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#ヨハネス・イッテン
yousuke-o · 4 years
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ヴァルター・グロピウスが初代校長を務めた芸術と建築の学校「バウハウス・ヴァイマール」へ。
ドイツ初日のヴァイマール滞在は「バウハウス博物館」や「ヴァイマール新美術館」、「ハウス・アム・ホルン」とすごく濃い内容で既に頭の中がいっぱい。
休みたいところだけれど、ヴァイマール滞在のメイン「バウハウス・ヴァイマール」へ向かった。
途中、大きな公園の中を歩いているとここまでずっと曇っていたのに晴れ間が見える。
今まで何度かドイツに来たけれど、青空を見たのは初めてかも知れない。
なんだ気分も上がってきた!
  ヴァルター・グロピウスが初代校長を務めた「バウハウス・ヴァイマール」
ここが「バウハウス・ヴァイマール」。
校舎自体はアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデによる建築でモダニズムとアール・ヌーヴォーの間のようなデザインになっている。
1919年に美術工芸学校と美術アカデミーを統合して、芸術と建築の学校として近代建築の4大巨匠の一人と言われるヴァルター・グロピウスが初代校長を務めた。
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kazumurakami · 4 years
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デザインや文字などにかんする小論(デザイン論ノート)を本サイトで公開しております。ご覧ください。
デザイン論ノート
スイス・タイポグラフィの「インターナショナル」性をめぐって  >★
「デザイン」と戦後  >★
スイス・タイポグラフィ再考  >★
オトル・アイヒャーの小文字書法  >★
『気狂いピエロ』のパッケージメディアをめぐる覚書  >★
On Internationality of Swiss typography  >★
電像解体業  >★
ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」の成立過程について  >★
Reconsidering Swiss typography  >★
ヨハネス・イッテン『色彩の芸術』について  >★
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2020年7月5日(日)
二度寝して目覚めると、午前10時過ぎ。外は軽く雨が降っている。静かだ。
昼前に妻と二人で近所の学校まで、都知事選の投票に出かける。最初は二人で一つの傘に入っていたが、雨が強まったので、それぞれの傘に分かれる。学校に近づくにつれて、道に人の姿が多くなってくる。投票の行き帰りの人たちのようだが、皆、一人で歩いている。家族や誰かと一緒に投票に行く人は、あまりいないのだろうか。我々は特殊なのか。
投票を終えた後、近所の家のご主人がおすすめしていた、オムライスのお店で昼食。少し歩いて腹が減ったので、ついつい二人して大盛りを頼んでしまうが、食べきれない。最初の一口は美味しいのだが、だんだんと飽きてきてしまい、残すのも悪いので、結局無理をして最後までスプーンで掬って、だらだらと食べる。店を出た時は、妙に体が重かった。
家に帰ってタバコを吸い、妻と昨晩見た『呪怨 呪いの家』の感想などを話す。あまり怖くなかったので、安心している面と物足りない気持ちとがある。モノクロの画面が挟み込まれるのが、緊迫感を煽って、面白かったが、物語に謎が多すぎる。映画『ミッドサマー』みたいに、ネットでの「考察」を促すことでバイラル効果を狙ったのか、と勘ぐってしまう。妻は黙ってタバコを吸っている。
午後は部屋で『バウハウス 歴史と理念』(利光功 著、2019、マイブックサービス)を読む。ヨハネス・イッテンが去り、ヴァイマールから追いやられたヴォルター・グロピウスが、デッサウに自身の設計による新校舎を落成して再起を期す下りから、校長の交代と終焉まで、一気に読み終える。理念が先行して始まったバウハウスが、第一次大戦後の混沌と創造の時代を経て、徐々に学校としてまとまりも持っていく過程は、輝かしい発展というよりも、時代に翻弄された悲しい姿を想像してしまう。立派な校舎が出来ても、そこにはかつてのがむしゃらさは薄れ、疲れたグロピウスは校長を退く。そして、その後5年程度でバウハウスはナチスの手によって消滅する。芸術と技術の相克・統一という理想が、時代の流れの中で少しづつ変わっていくのが印象的だった。例えばAIという技術と、人間性との高度な統一を目指した学校が今できたとして、そこはどれくらい魅力的だろうか。結局、魅力的な人間がいるかどうか、そしてそれ許す社会があるかどうか、ということでしかないような気がする。
夜の番組で小池百合子の圧勝を知る。妻と二人でひとしきり愚痴をいい(誰が当選しようが、選挙の後は愚痴を言い合うのが習慣)、ワインを飲む。誕生日に妻が買ってくれた古いワイン。「二人が結婚した年のやつよ」と妻���
それは、気がつかなかった。
