreverence and desire to run against the current. That’s part of my rebellious side.” - Johnny Depp
368 notes · View notes
sasaya-fiber · 5 years ago
Text
トニースターク
ハンニバルは関係性及び所作の美しさと人間心理の織りなす縦糸と横糸のさまが美しいのであって、私がアベンジャーズというよりアイアンマン…というよりトニースタークに熱狂というか猛烈に入れ込んでしまったのは、正直なところ恥ずかしい話だが非常に単純明快なところにある。 あまりにも私が男性で唯一好きになった人に酷似しすぎているから親近感が半端ない。しかも外見もちょっと似てる上に性格も私も彼も似ているからである。 アイアンマン2でそのことに否応無しに気づいてしまったので、それ以来アイアンマン及びアベンジャーズでは何かと泣いている。いや、なくような映画ではないのだけど、なんとかこの人を幸せにしたいと考えながらあっという間に行き詰まるので見ていて痛々しいし、抱きしめたい衝動にもかられる。青春の傷が綺麗に開いていく感覚がするとは思わなかった。よりによってマーベルでこんなことになるとは! ハンニバルはウィルに感情移入してしまう反面、どこかブレーキが効いているのは、今の私があの世界に芯から埋没するも生活が破綻するから、というのもあるのかもしれない。ともあれ、洋画沼にハマったおかげで精神的にフィクションとリアルの境目が付けやすくなったのは本当にありがたいことだと思う。精神衛生は護らねば。
0 notes
sasaya-fiber · 6 years ago
Text
さけび
『凶悪』という映画を見た。他人事ではなかった。
本当にあの映画の中で凶悪な思いを抱いていたのは誰なのかと思ったり、最後に彼が行動したり叫んだ言葉、あと『先生』が起こしたリアクションはとてもわかりやすかった。あと、須藤も。
怖い人はそういうひとの心理を見透かしているから怖いのであって、だけれどもその狂気とはまた別の凶悪な感情は一般人のだれそれの中にも潜んでいる気はしている。あの没頭してひたすらに事件を追い続けて点を総て線にしていく記者の妄執は非常によくわかるものがあったし、それを妻から『逃げ』と言われ、『本当は楽しかったんでしょう』と言われて激昂するさまは私の中に大変よく響いた。その中で夫婦関係を継続しつつ逃げないで向き合ったところにあの話しは一抹の救いというよりもオトナになることの汚さというか、人間の現実と向き合うに当たって狂人である必要はないがどこかしら凶悪な感情は持ち合わせていないといけないというような暗喩にも見えた。ともあれ、邦画で自分をかなり強烈に重ねて見えてしまったのは『接吻』と『告白』以来久しぶりで、なんというか、なんというのか。しみじみする。その後に見た『処刑人』は逆に言えば私が青春時代に過したあのばかばかしい狂っていて楽しい狂騒時代そのもので、『凶悪』からの『処刑人』『処刑人2』の流れは私にとってとてもなつかしいものと凶悪なものを同時にたきつけるには充分なものだった。
もうそろそろハッキリさせたほうが良い気もするし、もう随分と前からわかりきっていたことではあるけれども、私は間違いなく社会的にも人間的にもクズ野郎の部類に入っていて、しかも若干カンはいいが頭が悪く『先生』のような人物に弄ばれながらもどこかで窮鼠猫を噛むようなまねをしでかすようなそんなクズみたいな人間なのだという事がよくわかった。人にできない事ができるだけで、人ができて当たり前の事ができなかったりする。
死んだ姐さんに彼女が亡くなる約2週間前に自宅を訪問して泊まらせてもらった際、元彼女の事で堪え切れないことがあると相談した折、アドバイスとして『できない人の事も考えてあげないと』といわれたことがあり、それ以来もう3年その事について考えてきた。その過程の中で、それなりに『できない人』というふうに認識している人にかなり深い心理まで聴くことが出来た。その結果、私がわかったのは『ああなるほど、世の中にはそういう人もいるのか、こういう状況下でそういう解釈になってしまい、こういう考え方をする人もいるのだな』という事だった。けれどもその心理は理解できても同調も同情することもできなかった。『出来ない』ようにしたのは周囲の環境のせいや元から持っているものもあるかもしれない。けれどもそれが何だというのだろうか。他人が何かのきっかけになりえることはありこそすれ、『出来ない』人が『できるようになりたい』と願っているなら、実際にその人が変化するのはその人のペースで自力で変化していくしかないし、変化できるように心理的な回路の組み換えを自発的に行わねばいけないし、それを誰かが手助けをしているならばそれに縋りつかないように努力をすることが大事だ。『努力したのにできなかった』というのは『努力の方法を間違えていた』もしくは『努力しても得る事が出来なかったので自分には元来そのスキルが無い』ということのいずれかだろうと思う。そこで中途半端に『努力したからできているように褒めてくれ』と乞食のようにインスタントな投げ銭のような喜びを求めるのは愚の骨頂だとも思うし、それを一時的な癒しにするには構わないがひたすらに他人、しかも数名の限られた人間に心底から求め信じることは危険極まりない行為だし失礼だろうとも思う。
で、だ。
