Tumgik
skf14 · 2 years
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08150155
「俺、殺されるならお前がいいや。俺をお前の最期にしてよ。」
なんて、久しぶりに寄越した台詞があまりにも熱烈だったことに俺自身が驚いてしまって、二の句が告げなかった。でも、メッセージはもう向こうに届いてしまった。既読はついてない。でも、もう、取り消したって取り消した履歴が残る。君はきっと心配して、もしくは驚いて、もしくは不快になって、意図を尋ねる。その時にうまく誤魔化す自信がない。いつだって俺は君の見透かすようなガラス玉みたいな目を思い浮かべて、目の前にいなくとも自白させられる犯人みたいな心地になる。すみません、私がやりました。もうしません。なんて、吐き慣れた台詞を吐いて頭を冷たい事務机に擦り付けて。いや、そんなことはどうでもいい。この言葉のフォローを、と慌てる俺の目の前で、ぽこん。と現れた白い吹き出し。
「嬉しい。光栄だね。何もかもくれなかったお前がやっと俺にくれるのが、最期、だなんて。」
これは訳したらどんな言葉になるのだろう、と思った。「ぶっ飛ばすぞ」「今更何?」「触れないでおこう」、どれも色が違うような気がした。そう、多分例えるなら、「愛」だ。でも、形は世の中に溢れているそれとは随分違って、一部は腐って一部は瑞々しくて、トータルで見れば顔を顰める汚物だ。ああ、思ったよりも限界なのかもしれない。
最期を預けてもいい、と思えるのは、何も君が社会的地位を得ているからでも、大人として信用できるからでもない。むしろ君はほっとけない、ちいさなちいさな子供だと思っているし、ある種の神のようにも思っているし、あの日俺を捨てて出て行った情のない親のようにも、思っている。君は知らないだろうけど。生殺与奪の権を他人に委ねるな、とかなんとか説教臭いアニメで流行っていたけど、人間は皆臆病なんだから終わりを自分で決められるはずがない。お前も一度社会に出てありとあらゆるものに揉まれてすり減れば分かる。つまり、今生きていることを、俺は「君が殺してくれないから仕方なく生きている」と定義付けることで正当化して何とか立っている。卑怯だと思う。自覚しているだけ可愛げがあると思ってくれていい。悪気はあるんだ。辞める気がないだけで。だから君が今すぐ俺の家に来て俺の首にロープを括り付けたなら、俺は戸惑いながらも君の手を握って足下の椅子を蹴る。そんなもんなんだ、人生なんて。どこでピリオドを打てば美しいのか、そんなことを考えてる時点で美しくない。
「おーい。」
君からの催促。可愛いな。今俺はお前に殺される覚悟をしてたところなのに。呑気な奴め。どうせ今端末の前で甘いものでも食べながらくつろいでいるんだろう。柔らかいものを抱きながら、心地の良い空間で。いい、いいよ、もっと幸せになれ。そうすれば俺は自分が不幸せな理由を、「君が俺の幸せまで持っていくから、仕方なく不幸せになっている」と定義付けることができる。ろくでもなくてまるで笑えない。言い訳と理屈がないと生きていけない人間に自分を構築したのは紛れもない俺だけど、弊害までは考えていなかった。
「悪い、お前が可愛いことを噛み締めてた。」
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skf14 · 2 years
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08072036
思ったよりも平気なんだな、と実感したのは、指が淡々と思い出だったものを消していく光景をどこか客観的な視点で眺めているからだった。ああ、これは初夏、これは出かけた時の晩飯、確かこの時一緒にあの番組をスマホで見て、とか。思い浮かぶ記憶はあるけれど、ただ選択して、消去して、つい数時間前まで関係があった人とは思えないその面影を、一瞬だけ指でなぞって、またゴミ箱に入れた。触れた画面の硬さと冷たさが、嫌に指に残ったけれどそれもすぐに霧散した。
いい加減この年になれば、出会いも別れも死別も経験してきたけれど、その度に自分が愛するものは不変のもので、それは無機物だったり決まったプログラムを繰り返す機械だったり、気に入ったメロディの繰り返し再生だったり、意志の介入しない結末の決まった物語だったりすることを実感する。そんな自分を冷静に見つめ直すことが多々ある。変化を恐れている?もしくは順応するのが面倒?分からない。けれど、少なくとも正当な理由はないことが分かる。
癖のようにまたタンブラーを開いて、自分が垂れ流した文章を目で辿った。ああ、そう言えば彼にまつわる話を書いてほしい、と頼まれていた。あれを完遂出来ないまま、手を離されてしまった。なぜか惜しいと思うのは、言葉を使って繋がった仲で、世界だったからなのか。もしくは、俺の生み出す世界が好きだ、と言ってくれたからなのか。
脳と自分を切り離したい、と思う。とある北九州の大文豪は「脳髄は物を考えるところに非ず」と言ったが、それはあながち間違いではない。この脳が考え動くことと、普段この身体が思い浮かべ吐き出すことには、少し乖離があるように思う。だったらその思考の元は手か?足か?爪の先か?瞼か?なんて馬鹿らしいくだらない疑問が浮かぶけれど、そんなナンセンスな問いには答えない。とにかく、何かが違うような気がする。脳は独立した人格で、身体はもう一つ、外に出る用の実動部隊のような感覚だ。
変わらないものが欲しい。日の当たらない部屋で砂時計を繰り返し弄ぶのは、飽きてしまった。それこそ不変じゃないか、と言われたらそれまでなのに、そういう不変は脳が求めていない、という。無理難題をふっかけてくるタンパク質が憎い。
最後、何もかもを綺麗に淡々と終えたくて、自分が傷付きそうな言葉の全てを見ないように感謝の言葉だけ言い捨てて彼の前から逃げた。せめて最後くらいは立つ鳥跡を濁したくなかった。だから最後に何を伝えたかったのか、それすら分からない。まぁでも多分、こんな人間に言いたいことなんてろくでもないことだろうから、そんな言葉を吐かせなかっただけでも上出来なんだろう。「何がダメかわからないところが、あなたのダメなところだよ。」昔そう言われてから、もう何年経っただろう。考えるのが億劫で、また意識はタンブラーに、文字の中に潜る。
生きていて、ふと気付いた時から言葉を生み出さない時間はなかった。常に何かを考え、生み、作り、思考し続けてきた。それは己が人間として生まれた責務だと思っていたから。世界に、色んな場所に散りばめた脳のカケラは己の知らないところに飛び散って、誰かを傷付けたり喜ばせたりした。生きる意味、なんて答えの出ない問いを思う時、いつも終着点はそこにあった。そのため、なんて偉そうなことは言えないけれど、理由としてこじつけるくらいの勇気はあった。
結局言いたい��とは、上手くやってたつもりだったんだけどダメだったか。ってだけの一言なんだけどあいにくまとめるのが苦手で、その一言を引き出すためにこんなに文字を使ってしまった。大馬鹿者、まさに生まれてすみません。だ。しかしこの気持ち、引く手数多だった太宰にはきっと分かるまい。
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skf14 · 2 years
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05090441
俺から離れた言葉は、どこに行くのだろう。
今まで生きてきて、幾度となく言葉を吐いてきた。きっと初めは意味をなさない「あー」だとか「うー」だとかいう言葉を発していた俺が、学習し、名前を知り、物を知り、文章を知り、きっとこの道のどこかで「言葉を綴ること」の楽しさを知る瞬間があったのだと思う。それがいつか、だなんてそんなことは覚えちゃいないけれど、確かに、人として生まれこの脳を持つ限り、言葉からは逃れられないのだろうと、ある種の強迫観念にも似た意識だったのかもしれない。言葉、言の葉、言語、文字。日本における識字率はほぼ100%?確か90%後半台だったと思う。ならば皆、言語を知っている。しかし、それを綴り、自己表現しようと思う人間は何人いるのだろう。そのうち、絵空事を形にしようと思う人間は?言葉の力を過信して、マッチで見えた幻覚に逃げる人間は?分からない。けれど、多分俺は最初に言葉を得てから、こうして文字の世界に生き、呼吸するように文章を書く運命にあったのだと思う。人格を切り離したことはない。けれど、ここには俺であって、俺でない人生が数多ある。その時生んだ感情の分、道がある。保育器に入った赤子みたいな、もしくは路地裏で飢えて死にそうな浮浪児みたいな、もしくは1秒後に死を迎えるメトロの下で肉塊になる若者みたいな。何故、と、昔に聞かれたことがある。何故、物語を書くのか。何故生み出そうとするのか。その時多分「楽しいし、妄想が形になるから。」と答えたけれど、多分そんな分かりやすいものじゃない。正解はきっと、分からない。ただそこに言葉があり、脳はそれを理解し、使い方を知り、考えるより先に口が、指が、全てが動き出して身体はただそれを追いかけるだけ。だからある意味では無意識で、本能で、本質でもある。外部に置いた俺の記憶のカケラ、にもなっている。読めば、この時自分が何を考えていたのか手に取るように分かる。人生においてなるべく荷物を減らしたい俺は、外に大切なものをたくさん置いて、自分の中身を減らす癖があるようだった。それは仮に色を失っても、体が宝石になり動けなくなっても、全ては文字で伝えられる。感覚も匂いも、共有出来なかった数多のものも、言語さえあれば、抱き締められる。こんなにも優れたものがあっただろうか。仮に俺がこの実体を失っても、言葉はネットの海に、見かけた誰かの頭の中に、誰にも見つけてもらえなかった暗闇の中に残される。言葉は殺せない。世界も殺せない。たかがウン10キロのタンパク質なんかよりよっぽど有能で、優秀だ。ああ、何だかあまり見付けたくない結論を見つけてしまったかもしれない。でもきっと、それも真理なんだろう。世の中の全て、頭の中の全てを表せばきっとこの手は止まるけれど、その前にこの心臓が止まる方が早い。だから、溢れて止まない頭の中の声を、見える景色を、全てを、吐き出して全て、生きた証を記録したい。他でもない、自分の為に。それが唯一、自分に報いる方法だと信じて。
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skf14 · 2 years
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04090012
最初に「桜の樹の下には死体が埋まっている」と聞いた時、学校に生えていた桜の樹の根元を必死に掘った。小さい俺の目には、その枯れかけた老木が世界で一番美しく、まるで自分とは違う世界に生きるものに見えた。多分、逃避したかったのだと思う。この足は地面から離れられない。この手は大きな物が掴めない。御伽噺のように空も飛べない。��んな違ってみんないい、なんてそんな価値観を抱いて地べたを這いつくばるより、桜の養分になって死んだ、別の世界に行けた名も無き死骸に憧れを抱いていた。道具も使わず土を掻いたから爪の隙間は土で汚れたし、地面は子供にかき回されて乱れたし、服を汚してしまって母親に酷く怒られた。土遊びなんてする年齢じゃないでしょ、と叩かれて外に追い出されて、それでも俺はあの桜の下に埋まっているはずもない誰かを想った。ただ、羨ましかった。そしてその憧れは数年後、形を変えた。ふと訪れた祖父の墓参りの帰り、山の中を歩いた先にあった大きな八重咲きの山桜の樹と、その節のある太い枝にぶら下がった男。桜は縄越しに栄養を吸い取っているのか瑞々しく、生き生きと頭を揺らして風に花弁を散らせた。それはそれは気持ち良さそうに、死骸を貪って。もしかしたら、その貪欲さこそが日本人を桜に引き寄せる理由なのかもしれない。俺は腐った肉の匂いに耐えながら、千切れそうな首とそこから覗く脊椎を見上げて、自然と上がる息に耐えて、蠅の羽音をBGMに桜の根元で居眠りをした。俺は歳を取っても尚、逃避したかった。逃避し続けるのが、もしかしたら人生なのかもしれない。しかし、しかし。全て桜が美しいのがいけない。人を惑わせ、明るい気持ちにさせないこの花がいけない。いつか日本が、ただ一億と少しの桜が咲くだけの無人島になってくれたら、俺はその中で一人ワルツを踊りながら目一杯花見をして、そして、君が埋まった桜で彼のように首を吊りたい。
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skf14 · 3 years
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04282354
「だから君の人生はつまらないんだよ!」
何度目か分からない彼の叱責に、手が止まった。僕は今、怒られたのだろうか。彼は俺の前にツカツカと歩み寄って、困惑する顔を覗き込んで、目を吊り上げる。怖いからやめて、と言えば、彼は笑うんだろうか。いや、多分、笑ってもらえない。彼は眉を吊り上げ、怒っていた。
「何をするかと思えば、君はいつも人を殺すか傷つけるか、それしかしないじゃないか。」
それこそが人が生きる意味ではないかと思うが、彼は僕の反論を聞くつもりはない。身振り手振り、往来のパトカーや救急車を止めても演説を聴かせたいんだろう。モガもモボも立ち止まれ!とがなり声を上げている。
「能無しにも程がある!自覚があるだろう、そうは思わないか?君は一体何のために生きている!?食って、寝て、仕事をして、たまに何かをしたと思えば人を傷つける!全くもってつまらない人生だ!つまらないつまらないつまらない!ああつまらない気が狂いそうだ!」
全てが単調で気が狂いそうになる、と彼は言った。確かにその通りだと思う。しかし殺してはいない、むしろ愛しているだけなのだと、怒り狂った彼に向かって言う勇気はない。
「ああもうやめたまえ!うじうじとみっともない。そもそも君はどうしてそうも陰気くさいんだ。見ているだけで私の脳にカビが生えそうだ!」
陰気。僕の人生に最もよく似合う言葉。今だってただ俯いて、力もなく床に座り込んでいるのに。酷く疲れていた。もう立ち上がるのも眠るのも出来ないほど、疲れていた。何もしたくない。が、彼は一向に僕を罵ることをやめない。
「陰気!陰気!陰気だ!君の脳内には一体何が詰まっている?どうしたらそんな思考回路になり得るんだ!」
彼は僕に指を差して、そして頭を抱え踊るように僕の部屋を蹂躙して回る。馬鹿、間抜け、と指し示すのは、僕の思考回路。
僕はいつも、つまらない日常の間に、何かを傷つけ壊す妄想をして、日々をやり過ごしていた。それが彼は気に食わないのだろう。放っておいてほしい。僕の嫌いなものは際限なく、好きなものは片手に収まるほど。ずっと何かを恨んで嫌って、何かから逃げ続けた、まさしく陰気で陰鬱で、だめだ、もう死のう、と思うたびに線路を見つめて恍惚として、その癖眠る時には目覚ましを掛ける馬鹿な時間を延々と繰り返していた。
スマホが鳴った。暗闇の中で主張する画面の眩しさに目が眩んでまた眉間に皺が寄ったのを、彼はわざとらしいため息で叱咤する。煩い煩い。時刻は午前の1時02分。届いたのは防災速報。『強い雨』の文字。ああ、先日から降り続いていた雨が強まるらしい。雨は嫌だ。身体が濡れる。頭も痛くなる。暗い部屋でぐるぐると回っているうち、バターになりはしないかと思う。そういえば昔どこかで見た動物園のクマ、シロクマだ。彼は狭い偽物の氷山の上でグルグルグルグルグルグルグルグルずっと回っていた。何が楽しいのか、畜生の気持ちは分からないと視線を動かした先に、「狭さによるストレスで時折同じ場所を行ったり来たりしてしまう」と解説が書かれていた。残酷だと思った。人がそこへ閉じ込めているのに、それを解説なんて。彼は僕が帰る時もずっと回っていたし、その次の日も、その次の日もずっと回っていた。気が狂っていたんだろう。気持ちはよく分かる。
「だからやめたまえ!君!いい加減にしないか!」
ああ煩い煩い。そんな怒鳴り声をあげないでほしい。今日も働いてきたんだ。いや、あれ、今日か?昨日だ。今日は雨だから体調が悪くて、休んだ。僕が会社にいなくとも、会社も社会も回っていく。適当な言葉を並べた上司がガチャ切りした電話を壁に投げて僕は不貞寝して。ああもう昨日の事もうまく思い出せない。
「いつまでそうして俯いているんだ。この根暗野郎。」
青鯖が空に浮かんだような顔、でもしているのか、彼は僕の顔を覗き込んで、鼻を摘み、臭い臭いとリアクションをして見下した。僕はただ静かに眠りたい、だけ、なのに、安眠を妨げる彼は僕がベッドに入ることを許さない。僕の周りをぐるぐる回って、その目と、空気と、全てで僕を責め立てる。僕が一体何を。
「君は一体なんのために生まれてきたんだ。一体何を成し遂げた?なぜ生まれた?答えてみたまえ。」
そんなことを答えられる人間がどこにいる?彼はわからないのだろうか。分からないのだろう。僕がこうして頭を抱えている理由も、昨日まで笑っていた人が翌日朝の通勤快速に頭から飛び込む理由も、無敵の人が手当たり次第人を刺して捕まる理由も、何もかも。彼の声が雨音響く夜にわんわんとこだまして、鼓膜を突き破りたくなる。嫌だ、煩い。やめてくれ。
「どうして君は、君として生まれてきた?考えてみろ。精子と卵子が母親の胎内で出会った時、君になると誰が予想できた?無事産まれた時、成長した末の姿がこんなだと、誰が想像した?君はどうして君なんだ?答えて見せろ!」
分からない。もう何も分からない。どうして僕が、なぜここに、こうして生きているのか誰が分かるのだろう。神の采配だとしたらそいつはペテン師、もしくはセンスのないただの凡人だ。僕を生み出すくらいなら、もっと頭が悪く力はある白痴のデクノボウを生み出して労働力にした方がまだマシだろうに、こんなにも使えなく、そして思考だけは一丁前に煩い人間を、この世界に産み落としてしまった。才能ないね、やめたら。なんて言えたら苦労しない。部屋を廻っているうちに目が回って、その場に座り込むと彼は僕の前に立った。頭の上から声が降り注いで、頭皮が狂いそうになる。
「どうして君は、そう俯くことしか能がないんだ!前を向いて、堂々と歩く人々の姿が目に入らないのか。君は、生きていて恥ずかしくないのか?」
僕をいじめないで。口から溢れそうになった言葉は、ひどく子供じみていて、自分を被害者に仕立てる姑息な色をしていた。嫌な大人になった、とつくづく思うが、目の前にもっと嫌な大人がいる以上、僕が子供と化すのも仕方がないのかもしれない。彼が全て悪いのだと、そう思わざるを得ない。そうだ、彼が全部悪い。こうなったのも、全部。
「ゴミ溜めに帰って自慰をして眠って、君の人生って一体なんなんだ?どうして君は、まだ生きている?」
そりゃ何度だって一歩新たな世界へ踏み出そうとしたさ。したけど、無理だったんだ。あの高速の車輪の下で細切れになっていく自分の大腿骨や筋繊維を想像しただけで快感と恐怖に胸を掻きむしりそうになるし、生きている意味などないと知らされるたびにあと一歩、を体感しようと高いところに行って、何事もないように家に帰るんだ。君には分からない。
「どうして君は、そう、破滅的なんだ。」
社会が悪い。僕が、俺が、いや元を辿れば、誰だ?性行為を憎めばいいのか、何からどう遡って踊ればいいのか分からない。同じアホなら線路覗くより踊らにゃソンソン。でもこの部屋はタダでさえ狭いのにモノが散乱していて、ろくに踊る事もできない。踊れないならどうすればいい。しゃがみこんでフローリングを舐めることしか出来ない。彼は何も言わない。部屋が静かになる。何か言ってくれ。せめてお前の声をBGMに、脳内で踊ることくらい許してくれ。
「どうして君は、こんなことを。」
彼が手を差し出して、目の前に転がった死体を触った。生暖かい。夏場に外に放置し続けた麦茶くらいの暖かさ。とうに人の温度は手放していた。べちょりと触れた手が濡れて、感触の気持ち悪さに身体中が痒くなって、血や油や体液が飛び散る床をルンバの如く転がり回る。ああ?これも彼からすれば踊ってるってことになるのか?