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natsumit · 5 years
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台風の被害のニュースに胸を痛めつつも、前々から楽しみしていたバウハウス展に行ってきた。 開校100年 きたれ、バウハウス ー造形教育の基礎ー|西宮市大谷記念美術館 展示はかなり盛りだくさんの内容で、全てを理解するのはとて無理だったが、知的好奇心をくすぐられまくってとても楽しかった。 再現授業「ヨハネス・イッテンのデッサン」にも参加。 深呼吸や発声、体を動かしてからの、手慣らしのお絵かき、最後は枝を描く。不思議なひとときでした。 私は、個人的な内面世界を表現するアートよりも、バウハウスのように、現実世界に即したというか、地に足がついたアートが好きなんだなぁと改めて実感しました。 #バウハウス #きたれバウハウス #きたれバウハウス展西宮市大谷記念美術館 #大谷記念美術館 https://www.instagram.com/p/B3jlRRWnioo/?igshid=vve36ja4yh4g
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ddessins · 7 years
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「此処らしいドローイングのワークショップがしたい」とOgawaくんが言ったとき、BAUHAUSの初期過程を担当したヨハネス・イッテンとモホリ・ナギのことが頭に浮かびました。バウハウスのマスターの中でも最も好きな二人です。イッテンは主に色彩論。講義の中で瞑想や呼吸法を取り入れるなど、Ogawaくんのようだとずっと思っていました。モホリ・ナギは、大学のデザイン論でレポートを書いたことがあり、いつか彼の定義を何か形にできないかと思っていました。いくつかのイメージを思案し、モホリ・ナギの ” vision in motion “ というデザイン哲学をヒントに、動いている物を描く「時間のデッサン」を試みることにしました。
「ヴィジョン・イン・モーションとは、固定的な遠近法を離れて動きの中で見ること。現実や視覚形態において動いているものを見ることである。それは肉眼のヴィジョンに当てはまると同時に抽象にも当てはまる。それは同時性と時空の同義語であり、新しい次元を理解するための手段である」
動きをどのように視覚的に捉えるのか、四次元をどうやって二次元に変換するのか、Ogawaくんと何度かシュミレーションを行いワークショップに望みました。
参加者それぞれの捉え方が独特で、こちらの予想を超える作品が出来上がってきました。視点が違うことでの発見、視る者のバックボーンが影響していることも興味深かったです。
このワークショップを行うにあたって画家であり美術教師でもあるabcdestudioのえりちゃんにアドバイスをいただきました。モホリ・ナギやバウハウス論は大学の恩師、尊敬する羽生清先生からの大きな影響です。ありがとうございます。
こんな摩訶不思議なワークショップに参加していてだいた皆様、ワークショップにも参加してくれて、会期中の食事などサポートしてくれたくしまさん、本当にありがとうございました。そして色々なきっかけを作ってくれたJunichi Ogawaくんとyama no scholeという場所には本当に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとう。最後にみんなでモホリ・ナギの文献の一部を音読しました。
「人はみな、感覚的体験を享受する能力を持っている。人はみな、生まれながら感覚体験の喜びを知り、芸術家になることができる Laszlo Moholy-Nagy 」
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hikoboshi · 5 years
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再現「ヨハネス・イッテンの授業」 https://www.instagram.com/p/BycYe-OAiIU/?igshid=cj9m9n8vvn4f
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a62 · 5 years
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デザインの発生
19世紀ウィリアムモリスの思想が源流と考えられている。
産業革命によって機械生産で活気づいていたが、1851年ロンドン万博に現れているように、何かを失ってしまう危機感と美意識の痛みを感じる。結果として、手仕事が育んできた文化やその背景にある感受性を顕在化させたことがアーツアンドクラフツ運動してへ。
バウハウス
1919年ドイツワイマールに創設。1933年閉校までわずか14年、10数名の教師と200名足らずの生徒しか在籍していない。
キュビズム→アールヌーボー→セセッション→未来派→ダダイズム→デステイル→構成主義→絶対主義→モデルニスモ→「バウハウス」
ワルター・グロピウス