つい先日、その『できない人』のことについて話題になった。私はとある『できない人』ともう既に精神的にかなりの勢いで切り離しつつあるのだが、話し相手は『できない人』に対して『なんとかしてあげよう』としており、また、自分がそうすることで相手が喜ぶことに喜びを見出しつつも自分に深入りしてこないように上手くやっているのだというのだが、私はそれに懸念と危機感を抱いていた。本人に自覚はないのかもしれないが、それは恐ろしい共依存状態に思えたし、インスタントな喜びを相手に与えているという自覚が当人にあって、必要以上に依存されれば困るのでその時は切り捨てるというように言いながらも人生の分岐店になりかねないほどの成功体験や自己承認欲求の満たし方をしているそれは何の育みも生まないという非生産的なものに思えたし、最終的には共倒れになるという危機感も覚えたし、更に言えば『自分の行いの重さを軽んじ、同時に相手の人生も軽んじているのではないか』という若干の憤りを感じるものでもあった。で、そのことを『できない人』に対して喜びやアドバイスを与え続けている人に対して正直にぶつけた結果、お相手から『できない人のことも考えてあげてみてください、あなたはできる人だからそんな事が言えるのです』という訴えを延々聞かされることとなったのだが。
その会話の中でひたすら私に訴えられた言葉は『あなたは臨機応変にできる人かもしれない。でももし元来出来ない人だったら?』『あなたは知識があったかもしれない。でももし元来知識がない人であれば?』『あなたは環境が恵まれている。でももし閑居に恵まれていないが故に不器用な人間の現状があるのだとしたら?』という、まあいわば『あなたは出来る人であるけれども出来ない人の事も考えてあげてくださいよ、こちらは少しはできる人間なりにできない人に対してその目線に立ってあげてやりくりしているのですから文句を言われる筋合いはないんです、貴方には優しさというものがないのですか、貴方は上から目線でものを言っていませんか』という事だった。ソレに対して正直に言える事とすれば、というか実際に言った言葉を要約するとすれば、『できない人の事は昔からひたすら考えている、だからこそ『生まれや育ちや境遇など知るか、キッカケはやるから自分で考えろ、ただしグズグズしていると置いていく、私はお前にそれだけ自分の人生の時間と思考回路を費やすほど自分に金銭的な余裕も人生の時間的な余裕も何も無い』と言うことばしかないのが2015年5月6日時点での私の現状だ。げんに私も同じように人から区切られ部分的に見放されたりの繰り返しで今に至る。社会とはそういうものだ。
私は常から自分に余裕がない、しかも自分の精神状態の維持、環境状態の維持をするにも難しく、かつ自分が人に対して先の事を考えて深く接するタイプの人間であるからこそ、私は先日友人に「いつまでも夢ばかり見ているな、もう今後これについて説教はしない」といわれたように、私も友人や知己であれども自分の人生のペースにおけるある一定に許容範囲内で付いてこれて居ないと判断した場合はそこで一旦精神的に区切り、嫌いにもならないが今まで以上に好きにもならず、介入する度合いは何がしかの変化がくるまで線引きをする、という処置を取ることにした。ただ、線引きをしたかといって、相手の状況が大きく変化すれば元に戻る場合もあるしそれ以上になることもあれば少しの変化に留まることもあるだろう。
いくら人と付き合うにせよ、自分の人生の歩幅を相手の歩幅に合わせるにしろ限界というものがある。私にとってその限界の訪れは、親族か、恋人か、伴侶か、親友か、友人か、知己か、という大カテゴリとその時々の状況によってまちまちだ。総ての人間に対して私は同じ苦労をもって歩みを合わせることはできないし(恐ろしい事に私はつい数年前までそれをしなければならないと思っていたし、頑張れば出来ると思っていた、それはとても長く続いたので性癖やクセとして染み付いている)、それは私以外の誰だってそうだろう。皆がそうなら私もそうするということだけだ。傲慢かもしれないが、私だって過去これまでに自分なりに苦労をして人に歩幅を合わせるということはしてきたつもりだ。結果それで疲れ果ててしまっているのだから、もういい加減歩幅をあわせるのをやめにしたし、そろそろ私は歩幅を合わせてきた人たちは私に歩幅を合わせてみてもいいのではないか?などと狂気じみたことを思ったりもしてしまう。けどできないんだろう?だってあなたがたは『私はできないんです』と、はなから宣言することで『私はあなたに歩幅をあわせる気はありません』と宣言と予防線をひいているのだから。そんなあからさまなコミュニケーションの拒否をしている人間にこちらが人生や健康をすり減らしてまで介入し、知恵を与え、考えの起点を与え、嘆いていれば励まし、喜んでいれば共に喜び…相手の歩幅に100パーセント合わせた喜怒哀楽の分かち合いができるだろうか。寧ろ分かち合っているというよりもそれは分かち合っているという錯覚ないし傷の舐め合いともいうし、分かち合っているという錯覚の中での貪りあいだろう。そこに育みというものは何一つないと思うから私は精神的な線引きをせざるを得なくなる。
何かしらが育つ種というものは誰の中にでも眠っているものだ。けれどそこに雨がふり、日が差すのは他者から与えられたきっかけだけれども、それを利用して地面に根を伸ばし、地面にある栄養を吸収し、枝葉を広げて伸びていくのは自分しかいない。根を張り枝葉を伸ばす方法を教えられたとしてもそれを自分に還元して育んでいくのは自分であって、そこまでもを誰かに育まれるものではないのだ。何がしかの病気や障害があるならばしかたがないにせよ、自分にはそのカテゴリは当てはまらないと本人がその健常者というカテゴリを維持するならば健常者目線の社会の中で自分の育み方を模索しなければならない。自分は種で、周囲は移り変わる天気のようだという風に思えば、自分の目で、耳で、感覚で、心で感じるものは確実に変化していくはずだし鋭敏になるとも思っている。そして自分の命はいつか寿命を迎え枯れるのだ、明日踏み潰されるかわからない、明日日でりが訪れるかもわからない、明日牛馬に食まれるかもわからない、明日荷馬車にひき潰されるかもわからない、最悪、明日除草剤を蒔かれるかもしれないと思えば必死にもなるだろうとも思うのだが。それでも『できない人の事を考えてください』といわれれば『考えた結果どうにもならないし、私はその人と共倒れになるだけの価値をその人に見出してもいないので、その方が無事脱出するか生き延びる事を信じて私は先においとまします』としか言えないのである。非常に残酷な話しではあるのだけれども。