「もうやめようと、この間言っていたじゃないか。両手両足の指で足りるうちに、やめようって。なぁ。君はどうして、僕の言うことを聞いてくれない?」
聞けない。だって目の前の身体には赤ちゃんが宿っていて、僕はもうずっと、何週間も前から、『殺せ』『殺さなければ』というある種の強迫観念に脅かされていて、人を見ても顳顬や首の太い動脈、喉仏に眼、脇の下の太い血管、左脇腹の肝臓、目につく場所は全部それなんだ気が狂いそうになる気持ちがわかるだろう?君にも。何をしてても、あああの皮膚に剃刀を走らせてべろりと皮膚を剥がせばいいだとか、ちょうど手の中にある改造した細い鉄パイプを刺せばぴゅ〜っと血抜きができるだとか、そう言うくだらないことしか考えられない脳にされてしまった。誰にかはわからない。眠っている間に改造手術が為されたのだろうか。分からない。分からないが、僕は、そうしなければいけない。と最初から運命は決まっていたんだろう。ただ単純に目の前にこれがいて、奇形じみた腹を叩き割って正常に戻してやらねばと思ったまでのことで、強いて言うなら別に理由はない。
「君は、自分より自分の弟を可愛がった母親を憎んでいたね。そんなに愛されたかったのかい。」
愛されたくない奴がどこにいる。ふざけるな。でもそんなことはどうでもいい。僕がどうであれ、僕が今人を殺さなければ治らないことには変わりない。意味のないことを聞くのは、シュールレアリズムでのみ許されることであって、現実世界でやればそれはまさしく気狂いの所業にしかならないからだ。
「早く、私の身体を返してくれ。」
「あーーーーーーー!スッキリした!!!そうなんだよ、やっぱりそう、これが正常だったんだ。転がる死体と深夜の通販番組のアンサンブル。偽善者が愛を語って人を作る業の深さたるや、人間が考える葦なんて例えた謙虚さとは程遠い傲慢さで息も出来ないほど笑い転げた暁にはやましさと虚しさと悲しさに襲われて夜も眠れなくなるわけで、こうして俺がしている行為は至極正しいかつあるべきことだと分かる分、そもそも生まれてくることが苦痛だと言わざるを得ないこの世界に、己の快楽目的で欲を発散して副産物を生み出すこと自体が全くもってナンセンス!意味がない!無駄だ全く合理的でない理性的でない、この地球上で高等生物として生まれた人間が行う行為ではないと判断出来るからして、俺はその元を絶ってやったんだとあーとにかくスッキリした、やかましい声ももう聞こえないし、この死体が細かくなって無くなるまでは俺はまだこの世界にいることが許される気がするからこそ、記念すべき21人目のお客様として我が家にようこそ、じゃない、21人目、22人目のお客様、失礼いたしました。」
スマホがまた鳴った。ゲームのログインボーナス更新の通知。4時になった。明日も仕事だから、眠らないといけないのに、また彼に邪魔されて手が止まってしまった。さっさと消えてくれればいいものをなかなかしぶといのか、消え���うとしない。空気が読めないこと甚だしいが、まあ、殺した後の賢者タイムにだけ現れるのはもしかしたら僕の退屈を潰すために現れてくれるのかもしれないので、感謝だけはしておこう。なんだか気分がいいし、明日、有給取って休もうかな。
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skf14 · 3 years
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03290220
好き、の、ただ一言が口から出てこないまま、時計の針はもう随分と周ってしまった。こんなご時世じゃ、ゆっくり食事すら出来ないと今更気付いたのは、俺がろくに出歩かず模範囚の如く「自粛生活」を頑張っていたからだろうか。いや、違う。誰かと出掛けよう、なんて気にならなかったから、だ。
街の明かりはいつもと同じように灯っている。高等生物である人類が、叡智を結集しても到底敵わない目に見えないナニカに脅かされてから、もう1年以上が経過した。毎日くだらないことで喚き立てるメディアにも、過敏な人間達にも辟易していたのに、そんな喧騒が嘘みたいにここは、静かだ。
「ねぇ、寒くないの?」
「寒い。」
「だろうね。」
「でもいいんだ。寒さを感じると、生きてるって感じがする。」
「それで風邪引いたら全部台無しなんだけどな。」
「確かに。」
横でパックのコーヒー牛乳を飲んでいる彼女。マスクを外してコーヒー牛乳を飲み、マスクを付け直す不自然さにも目が慣れてきたが、よく考えれば滑稽だ、と思う。感染症対策についての講釈を垂れ流す俺はマスクを顎にかけたまま、飛沫とよろしくやっている。
彼女のことが好きだ。
冬がまだ名残惜しく居座っているせいで、あわよくば肩でも寄せ合えるんじゃないかと思ったのに、結局俺と彼女の間には買ってきたおやつとコーヒー牛乳と、俺の好きないちごオレが並べて置かれている。今��行りのソーシャルディスタンス、だとしたらくそくらえだ。
結局飯屋からも、20時に締め出されてしまった。外で立ち飲みする若者は、朝のニュース番組で晒しあげられていた。結果、適切な距離を保ちながら、小腹を満たそう、ということになった。つくづく、色気がない。
「なぁ、」
「ん?」
「水槽の脳、って知ってる?」
「何それ、新種のペット?」
「だとしたら飼いたいか?お前。」
「え、やだよ。臓器じゃん。」
「だろうな。」
「で、何?」
彼女は最近行ったらしいマツエク屋でつけてもらった控え目な睫毛(俺には十分派手に見える)をぱさぱさと揺らして、誰もいない公園をぼーっと眺めている。横顔から覗く眼が好きだ、目ではなく。と伝えたら、変態じみていると笑って流すんだろう。
「この世界って、実際に、実在してると思う?」
「えーっと…うん、思う。だって今私の足は、土を踏んでるし。」
彼女のお気に入りの白のドクターマーチンが、公園の地面をガリガリと擦って、現金な俺は少しもったいない、と思ってしまった。結構するのに、その靴。でもそれくらいやんちゃな方が、俺は好きだ。
「その、地面を踏んでる感覚も込みで、俺達が体験してるこの世の全てが、一つの水槽に浮かんだ脳が見ている夢だ、っていう仮説があるんだよ。」
「へぇ。それって、世界が10秒前に作られた説、の友達みたいなもの?」
「あー、なのかな?多分。よく知ってんね。原理は似てるかな。」
「世界には、難しいことを考える人もいるんだね。」
全部を疑うなんて、疲れちゃう。彼女はまた律儀に付けていたマスクを外して、甘さ控えめのコーヒー牛乳を飲んだ。
恋愛ってのは酷く億劫なものだと、それなりに生きてきた人生の中で嫌というほど学んでいた。妥協と擦り合わせ。他人と共存していく必要性すら見直しつつあった俺の前に、彼女はふらっと現れ、俺の恋愛においてはまだ幼稚な心を掻っ攫っていった。
彼女のことが好きだ。
不毛だ、と思う。尖る唇は奪えても、彼女の人生を背負う覚悟はない。子供より、親が大事と思いたい。とこぼしたどこかの父親を思い出した。美味しい貴重な桜桃を、不味そうに食べては種を吐く男。色々なしがらみの中でなんとか生きてはいるものの、人生というものに酷く疲れて、加護を得て解き放たれたい、と望む無力で無責任な人間。しかし、人間のあるべき姿でもある。
あのある意味駄作とも呼べる作品がここまで世間に浸透したのは、皆が心の中で同じようなことを思っているから、だ。当然、こうして彼女を前にした俺も。彼女より、俺が大事と思いたい。
しかし同時に、かの人間失格な男のように、この先どんな悲しみが待ち受けていたとしても、今俺の前でけらけらと楽しそうにしている彼女と添い遂げる幸せが欲しい、とも思う。
俺の大して面白くない人生において、生きる、ということは、飲み残した一杯のアブサン、そのもののようだった。焦燥感、漠然とした不安、喪失感、胸に巣食う孤独と虚空。何も得られなかったのに、何か得られたはずだと追い求める不毛さ。不毛な道を、もう数十年ただ歩いてきた。強迫観念に基づく歩行を、続けてきた。
それなのに、彼女と結婚したい。自転車で青葉の滝を見に行って、帰りに古書店にでも寄って、互いの好む本を一冊ずつ買って帰りたい。なんて、我ながら、太宰を読みすぎてしまっている。
「星、全然見えないね。」
「明るいからな。仕方ない。田舎にでも行かなきゃ、あ、でも、あれ、星じゃない?」
「あ、本当だ。星だぁ。光ってんね。」
彼女は小さな手を空に翳して、ポツンと夜闇に空いた白い穴をゆびさした。無邪気な、まるで植物のようだと思う。刈られるとも知らず、蹂躙されるやもしれない道端でも、構わず生き、咲いて、生を謳歌する植物。ごちゃごちゃと思考ばかりを絡めて墓穴を掘り続ける俺とは、対極にいる存在。
「眩しいな。」
「そだね。いっそのことさ、地球停電デー、みたいなの作ってみたらどうだろう。」
「地球停電デー?」
「そ。必要最低限の電気は維持して、あとはぜーんぶ消すの。そしたらきっと、今生きてる人間が、誰も見たことないような星空になるよ。」
喉元まで出かかった、好きだという言葉を飲み込んで、俺は返事の代わりに手に握っていたいちごオレに口を付けた。彼女は何も気にせず、自分の言った「地球停電デー」の響きが気に入ったのか、くふふ、と笑っている。
元来、理屈でうまく表すことが出来ない事象は苦手だ。感情論も、悲壮感も、恋愛感情も。昔からずっと、説明出来ないことは悪だと思ってきた。しかし今、少し間を空けた隣で笑う彼女を抱き締めたいな、と思った気持ちは説明出来ないし、説明出来ないでいてほしい、と思う。俺が大人になったのか、もしくは彼女が俺を大人にさせたのか。分からない。
「案外、賛成するかもな。」
「残業無くなるよ。君の嫌いなお仕事も、その日はぜーんぶ無し。」
「まぁ、1日休んだところで会社は潰れないしなぁ。実現不可能ではない。」
「めちゃくちゃ偉くなったら、私がその日作ってあげる。」
「ちなみにいつ?」
「勿論、今日。」
「なんで?」
「んー、君と星を見つけた日だから。」
彼女のことが好きだ。
不幸を食べて育つ俺の中の太宰かぶれな俺も、すっかり黙り込んでしまった。勝てないんだ。彼女には勝てない。どんな陰鬱も凄惨な記憶も、悲しみも哀しみも、彼女が触れれば忽ち芽を吹き花を咲かせてしまうんじゃないか。
二人の間のおやつはとうに食べ切ったのに、俺は手を膝に置いたまま、無防備に放り出された彼女の手をちらちらと見るだけ。目の前に出された幸福を、どう受け取っていいのかわからない。
「君は、不器用だね。」
「なんで急にディスるんだよ。」
「あ、もうすぐ電車、終わっちゃうよ。」
「え、まだ早いだろ。」
「ほら、今こんな状況だから、終電早まってんの。」
口を挟む間もなくゴミを片付けた彼女がさっさと歩き出したので、その小柄な背中を慌てて追い掛けた。ソーシャルディスタンスが終わらないまま、今日が終わりを告げようとしていた。
「ねぇ、楽しかった。また行こうね。」
「うん、また行こう。」
「ねぇ、美味しいものも食べようね。」
「食べような。お前が好きなパンケーキも。」
「ねぇ。」
「ん?」
「手、繋ぐ?」
差し出された小さな手。無邪気で悪意のない、愛おしい手。あぁ、今日行った水族館で見た、ヒトデみたいだ。誘われるように手を伸ばす。目の前の信号が赤に変わって、二人同時に足を止める。一瞬普通に繋いだ手を、君は恋人繋ぎに直して笑った。
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skf14 · 3 years
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02130017
「馬鹿みたい。」
私の口癖。何も素敵じゃない。何度目だろう、また君がいなくなる夢を見て跳ね起きた。もうとっくに、私の隣には君はいないのに。幻影に取り憑かれるなんて、勘弁してほしい。私、お化けは苦手なの。
時刻はまだ深夜の2時49分、明日は折角の休みだから、7時にけたたましいアラームに殺意を抱かなくったっていいのに、寝かせてくれない私の脳。馬鹿みたい。なんだかこうして無理矢眠りから引き剥がされた時って、気分が悪い。お茶を飲んで、眠りの邪魔になるって分かってるのに、テレビを付けた。
「ファントムペイン?」
テレビから聞こえてきた、厨二病じみた言葉に閉じていた瞼を開いて、眩しい画面を見つめると、左足の膝から下を失った女の子が呻き声を上げながら、泣いていた。なんでも、人間の脳が、欠損を理解出来ず失った箇所の痛みを認識する、幻肢痛と呼ばれる症状に苦しんでいるらしかった。
『見たら分かるのに、私の頭だけが分かっていないんです。』
皮肉めいていて、乾いた笑いが湧き上がってきた。ふふ、あっはは、あー面白い。ファントムペインだって。歴然とした事実を、この全知全能の脳髄様だけが理解出来ずに、身体を引っ掻き回して遊んでいるなんて。笑えちゃう。
少し時間が経てば、何が面白かったかなんて、忘れちゃう。私の脳はきっと私が手を失っても足を失っても、命を失っても痛い痛いとのたうち回るのだろう。今丁度、夢の中で幻を見せたように。馬鹿らしい。心底、馬鹿らしい。
LINEを見ても、君からの返事は来ていなかった。新年の挨拶と一緒に送った、冗談めかした「今でも好きだよ」は、「出会えてよかった」と的外れな回答で躱された。今時、Siriだってもう少し意思の疎通が出来るのに。馬鹿みたい。こんな文字で、満足して、現実は何も変わらないのに。
これでも一応、健全に生きているつもりだった。誰にも迷惑をかけず、自分の矜持に従って、正しく。いつかはそんな私を理解してくれる人が現れると思っていたし、現れたら幸せな家庭を、私にも築けるんじゃないかと、夢を見ていた時期もあった。
君のLINEのアイコンが、見知らぬ男とのツーショットになっていたのに気が付いたのは、丁度私が君とさよならしてから半年くらい経った頃だった。私が、君から教えてもらったback numberが未だに聞けなくて、君と行った動物園のCMを見る度に苦虫を噛み潰したような顔をしていた頃だ。よく覚えてる。
だって、その写真、私とデートした公園で撮ってるんだもん。記憶力はそんなに悪い方じゃないし、どんな馬鹿でも気がつくと思うから、私に向けてしたとしたら、結構性格悪いんじゃない、って思う。けど、多分一番ダメなのは私だから、話は冒頭に戻る。私、馬鹿みたい。
社会が少しずつ変わっていくのを、肌で感じていた時期もあった。性差を無くし、多様性を、と叫んでいた人々は、時の政権を倒す事に躍起になっていて、私みたいな少数派のことはとうに忘れているんだろう。弱者の救済を声高に訴えていた人々は、誰よりも自分が救われたいように見える。そう、人はみんな、救いを求めて生きてる。こんな状況になって今、心の底から思う。
『今日の感染者数は、全国で…』
アナウンサーの無機質な声が、3時のニュースを読み上げている。真っ赤に塗られた東京都。休業要請と、それに抗う人々。政府の鶴の一声がないと、自己判断すら出来ない、義務教育の敗北者達がテレビカメラの前で顔を隠して口角泡飛ばし吠えていた。馬鹿みたい。でも、こういう馬鹿とは違う存在でありたい、とは思った。
でも、もし。君と一緒にいた日々にソーシャルディスタンスがあったら、どんなに窮屈だっただろう。
君と行った公園でピザまんを分け合うことも出来なければ、観覧車のテッペンでキスをすることも叶わなかっただろう。人混みの中でこっそり手を繋いだ時の可愛らしい照れた顔も、初夏の海を見ながら二人並んで、海風が寒いと寄せたオフショル の肩同士が触れた温度も、きっと、知らないまま君は私のいない世界にいってしまった。
思い出を反芻するだけで、まるで今の私が幸せになったような幻覚を見せる私の脳が、私は心底嫌いだった。馬鹿みたい。馬鹿みたい。もうこの手の中には何もないのに、馬鹿みたい。
本当に馬鹿みたい。私はもう、変われないのに。もう何十年も、私をやってきて薄々勘づいていた。こうして過去に囚われて、束の間の夢を吐き戻して、私は現実から逃げてただ生存を続ける。馬鹿だわ、ほんと、馬鹿みたい。
あの瞬間に、息の根を止めてくれればよかったのに。帰り際、終電に乗ろうとした私を改札前で引き留めた君がした口付けが、例え寿命を奪う呪いのキスだとしても、私は甘んじてそれを受け入れたと思う。だって、幸せも不幸も向こうには何も持っていけないなら、せめて、命の途切れる瞬間は、幸せでいたい。
なんて、ファントムペイン。また幻を見て胸を痛めてる。明日起きて後悔するのが、目に見えてるのに。眠たいわ、ダイエット、なんて息巻いた糖分不足の脳が、私に反抗してるの、きっと。そんな奴は、黙らせるのが一番いい。黙ってて。私は今を、明日を生きることしか出来ないの。だからもう、くだらない夢で私を起こさないで。
テレビを切り、真っ暗になった部屋に少し古い空調の「ブーン」という機嫌の悪そうなモーター音が響いていた。ドグラ・マグラのように、現実がループしていたら面白いのに。なんて、馬鹿みたい。もう今日は死んだのよ。過去も、君も、買いっぱなしで忘れてた1週間前のチョコシュークリームも、死んだの。
「おやすみ、馬鹿な私。」
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skf14 · 3 years
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01210002
今までのまあそれなりに長い人生を総括し、これからのそこそこ長いであろう人生について勘案し、全てをひっくるめて判断した結果、やはり俺の人生において最重要かつ最優先事項だと判断したので、年が明けてすぐの寒い日、母親を殺した。
だからこまめな連絡ができなかったわけで、画面の向こうで健気に待ち続けるコイビトカッコカリに内心で頭は下げたが画面欄には悪びれもなく「悪い、寝てたわ。」と打ち込んで送信した。頭は下げない。なぜなら俺は今日も一人で戦ってるから。そもそもお前何日寝てんだよ。それはもう仮死。仮死でしかないから。突っ込まない出来のいいコイビトカッコカリは秒速で既読をつけてから、テンプレート使うどっかの迷惑メールみたく不自由な日本語で「返事きた。嬉し。」とGoogle翻訳も真っ青な棒読みを書いてよこした。人間何年目だテメェは。会話をしろ。
目の前で横たわる亡骸に手を合わせた方がいいのか、暫し考えた。痩せ細って鶏ガラみたく骨が目立つ身体は貧相で、微塵もチンコが反応しない。いや、それが正常か。しっかりしろ俺。貧相だなぁ、コレ。40キロと少しくらいしかなさそうなそのタンパク質には、さっきまで21グラムの魂が宿っていた。はずだ。秤にはかけていないから、この女の魂が普通の人間と同じように21グラムあるのか、それとも肉欲と嫉妬と恨みつらみで削られて1グラムも残っていなかったのか、今更気にしたところで意味はない。だってもう口からその魂は抜け出て、今頃上空数千メートルを漂ってるはずだから。どこ?大気圏?オーロラとかがある辺り?わっかんね。学がないから、上手いこと例えるなんて無理だった。学がないのは、俺の家系みんなそう。まるで学はなく、能もなく、できることといえば世の中を分かった顔して講釈垂れて文句言って、公務員叩いて政府叩いて高額所得者を妬むこと。うっわ、終わってね?でも大多数の人間そうだろ。いつだって自分より上を妬んで、自分より下を蔑む。人間って何のために生まれたんだろうな。猿のままの方が絶対幸せだった。
この目の前に転がってる女も、可哀想な人間だった。哀れにも交尾相手を間違え、孕んだ種は劣等、生まれた人間はハズレクジ。哀れな人生だと、心から可哀想に思う。挙げ句の果てに我が子に殺されて。可哀想に。可哀想に。この可哀想、って単語、言えば言うほど脳の中でなんか快楽物質がじゅわじゅわ溢れてく気がすんの、結構色んな人と共有出来る感覚な気がする。だって、みんな、可哀想を見ながら生きてんでしょ?ろくに食べられない子供、可哀想。年寄りに跳ね飛ばされた若い女、可哀想。コロナ禍で貧困に陥った母子家庭、可哀想。そうして自分も誰かの可哀想になってることに気づかずに、優越感で出来たドブを啜って「マァ、素敵なお味ですことオホホホホ」なんて笑うんだろ。くっだらねーな人間。
あー、うん。よし。ちょっと口を慎もう。ノー知識だけど肉が腐るってことは理解してる。だから俺は暖房もつけてないし、このせっまいワンルームに一人完全防寒で立ち尽くしてるわけだけど。冬場だからって
多分油断しちゃいけない。
素人なりに結構考えたつもりだった。深夜に呼んで、トイレに閉じ込めて、放置。衰弱したところを金属バットで殴って殺害。こうすれば、死んだ後に弛緩した身体から垂れ流される糞尿の処理をしなくて済む。人間、ほら、自尊心って最後まであるみたいだから、トイレに閉じ込めれば最低限そこで用足すでしょ?おまけに、トイレの水は飲まないだろうし。ま、飲んでくれても構わないんだけど。想像したら気持ち悪くなったからやめよう。俺も一応コレから生まれてるんだし。そうか、俺はコレの体内で、育てられたのか。
とりあえず、バラして、冷蔵庫と冷凍庫に詰めよう。このまま放置したままにはしておけない。俺も寝なきゃいけないし、寝てる間に起きてこないように、きちんとバラバラにしないと。いざやる、となったらスマホとか、部屋の隅に溜まった埃とかが気になり始めた。試験前掃除の法則って俺は呼んでるけど、もう何年も前にTwitterでバズってそう。時代に取り残された俺。
包丁しかない。すぐ鈍になりそうだけど、まあ、使い物にならなくなったら近くのホームセンターで糸鋸かなんか買ってこよう。木材とかと一緒に。レッツDIY。包丁は力を入れすぎると折れる。ってのは知ってる。通り魔殺人した奴が本に書いてた。もっと予備用意しとけばよかった、って。これブラックジョークよ、笑って笑って。
あ、太腿に傷、しっかり残ってる。懐かしいなぁ。コイツを殺そう、と思って俺がキッチンにあった、刃渡り10センチくらいの薄っぺらいフルーツナイフで刺した時の傷だ。あの頃の俺、まだ小学生のガキだったのに、コイツが救急車に乗って運ばれてくのを部屋のベランダから見届けた後、最初に何したと思う?履いてた血塗れのジーパン洗ったの。覚えてるわ、今でも。オラ、ってナイフ振りかざした瞬間、『プツッ』つって最初に生地が抜けて、そのあと柔らかい組織の中に尖った先っぽがズブズブ沈んでって、豆腐よりかは少し硬いんだな、って思った瞬間、瞬きするたびに赤が加速度的に増えてった。ジワジワ、どころじゃない。じゅっ、じゅわっ、ぶわわって。鮮やかな赤。刺した深さはそこまでじゃない。所詮ガキのやることだ。俺は刺さってたナイフを抜いて、その手で119番を呼んだ。『お母さんが怪我した』つって。ウケる。怪我させたんだろ。つーか、お前が刺したんだろって。んで荷物持たせて、ついていこうとは思わなかったんだよ。だって犯行現場、綺麗にしなきゃじゃん。洗濯機の使い方は分かってたから、粉洗剤入れて、穴空いたジーパン洗ったんだよね。排水が流れ出るのが見えるタイプの洗濯機でさぁ、俺は夏なのに部屋の電気つけっぱなしで、その水がピンクから透明になるまでずーっと見てた。結構優秀なんだよね、パナ○ニックの洗濯機。キレーに洗ってくれてさあ。蓋を開けたらあらもう元通り。安心して、パンパンってシワ伸ばして外に干したの。穴空いたジーパン。馬鹿でしょ?ツメが甘いっての。でもさぁ、なんか上手いこと言ってくれたみたいで、俺お咎めなし。有り難かったわ。てっきり吊し上げられるかと思ってたから。馬鹿だよねえ。だって俺お前の頃殺してやろうと思ったんだよ?まぁ、その数年後に結局また殺したくなって、それが続いて結果目的達成ノルマクリア報酬ゲットに陥るんだけどね。今頃後悔してんのかなぁ、警察突き出しておけばよかったって。ごめんね。可哀想に。
関節ってこんな固いのな。今まで散々妄想したり、時には文章にしてみたりしたけど、マグロの解体みたいには実際いかねえみたいだわ。骨は硬いわ、油はぬるぬるするわべとつくわ、血は溢れるし体液らしい黄色っぽいとろっとした何、組織液?みたいのがじわじわ沁みてきて刃が鈍になってくし。いやー、謝りたい。サックサク解体させちゃってごめんって。だって難しいって知らなかったんだもん。やらなきゃわかんないこともあるもんだね。いや、わかりたくはなかったんだけど。だって下手したら20年出てこれない。バレないでいたいけど、警察って案外優秀らしいし。人が一人世界から消えただけで、どうしてこうも騒ぎ立てなきゃいけないんだろう。足元で知らず知らずのうちに死んだ蟻に、今日誰が想いを馳せた?
肩の切断は断念した。一旦細いところを、と肘に移行して、皮膚とその下の薄い脂肪は切り分けてみたけど、やっぱり骨と骨の隙間がよく見えない。もういい、と手羽先の容量で掴んで捻ってみた。何度か回して、引きずるように伸びた腱を半ば引きちぎるように包丁で切ったら、ゾンビ映画さながら、腕が取れた。ひらりと開いた手のひらと、骨張った指。シミがいくつもあって、皮膚は突っ張ってて、ところどころに血が飛び散っていて汚らしかった。
幼稚園の時、父親に殴られた母親が泣きながら、俺を幼稚園まで送ってったっけ。俺は自転車の後ろに乗りながら、母親の歌を聞いてた。来る日もくる日も自転車に乗って、黒いハンドルを握って、太陽を浴び続けた手のひらに出来たシミを、「貴方のせいでできたの。」と言っていた。苦労の結晶が、そんな汚らしいものだなんて、何も喜ばしくない。
強く生きなければ、と思っていた。母親も、そして俺も、そうあるべきだと刷り込まれた。幼稚園で親に頭を撫でられる同級生の姿を見るたび、家で殴られるばかりの俺はどうして撫でてもらえないんだろう、と悲しくなった。運命だ、仕方ない、そういうもんだ、と割り切るまでに、酷く時間がかかってしまった。
切断した手を、自分の頭の上に乗せてみた。「撫で、撫で。」哀れで、仕方がなかった。これほどまでに欲していた愛を、もう、タンパク質の成れの果てからしか得られない。俺は生きてる間に、愛を、得られなかった。撫で、撫で。撫で、られたかったのか。俺。今更気付くなんて、哀れだ。よく出来たね、いや、何も出来ていない。何者にもなれず夢も捨て、希望は燃やし、光は塗りつぶした。ただ社会の底辺を這いずり回って、上級国民が吐き捨てた痰を啜って生き延びているだけのヒト。よく頑張ってるね、偉いね。何も偉くない。蔑まれるために存在してる、そんな人間だ。頑張っていたら今頃、もっと、尊厳ある何かを手にしているはずだった。
少なくとも誰かを見つけ、子作りをしたアンタの方が偉かったのかもしれない。今時の言葉で言えば、生産性があるんだと思う。それがどんなろくでなしとの子供だとしても、育て上げ、20歳になって放流するまで死なせなかった。そこまでハードルを下げて、人を褒めなければいけないのだろうか。わからない。俺は褒められたいのに、いつも人を褒めてばかりいる。