諸芸術を統合へ向かわせる情熱的なを持ちバウハウスを構想
ヨハネス・イッテン
神秘主義的な思想傾向を持つ
ハンネス・マイヤー
精密な造形理論でバウハウスの活動に明確な指針をもたらす
モホリ・ナギ
還元されたエレメントを基本に新時代の造形に強烈に展開
パウル・クレー カンディンスキー
造形のプロセスを「生」の問題、つまり生命のあるものが秩序(形)を生み出していく力の原像を探求
オスカー・シュレンマー
「バウハウス舞台」を中心に非日常のモダニスムを展開
ジョン・ラスキンやモリスはものづくりが機械生産と直結した経済に牛耳られることを毛嫌いしていたし、バウハウスの誕生日はワイマールの社会民主主義政府の手によってその主義的風潮がバウハウス的思想を助長したとも考えられる。デザイン思想の背景には、少なからず社会主義的な色彩があった。
経済の原理は明白であり、近代社会の生活者を消費へと向かわせるべく、次々と新製品を生み出しそれを欲求の対象として流通させるためにメディア発展を遂げ広告コミュニケーションも進化した。
日本の戦後プロダクトデザイン
欧米を視察した松下幸之助が帰国するやいなや「これからはデザインの時代だ」
モダニズムの影響力の下で日本は独自のデザイン思想を模索。「日本的なものとは?」 明治維新以降日本の文化的なトラウマ。そして民藝運動へ。
短時間の「計画」ではなく、生活という「生きた時間の堆積」 しかし、戦後日本では経済を加速していくことに熱中し、生活文化から生まれる感受性わ育むまでは至らなかった。国力の復興に総力をあげようとしていた日本の目標は経済の興隆、文化ではなくまず産業。産業革命デザイン(計画・生産・販売側の意志や戦略が反映)と文化デザインを分断してしまった。
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akamimibooks · 6 years
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ヨハネス・イッテン : 造形芸術への道
Johannes Itten
¥4,000 
著者 ヨハネス・イッテン ほか(作)
出版社 京都国立近代美術館
刊行年2003
ページ数347p
サイズ26cm
ISBN4876421684
状態良好
解説 図録 経年並
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midget-hima · 6 years
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ヨハネス・イッテンの色相環 Itten color wheel #マスキングテープ #色相環 #ヨハネスイッテン #maskingtape #colorwheel #johannesitten #itten
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basyoeriyori · 7 years
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1933年以降、ドイツの政治情勢が緊迫感を増すにつれ、イッテン・シューレの生徒たちはベルリンを離れていくが、学校に置き去りにされた数多くの生徒作品を、イッテンは大切に保管した。それゆえ、生徒作品の多くが今日まで伝わっているのである。
ヨハネス・イッテン 造形芸術への道 より
(via Johannes Itten - Kaufmann Mercantile)
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kazumurakami · 4 years
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[デザイン論ノート10]ヨハネス・イッテン『色彩の芸術』について(4)
…………
4
ルネサンス美術は赤・青・黄などの原色や純色を用いるものが多く、たしかに色彩に関して明快な特徴を持っていると言えるが、一方でこれは中世の色彩の象徴的な取り扱い、たとえば聖母マリアの外套は青、内側の衣服は赤で着色するといった宗教的・伝統的なイコノグラフィ上の約束事に由来する側面もある。その上で、イッテンはそのような象徴的解釈を留保して、色彩対比の観点のみからルネサンス美術を評価している。
このような評価が可能となるのは、彼の主張する色彩対比が、ゲーテの色彩論を画期として研究の進んだ補色残像 (ある色を一定時間見つめると視野の中に補色が生じる) という生理上の現象を前提にしているからであり、すなわち歴史や慣習によって規定されない生理学的構造に基づく“純粋”な視覚を前提にしているからである。そしてその生理学的な視覚を通して作品を選択・分析した結果、イッテンは自分の理論の妥当性を、ゲーテ以降の色彩学や生理光学の影響下または延長上にある近代美術だけでなく、その近代美術が否定するルネサンス美術にも遡行して見いだした。つまり、このようなルネサンス美術に対する彼のアンビヴァレントな評価は、過去の時代へのアナクロニックな回顧ではなく、自覚的であれ無自覚であれ、近代の生理学的な視覚による新たな“発見”を意味していたのではないか、ということである★v。
