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#ジョン・A・ベイツ
ryotarox · 3 months
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British Post Office scandal - Wikipedia
Google翻訳 (=いろいろ訳文がおかしいけど)
2009 年 5 月にComputer Weekly がHorizo​​n ソフトウェアの問題に関する記事を報道し、2009 年 9 月に副郵便局長のアラン・ベイツは正義のための郵便局長同盟 (JFSA) を設立しました。 2012年、運動家や国会議員からの圧力の結果、郵便局はホライゾン社の調査を行うために法医学会計士セカンド・サイトを任命した。Second Sight は、Horizo​​n には会計上の不一致を引き起こす可能性のある欠陥が含まれていると結論付けましたが、郵便局はソフトウェアにシステム的な問題はないと主張しました。 2017年、ベイツ率いる郵便局長555人のグループが郵便局を相手に高等裁判所に集団訴訟を起こした。2019年に裁判官が郵便局長と郵便局との契約は不当であり、Horizo​​nにはバグ、エラー、欠陥が含まれているとの判決を下した後、訴訟は5,800万ポンドで示談となり、訴訟後に原告らにはそれぞれ約2万ポンドが残された。費用がかかります。政府はその後、彼らの賞を補足することに同意した。2020年2月、首相は政府がこのスキャンダルに関する調査を開始すると述べ、後に法定の根拠となった。裁判所は2020年12月から有罪判決を取り消し始めた。 2024年1月の時点で、不当に有罪判決を受けた人のほとんどは依然として有罪判決が覆されるのを待っており、公開捜査が進行中であり、警視庁は郵便局と富士通を捜査している。 4 部構成のテレビドラマ「ミスター・ベイツ vs 郵便局」が 2024 年 1 月にITVで放送され、その後このスキャンダルは大きなニュース記事および政治問題になりました。同月、リシ・スナック首相は、不当に有罪判決を受けた郵便局長の無罪を問う新たな法案を発表した。
2000年頃、システムの問題が、1998年3月から2003年11月までクレイグ・イ・ドンの副郵便局長を務めていたアラン・ベイツによって報告された。2003年、ベイツは郵便局の方針に従うことを拒否したため、副郵便局長としての契約を打ち切られた。[17] [20]彼は2004 年にComputer Weeklyに懸念を報告した。2009 年までに公​​表できるだけの十分な証拠が収集されていた。[21]  2009 年 9 月に、ベイツらによって運動団体「郵便局長のための正義のための同盟」 (JFSA) が結成された。[16] 2012 年までに、メディアや多くの国会議員の間で懸念が高まった。その結果、独立調査会社セカンドサイトは、2012 年に郵便局から独立調査を依頼されました。[22] [11] [16]この期間、ロイヤル メール グループの最高責任者はジョン ロバーツ、アダムでした。クロジエとモヤ・グリーン、そして2012年にロイヤル・メールから分離したポスト・オフィス・リミテッドの最高経営責任者となったポーラ・ヴェネルズである[23]
- - - - - - - - - - - - - - - - 知性とは「自分が間違ってるかもしれない」と疑えることなのかも。
日本でも同じような行政とシステムのエラーが生じたらどうなるか。予防策としてなにができるか。
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johnwickjp · 7 months
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『ジョン・ウィック:コンセクエンス』サントラCD盤 世界先行 9月29日発売!
音楽を担当するのは、過去3作と同様にタイラー・ベイツとジョエル・J・リチャードの二人。シリーズを 踏襲した硬質な電子音と攻撃的なロックサウンドを始め、ローラ・コレット、マノン・ホランダー、イン・ディス ・モーメント、そしてリナ・サワヤマの挿入歌も収録。 ぜひ、チェックしてください!
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【国内盤】 タイトル:ジョン・ウィック:コンセクエンス(原題:JOHN WICK CHAPTER 4) アーティスト:タイラー・ベイツ & ジョエル・J・リチャード 発売予定日:2023年9月29日(金) 品番:RBCP-3498 JAN:4545933134980 フォーマット:CD 価格:2,750円(税込) ジャンル:サウンドトラック 発売元:ランブリング・レコーズ 詳しくはコチラ
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sunakaburimovie · 4 months
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My Favorite Movies of 2023【各部門編】
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【The Most Impressive Actors】
☆ベン・ウィショー
☆ミア・ゴス
☆ジョディ・フォスター
アルバ・ロルヴァルケル
フローレンス・ピュー
メラニー・ティエリー
オースティン・エイブラムズ
リナ・クードリ
アデル・エグザルコプロス
ミシェル・ヨー
キー・ホイ・クァン
ヴァンサン・ラコスト
ニコラス・ケイジ
ヴィッキー・クリープス
ケリー・オサリヴァン
ジェニー・スレイト(声)
ニコラス・ガリツィン
バリー・コーガン
ナウエル・ペレーズ・ビスカヤート
スティーヴ・クーガン
サリー・ホーキンス
ニーナ・ホス
ケイト・ブランシェット
ミシェル・ウィリアムズ
アヨ・エデビリ
ロザムンド・パイク
アイス・ナッタラット
イ・ソム
マーク・ライランス
アンデルシュ・ダニエルセン・リー
ケリー・オサリヴァン
ウド・キアー
ピエール・ロタン
コリン・ファレル
リエ・サレム
フィービー・ディネヴァー
オールデン・エアエンライク
…And ジョン・ギャラガーJr.
『Gone in the Night』 『Abandoned』
(どちらも日本未公開ホラー。DVDで)
*今年も雑に死にました。
【The Most Impressive Directors】
☆クリストーバル・レオン&ホアキン・コシーニャ
☆スザンヌ・ランドン
セバスティアン・レリオ
アリス・ディオップ
セリーヌ・シアマ
レア・ミシウス
ショーン・ダーキン
シャンタル・アケルマン
サラ・ポーリー
ライリー・スターンズ
デヴィッド・ロウリー
マルジャン・サトラビ
ザック・クレッガー
リュシー・ボルルトー
シャンタル・アケルマン
ロジャー・ロス・ウィリアムズ
ナンニ・モレッティ
マチュー・アマルリック
オーガスティーン・フリッツェル
エリザベス・チャイ・バサヒリイー&ジミー・チン
フェルザン・オズペテク
クロエ・ドモント
**************************
【バディ of the year】
☆ニコラス・ケイジ&ペドロ・パスカル(マッシブ・タレント)
うらら&雪さん(メタモルフォーゼの縁側)
ストーム・リード&ヨアキム・デ・アルメイダ(search/#サーチ2)
フィービー・ディネヴァー&オールデン・エアエンライク(フェアプレー)
【BF/GF of the year】
☆アブバクル・アリ(エニシング・イズ・ポッシブル)
トラック運転手マイク(パロマ)
ミソの彼氏(小公女)
元夫ジョン(ロスト・キング 500年越しの運命)
【片腕ギプスのひと of the year】
☆aftersun/アフターサン
シャドウ・イン・クラウド
【デュプラス兄弟案件】
マッシブ・タレント
【最優秀歌唱賞】
☆ウェールズの皆さん(ドリーム・ホース)
“Losing My Religion” カラオケ(aftersun/アフターサン)
マルセル/ジェニー・スレイト(マルセル 靴をはいた小さな貝)
軍人の妻合唱団(シング・ア・ソング!~笑顔を咲かす歌声~)
Bailee BonickとLuke Islam(子役)&ノア・ガルヴィン(シアター・キャンプ)
【サントラ of the year】
☆”Daydream Believer”(ウーマン・トーキング 私たちの選択)
Tina Charles “I Love To Love (But My Baby Loves To Dance) ”(ベルイマン島にて)
エルヴィス・プレスリー(ぼくたちの哲学教室)
”Total Eclipse of the Heart” ボニー・タイラー(ファイブ・デビルズ)
タイラー・ベイツ(X エックス)
【ミュージカル of the year】
☆シアター・キャンプ
ジャネット
シラノ
【The Smiths案件 of the year】
☆ザ・キラー
【Joy Division案件 of the year】
☆“Atomophere”(ボーンズ アンド オール)
【スプリングスティーン案件 of the year】
☆“I’m on Fire” Cassandra VioletカヴァーVer.(PIG ピッグ)
“Born In the U.S.A”(AIR/エア)
【カレン・ダルトン案件 of the year】
☆Gone in the Night(2曲も!)
スウィート・シング
ガンパウダー・ミルクシェイク
ランブル 音楽界を揺るがしたインディアンたち
【タイプライター映画 of the year】
☆ 帰らない日曜日
【壁紙映画 of the year】
☆コンペティション
ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン/ブリュッセル1080、コルメス3番街のジャンヌ・ディエルマン
パラレル・マザーズ
別れる決心
秘密の森の、その向こう
【スポーツ映画 of the year】
☆野球(ブラック・フォン)
テニス(フェア・プレー)
スポーツスタッキング(スピード&ラブ)
アメフト&チアリーディング(ボトムス ~最底で最強?な私たち~)
【ブロマンス of the year】
☆ウルフ&スネーク/バッドガイズ
【ドキュメンタリー of the year】
☆ぼくたちの哲学教室
リタ・モレノ 私は進み続ける
a-ha THE MOVIE
光に生きる ロビー・ミューラー
ジュディ・ブルームよ永遠に
ランブル 音楽界を揺るがしたインディアンたち
パメラ・アンダーソン、ラブ・ストーリー
私たち
【亡霊映画 of the year】
☆彼女のいない部屋
オマージュ
グリーン・ナイト
不都合な理想の夫婦
私たち
フレンチ・イグジット さよならは言わずに
ベルイマン島にて
【帳面派映画 of the year】
☆パメラ・アンダーソン、ラブ・ストーリー
ザリガニの鳴くところ
エスター ファースト・キル
THE BATMAN-ザ・バットマンー
聖なる証
【サバービア映画 of the year】
☆リバー・オブ・グラス
バーバリアン
ハロウィン・キラー!
オットーという男
フェイブルマンズ
【女2男1の関係は女同士を見るためにある映画 of the year】
☆FALL/フォール
ソウルメイト/七月と安生
【猛獣使い映画 of the year】
☆ナイアド ~その決意は海を越える~
☆フェイブルマンズ
【Tシャツ of the year】
☆Never Give UpプリントのTシャツ(TITANE/チタン)
プードルの絵のTシャツ(スワンソング)
Unknown PleasuresのTシャツ(キャンディマン)
スプリングボクスのジャージ(アフリカン・ウエディング)
【生きもの of the year】
☆豚(オオカミの家)
ロバ(イニシェリン島の精霊)
犬のルーシー(ウェンディ&ルーシー)
羊(LAMB/ラム)
巨大ナメクジ(オールド・ジョイ)
猫(靴ひものロンド)
【乗りもの of the year】
☆古くてカッコいい赤い車(彼女のいない部屋)
青い車(リバー・オブ・グラス)
車(TITANE/チタン)
列車(エンドロールのつづき)
衝突する列車(フェイブルマンズ)
すれ違う列車(ニュー・オリンポスで)
【フード of the year】
☆ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン
スパニッシュオムレツ(パラレル・マザーズ)
お土産の卵(小公女)
グレナデン・ソーダ(スザンヌ、16歳)
警察署のやけに豪華な仕出し弁当(別れる決心)
ソーセージ(エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス)
ママのお弁当(エンドロールのつづき)
オリジナル・カクテル(プアン/友だちと呼ばせて)
手作りケーキ(ニュー・オリンポスで)
ヌテッラ(わたしの叔父さん)
味噌(ボイリング・ポイント/沸騰)
じゃがいも料理(デリシュ!)