私だってある面では器用かもしれないし『できるひと』の中に入っているのかもしれないが、現状は人生で一番右肩下がりの収入の中、結婚もすることができず年金を貰っている両親に頭を下げて生活をさせてもらっている世間でいうところのクズメンヘラの部類にはいる。私だって決して『できる人』ではない。もし何かが『人よりもできる』としても、それがお金になっていないものだっただけの話しで。そんな自分がまだなんとか自力で自立したいと考えて躍起になっているのだから、もう自分の精神的なペースに合わない、しかも恋愛感情も抱いていない、他に何の利益もないというような人であれば酷な話ではあるが精神的に率先して切り離していかねばならない。今の私は非常に利己的な目で人を見て判断している。だからこそ、利己的以外の部分でわたしによくしてくれている人たちに感謝しているし、それは私が疲れ果ててしまうまでの20年間必死に頑張って得た人生の宝だと思っている。私の手元に残っている人たちは、インスタントなものでは決してないからだ。
自分が新しい恋愛に対して非常に億劫になっているのは恋愛感情を持ち込んでしまうとその許容範囲を自分で限界まで広げてしまおうとしてしまうからで、いわゆる『もう付き合いきれない』という感情が爆発するまでにかなりの忍耐を自分に進んで強いる事になるし結果的に私の健康が損なわれ精神状態は極限まで追い込まれて最終的に相手は全く何の変化も起こらず元に戻り私は仕事なり健康なりを大幅に損なうという結果がこれまで何度も続いているからだ。それだけの精神的な負荷が訪れるかもしれないという予測があからさまに出来ることを今の自分に強いようとは思わない。精神的引篭もりと思われて結構。今は日本人とあからさまに顔が違う異国の言葉を話す洋画といういわば三次元でありながら非日常を感じる世界の中の、パフォーマンサーとしてと個人としての境界線をあいまいにして人気を得ている『海外俳優』という玩具に没頭しているほうがまだ精神の安寧を保てるのでそうしている。その方が人を傷つけずにすむし自分も幸せでいられるからだ。
貧乏人でありながら、今日は映画を沢山見た。少しずつではあるが、受注している内職の単価も上がりつつある。文章でいくべきか、絵でいくべきかなどはまだ自分の中では曖昧だ。けれども1つに絞ってしまうと首を絞めてしまいそうな気もするので、いっそ全部に対して手広くいってみようという、あえて自分に決めつけや枠を設けない方法でなるようにしかならない、という、非常に大博打のような思考も持ち始めた。家族に関しても、特に母親には感謝の気持ちと恨みのような気持ちを同じくらいに抱いている。本当に私はひとでなしなのだ。はっきりここで感情のままに書いてしまうと、私は、私だけの主観と私だけの被害者意識とプライドだけで物をいうならば、ものごころついてから、思い返せば幼稚園の頃から、友人関係や家族に対してや、なにもかもに対して必死に耐えて歩幅をあわせ、ガマンし続けてきた。親離れできなく甘えていた反面、親離れさせないように無意識に母親が仕向けていたのも知っている。だからもう私はやりたいようにやらせてもらおうとも思っている。我慢をしない。もうしたくない。もうたくさんだ。人殺しをしない、自分で自分を自死に至らせない、という事と法を侵さないこと以外は自分が生きる為に自分を守って生きる為に幸せになるためにとことんやれるところまでやってみようと思う。何もかもを取り払って先へ先へ。地獄が待っているならもうそれも仕方ないだろう。反省はするが後悔はしない人生を生きてきても後悔は待ち受けていた。だからその後悔をかなぐりすてて省みだけを今は見つめて他人を蹴り倒してでもなんとか足掻いてやろうと思っている。おそらく、来年の今ごろまで、この地獄はきっと続くだろう。どうせ死ぬなら徹底的に生き尽くして死んでやりたい。
0 notes
sasaya-fiber · 6 years ago
Text
ゆめ
夢の中で髪の毛を青く染めた。黒髪なのにそれに混じるように綺麗に青く染まって、とてもよかった。洗面台は改築する前の祖母の家の洗面台で、風呂場も祖母の家のそれだった。今でも私が見る夢の中の自宅は改築する前の家のそればかりで、改築後の家の光景が夢に出てきたことはない。 夢の中でマッツと、あまり普段は強く興味を惹かれない邦楽の有名人と同じ部屋でとりとめもない話をする夢を見た。学校の教室のようなそうでもないような空間の中で、男子数名と顔がわからないクラスメイトの女子がひとり。誕生日にもらったANNA SUIのアニバーサリーキットを自慢すると男性のひとりがそれを取り上げて唇に口紅を塗った。ああ綺麗だなと思ったところで目が覚めた。マッツはなんだかずっと白いソファに腰掛けていただけだった気がする。まだ眠い。久々に気持ち良いまどろみ。たまにはこんな日があっていい。起きたら必死にやらないと。
0 notes
sasaya-fiber · 6 years ago
Text
ううーん
こうやって書き連ねていることをきちんと医師には伝えているんだけど如何せん、なあ。昨日はついに文字が書けなくなるという始末で、泣きながら履歴書をPCで作成したのであった。あらかじめ職歴も履歴云々もデータ化しておいてよかったよ。明日どうしても面接にいかなきゃいけないんだって母親を説得している自分もなんだか言い方がキチガイというかのいろーぜじみているのが自分でもよくわかるし、ツイッターも普通にツイートしているように見えているのにあとから見返すと物凄く誤字が混じっていたりして本当になんていうか、本当に怖い。無意識に色々やらかしてるのを考えるとどうしてもあの東京時代の自分が自分でなくなっていくあのカンジが思い出されてなんとも本当に怖いのであるけれども。
