Tumgik
#オリッサ州
asiaphotostudio · 1 month
Text
Tumblr media
India, 1990 Puri, Odisha, India. インド オリッサ州 プリー Photography by Michitaka Kurata
203 notes · View notes
innervision-dai · 11 months
Video
youtube
BLACKSWAN 「Karma」 Official M/V
インド出身で最初の”K-POP”ガールズグループのメンバーになったSriyaさんをはじめ
現在、ブラジル、アメリカ、ベルギー出身のメンバーからなる韓国のガールズグループ、
BLACKSWANの2ndデジタルシングル曲。プロデュースは、ITZYやRed Velvetとかも
作曲のAlina Smithさんとか、作詞は韓国の元153/JoombasのTessieさんとかだって。
Videoは、メンバーのSriyaさんの出身地であるインド東部のオリッサ州、その州都・
ブバーネシュワルの旧市街で撮影されたらしいですよ。曲&Videoの、1:00まで好き!
Fatouさんのラップも良いと思う。グループは’20年のデビューから色々大変ぽいですが
曲とVideoからBLACKPINKみを全て抜いた作品を出して欲しいです!ガチ・ラップ曲や
あとM.I.A.さん的なクトゥ曲とか。もしくは、一人ブラックメタル(北欧系譜の)とか!
1 note · View note
sweetthingshome · 2 years
Photo
Tumblr media
HYDROPHILのプラスチックを一切使用していないサスティナブルなデンタルスティック、フロスピック、コットンスワッブをオンラインショップへアップしました♪ モウソウチクと呼ばれる竹由来の素材が使用されついて、見た目もナチュラルなのが◎ 【HYDROPHIL(ハイドロフィル)全ての製品に対して、Waterneutral(ウォーターニュートラル)/Vegan(ヴィーガン)/Fair(フェア)の3つのコンセプトを追求した、ドイツ生まれの衛生用品ブランド。 そのコンセプトはバスルームの全ての製品をサスティナブル(持続可能)にすること。 また、インドのオリッサ州にあるClimate Partner社による飲料水プロジェクトの支援にも取り組んでいます。 #hydrophil #ハイドロフィル #デンタルスティック #歯間ブラシ #コットンスワッブ #綿棒 #フロスピック #糸ようじ #デンタルケア #ビューティー #sustainable #シンプルライフ #ていねいな暮らし #natural #ナチュラル#eco #エコ #ecological #エコライフ #エシカルライフ #サスティナブル #sweetthings #宇部市 #山口県 https://www.instagram.com/p/Cec0h-oLO6w/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
yfukuoka · 2 years
Photo
Tumblr media
【3217目②】2021-11-07 控えめに言って…今、世界一カレー密度の高い、カレー沼に行ってきました。オートリクシャで行った僕も変人だと褒めてもらえました。 東京マサラ部屋@豊島区某所 ‪____________________________________ 駅までマサラ女子を運び、ネパール食材屋までマサラ男子を運ぶ。オートにはいつも一人で乗っているのですが、人を運ぶ仕事はこんなに楽しいものなのか。 さぁ、ドライブを楽しんだあとは、日没とともに、東京マサラ部室の深層部へ。 キッチンへ行くと、挨拶がわりに揚げたてvadaとidli fryが出てくる この館…やばい。。。 毎月テーマを変えて延々とカレーを作り続けるシェアハウス「東京マサラ部室」。今月は、マニアックなオディシャ(オリッサ)料理です。 *Kukuda Jholaチキンカレー *Alu Bhartaマッシュポテト *Lobia Guguniロビアググニ *Chattu Besaraキノコマスタード *Chenna Tarkariパニール団子のタルカリ *Tomato Kattaトマトカッタ *Santulaパンチフォロン野菜 *Dalma豆野菜煮込み *Sambar 豆と野菜のカレー 近年、マニアの中では人気のベンガル地域の南に位置するオリッサ州。オリッサ料理は初めて食べます。 全面アースカラーの地味な見た目ですが、個性的な料理がずらっと並ぶと豪華なターリー。 特に気に入ったのは、チャットゥべサラ。マスタードの風味と少し口に残る苦みに病みつき。 チェンナタルカリも手作りパニールで作ったトマトマサラ。とてもいい。 ククラジョルは、けっこうベルガルっぽいというかネパールにも通じるものがあります。 いやぁ、本当に貴重なごちそうごちそう。 食後には、我が家のカレー王子誕生を祝ってくれて、オディシャの焼きチーズケーキが登場。 *Chhena poda チェナーポダ うまーーー。これは自宅でも作ってみたい。 ありがとう。ありがとう! このヤバい館の主と出会ったのは、6年ほど前。その頃は、こんな狂人になってしまうとは夢にも思っていませんでした。落ちぶれた文豪のようなただならぬ空気感をまとい。カレーに操られながらカレーを作る男。人間として発酵がはじまっている。 今日、ヤバい奴らに会ったのでした。 僕も独り身だったら、ここで生活してみたい。。。住人募集しているそうなので、ご興味のある方は、ぜひまずは食べに行ってみてください。 ‪____________________________________ 🇮🇳 #india #indianfood #asia #asianfood #foodpic #foodstagram #tasty #delicious #spice #curry‪ ‬‪‪#‬インド #東京マサラ部室 #スパイス #カレー #カレースタグラム #カレー好きな人と繋がりたい ‪#‬フクドローン #ふくすたぐらむ #autorickshaw #オートリクシャー #オートリキシャ #大人の三輪車 #インド愛 #日本の中にインドがあった https://www.instagram.com/p/CWP9rugvQKu/?utm_medium=tumblr
8 notes · View notes
koubou-minakusi · 3 years
Photo
Tumblr media
Sieben作品説明③
