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#サンデル
spunoutspace · 1 year
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言説の貧困化とは、一つのニュースから次のニュースへと渡り歩きながら、スキャンダラスでセンセーショナルで些細な事柄にもっぱら気を取られるようになることだ。
マイケル・サンデル 『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』
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0nce1nabluemoon · 10 months
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具体的に言えば、三〇年前なら、健康、教育、生殖、家庭生活、公安、国家の安全保障、刑事司法、環境保護といった社会領域において、その財やサービスの分配に市場を利用することはなかったのに対し、今日では、「その大半が当然のことと考えられている」。つまり、商品取引とは異質の、人間の本質に関わるような社会領域において、金銭を媒介として財やサービスを分配したり、人びとに特定の行為を促したり、特定の社会関係を形成させたりしようとしている。(…)サンデルは、「この社会において市場が演じる役割を考え直す必要がある。市場をあるべき場所にとどめておくことの意味について、公に議論する必要がある。この議論のために、市場の道徳的限界を考え抜く必要がある。お金で買うべきではないものが存在するかどうかを問う必要がある」と主張する。(…)
必要なのは、「こんな生き方がしたいのかどうかを問う」ことである。
麻野雅子「マイケル・サンデル『市場の道徳的限界論』の意義と課題(一)」
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haseditor · 2 years
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大谷選手が幸運なのは、投打の素晴らしい才能があるだけではなく、人々が野球を愛し、野球そのものを非常に高く評価する時代に生きているという点にもあります。 そして当然そのことは彼の手柄ではありません。 もし大谷選手がイタリアのルネサンス期に生きていたら、どうなっていたでしょう? 当時は野球の人気がなく、彼は今日ほど評価されていなかったでしょう。当時の人々は野球よりもフレスコ画家を評価していましたからね。 私たちがどれだけ才能に恵まれていたとしても、それは私たちの手柄ではありません。私たちの自己責任でもなく、運です。 また、持って生まれた才能が、たまたま高く評価される時代と社会に生きているということも、私たちの手柄ではありませんし、私たちの自己責任ではないのです。 これが、能力主義社会において、成功者にもっと謙虚さが必要と私が考える理由です。
「能力主義」はなぜしんどい? マイケル・サンデル教授と平野啓一郎さんが語る日本社会の問題(対談全文) | ハフポスト PROJECT
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manganjiiji · 7 months
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こはく雪積れ積れ
友人が結構復調してきているらしい。喜ばしい。私からはとくに伝えることがないので個人的なメッセージを送ってはいないが、周りの話を聞くとメッセージもスムーズなやり取りができるようで、とてもよかったと思う。私も何か言葉をかけたいような気はするが、こちらからは本当になんの報告もない。ただそのまま順然と回復していきますように、というのは皆が願っていることで、わざわざ私が個人的に伝えることでもないような気がする。そのような元気が自分にないだけの気もする。ともかく良い事です。本当に、もっと幸せになってから死んでもらわなきゃ困る。
今日は友人(こうこさん)の誕生日「苦肉の日」だった。昨夜21時半頃からもくり(通話スペース)を立てて、23:30になったらこうこさんお誕生日カウントダウン会場になりますと栞に書いておいた。そして集まった4人で(当然本人は寝ているので不在)30分前からカウントし、15秒前から数を数え、0時になった瞬間ハッピーバースデーを歌った。その後はもくりのタイトルが「こうこさん誕生日おめでとう」になった。本人は不在だが、祝いが届けばいいなと思い、その様子を今日報告した(やはり本人はまったく感知していなかった)。こうこさんには今年はかなりの、いわゆるキャラグッズをプレゼントとして送った(去年は洒落たボディソープなどを送った)。チェンソーマンとA3!のグッズ詰め合わせと、最近こうこさんがステッカー収集にはまっているので、ロルバーンの横型ノートと、その表紙につける透明カバー。このカバーに(もちろん本体にでもいい)たくさんステッカーを貼ってくれというわけだ。カバーを掛け変えれば別のステッカーの表紙にもなるし、ノートを使い終わっても、また別のノートにステッカー付きカバーを使いまわせる。無限大の夢が詰まった商品だ。すごい。あとかわいいジェットストリームがあったのでそれもおまけで付けた。友人のことがわかっていると、好みにジャストなプレゼントを送ることができていいな、と思った。無事に喜んでもらうことができ、安堵。こうこさん達の界隈というか、周辺では、誕生日付近になるとAmazonのほしい物リストを公開して、本を贈り合うのが慣例になっている。私も1冊送った(川端康成の異相短篇集)。明日着くと思う。みな誕生日前や誕生日後にもばらばらと届くように注文するので、誕生月は本が不意に降ってくる月になるらしく、お祭りだなあと思った。私は欲しい本があったらすぐ買ってしまうので、そういった催しには縁がない。また、読むべき本が意図せず増えてしまうのも苦手だ。本が読める人はすごいと思う。どんどん買ったり借りたりしてぐんぐん読んでいく。脳が強くてつねに空き容量があるのだなあと感動する。私は脳が貧弱で物語飽和症であるため、フィクションを摂取できる量が少ない。買う本はほとんど小説ではない本で、それさえも読むのが遅いし、積む。本日の時点で机の横に置いてある「今読んでいる本」を写真に撮ったものがたまたまあったので貼る。