そうか、分かった。昔この女が、「人から貰いたいものは、まず自分から与えないと、もらえない。」そう説いていた。女を世界で唯一、神の如く信奉していた俺は、その通りだ、と、自分がされたいこと、されて嬉しいであろうことをもれなく人にした。正しい。ある意味ではそれは正しく、そして間違っていた。それは、「世界が善意で出来ている」かつ「人間がある程度以上の知能を有している」という前提がある状態でのみ成立する理論だ、ということを一緒に教えておくべきだった。お前は間違えたんだよクソ女。腹いせに腹を殴ったら、切断した首の断面からぶぅ、と空気が漏れて笑った。
世界は優しくなんてなかった。俺は俺に優しくない世界が嫌いだし、俺なしで回っていく世界が嫌いだし、俺なしで回るような世界にしてしまった俺が世界で一番嫌いだった。
そうか、もう母はいない。取り繕う必要もない。母の萎びた体。随分貧相になった胸元に顔を埋める。もう抱きしめては貰えないが、一度だけ、一度だけでいいから泣きついて、そして、全てを肯定されたかった。貴女に、生きてていい、と、そう言われたかった。人間は案外簡単に死ぬし、簡単に生きる。たった一言で目の前の電車に飛び込むこともあれば、たった一言で手にしていた縄を捨て明日の服を洗濯する。分かった時にはもう、遅すぎたのだけれど。
お母さん、俺は、貴女に褒めて欲しかった。貴女は唯一無二だと、自慢の私の子供だと、そう言って、頭を撫でてもらいたかった。何も頑張れなかった、何者にもなれなかった、出来ると思ったことが、世間の大半が当たり前にこなすようなことだった。分かってもなお、俺が俺である、ということに価値がある、と、他でもない貴女に言われたかった。貴女の役に立った時、そんなことをしなくても愛している、と言われたかった。目に見える愛を貴女に与えた時、存在していることが愛なのだと、そう説き伏せて、笑って欲しかった。父親よりも、再婚相手よりも、再婚相手の子供よりも、誰よりも何よりも世界で一番俺を愛して欲しかった。他人のために涙を流す前に、俺が生きていることに涙を流して欲しかった。何度殴っても蹴っても罵倒しても蔑んでも、赦し、そうさせた私が悪いなどとは言わずに、ただ、俺が大事だと、今は無い両腕で包み込んで欲しかった。愛して、欲しかった。
無償の愛を欲しがることは、そんなに罪深いことなのだろうか。腹を掻っ捌いては見たものの、学のない俺にはどれがなんという臓器なのかまるで分からない。どことつながりどうなっているのか、分からない。分からないだらけの世界が苦痛で、身を投げてしまいたくなる。とりあえず塊は洗って茹でて、縮んだやつはジッ○ロックに入れて冷凍しよう。処理は、まあ、ミキサー買って少しずつ流せばいいだろ。多分。歯は全部抜いたし、手足は冷凍するし、骨は、考えてない。乾かして砕くか、いずれにせよ冷蔵庫保存しておけば匂いは漏れないはず、だと思う。鶏肉を腐らせて暫く様子を見たけど、冷蔵庫の中からは臭わなかった。大丈夫。結局捕まりたくないんじゃん俺。
もう、6時間も経ってる。折角誕生日になった瞬間からし始めたのに、もう朝。後2時間もすれば仕事に行かないといけない。ああ、手が血に染まってるし、胴体が丸のまんま残ってる。どうしよう。ビニールに入れて、ベッドに寝かせておこうか。三重くらいにすれば体液も漏れないはず。帰ってきてハエが飛んでたら、どうしよう。殺虫剤、は無いから、洗剤でも振りかけておこう。よし、風呂。手も顔も足も汚いから、綺麗に洗わないと。仕事に行けない。よし。よし。よし。
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skf14 · 3 years
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12150006
軽快なメロディが音割れしていることにきっと全員気付いているはずなのに、誰も指摘しないまま、彼は毎日狂ったようにそれを吐き出し続けている。
時刻は朝の8時過ぎ。何に強制されたでもなく、大人しく2列に並ぶ現代の奴隷たち。いや、奴隷ども。資本主義に脳髄の奥まで犯されて、やりがいという名のザーメンで素晴らしき労働という子を孕まされた、意志を持たない哀れな生き物。何も食べていないのに胃が痛い。吐きそうだ、と、50円のミネラルウォーターを一口含んで、押し付けがましい潤いを乾く喉に押し込んだ。
10両目、4番目の扉の右側。
俺がいつも7:30に起きて、そこから10分、8チャンネルのニュースを見て、10分でシャワー、10分で歯磨きとドライヤー、8:04に自宅を出て、8:16に駅に到着。8:20発の無機質な箱に乗る、その最終的な立ち位置。扉の右側の一番前。黄色い線の内側でいい子でお待ちする俺は、今日もぼうっと、メトロが顔を覗かせるホームの端の暗闇を見つめていた。
昨日は名古屋で人が飛び込んだらしい。俺はそのニュースを、職場で開いたYahoo!のトップページで見かけた。群がる野次馬が身近で起きた遠い悲劇に涎を垂らして、リアルタイムで状況を伝える。
『リーマンが飛び込んだ』
『ブルーシートで見えないけど叫び声聞こえた』
『やばい目の前で飛び込んだ、血見えた』
『ハイ1限遅れた最悪なんだけど』
なんと楽しそうなこと。まるで世紀の事件に立ち会った勇敢なジャーナリスト気取り。実際は目の前で人が死ぬっていう非現実に興奮してる変態性欲の持ち主の癖に。全員死ね。お前らが死ね。そう思いながら俺は、肉片になった男のことを思っていた。
電車に飛び込んで仕舞えば、生存の可能性は著しく低くなる。それが通過列車や、新幹線なら運が"悪く"ない限り、確実に死ぬ。悲惨な形を伴って。肉片がおよそ2〜5キロ圏内にまで吹き飛ぶこともあるらしい。当然、運転手には多大なトラウマを植え付け、鉄道職員は線路内の肉片を掻き集め、乗客は己の目の前で、もしくは己の足の下で、人の肉がミンチになる様を体感する。誰も幸せにならない自殺、とは皮肉めいていてよく表現された言葉だとつくづく思う。当人は、幸せなのだろうか。
あの轟音に、身体を傾け頭から突っ込む時、彼らは何を思うのだろう。走馬灯とやらが頭を駆け巡るのか、やはり動物の本能として恐怖が湧き上がるのか、それとも、解放される幸せでいっぱいなのか。幸福感を呼び起こす快楽物質が脳に溢れる様を夢想して、俺は絶頂にも近い快感を奥歯を噛み締めて堪えた。率直に浮かんだ「羨ましい」はきっと、俺が人として生きていたい限り絶対漏らしてはいけない、しかし限りなく本音に近い、5歳児のような素直な気持ち。
時刻は8:19。スマホの中でバカがネットニュースにしたり顔でコメントを飛ばして、それに応戦する暇な人間たち。わーわーわーわーうるせえな、くだらねえことでテメェの自尊心育ててないで働けゴミが。
時刻は8:20。腑抜けたチャイムの音。気怠そうな駅員のアナウンス。誰に罰されるわけでもないのに、俺の足はいつも黄色い線の内側に収まったまま、暗がりから顔を覗かせる鉄の箱を待ち侘びている。
俺は俯いて、視界に入った己のつま先にグッと力を込めた。無意識にするこの行為は、死への恐怖か。馬鹿らしい。いつだって、この箱の前に飛び込むことが何よりも幸せに近いと知っているはずなのに。
気が付けば山積みの仕事から逃げるように、帰りの電車に乗っていた。時刻は0:34。車内のアナウンス。この時間でこの場所、ということは終電だろう。二つ離れた椅子に座ったサラリーマンがだらりと頭を下げ、ビニール袋に向けて嘔吐している。饐えた臭いが漂ってきて貰いそうになるが、もう動く気力もない。死ね。クソ野郎が。そう心の中でぼやきながら、俺はただ音楽の音量を上げて外界を遮断する。耳が割れそうなその電子音は、一周回って心地いい。
周りから俺へ向けられる目は冷たく、会社に俺の居場所はない。同期、後輩はどんどん活躍し、華々しい功績を挙げて出世していく。無能な俺はただただ単純で煩雑な事務作業をし続けて、それすらも上手く回せない。ああ、今日はただエクセルの表作りと、資料整理、倉庫の整理に、古いシュレッダーに詰まった紙の掃除。それで金を貰う俺は、社会の寄生虫か?ただ生きるために何かにへばりついて必要な栄養素を啜る、なんて笑える。人が減った。顔を上げると降りる駅に着いていた。慌てて降りる俺を、乗ろうとしていた騒がしい酔っ払いの集団が睨んで、邪魔そうに避けた。何だその顔は。飲み歩いて遊んでた人間が、働いてた俺より偉いって言うのか。クソ。死ね。死んでくれ。社会が良くなるために、酸素の消費をやめてくれ。
コンビニで買うメニューすら、冒険するのをやめたのはいつからだろう。チンすれば食べられる簡単な温かい食事。あぁ、俺は今日も無意識に、これを買った。無意識に、生きることをやめられない。人のサガか、動物としての本能か、しかし本能をコントロールしてこその高等生物である人間が、本能のままに生きている時点で、矛盾しているのではないか。何故人は生きる?生きるとは?NHKは延々とどこか異国の映像を流し続けている。国民へ向けて現実逃避を推奨する国営放送、と思うと笑えてきて、俺は箸を止め、腹を抱えてしこたま笑った。あー、死のう。
そういえば、昔、俺がまだクソガキだった頃、「完全自殺マニュアル」なる代物の存在を知った。当然、本を変える金なんて持ってなかった俺は親の目を盗んで、図書館でそれを取り寄せ借りた。司書の本を渡す際の訝しむ顔がどうにも愉快で、俺は本を抱えてスキップしながら帰ったことを覚えている。
首吊り、失血死、服毒死、凍死、焼死、餓死...発売当時センセーショナルを巻き起こしたその自称「問題作」は、死にたいと思う人間に、いつでも死ねるからとりあえず保険として持っとけ、と言いたいがために書かれたような、そんな本だった。淡々と書かれた致死量、死ぬまでの時間、死に様、遺体の変化。俺は狂ったようにそれを読み、そして、己が死ぬ姿を夢想した。
農薬は消化器官が爛れ、即死することも出来ない為酷く苦しんで死ぬ地獄のような死に方。硫化水素で死んだ死体は緑に染まる。首吊りは体内に残った排泄物が全て流れ出て、舌や目玉が飛び出る。失血死には根気が必要で、手首をちょっと切ったくらいでは死ねない。市販の薬では致死量が多く未遂に終わることが多いが、バルビツール酸系睡眠薬など、医師から処方されるものであれば死に至ることも可能。など。
当然、俺が手に取った時には情報がかなり古くなっていて、バルビツール酸系の薬は大抵が発売禁止になっていたし、農薬で死ぬ人間など殆どいなくなっていたが、その情報は幼かった俺に、「死」を意識させるには十分な教材だった。道徳の授業よりも宗教の思想よりも、何よりも。
親戚が死んだ姿を見た時も、祖父がボケた姿を見た時も、同じ人間とは思えなかった俺はきっとどこか欠けてるんだろう。親戚の焼けた骨に、棺桶に入れていたメロンの緑色が張り付いていて、美味しそうだ。と思ったことを不意に思い出して、吹き出しそうになった。俺はいつからイカれてたんだ。
ずっと、後悔していたことがあった。
小学生の頃、精神を病んだ母親が山のように積まれた薬を並べながら、時折楽しそうに父親と電話をしていた。
その父親は、俺が物心ついた、4、5歳の頃に外に女を作って出て行った、DVアル中野郎だった。酒を飲んでは事あるごとに家にあるものを投げ、壊し、料理の入った皿を叩き割り、俺の玩具で母親の顔を殴打した。暗い部屋の中、料理が床に散乱する匂いと、やめてと懇願する母親の細い声と、人が人を殴る骨の鈍い音が、今も脳裏によぎることがある。あぁ、懐かしいな。プレゼントをやる、なんて言われて、酔っ払って帰ってきた父親に、使用済みのコンドームを投げられたこともあったっけ。「お前の弟か妹になり損ねた奴らだよ。」って笑ってたの、今思い返してもいいセンスだと思う。顔に張り付いた青臭いソレの感触、今でも覚えてる。
電話中は決まって俺は外に出され、狭いベランダから、母親の、俺には決して見せない嬉しそうな顔を見てた。母親から女になる母親を見ながら、カーテンのない剥き出しの部屋の明かりに集まる無数の羽虫が口に入らないように手で口を覆って、手足にまとわりつくそれらを地面のコンクリートになすりつけていた。あぁ、そうだ、違う、夏場だけカーテンをわざと開けてたんだ。集まった虫が翌朝死んでベランダを埋め尽くすところが好きで、それを俺に掃除させるのが好きな母親だった。記憶の改変は恐ろしい。
ある日、俺は電話の終わった母親に呼ばれた。隣へ座った俺に正座の母親はニコニコと嬉しそうに笑って、「お父さんが、帰ってきていいって言ってるの。三人で、幸せな家庭を作りましょう!貴方がいいって言ってくれるなら、お父さんのところに帰りましょう。」と言った。そう。言った。
俺は、父親が消えてからバランスが崩れて壊れかけた母親の、少女のように無垢なその笑顔が忘れられない。
「幸せな家庭」、家族、テレビで見るような、ドラマの中にあるような、犬を飼い、春には重箱のお弁当を持って花見に行き、夏には中庭に出したビニールプールで水遊びをし、夜には公園で花火をし、秋にはリンゴ狩り、栗拾い、焼き芋をして、落ち葉のベッドにダイブし、冬には雪の中を走り回って遊ぶ、俺はそんな無邪気な子供に焦がれていた。
脳内を数多の理想像が駆け巡って、俺は、母の手を掴み、「帰ろう。帰りたい。パパと一緒に暮らしたい。」そう言って、泣く母の萎びた頬と、唇にキスをした。
とち狂っていたとしか思えない。そもそも帰る、と言う表現が間違っている。思い描く理想だって、叶えられるはずがない。でもその時の馬鹿で愚鈍でイカれた俺は、母の見る視線の先に桃源郷があると信じて疑わなかったし、母と父に愛され、憧れていた家族ごっこが出来ることばかり考えて幸せに満ちていた。愚かで、どうしようもなく、可哀想な生き物だった。そして、二人きりで生きてきた数年間を糧に、母親が、俺を一番に愛し続けると信じていた。
母は、俺が最初で最後に信じた、人間だった。
父親の家は荒れ果てていた。酒に酔った父親が出迎え、母の髪を掴んで家の中に引き摺り込んだ瞬間、俺がただ都合の良い夢を見ていただけだと言うことに漸く、気が付いた。何もかも、遅過ぎた。
仕事も何もかも捨てほぼ無一文で父親の元へ戻った母親が顔を腫らしたまま引越し荷物の荷解きをする姿を見ながら、俺は積み上げた積み木が崩れるように、砂浜の城が波に攫われるように、壊れていく己の何かを感じていた。母は嬉しそうに、腫れた顔の写真を毎度俺に撮らせた。まるでそれが、今まで親にも、俺にも、誰にも与えられなかった唯一無二の愛だと言わんばかりに、母は携帯のレンズを覗き、画面越しに俺に蕩けた目線を送った。
人間は、学習する生き物である。それは人間だけでなく、猿や犬、猫であっても、多少の事は学習できるが、その伸び代に関しては人間が群を抜いている。母親は次第に父親に媚び、家政婦以下の存在に成り下がることによって己の居場所を守った。社会の全てにヘイトを募らせた父親も、そんな便利な道具の機嫌を損ねないよう、いや、違うな、目を覚まさせないように、最低限人間扱いをするようになった。
まあ当然の末路と言えるだろうな。共同戦線を組んだ彼らの矛先は俺に向いた。俺は保てていた人間としての地位を失い、犬に、家畜に成り下がった。名前を呼ばれることは無くなり、代わりについた俺の呼び名は「ゴキブリ」になった。家畜、どころか害虫か。産み落とした以上、世話をするほかないというのが人間の可哀想なところだ。
思い出したくもないのにその記憶を時折呼び起こす俺の出来の悪い脳を何度引き摺り出してやろうかと思ったか分からない。かの夢野久作が書いた「ドグラマグラ」に登場する狂った青年アンポンタン・ポカン氏の如く、脳髄を掴み出し、地面に叩きつけてやりたいと思ったことは数知れない。
父親に奉仕する母は獣のような雄叫びをあげて悦び、俺は夜な夜なその声に起こされた。媚びた、艶やかな、酷く情欲を煽るメスの声。俺は幾度となく吐き、性の全てを嫌悪した。子供じみた理由だと、今なら思う。何度、眠る父親の頭を金属バットで叩き割ろうと思ったか分からない。俺は本を読み漁り、飛び散る脳髄の色と、母の絶望と、断末魔を想像した。そう、この場において、いや、この世界において、俺の味方は誰もいなかった。
いつの間にかテレビ放送は休止されたらしい。画面端の表示は午前2時58分。当然か。騒がしかったテレビの中では、カラーバーがぬるぬると動きながら、耳障りな「ピー」という無慈悲な機械音を垂れ流している。テレビの心停止。は、まるでセンスがねえな死ね俺。
ずっと、後悔していた。誰にも言えず、その後悔すらまともに見ようとはしなかったが、今になって、思う。何度も、あの日の選択を後悔した。
あの日、俺がもし、Yesと言わなかったら。あの日の俺はただ、母親がそう言えば喜ぶと思って、幸せそうな母親の笑顔を壊したくなくて、...いや、違う。あれは、幸せそうな母親の笑顔じゃない、幸せそうな、メスの笑顔だ。それに気付けていたら。
叩かれても蹴られても、死んだフリを何度されても自殺未遂を繰り返されても、見知らぬ土地で置き去りにされても、俺はただ、母親に一番、愛されていたかった。父親がいない空間が永遠に続けばいい、そう今なら思えたのに、あの頃の俺は。
母親は結局、一人で生きていけない女だった。それだけだ。父親が、そして父親の持つ金が欲しかった。それだけだ。なんと醜い、それでいてなんと正しい、人間の姿だろう。俺は毎日、父親を崇めるよう強制された。頭を下げ、全てに礼を言い、「俺の身分ではこんなもの食べられない。貴方のおかげで食事が出来ている」と言ってから、部屋で一人飯を食った。誕生日、クリスマス、事あるごとに媚びさせられ、欲しくもないプレゼントを分け与えられた。そうしなきゃ殴られ蹴られ、罵倒される。穏便に全てを済ませるために、俺は心を捨てた。可哀想な生き物が、自己顕示欲を満たしたくて喚いている。そう思い続けた。
勉強も運動も何も出来なかった。努力する、と言う才能が元から欠けていた、可愛げのない子供だったと自負している俺が、ヒステリーを起こした母親に、「何か一つでもアンタが頑張ったことはないの!?」と激昂されて、震える声で「逆上がり、」と答えたことがあった。何度やっても出来なくて、悔しくて、冬の冷たい鉄棒を握って、豆が出来ても必死に一人で頑張った。結局、1、2回練習で成功しただけで、体育のテストでは出来ずに、クラスメイトに笑われた。体育の成績は1だった。母親は鼻で笑って、「そんなの頑張ったうちに入らないわ。だからアンタは何やっても無理、ダメなのよ。」とビールを煽って、俺の背後で賑やかな音を立てるテレビを見てケタケタと笑った。それ以降、目線が合うことはなかった。
気分が悪い。なぜ今日はこんなにも、過去を回顧しているんだろう。回り出した脳が止められない。不愉快だ。酷く。それでも今日は頑なに、過去を振り返らせたいらしい脳は、目の前の食べかけのコンビニ飯の輪郭をぼやけさせる。
俺が就職した時も、二人は何も言わなかった。ただただ俺は、父親の手口を真似て、母親の心を取り戻そうと、ありとあらゆるブランド物を買って与えた。高いものを与え、食わせ、いい気分にさせた。そうすれば喜ぶことを俺は知っていたから。この目で幾度となく見てきたから。二人で暮らしていた頃の赤貧さを心底憎んでいた母親を見ていたから。
俺は無邪気にもなった。あの頃の、学校の帰りにカマキリを捕まえて遊んだような、近所の犬に給食のコッペパンをあげて戯れていたような、そんな純粋無垢な無邪気さで、子供に戻った。もう右も左も分からない馬鹿なガキじゃない。今の俺で、あの頃をやり直そう。やり直せる。そう思った。
「そんなわけ、ねぇよなぁ。」
時刻は午前4時を回り、止まっていたテレビの心拍が再び脈動を始めた。残飯をビニール袋に入れて、眩しい光源を鬱陶しそうに睨んだ。画面の中では眠気と気怠さを見せないキリリとした顔の女子アナが深刻そうな顔で、巷で流行する感染症についての最新情報を垂れ流している。
結論から言えば、やり直せなかった。あの女の一番は、俺より金を稼いで、俺より肉体も精神も満たせる、あの男から変わることはなかった。理解がし難かった。何度殴られても生きる価値がない死ねと罵られても、それが愛なのか。
神がいるなら問いたい。それは愛なのか。愛とはもっと美しく、汚せない、崇高なものじゃないのか。神は言う。笑わせるな、お前だって分かっていないから、ひたすら媚びて愛を買おうとしたんだろう。ああ、そうだ。俺にはそれしかわからなかった。人がどうすれば喜ぶのか、人をどうすれば愛せるのか、歩み寄り、分り合い、感情をぶつけ合い、絆を作れるのか。人が人たるメカニズムが分からない。
言葉を尽くし、時間を尽くしても、本当の愛の前でそれらは塵と化すのを分かっていた。考えて、かんがえて、突き詰めて、俺は、自分が今人間として生きて、歩いて、食事をして、息をしている実感がまるで無い不思議な生き物になった。誰のせいでもない、最初からそうだっただけだ。
あなたは私の誇りよ、と言った女がいた。そいつは俺が幼い頃、俺じゃなく、俺の従兄弟を出来がいい、可愛い、と可愛がった老婆だった。なんでこんなこと、不意に思い出した?あぁ、そうだ、誕生日に見知らぬ番号からメッセージが来てて、それがあの老婆だと気付いたからだ。気持ちが悪い。俺が人に愛される才能がないように、俺も人を愛する才能がない。
風呂の水には雑菌がうんたらかんたら。学歴を盾に人を威圧するお偉いさんが講釈を垂れているこの番組は、朝4時半から始まる4チャンネルの情報番組。くだらない。クソどうでもいい。好みのぬるめのお湯に目の下あたりまで浸かった俺は、生きている証を確かめるように息を吐いた。ぼご、ぶくぶく、飛び散る乳白色が目に入って痛い。口から出た空気。無意識に鼻から吸う空気。呼吸。あぁ、あれだけ自分の傷抉って自慰しておいて、まだ生きようとしてんのか、この身体。どうしようもねえな。
どうせあと2時間と少ししか眠れない。髪を乾かすのも早々に、俺が唯一守られる場所、布団の中へと潜り込んで、無機質な部屋の白い天井を見上げた。
そういえば、首吊りって吊られなくても死ぬことが出来るんだっけ。そう。今日の朝だって思ったはずだ。黄色い線の外側、1メートル未満のその先に死がある。手を伸ばせばいつでも届く。ハサミもカッターも、ガラスも屋上もガスも、見渡せば俺たちは死に囲まれて、誘惑に飲まれないように、生きているのかもしれない。いや、でも、いつだって全てに勝つのは何だ?恐怖か?確かに突っ込んでくるメトロは怖い。首にヒヤリとかかった縄も怖い。蛙みたく腹の膨れた女をトラックに轢かせて平らにしたいとも思うし、会話の出来ない人間は全員聾唖になって豚の餌にでもなればいいとも思う。苛立ち?分からない。何を感じ、生きるのか。
ああ、そういえば。
父親の頭をミンチの如く叩きのめしてやろうと思って金属バットを手に取った時、そんなくだらないことのためにこれから生きるのかと思うと馬鹿らしくなって、代わりに部屋のガラスを叩き割ってやめた。楽にしてやろうと母親を刺した時、こんなことのために俺は人生を捨てるのか、と我に返って、二度目に振り上げた手は静かに降ろした。
あの時の爽快感を、忘れたことはない。
あぁ、そうか、分かった。
死が隣を歩いていても、俺がそっち側に行かずに生きてる理由。そうだ。自由だ。ご飯が美味しいことを、夜が怖くないことを、寒い思いをせず眠れることを、他人に、人間に脅かされずに存在できることを、俺はこの一人の箱庭を手に入れてから、初めて知った。
誰かがいれば必ず、その誰かに沿った人間を作り上げた。喜ばせ、幸せにさせ、夢中にさせ、一番を欲した。満たされないと知りながら。それもそうだ。一番も、愛も、そんなものはこの世界には存在しない。ようやく分かった俺は、人間界の全てから解き放たれて、自由になった。爽快感。頭皮の毛穴がぞわぞわと爽やかになる感覚。今なら誰にだって何にだって、優しくなれる気がした。
そうか、俺はいつの間にか、人間として生きるのが、上手くなったんだ。異世界から来てごっこ遊びをしている気分だ。死は俺をそうさせてくれた。へらへらと、楽しく自由にゆらゆらふわふわ、人と人の合間を歩いてただ虚に生きて、蟠りは全部、言葉にして吐き出した。
遮光カーテンの隙間から薄明るい光が差す部屋の中、開いたスマホに並んだ無数の言葉の羅列。俺が紡いだ、物語たち。俺の、味方たち。みんなどこか、違うようで俺に似てる。皆合理的で、酷く不器用で、正しくて、可哀想で、幸せだ。皆正しく救われて終わる物語のみを書き続ける俺は、己をハッピーエンド作者だと声高に叫んで憚らない。
「俺、なんで生きてるんだっけ。」
そんなクソみたいな呟きを残して、目を閉じた。スマホはそばの机に放り投げて、目を閉じて、祈るのは明日の朝目が覚めずにそのまま冷たくなる、最上の夢。
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skf14 · 3 years
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君の手術は失敗した。鮮やかだったであろう君の世界から、全ての物が消えた。
淡々とその事実だけが君から知らされた時、僕は、心にずっと秘めていた、しかし最後まで口にすることは叶わなかった君への「盲目になって欲しい」というイカれた願いを神が叶えてくれたのだと、無神論者でありながらも感謝とばかりに空を見上げた。
「結婚して欲しい。」という僕の言葉を、君はどう聞いたのだろう。全盲の人間の中には、聞こえる音、言葉に色がついて見えるようになるタイプもいるようだが、君は音も言葉も、空気の振動としか捉えないらしかった。
「いいの?だって私、目が見えないんだよ。」
「君がいい。これからもずっとそばにいたい。」
「荷物になりたくないな、」
「君の気持ちは?」
「...............」
君はただポツリ、「貴方と一緒にいたい。」そう答えた。私は君の小さな手を取り、そして抱きしめた。涙腺だけはまだ機能している君が、眼窩から涙を溢しながら、「健全なまま、貴方と一緒にいたかった。」と零した言葉には、何も答えることなく抱きしめた。答える資格など、私には無かった。私が答えない訳を、君はもしかしたら理解していたのかもしれない。
私は君に対して、外に出るための訓練をすることを望まなかった。君も、盲目の自分を外の世界に晒すことを嫌がった。情緒のない言い方をしてしまえばそれは、"利害の一致"と呼ぶのだろう。えてして君は自宅に篭り、半ば私に世話をされるだけの生き物になった。こう君を表すことに些か抵抗感はあるが、事実として、君はそうなった。私が望んだ。君も望んだ。君はあまりにも冷静で、私はあまりにも理性的だった。それが悪なのか善なのか、私には判断することが出来ない。誰かが裁くとすればそれは神なのだろうか。あぁ、味方をしてくれた神が最後に、私の愚かさを裁くとしたら、とんだ皮肉だ。いや、喜悲劇と呼ぶべきか。
"そう"なってからの君と私は、度々夜に獣と化した。君がじっと寝たままの私の身体を弄り、まるで谷崎潤一郎の「刺青」で描かれた女郎蜘蛛のように、私の身体を這い回り、捕食する姿を見て、私は著しく興奮した。それは私の元来持っていた"盲目性愛"という癖が刺激されたことも大きかったが、淑女めいた君が変貌する様を見たからでもあった。
そのおぼつかない手が、私を探し、指先に触れた温度に安堵して、爪を立て質量を確かめる。私がうちに秘めた、君には決して見せない凶暴で獰猛な、本能に蝕まれた精神が顔を覗かせて、私はそのか弱い腕を捕まえ、君を喰らう。
