帰れない二人
ここに書かれた小説は、事実や日記をもとに書かれていますが、あくまでも小説ーすなわち、小説の定義であるところの「散文で書かれたフィクション」ーとはいかなるものなのかをどこまでも追求するために書かれたものといってしまっていいと思います。しかし、だからといって嘘を並べたてたわけでもありません。
この小説を四羽の鴨のヒナに捧ぐ
帰れない二人
私、もしくは彼、あるいはKには日記を書く習慣がある。この日記を読みかえしてみると、たいていの日が「朝、目が覚めると」という決り文句からはじまり、窓から差している光のことなどについて記され、それから並木道や横断歩道などを渡り歩いて最寄りの駅までゆく過程が仔細に記されることとなる。ある初夏の日の日記をここに引用してみる。
朝、目が覚めると、連日の雨模様からうって変わり、窓からの眩いひかりが部屋じゅうに充満している。小さな天窓からの光線は部屋のすみの物影にまでとどいて、そのひかりの帯のなかには塵が静寂をまもって浮かんでいるのがみえる。窓ががたんと音をたてる、今日は風がつよいらしい、と、部屋じゅうにふっと影が差したような、そのままじっとして様子をうかがっていると、こんどはふあっと部屋じゅうが明るくなる、どうやら上空を風に流れる雲が陽光にかかったらしい。
朝支度をして外へ出ると、くっきりした輪郭とその陰翳とをあわせもつ白い軍艦のような雲が青い空にいくつも流れている。風はひどく湿っていて、肌に纏いつくかのよう。ところが白い日差しの下にでるとそんな湿り気はたちまち吹き飛んでしまい、肌を刺すかのように注いでくる鮮烈な陽光の感触ばかりになる。白い軍艦雲の流れにともない、住宅街のせまい通りはその両側にたちならぶ家々の屋根ごと影に塗りつぶされては、またそぞろ明るくなってゆく。住宅街を折れ、近道の公園の大樹は風にわさんわさんと小刻みに揺れて、その緑の影はまるで水のような捉えどころのなさですでに乾ききった白い砂の上をしゅわしゅわ揺れている。
曲がりくねる並木道は連日の雨でいっそう鬱蒼として、瑞々しくはちきれんばかりに膨張した樹々の緑のほんのわずかな隙間から降ってくる木漏れ日のひかりと影とが歩くひとびとの背中や日除けの傘にストン、ストンとちょっと遅い流れ星のように落ちている。自転車が走れば、そのひかりは文字通りの流星になる。一方通行のこの通りにお尻の大きなトラックが迷いこんで来たらしい、その大きな荷台に樹々の枝がひっかかり、枝の揺れがどこか見憶えのあるような形の木漏れ日と影とを道に散乱させている。
この目が覚めてからのたったの数十分のくだりにたいして、それからの本来日記なるものに書かれるべきであろうその日に起こった出来事については、ずいぶんと省略してあっけなく記されるか、もしくは記されることすらない。たとえば、昼、カリーを食べる、とだけ記されているように。
私、もしくは彼、あるいはKはほかにはいくつか小説を書いたことがある。小説の書き始めとは、書き終わり以上に重要であろうことは、ある小説がどのように〆られたのかはろくに憶えていないのに、ある小説の冒頭についてはその文字の連なりを一字一句記憶してしまっていることからも明らかそうであるし、時代をこえて読まれ続けているいくつかの小説はそもそも作者の死により〆られることなく未完となっている。なるほど小説の始まりとは、まさしくそれ自体が丸ごとひとつの契機である、それがなければのっけから小説は存在することもできない。そこで私の書いたいくつかの小説の冒頭を読んでみると、そこにはどうやら規則性が見出せそうである。すなわち、そこでは唐突に小説が始まっている。何らかの意図や前提をもってこちら主導で語りが始められるというよりは、たとえば、日記とおなじように、朝、目が覚めるところから、なかばなし崩し的に語りが始まってしまうようなぐあいである。しかも、一般的にいう目覚めのよい意識のはっきりした朝であることはなく、とりわけ何か考えごとをするだけで頭の痛くなるような二日酔いの朝であるとか、意識のあいまいなときにかぎって始まっている。唐突に始まるばかりではなく、曖昧に始まってもいるのである。
これからあえて書いてみようとすることは、またしてもそのように、唐突に、曖昧に起こるのであった。
朝、夢うつつに、幾度か寝返りを打っているうちに目が覚めてしまった、もうすこし眠っていたかったのに。せっかくの休日なのだから早く起きて活動したい気持ちはある、それでも目の奥が鈍として重たければ、早起きしたところで仕方がない。それに今朝も日差しはおあずけらしい。七月のなかばをすぎても厚ぼったい灰雲の掃けない異例にながびく梅雨であった。昨年の夏は、観測史上初ということばを何度も耳にした。あまりにも暑い夏で、随所でいくたびも過去最高気温というやつを記録した。いまだかつて誰も体験したことのない暑さがいまここにあるなんて、そう考えるだけで興奮したものだった。あまりの暑さに死人もぽつぽつでたらしかった。それが今年の夏はいつまでも梅雨が明けず、かといって街を浸水させんばかりの大雨が三日三晩つづくのでもなく、傘のいらない程度の霧雨が降ったり止んだりをくりかえし、湿気の蔓延るばかりで、気がつけば観測史上初のながさの梅雨をその日も更新しつづけているありさまであった。梅雨入りまえの初夏こそはそこそこ暑い日もあったのに、ここ数日は夜になれば、ときには日中でも上着を羽織りたくなるほどの涼しい日々がつづいた。たいへん重度の夏好きとして、真冬の氷点下ちかくの日にも「寒い」とはいわず、あえて「涼しい」と不敵な笑みでいってのける者にしてみれば、それはそれは陰惨な涼しさであった。
あくまでももういちど眠りに就いて、つぎこそは目の奥の鈍重さを晴れやかに目覚めてやろうと気合をいれて目を瞑ると、こつこつ、こつこつこつと雨が窓硝子を打ちはじめる。困ったことにこの音はきらいではないので耳を澄ましているうちに昼になってしまった。ちょっとはうつらうつらしたかもしれない。雨はもうあがっている。
いまだ目の奥は重たいけれど、もう仕方がないのでシャワーを浴びることにする。風呂場はさすがにむっとしていて、裸になってみてはじめて、今日はここ数日よりいくらかは暑くなっていることに気がつく。水の蛇口をひねって、お湯を冷たくしていくと、シャワーの音が透きとおってよく耳にきこえるような気がする。
時枝はもうきっと公園についている頃だろう。髪はしぜんに乾くだろうから、硬球と左利き用のグラブの入ったナップサックを肩にかけて公園まで小走りで行く。相変わらずの鈍い天気、ちょっとは暑くなってきたものの、とうてい夏本番とは言いがたい空の下で、痺れを切らしたらしい一匹の蟬がとうとう鳴きはじめている。何かのまちがいで砂漠か深海か宇宙にでも産み落とされた赤子の産声のように、あまりにも孤独で、あまりにも無防備で、でもこの世界へ抵抗せんとする衝力だけはたしかに発しているような、そんな鳴声。道行く先に鳩の群れがわだかまっている、そのまま小走りで直進すると、いっせいに羽ばたいた。
「せみ、鳴きはじめたね」
あいさつ代わりに言うと、
「また産まれたの、カモの赤ちゃん」
そう言って時枝は池の中心あたりを指さす。
やがてカメが甲羅干しをしている大きめの岩の背後から、親ガモのあとについて、四匹のヒナが列になって泳いでいる。カモの一隊は、まるで池の周囲に集う観衆にじぶんたちの姿をお披露目するかのように、池じゅうをぐるりと行脚してみせる。大きい一匹と小さい四匹それぞれのあとには、ちょうど船の先端が水面をふたすじに切って波を起こすように波紋が尾をひいている。水面をみて、また雨がふってきたのかと思うと、それは池じゅう無数にいるアメンボたちの起こす小さな円い波紋で、ヒナたちが時折、赤ちゃんとは思えない素早い身のこなしで列をはなれるのは、どうやらアメンボを追いかけて食べている。
「はやいね」
「うん、はやい」
「産まれながらにして野生だね」
「うん、野生だ」
「癒やされるね」
「うん、癒やしだね。帰ってくるまでに全滅してるかどうか、賭けようか」
「賭けよう賭けよう、今日のカリー代」
「でも、じっさい、カラスに食べられる瞬間みたいかも、カモだけに」
「そんなこと言ってたら、また全滅しちゃうよ。とにかく急いで戻ってこようよ」
と言いつつ、時枝はたびたび立ち止まってはカメラのシャッターを切る。被写体に寄ってみたり、離れてみたり、背伸びしてみたり、屈んでみたり。こんどはいったい何を撮りだすのかと思うと、道端に停めて���るバイクに寄っていく、そしてバイクのミラーに向かってカシャ。そのミラーのなかを覗いてみると、近くの街路樹の枝の先と緑とが反射して映っている、かすかに風に揺れながら。
「あー。なんか先越された気分」
「だって、毎日あんな日記書かれて。同じものみてみたいって思うじゃない」
「読んでるんだ」
「このカメラ、白黒なんだよ。こっちはカラー用」
そう言って時枝は首からさげた骨董品のようなカメラに加えて、ウエストポーチからもうひとつ、ひとつめのよりははるかに近代的にみえる、それでもやっぱり時代を感じさせるフィルムカメラを取り出すと、
「いまのは白黒の目でみてたでしょ」
「いや、そうでもない」
「いや、白黒の目だ」
「だいたい、いつもみてるのは走ってる車とかバイクのバックミラーだよ。その走行に対してバックミラーのなかは逆行して流れていくようにみえる。その逆行の流れに樹の緑の揺れているのなんかが飛びこんでくるのが目に飛びこんでくるって感じ、緑の色も含めてね」
「いや、白黒の目だ。それは白黒の目なんだ」
「そうでもないって」
「ズバリ、白黒の目でしょう」
失笑で済ませるつもりが、堪えきれずにちょっと笑ってしまった。
「……きょう蒸し暑いね」
「うん、蒸し暑い」
ルナさんはヒジャブで被った浅黒い顔を厨房の奥からだして微笑んだ。ただ、微笑むだけ。目がくりっとしていて、上唇から覗いた歯がとても白い。こちらもお辞儀をして席につくと、水の入ったグラスを運んできてくれたその手でメニューの紙を案内してくれる。手の甲の色黒さにたいして、手のひらはまるでインク落としをつかったみたいに色素が抜けている。「ハラール対応」と書いてあるメニューは日替わりのカリーセットのただひとつだけなので、ただ頷くのみ。するとルナさんは、ただ微笑んで厨房へ戻っていく。
バングラディシュから来たルナさんの手料理を毎週末に必ず食べにいくようになってから一ヶ月ぐらいは経っただろうか。ルナさんのルナは月の意味だという。毎週かよっていたら顔を憶えてくれたらしく、いつも微笑むばかりでほとんど口をきかないルナさんが、自身の胸に手をあてて「ルナ。��、キ」と教えてくれた。時枝がどう思っているかは知らないが、ルナさんのカリーを食べにいくようになってから休日の過ごし方が上手になったと思う。せっかくの休日なのだから何かをしなくては、どこかへ行かなくては、と思わせられる足枷から自由になったとでも言うべきか。というより、もうルナさんのカリー自体がいちばんの目的なのだ。その目的さえ達してしまえば、重層的なスパイスの旨味で毛穴が剥き出しになりさえすれば、そう、無防備なまでの清涼感に包まれて、あとは野となれ山となれ。あるいはこれから海をみにいくにしても、なんら気負う必要はない、すっからかんの脳みそで海をみることができるのである。それぐらいルナさんの料理は美味しい、けっして食べて美味しかったと満足するだけではなく、味わいながらさらにもっと味わいたくなるような相乗的ななにか、それこそ海の揺らぎから目を離せなくなるようななにか、星空の瞬きから目を離せなくなるようななにかが。
「顔けわしいね」
「そんなことないよ」
「また、うんこ我慢してるのかと思って」
「今日はだいじょうぶ」
「じゃあ、なに考えてるの」
「いや、ルナさんの料理ってもの凄い引力だよね、月だけに」
「もうね、そうなの。大地の力を感じるっていうか、そりゃ火山は噴火するし、潮は満ち引きするワァ! 」
時枝は頭の上に両手で山をつくって、噴火するような身振りをすると、その手が天井からぶら下がっている唐草模様の間接照明にあたってぐらんぐらん揺れるのがテーブルの上のメニュー用紙にも影となって映じている。
「こらこらー。でも月ってじつは地球のまわりをまわってるんじゃないって知ってた」
「え」
「じつは地球も月のまわりをまわってるの、相互にまわり合いながら太陽のまわりをまわってるってわけ。でも、その回転軸が地球の内部にあるから月だけがまわっているようにみえるというね」
「でも、このあいだね、咳風邪をこじらせて生理不順になってたときも、ルナさんのカレー食べた直後にきたんだよ」
「うんこが」
「うんこじゃない」
やがてルナさんが頭から足首までを被った装いで幽霊のように床を滑りながら、料理一式ののったお盆を地面と水平にして運んでくる。お盆の上のカリーの食器と、スープの食器のなかとで、ふたつはたがいに隔たっていながら、その水面はまるでひとつの地続きになっているみたいにまったくおそろいの揺れ方をしている。
ルナさんはいつものように口はきかず、メニュー用紙のお品書きと、それに対応する料理とを、色素の抜けた手のひらで交互に行ったり来たりさせて料理一式を案内してくれる。本日のメニューは、マトンカリー、キュウリとタリマンドのバングラサラダ、茄子のボルタ、オクラのバジ、鯖とトマトの酸っぱいスープ、そして粒のほそいシャダバット米の盛りに香菜とレモンが添えてある、これで千円ぴったり也。ひととおりの案内がすむと、ルナさんはいまいちどカリーを示して「キョウ、カライ」とだけ言った。
「ああ、ルナさんのカリーが食べたい」
食べ終えて、お代の千円をルナさんに手渡して、店をあとにしてすぐの時枝の口ぐせがいつもこうだった。
「もう食べ終えるまえから食べたいよ。食べながら食べたい」
「それ! まさにそれ! 食べながら食べたい。言い得て妙とはまさにこのことだね」
「いいえてみょう、どこでそんな言葉おぼえたの」
「もともと知ってるよ、ばかにしないでよ」
ふたりともどちらかといえば小食なほうなのに、このありさまである。ふだん辛いものを食べてもなんともないのに、ルナさんのカリーを食べたあとはじわりじわりと、それこそ地殻の内部でひそかに流動するマントルにのってプレートテクトニクスの運動が展開されるように、目にはみえない力が働いて、からだの内部のずっと底のほうから表面へ向けて順繰りに発汗作用のみなぎっているのを感じる。そればかりではなく、食後といえば眠くなるのが定番らしいが、それとは反対にあらゆる意味で目覚めたような気分になる。つまり、モノリスにさわった猿のようなものである。
駅前の高架沿いをあてどなく歩いていると、足もとに薄っすらと長方形の影が連なって流れてゆき、いちばんお尻となった四角い影をさかいに高架の影のみがあとにのこった。影がいってしまい、そうとわかったあとで、ガタンゴトン、ガタンゴトンと列車の遠ざかってゆく音がようやく耳に入ってきて、やがて、あとにのこされた高架の影もきえてしまった。わずかな微光さえとざしてしまう曇天を睨みつけながら、