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資本主義、民主主義、キリスト教、アメリカ、というのが相変わらず私の興味の中心だ。若い頃はもっと日本の歴史や思想にも興味があったはずだが、今はそのあたりへの情熱が薄れている。ミュージカル「ラグタイム」のパンフレットにもまだ目を通しきっていない。アメリカの近代というものに、私たち日本の今が凝縮されている気がして、ついそのような本を手に取る。ベスト・オブ・エネミーズの上映を友人(ことこさん)に薦められたのはたまたまだが、あまりにも私向きのコンテンツだった。舞台って、ミュージカルと違って歌のうまさを気にせずフィクションの世界にのめり込めるからいいな、ということに気づいた。そして英語を聞くのも心地いいなと思ったので、最近は数人の友人にアマプラで見れる洋画を沢山教えてもらった。物語としてまとまった英語が聞こえてくるのは楽しいな、脈絡がある知らない言語っていいな、と思ったので、内容が見えなくても流しておくくらいはしたい。寝たまま映画や動画を見るためにiPadを買ってはどうか、ということをいよいよ本格的に考えている。
数日前に、正式に退職した。次職も決まっていない。なんとなく応募してはいるが、たぶん決まらないだろうと思う。色んな人が私に仕事を辞めるように言ったし、そもそもどうせ続かないということもよく言われたし、その人たちの思惑通りというか予想通りになり、私は悔しいような気持ちもあるが、ただ、また敗けたのか、と思っている。私が働くことを無駄だと思う人、そんなことに意味は無いと思う人、私が働くと都合が悪い人、色々いる。私は前職の仕事も同僚も本当に好きだったので、退職したことはかなり悲しい。しかし、体が動かないのであれば、もう仕方がなく、私の「失脚」を望む人々の希望通りになった。それはそれで少し落ち着いた気持ちになった面もある。心配して言ってくれているとか、現実を見て言ってくれているとか、そういうことは頭ではわかっているが、私は単に仕事がしたくて仕事が好きなのであり、それを否定してくるということは私に死ね、今すぐ自殺しろと言っているのと同義である。と私の心は捉えている。これはもちろん拗ねているのだと思う。そのような捉え方はよくないし、幼稚だと思う。しかし、それでも、なぜ、私のやりたいことを応援してくれないのか、なぜ、最初からできない、やるべきではないと言われなければならないのか、そんなに私に「生きない」でほしいのか、と感じる心の動きは自分で押さえられるものではなく、自然発生である。私にとって生きることは働くことであり、働けなくなったら死ぬしかないと思っている。実際この世はそうだと思うし、そう思うことでしか生きていけないような個人的な事情が私にはある。そのことはカウンセリングでの先生との対話を通して整理していくべき課題だと思う。
仕事を辞めたことで、うつ状態になる確率が急上昇し、ふとした瞬間に、あ、ここで落ちたらもううつになるな、という「手前」を感じる。実際ほとんどうつ状態で寝ているし、希死念慮と自殺企図が一日おきに発生している。無気力はややましになったが、その代わりに、という感じだ。そのストレスにより、偏頭痛が頻発し、予防の注射を打ってもなお、毎日偏頭痛薬を飲んでいる。酷い時は朝も夕も飲んでいる。自炊する気力もきっかけもうしなって、とりあえずロッテリアをウーバーイーツで頼み続けているため、明らかにまた太ってしまった。ウエスト部分がきついと吐き気も生じやすい。まずロッテリアを食べることを辞めるべきだが、これも正気を保つひとつの手段になってしまっている。
なかなか正気を保てない。寝ているか、食べているか、余力があれば友人と通話する。さらに無理をして外出、勉強ができるときもある。今日はほとんど何もできなかったが、明日が期限の書類を速達で出すことができた。今日の成果はそれのみ。英語の勉強をしたかったなと思う。大澤真幸の『資本主義〜』も早く読み終わりたいのだが、段々話のレベルが上がってきて、そこまで早くは読み進められない(やっと第3章:増殖する知、勢いがどんどん増していき面白い)。マイケル・サンデルの『実力も運のうち』も、西洋思想やキリスト教にかなり突っ込んだ内容のようだったので気になって文庫版を結局買ってしまった。諏訪部浩一の『現代アメリカ小説探訪』も、かなり歴史の補助線として有難い。教科書的に(体系的に)アメリカ史を学んだことがあるわけではないので、独自の個別講義から得た知識で穴埋めしていっている感はぬぐえないが、このようなやり方も面白いなと思う。日本の歴史は小学校から徹底的に外枠から内実の順に埋めさせられたが、世界史(外国史)の知識は今のところほぼないので、内実から外枠に向かっている。果たして自分でアウトラインを説明できるほどになるのかはわからないが、できるようになりたいとは思う。しかしアメリカは広すぎて、地理知識が日本史の比ではない。連邦国家ということがそもそもアメリカの特徴的なすがたであるので、アメリカ史というのは、12から15くらいの国の歴史を学ぶ感覚になっている。ざっくりと北部と南部、西海岸、東海岸、と思ってはいるが、とにかく都市や州ごとにルーツの違う人達だし、ルーツの意識とは別に「アメリカ人」として育った意識もまた別にあり、縦にも横にも重層的な国だと思う。しかもこれが近代になってから作られた人工的な国なのだから、びっくりしてしまう。それでも現代日本人である私には、明治以前の社会よりは、アメリカ社会のほうがまだ感覚が近しい。そこにはキリスト教という絶対的な断絶があるけれども、その断絶を眺める作業はかなり楽しい。その仕組みさえわかれば、あとはだいたい私たちと同じ、と思えるので(というのも落とし穴だと思うが)200年前のことでも理解しやすい。日本だと、200年前の人というのは、その感覚をほとんど想像できない。同じ列島に住んではいるが異国の人だと思う、旧日本人は。それでも文化や宗教への感覚がほぼ変わっていない点があると思うので(勉強不足のため曖昧な表現だが)、前近代の感覚さえ掴めれば、霊的な部分の繋がりには、キリスト教圏ほどの隔たりはないように思える。
紀伊国屋ホールで「燕のいる駅」という芝居を見た。和田雅成さんが主演のため、友人(となりさん。和田さんの長年の、かなり前線のファン)が観に行っているのを見ていいな、と思っていたら控えめに薦められたので、そのままチケットを取り、話をした翌日、つまり昨日見に行った。帰宅しながらとなりさんにLINEで感想をぽつぽつ送っているうち、2人ともすごい熱量の文章を送りあってしまい、ひとつの演劇作品について、こんなにも自由度の高い読み取り方ができてすごいなと思った。私の感じたことは実はあまりなくて、ただ芝居のテンポやリズムがおもしろくて、そういうのがいいな、と思った。となりさんは脚本(物語)についてもかなり考えていて、私はそこまで深く考えて見ていなかったので、ほんとうに、観劇や読書というのは、受け手の人生体験に依るところが大��いのだなと改めて思った。二次創作の恋愛中心の小説でさえ、やはり読んでいる時は自分の恋愛観や人間関係の記憶が読む時の手すりになっている気がするし、人の数だけ物語がある。受け手が創造しているんだよな、と思う。私はこの、同じものを見たり読んだりしても、頭の中には違う物語が残っている現象というのがとても好きである。受け取り手がいて初めて物語は出来上がると思う。もちろん、書いている人も書きながら読んでいるので、書き上がった時点ですでに物語が1つできている。みんなそうやって、物語を読みながら、自分の人生に整理をつけて生きていて、偉いなと思う。私は読むことによって自分の人生の記憶と向き合うことを避けているのかもしれない。それはあまりにも大きな消耗を伴うため。読んでも読んでもすり減らないくらいに強くなりたいが、それはなろうと思ってなれるものなのだろうか。