感覚を奪われると、他が過敏になり失った分をカバーする、というのは何も物語だけの話ではないことを、私は身をもって体験した。君は視覚から得られない情報を、その全てを持って拾い集め、私と、そして私を通じて己が世界に存在することを、確認していた。その行動は他者から見ればある意味哀れ、と思えるようにも見えるだろう。しかし私は、荒地に唯一凛と咲く百合が、天から降り注ぐ雨を少しでも蓄えようと頭を上げて空を仰ぐような、そんな神々しさと瑞々しさ、生命の逞しさを君に感じた。
ああ、真っ先に私は君の肥やしになったんだ。そう思った瞬間、私は快楽を感じ、君を掻き抱いて欲望をぶつけた。真っ暗な中、私も盲目になったように君の身体を弄って、何もない暗闇の中で、二匹の動物は互いを食い合った。
君が、運命の導きで私の手の中に収まった。何度考えてもこの事実が震えるほど勿体無く、幸せで、今まで大きな幸福も不幸もなくありふれた物事ばかりに囲まれてきた私の平凡な人生には信じがたく、ひどく不釣り合いだった。人にはそれぞれ生まれつき与えられている役割と立場があるとして、それを飛び越えてしまったような、そんな果てのない罪悪感と、優越感。とかく、人の世は他者と比べないと満足に息が吸えない。これが蟻ならば、蠅ならば、余計なことに頭を使わず、ただ生存と交配のためだけに生きて死ねるのに。
「ねぇ、あの本、読んでくれないかな。」
「ん?あぁ、いいよ。『アイのメモリー』だろ?」
「そう。聞きたいわ。」
あるところに、人語を話せるカラスがいた。カラスは大変に賢かった為、人語が話せるからと言って人に話しかけるような愚かさは持っていなかった。
カラスはある日そこらをふらふらと飛んでいた時、ある一軒家の2階の窓が開けっぱなしになっていることに気づいて、窓枠に降り立ち中を見た。中には、少女が一人、ぽつりと座ってぼーっとしていた。はて、様子がおかしい。とカラスがよくよくその少女を見た時、彼女の顔に、あるべき眼球が、二つとも嵌っていないことに気が付いた。少女の顔にはぽっかりと黒い穴が二つ鎮座していて、それは酷く滑稽にも、美しくも見えた。
「お嬢さん。」カラスが話しかけると、いきなり聞こえてきた人の声にびくりと肩を震わせた少女がキョロキョロと辺りを見回し、そして窓の方へと手を伸ばした。カラスはふわっと飛んで近くの枝に止まりながら、「お嬢さん。私を探しても無駄ですよ。私は存在し、そして存在していないのですから。」と笑った。少女も釣られて笑い、姿を探すことをやめ、「声だけおじさん」と私を呼んだ。
彼女が最後に見た景色は、己の頭上から降り注いでくる、無数の割れたステンドグラスの破片だったらしい。きらきら、ちらちらと太陽の光を反射して輝く色とりどりのそれを、避けることもなく、ただ見惚れていたそうだ。赤、青、黄色、緑、少女は拙い語彙でその美しさを私に訴え、私は、もっと沢山の色が世界に溢れていることを少女に伝えるため、海辺に住む老婆の元へと向かい、その顔から眼球を一つ、拝借した。
少女の空洞に嵌ったその球は、少女に広大な海と、その深々しい青を与えた。少女は感嘆し、目を押さえて涙を流した。少女が頭を動かすたび、涙で濡れた眼球がくる、くるりと回ってあらぬ方向を向いていた。
「勿論、フィクションなのは分かってるけど。」
君が少し申し訳なさそうな、そして不安げな顔でポツリ呟いた内容に、私は心の中で、万歳三唱していた。ごめんね、私には誠意というものが欠けているらしい。NPCじゃない人間相手に、こうも思い通りことが進むというのは、少々気持ち悪くもあり、そして大変に愉快であった。それはきっと、己の脳に対して抱いていた自信が肥え太っていくのを感じるからで、ただ、それが良いことなのか悪いことなのか、判別は付かない。誰も不幸になってない、必然だった、そう叫ぶにはあまりにも、私は汚れすぎた。
小ぶりなビー玉。模様も気泡もない、一点の曇りもない透き通ったそのガラス玉を持って、私は海に来ていた。もう吹く風はとうに冷たい季節になっており、時期外れの海になど来ている人間は皆無だった。散歩をしに来たであろう老人が私に、訝しげな視線を向けた。入水自殺をする、とでも思われていたのだろうか。にこりと笑顔を作り会釈すれば、老人は不快そうに顔を歪め足早に去っていった。
ザザ、と押し寄せる波は白い飛沫をそこかしこに撒き散らしながら、際限なく現れ、そして消えていく。私は窮屈な革靴と靴下を脱ぎ捨て、砂浜の砂を踏みしめた。指の隙間に入り込む、ぬるりとした湿った砂の粒子。久しぶりに感じるその感覚に、子供時代をふと思い出した。
赤貧、と呼ぶべき家庭だったのだろう。外に女を作って出て行った父親を想って狂った女と、二人きりで過ごしていた地獄。赤貧をどうにかする頭は、女にも、子供だった私にもなかった。
私は空腹を紛らわせようと、拾ったビー玉を舐めながら、どこからか拾ってきた小さなブラウン管テレビの中で、潮干狩りを楽しむ親子を見ていた。仮面ライダーのTシャツを着た子供はケラケラと楽しそうに笑いながら、砂浜を掘り返し、裸足で気持ち良さそうに踏みしめていた。母親、父親はそれを見守り、静かに笑う。女は隣の部屋で、よく分からない自作の儀式をしながら笑っていた。ケタケタ、ケラケラ、笑い声が反響して響き合い、世間の全てが僕と、そして哀れな女を嘲笑っているように聞こえて、僕は、己の鼓膜を菜箸で突き破った。
人間に諦めと軽蔑の心を抱いていた私が君に出会い、恋に蝕まれ、愛を自覚し、それが収束すると執着に変わることを知った。愛は、執着だ。あの女が狂ったのも、今となっては、理解くらいなら出来る気がした。欲しい、手に入れたい、他にやりたくない、ずっと腕の中に、誰のものにもしたくない。進化の過程で高い知能を得たはずの人間は、動物よりも獣らしく哀れな所有欲を万物に対して抱き、己だけではどうにもならない人に対して向いたソレは最も醜悪になった。
私は盲目に興奮する。その根底には何があるのか、自覚した当初からずっと考えていた。初めて君に目隠しをした時の、脊髄に収まった神経を舌先で直接舐め上げられるような著しい快感。そして、次第に湧き上がってきた、君から視覚が消えて欲しいという欲。
ふるり、と己の肩が震えて初めて、もう2時間近く、何もない海をただ眺めていたことに漸く気が付いて、私は足に纏わり付く砂を払い、帰路についた。
「これ?」
「あぁ、そうだよ。消毒してあるから、入れても問題ない。」
「ありがとう。嬉しい。」
君の白く細い指が、私の手のひらから海をたくさん見たビー玉をつまみあげ、指の腹でツルツルとした表面をくすぐるようになぞっていた。そして君は瞼を開け、そのガラス玉をぽい、と放り込んだ。ころり、と眼窩を転がる玉の感触が面白いのか、君はふらり、ゆらりと首を動かし傾けながら、見えるはずもない海に想いを寄せ、私の話す、海についての様々な創作を聞いていた。目は口ほどに物を言う。君が視覚を失ってから、私は以前より君の感情について、推察することが減ったような気がする。何故だろう。分からないから、というのは、あまりにも暴論な気がするが。
閉館間近の水族館にいる人間なんて、若いカップルか、水族館にしか居場所のない孤独な人、くらいだった。ある者はイルカと心を通わせ、ある者はアマゾンに生息する、微動だにしない巨大魚の前でいつまでも佇んでいる。私は手の中のビー玉と共に、館内をゆっくり回っていた。水族館なんて、目明きの君とすら来たことがなかった。私はこの空間に一人でいることを望んだ。大量の水に囲まれ、地球が歩いてきた歴史が刻まれた数多の生き物に触れることで、漠然と、母の中へ還れるような気がしたからだった。水族館と胎内は、どこか似ている。
水槽の前に置かれたベンチに腰掛けた瞬間、私は動けなくなった。丁度、目線の位置が海底になっていて、そこに、1メートルをゆうに超える巨大な茶色い魚が沈んでいた。でっぷりと太った腹に不機嫌そうな唇が、魚の愛嬌の良さを全て消していた。そしてその魚は、目が酷く白濁しており、空気の吹き出る場所に鰓を起き微動だにしなかった。
「あの、すみません。この魚、具合が、悪いのでしょうか。」
私は通りかかった清掃中の飼育員を捕まえ、魚を指差した。飼育員はハンディクリーナーの電源を消してふっと笑い、私のそばに寄って水槽を愛おしげに見つめた。
「いえ。夜なのでもう眠っているんだと思いますよ。この子は目が見えないので、普段から水槽の隅っこが好きで、よくこうしてぼーっとしているんです。」
「そうですか。この魚は、盲目なのですか。」
「えぇ。珍しいことではありませんよ。他の魚に攻撃されたり、岩や漂流ゴミで傷付けてしまったり。ただ、見えない分他の感覚が過敏になるので、海の中では支障なく生きられるんです。」
「そう、ですか。」
「えぇ。では、引き続きお楽しみくださいね。」
盲目の魚。私がそれを見た時に抱いた感情は、ただ一つ。「惨め」だった。何故?何故、だろう。分からない。何故私は、盲目の魚を見て、惨めさを抱いたのだろう。閉じる瞼すら持たない魚はただただ空気の泡を浴びながら、水中で重たそうな身体を持て余し、ぼんやりとこちらを向いている。濁った眼球がぎょろり、と上を向き、そしてまた私を見る。
ある小説に、盲目の主人が恨みを買って熱湯を浴びてしまい、美貌が失われてしまったことを憂いて、弟子は己の目を針で突いた。というシーンがあった。鏡台の前で針を手に、己の黒目へとそれを突き立て、晴れて盲人となる描写。私は読んだ当初、まだ小学生の頃だったが、その話に、微塵も共感することが出来なかった。目明きの方が世話も出来る、何かあった時支えられる。直情的だ。と批判までした記憶がある。でも、今になれば、あれが最善の行動だったのだろう、とも思う。歳をとって少し、寛容になったのかもしれない。
気付けば、私は水族館を出て、そばの海を眺めていた。街の中の海だ。情緒ある砂浜もなければ、テトラポッドもない。ただ効率だけを求められたコンクリートの直線に、黒いうねりがぶつかってじゃぶじゃばと水音を立てている。
盲目の魚。
私は、ずっと握りしめ暖かくなっていたビー玉を海へと投げた。波の音の狭間で、ちゃぽん。と小さな音が冬の空気の中、響いた。脳を介さない行動に、今は委ねたかった。考えることに、疲れたのかもしれない。私は、一体、どこへ向かいたかったのだろう。
扉の開く音で駆け寄ってきた君は、部屋に入る私の周りをクルクルと回りながら、今日のことについて色々と質問をした。黙ったままの私に不思議そうな表情をして、「何かあった?」と尋ねる君。君の方が今も昔も、察しがいいのは皮肉なんだろうか。
「アイのメモリー、今日は出来ない。」
「どうして?水族館、行かなかったの?」
「水族館には行った。けど、無くしたんだ。ビー玉。」
「そう。いいよ、どんな魚がいたのか、話して。聞きたい。」
「魚、」
「魚、いたでしょ?」
魚。
私は、盲目の魚を惨めに思った。あの魚は大きな水槽の中でひっそりと身を潜め、知らぬ他人からは笑われ、同居人からはいないもののように扱われ、飼育員からは憐れまれていた。与えられる空気を日がな浴びて、落ちてくる餌のおこぼれを拾い、そんな状態で生きていることが、酷く惨めに思えた。
「あぁ。.........」
「......疲れちゃった?」
立ちすくんだ私を見上げた君はぺたぺたと彷徨わせた手のひらで私の顔を見つけ、撫で、胸元に引き寄せ抱きしめた。とくとくと鳴る軽い心臓の音。生きている温度がこめかみあたりからじんわりと染み込んで、凝り固まって凍った脳を溶かしてゆく気がした。
「...いや、疲れてなんかないよ。」
「貴方は、いつも一人で考えて、一人で答えを出すから。」
「耳が痛いな。」
「ここには脳が二つ、あるんだよ。ひとつじゃなし得ない考えだって、きっとある。」
「うん。」
永遠とも呼べるほど長い時間、私は君に抱かれたまま、ぐちゃぐちゃと脳を掻き回す思考に身を委ねていた。
「ビー玉、本当は、無くしたんじゃなくて、捨てたんだ。」
「うん。」
君はきっと分かっていたんだろう。何をどこまで、なのか、それは、きっと暴かない方がいい。それは言葉にしなくとも、双方が漠然と理解していた。私は君の顔が見たくなくて、顔を上げないまま、君の心臓の音を聞いていた。
「もう、こんな真似、やめるよ。」
「そうだね、やめよう。」
ぼんやりとした頭でシャワーを浴び、リビングに戻った時、ついていたはずの部屋の電気は全て消えていた。私は手探りで部屋の壁を伝いながら、廊下を進んだ。幾度となく歩いているのに、視界がないと、こんなにも覚束ない。君の寝室の扉が少し開いて、ギィ、と音を立てている。漏れ出ているのは月の光か、その細い線に指を差しいれ扉を開くと、窓が開いているらしい。冷たい風が吹いて、まだ濡れたままの髪を冷やしていく。
そこに、君の姿はなかった。普段は何も置いていない机に、メモが一枚載っている。
『来世では、共に生きましょうね。』
はるか遠くの方から、微かなサイレンの音が響き始めた。
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skf14 · 3 years
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愛読者が、死んだ。
いや、本当に死んだのかどうかは分からない。が、死んだ、と思うしか、ないのだろう。
そもそも私が小説で脚光を浴びたきっかけは、ある男のルポルタージュを書いたからだった。数多の取材を全て断っていた彼は、なぜか私にだけは心を開いて、全てを話してくれた。だからこそ書けた、そして注目された。
彼は、モラルの欠落した人間だった。善と悪を、その概念から全て捨て去ってしまっていた。人が良いと思うことも、不快に思うことも、彼は理解が出来ず、ただ彼の中のルールを元に生きている、パーソナリティ障害の一種だろうと私は初めて彼に会った時に直感した。
彼は、胸に大きな穴を抱えて、生きていた。無論、それは本当に穴が空いていたわけではないが、彼にとっては本当に穴が空いていて、穴の向こうから人が行き交う景色が見え、空虚、虚無を抱いて生きていた。不思議だ。幻覚、にしては突拍子が無さすぎる。幼い頃にスコンと空いたその穴は成長するごとに広がっていき、穴を埋める為、彼は試行し、画策した。
私が初めて彼に会ったのは、まだ裁判が始まる前のことだった。弁護士すらも遠ざけている、という彼に、私はただ、簡単な挨拶と自己紹介と、そして、「理解しない人間に理解させるため、言葉を紡ぎません���。」と書き添えて、名刺と共に送付した。
その頃の私は書き殴った小説未満をコンテストに送り付けては、音沙汰のない携帯を握り締め、虚無感溢れる日々をなんとか食い繋いでいた。いわゆる底辺、だ。夢もなく、希望もなく、ただ、人並みの能がこれしかない、と、藁よりも脆い小説に、私は縋っていた。
そんな追い込まれた状況で手を伸ばした先が、極刑は免れないだろう男だったのは、今考えてもなぜなのか、よくわからない。ただ、他の囚人に興味があったわけでもなく、ルポルタージュが書きたかったわけでもなく、ただ、話したい。そう思った。
夏の暑い日のことだった。私の家に届いた茶封筒の中には白無地の紙が一枚入っており、筆圧の無い薄い鉛筆の字で「8月24日に、お待ちしています。」と、ただ一文だけが書き記されていた。
こちらから申し込むのに囚人側から日付を指定してくるなんて、風変わりな男だ。と、私は概要程度しか知らない彼の事件について、一通り知っておこうとパソコンを開いた。
『事件の被疑者、高山一途の家は貧しく、母親は風俗で日銭を稼ぎ、父親は勤めていた会社でトラブルを起こしクビになってからずっと、家で酒を飲んでは暴れる日々だった。怒鳴り声、金切声、過去に高山一家の近所に住んでいた住人は、幾度となく喧嘩の声を聞いていたという。��山は友人のない青春時代を送り、高校を卒業し就職した会社でも活躍することは出来ず、社会から孤立しその精神を捻じ曲げていった。高山は己の不出来を己以外の全てのせいだと責任転嫁し、世間を憎み、全てを恨み、そして凶行に至った。
被害者Aは20xx年8月24日午後11時過ぎ、高山の自宅において後頭部をバールで殴打され殺害。その後、高山により身体をバラバラに解体された後ミンチ状に叩き潰された。発見された段階では、人間だったものとは到底思えず修復不可能なほどだったという。
きっかけは近隣住民からの異臭がするという通報だった。高山は殺害から2週間後、Aさんだった腐肉と室内で戯れている所を発見、逮捕に至る。現場はひどい有り様で、近隣住民の中には体調を崩し救急搬送される者もいた。身体に、腐肉とそこから滲み出る汁を塗りたくっていた高山は抵抗することもなく素直に同行し、Aさん殺害及び死体損壊等の罪を認めた。初公判は※月※日予定。』
いくつも情報を拾っていく中で、私は唐突に、彼の名前の意味について気が付き、二の腕にぞわりと鳥肌が立った。
一途。イット。それ。
あぁ、彼は、ずっと忌み嫌われ、居場所もなくただ産み落とされたという理由で必死に生きてきたんだと、何も知らない私ですら胸が締め付けられる思いがした。私は頭に入れた情報から憶測を全て消し、残った彼の人生のカケラを持って、刑務所へと赴いた。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
「失礼します。」
「どうぞ。」
手錠と腰縄を付けて出てきた青年は、私と大して歳の変わらない、人畜無害、悪く言えば何の印象にも残らない、黒髪と、黒曜石のような真っ黒な瞳の持ち主だった。奥深い、どこまでも底のない瞳をつい値踏みするように見てしまって、慌てて促されるままパイプ椅子へと腰掛けた。彼は開口一番、私の書いている小説のことを聞いた。
「何か一つ、話してくれませんか。」
「え、あ、はい、どんな話がお好きですか。」
「貴方が一番好きな話を。」
「分かりました。では、...世界から言葉が消えたなら。」
私の一番気に入っている話、それは、10万字話すと死んでしまう奇病にかかった、愛し合う二人の話。彼は朗読などしたこともない、世に出てすらいない私の拙い小説を、目を細めて静かに聞いていた。最後まで一度も口を挟むことなく聞いているから、読み上げる私も自然と力が入ってしまう。読み終え、余韻と共に顔を上げると、彼はほろほろ、と、目から雫を溢していた。人が泣く姿を、こんなにまじまじと見たのは初めてだった。
「だ、大丈夫ですか、」
「えぇ。ありがとうございます。」
「あの、すみません、どうして私と、会っていただけることになったんでしょうか。」
ふるふる、と犬のように首を振った彼はにこり、と機械的にはにかんで、机に手を置き私を見つめた。かしゃり、と決して軽くない鉄の音が、無機質な部屋に響く。
「僕に大してアクションを起こしてくる人達は皆、同情や好奇心、粗探しと金儲けの匂いがしました。送られてくる手紙は全て下手に出ているようで、僕を品定めするように舐め回してくる文章ばかり。」
「...それは、お察しします。」
「でも、貴方の手紙には、「理解しない人間に理解させるため、言葉を紡ぎませんか。」と書かれていた。面白いな、って思いませんか。」
「何故?」
「だって、貴方、「理解させる」って、僕と同じ目線に立って、物を言ってるでしょう。」
「.........意識、していませんでした。私はただ、憶測が嫌いで、貴方のことを理解したいと、そう思っただけです。」
「また、来てくれますか。」
「勿論。貴方のことを、少しずつでいいので、教えてくれますか。」
「一つ、条件があります。」
「何でしょう。」
「もし本にするなら、僕の言葉じゃなく、貴方の言葉で書いて欲しい。」
そして私は、彼の元へ通うことになった。話を聞けば聞くほど、彼の気持ちが痛いほど分かって、いや、分かっていたのかどうかは分からない。共鳴していただけかもしれない、同情心もあったかもしれない、でも私はただただあくる日も、そのあくる日も、私の言葉で彼を表し続けた。私の記した言葉を聞いて、楽しそうに微笑む彼は、私の言葉を最後まで一度も訂正しなかった。
「貴方はどう思う?僕の、したことについて。」
「...私なら、諦めてしまって、きっと得物を手に取って終わってしまうと思います。最後の最後まで、私が満たされることよりも、世間を気にしてしまう。不幸だと己を憐れんで、見えている答えからは目を背けて、後悔し続けて死ぬことは、きっと貴方の目から見れば不思議に映る、と思います。」
「理性的だけど、道徳的な答えではないね。普通はきっと、「己を満たす為に人を殺すのは躊躇う」って、そう答えるんじゃないかな。」
「でも、乾き続ける己のままで生きることは耐え難い苦痛だった時、己を満たす選択をしたことを、誰が責められるんでしょうか。」
「...貴方に、もう少し早く、出逢いたかった。」
ぽつり、零された言葉と、アクリル板越しに翳された掌。温度が重なることはない。触れ合って、痛みを分かち合うこともない。来園者の真似をする猿のように、彼の手に私の手を合わせて、ただ、じっとその目を見つめた。相変わらず何の感情もない目は、いつもより少しだけ暖かいような、そんな気がした。
彼も、私も、孤独だったのだと、その時初めて気が付いた。世間から隔離され、もしくは自ら距離を置き、人間が信じられず、理解不能な数億もの生き物に囲まれて秩序を保ちながら日々歩かされることに抗えず、翻弄され。きっと彼の胸に空いていた穴は、彼が被害者を殺害し、埋めようと必死に肉塊を塗りたくっていた穴は、彼以外の人間が、もしくは彼が、無意識のうちに彼から抉り取っていった、彼そのものだったのだろう。理解した瞬間止まらなくなった涙を、彼は拭えない。そうだった、最初に私の話で涙した彼の頬を撫でることだって、私には出来なかった。私と彼は、分かり合えたはずなのに、分かり合えない。私の言葉で作り上げた彼は、世間が言う狂人でも可哀想な子でもない、ただ一人の、人間だった。
その数日後、彼が獄中で首を吊ったという報道が流れた時、何となく、そうなるような気がしていて、それでも私は、彼が味わったような、胸に穴が開くような喪失感を抱いた。彼はただ、理解されたかっただけだ。理解のない人間の言葉が、行動が、彼の歩く道を少しずつ曲げていった。
私は書き溜めていた彼の全てを、一冊の本にした。本のタイトルは、「今日も、皮肉なほど空は青い。」。逮捕された彼が手錠をかけられた時、部屋のカーテンの隙間から空が見えた、と言っていた。ぴっちり閉じていたはずなのに、その時だけひらりと翻った暗赤色のカーテンの間から顔を覗かせた青は、目に刺さって痛いほど、青かった、と。
出版社は皆、猟奇的殺人犯のノンフィクションを出版したい、と食い付いた。帯に著名人の寒気がする言葉も書かれた。私の名前も大々的に張り出され、重版が決定し、至る所で賛否両論が巻き起こった。被害者の遺族は怒りを露わにし、会見で私と、彼に対しての呪詛をぶちまけた。
インタビュー、取材、関わってくる人間の全てを私は拒否して、来る日も来る日も、読者から届く手紙、メール、SNS上に散乱する、本の感想を読み漁り続けた。
そこに、私の望むものは何もなかった。
『あなたは犯罪者に対して同情を誘いたいんですか?』
私がいつ、どこに、彼を可哀想だと記したのだろう。
『犯罪者を擁護したいのですか?理解出来ません。彼は人を殺したんですよ。』
彼は許されるべきだとも、悪くない、とも私は書いていない。彼は素直に逮捕され、正式な処罰ではないが、命をもって罪へ対応した。これ以上、何をしろ、と言うのだろう。彼が跪き頭を地面に擦り付け、涙ながらに謝罪する所を見たかったのだろうか。
『とても面白かったです。狂人の世界が何となく理解出来ました。』
何をどう理解したら、この感想が浮かぶのだろう。そもそもこの人は、私の本を読んだのだろうか。
『作者はもしかしたら接していくうちに、高山を愛してしまったのではないか?贔屓目の文章は公平ではなく気持ちが悪い。』
『全てを人のせいにして自分が悪くないと喚く子供に殺された方が哀れでならない。』
『結局人殺しの自己正当化本。それに手を貸した筆者も同罪。裁かれろ。』
『ただただ不快。皆寂しかったり、一人になる瞬間はある。自分だけが苦しい、と言わんばかりの態度に腹が立つ。』
『いくら貰えるんだろうなぁ筆者。羨ましいぜ、人殺しのキチガイの本書いて金貰えるなんて。』
私は、とても愚かだったのだと気付かされた。
皆に理解させよう、などと宣って、彼を、私の言葉で形作ったこと。裏を返せば、その行為は、言葉を尽くせば理解される、と、人間に期待をしていたに他ならない。
私は、彼によって得たわずかな幸福よりも、その後に押し寄せてくる大きな悲しみ、不幸がどうしようもなく耐え難く、心底、己が哀れだった。
胸に穴が空いている、と言う幻覚を見続けた彼は、穴が塞がりそうになるたび、そしてまた無機質な空虚に戻るたび、こんな痛みを感じていたのだろうか。
私は毎日、感想を読み続けた。貰った手紙は、読んだものから燃やしていった。他者に理解される、ということが、どれほど難しいのかを、思い知った。言葉を紡ぐことが怖くなり、彼を理解した私ですら、疑わしく、かといって己と論争するほどの気力はなく、ただ、この世に私以外の、彼の理解者は現れず、唯一の彼の理解者はここにいても、もう彼の話に相槌を打つことは叶わず、陰鬱とする思考の暗闇の中を、堂々巡りしていた。
思考を持つ植物になりたい、と、ずっと思っていた。人間は考える葦である、という言葉が皮肉に聞こえるほど、私はただ、一人で、誰の脳にも引っ掛からず、狭間を生きていた。
孤独、などという言葉で表すのは烏滸がましいほど、私、彼が抱えるソレは哀しく、決して治らない不治の病のようなものだった。私は彼であり、彼は私だった。同じ境遇、というわけではない。赤の他人。彼には守るべき己の秩序があり、私にはそんな誇り高いものすらなく、能動的、怠惰に流されて生きていた。
彼は、目の前にいた人間の頭にバールを振り下ろす瞬間も、身体をミンチにする工程も、全て正気だった。ただ心の中に一つだけ、それをしなければ、生きているのが恐ろしい、今しなければずっと後悔し続ける、胸を掻きむしり大声を上げて暴れたくなるような焦燥感、漠然とした不安感、それらをごちゃ混ぜにした感情、抗えない欲求のようなものが湧き上がってきた、と話していた。上手く呼吸が出来なくなる感覚、と言われて、思わず己の胸を抑えた記憶が懐かしい。
出版から3ヶ月、私は感想を読むのをやめた。人間がもっと憎らしく、恐ろしく、嫌いになった。彼が褒めてくれた、利己的な幸せの話を追い求めよう。そう決めた。私の秩序は、小説を書き続けること。嗚呼と叫ぶ声を、流れた血を、光のない部屋を、全てを飲み込む黒を文字に乗せて、上手く呼吸すること。
出版社は、どこも私の名前を見た瞬間、原稿を送り返し、もしくは廃棄した。『君も人殺したんでしょ?なんだか噂で聞いたよ。』『よくうちで本出せると思ったね、君、自分がしたこと忘れたの?』『無理ですね。会社潰したくないので。』『女ならまだ赤裸々なセックスエッセイでも書かせてやれるけど、男じゃ使えないよ、いらない。』数多の断り文句は見事に各社で違うもので、私は感嘆すると共に、人間がまた嫌いになった。彼が乗せてくれたから、私の言葉が輝いていたのだと痛感した。きっとあの本は、ノンフィクション、ルポルタージュじゃなくても、きっと人の心に突き刺さったはずだと、そう思わずにはいられなかった。