「人類にも夜明けが来たというのに、まだ来てないのは夏だけだぞ」
ひとりごちると、
「そうだぞ、夏だけだぞ」
時枝が復唱する。
「ねえ、意味わかっていってる」
「なにが」
「まあいいや、説明がめんどくさい」
「なあに、なあに、教えて、教えて」
「それよりもなんだっけ、ええっと」
「なあに、なあに」
「そうそう、月と地球は相互にまわり合いながら太陽のまわりをまわってるわけじゃん。さらにね、その太陽系じたいも銀河をもの凄いスピードで移動してるんだよね。だから地球が太陽のまわりを一周するっていっても同じところに戻ってくるんじゃなくて、いちど通ったところはずっと永遠に置き去りで、ということは、この地球は宇宙の真っ暗闇をあてもなくずっと旅して……」
「ちがう、ちがう。それじゃなくて」
「なんか凄いよね。空恐ろしい気持ちになってくるよ」
「隠しごとはしないって言った」
「隠しごとなんかしてないって」
「言った、言った。隠しごとはしないって言った」
「そんなことないよ」
「ずるいんだ。ひとには洗いざらい話させておいて自分のことは隠すんだ」
「だから、そういう意味じゃなくて、なんにも隠してないって」
「ずるいんだ、卑怯者だ、藤木くんだ」
「そうじゃなくて、説明しはじめたら切りがないから。だって二00一年宇宙の旅みてないんでしょ」
「みたけどすぐに寝た」
「ほらあ」
「いいの、いいの、イチからちゃんと説明して。切りがなくてもいいから」
言い争いを一時中断、ふたりそろって点滅しはじめた青信号めがけて一目散に走り出す。横断歩道を半ばまで渡ったところで、もう大丈夫だろうと、歩幅を狭めると、そのまま走り抜けてゆく時枝の背中をグラブ入れのナップザックが左右にゆっさゆっさと揺れているのがみえた。時枝の背を見送ったその目で、いまいちど歩行者待ちの自動車の列を確認すると、列の途切れた車道のさらに先のほうで、前後にあるていどの距離のある二つの赤信号がパッと同時に青に切り変わった。遠近の法則なんてまるで無視して、ふたつのひかりはひとつの平面に隣合わせにあるみたいだった。プー、プー、先頭の車にクラクションを鳴らされてしまい慌てて歩道へ逃げ込むと、
「いま、なに見てたの」
先に歩道に渡っていた時枝が出し抜けに言う。
「え、信号だけど」
「なんで、どうして」
「そんなこと言われたって」
「また隠しごとだ」
「なんでって、とくに理由はないけども。また日記にでも書いておくからさ、読んでるんでしょ」
「そうやって、またじぶんだけの秘密みたいに日記に書いて」
「秘密じゃないよ。だって読んでるじゃん」
「ちがう、ちがう。そんなの秘密がここにありますよって、鼻先ににんじんぶら下げられてるようなものだよ。生殺しもいいところ。ほんとうの隠しごとよりずっとたちが悪い。ああ、なんて性格の悪さなんだ」
この信号を渡れば、すでにもとの公園の大樹の下、地域では特定保護の樹木として認定されているらしい。たしかに大きい。とても大きい。その影とも気づかない大きな影のなかでマーチングバンドの練習をしている三人の子どもたちがいる。トランペット、クラリネット、フルート、機敏な動きで楽器を上げ下げしたり、回したり、音楽を鳴らしながら踊っている。ほかにも大勢のひと、缶酎ハイを飲んでいたり、ウクレレをぽろぽろ弾いていたり、弁当をたべていたり、弁当の中身を覗き込んでいたり、たしかにあの弁当は美味しそうだなあ、ただベンチに座ってぼんやりしていたり、とにかく大勢のひとが微かに風に揺れうごくおなじ影のなかにいるのにマーチングバンドの練習をじっとみつめているのが時枝ただひとりだけだったのは少し意外に思えた。それでとくにわけもわからず、うん、うん、と頷いていると、時枝が子どもたちの機敏ではあるけれども勢い余って精度にはちょっと欠けるような動きをそっくりそのまま真似してみせる。
「上手いもんだね」
「子どもの頃ダンスやってたからね」
「そうなんだ。でも、ものまね何やっても上手いよね、感心しちゃった」
「そうお」
「うん、うん、役者になったほうがいいよ」
「ほんとお」
「向いてるよ。だって、あの子たちのちょっと下手くそな部分までそっくり真似できるんだもん。それは凄いことだよね、あの感じがいいよね、ちょっと感動しちゃった」
「嘘だ」
「え」
「またそうやってひとのことをバカにするんだ」
「え、ええー」
「そうなんだ、知ってるんだ。よくわかってるもん」
「ちがう、ちがうって。へたうまみたいのってあるじゃん。音程をあえてずらすとか、あえてリズムをずらすとかさ」
「下手くそって言いたいんだ」
「そんなのあの子どもたちに失礼だって。あれはあれで素晴らしいじゃん」
「ちがうもん。そんな気持ちでやってなんかない。ありのままにやっただけだし」
「じゃあいいじゃん。それが凄いって言ってるの」
「ほんとうにバカにしてないの」
「うん、素晴らしいよ」
「それなら、あの木のものまねして」
「え」
「あの木、好きでしょ、あのでかい木。あの木のものまねして、して」
「なんで」
「いいから。見たいから。あの木、好きでしょ。知ってるよ」
仕方がないので、樹のとにかく大きいところとか、一本のふとい幹が無数に枝分かれて伸びひろがっている様子なんかを足先から指先まで全身を隈なくつかって表現してみる。まず両足をくっつけて棒立ちになり、それから蟹股にひざを折り曲げていったん反動をつけてから、五本の指をひらひら動かして白鳥のポーズのように両手を伸びひろげる。
「どうですか」
「うーん、微妙。ほんとうに好きなの、あの木」
「なんか悔しいなあ。でもさあ、ひとは樹にはなれないんだから、いくらなんでも難しすぎない」
「そんなことないよ。へたうまとか何とかいってさあ、効果を狙ってやるからいけないんだよ。ありのままにやれば木にもなれるって。あとは何より、そのものを好きになることだね」
「それじゃあ、あの看板やってみせてよ。まえに写真にとってたけど」
青葉の繁みのなかにぽつんと立っている蜂に注意の黄色い立て看板を指さすと、時枝はすくっとそのものまねをしてみせる。なんだかその立ち姿がほんとうにそれっぽいので、おつぎは広場にある水色のすべり台を指さすと、これも難なくやってのける。ちいさな子どもがすべり台の坂道をすべり落ちそうになりながら懸命に四つん這いになってよじ登っていき、こんどは階段をすたすた駆け下りて、そのまま生垣の隙間を縫って向こう側にみえなくなった。やがて、子どものみえなくなった生垣の向こうから、ぽーんと、色鮮やかなブルーのゴムボールがあがった。
今回ばかりはカラスに食べられなかったとみえて、カモのヒナたちは四匹とも元気いっぱいに池じゅうを泳ぎまわったり、岩によじのぼったり、岩の上で甲羅干ししているカメを踏みつけたり、つついたり、カメが動いてびっくりしたりしている。
「よかったね」
「うん、ほんとうによかった」
前にこの池にヒナが孵ったときは、数時間後にもどってくると、もう親ガモだけになっていた。そのときは、ヒナのいるほうが特別な異常事態なのにもかかわらず、公園全体が素知らぬ顔をして、まるで遠い異国の旅先に来てしまったかのような寂しさを憶えたものだった。だからこそ、このよかったねにはほんとうに心がこもっている。
「元気だね」
「うん、ほんとうに素晴らしい」
このヒナたちのものまねしてよ、という言葉が喉まででかかったけれど、口をつぐんだ。時枝はさっそくヒナたちを写真におさめようと池の周りをぐるぐる、それは時枝だけにとどまらず、ほかにも大勢のひとびとがカモたちの行方を追っていた。
「ねえ! カモの赤ちゃん! カモの赤ちゃんだよ! 」
ママ友達と世間話をする母親の袖をひっぱって、無理にでも池まで連れていこうとする子どもがいる。はじめは面倒そうに子どもをあしらっていた母親も、いざ池まで来てカモの親子を目にすると、子ども以上のはしゃぎようで、こんどはママ友達を池までひっぱってくる。池の周囲は動物園さながらの盛り上がりで、生ぬるい風にまぎれてマーチングバンドの音がかすかにきこえてくる。
しばらくカモたちを観察していて気づいたことに、どうやら親ガモとその後にくっついてゆく子ガモたちは、だいたいおなじコースをくりかえし巡回しているらしい。池のなかを泳ぐだけではなく、毎回決まっておなじところから陸に上がり、その周辺をこれまた決まったルートで行脚してから池にもどってくる。池の縁にはちょっとした段差があり、親ガモはそれを難なく越えて上陸するものの、子ガモたちにしてみればそれはたいへんな絶壁とみえて、羽をひろげてジャンプしても四匹ちゅう三匹は陸まで届かず池にもどってきてしまう。親鳥はちょっといったところで全員の集合を待っている。というのは、子ガモは親とはぐれるときまってピイ、ピイと悲痛そうな鳴声を発するからで、親鳥はその声をちゃんときいて待っているらしい。ピイ、ピイと鳴きながら何度めかの挑戦のすえ四匹全員がようやく壁を越えると、ふたたびカモたちの行脚が再開される。池から陸にあがるときとは反対に、陸から池にもどるときは、親ガモのあとに続いて、一瞬のためらいはあるものの、四匹ともに豆鉄砲のごとくポンポンポンと水面に飛び込んでゆくさまは小気味よいものである。さらに観察していて気づいたのは、四匹のうち一匹だけ、額に白い斑点のある子ガモは生まれつき勘がいいのか、運動能力が高いのか、陸にあがるジャンプを一回できめていることがわかった。しょっちゅう列から離れてはアメンボを追いかけまわしているのもその子ガモらしい。
その額の白い斑点の子ガモを何となく「イダテン」と名付けることにして、
「イダテンすごいね。また一発できめたよ」
と言うと、時枝は、
「ちがうよ。あれはシロちゃん。シロちゃんすごいねー」
と言いながら、腰を屈めてシロちゃんのすぐあとを追ってゆく。時枝の両隣には年甲斐もなく壮年の男性と初老の女性がおなじように腰を屈めてシロちゃん、いや、イダテンのあとを追っている。その三人揃って突き出したお尻のおかしいこと、おかしいこと。いまこそ、時枝の首からぶら下げている写真機でカシャリと撮ってあげたいと思った。
親鳥は繁みを抜けたところの遊歩道で子ガモたちのやって来るのを待っている。やはり、そこにもすぐに人だかりが出来て、ちょっとした撮影会のようになっている。カモたちはとくにひとに怯える様子もなく、なんなら足をひろげた子どもの股をよちよちと潜ったりして観衆を沸かせている。傍若無人にも足もとを闊歩するカモたちにたいして、アーチをつくる子どものほうがおろおろと目を丸くして身動きがとれなくなってしまっている。
やがて、子ガモたちが親鳥の下に勢揃いしたちょうどその時、人だかりに闖入者あり。二匹のヨークシャーテリアが威勢よく吠えながら人だかりに割って入ってくる。
「リーちゃん! メロン! そっち行かない、行かないで! 」
耳に桃色のリボンをつけているほうがリーちゃんなのだろうか。左右それぞれの手で二匹のリードを握っているのはまだ小学生ぐらいの女の子、かかとで身体にストップをかけて仰け反りぎみになり、犬たちを必至になって押さえようとしている。犬たちはますます前のめりになり、我を忘れて野生に還ったかのように吠え散らかしている。
「こらメロン! リーちゃん! もうやめて! お願いだから」
飼い主の子どもに名前を呼ばれてもいっこうに反応する様子がなく吠えつづける。
人間にはまるで動じないカモたちも、さすがにこの狩猟犬たちの剣幕には驚いたとみえて、あたふたと方向転換、いつもの散歩コースを外れて池からどんどん離れてゆく。しかも、カモたちの歩いてゆく先にはもうすぐ公園の出口が。若干の胸騒ぎを憶えて、
「ちょっと、ちょっと、そろそろ止めたほうがいいよ」
最前線でカモの親子を追っている時枝に号令をかける。
「よしきた! 」
時枝は公園の出口付近に先まわりして、野球の内野手のような姿勢で構えている。
時枝選手、見事なまでのトンネル。
ボールは外野をてんてんと転がってゆく、かのごとく、カモの親子は公園の外の今日に限ってはいやに広々しく感じられる道路へ解き放たれた。
「今日のキャッチボール、ゴロの特守だな」
なおも最前線でカモの親子を追いかける時枝に追いつくと、
「ちがうもん、こんなはずじゃなかったもん。シロちゃーん、もどっておいで」
「エラーしたひとは誰だってそう言うよ。ほら、イダテン、もどってもどって」
いまいちど先まわりしてカモたちを反転させようとするも、親ガモを先頭にカモたちは直進をつづける。
「畜生、このバカどりが! 」
「ほら、言わんこっちゃない」
自転車をひきながらカモたちを追いかけてきたおばさんが、二輪のタイヤで行く手を塞ごうとするもこれも敵わない。おばさんはさらに、つばの広い麦わら帽子を左右にシッシと振って威嚇してもこれも通じない。
カモたちの公園から飛び出したのが車通りの少ない住宅街に面していたのは不幸中の幸いだったかもしれない。カモの一行とすれちがう徒歩や自転車の近隣の住民たちは誰しもその可愛らしい歩みをみてニコニコしながらすれちがってゆく。たまに自動車が通れば、自ずと誘導隊が結成され、カモたちを轢かないように配慮がなされる。幾人ものひとびとがカモの一行に一時合流しては、また各々の本来の目的のために散り散りになっていった。
カモの一隊は柵に囲われた更地の一区画に入ってゆく。見通しのきく更地のいちめんはその全体を緑がかったブルーシートに覆われて、その上には穴のひとつ空いた半分のサイズのコンクリートブロックが無数に点在して重しとしてある。穴の向きはふしぎとひとつに統一されていて、無数にあるすべての穴から一様にその向こう側を覗くことができる。点在する灰色の石群は、地上絵のような何かの模様にみえてきそうで、そうはならない。カモたちはコンクリートブロックを避けてそのあいだを縫うように更地を縦断している。ときどき、穴をくぐる子ガモもある。
「こいつは壮観な眺めだね」
「ほんと、まるで映画みたい」
「知らない景色でもないのに、カモが通るだけでこんなにもちがってみえるんだ。あっ、いま穴くぐったのはイダテンかな」
「ちがうよ、シロちゃんだよ」
「じゃあ、あいだをとってシロテンにしようよ」
「えー」
「だって、額に白い斑点でシロテンじゃん」
「ちぇ」
公園からカモを追いかけている��参のカモ追いびとは、麦わら帽子をかぶって自転車をひきずるおばさんとの三人だけになっていた。おばさんは手帖にカモたちの姿をスケッチしているらしく、自転車のスタンドを下ろして手帖とペンを手にしては、少し遅れること自転車を引いてまた追いついてくる。あっちへフラフラ、こっちにフラフラするカモたちの鈍行列車ぶりに、おばさんは上手いことリズムを合わせているかのようだった。
やがて、一行は閑静な住宅街の奥地にひっそりと大きな鳥居を構える社へ辿り着いた。境内は大樹の囲いに鬱蒼と覆われ、どこか密教めいていて、鳥居につづく参道はあまりにも薄暗い。ここからでは敷地の全体像はとても把握できないが、けっこうな広さをもっていそうなことぐらいはたやすく想像することができる。こんな辺鄙ところに遠いむかしの、このあたり一帯がひとくくりに武蔵野と呼ばれていた当時のままのような雑樹林があるなんて思いもよらなかった。吸い込まれてしまいそうなほど立派で巨大な鳥居がぽかんと口を開けていながら、どこかひとの侵入を拒むような不気味さがある。事実あたりにはひと影はいっさいない。