2023.9.29
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kennak · 7 months
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こういうのは「ペンギンの絶滅は巡り巡って人類の危機だ」という功利主義的危機感を抱くべきなのか、それとももっと別の「正義」から危機感を抱くべきなのだろうか。サンデルの解説本読んでると、そんな疑問が…
[B! 環境] コウテイペンギンのヒナが全滅、南極の海氷消失で壊滅的影響
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ryotarox · 9 months
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日本では普通なのにアメリカでは許されないNGな行為 - YouTube
挙手(3;26のあたり) の話について、「アメリカでは挙手はナチスを連想されるからダメ」と誤解されそう。
挙手そのものがダメではなく、微妙な「指先が揃ってて腕がまっすぐ」の細部の話なのでは。わかりにくい。
挙手はアメリカの映画やドラマでいくらでもある。授業風景にはつきもの(下記リンク先はYouTubeの該当の場面)。
ドラマ「フレンズ」s5 ep9 The One with Ross's Sandwich
サンデル教授の白熱教室
映画「ペーパーチェイス」The Paper Chase(1973)
時代や地域や社会によって差はあるだろうけど、YouTubeコメント欄に散見されるような「挙手はダメ」という単純な理解は違うのでは。
- - - - - - - - - - - - - - - - 英米で違いがある?
YouTubeコメント @user-qb2lt3pt5p
ハーマイオニーはスネイプの授業でめちゃくちゃ挙手してたけどね。イギリスだと角度が違えばまあまあ大丈夫なのかな
スネイプ先生の授業の場面
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lastscenecom · 11 months
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リベラリズムとは、手続きに関するルールの束であり、どこまでも中立的であり、思想内容にアイデンティティが関係していないのが特徴です。誰に対しても中立の立場だというわけです。 しかし、人はみなアイデンティティを持ちたがります。だから、自分のアイデンティティが尊重されていないと感じる人たちがリベラリズムに挑むようになると、以前から指摘していました。 この考え方を使うと、なぜプーチンや習近平がリベラルな国際秩序に挑むのかを上手に説明できます。
マイケル・サンデルやハン・ビョンチョルの思想はいま必要とされている─「ノエマ」編集長が語る重要性 | 「前に進む原動力になるのは、新しい思考の枠組みだ」 | クーリエ・ジャポン
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moznohayanie · 1 year
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私たちの世界の未来がどのようなものになるか、私にはわかりません。ですが、「100年後の世界を生きる人々が、自分たちでさまざまなことを決めることのできる可能性を奪ってはならない」ということはわかります。(略) そのために私たちができる大切なこととは、「できるだけ取り返しのつかない変化を起こさないようにすること」です。
2023年を迎える今こそ読みたい。マイケル・サンデルさん、オードリー・タンさんの言葉
引用は『まだ誰も見たことのない「未来」の話をしよう』 オードリー・タン(語り) 近藤弥生子(執筆) SBクリエイティブ(SB新書)より
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monogradation · 1 year
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なんかここ一月くらい本当に何もできていない、ような気がするけどちゃんといろいろやってる気もする。スプラ3が出ただけ、なんだと思う。
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最近読んでる本は「菊と刀」。日本人はこんな感じの民族だ、という本だ。間違ってるっていう人もいるけど、そんなふうには見えない。大まかにはあってる。半分まで読んだ感想を。
僕はこの本を読んでると、サンデルの「能力主義は正義か?」を思い出す。日本人の日本人的な生き方っていうのは、能力主義を正義としない感覚で、この菊と刀に書いてあるような価値観っていうのはサンデルでも出すことのできなかった一つの能力主義を正義とする感覚から逃れるための答えだと思う。
この本は日本人は不思議という感覚で書かれてるけど、サンデルの本を読んだことがある僕には西洋人批判という風にも感じる。
もちろん日本の因習がいい面ばかりとは言えない。でも、能力に応じて生きる価値がある、みたいな概念もかなり怖い。それは分断を生む。
どちらが正しいというのは多分なくて、両者がバランスよく浸透していた時代というのが実はみんなにとって生きやすいのでないかなと思う。
能力主義の否定は停滞を生む。義理や応分の場のない世界には尊厳がない。そういうことなんだと思う。
残り半分読んでみて感想が変わったらまたここに書く。後半は宗教観のことについて書かれてるらしく、多分核心部分はもう読み切ったのではないかなと思ってる。
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straycatboogie · 4 months
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2023/12/24
BGM: Elvis Presley - Are You Lonesome Tonight?