エル プラネタ
PIG ピッグ
聖なる証
【Airbnb案件 of the year】
☆ バーバリアン
マルセル 靴をはいた小さな貝
Gone in the Night
【メガネ of the year】
☆ボニーさん/ジョディ・フォスター(ナイアド ~その決意は海を越える~)
ジュディさんのカラフルなメガネ(ジュディ・ブルームよ永遠に)
グロリア 永遠の青春
【ラストショット of the year】
☆不都合な理想の夫婦
ニュー・オリンポスで
フェイブルマンズ
aftersun/アフターサン
デュアル
わたしの叔父さん
【ボディ・ホラー of the year】
マリグナント 狂暴な悪夢
ハッチング―孵化―
TITANE/チタン
【うっかり of the year】
☆ FALL/フォール
☆BODIES BODIES BODIES/ボディーズ・ボディーズ・ボディーズ
【ライン of the year】
☆ 「寂れた部屋には寂しい場所の写真があるべき」「ウォルマートとか」「違う、Kマート」「洗濯でワクワクするなんて人生初めて」( Never Goin' Back ネバー・ゴーイン・バック)
「地平線」(フェイブルマンズ)
「パーティで自分だけ別の部屋に行って休むとき、大勢がいる気配で安心できる」(マルセル 靴をはいた小さな貝)
「目的がない、自己完結」(幻滅)
「機能的で自分らしい死ぬための服」(デュアル)
「秘密は隠してるわけじゃなく、言う相手がいないってこと」(秘密の森の、その向こう)
「自虐はよくない」(マッシブ・タレント)
【バトル of the year】
☆デュアル
ファイトクラブの殴り合い/ボトムス ~最底で最強?な私たち~
【ダンス of the year】
☆ スザンヌ、16歳
ロイ・フラー(キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱)
家族対抗ダンス合戦(アフター・ヤン)
aftersun/アフターサン
デュアル
ジャネット
マジック・マイク ラストダンス
【ワースト邦題 of the year】
☆わたしは最悪。
ボーンズ アンド オール
SHE SAID/シー・セッド その名を暴け
【プロレス of the year】
☆ベネデッタ
カサンドロ リング上のドラァグクイーン
【劇中舞台劇 of the year】
☆アプローズ、アプローズ! 囚人たちの大舞台
マジック・マイク ラストダンス
波の間に
スザンヌ、16歳
シアター・キャンプ
幻滅
【映画作り映画 of the year】
☆ニュー・オリンポスで
オマージュ
フェイブルマンズ
エンドロールのつづき
ベルイマン島にて
マッシブ・タレント
コンペティション
わたしは最悪。
X エックス
【ガチ映画大賞】
☆マッシブ・タレント
ウーマン・トーキング 私たちの選択
PIG ピッグ
魂のまなざし
【塩映画】
☆ノック 終末の訪問者
Gone in the Night
ボーンズ アンド オール
ブレット・トレイン
わたしは最悪。
TITANE/チタン
MEN 同じ顔の男たち
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監督
クリント・イーストウッド
脚本
ビリー・レイ
原作
マリー・ブレナー(英語版)
『American Nightmare: The Ballad of Richard Jewell』
製作
ティム・ムーア
ジェシカ・マイアー
ケヴィン・ミッシャー(英語版)
レオナルド・ディカプリオ
ジェニファー・デイヴィソン
ジョナ・ヒル
クリント・イーストウッド
出演者
サム・ロックウェル
キャシー・ベイツ
ジョン・ハム
オリヴィア・ワイルド
ポール・ウォルター・ハウザー
音楽
アルトゥーロ・サンドヴァル
撮影
イヴ・ベランジェ
編集
ジョエル・コックス
製作会社
マルパソ・プロダクションズ(英語版)
アッピアン・ウェイ・プロダクションズ(英語版)
ミッシャー・フィルムズ
配給
アメリカ合衆国の旗日本の旗 ワーナー・ブラザース
公開
アメリカ合衆国の旗 2019年11月20日(AFI映画祭)
アメリカ合衆国の旗 2019年12月13日
日本の旗 2020年1月17日[1]
上映時間
131分
製作国
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語
英語
製作費
$45,000,000[2][3]
興行収入
アメリカ合衆国の旗カナダの旗 $22,345,542[3]
日本の旗 3億円[4]
世界の旗 $43,745,542[3]
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Photo
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2020.3.17 ヒューマントラスト有楽町 ジョン・F・ドノヴァンの死と生 (The Death And Life Of John F. Donovan)
いやーん、撃ち抜かれた! やっぱ外れないわドラン作品。 私の好きなもがギュッと詰まって、例の如く超クール!💖 キャスティングもお見事です! みんなメッチャ魅力的だったけど、キャシー・ベイツがカッコ良かったぁ!チョイ役なのに凄い存在感。『ルーム』観た時、この子天才と思ったジェイコブくんも、やっぱり只者じゃないのだ!少年ものにすこぶる弱い私の心をくすぐりまくり!😍 胸キュンポイントが沢山あり過ぎてアドレナリン出たみたいね…さっきまでヘナチョコだったのに超元気になって帰る私であります!(笑) 既に次回作の予告がかかっていて…またワクワクが増えたのだ!
blogの感想 https://akiwitch.exblog.jp/31106671/ 公式HP https://www.phantom-film.com/donovan/
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xf-2 · 5 years
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日本軍による南京攻略戦すぐ後の1938年1月初め、ニューヨークタイムズ紙に掲載された記事。
避難民の間に紛れ込み暴虐をはたらいたのは中国軍士官らである、との内容。
当時の実態を表している重要な記事であるが、それに対して同年4月、南京安全区国際委員会の一員でもあった金陵大学副学長マイナー・シール・ベイツ(Miner Searle Bates)からNYT紙(記事を書いた筆者J.C.McKimに対して出された反論(弁明?)書簡が存在している。これについては後半に。
  NYT January 4, 1938      EX-CHINESE OFFICERS AMONG REFUGEES SHANGHAI,Jan.3 - American professors remaining at Ginling Collage in Nanking as foreign members of the Refugee Welfare Committee were seriously embarrassed to discover that they had been harboring a deserted Chinese Army colonel and six of his subordinate officers. The professors had,in fact,made the colonel second in authority at the refugee camp. The officers,who had doffed their uniforms during the Chinese retreat from Nanking,were discovered living in one of the college buildings. They confessed their identity after Japanese Army searchers found they had hidden six rifles,five revolveers,a dismounted machine gun and ammunition in the building. The ex-Chinese officers in the presence of Americans and ohter foreighners confessed looting in Nanking and also that one night they dragged girls from the refugee camp into the darkness and the next day blamed Japanese soldiers for the attacks. The ex-officers were arrested and will be punished under martial law and probably executed.        Copyright: 1938: By the New York Times
この記事画像へのリンク、翻訳文を【独り言】ブログ様より拝借してーー
ブログ
上海、1月3日 --- 南京の金陵大学に残っているアメリカ人教授は、他の難民福祉委員会のメンバーとともに、便衣と成った中国軍大佐と6人の彼の部隊の所属兵が匿われていたという事が発見されたことに非常に当惑している。 中国人士官は、南京から中国軍の退却中に兵服を脱いだという、大学の建物の一つで生きて発見された。日本軍の捜索隊が彼等が隠していた6丁のライフル、五丁のリボルバーそして分解されたマシンガンと弾薬を建物内で見つけた後、彼等は正体を告白した。 便衣の兵達は南京で略奪を行ったこと、またある夜、少女を難民キャンプから暗がりへ無理矢理連れだして、次の日、日本兵の行為のせいにした。元兵士たちは戒厳令の下逮捕され、そして恐らく処刑されるだろう。
そして、上記NYTの記事に対するベイツからの反論(手紙)について。
読んでみると弁明というのか部分的に認めていることもどうにも言い訳がましい印象を受ける。あるいは相手方を黙らせようとしているのか・・
以下その手紙内容を。
ベイツからNYTのJ.C.McKim への手紙。1938年4月2日付。
”Letter from M.S. Bates to Rev. J.C. McKim, c/o Dr. John Wood, 281 Fourth Ave, New York City, regarding New York Times stories on Nanjing atrocities” 
April 2, 1938 Dear Mr. McKim
手紙要約
・タイムズに暴虐は日本兵でなく中国兵がやったと書いたようだが違う、確かに中国兵も略奪放火をやったが防御のため
・張学良の部隊の所為?
・これを書くのは日本人友人に知って欲しいから
April 2, 1938 Letter from M.S. Bates to Rev. J.C. McKim
(手紙の重要部分、文字起こしと翻訳ーー括弧内翻訳者)
 ”Letter from M.S. Bates to Rev. J.C. McKim, c/o Dr. John Wood, 281 Fourth Ave, New York City, regarding New York Times stories on Nanjing atrocities”   It has been brought to my attention that you have been writing letters to the Times saying that the stories of Japanese atrocities in Nanking were false. Perhaps by this time you will have learned that they were too true. If I had not seen with my own eyes the things that I have seen I could not have believed that such things could have happened in the modern world. It reminded one of an ancient Assyrian rape. We were not expecting such horrors and it was a terrible shock to us all when they began to happen.    貴殿がタイムズ紙(ニューヨークタイムズ)に、南京における日本の残虐行為の話は虚偽であると手紙を書いていたことに注目いたしました。おそらく今の時点までには、あなたは既にあれが(虚偽ではなく)本当であったと理解されていることでしょう。もし私が自分の目で見たのでなければ、あのようなことが現代世界で起こるなどとは信じられなかった。私は古代アッシリアの都市破壊を思い起こしました(聖書ナホム書にアッシリアの残忍暴虐さが記されている、その意味か)。我々はあのような恐ろしい事が起こるとは予想もしておらず、始まった時には我々はみな大変ショックを受けました。     (中略ーーーここに日本軍による非道行為の数々が具体的に書かれてある) I could go on for many pages telling you of such things as these but I think I have written enough to let you know that the stories of atrocities were not exaggerated. Things have greatly improved but murder and rape still continue, only on a smaller scale here in Nanking. 貴殿にお伝えするのに、このように例をあげて多く枚数重ねましたが、暴虐の話が誇張されたものでないことは充分お知らせしたつもりです。ここ南京の事態はかなり改善されましたが、単に規模が小さくなっただけで、殺人と強姦はまだ続いています。  When you said, I understand you wrote to the Times, that these outrages were not perpetrated by Japanese but by Chinese soldiers, you were misinformed so far as Nanking was concerned. There was a small amount of looting of some shops by Chinese just before the Japanese entered. It is true that the homes of many people immediately outside the city walls were burnt down by the soldiers for defensive purposes, and this was certainly an outrage, but it was done with the mistaken idea that it would help in the defense of the city which did not prove the case. It is true that Chang Hsueh Liang’s troops which showed up so miserably in the fighting looted between here and Shanghai but they were executed by the hundreds. It is certainly unjust to have publicly accused the Chinese of such horrible things that happened here. I think I have written enough to let you know what horrors have happened. If you want to know further you could ask Dr.John W.Wood to let you see a copy of a kind of diary letter that I wrote to my wife. これら非道行為は日本側が犯したのではなく中国兵がやったものだ、と貴殿はNYT紙に書かれたと理解していますが、南京に関してはあなたは間違ったことを教えられています。日本軍が入る前に中国人による商店数か所への小規模な略奪がありました。城壁に接している家々が中国兵によって防衛目的のために焼失したことは事実であり、それは確かに非道行為ではありますが、都市防衛のために役立つであろうとの間違った考えから為されたのです。戦闘の中で非常にみすぼらしい姿で現れた張学良の部隊が、ここ南京や上海で略奪したのは事実ですが、だが彼ら数百人もが処刑されました。ここで起こったこのような酷い事案で中国人を公に告発したというのは明らかに不公平です。さらに詳しくお知りになりたければ、私が妻に書いた日記の手紙のコピーを見せてくれるようジョン・W・ウッド博士にお願いして下さい。  The only reason why I am writing this letter is that I believe that all friends of Japan should know the truth. It is the part of real friendship for the Japanese to let them know what is actually happening in China. I believe that a great many people in Japan would be horrified if they knew what was happening over wide areas of this land, just as we who have seen it have been, and their horror might be used to break the power of the military in Japan which has been the real cause of this conflict. この手紙を書いているただ一つの理由は、日本の友人たち皆が真相を知っているべきと考えるからです。中国で実際に何が起こっているのか知らせることが日本人への本物の友情の一部です。この国の広大な地域で何が起こっているかを知れば、非常に多くの日本人が恐れを為すことでしょう。目撃した我々がそうだったように。そして日本人が抱く恐怖は、今回の対立を招いた原因であった日本の軍事力を削ぐために使われるかもしれません。 I hope you will in the cause of justice and truth correct any misinformation you may unknowingly given to the papers. I would ask you also to be careful about using my name in any publicity. I do not fear the personal consequences but rather that I might be run out of the city or that the relief work that we foreigners here have been carrying on for the benefit of the people of the city might be further curtailed than it has been. If we had not been here and established the Safety Zone and all of us been busy trying to protect the people the tragedy would has been worse as every Chinese in the city knows. 貴殿が気がつかぬまま新聞社に提供したかも知れない誤報どれも、正義と真実の元に訂正なさることを願っております。また、公表に当たって私の名を使用する事についてはどうぞ注意なさるようお願いいたします。個人的な成り行きを恐れているのでなくむしろ、この都市から追い出されかねないこと、あるいは我々外国人がこの街の人々のために維持している救援活動が前よりさらに縮小されはしないかと恐れています。もし我々がここに居らず、安全地帯を設立して皆が民衆を守る努力をしなかったならば、悲劇はさらに悪いものになったでしょう。それは市内の中国人誰もが分かっていることです。
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team-ginga · 3 years
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映画『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』
 『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』(カナダ・アメリカ、2018)をWowowオンデマンドで見ました。あのグザヴィエ・ドラン監督の映画です。
 グザヴィエ・ドランは「あの」をつけて違和感のない数少ない監督の一人です。
 アメリカからイギリスに母親と二人で移住し子役として活動する少年の人生と、アメリカの新進スターであるジョン・F・ドノヴァンの人生を並行して描いた映画で、ドノヴァンにファンレターを送り、それにドノヴァンが返信したことから何年もに渡って文通を続けた少年が、大人になりドノヴァンに関する本を出版し、女性ジャーナリストが彼にインタビューをしているという設定です。
 こう書くとなんだか複雑なようですが、決してそんなことはありません。極めてわかりやすい映画です。
 甘いといえば甘い部分ももちろんあります。外国に住む全く無名の子役の少年のファンレターに新進スターが返事を書くというのは、ちょっとありえないことのように思えます(実は返事を書いていたのは、少年の母だったとか、少年本人だったとかいう結末を私は予想しましたが違いました)し、時期こそ違えど少年とドノヴァンが示し合わせたかのように母親と和解するのも、あざといというか出来過ぎの気がします。
 一人でロンドンへオーディションを受けに行った少年を母親が追いかけていき、互いに駆け寄るシーンで例の「スタンド・バイ・ミー」が流れるのも、「なんだかなあ」という気がしないではありません。
 ドノヴァンはホモセクシュアルであることを暴露されて芸能界での地位を失いますが、成長した少年はジャーナリストの女性に「欲しいものが手に入るといいわね」と言われて、「僕はもう欲しいものを見つけた」と言って、そのままカッコいい男性の乗るバイクの後ろに乗って去っていきます。つまり、ドノヴァンは自分が同性愛者であることを隠そうとして隠しきれず破滅したが、大人になった少年はもはや隠す気も隠す必要もないということなわけです。
 同性愛者であるドラン監督のある種の願望を描いたラストでしょうが、それも非常にわざとらしいといえばわざとらしい感じがします。
 とまあ、いろいろケチをつけましたが、私は好きです。だから世間でこの映画が酷評されていることに驚きました。
 早熟の天才と言われたドラン監督も『たかが世界の終わり』(2016)からは不調が続いているというのが世間の評価のようですが、そうなんですか?
