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#シュルレアリスムの展開
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Everything Everywhere All At Once、観てきた。
去年予告編を観てからずっと気になっていた映画。とにかく変な映画だった。
かなり情報量の多い映画で、特に前半は早い展開と説明でひたすら圧倒される。マルチバースに関してはそんなにというか、まあ今までにもあったかなあという感じだったけど、「量子重ね合わせ」の映像化(?)が面白かった。シュレディンガーのミシェル・ヨー。
個人的に家族や親子がテーマなのはそんなになので、そこはちょっとなあとは思ったものの、それは予告編でもなんとなく想像ついたし、それ以外の部分でかなり楽しめた。
劇中で「意味のないことをする」というのがすごく鍵になるんだけど、その意味のなさっぷりが可笑しかった。ある意味シュルレアリスム的かも(笑)。
タイトルの「 Everything Everywhere All At Once」は不思議というか、なんだかよくわからないなという感じだったけど、映画を見ると納得。これ日本語にはしづらいけど、「全てのものが、あらゆる場所に、いっぺんに」みたいな感じかな。大好きなRadioheadの"Everything in Its Right Place"とは時代が変わった気がする。
映像的にはMV出身の監督なせいか、映画というよりMVっぽい感じがかなりあった。いわゆる映画的なものを求めてみるとがっかりかも。でも衣装やセットのデザインなんかはとてもいいなと思った。動眼もよかったし(よくわからないけど、「かわいいから」でいいのかも)。CGやアクションはそんなに…かな…。自分でも使っているようなソフトを結構使っているという話を見ていたので期待していた部分があったけど、それなりかも。
これは映画館で観たからかもしれないけど、音が結構重要というか役割的に大きな部分が結構あった気がして、普通の2chステレオより多チャンネルなのが効いてた気がする。他の映画でもそうなのかもしれないけど…。
きっと詳細にネタバレ考察してる人がすでにたくさんいると思うんだけど、読んでみたいような読みたくないような。とりあえず見た人とネタバレトークしたくなる映画。自分はSFが好きで家族がテーマなのはちょっと…というのがあって、こういう感想だけど、人によって受け取るものが変わってきそうな気がする。しかし、今こういう映画を作って劇場公開までできるというのはA24すごいなあ。これでOK出してくれる人がいるのは嬉しいし、これを見てこんな変な映画が作りたい!って思う若い人が増えてくれたら良いと思う。でもこれアカデミー賞は難しんじゃないかな…(笑)。
「もしあの時こうではなくああしていたら?」ということを考えるのはあんまり意味がないんじゃない?と言われた気がした。
「人生の中で意味のある時間なんてそんなにない。だからその僅かな時間を大切にしよう」(うろ覚え)
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kedama-o · 1 year
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一月末の凍ってしまうかとすら思った寒波がやっと和らいできましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。
自分は最近は牡蠣にあたったりコロナのワクチンの予約を嫌々ながら済ませたりしました。あと菜の花と筍のおひたしを作ったらめっちゃ美味かった。白ごはん.comのサイトにレシピがあるから気になった人は作ってみてほしい。ちょっと焼き色がついた筍がたまらぬ一品でした。
映画は、Netflixで「ハドソン川の奇跡」を観た。「USエアウェイズ1549便不時着水事故」という実際にあった事故を元に作られたドキュメンタリー映画なのだけど、事故後の調査委員会で不名誉な疑惑が突きつけられ、その真偽を当時の回想を交えながら明かしていく…という中々ハードでハラハラする作品だった。事故当時の回想で、機長が浸水する機内をしつこいぐらい取り残された人がいないか確認しているシーンが、使命感とか責任感とか恐怖感をありありと表していてとても印象に残った。
あと、安部公房の「壁」を読了した。全体的にシュルレアリスム的というか幻想文学的な内容で脈絡のない展開が頻発するので読むのに骨が折れた。三つの章がそれぞれ別の物語で構成されている短編集的な作品なのだけど「実存」という共通したテーマが存在する。名前や身体といったダイレクトに「実存」に関わるモノや「住居」「金銭」「他者」といった間接的に「実存」に関わってくるモノを失ってしまうと人はどうなってしまうのか、といった物語なのかな。そう考えると、第三章最後の「事業」は示唆的かもしれない。
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cafuuhair · 1 month
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happytime-en · 2 months
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【 サルバドール・ダリ エンドレス・エニグマ 永遠の謎 】
角川武蔵野ミュージアム
皆さん こんにちは。
近くの結婚相談所 ハッピータイム群馬桐生相生
婚活アドバイザーの金子です。
「いったいこれは何なんだろう?」と想像力をかき立てられ見る者に強烈なインパクトを与える数々のアートで知られるスペイン出身の芸術家サルバドール・ダリ。 
角川武蔵野ミュージアムで、現在開催中の【 サルバドール・ダリ エンドレス・エニグマ  永遠の謎 】と言うタイトルのダリ展は、絵画を鑑賞する通常の美術展とは異なり1100㎡以上の巨大空間内360度すべての壁面や柱、床面に映し出されるダリが残した幻想的で非現実的な世界観の絵画・写真・映画・ジュエリーデザイン・記録写真などで構成された映像を、ピンク・フロイドのサウンドと共に体感する没入感溢れる全く新しいデジタルアート。
このデジタルアート空間は歩き回るもよし設置されたソファーで寛ぐもよし自由なスタイルでダリの作品を楽しめ、動画撮影とフラッシュは禁止ですが写真撮影は可能。
約30分強の映像は、偏執狂的・批判的方法、ジュエリーとメイウエスト、映画と写真、シュルレアリスム初期、ダブルイメージ、原子核神秘主義、キリストとガラ、新しい古典などの全12幕で構成されており、スマートフォンで会場に設置されたQRコードからアクセスすると映像に合わせた解説を聞けるのでイヤホンを持参することをおすすめします。
シュルレアリスムというダリが用いた表現は、意識と無意識の混ざった状態や夢と現実が混ざった状態などの夢や無意識の世界を表現しており、現実と非現実の境界を曖昧する特徴があるとの事。初体験のデジタルアート展はダリの思い描く心の中の精神世界や夢に入り込んだような錯覚を覚える映像空間でした。
「エンドレス・エニグマ 永遠の謎」というタイトルから、連想したのはヒーリングミュージックで知られる「エニグマ」グレゴリオ聖歌やワールドミュージック、ハウスミュージックなどを融合した独特な世界観のサウンドで1990年代に世界的にヒット。
ダリのアートとピンク・フロイドのサウンドの組み合わせは両者共にエキセントリックなので、とても親和性が高いと思います。そして「エニグマ」のサウンドもまたダリの世界観との相性が良いのではないかなと感じました。
【 サルバドール・ダリ エンドレス・エニグマ 永遠の謎 】
2024年5月31日まで開催     
角川武蔵野ミュージアム(埼玉県所沢市東所沢和田3丁目31−3 ところざわサクラタウン)
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  近くの結婚相談所  
  ハッピータイム群馬桐生相生
  婚活アドバイザー 金子 薫
  群馬県桐生市相生町5-536-1 
  ネプチューン2-A
  電 話:0277-32-5314
  連絡時間:午前10時から午後9時
  定休日:年中無休
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婚活   結婚相談はお近くの結婚相談所ハッピータイム (http://www.happytime-en.com/)、 群馬前橋・群馬沼田・群馬渋川・群馬高崎・群馬安中・群馬藤岡・群馬伊勢崎・群馬桐生・群馬みどり・群馬太田・群馬邑楽・群馬館林・栃木足利・栃木佐野・栃木小山・栃木栃木・栃木真岡・埼玉熊谷・埼玉深谷・埼玉本庄・埼玉行田・埼玉羽生・埼玉加須・埼玉児玉・茨城牛久・茨城下館・茨城筑西・茨城結城・茨城古河・新潟長岡・新潟小千谷・新潟見附・新潟柏崎・新潟魚沼・新潟十日町・新潟南魚沼・新潟西蒲原・神奈川川崎・山梨甲府昭和までお問い合わせ下さい。