満を持して、今日から職場に復帰ということになった。とても神経質になってしまった。仕事ができるかどうかわからなかったからだ。でも、身体を動かして運んだり歩いたりしていたら身体が温まってきた。その熱が、ぼくに仕事の感覚を取り戻させてくれた。そしてもっと身体が動��ようになった。ああ、マリリン・マンソンが歌うように職場がぼくのことを愛しているのだろう――ぼくは仕事をそんなに愛してはいないのだけど。
なんにせよついにクリスマス・タイムが訪れた。でもぼくがしていることといったらぜんぜんドラマチックでも何でもない。自由時間をただルーティンをこなしてつぶすだけだ(読んだり聴いたり。映画やドラマも観たいのだけれど)。たとえば今日はぼくはライラック・タイムという過去に愛聴したグループの音楽がSpotifyで聴けるということでずいぶん楽しんだ(彼らの音楽はぼくにとって「至宝」「珠玉の逸品」だ)。言い換えれば、まあずいぶんさびしい過ごし方だ。ああ、ソウルメイトはいつ訪れるんだろう。
日本には面白い表現がある。「クリぼっち」だ。「クリスマスにひとりぼっち」を短縮したものなのだろうと思う。「ぼっち」とは「ひとりぼっち」で、だからこれは「クリスマスだというのに、こんなロマンティックなイベントなのにロマンスのかけらもなくひとりで無味乾燥に過ごしている」ということになろうかと思う。まあ、つまんない表現だ。でも日本ではこうした同朝つ力というか、ロマンスを楽しんで愛や夢を消費せよという圧力をたしかに感じてしまう。それはとても強い圧だ。
たしかに、ぼくはクリスマスをシングルの身でさびしく過ごしている。つらいと言えばつらい……不幸でみじめと言われるなら甘受したいとも思う。でもこの話題になってくると、ぼくはもうこれは「神のみぞ知ることがらだ」だとしか言いようがないのだった。いつほんとうに大事なソウルメイトにお会いできるか……その瞬間が来るまで待つしかない。そしてこれは消費社会や資本主義の論理によってはついに収斂されえないものだと信じる……つもりだ。
ちぢめて言えば、ぼくは自分の個別の・固有の人生をワンアンドオンリーなものとして、天与のものとして生きる。いや、この瞬間何人の恋人たちがロマンスを楽しんでるのかなあ、って思ったりもする。するんだけど……ああ、そんなことを書いていたらついにマイケル・サンデルの本を読んだことを書けないまま終わったのだった。
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honyakusho · 7 months
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2023年9月11日に発売予定の翻訳書
9月11日(月)には17冊の翻訳書が発売予定です。東京創元社と早川書房は文庫判です。
黒猫になった教授
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A・B・コックス/著 森沢くみ子/翻訳
論創社
ファラデー家の殺人
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マージェリー・アリンガム/著 渕上痩平/翻訳
論創社
小児代謝疾患マニュアル 改訂第3版
但馬剛/翻訳 松原洋一/翻訳
診断と治療社
DSM-5-TR 精神疾患の分類と診断の手引
American Psychiatric Association/原著 日本精神神経学会/監修 ほか
医学書院
フェルディナント・フォン・シーラッハ/著 酒寄進一/翻訳
東京創元社
ナイフをひねれば
アンソニー・ホロヴィッツ/著 山田蘭/翻訳
東京創元社
魏武注孫子
曹操/著 渡邉義浩/翻訳
講談社
変身物語 上
オウィディウス/著 大西英文/翻訳
講談社
変身物語 下
オウィディウス/著 大西英文/翻訳
講談社
ティーカップ
レベッカ・ヤング/著 マット・オットリ―/イラスト さくまゆみこ/翻訳
化学同人
あふれた まち
マリアホ・イルストゥラホ/著 鈴木沙織/翻訳
化学同人
実力も運のうち 能力主義は正義か?