 私は『たかが世界の終わり』もこの映画も結構好きなんですが……
 その二つがダメだとすると、一体何がドラン監督の「名作」なんでしょう。
 私は『トム・アット・ザ・ファーム』(2013)はあまり好きではありません。同種の映画なら、ベルギ〜のファブリス・デ・ヴァルツ監督の『変態村』(なんというタイトル! 原題はキリスト磔刑の丘を意味するCalvaireなんですが……)の方が優れていると思います。
 世間は私が見ていない『マイ・マザー』(2009、こちらの原題は J'ai tué ma mère つまり「僕は母を殺した」です)や『胸騒ぎの恋人』(2010)や『私はロランス』(2012)や『Mommy/マミー』(2014、なんかやたら母親にこだわっていますね。それがドラン監督の「個性」なのでしょう)を高く評価しているということなのでしょうか。
 そっちも見てみないと……
追記:  役者としては、ドノヴァンの母親役のスーザン・サランドンや、マネージャー役のキャシー・ベイツ、女性ジャーナリスト役のタンディ・ニュートンが好きでした。  「年増好み」なんですかね、私は。
 あまり好きな女優ではありませんがナタリー・ポートマンも出演しています。どの役で出演しているのかさっぱりわからなかったのですが、ある瞬間「そうか! 少年の母親役がポートマンなんだ」と気づきました。  ポートマンというと私はどうしても『レオン』の少女役を連想しますが、もうそんな歳になっているのですね。  こっちも歳をとるはずだ。
追記2:  ドノヴァンは無名の子役の少年から見るととても手の届かない大スターです。ドノヴァンが世間の注目を引いたのは超能力を持つ高校生を描くテレビドラマ、彼が次に狙っているのはアメコミの映画化の主役。  なんとも思わない人は思わないでしょうが、私からすれば「え? そんな役がやりたかったの?」と思ってしまいます。  まあ、グザヴィエ・ドラン監督からすれば、「芸能界(演劇界でも映画界でもないところがミソです)なんてこんなもんよ」ということでわざとそういう設定にしたのかもしれませんが、個人的にはちょっと「?」でした。
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tomoya-jinguuji · 7 years
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日本の美しい魂を、とりもどす
日本国憲法・占領典範無効確認と、大日本帝国憲法・明治皇室典範現存宣言で、「至高の権威」「万民の父母」天皇に立憲君主としての大権をお返しする
「『南京大虐殺』の虚構」の完全証明 ①東京裁判と「南京安全区国際委員会」そして南京の人口
東京裁判の記録と1937年当時の同時代一次資料で、「『南京虐殺』など無かった」と証明できるにも拘らず、左翼反日プロパガンダを公式に排すべき立場にあるはずの文科省、外務省が、未だに「南京虐殺が在ったのは事実。問題は被害者の人数だけ」と思い込んでいる。日本の知識階層のエリートであるはずの彼らが、「南京事件」など代表的な反日プロパガンダの学術的な検証を放棄している。だが、そこを指摘できない政府の不勉強は不問に付して良いのか?
2016年度教科書検定に於ける「南京事件」「慰安婦問題」「中国人強制労働」「関東大震災時の朝鮮人虐殺」で「政府の主張反映」(朝日新聞2016年3月19日)とは各々「被害者の人数は諸説ある」「法的に解決済み」「各国との条約で解決済み」「虐殺数・数千人は通説がない→数百人~数千人」___。これでは全く「東京裁判史観」の域を出ていない。
朝日新聞は「多様な見方 触れる必要」といいながら、「日本は完全に無実」という観点は全く欠落している。両論併記どころか、「『日本は無実』という説もある」とすら言及しない。「日本無罪論」の存在すら認められていない。これが公正な報道と言えるのか?
反日親中の牙城である朝日新聞はともかくとしても、「戦後レジーム脱却」のホープである安倍晋三首相を擁する政府自民党が、東京裁判史観を脱していない…日本悪玉史観で70年間教育された国民ではない、「戦後レジーム」を打破する内閣が、自分達が戦っている真の敵=プロパガンダについて無知とは、どういうことだろうか?
戦後70年の安倍談話にかなりの影響を与えた「21世紀構想懇談会」の座長代理、北岡伸一国際大学学長は談話発表前に、公然と「日本が中国を侵略したのは事実」「安倍首相にも談話で『侵略』と言って欲しい」といっていた。その5年前の「日中共同歴史研究」の頃、彼は次のように語っていた。
「日本に侵略を否定する声が大きいうちは、中国は、日本は反省していないと主張し続けることができる。」
「中国や韓国の歴史記述が過度にナショナリスティックになっていることは、よく知られたことである。(中略)しかし、日本のなかで侵略や虐殺の事実そのものを否認しているために、そこにふみこむことさえできなくなっている。道義的な優位性を失っているからである。」
(「共同歴史研究 『侵略』認め、日中攻守逆転」 2010年4月18日付読売新聞)
「侵略や虐殺の事実そのものを否認すること」で、日本が『道義的優位性』を失っている、と北岡氏はいっている。日本人は侵略者であるだけでなく、それを絶対に認めようとしない、反省しようとしない、道義的劣等民族である、と言っているのだ。日本国憲法・前文の絶対的信奉者とお見受けする。
だが、日本が自身にかけられた冤罪を無実と証明することと、中国や韓国の自国の歴史への自己欺瞞と捏造を批判することを同列に扱ってはならない。
完全に東京裁判史観を信じ切っていて思考停止し、それへの反論は一切耳に入らないのか、東大で法学博士となったにも拘らず本当に東京裁判の実相について無知なのか、それとも本当は真実を知っていながらハニートラップにでもかかって脅されている故批判ができないのか、それは知らない。
だが、東京裁判の速記録を実際に読めば、東京裁判が実は「日本の戦争犯罪」など何ひとつ証明していないことが、誰にでも解る。
東京裁判は「『南京大虐殺』など起こっていたはずがない」という証拠を無視した
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以下は、所謂「Nanking Atrocities=南京の暴虐」についての東京裁判における審議の一幕である。
MR. LEVIN: Mr. Brooks calls [sic] my attention to the fact that in another portion of the affidavit is contained the statement that 300,000 were killed in Nanking, and as I understand it the total population of Nanking is only 200,000. THE PRESIDENT: Well, you may have evidence of that, but you cannot get it in at this stage. ”  
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p.4,551, “The Tokyo Major War Crimes Trial: the Transcripts of the Court Proceedings of the International Military Tribunal for the Far East” Edited by R. John Pritchard
ウェッブ裁判長はそれに対し「貴方はその証拠を持っているかもしれませんが、現段階でその提出はできません」と退けた。(裁判長は「現段階で」といったが、その後この件は二度と言及されなかったことは言うまでもない。)
「南京の人口20万人」説は日本人被告側弁護人ブルックスとレヴィンの希望的観測等では勿論なく、「南京虐殺があった」と言っている当の中国側資料にその典拠がある。
その資料とは、南京陥落時に南京に残り「南京安全区国際委員会」を組織して「難民救援」を行った米国人宣教師やドイツ・ジーメンス南京市所のジョン・ラ―べ国際委員会会長等が作成、日本大使館を通して日本軍当局と折衝するため提出した文書や書簡をまとめた『Documents of the Nanking Safety Zone=南京安全区[木當(一字)=とう]案』(Edited by Hsu Shuhsi, 1938年刊)、及びラ―べ等国際委員会メンバーの残した日記や手紙など(『Eyewitnesses to Massacre』『The Good German of Nanking: The Diaries of John Rabe』)である。
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The Good German of Nanking: The Diaries of John Rabe (Edited by Erwin Wickert, 1998), Documents on the Rape of Nanking (Edited by Timothy Brook, 1999), Eyewitnesses to Massacre: American Missionaries Bear Witness to Japanese Atrocities in Nanjing (2001)
「難民救援」に括弧をつけたのは、南京国際委員会が、難民救済を建前にしながらその実、中国国民党・蒋介石軍を利する反日宣伝活動に従事していたからである。事実、『南京安全区とう案』は、南京から後退し重慶に置かれた国民党政府の外事評議会の援助を受けながら、国民党顧問の徐淑希によって編集されている。
南京の人口「20万人」は日本軍の南京占領2週間で「25万人」に増加していた
その「南京安全区とう案」が、「南京に残った200,000人の難民」と繰り返し何度も言及するということは、1938年当時の国民党政府が「南京陥落時の南京の人口は200,000人」と認識していたことになる。
現在の中国共産党政府が最も重用する「『南京虐殺』の同時代一次資料」は、「偶然にも」日本の歴史教科書執筆者や文科省教科書検定官と同じく、「ジョン・ラ―べの日記」であるが、実はここにも「南京の人口200,000万人」が何度も言及されている。その最も重要な言及が、日本軍の南京到達の2週間前に当たる1937年11月28日の記述である。
“Wang Kopang, the chief of police, has repeatedly declared that 200,000 Chinese are still living in the city.”   (p.39, The Good German of Nanking: The Diaries of John Rabe)
「警察長官の王固磐は、『20万人の中国人が未だ南京市内に居住している』と、繰り返し宣言している」と、反日宣伝活動・中国国民党軍後方支援を行っていた、ヒトラーに嫌われていた(隠れ親ソ派?)ナチス党員ジョン・ラ―ベが証言しているのだ。
しかも、この「20万人」という数字は、「虐殺」などあったなら当然減っていくはずなのに、実際は5万人も増加している。南京陥落から2週間が過ぎたクリスマスの頃には、『安全区とう案』や「国際委員会メンバーの日記・手紙」に言及される南京の人口は、「25万人」になっていくのである。
中国人難民には、南京市内と城外を自由に行き来できる証明書「良民証」が交付された
これは、陥落時に南京城内の安全区に逃げ込んだ中国軍の敗残兵を、正真正銘の中国市民と区別するため、日本軍が発行した「良民証」が、中国軍に拉致されて兵隊にさせられていた農夫たち(拉夫)や大部分の反抗的でない元兵士にも与えられたからであった。「良民証」の発行は、日本軍当局と中国人難民の代表の立会いの下で中国語で行われ、難民たちは若い女性も含め、これを貰う為に登録所へ殺到した。
Friday, December 31.   Registration took place this morning—not of 260 college women, but of about 1,000 refugee women between ages of 17 and 30. By 9 o’clock they were lined up in front of Central Building and given a discourse—first by the Japanese military official, and then by Mr. Jan Yung-gwang—both in Chinese. (Minnie Vautrin, Eyewitnesses to Massacre, p.368)
“During the afternoon there was not a great deal to do at the office. Trucks were interfered with because coolies could not work until registered and I suppose the same will be true today. But after people once pass the bugbear of registration they feel much relieved. So far reports of any large numbers being taken off as soldiers, about 20 from the Middle School [MS].Fitch was told yesterday that even soldiers would be pardoned if they had families here to guarantee them and those who had not, would be taken for work corps, not shot.But the officer that took the 20 from the MS said they were to be shot. We certainly hope that will be kept to a minimum.” (Lewis S.C. Smythe, Sunday December 26, 1937, Eyewitnesses to Massacre, p.276)
「『南京虐殺』から中国人を救った南京の女神」とまでもてはやされている、国際委員会のメンバーで金陵女子学院教師の宣教師、ミニー・ヴォートリンは「今朝、良民証登録が行われた。260人の女子学院の女性たちでなく、1,000人もの難民の中国人女性たちが、朝の9時には既に学院中央棟の前に並んでおり、日本軍将校とジャン・ユングァン氏の中国語の講和を聞いた。」と日記に書いた。
「良民証登録の『bugbear=根拠のない恐れ』をやり過ごして、一旦良民証を手に入れると、人々は非常に安心した。」「(市民服に着替えた便衣兵=元)兵士ですら、ここ(安全区)に家族がいて身元を保障するならば免罪されるし、もし家族がいなくとも、射殺されるのでなく、労働部隊へ廻されるのだ、と(同僚の国際委員会メンバー)フィッチは聞かされた。」と同じく国際委員会のルイス・スマイスは自分の日記に書いた。
同じ文章中に「中等学校(Middle School)から20人の中国軍兵士が連行された…連行した将校によれば、彼らは射殺されるという。」とあるが、これは「例外的に」反抗的、敵対的敗残兵であったのだろう。この件が国際委員会にも納得されていたらしいのは、最後の一文に「我々国際委員会はそのこと(良民証を与えられず、銃殺刑にされる敗残兵がいること)が最小限にとどめられるよう強く希望する」とあるのみで、「安全区とう案」に日本軍への抗議として記録されることは無かったという事実で解る。
中国軍は国際法違反の「便衣兵」となって難民キャンプに潜伏していた