Tumblr media
インドのアンティークガラスの香水ボトルをネックレスに仕立てました。ブルーグリーンのガラスに金塗装された美しい形の稀少なボトルです。 アンティークの粒々を鈴なりに垂らしたゴージャスで繊細な作品です。
Tumblr media
インドのヒマーチャル州の伝統技法のアンティーク装身具で、 神像を装飾する瓔珞(ようらく)だったものです。ターコイズ に双頭水晶、アンバーとMinakusiでも新しい組み合わせの作品 です。
Tumblr media
インドのアンティークの鎖帷子にモン族の純銀、インドの古鈴、ナガ族のアンティークパーツなどを飾り、Nepal魔除け実 のボクシカダやアフガニスタンのアンティークシルバービーズ、ミャンマーのアンティークカーネリアン、チベットの御守りの アンティークターコイズなど今では稀少なパーツやビーズを贅沢に使用した静かな強さのある作品です。
Tumblr media Tumblr media
年々入手困難な清朝の蓮花と芥子の花の織りなすトリムルティ図。永遠の美しさと幸福を表しています。黒いガラスはアカ族のアンティーク。古いものならではの滑らかなビーズ、カチン族のアンティークシルバー、カーネリアンなど使用。
Tumblr media
インド・オリッサ州には原始的な芸術文化を持つ民族がいます。 彼らの作る顔のパーツ、矢じりのようなものはタイ・ヤオ族のアンティークピアスなど小さな中に国境のない世界観を閉じ込め、 カチン族のPureSilverのアンティークビーズなどを配した���別な作品です。
2 notes · View notes
cuttercourier · 4 years
Text
[翻訳] コロナ禍と印中対立のなかのインド華人
中国系インド人の愛と憧憬
2020年7月25日 アスミター・バクシー
ガルワーン渓谷事件後の印中関係緊迫化、コロナウイルス・パンデミックによる反中感情の高まりとともに、インド系中国人コミュニティは集中砲火を受けている
3月17日、41歳のミュージシャン、フランシス・イー・レプチャは、急遽切り上げたプリー〔※オリッサ州の都市〕旅行からコルカタに戻る列車の中にいた。新型コロナウイルスは全国でその存在感を示しつつあり、ナレーンドラ・モーディー首相が厳重な全国ロックダウンを発表する日も近かった。レプチャが家族と一緒にまだプリーにいた間も、彼がチェックインしようとするとホテルの宿泊客は反対の声を上げ、路上では「コロナウイルス」と呼ばれ揶揄された。
フランシスは中国系インド人で、母方と父方の祖父は1930年代に他の多くの人と同様に日本の侵略から逃れてインドに来た。彼らはダージリンで大工として働き、地元のレプチャ族の女性と結婚した。のちに彼の両親はコルカタに移り住み、そこで彼は生まれ育った。
このミュージシャンは1980年代に幼少期を過ごし、ドゥールダルシャン〔※インド国営TV局〕で『ミッキー・マウス』や『チトラハール』を見たり、マドンナに憧れたり、クリフ・リチャードの「ダンシング・シューズ」に合わせて頭を振ったりと、これらを6歳で楽しんでいたわけだが、童歌「ジャック・アンド・ジル」に関係があるという理由が大半だった。彼は流暢なベンガル語と「荒削りなヒンディー語」を話し、そして、彼によれば「ほとんどお向かいのチャタルジー一家に育てられた」という。
列車がガタンゴトンと進むなか、冷房寝台車の他の乗客たちは、彼には自分たちが何を言っているのかわからないと思い込んで、「中国人」について疑いの声を上げはじめた。フランシスはすぐさま口を挟んだ。「私は流暢なベンガル語で、自分がコルカタ出身で、中国に行ったことはなく、彼らに感染させることはないと説明した」のだという。「彼らの顔を見せてあげたかった」。
コルカタに戻ると、フランシスはプリントTシャツを注文した。彼はコルカタ・メトロのセントラル駅の真上に住んでいるのだが、それが明るい否定のメッセージとなり、かつ人種差別に対して有効なツールとなるだろうと考えた。フランシスのさっぱりとした白いTシャツの上の端正なベンガル語のレタリングには「私はコロナウイルスじゃない。コルカタ生まれで中国には行ったこともない」とある。
6月15日、国土の反対側では、俳優兼歌手のメイヤン・チャンが、過去13年にわたって本拠地と思ってきた都市ムンバイで、夕食をともにするために友人宅を訪れていた。彼らはテレビのニュースを見ていたが、その放送は特に憂慮すべきものだった。2つの核保有国が数十年間争ってきた境界である実効支配線に沿ったラダックのガルワーン渓谷でインド兵20人が中国軍に殺害されたのだ。
「衝突の後、ダウン・トゥ・アース誌のインタビューに答えた時、私の最初の反応は怒りでした。『どうして私が自分の愛国心を証明しないといけないのか。どうして私がインドを愛し、中国を憎んでいると言わなければならないのか』。私はその国のことを知りもしません。中国というレンズを通して自分が引き継いでいるものは理解していますが、それだけです。私にはインド以外の故郷はありません」と彼は言う。しかし、彼の経験上、怒りは何の役にも立たない。「その代わりに、私は異文化交流の美しさについて話しました。それはインド全土に存在するものです。私たちの外見だけを理由に自分たちの仲間ではないと考える人々には驚かされます」。
チャンもまた中国系である。彼はジャールカンド州ダンバードに生まれ、ウッタラーカンド州で学校教育を受けた。彼の父親は歯科医で、チャンもベンガルールで歯学の学位を取得している。彼は自分の家系を詳細に遡ることはできていないが、先祖が湖北省の出身であることはわかっており、そこは1月以来、ニュースを席捲している。新型コロナウイルスが最初に報告された武漢とは、同省の首都である。
37歳の彼は、主流エンタテインメント産業で名声を得たおそらく唯一の中国系インド人コミュニティ出身者である。2007年にTV番組『インディアン・アイドル』の第3シーズンで5位になり、2011年にはダンス・リアリティ番組『ジャラク・ディクラー・ジャー』で優勝し、さまざまなTV番組やクリケットのインディアン・プレミアリーグなどのスポーツイベントの司会を務め、『バドマーシュ・カンパニー』『探偵ビョームケーシュ・バクシー!』『スルターン』『バーラト』という4本の大作ヒンディー語映画に出演してきた。
しかし、この数ヶ月の間、彼もまたCOVID-19についての世間の興奮と、そして目下の印中対決についてのそれを感じている。パンデミックのせいで人々が人種差別的発言を黙認しているため、彼はオンラインや路上で野次られてきた。実効支配線での印中対峙後は、これに無言の圧力、あるいは彼が言うところの飽くなき 「愛国欲」が続いた。「医療、経済、そしてある程度の人道的危機の最中に国境での小競り合いや恐ろしい話が出てきて、どう考えていいのかわからなかった」と彼は言う。