「もしかすると、カモはここに向かっていたのかな」
時枝は鳥居のなかを指差した。鬱蒼として薄暗い鳥居のなかを。
「ちょっとなかをみてきてもいいですか。池があるかもしれないので」
おばさんは快く留守番を承諾してくれた。
「どうする」
「うん」
「どっちの」
「いく」
鳥居をくぐると嘘のように空気がひんやりと一変した。それにもかかわらず、いつのまにか蝉時雨に包まれていた。あまりにも静かで、その流星群のように降りそそぐ音のどこまでも隙間なく充満して、それ以外には何もきこえなかった。公園の特定保護の大樹ほどもある樹がそこらに図太い根を張り巡らせて敷居の石垣を裂いたり盛り上がらせたりしている。いったい樹齢はどれぐらいになるのだろう。
手水舎のほうへ歩いてゆくと、木でできた古ぼけた看板が立っている。どうやら境内の地図らしい。ペンキがほとんど剥がれて、ささくれ��った木肌が剥き出しになってはいるものの水色のペンキで描かれた楕円があるのはかろうじてわかる。敷地は想像以上に広い。ついでに柄杓で水を浴びると、木の音がカランとやたらに響いた。手水舎のさらに奥のほうに赤い頭巾を被せられた地蔵の群集がある。どの地蔵とも目が合う。じっと見られているように感じられた。
地図によると、池は本堂を越えたさらにその先にある。やぐら状に木材を組み合わせて底上げされた本堂は、さらに縦横に廊下を伸ばして、また別のお堂や蔵や厠と思わしき小屋に繋がっている。行く手を遮る廊下の床は頭よりもやや上にあり、どうやって向こう側へ行こうかと思案していると、廊下をくぐってゆけるよう石造りの階段が半地下へ伸びている場所がある。天井がずいぶん低く、頭をかがめて下りてゆくと、地下道は向こう側へ通ずる道のみならず、さらに左右にも伸びている。道の交わる地点で左右それぞれの道を覗くと、その道はさらに折れ曲がり、ちょうど誰かの後ろ足の歩き去ってゆくのが道角にチラリとみえた。
地下道を抜けると、様々な種の木々の群生する小道に出た。木々にまじって細長い石塔がぽつりぽつりと建っている。右手には依然としてお堂があり、微風が吹くと、瓦屋根のおうとつに木の葉がふれてシャリン、シャリンと音をたてる。お堂のなかからは、おそろしく低い声のお経がかすかにきこえてくる。小道を進んでゆくと、道の行止まりに、女神様の合掌している大きな石像の下に地蔵が大勢群がっている。と、ちょうどいま歩いて来たばかりの小道に覆い被さる木々の緑が向こうのほうでざわめいて、とっさに振り向くと、それがしだいに近づいて順々に木々をざわめかせてゆく。前髪が風になびいたかと思うと、しばらくして後方にある絵馬がカタカタと音をたてた。振り戻ると、地蔵の手に握られたいくつもの風車がいっせいにクルクルまわっている。まるで合掌する女神様が一陣の風を吹かせたかのようだった。
道は尽き、背丈より高い石造りの塀に辺りを囲われ、敷地はこれまでなのかと思うと、ひとひとりがようやくくぐれるほどの小さな門がある。時枝とひとりずつになって門をくぐると、驚いた。とたんに鬱蒼とした薄暗がりが解けて白い風景がひろがっていた。ひらけて広大な敷地に無数の墓石が並んでいる、縦横に、隙間なく、ぎっしりと、ただひとつだけ小ぶりの菩提樹がぽつんとやや斜めに生えているところを除いては。その菩提樹よりさらに先、墓石の途絶えるあたりに、それより先の視野を遮るように緑の群生がみられる。もし池があるとするなら、あのなかにちがいない。
ひゅるる、と、ひとすじの風が素肌をなめたかと思うと、あたりは急に静まり返り、透明な心地になった。すぐに音のない、音のないよりはるかに静謐な雨が降りはじめた。雨粒のひとつひとつは白い墓石に染み入り、瞬く間、自身の形づくった斑模様を塗りつぶしてゆく。やがて鈍い雷鳴が轟いて、不意にザアーッと来た。慌てて走り出す。斑模様は跡形もなく、墓石に跳ね返った雨粒が飛沫となって砕け散っている。一本だけの菩提樹とは平行線をたどりながら、背のほうへ後退りしてゆき、降りしきる雨の重圧に枝をしならせながら反発しようと揺れるさまは、まるで手を振ってさようならの挨拶をしているかのようだった。
驟雨はあっけなくあがった。対岸の雑樹林に着くと、葉脈をつたって葉先から零れる雨の滴が時折ボタボタッと落ちてくるばかりだった。服が湿って居心地が悪いので、ズボンの裾をたくし上げた。ギギ、ギギギ、と蝉が散発的に鳴いている。ここでもはやり、赤い頭巾を被せられた地蔵の群衆がじっとしてこちらの動向を窺っている。地蔵たちの視線を気にしながら歩いてゆくと、彼らは勢揃いして、いっせいに、コンパスの針を支点に円を描くように体をすすっと傾けた。やたら静かになったと思うと、いつのまにか蝉時雨が隙間なく空間を埋め尽くしていた。
と、地蔵の背後の木々の隙間に、深い藪に覆われた飛び石の小道がある。池があるとするなら、もうこのなか以外にはありえない。きっと池の畔に通ずる道なのだろう。藪は胸のあたりまで高さがあり、草を掻きわけながら、飛び石をひとつひとつつたって下りてゆく。あまり人通りがないのか、草のみならず、蜘蛛の巣も払い除けながらやっと下ってゆく。まもなく藪を抜けそうな、濃い緑の池の水面がみえてきたとき、ふいに胸騒ぎを憶えて足もとをみると、ながいながい蟻の行列が石のおうとつに通っていた。もう少しで蟻たちを踏み潰すところだった。その裾をたくし上げた剥き出しの脚をみて、ギョッとした、一瞬血の気がひいた。青白い素足に無数の黒い斑点が纏わりついて、ほとんど真っ黒になろうとしている。それらすべてが血を吸いに集まった蚊であった。
一目散に飛び石を駆け上がった。気味が悪かった。そのまま無我夢中で走り続けていると、いつのまにか住宅街を貫いてふたつに区分している環状道路沿いに出ていた。大型のトラックが地響きをたてて地面を揺らし、蝉時雨もきこえなかった。
無意識に走っているうちに、入って来た時とはちがう場所から出たらしかった。
「この場所わかる」
「うん、なんとなく」
「ああ! 」
「どしたの」
「グローブどこかに忘れてきた」
時枝はじぶんの両手がどちらともに塞がっていないを急に思い出してソワソワし始める。
「いやいや、あなたのはじぶんできちんと背負っていらっしゃる」
「おぼえてないの」
「うん、さっぱり」
「でも、急がないと。待たせてるんだし」
「それはそうだけど、せっかくもらったんだし。それに…… 」
大型のトラックが二台も三台もたて続けにすぐ真横を通過した。地響きが鳴り止むと、こんどは排気ガスが顔に煙たい。運転手が窓から放り捨てたのかなんなのか、新聞紙が一枚々々バラバラに分かれて散って、そのひと千切り、ひと千切りが風に低く舞いながら道路上を占拠している、まるで西部劇の舞台を転がる枯草のように。
「それに」
「すごく嬉しかったし」
「そうなんだ。嬉しかったんだ。ぜんぜん知らなかった。でも、なんか嘘くさい」
「嘘じゃないって」
「だって、そんなこと、日記には何にも書いてなかった。やっぱり嘘だ」
「そんなことないよ。だって、あれからしばらく、グローブの下に挟んであった置き手紙をひろげては、時枝さんってどんなひとだろうって、字づらから想像してたんだから。でも何度も言うようだけど、うまいこと渡ったもんだよね。奇跡だよね。手紙のおもてが《グローブなしで壁あてをしている左投げのきみへ》だったのには笑ったけどさ」
「そんなのたまたまグローブのない不憫なひとがいて、弟の使い古しがあったからだよ」
「それにしたって、ほかの誰かが持っていってたかもしれないよ。捨てられてたかもしれないし」
「そんなの、いっつも決まって同じ時間に壁あてしに来るんだもん。ちゃんとそうなるように計ったの」
「まあ、規則正しい生活には定評があるからね。でも、それだったら直接渡してくれてもよかったのに」
「そんなの、いきなりじゃ変なひとみたいじゃん」
「それもそうか」
社の外側をぐるっと大周りして、もとの地点にもどってくると、カモの姿も麦わら帽子のおばさんの姿もみられなかった。が、少し離れた道角に、おばさんの麦わら帽子が落ちているのを発見。風で飛んでいかないよう、麦わら帽子のなかにはバナナが重しとして置いてある。さらにその道角を曲がった先に、もうひとつバナナが置いてある。つぎの道角にもまたバナナが。そうしてバナナをひろっては麦わら帽子なかへ入れてゆくと、レンガ造りのマンションのまえに自転車が停めてある。そのマンション占有の駐車場におばさんとカモはいた。
「すっかり遅くなってしまって、すいませんでした」
バナナで一杯になった麦わら帽子を差し出すと、
「いえいえ、そんなことないですよ。これ、もしよかったら」
と、バナナを一本ずつ差しもどしてくれる。
「雨は大丈夫でしたか」
「いえ、こっちでは降っていないですけども」
そう言われてみると、水たまりはおろか、道路は湿ってすらもいない。よほど局所的な雨だったのか、それとも見てはならぬものみてしまったのか。
「それならよかったです。あ、これ頂きます」
バナナを剥くと、先っぽにひとつ黒い染みができていた。甘くて美味しい。
「見ての通り、この駐車場、袋小路になっていて。入口から出るということを知らないんですかねえ。さっきから出口を探そうとしてるみたいなんですけど、頑なに入口にはもどってくれなくて。これじゃあ帰ろうにも帰れない」
「鳥頭とは言ったものですけど、意外におぼえているんですかね」
「池はどうでしたか」
「あったにはあったんですけど、ここからだと公園にもどったほうがずっと早いと思います」
「そうでしたか」
親ガモは袋小路の金網フェンスにクチバシを突っ込んでみたり、噛み切ろうとしてみたり、道なき道をどうにか切り拓こうとしている。子ガモたちは手帖を片手にスケッチをとるバナナおばさんの足もとをチュンチュン歩きまわっている。
やがて、とうとう親ガモは出入口はひとつしかないことを、入って来たところに戻らなければならないことを悟ったのか、からだを反転させて、休日で車の出払った駐車場を歩きはじめた。子ガモたちも戯れをやめて、しっかりと親ガモのあとに続いてゆく。これでようやく、と思った。肩の荷が少し軽くなったような思いだった。ヒナがすぐにいなくなってしまうのはカラスの仕業だけではないだろうと考えはじめていた。数日前、近所の道端に干乾びた小鳥の亡骸があったのは、もしかすると鴨のヒナだったかもしれない。そういわれてみると、日に々々骨と皮だけになってゆく亡骸の足に水掻きのようなものが付いていた気がしなくもない。
カモたちは平たい水掻きの付いた足でペタペタと駐車場を歩いている。親と子で大きさはずいぶんちがっていても、歩き方のほうは、まあそっくりである。と、親ガモにつづく子ガモの列から一羽の姿が唐突に消えた。マジックショーか何かのように、消えた。頭のほうでの理解が追いつかず、そのまま棒立ちになって立ち尽くしていると、さらに残りの三羽がごそっとおなじように消えた。時枝がバナナの皮を落っことして駆けていった。親鳥もすぐにこの事態に気がつき、あてもなく困惑した様子で周囲を窺っている。
何ということか、カモたちがそのとき歩いていたのは、地下に組み込まれた立体駐車場のてっぺんだった。ところどころに僅かな隙間があり、そこから子ガモたちは駐車場の地下へと落下したらしかった。
三人で手分けして、四つん這いになって、立体駐車場の隙間をのぞく。まもなく四羽の姿を目視。地下一階や地下二階の自動車の収まるスペースではない、いちばん底のコンクリートまで落ちている。地下に落下しても、四羽が仲良く一列になって、雨水を通すための浅い側溝をぺちぺち歩いているのがチラリと垣間みえた。なにしろ隙間が小さいので、子ガモたちの姿のみえたのはそれっきりで、耳を澄ますと辛うじてきこえてくる例のピイ、ピイの鳴声だけが子ガモたちの居所を伝えてくれた。
親鳥はガーガー鳴きながら、まるで何かの威嚇かアピールのように胸を張って翼をバサバサ開き閉じしている。突然、翼をひろげながら走り出し、もとの袋小路に戻ったかと思うと、また子ガモの落下した辺りまでやってきて、俯き加減にクチバシで周囲を突きながら右往左往としている。が、ふいに飛び立った。ずっと地べたを歩きまわるのを追っていたせいか、鴨が飛べるという事実をすっかり忘れていた。かりに子ガモが救出されても、親鳥がいなければどうしようもない。
慌ててマンションの管理室へ駆け込んだ。休日なので受付の小窓には内側からカーテンがかけられている。マンションの出入口で思案に暮れていると、空から親鳥のガーガー鳴く声がきこえた。どうやら諦めたのではなく、マンションの上空一帯を飛びまわって探しているらしい。こちらも負けてはいられない。ちょうどマンションに帰って来た住人と思わしき奥さんに勇気を出して声をかける。それでもやはり躊躇いがあったのか、いざ一歩目の踏み出しが遅れてしまい、後ろから追うかたちで、
「あのう、すみません」
まるで反応がないので、すぐ隣までまわりこんで、
「すみません」
すると奥さんはビクッとして、
「え、わたしですか」
はじめこそ、べっこう色の縁の付いた眼鏡の奥で不信そうな目をしていた奥さんは、カモの赤ちゃんという言葉をきいて態度を一変させた。奥さんも公園の池で子ガモをみていたのだった。
「うん、うん、それで今はどちらに」
「いました、いました、あれですよ。ああやって探しているんです」
奥さんを子ガモの落下地点まで案内する道すがら、また親鳥がガーガー鳴きながら上空を飛んでいった。
「たしかに、この下にいるんですよね」
「耳を澄ましてみてください。鳴いているのがきこえるので」
またしても親鳥がガーガー鳴きながら飛んでくる。それを見送ってから、四人でそろって押し黙り、立体駐車場の上にしゃがみ込むと、やはり、ピイ、ピイ、と子ガモの悲痛な鳴声がきこえてくる。時枝は急に思い出したみたいにすくっと立ち上がり、さっき落としたバナナの皮を拾いにいった。
と、そこへマンションの裏口から駐車場に出てくるチェックの短パン姿の壮年の男性がある。時枝はバナナの皮を拾うのも忘れて、彼を立体駐車場の上まで引っぱってくる。
「ほう、ほう、そうでしたか。ちょうど車で出掛けるところだったんです。上げてみましょうか。この下ですから、私の車」
チェックのパンツからキーケースを取り出し、柱に埋め込まれた鍵穴に差し込んで、回した。気持ちは急いでいるのに装置の作動は緩慢きわまりなく、男性はそれを知っているのか、片手で鍵は回したまま、手持ち無沙汰になったもう片方の手を腰にまわして、さらに足を組んで、首を傾げ、変なポーズのような姿勢をとっている。ようやく、鈍くて荘厳な機械音とともに動作が開始されると、まるで寝息をたてる鯨の腹部のような鈍重さで、それまで足もとにあったてっぺんが盛り上がってゆき、全部で四列ある立体駐車場のうちのひとつがその本来の姿をあらわした。
