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#グザヴィエ・ドラン
voyagealiledeserte · 6 months
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エドゥアール・ルイ『誰が僕の父を殺したか』――翻訳で読めないフランス小説2.
 文学界のグザヴィエ・ドランとでも言える新星がフランスに登場した。男性同性愛者を取り巻く社会状況を、スタイリッシュな文体で記す91年生まれのその作家の名は、エドゥアール・ルイという。
 21歳で『エディーに別れを告げて』という衝撃的な内容のオートフィクションでデビューした彼には、献辞をグザヴィエ・ドランへに捧げ、タイトルも『マイ・マザー J'ai tué ma mère』のオマージュのような短い小説がある。今回はその小説、『誰が僕の父を殺したか Qui a tué mon père』を紹介したい。
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 物語は非時間的で、思い出すままに語り手の父親への想いが呈示される。現在、50歳の父親は妻に捨てられて、フランスの田舎で暮らしている。まだ中年と言ってよいはずの彼は、酸素吸入器なしでは生きることもできず、歩行もままならない。彼がそんな風になってしまったのは、長らく働いた工場で、重機落下の事故に巻き込まれたせいだ。
 若き日の父親は家族に頻繁に暴力を振るい、彼のセクシャリティ――語り手はゲイである――を全否定してきた。この父親にとって何より大事なことは、タフに、男らしく生きることだ。子供時代の語り手がクリスマスに『タイタニック』のVHSを欲しがれば、「あんなのは女のものだ」と否定する。ホームパーティで女の仮装をした息子を恥ずかしく思って無視する。
 語り手はこの父親に対して、複雑な感情を抱いている。それは、父親が彼一人のせいで傍若無人な振舞いをするようになったからではないことを分かっているからでもあるし、この父親にも男らしさで括ることのできない一面があることを知っているからかもしれない。
 ある時、彼は母親に、どうして父を好きになったのかを尋ねる。そこで母親は、父親が香水をつけていたからだという。当時の男性たちが香水をつけることはなかったが、彼の父親はちがったのだと、母親は言うのだ。そうした女性的な仕草も身につけながらも、息子の同性愛や女っぽさを、彼は「ホモ(pédé)」と全否定する。まるで、自分は得られなかった自由を息子がもっていることを、憎しむかのように。
 あるいは、子供時代の語り手の早熟な同情……。クリスマスの日、自宅に停めてあった父親の車はトラックに追突されて、跡形もなく大破してしまう。その車のトランクには、わが子へのクリスマス・プレゼントが隠されているのだ。逃げ去るトラックを必死になって追いかけ、叫ぶ父親を見て、7歳の語り手は泣く。だが、7歳の語り手が泣いたのは、プレゼントが跡形もなくなってしまったからではない。なけなしの給料からプレゼント代を工面した父親の絶望した表情を前にして、通勤に必須の車が消えたことを理解して、彼は泣いたのだ。
「誰が僕の父を殺したのか」――その答えは社会であり、そして社会を支配するエリートたちである。物語の末尾では、シラク、サルコジ、オランド、マクロン……といった政治家たちの名前が、書物の題ともなった問いへの答えとして書き込まれている。背中に障害を負い、もはや歩行も困難になった父親も、生きるためにはまだ働くことを要請される。そんな社会保障が不十分な社会をつくったのは、エリートたちだ。
 16歳で勉学を諦めて、田舎の工場で重労働をするしかなかった一人の男を殺したのは、政治とそれを牛耳る支配階級なのだ。そして、父になった男は酒に溺れ、息子たちや妻へ暴力を振るうしかなすすべがない。実は彼の父親もまた、暴力を振るう親に育てられたのだった――《暴力は暴力の原因であると僕は長らく繰り返してきたが、間違っていた。暴力が僕らを暴力から救うのだ。》
こうした物語内容は、エドゥアール・ルイの実体験が元になっている。ルイは父を憎んでおり、かつては復讐を試みたことが分かる描写もある。しかし、今では冷静に自らの父親が陥った状況を分析し、原因を告発しようとしている。地方に生まれ、ブルーカラーの労働者となった人間が、社会の底部から這い上がることはあまりに困難だ。
《あなたはお金がなかった。あなたは勉学を修められなかった。旅に出ることができなかった。夢をかなえることができなかった。あなたの人生を表わすには、ほとんど否定的な言葉しかないのだ。》