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hisuix01 · 2 months
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『シュルレアリスムと日本』板橋区立美術館で 20世紀最大の美術運動の日本における展開をたどる(ぴあ) - Yahoo!ニュース
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yajimadaisuke · 2 months
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Calendar 2024 PARIS  ・ 2024 Art Director, Designer: Daisuke Yajima Client: DIC株式会社
◆ 第75回 全国カレンダー展 奨励賞受賞
DIC川村記念美術館の作品を“パリ”というキーワードで観察すると、様々な形で関連する作家、表現が浮かび上がってきます。 芸術の都パリには長年にわたって多くの異なる文化や民族のルーツを持つ芸術家が集まり、印象派、フォーヴィスム、キュビズム、シュルレアリスム、アンフォルメル…など、革新的なアイデアを生み出し、豊かな表現を育んできました。 その多様性は、2024年夏季開催予定のパリオリンピック・パラリンピックとも共鳴し、過去から現在まで続く「パリ」という場のエネルギーを強く感じることができます。 いつの時代にも街に漂うパリの“華やかさ”をテーマに、色彩豊かなカレンダーを構成しました。 最後のページでは、作家や作品にまつわるエピソードを古地図と共に紹介し、フランス、パリの風を感じていただけるようにデザイン、アートディレクションしました。
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siteymnk · 4 months
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2023年の文化活動(一覧)
昨年もたくさん行脚しました。特筆すべきはコロナ禍からの本格的な脱却、夏休みの北海道旅行、勤続30年目のリフレッシュ休暇で西日本周遊、だろうか。行きつけの美術館は展示替えの都度、再訪するルーチンが確立。思ってたよりコンサートにもたくさん行ってた(クラシック系が多い)。地方の美術館(県立レベルの)を攻略する楽しさを知ってしまったので、今年も隙を見て行ってみたい。
星野道夫 悠久の時を旅する@東京都写真美術館
プリピクテジャパンアワード@東京都写真美術館
野口里佳 不思議な力@東京都写真美術館
パリ・オペラ座─響き合う芸術の殿堂@アーティゾン美術館
ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台@東京都現代美術館
MOTコレクション コレクションを巻き戻す 2nd@東京都現代美術館
DOMANI・明日展 2022-23@国立新美術館
クリストとジャンヌ?クロード 包まれた凱旋門@21_21 DESIGN SIGHT
ハンドメイドジャパンフェス冬2023@東京ビッグサイト
室内楽・シリーズNo.22 デュオの世界 <チェロとピアノのための>@東京文化会館
驚異の声、驚異の言葉─未体験の音空間へようこそ!@横浜みなとみらいホール
Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.:泉太郎@東京オペラシティーアートギャラリー
3331によって、アートは『    』に変化した@3331 Arts Chiyoda
恵比寿映像祭2023@東京都写真美術館へ
同潤会アパート渋谷@白根記念渋谷郷土博物館・文学館
引き寄せられた気配@トーキョーアーツアンドスペース 本郷
東京都水道歴史館
開館60周年特別展「横山大観と川端龍子」@龍子記念館
0~8848M・地上の紋――中国空撮写真展@日中友好会館美術館
毎年恒例の岡本太郎現代芸術展@岡本太郎美術館
六本木クロッシング2022展:往来オーライ!@森美術館
わたしたちは生きている!セタビの森の動物たち@世田谷美術館
それぞれのふたり 萩原朔美と榎本了壱@世田谷美術館
平原まこと 50周年 メモリアルコンサート@東京国際フォーラムCホール
吉松隆オーケストラ傑作選 吉松隆の<英雄>@東京芸術
動物会議 緊急大集合!@ギンザ・グラフィック・ギャラリー
VOCA展2023@上野の森美術館へ
藤子不二雄のまんが道展@豊島区立トキワ荘マンガミュージアム
昭和レトロ館
ヴォクスマーナ 第49回定期演奏会@豊洲シビックセンターホール
第52回邦楽演奏会@国立劇場
ダムタイプ|2022: remap@アーティゾン美術館
アートを楽しむ 見る、感じる、学ぶ@アーティゾン美術館
画家の手紙@アーティゾン美術館
重要文化財の秘密@東京国立近代美術館
明治美術狂想曲@静嘉堂@丸の内
今井俊介 スカートと風景@東京オペラシティアートギャラリー
収蔵品展076 寺田コレクションハイライト(前期)@東京オペラシティアートギャラリー
ブルターニュの光と風@SOMPO美術館
情景の地 ブルターニュ モネ、ゴーガン、黒田清輝が見た異郷@国立西洋美術館
エドワード・ゴーリーを巡る旅@松濤美術館 応挙と蘆雪@東京黎明アートルーム
「ラ・フォルジュルネ2023」 公演番号:313止まらない!若き活力の横溢と抒情 公演番号:324大作曲家に楽器の制約ナシ!SAXカルテットによる名曲の解答
島じまん2023@竹芝桟橋
デザインフェスタ vol.57@東京ビッグサイト
東京みなと祭@東京国際クルーズターミナル
ルーヴル美術館展@国立新美術館
清澄庭園
大阪の日本画@東京ステーションギャラリー
第63回 海王祭@東京海洋大学 越中島キャンパス
マティス展@東京都美術館
都美セレクション グループ展 2023
夢と自然の探求者たち―19世紀幻想版画、シュルレアリスム、現代日本の作家まで@群馬県立館林美術館
原始神母 THE DARK SIDE OF THE MOON 50th ANNIVERSARY@日比谷公園大音楽堂
本橋成一とロベール・ドアノー 交差する物語@東京都写真美術館
TOPコレクション セレンディピティ 日常のなかの予期せぬ素敵な発見@東京都写真美術館
田沼武能 人間讃歌@東京都写真美術館
発掘・植竹邦良 ニッポンの戦後を映す夢想空間@府中市美術館
プレイプレイアート展@ワタリウム美術館
下町七夕まつり@かっぱ橋本通り
モネ・ルノワール 印象派の光@松岡美術館
フィンランド・グラスアート 輝きと彩りのモダンデザイン@東京都庭園美術館
川崎水族館
F.A.T.2023 Summer Concert FireBird & AzBand & TAKEBAN@月島社会教育会館ホール
山下清展 百年目の大回想@SOMPO美術館
ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ@アーティゾン美術館
野又 穫 Continuum 想像の語彙@東京オペラシティー アートギャラリー
没後10年 映画監督 大島渚@国立映画アーカイブ
熊谷守一美術館
三井高利と越後屋@三井記念美術館
北海道旅行 ファーム富田 旭山動物園
恋し、こがれたインドの染織@大倉集古館
ブラチスラバ世界絵本原画展@うらわ美術館
特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティワカン@東京国立博物館
誰かのシステムがめぐる時@TOKAS本郷
東京大学総合研究博物館
第21回東京音楽コンクール(ピアノ部門)の本選@東京文化会館
テート美術館展@国立新美術館
ガウディとサクラダファミリア展@国立近代美術館
ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会@森美術館
コレクション展2023-3@青森県立美術館
大巻伸嗣 地平線のゆくえ@弘前れんが倉庫美術館
弘前昇天教会
旧五十九銀行本店本館(青森銀行記念館)
旧東奥義塾外人教師館
旧弘前市立図書館
山車展示館
弘前城
津軽藩ねぷた村
カトリック弘前教会
荒木珠奈 展@東京都美術館