「これで一段。あと下に三段つづいています。いちばん下まで上げてみますか」
「はい」
とはいっても、立体駐車場を底上げしたからといって、子ガモが上がってくるのではなく、無闇にてっぺんが高くなっているだけである。子ガモはさらに底のコンクリートまで落ちている。
「これって、半端なところでは止められないんですかね。階と階のちょうどあいだとか。そうすれば隙間をジグザグに縫って、いちばん底まで降りていかれるような気がするんですけど」
「いやあ、たぶん、そういうことができないように、しっかりと切りのよいところでしか止まれないようになってるんですよ」
「ですよね」
「私、そろそろ出なくてはならないので、すみません。駐車場の鍵はお預けしますので使ってください」
「✕○△号室の某といいます。鍵、有り難くお預かりします」
「私は✕○△号室の某です。代わりと言ってはあれですが、理事長を呼んでおくので」
「理事長さんとお付き合いあるんですか」
「じつは昨夜も遅くまでやってたんですよ」
クイッとお酒を飲む仕草をすると、
「彼、今日はずっと家にいると言っていたので、すぐに電話しておきます」
車が駐車場から出てゆき、まもなく裏口から理事長さんがやって来た。よれや色落ちのまったくないパリッとしたジーンズを穿いて、白んできた頭髪を色濃い焦げ茶色に染めてある。
「✕○△号室の某さんから連絡をもらいました✕○△号室の某です」
「✕○△号室の某といいます。理事長さん、わざわざありがとうございます、お休みのところ本当にすみません」
「いやいや理事長さんだなんて、某でけっこうですよ。それに順番がまわって来たので慣習にならって引き受けたまでです。そうはいっても当マンションきっての一大事ということですから、微力ながらお力添えできたらと思います」
と、そこへ駐車場の出入口からなかの様子を窺っていた親子がおっかなびっくり入ってくる。父親と息子、背丈はちょうど倍ぐらいちがっていて、ふたりとも小柄な丸顔で、風体も顔つきもとてもよく似ている。
「ど、どうかされたんですか」
「カモの赤ちゃんが立体駐車場の下に落ちてしまったんです」
「ええ! さっきまで僕たちも公園にいたんですよ。急に姿がみえなくなったと思ったら、こんなところまで来ていたんですね」
父親は息子の顔のちかくまで屈んで、
「カモの赤ちゃんが落ちちゃったんだって。ほら、さっきまで公園にいた」
息子の手には手作りのザリガニ釣り用の竿が握られている。
「四匹ともですか」
「そうなんです、四匹とも。この方たちが落ちたところをみたって。それからずっといてくれてるんです。でも、生きてはいるみたいで、たしかに鳴声がきこえるんです」
「昨日は六匹で、今日は四匹ときて、また猫かカラスにやられたものだと思っていたんですけど、とにかく生きていてよかったです」
父親はまた息子の顔のちかくまで屈んで、
「カモの赤ちゃん、生きてるんだって」
「ぼく、これで釣り上げてみる」
「うーん。これじゃあ、ちょっと長さが足りないよ」
時枝とバナナのおばさんが息子さんを落下地点へ案内してあげた。
「ここの住人さんですか」
父親に尋ねてみると、
「いやあ、まったくの通りすがりです。いったい何事だろうと思いまして。しかし、大変なことになりましたなあ��
「そうだったんですね。じぶんたちも住人ではない���ですよ。公園から出ていったカモの行方を追っていたら、まさか、まさかの」
べっこう色の眼鏡の奥さんと、理事長さんは、腕を組んで真剣な面持ちで今後の打ち合わせをしている。
「やっぱりそうですよね。私もそう思います。うちの旦那が家に居ますから、番号を調べて持ってきてもらいましょう」
どうやら、とりあえずマンションの管理会社に相談することに決まったらしい。まもなく旦那さんがチラシの切れ端を持って下りてきて「✕○△号室の某です」と理事長さんに挨拶をした。旦那さんにくっついて、小学生ぐらいのふたりの兄妹も下りてきている。三人そろって部屋着に毛の生えたような恰好をしている。さらに一家と付き合いのあるらしいもうひと夫妻が「✕○△号室の某です」と挨拶をして合流した。
「あとのことは皆さん方にお任せしようかしらね」
バナナのおばさんは、ばつが悪そうに、そっと自転車をひいて駐車場が出ていった。
まずマンションの管理会社は、休日なので対応できる人員がいないこと、マンションの管理会社とはべつに立体駐車場の管理会社が存在していることを教えてくれた。べっこう色の眼鏡の奥さんが電話番号を復唱して、旦那さんが息子の背中を台代わりにしてメモをとる。妹のほうは長くなりそうと踏んだのか「着替えてくる」と言って部屋へ駆けていった。
ついで立体駐車場の管理会社は、休日で対応できる人員がいないのでマンションの管理会社に連絡したほうがいいのではないかということ、以前に怪我人がでているので許可なく立体駐車場のなかに入ってはいけないということ、どうしようもないのなら警察に相談してみるのがいいのではないかということを教えてくれた。
それならば、ということで、ついに一一〇番することになった。これまで流暢に電話口の対応を続けていたべっこう色の眼鏡の奥さんも、さすがに相手が警察官となると形式的にきかれることが多いのか、たどたどしく話を展開した。それから、じっさいに子ガモの落下を見たひとを出してほしいとの要請で、たしかに見ました、と証言した。
「たしかに駐車場の地下に落ちて、それを見たんですね」
と、電話口の警察官がくりかえすので、
「あまりにも一瞬のことで、子ガモが消えたかのようにみえましたけど、鳴声はきこえますし、地下の側溝を歩いているのもみました」
と、証言した。べっこう色の眼鏡の奥さんに電話を戻すと、さいごに住所、マンション名、それから「✕○△号室の某です」と通報者の氏名を名乗って、ながい電話が終了した。
妹が外行きの恰好で戻ってきて、父親の脇にぴったりくっついた。そして、ちょいちょいとTシャツの裾を引く。父親が身を屈めると、耳元に両手をそえて、こしょこしょと何かの内緒話をする。話を聞き終えると父親は、うんうんと頷いて、娘の頭を撫でた。
遅いですね、まだですかね、という会話を幾度かくりかえしても警察官が来ないので、近くの自動販売機まで冷たい水を買いにいった。喉がカラカラだった。時枝は三台ある自販機を四往復ぐらいして、得体の知れない邪悪な色の清涼飲料水のボタンを押した。ガッシャーンと缶が落ちてくると、ピロピロした電子音が鳴り、自販機のディスプレイにおなじデジタル数字が三つならんだ。ガッシャーン、得体の知れない邪悪な飲料がもうひとつ落ちてくる。
「あげる」
「えー、いらないよ、そんなの」
とは、反射で言ったものの、
「ちょっと毒見させて」
やっぱり時枝のをひとくち貰うことにする。落ちてきたばかりの冷たい缶の表面には薄っすらと水滴が張り巡らされている。
「マズ……」
時枝もひとくち口に含んで、
「なにこれ……」
「なんでこんな変なの選んだの。しかも、もうひとつ出てきちゃって」
「ごめん、ちょっと水もらっていい」
「いいよ、いいよ、飲みな。これはさすがにまずいって」
駐車場に戻ると、腰のひん曲がって杖をついている老人がひとり増えてはいても、警察官はまだ来ていない。
「ぼくものど渇いた」
そっくり親子の子どもがぼやくのをすかさず耳にして、
「これ、もしよければ。当たったんです」
「いやあ、いいんですか」
「でも、もの凄く不味いので、毒見したほうがいいかもしれないです」
ひとくちずつ飲んだきり、まったく中身の減っていない缶を手渡すと、子どもはちいさな両手で缶を受けとめた。そのまま両手で口まで持っていく。べえええ、いちど口に含んだものがそのまま口から流れでた。
「こらッ、みっともない! 」
「いいんです、いいんです、ほんとうに不味いんですから」
「お父さんもおひとついかがですか」
と、時枝が続いた。
「はあ、それではおひとつ」
息子が両手で缶を差し出すと、
「不味い! これはたしかに不味いですなあ」
そうこうしているうちに、ようやく若くて色白な警察官が、あからさまにタラタラ自転車を漕いでやって来た。その目に見えた態度とは裏腹に、警視庁とプリントされた紺色の制服はガチッとして、重そうで、形式的な威厳にあふれている。
まずは通報者の✕○△号室某さん婦人が招集され、電話口でも話したであろう形式的な質問の応答がはじまった。第一印象のとおり、この若い警察官は語尾がいちいち投げやりで、もともとがそうなのか、あるいは上官に嫌な役回りを演じさせられてそうなっているのか、はたまた別の理由によってそうなっているのかは分からなかった。
ついで、目撃者として、私、あるいは彼、あるいはKが招集された。電話口よりももっと仔細に、この子ガモたちを初めてみて、落下するのをみるまでの経緯をひとつびとつ詳しく質問されることとなった。✕○△号室某さん婦人の時と同様にメモを取りながらの質疑応答ととなった。社でのことは、わざわざ言うべきことではないと思い、あえて省いた。
「ではKさん、あなたは、鴨が公園から出て行くのをみすみす見逃したんですね」
「いえ、そうではありません。カモたちが公園から出ていってしまってはいけないと思って、どうにか止めようと努め���した」
「しかし、Kさん、あなたは鴨が公園から出ていき、その後を追っていったとおっしゃった。ほんとうに公園から出て行くのがまずいのであれば、首根っこを掴んででも連れ戻すべきではなかったんじゃないですか」
「それができれば苦労はしないですし、こんなことにはなっていませんよ」
「なぜ、どうしてです」
「それは、それは、お巡りさんだって、あの場にじっさいにいれば、そうする他なかったと思いますけど」
「そんなことはないですね。私だったら、もし鴨をほんとうに公園の外に出したくないのなら、首根っこを掴まずとも虫捕り網か何かで捕獲して連れ戻そうとしますけどね」
「そんな、虫捕り網なんて、その場にはなかったわけですし」
「いえいえ、あなたは何か勘違いをしていらっしゃる、あくまでも例えの話です。Kさん、あなたは、鴨が公園から出て行ったのは犬が吠えたせいだとおっしゃった。しかし、飼い主だって、犬をどうにか止めようとしていたわけでしょう。事実、飼い主が犬を止めたお陰で、少なくとも鴨は喰い殺されずに済んだ。そのことについてはどうお考えですか」
「そんな、鴨と犬のはなしを一緒にされても」
「ほう、ひじょうに興味深い話だ。いや、私がこんなことを言うのは、鴨も犬もひとしく動物だと思うからです。何がどうちがうのか、是非ともお聞かせ願いたい」
「だって、鴨と犬ではどう考えても立場がちがうでしょう」
「ほう、立場とおっしゃる。立場とは、例えば、裁かれるものと、裁くものとのあいだに生じる差異のことですか。今回の場合で言うなれば、吠えられるものと、吠えるものとのあいだに生じる差異、ということになりますか」
「お巡りさん、いったい何を言っているんです。子どもは必死に犬のリードを握って、しかも二匹もですよ、力の限り止めようしていたんですよ」
「そう、そうなんです。私が聞きたいのはまさにそのことなんです。子どもですら犬を必死になって止めようとした。しかし、あなたの話からはどうもその必死さが感じられないんです。たとえ虫捕り網を持っていたとしても、子どもが犬にそうしたように、必死になって止めようとしたかどうかは疑わしい」
「それは、犬は、飼い犬ですから、周りに迷惑をかけないように」
「それなら鴨はいいと言うんですか。自分で言うのもなんですけど、警察が出動しているんですよ。私も暇ではないですし、取り締まらなければならないことが他にも山ほどある。いえ、すみません、ちょっと言い過ぎました。この対応も警察官としてのひとつの義務ですから。いまのは忘れてください」
「いえいえ、こちらこそ。きちんとした応答ができずに、申し訳ないです」
「しかし、あながち無関係でもない。いや、先ほどはほんとうに失礼しました。つい私情を挟んでしまって。ただ、飼い犬については迷惑をかけないようにときちんと思われるのに、カモさんたちについてはそこまで思われないのはどういうことかと思いまして。むしろ、カモさんが自動車に轢かれないように配慮までされていますよね。飼い犬であればそうなる前に止めているはずでしょう。まさか飼い犬のために自動車のほうに道をあけさせるなんてことはしないはずです。Kさん、あなたの場合は、いまひとつ対応が後手にまわっているといいますか。やはり、それよりももっと、轢かれるなりして大変なことになるのを未然に防ごうとする心理が働くのではないですか。なにせ飼い犬が轢き殺されてしまえば悲しいですし、そればかりではなく、やろうと思えば未然に止められたことを止められなければ罪悪感を抱くと思うんです」
「いやはや、お巡りさんの話には目から鱗が落ちる思いです。まず、この事態がお巡りさんの手を煩わせていることをもっと辛辣に考えてみるべきでした。そして何より、確かに必死さが足りていなかった。最悪の事態を未然に防ごうともしなかった。ただ、情けないことに、お巡りさんに言われるまでは気づかなかったことですが、あるひとつのことを尊重していたんです」
「ほう、それはいったい何ですか」
「鴨の自由です」
「鴨の、自由」
「そうです。そうなんです。きっと心のどこかで、カモたちに必要以上の干渉をすべきでないと思っていたんです。それでもやっぱり、最悪の事態は避けたいですから、あとを追いながら見守っていたんだと思います」
「なぜ、鴨に干渉すべきではないと」
「それは、このカモたちは野生の生きものだからですよ」
「ありがとうございました。これでようやく答えが出ました」
聴衆の注目が警察官に集まった。警察が来ていることで、さらに野次馬が増えていた。
「まず、第一に」
あたりは静まりかえり、誰かの唾を飲みこむ音がきこえた。
「某さんは、立体駐車場の管理会社から、許可なしになかへ侵入してはいけないと言われている。警察といえども、これを勝手に破るわけにいかないのは承知頂けますかな」
「それは、その通りです」
「ただ、事情が事情であれば、警視庁のほうで適切な令状を出し、正式な手続きをいくつか踏んだ上で侵入することは出来なくはないでしょう。それにしても、管理会社のほうは今日は対応できないと言っておられるようだし、何しろ手続きというものにはいつも大変な時間がかかる。明日になるか、明後日になるか、もしかすると一週間かかるかもしれません。その頃には鴨は衰弱して死んでいるでしょう」
誰しもが口をつぐんだ。
「そして、第二に、つい先ほどKさんは、この鴨が野生だとおっしゃった。野鳥というのは基本的に警察の管轄外にあたります」
色白の若い警察官は、管轄外の外のところにアクセントをつけて強調した。
「これが誰かの所有物であったり、つまりペットですね。あるいは誰かや誰かの所有物に著しい危害を加える可能性のある動物、たとえば熊とかイノシシですとか、そういった場合は警察の管轄内になります」
色白の若い警察官は、管轄内の内のところにもアクセントをつけて強調した。