 いわば、この小説はある種の「親ガチャ小説」なのかもしれない。「親ガチャ」問題がもたらす困難は、与えられた環境から抜け出したあとにも残存する。社会の下層に位置する社会階級から上方の別の階級への移動は、貧困・搾取から抜け出す一つの手段であるが、それは自らの元々属していた環境を捨てることにもなるだろう。
 自らが大卒者になることで親との軋轢が生まれることがあるし、階級の移動は過去の自身を否定することにもなるために、単純に喜ばしいことではない。この階級を捨てるという主題をめぐっては、労働者の父親と文学教師の娘の関係を記したアニー・エルノーが先駆者に当たるだろう(『場所』)。さらには近年、哲学者シャンタル・ジャケはこの現象を「階級の移動(transfuge de classe/transclasses)」と名付け、分析もしている。
 エドゥアール・ルイは経歴だけ見れば超エリートに見えかねない。現役大学生の頃にブルデューとフーコーについての論集を大学出版で編纂し、自作小説の出版にこぎつけている。しかも、処女作はベストセラーだ。だが、彼が暴力と差別の蔓延した北フランスの町で育ったことも事実だ。つまり、彼こそが、「階級の移動」を経験した張本人なのだ。
 語り手は先述の通り、父親に対して単なる憎しみとは言えない感情を抱いている。同性愛者で女っぽい自分をあれほど否定し続けてきた父を、語り手は単純に否定することができないでいる。そんな父と息子の関係を切り抜いた本作の後半には、次のような一節が存在する。
《数年後、町から逃げ出してパリに住むようになった時、夜のバーで会った人たちに、家族と僕の関係を尋ねられる。妙な質問だが、彼らはそれを聞いてくる。僕はいつも、父のことは大嫌いだと答えるのだ。でも、それは本当ではなかった。あなたのことが好きなことを自分で分かっている。それでも、あなたを大嫌いだと他人に言う必要を感じてた。だが、どうしてなのだろう?》
故郷と家族を捨て、高みを目指したひとりの青年の抱く苦悩を赤裸々に、本作は描ききっている。
【今回の小説】:Édouard Louis, Qui a tué mon père, Seuil, 2018.
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elephantdasimaki399 · 10 months
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グザヴィエ・ドラン34歳、引退へ「気力も体力もない」|シネマトゥデイ
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tomokoogawa · 11 months
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team-ginga · 1 year
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映画『君の名前で僕を呼んで』
  Amazon Primeで映画『君の名前で僕を呼んで』(2017)を見ました。
 いかにもな題名で、きっと日本の配給会社がテキトーにつけたタイトルなんだろうと思っていたら、さにあらずーー原題もCall me by your nameでした。
 ジェームズ・アイヴォリーの監督作品だと思っていたら、アイヴォリーは脚本だけで、監督はイタリアのルカ・グァダニーノ。
 北イタリアの別荘で両親と一緒に休暇を過ごす17歳の少年エリオと、考古学の教授であるエリオの父親に別荘に招かれた24歳(映画の中で年齢は明言されていなかったように思いますが、ネット情報ではそうなっています)の大学院生オリヴァーのひと夏の恋の物語です。
 私は同性愛を描いた作品は決して嫌いではありません。アン・リー監督、ヒース・レジャー、ジェイク・ギレンホール出演の『ブロークバックマウンテン』(2005)は名作中の名作だと思いましたし、ジェームズ・アイヴォリー監督の『モーリス』(1987)も好きでした。
 同性愛者であることをカミングアウトしているグザヴィエ・ドラン監督の『胸騒ぎの恋人』(2010)、『トム・アット・ザ・ファーム』(2013)、『たかが世界の終わり』(2016)、『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』(2018)も見ています。