以前に働いていた会社は、ルポの出版の直前に辞表を出した。私がいなくても、普段通り世界は回る。著者の実物を狂ったように探し回っていた人間も、見つからないと分かるや否や他の叩く対象を見つけ、そちらで楽しんでいるようだった。私の書いた彼の本は、悪趣味な三流ルポ、と呼ばれた。貯金は底を尽きた。手当たり次第応募して見つけた仕事で、小銭を稼いだ。家賃と、食事に使えばもう残りは硬貨しか残らない、そんな生活になった。元より、彼の本によって得た利益は、全て燃やしてしまっていた。それが、正しい末路だと思ったからだったが、何故と言われれば説明は出来ない。ただ燃えて、真っ赤になった札が灰白色に色褪せ、風に脆く崩れていく姿を見て、幸せそうだと、そう思った。
名前を伏せ、webサイトで小説を投稿し始めた。アクセス数も、いいね!も、どうでも良かった。私はただ秩序を保つために書き、顎を上げて、夜店の金魚のように、浅い水槽の中で居場所なく肩を縮めながら、ただ、遥か遠くにある空を眺めては、届くはずもない鰭を伸ばした。
ある日、web上のダイレクトメールに一件のメッセージが入った。非難か、批評か、スパムか。開いた画面には文字がつらつらと記されていた。
『貴方の本を、販売当時に読みました。明記はされていませんが、某殺人事件のルポを書かれていた方ですか?文体が、似ていたのでもし勘違いであれば、すみません。』
断言するように言い当てられたのは初めてだったが、画面をスクロールする指はもう今更震えない。
『最新作、読みました。とても...哀しい話でした。ゾンビ、なんてコミカルなテーマなのに、貴方はコメをトラにしてしまう才能があるんでしょうね。悲劇。ただ、二人が次の世界で、二人の望む幸せを得られることを祈りたくなる、そんな話でした。過去作も、全て読みました。目を覆いたくなるリアルな描写も、抽象的なのに五感のどこかに優しく触れるような比喩も、とても素敵です。これからも、書いてください。』
コメとトラ。私が太宰の「人間失格」を好きな事は当然知らないだろうに、不思議と親近感が湧いた。単純だ。と少し笑ってから、私はその奇特な人間に一言、返信した。
『私のルポルタージュを読んで、どう思われましたか。』
無名の人間、それも、ファンタジーやラブコメがランキング上位を占めるwebにおいて、埋もれに埋もれていた私を見つけた人。だからこそ聞きたかった。例えどんな答えが返ってきても構わなかった。もう、罵詈雑言には慣れていた。
数日後、通知音に誘われて開いたDMには、前回よりも短い感想が送られてきていた。
『人を殺めた事実を別にすれば、私は少しだけ、彼の気持ちを理解出来る気がしました。。彼の抱いていた底なしの虚無感が見せた胸の穴も、それを埋めようと無意識のうちに焦がれていたものがやっと現れた時の衝動。共感は微塵も出来ないが、全く理解が出来ない化け物でも狂人でもない、赤色を見て赤色だと思う一人の人間だと思いました。』
何度も読み返していると、もう1通、メッセージが来た。惜しみながらも画面をスクロールする。
『もう一度読み直して、感想を考えました。外野からどうこう言えるほど、彼を軽んじることが出来ませんでした。良い悪いは、彼の起こした行動に対してであれば悪で、それを彼は自死という形で償った。彼の思考について善悪を語れるのは、本人だけ。』
私は、画面の向こうに現れた人間に、頭を下げた。見えるはずもない。自己満足だ。そう知りながらも、下げずにはいられなかった。彼を、私を、理解してくれてありがとう。それが、私が愛読者と出会った瞬間だった。
愛読者は、どうやら私の作風をいたく気に入ったらしかった。あれやこれや、私の言葉で色んな世界を見てみたい、と強請った。その様子はどこか彼にも似ている気がして、私は愛読者の望むまま、数多の世界を創造した。いっそう創作は捗った。愛読者以外の人間は、ろくに寄り付かずたまに冷やかす輩が現れる程度で、私の言葉は、世間には刺さらない。
まるで神にでもなった気分だった。初めて小説を書いた時、私の指先一つで、人が自由に動き、話し、歩き、生きて、死ぬ。理想の愛を作り上げることも、到底現実世界では幸せになれない人を幸せにすることも、なんでも出来た。幸福のシロップが私の脳のタンパク質にじゅわじゅわと染みていって、甘ったるいスポンジ��なって、溢れ出すのは快楽物質。
そう、私は神になった。上から下界を見下ろし、手に持った無数の糸を引いて切って繋いでダンス。鼻歌まじりに踊るはワルツ。喜悲劇とも呼べるその一人芝居を、私はただ、演じた。
世の偉いベストセラー作家も、私の敬愛する文豪も、ポエムを垂れ流す病んだSNSの住人も、暗闇の中で自慰じみた創作をして死んでいく私も、きっと書く理由なんて、ただ楽しくて気持ちいいから。それに尽きるような気がする。
愛読者は私の思考をよく理解し、ただモラルのない行為にはノーを突きつけ、感想を欠かさずくれた。楽しかった。アクリルの向こうで私の話を聞いていた彼は、感想を口にすることはなかった。核心を突き、時に厳しい指摘をし、それでも全ての登場人物に対して寄り添い、「理解」してくれた。行動の理由を、言動の意味を、目線の行く先を、彼らの見る世界を。
一人で歩いていた暗い世界に、ぽつり、ぽつりと街灯が灯っていく、そんな感覚。じわりじわり暖かくなる肌触りのいい空気が私を包んで、私は初めて、人と共有することの幸せを味わった。不変を自分以外に見出し、脳内を共鳴させることの価値を知った。
幸せは麻薬だ、とかの人が説く。0の状態から1の幸せを得た人間は、気付いた頃にはその1を見失う。10の幸せがないと、幸せを感じなくなる。人間は1の幸せを持っていても、0の時よりも、不幸に感じる。幸福感という魔物に侵され支配されてしまった哀れな脳が見せる、もっと大きな、訪れるはずと信じて疑わない幻影の幸せ。
私はさしずめ、来るはずのプレゼントを玄関先でそわそわと待つ少女のように無垢で、そして、馬鹿だった。無知ゆえの、無垢の信頼ゆえの、馬鹿。救えない。
愛読者は姿を消した。ある日話を更新した私のDMは、いつまで経っても鳴らなかった。震える手で押した愛読者のアカウントは消えていた。私はその時初めて、愛読者の名前も顔も性別も、何もかもを知らないことに気が付いた。遅すぎた、否、知っていたところで何が出来たのだろう。私はただ、愛読者から感想という自己顕示欲を満たせる砂糖を注がれ続けて、その甘さに耽溺していた白痴の蟻だったのに。並ぶ言葉がざらざらと、砂時計の砂の如く崩れて床に散らばっていく幻覚が見えて、私は端末を放り投げ、野良猫を落ち着かせるように布団を被り、何がいけなかったのかをひとしきり考え、そして、やめた。
人間は、皆、勝手だ。何故か。皆、自分が大事だからだ。誰も守ってくれない己を守るため、生きるため、人は必死に崖を這い上がって、その途中で崖にしがみつく他者の手を足場にしていたとしても、気付く術はない。
愛読者は何も悪くない。これは、人間に期待し、信用という目に見えない清らかな物を崇拝し、焦がれ、浅はかにも己の手の中に得られると勘違いし小躍りした、道化師の喜劇だ。
愛読者は今日も、どこかで息をして、空を見上げているのだろうか。彼が亡くなった時と同じ感覚を抱いていた。彼が最後に見た澄んだ空。私が、諦観し絶望しながらも、明日も見るであろう狭い空。人生には不幸も幸せもなく、ただいっさいがすぎていく、そう言った27歳の太宰の言葉が、彼の年に近付いてからやっと分かるようになった。そう、人が生きる、ということに、最初から大して意味はない。今、人間がヒエラルキーの頂点に君臨し、80億弱もひしめき合って睨み合って生きていることにも、意味はない。ただ、そうあったから。
愛読者が消えた意味も、彼が自ら命を絶った理由も、考えるのをやめよう。と思った。呼吸代わりに、ある種の強迫観念に基づいて狂ったように綴っていた世界も、閉じたところで私は死なないし、私は死ぬ。最早私が今こうして生きているのも、植物状態で眠る私の見ている長い長い夢かもしれない。
私は思考を捨て、人でいることをやめた。
途端に、世界が輝きだした。全てが美しく見える。私が今ここにあることが、何よりも楽しく、笑いが止まらない。鉄線入りの窓ガラスが、かの大聖堂のステンドグラスよりも耽美に見える。
太宰先生、貴方はきっと思考を続けたから、あんな話を書いたのよ。私、今、そこかしこに檸檬を置いて回りたいほど愉快。
これがきっと、幸せ。って呼ぶのね。
愛読者は死んだ。もう戻らない。私の世界と共に死んだ、と思っていたが、元から生きても死んでもいなかった。否、生きていて、死んでいた。シュレディンガーの猫だ。
「嗚呼、私、やっぱり、
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skf14 · 3 years
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11080000
「おめでとうございます!元気な、女の子ですよ!!!」
高らかに響いた赤ちゃんの泣き声に、気付いたら涙が溢れていた。十月十日、私の狭い暗いお腹の中ですくすくと育ち、そして、満を辞して、この世界に生まれてくれた、私と、主人の愛の結晶。尊い、小さな小さな命。感じていた痛みも苦しみも、何もかもが幸せに変換されてゆく。看護師さんに抱かれた、ピンクの肌をした小さな命。私は滲む視界の中に見えた、手のひらよりもずっと小さな手を、そっと、そっと触った。柔らかく、頼りないその手。私がこれから引いて、守っていくんだと、母になったんだと、あふれる涙が止まらない中、私はぽつり、呟いた。
「生まれてくれて、ありがとう。」
無事生まれてくれた我が子、実伽子は、生まれて3日目には私の母乳を少し飲んでくれた。手の中に抱く瞬間はいつも肩に力が入ってしまって困るけれど、会いに来てくれた父母や義父母、主人や職場の友人、皆に愛され可愛がられる実伽子が誇らしく、どうしようも無く愛しく、早くお家に帰って、準備万端なベビーベッドに寝かせたかったし、これから過ごすお家を見せてあげたかった。母乳の出も順調、出産後の経過も良好で、1週間の入院の予定が、5日間に短縮されたと聞いた時には小躍りしたくらいには、幸せに溢れていた。
退院の時、見送ってくれた看護師さんは、実伽子を取り上げてくれた方だった。手の中の小さな命。実伽子の手を握り、看護師さんへ振って、タクシーに乗り込み自宅の住所を告げる。
「可愛らしい赤ちゃんですね。」
「ありがとうございます。5日前に生まれたんです。」
「そうですか。では、一層安全運転で参ります。」
「お願いします。」
自宅ではビデオを回す準備をした主人のお母さんが待っているはずだ。普段ならすぐに過ぎる帰宅までの数十分が、とても待ち遠しい。街並みが窓の外で流れて、外を初めて見た実伽子の目に、ガラスに反射した街がキラキラと映っていた。綺麗だなぁ。命って、赤ちゃんって、綺麗。こんな感情、実際に我が子を産むまで、知らなかった。運転手さんも気を遣ってくれてるんだろう、車内に流れるのは無線じゃない、落ち着いたオルゴールの音。
...もう、20分は走っている。のに、見知った景色が何も見えてこない。
「あの、運転手さん。」
「はい?」
「そろそろ、○○町に入っている頃なんですが、道、合ってますか?」
「合っていますよ。」
「いや、でも.........ん、?」
首を傾げスマートフォンを取り出したところで、くらり、世界が歪んで、瞼を開いていられないほどの、強烈な眠気に襲われた。出産の影響、な訳がない。私は腕に力を入れ、実伽子を庇うように抱きしめ、運転手を、見た。
「お休みなさい。」
ミラー越しに目が合った、ガスマスクを付けた運転手の目が弧に歪んで、私の意識はふつり、と切れた。
子供の、合唱する声が、靄のかかった意識の外から流れ込んでくる。ザ、ザ、とノイズの混じったその声が段々と鮮明に、私に届いて、愚鈍な意識が、ゆるりゆるりと水面に向けて浮上してゆく。覚醒、していく。
「...、私、......」
どこかに座っている、それも、馴染み深い形で。視界は暗く、手足は、自由に動かない。首も、どこかに固定されているのか、周りをぐるりと囲まれるように、金属の輪、のような物が食い込むように嵌められていた。声は酷く出しにくく、絞り出した独り言も掠れていて、叫ぶ事が出来ない。この体勢は、そう、5日前に寝ていた、分娩台だ。病院に逆戻り、そんなわけはない。病院が目隠しなんてするはずがない。服はかろうじて着ていたが、足を大きく開いて、手も縛り付けられて、明らかに異常事態だと脳が警鐘を鳴らしていた。何よりも、我が子は。実伽子は。私の腕に抱いていたはずの、あの愛しき、命は。部屋からは生物の気配がまるでしない。沸騰する水のように沸き立つ焦りと恐怖に暴れまわりたくなる心を必死に押し殺して、私は息を潜めた。何か、誰か、この場を教えて、誰かいないの。私は、実伽子、一体どこで何を、させられて、今頃実伽子は、寒さで泣いているかもしれない、お腹を空かせているかもしれない、私が眠ってから、どのくらい経った?あの運転手は、一体。ぐちゃぐちゃと思考する脳味噌が騒がしい。誰か、誰か来て、
さっきからずっと聞こえていた童謡が、段々近づいて来る。音源がゆっくり、私のいる場所へ近づいて来る。古い、もう今じゃ使わない、カセッ���テープのような質感の声で歌われていたのは、
「起きた?」
足音の後、がしゃん、と床に何かを置いた音。童謡はそこから流れてくる。朗らかな、男の声で私に話しかけた人間が扉を閉め、鼻歌混じりに楽しそうに部屋をうろうろと動いている気配がした。まるで、私の主人のような当たり前の声で尋ねてくる様子に、訳もなく鳥肌が立つ。頭にいっぱい広がったなぜなにどうしてを抑えて、私は何よりも聞きたかったことを口にした。
「む、娘は...」
「あぁ、別のとこ。」
「ここは、貴方は、一体...」
流れる童謡のボリュームが上がる。幼稚園児ほどの子供が一生懸命歌っているそれは、「ハッピーバースデー』。私の問いには何も答えない男は、私の周りをうろうろとまだ動き回っている。耳を澄ましても、子供の泣き声は聞こえない。聞こえるのは男の足音と、単調な童謡だけ。ハッ、ハッ、と、呼吸が段々浅くなるのを止められない。
「ね、ねぇ、貴方、なんなの、ここは...これ、どういうことなの、」
「...あ。これ、取るね。」
その瞬間、目を覆っていた何かが男の手により外された。眩しい、と目を強く閉じ、そして、違和感にそっと瞼を開く。見えた光景は、薄暗く、コンクリート打ちっぱなしの、部屋。私に話しかけていた男はアノニマスの面を被って、私の顔をじっと覗き込んでいた。ヒィッと声が出て、出来もしないのに後ずさる。体を蠢かせ逃げようとする私を笑った男は面を取り、私の髪を撫で、「落ち着いて。」と微笑んだ。
その顔に、まるで覚えがない。初めまして、など言える空気ではない。どこかで会ったことがあるのか、少なくとも親しい間柄ではない。男は、百面相をする私の前に椅子を置き、テーブルに置いてあった皿を持って座った。皿の上にある物を見て、ますます意味がわからなくなる。
男は、イチゴの乗ったチョコレートのショートケーキを持っていた。カットされたそれに、いくつも、まるでハリネズミのように、ポップな色の蝋燭がケーキの原型をとどめないほど突き刺さっていた。本数は数えられない。が、夥しいほどの本数に、目の前の男が、少なくとも成人して時間が経っていることだけは分かった。男は手にジッポを持って、カチャカチャと蓋を開け閉めしていた。
「な、なに、助けて、嫌、」
「落ち着いて、お母さん。」
「私、貴方のお母さんじゃ、」
「ねぇ、名前呼んでよ、お母さん。」
頑なに私をお母さん、と呼ぶ、私とあまり変わらなそうな歳の男は、黒目がちの瞳を濁らせて、私に近寄り、そしてどろりと劣情を浮かべた目を私に向けた。寒気がする。名前どころか、どこの誰かも分からない人間が、私を標的にしている。
「な、名前...?知らないわ、そんな、名前なんて、」
「またまた、惚けちゃって。僕だよ、徇だよ。しゅん。」
「シュン...?」
「違う!!!!!!!!!!」
「ヒッ、ご、ごめんなさい、何が、違うの、」
「お母さん、どんな時でもどんな相手でも敬意を欠かしちゃいけないって言ってたのに、君付けもしないなんて、貴方らしくないよ。」
「ごめんなさ、い、シ、シュンくん、どうしたの、お母さん、手が痛いわ、ねぇ、」
急に激昂したり、悲しそうな顔をしたり、私の人生において、出会ったことのない、異物。同じ人間のはずなのに、私の中の第六感がずっと警告のサイレンを鳴らし続けている。刺激しないよう、相手の言葉を拾いながら、部屋の中を見渡す。男の後ろには扉。部屋の中は暗く隅までよく見えないが、物はあまりない。どうにか、実伽子を探して、ここから逃げ出して、
「ねぇ、お母さん、もっと先に、言うことあるよね。」
「......なんだった、かしら、」
「...そうだよね、忘れてるよね。」
男は皿の上のケーキを眺め、そして、私を見上げた。整った顔立ちに、色濃く「孤独」な表情が浮かんで、私は何も知らないのに、悲惨だと、直感で思ってしまった。
「今日は、僕の誕生日なんだ。」
「誕生日...?」
「そう、ちょうど、30回目の誕生日。忘れてたの?」
「.........いや、その、覚えてたわ、ちょっと、驚かそうかと、」
「だよね!そう、僕の誕生日なんだ、今日。生まれた日。僕がこの世に生まれて、オギャーって泣いて、色んな人に、生まれてくれてありがとう、って言われて、抱かれて、名前を貰った、日。そう、祝福された、日、生まれた、僕が、お母さんから、生まれて、十月十日前に、お母さん、と、お父さんが、性交して、卵子が分裂を始めて、人の形を、作り上げていって、ねえ知ってる?指の間の水かきは、僕たちがずっとずっと昔、両生類だった頃の名残りなんだって僕習ったんだよ!」
制御の効かないロボット、と思うほど、男は表情ひとつ変えないままガクガクと口だけを動かして、言葉を垂れ流した。馴染みのある言語なはずなのに、耳にまるで入ってこない。怖い。怖い。
「歌って。」
「えっ...?」
「誕生日。ハッピーバースデー。歌って。お母さん。」
「は、はい、...ハッピーバースデー、トゥー、ユー、ハッピーバースデー、トゥー、ユー、」
「うん、うん。ふふふ、そう、誕生日。僕、誕生日。」
「ハッピーバースデー、ディア、シュンくん、ハッピーバースデー、トゥー、ユー...」
「えへへへへ、ありがとう!!!!誕生日、嬉しいなぁ、祝ってもらえて、幸せ、僕、お母さんに誕生日、祝ってもらえた、」
「ええ、そう、ね、だから、もう、離して、」
男は��ッポに火をつけ、ケーキに刺さった蝋燭へ一つ一つ火をつけ、そして、吹き消すこともなく側の机に置いた。燃えているようにも錯覚するチョコレートケーキが、火に炙られ、どろりとクリームが蕩ける。溶けて垂れた蝋がクリームを覆って、ケーキの形が崩れてゆく。
「誕生日だもんね、僕、お願いがあるんだ。」
「な、何、離して、逃して、助けて、」
「僕、お母さんと寝たい。」
「寝る...?」
「そう、いつも、僕が近寄ると怒ったでしょ、お父さんとは、あんなにくっついて眠ってたのに、」
「構わないから、この、手足、自由にしてもらえないかしら、ねぇ、」
「やったぁ!!!ありがとう、お母さん!!!」
狂人、と呼ばれる人を実際見たことはなかったけど、目の前の男のような人間をそう呼ぶのかもしれない。目的も何も分からない、ただ、狂っている。喜んだ様子の男が、私の足の間に滑り込み、腰に抱きついて頭を腹に乗せたところで、私は耐えられなくなった。
「イヤァア!!!触らないで!実伽子を返して!今すぐ離して!!!嫌!」
「......」
「誰か!誰か助けて!ここから出して!!いや、もういや、いやよ、離して、貴方、実伽子...」
「...そうだ、そろそろ、眠る支度をしないと。」
随分と掻き回しているんだけど、どうに��僕の頭はお母さんの膣には入らなそうだった。諦めるべきなのか。いや、でも、今日は僕の誕生日だ。諦めるわけにはいかない。一年に一度しかないこの日に、お母さんと眠りたい。それだけを叶えるために僕は、生きているのだから。
お母さんの陰部に嵌めた拳をグーパーしてみても、入り口が広がったようには思えない。おかしいな、ついこないだ子供が出てきたって言ってたから連れてきたのに。おかしい。
「先に寝ちゃったの?お母さん。そう。僕も眠りたいんだけど。」
返事はない。黒目を上に向けて、口から白い泡を垂れ流して、お母さんは眠ってしまった。広げられた足の間、僕の拳にはごつごつと何かが当たって上手く動けない。あぁ、これのせいか。部屋を見渡して、用意しておいた金属バットが目についた。握り締めてお母さんの陰部めがけて何度か振り下ろしていくうちに、グニャグチャと柔らかくなった感触がして、僕はバットを投げ捨てて、もう一度手を中へ入れた。先ほどよりもスムーズに入る。拳、腕、肘の手前まで入ったところで左手も入れて、中を広げる。ツン、と鼻につく匂いがして顔を上げると、お母さんが失禁、嘔吐していて、僕は中のものを出し切ろうと暫く腕を動かし続けた。
「別に、誰でも良かったんだ。子供を産んで、すぐであれば。」
大事にケースに入れられていた母子手帳と一緒にドラム缶へ放り込んだミカコチャンは、溶けたタイヤと共にもう炭に変わっている頃だろう。お母さんの中はだいぶ柔らかくなって、僕は手を引っこ抜いて、汚れやらなんやらを拭いてあげた。汚い服は全て剥ぎ取った。日付はもう、23時50分を過ぎていた。もう、誕生日が終わってしまう。
「お母さん、僕、今日誕生日なんだ。」
皮膚が少し伸び歪な形になった、露出した腹の皮膚に僕は頭を乗せて、体温と頬に当たる生毛を感じながら、すぅ、っとお母さんの匂いを吸い込んだ。微かに香る乳臭さに、僕は慌てて上半身の服も脱がせて、肥大した乳房をまじまじと見た。
母乳。お母さんの、命のかけら。子供を育てるためだけに生成され、子供のためだけに使われる汁。液体。清らかな、愛そのもの。白濁した、血液と同じ成分で構成された、栄養のある液体。母乳。母なる乳。命の泉。黒々とした乳首からじわりぽたりと滲み出て来るその母乳を、僕は乳房全体を握って絞り出した。視認できるギリギリの細さでシューっと飛び出す生暖かい僅かな液体を、僕は顔で受け止め、それが顎から滴り、または喉を伝って服の中に流れゆく様を感じた。誕生日。生まれた日。飲もう、とは思わなかった。ただ感じたかった。これが母の愛なのだと。だって僕は今日、誕生日だから。
「お母さん。僕は、生まれてきて良かった、と思ってるよ。生まれてくれてありがとう、と、言われたかどうかは分からないけれど、でも、確かに僕は生まれて、ここにいて、考え、動き、感じ、生きている。それは紛れもなく、貴方が、ここから僕をひり出してくれたからで、遡れば、お父さんと性交してくれたからで、うん、野暮だな。つまりは、産んでくれてありがとう。僕を僕として、産んでくれて、ありがとう。」
柔らかくなった入口に頭を押し付けて、ぐちゃりと色々なもので濡れた感触と、そしてゆっくり浸食してゆく感覚を味わいながら、僕は在るべき場所へと帰る。額が、目が、鼻が肉壁に包まれた辺りで侵攻を止め、腰を抱え、子猫が母猫に甘えるように頭を擦り付けて、お母さんを抱き締める。
「ただいま。」
頭が暖かいからだろうか、眠気が迫ってきた。明日には今日はしゃいだ分の片付けをしなければいけない。この肉塊もじきに冷たくなる。今だけ、お母さんの体温を目一杯感じて、今日だけは、僕が生まれた意義を、生きる理由を、何もかもを考えないまま、ただ生きていていいと肯定してもらえる場所で眠りたい。
「ハッピーバースデー、ディア、僕。」
僕はそっと目を閉じて、お母さんを想う。ハッピーバースデートゥーミー。ハッピーバースデートゥーミー。おめでとう。生まれてくれてありがとう。お母さん、お母さん、僕は、お母さんが、大好きだよ。
誕生日、おめでとう。
「おやすみなさい、お母さん。」
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skf14 · 3 years
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11060007
間接照明なんて小洒落たものは、この部屋には置いていない。それは私の生活に、そんなオプションにまで気を配るほど金銭的にも精神的にも余裕がないせいでもあったし、そもそもワンルームの狭い部屋でテレビ以上に程よく光を与えてくるものなどないからでもあった。
「そろそろ照明買えよ。」
「なんで。」
「だってお前、セックスする時暗いと何も見えないじゃん。かと言って部屋の電気は付けさせてくれないし。」
「明るいの恥ずかしいから付けない。それに、テレビつけてるじゃん。十分見えるでしょ。」
「そのせいで俺らは深海魚に見守られながらハジメテを迎えたわけだけど。」
「素敵な初夜じゃない。それに、強いて言うなら今日も、ね。」
そう、今日も、私と彼は、狭いシングルベッドの上で、深海のドキュメンタリー映像に見守られながら繋がった。夏の暑い日、地球に鞭打ってクーラーをガンガンに効かせ、程よい室温の中で体温を分け合った。光る四角の中では、ゆらりゆらりと奇抜な形と色をしたクラゲが、波も音も光も何もない水の底を揺蕩っている。まるで私たちみたいだ、とその様子を自嘲すれば、彼は、詩的なことはよくわからない。と眉を下げるんだろうか。
「嫌い?深海魚。」
「いや、嫌いじゃないけどさ。」
「なら良かったじゃんか。何、それともガキ使でダウンタウンに見守られながらしたかった?」
「色々アウトだよバカ。何が悲しくて、おっさんがケツしばかれるとこ見ながらイかなきゃいけないのさ。」
「ふは。」
あいにく私はブルジョアな身分じゃないただの派遣社員だし、いつ切られるか分からない首を皮一枚つなげて、なけなしの賃金は生活に消えていくし、彼は輪郭の曖昧な夢と、どこかにあるはずだと信じて疑わない「自分にしか出来ないこと」を追いかけるだけのフラフラした大人だし、未だにどんな仕事をしているのかすら知らないし、間接照明は大体部屋が沢山ある家に住むちゃんとした大人が所持するものだろう。私の家には、相応しくない。この価値観はいつどこで拾ったものなのか、どう育ったものなのか、最早分からない。
彼が煙草をやめてから、どのくらい経っただろう。気を遣って、彼が初めて家に来る時買っておいた百均の灰皿は、シンク下の扉の中で埃を被っている。別に嗜好品まで支配する気はない、と遠回しに伝えた私に彼は、「でも好きじゃないんでしょ?なら、キスもするし、辞めるよ。」と笑った。あぁ、ダメになる。と思う。私は、いつまでも私のまま、立っていたかった。
「あ、出た、お前の好きなやつ。」
「そろそろ名前覚える気ない?」
「覚えらんないよ。こんな難しい名前。」
「ミシシッピアカミミガメより短いし、簡単でしょ。カイロウドウケツ。」
「ヘチマ乾かしたやつにしか見えねぇ。」
「もうヘチマにしか見えない。」