「今回のケースはどう考えても警察の管轄外にあたります。当然ですが、管轄の外にでる行為は法律で違法と定められています。警察が違法行為をはたらくとどうなるかはご存じですね。いえ、警察に限った話でありませんでした。はい、そうです、クビです。私もさすがに鴨でクビにはなりたくないですから。わかっていただけますか」
誰も、何も言えなかった。色白の若い警察官は振り返り、聴衆はぞろぞろと重い足どりで彼のために道をあけた。と、
「じぶんのクビと、よっつの命と、どっちが大事なんだ」
そっくり親子の息子が口走った。子どもの声を止めようとしたり、諫めようとしたりする大人はここにはひとりもいなかった。ところがこんどは、さらに果敢なことに、足もとにあったバナナの皮を投げつけようする。これにはさすがに止めが入り、しかし、小さくてすばしっこい子どもは大人の手をすり抜けてゆく。ポーン。バナナの皮は見事に警官の後頭部に直撃。時枝がすかさず皮を拾いにゆく。
「すみません、ほんとうにすみません。バナナを食べたの、じぶんなんです。投げたのは子どもですけど。だからって、子どもに罪があるわけじゃないんです。バナナの皮を放っておいたじぶんが悪いんです。いつだってバナナはひとに危害を加えるでしょう、転んでしまったり。それを放置して未然に防ごうとしなかったのがいけないんです。お巡りさんも言ってたじゃないですか」
「いえいえ、慣れっこですから、こういうことは」
「これ、よかったらもらってください。まだ買ったばかりでよく冷えています」
時枝は当たったほうの未開封の缶を差し出した。
「いやいや、受け取れませんよ、そんな」
「いいんです、いいんです。こんなことで呼んでしまって、さらに失礼な態度まで」
「いや、ほんとうにお気持ちだけでけっこうですから」
「いえ、ちがうんです、そうではなくて、こっちの気が済まないんです。あまりにも申し訳がなくって。これじゃあ喉に魚の骨が刺さったままでいるみたいで。ひとに親切でもするつもりで、ちょっとした人助けでもするつもりで、受け取ってもらえませんか。それとも、そういった行為も管轄外だと言うんですか」
「そこまで言うのなら受け取りましょう」
色白の若い警官は受け取った缶ジュースをかかげて、軽く聴衆にお辞儀をした。そっくり親子の父親が拍手をして、その拍手は事情を知らない聴衆全体にもひろがっていった。
警官は来たときと同様にタラタラ自転車を漕いで遠ざかってゆき、しばらくすると、プシュッとプルタブを引く音がきこえた。
「それにしても長い問答でしたね。お疲れ様でした。なにもあんなにまどろっこしくしなくても、野鳥は管轄外ですのひと言でよかったような気もしますけど」
べっこう色の眼鏡の奥さんが労ってくれた。
「いえ、ちがうんです。ただこのひとが偏屈なだけですよ。挙句の果てには、鴨の自由、とか何とか言ってみずから墓穴を掘っちゃって、ああ、恥ずかしい」
「そんなことないですよ、堂々として立派でした。それにあなたも。さっきの対応はほんとうに素晴らしかったですよ。事態はちっとも好転していないのに、どうしてかハッピーエンドみたいになってしまうなんて。子どもを庇っただけでなく、お巡りさんの立場まで、ねえ」
「ちがうんです、そんなに褒められたことじゃないんです。あの缶ジュース、じつはものすんごく不味くて、あの警官にちょっとでもダメージを与えてやりたくて、それで。厄介払いもできたし、ちょうどよかったんです」
「まあ! 」
べっこう色の眼鏡の奥さんは口に片手をあてて笑った。
ガヤガヤと人員が増え、時間がいたずらに経過したばかりで、為すすべもないまま事態はふりだしにもどってしまった。むしろ、後退したと言うべきかもしれない。時間だけが経ち、採るべき選択肢は減り、その代わりに禁止事項が増えたのだから。
杖をついた老人は、立体駐車場のてっぺんに立ち「ひらけー、ゴマ! 」とか「モーセよー、海を割りたまえ! 」とか言いながら足もとを杖でカツン、カツン叩いている。もはや神頼み、これでは世間話でもするほかなく、そっくり親子の父親に、
「息子さん、サウスポーなんですね。じつはじぶんもなんです。さっきの投げっぷりは凄かったなあ。それにコントロールも抜群で。きっと将来はいいピッチャーになりますよ」
「いやあ、お見苦しいところをおみせしてしまって、さらに庇ってまでいただいて」
と、そこへバナナおばさんが戻ってきた、自転車のカゴ一杯いっぱいにバナナを積んで。
「実はさっきも、知人のところへお裾分けしに行くさいちゅうだったんです。まだ家に段ボール箱で沢山あってとても食べ切れないので、ちょうど良いかと思いまして。でも、こんなに大勢になってしまって、これで足りるかしら」
バナナの皮事件の目撃者たちは、なるほど、こういうことだったのか、とクスクス笑い合っている。バナナのおばさんはクスクスと注がれる視線に、
「いったいどうしたのかしら」
と言いつつ、すぐに話を切り変えて、
「それで、あれからどうなりました」
と、まるで秘密の話でもするように声をひそめて言う。もしかするとバナナはあくまでも建前で、この場の当事者として鴨の行方を見守る正当な理由が欲しかったのかもしれない。さっきのバツの悪そうな去り方からして、そんなふうに思われてくるのだった。すると、そこへ理事長さんがバナナを片手にやって来て、
「差入れありがとうございます。脳の血糖値が下がっては、良い解決案も出ませんからな。マンションを代表してお礼申し上げます」
「いいんです、いいんです、ちょうど良かったものですから。こっちが助かってしまったぐらいなんです」
肩書ばかりで実際にはとくに何もしていない理事長さんも、ときには意外なところで役に立つと思った。その行動が功を奏したかどうかは別にして、いちばんの働き者として鴨救出部隊を引っぱっ��いるべっこう色の眼鏡の奥さんも、
「戻られたんですね。実は方々に連絡して、警察にも来てもらったんですけど、まだダメなんです。なにか良い知恵があったら教えてくださいね」
と、バナナのおばさんを迎えている。
どんよりしたムードだったのが、バナナおばさんの再登場で、いい具合に仕切り直しとなった。大勢の大人子どもが揃いもそろってバナナをむしゃむしゃ頬張りながら、救出方法の議論をはじめたり、いまいちど立体駐車場のてっぺんにしゃがみ込んで子ガモのピイ、ピイの鳴声を聞き取ろうとする。落ちたばかりの頃より、確実に鳴声が小さくなっている。どうにかその鳴声を聞き取ろうと耳を澄ませていると、ブルブルと自動車のエンジン音が。サーフボードを積んだ白いアメ車が駐車場に入ってくる。白いキャップをしてサングラスをかけた比較的に若い女性が窓から肘を出して様子を窺っている。助手席には同じくサングラスをかけた男性がいる。女性はサングラスを外すと、
「みなさん、揃いもそろってバナナを持って、いったいどうされたんですか」
「カモの赤ちゃんが立体駐車場の下に落ちてしまったんです」
「え、カモの赤ちゃん。え、それでバナナはいったい」
「いえ、バナナはなんでもないんです。カモの赤ちゃんが隙間から地下に落ちてしまって」
「え、���ょっと状況がのみ込めないんですけど、車は停めていいんですよね」
「あ、はい。大丈夫ですよね」
べっこう色の眼鏡の奥さんが理事長さんに決断を振ると、そうするほか仕方がないといったふうに黙ったままゆっくりと頷いた。
白いキャップの女性は肘についで頭も窓から出して、車を反転させてから、バックで車を立体駐車場のてっぺんに駐車した。車の動きに合わせてバナナを持った大勢のひとが場所をあけるためにぞろぞろと連れ立って移動した。若い男女ふたりは大きな荷物を抱えて車からでてきて、いまいちど事情をきくと「それは大変ですね」と言って、大きな荷物を抱え直して部屋のほうへと運んでいった。
それはもちろんドライなひとだっているだろうと、大きな荷物とふたりの後ろ姿を見送ってから、しばらくすると、さっきのサングラスの男女が意外にも変身して、いや変装してもどって来た。男のほうは繋ぎの作業服に、頭にはタオルを巻いて、手には大きめのライトを持っている。女性のほうは上下ともに黒に白のラインの入ったジャージに、髪はすっきりとポニーテールにまとめてある。変装とはいっても、いったいどっちの姿がほんとうなのか分からないほどの変わりよう。
「どうもどうも。ちょっと地下までおりて様子をみて来ますよ。なんなら助けられるかもしれないし。虫捕り網とか持ってるひとはいないですか。生憎、うちにはなくて」
「それなんですけど、立体駐車場の管理会社から許可なしにひとが入ってはいけないと言われているんです」
「だいじょうぶですよ。このひと、電気工なんです。いつも高所とかで作業してるみたいなんで、ぜんぜん平気なんですって。ねえー」
「いや、たしかに高所で作業はしてるけど、地下の経験はそんなに。それに許可なしでは……」
「なあに言ってるの。その気があるからわざわざ着替えて来たんでしょ。とっととやっちゃいましょ」
「それもそうだな。ヨッシャ。じぶん、先に下おりてるんで、お子さんのいる家なんかで虫捕り網があったらよろしくッス」
そうして、あれよあれよという間に、いちど上まで引き上げられた立体駐車場の駐車スペースに乗って、キーの操作は上の人間に託し、繋ぎの作業服の兄ちゃんはきわめてゆっくりと周囲のひとびとに見守られながら下っていった。最後は首だけになり、気の利いた冗談のつもりなのか、親指を立てた握りこぶしを頭上に掲げながら、やがてそれもみえなくなった。
それにしても、男のほうはともかくとして、ジャージのお姉さんはわざわざ着替えてくる必要があったのか。よく見ると、お化粧まで小ざっぱりとしたものに変わっている。芸の細かさと、気合の入りようには唯々感心した。あるいは単に、そういう文化をもっているひとなのかもしれない。
一段、二段、と駐車場が地下に収まってゆき、そのたびごとに「はーい、もう一段下ろしてくださーい」と地下から声があがる。声は回を重ねるごとに小さくなる。とうとうてっぺんが足もとまでくると、さらに「もう一段」とずっと下のほうから反響した声がきこえてくる。もうこれ以上は下げられない旨を伝えると「了解でーす」と反響した声がかえってきた。そっくり親子の子どもが隙間から地下の様子を覗こうとする。
「何かみえた」
「ううん、なんにも」
「あげてくださーい」
地下から反響した声があがった。
「ねえねえ、このままここにいてみてもいい」
そっくり親子の父親がすかさず、
「駄目だよ、危ないから。はやくこっちに来なさい」
「それなら、いっしょに付いていましょうか。立たせないで座らせておけば大丈夫でしょう」
「いやあ、いいんですか」
「子どももそろそろ疲れてきたでしょうし、ちょうどよい息抜きになりますよ」
「いやあ、そうですか。それならお言葉に甘えて」
それならば、僕も、私も、と✕○△号室の某夫妻の兄妹も名乗りをあげる。べっこう色の眼鏡の奥さんも、いちど禁を破って吹っ切れてしまったのか、
「そしたら、あげてやってもらってもいいですか」
「ぜったい立たたないようにしっかり掴んでおきますから、安心してください」
ひとりで三人の子守は荷が重いので時枝に号令をかけると、
「よしきた! 」
そっくり親子の子どもを時枝が抱えることになった。こちらも兄妹を並んで座らせて、背後からふたりの肩に腕をまわす。ゆっくりと、ゆっくりと、尻もちをついている地面が盛り上がってゆく。親御さんたちは子どもが遊園地のアトラクションに乗って、やがて、みえなくなるのを見送るように手を振った。
「それじゃあ、アレだ。じぶんたちはアトラクションの座席に付いてる安全バーなんだな」
となりの時枝に声をかけると、
「ウィーン、ガッシャン」
と言いながら、安全バーに見立てた腕をそっくり親子の子どもの頭上から下ろし直した。
「安全バーのロックがきちんとかかっているか、確認してください」
そっくり親子の子どもが時枝の腕をガッシャン、ガッシャン揺らしてみる。
「だいじょうぶ! 」
「こっちもやっておく」
いちおう兄妹に尋ねると、
「いい」
と冷めた返事がかえってきた。
だんだんと見晴らしがよくなってきて、公園の大樹の緑の先がみえてきた。緑はすり鉢状の反対にひろがってゆく。よくみると、木の葉の一枚一枚は微風にきらきらと目にもとまらぬ速さで小刻みに揺れていて、その無数の集まりの緑の全容は鈍いスローモーションのように蠢き合っている。木の葉の一枚一枚と、緑の全容と、どちらかの速度に焦点を合わせると、もういっぽうの速度が目にみえなくなるのだった。
立体駐車場を下ろした時とはちがい、上げるときは一段一段止まらずノンストップでいくらしかった。一段が過ぎて、親御さんの姿がすっかり見えなくなると、時枝は子どもを抱えたまま後ろによこたわった。
「こっちもよこたわってみる」
「いいの」
「立っちゃだめとは言ったけど、寝ちゃだめとは言ってないからね」
ふたりの肩を抱えたままよこたわると、いきなり、空があった。それはそうにはちがいないが、あまりにも突拍子もなく眼前に空があるのに少し驚いた。まるで時間も距離も欠いているかのような見え方だった。
「空に浮かんでるみたい」
誰かが言った。
「うん」
また誰かが言った。まったくその通りに思っていたから、言ったのはじぶんだったかも知れなかった。誰ひとりとして互いに向かい合わず、一様に空と正対していると、案外誰の声なのかもわからないものだった。
「雲が流れてる」
誰かが言った。
「うん」
また誰かが言った。自然と口数が減っているようだった。それでも数少ない言葉はやっぱりじぶんの口からついて出たようでもあり、まるで周りの存在が消えて、ひとりでよこたわっているかのようだった。
そう、空一面の灰色の雲とはいっても、たしかに雲は流れている。あえてみようとする前から雲の流れにみいられていた。ふしぎな感じだった。みるよりも前に、みいられている。まるで、谷の向こうの山に「ヤッホー」と語りかけるより前から「ヤッホー」と言われているかのような、山先行のやまびこをきいているかのようなおかしさだった。
と、装置の作動音が鳴り止んだ。静かになると、ずっと遠い下のほうからひとの喋り声が微かにきこえる。何を喋っているのかはわからない。
鼻先をひとすじの風がとおっていった。ついで、どこかで小鳥の羽ばたく音がきこえた。自転車のリンリンいいながら走り去ってゆく音がきこえ、環状道路の自動車の走行音が途切れとぎれにきこえてきた。やがて、ガタンゴトン、ガタンゴトン、と、ずっとずっと遠くのほうから列車の連なって走ってゆく音がきこえた。航空機の大気を震わせる音がきこえた。音のきこえる範囲は透明なシャボン玉のようにどんどん膨らんでいるようだった。やがて、膨張の臨界点ともいうべき一点を突破したのか、ありとあらゆる音という音がきこえるよりも前にきこえられていた。山先行ならぬ、音先行の世界。数限りない音の鳴り、音のリズムがあって、とても静かだった。それぞれの独自のリズムで消えたり、あったりする地上の音と隣り合わせに、恒久的な雲の流れてゆく音もずっとここにあった。