中国系インド人3世として、チャンとフランシスは共通点が多いように見える。二人ともインドで生まれ、家系は中国に遡り、家業を継ぐという中国的伝統から逸脱し、ディーワーリー、イード、クリスマス、旧正月をまぜこぜに祝って育ち、フランシスが的確にもこの国の「微小マイノリティ」と呼ぶものに属している。
この二人はまた、パンデミックが世界中で反中国の波を引き起こし、米国のドナルド・トランプ大統領が新型コロナウイルスを繰り返し「中国ウイルス」と表現している時にあって、中国系インド人が味わっている苦難を象徴している。インドでは中国との国境問題が状況をさらに悪化させている。怒りの高まりにより、政府は59の中国製アプリを禁止し、大臣たちは中華食品やレストラン(大半はインド人によって経営されている)のボイコットを求め、中国の習近平国家主席の肖像が燃やされ、COVID-19と紛争は危険なまでに一体視された。
この敵意の副作用はチャンやフランシスのような市民や北東部インド人が被ることになり、路上で暴言を吐かれたり、家から追い出されたりした。デリー在住の中国系ジャーナリスト、リウ・チュエン・チェン(27歳)は、地元のスーパーで人種差別的な悪罵を浴びせられた。「私の母はいつもならウイルスから身を守るためにマスクをするように電話で言ってきたはずですが、国境紛争の後は顔を隠すためにマスクをするよう言われました」と彼女は言う。
���中関係が緊迫するなか、世代を越えて広がりつづけているトラウマである1962年の中印戦争の記憶が前面に出てきた。では、こんな時代にあって中国系インド人であることは何を意味するのだろうか。
中国人の到来
インドにおける中国系インド人コミュニティの起源は、1778年に海路でインドに上陸した商人、トン・アチュー〔塘園伯公〕、またの名を楊大釗に遡る。伝承によれば、アチューは当時のイギリス総督ウォーレン・ヘイスティングスより、日の出から日没まで馬に乗るよう、そしてその間に彼が通過した土地は彼のものになると言われたと、あるいは(より公式なヴァージョンでは)彼のホストとなったイギリス人に茶を一箱プレゼントしたおかげで土地を与えられたとされている。
フーグリー川沿いにあったアチューの土地は、現在はアチプルとして知られている。彼を讃えて記念碑が建てられ、中国系インド人の巡礼地となっている。アチューの後を追って何千人もの中国系移民が続いた。彼らの上陸港はコルカタであり、長年にわたっていろいろな職業の多様な集団が植民地インドの当時の首都にやってきた。
「1901年の国勢調査はカルカッタに1640 人の中国人がいたと記録している。中国人移民の数は20世紀最初の40年間、特に内戦と日本の中国侵略のために増加しつづけた」と、デバルチャナ・ビスワスは2017年8月に『国際科学研究機構人文社会科学雑誌』に掲載された論文「コルカタの中国人コミュニティ:社会地理学によるケーススタディ」1の中で書いている。
ダナ・ロイの祖父母も、日本による侵略の時期にインドにやってきた。コルカタの学校で演劇を教えている36歳の彼女は、『亡命』と題した作劇のプロジェクトに取り組んでいるときに、母方の中国人家系を辿った。「中国の家庭は一夫多妻制だったので、私の祖父は三度結婚しました。そのうち一人は中国で亡くなり、二人目は第二次世界大戦中に日本の侵略から4人の子供を連れて逃れました」と彼女は説明する。彼らの家は、広東省の小さな村唯一の二階建ての建物で、日本軍はそれを司令部としたのだという。
ロイの祖父は、その頃には既にインドで輸出入業を営んでおり、インドにはヒンディー語と広東語の両方を話す中国系の妻がいた。彼の職業柄、家族を船で渡らせるのは容易だった。「叔父の一人には眩暈症があり、大きな音を怖がっていたのですが、(道々)聞いたところでは、村から逃げる際に日本の戦闘機に追われたからだとのことでした」と彼女は言う。
長い間、彼らは均質的集団として見られてきたが、インドに来た中国人は実際には相異なるコミュニティの出身だった。その中でも最大のものは客家人で、まず皮なめしに、最終的には靴作りに従事した。彼らはコルカタのタングラ地区に住み着いた(市内に2つあるチャイナタウンのうちの1つであり、もう1つはティレッタ・バザール)。このコミュニティは他のいくつかのグループのように一つの技術に特化してはいなかったが、ヒンドゥー教のカースト制度が皮革を扱う仕事をダリトのコミュニティに委ねていて、客家人にはそのような階層的制約がなかったため、彼らはコルカタで皮なめし工場の経営に成功することができた。
チャンが属する湖北人コミュニティは歯医者と紙花の製造に従事していた。「ラージ・カプールやスニール・ダット主演の古いヒンディー語映画に出てくる花は全部私たちが作りました。俳優がピアノを弾き、メフフィル〔舞台〕の上に花々が吊り下がっていたなら、それは全部我が家の女たちが作った物です」とコルカタ湖北同郷会会長、65歳のマオ・チー・ウェイは言う。
広東人は大半が大工で、造船所や鉄道に雇われたり、茶を入れる木製コンテナづくりに雇われたりしていた。1838年、イギリス当局はアッサムの茶園で働かせるため、多くが広東人の職工や茶栽培農夫からなる中国人熟練・非熟練労働者を導入している。
1949年に毛沢東率いる共産党が政権を握ると、中国への帰国は問題外であることが明らかになった。そのため、女性たちはインド在住の家族と合流しはじめ、すぐに東部諸州の中国人居住区にはヘアサロンやレストラン、ドライクリーニング店などが点在するようになった。
寺院が建てられ、コルカタのタングラとティレッタ・バザール、アッサム州のティンスキアには中国人学校ができた。賭博場や中国語新聞、同郷会館などもでき、春節や中秋節を祝うほか、中国の儀礼に従って結婚式や葬儀を行うようになった。
「彼らがコルカタに定住し始めた18世紀後半から、1960年代初めまで、中国人移民は、とりわけ同じ方言グループでの内婚や、文化実践、独特の教育システム、住居の排他的なあり方を通じて『中国人アイデンティティ』を維持することに成功した」と、張幸は彼の論文「中国系インド人とは誰か?:コルカタ、四会、トロント在住中国系インド人の文化的アイデンティティ調査」の中で述べている2。
このコミュニティと祝い事の時代は、1962年の印中紛争で突然終わった。戦前には5万人と推定されていた中国系インド人の人口は約5,000人にまで減少した。彼らの多くはその後、海外に移住した。