画面の中で、海綿体の仲間、カイロウドウケツがゆらゆらと海底に生えているのを、大して興味もなさそうに彼が私の身体越しに見ていた。偕老同穴。言葉を先に知っていた私は、己がそれを好きになった皮肉をひしひしと感じていた。いや、別に関係はない。ただ、その二酸化ケイ素、いわゆるガラスで作り上げられた骨格が美しく、惹かれただけだ。
テレビに夢中になっていた私を、彼は抱き寄せて頸にキスをして、好きだと言っていた腰���ラインを撫でて、まるで愛用の抱き枕のように優しく扱う。彼にとって心地良い存在になっていることを、微塵も疑わなかった。少なくとも身体に関しては、細く、白く、肌触りが良いように気を付けていたし、それを褒められるのはとても幸せなことだった。少し無骨で私よりも大きな手が私を撫でる時間が、夢のような心地を私に与えた。
私と彼、どちらがエビなのだろう。カイロウドウケツは、網目構造内、胃腔の中にドウケツエビ、というエビを住まわせている。このエビは幼生のうちにカイロウドウケツ内に入り込み、そこで成長して網目の間隙よりも大きくなる。つまりは外に出られない状態となるのである。
寄生、依存、嫌な言葉はいくらでも思い浮かぶ私の脳は、「共存」というたった一言を導くことが出来ない。そう、私たちが、将来的に分化し、雄と雌の番になって一生を過ごすエビ同士だと、どうしても思えないように、私は彼のもの、彼は私のもの、そんな歪んだ物差しで、いつも彼を見つめていた。
カイロウドウケツにとって、ドウケツエビを住まわせるメリットは何もない。知らぬ間に己の中へ勝手に入り込み、出られなくなるほど大きくなり、カイロウドウケツに引っ掛かった有機物や、食べ残しを啜りながら、そのガラスの網目に守られ、身勝手にもオスメスに分裂し、安寧の中で呑気に繁殖する存在だ。これを共存などと呼んでしまえるほど私の神経が図太ければ、よかったのに。
彼は、私がなぜこの生き物を好きなのか、知らない。
「片利共生。」
「ん?何?」
「ううん、何もない。」
「そう。そろそろ寝よう。もう眠いよ俺。」
「うん、明日何時に起きる?」
「予定もないし、起きた時に起きれば良いじゃん。」
「だね。で、パン屋行って昼食にしよう。」
「だな。」
「じゃあ、おやすみ。」
「ん、おやすみ。」
テレビに釘付けな私の背後で、背中を向けた彼は布団を鬱陶しそうに胸元まで押しのけ、眠る体勢へと入った。暖かい体温を背中に感じながら、私の思考はまたカイロウドウケツへと戻ってくる。彼らのような関係を、片利共生、と呼ぶらしい。片方がメリットを享受し、片方にはメリットもデメリットもない。これが仮に、片方に寄生することで害を及ぼす場合、片害共生、と呼び名が変わる。互いに利益を及ぼす場合は、相利共生。
彼と私のような関係は、どれに当てはまるのだろう、と、カイロウドウケツを見る度に思う。勿論、人間関係が、恋愛感情が、メリットデメリットで全て片付くなんて、そんな機械的思考は持ち合わせていない。が、しかし。私は彼のガラスで出来た繊細な檻の中で自堕落に自由を堪能している能無しなのかもしれないし、彼を囲うように己の身体を組み替えて腹の中に収めている傲慢な女郎蜘蛛なのかもしれない。考えは広がり、収集がつかなくなってゆく。彼はとっくに眠りに落ち、すぅすぅと穏やかな寝息が聞こえてくる。寝つきがいいのが自慢だと、小学生のような誇らしげな顔で彼は言っていた。私はそれをBGMにしながら、思考の海を漂うのが好きだった。
揺蕩う思考の中は掌で温めたローションみたいで、冬場にしっかり保湿した私の二の腕の内側みたいで、要するに、柔らかくて気持ちがいい。微睡みにも似ているこの感覚が好きで、私は脳を休ませない。
私が彼を家に誘った時、意を決して彼にのし掛かったら、「我慢出来なくなるからやめてくれ。」なんて泣き言を言われて、柄にもなく興奮した。可愛い、と思った。だから私は、いいよ。と、ただ一言、それだけ言って、身を委ねた。初めての経験だった。苦手だった人肌も体温も、彼のものであれば共有したいと思えた。不思議だ。人間というのは、杓子定規にはいかない。私は、彼と、恋人をした。ありとあらゆる思いつくことをした。させた。付き合わせた。楽しかったのだ。どうしようもなく、まるで初めておもちゃをもらった子供のように、際限なくはしゃいだ。あれは間違いなく、初めての、恋だった。
画面の中、私の目に四角く映る白い画面の中では、名前すら判明していないカニの一種が寄り添い合って、海底に沈んだ鯨の骨を啄んでいた。ふわふわと千切れて漂う頭蓋のふやけた脂肪が、いつか北海道で見た大きな綿雪のようで、私は寒くもないのに布団に潜って、彼の背中に寄る。丸くて、暖かい。生きている人間がこうして、隣にいる。私はダメになりそうになって、ダメになってもいいか、と自分を甘やかして、明日なんて別にどうでもいい、と、心の蟠りを全部捨てて、意識はまた脳内の深海へと戻っていく。
私、貴方に、ずっと言えなかったことがあるの。そう。私、貴方の前ではそれなりにちゃんとしてたけど、本当は全然ちゃんとしてないのよ。仕事から帰ったら服は脱ぎ散らかすし、好き放題開けたピアスは毎日どこか付け忘れてみっともなく穴だけ取り残されてるし、キャッチはすぐ無くすし、しょっちゅう転がってるの踏むの。勿論、貴方から貰ったのは、ちゃんとケースに飾ってあるけど。子供は嫌いだし、マトモな生活だってしないし、ファーストフード大好きだし、お肌はたまに荒れちゃうし、それに、人の愛し方が分からなかったの。
尽くせば気持ちが伝わるって、それはただの自己満足だって、言われたわ。見返りを求めてるように見える、って。そうよね、当たり前だわ。分かってた、私。でも、それ以上の正解が見つからなかった。私に愛されちゃった貴方が可哀想で、申し訳なくって、ごめんなさいって、考える度そんな気分になるわ。謝るのだってきっと、自己満よね。
「愛、って。なんだっけ。」
ぼそり、溢れた言葉を拾う人間はいない。ゆらりゆらりと画面を横切る脳のないクラゲには、そんな芸当させられない。美しいものは、美しいというだけで、もうそれ以上すべきことはない。人間ばかりがどうにも醜いから、世界のアレやコレやをせずにはいられない。愛。愛って、何?義務?オプション?幸運?麻薬?どんな例え方をしても、しっくりこない。ただ、私は貴方を愛だと例えるし、貴方は私を愛だとは例えないだろうってことは、分かる。悲しいわ。私、貴方のことになると、年甲斐もなく悲しくなる。
窓が白んでいるのに気付いて、私はそっとスマホを傾け、時刻がもう朝の4時を迎えようとしていることに気づいた。3:58。偶数は、割り切れるから気持ちがいい。今から眠ればきっと目が覚めるのは11時過ぎで、私よりもゆっくり眠る貴方は私に起こされて、ぐずりながら私を抱き寄せるのね。
テレビを消し、意識しなければ消えていきそうな光を捕まえて、彼の方を向いて見た。相変わらず背中しか見えない。着ているスウェットからは、私の使ったことのない柔軟剤の匂いがして、私の好きな香りじゃないのに、落ち着いてしまうのが妙に悔しかった。貴方が愛されてる匂いだわ、なんて、捻くれた私は胸がチリっと焼ける気分になる。貴方のお母さんが、貴方を思って洗った服。羨ましかった。愛されても愛されても、飢えてしまう病気なのだと、私は彼の憎らしい香りを胸いっぱいに吸い込んで、軋む肋骨を摩った。
普段無駄にある語彙を尽くしても、結局、好きだと、それだけが彼に抱いていた感情だった。馬鹿みたい、そんなはしゃげる歳でもなかったのに。彼よりも歳上で、しっかりしなきゃいけなかったのに。
私は彼の背中をそっとなぞり、そして、息を潜めてぴったりくっついた。
微かに聞こえる鼓動の音。
私と同じ形の、身体。
馬鹿ね、私も貴方も。セックス、なんて、覚えたての中学生みたいに茶化しあって、感覚で快楽を共有して、繋がれるモノも場所もないのに、歪な形を自覚した上で、ここに存在するのが最上の愛だって、信じてやまないの。違和感だらけの世界で、何も考えず貴方を見上げてた刹那が、どうしようもなく、幸せだった。こんな思考なんて今すぐにでも燃えるゴミに出してしまえそうな、堕落を悪だと思わない洗脳にも近い、強烈な幸せ、だった。
うん、幸せだった。私。今更理由が分かったの。きっとあれは、私が、貴方で幸せになってた時間だったんだわ。貴方と幸せになりたかった私の傲慢さが、私にしか見えない世界で、私を道化にしたのね。
貴方がいなくなってからもう、随分と時が経った。のに。未だにベッドに眠る度、私の顔の横へ肘をついてキスに耽る貴方を思い出す。私の好きなぬいぐるみを枕に惰眠を貪る貴方を思い出す。五感に結びついた記憶は厄介だと、貴方が身をもって教えてくれた。
今更、もう一度貴方と共に、なんて、そんなことは思わない。ただ、もう少しだけ、せめて深海に潜る時だけは、貴方を思い出すことを、許して欲しい。
共に幸せになれなかった、懺悔を込めて。
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skf14 · 3 years
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11022052
行き場を無くした蝿が目の前を横切って、そして壁にぴとり、と捕まったのを見て、最後にゴミを出した日を思い返し、いつだったかもう思い出せないことに気づいた。いつだっけ。あれは確か、月初の火曜日。今日は、何日。なんようび。あぁ、もう、2週間も経ってる。もはや何が腐っているのか分からない混沌とした腐臭も、人間の順応性の賜物で、まるで何も感じなくなっていた。
部屋のそこかしこから、ミチミチとビニール袋の山をかき分けているであろう鼠が這い回る肉肉しい音や、カサ、カササ、と止まっては走り、止まっては走り、宝の山を駆け回るゴキブリの足音が聞こえてくる。騒がしい部屋。いつから、気にならなくなったんだろう。いつから?今日は、いつ、ばかりを追いかけている気がする。なぜ?分からない。なぜ、人は考える?なぜ、人に、考えると言う機能が与えられた?子供の頃から積み重ねてきた神への質問は、もう��に届くほど重なっただろう。一枚一枚積んでいって、東京タワーを超えたあたりで僕は狂ったんだろうか。分からない。分からないのに考えるのは、なぜ?また一つ、質問が増えた。
結局神は無知なのだと、事実はそれに尽きるんだけど、それを認められないまま大きくなってしまったもんだから、消化出来ないなぜなぜどうしてが溜まって、丁度俺の足元でヘドロと化した昔の生ゴミのように、ゆたりのたりと停滞していた。
神が万能だと思い込んでしまう人間の心理はどこにあるんだろう。そもそも神とは。カーテンから漏れ入る太陽の光が不快で、僕は布団から出る手間と現実逃避を天秤に掛け、後者が勝ったことを知らされた。布団に頭まで潜りなおして、寝心地を整える。心地の良い肌触りを探して敷布団を撫でる手が何かごろっとした小さなものにいくつか触れて、あぁ...蝿の死骸。と合点が行き、床へと払い落とす。ぽとぽとと床に散らばっているであろう数多の死骸は、どう表せばいいんだろうか。また一つ、浮かぶ。
詩的な才能は皆無で、出来ることといえば世界を歪んだ形に当て嵌めて、上から見下ろし笑うことくらい。今日も口ずさむのは、敬愛する彼の、どこまでも自由な、愉快な歌。
「胃袋の、空つぽの鷲が、電線に、引つかゝつて死んだ、青いあおい空、」
「吹き降りの踏切で、人が轢死した、そのあくる日は、ステキな上天気、」
フヒ、フヒヒ、湧き上がるのは得体の知れない愉快さ。その愉快さは脳内で麻薬に変わり、現実から目を背け夢の世界へとトぶためのチケットになった。ゆめゆめ、夢の世界。何もかもがどうにでもなる、都合の良い、世界。世界って、なんだろう。ああ、僕の頭がもう少し良ければ。もう少し頭が良く、生まれていれば。全ては誰かの、何かのせいだ。
プゥン、ブゥヴン、と、羽音が時折布団の合間を縫って主張してくるから面白い。面白いことは好きだ。世界は全部面白い。あちこちに飛散して消えていきそうな思考やら自我やらが、その生命の足掻きで現実に引き戻される様を、不思議と不快には感じないらしかった。
自分のことが、全部他人事のようにも思う。それも面白い。あぁ面白い面白い。何が?
部屋を、片付けた方がいいのではないか、と思う。さすがにもう、そこかしこに放置したビニール袋から漂う悪臭も、慣れたと看過できる次元のそれじゃなくなってきた。部屋の掃除。部屋の片付け。うん。わかってる。必要であり、理由があり、合理的で、それは答えだ。
ただ部屋を片付ける、と言うのは、そもそもこの部屋は己の脳内と同じであるからして、片付ける、というのはとても、難しいことのように思う。片付かない脳を引っ提げて生きているのに、見える脳だけを片付ける、と言うのは、矛盾している、とも思う。僕は矛盾を愛せるが、愛せない部分もある。都合の良い人間だった。どこまでも、自分を守ることしか、能がない。先程から噛み始めた親指の爪がザクザクと割れて、ふやけて、透き通ってて綺麗。面白い。ここはどこの箱庭だろう。外には何が。ただの現実が。それなら別に、外に出なくても、僕は、この小さな王国の王でいたい。傍若無人に振る舞い、メロスを激怒させ、一晩で民を滅ぼすような自由を、欲している。なんて陳腐なストーリーだろう。反吐が出そう。
この小さな王国が、僕は好きで、嫌いだった。ここにいてしまえば、もう、他に行き場所がない、と嫌でも教えられる、ゴミ溜めのワンルームが憎かった。それでも僕は、休日をただただ布団の中で延々と過ごしながら、己の自尊心を卵のように温め、中身がとうに腐って死んでいることにも気づかずに、殻を破り元気に飛び出す姿を夢見ている。泣けるストーリー。
僕は正しい、と思う。それは、僕が正しくあるべきだと思うからで、正しさこそが絶対であり、ペンは剣よりも強し、正義は何よりも強し、であるからして、僕はずっと正しさだけを追い求めて、神格化すらしてきた。それはきっと、正しいこと以外信じられるものがなかったからで、感情や情緒やそんな理屈で解決できないことに散々振り回されてきたからなんだと思う。掘り下げていけばいくほど、己がただ狂う手伝いを自ら買って出ているような感覚に陥って、足元の布団がどんどんマントルに沈んでいって、没入してそのまま死ねたらいい、と、それもまた正しい、と判断せざるを得ない。
正論は時として武器になる。それは分かっていた。武器は無差別に人を傷つける。別に僕は自衛隊に反対しているどこかの胡散臭いアカじゃないが、善人が握っても悪人が握ってもナイフの刃は無惨に皮膚を切り裂き傷つける。だがしかし、柄を握ればそれは自分を守る盾になる。言葉だってそうだ。僕の言葉は、人を殺すことも生かすこともできる。認識はある、教養もある、でもその上に、絶対変わらない頂上に、正しいことが唯一尊重すべきことだ、という価値観がある限り、僕は孤独なままだ。
虐待され腹を空かせた子供がすれ違いざまに人を刺したからと言って、可哀想だからと笑って許す人間がどこにいる?孤独な介護の末に首を絞めてしまった息子は、泣いて謝れば無罪放免か?現実主義者に、感情論はよく理解が出来ない。分かりたいのに分からない苦痛を、皆は知らない。
ほっといてくれ、と思う。同時に、幸せになりたい、とも思う。とかくこの世は、僕にとってひどく住みにくい、地獄だと歳を取るたびに思うのは、きっと僕の中で思う「正しさ」を余りにも守らない人間がこの世界に溢れているからだ。与えられた自由の中で適度に振る舞えば良いものを、人間は、簡単に間違える。理由もなく、思考もせず、間違える。電車に並ぶ時は、点字ブロックの飛び出したところから均等に2列で適度な間を取って、横と波長を合わせながら静かに待ち、到着した電車の扉のサイド、あまり近すぎない箇所に待機し、降りるべき人間が全て降りたら乗り込み、奥に詰め、他者の迷惑にならない振る舞いをして、息を潜める。「電車に乗る」と言うただそれだけが出来ない猿以下の二足歩行しか能のないメクラ共が、見えない世界をスマートフォンで照らしながらヘラヘラと歩いている。闊歩している。まるでここは我々の星だと、我々が生態系の頂点に君臨している王だと言わんばかりに、大股で往来を闊歩している!これほど、恥ずかしいことはないだろう。正しいことを、理解できる脳が大部分の人間に備わっていながら、それをこなせない。たった簡単な、食事、歩行、呼吸、それが、何もかもが、間違いで溢れた世界に出ることが、僕に取っては耐え難い苦痛であった。
変わらないものが好きだ。砂糖の甘さも、端末に収められた音楽も、色も、窓ガラスも、行きつけのファーストフード店の椅子も机も、変わらない。変わらないことは、正しい。変わる理由があれば別だが。四角の机を直線一本で二つに切れば、台形、長方形、三角の机が2つ出来る。それは来るべき変化であり、起こるべき変化であり、その変化を僕は受け入れられる。切られた、と言う理由があるから、僕は受け入れられる。聞くたびに変わる歌の歌詞だとか、昨日笑っていた人が今日は怒って僕を殴る理由だとか、己の身体を傷つけて他人に怒られる理屈だとか、そんな変わりゆく有象無象に、僕は順応出来ない。理由を求め、理屈を求め、それが無いのに進んでいく世界に狂わされていく。僕は、狂っていく。狂っていくのを唯一止められるのは、「僕は正しい」という変わらない唯一無二の、そして絶対の価値観だけ。
正しさが幸せだと、そう思っていた。今でもそう思っていて、追い求めるべきは、正しさによって作られた、変わることのない、腐ることのない、水晶で作られた髑髏のオーパーツのような、数式で表せそうな完全だ。ガササ、どこかでいたずら鼠が崩したんだろう、ビニールが崩れて転がった音が聞こえた。現実が僕を呼ぶ。やめてくれ。何も見たくない。僕は、完全な幸せがあると、そればかり思って、今ここで何とか息をしているのに、そんなものないよ。の一言で迷わず僕は飛び降りられるくらい、もう、すがるものがない。
物語は変わらない。正しさをいくら追い求めても、僕以外には何の理解も得られない理屈の上に完璧な正しさを構築しても、それは正しいものとして、存在し続ける。ただのオナニーだ、と己を笑うことが出来ない。否、笑える。アハハ。お前、自分の書いた文章で自慰して、ニセモンの幸せに脳浸して、それで快楽物質出して涎垂らして眠るんだ。好きな人と会えた夢が覚めないでって願う女子中学生みたいに、夢見て。馬鹿じゃね?笑える。そう、笑える。面白い。面白ければ、もう大概のことは何でも許せる。人が死のうが、国が壊れようが、友達が僕を嫌おうが、目玉焼き定食に紛れ込んでた卵の殻を噛んだって、許せる。アハ、おもしろ。こらおもろいわ。なんて笑って、それでまた、意識は酸っぱい匂いが漂う、深呼吸したら嘔吐の応酬がある愛しきゴミ溜めに帰ってくる。ただいま、おかえり。僕の自我。捉えられたままの僕。
僕は嫌われていた。当然だろう。どこをどう見ても可愛げがなく、かといって頼れるわけでもなく、取り柄もないのに堅苦しく、そして酷く、嫌な人間だ。分かっている。分かっていた。わかっていたのに、正しさに支配された僕の脳は、改めることを正しくないと認識して、僕の首を真綿で締め上げる。それは正しいことだから、僕には、どうすることもできない。
あの日の選択は正しかったのか、正しくなかったのか、それは分からない。僕は僕の人生において、僕が納得出来る形で責任を取らなければならない。何かのせいにするのは、僕のポリシーに反する。僕が正しかった、正しい選択をした、それだけで僕は、皆に優しくなれた。はずだった。人はよく、分からない生き物だと、僕は思い続けて、きっと死ぬのだろう。もう嫌だと全てを投げて自由になってみても、寄り添ってくれるのが己の正しさだと気付くだけで、それは無駄な行為を理由もなく行なった、正しくないことに他ならない。
布団の中で、膝を抱えてみた。小さく小さく丸まって、僕の姿を遥か遠くの宇宙から見下ろしてみた。何だ、小さすぎて見えない。ミジンコよりも小さい。ちっぽけなこんな、指先でプチっと潰れる蛆虫みたいな柔らかい体の中に、押し込んだ固定観念に潰されそうになって、哀れ。もうやめたら?理屈振りかざして、他者に受け入れられない幸せこそが至高だって強がるの。やめられないよ。だって僕にとっての幸せは、他者の評価や介入を許さない、壊れることのない、それは精神的な結びつきだけではなく、物理的なエビデンスも兼ね備えた、計算によって生まれた彫刻のような、自由に咲いた向日葵の中に在ったフィボナッチ数列のような、幸せだ。見てみろ。僕が生み出した数多の世界を。どれが、他人に壊せる?いつか壊れるものを抱きしめることほど、無意味で非生産的なことはない。僕はただ、幸せに。
それは違う、と声が聞こえて、僕は、布団から慌てて顔を出した。つけっぱなしにしていたテレビの中で、熟した男女が言い争って、そして、絆されて、キスをして。僕は気持ちが悪くなって、昨日食べてそのまま机に放置していたカップラーメンの残り汁の中に、粘着く胃液を吐いた。
肯定されたかった。と、僕の中に蹲ったままの僕が言う。でも、それは正しくないことだ。他者に認められて初めて価値が生まれる価値観なんて、何の意味もない。危うい。認めた他者が手のひらを返せば崩れる可能性がある。100%しか、僕は愛せない。はずなのに。人の脳に欠陥があることを、なぜ脳科学者は発表しない?正しいが正しいと判別しない人間共を、なぜヒトラーは殺して回らなかった?もう何も、分からない。分からないと頭を抱えた僕の後ろに、立ちすくむ人間がいる。人間はポン、と肩を叩き、唇を耳へと寄せて、そして。
「大丈夫、だって僕は、いつだって正しくあるべきだと、そう思ってきただろう?僕は拙いところもあったが、それをやり遂げた。僕はずっと正しかった、そしてこれからも正しくあり続ける。正しさを認識し、それを守り続ける。これほどまでに幸せを追い求めた人間が他にいたか?皆、偽りの、いつ割れるか分からない風船が膨らむのを見て喜ぶノータリンなんだ。僕は違う。僕だけは、この世界の正解を見つけたんだ。大丈夫。僕は独りだけ、本当に幸せになれる。」
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skf14 · 3 years
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10311615
「Hang down your head, Tom Dooley,Hang down your head, and cry.」

「Hang down your head, Tom Dooley,Poor boy, you're bound to die.」
「...にーに、」
舌足らずに呼びかける、無垢な声で意識が引き戻された。
「にーに...」
少しだけ開いた扉の隙間から、太陽に透ける焦茶色の髪と、潤んだ目が覗いていた。兄妹揃って白いが、さらに青白くすら見える妹の肌が、ろくに食べていないガリガリの身体を引き立てているように見えて、俺はベッドに横たわったまま、妹を直視することが出来ずに視線を天井へと戻した。どこでなにを間違えたのか、そもそも、俺が、誰が間違えたのか、答えは神のみぞ知る、のだろうか。
「どした。」
「おじさん、もう、かえったよ、」
「そっか、ありがとう。ちょっと待っててな。すぐ、飯つくるから、」
「にーに、さくら、おへや入ってもいい...?」
「...、いい子だから、リビングで...」
その時、ふと視界の端に写った、ドアから覗いた桜の細い手に、妹のお気に入りの、キティちゃんのタオルが握られているのが見えた。まだ幼い、俺よりも6つも下の可愛い妹は、大人でも顔を顰めるような悪事をなにも言わずとも空気で察し、その上で最大限の配慮を持って来てくれたらしい。断れない。重たい身体を起こして、扉に背を向け床に散らばった服をモタモタと身につける。どうせ洗うのは俺だ。ぐちゃぐちゃに乱したシーツで身体を拭い、丸めて床に放る。部屋にはむわっとした栗の花の匂いが充満していて、こんな部屋に妹を招き入れなければいけない自分に反吐が出る。手を伸ばし、窓を開けると、外の温かな空気が流れ込んできて、少しは息が出来る気がした。
「いいよ、おいで。」
「にぃに、」
桜は薄暗い部屋の中、よたよたとベッドへ近付いて、タオルを持った左手を差し出した。微かに、震えている。俺の目線が、タオルではない箇所に注がれていることに気付いたんだろう、一瞬表情を曇らせた桜は俺から隠すように右腕を背中に回した。
「......さくら。右腕、見せて。」
「だいじょうぶ、なんにもない。」
「さくら。」
「.........ほんとに、だいじょぶなの、」
眉をぎゅっと寄せた桜のまんまるな目に膜が張って、じわりじわりと溢れていった涙が玉になって零れ落ちる。そっと腕を取り長袖のTシャツを捲ると、赤黒く熱を持った、丸い痕。桜は静かに、壊れた蛇口のようにただただ涙を溢していた。気味が悪い、年端もいかない子供が、こんな泣き方をさせられるなんて。
「誰が、やったの。にーにのお客さん?」
「ううん、ちがうの、おとうさん、さっき帰って来て、おさけ、飲んでて、さくら、おこられて、また、おとうさん出ていったの、」
「...分かった、気付かなくてごめん。おいで。」
桜を抱っこし、手に持っていた濡れタオルを自分の腕に当てさせて、俺は薄暗い部屋を後にした。
リビングにもうもうと立ち込める煙草の煙。まだ4歳の桜の肺は、とうに副流煙でもたらされたタールに侵されているんだろう。咳き込むことも無くなった。俺は冷凍庫にあった氷をビニール袋に包み、濡れタオルの上から当てて火傷痕を冷やすよう告げた。すん、と鼻を啜ってもう泣き止んだ桜は俺を見上げ、「ありがと、にーに。」と笑って、タオルに描かれたキティちゃんを見つめている。
リビングの箱には、父親が放り込んだぐちゃぐちゃのお札が数枚、入れられていた。今月の生活費、まだ16日もあるのに、もう、4千円程しかない。先程取った客の分、追加されるんだろうか。そうすれば少しは増えるのに。
痛みを感じることはやめた。通常、やめられないことではあったが、俺はやめた。桜の前ではせめて、お兄ちゃんをしていたかった。
もう時刻は夕方の4時を過ぎていた。朝から何も腹に入れていないであろう妹は、わがまま一つ言わず黙って客が帰るまで隠れていたらしい。
冷蔵庫を覗くと、粗末だが炒飯が作れそうなメンツが顔を揃えていた。具になりそうなものは、魚肉ソーセージと玉ねぎしかないが。キッチンの床に座り込む桜に、屈んで目線を合わせる。くるん、と俺を見上げる純粋な目。
「夕飯、炒飯でいいか?」
「さくら、にーにのちゃーはんすき。たべる!けど、チチチ、使う?」
「うん。向こうのお部屋で、待ってな。」
「うん。にーに、ありがとう。」
桜は、火が苦手だ。あの子の腕以外、背中や脚、服で隠れるところに、いくつも煙草の押し付けられた痕があった。熱いもの、赤い火、大きくても小さくても火を見るたびに、桜は怯え、静かに泣く。コンロのことがまだ覚えられないらしく、「チチチ」と呼んで、使う度に怖がっていた。
具材を準備しながら、フライパンを握る俺の手がカタカタと微かに震えていた。...馬鹿馬鹿しい。桜が心配していたのは、自分じゃなく、俺だ。