いつのまにか立体駐車場は下っているらしかった。そうと分かったのは装置の作動音がふたたび鳴っているからで、じっさいには下っているのか、上っているのか、止まっているのかもわからなかった。空との距離は遠ざかっているようにも、縮んでいるようにも思われなかった。気が付いてみれば、親御さんたち囲われて、ふしぎそうな顔で見下ろされていた。
✕○△号室の某夫妻の妹は起き上がるなり父のところへ駆けて行った。ちょっとすると、父親と連れ立ってお礼に来た。父親が頭を撫でながら、
「どう、楽しかった」
「うん」
「そうかあ、よかったねえ」
「うん。でも、パパの肩車のほうがもっと楽しい」
父親は苦笑いを浮かべながら、もういちどお礼を言った。
「そういえば、お兄ちゃんは」
「知らなあい」
「さっき、虫捕り網をとりにいくって、部屋にもどって行きましたよ」
「ああ、そうでしたか。実はそれなんですけど」
繋ぎの作業服の兄ちゃん曰く、長い梯子か命綱のロープでもなければ底には下りていかれないとのことだった。ライトで照らしてみても子ガモの姿はみえず、ただ、たしかに小さく鳴声はきこえてくるとのことだった。向こうでジャージのお姉さんにどやされているのがきこえてくる。
「ねえ、ほんとうにだめだったの」
「もうさ、地下は真っ暗闇でなんにもみえないんだから。心細かったあ」
「なによ、男のくせに情けない」
「いやいや、ライトを当ててみたって、ぽっかり空いた空洞みたいに底がどこにあるのかもわからないんだから」
「そんなことってある。だってほら、この隙間から覗くと、うーん、たしかに薄暗いけど、まるっきり見えないこともないじゃない」
「外から覗くのと、中にいるのじゃあ、ぜんぜんちがうんだって」
ジャージのお姉さんの言うとおり、にわかには信じがたい話なので、じっさいに隙間を覗きにいってみると、子ガモが落ちたばかりの頃よりだいぶ暗くなっていた。ずっと曇り空の下にいるせいで気がつかなかったのか、もう、かなり太陽は傾いているらしかった。
そこへ車が入ってきた。理事長さんの飲み友達が用事を済ませて帰ってきたのだった。またしても立体駐車場が鈍い作動音とともに、ゆっくり、ゆっくりと上げられて、そして収納された。さらに二台、三台と相ついで車が駐車場に帰ってきた。そういう時刻らしかった。
気がつけば、はじめこそ車のすべて出払っていた駐車場のてっぺんは、残り一台ですべて埋まるところまできていた。ガー、ガー、ガー、と親鳥がひさしぶりに駐車場の上空を飛んでいった。そのつばさを広げた姿が、黒い影のシルエットとなって、連なって並んでいる自動車のフロントガラスに、ひとつだけの空車スペースはとばしてとびとびに映った。
「そういえばさあ、さっきのは凄かったよね。だって、いきなり空があるんだもん」
「でたあ! もうその手にはのらんぞ。オレはもう人参なんぞ食わん! 」
「え、なに、いきなりどうしたの。バナナじゃなくて」
「なにもきかない、なにもしらない」
「変なの」
「そんなことよりカモの赤ちゃんだよ。もうすぐ日も暮れちゃいそうだし」
そうなのだった。夜になれば子ガモの救出はますます困難になるのにちがいなかった。かといって、今さらあとに引くわけにもいかない。べっこう色の眼鏡の奥さんのにも、理事長さんにも、顔のしわのおうとつに昼間にはみられなかった陰翳が根差して、その表情からは若干の焦りがみてとれた。
「なんだっけ、いつかテレビでやってた。ほら、雨どいから壁と壁のあいだのわずかな隙間に落ちちゃった猫のはなし。なんかレスキュー隊員みたいなひとが来てなかったっけ」
「ちがうよ、あれは左官屋のおじさんが壁をコンコン叩いて、それで壁の構造をよんで、うまい具合に穴をあけて、みたいな話だったよ」
「なんか、ヘルメット被ったひと来てなかったっけ」
「ヘルメットを被ってたのは建築士のひとで、そう、その家が明治時代からある古民家だったから一級の建築士でも構造がよくわからなくて、そこで昔ながらの左官屋さんが大活躍ってわけ」
「くわしいね」
「いちおう、元テレビっ子だからね。そんなことよりも、いつも変なうんちくばかり言ってるのに、左官屋さんみたいな特殊技能のあるひとは知らないわけ」
「うーん。良い記録がでるように、風向きをよんでピストルを鳴らすスターターなら知ってるけど」
「ちがう、ちがう、そういうんじゃなくて」
べっこう色の眼鏡の奥さんが、眼鏡のレンズをブラウスの袖で拭きながら、
「何かちょっとでもヒントになりそうなことがあれば、遠慮なく言ってくださいね」
その顔には焦りばかりではなく、疲れの表情もみえてきていた。
と、そこへ、カン、カン、カンカン、と、まるで狐の嫁入りか、狸の葬列のように、赤い提灯をぶら下げた火の用心の行列が、たいへんゆっくりとした足取りで駐車場の入口をよこぎっていった、カン、カン、カンカン。みな、ぞろぞろと連れ立って行脚する人影に魅入っていた。そして、誰ともなく消防を呼んでみようという声があがり、そうしましょう、そうしましょう、と、やはり、べっこう色の眼鏡の奥さんが一一九番に電話をかけた。
じつに呆気のない、ふしぎな決定だった。昼間からああでもない、こうでもない、あれはしてはいけない、これはするべきではない、と、散々っぱら議論をかさねてきたのに、さらには色白の若い警察官に痛い目をみたのに、よりにもよって火事に特化した消防を頼ることにするなんて、ずいぶんといいかげんな話にちがいなかった。どうしてそんな決定がおのずと下されたのかといえば、とにかく時間が迫ってきていることと、たまたま火の用心の行列が通ったこと以外には理由は考えられなかった。それでも消防にいちるの望みを託すしかないのだった。
数分後、一台丸ごとの消防車が駐車場の入口に面した通りによこづけされた。いつまで経っても来ないうえに、自転車をたらたら漕いでやって来た警察とはえらいちがいだった。エンジン音が止まるまえからヘルメットを被った隊員二名が消防車から駆け出てきて、エンジン音が止んでから運転手の隊員がおくれて出てきた。壮年の隊長一名に、若い隊員二名の編成。若い隊員は丸顔で太っているのと、前歯の出ていて痩せているの。
隊長はちょっと話を聞くと、
「そうしたら、いちど駐車場を上げてもらってもいいですか」
そして、その間にも若い隊員たちにあれこれと指示を出して、消防車から色々と道具を持ってこさせている。ヘッドライト、伸縮式の梯子、輪になった太い縄、麻のズタ袋、等々。駐車場を上げるさなか、隊員に指示を出しながら、隊長はさらに駐車場の構造を観察したり、マンションの住民、とりわけ繋ぎの作業服の兄ちゃんから詳しい話をきいている。
「キーを右にまわすと上って、左にまわすと下がるんですね」
「そうです。ただし、半端なところでは止まれないようになっているので」
「わかりました。そしたらキーはいったんお借りします」
隊長は出っ歯の痩せのほうを呼んで、操作の説明を股伝えすると、彼にキーを託した。そして四列ある立体駐車場をすべて上げてしまうと、隊長はそのうちのひとつに道具一式をのせて下っていった。ちょっとすると、
「思ったより暗いなあ! たしか、繋ぎのお兄さんがライト持ってたでしょう。あれを貸してもらおう! ロープで下ろして! 」
すると、丸顔の太っちょが手持ちライトを借り受けて、おそらく消防士特有の結び方でロープに括りつけると、あらかじめ電源をつけてから、作動中にできる階と階との隙間からライトをスルスル下ろしていった。おそらく、くるくると回転しながら宙を下降しているらしいライトのひかりのすじが駐車場のわずかな隙間から灯台のひかりのように一定の間隔をおいてみてとれた。ただ突っ立って待っていることができず、みながみな、随所に空いている隙間から地下の様子を窺っていた。ひかりのすじがすっかりみえなくなると、結び目のなくなった軽そうなロープだけがあがってきた。
隊長をのせた駐車場がいちばん上まで収納されると、梯子を設置するような音が、ガシャン、ガシャンとかなり遠巻きに響いてきた。
「とおうちゃああくう」
二重にも三重にも反響した声が地下の最地下からあがった。
「どおおうう、きこおええるうう」
「きこえるけど、かなり遠いです! 」
丸顔の太っちょが声を張りあげた。
「むせえんわああ」
太っちょが痩せの出っ歯のほうに目で合図して促すと、
「ドーゾー、ドーゾー、キコエマスカー」
無線機のマイクにカチカチと前歯があたっている。
「ドーゾー、ドーゾー、アーアー、アー」
痩せの出っ歯は太っちょのほうに首をふって合図をした。
「無線も遠いです! 」
「しかあたあなあいい、こええおうだあしてえいこおうう」
隊長の声は幾重にも反響して木霊するあまり、発せられた本人の肉声を遠く離れて、まるで発声者のいない風や空気のうたのようにきこえられた。意味のある言葉として、その声をきいているというよりは、たんに音楽として耳にはいってくるのにもかかわらず、あらかじめ込められたメッセージを知っているかのように意味がわかってしまうのはすこしふしぎに感じられた。
「あッ、ひかった」
「こっちでも」
「ひかった、ひかった」
子どもたちが反射のように口走るのは、地下を探索している隊長のライトのひかりらしい。こちらでもピカッとひかった。細長い閃光が壁を垂直に折れ曲がり、かなりの長物なのにいったいどうやってその身を隠したのか、瞬時に消えた。
「ああみい、あああたあよおねええ」
「はい! あります! 」
「ああとおう、ばあけえつうもお」
「すみません、どなたか、バケツをお借りできませんか」
「わたし、一階のすぐそこなので持ってきます」
料理中に気になって駐車場まで出てきたのか、エプロンを付けたままの肝っ玉かあさんといった風貌の奥さんが部屋へと駆けていった。
丸顔の太っちょは、少年から網を、肝っ玉かあさんからバケツを受け取ると、まずバケツをロープに括りつけ、器用にも余った先のほうで網を括りつけた。準備が整うと、痩せの出っ歯のほうに目で合図をする。そして、作動中にできる階と階との隙間からロープを垂らしていった。
「なあああわああ、そおのおまあまあでええ」
「もう一回お願いします! 」
「なあああわああ、そおのおまあまああ」
「え、すみません、どなたかわかった方、いらっしゃいますか」
「なわは、じゃないですか。ロープをそのまま垂らしておいてほしいのかと」
「あ、なるほど。でも、そのままにしておいたら挟まれちゃいますよね」
「たしかにこの太さでは」
「挟まれちゃいますよ! 」
「ああげえてええ、すうぐうにい、おおろおせえるうよおうにい、たあいいきいい」
「了解です! 」
いったん空のロープを引き上げて、駐車場が切りのよいところで静止すると、痩せの出っ歯はすぐにキーを反対方向にまわした。作動にはいちいち時間がかかるため、あらかじめ動かして隙間をつくっておいて、そのあいだに隊長から声がかかれば儲けものと判断したらしい。丸顔の太っちょも、しゃがみ込んで、いつでもロープを下ろせるように構えている。
一ターンめでは声がかからず、痩せの出っ歯がもういちど反対方向へキーをまわしてから少しすると、声がかかった。丸顔の太っちょがすかさずロープを垂らす。
「ああげええてええ」
引き上げられたバケツのなかには、一羽のからだをヒクヒク震わしている赤ちゃんガモが。ひどく汚れてぐっしょりと濡れている。
ついで、隊長が駐車場にのって地上にもどってきた。その手には口の縛られたズタ袋が抱えられている。
「中身を確認しますか」
誰しもが口をつぐんだ。
「いやあ、すっかり遅くなってしまって。弱っているだろうに、なかなか捕まらなくて。すばしっこい奴です。鳥のことは専門ではないので、あとのことは皆さんにお任せします。ただ、地下は油なんかの汚れがひどかったので、かるく洗ってあげたほうがいいと思います」
隊長はそう言い残すと、隊員二名をひきつれて消防車へ帰っていった。みな、口々にありがとうございました、ほんとうにありがとうございます、と言いながら、隊員たちを駐車場の外まで見送り、消防車が道角にみえなくなるまで見送った。
さて、バケツのなかでからだを震わせるこのヒナをどうするかが当面の問題になりかわわった。あまりにも無防備で、ちょっとした何かのまちがいひとつでどうにかなってしまいそうで、誰も迂闊には手を下せないように思われた。が、代わる代わるバケツを上から覗いて見守るだけの人だかりに、肝っ玉かあさんがドッコイショと割って入り、意図も簡単にヒナを鷲掴みにすると、エプロンで抱え込んだ。
「たしかにベタベタしてますね。どなたか、赤ん坊のいる家でベビーソープをお持ちの方、それからあ、植物由来の素肌にやさしい洗剤みたいのをお使いの方、いらっしゃったら貸してもらえませんか」
心当たりのあるひとびとがただちに散っていった。
「それから、あたしは、お湯と桶と清潔なタオルをもってくるので」
肝っ玉かあさんは、ヒナを抱えたエプロンを脱いで、たまたま隣り合わせていた時枝に託した。間近で、すぐ目と鼻の先で、ヒナの姿をみた。骨ばって黒々としたものが震えていた。弾力のあるゴムボールのように丸みを帯びたからだはどこへいってしまったのだろう。公園を周遊していた頃のカモの姿を思い出そうする。あ、そういえば。
「しばらく親鳥をみてないよね」
「うん」
「ちょっと公園までひとっ走りしてみてくる」
行こうとすると、ぼくも、わたしも、と子どもたちがこぞって先に走り出した。
住宅街よりよっぽど見晴らしのきく公園は、暮れかかりといっても、まだ空がずいぶん明るかった。ところどころ雲のきれつつある合間あいまから、ぽたぽたと淡い水色の空が垣間みえる。
「いたあ、いたよお」
先に池までたどり着いた子どもから声があがった。
「どこ、どこお」
池につくと、水面に反射して映っている樹々の幹を一羽の親鳥がすーっと揺らしていた。すーっとしたふたすじの波紋は、次第しだいに、ゆらゆらとおぼろげに池の全体へとひろがってほどけてゆく。そんな伝播のもようをひととおり見送ると、池の対岸に見憶えのあるものが項垂れてよこたわっている。グラブの入ったナップザックだった。
とりあえず親鳥は顕在ということがわかり、帰りは歩いた。そっくり親子の子どもがおんぶしてくれと言うので、ナップザックのほうは✕○△号室の兄妹に持ってもらった。兄は勝手に中身をあけ、グラブがじぶんの手に合わないとわかると、グラブのほうだけを妹に持たせて、球をポーン、ポーンと宙に投げながら歩いた。妹は向きが反対なのもおかまいなしに身に余るおおきなグラブを右手にはめて、兄に球を投げ入れてもらっていた。
駐車場にもどると、ちょうど肝っ玉かあさんがお湯を張った桶でヒナを洗いはじめるところだった。ひとまず親鳥はいました、と報告。それから時枝に、ついでにこれも、とぺったんこのナップザックをみせる。かえしてー、と中身を回収。
ちゃぽん、ちゃぽん、と、ヒナは肝っ玉かあさんの大きな手で撫でるように洗われた。黒い汚れがすこしずつ、すこしずつ、桶の水にとけていって、ヒナの琥珀色の羽毛がみえるようになってきた。その額には白い斑点が。イダテン、と心のなかでつぶやいた。シロちゃん、とつぶやく時枝の声はじっさいに口から漏れていた。