今日はなんとか外出を終えて、ちょっと光がまぶしくは感じるけれども少しずつ体調は戻ってきているんだけどそれでも金曜日に風邪が悪化の一途を辿ってついには気管支炎一歩手前で検査入院します?と言われて全力で断り、検査だけちゃっちゃと受けて戻ってきて今に至るのだけど。今日は面接にいくまでの記憶が分断されていて、うわあこわは更にまずいなあと思っているんだけどこれはなんなんだろう、単なる疲れだといいんだけど、というか疲れだ。そういうことにしておこう。部屋の掃除もできていないし、締め切りはあと2つ溜まっている。でもこの2つが終わったらとりあえずひと段落つくので、ちゃんとなんていうんだ、なんていうかこう…きちんと考えて楽しんで絵を描こう、自分の感覚でどうこうとかいうのではなく、テンプレを見つけるところ。そこからはじめないといけないし、私はいい加減ちょっと色々と考えないといけない。いや、考えているんだけど多分これは自分個人というより対人関係のなんたるかなんだろうなとかも思っていたりする。ちょっと、ちょっときちんと自分の中で衛生的にいられるだけのきちんとしたものを自分で測らないとだめだ。私は本当に幼いんだなとしみじみ思う。幼少期の原体験からまだ抜け出せていないんだな。そういう意味では無理をしてでも家を出ないといけない気もするが、はてさて…
0 notes
sasaya-fiber · 6 years ago
Text
困った
食べ物の味がするけど刺激だけで味わいがない。困った。明日面接なのに。これからなのに。困ったなあ
0 notes
sasaya-fiber · 6 years ago
Text
きおく
ここは基本的に掃き溜めかつ吐きだめみたいなものなので、さっき見返してみたら半月ほど前に自分が何を考えていたかなんてすっかり忘れていたことに気付いた。こんなこと考えていたんだな。 膨大な事が頭をぐるぐる渦回って、最終的に翌月やら一年レベルで持ち越す思考なんてほんのわずか。だから溜め込んでしまうならこうやってどんどん吐き出したほうがいいし、こうやってほとんど改行しないのは未来の自分にもあまり読ませるつもりはないし、他の人に見てもらうことも視野にほとんど入れていないからだ。気をつけているのは特定の人間の名前や固有名詞を出さないこと。個人の攻撃にはこの吐きだめは使いたくはない。 風邪の治りがかつてなく遅い。一年近く引きこもりに近い生活をしていて身体が衰えている何よりの証拠だし、死んでしまいたいと毎日どこかで勝手に考えてしまっているからそんなふうに身体ができつつあるのかもしれないと思う。思考回路もずいぶんとやけっぱちになってきた。風邪なのに自宅にとにかく帰りたくなくて酒を呑んで泥酔して煙草まで、なんてその先どうなるかわかっているのにやらかしたという、あの夜のわたしは本当にどうにかしていた。逃げたかったし甘えたかったし楽になりたかったし安心したかった。ただただ逃げたかったんだと思う。もうだめかもしれない。どこにいてもなにをしても心が休まらない。安心したい。もうおしまいにしたい。やるべきことをやってから。 生きる恥と書いて生き恥という。今の自分をどうやって誇ればいいんだろうか。開き直れないわたしは半端ものだ。半端ものでいい。愛されたい。あからさまに愛されたい。
0 notes
sasaya-fiber · 6 years ago
Text
かきだす
シャーロック3シーズンを丸ごと借りてきた。さっきシーズン1を見てきたわけだけれども、想像以上にシャーロックに違和感を感じず逆に親近感しかわかなかったので、高機能社会不適合者という言葉は今後積極的につかっていきたいなとおもう。あと、結構意外な事が起こったときに素直に感情にブレが置きやすいことや長髪に乗りやすいというか生きる実感がわくなら命を簡単に危険に晒したり、社会常識や一般論でリスクと考える行動言動に対して固定概念を持たずに個人的能動と価値観に躊躇いなくつっこんでいってしまうあたり、シャーロックもワトソンも非常に面白いし、そういう意味で最初の段階でブレてはいるけど逆に終始一貫して軸の部分はブレてはいないし、綺麗に針の穴に糸を通すみたいにシャーロックの求めている言葉を的確に適度なタイミングで綺麗に打ち抜くワトソンは、シャーロックの急所を狙う的な意味合いで大変怖い人だなとおもいました。前々から原作のホームズとかを見ていてもうっすら感じていたことではあるけど、あれってやっぱりちょっと相棒っていうよりはすごくよくできて利害関係が一致している共依存関係みたいで素晴らしいけどこわいものでもありますね。あれは社会貢献という意味合いでたまたま物凄くプラス方向に動いているだけであって。
で、まあなんか勝手にまた結びつけてしまうわけだけど、個人的にずっと引っかかっていたことにあーなるほどって諸々綺麗にそれこそドラマの中で言っていたみたいに『地図が広がるように』見えてきた部分もあったりして少し気持ちが楽になったというか、あーあんまり深く考えないほうがいいのかもしれないと思うと同時になんていうんですかこう…もうちょっといい加減いい意味で社会的だったり一般論的なものに対して私が必要以上に振り回される必要もないというというかなんていうんですか、一般論の私の位置づけと私が考えるわたしのありのままっていうのはもうズレていてしかるべきでもう仕方のない事なんだっていう…期待してもしょうがないけど諦めるわけでもなくって、ただただそういうものだって傷つくことも喜ぶことにも素直でいいんだっていうそういう…所に次第に気持ちが落ち着いてきたりしたわけです。実をいうとDVD見るまではすごい鬱々としていて洒落にならなかったんだけど今はなんか雲ひとつない青空みたいな感じで体も軽くてすっきりしてます。あー助かった。やっぱりなんていうかどうにかなりたいって心底思っていたらちょっとは自分が這い上がるだけの何かは能動的に見つかるものだね本当にね。軽率に幸せになっていいんだよ。