融合する文化
「アイデンティティとは、単に『私は中国人か、それともベンガル人か』というよりも複雑なものです」とロイは言う。「アイデンティティを主張したり断言したりする必要性を本当に感じるのは、それが奪われつつあると感じたときだけです。アイデンティティについて聞かれたとき、特にこのような時世には、『他のインドのパスポート保持者はこんなことを聞かれるだろうか』と疑問に思うのです」。
ロイは中国系移民と地元民との不可避的な混ざり合いの象徴である。彼の母親は中国系で、ベンガル人と結婚しており、一家はタングラやティレッタ・バザールから離れたコルカタ南部に住んでいる。ロイがこれらの地区を訪れるのは、たいてい中国式ソーセージを買うためか、たまに友人と中華の朝食を食べたりするためだ。
今日の中国系インド人は、中国的伝統が失われていく一方、国籍と文化遺産の間の摩擦が増えていくという二重の現実に直面している。例えば、かつてコルカタのチャイナタウンで行われていた旧正月の祝賀会は、ほとんどがプライベートなものになっている。チャンはただ友人を家に招待することが多い。ロイは親戚とご馳走で盛大に祝ったり、「みんなが忙しければ」ただオレンジを食べて祝ったりしている。
若い世代が広東語や北京語ではなくヒンディー語や英語を学びながら成長し、儒教のような中国の伝統的な宗教的習慣から遠ざかるにつれ、彼らのアイデンティティの中国的側面はますます衰えつつある。以前はそのアイデンティティの別称として機能していたタングラも、今や混合文化に道を譲った。また、環境問題により1996年には皮なめし工場が閉鎖された。
それでもフランシスのように、自分たちの文化を守るためにできることをしている人もいる。彼は友人と毎年の旧正月にはコルカタで龍の踊りを披露する。「私たちは衣装と太鼓を身につけ、旧チャイナタウン、新チャイナタウンその他、コミュニティが散在しているコルカタの各地で4日間にわたって上演するのです」とのことだ。彼らは彼が子供の頃に喜んで受け取っていた赤い封筒入りのお金を配る。
しかし、帰属と受容という、より大きな問題は残ったままである。チャンによれば、自身がエンタテインメント産業に加わっていることと「ヒンディー語とウルドゥー語に堪能」であること(彼はボリウッド作品を観て育ち、父親はマフディー・ハサンのガザル歌謡が大好きだった)は、人々が常に彼を「インド人」として受け入れてきたことを意味する。彼のファンは年齢層やエスニック・グループを跨いで存在する――『インディアン・アイドル』に参加していたときには中国人コミュニティが彼を支持し、より若いファンは彼が「K-POPスターやアニメ・キャラクターを彷彿とさせる」ゆえに彼を愛している。しかし、ソーシャルメディアで意見を表明することは、特に最近では危険であり、時に大騒ぎになる。
「CAA(修正市民権法)のような問題については、間接的に言及して自分の意見を伝えるようにしています。これは大事なことだからです」、彼は言う。ガルワーン渓谷での衝突の後、陸軍大尉を名乗る匿名アカウントが、彼のYouTube動画の一つにコメントして、国家に忠誠を誓い、インド人兵士への支持を公に表明するよう彼に求めた。「私はそれを大したことではないと思い、〔陸軍大尉という〕彼の名乗りに引っかけて『敵との戦いに集中してください、あなたの仲間の国民とではなく』と言いました」。
ジャーナリストのリウ・チュエン・チェンは、アイデンティティとインド政治の両方についての自身の率直な物言いは、コミュニティ内では異例であり、しばしばオンラインやオフラインで嫌がらせの標的になることにつながっていると述べる。「一度、エアインディアの飛行機に乗るとき、係員たちが私に有権者証ではなくパスポートを見せろと言い張ったことがありました。彼らは私がインド出身でないと信じていたからです」、彼女は言う。「私はパスポートを取ってすらいなかったのに」。
年長世代の政治との関わり方はやや異なっている。彼らは今でも中国政治を追いかけてはいるが、距離を置いている。「調査中、国民党シンパと共産党シンパの間にあるコミュニティ内の分断を感じました」とジャーナリストのディリープ・ディースーザは言う。彼は1962年の印中戦争の歴史を、当時強制収容されていたジョイ・マーの口頭の語りとともに記録した『ザ・デオリワーラーズ』3の共著者である。
「しかし、それだけです。彼らは台湾とPRC(中華人民共和国)の対立を私と同じように見ています。そこに親戚はいるかもしれませんが、台湾市民になりたいとか、PRCに忠誠を誓いたいというようなものではありません」。
このような関わりの多くは目に見えない。このコミュニティに共通する話として、彼らは頭を低くして注目されずにいることを好む。これは1962年に中国系コミュニティと関係者が強制収容された結果という部分が大きい。
消えない恐怖
1962年の戦争後、中国軍が国境東部のNEFA〔北東辺境管区〕、国境西部のアクサイチンに進出したとき、インド世論は怒りと疑念に満ちていた。インド人は当時のジャワーハルラール・ネルー首相の保証に憤慨し、中国に裏切られたと感じていた。今回もまた、この敵意の矛先はインドの中国系コミュニティに向けられていた。
作家クワイユン・リー氏が学位論文『デーウリー収容所:1962~1966年の中国系インド人オーラル・ヒストリー』4で書いているように、「国民的な熱狂に駆り立てられ、主流派インド人は中国人住民を追放し、時に暴力を振るい、また、彼らの家や事業を攻撃したり破壊したりした」。
リーは付け加える。インド当局は「毛沢東支持に傾いた中国語学校や新聞、中国系団体を閉鎖した。蒋介石(台湾)を支持する学校、クラブ、新聞は活動を許された。これらの学校やクラブは、マハートマー・ガーンディーの肖像とインド国旗を孫逸仙〔の肖像〕と十二芒星の〔ママ〕国民党旗の横に加えた」。
これらの状況は、当局に「敵国出身者」を逮捕する権限を与えるインド国防法が1962年に成立し、1946年外国人法と外国人(制限区域)令の改正が行われたことと相まって、ラージャスターン州のデーウリー収容所で中国系インド人を抑留するための「法的なイチジクの葉〔方便〕」になった、とディースーザは言う。
3000人近くの中国国民または中国系の親族をもつインド国民がスパイ容疑で逮捕され、最長で5年間拘束された。
「ガルワーン渓谷の小競り合いが起こったとき、私はそれについて思いもしませんでした。祖母が最初にそれを口にしました。『もし雲行きが悪くなったら、私たちは逮捕されるかもしれない』」、チャンは言う。「たとえ私達も同じことを考えていようがいまいが、そんなことは起こらないと彼女を説得するのが私のおじと私の役目でした」。