マイケル・サンデル/著 鬼澤忍/翻訳
早川書房
巨人たちの星【新版】
ジェイムズ・P・ホーガン/著 池央耿/翻訳
東京創元社
[図説]世界の外食文化とレストランの歴史
ウィリアム・シットウェル/著 矢沢聖子/翻訳
原書房
クリアせよ! スパイめいろ
サム・スミス/著 宮坂宏美/翻訳
あかね書房
ミイをたすけて! ムーミントロール
トーベ・ヤンソン/著 ラルス・ヤンソン/著 当麻ゆか/翻訳
徳間書店
テクノコードの誕生
ヴィレム・フルッサー/本文 村上淳一/翻訳
筑摩書房
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manganjiiji · 7 months
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桜くつ器
「くつ」というのは今自分で考えた動詞で、その場に固定するみたいな意味です。くくりつけるとか、打つとか、木槌で叩いてぴんと固定させる感じ。なにかいい漢字がないかなと思ったけど、思いつかなかった(と思ったが、「繰つ」というのがいいかもしれない、口が3つもあって硬そうなところがいい)。桜くつ器というのは、桜が固定されて飾られている器の意。
カウンセリングに行ってカウンセラーの先生に3ヶ月ぶりに話をしてもらい(ずっと予約の電話をかけることができず、3ヶ月ぶりとなってしまった)、さまざまなことが整理され、やっと、ここ数週間のうつ状態からすこし回復したように思われる。とくに一秒ごとに噴出していた希死念慮は無くなった。帰りに蔦屋書店に寄ってしまい、まさかここで本を買うとは思わなかったのだが、文庫本4冊をレジに持っていっていた。まだ前に買った本を読み終わっていないのになぜかこのようなことをしてしまう。これは23歳くらいからずっとそう。恐ろしい書籍購買依存症だ。「本を買う」という行為にのみ意味があり、読むことは全然しない。たまには読むが、1冊を頭から終わりまで読み切るということは殆どない。最近はその事に罪悪感も苦悩も呆れも何も覚えなくなってきた。この数ヶ月本を買うことをやめられていたのに、いきなりこのように浪費してしまい、衝撃もあるが、まあいつもの自分だなと思った。『京都SFアンソロジー』『貝に続く場所にて』『クララとお日さま』『実力も運のうち』の4冊。京都SFは暴力と破滅の運び手さんの「ピアニスト」が読みたくて買った(まだエチ小賞アンソロも読み終わっていないし、ブラームスの乳首も読み終わっていないのだが)。貝に〜は、書店で見て、芥川賞と群像新人賞の受賞作で、言語に関する物語とあったので、かなり気になって買ってしまった。講談社文庫はビニールが最初からかかっていて中が見えないのだが、帰宅してビニールを破って(この作業、省略したい。講談社は早く正気に戻って文庫本にまでビニールを掛けるのはやめてほしい)中を見たら、かなり余白の多い組版で、行間もひろく、見た目のうつくしさに拘りを感じた。いかにも芥川賞受賞作という感じで良い(組版への拘りというと黒田夏子の『abさんご』を思い出す。あれもかなり好きだった)。クララとお日さまは、ことこさんに内容を教えてもらった時に読みたいと思い、文庫化もしたことだし、と買っておいた。ひじょうによい子のAIの一人称で、カズオ・イシグロのいつものあれですよ、と言われたので(語り手の認識と世界との齟齬というかズレが特徴的なことが多い)、そして立ち読みしたところクララ(AI)にかなり好感を持ったので、読もうと思った。マイケル・サンデル(実力〜)は、かなり西洋哲学やキリスト教的価値観を引いて解説している(おそらくアメリカ人の状況を)と感じたので買った。『資本主義の〈その先〉へ』(大澤真幸)を読んでいるところなので、かなり内容に惹かれた。昔からだが、やはり「アメリカ」というものの面白さが私の冒険心を掻き立てる。同じくらい「日本」というものも面白いのだが、日本には一見してわかるような一貫性がない。だからこそ歴史の追いがいもあるのだが、やはりプロテスタントの「理想国家」として作られた人工物のアメリカのほうが理解しやすく、直截的なエキサイティングが得られる。昨日観劇したミュージカル「ラグタイム」では、二十世紀初頭のアメリカのフランス系アングロサクソン、ラトビア系ユダヤ、アフリカ系黒人の三つの民族の交わりがえがかれており、面白かった。私はスウィング・ジャズが好きなので、音楽としてのラグタイムにもっと言及があるのかしらんと思ったが、そこは特になかった。ミュージカルとしては、クラシック、ラグタイム、スウィング、ポップスと、割とオーソドックスなラインナップだったので、音楽的にはそこまでラグタイムに特化していたわけではなかった。そもそもこのラグタイムという語の、本来次の音が来るであろう箇所(次の拍)ではまだ音が来ず、ラグがあって少し拍より遅いところで次の音が来るシンコペーションのことを表している本来の意味とともに、さまざまな人種や民族がアメリカに絶えず流入し、立場がさまざまに変わりながら、「アメリカ人」になっていくまでのラグタイム(過渡期、猶予期間のようなイメージ)を描いているということなのかもしれない。私は音楽的なラグタイムは、クラシックとジャズを繋ぐ時期のもの(リズム、シンコペーション)という認識なので、まさにラトビア(欧州、クラシック)から移民としてアメリカ(新大陸、ジャズ)へ渡って、映画監督として「アメリカ人」として認められるまでのターテ(俳優は石丸幹二さん)の不遇の期間のことと考えると自然だ。音楽を、ジャズを主体としたミュージカルというのが見てみたいと思う(映画でも)。そういう作品はたくさんあるので、そのうち出会えるといいなと思う。そういえば前回日生劇場で見た「ジャージーボーイズ」はジャズを通り越してポップス…というかブルー・アイド・ソウル(白人がアレンジしたR&B)またはロックの話だったが、アメリカの商業音楽の世界を存分に楽しめた。ジャズのミュージカルとしては誰に焦点を当てるかだが、誰に当てても大物だらけの舞台(要素がもりだくさん)になってしまい、かつミュージカル・ナンバーもジャズにしないと成り立たなさそうだが、日本のミュージカル俳優はジャズ・シンガー(の歌い方)ではないので、なかなか難しいのではないかと感じる。