南京陥落直前の1937年12月12日夜。(1)南京防衛軍司令官唐生智は形勢絶対不利を見てとり、さっさと敵前逃亡した。(2)置き去りにされパニック状態になった中国軍は、武器を捨て、兵隊服を脱ぎ捨て、予め携帯していた「便衣服=市民服」に着替え、中国人非交戦者の為の安全区に、市民を装って入り込んだ。(3)彼らは「敗残兵と市民とを分ける能力のない」安全区国際委員会の目と鼻の先で、安全区内に潜伏し、武器を隠匿し、(4)機会を捉えて略奪、放火、強姦や殺人などを同胞である中国人難民に対して犯し、これを日本軍のせいにしようと企んでいた。
中国国民党軍のこれらの行動は完全な国際法違反であった。
1907年 ハーグ陸戦法規 第一章 交戦者の資格
第1条: 戦争の法規、権利、義務は正規軍にのみ適用されるものではなく、下記条件を満たす民兵、義勇兵にも適用される。
(1) 部下の責任を負う指揮官が存在すること。
(2) 遠方から識別可能な固有の徽章を着用していること。
(3) 公然と兵器を携帯していること。
(4) その動作において、戦争法規を遵守していること。
これを証明する記事が1938年1月4日のニューヨーク・タイムズに掲載された。
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「元中国軍将校らが米国人の難民キャンプに:大佐とその部下達 南京での犯罪を日本軍のせいにしていたと白状」「南京に留まって国際難民救済委員会を結成していた米国人大学教授達には非常に不面目なことに、彼ら自身の難民キャンプに敗軍の将校とその6人の部下を匿っていたことが発覚。」「しかも、あろうことかその大佐を、難民キャンプの幹部に据えていた。」「彼らは南京防衛戦で退却の際、軍服を捨て去り、大学構内に潜伏していた。」「彼らは、日本軍の掃討部隊に、建物内に隠匿した6丁のライフルと5丁の回転式拳銃、砲台から外した機関銃と弾薬を発見された後、自分たちの真の身元を白状した。」「これらの元中国軍将兵たちは、南京で略奪を働いたこと、そして或る夜、難民キャンプから女の子達を暗闇に引き摺り込み、翌日この暴行を日本軍のせいにしたことを、米国人をはじめとする外国人の面前で告白した」「この元将兵たちは逮捕された。そして軍法会議にかけられ、おそらくは処刑されることであろう。」(拙訳:筆者)
New York Times 4 JAN 1938
南京安全区国際委員会は中国国民党のプロパガンダ工作に携わっていた
この米国人宣教師らは、「知らずに」元中国軍将兵を難民キャンプに匿っていたのではない。東京裁判で証言したシャール・ベイツや『南京の日本軍暴行記録』を書いたルイス・スマイスは、国際プロパガンダ工作の為に国民党に雇われていたことが国民党極秘文書から明らかになっているし、南京YMCAのフィッチは「南京放送で国民党のプロパガンダを流している」と、当時中共軍と行動を共にしていたコミンテルン・スパイの米国人ジャーナリスト、アグネス・スメドレーも自著に書いていた。ベイツとミニー・ヴォートリンは「秘密裏に」国民党・蒋介石からヒスイ勲章を貰っている。
現中国共産党政府が「南京虐殺の生き証人」と持ち上げるジョン・ラ―べもまた、南京陥落直前の12月12日から、30,000ドルと引き換えに国民党軍将校「ラン」と「チャウ」の2人を自宅に匿い(『ラ―ベ日記』p.64)、翌年1938年2月23日にドイツへ帰国する為南京を離れる際には、やはり自宅に匿っていた「フアン空軍大佐」を自分の使用人と偽って帯同し、日本軍の警戒を潜り抜け、上海まで脱出させることに協力(同上p.202)している。
国際委員会の面々は、全員が程度の差こそあれ、反日的であった。日本軍は中国人難民による「自治委員会」を設立して、中国人自身の手による南京復興を奨励援助していたが、中国での布教活動がいまひとつ成功しておらず、本国からの助成金途絶の危機に直面していた米国人宣教師たちにとって、日本軍は「南京で難民を救済した」という「実績・手柄」を横取りする邪魔な存在であった。
南京の中国人は日本軍を慕っていた
南京を占領した日本軍の主力は、陥落後2週間で、重慶方面へ退却する中国軍を追跡し南京を後にした。残された1600人ほどで、南京市内の警備とインフラ復旧工事、遺棄された中国軍の分も含めた戦死体の埋葬・供養が行われ、南京の平和は急速に回復した。
Jan. 1, 1938—8:45 P.M.  New Year’s Day     Well, today has been the noisiest unhappy New Year I ever saw. Firecrackers began early this morning. But the barber was an hour late for his eight o’clock appointment and apologized by saying that he had to go out to fire firecrackers for the Japanese! Well, anyway the children had a grand time firing the crackers given out by the Japanese! (Lewis S.C. Smythe, Eyewitnesses to Massacre, p.284)
優しく礼儀正しい日本軍将兵から肉の塊を貰ったり、飾り付けをしたりして「穏やかなクリスマス」を過ごした国際委員会の宣教師たちは、正月には「日本軍からもらった爆竹を鳴らして、朝から非常に楽しい時を過ごした子供達」を目撃した。「今まで見たこともない騒々しい『嬉しくないお正月』だった」と書いたスマイスは、国民党のプロパガンダ要員としては、「敵」であるはずの日本軍と仲良くやっている南京市民の姿に素直によろこべなかったのであろう。
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1937年12月20日林特派員撮影。『支那事変画報』第11集;昭和13年(1938年)1月27日発行
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1937年12月20日林特派員撮影。『アサヒグラフ』昭和13年(1938年)1月19日号。
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1937年12月20日林特派員撮影。『アサヒグラフ』諸王わ13年(1938年)1月19日号。
「南京で起こっている略奪・強姦・放火は中国軍の仕業で、日本軍ではない」と中国人
前述のニューヨーク・タイムズ1938年1月4日付記事のあと、1月9日の日記に、国際委員会のマッカラムは「いまや日本人は、安全区で努力している我々の信用を落とそうとしている。我々国際委員会が言ってきたこと(筆者注:日本軍の「悪行」を言い立てる「南京安全区とう案」のこと)を不当だと思わせようと、可哀想な中国人達を脅しているのだ」と書いた。
“Now the Japanese are trying to discredit our efforts in the Safety Zone. They threaten and intimidate the poor Chinese into repudiating what we have said.
Some of the Chinese are even ready to prove that the looting, raping and burning was done by the Chinese and not the Japanese.
I feel sometimes that we have been dealing with maniacs and idiots…” (James A. McCallum, Eyewitnesses to Massacre, p.238)
「何人かの中国人は、『略奪・強姦・放火は中国軍がやったのであって、日本軍ではない』と証明する準備がある、とまで言っている」「時々、我々(外国人)は狂人や白痴を相手にしているのかと思うことがある…」(拙訳:筆者)
だが、中国人達は日本軍に脅されてこのようなことを言っているのではない。そして、国際委員会のメンバーが反日プロパガンダを拡散していると知っていたのは中国人だけではなかった。
マギー牧師は、「南京での日本軍の『残虐行為』の話は虚偽であり、本当の犯人は中国軍である」という手紙をタイムズ紙に複数回書き送っていた、ニューヨークのマッキム牧師宛てに、長い抗議の手紙を書いていた。
“Dear Mr. McKim,      It has been brought to my attention that you have been writing letters to the Times saying that the stories of Japanese atrocities in Nanking were false.
[…]  If I had not seen with my own eyes the things that I have seen I could not have believed that such things could have had happened in the modern world.” (John G. Magee, A Letter to The Rev. J. C. McKim, April 2nd, 1938, Eyewitnesses to Massacre, p.198)
「もし私が自分のこの目で見たのでなければ、こんな(日本軍の犯したようなおそろしい)ことが現代のこの世の中に起こるとは信じられたはずはありません」などとマギーはマッキム師を非難したが、聖職者にあるまじきことながら、マギーは嘘をついていた。
南京の外国人達は、「虐殺」どころか一件の「殺人」も目撃していなかった
東京裁判で、『南京安全区とう案』の444件の事件報告を2日がかりで朗読したマギー牧師は、被告側弁護人ブルックス大尉に「今おっしゃった『殺人行為』のうち、何件をご自身で目撃されましたか?」と聞かれて答えた。
“I thought I made that clear in my testimony. I only personally witnessed the killing of one man.”  (p.3,929, Pritchard前掲書)
「私の証言の中で明確に申し上げたつもりでしたが…一人の男が殺されたのを、自身で目撃したのみです。」と、マギーは証言した。しかも、これは「殺人」ではなく、「誰何され逃げ出した怪しい男が警備兵に撃たれた」という話であった。マギーは「一昨日の話」として1937年12月19日の日記に書き残していた。
“Just day before yesterday we saw poor wretch killed very near the house where we are living. So many of Chinese are timid and when challenged foolishly start to run. This is what happened to that man. The actual killing we did not see as it took place just around the corner of a bamboo fence from where we could see.” (John G. Magee, Sunday-December 19, Eyewitnesses to Massacre, p.171)
「多くの中国人は臆病で、誰何されると愚かにも逃げ出してしまう。それがこの男に起こったことだ」とマギーは書くが、難民たちは日本軍に感謝し、慕いこそすれ、日本軍を恐れたりはしていなかった。そもそも、日本軍の方でも難民を「怪しい奴」とみて誰何��ることもなかったであろう。
しかも、この件には落ちがあり、誰何されて逃げた男は、国際委員会の面々の視界を外れた竹の塀の向こう側へ逃げたところで撃たれたので、「我々(国際委員会)は殺害自体は目撃しなかった」(同上、p.171)のであった。
実際には見なかったことを「見た」と、マギー牧師は東京裁判で証言したことになる。
真っ当な裁判であれば、これは「偽証」になるはずであったが、東京裁判には偽証罪の適用は無かった。
国際委員会が自分たちの目で本当に目撃した日本軍による「殺害」はただ1件、そしてそれは「合法的な処刑」であった
『南京安全区とう案』ケース185、国際委員会のクルーガーとハッツが1938年1月9日に目撃した「市民服の男」=便衣兵の銃殺である。
“ 185.     On the morning of January 9, Mr. Kroeger and Mr. Hatz saw a Japanese officer and soldier executing a poor man in civilian clothes in a pond inside the Safety Zone on Shansi Road, just east of the Sino-British Boxer Indemnity Building. The man was standing in the pond up to his waist in water on which the ice was broken and was wobbling around when Mr. Kroeger and Hatz arrived. The officer gave an order and the soldier lay down behind a sandbag and fired a rifle at the man and hit him in one shoulder. He fired again and missed the man. The third shot killed him. (Kroeger, Hatz)
Note: We have no right to protest about legitimate executions by the Japanese army, but this certainly was carried out in an inefficient and brutal way. Furthermore, it brings up a matter we have mentioned many times in private conversation with the Japanese Embassy men: this killing of people in ponds within the Zone has spoiled and thereby seriously curtailed the reserve water supply for the people in the Zone. This is very serious in this long dry spell and with the city water coming so slowly.” (p.78, “Documents on the Rape of Nanking” edited by Timothy Brook)
「我々には、日本軍の合法的処刑に抗議する権限は無いが」と前置きして、射撃手が経験不足からか2度も急所を外し、3度目でやっと件の男を射殺した事、氷の張った冷たい池の中での銃殺刑であったこと等を「要領が悪く残酷なやり方」と批判し、「安全区内の池での射殺は、飲み水を汚染し、安全区の人々への給水の深刻な制限につながる」と非難している。
『南京安全区とう案』に載っている444件の「事件」は185番を除いて全てが「伝聞」、しかもその殆どは検証していない「また聞き」であった
Number 8
Cases of Disorder by Japanese Soldiers in the Safety Zone
Filed, December 16, 1937
Note: These are only sample cases we have had time to check upon more carefully. Many more have been reported to our workers.