ARTBAY TOKYO アートフェスティバル2023 CIRCULATION -ひともまちもせかいもめぐる‐@臨海副都心エリア
生誕140年 モーリス・ユトリロ展@横浜高島屋ギャラリー
全日本模型ホビーショー@東京ビッグサイト
デヴィッド・ホックニー展@東京都現代美術館
「あ、共感とかじゃなくて。」@東京都現代美術館
ステファン・サグマイスター ナウ・イズ・ベター@ギンザグラフィックギャラリー
福田美蘭 「美術ってなに?」展@名古屋美術館
生誕120年 安井仲治YASUI NAKAJI: PHOTOGRAPHS@愛知県美術館
フランク・ロイド・ライト  世界を結ぶ建築@豊田市美術館
漆の彩り・黒と金の幻想 - 高橋節郎@豊田市美術館(髙橋節郎館)
コレクション展 歿後20年 若林奮@豊田市美術館
2023年度 第2期 コレクション展@豊田市美術館
山田寅次郎展@ワタリウム美術館
Japan Mobility Show 2023@東京国際展示場
黒田記念館(特別室開室)
横尾忠則 寒山百得展@東京国立博物館
東京国立博物館の寒山拾得図
デザインフェスタ vol.58@東京ビッグサイト
永遠のローマ展@東京都美術館
上野アーティストプロジェクト2023 いのちをうつす ―菌類、植物、動物、人間@東京都美術館
動物園にて ―東京都コレクションを中心に@東京都美術館
第64回 日本版画会展@東京都美術館
「今こそ、ルーシー!」 ~LUCY IS HERE~@スヌーピーミュージアム
大原美術館
そして船は行く@高知県立美術館へ。
大塚国際美術館
コレクションハイライト@福岡市美術館
芥川龍之介と美の世界 二人の先達─夏目漱石、菅虎雄@久留米市美術館
遠距離現在 Universal / Remote@熊本市現代美術館
第3期コレクション展:宮崎県立美術館
MOTアニュアル2023 シナジー、創造と生成のあいだ@東京都現代美術館
MOTコレクション歩く、赴く、移動する 1923→2020 特集展示 横尾忠則―水のように 生誕100年 サム・フランシス
大巻伸嗣 Interface of Being 真空のゆらぎ@国立新美術館
第4回カルチャー芸術展@国立新美術館
第12回 躍動する現代作家展@国立新美術館
21世紀アートボーダレス展(2023)@国立新美術館
JAGDA国際学生ポスターアワード2023@国立新美術館
第63回全国矯正展@東京国際フォーラム
ゴッホと静物画―伝統と革新へ@SOMPO美術館
ピカレスク・ニュー展 Vol.8@ピカレスク
モネ 連作の情景@上野の森美術館
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zattani · 2 years
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202206
6月は自分比でたくさん友達と会った。こんなに遊ぶのはとてもとても久しぶりで、楽しかった。
今月行ったのは竹橋のリヒター展、何も考えずに入館料を払うタイミングで2千円超えてて驚いた。ここ数年、何年か前よりも2-300円くらい特別展が高くなったなと思っていて、2千円を超えてきたか…と。正直なところはやっぱりちょっときつい。これまでもエンタメ度の高いアトラクション的展覧会はそのくらいしたけれど、あちこち行くとすると、ちょっとカフェに行く頻度落そうかな、とか他で節約しなくちゃ、となった。 勿論リヒター展は満足したけれど、そういう問題じゃないんだよな。それはさておき、リヒター自ら展示構成に指示を細かく出したという話で、面白い。特にビルケナウの向かいにビルケナウ(実物大写真)を配置し、奥にグレイの鏡を配置、その向こうにアウシュビッツの写真を展示し、グレイの鏡にビルケナウも ビルケナウ(実物大写真)もアウシュビッツの写真も全部映る。 リヒターはグレイの色彩を“なんの感情も、連想も生み出さない” “「無」を明示するに最適な” 色と表現していて、その中にビルケナウその他まとめて映す意味は何だろう、何を我々に与えたいのか、と思うと拍手したくなってしまった。このビルケナウについて、twitterをエゴサしたところ、ここで映え的な自撮りをするなという強めな意見を見かけたのだけど、ドイツにいて今も生きているリヒター自身が、ホロコーストを近年若者が一部とはいえどういう捉え方を始めたか、真剣になる人々ばかりではないこと、SNS社会など理解していないはずもないと思うので、意図的だと思うし、好きなようにしたらいいのにと思ったりした。歴史を馬鹿にしているわけではない。リヒターのエッジのきいた皮肉みたいなものだと思っている。中期の作品は少なめなのかな。でもビルケナウ見るだけでも充分満足というか。あと、普通に絵がうまくてびっくりする。絵がうまいという阿保みたいな感想しかでなくなる。でも別にすごくリヒターが好きなわけでもなく、表面的なところしかなぞっていないので、もう少しなにか勉強した方がいいなとも感じた。常設にもリヒターあるのに、そっちにはみんな行かなくて、勿体ないのでぜひ常設にも足を運んでほしい。写真はオーケーなんだけど、例えばフォトペインティングをスマホで撮ろうとして、フォトペインティングの良さが全く撮れない。ペインティングがフォトに見えるし、どうにか頑張ってみるのも、本物がそこにあるのに写真に躍起になるのも勿体ないし、馬鹿らしい。写真ももっとちゃんとしたカメラで撮ったら違うかもしれないけれど、写真を撮るために本物を見ているわけではない。きちんとした写真はライティングなりなんなり整えて撮ることができるプロに任せた方がいい。そう思って適当に撮るため、いつも私の写真は微妙なものになる。写真を撮らない方が、記憶に残ることもある。しかしSNSに載せたい承認欲求というか、そういうこともあったりなかったり、未だに自分の中で模索している。これはわたしの場合であり、鑑賞の仕方などはそれぞれ個別にあると思っている。
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国立西洋美術館の自然と人のダイアローグ。こっちにもリヒターがいる。今年はリヒターがいっぱい。ポーラでもモネーリヒターやっているしね。でもこれ西洋美術館とポーラが同じ時期に開催しなければ、互いに貸し借りができてもっと面白い展示ができたのではないのだろうかと完全なる部外者は勝手な意見を言ってしまう。ルーアン大聖堂、ポーラも持っているし、睡蓮も…クールベの《波》を2作品出しているんだし、時間の移ろいの話とかするなら、あった方が…面白かったんじゃ…印象派作品と他の作品を比較するような配置、ゾン美でもあって、最近の印象派はそういう使われ方というか研究のされ方をされるのかな?どうなんだろう。サンプルが少ない。個人的な趣味としては、ドイツロマン主義が好き。物語が好きだから…物語じゃなくても好きなものはたくさんあるけど…オチが睡蓮だったのは、まぁ予想してしかるべきだったと思うのだけど、すっぽ抜けてたので、最終展示室入って、あっなるほどね~~~ハイハイよく考えればそうよね、そうなるよねとなって急にガクッとなってしまった。ところで、これ展示位置少し高めじゃなかっただろうか?わたしは身長153-4センチくらいで、途中から首が痛くなった。低めだから、見上げることは多いけれど、普段はそこまで首が痛いと感じることはないので、今回すごく気になった。
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写真美術館は岩合光昭のパンタナール、アヴァンギャルド勃興、メメント・モリを梯子。パンタナール湿地の色鮮やかなこと、鳥の美しい自然の発色、カピバラの結構鋭い目つき、ジャガーの可愛いところ、かっこいいところ、 パラグアイカイマンの生と死、視界が染まるほどの蝶の大群が舞い、アナコンダが横断するという文章、完全にわたしの中では現実ではなく小説。世界にはこんな現実があるんだというのを知ることは楽しい。アヴァンギャルド勃興はさらっと流し見をした(正直すべての作品と向き合うことは気力的な意味でとても難しい、集中力も切れる)のだけど、写真に関して無知なので、こんな作品が二本にもあるんだと新たなものを知る機会があってよかったな、という感じ。全然知らなかったので、東京でなくて関西からなんだ、とそこからか~という、日本のシュールレアリスム、瀧口修造の印象が強くて…メメント・モリはとても文学的な内容だった。ハンス・ホルバイン(子)の木版、西洋美術館の展示よりも低くて近い位置で見れる?のかな。よく見えるな、と思った。章解説の字が小さくてみちっとしているので、余計文学的な印象を受ける。写真を通して死ぬことと生きることを問う、前向きに生きることを想起させるという試みなので、人ごとに生死の考え方が違うので刺さる部分が全く違うんじゃないかな~と思う。アメリカの表面的な明るさとそこに潜む狂気のような孤独とユーモアという一文がストンと腑に落ちたというか、確かにそういうところある気がする!と自分が言語化できていなかったものを言語にしてもらえるとグッと解像度が上がる。どの写真がよかった、というよりも通して何かを考えさせる。