「ラグタイム」ではサラ(黒人女性)役の遥海さんの歌唱が圧倒的で(彼女だけミュージカル��発声ではなく、全編通してソウルの歌い方だった)、歌だけでいえば主役の3人を凌駕していたのではないかと思う。完全に自分の声を縦横無尽に舞台全体で走り回らせ、かつコントロールも完璧だった。ミュージカルの歌い方では、ああいう芸当はできないというか、そもそも方向性が違うのでなんとも言うべきではないが、ソウルやジャズの歌い方もできるミュージカル俳優というのがもしいたら最強だろうな、ということを夢想した。クラシックの基礎の上にジャズの歌い方もマスターしているとなると、日本では平原綾香やKOKIAが私などは浮かぶが(上の世代だと美空ひばりや森山良子だろうか)、芝居も歌も極める上に、歌は2種類も、というのはやはり難しいのだろうか。我らが東啓介氏(私が舞台刀剣乱舞のバックステージ映像で好きになり一時期ガチで応援していた俳優)に関しては、私は今回もあまり納得が行かなかった。同行した友人は「28歳だし、そんなにすぐに変わる(成長する)ものではなく、熟達を求めるのは10年後とかかなあ」というようなことを言っていて(記憶違いがあったら申し訳ない)、私は東啓介にあまりにも多くを求めすぎているのだろうか、と思う。応援していることは応援しているのだが、追っていた頃の急成長と比べて、本格的なミュージカル俳優となってから、舞台上で分かりやすい「成長」というのが感じられないため、刺激に飢えているのかもしれない。演技もいつも同じに見えるし、発声の仕方も特に試行錯誤するでもなくいつも変わらず、なんかこう、変化…バリエーションが無い。それがつまらなく感じる。育ちが良く上品な所作、という当て書きのような役柄を続けて見てしまっているせいもあると思う。5DAYSの時みたいな、もっとしょうもない若者とか、マタ・ハリの時の恋に狂った青年とかの、本人の育ちの良さを封印するような役の方が見てみたいなあと思う。もっとヘドロの中を生きてきたような役を与えられた時に、果たしてどこまで生来の「品の良さ」を封印できるのか。というのは、彼を起用する演出家やプロデューサーが、どこまで東啓介の演技に期待してくれるのか、という問題も関わってくると思う。舞台上の発声はもっと先輩俳優の声の響きを聞いて試行錯誤してみてほしい。声が小さくても響かせるための発声。歌い方も最初の子音の破裂音というか呼気が入りすぎているが、これも前回から変化なしで、歯がゆい気持ちになった。歌はロングトーン以外でも「聴かせ」なければならないが、今のところロングトーンがないと東啓介の歌声はあまり目立てないというか、ほかの歌声との差別化が為されない。これに関してはどうすればいいのか素人にはわからないが、とにかく今までの練習や方向性を踏襲するのではなく、さまざまなやり方、歌い方、技法、発声方法を試して、もっと声に色をつけてほしい。ファンレターに書けばいいことを長々と書いてしまった。ファンレターに書きます。
夜、じゅんえん先生と話していたら赤森さんが来訪し、最終的に2時過ぎまでウエルベックの小説や文化や価値観の違いについて話してしまった。私は『ある島の可能性』を見つけて買って持っているだけでまだ最初の3ページしか読んでいないのだが、今日あらすじを聞いて、中身を結構拾い読みして、どんどん読んでいきたいと思った。ウエルベックを紹介する時の赤森さんは「とにかく中年男性主人公がキツい(見ていてキツい、キショい)」ということを語るのに非常に活き活きとしていて面白い。赤森さんはもともと面白い方なのだが、ウエルベックを語る時の赤森さんは「主人公のここが無理」ということを鮮烈に話してくれるし、ストーリーの面白さもきちんと伝えてくれるので、凄いなあと思う。ちなみにファフナーをTwitter上で語っている時の赤森さんもかなりのエンターテイメント性がある。
じゅんえん先生は酒が飲めない、かつ所得の低い私のことを気遣って、飲みに誘わないでいてくれたのだが(とても優しくて感動した)、今後は数回に一回は混ぜてくれるらしい。私があまりにも拗ねすぎたなと思ったのでやや反省した。
2023.9.19
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kennak · 1 year
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「リベラルがなぜ嫌われるのか?」というテーマが盛り上がっているようですが、政治哲学の分野では50年ほど前に盛り上がったことがある話題なので、簡単にご案内します。リベラルの中の人の属人的な資質の問題ではなくて、あくまでリベラルが抱える理論的な問題だからです。(1/n) · 今から50年ほど前に盛んだったその論争は「リベラル=コミュニタリアン論争」と名づけられています。当時は抽象的な議論に感じられたはずですが(実際抽象的だったわけですが)、理論哲学で議論されたことは2世代(大体60年)ほど遅れて世俗社会にあらわれてきますので、(2/n) 今から振り返ると意外と味わい深く感じられるところもあるのではないかと思います。どちらかというとnoteに書くような内容なので冗長になりますが、書きながら考えているところもあるので、ご容赦ください。明け方前に目が冴えてしまって寝つけないハリネズミの戯言であります。(3/n) 1971年、ジョン=ロールズというハーバード大の政治哲学の教授が一冊の本を出版しました。タイトルは“on the theory of justice”、邦題は「正義論」といいます。この本は理論リベラリズムの革命と言われていて、今日的なリベラリズムの理論的な骨格をつくった本といっても過言ではありません。(4/n) 中身が800ページほどある鈍器本なので内容は非常に多岐に渡りますが、今回のツイートに必要なエッセンスということで要約しますと、「功利主義批判」です。 “正義とは最大多数の最大幸福であること”を旨とする【功利主義】がアングロサクソン社会を支配する倫理哲学として機能する中で、(5/n) 功利主義の負の側面が現実社会に致命的な悪影響を及ぼしているのではないか?とロールズは危機感を持ちました。意外なことに日本人にも関係のある話題でして、というのも彼は太平洋戦争に従軍してまして、フィリピンで日本軍と戦っているのですね。原爆投下直後の広島も目撃しています。(6/n) 原爆投下の道徳的な根拠の一つは功利主義です。実際マンハッタン計画を統括したスティムソン長官は、原爆投下によってより多くの米兵と日本人の命が助かると考えました。「最大多数」の「最大幸福」。これが原爆投下の道徳的な拠り所です。しかしロールズはこれを端的に誤りだと考えました。(7/n) 事実彼は1995年に“50 Year after Hiroshima”という論文を書いて功利主義原理による原爆投下の道徳的な正当化を批判しています。 彼の功利主義批判の本質は何かというと、「功利主義的は少数者の不幸を道徳的に正しいこととして認識させ、事実そのように行動させてしまう」という点にあります。(8/n) それでは功利主義の何をどう考えたらまずいのかということですが、「功利主義は最大多数の最大幸福と言うが、もし自分が抑圧されるマイノリティーの側だったとしたら道徳的に正しいと賛成しないんじゃね?」ということです。(9/n) アメリカ人だって自国に原爆が落とされるとなったら、いかなる理由があったとしてもどれほどの人が賛成するでしょうか。功利主義は現実の社会運営に支障をきたすほど“ダブスタ”な考え方なんじゃね? それって普遍的な正しさとは言えなくね? というのがロールズの問題提起でした。(10/n) そこで彼が考えたのが「だったらどんな立場や境遇の人でも賛同できる社会こそが最もダブスタじゃない正義的な社会なんじゃね?」ということでした。彼は“無知のヴェール”として有名な思考実験を考案するのですが、その解説はネト記事などにお任せして先に進めます。(11/n) https://juse-p.co.jp/files/download/26/ch7.pdf どんな人でも正しいと考えられることはそうそうあるものではありません。ロールズは、「社会的に正しいことというのはそんなに多くはなく、公正な社会を支える必要最小限のものに留まる。それ以上のことは正しさというより多様性の問題なので、お互い寛容でいようね」的なことを主張します。(12/n) あらゆる人の立場や視点を入れ替えても成立するルールが、今日的なリベラリズムが構想する正しさの基準です。ゆえに反差別主義的。よく勘違いされるのは、相手はAだと言っているがその理論を使うと逆に私の言うことが正しくなっちゃうから論破〜という思考法はリベラリズムではありません。(13/n) 仮にバカとアホが口喧嘩していたとして、二人の立場を入れ替えたとしても、それはアホとバカの口喧嘩になっただけです。それはただの低レベルな口喧嘩なのであって、普遍的な議論ではありません。反転可能性テストなのではなく、ただのミラーリング(嫌がらせ)なのであります。(14/n) さてこのようなロールズのリベラリズム哲学ですが、究極的なポイントは「功利主義のように考えると、道徳上致命的に問題のある局面が浮上する」という道徳哲学批判になります。ここを踏まえて次に進みます。 良かれと思って構想されたリベラリズムが、なぜこうも嫌われる考え方になったのか?(15/n) 一つの答えは、そして少なくない人が認識しているのはおそらく「中の人問題」です。リベラリズムというのは本来はいいこと言ってたのに、中の人が本来のリベラリズムをちゃんと勉強していなかったり、そもそもあんまり賢くなかったりするからこんなことになってしまったんだ、的な認知です。(16/n) これも少なからず正鵠を得ているとは思いますが、「いやそうではない。中の人がまともだったとしても、ロールズのいうリベラリズムには道徳的な考え方として致命的な欠陥がある」的なことを真面目に言い出した人たちがいました。コミュニタリアンと呼ばれる人たちです。(17/n) それが1980年代にアメリカの政治哲学界で盛り上がった「リベラル・コミュニタリアン論争」です。概要を簡単に説明します。(18/n) コミュニタリアンというのは日本語で「共同体主義」と訳されます。個人を社会の出発点だとみなすのが個人主義だとすると、個人を育て上げるのは共同体なのだから共同体が社会の出発点になると考えるのが共同体主義になります。 さてそんなコミュニタリアンがロールズをどう批判したか?(19/n) この批判がいかに哲学的(抽象的)なものだったのかを感じていただくため、ここからはある論文から原文ママで引用します。「リベラル・コミュニタリアン論争再訪(宇野重規)」です。抽象的だからこそ、40年後の今でも(今でこそ)示唆的に響くところがるように感じます。(20/n) “サンデルは、負荷なき自我(unencumbered self)」という概念を提示して対抗する。ロールズがいうような「無知のヴェール」をかけられた原初状態における人間とは、いわば歴史的・社会的な属性をはぎ取られた、抽象的な自己に過ぎない。→(21/n) “しかしながら、そのような抽象的な自己に、はたして道徳的な判断ができるのだろうか。人間は歴史的・社会的に状況づけられて生きている。そのような状況と切り離された人間は、いわば剥奪された自己でありそのような自己はいかなるものにも愛着をもてず→(22/n) 「自分はいかなる存在なのか」について内省することもできない。したがって,そのようなロールズの議論では善を選択することも、正義を構成することもできない、というのがサンデルの結論である。” はい、何を言ってるかさっぱりですね。わたしもつい数年前まではそうでした。(23/n) サンデルが何をそんなに躍起になって批判しているのか、わたしがその意味が肌で感じるようになったのは、昨今のキャンセルカルチャーを目の当たりにするようになってからです。彼らのリベラル批判はキャンセルカルチャーのリスクを警告したものだったのだと、腑に落ちるようになりました。