[Cases number 1 to 15]
The above cases have been checked upon by foreign members of our Committee or Staff.
respectfully submitted,/ Lewis S. C. Smythe/ Secretary
(pp.9~11, Documents on the Rape of Nanking, edited by Timothy Brook)
南京国際委員会会長のジョン・ラ―べや同会セクレタリーのルイス・スマイスが日本大使館やアメリカ大使館との折衝等の為に書いた69通の手紙や覚書のうちの1通の、本文ではなく注意書きとして小さな字で書かれているものである。
「これらは、我々がきちんと裏付けを取る時間をとれた唯15件の事件報告である。更に多くの事件報告が、我々のスタッフに届けられている」と始まって、「上記の事件報告は、我々国際委員会のメンバー或いは事務員によって裏付けされている。」で終わっている。また、1938年1月31日の手紙「Number 56」にも、「以下にあげる事件(番号210から219)だけが、我々が事件当事者から直接聞くことの出来た事件である。(最初の2件は、以前の事件をタイプライターで清書する際に、見落としていたものである)」とスマイスが書いている。
The following cases are only the ones we have been able to get first hand reports of: (The first two are cases overlooked in typing up previous reports.) (p.116, Documents on the Rape of Nanking)
これらの注意書きは何を意味するのだろうか?その答えは、当時外交官補として在南京日本大使館に勤務し、国際委員会からの手紙にも数回その名が宛先として登場する、福田篤泰氏の証言によって明らかになる。
 当時、私は毎日のように、外国人が組織した国際委員会の事務所へ出かけていたが、そこへ中国人が次から次へとかけ込んでくる。 「いま、上海路何号で10歳くらいの少女が5人の日本兵に強姦されている」あるいは「80歳ぐらいの老婆が強姦された」等々、その訴えを、フィッチ神父が、私の目の前で、どんどんタイプしているのだ。
「ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずに、それを記録するのか」と、私は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない。住んでいる者もいない。
また、「下関にある米国所有の木材を、日本軍が盗み出しているという通報があった」と、早朝に米国大使館から抗議が入り、ただちに雪の降るなかを本郷(忠夫)参謀と米国大使館員を連れて行くと、その形跡はない。 とにかく、こんな訴えが連日、山のように来た。
(福田篤泰『一億人の昭和史』1979年版)
要するに、国際委員会の「事件報告」というのは、国際委員会の事務所に「中国人」が持ってきた「報告」を、検証もせずにタイプしてまとめているだけのものだった。
「南京安全区国際委員会報告書」は国民党プロパガンダであった
「報告者」の「中国人」が、国際委員会同様、中国国民党のプロパガンダ部隊か、その息のかかった人間であることはほぼ間違いない。
実のところ南京には、「米宣教師・国民党軍宣伝部隊」対「日本軍・中国人難民」の構図があった。
シャルフェンベルク・ドイツ大使館一等書記官が、1938年2月10日に書いた覚書がこの間の事情をよく説明している。
Memorandum of Chancellor Scharffenberg for the Embassy in Hankow
[……]
On 5 February, all officials were again invited to a tea [by the Japanese Embassy], as guests of garrison commander Major General Amaya.
We conversed very amiably for a good while, [then] Amaya…gave a speech…. His thesis was: Everything would have gone far better in Nanking without any Westerners. The Chinese had crept in under the Westerners’ coattails and by trusting in our intervention, had dared to defy the Japanese. In Yangchow…everything had fallen into place wonderfully after a few days, and commercial life had scarcely been interrupted.
The high point of of his speech was: “Please don’t interfere in my dealings with  the Chinese!” [……]
The Safety Committee has long been a thorn in the side of the Japanese, but since 4 February a large number of Chinese have in fact left the camps and found shelter somewhere in the city. In my view, Herr Rabe as its chairman has indeed achieved extraordinary things, but he has let himself be lulled far too much by the Americans and is helping promote American interests and missionaries who are out to catch souls en gros.
Rabe realises as much himself, and is trying to get Japanese permission to go to Shanghai, but he is still actively trying to counter the bloody excesses of Japanese looters, which have unfortunately increased of late. To my mind, this should not concern us Germans, particularly since one can clearly see that the Chinese, once left to depend solely on the Japanese, immediately fraternize. And as for all these excesses, one hears only one side of it, after all.
「(3日のディナー・パーティーに続いて)2月5日にも、全大使館職員が(日本大使館に)茶会に呼ばれた。」「しばらく談笑したあと、天谷少将がスピーチをした。」「彼の論旨は、『南京に西洋人が一人もいなければ、もっとずっと物事は上手くいったはずだ。中国人は西洋人達のコートの裾に隠れながら、いざとなれば西洋人が助けてくれると踏んで、平気で日本人を侮った。揚州では、陥落数日後に全ては収まるところに収まった。商業活動にも殆ど支障はなかった。』ということだった。」
「要は『日本軍と中国人との問題に口を挟まないでくれ!』といいたかったのだろう。」
シャルフェンべルクは続ける。「国際委員会はずっと日本人の咽喉に刺さった棘だった。が、2月4日には大部分の中国人難民は帰宅するか、南京市内のどこかに別の棲み家を見つけた。(筆者注:日本軍の指導により、難民の安全区は1938年2月4日で解散。中国軍の清野作戦・拉夫(農夫を誘拐して兵隊にする)のせいで家を焼かれ、主人を失った女性には日本軍から見舞金が支給され、殆どの難民は帰宅した。そして貰った「良民証」を見せれば、郊外で作った農作物等を売りに、自由に南京城内へ入ることができた。)ラ―ベ氏は立派な仕事をしたと思う。だが、彼は寧ろ自ら進んでアメリカ人達にたらし込まれ、アメリカの国益と、大量に信徒を得ようとやっきになっている米宣教師達の利益を追求する手助けをしている。」
「ラ―ベ氏は自分でも気付いている。そして(筆者注:ドイツへ帰国の為に)上海への渡航許可を日本当局に申請しているが、一方で、最近また増加している日本軍の略奪・残虐行為への対応に、今尚積極的に取り組んでいる。正直に言って、我々ドイツ人が心配することではないと思う。何故なら、誰にでも明らかなことだが、中国人は日本人だけを頼らねばならないと見るや、一瞬にして日本人と親しくなってしまった。そして、これら全ての「残虐行為」についていえば、誰かさん(ラ―ベ氏)は結局のところ片方(中国人)の話だけを聞いているのだから。」
外国人宣教師達も国際委員会の宣伝活動を非難していた
シャルフェンべルクだけではない、同じ宣教師仲間の外国人達も国際委員会の「国民党宣伝活動」を批判していた。
The chief officer of the Embassy [of Japan] formally referred to me as “anti-Japanese” ……. Some of the foreign group here have continually besought me (and to a lesser extent Smythe and Mills)—Fitch also when he was here—to cease the thorough reporting and protesting and indirect publicity, lest all missionaries be excluded from Nanking. (Miner Searle Bates, letter to Timperly, March 3, 1938, Eyewitnesses to Massacre, p.31)
「日本大使館の主席官吏は、公に私を指して“反日”と呼びました。(中略)ここ南京にいる外国人グループのうちの何人かは、私に向かって(回数は少ないがスマイスやミルズにも)___そしてフィッチがいる時には彼にも___詳細な報告、抗議、間接的な宣伝を止めてくれ、と頻繁に嘆願するのです。(私達のせいで)全ての宣教師が南京から追い出されることを怖がっているのです。」
これはベイツが、ハロルド・ティンパーリーに宛てて書いた手紙である。ティンパーリーは、国民党が外国人を使った国際プロパガンダ工作の一環として出版させた『What War Means: Japanese Terror in China=戦争とは何か:中国における日本の暴虐』の著者で、ベイツとスマイスは上海を拠点とするティンパーリーに日本軍の情報、南京の状況を書き送って、英語による国際的な反日プロパガンダの発信に携わっていた。
ティンパーリーや、ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダ―ディンなどの、上海にいる反日外国人記者により、英語で発信される「日本の残虐行為」に騙された人々が「残虐非道の日本を懲らしめろ!」という「国際世論」を形成し、その「国際世論」に騙された、或いは騙されたふりをした人々が、「『南京虐殺』があったのは事実」などといって思考停止し、大元の「日本の残虐行為」という嘘を「(第3者である外国人による客観的な)虐殺の証拠だ」といって、人々にも思考停止を強要している。それが今、世界規模で起こっている事である。
だが、南京の真実は「中国人の言うことだけ」を聞いていてはわからないのだ。その中国人が本当の「良民」なのか、プロパガンダ工作員なのかを見極めなければ。とはいうものの、これまで挙げてきた3冊の本「The Good German of Nanking: The Diaries of John Rabe (Edited by Erwin Wickert, 1998)」「 Documents on the Rape of Nanking (Edited by Timothy Brook, 1999)」「Eyewitnesses to Massacre: American Missionaries Bear Witness to Japanese Atrocities in Nanjing (2001)」を精読するだけでも、南京攻略戦、南京陥落時とその後の様子は、映画を見るように鮮やかに見えてくる。肝心なのは、まず先入観を捨てることだ。
国際委員会は日本軍が安全区を砲撃しなかったことを感謝していた
Letter to Japanese Commander of Nanking
December 14, 1937
Honorable Sir,
We come to thank you for the fine way your artillery spared the Safety Zone and to establish contact with you for future plans for care of Chinese civilians in the Zone.