 レズビアン映画ならアブデラティフ・ケシシュ監督の『アデル〜ブルーは熱い色』(2013)は傑作だと思いましたし、セリーヌ・シアマ監督の『燃ゆる女の肖像』(2019)、『水の中のつぼみ』(2007)だって決して悪くはありません。
 こうした映画の特徴は異性愛者にも共感を抱かせるところーーつまり「同性愛といっても決して特殊なもの、自分とは関係のないものではない。異性愛であれ同性愛であれ、人を愛するという点では全く同じなのだ」と観客に思わせるところです。
 でも、『君の名前で僕を呼んで』は1ミリも共感できませんた。
 同性愛を描いた映画だからではありません。主人公の少年エリオの生活環境が私のそれと違いすぎるからです。
 エリオの父親は大学教授で、北イタリアの田舎の村に「邸宅」と呼びたくなるような立派な別荘を持っています。私も一応大学教授ですが、別荘などというものは一度も持ったことがありません。
 またエリオの両親やエリオは語学に堪能で、英語とイタリア語とフランス語を自在に操ります。エリオの母親に至ってはドイツ語もできるようですし、エリオはピアノとギターが上手です。
 こんな絵に描いたようなインテリ家族、ほんとにいるんでしょうか。いや、いるのかもしれませんが共感はできねえな。
 大学院生のオリヴァーは、bon vivantという言い方がいいのかな、生きるのがうまい人間で、物怖じせず人当たりがよく、エリオたちの別荘近くの村のバーで現地の人間とたちまち仲良くなってトランプに興じたり、通りで音楽に合わせて踊っているカップルとすぐに仲良くなって一緒に踊ったりします。
 あれなら、生きるのは楽だろうなーー生きるのが下手で人生を楽しめない(と自分では思っています)ワタシは少し(いや「とても」かな)羨ましく思いました。
 もっともそれはそう見えるだけで現実は違うのかもしれません。オリヴァーは同性愛者であり、同性愛者であることを隠して生きているからです。
 オリヴァーとエリオは最初はお互い「なんだこいつ」と思っている節もありますが、やがて惹かれ合い肉体関係を持つようになります。「君の名前で僕を呼んで」というのは行為の最中にオリヴァーがエリオに言う言葉です。
 オリヴァーはエリオをオリヴァーと呼び、エリオはオリヴァーをエリオと呼ぶ、そうすることによって相手を自分の中に取り込む、相手になり変わって自分を愛するというようなことなんですかね。
 二人はこうして激しい恋に落ちますが、休暇が終わるとオリヴァーは帰らねばなりません。そうなると恋は終わりです。避暑地の恋というやつですね。
 オリヴァーは帰りにミラノだかベルガモだかに寄って研究資料をどうこうするというのにエリオは同行して、最後の数日を共に過ごします。夢のような時間が過ぎると、オリヴァーは列車で去っていきます。
 全身の力が抜けてしまったエリオは家に電話をして母親に車で迎えにきてもらいます。帰宅したエリオに父親が語りかけます。どうやら父親はエリオとオリヴァーの関係に気づいていたようです。でも、父親は一切咎めません。それどころか恋の喜びと苦しみにしっかり向き合うよう息子を諭します。父親自身も若い頃似たような体験があった、でも一歩を踏み出すことができなかったからです。
 いい父親だし、いいシーンなのだろうと思います。でも、このシーンも全く共感できません。
 私は父親といい関係を築いていたと思っています。でも、父親と恋の話をしたことはありません。
 私はまた息子といい関係を築けていると思っています。でも、息子と恋の話をしたことはありません。
 だからエリオの父親がエリオに何を言っても、どんなにいいセリフを言っても心に響きません。
 「要するにお前は父親と、あるいは息子とそういう話をするのが照れくさいだけだろ」、「そういうのは実に日本人的な感性だ」と言われれば、その通りかもしれないと思います。でも、そうなんだから仕方ありません。
 エピローグは冬、別荘の周りには雪が積もっています。エリオと両親はクリスマス休暇を過ごすためでしょうか、また別荘に来ています
 そこにアメリカのオリヴァーから電話がかかってきます。オリヴァーは翌春に結婚するとのことーーエリオの両親は「おめでとう」と喜びますが、無論エリオは複雑です。
 電話を切り、目に涙を溜めながらじっと暖炉の火を眺めるエリオとその背後でクリスマスのご馳走をテーブルに並べている母親と家政婦の姿が映るところにスタッフ・キャストの名前が重なりおしまい(ここはかなり長いシーンです。セリフもなくただ表情だけでエリオの気持ちを表現するのは大変だったでしょうが、言い方を変えれば役者の腕の見せ所です)。