昨日はたまたま、購入していたシリーズ漫画の同性愛もののBL漫画のシリーズ完結本を入手して読んでいてそれこそとんでもない大ダメージを食らってしまった挙句、非常になんていうんですかこう…すごくやばい思考回路に陥ってしまって、周りみんなアドバイスはくれるけど自分が大事だし成功してるからそんな気休めの易しい言葉を言えるわけであってじゃあ私が今金ねから10万かしてくれよっていっても貸してくれるわけねえんだろだったら結局おまえら高みの見物で傷つかない位置から気休めの言葉をかけてるんなら長期スパンで眺めたら結局のところ私の敵じゃねえかとかおっそろいく卑屈な考えがとまらなくて、なんていうか自分自身がすげえ惨めだったんですよね、あと、購入した本の中で、わかりやすくありていに言うと自分が同性愛であることに対して素直ではあるんだけど親にカムアウトしてなくてするべきかどうか悩んだり葛藤があったりしてそう言う中でずっと報われなかった人が年下のパートナーとのやりとりがある中で正しいかどうかはおいておいて1人でその問題に向き合うよりもきちんと視野を広げて最終的になんていうんですか…報われるっていんですかそういう…端的にああ、こういう恋愛があってもいいなあと(でも結局のところすげえファンタジーじゃねえかリアリズムはあるけどこんなに簡単にコトが進んでたまるかあ!とも頭のどこかではおもっている)おもったりして、うわー私も報われたいなあとか軽率にイチャコラしたいし頭空っぽになるような喜怒哀楽があってもいいんじゃないかなーとかおもったりしつつでも今の私の現状とか考えたら人に自分の人生なんて預けるのなんてもうしわけなさすぎるわ!とかおもったりして、なんか惨めでしかたなくてつらくてつらくて、卑屈さもあいまってなんていうんですか…うらやましかったんです、なんていうかこう…うらやましかったんだよね。そういう所でものすごくうらやましいなーっていうのが増大してしまってものすごくしんどかったんですけど。でもそれもだいぶ抜けて。一時的なものかもしれないですけど。
とりあえず、今の自分はまだちょっと人恋しさにわれを忘れているという部分があるというか、あとはちょっと季節的なものもあいまって自分が見境がついていない部分もあって危険だなと思っているのであんまりこうなんだ…あんまり積極的に人に関わることは自分にとっても大切な人たちにとってもマイナスだろうなとも感じていて、ちょっとつい禁ならぬイプ禁みたいなものはせんといかんな、とはおもっているんですけど、どうなんだろう…わからん。わからんが。とりあえず大丈夫なときにだけオンラインにしながらあとは自分個人でなんとかで闘えればいいなとかぼんやりおもっています。もうちょっと自分に素直でいたいものだし。おすし。まだ全然冷静なようで冷静じゃないんでしょう、きっと多分ええ。
大丈夫っていうてほしいだけだし、人様の環境が羨ましいだけです。お金がないって本当にこういう心境になるから怖いね。
0 notes
sasaya-fiber · 6 years ago
Text
外気
ちょっと、とあるものをみた。何も知らないで偶然それを見てしまって、目が釘付けになってしまって、最後まで見たんだけど、なんかなんというか、余りにもどこにも救いがないというか、なんでこれを非現実だと思わないで現実が根幹にあるって思ってしまう自分がいるのかなあと思うと苦笑せざるを得ない。
見終わったあと、どうにもこうにもなんだか自分の自室にいると発狂しそうな気がしたので、けれどもこんなに朝早くだと私がフラフラ外に出て行ってしまえば更に迷惑がかかるのでバルコニーに繋がる窓をあけて外の空気に体を晒してみた。よくよく考えると、もうここ半月ほど外に出ていない。最近は外出も週1~2週間に1回ぐらいに割合になっていて、知らない間に本当に引篭もりになりつつあるんだなと痛感して苦笑せざるをえない。
崇高な考えは持ち合わせはいないのだけど、なんていうか
まあいいや。多分口にしたところでどうになるわけでない。ただ、甘ったるいものばかり作っていると、本当にみんな夢を見たくて仕方ないんだなと思えてくる。私だって夢はみたいし見ているさ。けれどみんなどこまでも夢に対して貪欲だ。自分の身の程をすぐに忘れて、じぶんの欲しいもの、したいことに向かって何かからめを逸らしてどんどんどんどん。多分それは私もそうなんだろうけれどもさ。
私は、たまに母親に自分の友人知人の事を話したくなる時がある。自分の考えを必死に訴えることがある。母は常に聞いているようで聞いていないし、別段寂しくは感じないのだけど、もうそれも随分長い年月の間のことなので、多分私はどこかで寂しいと思っているのかもしれない。干渉はされたくないが知っていてほしいのだ。結構な我侭だとは思うが、それぐらい両親に求めたっていいだろう。けれど嫌われたくないし私が好きになったものを総て否定されそうだから私は非常に選んでそれらを話すのだが。
母も眠れないことがあるという。考え事をすると眠れなくなるんだそうだ。母はその理由を私に言わない。基本誰にも言わない。祖母と父には事実すら話していないだろう。おそらく、なんていうのか。何で悩んでいるのかわからないが、自分のせいだったら申し訳なく思う。けれど70を超えたら、何をどう引き返せるというのか。私にはかける言葉があまりない。父もたまに眠りながら何かと格闘している。父は寝ている間は記憶にないらしいが。何かと闘っているし、怒っているのは間違いない。何に対してだろう。いつか全部破綻しなければいいんだけど。
被害者ぶるつもりはない。私が生まれた家が、健全に見えて実は狂っていて、私は私の無意識に殺していた感情に気付いてしまったがためにこの家の狂っている部分が見えてしまった。そういうことなんだろうと思う。多分、私はこの家族と共に朽ちる。私の父も母も、大好きで狂っている。
0 notes
sasaya-fiber · 6 years ago
Text
きつい
こんなに体がだるいのはなんなんだろうか
脳味噌がまわらねえはすっきりしないは、気力がどこにもわかないはで。眠いしだるいしネガティブだけがずっと体を渦巻いていて、なんだろう、私何かしたか?してないよな?