六本木へ、米田知子の残響展へ。この方も品川の原美術館で知った方なのに、品川の原美術館は閉館してしまった寂しさがまだ残る。いつも静かな写真なのだけど、その裏には戦争とか紛争とか様々な歴史が詰まっていて、物悲しい気持ちになるけれど、それでもそこは依然として「ある」。愚かさと無情とそれでも存在する土地への希望も見いだせて、わたしはとても好き。
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今月も映画は一本、犬王のみ。ストーリー構成にアッと言わされ(最初のあそこが最後こうなるのか!という)フェスに参加しているような楽しさと、後世に語り継がれなかったものの無音の舞の雄弁さに打たれて、劇場で見てよかった~と思うなどした。
本は團伊玖磨『舌の上の散歩道』食エッセイが好きなので…(前も言った気がする)たくさん食べられるひとは羨ましい。食べるという実践経験には及ばないと言われたところで、多くを食べられない人間からしたら、脳から食べる快楽を疑似的に摂取してるんだから、いいのよ、放っておいて、という感じ。それはそれでやばい人みたいだけど、たぶん私が食エッセイを読むのはそういうこと…。開高健『魚の水はおいしい食と酒エッセイ傑作選』脳から食べる快楽を得るのにも、文章の相性があって、開高健は個人的に快を得るのが難しかった。オジサン構文の出どころってこういうところかな、と。時代的な部分もあると思うのだけど、今の時代に何でもないオジサンがやってしまうと痛々しいだけで、絶妙なバランスの上で成り立っているなと感じた。何で買ったのかというと、河出のキャンペーンに載せられたから…サラ・ピンスカー『いずれすべては海の中に』特に好きなのは、「イッカク」B級映画を見ているような気持ちになる。印象の話だけど、歌って聞かせるような短編小説(著者ミュージシャンでもある)山尾悠子『歪み真珠』最初に読んでおくべき山尾作品だったなと思う。いつでも適当に作家を読んでしまう。でもその素地があるから歪み真珠が入ってきやすかったというか。美しさとグロテスクと秩序の崩壊の危うさに魅入られる。森博嗣『まどろみ消去』初の森博嗣。いつもいっぱいあって何読んでいいか分からなくて手が出なかった。さらさらと読めてしまう。どこかでこういうものを読んだ気がするけれど、たぶん最初は森博嗣だったんじゃないかと思う。読書家ではないので、浅い…。でも職業的に小説を書いているというのは理解できた気がする。何もかもが整然としている。
絵画でも写真でも本でもなんでも、死を摂取し、何なら自然の動物たちが自然のサイクルの中で死んでいく姿を見ては、余すことのない循環に思いを馳せて感嘆の溜息を吐いているというのに、実家の犬の死が目前に迫って、寂しくて悲しくて泣いている。わたしはとても勝手でずるくて、最悪な思考だと思う。目の前の事には折り合いが付かない。犬が死んでしまう。
6月30日追記:恵比寿のLIBRAIRIE6で有持有百「リゾームスケッチ:雲と 繇條 」ようじょう、 繇條とは草木が生い茂るという意味。牧野富太郎の書斎から。シュルレアリスムの手法のひとつであり、本来なら複数人で行うはずの優美な死骸をひとりで行うため、シュールでありながらどこか一貫性がある美しい植物のなにか。タイトルは、エストニア語を混ぜた造語らしい。ギャラリーを地中、地上の植物、空(雲)に見立てた展示になっていた。もともとアニメーションの人らしく、優美な死骸をどう行っていたのか分かるアニメーションも見ていて楽しかった。
6月28日に14歳7か月で犬が死んだ。今年の3月くらいに肝臓に腫瘍が見つかって、難しい位置にあるというので、一旦手術は様子見していたのだけれど、5月に急に肥大化して悪化して、結局そのまま逝ってしまった。寂しがりやだったので、もし入院させていたら発狂してしまったかもしれない。ひととご飯が大好きな犬だったので、最後もこれまでもずっと家で面倒見ていたのはよかったのかもしれない。
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anamon-book · 5 years
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シュルレアリスムの展開 シュルレアリスム読本-2 思潮社 表紙=清原悦志
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thetaizuru · 2 years
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 わたしたちは詩のようなものを求めている。
 ベルギー出身のシュルレアリスムの画家ルネ マグリットは、「絵の題名は説明ではなく、絵は題名の図解ではない。題名と絵の関係は詩的である。つまり、この関係によって、二つの相反するものに共通する側面が表現されなければならない。」と語ったという。
 フランスの哲学者ミシェル フーコーが1973年の著書『これはパイプではない』で、マグリットの『イメージの裏切り』という(パイプの絵の下に「これはパイプではない」という文が書かれている)作品について論じ、そこから、15世紀以降の西洋絵画を支配してきた二つの原理が存在すると指摘した。  その第一の原理とは、「造形的表象(再現。類似を前提とする)」と「言語的対象指示(類似を排除する)」を分離する原理であり、第二の原理とは、「似ているという事実と、そこに表象(=再現)のつながりがあるということの肯定(=断言)とのあいだの等価性」を定立する原理であり、つまり「類似と肯定(=断言)とは分離できない」。ざっくり言ってしまうと、パイプが描かれた絵を見たら(どう見てもパイプの絵だったら)、パイプを描いたんだな(パイプだな)って思う。  類似によって語る「イメージ」と、差異によって語る「言語」は、同時に与えられることはなく、交叉することも融合することもない。何らかの仕方で従属関係がなければならない。  マグリットもフーコーも、言葉とイメージ、あるいは言葉と物の関係について考察し続けた。
 シュルレアリスムは1924年にフランスの詩人アンド��� ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表し、本格的に始まった文学芸術運動で、 フロイトの精神分析とマルクスの革命思想を思想的基盤とし、無意識の探求と表出による人間の全体性の回復を目指した。 シュルレアリスム運動を牽引したブルトンらは1910年代末から1920年代初頭にかけて起こった文学芸術運動ダダイスムにも参加していたが、ダダイズムの創始者であるフランスの詩人トリスタン ツァラとブルトンが対立し、分裂した。既成の秩序を破壊し、すべてを無意味化しようとするダダイズムに対し、シュルレアリスムは、無意味、あるいは従来無意味とされてきた夢や無意識のなかに意味を見いだそうとした。  第一次世界大戦開戦直後、HGウェルズが使った「(すべての)戦争を終わらせる戦争」という理想主義的な言葉がキャッチフレーズとして流布したが、戦争が終わるころには皮肉となり、その後は軽蔑的に使われる言葉になった。ウェルズ自身も後にこの言葉を皮肉として使った。第一次世界大戦は多くの人の理想を打ち砕き、世界認識を揺り動かした。  第一次世界大戦が終わった1918年の前後に多くの作家が新しい作風を模索し始める。ダダイズム、シュールレアリスムもこの流れにある。  第一次大戦前後に投機マネーが絵画に流れ込んで、一部の絵画の価格が暴騰するのを見て、お金の流れを引っ張ってこようとするための美術評論合戦があることも感じていた作家の一部は、そこへの皮肉や挑発を仕掛ける一方で、表現に込めた意味などは伝わらないという虚無主義的な感覚も抱く。一枚の絵画を見た時の感想は、それを見る前に与えられた言葉によって操作され得る。
 フィンセント ファン ゴッホは1880年頃から絵を描き始め、1890年に亡くなる。絵を描き始めてからわずか10年の間に、当時の実験的な手法を自分なりに理論化し取り入れ、自身の作風に昇華させた。高く評価され始めて半年で亡くなる。 1891年から各地で回顧展が開かれ、複数の作品が展示された。独特の作風で共通してるようにも見えるけど、作品ごとに変化し進化してるようにも感じられるというような、絵と絵の間に何かコンテクスト(文脈)のようなものが立ち現れた。  コンテクストだけが立ち現れてくるという不思議な感覚を埋めるために、多くの人が、伝え聞いた風変わりなエピソードや絵から受けた印象を組み合わせて、ゴッホの人物像や作品に込められた想いなどを想像し、色々な物語を作っていった。