5
イッテンのバウハウス時代の同僚だったカンディンスキーやクレーも色彩論を書いているが、イッテンほどに過去の西欧の伝統美術を肯定的に評価することはなかった。そもそも同時代の近代美術の作品だけを用いて色彩対比を分析することもできたはずであり、近代美術にある反伝統や反歴史というポリシーを守る意味ではそのほうが整合性をとれるように思えるが、イッテンはそうしなかった。逆に近代美術によってルネサンスの遠近法を否定しながらルネサンスの色彩を発見するという両義的な姿勢をとることで、時代に影響されない色彩論の妥当性を示そうとしていたようにも見える。そして実際、カンディンスキーやクレーの色彩論が学術的な研究を除いて色彩にかかわる実務ではあまり読まれなくなった一方で、イッテンの色彩論は様々な批判や指摘があるとはいえ、現在も多くの国々で読まれ続けている。
『色彩の芸術』が色彩理論に関する一般向けの概説書という体裁をとっているとしても、その欄外に暗示されたものから、近代の生理学的な視覚を通じて近代とルネサンスが結びつく、あるいはルネサンスが近代に再帰するといった歴史のダイナミズムを感じ取ることができるのである。(了)
…………
★v……イッテンは、作品28点のうち「オールドマスター」(18世紀以前のヨーロッパ絵画の大家) を多く選んだ理由として、読者の多くが彼らの作品に親しんでいることを挙げる一方、このようにも述べる。「彼らが例示する色彩の原理は時間を超越したものであり、かつてそうだったように今日でも妥当である」(あとがき)。この「超越」性に、歴史によって規定されない近代の生理学的な視覚の反映を読み取ることもできるだろう。
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kazumurakami · 4 years
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[デザイン論ノート10]ヨハネス・イッテン『色彩の芸術』について(3)
…………
3
イッテンは本書で、7つの色彩対比とそれに付随する色彩効果とに関してそれぞれ西欧の美術作品を例に挙げて分析しており、11–20Cの約900年間から計28点の作品を掲載している。これらの作品を時系列で並べると、各時代から偏りなく作品が選ばれるのではなく、13–14Cと17C半ば–18Cの作品がなく、15C、16C、19C後半–20Cから多く選ばれていることがわかる (図|15–20Cのみ)。
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様式別に大まかに分けると作品点数は以下のようになる。
11–12C (ロマネスク~ゴシック) ……3点
13–14C (ゴシック) ……0点
15–16C (ルネサンス) ……11点
17C (バロック) ……3点
18C (ロココ) ……0点
19C前半 (新古典主義、ロマン主義など) ……1点
19C後半–20C (印象派以後の近代美術) ……10点
全28点のうちルネサンス美術と近代美術とで約8割の21点を占め、両者はほぼ同じ点数である。数の比較で考えれば、ルネサンス美術は様々な様式の中の単なる一例というにとどまらず、イッテンと同時代の近代美術に見られる色彩対比・効果が顕著に表われているということを示唆しているだろう。このような彼のルネサンス美術への着目は、本書で言及される美術家が15–16Cのルネサンスと19C後半–20Cの近代の人物に集中しているところにも示されている★iv。また本書に限らず『ユートピア』においても分析された作品5点のうち4点がルネサンス美術である。
(4)へ続く
…………
★iv……本書で言及された美術家の生涯の一覧 (15–20Cのみ)
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kazumurakami · 4 years
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[デザイン論ノート10]ヨハネス・イッテン『色彩の芸術』について(2)
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…………
2
『色彩の芸術』(副題:芸術への道としての主観的体験と客観的認識) は、色彩に関係する様々な分野の人々に向けて、「主観的」配色の偏重を避けながら色彩を取り扱うための「客観的認識」を提示することを主な目的とする。この「客観的認識」は赤・青・黄の三原色と生理学的に仮定された補色法則とに基づいており、本書中の12色相環やカラースターによって色彩の相互関係が表現される。
一方でイッテンは、このカラースターとほぼ同じものをバウハウス在籍時の1921年に『ユートピア』ですでに発表している (図)。これは、彼が1910年代にシュトュットガルトでアドルフ・ヘルツェルなどから色彩理論を学び、色彩対比の基本的な考え方などを理解した上で制作したものだろう。また30年出版の『イッテン日記』に著された色彩論の抜粋、バウハウス (1919–23年) やイッテン・シューレ (26–34年) での色彩論の授業内容を見ると、彼の色彩論はある程度完成したものに達していたと言える★ii。つまり、1921–30年前後に色彩論の基本的なかたちはできており、その後の数十年間の活動の中でその理論が根本的に変容することはなかったと考えられる。さらに、『色彩の芸術』では後述するように様々な時代の美術作品が分析されているが、これも本書が初めてではなく『ユートピア』や『イッテン日記』でも同様に過去の作品が分析されている。
