Tumgik
#ハーバード大学北京語語学研修先を台湾に
ari0921 · 3 years
Text
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)10月13日(水曜日)
通巻第7081号  
ハーバード大学、中国語海外研修プログラムの大学提携先を
  北京語言大学から台湾の国立台湾大学へ変更
**************************
 ハーバード大学の海外語学研修プログラム責任者のジェニファー・リュウは「22年度からの中国語教育の海外研修提携先を、これまでの北京語言大学から、台湾の国立台湾大学に変更する」と発表した(『サウスチャイナ・モーニングポスト』、2021年10月12日)。
 変更理由は「武漢肺炎ならびにカリキュラムの問題」とした。同校の海外提携先の学校では問題の多い「孔子学院」とセットになっているケースもあり、それが問題だとは言及しなかった。
 北京語言大学は1962年に、その前身となる海外留学生高等予備校として発足した。1965年に周恩来が梃子入れし、北京語言大学と改称。海外からの留学生を受け入れを本格化させる予定だったが、折からの文革により七年間休校を余儀なくされた。
 この北京語現大学は、中国の改革開放の時代、海外からの語学研修生の急増にともない、1980年代に本格化、2015年には日本にも進出し、東京池袋に北京語言大学東京校も開設された。
 一方、新しく受け入れるかたちになる国立台湾大学は、昔の台湾帝国大学で1928年に日本が設立した(当時の台湾は日本領)。
1945年に改組され、広いキャンパスに学生数32000名というマンモス、日本からの語学研修プログラムにも人気があり、中国語を学ぶには北京より台湾で、というムードが過去二十年ほどに急拡大していた。
5 notes · View notes
q-food · 6 years
Text
板垣竜太「フィールドワークを歴史化する ヴィンセント・ブラントの韓国村落調査(一九 六六年)をめぐって」
板垣竜太「フィールドワークを歴史化する ヴィンセント・ブラントの韓国村落調査(一九      六六年)をめぐって」 一 はじめに-本稿の背景と目的[p110-113] 米国の人類学者 ヴィンセント・ブラント(1924〜)『韓国の村落-農地と海のあいだ』 :1966年忠清南道の西海岸にある石浦(仮名)という村落において実施したフィールドワ  ークに基づく民族誌 ⇒本稿の目的は、彼によるフィールドワークがいかなる社会的背景のもとで、どのような  関係性のなかで、どのような手法で行われ、そのフィールド経験のどの部分が民族誌と  なっていったのか、その歴史的文脈ないし社会的位相の一端を明らかにすること  →フィールドワークの歴史化、あるいは社会史的資料としての批判的再活用
二 民族誌以前と以後-ブラント略歴[p114-119] ・1949年外交官試験に合格し、米国大使館のストラスブール支所に派遣される。 ・朝鮮戦争中だった1952年、韓国の臨時首都・釜山に派遣される。 * 食糧不足の実態調査と救援穀物の調達先の視察のため、威鏡北道出身の通訳とともに、ジープに乗って韓国の農村を回る。その過程で道ゆく韓国人を車に乗せ、タバコをあげてはいろいろインタビューもする。 ・1953年にソウルへ、1954年にはワシントンでの台湾デスクの部署で働き、1955年に東    京の米国大使館へ転勤。 ・1960年、官僚仕事を退屈に感じており、1年の休暇がほしいと大使館にかけあったもの  の、それが認められないことがわかるや辞職を願い出る。 ・1960年10月より妻(東京滞在時に釜山で出会い米国留学から帰ってきた鄭喜環と結婚) や友人らとともに大西洋横断のヨット旅行を敢行。 ・1961年にハーバード大学院に入学し、東アジア地域研究と社会人類学を専攻する。 ・1965年、コースワークを終え、韓国に渡り語学研修を受けたあと、1966年3月より石  浦へ移り住む。 ・1968年に博士論文提出 ・以後、ソウルの板子村(スラムないしバラック街)、民主化運動などを研究する。 *「私は米国政府のために冷戦の戦士からスタートして、最後は光州のカトリックによっ   てラディカルにされてしまった。」