 最後の最後で少しだけ共感できたーーでも、そこまでは結局1ミリも共感できなかったーー私にとって『君の名前で僕を呼んで』はそういう映画でした。
 グァダニーノ監督は続編の計画があり、リチャード・リンクレーター監督、イーサン・ホーク、ジュリー・デルビー主演の映画『ビフォア・サンライズーー恋人までの距離』(1995)、『ビフォア・サンセット』(2004)、『ビフォア・ミッドナイト』(2013)のようにエリオとオリヴァーのその後を描きたいと言っているようです。
 そうなれば少しは共感できるようになるのかな。
追記1:  私はもちろん「共感」がいい作品の条件だとは必ずしも思っていません。共感できる/できないは観客一人一人の人生や感性にかかわってくるものであり、作り手には予想できないことだからです。  一応念のために申し添えておきます。
追記2:  文章の中では「クリスマス」と書きましたが、エリオも両親もオリヴァーもユダヤ系なので、クリスマスを祝う習慣はありません。エリオ一家が祝っているのは過越の祭り(ハガダー)です。  彼らがユダヤ人だということはストーリーの上で何か意味があるんでしょうか。そのあたりのことは私にはよくわかりません。  
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spangle1982 · 7 years
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グザヴィエ・ドランの映画は毎回家族について考えてしまう。
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t-u-e-n-3 · 4 years
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10月のトウモロコシ畑はまるでナイフ
観た。
あと冷えた黒糖焼酎は美味い。
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グザヴィエ・ドランのバーカウンターでの演技に俺は感動した。表情の繊細さ。鏡を見て何度も作っていたのかな。顔って面白いなぁと今更思う。
視聴者の精神や生き方、性格によって、言葉のない表情という情報は様々な見解を醸す。絶妙な顔ってあるよね。泣き笑いみたいな。その曖昧さに俺は深く心を打たれた。
あと演出として、緊迫したシーンになると、徐々に画面が狭まっていくのには感心した。
一回観た時には最後のシーンでしか気づかなかったけど、巻き戻した時に気づいた。ほぉとなる。
視覚に訴える演出はカットやアングル、カメラワークだけじゃなく画面比率も使えるんだなぁ〜と少年の心。俺が知らないだけで意外とやってんのかもね。
俺は理解力に乏しいので、見終わったあと、自分なりに少し考える。色んな人の考察も読む。
めっちゃネタバレだけど、この映画を面白いと思えるか否かは、主人公をどこのタイミングでゲイだと気付けるかによると思う。
「お前の精液は無駄だ」みたいなセリフを言われたあたりから、ん?となったけど、皮肉かなって思った程度だし、明言するシーンも無い。
それに気付くとそれまでの彼の表情や態度が全て伏線となってることにも気づく。
俺は最後までそのことに気付けなかった。
強がりを言うともしかしてぐらいの頭はあったけど、、、
まだそういう愛の形?を自然に受け取れないのかもしれない。悪い印象は無いけど、経験がないからなんとも。
まぁそれを知った上で観ても全体的に肥えた糞土の香り漂う実に湿っぽい映画だった。ずっと曇りだし。あとスリリングでもある。
教えてくれた先輩ほどの熱量には達してないにしても良い作品でした。
人間全ての関係性において嘘で補われている部分はあるのかも知れないね。
9/12
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praccox · 3 years
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Matthias & Maxime
2021/01/21
グザヴィエ・ドラン監督の脚本、そして演技に圧倒された。