黒々として鬼っ子のような姿から、ヒナがカモのヒナらしい本来の姿をとりもどしつつあると、みなのあいだで安堵の気持ちがふくらんだのか、さて、このヒナをどうすべきか、という議論に移っていった。すぐに池の親鳥のもとへかえすべきか、それともしばらくこちらで面倒をみてヒナの回復を待つべきかの二択だった。もちろん、親鳥のもとへかえすのがいちばん望ましいとされたが、何しろヒナは衰弱しているので、そんなところをカラスに狙われでもしたらせっかくの救出が台無しになってしまう。が、回復を待っているあいだに、親鳥がどこかへ飛んでいってしまっても仕方がないにちがいなかった。
ヒナの回復を待つほうの派では、足早にもヒナに名前をつけましょう、つけましょう、と、イダテンでもシロちゃんでもない名前でヒナのことが呼ばれはじめていた。それでもまた、ヒナを名付けた同じひとが、やっぱりいますぐにでも親鳥のもとへかえしたほうがいいのでは、と意見をひっくり返すこともあった。
どちらの選択もけっして芳しくないことは誰の目にもあきらかだった。それでも、どちらかを選ばなければならない。ただでさえ、いちじるしく低い鴨の雛の生存率を知っているものであれば、自ずと答えは出そうなものだったが、それでも、いますぐ親鳥のもとへかえすべきだとする意見がだんだんと多数派となっていったのには、私たちはいったい何を信じてそうなったのだろう。ただ、かえすのであれば一刻の猶予も許されなかった。マンションの階段や廊下の電灯がぱちぱちといっせいに点った。
陽のあるうちに、かえすことに決まった。
マンションの駐車場から、とぼとぼと、ながい参列のようなひとの群れが公園へと伸びていった。列のひとびとの歩みはどこかためらいがちで、角をひとつ曲がるたびに、ちぎれちぎれになり、いくつかの小隊に分断されながら、列はさらに間延びしていった。
公園には、まだ明るさが残っていた。幾重にも折り重なって微風にゆれる樹々の向こうが銀色にかがやいていた。遠くのほうの空では灰雲がきれているらしかった。
肝っ玉のかあさんが、タオルで抱えていた額に白い斑点のある子ガモを池の縁のひらたい岩の上にかえした。からだを震わせる子ガモは、やがて、二本の足でしっかりと立ち、ピイ、ピイと鳴きはじめた。親鳥はたしかにその声を察知して、すこし離れたまた別の岩の上から子ガモの方向をじっと凝視している。子ガモはピイ、ピイとますます声を張り上げる。
こんなにも大勢のひとびとに囲われていては、おたがいに身動きがとれなかろうということで、一線をひいて、遠巻きに親子の動向を眺めることとなった。公園の人通りはもうだいぶ少なく、子ガモのピイ、ピイと鳴く声は離れていてもよく響いてきこえてきた。親鳥はその声に反応して、ガーガーと子を呼ぶように鳴いた。子どもたちが一線を破って近づいていこうとするのを、その都度、親御さんが止めていた。
そんなやりとりを数十分ほど繰り返しているうちに、やがて、公園のほうにも街灯が点った。カモの親子は向かい合ったまま依然として動こうとはせず、カン、カン、カンカン、と火の用心の打ちがきこえてきた、カン、カン、カンカン。その乾いた音の響きに導かれるようにマンションの住人たちは、あとは自然の摂理にお任せしましょう、と挨拶をして、来た時と同様にぞろぞろと連れ立って自宅へと帰っていった。
そっくり親子のふたりとバナナのおばさんともお別れの挨拶を交わして、それぞれに散り散りとなった。陽はとうに沈んでいても、ここの空でも灰雲はだいぶきれてきていて、青むらさきがかった濃紺色の空にはまだ明るさが微かに滲んでいた。さいごまで残ったじぶんたちも、夕食をたべに行くために、公園を立ち去ることにした。昼間はたったの一匹しか鳴いていなかった蝉が、夜のはじまる時間になってもいまだ、二、三匹にもなって鳴いていて、いま、この瞬間にも、夏のはじまりが来たように感じられた。
「日、落ちそうでおちないね」
「こんな変な時間に晴れてきたからねえ。それに、いまがいちばん日の長い季節なんだよ。これから夏本番にかけてどんどん短くなるんだよ」
「そっかー。中華たべたいなあ」
「だから、夏ってまぼろしみたいなのかも」
「うん。中華いこうよ」
冷房直下の席に案内されてしまい、夏がはじまったというのに肌寒いくらいだった。日曜の夜なので、お客は少なく、ほかの席に変えてもらうこともできそうだったが、いちにちじゅう緊張して立ちっぱなしでいたせいで、お尻と椅子がくっついてしまった。
塩味の野菜スープと、醤油味のワンタンスープを注文した。それから瓶ビールを一本にグラスをふたつ。家族でやっているお店で、いつもこんな調子なのか、それとも今宵はちょっと特別なのか、ちょっとした口喧嘩のような喋り声が厨房のなかからきこえていた。
テレビのニュースではどこかの都道府県の、甲子園予選の決勝がダイジェストされている。試合は一対0の均衡を保ったまま終盤までもつれこむ白熱の投手戦で、一回から相手打線を0に抑えている水色のユニフォームの左投手は、とてもエースの体格とは思えない小柄な痩せっぽちだった。もちろん球速もそんなにでていない。それでも振りあげた右足を肩にまでぶつける大胆なフォームでほいほいストライクをとっていく。クロスステップから放られる角度のある真っ直ぐで右打者の内角をえぐってから、アウトローに逃げながら落ちるチェンジアップで空振りをとるのが得意のパターンらしい。打者はこのチェンジアップにくるくる踊っている。
「あの左ピッチャー凄いねえ。小柄なのに、からだをいっぱいいっぱいに使って。このままだと完封して甲子園だよ。あッ、完封だって、甲子園だって」
時枝もテレビの画面をじっと凝視して、わかった、わかったから、とでもいうように手で待ての合図をした。そして、おもむろに電話をかけはじめる。
「もしもーし、うん、おめでとう。うん、うん、いや、みてない、いまニュースで、勝ったのに号泣してるじゃん、え、いまちょうど映ってるよ、そう、そう、お父さんとお母さんは、そっかー、よかったねえ、うん、うん、そっちの民放で生中継したの録画してあるんでしょ、うん、うん、ちゃんと持って帰らせてね、うん、いや、こっちにもみたがってるひとがいるから、ちがうちがう、そんなんじゃないよ、え、いやあ、ただ同じ左利きだからシンパシー感じてるんじゃない、もう、まったく、そうだよ、ああ、行きたいけど、平日だとなあ、うん、行けたらいくよ、そうだよ、勝ち進んだら行けるじゃん、うん、うん、あ、勝ち投手のインタビュー受けてるじゃん、はい、はい、そいじゃあね」
え、え、と目をぱちくりさせていると、時枝は、
「おとうと」
と、ひと言。
「時枝って、名字だったの」
「そっち」
「いや、どっちも」
「幼稚園ぐらいの頃かなあ、家族で甲子園みてたら、とつぜん宣言しだしてね。あの水色のユニフォーム着て甲子園に出るんだーって。わざわざ越県入学までしてさあ。今日その夢が叶った」
「じゃあ、下の名前なんていうの」
「ええ、言ってなかったっけ」
「言ってないよ。だって知らないもん」
「そうだっけ。このグローブは弟のだったんだよ」
「それは光栄だけど。うん、ほんとうに光栄。さっきのみて一瞬でファンになった」
「だと思った。球速はでないけど、コントロールとか、球持ちとか、それ以外の能力に長けてるピッチャー好きでしょ。知ってるよ」
「なんで知ってるの」
「なんとなく。試合の録画、持って帰ってきてくれるって。こんど観ようね」
「ていうか、下の名前は。なんで教えてくれなかったの」
「だって、聞かれたことないし」
「それにしたって、まちがえて呼んでたら正すでしょ、ふつう」
「まちがえてないよ。子どもの頃から時枝ちゃん、時枝ちゃんって、ダーを抜かして呼ばれてたんだから」
「なんかいいね。名前がふたつあるみたいで」
「いいでしょう」
「で、ほんとうの下の名前は」
「内緒。なんか、いまさら名乗るのも恥ずかしいし。時枝時枝でいいじゃん」
「隠しごとだ。それこそ隠しごとだ」
「隠しごとじゃないよ。だって、勝手に付けられたんだし。じぶんで付けた名前ならまだしも。そんなことよりも、そっちのほうがいつも隠しごとだよ。隠すどころか、どんどん新しい秘密までつくってさ。しかもさ、油断してるとこうやって立場が逆転してるんだもん。秘密だらけなのはそっちなのに。ああ、なんて性格の悪さなんだ」
「そのセリフ好きだね。本日二回目だよ」
「ちがうよ。喜びそうなことを言ってあげてるだけ。性格悪いって言われるの、好きでしょ。知ってるよ」
「それにしても、ほんとうの名前を隠すのはどうかと思うな」
「隠してないよ。だって名前は隠すよりまえからあるもん」
「それはへりくつだって」
「へりくつじゃない。へりくつじゃないよ。ほんとうの名前、ほんとうの名前って、むしろ隠されてるのはこっちだ。ほんとうの名前で呼んでよ。ほんとうの名前で呼ばれたい。知ってるでしょ、ほんとうの名前。知ってるよ」
「わかった、わかったから、もう聞かないから。さっきまで喧嘩してた厨房のなかのひとがクスクス笑いながら耳すましてるよ。でも、それはそれとして、当たったら正解ぐらいは言ってよね。知ってる、知ってる、わかってる、でも正解を知りたくなるのも人情じゃない」
声をひそめて言うと、
「うん、わかった。とっておきなの待ってる」
「当たったら、カリー代、驕りね」
「それはずるい、賭けになってないもん」
お店の奥さんが、ニコニコしながら、醤油味のワンタンスープと、塩味の野菜スープとをひとつずつ両手で抱えて運んできた。湯気を吹く丼ぶり並々のスープの表面には、微量の油がきらきらひかって浮かんでいる。
あつあつのスープをひとくち口にふくむと、緊張の糸がさらにほどけるようだった。お尻に汗疹ができているのが感じられた。グラスのなかでビールの泡粒が雪の降るみたいにしんしん昇っていた。テレビの音に紛れて、厨房で中華鍋の擦れる音や、冷房の風の音がきこえていた。数少ないお客のひとりが席をたち、レジのガチャーンと鳴る音についで、出入口のドアの鈴がちりん、���りんと鳴った。厨房から流水の音がきこえて、壁に貼ってあるメニュー短冊の端がエアコンの送風にかすかに揺れていた。
お店を出ると、足はおのずと公園へ向かっていた。大通りには街灯の光のならびが一直線にふたつ連なり、信号機の赤や青やオレンジのひかりがまばらに点在していた。目のまえをひゅんひゅん走り抜ける自動車のヘッドライトのひかりは十字を切ったり、扇形に放射したりしながら目をすり抜けていった。
池の水面には、いくつかの円いひかりが浮かんでいた。月がでているかもしれないと思い、夜空を探してみた。見当たらなかった。ひかりはすべて街灯の反射だった。そのひかりのひとつの辺境にヒナの姿はあった。夕暮れにかえしたときの岩とはちがう、池の中ほどの岩の上。親鳥の岩にすこしだけ近づいている。が、そこでまたしても立ち往生しているらしかった。
おたがいに鳴き合う頻度はぐっと少なくなっていた。親鳥はまるで、ここまで来られなければ子とは認めないとでもいうように、ただじっと岩の上に伏していた。子のほうは、水面への一歩を踏み出そう、踏み出そう、とはしながら、いざ、なかなか最後の決心がつかない。その様子は、まさに決心のつきかねる惑いそのものだった。天真爛漫に、いつ何時も鋭敏な本能とともにあって、自らのとるべき行動をすでに知って動いているかのように勝手に思っていた動物像からは、まったく考えられない仕草だった。行くべきか、行かないべきか、額に白い斑点のついた子ガモは懸命に考えているのにちがいなかった。たとえ、どちらの選択もけっして正しくはないとしても。
ついに、一歩を踏み出した。からだがふしぎと沈んでゆく。まるで、何かに追われている夢のなかでのように、足掻いても、どう足掻いてみても、からだ沈んで、まえへは進まなかった。仕方なく、すぐ近くの岩に退避しようとするものの、その岩の斜面があまりの急勾配で、駆け上ろうにもあたまからひっくり返ってしまう。
水面に浮かんでいる街灯のひかりが大きくたゆたった。
それでも駆け上ろうとする。そうしなければ池の底に沈んでしまうから。駆け上ろうとするたびに、あたまからひっくり返った。
何度めかの挑戦で、駆け上り切らないまでも、岩の斜面の水際にへばりつくことを学んだ。少なくとも、これで、水面をジタバタしながら沈むのを待つことだけは避けられた。
と、そこへ、細長いライトのひかりを四方八方に散乱させながら肝っ玉のかあさんがやって来た。ここです、ここでーす、と両手を振って合図する。
「ずっといられたんですか」
「いえ、いちど食事をして、さっき戻ってきたんです」
「それで、どこにいます。さっきの岩にはいなかったんですけど」
そこです、あそこです、と上半身を乗り出して指さすと、四方八方に散っていた細長いライトの光線がヒナめがけて一直線に照射された。
「ここまでは自力で来れたんですね」
状況を説明すると、
「だろうと思ったんです。それが心配で、ずっと家で悩んでいたんです。ほら、クチバシで羽をついばんでいるでしょう。ああして羽毛に空気を入れようとしてるんですよ。羽毛に隙間がなくてふかふかしていないと沈んでしまうんです。もしかして、洗いが足りなかったんじゃないかと思って、それで」
「詳しいんですね」
「むかし、専門学校で習ったんです。でも、ほんとうに良かった、あなたたちがいてくれて。あたし、目が利かなくて、夜なんかはとくに。ほら、これでもぼやけるんです」
はずして見せてくれた眼鏡は見事なまでの牛乳瓶の厚底だった。ライトのひかりに羽虫が集まってきていた。足もとでは光沢のある黒いアブラムシが這って動くのがみえた。
「いえいえ、こちらこそ、ほんとうに良かったです。みえるだけで何も知らないし、何もできなかったんですから」
相談の結果、肝っ玉のかあさんが一晩だけヒナを連れ帰り、もういちど入念に洗い、乾かして、餌とあたたかい場所を用意することに決まった。
岩を飛んでつたって、足場の悪いなか、岩の斜面にへばりついているヒナを片手で鷲掴みにするしかなかった。そのとき、生まれてはじめて、鴨という生きものをこの手で触った。空気のように重みがなかった。
「餌だけが心配なんですよね。うちにあるものをはたして食べてくれるかどうか」
「昼間はアメンボを追っかけまわして食べてましたけどね」
「そしたら、最悪、捕まえに来ます」
と、肝っ玉かあさんは冗談めかして言った。そして、おやすみなさい、と、よろしくおねがいしますの挨拶を交わした。
「キャッチボールできなかったね」
「うん。暗いけど、ちょっとやってく」
「うん」
「さっきのみて、投げたくてうずうずしてたんだ」
「だろうと思った。知ってるよ」
光加減のちょうどよい街灯の近くに移動しようとすると、そっくり親子の父親が自転車の荷台に息子を乗せてやって来た。���ゴにはバケツが入っている。
状況をひと通り説明してあげると、父親は、
「あの太ったおばさんが連れて帰ったんだって」
と、息子の顔のちかくまで屈んで教えてあげた。
「ちょうど、いまさっき別れたところなんです。自転車で行けば追いつくと思いますよ。餌の心配をしてたんで、そのバケツでアメンボを掬ってあげれば、助けになるかもしれません」