(p.1, Documents on the Rape of Nanking)
『南京安全区とう案』は、その最初の書簡、南京陥落翌日の、日本軍総司令官への手紙で、日本軍が南京攻略時に安全区を避けて砲撃を加えた「立派なやり方」と、そして、「中国人を殺したこと」ではなく「安全区にいる中国人非戦闘員の為の福祉についてこれからの計画を立てる為、[日本軍]との連絡の手段が確立されたこと」に感謝している。
これまで見てきたように、この後、国際委員会は444件もの(自分たちで目撃したのでない、検証もしていない)「事件」報告をしてゆくのだが、それと並行して、「安全区にいる(常に数の変わらない)20万人(後に25万人)の中国人」の為に食糧(主に米)等を国際委員会が販売するため日本軍に融通してくれるよう要請する手紙を、繰り返し出している。
難民の世話は、既に日本軍がきちんとやっていた。1938年1月1日には難民たちの代表である紅卍字会を主体とする「中国人自治会」が日本軍の協力で発足し、同2月4日には早くも「安全区」を解散できるまでに南京復興は進んでいた。それを横から「手柄」だけさらおうとしていたのが国際委員会であり、その上日本軍について「あらぬことないこと」出鱈目ばかりを言い募ってくる厚い面の皮には、如何に「紳士的な日本軍将校(複数の国際委員会の外国人による評)」でも、少なからぬ苛立ちを覚えたことであろう。
陥落後3カ月で日本人婦女子も南京に帰還。南京の人口、陥落1年後には40万人に
南京の人口は、日本軍が南京に到達する以前の11月28日に警察長官・王固磐が発表した「20万人」から,12月24日から始まった「良民証」の発行により「25万人」に増加し、日本軍による戦場整理・インフラ復旧で市外に避難していた人々も帰還し始める。1938年3月31日までには600人の女性・子供を含む日本人居留民も戻ってきた。そして、1938年11月には、「南京の人口40万人」と、反日宣伝でヒスイ勲章も貰った国民党顧問のベイツが書くまでになる。
At this time of writing [march 31, 1938], we are connected by train, bus and merchant boat with Shanghai and it is said that 600 Japanese civilians including women and children are now here. (Minnie Vautrin, Eyewitnesses to Massacre, p.345)
Nanking’s population has now come up to practically 400,000 (as compared with 250,000 in the Safety Zone period and just 1,000,000 before the war). Recent additions are largely refugees from the country, some of whom went there from the city in search of safety, but have now used or been deprived of all their money (and often of their clothes) in the precarious hinterland of guerrilas and punitive raids. (Miner Searle Bates, Eyewitnesses to Massacre, p.44)
ベイツは書く。「最近の帰還者は主に市外への避難者だ。(戦場となる)南京市から安全を求めて避難したにも拘らず、匪賊が過酷な取り立てを行う不安定な僻地で、お金を(そして多くの場合は着る物も)使い切ってしまったのだ。」
★中国の民衆が恐れていたのは、規律正しい日本軍でなく、寧ろ略奪する匪賊であり、戦時には撤退する中国兵の焦土作戦(三光作戦=全て焼き、奪い、殺し尽くす)であった。
★日本軍の占領は、各地で歓迎されていた。
★南京は、陥落数日後には既に、大通りに難民による「泥棒市」が立って賑やかに混雑していた。(お人好しの日本兵がそのお客だった)
★難民は安全区に集中して居住しており、その安全区は日本軍が警備しているので匪賊の跋扈する城外よりも、遙かに安全だった。
★安全区内での危険の全ては、難民に化けて敵対行動を続け、難民を襲ってその罪を日本軍になすりつけていた、便衣の敗残兵によるものであった。
★その敗残兵が陥落時に安全区に入り込むのを黙認・或いは積極的に匿って安全区に(或る者達はなんと「武器格納庫」のある建物に)入れたのは、国際委員会の外国人達だった。
★東京裁判は中国人と、この国際委員会の外国人の言うことをろくに検証もせず、反対尋問による疑問点は全て無視して「南京虐殺」はあったことにした。
だが、東京裁判は松井石根大将が「『南京虐殺』を命令した事、認可したこと、許可した事」を証明できなかった。
松井大将は、「訴因54:残虐行為の命令・認可または許可」では不起訴����り、「訴因55:戦時国際法の徹底遵守・違反行為の防止義務の無視」、つまり「部下の監督不行届き」の罪で死刑になったのである。(他の訴因1、27、29、31、32、35、36;それぞれ「共同謀議」「中華民国・アメリカ合衆国・英連邦・オランダ・ソ連邦(張鼓峰事件・ノモンハン事件)に対する戦争の開始」も全て不起訴)
日本人が東京裁判史観から抜けきれないのは、東京裁判の実相を知らないからに他ならない。
「『南京大虐殺』が『中虐殺』だろうが『小虐殺』だろうが、『あった』ことには変わりない。」「証拠は山ほどある」と言う人は、本稿で挙げた一次資料を精読した経験がないのだろう。あれば恥ずかしくてそんなことは言えないはずである。
これらの本の序文、或いは裏表紙の「お勧めの言葉」などには、決まって「この本の中に『南京虐殺』の真実がある!」と書いてあるのは、実は「『南京虐殺』などなかった」という真実でしかないのだが、おそらく学者もジャーナリストも反日活動家も、「『南京虐殺』があった」という本が出ている、というそのことを以て「『南京虐殺』の証拠」としているのに違いない。序文や裏表紙だけを読んで中身も読んだ気になっているのだろう。
「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍晋三首相と自民党政府にお願いしたい。
日本の大学の法学部には、必ず国際法(平時・戦時)学科をおき、「東京裁判」「GHQ占領政策」研究室を設ける。
法学部のある大学には必ずその図書館にR. John Pritchardの「 The Tokyo major war crimes trial: the transcripts of the court proceedings of the International Military Tribunal for the Far East」全124巻(速記録114巻とガイド10巻) を所蔵させる。
「国際宣伝戦」についても大学に学部が欲しいところだが、少なくとも「東京裁判」「GHQ占領政策」とともに講座を設け、社会人も勉強し直せる体制をつくる。
学会もメディアも東京裁判史観で飽和している現状のままでは、いつまでたっても、国民はなぜ外国人がひそかに日本人を軽蔑しているのかが解らない。「一億総前科者」であるという事実を知らない。
彼らの日本人蔑視の理由をまず知る。そして、理論武装して反論する。論破する。
そして、連合国の誤謬を指摘する。徹底討論する。それで初めて、先の大戦の、本当の反省ができる。
「南京大虐殺」の嘘で、日本国民と中国の民衆との本当の友好が、破壊されている。
日中友好は、日中戦争で、日本軍が、もう成し遂げていた。そのことに気づくのが、「戦後レジーム」からの、本当の脱却の第一歩なのだと思う。
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上海における天長節祝賀式場 1939年4月29日 『支那事変画報』昭和14年4月7日~5月3日
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kennak · 7 years
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鉄道の拡張は取引コストを低下させ、財の出荷量を増やし、経済的利益は建設費用を大きく上回った。
インドの鉄道相がジョン・ベイツ・クラーク賞学者から学べること - himaginaryの日記
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nozawaballet · 4 years
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ノーザンバレエのヴィクトリアDVDが発売
このブログでご紹介した、16日の深夜、NHK Bsで放送されたノーザン・バレエの『ヴィクトリア』見逃された方や録画予約を忘れた方に朗報です!
3月27日にDVDとブルーレイが発売されます。
バレエ『ヴィクトリア』 ノーザン・バレエ 振付・演出・台本:キャシー・マーストン 音楽:フィリップ・フィーニー
アビゲイル・プリュダム…ヴィクトリア ジョセフ・テイラー…アルバート ピッパ・ムーア…年老いたベアトリーチェ 芥実季…若きベアトリーチェ ムリンディ・クラシェ…ジョン・ブラウン ショーン・ベイツ…リコ フィリッポ・ディ・ヴィリオ…ベンジャミン・ディズレイリ 伊藤陸久…メルボン卿 ギャヴィン・マッケイグ…ウィリアム・グラッドストン&レオポルド ミンジュ・カン…ヴィクトワール マシュー・トプリス…コンロイ
ジョナサン・ロー(指揮) ノーザン・バレエ・シンフォニア
振付・演出・台本:キャシー・マ…
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cinemastylenews · 4 years
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『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』オマージュスチール解禁ニュース!
若き天才映画監督グザヴィエ・ドランが、衝撃のデビューから10年を経て、ハリウッドの豪華キャストとタッグを組んだ初めての英語作品『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』が3月13日(金)より劇場公開致します。
豪華キャストの最高峰の演技×圧倒的な映像センス ドラン自身が集大成と語る、“人生の真実”を描いた愛の物語
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2009年。19歳の才能に世界は一瞬で魂を奪われたー。その後『Mommy/マミー』でカンヌ国際映画祭審査委員賞を受賞し、前作『たかが世界の終わり』でカンヌ国際映画祭グランプリに輝いたグザヴィエ・ドラン。着想から10年の時を経て、満を持して完成した本作は、幼き日のドラン少年が“憧れのスター”レオナルド・ディカプリオに宛てた手紙から生まれた物語です。ジョンには、TVシリーズ「ゲーム・オブ・スローンズ」のキット・ハリントン。ジョンの心の支えとなっていく少年ルパートに、『ルーム』で絶賛された天才子役ジェイコブ・トレンブイ。脇を固めるのはナタリー・ポートマン、スーザン・サランドン、キャシー・ベイツら豪華オスカー女優たち。さらにアデル、ザ・ヴァーヴなどの音楽、ほとばしる感��に揺れる映像で、美しきスターの光と影に迫ります。デビューから一貫して描き続けてきた「母と息子」というテーマにおける集大成だと監督自身が語る最新作が、遂に幕を上げます。
この度、『マイ・プライベート・アイダホ』にオマージュを捧げたシーンを切り取った場面写真が解禁。
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バイクに跨った金髪&黒髪の青年2人の姿は『マイ・プライベート・アイダホ』のリヴァー・フェニックスとキアヌ・リーブスを彷彿とさせます。自身のベストムービーの1つとしてこの作品を挙げているドラン、実は以前にもこの作品にオマージュを捧げたカットを撮影したことが。それは『胸騒ぎの恋人』での1シーン。着想元は焚き火を囲みながら、リヴァー・フェニックスがキアヌ・リーブスに愛の告白をする場面です。『胸騒ぎの恋人』では、ドランが演じる主人公が思いを寄せるストレートの男の子に気持ちを伝える時に、全く同じ構図で撮られ、ほぼ一緒のセルフが使われています。また『マイマザー』では主人公の部屋にリヴァー・フェニックスのポスターが貼られていたりと、作品の随所にドランの愛が散りばめられています。このように、自分自身が同性愛者というセクシュアリティを持つドランにとって、美しき男娼の切ない恋愛模様は「ドラン映画」に色濃く反映されていることが分かります。新作『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』で『マイ・プライベート・アイダホ』がどのような形で表現されているのか、是非スクリーンでご確認を・・・!
【ストーリー】 美しきスターが、死んだ。それから10年。当時11歳だった少年との”秘密の文通”により、謎に包まれた死の真相が明かされる。 2006年、ニューヨーク。人気俳優のジョン・F・ドノヴァン(キット・ハリントン)が29歳の若さでこの世を去った。自殺か事故か、あるいは事件か。謎の真相の鍵を握るのは、11歳の少年ルパート・ターナー(ジェイコブ・トレンブイ)だった。それから10年の歳月が過ぎ、ジョンとルパートがかつて交わした“秘密の文通”が一冊の本として出版される。今では注目の新進俳優となったルパートが、100通以上の手紙の公開に踏み切ったのだ。さらにルパートは、著名なジャーナリストの取材を受け、すべてを明かすと宣言するのだがー。
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【作品情報】 『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』
■監督:グザヴィエ・ドラン ■脚本:グザヴィエ・ドラン、ジェイコブ・ティアニー ■出演:キット・ハリントン、ナタリー・ポートマン、スーザン・サランドン、 ジェイコブ・トレンブレイ、キャシー・ベイ ■原題:The Death and Life of John F. Donovan ■提供・配給:ファントム・フィルム、松竹
©2018THE DEATH AND LIFE OF JOHN F. DONOVAN INC., UK DONOVAN LTD
情報提供:ファントム・フィルム
3月13日(金)より、新宿ピカデリーほか全国ロードショー!