『葬式』とか『遺書』みたいな単語だけが頭をチラチラとしているんだけど、だからといって何かを能動的にしたいというわけではなくただただ意識をシャットダウンしたい欲求だけが半端ない現状。こんなんで外で働くってこと週に数回でも来月からできるんだろうかとかちょっと思ったけどこのままじゃ結構無理かもしれない。
脳味噌が止まってる。あーーーー。
0 notes
sasaya-fiber · 6 years ago
Text
春手前
体調が本当によろしくない。
対人というか…諸々をまわしている中で出てきたトラブルの対処をしていて一気に2日間ほとんど動けなくなるほどには悪化していた体調だけれど、そこからプラス2日で上昇できつつはあるのだけど、どうもなんだかおかしい。頭痛はするし何よりもどうも自分で自覚していないぐらいに軽躁と抑うつか大うつあたりを凄い短いスパンでうろちょろしているらしい。 今日気付いたけれど、愚痴話をスカイプなどでした以外、プラス方向で感情の爆発が数えるほどしかなく、物凄く爆笑しているようでどこか『笑わないといけないから笑っている』事に気付いた。そのせいもあって、今は必要最低限の事だけをしなければいけないと思って、あまりスカイプもオンラインにはしないでいる。知己や友人の優しさや気遣いに乗じて、『自分はちゃんとしている』という自己暗示を無理やりかけて自分を誤魔化すための道具に使っているなら、それはとても失礼なことだ。
会話はできる。でもどこか感情が空回っていて、真剣なんだけれどどこか上の空で、身体は重く、頭痛はとまらない状態で、寝ていてもどうやら死んだように身動きひとつしていない感じでひたすら眠っているらしく、起きたら腰痛がすごい。どんな夢を見ているのかはしらないが、たまに大量に発汗していることもある。あと、顕著なのが、すぐに涙があふれてくることだ。家族と接していたりヒトと会話をしている時は出ない。けれど、ひとりだとなんてことはない綺麗な音や光景や、いろんなものに敏感になっているようで、ただただ涙が溢れてくる。
無理やり感情の起伏を作っているんだなという結論にさきほどまでに至ったので、ちょっとそれを意識しないでナチュラルに喜怒哀楽がきちんと出せるようになるまで、自分的にきちんとしなければと思っている。
本当は本音を言いたい。思い切りなにもかもをぜんぶぜんぶぶちまけて、すっきりして、そして愛されたい。私が心を殺しながらもそれでも本音を言えているのは、多分おそらく対人に対しての時だけだ。私の対人に対する気持ちだけがほんもので、私のそれ以外の欲求や汚い感情、嬉しい感情や言葉は私はいつも隠している。見返りを求めていないといえばうそになる。人にして欲しいことを私は自分から提示しているだけだ。けれど、どうして最後のさいごにいつもなくなってしまうんだろう。うまくいかなくなってしまうんだろう。多分私がうまくやれていないからだと思う。うまくやれない人間に生まれてきてしまって、私だけが辛いならまだいい。それで親や友達や人に心配や迷惑をかけてしまっているなら、これ以上あからさまに迷惑をかけてしまうことになるなら、私が私のありのままになってしまうことが人にとっての不幸になるなら、自分の幸せが人の不幸になってしまう決定的な事が起ってしまうのなら、それが決定づけられる確証めいた何かがあるなら、それはきっと、私が生きているところから引退をしなければならないのかもしれないと思う。
私が私であるせいで、人に迷惑をかけてしまうのはもうごめんだ。 嫌われたくない。 私は、私が私のままで、私の好きな人たちが、私のしたことで笑って 少しでも生きてきてよかったとか軽くでも重くでも考えてくれて それで笑ってくれたらそれでよかった。 そしてわたしは、「おかえり」と「ただいま」が言える人がほしかった。 それだけなのに、なんで。 なんで私ではないんだろう。なんで私はこんな人間なんだろう。 なんでいつもこんな結末になってしまうんだろう。なんで私は。なんで。なんで。
人のせいにすれば、環境のせいにすればきっと総てらくちんなのだろうけれど、 考えれば考えるほど、自分が本来自分として産まれてきて締まったことが そもそもの原因に思えてならない。 私が私であるがゆえに、親に昔からいらない苦労をかけ、 知己や友人知人や恋人にも私は迷惑をかけ続けている。私が私であるせいで。 存在が失敗だったのなら、私は生まれるべきではなかったのかもしれない。
なんでだろうね。
0 notes
sasaya-fiber · 6 years ago
Text
野を超え山超え
なんかトレーニングしてるんだろうな、というかトレーニングを義務感なく個人的能動でやってるような気分なんです、収入がおいついてきていないのが実情だけど、本当になんていうんだろう、東京から戻ってきてコールセンター3つ経験した前後あたりの私はなんていうか本当にハングリーじゃなかったんだなと思うというか。今は自然体でハングリーでいられてるなとか思ってます。その前は別段ハングリーでなくても世間に散って舞ってる菌類や海にいるプランクトンの類みたいに、生まれてから死ぬのも本当にただただ一瞬でそういう塵芥みたいなもんだと思っていたけど、逸れに対して意味なんて見出せないっていうかなんていうのかな、多分端的にいえば生きてる実感がずっとなかったっていうんですかね。本当に虚無感がひどくて前の職場にいるときなんてもう最悪な状態が自然体で、昼休憩に屋上で日光にあたりながらぼんやりしてる時間がいちばん幸せでしたもん。そんで日の当たる空間で何を考えてるかっていったらぼんやり「死にたい」って考えてるんですよ。陽だまりにいながらぼんやり頭をからっぽにしゆゆただただ虚無感を消費できている自由さがありがたかった。アットホームな職場ではあったけど、オフィスでもお昼時でも無理くり元気でいないといけないっていうのが実のところ本当にわたしにとっては苦痛で、屋上にいるのはよくないよって言われていたんですけど、割とそうでもしないとやっていけなかったっていうのが事実でした。寧ろそういう時間をもらえないと自分にとって休憩にもなっていなくて、皆で家族のこととかをグチらずになんの差し障りもないおもしろくもなんともない話をしている空間が私には和みにはならなくて、そういう部分でも本当になんていうんでしょうね、ただただ苦痛だったというかそういう感じです。屋上でねっころがって、そっから休憩が終わったらオフィスに戻ってそれで健全に仕事ができるんだったら全然いいじゃないですかって感じだったんだけどなんかみんなは違うみたいで。日本人特有なのかなんなのかはよくわからないんですけど、ちゃんと仕事しますから仕事してる間は私は対人関係とかきちんとしますからお願いですから休憩時間ぐらい私個人の時間として使わせてくださいっていうのが…それが別に他の人といて自分の時間を感じられるっていうんならいいんですけど、会話のパワーバランスとか微細なそういうものが下手をしたら仕事場以上に個人の感覚が皆無になっていきそうで実のところそれがおそろしくストレスで。フルタイムの中の休憩時間の1時間ですらそれっていうのはもうなんていうかすんごい苦痛でした。