マックスが待っているであろう部屋、その一歩手前の部屋の電球が途切れ途切れに光を放っている。意識がどこか遠くにいってしまったような表情をしてそれを眺めるマット。一度灯りの紐を引き、そしてまた引く。マットの心の中のどこかのスイッチが切れたのだろうか。導かれるようにしてマックスの待つ部屋へと赴く。そこからは二人して何かのスイッチがついたのだろうか、それとも切れたのだろうか、まるで理性を失ったように互いを求め合う。これまで実際に肌に触れたり極端に距離を縮めるような描写がなかったから、そのコントラストにドキッとした。
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m12gatsu · 4 years
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like a 糾える縄
「文藝」夏季号の特集に「アジアの作家たちは新型コロナ禍にどう向き合うのか」とあった。書きたいことをほっぽり出さなきゃならなくなった作家も多いんだろうなぁ。まずコロナ禍って何て読むんだ。ころなか? 戦禍、災禍というし。戦後派の作家達が、震災直後の作家達が、何に迫られていたかを思う。外的要因と内的要請の折り合いか。いや、何かもっとやむにやまれない大っきい影みたいなものか。こんな誰が読んでんだかよくわからないSNSでもコロナのこと以外書きづらい感じが蔓延っているんだから、職業作家は大変だと思う。と同時にこういう出来事を経た文芸の転換に期待したい。世界を揺り戻してほしい。音楽や映画はどちらかというと逃避のツール。もうちょっと能天気な役割を担っていてほしい。あくまで個人的な所見。志村けんが死んだのが悲しい。
春雪の日曜、買い物に出た近所のスーパー横の花屋に桜の枝が千円で売っていたのを1束買って、赤星の大瓶も買って帰り、自室に飾って花見とシケこんだ。内的花見である。Nがグザヴィエ・ドランのユリイカをくれた。
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okayuneco · 4 years
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生き延びろ、ミニシアター
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 映画を愛するものとしては、映画館の休館と相次ぐ公開延期にかなりダメージをくらっています。でも、もっと大変なのはミニシアターを経営している皆さんだと思うので署名や寄付や��ラウドファンディングなどできることはやろうと思っています。映画館という居場所がなくなるのは本当に辛いし、文化のない生活なんて考えられない・・・。演劇が好きな人は劇場、音楽が好きな人はライブハウスなど各自愛する場所が続いていけるように応援してみるのもいいのでは。
 さて、休館の前に滑り込みで観たグザヴィエ・ドラン監督「ジョン・F・ドノヴァンの死と生」の感想を。音楽の使い方や、スターの光と影というよりは母と息子の愛憎に焦点があてられているところなどドランらしさはありつつもやや抑えめ。初の英語作品だからなのか、分かりやすくしたのかな?「マイ・プライベート・アイダホ」のキアヌ・リーブスとリバー・フェニックスを彷彿とさせるラストが爽やかで好きでした。
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アップリンクにおいてあったチラシのこの2作品も観たいと思っているのですが、いつになることやら・・・。「クリシャ」はジョン・ウォーターズ監督が2016年のベストに選んでいて気になっていたのです。(もうこの顔が気になって仕方ない)
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 おまけは家ジンギスカン。元気のない時は肉を焼け。大事なことなので二度言う、元気のない時は肉を焼け。
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fuzukiii · 4 years
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自分の不安と人々の不安とたくさんの情報で溢れて、なにかしたいけど何もできない状況に完全に塞ぎ込んでしまった。気づかないうちに体にストレスが蓄積しているような感じがする。電車の中でくしゃみをしたら、隣にいた女性にじっと見られた。友人がコロナビール飲んでいる写真がインスタにアップされてた。「#コロナに負けない」っていうハッシュタグが付けられていた。