俺は、火が怖い。料理の度に喉元を掻きむしりたくなる衝動を抑えて、早く終われと、そればかり願っている。脳裏から離れないのは、あの日、煌々と燃え盛る、自分の家だった火の塊。
確か幼稚園の卒園を間近に控えていた日、突如として、俺の家は燃えた。呆然と立ち尽��す俺の横で、無表情の男、俺の父親は、消し炭になっていく家と、そして母親を見ていた。父親の手の中には己の大切にしていた時計のコレクションと、貯金通帳があった。母は2階で寝ていてそのまま火に巻かれ、翌日ようやく鎮火した家の中で炭になった姿を掘り起こされた。
俺の目には、あの言葉にし難い恐怖を与えた火が、焼き付いていた。美しい、強いなんて到底思えない、ただただ畏怖する存在。
流しに捨てられていた吸殻を捨て、食事の支度をしながら考える。
子供は親を選べない。
学校に行かせず、客を取らせ、気に入らないことがあれば手を出す。程よく金を与え、自由を与え、力で支配し気力を奪う。その上、他人からはそうは見えないよう、極めて常識人のように振る舞い、見える場所には決して痕をつけなかった。人を飼い殺すことに関しては類稀な才能がある、と、他人事のようにあの男を評価して、虚しくなってやめた。
家が燃えてすぐの頃、ボロアパートに引っ越した俺の前に、新しい身重の女が連れて来られた。髪の長い、幸薄そうな女は程なくして子供を出産し、そして子供を置いて、姿を消した。
帰った男の片腕に抱かれた赤ん坊を見たとき、ひどく不釣り合いだと思わず笑ってしまい、腹を立てた男に殴られたことを鮮明に覚えていた。
父は、その赤ん坊に名前をつけるのが面倒だと、俺に命名するよう言った。じんじんと熱を持つ頬を押さえ、さっさと決めろと怒鳴られた俺の視界に、ふと、窓の外の景色が映った。隣の雑居ビルだとか猥雑な看板だとかが見えるその中に、ひらり、現れた影。俺は窓を開け、外に立っていた大きな桜の木を見つけた。ばさり、ゆらり、風に吹かれて、彼は、彼女は、頭を揺らして花弁を振りまいて、呼吸が聞こえてくるような錯覚を覚えた。恐怖と、感動と、僅かばかりの哀しみと、俺は初めて見たわけでもない桜に怯え、同時に魅了された。気づいた時には口から「桜」と零していた。男は大して興味がなさそうに窓を閉め、俺に桜を渡して、また部屋を出て行った。
あの男は、桜が"女"になったらいい商品になる、と思って、捨てずに置いている、と言っていた。妥当だろう。あの男が思いつきそうなことだ。俺が、16になれば。働き口も見つかる。あの男からも逃げられる。それまで辛抱すれば、桜に、この世界がもっと美しくて、広いことを、教えられる。
「This time tomorrow,Reckon where I'll be.」

「Down in some lonesome valley,Hanging from a white oak tree.」
俺は買い物やらゴミ出しやらがあって、男の監視下で外に出ていたが、一度だけ、桜を連れて、男の許可なしに外へ連れて行ったことがある。茹だるような暑さが少しだけ鳴りを潜め、喧しい蝉が死滅しつつあった、夏の終わりだ。そう、俺の、15歳最後の日、桜が9歳の時だった。仕事で遅くまで帰らない、と言い残した父親、あっさり一発だけ抜いた後、内緒だと言って千円札を握らせた上客。俺は客が帰った後、また物置で眠っていた桜を揺り起こした。
「桜、どこか行きたいところないか?」
「うーん...あ、海行きたい。お兄ちゃんの持ってた、本に載ってたから。」
俺は桜を自転車の後ろに乗せ、くしゃくしゃの千円札をポケットに突っ込み、海を目指した。桜のポシェットの中には、俺の愛読書、三島由紀夫の「潮騒」が入っていた。生まれた記録がどこにもない子供だ。桜が学校に行かない代わりに、俺の見える世界の全てを、桜に教えた。日本語の危うさと淡い色彩を、桜の美しさを、海の青さを、全てを。桜は賢い子で、俺の言葉をスポンジのように吸収して、キラキラと目を輝かせ、あれこれ質問した。
「お兄ちゃん、空が広い!」
「あぁ。しっかり捕まってな。」
「気持ちいいね、お兄ちゃん!海、もうすぐ?」
「もうすぐだよ。」
自転車は残暑の蒸し暑い風を爽やかに変えながら、空気を切って下り坂を降りていく。俺の腰にしがみつく、太陽を知らない青白い細い腕。その日桜は、生まれて初めて、外に出た。
浜辺には人が見当た��なかった。もう彼岸が近いから、わざわざ海に近づくことなど誰もしないんだろう。桜はゴミの散らばる都会の砂浜に歓喜の声をあげ、ぼろぼろの靴を脱ぎ散らかし、砂浜を走り回っていた。
「お兄ちゃん!早く早く!」
「怪我するなよ、桜。」
どこかで拾った麦わら帽子を被った桜が、太陽の下でくるくると踊っている。自転車を止めた俺は遠目でその姿を見ながら、浜辺をうろうろと彷徨き、一つ、綺麗なシーグラスを見つけた。真っ青で丸みを帯びた、ただのガラスのかけら。退屈そうにワイドショーを見ていた海の家の親父に札を渡し、ブルーハワイのかき氷を1つ買った。
「桜、おいで。」
足の指の隙間に入った砂を気にしながら戻って来た桜に、青に染まったそのかき氷を見せると、元々大きい目をさらに大きく丸くして、俺の隣に座り、それをマジマジと見つめていた。思わず笑って、その小さな手に、発泡スチロールの容器を持たせてやる。
「食べていいの?」
「早く食べなきゃ溶けるぞ。」
「わっ、いただきます!!ん〜〜〜冷たい!甘くて、美味しい!」
「そか。よかった。」
サクサク、シャクシャク、夏の擬音語が聞こえる。首元を流れる汗も鬱陶しい蝉の鳴き声も、今日だけは何も気にならなかった。
「これ、やるよ。」
「何、これ。ガラス?」
「シーグラスっていって、波に揉まれて角が取れたガラス。綺麗だろ?」
「それなら、私も一つ拾ったの。見て、綺麗でしょ?交換しよう、お兄ちゃん。」
「うん。」
桜の拾った半透明のシーグラスを受け取り、いつか、このガラスでアクセサリーでも作ってやろう、と、ポケットへそれを捻じ込んだ。照りつける太陽が頭皮をじりじりと焼く。かき氷を食べ終えた桜と俺は、ただ黙って目の前に広がる青黒い海を見ていた。
「お兄ちゃん、私がどうして海がすきか、知ってる?」
「潮騒、気に入ったからじゃないのか。」
「それもあるけど、私、青色がすきなの。」
「青?」
「そう。海の青、空の青、どこかの大きな宝石、学校の大きなプール、一面の氷、色んな青がある、って、お兄ちゃんが教えてくれた。」
「...そうだな。」
「お兄ちゃん、私、お兄ちゃんがいたら、大丈夫な気がするの。」
「あぁ、大丈夫だ。桜は、俺が守る。」
「さすがお兄ちゃん。」
「...たまにはにーに、って呼んでもいいんだぞ。」
「バカ。もう私、大きくなったもん。ねぇ、お兄ちゃん。世界って、広いね。」
桜の横顔は、とても狭い世界に閉じ込められ続けたとは思えない、卑屈さも諦めも浮かばない、晴々とした表情だった。
「あ、お兄ちゃん、見て!」
ふと、太平洋に沈もうとする太陽の方を指差して、桜が笑顔を浮かべた。
「空が、私と、お兄ちゃんの色になってる。」
指差した空には淡く美しい桜色と、そして、寂しさを湛えた葵色が、広がっていた。
桜は、俺が世界を教えた、というが、終わりだと思った世界から俺を助け出してくれたのは、桜だ。眩しくて、夕陽をありのまま映し出す瞳が、言葉にならない。ごめん、と、ありがとう、と、愛してる、と、色々が混ざり合って、せめてみっともなく嗚咽を漏らさないように、となけなしの見栄で唇を噛み締める。
「お兄ちゃん、そろそろ、戻ろう?」
「......あぁ。もうすぐ、全部終わるからな。」
「うん。お兄ちゃん、だいすきだよ。」
その夜、いやに上機嫌な父親が帰宅して、持ち帰った土産の寿司を3人で食べた。ビールを飲み、テレビを見て大笑いする父親は、俺にも桜にも珍しく手を出さなかった。風呂に入った桜が、日焼けした。と顔を押さえてぶすくれていたのが可愛らしかった。
「お兄ちゃん、眠いの?」
「ん...あぁ、先、寝てな。」
「今日、ありがとね。私、お兄ちゃんの妹で、良かった。忘れないよ。」
俺は気が緩んでいたんだろうか、飯の後ベッドに戻る前に力尽き、床に横たわったまま眠りについた。
痛みと、嫌に焦げ臭い匂いで目が覚めた。眠った時のまま、床の上で目覚めた俺を蹴飛ばした男が、舌打ちをこぼす。
「起きろ。あと1時間で客が来る。」
「...はい。桜は、」
「消えた。逃げたんだろ、俺が起きた時にはいなかった。」
「消えた、って、そんなはずは、」
「...あぁ、そうだ、今日の客は上客だがちょっと特殊でなぁ。歯ァ食い縛れ。」
「え、」
言葉を挟む間もなく、男の手に握られたビール瓶で頭を殴打され、先程まで寝ていた床に逆戻りする。俺に馬乗りになった男が指輪を嵌めた手を握りしめ、笑う。
「傷モンを手込めにしたい、と。声出すなよ。」
意識の朦朧とする中で、俺に跨った客がもたもたと腰を振り、快楽を得ていた。頭も、腕も、どこもかしこも痛む。左肩の関節は外された。でっぷり太った身体が俺を押し潰して、垂れる汗や涎が身体に掛かる。豚の鳴き声に似た声を上げた客が、俺の顔に精液をかけ、満足そうな顔をしてにちゃり、唇を舐めた。
半日近く拘束され、太陽は沈みかけていた。軋む身体を起こした俺は体液を拭う時間すら惜しかった。桜を、探さなければ。男にどこかに連れて行かれたのかもしれない、本当に嫌気がさして、どこかで一人彷徨っているかもしれない。「明日は誕生日のお祝いするから、晩御飯、お兄ちゃんは何もしないでね!」と海で笑っていた桜を思い出し、俺はスニーカーを履いて外へ出た。
そして足の向かった先を見て、俺は、諦めにも似た絶望を感じていた。漂っていた違和感を拾うことを、人間は辞められないのだろうか。
男の所有する山の一角が、黒く焼け焦げていた。男が、都合の悪いものを燃やしたり捨てたりする場所だと、ゴミ捨てをさせられる俺は知っていた。何もない更地に、灰が少し残っており、土だけが真っ黒に変わっていた。安心した俺の目にきらりと光るものが映る。吐き気を堪えながら灰の中から拾ったそれは、昨日海で見つけた、真っ青なシーグラスだった。
自宅に戻ると、まだ男は帰っていなかった。俺はふらふらと、桜がよくこもっていた物置に入った。心がズタズタに、ぐちゃぐちゃに引き裂かれて、言葉が何も紡げない。手の中には、シーグラスが二つ、淡い色が肩を並べて寄り添っていた。
物置に入ってすぐ、玄関の方から乱暴な足音と、話し声が聞こえてきた。男が、電話で誰かと話しているらしかった。
『.........って、仕方ねぇだろ。』
『なかなか生理も来ねえから、俺が折角女にしてやろうと思ったのに、抵抗しやがって。挙げ句の果てに、「お兄ちゃんに酷いことしないって約束して、」なんて、生意気なこと言いやがる。元々そのお兄ちゃんも、お前をダシにして仕事させてたのによ。ハハハ。あのメスガキ、俺をアイスピックで脅しやがったんだ。笑えるだろ?』
『はっ、大変じゃねえよ。二人殺るのも三人殺るのも、同じだっつーの。あー、暫くは葵に稼がせるしかねぇな、だから女は嫌いなんだよ、バカだから。』
俺はその夜、男を殺した。
丁度10歳の女の子を攫って燃やした時、炎に包まれ、ギギギと軋みながら仰反る死体を見ながら、桜も、こんな風に燃えたのだろうか、と思った。お気に入りのポシェットも、キティちゃんのタオルも、桜色のTシャツも、こんな風に、無惨に炭と化したのだろうか。
「This time tomorrow,Reckon where I'll be,」
「Had't na been for Grayson,I'd have been in Tennessee.」
今日の子は、16歳。あの日の俺と同じ歳の、女の子だった。燃えて独特の匂いを振り撒く子供を見つめながら、俺はその火で子供の身分証やら手袋やらを燃やし、これで32人、桜の友達を向こうに作ってあげられたことに気が付いた。知らぬ間に、火が怖く無くなっていた。学校を知らない桜はよく、「一年生になったら」を歌っていた。もう、通常ならとうに1年生になっている年齢だったのに。舌足らずで甘い、キャラメルのような声が今も脳裏に蘇る。にいに、お兄ちゃん、そう呼ぶ声は、何度だって再生出来る。
「妹はこんなこと、望んでない?」
桜の望みは、変わらず俺と、生きたい。それだけだった。もう望みは叶わない。望むことすら出来ない状況で、何を否定出来る?
「不毛だって?」
あの日、冷蔵庫の中には、俺の好きなオムライスの具材が入っていた。あの男に頼んだのか、隠していたお小遣いで買ったのか、分からない。が、普通に手に入れたわけではないはずだった。火の苦手な桜が、オムライスを作ろうとしてくれていた。それに応えられなかった。今更不毛などと、考えること自体が不毛だ。
「あと、67人。」
一年生になったら、一年生になったら、友達100人出来るかな。
「桜、最後は、お兄ちゃんがいくからな。」
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skf14 · 3 years
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10280135-3
夢を、見ていた。
ああ、これ、夢だ。とすぐに気付いたのは、目の前の土間にうつ伏せで横たわる男の子が、まごうことなき自分自身の姿だったからだ。男の子、もとい自分は、薄暗い土間の冷たい土がひんやりと顔や腹を覚ましてくれる感覚が気持ちよく、ただ、ほてる身体を持て余し重力に逆らうことも出来ず、意識がぐらぐらと揺れる中で倒れていた。そう、恐らく風邪を引いていたんだろう。怠い身体を横たえる布団なんて、あてがわれていなかった。懐いた野犬が近寄ってきて、顔を舐める。くすぐったさにゆるり、と目を開けて、そしてまた閉じて。後ろで見守るだけの俺は声も何も届かないのに、早く起きろ、そこから逃げろ、と念じていた。
「邪魔やボケ!」
怒鳴り声と共に土間へ入ってきた男が俺の頭を蹴り上げて、そして、胸ぐらを掴んで立たせる。父親の後ろに立つ母はタバコをふかしながら、冷めた目で俺を見た後、「具合、悪いんちゃうの。」と何の興味もない声で言った。
「何ヘラヘラしてんねん。お前。」
「ごめんなさい、わらっていません、」
「テメェの顔見るだけで腹立つんじゃ。来いオラァ!」
来い、と髪を掴まれても、歩く気力はない。もつれる足を引きずりながら、連れられた先にあったのは、物置と化したプレハブ小屋。真夏によく使われる躾部屋だった。この日は、どうやって出たんだったか、記憶にない。が、俺は、二人が満足するまで、ここに入って、生きなければいけない。死んだら負けだ。それだけはずっと思って、真っ暗な熱い入れ物に入っていた、それだけは覚えていた。
「前の旦那にそっくりな顔、何回見ても腹立つわ。アンタ。早よどっかいけ。死ね。」
「お前には勿体無いくらいの家やなぁ。嬉しいやろ。なぁ。嬉しいやろが!」
「はい、おおきに、うれしいです、」
「ハハ。ほな入っとけや。」
放り投げられ、扉が閉まる。むわり、とまとわりつく殺人的な熱気と錆の鉄臭い匂い。プレハブはかなり古く劣化していて、夜のうちに降った雨が漏れて床に水溜りを作っていた。床に投げつけられた姿のまま顔を近づけ、真っ暗な中鼻先を床に擦り付けて水を探す。触れた水分を必死に舐めとって、磨耗していく心を、ただ俺は守って、それから、あれ、なんで守ってたんだっけ。
「...、.........、」
どこからか声が、聞こえる。怒鳴り声でも嘲笑う声でもない、穏やかな、春の海のような、声。
「起きて。ねぇ。」
ハッ、と目を覚ます。見えたのは、自宅の天井。太陽光で明るい、見慣れた部屋。あぁ、夢、覚めたのか、と安堵して、ドクドクと煩い心臓の音と、背中に張り付いたであろうシャツの濡れた感触と、あれ、シャツ...じゃない?肌に当たる感触は柔らかく、普段身につけているワイシャツじゃない。パジャマを着ている。なぜだ。そもそも、あの声は、父でも母でもなく、あれは。
「おはよう。大丈夫?うなされてた。」
目を開けたまま混乱する俺に優しい声がかけられる。重たい頭を動かして声のする方を見て見れば、ベッドの脇に、心配そうな顔をしてしゃがみ込んでいた大切な恋人がいた。あぁ、そうだ、あの包み込むような声は、彼の、柔らかな声。
「う......今、何時、」
「夕方の4時。はい、ポカリ飲んで。」
「え、ま、へ?何、なんで、おんの、」
「ほら。」
混乱する自分の口に容赦なくストローをぶっ刺したポカリを突っ込み飲ませた彼は、汗だくな様子を見て眉を下げ、「着替えた方がいいね。」と笑った。鈍くはない方だと自負している頭を回転させ、今に至るまでの行動を思い出す。少々熱っぽかったが休めるはずも無く普段通り仕事へ行って、駆け回ったせいか昼前には限界が来て、先輩に全てを託して帰宅し、スーツのままベッドに倒れ込んで、寝た。はずだ。買い物をする気力もなく、ただただ重たい身体を引きずって。
「ベッドに上半身だけ乗せて倒れ込んでたの見た時、殺人現場かと思ったよ。ドラマじゃないんだから、家の中で行き倒れるのやめてよね。」
「なんで自分、ここおんの、」
「そもそも、鍵もかけずにぶっ倒れてたんだよ?全く。何があるかわからないんだから、俺、何かあったらすぐ呼んでって言ってたよね?」
「す、すまん...せやかて自分、大学もあるしやな、風邪くらいでわざわざ帰ってきて、なんて、そんな甘えたこと...」
「それ以上喋ったら、えーっと、ケツの穴から手突っ込んで奥歯ガタガタいわすよ。」
「それ、俺の決めセリフ...とらんといて、」
手ぇ上げて、なんて今時強盗も言わないセリフで腕を上げさせられ、体温計を挟まれた。冷たいタオルで顔の汗を拭いてくれる手が気持ちいい。年上なのに、大人なのに、しっかりしないと、なんて思考がどんどん溶けていって、器用に動き回る手を捕まえ、ヒヤリとした掌に頬を押しつけて目を閉じる。気持ちいい。火照った体を覚ますために、もう、土間に転がらなくてもいいんだと、まだ夢に引きずられている思考が今更安堵する。
「...んー、38.2か、高いね、しんどいでしょ。食欲ないだろうけど、ご飯食べて薬飲んで、夜になっても熱下がらなかったら、病院行こうか。」
「病院、いくん。そんなん、勿体ない、」
「そんな酷いこと言う人、もうどこにもいないよ。大丈夫。」
夢の内容なんて何も言っていないのに。溶けた思考じゃ、今自分がどんな顔をしているのか、何を口走っているのかも朦朧としていて、上手く繕えない。彼の真っ直ぐな目線から逃れるように目を逸らせば、部屋の隅には放り投げられた彼の鞄が放置されていて、そうか、几帳面な彼が慌てて自分を看病しようとあれこれ、してくれたのか。心配をかけてしまったのか。
戸惑いから反省に至った様子を何も言わずとも察した彼はもちもちと俺の頬を揉んだ後、彼に向き直った俺と目線を合わせ、笑った。
「ふふ。ほーら、何食べたい?何でも作るよ、好きなの。」
「普段は、野菜食えとか、甘いのん控えろとか、言うやん、」
「今日は特別。頑張り屋さんの甘えん坊デーなの。」
「うどん、食べたい。かつおのお出汁の、」
「うん、好きだもんね。やらかいの。透き通った、関西のお出汁ね。あとは?果物、桃好きでしょ。食べる?」
「桃缶、給食の、フルーツポンチに、入っとって、すきやった、」
「おっけ。アイスは?食べる?」
「ひとくちだけ、ほしい。バニラ。」
「ダッツのバニラね。分かった。着替えあるけど、1人で着られる?」
「まだ、介護される歳、ちゃうし。」
「はいはい。何かあったら何でもいいから、すぐ鳴らして。分かったね。」
「...おん、」
枕元にスマートフォンと、そして替えのパジャマを置いて部屋を出て行った後ろ姿をぼんやりと見送り、何とか体を起こしてノロノロと汗ばんだパジャマを脱ぎ捨てた。スマホの画面には数件の通知。どれも仕事に関連した業務連絡だった。
ここ最近、たしかに立て込んではいた。仕事もそうだが、夢見がとにかく悪かった。熟睡出来ないまま酷使した体じゃ、免疫も働けなかったんだろう。簡単に風邪菌に負けてしまった挙句、彼に負担を。考えただけで情けなくて、頭痛が悪化しそうだ。しんどい、と思い始めるとしんどくなる。
無性に口寂しくなって、引き出しに収めておいた相棒を取り出して、くらりくらりと揺れる視界の中で咥えたそれに火を付けた瞬間、扉が空いた。
「あー!このチェーンスモーカー。やると思った。没収!」
思いっきり顔を顰めた彼が火を付けたばかりのタバコを奪い、いつの間にか積もっていたはずのシケモクが片付けられた灰皿に押しつけた。手に収めていた残りも奪われ、なんだか面白くなってへらりと笑うと、彼はさも怒ってます、といった表情で俺の口へ懐から取り出したものを突っ込んだ。
「ぅぐっ...何、こぇ、」
「飴。もう時代は平成なんだよ?スパスパふかしてないで、風邪引いた時くらい大人しく寝ててなさい。」
「それ、おじさんには、刺さるわぁ...」
与えられた棒付きキャンディを大人しく舐めて、部屋に一瞬漂った相棒の残り香を追い求める俺の視線は、彼で止まったまま動かない。彼は何も言わず、体育座りで俺を見上げたまま、ただにこりと口を弧にして見つめ返している。暇じゃないんだろうか。
「なぁ、なんで、帰ってきたん。今日、5限まで、あったんとちゃうの、」
「今日、お弁当持ってくの忘れてたでしょ。どうせなら届けようと思って昼休みに職場行ったら、ふらっふらで帰った、って上司の人が呆れてたよ。」
「上司、」
「そう。なんか、ダンディなオールバックの紳士。」
「あぁ...吉沢さん、か、」
「仕事はこっちで片付けるから復活するまで来るな、ってさ。」
「自分、よう、追い払われんかったな、」
「お前があのバカに可愛がられてる青二才か、って。貴方が宣伝してくれるおかげで、どうやら認知されてたみたいです。」
「...不本意や、」
「ほら、寝て。」
舐め終わったキャンディの棒がからん、とゴミ箱へ消えて、有無を言わせない彼が無言の圧力をかけてくるもんだから、俺はスマホもタバコも何もかも封じられただ布団に身を任せるしかなくなった。ぱたり、と寝転がると彼は俺のそばに寄って、確かめるように俺の手を握っていた。暑くないんだろうか。汗もかいているのに。いつもはそれなりに動く頭も今日は役に立たない。は、は、と吐く息は熱い。彼は、出ていく気配を見せない。夕方の柔らかい色調の光の中、時間の感覚が曖昧になって。現実と夢の狭間がぼやけていく。
いいのだろうか、こうして、手を伸ばしてしまっても。
「なぁ、」
「ん?」
「うどん、やっぱり、後でええ、」
「うん。いるよ、ここに。」
「ええの、」
「いさせて。いたい。」
「...おれ、しあわせのな、キャパが、狭いねん、」
「うん。」
愛情に満ちた母親が赤子のまだ不安定な頭をそっと撫でるような、そんな声で相槌を打つ彼の輪郭が、ゆらゆらと揺らいでいく。
「せやから、こんな、いっぱいもらったら、こぼして、まうから、」
「うん。」
「もったいない、なぁって、いつも、思う、」
「俺がいつもそれ、掬って保管してるの、知ってた?」
「...?すくう、ほかん?」
「そう。だから、何も無駄になってないよ。だって俺の幸せのキャパ、すげぇ広いからね。」
「こんな、幸せ、俺には、もったいないなぁ、」
「俺は貴方にもらってほしいよ。今までも、これからも。沢山の幸せを、少しずつ。」
「......寝るまで、おって、」
「うん。分かった。」
自然に閉じた瞼の上から、そっと触れる柔らかい感触はきっと、おまじないにも似た愛だったんだろう。俺は保っていた意識をそっと手放して、深い海へと、沈んでいく。
いつもなら5分も間を空けずに折り返してくるはずの奴から何のレスポンスも無いことに少々顔を顰めつつ、もしかしたら気付いていない可能性もあるのかもしれない、と、私は履歴の一番上の番号を押し直し、無機質なコール音を聞き流しながら、明日の仕事のスケジュールを半数していた。7コール、次で切ろう、と思い立ち指を赤いボタンに置こうとした瞬間、ブツッ、と機械音の後、声が響いた。
『もしもし、こんばんは。』
「......誰?」
私からかけておいて何を、と一瞬混乱しかけたが、たしかに電話口に出た男は、私の見知らぬ男の声。まさか番号を間違えたか、と画面を見返しても、表示された名前はまごうことなき男の名前。
『すみません。電話の持ち主が今対応出来ないので、代わりに出ました。』
「あ、あぁ、すみません、こちらこそ。てっきり間違えてしまったのかと。手が離せないなら、また後で折り返します。」
『...失礼ですが、塚本澪、さんでお間違い無いですか。』
いきなり呼ばれた名前にギョッとしてすぐ、ああ、名前で登録していたのか。律儀な男だ。と謎の関心をしてしまった。何年経っても、男の粗雑でズボラなイメージが抜けない。
「えぇ。そうです。それが、何か?」
『いえ...その、今も、彼と定期的に連絡をとっているんですか?』
「えぇ、まぁ。色々と事情がありまして。」
『なら、伝えておいた方がいいですね。彼はつい先程......』
取り乱してはいないがそれなりに混乱した彼が、病室の前でベンチに座っていた男性に頭を下げ、そわそわと落ち着かない様子でドアと男性を交互に見て、「あの、その...」と言い淀む。男性はふっ、と笑って、「薬が効いて眠っているので、お静かに。」と扉を開けてくれた。融通が効くタイプもいるのか、と半ば感心し、中に入るかどうか一瞬逡巡している私に、「少し話しませんか。」と言った彼はソファーに座るよう促し、すぐそばの自販機で私の好きなココアを選び、手渡した。
「まだあの青二歳の面倒見てたのか、アイツ。」
「あの、」
「好きでしょう、ココア。」
「...ありがとうございます。どうして、それを。」
「あぁ、自己紹介がまだでしたね。私は警視庁刑事部捜査一課、警部の吉沢、と申します。今病室で眠っている彼、貴女が連絡を取っていた、鴻神の上司に当たります。」
「吉沢、さん。私を、ご存知なんですか。」
「えぇ。と言っても、きっと貴女は覚えていないと思います。心当たりはありませんか。」
警察の人間と私を結び付けるものなんて、一つしかない。あの忌々しい、やっと最近犯人に死刑判決が降りた、塚本一家放火殺人事件、なんて大層な名前をつけられた、事件。手の中のココアに手をつけないわけにもいかない。プルタブを押し上げて、甘ったるいそれを口に流し込む。話題が話題だからだろうか、あまり美味しくは感じなかった。
「まだ幼かった君から話を聞いた刑事連中の中に、私もいたんです。だから、鴻神の携帯に貴女の名前が表示された時、驚きました。」
「そうでしょうね。何も関係のない警察官と私が、私用の携帯で連絡を...」
「何も、関係がない、というのは。何か認識違いがあるように思えますが。」
「はい?」
「...彼から、何も聞いていないのですか。」
「話が、読めないんですが。」
「無関係も何も、あの放火事件の犯人を逮捕したのは、鴻神ですよ。」
「えっ。」
まさか、そんなはずはない。
脳裏に過ったのはあの日、初めて出会った、鴻神から感じた言い知れぬ不気味さと不快感。黒いシャボン玉に囲まれて、何も感情の読み取れない糸目に、へらへらと笑い、軽口を叩く、男。篠宮をアゴで使い、公然とサボり、...あれ?