 ゴッホは、印象派が生み出した「筆触分割」という技法を取り入れている。筆触分割とは、絵の具の色は混ぜるほど黒に近くなり明るさが失われてしまうため、混ぜずに小さなタッチ(筆触)で並置して、見ている人の目の中で混ぜる(視覚混合効果)技法で、白黒の漫画のトーン(点々が並んでるやつ)でグレーを表現するのもこれの一種で、点が線になると視線が誘導されて動きを感じるようにもなる。  印象派が筆触分割を生み出した背景には、同時期にカラー写真の開発または白黒写真に着色をするための色彩理論が考察されていたことがある。1839年に「パリの科学と芸術の合同アカデミー」で公式に「写真の誕生」が宣言され、19世紀後半徐々に写真が普及していく。1891年に3色干渉によるカラー写真が開発されたがこの技術は実用化されず、カラー写真(カラー乾板)が最初に市場に現れたのは1904年で、最初の近代的なカラーフィルムが発売されたのは1935年。
 ゴッホに大きな影響を受けて、物事の外面的な特徴を描写する印象派とは対極の、個人の内面と探求の表現を目指した、主観的ともいえる感情を作品中に反映させて表現する表現主義(ドイツ表現主義)が現れる。さらにその表現主義への反発として、社会の中の無名性や匿名性として存在している人や物に対し冷徹な視線を注ぎ、即物的に表現するという新即物主義が現れる。  1925年、ドイツのマンハイム市立美術館で開催された「ノイエザッハリヒカイト(新即物主義)」展で展示されていた美術作品群について、ドイツの写真家で美術評論家のフランツ ローは、「冷静に現実を表現することによって現れる魔術的な非現実」を感じるということを「魔術的リアリズム」という言葉を使って表現した。  新即物主義の影響により1920年代後半にドイツで新興写真(ノイエ フォト)運動が起こり、世界各国に波及し、報道写真、前衛写真等の様々な分野の写真作品へと浸透していった。  「魔術的リアリズム(マジックリアリズム)」は、魔術的な非日常、非現実と、リアリズムの日常、現実という相反した状態を同時に表現する技法を指す言葉として、文学や美術に影響していった。マグリットもこの技法を使った。  絵と絵の間に、テクストはないのに現れるコンテクストや、無感情に切り取った現実と現実の間に現れる非現実がある。  20世紀前半の特にモダニズムと呼ばれる芸術運動は、この「間」の領域、あるいはそれを無意識と呼んで、そこに到達しようと試みるが、成果を残したのはナチスドイツとソ連だった。つまりモダニズムは敗北する。  ナチスドイツは、 近代美術や前衛芸術を、道徳的、人種的に堕落した、身体的、精神的な病気の表れで、ナチスドイツの社会や民族感情を害するものだとし、「エンタルテテクンスト(退廃芸術)」と呼んだ。退廃芸術は病であり、いかに社会に悪影響を及ぼすかということを論じ、理論を積み重ねていった。1937年「退廃芸術展」の来場者は、作品を見て作品に対してため息や怒りの声を上げた。このことや、第二次世界大戦中にドイツで行われたイギリスへの憎悪キャンペーンはイギリスに漏れ伝わってイギリスの風刺家などが風刺した。オーウェルの『1984』ではこれと、双方の砲兵が敵の作業を妨害すること目的として日課のように行う短時間の砲撃が「二分間の憎悪」と呼ばれていたことなどを基にして、画面に憎悪をぶつける「二分間憎悪」という日課を描いている。  ソ連では、「あらゆる芸術の中でわれわれにとって最も重要なのは映画である」「ソビエトの現実を映し出す新しい映画作品の創造は、まずニュース映画から始めなければならない 」というレーニンの宣言に即して映画を発展させた。映画作家のレフ クレショフは、1922年に後に「クレショフ効果」と呼ばれる認知バイアスの一種を実験によって示す。クレショフ効果とは、映像群がモンタージュ(編集)され、映像の前後が変化することによって生じる意味や解釈の変化のことをいう。一般に映像の意味や解釈は、ほかの映像とのつながりのなかで相対的に決定されていく。1925年には 映画監督セルゲイ エイゼンシュテインがモンタージュ理論(エイゼンシュテイン モンタージュ)を確立する。
 ドストエフスキー(1821年-1881年)が1866年に『罪と罰』を出版(後期五大長編小説最初の作品)、マルクス(1818年-1883年)が1867年に『資本論』第一部を出版 、また1886年にニーチェ(1844年-1900年)が『善悪の彼岸』を出版、同じ1886年にフロイト(1856年-1939年)が精神分析を創始する。ゴッホ(1853年-1890年)が生きていた時代は、20世紀を貫く思想が作り出されていく過程にあり、またスピリチュアリズム(心霊主義)がアメリカからヨーロッパへ広まりブームになっていた。スピリチュアリズムは、1848年にアメリカでフォックス姉妹がポルターガイスト現象を体験したというハイズヴィル事件の噂が広まってブームになっていったとされる。現在から見るとこのブームは、当時最新のテクノロジーだった電信技術と写真から受けた衝撃に対する心理的なリアクションで、1861年から1865年の南北戦争前後の社会不安によって拡大されたものだと推測できる。モールス信号など当時の電信技術で使われた発想が、霊との交信などとして転用され、1865年に暗殺されたリンカーン大統領が心霊写真に数多く登場した。世紀末が近づくにつれ、終末思想としての千年王国思想とユートピア的生活共同体を作ろうという社会改革思想に結びついていったが、20世紀に入るころにはブームとしてはすっかり終焉していた。ブームの間、科学的方法論に基づく調査と研究が行われ、多くの科学的な理論も発表され、有名な科学者も参加したため、科学として信じられ、ブームが終わった後の20世紀以降も様々な形で影響を与えた。理想社会を実現しようとする点において、19世紀前半の特にフランスの革命思想などの初期の社会主義とも、また20世紀後半から現在にかけての世界的な社会運動とも思想や手段を共有する部分が多い。
 イギリスの哲学者ギルバート ライルは、1949年の著書『心の概念』において、西洋哲学の主調をなしてきた心身二元論(霊肉二元論)を誤りであると批判する時に、「機械の中の幽霊(ゴースト イン ザ マシーン)のドグマ」という表現を使った。
 盛期ルネサンス(1490年代から1520年頃)のイタリアの芸術、特に絵画の技術は、フランドル(フランダース。現在のオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域)の画家ヤン ファン エイクが1420年代の作品で確立した革新的な油彩画の技法による滑らかな色彩や明暗の表現と緻密な描写から大きな影響を受けている。イタリア ルネサンスはこの技法を取り入れ、理論化して、自身の作品に反映させた。古代文化と当時のキリスト教文化という相反するものを調和させようと共通点を探した。
 色彩理論に関して、ニュートンは、白色光はそれ以上分光できない単色光の混合色であり、白色光がガラスなどを通過して屈折した際に虹色になるのは各単色光の屈折率の違いによるものであるとして、この事をプリズムを用いた実験により確かめ、1672年に王立協会(王立学会)で発表し、1704年に『光学』を出版した。  王立協会は実験哲学好学者たちのサークルとして始まり、「Nullius in verba」(ラテン語「言葉によらず(誰の言葉でもなく)」)をモットーとして掲げている。これは古代ローマの詩人であるホラティウスからの引用で、原文は「権威者の伝聞に基づいて証言しない」。つまり、権威に頼らず証拠(実験、観測)をもって事実を確定していくという客観性を強調している。  ニュートンが王立協会の会長になると、理論を重視する姿勢をここに持ち込んだ。  ルネサンス以降勢力を増したアリストテレス主義と新しく出てきた機械論は、その当時信じられていたが現在では呪術的思考や迷信と呼ばれる考えの数々を批判した。  ヨーロッパでは初期近代まで、神によって創造された世界は意味と目的に満ちたものであると考え、世界のあらゆるものの間に類比的なつながりを期待した。類比やシンメトリーは、神によって埋め込まれた隠された結びつきを示す合図だとされ、そのような事象の結びつきは共感によって機能しており、その媒介が世界精気であると考えらえていた。その共感による力というのを、善に対しても悪に対しても差別がない力によって支えられたものであるため魔術的な力だとして、批判する立場もあった。それらの考えは、当時入手可能な思想や情報から合理的に到達した考えだった。 例えば錬金術医療における武器軟膏(共感の粉)という、薬を傷口ではなく傷つけた武器の方に塗るというのが信じられていたが、アリストテレス主義と機械論は、離れた物体の間に力は働かないという観点から批判した。  ニュートンが発表した万有引力の法則も、離れたものの間で働く力であったため、機械論などはニュートンの理論を非難した。  ニュートンは、引力がなぜ発生するか、あるいは引力が何のために存在するのかということではなく、引力がどのような法則によって機能するのかという説明をし、その説明を数学的に証明した。  ニュートンが分析(観察と実験)と総合(証明と理論化)という対概念の間に筋道を提示して、近代科学は形成され始めた。