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diaryofstrangerinp · 6 years
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シビル・アクション
映画「シビル・アクション」の感想。金満弁護士のトラボルタが次第に正義に目覚めていくストーリー。
映画「シビル・アクション」
1998年アメリカ映画、監督・脚本:スティーヴン・ザイリアン、原作:ジョナサン・ハー、出演:ジョン・トラボルタ、ロバート・デュヴァル、トニー・シャルーブ、ウィリアム・H・メイシー、キャシー・ベイツ
映画「シビル・アクション」のあらすじ
ジャン・シュリクマンは傷害法専門の弁護士。小規模の弁護士事務所ながら、数々の訴訟を勝ち抜いてきた。事務所に環境汚染関連の訴訟が持ち込まれるが、旨味がないので断るために現地に赴く。しかし、訴訟相手が大企業の関連会社とわかり、引き受けることにする。相手側は示談に持ち込もうとするが、それを断り裁判となる。裁判が長引き、費用がかさみ、次第に事務所は困窮していく。
(more…)
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2月27日
今日は友人とSHERLOCKシーズン3ep1ep2を見た。 シャーロックがちゃんとThank Youとsorryが言えるようになってる!!成長だ!!と盛り上がった 笑 ジョンやマイ兄、警部、モリー、ハドソンさんがシャーロックのことを心配したりサポートしたりしてるところを見て、愛されてんじゃんお前と思ったし友達できてよかったねとも思った、お兄ちゃんにはいないもんね…。警部好きです。あとはジョン!大好きだ!!友達とジョンの台詞を聞くたびジョォォォンと唸れて楽しかった。結婚式がウルトラハッピーに終わってちょっと泣きそうになった。最後3人で3つの兆候の話すシーンのワトソン夫婦めっちゃ可愛いし、シャーロックが幸せな冗談を言えるようになってて感動した。シーズン4がDVD化するまでは幸せな気分でいたいのでep3は見ないでおこうと思います。 夜はダウントンアビーのDVDが届いたのでシーズン2の最終回を見た。ほんとマシューといるときのメアリーは可愛い。伝説のプロポーズを見たくて借りたわけだけど借りてよかった。ロマンチックの極みだった。このまま二人で幸せに暮らして欲しかったなぁ😢 そのあと幸せなベイツ夫妻を見たくなって録画してあるシーズン4、5を夜中まで見てしまった。ことごとく不幸に見舞われる二人だけど常にお互いへの愛に溢れてて脚本に怒りたくなってしまう。アンナ、すっごく良い人なのに…。黒い服を着てるときのアンナが綺麗すぎてモテるんじゃないかって不安になる 笑 シーズン5の最終回でベイツが帰ってきて後ろに現れた時のアンナすごく可愛いし二人でパーティー脱け出すの青春チックで可愛い!笑 まぁ感想はもっとたくさんあるんだけど一番好きなキャラクターはローズです。 #日記 #SHERLOCK #ダウントンアビー
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xf-2 · 5 years
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1927年に権力者になった蒋介石は宣教師たちを蔑んでいた。
 しかし、ある時から自身が洗礼を受け、宣教師たちを擁護するようになる。それは自身の保身のための策略であった。
 ドイツの将軍を軍事顧問に迎えて万全の防御態勢を固めた上海戦で敗北すると、「宣伝戦」に切り替える戦略を採用する。孫子の兵法で称揚されているもので、自国の立場を有利にするプロパガンダ作戦である。
 蒋介石はそのための組織を1937年11月に整えるため、国民党中央党部と国民政府軍事委員会を改組して中央宣伝部を組織する。
 これは、上海戦で敗北し、南京への追撃戦が展開されている時であり、軍事力に代えて、「タイプライターで闘う」戦術への転換である。
 宣伝部副部長には米国の大学を卒業し、新聞編集にも長じた董顕光を当てる。留学以前にはわずかな期間ながら、蒋介石の英語教師をしたこともあり、戦後は台湾の駐日大使となる。
 また、宣伝部の下に対外宣伝を専らにする国際宣伝処を設け、その処長には大学教授で文学者の曾虚白をあてる。
 国際宣伝処の本部は重慶(南京後の国民政府の首都)に置くが、上海と香港に支部を開設、昆明や米英加豪墨印星(シンガポール)の首都か大都市に事務所を設ける。
 特に米国ではワシントンのほかにニューヨークとシカゴにも事務所を構えた(北村稔著『「南京事件」の探求』、以下同)。
 国際宣伝処は蒋介石に直属して各地の党機関と政府機関を管轄して活動する。本部、支部、事務所がそれぞれに刊行物を出し、通信社も設立する。
 宣伝に信憑性をもたせるために処長が採用した方策は、「中国人は顔を出さずに手当てを支払うなどの方法で、『我が抗戦の真相と政策を理解する国際友人に我々の代言人となってもらう』という曲線的手法」である。
 この国際友人として働く中心的な人物が、オーストラリア人の元ロイター通信記者で、当時は英国のマンチェスター・ガーディアン紙中国特派員のティンパーリー(中国名・田伯烈)である。
蒋介石の国民党・国民政府の顧問になり、「百人斬り競争」の武勇伝や「怒濤のごとく南京城内に殺到した」などと日本の新聞が報じると、これらを取り込み「日本軍の悪行」に歪めて『WHAT WAR MEANS』(戦争とは何か)をロンドンで上梓する。
 中国語版の『日軍暴行紀実』が同時並行して出る手際の良さは宣伝網が有効に機能していたことを示している。
 また、ティンパーリーからの話を受けて、金陵大学教授で安全地帯国際委員会委員でもあったスマイス(中国名・史邁士)が南京戦で日本軍が与えたとする被害状��『南京戦禍写実』(通称「スマイス報告」)を著述する。
 いずれも1940年のことで、「両書は一躍有名になった」というが、蒋介石政権の威信をかけた宣伝戦であり、当然であろう。
蒋介石の米国世論操縦策
 日中戦争時の1939年4月から12月まで重慶の国民党国際宣伝処で働き、のちにピュリッツアー賞も受賞するセオドア・ホワイト(中国名・白修徳)は回想録『歴史の探求』で、蒋介石の米世論操縦について明かしている。
 米国への接近は米国で教育を受けた蒋介石夫人の宋美齢が、夫を説き伏せてメソジストに改宗させたことから始まるという。
 そして主要な部長(閣僚)、たとえば財務部長(オバーリン大・エール大卒)、外交部長(エール大卒)、教育部長(ピッツバーグ大卒)、情報部長(ミズーリ新聞学校卒)は米国の大学卒で、政府内の米大学出身者を数え上げたらきりがなかったという。
 そうした中でも、各国に派遣された大使の面々は、圧倒的に米国の名門大学卒業生で、ワシントンにはコーネル大・コロンビア大卒、ロンドンにはペンシルバニア大卒、そしてパリにはコロンビア大で3つの学位を取得した顧維鈞を任命していた。
 顧維鈞は国際聯盟で日本非難の演説を行った人物で、息子もハーバード大に在籍しているのを自慢にしていたという。
 また、中国銀行頭取(ハーバード大卒)、司法院長(コロンビア大・カリフォルニア大卒)、国家保健監督官、海外貿易委員会、塩務署など中央機関のトップも多くが米国の大学出身者が占めていた。
 ハーバード大学を1938年秋に最高学位で卒業したホワイトは、世界旅行の給費を受け、ロンドンを皮切りに、パリからスーダンやパレスチナ、インド、シンガポールなどを旅して、39年初めの数カ月間を上海で過ごす。
上海を根城に北京にも出かけ、また日本軍のスポークスマンに取り入り、満州も旅行する。
 英米人などに牛耳られた上海では工場労働者の少女たちが日に何人もごみの山に捨てられている状況も見てショックを受ける。
 いままでに見たこともない不条理が記者になる決意をさせ、4月から重慶の蒋介石政権の宣伝員に繋がる。
 自身のハーバード大の学位はボストンよりも中国でずっと意味があり、「中国ハーバード・クラブを結成したが、会員にはジョン・F・ケネディ(大統領)がワシントンでハーバード・クラブを作ってもこうはなるまいと思えるほど、蒋介石政府高官の割合は大きかった」と述懐している。
 米国の学歴を持つ中国高官が多かったのは、ホワイトには「好都合な人脈であったが、中国国民にとっては大いなる悲劇であった」と冷静である。
 立派な英語を話す政府高官たちではあったが、「自国の民衆とは異質の存在で、民衆に対する理解を―重慶という古都についての理解さえも―欠いている」ので、「中国で何が起きているのか」さえ知らないと手厳しい。
 ホワイトは蒋介石に最初は尊敬と称賛の念をもっていたが、「次第に憐れみを感じ始め、最後は軽蔑するようになった」という。
 それでも「私はアメリカの世論を操るために雇われたのだ。日本に敵対するアメリカの支援は、政府が生存を賭ける唯一の希望だった。アメリカの言論を動かすことは決定的(に)必要なのだ」と述べる。
 当時のホワイトは、軍国主義日本に対する中国政府は正義という認識に立っており、「アメリカの言論界に対して嘘をつくこと、騙すこと、中国と合衆国は共に日本に対抗していくのだということをアメリカに納得させるためなら、どんなことをしてもいい、それは必要なことだと考えられていた」と明言している。
報道の真実性
 ホワイトは国際宣伝処で「自身が脚色した」戦時報道の実例を2つ挙げている。
 一つ���、日本軍に占領されていた浙江省のある所の劇場で、日本軍兵士が観劇中に蔡黄華(ツアイ・フアン・フー)という中国人女性が手榴弾を投げ込んで数人を殺し、無事に逃げおおせたという中国語の記事を目にしたことである。
 ホワイトは文字から忠実に「ミス・ゴールデン・フラワー・ツアイ」とし、「ゲリラの首領、中国抵抗戦士団の巴御前」と英語に翻訳し、少しだけ脚色したというのだ。
 すると、ニューヨーク・タイムズ特派員のダ―ディン記者を除き、通信員たちは飛びつき、各通信員の本社からは写真を要求してきたという。
 そこで情報部の同僚が、腰に二挺拳銃を下げた若い中国人女性の写真を提供すると、彼女は「二挺拳銃のゴールデン・フラワー嬢」となる。
 通信員たちはますます情報を欲しがり、情報部は気前よく彼らの要求に応じ、数カ月のうちに「ゴールデン・フラワー」ツアイは、蒋介石夫人に次ぐ抵抗運動のヒロインになったというのである。
 リライトマンの手にかかった彼女の偉業は、米国で伝説となり、ホワイトがタイム誌の極東部長になっていた3年後には、タイム誌で取り上げたらどうかとの提案が持ち上がり、作り話の張本人であったことを白状しなければならなくなったというのである。
 もう一つは難民と彼らの苦難についての記事で、1937年から38年の漢口陥落までの14か月間に、国民救済委員会は難民キャンプに2500万食配ったというものである。
 ところが「どうしてか間違って」、記事では「統計によると中国が抵抗を始めた最初の数年間に日本軍侵略者の手を逃れてきた人々の数は、2500万人にのぼる」となってしまったという。
 数字は海外に伝送され、新聞社の資料に残り、雑誌の記事に使われ、日中戦争の学術的数値となって何度も現われ、「すでに歴史の一部となってしまった」と述べる。
 実際は「二百万あるいは五百万だったかもしれない」が、「二千五百万という数字がほとんど全ての歴史書にしっかり残っている」ので、「日本軍による混乱を(正しくは)誰一人知ることはないだろうと悟った」と自省している。
 誰も否定できない「嘘」の独り歩きは、「南京大虐殺」の構図を想起させる。
中国における米国人宣教師たち
 1931年に上海副領事として赴任し、第1次上海事変を体験した米外交官のラルフ・タウンゼントは、その後福建省副領事となるが33年に帰国すると外交官を辞する。
 そして、中国の真実が外部世界に伝わっていないとして著述したのが『暗黒大陸 中国の真実』である。
 中国に住んでいる外国人で中国の国情を把握しているのは宣教師、民間事業家、そして領事館員や外交官等の政府役人であるが、宣教師は事実が知られると援助が打ち切られる危惧を持ち、事業家は不買運動を恐れ、政府役人は外交辞令的なことしか言えないわけで、一種の「箝口令ともいうべきものが敷かれる」結果だという。
 3年の外交官生活でしかなかったが、新聞記者と大学教授をそれぞれ3年づつ経ての外交官であり、他方で書籍を通しての中国しか知らないで赴任したことや好奇心が旺盛であったことなどから、「中国の真実」が全く伝わっていないことを痛感し、その現実を宣教師と事業家と政府役人の在り様に見つけたのだ。
 全10章のうち大部は中国人と中国の実情、そして阿片に費やし、日本(人)と中国の関係などもあるが、中でも宣教師と布教については2つの章を割いて実例を挙げて「糾弾」ともいえる記述をしている。
 事業家や政府役人は概ね都市部に所在するが、宣教師は啓蒙などの使命から、辺鄙なところに所在し、危険なところなどにも出かけたりして、中国の実体を事業家や政府役人より詳しく知っているからである。
 他方で、米国では富める人も貧乏な人も分に応じた寄付をすすんで行うのは、それが有効に使われているという認識に立っているからであるが、中国での布教は不毛の歴史であったし、いま(当時)の布教活動の実態は国民の期待に沿うようなものではないとバッサリ切り捨てる。
 カトリックやプロテスタントを問わず、ミッション・スクールには米国から多大の金が投入されているが、聖職者になるのはほんのわずかでしかない。宣教師が中国人の孤児を育てても、成人して泥棒の親玉になって育てた宣教師を狙う話なども書かれている。
 宣教師の敷地を貸したら、ついには住みついて、返却を要求しても逆に損害賠償を請求される状況であるという。