あの日、鴻神は、真夏にスーツを着ていたのに、まるで汗をかいていなかった。そして、偶然持っていた名刺で所属まで丁寧に自己紹介し、私が帰る時に共に帰り、説明していない自宅まで見送った。
あまりにも怪しい、と思うのは必然だった。必然すぎたのだ。まるで、小さな箇所に目を向けさせないために、大きな隙を作ったように。
飴を、ストローを噛み締める癖。ボロボロのぬいぐるみ。どこか懐かしい香りに、過去を軽視する言葉をこぼした時の、鴻神の顔。どこに嘘があって、どこに真実があった?
「すみません、その、鴻神さんの所属は、捜査二課だと、聞いていたのですが。」
「はは。それは本人から聞いたんですか?」
「えぇ。でも、吉沢さんの部下、ということは、そんな...でも、確かに、調べた時...」
吉沢警部は私の困惑した独り言を聞いて、ピンときたらしい。刑事の勘、なのだろうか。
「......探偵か何か、雇いました?」
「...えぇ。警察官相手に、不躾だとは思いましたが、諸般の事情で。事件の後、ちょうど親切にしていただいた弁護士の方が紹介してくださったんです。」
「あぁ、それ、○○探偵事務所でしょう。」
どくり、と心臓が波打って嫌な痛みが胸に走る。全て、誰かの掌で踊っていたような、そんな強烈な不快感に脂汗が滲み出る。
「どう、して、それを。」
「世界はどこかで繋がっているんですよ。」
コーヒーを飲み終わった吉沢警部は自販機横のゴミ箱へ缶を捨て、座ったまま固まった私の前に立ち、凛とした顔で話した後、頭を下げた。
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skf14 · 3 years
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10280135-4
「鴻神と貴女たちの関係は私の知るところではありませんが、少なくとも彼は、事件発生から貴女を気にかけ、事件解決に奔走していた、と言うことだけは、分かっていただけると幸いです。」
「あの、吉沢さん。」
護衛の警察官に声をかけ、去ろうとする吉沢警部を呼び止めた私は、一つだけ、引っ掛かっていた事を質問した。
「篠宮、今病室に入っていった彼を、最初にお知りになったのは、いつですか。」
「そうですね、私の記憶が正しければ、あれはもう、10年以上前、12年ほど前じゃなかったかな。」
「ありがとうございます。」
去って行った男、吉沢に、「鴻神が犯人確保の際に刺されて、今治療中だ。」と言われた時、真っ先に思い出したのは、最後、鴻神から篠宮へ電話をさせた時のことだった。
鴻神は私に、「万が一自分が怪我したと知っても、篠宮には知らせるな。絶対病院に来させるな。」と釘を刺した。理由を聞いてもはぐらかすばかりで、心底嫌な奴だと、その時は嫌悪感しか抱いていなかった。実際鴻神は無茶をするタイプではなかったし、サヨナラを告げてから定期的に伝えていた彼についての連絡は滞りなく、事務的なやり取りだけで終わっていた。鴻神が黙っていた可能性も否定できないが。
私は結局、篠宮に連絡した。なぜか。問われると、明確な答えはない。ただ、知らせるべきだと、思った。それについて鴻神に怒られたところで別に、何の支障もない。
当然、血相を変えた彼は仕事帰りの私を拾ってから病院に直行した。出会ってからそれなりの年月が経ったが、彼の取り乱す姿を初めて見た。
「2年ぶり、か。」
鴻神は、18歳の私を覚えているだろうか。24歳になった私を見て、どう思うんだろう。扉の向こうは沈黙を貫いていて、何も分からない。私はそっとドアに手をかけ、扉を開いた。
「こ、鴻神、さん、」
彼女からの知らせに、頭が真っ白になった。僕と彼の間に死、と言う言葉が浮かんで、むしろ警察官でありながら、今までその匂いを感じさせずに来たことの方が凄いのかもしれない、と他人事のように思う。
ベッドで横たわる彼に声を掛けても、勿論反応はない。目を閉じ、静かに眠るその頭には包帯が巻かれており、彼1人が眠る病室にはぷん、と薬の匂いと、そして微かな血の匂いがする。
口元に手を翳せば、微かに空気が動くのを感じて安堵した。当然か。当然なんだろうが、安心する。
もう、何年顔を見ていなかっただろう。連絡すらもろくに取れないまま、彼は一体どこで、何を。僕はそばに置いてあった椅子に腰掛け、彼のいつもに増して白くなった顔をそっと撫で、そして、力なく投げ出されていた手を握った。
「鴻神さん、」
その瞬間、ザ、ザ、と、どこかからノイズが聞こえた気がして、顔を顰めた。何だ、今の感覚は。すん、と無意識に鼻を鳴らして何かの香りを探す。漂っていたのは、ほんの微かな、これは、甘苦い、特徴的な何かの匂い。僕はこの香りを、どこかで確かに、知っている。のに、思い出せない。どこだ。朧げすぎて、面影を追うことすら出来ない。
「この、匂い、どこかで...」
ベッドサイドの白熱電球が照らす部屋で、手を握り、無事を祈る姿を、僕は、どこかで、確かに、見た。
『燎、』
ノイズの向こう側で、僕を呼ぶのは、誰だ。分からない。ベッドに預けた頭に、暖かな、何かの感触がする。抗えない眠気に��われるようにして、そっと、落ちる瞼。
ナイフが腹に刺さる瞬間がスローモーションのように見えた時、後ろ手に庇って抱きしめた子供にせめて何も見えないよう、スーツの前を掻き抱いて犯人の首に蹴りを入れた。肉体派ではないものの、我ながら良い動きをした、と思う。気を失いぶっ倒れた犯人を見下ろし、女の子の手を引いて婦警へ引き継ぎ、女の子が俺に手を振って、そして、姿が見えなくなった瞬間、意識がブラックアウトした。
左手が暖かい何かに包まれていた。だからこそ見せた、幸せな夢だったんだろうか。ゆるり、と開いた目に映った世界は、薄暗く、味気のない世界だ。腹が重い。何故。軋む身体を極力動かさないよう首だけを曲げると、ここにいるはずのない男が、俺の手を握り、微睡んでいる。これも、夢なのだろうか。
「......この、匂い、」
ぼそぼそと呟く声に、嫌な予感がじわじわと正解になっていく予感がして、俺は昔なかなか眠らない彼を寝かしつけていた時のように名を呼び、頭を撫でた。頼む。起きてくれるな。
「.........燎、」
ぎゅっ、と手を握り直した彼、篠宮が穏やかな寝息を立てはじめ、俺は状況把握と、考え得る最悪の展開を想定した。あぁ、ついていない。よりによって今日の相棒は、吉沢だ。こういう時の勘は、嫌というほど当たってしまう。
あまりに静かで、心配になった私はそっと扉を開き、部屋の中へと歩み寄った。酷く血生臭い。ベッドの脇、彼が布団に突っ伏すように頭を下げている。安心して、寝てしまったのだろうか。
肝心の鴻神は、と顔を覗き込む。と、瞼をゆっくり開いて、私の目を覗き込み、そして、空っぽの真っ黒な目に、じわじわと生気が満ちていく。ああ、この男、随分と乾いている。
周りに漂っていた黒いシャボン玉も随分と数が増えて、何か違和感が、と、私は漸く気付いた。部屋に漂うむせ返るほどの血の匂いが現実の血液じゃなく、鴻神を縛り付けるように巻き付いていた有刺鉄線が食い込み、身体中から流れ続けている、私にだけ見える深紅によるものだと。湧き上がるこの感情の名前は何なのだろう、嫌悪でも、憎悪でも、恐怖でもない。
「あ、なた...」
「...俺、言うたよな。来さすな、て。」
「......」
「......ちょっと、上着、内ポケット、取ってくれへんか。」
不思議と、篠宮を起こそう、とは思わなかった。きっと目覚めて軽口を叩き合う事を誰よりも待ち望んでいたのは篠宮だったはずなのに、どうしてだろう。眠る篠宮を避けるようにぼこりぼこりと現れては破れる黒いシャボン玉にも、不思議とあの頃のような怒りが、湧かなかった。
傍の椅子に折り畳まれて掛けられていた鴻神のスーツは随分と彼の血を浴びたらしい。腹側の黒い裏地が一段とどす黒く染まっていた。持ち上げた時に香ったのは、あの日鴻神が吸っていた、独特な煙草のフレーバー。内ポケットを探ると、小さな、ガラスの何かが指先に触れた。取り出すと、それは掌に収まるほど小さな、長方形の小瓶だった。装飾も何もないシンプルな鈍色の液体が容器の7割ほどを満たしていた。
なんて、哀しい色。私は、未だかつて彼の周りに、彩度の高い色を見つけられていない。
「...これ、?」
「おん、」
怪我人に対して強く当たるほど、私はもう子供じゃない。小瓶の蓋を外して自由な左手にそっと置いてやれば、彼はそれをしゅっ、と、篠宮に降り注ぐように何度か放って、そして、私に目配せした。私は少しだけそれを眺めた後、鴻神から瓶を受け取り元あった場所に戻した。数秒経ってふわりと香ったのは、私の目に映った色は。一言で表すなら。喪失感。
「...これ、貴方の香水?どうして突然、振り撒いたの。」
「タバコ臭いの、好かんやろ。」
「嘘ついても、バレるの忘れた?」
目の前の男が耄碌したのか弱っているのか、判別は出来なかった。ただ吐き出される真っ黒になりきれていないマダラ模様のシャボン玉を見ると無性に喉を掻きむしりたくなるような焦燥感に駆られてしまうから、私は目を伏せ、すやすやと眠る篠宮を見下ろした。
「久しぶりね。」
「せやな。」
「もう、あれから2年経ったわ。...少しは、大人になったかしら。私も、貴方も。」
「なぁ、もう、帰ってもろてええかな。」
抑揚のない声。天井をただ見つめる、真っ黒な瞳。鴻神の感情は読めない。ナハハ、と耳障りなほど明るく笑う鴻神は、彼を守る鎧だったのかもしれない。6年前の私は彼を、見ていたのだろうか。どこまで、見ていたのだろうか。
「...分かったわ。ただ、無事だってことくらいちゃんと自分の口で伝えて。」
「ん、分かった。」
「...篠宮さん、篠宮さん。起きて。」
「ん......あれ、僕、寝ちゃって、た、?」
肩をゆすると流石に気付いたのか、寝ぼけ眼を擦りながら顔を起こした篠宮を見て、"鴻神さん"はへらり、と笑い、繋がったままの手を挙げて、ゆらゆらと揺らした。
「篠宮ァ。」
「こっ、こ、鴻神さん!!目、覚ましたの!?」
「覚ましたも、何もお前、刺されたとこ、枕にされとったら、誰でも起きるやん。」
「えっ!?ご、ごめんなさい...痛む?大丈夫?」
「かすり傷やから、明日には、もう退院や。」
「そうなの?本当?」
「...えぇ。さっき鴻神さんの上司の方が来られて、そう言ってたわ。」
「よかったぁ......」
平然と出てきた嘘に素直に騙された篠宮に、罪悪感が少しだけ湧き出てすぐに消えた。嘘が全て悪い、なんて、子供の考えだ。鴻神は繋がった手をさりげなく離し、私と篠宮を見て、糸目を細めて笑う。
「おおきにな、二人とも。」
「ん?鴻神さん、...あ、僕の香水、まだ使ってくれてたんだ。嬉しい。無くなったらまた作るから、教えてね。」
「ほら、帰りましょう。篠宮さん。」
「え、あ、うん。鴻神さん、ちゃんとご飯食べてね、無理しちゃダメだよ、」
「オカンか。はいよ、気ぃつけて、帰りや。」
「...お大事に。」
そして私は翌日、また鴻神の元へと出向いた。会社へは有給を出した。当日の朝に言い出すなんて、と小言を言われたが、知人が入院した。といえば流石に人の心があるのか、気にせず休め、と嫌々言った上司に口ばかりの感謝を述べた。
病室の前、見張りの警察官に止められ、吉沢の名前を出したら、簡単な身体検査をされた後あっさり通された。恐らくあの警部の計らいが何かしらあったんだろう。警察官、つくづく敵に回したくない相手だ。昔はあれほど無能だと、嫌っていたのに。
ベッドを少し起こして、寝そべった鴻神は静かに外を眺めていた。呼び掛けるとくるり振り向いて、彼が動くたび香る、錆びた鉄の匂い。
「鴻神さん。」
「......ナハハ、自分、暇やなぁ。」
「別に私は来るな、って言われてないわ。そうよね。」
「可愛子ちゃんが厳ついオカンになってもうたなぁ。」
病院の下のコンビニで買ってきた大量のロリポップを袋ごとがさりと雑に机へと置いて、私は昨日篠宮が座っていた椅子へと座った。昨日と変わらず白い顔に、昔と変わらないへらへらと軽い笑顔を貼り付けた鴻神は寝たまま袋の中から飴をいくつか取り出し、葡萄味のそれを私に手渡した。自身はイチゴミルク味を選んだらしい。部屋に甘ったるい乳の香りが漂う。
「本当は煙草にしようとしたんだけど、貴方の吸っていた銘柄探しても、コンビニに無かったわ。私詳しくないから、分からなくて。」
「あぁ。ポールモールなぁ、もう日本やと、廃盤やねん。飴ちゃん好きやし、嬉しいよ。」
「知ってるわ。あの時も、私に渡したのは葡萄味だった。」
「そーやったかなぁ。」
さすがにバリバリ噛み砕いて食べるのは無理なのだろう、静かにそれを舐める姿に違和感を感じて少し笑えば、鴻神は驚いた表情で私を見た後、ふいっと目を背けて窓の外へと顔を向けた。
「...どこから話せば、貴方は話してくれるのかしら。」
「そもそも自分、男と二人っきりで会うてええの。」
「...そう、貴方、いつも私の名前を呼ばなかったわ。私も一度も名乗ってない。」
「そうやったっけ。」
「昨日、貴方の携帯に電話したら、吉沢警部が出たの。私驚いたわ。『塚本澪さんですか、』なんて、いきなり言われるんだもの。」
鴻神は分かっていたのだろう、恐ろしく察しのいい男だ。表情を変えることもなく飴に歯を立て、カツカツと鳴らしながらぼそり、悪態を吐いた。
「...あのポンコツ爺、」
「...どうして、教えてくれなかったの。」
「誰が捕まえても、犯人がどうなっても、あの頃の自分には、気休めにもならんかったやろ。」
「...それは、そうだけど。」
「そんな中で、歩み寄ったところで、ただの自己満足や。」
言っても無駄だと、軽くはぐらかされるたび、適当に返されるたび、思っていた。それが積もり積もった上での決別だった。でも、彼は、もしかしたら誰よりも、至極単純な何かが、欲しかったのかもしれない。一回り上の大人が、こんなにも遠い。
「篠宮さんが遭った事故、新聞の写真には、確かに彼が"乗っていた"大破した車が映ってた。事故があったことも、彼の記憶が消えたことも、嘘じゃない。」
「何を今更、」
「彼は、"事故現場に偶然居合わせた鴻神さんが助けてくれた"って言ってたわ。」
「......」
「その事故は、車3台が絡む大きな事故だった。記事によれば、その3台は、崖下に落ちた大型車、ガードレールに突っ込んで運転席が潰れた軽、そして大破した普通車。写真に映った大破した普通車から溢れた、煙草の吸い殻が道路に散らばってたの。」
「誰かが吸うてたんちゃうの。」
「名前は伏せられていたけど、軽にはクリスチャンの夫婦と女の子が乗ってた、と書いてあったわ。そして、普通車には、男性が二人。」
「.........」
「事故を担当した警察官を探して、話を聞いたわ。捜査情報だからってほとんど教えてもらえなかったけど、でも、一つだけ、教えてもらったの。散らばってた煙草が、ポールモールだって。」
そして昨日の吉沢の発言が、私の中で燻っていた疑惑を、確信へと変えた。それに、何よりも、彼と過ごしてきた時間が、答えだった。悔しいけれど、でも。
「篠宮さんは優しいわ。どんな時も他人の心を慮ることの出来る、優しい人よ。だからこそ、私に応えよう、としてくれた。それは分かってた。嘘はなかったし、彼だって、ちゃんと私を見て、私を大切にしてくれてた。」
「そんなら、なんで、今更...」
「彼はずっと、何かを探してた。私にも見えない、彼にも分からない、でも確かに、私を通して何かを探してた。上手く言えない、けど、今なら分かる。」
「やめよう、なぁ。この話、もうええやんか、」
「...忘れられた側だけが、辛いと思ってる?鴻神さん。」
人の核心を突くのは、あまり得意じゃない。と、その時私は初めて身に染みて思った。人を壊しかねない、と、恐怖すら覚えた。鴻神は私の言葉を聞いた瞬間飴をガリッ、と噛み締めて、そして、窓に向けていた視線を私へと向けた。その目は、迷子の子供のようにふらふらと戸惑い揺れる不安定を表していて、無作法に手を伸ばしたことを少しばかり、後悔すらさせた。あの掴みどころのない、いつでも平静を保っていた男が、こんなにも簡単に揺れるのか。私が開いたのは迷宮からの出口なのか、もしくは、パンドラの箱だったのか、分からない。が、後者だとすれば、一欠片の希望が残っていて欲しい、と、無責任にも祈ってしまった。
鴻神の手は腹に掛かった布団を痛いほど強く掴んでいて、指の先は白くなっている。その気持ちは、私には計り知れない。そうやって、私も、そして彼の周りの人々も、彼を、一人にしてきたのだろうか。そっと、何の意図も込めずに手を重ねた。彼は俯き、混ざらない異なる温度の共存する手を見下ろしていた。
「私は、篠宮さんのおかげで、大切な記憶を取り戻すことが出来た。報いたい、恩を返したい。そう思ってきた。記憶がないまま、思い出せないまま過ごす苦しさは、きっと同じじゃないけど、少しは、分かる。」
「...やめてくれ、」
「もう十分すぎるほど、彼は、私を救ってくれた。真っ暗だった世界に、一筋だけでも光をくれた。彼も、貴方も、私にとって英雄だった。だから...」
「もういい!...もう、いいんだ。このままで、君と燎が、幸せであれば俺は、」
ぱん、と小気味良い音が響いた、と認識したのは、すでに手が動いてからのことだった。昼下がりの明るい病室に、重たい沈黙が広がる。じんじんと脈動する己の右掌が、痛い。手も、心も、痛い。その痛みは私自身のものではなく、目の前の彼の痛みだと、そう思えた。
「もう、黒いシャボン玉吐くの、やめてよ。本当は、気付いてるんでしょ。鴻神さん。ねぇ。私、自力で沢山調べたの。篠宮さんの大学に、時々迎えにきていた男の人がいたことも、篠宮さんが、憧れてる人がいる、って警察官を目指していたことも、事故に遭った普通車の中に、ペアの指輪があったことも、全部、知ってるの、」
「......よう、調べたなぁ、警察向いてんちゃう?」
この期に及んで茶化そうとするその薄っぺらい顔が無性に腹が立つ。諦めこそが最善だと信じてやまないその姿はむしろ、宗教に近いとすら思う。私は目の前の男を真っ直ぐ見つめ、まとまらない言葉をそのまま吐き出す。
「私は人に見えないものが見える分、人が察するべき言葉の裏の意味とか、表情を曇らせた理由とか、そういうものが見えてなかった。だから、篠宮さんと出会って、貴方と出会ってから、見続けた。」
「......」
「ねぇ、鴻神さん。きっと貴方は、自分ごと忘れてしまった篠宮さんを、もう一度幸せにしよう、って、思ったんでしょ。だから真実を隠して、空白の期間に目を伏せて、やり直させたの?」
「...そんな、大層なもんとちゃうよ、ただの、エゴや。」
「そうね。...消えた4年分の記憶の中の篠宮さんは、ずっと、貴方を探してる。扉に外から鍵がかけられたことなんて知らずに、ずっと、日の目が当たる日を待って出口を探してるはずよ。だって...貴方が会いたいように、きっと、篠宮さんも、貴方に会いたいって、思ってる。」
上手く言葉が出てこない自分がもどかしく、それでも、私は口を止めてはいけないと、ただ、心から溢れ出るそのままを話し続けた。鴻神は俯いたまま、その表情は見えない。
「貴方が過去を捨てる、ってことは、篠宮さんの過去も同じように捨てる、ってことになるんじゃないの。篠宮さんを、捨てないで。」
「......何が、正解なんか、自分でもよう、分からんくてなぁ。でも、正しい道に、誘うことが最善やと、そう考えて、色々してたんやけど、俺、格好悪いなぁ。全部バレてもうた。なはは、」
ぽた、ぽた、と布団にシミが落ちて模様が生まれる。裏腹にどこか肩の荷が降りたようなその声に、私はなんだか泣きそうになって、確かに私は篠宮さんが好きで、恩を返したい、とずっと思っていたけど、幸せになってほしい、と、目の前の男がエゴだと自嘲したその願いを、同じように抱いていた。篠宮の、漠然とした何かを追い求める焦燥感を、鴻神の、ぱちんぱちんと弾けては砂のようにサラサラと消えていく黒いシャボン玉を、全部抱きしめたくなる。
「...それに、篠宮さん、昨日帰ってからずっと、色んな銘柄の煙草買い込んで、店に篭りっきりよ。どうしてだと思う?」
「.........はぁ...」
「病院に来させるな、っていうのは、事故の時と同じ状況になって、記憶が戻るのを避けたかったからでしょ。貴方も案外間抜けね。」
「皆まで言わんといてくれ、人払いする前に、意識飛んだんや。」
「靄のかかった幸せなんて、誰も望んでない。全て見た後に自分で選ぶ道を、幸せって呼ぶんだって、私は母に教わったわ。」
鞄から小箱を取り出して鴻神の手に乗せると、鴻神はすん、と柄にもなく鼻をすすって、その箱を不思議そうに眺めたあと、何も言わない私に察して蓋を開け、そして、いつもの嘘臭い笑顔じゃない、綻ぶような笑みを見せた。
あの日、ビルの上から降ってきた、Rのイニシャルを刻んだネックレス。裏に小さく刻まれた、「r to r」の文字。あの時の私が今ここにいたとしても、私の選択を、正しいと言うだろう。
「彼が先に見つけるか、貴方がその傷治して押しかけるか、どっちが先かしらね。」
「......ありがとう、澪ちゃん。」
ふふん、と得意げに笑ったはずの声は出ないまま、鴻神の手が、私の頬をそっとなぞって、しっとり濡れたその感触に、あぁ、私、泣いてるのか。と気付く。悲しいのか。いや、違う。寂しいのか。それも違う。ただ、彼らが、あるべき形を取り戻すことが、嬉しいんだ。
「...こちらこそ。私の家族を殺した犯人を、捕まえてくれて、ありがとう。篠宮さんを、助けてくれてありがとう。私は大丈夫よ。未来がどうなったって、過去も今も全部抱きしめて、私として生きていける。」
それが、篠宮さんに貰った、私の宝物だから。あの薄紅の香水瓶は、結局中身を使い切って、満たされることのないまま家族の遺影の隣に並べて置かれている。
話している最中何度か鳴っていたスマートフォンの画面をチラリと確認すると、数十分前にSNSメッセージが連続で届いていた。
『澪ちゃん!ごめん!僕ちょっと、鴻神さんのところに行ってくる!』
『間に合うかな、もう退院してるかも、でも、会いに行かないといけないんだ。』
『もし、全部片付いたら、僕の話を聞いてくれないかな。』
『無くしてたものが、見つかったんだ。』
私はそっと画面を閉じ、目の前の、まっさらになった鴻神の肩を叩き、情けない顔を笑ってやった。
「ほら、しゃんとして。鴻神誄。めそめそしてるのは貴方らしくないわ。どんな過去が帰ってきたとしても目一杯抱き締めて、もう離しちゃダメよ。」
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