フランシスは1962年に当時10代前半だった母親がダージリンの祖母を訪ねており、二人とも収容されたという思い出話を語る。イン・マーシュも同様であり、1962年11月に13歳でダージリンのチャウラスタ地区から父、祖母、8歳の弟と一緒に収容所に連行された5。
マーシュのように、このコミュニティの多数の人がインドを離れカナダ、米国、オーストラリアに向かった。しかし、歴代の政府がこの歴史の一章を認めたり、謝罪したりしていないことを考えると、圧倒的なトラウマと裏切られたという感情は今日に至るまで残っている。
中国系インド人はなおも傷を癒やす途上にある。アッ���ム州の同コミュニティ出身の48歳の女性(匿名希望)は、ガルワーン渓谷事件の後、89歳の父方のおばから電話を受けた。彼女はまたも強制収容されるのではないかと心配していた。「私はそれを笑い飛ばし、心配させまいとしました。私はね、もしまたそんなことになったら、皆一緒に行ってダルバートを食べましょうって言ったんです」と彼女は言う。
大昔の法改正はまた、1950年以前にインドに来た、あるいはインドで生まれた中国人移民のほとんどは決してインド市民権を与えられないということを確実にした。例えば、彼女のおばは今や87年間インドに住んでいる。「彼女は今でも毎年外国人登録事務所に行って滞在許可証の更新をしなければいけません。ここは彼女が知っている唯一の故郷ですが、法的には決して帰属することはなく、常に部外者のままです」と彼女は言う。
以上のような要因が、生まれた国への忠誠心を公にするようインドのこのコミュニティをせっついている。例えば、ガルワーン渓谷の衝突の後、コルカタでは中国系インド人が「我々はインド軍を支持する」と書かれた横断幕を掲げてデモ行進をした。
「人々には中国共産党(CCP)が中国系インド人のことを大して気にかけていないことに気づいてほしい。彼らはおそらく我々が存在していることすら知らない。もし私が完全ボリウッド風でやりたいと思ったら、『マェーンネー・イス・デーシュ・カー・ナマク・カーヤー・ハェー〔※私はこの国の塩を食べてきた、の意〕』と言う〔=愛国心を歌い上げる〕ところまでやります」とフランシスは言う。「私の優先順位は単純です。私はインド市民であり、インド憲法に従って暮らしており、私の支持は常にこの国にあります」。
印中間の緊張がすぐには緩和されそうにないなか、アイデンティティと帰属意識の問題が頻繁に前景化されるかもしれない。チャンの不安もまた、このような思慮をめぐるものだ。「エンタテインメント産業の誰もが仕事はいつ再開できるのかと心配していたとき、敵のような見た目の顔をしているから自分には誰も仕事をやりたくないのではないかなどと、余計な不安を私が感じていたのはどうしてでしょうか」と彼は問いかける。
http://www.iosrjournals.org/iosr-jhss/papers/Vol.%2022%20Issue8/Version-15/J2208154854.pdf ↩︎
張幸(北京大学外国語学院南亜学系副教授)は女性。引用論文は2015年刊行の論集に掲載されたもの。これを補訂したと思われる2017年の雑誌論文あり。 ↩︎
http://panmacmillan.co.in/bookdetail/9789389109382/The-Deoliwallahs/3305/37 デオリワーラー(デーウリーワーラー)はデーウリー収容所帰りの意。 ↩︎
1950年カルカッタに生まれ、強制収容は免れたが1970年代にカナダに移民した著者が、トロント在住の客家人元収容者4人の聞き取りをもとに2011年にトロント大学オンタリオ教育研究所に提出した修士論文。 ↩︎
元デーウリー収容者で、収容経験を述べた『ネルーと同じ獄中で』(初版2012年、シカゴ大学出版会より2016年再刊)の著者。 ↩︎
2 notes · View notes
nina-ga-world-blog · 5 years
Photo
Tumblr media
過去旅日記。南インドのチェンナイ(マドラス)だったかと思う。 割と評判のいいレストラン。 憧れの《バナナの葉っぱで食べる南インドのカレー!!》 しかし……あまりの蒸し暑さ(宿からオモテに出て徒歩三分で汗だく&空気が熱風でしかも湿度がMAX)で食欲がちっともわかず。 正直、味も覚えていない。 (写真を今見るとけっこううまそうなのに…ニガウリカレーかな?) 量も殆ど食べれなかった。。。 結局、南インドでは消化の良いコッペパンとインスタントスープとかばかり食べていたような……。 カラカラに乾燥した熱さはまだ耐えられるので、北インドや西インドのほうが『ウマイ!』の記憶は鮮明である。 南インドらしいものはドーサ(軽食)ばっかり食ってたな。 東南インドのオリッサ州あたりから、ドーサに具材としてビーツが入ってた。 ビーツはカレー定食のおかずにもよく使われていて、インドではメジャーな食材。 インドにはよく、スピリチュアルかぶ��のロシア人が長期でダラダラ過ごしてるんだけど(笑)(ロシア人、基本良い人が多いので好き)ビーツは、ロシア食材でもあるから面白いよね。 プッタパルティのサイババアシュラム(道場)では食堂メニューにヒッピーなロシア人が作るロシア式黒パンやビーツのサラダがありましたっけ。 (な、懐かしい!!!) インドで片言のロシア語で会話してたなぁ。 南インドか……時期を選んでまた再チャレンジするべきかもなぁ〜。 #南インド #プッタパルティ #旅人ニーナ #旅人nina #世界一周 #インド旅行 #バックパッカー女子 https://www.instagram.com/p/BxX1LnYgun5/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=umezwdbm2mtq
0 notes
holigreen · 4 years
Text
マディヤ・プラデーシュ州と州都ボーパールの環境汚染
マディヤ・プラデーシュ州に馴染みのある方はいますでしょうか?私はこの州は、貧しい州というイメージのみでした。
ただ、なんとなく調べてみると、環境汚染の酷いこと。自分の中では、デリーが最悪だと思っていたのですが、近年のマディヤ・プラデーシュ州は、デリーの2倍の汚染指標を叩き出しているというのです。
そこで今回は、マディヤ・プラデーシュ州と、州都ボーパールの簡単な紹介の後に、特に環境汚染が指摘されているボーパールの状況をみてみたいと思います。
1.マディヤ・プラデーシュ州ってどんなところ?