 日本語の「解釈」には「アナライズ(分析)」と「インタープリテーション(説明)」の二つの意味がある。アナライズはバラバラに分解して調べることで、インタープリテーションは自分の表現に置き換えること。  意識的でも無意識のうちにでも、何か信じていたものが崩れると、心の一部も崩れて混沌が広がっていく。  秩序は、言葉とイメージが出会う場所から始まる。
2021年11月 魔術師ではなく、愚者ではなく
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end-of-olympics · 3 years
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[終息宣言]の波紋とその考察:その6/ノー・ウォーへの反論
ノー・ウォー美術家の集い横浜 御中
オリンピック終息宣言展の主催者の一人、アーティストの戸山灰(こやまかい)と申します。 このほど貴団体のweb掲示板に、私たちの展覧会の「宣言文」と、 それに対する反論が掲載されていたのを目にし、このメールを差し上げた次第です。 まず、宣言文の掲載についてですが、私たちの展覧会が、このような形で社会に記憶され、新たな議論につながるきっかけを作ってくださったことに感謝します。 私はまた、戦争に反対し、憲法第9条を擁護する、貴団体の方針に賛同します。 さて、宣言文掲載の数日後になる2020年7月29日、同じサイト上に「五輪終結宣言について」と題する批判が掲載されました。 これは、宣言文に対する数人からの電話での反論を、事務局がまとめたものであるということです。 残念ながらそれらの意見の責任者は明示されていませんが、「終息宣言展」の一人として看過できない議論でしたので、以下に反論します。 当該の方々に転送してくださるよう、お願いします。 なお、最終的に当展覧会に参加したアーティストは20名、1週間の観客数は約400人にのぼりました。 「五輪終結宣言について」の論点を要約すると、おおむね次のとおりです。 ・現在のオリンピックは腐敗しているが、永久に終息すべきであるという宣言文はいきすぎである。 ・オリンピックの害悪はアスリートではなく、利権者たちにある。 ・人間の闘争心を戦争からスポーツに転化させるのは当然で、オリンピックは喜ばしい。 ・芸術は自由なのだから、スポーツも自由でありたい。 ・オリンピックが「思想上のウイルス」であるという表現は適切でない。  これらについて、ひとつずつ反論します。 ・『現在のオリンピックは腐敗しているが、永久に終息すべきであるという宣言文はいきすぎである』  まず、現在のオリンピックの腐敗を指摘するだけでは、歴史的な視野に欠けると思います。  というのは、近代オリンピックを創始したフランスのクーベルタン男爵は、「女がオリンピックに参加するのは下品である」とか、「スポーツは植民地人を支配するのに役立つ」などと公言した差別主義者であり、オリンピックは最初から差別にまみれたものでした。そのクーベルタンとナチスが結託し、1936年ベルリン大会が開かれました。この大会によって「平和を愛好する国家」としてのナチス・ドイツの大宣伝が行われ、世界はヒトラーによる戦争の準備や、ユダヤ人虐殺につながる差別的な人間観から目をそらされたのです。  この他にも、1968年メキシコ大会の開かれる10日前に、政府に対して抗議の声を上げていた300人もの学生、活動家たちが虐殺された「トラテロルコの夜」事件がありました。このような大虐殺を実行してからでなければオリンピックが開けなかったという事実を、貴団体の方々はご存知でしょうか。  現在の腐敗、過去の惨事、そして根本的に差別的なオリンピックの本来の姿からして、私たちはこれを終息させるほかないと考えています。つまりオリンピックは人類を苦しめているのです。 ・『オリンピックの害悪はアスリートではなく、利権者たちにある』  もとより、私たちはスポーツそのものや、アスリートの存在を否定するつもりはありません。しかし、腐敗したオリンピックの体制におもねり、過去に学ぶことをやめ、ただひたすら上位の成績を望む人々がいるのなら、やはり批判はまぬがれないでしょう。  たとえば、外苑の新国立競技場を作るために多くの人が不当にも犠牲になりました。都営住宅「霞ヶ丘アパート」に住んでいた住民200世帯(ほとんどは高齢者)は、建設のために立ち退かされました。明治公園は競技場建設のためとつぜん廃園され、長年暮らしてきた野宿者たちは2016年4月、強制執行によって排除されてしまいました。「ストップ有事法制」「さよなら原発」などの平和集会に全国から何万人(最大6万人)もの人々が集まっていた、あの明治公園はもうないのです。こういった場や人々を排除して作られる「平和」とは、いったい誰のための平和なのでしょうか?  新国立競技場をめざすアスリートたちは、自分たちの目標達成が、こういう犠牲の上にあることをどう考え、語るのでしょうか。彼らの意見表明を寡聞にして聞きません。ですから、私たちは宣言文の中でアスリートに特別に配慮する必要を感じないのです。 ・『人間の闘争心を戦争からスポーツに転化させるのは当然で、オリンピックは喜ばしい』  そのようなことがあればよいかもしれないとは思います。しかし、この主張を論証するためには、反対に、オリンピックによって戦争が終わった、あるいは少なくなったという事実が必要ですが、そのようなことは起こっていません。むしろ、オリンピックはスポーツによって人々を選別し、国別の代表によって競わせるものです。これは、優秀と劣等、健康と不健康、障害者と健常者、そして国民と他国民というふうに、本来つながっていくべき人々を幾重にも分断することにほかなりません。このような人々の意識への介入が、結果としてナショナリズムを強化するばかりか、差別を再生産しています。オリンピックは少しも喜ばしくありません。   また、パラリンピックにより、あたかもオリンピックが障害者を包摂するものであるかのような誤解が広がっていますが、パラリンピックの起源は第二次世界大戦の際に戦争傷病者をリハビリさせるプログラムから始まっており、後天的障害者を対象とする軍事色の強い起源があるのは意外に知られていません。また、大会出場のための義肢や機器はかなり高価であるため、裕福であったり、多額の助成を受けられる障害者と、そうでない障害者を差別しなければ成立しないものでもあります。大会を通じて「がんばっている障害者像」が宣伝されますが、選手のほとんどは後天的な障害者で、実質ここにも、先天的な障害者との分断・差別が存在します。  もしパラリンピックがなかったとしたら、オリンピックは「健常者による、健常者のための祭典」でしかなくなります。パラリンピックはオリンピックを成立させるための欺瞞的な装置だと、私たちは考えます。 ・『芸術は自由なのだから、スポーツも自由でありたい』  ・・・どういう意味でしょう。たしかに私たちはアーティストの立場からオリンピックや、時としてスポーツを批判しているわけですが、その自由はないのでしょうか。芸術に批判の自由がなく、スポーツには大きな自由がある世界は、明らかにディストピアではないかと・・・おっと、オリンピックを控えたこの社会は、すでにある意味そうなってますね!  そもそも、私たちは本当に自由に表現できているのでしょうか? 美術大学の高額な学費にはじまり、芸術活動への公私の助成金はわずかばかり。美術館は現代美術をほとんど評価せず、ひたすら海外からの借り出し展や、古典芸術の紹介に終始してきました。カネがなければ発表もできず、ほとんどのアーティストは、こんな美術システムのどこにも居場所が見いだせなかったか、あるいは大学や美術団体内部にすら蔓延するセクハラやパワハラに絶望して、去っていったではありませんか。(それもたいてい、「自分には才能がなかった」と思い込まされてです)