 こうした事例をいくつも挙げ、他にも理解できないようなこと、理不尽なことが数え切れないほどあるが、ともかくこうした実態は何一つ本国、なかでも支援者たちに全然伝わっていないし、事実は全く逆のことになっているという。
 タウンゼントは上海や福建省で見た宣教師を主体に論述しているが、南京の宣教師たちも日本軍を悪者にする嘘を捏造してでも報告するのが中国(蒋介石政権)を助ける道という意識が通底していたと思われる。
 だからこそ、南京の宣教師たちは、日本軍兵士が行ったとする掠奪、強姦、放火(これらも中国敗残兵によるものが多いとみられるが)などを大虐殺に仕立てる蒋介石のプロパガンダ作戦に進んで協力したのだ。
宣教師による米国内の宣伝行脚
 国民党・政府の意を受けて大活躍するのはティンパーリーである。
 日本の罪行を告発する『WHAT WAR MEANS』を著述する前から、国民党外交の主目的である米国への工作を推進する。
 南京安全区国際委員会委員で国際赤十字委員会委員長でもあったアメリカ人のジョン・マギー牧師が撮影した金陵大学病院で治療中の民間人負傷者を示す16ミリ・フィルムが宣伝に活躍されることになる。
 ティンパーリーは米国人のジョージ・フィッチが持参したこのフィルムを見て、一計を案じる。フィッチはYMCA理事で、教会の関係者として、またロータリー・クラブの会員など交友範囲が絶大なことから、全米の宣伝マンにする発想である。
 「ハル(国務長官)からはきっと会見を申し込まれるだろうし、もしかすると、大統領(ルーズヴェルト)とも会うようなことになるかもしれません。彼のワシントン行きは、将来アメリカの中国政策にとって重大な意義をもつようになるでしょう」(北村著)とまで述べている。
 実際にマギーのフィルムをもって渡米したフィッチがたどった道を眺めてみよう。
 1938年1月19日、日本軍の許可を得て、軍用列車で日本兵とともに南京から上海へ行く。
 このとき、虐殺場面を撮ったとされるネガ・フィルム、8リール(ほとんどは大学病院で撮影したもの)をオーバーの裏地に縫い込んでいたため、「少し気を遣った」という。
 上海では直ちに複写するためにコダックの営業所に行き、4セットを作成する。
 フィッチは約5週間滞留しており、ティンパーリーに会い、米国での面会者などの根回しをしたに違いないが、ティンパーリーのことも、滞在間に何をしたかについても一切言及していないとされる。
 2月25日に上海を立ち、香港を経て広州からハワイに飛ぶ。ホノルルでは「ある中国人グループと食事をし」、次のサンフランシスコでは中国総領事に会い、「中国人の友人」も交えてチャイナタウンで会食する。
 さらに「ロサンジェルスなどで持参のフィルムを交えた2、3の講演会を行った」という。
4月18日、ワシントン着。国務長官や大統領には会えなかったが、国民政府の米国大使・王正廷に会い、また旧知のホーンベック国務省次官(彼は反日親中の中心人物)の斡旋で中国に関係の深い米国人の要人たちに面会し、下院の外交委員会、戦時情報局、新聞記者団に件のフィルムを見せている。
 その後、ニューヨークに赴き、6月に中西部を経由して7月に再び西海岸に戻り、サンフランシスコで講演する。
 このとき、会場にいた唯一の日本人から「脅迫に近い抗議を受けた」とされる。北村氏は、この頃に日本側もフィッチの反日的言動をマークし始めていたとみる。
 フィッチはこのあと再びニューヨークに戻るが、やがて体調を崩して入院。11月10日に西海岸のロングビーチから中国への帰途に就く。
 「フィッチのアメリカでの活動は文字通りの大旅行であり、多額の資金と周到な計画を必要としていた。これら全てが、国民党国際宣伝処によりアレンジされたことは容易に想像がつく」と北村教授は述べる。
当時の日本側の見方
 『スマイス報告』は、昭和15年、興亜院(1938年に設置され、42年に大東亜省に吸収)に勤務していた吉田三郎氏が上海に調査に行き、同所でアメリカ長老教会のミリカン夫人を知り、同夫人から紹介された金陵大学のベイツ教授から説明を受けた時に入手する。北村教授の前掲書中の「『スマイス報告』の徹底的検証」から、当時の日本がどのように見ていたかが分かる。
 吉田氏は「こういうものを世界中に配って基金を集めているのです。その中には南京地方に於ける農産物の調査、南京地方の人口調査等、いわゆる科学的調査を標榜しつつ、そのことによって日本が飛んでもないひどいことをやっているような印象を世界中に統計を通して与えている。しかしよく見ると科学的な研究という面を被った排日宣伝文書であります」と報告を見抜く。
 その理由として、「南京地方における損害の統計を作る場合に、(中略)火災の場合についていえば、支那軍が逃げる時に放火したために焼けたものまで皆その中に一緒に入れてある。・・・これで見ると皆日本軍がやったことのように見えるのです。斯様に巧妙なる科学戦争というものが世界中に、この機関を通してまかれている事実を見た」というように、的確に指摘している。
 また、ベイツ教授は「今度の戦争による被害が支那全体でどの位あるかということを書いたものですが、それを是非読んで貰う必要ある」として「WHAT WAR MEANS」を紹介する。吉田氏は上海の書店で入手する。
殺人競争の章を見て、「材料は日本の新聞から取ってありました。何々少尉武勇伝という記事がそのまま載せてあったのであります。そういうように新聞記者が日本の文献その他日本側に不利な情報を編集してできているのがこの本でありまして、かような排日的な宣伝文書は外国人の間に多く読まれている」として危惧する。
 ミリカン夫人にこのことを話すと、「ぎょっとして『あれはあまりよい本ではない。あの書物は熱を以て書かれているのだから、歴史家があれをそのまま談じては困る。あなた方は歴史家であるから、もっと客観的にものをみなければならない。・・・ああいうものが全部であると思われては困る』と言って居りました」と、外国人でも疑問視していたことを指摘している。
 「その書物を見ますと、日本の官憲の或る部分はこの書物を出すことを支持していると書いてある。・・・恐らくそれは嘘だろうと思います。この書物による利益は皆赤十字社に寄贈すると書いてある。なかなか上手に出来ています。かような種類の本がどんどん売れているのですから全く困ったことです。日本の左翼の人がそれを訳すことを許可してくれといって盛んにミリカンのところへ来る」と聞いたと述べる。
おわりに
 当時の日本人の方が賢明ではなかっただろうか。世間の信用をバックに、戦争に伴う「通常の犯罪」(もちろんないに越したことはない)を「大虐殺」に衣替えさせるのに米国人宣教師たちが大いに関係していたのだ。
 すべては全世界に巧妙に張り巡らせていた国際宣伝処の仕業であったことが今や明確になってきたのではないだろうか。
 日本軍も犯罪は犯した。しかし、それは中国が主張するような人道に悖る何十万人の市民を虐殺するなどではなかった。
 中国は依然として「南京大虐殺」を主張し、拡大流布さえしようとしているが、論点のすり替えや証拠資料としていたものの撤去など、綻びも見えてきた。
 日本は決然と否定することが大切ではないだろうか。
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team-ginga · 5 years
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映画『フライド・グリーン・トマト』
 Wowowオンデマンドでジョン・アヴネット監督、キャシー・ベイツ、ジェシカ・タンディ、メアリー=スチュワート・マスターソン、メアリー=ルイーズ・パーカー出演の映画『フライド・グリーン・トマト』(1991)を見ました。
 タイトルだけは随分前から知っているのですが、見る機会のなかった映画です。
 驚きました。これは素晴らしい映画です。
 夫の親戚かなにかを見舞いにある病院を夫と一緒に訪れたエブリン(キャシー・ベイツ)は、その病院に入院している老婆ニニー(ジェシカ・タンディ)と知り合い、彼女からある物語を聞かされます。翌週も病院を訪れたエブリンはまた二ニーから物語の続きを聞き、それに魅せられた彼女は以後、毎週ニニーの物語を聞くため病院に通うことになります。
 ニニーの物語は第一次大戦と第二次大戦の間の時期に生きた二人の女性イジー(メアリー=スチュワート・マスターソン)とルース(メアリー=ルイーズ・パーカー)の物語です。イジーは謹厳実直な家族に反抗する女性で、当時としては珍しい独立心旺盛な女性で、ルースはそんなイジーに惹かれていきます。
 ルースは親が決めた相手と結婚しますが、夫のフランクはとんでもないDV男であることが発覚します。イジーは妊娠中のルースを助け出すべく行動を起こし、二人は鉄道のそばに「ウィッスル・ストップ・カフェ」という食堂を開きます(フライド・グリーン・トマト、つまり青いトマトのフライはその食堂で出している料理の一つです)。
 物語の語り手ニニーは最初に、イジーはフランク殺害の容疑で逮捕されるということを言います。これはなかなか巧みな手法で、観客はどのような経緯でそういうことになるのか、逮捕されたイジーはどうなるのか、彼女は本当にフランクを殺すのかなど、いろいろ考えながら二ニーの物語を聞く(実際には映像で見せられるので「見る」というべきかもしれません)ことになります。
 一方、物語の聞き手のエブリンは専業主婦なのですが、夫は家に帰ってくると彼女に目もくれず、すぐにテレビの前に座り込み野球に熱中します。エブリンは結婚生活を救うためにいろいろな講習会に通っているのですが、うまくいきません。しかし、病院に通ってニニーから二人の女性の物語を聞くうち、エブリンは変わっていきます。
 エブリンがヒッピーのような服を着て、それまでのようにチョコバーやドーナツを食べるのをやめて、野菜スティックを持ち歩いているところは笑いましたが、どうしてどうして、これはギャグでは終わりません。
 この映画は一つの物語がそれを聞く人間の人生をいかに変えていくかの物語です。私は常日頃、人間は物語を必要とする存在だと思っているので痺れました。
 役者で私が特に感心したのはキャシー・ベイツです。太ったおばさんと言ってしまえばそれまでなのですが、そのキュートなこと! 私はもともとキャシー・ベイツが好きで、非常にチャーミングな女優だと思っていましたから、とても嬉しく思いました。
 キャシー・ベイツはこの映画の前の年、例のあの『ミザリー』に主演してアカデミー主演女優賞をとっていますが、こちらの映画の方が断然優れていますし、キャシー・ベイツも断然魅力的です。なお、この映画の終わりの方でエブリンは「私はもうホラー映画の怪物じゃないわ」と言うのですが、これは明らかに『ミザリー』を意識したパロディ(?)と言えるでしょう。
 物語内物語を演じる二人の女優も素晴らしいと思いました。10代の少女から始めて、最終的に20代後半か30代前半までを演じるのですが、場面に応じてきちんと歳をとっているところが素晴らしいと思いました。
 一時期流行った「女性映画」に分類される映画なのかもしれませんが、男性登場人物ーーイジーの召使いの黒人ビッグ・ジョージも、若き日のイジーに思いを寄せていたけれど振られてしまい、別の女性と結婚した保安官も、イジーを子どもの頃から知っていて、イジーがフランク殺しの容疑で裁判にかけられたとき偽証をしてイジーをかばう牧師(証言台に立つ時、聖書に手を置いて真実のみを述べることを誓わねばならないのですが、この牧師は聖書の代わりにメルヴィルの『白鯨』を持参し、それに手を置いて宣誓します。それならば神に嘘をついたことにならないという理屈です)もーーなかなか魅力的な人物です。
 いいなあ、これ。
 ただ、ラストだけはちょっと気に入りませんでした。最終的にイジーの物語は実話であり、イジーと二ニーは同一人物であること、つまりニニーは自分自身の物語を語っていたことがかなり明確に示されるのですが、それは要らなかったと思います。
 最初はフィクションだと思って聞いていたけれど、「え? ひょっとするとこのおばあさんがイジーなのでは?」という疑いが観客の頭に浮かぶ……というところで留めておく方が「粋」だったんじゃないでしょうか。
 それに、もしあの物語が実話だとすれば、フランク殺しの真相というか、死体処理のやり方がちょっとなあと思います(思わせぶりな書き方ですみません。ネタバレを避けようと思うあまり、こういう書き方になりました)。
 とはいえ素晴らしい映画であることに変わりはありません。
 「物語」とその物語の外側にある「現実」を二重構造で見せるという点ではティム・バートン監督の『ビッグ・フィッシュ』(2003)に少し似てるかなとも思いました。どちらも人間はなぜ物語を必要とするかという問いに答えてくれる名作だと思います。
 是非ご覧ください。
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 演劇ユニット・チーム銀河×モンゴルズシアターカンパニーは毎月第4日曜の14時に大阪・四ツ橋のイサオビル2階ホールで新作『リハーサル』をロングラン上演中です。
 次回公演は4月28日(日曜)です。
 また、それと並行して『改訂版・オズの部屋探し』も毎月第3土曜の18時半に大阪・緑橋の杉浦実業株式会社2階会議室でロングラン上演中。
 次回4月20日(土曜)がいよいよその千秋楽。フランス語字幕付きで上演いたします。
 みなさまのご予約・ご来場をお待ちしております。
 詳しくはこのサイトの「次回公演」のページをご覧ください。
『リハーサル』http://toura-h.wixsite.com/team-ginga/blank-10
『改訂版・オズの部屋探し』http://toura-h.wixsite.com/team-ginga/jikai
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