マディヤ・プラデーシュ州は、インド中部、デカン高原北部に広がる州です。東をビハール州、オリッサ州、西をグジャラート州、ラージャスタン州、南をマハーラーシュトラ州、アーンドラ・プラデーシュ州、北をウッタル・プラデーシュ州の、各州と接しています。
総面積は約44.3万㎢で、インド…
View On WordPress
0 notes
Text
インドが太陽電池モジュールのセーフガード課税を実施、影響は短期的?
前記事:「太陽電池モジュールを巡る、米国における”貿易摩擦”と”輸入制限”」
インドにおける貿易摩擦 太陽電池セル・モジュールへのセーフガード措置
インド財務省は、マレーシア、中国および先進国から輸入される太陽電池セル・モジュールに2018年7月30日から初年度25%のセーフガード関税を課すことを決定した。期間は2年間である。
同措置の発動を巡っては、国内開発事業者からの訴えを受けたオリッサ州高等裁判所により一時発動の延期が命じられたが、同年9月12日にインド最高裁判所によりこのセーフガード差し止め命令は撤回され、措置は発動された。マレーシアと台湾が世界貿易機関(WTO)を通じて同措置に関する二国間協議を要請している。
インドを巡る その他の貿易摩擦
インドは、マレーシア製太陽電池モジュール用強化ガラスの反ダンピング関税(AD)・反補助金関税(CVD)調査ならびに、中国、マレーシア、韓国…
View On WordPress
0 notes
asiaphotostudio · 2 months
Text
Tumblr media
India, 1990 Puri, Odisha, India. インド オリッサ州 プリー Photography by Michitaka Kurata
124 notes · View notes
localnews-myanmar · 6 years
Photo
Tumblr media
インド、ミャンマーなどに供給するLNGガスのターミナルを建設中 https://ift.tt/2HDupCb 容量増加にも対応可能インドのAdani Ports and Special Economic Zone Ltd(以下、APSEZ)は、オリッサ州ダマーラ港に建設中であるLNG(再液化天然ガス)輸入ターミナルで、LNG再ガス化サービスを提供するため、インディアン・オイル社(以下、IOC)と長期契約を結んだと… 続きを読む
0 notes
namaponews · 6 years
Text
オディシャ州、東京で投資セミナー
#カネ #newsJP [nna.jp]インド東部のオディシャ(オリッサ)州が30日、東京都内で投資セミナーを開催した。オディシャ州幹部や民間企業の代表者らが同州への投資を呼び掛けた。 オディシャ州産業局のサンジーブ・チョプラ首席秘書官は同州の魅力について、鉄鉱石や石炭など ...
0 notes
2nd-jiken · 7 years
Text
インドの祭り華やかに 川崎駅周辺で「ラタジャトラ」
#川崎駅 2017年06月27日 02:51:00 インドの伝統的な祭り「ラタジャトラ」が25日、川崎駅東口周辺で開かれ、在日インド人らが色鮮やかな山車を引いて商店街をパレードした。 祭りはインド南東部オリッサ州の出身者を中心にしたコミュニティー「NPO法人 ... 川崎駅の近所のバー
0 notes
koubou-minakusi · 7 years
Photo
Tumblr media
◇桐島かれんさんセレクトのアクセサリー◇
お待たせしました! Minakusiのアンティークコレクションの中から、 かれんさんがセレクトしたパーツを用いた特別なアクセサリーのご紹介です。
また、かれんさんは昔からTianTsuiの簪のコレクターでもあり、今回、作品のリクエストを特別にいただきました。
【吉祥喜図のアンティーク帯留のネックレス】 カササギ(喜鳥)が梅の木にとまる、吉祥幸福を象徴する構図の美しいデザインです。
【Tian Tsui 水仙のネックレス】 不滅の水を表す水仙があしらわれたTian Tsuiに、アフガンの古いショール留め飾りをバックに配したMinakusiらしいデザイン。
Tumblr media
【インド腕用のアンティーク装身具ブレスレット】 人類創生の神話において重要な「マツヤ神」(魚の化身のヴィシュヌ神)が描かれた貴重なコレクションです。
【蝙蝠のアンティーク装身具のピアス】 中国では、コウモリは「未来永劫の幸福」を表す。繊細な桃(成功・長命など縁起の良いモチーフ)がシャラシャラ心地よいです。
【双柘榴と壽の鈴のネックレス】 繁栄を意味する柘榴の二つの実(幸福が重なる)に、壽(長寿)の文字が描かれている非常に美しい稀少な鈴のデザインです。
【ビハール州の御守りアンティークのネックレス】 美しい花模様は縁を表す御守り。柔らかな温もりが感じられる手触りの装身具です。
Tumblr media
【Tian Tsui 花蝶かごのネックレス】 永久の豊かさを表す籠、五福(長寿・冨・健康・平穏・美徳)の梅、蝶があしらわれた縁起の良いチャーム。 立体的な細工は、自信を持って”必見”と言えます!