コルセンが一番続いていたのはそう言う部分でも演劇してる人とかかわった人が多かったし、休憩時間も個人を尊重した会話が多かったし、更に寝たい人は寝ていたし、で、ほんとなんていうんですかね、兎に角前の職場とは何かが違っていた。休憩時間とかそのものが。なので自分からハングリーさがただでさえ無くなる事が死を意味していることに直結していたのに、その中でさらにどんどん仕事においてハングリーであれど円滑にまわすためにハングリーの使い方を徹底的に歪ませろという矛盾したおした空間っていうのは本当に私の中では整合性がとれないまま、生きていくという根本的な欲求の中でのハングリーっていうのが壊滅していって挙句の果てに『なぜあなたはそういう人間として生まれてきたのですか』という根本を突っ込まれると、もう応えようがないですよね、本当にわりと最後あたりは芥川龍之介の生まれてすみませんっていう次元にまでなってました。そういう意味でも自分が学生時代に記者になるんだーエンタメの世界に足突っ込むんだーそういう脳味噌になるんだーってハングリースイッチを押してしまった段階で結構一般事務とかそういうポピュラリティ的な平均的なコミュニティラインの中へはもう本当に戻れないラインに陥ったのかもしれないなとか思うわけです。原則としてすんごい大きなスパンでのスポットライト症候群だったようにも思えるし。そういう意味では自分がこうなったのは誰のせいでもなく自分のせいなので他人様に憎悪や原因を向ける気は基本的にはなくて、まあ自分でなんとかやっていくしかないとは思うわけですけれども。
暫くこっちを書いてなかったなあと思うけれど、ある種書く余裕ってのが本当になくて、締切だったりなんだったり、就職活動に忙しいしトレーニングと言う名の小遣い稼ぎにドッタバッタしてて余裕がなかったっていうのが正直なところだし、そのドタバタ感がなんつうか良い意味での慣れになってくると自然体と心臓に毛が生えつつも怖がりは維持したままで動けるようになるもんだなと思いました。体調がおかしいのはやっぱり1ヶ月に1回は必ず周期的にまだ何かしら絶対くるし、それであっても結果的にきちんと顧客対応スキルで調整つけたり、逆にドドドッと入ってきた案件を〆数日前になってる今日で余裕もって仕上げてみたりだとか、そういうなんていうんですか、一般的に自分の70パーセントで他人に100もしくは120に見えるようにコンスタントに出していけるっていうトレーニングを有償でさせてもらってるんだと思うと今やってることって非常にありがたいことだと思ったりしてるんですっていうか思わないとやっていけねえし思わないとなにも勉強できることなんてみつからなかったりするから、転んでもただじゃおきねえぞって気分ではあります。そういう意味でも黒夢ライブに先日いけたのはもう本当になんていうかすごくおっきな出来事で、本当の商売人をみせてもらいましたって感覚とあとはなんだろうな、私がストーリーに於いて溶接職人だったり美的感覚のあれそれだったり負けず嫌いパンク精神や劣等感さえ銃につめるって言うあのなりふりかまわなさとか、人間としての女々しさや嫉妬心さえ活力にしてしまうあの感じとか、で、結果的に売り上げとか業績とか見せ付けるもので『ほらみろ馬鹿にした奴ら今どんな気持ち?どんな気持ち?』ってやってしまう清春さんのあの人間不信さと負けず嫌いさと寂しさとか小ささに正直でありながらしたたかに積み上げつつ本人もファンも一挙両得に基本的に表向き利潤しか生まない形にしていくあの経営者体質がおっそろしく好きなわけです。プランニングから何から自分を理解していないと見せ方もなにもかもうまくいきようがないし、できない事を無理やりやろうとするんではなく自分のマイナス面さえも個性化してそれをメジャー化させるためなら今日本気で宣言したことを翌週真逆の内容で真顔で宣言できるぐらいのあの潔さとかね。大好きです。軸はぶれていないのにまるでコスプレイヤーのように様々に作風、絵でいうならば画風を変化させたりとかね。おそらく多分音楽や美的センスは勿論ながらそういう清春さんの人としてのありようが今の自分の初期衝動に繋がったわけで、他の音楽やらアーティストやらとは根本的に違っていて清春さんは個人的に私の宗教だなあとも思うわけです。妄信と崇拝はしませんが。ソフバも大好きだし遠藤さんとか藤井さんとか森岡さんとかは人間的におっそろしく興味があるし魅力的だなとも思うし音楽もなにもかも大好きなアーティストさんはいるにはいるんですけど清春さんは恐らく自分的な原点部分として全く捕らえ方が違うよなとか思ったりもしましたし。やっぱ宗教だよね多分ね。
何の話をしてるんだっけ?
あーそれでまあ、お小遣い稼ぎレベルではありますが、今は本当に吸収時期だなと思っています。色んなことを吸収したりトレーニングしたりとかね。いっときの感情にぐわっと支配されかける事はままありますけど、おかげさまでそこから抜ける速度も速くなってきてるし、睡眠時間は相変わらず短いんですけどそれでもきちんと最低限眠気はくるように身体は反応してくれているのでまあいいか…とも思いながら。平均4時間睡眠は果たしていいのかどうかはわかりませんが、そこはまた次に主治医に相談するにして。そういう意味でも本当にこれからの生き方とか生活リズムのキープ方法とかも色々考えないといかんなあと思いました。.35過ぎたらもっと身体にガタがくるっていうしね。そこいらも踏まえて色々考えないとね。
0 notes
sasaya-fiber · 6 years ago
Text
傷つくもの
汚さ 妄信と期待 脅威 狂信 過剰な依存 美しいものの憤怒 嘘の露呈 敬意の軽視及び消滅 基盤の否定 こんなところかな。
0 notes
sasaya-fiber · 6 years ago
Text
いい日旅立ち
すこぶる体調が悪い。
非常に困ったものだが、こういう時に限って非常に責任感がある諸々締め切り事情が立て込んできてしまっているので逃げるわけにもいかない。書類送付作業もある。審査に至っては1週間以内に再提出、というお達しがでた。割かし本当にどうしよう、というところ。2月前半がプライベートでの用事も立て込んでいるので、本当にめまいがしそうである。ちょっと本当にどうしたものかというところ。
ただ、仕事時間に拘束されないというのはそういう意味では有難いことでもある。これがフルタイム出勤であれば、おそらくはかなり早いペースでギブアップしていただろう。間に昼寝や気分転換できるだけの時間を確保できるのはそういう意味では非常に有難い。そういう意味あいでも恐ろしく今の自分の状態が過去最大に悪いのだなと思う。
自分の体調が悪いというのは画面の向こう側の人にとってはまったく関係のない話しなので、極力締め切りに関しては厳守しないといけないなと思いながら、なかなかに自分の体調は厄介だなとも思っている。特にここ数日は本当に調子が悪いのでなんとかしたいところ。しかも文筆のほうの案件だらけのため、そういう意味合いでも非常になんというか困ったところである。
とにもかくにも、がんばらねば。
0 notes
sasaya-fiber · 6 years ago
Text
追いつかない!