 その上に、安倍政権下で起きた「あいちトリエンナーレ2019」での「表現の不自由展」に対する不当な弾圧を見るとき、今後はさまざまな美術展において、政治的な主張を持った作家や作品が締め出され、あるいはキュレーターや参加作家の自発的な「忖度」によって、作品から政治的主張があらかじめ取り除かれることは容易に予想できます。少なくともこの流れを変えなくては、芸術の自由など、ありえなくないですか。  また、「表現の不自由展」をめぐる言説の中には、「芸術は美しく、心地よいものでなければならない」とか、公金を使う以上「みんなにわかりやすいもの、アクセスしやすいものであるべき」といった大衆志向の発言がたびたび現れました。これこそが日本の美術の置かれている場所です。さらにまずいことは、この価値観がアーティストと名乗る人びとの中にもかなり蔓延していることです。  その一方、国を挙げてスポーツ選手の強化に税金が使われ、3000億円もかけて競技場が作られ、オリンピック全体では3兆円もの巨費が投入されています。これらはすべて私たちの税金です。私たちは最初から否も応もなくこの体制に組み込まれているのに、まだ芸術は自由だと言えるのでしょうか。
 スポーツにおける自由にも問題があります。たとえば、アスリートの思想信条の自由が尊重されていないのは、テニスの大坂なおみの件でも明らかです。大坂選手がブラック・ライブス・マター運動に共感するメッセージを発信して世界的に話題になっても、日本ではほとんど報道されないばかりか、「スポーツに政治を持ち込むな」といった批判がわき起こり、あるスポンサー企業にいたっては大坂の顔写真を掲げた広告に「原宿にいきたい(なおみ)」などとコピーを付けて、政治的主張を無視しました。人を馬鹿にするのもいいかげんにしてほしいと思いました。  思想信条への抑圧の最たるものが、オリンピックにおける政治的パフォーマンス禁止です。メキシコ大会の表彰式でトミー・スミスら黒人の選手が「ブラックサリュート」(握りこぶしを掲げるポーズ)によって差別に抗議しましたが、そのあと彼らはスポーツ界から追放されてしまいました。彼らにも表現の自由が必要なのに、スポーツのシステムがそれを潰しています。
 こんな現状があるのに、漠然としたオリンピック礼賛を、同じアーティストから聞くとは残念でなりません。ナチスがベルリンオリンピックの翌1937年に開催して前衛芸術家たちを吊し上げた「退廃芸術展※」によって、芸術の自由はすでに一度殺されました。こうした歴史的文脈を思い起こした上で、自由について考え、議論をすることを求めます。 ・『オリンピックが「思想上のウイルス」であるという表現は適切でない』  すでに述べたように、オリンピックは人々を選別し、競わせ、分断します。誤解を恐れず言えば、日本人は日本を応援し、アメリカ人はアメリカを応援し、ロシア人はロシアを応援するものです。たまに外国の選手を応援する人がいたとしても、税金を払えば選手強化やドーピング合戦に充てられてしまい、数多くのアスリートの心身を痛めつける醜悪な国家スポーツ体制に最初から組み込まれていることに変わりはありません。
 オリンピックはまるで疫病のように周期的にやってきて、平和や自由の象徴という美しい外見のもと人々の意識に入り込み、実際には多くの人々の命や財産、労働を搾取するものであり、今も次の宿主(都市)を探し求めています。
 その症状には、「忘却」も含まれます。それは社会が抱える重大問題から、人々の目をそらさせることです。ベルリンで世界がナチスの犯罪性から目をそらされたように、安倍政権が招致したオリンピックは、「復興五輪」などと銘打つかたわら、東電福島原発事故の被災者・避難者を切り捨て、復興を妨害し、原発事故現場に溜��った汚染水は、あまりメディアの報道もされないままに、ついに海洋放出されようとしています。  そうした政治への抗議の場であった明治公園が新国立競技場に置き換えられてしまったのは、官製スポーツが原発反対運動を踏み潰したことの、あまりにも鮮やかな象徴と言えます。『オリンピックは喜ばしい』と言われた方は、何か大切なことを忘れてしまってはいませんか?  かかる多大な犠牲の上に、たった2週間の商業イベントが華やかに行われようとしています。その後遺症はナショナリズムと差別の強化、そして開催都市の財政破綻です。これをどのように表現しようとも個人の自由ですが、私たちが提案した「思想上のウイルス」という表現はなかなかにぴったりではないでしょうか?  私たちはこのような問題意識から、「オリンピック終息宣言展」を開催しました。ご参考に、また今後の議論の糧としてくだされば幸いです。 ※【退廃芸術展とは】 1937年、ドイツ、ミュンヘンの考古学研究所で開催された展覧会。1933年ゲッベルスが宣伝大臣になると、ナチスの文化統制は厳しさを増した。ドイツ国内の公立美術館から徴発した約600点の作品に「退廃芸術」の烙印を押し、さらしものとして公開したこの展覧会には、表現主義、抽象絵画、新即物主義、ダダイズム、シュルレアリスムなど、20世紀美術の主要な動向にかかわる作品が出品された。シャガール、カンディンスキー、ベックマン、ディックス、グロッスなどである。  「アーリア民族」の優位性を説くヒトラーとナチスにとって、ギリシア、ローマ以来のヨーロッパの伝統に基づく古典主義に反する近代美術は、すべて「退廃美術」として排斥されるべきものとみなされたのである。  「退廃美術展」は、3か月の開催期間に200万人を超える入場者を記録した。会場を訪れた一般の人々は、自分たちが生活にあえいでいるときに、かくも愚劣な絵や彫刻に公金が浪費されていたことに憤激を禁じえなかったとされる。  また、美術館から押収された4000点以上がみせしめのために焼却された。(日本大百科全書(ニッポニカ)[村田宏]の解説より抄) ----------
本文にあるような経緯で、ノー・ウォー展から「宣言文」への「反論」が掲載されたため、私たち[オリンピック終息宣言]展メンバー各々により、そこでの指摘に対する検討・考察がなされました。それを踏まえて戸山灰がまとめ、ノー・ウォー展に送付したのが、上記の文章です。
残念ながら、返事はありません。
ノー・ウォー展の「反論」が掲載されている「伝言板」は以下。 http://www1.cts.ne.jp/~no-war-tsudoi/16dengon.htm
これまで「波紋と考察」を掲載してきましたが、Sさん、ノー・ウォー展からの批判を受けたことは、オリンピックを容認ともいえるアーティストの見解を知ることができ、個別の指摘についてさらに考察をする絶好の機会となりました。
今後とも終息宣言が波紋を広げるチャンスを設けていきたいと思います。
反論お待ちしています。
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crydayz · 4 years
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ハンス・ベルメールのプロフィール読む。いい。元気出るな。
[LINK] https://www.artpedia.asia/hans-bellmer/
むっちゃ分かりやすいし。
>> シュルレアリスム美術のなかで、もっとも生臭く、低俗すれすれのところであえて勝負したベルメールの人形は、シュルレアリスムの本質にある二流志向を、極端にまで実行してみせた。
この一文、脳に響きすぎる。涼しすぎる読み心地。なんという清涼感。低俗で二流とされる概念をハイカルチャーの中で限界ギリギリまで展開してゆくエクストリームさこそ、僕のようなコンプレックスとルサンチマンを抱えた人間にとっての最大級の癒やしだ。
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eki2003 · 5 years
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「線と色彩の画家」パウル・クレー(Paul Klee)の絵画集
パウル・クレー(Paul Klee, 1879年12月18日 - 1940年6月29日)はのスイスの画家、美術理論家。
クレーは、表現主義、キュービズム、未来主義、シュルレアリスム、抽象絵画とさまざまに関連付けられてきました。
1879年、スイスのベルン州にあるミュンヘンブーフゼーでドイツ出身の音楽教師の父とスイス人歌手の母の間に、二人目の子供として生まれました。 クレーは幼少の頃から音楽が好きになって、ヴァイオリンを学びました。後のクレーの絵画に音楽からの影響を感じられます。
1898年、クレーはミュンヘンの美術学校で美術を勉強し始めました 。そこで象徴主義の画家フランツ・フォン・シュトゥックに師事しました。
1911年、31歳のクレーは、表現主義の画家であるフランツ・マルク、ワシリー・カンディンスキーらと知り合います。1912年の第二回の「青騎士」グループ展に参加しました。