Tumblr media
【Tian Tsui 双鳥尾のネックレス】 両端に鳥の尾、五福の梅、サウンドチャームなどを配した縁起ものでありながら、斬新なデザイン。 アンティークの山珊瑚やミャンマーのアンティーク瑪瑙の猫など遊び心でアレンジしました。
Tumblr media
【アフガンの古い髪飾りのネックレス】 鳥のモチーフが賑やかで可愛い髪留め。しゃらしゃらと音も色も存在感のある作品に仕上げました。 意外とどんな洋服にも相性の良いデザインです。
【中国・白族の御守り飾りのピアス】 雲南省大理のBai族は、子供のお護りとして帽子に聖獣、自然のモチーフなどを飾ります。 こちらも清朝時代に作られた、美しい七宝の蝶です。
Tumblr media
アンティーク、オリジナルそのままでのセレクションピース。
【ベルギーのアンティーク・ウォレット】 1800-1900年代。フランスやベルギーの貴婦人たちが持ち歩いた「ポルト・モネ」と呼ばれる古銭入れ。 チェーン編みの手触りがなんとも言えません! シルバー製。 輪にチェーンなどを通してロングネックレスとしても使えます。
【インドのアンティークブローチ】 孔雀と鳩のモチーフの銀製のブローチ。おそらくオリッサ州のもの。提がっているパーツは人の顔がモチーフ。美しさとプリミティブが融合したコレクションです。
ご紹介した作品のほか、特別一点物などの新作も展開いたします。
Tumblr media
2 notes · View notes
cuttercourier · 4 years
Text
[翻訳] 法人としてのヒンドゥー神格 (2)
聖なる正義を求めて:神々が訴訟当事者となるとき
ヴィクラム・ダークタル、2018年8月10日
インド最高裁判所が普通でない議論をすることは珍しくない。ある機関が財産紛争からインド人のプライバシーに対する基本権までのすべてのことについて最終決定権をもっているとき、しばしばかなり普通でない議論が並ぶことは間違いない。
ただし、 次の3���の注目事件を審理している憲法問題法廷の5人ほど、そのような議論を耳にしてきた最高裁判事はほとんどいないだろう。すなわち、同性愛の犯罪化、サバリマラ寺院への立ち入りを求める女性、そして、姦通の犯罪化に関するものである。
最初と最後の事件では道徳および社会を引証する議論があったが、2番目において議論は宇宙観と憲法観の双方をめぐるものとなった。J. サーイー・ディーパク弁護士は寺院への立ち入りに反対する訴訟当事者の一方への賛成意見を述べるなかで、寺院の祭神であるアイヤッパ神は法人であり、そういうものとして他のいかなるインド人とも同じく憲法上の基本的諸権利を有すると論じた。
ディーパクは同神がとりわけ憲法第21条(生命と人身の自由の保護)、第25条(良心の自由並びに宗教に関する自由な告白、実践、および宣伝)、および第26条(宗教的事項の取り扱いの自由)が認める諸権利を有すると論じた。ある法律ウェブサイトが報じたところでは、「彼は『永久に不淫』の状態を保持するアイヤッパ神の権利は第21条の下のプライバシー権に含まれていると述べた」。
これらの議論が有効であるかは判決によって示されるであろうが、少なくとも、ヒンドゥーの神々が「法人」として法廷で自らの権利を守りあるいは主張するという、インドの法思想に既存のかなり広範かつ独特な流れに付け加えられる興味深い事例となった。全能であるはずの神々がまったく人間的で、法の助けを必要としているらしいというのはインド特有の逆説のようにも思える。
このような態度は古くからのものかもしれない。インドの神々はしばしば彼らを崇める者たちと、愛情から食べ物までのすべてにおいて同じ情熱と慣行をもち、よく似ていた。であれば、訴訟に対する我々のよく知られた情熱においてもそうでないわけがあろうか? 何と言っても1836年にRaja Rajkrishna Debの財産をめぐってコルカタで始まった訴訟が21世紀になっても続いている国なのだから。
神話学者Devdutt Pattanaikが指摘する別の例は、オリッサ州のサークシーゴーパーラ寺院である。同寺院の伝説によれば、ゴーパーラ神は信者の側に立つ証人として証言するために顕現することに同意したという。同神が付した唯一の条件は、その信者が法廷への道を振り返ることなく先導することだったが、彼は振り返ってしまい、神は像になってしまった。それでもこのことは十分彼が勝訴する助けになったので、彼は出廷しようとした神を讃えて寺院を建立した。サークシーとはサンスクリット語で証人を指す。
これらの話はインドの伝統に根ざすのかもしれないが、19世紀にそれらに明確な法的形態を与えたのはイギリス人であった。リトゥ・ビルラーはイギリスの法と金融慣行がどのようにしてインドに適応したかについてのすばらしい著作『資本の舞台』において、この展開をヴィクトリア朝イギリスにおけるトラストの発展という、より広い文脈の中に位置づけた。
受益者のために富を寄付するが、それは第三者たる受託者によって管理されるというアイデアは、18世紀に土地所有貴族によって発展してきたが、「次の世紀には急増するミドルクラス、特に商業的に抜け目がなく、社会的上昇が可能な実業および専門職セクターにお株を奪われた」とビルラーは述べる。
産業革命はこれらのセクターに新たな富をもたらし、そして、しばしば宗教的側面をもつ慈善的寄付は、地位を得るために富を活用する一つの方法だった。トラストはこのための仕組みであったため、とりわけ現地人企業家が金を稼ぎはじめ、また、地位を上昇させようとするにつれて、イギリス人が同じパターンをインドで反復しようとしたのは至極当然であった。
ただしビルラーは、コミュニティ網や宗教的な結びつきの内部には、長年のインド的寄付慣行が存在したのであり、それらはイギリスモデルと常に一致したわけではないと指摘する。特に寺院については、それらのつながりのあり方は複雑で、カーストおよびコミュニティについてのニュアンスや、寺院を非公式の金庫として扱う多くの商人たちの慣行を含むものだった。彼らはそこに金を預けておいて、必要になったときにはその金に依存する司祭たちが怒ろうとも引き出すことができたのだ。
このように複雑なものがイギリス法と出会った場合、通常は法廷で決着をつけることになった。そして、寺院の財産をめぐる紛争の増大に対応するにあたって、イギリス人判事たちは神を所有権が帰属しうる法人として扱うというアイディアを思いついた。これにより、伝承による主張をすべて吟味しなければならない事態を一挙に回避する一方、神像を生きている人間のように扱うことによってインド人の感情に如才なく敬意を示したようである。
1869年には、枢密院、すなわち、イギリス帝国における最高上訴裁判所を構成する判事たちは、Maharani Shibessouree対Mothooranath Acharjo事件の判決において、 シェーバェト、つまり神の管理人は、当該神の受託者としてのみ行為することができると宣告した。1875年、また別の事件において枢密院は、シェーバェトは「未成年たる相続人の管財人」として職務を果たさねばならないと述べている。