当たり前ではあるが、現状内職レベルで手を出している上にノウハウまでうまくいっていないので、丸2日かけて実質700円前後というあれやそれやである。 とりあえずその他諸々も合わせて一万…行くといいなあ…というところなのと、あとは審査が通ればなんとか滑り出すことも出来るんだろうが本当に己の実力の無さが悔しいところ。早くもっと金銭につながるように場所場所でのスキルを上げたいなと思う。 こんなに自立に必死になったのはいつ以来だろうとも思うが、今まである種ずっと低迷期に入っていたのだろうなあとも思うし、漸く少し抜け出せてきた感じだろうか。お陰様で一日の過ぎる時間が早い。今日なんか特に。これで未払いバックレになろうものなら殴っているところだ。
0 notes
sasaya-fiber · 6 years ago
Text
ひといき
諸々の嵐が漸く一旦の収束を迎えた。と、思ったら別方面からのSOSコールが入り、先ほどまでそちらの対処に追われていた。年に数回駆け込み寺になるのだが、重なってしまうとこれはいかんともしがたく、けれども放置してしまうと更に悪化するのは目に見えているので私は進んで防波堤の役目を引き受ける。引き受けたいと言う誠意がある反面、防波堤になり得ることで自分に何処かしら価値があるとも思いたいのだろうなとも考える。エゴも使いようで、自分の足を妨げるなら使わない、進ませるならエゴも使えばよいのだろうが。 この一週間ほど、眠っていたように思っていたが3日間トータルの睡眠時間が12時間以下であることにアプリの使用で気づいた上、さらに中途覚醒が酷いので充分に脳が休まっていない事に気付いた。寝なければと思って寝るのだが、投薬したらしたで今度は丸一日眠る羽目になるのでピルカッターの導入を割と本当に検討したいところ。睡眠できないと言うのは本当に危険だし、寝ていても叔母に怒鳴っていたり、パソコンに向かっている自分がいたりしている。もう少しこう、ファンタジー極まりない夢を見たい物だが。あとは誰かとデートがしたい。だらしなさも含めてイチャイチャグダグダがしたいものだ。良い歳こいたオバサンが何を…という感じだが。
0 notes
sasaya-fiber · 6 years ago
Text
やばい
あと数日で諸々大詰めにも関わらず進捗がさっぱりである。物理的に身体がきつい。身体が異常に倦怠感と疲労感を訴えており、今日の夕食時は呼ばれてリビングに向かうまでに何度もよろけていた。父は『眠り過ぎや』と言ったがそうではない。身体が疲れ過ぎて意識は覚醒しているが身体がまだ起きていなかった。当然ながら食事は殆ど残してしまうという悪循環。そのため、現在ようやく身体が若干起きてきたのでスープあたりから摂取しつつ、脳は回るので諸連絡や相談事項を全て終えて、ポイント確保作業やブックマークなど、やれる部分をカバーしながら現在に至る。 いちばん肝心なデザイン部分やらありものの部分においてその実非常にきわどい状況なのでそこは出来れば今夜中にやって明日の打ち合わせに備えないといけないし、やはりタイトだなあと思いながら。こんなに疲労感がくるならば文字仕事はやはりマズイかなとも考えてはいるが、慣れや基礎体力や現状の絵画スキルの問題もあるしなあなどと考えると悩むところではある。 出来たはずのことができなくなっていたり、自分の傲慢さや奢りや思い上がりが今回もかなり見えてきているので、反省しつつ感情に飲み込まれないよう踏みとどまりつつ、ではある。他人との闘いというよりは自分との闘いに等しいかもしれない。いかに感情と理性を統制していくかということ。昔分離していた感覚が学生時代に統合された感覚があったが、できるなら今は再分離する必要があるのやも。意図してできればよいのだが。
0 notes
sasaya-fiber · 6 years ago
Text
混乱
因果応報。よいこともあれば悪いことも。今日は両方が一度に沢山来すぎたので本当にオーバーヒート状態になってしまった。余裕がなさすぎて精神的にブレブレだし、主観と客観が両立していなかった。2回目の投薬をしても頭痛が取れない。類からしてストレスからくる緊張生頭痛で、今来られても困る。それでもなんとか布団に入り、今日ふとしたことでパニック状態になり、それ以降暫くの間全ての言葉に強烈な猜疑心や恐怖のフィルターがかかり、まともなコミュニケーションが取れていなかった状態を思い出す。あの、自分でもわからない、何かの些細な引き金をキッカケにプツンと何かのスイッチが入って一気に自分が自分でなくなって総てが破滅に向かう感じはやっぱり何度見ても指輪に付け込まれたボロミアに自分を重ねてしまう。引き金を見つけてしまったのもその恐怖に飲み込まれたのも他ならない私なので、やっぱり今日痛感したが一番の敵は自分自身なのだよ。私にその言葉をそのタイミングで伝えた人はたまたま切っ掛けたりえた事でしか無い。問題はそれに直面して暴発した感情に屈した自分だ。なんとか昔ほど酷くはないものの持ち直したが、趣味の領域でこれなのだからこんな状態で社会にまた…と考えるとやはりちゃんとこういう場からきちんとステップアップする必要があると考える。そういう意味でも今回はありがたい経験をした。相手には手を焼かせてしまったが。異論が多々あるのを承知で個人的な感覚を言うと、ロードオブザリングもホビットも、私は身近な精神疾患を客観視できる映画として捉えている。トーリンのアーケン石への執着や黄金病で正気を失い懐疑的や感情的になるさま、指輪にとりつかれ正気を失うボロミアにフロド、スメアゴル。王座に執着して息子を見ようとせずパランティアに頼り薬中同然に陥り生きている息子を死んだと思い込み自己陶酔のまま焼身自殺しようとしたデネソール。あのひとたちのあの状況を精神疾患と言わずしてなんというのだろう。強迫神経症、統合失調症、適応障害、躁鬱、アルコール中度、自己愛生人格障害、境界性人格障害。あとは発達障害などなど。どれも異常でありながら日常の近い位置にあり続けて来た。だからこそあの映画は個人的にはファンタジーでありながら私に主観しかない状況においても客観視を与えてくれる映画なのかもしれない。ボロミアは指輪に屈したが死ぬ間際に名誉を取り戻した。私も最後はそうでありたい。
0 notes