(24/n) ここは解説が必要になると思いますし、ようやっとわたしのツイートの本旨になります。先ほどの宇野論文の記述を再確認します。 「『無知のヴェール』をかけられた原初状態における人間とは、いわば歴史的・社会的な属性をはぎ取られた、抽象的な自己に過ぎない」という部分です。(25/n) これはどういうことかというと、【相手に反差別的に考えることを求めるということは、相手の「歴史的・社会的属性をはぎ取って」、いったん丸裸な個人になることを要求する】ということなんです。 はい。これ、キャンセルカルチャーの論理なんですよね。(26/n) 相手の職業というのは、運も含めてその人物及び共同体の歴史的・社会的属性の結実に他ならないわけです。なので、その職業というものをキャンセルして(はぎ取って)、丸裸になった個人になって考えてみれば反差別的な物の見方もできるようになるだろう、と。(27/n) 差別的な人間が反差別的に物事を見るようになるためには、自分に内面化されている共同体との歴史的・関係的な結びつきを一旦はぎ取られることを要求されます。その過程の中で、共同体の中に位置づけられた人間は「剥奪された自己」に貶められ、→(28/n) 「愛着をもてない、自分がそうなりたくはない自己」になってしまう。サンデルはそれをリベラル本人が自分に対してそうなってしまうことを危惧したわけですが、まさかのまさか、サンデルの当時の予想を超えて→(29/n) 現実社会はリベラル的思考がそれを「他人に対してやってしまう」というステージまで到来してしまったのだと、個人的には総括しています。 実際、ロールズはサンデルらの批判を一部受け入れ、約20年後に「政治的リベラリズム」というこれまた大著を執筆します。修正点としては→(30/n) 「自己にかかる負荷(共同体における歴史や社会的な属性)をはぎ取って考えるのは、あんまりいい考え方じゃなかったね」ということです。 ロールズがもともと功利主義批判から出発したことを思い出してください。(31/n) 彼の問題意識としては、「功利主義には機能する場面もあるが、道徳的に重大な局面で致命的なミスリードを生んでしまうことがある(ヒロシマに対する原爆投下等)。だから考え方自体を見直そうぜ」ということでした。(32/n) なので彼はサンデルらから「功利主義が危険だっていうのはわかるけど、あなたのいうようなリベラル的な考え方も理論的にリスクを抱えるんじゃね?」という批判を真摯に受け止め、自論を修正したものだと思われます。(33/n) ロールズからすれば無知のヴェールはあくまで思考実験で、「自分がヴェールをかぶって一旦あらゆる属性から解放された状態になれば、自分が不利な立場にいる可能性もあるわけだから、損得勘定で考えてみてもある立場の人が特に不利になるルールには賛成しないんじゃね?」ということでしたが、(34/n) サンデルらから「いやいや。まじでそう考えたら、やばいから。普通に考えて自分の属性を一旦はぎ取るって考え方自体がかなり危険でしょ」という突っ込みを受け、「ぐぬぬ。確かに」となった。まぁそんないきさつだったと理解し���います。(35/n) かといってリベラリズムの敗��とか退場ということでもないのだろうと思っています。ここまで功利主義、リベラリズム、共同体主義という三つの政治的哲学が出てきましたが、大事なこと(そして最も教訓的なこと)は、どの哲学にも「絶対最強」というものはないんだろうということです。(36/n) 功利主義、リベラリズム、共同体主義。この三つの異なる政治哲学は、むしろじゃんけんのような三すくみの関係なのではないでしょうか。(37/n) マイノリティーを抑圧を正当化する功利主義はリベラリズムに批判され、 共同体の中に生きるリアルな“生”のキャンセルを求めるリベラリズムは共同体主義に批判され、 そして異なる共同体同士の争いを調停するための原理を持たない共同体主義は功利主義に批判される。 そんな関係。(38/n)
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ryotarox · 10 months
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現在の苦境を脱するため、サンデルは混迷する左派に2つの「不快なメッセージ」を送る。 1つ目は、民主的な統制をしやすいように経済システムを再構築すること。2つ目は、愛国主義を受け入れることだ。
マイケル・サンデル「左派が恐れる“愛国心”を右派はきわめて有効に政治利用してきた」 | 「国境」と「移民」に代わるアイデンティティが必要だ | クーリエ・ジャポン
彼の言う愛国主義は、ポピュリスト右派が「壁」と「恐怖」で作り上げてきたものとは違う。サンデルは、国民皆保険や公平な税制といった概念に共同体的な感情を付与した「新しい愛国主義」を提唱する。
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この図がわかりやすい: ▼「世界を上下に分けて下に味方するのが左翼、世界をウチとソトに分けてウチに味方するのが右翼 - モジログ」
http://mojix.org/2010/10/15/matsuo-uyosayo
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iiyatu · 1 year
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memo-reblog · 1 year
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「自分は優秀な人間である」をアイデンティティにしてしまうと、それを証明し続けるためにゲームを常に必要とする。サンデル言うところの「より難しい火の輪くぐりを求めてしまう曲芸師」、あるいはツァラトゥストラさん言うところの「もっと重い荷物を求める駱駝」
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