さらに1887年、いわゆるダーコール寺院事件において、ボンベイ高等裁判所は「ヒンドゥーの神像は法的主体であり、それが具象化するところの宗教的観念には法人の身分が与えられる」と明言した。ビルラーが指摘するように、機は熟していた。というのも、宗教的または慈善的目的の控除を認めたインド所得税法の制定からこのときちょうど1年が経っていたからである。
1925年までにこの原則は、ロンドンの枢密院がPramatha Nath Mullick対Pradyumna Kumar Mullick事件における「ヒンドゥーの神像は、長きにわたって確立した権威によれば、ヒンドゥー教徒の宗教的慣習と裁判所によるその承認に基づく、一個の『法的主体』である」という裁決によって要約するほどに確立していた。また、未成年たる相続人の管財人との比較も繰り返された。法の上で、神像は決して成人しない未成年であった。
おそらく以上に対する反応として、以降、神々が法廷に赴く事件は爆発的に増加することになった。1934年、タイムズ・オブ・インディア(ToI)紙はバドリーナート寺院の神が、約束した寄進を行わなかったイラーハーバードのラーニー・ゴームティー・ビービーのトラストに対する54,000ルピー(当時においては巨額)の要求をいかに勝ち取ったかを報じている。
1934年、ToI紙はボンベイにあるヴァッラバチャルヤ・ヴィシュヌ派のいくつかの寺院で神像が安置されていたシュリー・タークルジー(クリシュナ)が、「財産を浪費し、管理を誤っている」といわれる相続人を遺してその家父長が死去したところの一家が寄進した財産の売却に対する差止命令をいかに勝ち取ったかを報じた。同相続人は当該財産が自身のものであると論じたが、法廷は神の側を支持した。
神々は常に勝訴したわけではない。1937年、ボンベイ近郊ダハーヌーに住むAnandibai Vamanrao Barveという名の女性がマールティ神を訴え、彼の信者たちが彼女が相続した土地で宗教儀式を行い、彼女がそこに壁を建てることに反対していると主張した。2年後、ToI紙は彼女が勝訴し、神とその信者たちは立ち去るはめになったと報じている。
神々が互いに争うこともありえた。1938年、ToI紙はシュリー・ランチョードジーとシュリー・ゴーパルジーそれぞれの側から、後者が礼拝される建物の所有権をめぐって対立する主張がなされた訴訟について報じている。シュリー・ランチョードジーの主張によれば、彼はシュリー・ゴーパルジーの寺院が洪水に見舞われたあと、自ら所有する建物に自身の神像を安置することをシュリー・ゴーパルジーに許可されたのであるが、今や彼はそれを奪おうとしていたのだった。
独立後、この概念はさらなる発展を遂げたが、常に神々に有利な方向であったわけではない。例えば1969年、最高裁は先にカルカッタの税務裁判所が下した、神々が個人であるならば彼らは所得税を支払いうるとした判決を承認した。また、1999年、最高裁は神々が財産を所有しうるという原則を再び承認し、当該の神がどのように崇拝されうるかを規定するまでに至った。
最も有名なのはパトゥル村のナタラージャ〔踊るシヴァ神〕像事件である。それはタミル・ナードゥ州の寺院から盗まれ、国外でバンパー・デヴェロップメント・コーポレーション社に売却された。同社はそれを修復のため英国博物館に送り、そこで1991年にスコットランド・ヤードに押収された。インド政府がこの神像の返還を求めて訴訟を起こした際、シヴァ神は原告の一人とされた。
ToI紙の報じたところによれば、同社は以下のように争った。「バンパー社の抗弁は、イギリスの裁判所はヒンドゥーの神が当地で告訴することを認めるべきではないというものだった。君主(女王)こそが連合王国における最高権力であると、そして、畢竟ここはキリスト教の王国なのだと彼らは主張した」。ところが裁判所は堂々と、ヒンドゥー教は連合王国においても実践されており、したがって、シヴァ神は原告に留まりうると応じた。
けれども、人格としての神々はより物議を醸す文脈にも現れている。最も重要なのはアヨーディヤーのラーマ寺院事件である。そして、かの骨の折れる論戦が展開するずっと以前に、この概念についての疑義が呈されていた。早くも1931年に、カルカッタのユニバーシティ・ロー・カレッジ学長S.C. バグチは後に『ヒンドゥーの神々の法人格』と題された本となる一連の講義を行ったが、そこで彼はこのアイディアへの懐疑を詳細に論じた。
バグチはまず「法人」が意味するものを定めてから、ヒンドゥー教典における神観念を理解するために数多くのサンスクリットのテクストを引く。「ヴェーダ的神概念の中には、神秘主義と混ざりあったあまりに多くの擬人論が存在するので、諸ヴェーダにおいて想定されているその種の主体は法の世界ではまったく用いられていない」。
バグチは財産を神像に帰属させるという議論の利便性は認めるが、より進歩的な選択肢を提案している。「それ自体の霊的利益のために団体として設立され寄付を受ける以上、コミュニティそのものがより適切に集合的主体とみなされ、団体の財産がそこに帰属するところの法人を形成することがないかどうかが問われるのは当然であろう」。
バグチの議論は、19世紀に法人格としての神像が創造されたのは、イギリス人法曹がさまざまなインド人当事者の要求をカーストやコミュニティの込み入った慣行と一緒に処理するといううんざりするような過程からの抜け道として考案した法的ごまかしとしてであることを暴露したように見える。それは便利であり、信者たちに受けるものであったが、しかし、ごまかしはごまかしであって、時とともに明らかになる問題を含んでいた。
目下、彼の主張を支持するような事態が起きつつある。財産権とトラストというかなり狭い文脈において考案された法的概念が、今やプライバシーや基本権のような領域に拡大しつつあり、それらは単純にさらなる問題を露わにすることになる。
もしも神々が税を支払うのなら、彼らは参政権を要求しうるだろうか? また、そうであるなら、彼らは公職に立候補できるだろうか? 永遠の法的未成年として性の問題がまったく生ずべきでないなら、彼らはどうやって不淫であると主張できるだろうか? そして、ヒンドゥーの神々がそのような物質的問題とかかずらうことは、どの段階から彼らの霊的役割に対する罪のように映りはじめるだろうか? 法人としての神々は、インド法学の巧緻な部分のようでもあるが、その帰結はあまり喜ばしいものではないかもしれない。
1 note · View note
marujyu-blog · 7 years
Photo
Tumblr media
オリッサブラスです。 インド東部オリッサ州から伝わった真鍮のビーズ。 磨耗感も魅力のオールドメタルビーズです。 #アンティークビーズ #アンティークアクセサリー #アンティークビーズアクセサリー #古えの宝石 #marujyu_to_c
0 notes