今週末、楽しみにしてたひなフェスも行けなくなっちゃった。一年前は鞘師里保さん見たな、とか、ダブルユーの復活もあって、来年のひなフェスも絶対行くって決めてたのに。こんな風になるなんて思わなかったな、ってたぶんみんな思ってることなんだろうけど、ほんとうにそう思う。気がつくとネガティブなことばっかり考えてる。三連休、逃げるみたいに実家に帰った。
実家では一日中テレビがついていて、森友学園のニュース。自分がついた嘘で人が死ぬってどんな気持ちだろう。
飼っているねこはずっと眠っている。首のあたりの毛がはげてきて、少しせつない。わたしが小学5年生のときに拾ってきたねこ。一日中ずっと眠っている。人間でいうともう90歳の歳らしい。
最近は言葉になる一歩手前にある感情に手が届かない。たとえばお母さんが働いてる工場でつくってる部品が、何の機械のどこに使われているのか誰も知らないんだ、って笑って言われたときに沸き起こった気持ちがなんなのかわからないまま素通りした。どうしてお母さんはずっと優しくしてくれるのだろう。支援をしたり、愛し続けるする理由が「家族だから」っていうのは私には正直ピンとこない。 グザヴィエ・ドラン の映画『マイ・マザー』の中で、主人公が「愛せないが愛さないこともできない 」と母親のことを表現していた。最後までふたりの距離は平行線の、いい映画だった。
ここまで書いて、書きたいことがなにもない、ということに気が付いてしまった。何も書かなくても平気で居られる日を渇望した日々が、たしかにあったはずなのに、ね。
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zounosenaka · 5 years
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『フロリダ・プロジェクト』を観た。社会の周縁部に暮らす人々の世界を六歳の少女の目から描ききっていて見事。フロリダは底抜けに明るく、夏の生命力と、なかば強迫観念のような幸福な家族のイメージに満ちあふれている。巨大でけばけばしい冗談のような外観をしたレストラン、アイスクリーム屋にホテル…。過剰なまがい物に溢れた『夢の国』で暮らす少女の毎日は、大人からすればとんでもなくシビアであるはずなのに、ときには大人をからかい、ときには友だちと冒険に出かけ、それはまるで永遠の夏休みのように輝いている。生理用品のシーンなど若いシングルマザーの母親の行動も強烈。さり気なく子どもに目を配る管理人も良い。ラスト、グザヴィエ・ドランのマミー!を思い出す。
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cinemastylenews · 4 years
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『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』オマージュスチール解禁ニュース!
若き天才映画監督グザヴィエ・ドランが、衝撃のデビューから10年を経て、ハリウッドの豪華キャストとタッグを組んだ初めての英語作品『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』が3月13日(金)より劇場公開致します。
豪華キャストの最高峰の演技×圧倒的な映像センス ドラン自身が集大成と語る、“人生の真実”を描いた愛の物語
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2009年。19歳の才能に世界は一瞬で魂を奪われたー。その後『Mommy/マミー』でカンヌ国際映画祭審査委員賞を受賞し、前作『たかが世界の終わり』でカンヌ国際映画祭グランプリに輝いたグザヴィエ・ドラン。着想から10年の時を経て、満を持して完成した本作は、幼き日のドラン少年が“憧れのスター”���オナルド・ディカプリオに宛てた手紙から生まれた物語です。ジョンには、TVシリーズ「ゲーム・オブ・スローンズ」のキット・ハリントン。ジョンの心の支えとなっていく少年ルパートに、『ルーム』で絶賛された天才子役ジェイコブ・トレンブイ。脇を固めるのはナタリー・ポートマン、スーザン・サランドン、キャシー・ベイツら豪華オスカー女優たち。さらにアデル、ザ・ヴァーヴなどの音楽、ほとばしる感情に揺れる映像で、美しきスターの光と影に迫ります。デビューから一貫して描き続けてきた「母と息子」というテーマにおける集大成だと監督自身が語る最新作が、遂に幕を上げます。