「はあ、そうですか。とりあえず行ってみます」
そっくり親子の父親は、カモの赤ちゃんがひとりになっていたらどうしよう、と息子にせがまれて公園にもどって来たらしかった。父親は息子の両脇を抱えると、ひと息に持ち上げて荷台に乗っけた。遠ざかってゆく自転車の荷台から、息子が半身でふり返って、手をふってくれた。ちいさく、顔のよこで手をふり返した。
「今日はあれかな、キャッチボールをさせてもらえない日なのかな」
「ハハ、そうにちがいない」
「痛快な投げならあったけどねえ」
「彼、きっと良いピッチャーになるよ」
街灯の近くとはいっても、暗くてみえにくいので、近距離からの下手投げでまずは目を慣らしてゆく。
「ちょっと、もう少しふわっと投げて」
「はいよッと」
「あッつ、これじゃあ、ふわっとしすぎて、ボールが街灯のひかりに消えちゃうよ」
「まったく、注文が多いなッと」
少しずつ、少しずつ、距離を伸ばしてゆく。そのたびに、お腹から声を張って、
「弟さん、からだ柔らかいよねッと」
「子どもの頃、いっしょにダンスもやってたからねッと」
「道理で、ホイッ」
時枝はキャッチしたボールをそのままにして、いったん流れを止めると、
「セイッ」
と、片足をまっすぐ百八十度に、ピタッとあたまの上まであげてみせた。
「すごいじゃん! 」
「うーん、ちょっとかたくなったかな。弟はあの調子じゃあ、いまでも楽勝だと思うよッと」
「ピッチャーって踊ってるみたいだよねッと」
「ええッと、どういうこと」
「あいよッと、踊ってるみたいじゃない」
「だからッと、どういうこと」
目が慣れ、距離もひろがってきたので、そろそろ上から投げることにした。
「ほら、いっくよー、時枝が乗り移った! 」
時枝弟のフォームを真似して、足をおおきく振りあげる。
「ちょっと、ちょっと、あぶないって! 」
「だいじょうぶ! チェンジアップだから! 」
「そういう問題じゃなーい! 」
力を込めたわりには、鷲掴みにしたボールがうまい具合に抜けて、スポッと時枝のグローブにおさまった。おおきく振りあげてから着地した足を軸に、からだがクルッと回転して、片足立ちでバランスをとるのに精一杯だった。
「ほら、投げ終えた直後のピッチャーって、バレエか何かのダンサーみたいじゃない」
「もう! びっくりさせないでよ! 」
意外にも、互いに遠ざかってからのほうがスムーズに投げ合うことができた。球の速さよりも、よりスピンをかけることを意識して、相手の胸にシュッとまっすぐ球のとどくように心がける。変に気をつかって山なりのボールを投げようとすると、とどかなかったり、行き過ぎてしまったり、あるいは街灯のひかりに吸い込まれて球が消えてしまうのだった。よりよい球を投げようとすると、いつしか口数は減って、球の行き来ばかりになった。シュッと投げたと思ったら、もうスパッと受けていた。まるで、投げることと投げられることとが相互に一体となって、向かい合ってキャッチボールをしているというよりは、ふたりそろって前だけを向いて投げているかのようだった。集中して、よりよい球を投げようとすればするほど、こんどは投げられるよりもまえに球が胸のなかにあった。
カン、カン、カンカン、ラスト十球と定めて、帰路につくことにした、カン、カン、カンカン。
ふかい濃紺の夜空にはきれぎれに雲が流れていた。雲の流れていないところでは星がまばらに瞬いていた。
「なんだか、今日は、ずいぶん遠くまで来たって感じがする」
「うん」
「きっと、帰ったら、旅行で何日も家をあけたときみたいに、部屋が素知らぬ顔をしてるんだろうなあ」
「うん、そっかあ、今日は誰もいないんだっけ」
「今日はそっちで寝てもいい」
「うん、いいよ。歓迎いたします」
寝るにはまだ早い時間だったので、部屋の灯りをすべておとして、映画を一本みた。
暗くなった画面にエンドロールが流れると、その白い文字列の連なりが本棚の背表紙のならびに反射してゆらゆらとひかりをなぞっていた。
時枝のために中二階のロフトに布団をひいてあげた。ぎしぎし言う梯子をくだって、ベッドによこたわると、
「わーお、知らない天井だ」
と、時枝の声だけがきこえてくる。
「いいでしょ、天井が高くて」
「ここからだと天井は低いよ、すぐこそだよ」
「そうだった、そうだった」
「あの天窓って開くの」
「開くけど、うえは暑いよ。いまはエアコンつけてるし」
「いいよお、開けて」
エアコンを切って、ちょうどベッドのところにぶら下がっているチェーンをガラガラまわした。チェーンにつるしてあるマダラエイやメンダコのキーホルダーがのぼってゆき、縦向きに隙間を閉ざしていたルーバー窓が天井と平行になって開かれた。せっかくなので、下の窓も開け放って風を通すことにする。
「ああ。気持ちがいい」
時枝のいまにも寝入りそうなふにゃふにゃした声だけがきこえてくる。生ぬるい夜の外気がエアコンのひんやりした空気を追いやって、部屋のなかに風の龍脈のかようのがほのかに感じられた。マダラエイもメンダコも、ながいながいチェーンごと、かすかに揺れている。
いまはまだよくても、さすがにうえは蒸し暑くなるだろうと思い、冷凍庫からアイス枕を持ってきてあげた。おーい、と呼びかけると、柵のあいだから腕だけが下りてきた。ヨッコラセと背伸びをして、アイス枕を手渡した。
いまいちどベッドによこたわり「映画、途中で寝かけてたでしょ」と天井めがけて声を発してみると、
「うんうん」
と、ふにゃふにゃした声だけがきこえた。
以下、この日以降の日記で、カモについて記された箇所を抜粋する。
七月二十二日。時枝が撮っていた、カモたちが元気だった頃の写真や動画をみる。
七月二十四日。親鳥もどこかへいってしまった、池は鯉が水面を揺らすばかり。
七月二十七日。スーパーにて二〇四号室の多田さんと鉢合わせる。たがいに秘密を共有する者同士のように目で挨拶を交わす。
八月八日。公園で小川さんと息子さんがキャッ���ボールをしているところに鉢合わせ、カモはすっかり姿をみせないですね、などと世間話をする。
九月十五日。ひと夏のあいだ、まるで姿を現わさなかったカモが五羽もやって来ている。五羽とも泳がずに池の縁にだらんと身をよこたえている。
九月十六日。カモたちは暢気そうに泳いでいる。
九月二十一日。鴨が一、二、三、四……、一羽ずつ数えてゆくと、なんと十三羽もいる。こんなにいるのは知っている限り初めてのことである。
九月二十二日。今日は鴨が七羽、亀が二匹。
九月二十三日。一匹だけアブラ蝉の鳴くのをきく、ツクツクホーシは真夏の蝉たちのように壮絶な死にもの狂いの鳴声を発している。今日も鴨が七羽、突風が吹いて周囲の樹々から枝や木の実が映画でみる銃弾のように斜めに降り注いで水面の水が飛沫をあげて飛び散る。
九月二十八日。近所の小学校では運動会が開催、グラウンドの周囲を色とりどりのシートを敷いた親御さんたち観衆が取り囲い、ふだんはガランとしている校庭が今日はずいぶんと狭く小さく感じられる。公園の池にはなんと鴨が十八羽も、亀は二匹。ちょうど一週間前にはまだ池の頭上に覆い被さっていた樹の緑はすっかりと落葉して、茶色い枝分かれの骨組みが寒々と浮彫になっている。そういえば、校庭には、小川さん親子や、水上さんのところの兄妹もいるんだろうか。
九月二十九日。鴨十三羽、亀二匹。
十月十九日。鴨たくさん。
十一月二日。鴨大勢。
十一月二十一。鴨たちは朝から素潜りに大忙し、水面にあがってくる鴨のからだには水玉が付着している。やはり、鴨の羽毛というのは水を弾くようにできているらしい。
十一月二十三。ここしばらく大勢の鴨で賑わって公園の池には、今日は三羽しかいない。三羽とも岩の上で雨に降られてじっとしているか、顔を翼のなかに突っ込んで眠ろうとしている。
十二月十四日。陽気。公園の池には鴨大勢。とても寒い日は縮こまってじっとしているのに、今日は元気に泳ぎまわっている。
十二月十五日。鴨大勢。
十二月二十七日。池にはヒッチコックの『鳥』ぐらい鴨がいてびっくりする。
十二月二十八。公園には鴨大勢。いつもは水に浸かっているか、岩の上にしゃがんでいるかなのが、今日は岩の上に立っているのが多くてオレンジ色の足が池の緑にカラフルに映えている。
十二月三十一日。鴨たちは全員が岩や池べりにあがって眠っている、誰もいない池の水面には風のさざめき。大樹木の下では轟音が唸っている、枝同士がガチガチとぶつかり合い、時々落ちてくる枝もある、まるで時化の海のような凄まじさ。
元旦の手記。初夏のカモの一件いらい、カモのことをよくみるようになった。それ以前にしてもよくみていたのにはちがいないが、みかたが変わった。もう以前のようにはみられないと思う。それが良いことなのか悪いことなのかはまだわからない。あれからひと夏、カモは公園にまるで姿をあらわさなかった。秋口になって二、三羽もどってきたかと思うと、その翌週には両手をつかって数えあげなければならないほどに増えていた。この数年間で、こんなに大勢のカモがいたことはないから、天気でいうならば異常気象のようなものだと思う。ちょうど、あの日のことを小説として書いてみようと思い立った矢先だった。
もともと町へ行くときは公園をとおる週間があった。公園をとおるといっても、池を大周りする道と、小周りする道とがある。根っからのせっかちで、にもかかわらず寝坊で時間を費やしがちな者にしてみれば、池を大周りしている時間はなく、小周りのほうがいつものコースだった。それがカモがもどってきてからは、カモをみるために大周りになった。いつしか大周りの習慣が根づいてしまうと、ふしぎとそのことに関しては時間がもったいないとは感じないようになった。
はじめの頃はカモの数を一羽一羽かぞえていた。とはいっても、カモたちは池の水面をゆらゆら泳いでいるから、とちゅうでどのカモを数えたのかわからなくなってしまい、三回かぞえてみても、三回とも数がちがうこともしばしばだった。それでもう数えるのはやめにした。
台風の日はスリリングだった。カモは風雨を避けてどこかへ行ってしまうにちがいないからだ。いるはずのものがいなくなっていたり、あるはずものがなくなっていたりすると、たいていは動揺する。事実、台風一過の池の水面には折れた樹の枝が大量に浮かんではいても、カモの姿はみられなかった。それでも二、三日すると、また大勢のカモが池の水面に暢気そうに浮かんでいた。
年末は二十七日の午後から休みになった。例年だと、このタイミングで緊張がとけてしまうのか、よく熱をだす。ただ、ことしは歯痛事件でお釣りがくるぐらい痛いめをみたせいか平気だった。で、あれよあれよと生活のリズムが崩れた。
三十日、町まで夕食をたべにでかけたのは夜の十一時ちかくだった。池の暗がりをのぞいてみると、黒い塊の斑点がまばらに浮かんでいる。ほとんどのカモが眠っているらしいなか、一羽だけ泳いでいるカモが水面に落ちている街灯のひかりをゆらしている。それがふしぎなことに0時過ぎにもどってくると、カモは一羽もいなくなっていた。
三十一日、大晦日。この日も十一時ちかくに夕食へでかける。暴風注意報がでているぐらい吹きだから、カモはいないかもしれないと思っていると、カモたちはこの夜も暗い塊の斑点となって浮かんでいる。さすがの吹きの大晦日で歩いているひとはまったくおらず、街灯のひかりに照らされた木の影の、まばらに残った枯葉の影が大きく風に揺れていて、まるでセットで撮られたフィルム・ノワールのような不気味さだった。そしてこの夜も、0時過ぎにもどってくると、カモは一羽もいなくなっていた。
一日、元旦。この日は十一時ぐらいには食事がすんだので、ここはひとつ、いったい何がおこっているのか、公園で待機してやろうと思った。ものすごく寒いだろうから、貰ったっきり一年ちかく放置していたウイスキーをあたためてもっていくことにした。やっぱりカモたちは黒い塊の斑点となって浮かんでいた。公園にはひとっ子ひとりいなかった。目が暗がりに慣れてくると、カモたちの姿がみえるようになった。どのカモも翼にあたまを突っ込んで眠っている。岩の上にいるのは、あたまだけではなく、片足も翼にしまってしまい、器用なことに片足立ちで眠っている。ウイスキーはすぐに冷たくなった。それでもないよりはましに思えた。0時ちかくになり、一羽のカモがビクッと翼からあたまを出した。それにつづいて周囲のカモたちも次々にあたまを出していく。そして、いっせいに羽ばたいた。一羽だけ飛びおくれて、まだ池を泳いでいるカモが水面に落ちる街灯のひかりをすーっとゆらして、羽ばたいていった。
一月五日。公園には鴨大勢。すれちがうひと、すれちがうひとが、うーさぶい、とか言いながら過ぎ去ってゆく。
一月八日。時枝から国際便で年賀はがきが届く。この国ではベースボールはマイナーなスポーツだからキャッチボールの相手がいないとか、でも、鴨はどこの池にもたくさんいるとか書いてある。鴨の行方を追ったあの夏が懐かしいです。また、いつか、キャッチボールのできる日が来るといいですね、と結ばれている。
一月十三日。鴨大勢。
一月十八日。雪が降るとうれしい。池の大勢の鴨たちは、こんなに寒くても元気いっぱいに泳いだり素潜りしたり、心なしかいつもより元気なようにみえる。
一月十九日。鴨大勢、この頃よくみる胸の赤い鴨が今日もいる。
二月十六日。雨。公園の鴨は半数以下まで減っている。
二月二十三日。鴨大勢、亀がぼけーっとアホ面を晒して水面から首を突き出している、長閑だなあ。
三月四日。キャッチボールをしている小川さん親子をみかける。
三月二十一日。桜がよく咲いて、公園は花見客で賑わっている。年に一度の池の水抜きで、鴨はどこかへ避難したらしい。
四月十三日。鴨二羽、つがいのようで並んで泳いでいる。
五月一日。鴨三羽。つがいの鴨に、もう一羽がちょっかいをだしている。それをみて微笑んでいると、隣で同じく鴨をみているひとと目が合う。あれ……、と三秒ほど間を置いて、あああっとなる。なんと、太っちょの肝っ玉かあさんである。憶えていてくれて光栄です。
五月二十四日。十羽のヒナが孵る。池の周囲はお祭り騒ぎ。池べりから鴨たちをみるひとだかりを押しのけて、甲羅から首を突き出す亀のように柵から身を乗り出す。すごい、鴨のヒナだ、元気いっぱい、しかも十羽も。時間が押していたけれど、池の周りを四周ぐらいする。夕方、用事を済ませて公園にもどってくると、鴨のヒナは十羽とも健在。ただ、周囲のひとたちの様子がちょっとおかしくて、よかったあ、ほんとうによかったあ、などと口々に言い合っている。どうやら、散歩の途中に一羽のヒナがはぐれてしまい、紆余屈折あって、どうにか親鳥や兄妹たちと再会することができたらしいのだ。私の知らないところで、私とは関係のないところで、いったいどんな冒険が繰り広げられていたんだろうか。それは私にはとても及び知らないことであるし、せいぜい又聞きすることぐらいしかできないけれど、今日という日にそんな冒険があったということを心から祝福したい気持ちでいっぱいだった。
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