このように、『色彩の芸術』は少なくとも1921年以降のイッテンの色彩研究における理論や分析方法の一貫性の中で書かれたものであり、彼の1920–30年代の近代的な思考と地続きだったと言える。本書が彼の色彩研究の「集大成」とされる理由もこのような一貫性や連続性に求めることができる★iii。
(3)へ続く
…………
★ii……『イッテン日記』(『ヨハネス・イッテンの日記──造形芸術の対位法への寄与』) では、『色彩の芸術』と共通性の見られるカラースターや色彩対比などの図を掲載して色彩論の主な考え方を示していた。またバウハウスやイッテン・シューレの授業では、12色相環や色彩対比などの図を生徒たちに制作させながら指導していた。 参考|ドロレス・デナーロ・石川潤編訳「造形芸術への道」『ヨハネス・イッテン 造形芸術への道』、京都国立近代美術館、2003 金子宜正「ヨハネス・イッテンの芸術教育における人間を中心とする考え方について」『美術教育学』第28号、美術教育学会、2007.3
★iii……このことは一方で、1933年ナチ党政権誕生から第二次大戦に至る危機の中でイッテンが非転向を貫いたといった政治的潔白までをも意味するものではない。彼は、ナチスに反発して亡命を急ぐこともなく、外国籍であることが原因で政治的・金銭的に困窮することもなく、クレーフェルトの織物学校で教員を続けていたし、37年の「ドイツ繊維・服飾業界帝国展」の開会の言葉ではナチスの人種主義に迎合するような発言をしている。 参考|マグダレーナ・ドロステ「工芸とモデルネの間のバウハウス・デザイナー」、W・ネルディンガー編『ナチス時代のバウハウス・モデルネ』清水光二訳、大学教育出版、2002
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kazumurakami · 4 years
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[デザイン論ノート10]ヨハネス・イッテン『色彩の芸術』について(1)
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概要
ヨハネス・イッテンは『色彩の芸術』において、近代美術だけでなくそれとは相容れないような前近代の美術も肯定的に評価しており、とくにルネサンス期の作品に色彩対比が顕著に表われていることを示唆している。このように時代を遡行して前近代の美術を評価できるのは、彼の色彩論が歴史や慣習によって規定されない近代の生理学的な視覚を前提にしているからである。すなわち彼のルネサンス美術への評価は、近代美術のポリシーに逆らったアナクロニズムではなく、近代の生理学的な視覚による新たな発見だったのではないか。本書を別の角度から捉えることで、ルネサンスが近代に再帰するという歴史のダイナミズムを感じ取ることができる。
…………
1
ヨハネス・イッテンは、バウハウスのカリキュラムに予備課程を導入した人物として歴史的に語られることが多いが、一般にはむしろ色彩論の著者としてよく知られているかもしれない。というのも、彼の1961年の著書『色彩の芸術』は過去に14言語で翻訳され、学習用に再編集された要約版は現在も10言語以上で刊行され続けているからである★i。
イッテンはマスダスナンに接近したために近代美術の中で異端視される向きもあるが、『色彩の芸術』にそういった教義的な面はない。むしろゲーテ以後の色彩学や生理光学の正統な理論を踏まえている。また、彼は反歴史や反伝統を掲げた近代美術の流れを汲んでいるが、本書でそのようなアンチテーゼを主張するといった面もない。その反対に、色彩対比 (コントラスト) という観点で前近代の伝統美術を肯定的に評価する姿勢を取っている。つまり彼は色彩や視覚をめぐる正統な理論を引き継ぎながら、その延長上にある近代美術を肯定するのみならず、近代美術が否定したはずの前近代の伝統美術を肯定するというアンビヴァレントな姿勢を取っているわけである。これは一見アナクロニズムに感じられるが、本書を異なった角度から捉えることで、19世紀初頭のゲーテに始まる色彩論の流れがイッテンにおいて西欧の伝統美術の色彩に接続するという、近代の色彩論の別の様相が見えてくるのである。
(2)へ続く
………… 註 ★i……要約版 (『色彩の芸術 学習版』) は、イッテンの没後に刊行されたもので、原本の『色彩の芸術』と比べて、参考の美術作品と解説がすべて削除され、その他の図版も削除や差し替えが多く見られる。本文は原本にない文章が追加された箇所が見られるものの、それ以外では大きくは変わっていない。要約版��日本語訳 (『ヨハネス・イッテン 色彩論』) は71年から継続して刊行されているが、カラーの図版印刷をドイツで行なったことを示していた文言などが2010年以降なくなる。
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