この度、『マイ・プライベート・アイダホ』にオマージュを捧げたシーンを切り取った場面写真が解禁。
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バイクに跨った金髪&黒髪の青年2人の姿は『マイ・プライベート・アイダホ』のリヴァー・フェニックスとキアヌ・リーブスを彷彿とさせます。自身のベストムービーの1つとしてこの作品を挙げているドラン、実は以前にもこの作品にオマージュを捧げたカットを撮影したことが。それは『胸騒ぎの恋人』での1シーン。着想元は焚き火を囲みながら、リヴァー・フェニックスがキアヌ・リーブスに愛の告白をする場面です。『胸騒ぎの恋人』では、ドランが演じる主人公が思いを寄せるストレートの男の子に気持ちを伝える時に、全く同じ構図で撮られ、ほぼ一緒のセルフが使われています。また『マイマザー』では主人公の部屋にリヴァー・フェニックスのポスターが貼られていたりと、作品の随所にドランの愛が散りばめられています。このように、自分自身が同性愛者というセクシュアリティを持つドランにとって、美しき男娼の切ない恋愛模様は「ドラン映画」に色濃く反映されていることが分かります。新作『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』で『マイ・プライベート・アイダホ』がどのような形で表現されているのか、是非スクリーンでご確認を・・・!
【ストーリー】 美しきスターが、死んだ。それから10年。当時11歳だった少年との”秘密の文通”により、謎に包まれた死の真相が明かされる。 2006年、ニューヨーク。人気俳優のジョン・F・ドノヴァン(キット・ハリントン)が29歳の若さでこの世を去った。自殺か事故か、あるいは事件か。謎の真相の鍵を握るのは、11歳の少年ルパート・ターナー(ジェイコブ・トレンブイ)だった。それから10年の歳月が過ぎ、ジョンとルパートがかつて交わした“秘密の文通”が一冊の本として出版される。今では注目の新進俳優となったルパートが、100通以上の手紙の公開に踏み切ったのだ。さらにルパートは、著名なジャーナリストの取材を受け、すべてを明かすと宣言するのだがー。
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【作品情報】 『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』
■監督:グザヴィエ・ドラン ■脚本:グザヴィエ・ドラン、ジェイコブ・ティアニー ■出演:キット・ハリントン、ナタリー・ポートマン、スーザン・サランドン、 ジェイコブ・トレンブレイ、キャシー・ベイ ■原題:The Death and Life of John F. Donovan ■提供・配給:ファントム・フィルム、松竹
©2018THE DEATH AND LIFE OF JOHN F. DONOVAN INC., UK DONOVAN LTD
情報提供:ファントム・フィルム
3月13日(金)より、新宿ピカデリーほか全国ロードショー!
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cherurira · 6 years
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不器用な愛を笑うな。 映画『Mommy』コピー
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team-ginga · 3 years
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映画『胸騒ぎの恋人』
 DMM.comでDVDを借りて、グザヴィエ・ドラン監督・主演の映画『胸騒ぎの恋人』(2010、原題 Les Amours imaginaires)を見ました。
 ホモセクシュアルの男フランシスとストレートの女マリーがいて、その二人が親友で、でも同時に一人の男ニコラを好きになって、3人で森でかくれんぼ(?)をしたり、田舎の別荘に行ったりするのだけれど、フランシスとニコラが仲良くするとマリーが機嫌を悪くし、マリーとニコラが仲良くするとフランシスが機嫌を悪くするというのがあって、一人で帰ると言い出したマリーを止めようとしてフランシスが彼女と取っ組み合いの喧嘩をして、で最終的に二人ともニコラに振られてしまうというお話です。
 率直な疑問ーーうーん、これどこが面白いんですか?