1914年の4月には、ドイツ表現主義画家アウグスト・マッケとアフリカのチュニジアへ旅行した、この旅行中でクレーは、淡い水彩画で独自の色の実験を開始しました。またこの頃からクレーのは画風には、表現主義から抽象絵画に変わりました。
1916年3月、クレーは帝国ドイツの予備軍の兵士として徴兵されました。親友マルクとマッケの戦死がクレーに大きな衝撃を与えました。
1931年からデュッセルドルフのアカデミーの教授をしていましたが。
1933年にナチス政権は前衛芸術家の弾圧を始め、クレーは故郷のスイスに亡命しました。同年、クレーは原因不明の難病である皮膚硬化症が発症し、晩年の創作にも大きな影響を及ぼしました。
クレーの晩年の作品は太い線を使い、シンプルの造形が主なものとなりました。特に1939年に多量の白い紙に黒い線を描かれた天使のような見える線描画を制作しました。 1940年6月29日、クレーはスイスのロカルノ近郊のサンタニェーゼ療養所で亡くなりました。
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torakani · 5 years
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最近購入した本の話をします
①ハンス・ベルメール【イマージュの解剖学】
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表紙を見てピンと来た人はなかなかの本好きだ。
金原ひとみ【アッシュベイビー】でこの作品が使われていたのを覚えている人はおそらく同年代じゃないかな。
ハンス・ベルメールはちょっと風変わりなアーティストで、画家であり球体関節人形作者であり写真家であり詩人だ。
それら全ての要素を作品に取り入れるのだけど、残念ながら日本では彼の作品を総て紹介しているものは非常に少ない。
デッサン集も写真集も、それはそれで非常に素敵なのだけど、ベルメールを語るにはそれぞれのカテゴリをなぞるだけでは欠けてしまう。
ちなみ僕の大学時代の研究対象はこのベルメールを中心としたシュルレアリスム周辺の芸術だったので非常に思い入れの深い作家だ。
個人的には作品を載せたくて堪らないが、かなり好き嫌いの別れる(好き2割・嫌い8割)作品なのでやめておく。興味のある方は是非。
瀧口修造の名前を見るだけでも涎が出る人もいるはず。
②マリオ・ジャコメッリ作品集
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昔、もっと真面目に東京の美術館を回っていた頃、大好きになった写真家。
綺麗な写真を撮るんだ。ほんと。
だけどただ綺麗なだけの写真なわけじゃない。ジャコメッリの写真作品には常に死という裏テーマが付いて回る。
印刷所を経営しながら、土地に留まり独学で写真を撮り続けた彼を僕は尊敬する。なんていうのかな、東京に一回も行ったことなくてもオシャレになることはできるんだぜ。みたいな。ちがうか。
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学生の頃、相棒と一緒に暮らしていたボロアパートの冷蔵庫には、ジャコメッリのポストカードを貼っていた。
それだけでオシャレな家だと思えていた。
③マーク・ニクソン【愛されすぎたぬいぐるみたち】
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アイルランドの写真家による企画展示を写真集にしたもの。
これは2年くらいずっっと欲しくて探していたから見つけたときはテンション上がった。
しかも、梅田阪急で開催されていたTOOLS2019の催事に行ったときにたまたま置いてあるの見つけたのだけど、おそらく全く売れなかったのか、売り場のお姉さんが買いますって言ったら凄く喜んでくれた。
この写真集については、much lovedという原題が全てを表していると思う。
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自分が大事にしていて捨てられない、ボロボロのぬいぐるみを持ってきて欲しいという展示で持ち寄られたぬいぐるみたちの写真、エピソード付き。純粋に読み物としてサイコーだ。
モノを大事にする。というのは大切に綺麗に保管したり、傷をつけないことに限らないのだと気付かせてくれた良い写真集だった。この子たちは、ボロボロだからこそ価値がある、ストーリーがある、サイコーだろ。
1700円という良心的すぎて心配になる価格もサイコーだが、ちゃんとアイルランド人写真家にはお金が届いているのだろうか。
ちなみに、もし手元にmuch lovedなぬいぐるみがある場合はこの写真家にアポイントを取れば写真撮ってもらえるらしいので、興味のある方は是非。
僕も実家に今年25歳になるビーグルのぬいぐるみがいる。思い出させてくれてありがとう。
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'19/3/19 〜 3/31「Metaphysical~形而上~」出品いたします
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3月19日(火)〜3月31日(日)の間、銀座のヴァニラ画廊さんでの企画展にて作品を6点出品いたします。
以下展覧会情報です。詳細は画廊のサイトにてご確認ください。
https://www.vanilla-gallery.com/archives/2019/20190319a.html
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「Metaphysical~形而上~」
2019年3月19日(火)〜3月31日(日) 平日12:00~19:00 土・日・祝・最終日:12:00~17:00
展示室A / 入場料500円(展示室AB共通)
◆3月21日(木祝)はレセプションの為、12時から19時まで営業いたします。 (17時から19時までレセプション/どなたもご参加いただけます。)
ヴァニラ画廊では、「幻想」という流動的なテーマの中で、”Dark”をキーワードとした展示会を開催いたします。
ロマン派、象徴派、シュルレアリスム、ウィーン幻想派など、様々な思想や形式を経て、現代まで流れてきた幻想美術の水脈の中で廃ることなく、アーティストと鑑賞者の双方を惹きつけてきた不気味で奇妙な世界。
イギリス・ロマン主義のゴシック・リバイバルで怪奇趣味が流行し、幻想的な闇の世界がより身近になってから数百年あまり経った現代においても、さらなる多様性を持って人々を甘美で退廃的な世界へと誘います。
本来であれば光を求めるはずの人間が、死の影が色濃いダークアートに陶酔するのは、それが人間の心の奥底を反映し、有形の現象の世界の根底にあるものを描き出しているからではないでしょうか。
不気味でありながらも美をまとうダークアートがどのような形で表現の中で息づいているのか、その形而上的世界の神髄を探る作品たちをどうぞご高覧ください。 ——————–
今回は書籍の装丁に使っていただいた作品も何点か出品いたしました。 どの作品も気に入っているものばかり選びましたので、もしもご都合があいましたら足をお運びいただけましたら嬉しいです!
また会期が近づきましたら改めてお知らせいたします。 
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主観主義写真における後藤敬一郎 / Keiichiro Goto in Subjective Photography
2018年11月14日(水)ー12月1日(土)18:00ー23:00 
 定休日 日・月・火
後藤敬一郎(1918 - 2004) 戦前から戦後にかけて名古屋をベースに活動した写真家。シュルレアリスムに傾倒し、被写体やスタイルを変化させながらも生涯にわたって前衛写真表現に取り組んだ。戦後には瀧口修造を中心として結成された日本主観主義写真連盟に加わり、名古屋の盟友山本桿右(詩人、写真家)らと共にその中でも異彩を放った。本展示は戦前・戦後のビンテージ写真とともに主観主義写真として撮影されたフィルムから新たにプリントをした作品群と本展示に合わせ制作した作品集を紹介します。 
<トークイベント>
主観主義における後藤敬一郎
登壇者 飯沢耕太郎(写真評論家)中村惠一(主観主義研究会)酒 航太(スタジオ35分)
開催日 11月16日(金)19:00~20:00
参加費 1000円 
定員  先着15名 ・予約受付  [email protected]
スタジオ35分
東京都中野区上高田5-47-8
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