三 民族誌の位置づけ 四 フィールドワークを歴史化する ・フィールドワークの方法 -インフォーマント  ・李先生:両班層に属し、村で唯一の国民学校教諭   *ブラントは、彼のサラン房(客間兼書斎)に住む。  ・金泰模:10代の若者で学歴としては、書堂と国民学校だけだったが「李先生」も認め       る人物 ⇒「李先生」は博識だが調和と協力の理想化された像で石浦を語りがちなため、争いごと・  泥棒・姦通などについてはよいインフォーマントではなく、逆に泰模はシステムの不公  正さ、貧困や土地なしの人々への差別を感じており、批判的視点から起きた出来事につ  いて説明をしてくれ、またスキャンダルについてもよく話してくれた。[p131]
-参与観察の導き手としての米国の文化的ヘゲモニー  ・自宅のサラン房でインスタントコーヒーやウィスキーを振舞いはじめると、村に喫茶   店がなかったこともあり、無料の飲み物を求めていろんな人がやってくることになっ   た。  ・大量の薬入り医療キッドを持ち込み、村人にしばしば治療行為を施す。 ⇒米国の文化的ヘゲモニーは、現地調査のなかでも作動していた。[p132-133]
-質問紙調査から垣間見える韓国60年代農村の社会性  ・博論に際してハードなデータも要求されていたため、収入、財産、負債、乳幼児死亡   率、相続、再婚・妾、養子などの個人情報を調べる調査票を配ったが、実際に得た調   査データをクロスチェックしてみたところ、多くの情報がでたらめだということがわ   かった。 →「李先生」の解説 古くからつらい経験をしてきた教訓から、村人は知らない人に対して口を閉ざすようになっている。とりわけ金銭や政治に関わることについてはそうだ。何千年ものあいだ韓国の農民は徴税官や警察その他の寄生官吏に抑圧され搾取されてきたから、秘密にすることを生き残る戦術として身につけており、外部の人には可能な限り軽く嘘をついて流すようになっている。[p134] ⇒植民地期や米軍政期を含めてさまざまな「調査」に曝されてきた民衆は、調査票を片手  にやってきた外部者に対して「こいつは何を聞きたいのか」「これで面倒なことに巻き込  めれないか」を気にかけるようになった。[p134]
・分断国家と米国の存在 -ソウル行きの船が故障して一時停止したときの経験 「もしこのまま流されたら、わたしらは北朝鮮の人にスパイ船と間違われて捕まるのではないか」と誰かが口にした。深刻なやりとりが続いた後、米国人が一緒に乗っていたらみんな撃たれるに違いないという話になった。二人の女性は、真剣な敵意をもって横目で私を見た。[p136]
-「密売」へ関与した経験  ・当時、村の人が現金収入を得るために豚を売ろうとしていた。だが正規のルートを使   うと、輸送、屠殺、卸売、検査、食肉証明などを経ねばならず、またその過程で中間   搾取を受けなければならなかった。そのため、その人は仁川の食堂の人々と直接交渉   し、金銭をそのまま受け取る戦略を取った。そのとき、夜間外出禁止令に基づく警察   による検挙を避けるために、ブラントを使用しようとした(当時、米国人であれば警   察は見逃してくれた)。 私が石浦の人々で敬服すべきことはいろいろあった。その一つは、かれらがシステムに打ち勝ち貧困を緩和させようと、乏しい資源を最大限活用しようとする際にみせる、頑強で、ユーモアあふれ、弾力性をもち想像力にとんだやり方だった。どんなものも無駄にはしなかった。この場合でいえば、あやしげな外国の人類学者の価値でさえもである。[p139]
・参与と共感[p139-140] -開発投資の「失敗」  ・石浦の行先を心配したブラントは、米国財団の韓国担当者を通して開発資金を引っ張   ってくる。  ・里長および有志からなる評議会で運営する開発基金を立ち上げる。 ⇒しかし、評議会によって選ばれた融資対象は、みな有志の親戚筋ばかりで、誰一人とし  て事業が成功に結びつかず、酒にひたって息子と喧嘩した挙句、息子が投資対象で船を  売り、べつの小舟を買って漁に出るケースまで表れた。 五 おわりに-今後の課題
0 notes