 グザヴィエ・ドラン演じるフランシスがニコラの部屋で留守番をしているとき、ニコラの服を頭からかぶってオナニーをする場面なぞは、「へえ、そこまでやるんだ」と思いましたが、結局それだけ。
 最後はニコラに振られたフランシスとマリーが仲直りをして、エピローグでは「1年後」というテロップが出て、パーティーでフランシスとマリーは久しぶりにニコラと再会。ニコラが二人に寄ってくるのをフランシスが奇声をあげて(?)追い払うのですが、やがてニコラが誰かと談笑しているのを見て、二人とも吸い寄せられるようにニコラの方へ歩いていくところでおしまい。
 ニコラへの想いは断ち切ったつもりだったのに、結局本人を目の前にすると抗えないということなのでしょうが、私はどうしてもこのニコラという人物に好感が持てなかったので、「あーあ」という感じしかしませんでした。
 世間はドランがわずか21歳でこの映画を撮ったということで絶賛したようですが、一体どこがいいんですかね、この映画。
 ニコラがオードリー・ヘップバーンのファンだというところも全く活かされていませんでした。あたしゃ、ラストで雨が降り出し、マリーがフランシスにそっと傘を差し出すところで、『ティファニーで朝食を』へのオマージュがあるものと思っていたのですが…と(『ティファニーで朝食を』ではオードリー・ヘップバーン演じるヒロインは雨の中タクシーを降りて、捨てた猫に駆け寄り、びしょ濡れになりながら犬を抱きしめ、そこから一挙にハッピーエンドになだれ込みます。まあ、原作となったトルーマン・カポーティーの同名の短編ではヒロインは行って帰らずで、ハッピーエンドにはならないんですが……)。
 「意識高い系」の人たちには面白いのかな。
 「奇妙な三角関係」という意味では、ロミー・シュナイダー、イヴ・モンタン主演、サミー・フレイ監督の『夕なぎ』(1972、原題 César et Rosalie)の方がはるかに面白かったように思います(『夕なぎ』では二人の男が一人の女を巡って争い、女は耐えられなくなって失踪してしまいます。面白いのはその後で、二人の男が友人となって一緒に暮らし女を待つというところです。二人が仲良く朝食をとっているところに女が戻ってくるというところでエンドマーク。粋な映画でした)。
 グザヴィエ・ドランはやはり母親が出てこないと面白くないのですかね。
 『マミー』を見て面白くなかったら、グザヴィエ・ドランは見限ります。
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kouji-funamoto · 6 years
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Rufus Wainwright/Going To A Town (Tom A La Ferme - Xavier Dolan)
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mbc-maxima · 7 years
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映画「たかが世界の終わり」とにかく映像が美しい!アップの場面が多いのですがどの登場人物も美しい…。観て気づいたけどアデルの青い髪の子出てました。なかなか罵倒しあいの切れまくりの叫びまくりのわかりあえない家族。最初から最後までそれで観てて疲れるし、ほっとする時間の方が短い笑。主人公のメインの目的は病気になって寿命を告げるために12年ぶりに実家に帰るんだけど、家族が荒れすぎててそれをできずに帰ることになります。他の家族はずっと一緒に住んでいてそれぞれのイライラと葛藤がつのっていて、ポンと帰ってきた家族に上手に構うことができない。主人公目線で観てたのですが色んな人のレビューを読むうちに、そっちかー!と思う事もありました(謎)濃ゆいですー。濃厚。
【追記】
監督:グザヴィエ・ドラン wiki 過去作品:
マイ・マザー J'ai tué ma mère (2009年) 胸騒ぎの恋人 Les amours imaginaires (2010年) わたしはロランス Laurence Anyways (2012年) トム・アット・ザ・ファーム Tom à la ferme (2013年) Mommy/マミー Mommy(2014年) たかが世界の終り Juste la fin du monde(2016年)
【ミュージックビデオ】 アデル - "Hello" (2015年) ↑これ作ってたんですね!!!素敵・・・
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