Tumgik
#三船美優
kithul-pani · 3 months
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プロクリ練習…
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rennebright · 2 months
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美優さん by AnTi [Twitter/X] ※Illustration shared with permission from the artist. If you like this artwork please support the artist by visiting the source.
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myscrap · 3 months
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Xユーザーのちょすけさん: 「美優さんいきなりだけどこの服着てもらってもいいかな? https://t.co/f1mN7IujMi」 / X
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becchi-slstage · 8 months
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パルファム・ゼラニウム
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tatsutastorage · 1 year
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曲:Starry Night
衣装:ドレスコーデ(パーティータイム・ゴールド)
イベ報酬SRで着てる衣装を参考にしました
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usickyou · 1 year
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抜け道
 抜け道。  そう呼びたくなるような場所だった。 「抜け道」は、森林のただ中にあるようだった。木々が譲るように道をつくり、頻繁に往来があるのか地面は平坦だった。降り続く広葉樹の青葉は道脇にうずたかく集められ、しかし人間の作為は少しも感じられない。香りのせいだと思った。芳醇に、かすかに腐敗を感じさせるように甘く緑の香るのは、故郷の、祖母の暮らしていた山中に孤独に佇む家々を取り巻いていたものと同じだった。  ともかく道は、うっそうとした樹林のなかでいかにも不自然な印象を与える。  けれど不快ではない。  私は深く息をした。 「あちこちを、見て回るのもいいと思いますよ」  楓さんは言った。  たしかに、道すがら木々のむこうに見えるものは興味を感じさせる。ぽっかりと、森の開けた場所にある泉。それは光のいたずらなのか、うすく桃色の光を放つように見える。ほとりには短い下草が生えていて、いかにも暖かそうなのにひとつの花も見えないのがかえって泉の印象を深めている。 「あちらは、近づかないほうがよいです」  どうしてですかとたずねると、楓さんはあいまいにほほえんだ。その指でさしたほうには、立ち枯れ、折れた木々の群れがあり、しかし樹冠のないそこに注ぐ光はかえって美しかった。太陽がいくつも浮かび、影をひとつ残らず奪っているようだった。墓所なのかもしれない。私は感じた。 「とはいえ、まっすぐ進むのが最善なのですが」  楓さんの言うとおり、私はしたがった。途中、ものすごい数の銀色の蝶に楓さんが目をうばわれ、ふらふらと足を向けてしまったので、慌てて引き止めることになった。蝶の道の先には、木の家があった。家は小さかった。家には扉がなく、丸い窓があった。薄布が塞いでいた。 「失礼しました……ともかく、誘惑のおおいところです」  楓さんは続けた。 「ひとりで来るのは、あまりおすすめしません」  あなたはどうなんですか、と私はたずねたかった。 「ああ、これは……懐かしいですね」  そう言って楓さんは、一枚のぺらっとした紙を取り上げた。それは算数の、かんたんな計算のプリントであるようだった。 「私、急いでいたんです。これを出すのと、遅刻しないのと、両方を叶えるには抜け道を使わないといけなかった。でも、そのときは知らなかったんですけど、抜け道を使うと、けっこう大事なものをなくすんです。だから私は、学校には間に合ったけど宿題を出せなかった」  おこられました。  楓さんはほほえんだ。  そういうものが、道にはたくさん落ちていた。黄色いクマのキーホルダーや、防犯ブザー。携帯電話のストラップ、衣服の詰まった紙袋や、shureのコンデンサマイク。  持ち帰れないものですか。私はたずねた。 「差し出したものは、戻ってきませんから」  楓さんはこたえた。とはいえ安心してください、とつけ加えた。 「今回、抜け道を開いたのは私なので、差し出すのも私です」  なにをなくすのかしら、と楓さんは別に不安がる様子でもなかった。その肩越しに見えた、大樹と呼ぶべきだろう老木のうろが、呼吸をするように収斂し、薄暮みたいにかがやく蜜を吐き出していた。 「そろそろ、いいでしょうか」  楓さんはふと立ち止まり、ここへ来たときのように、私の手をとった。あまりにもそれが自然に、なにげなくおこなわれものだから、私がこの人にひかれかけているという意識は後からやってきて、それは力強く、子どものころにガラスの宝石玉に触れたときみたいな気持ちだった。 「くり返しますけど、差し出すのは私です」  楓さんは、私の目をしっかり見て続けた。 「美優さんが自分の意思でここへ来るのなら、美優さんがなにかを差し出すことになります」  わかりました。私はこたえた。 「なので私は、もうここに来ないと思います」  楓さんが手を放した瞬間、私はひとりで局の階段にいた。なのでそうっとそこをのぼり、スタジオに着くと放送にはどうにか間に合った。楓さんには仕事の成立を報告して、感謝を口実に夜また会った。抜け道のことは話さなかったし、なにをなくしたのかも聞かなかった。雪は止んでいた。その日も、楓さんの家で��った。
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delodelobar · 2 years
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ほしかった限定早苗さんがきてくれたときのSSです。 シンプルな印象ですがアネモネがかわいく散らされているのとスカートの作りがすごいのとでしっかりと限定だ…!と思わせてくれる良い衣装です。ほんとうにかわいい~~~
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ari0921 · 5 months
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我が国の未来を見通す(94)
『強靭な国家』を造る(31)
 総括「『強靭な国家』を造る」(前段)
宗像久男(元陸将)
───────────────────────
□はじめに──「『強靭な国家』を造る」を総括す
るにあたって
 「『強靭な国家』をいかに造るか」というテーマ
で20回にわたり延々と書いてしまいました。すべ
てが「強靭な国家」を造るという“「大目的」のた
め”ということから、あえて、毎回のテーマを変え
ないまま書き綴った結果でした。
改めて読み直してみますと、あくまで私の“独りよ
がり”ではあるのですが、“「強靭な国家」を造る
ことがいかに大変なことか”について再び考え込ん
でしまいます。
卑近な例をとりあげますと、現在ハマスと戦争の最
中にあるイスラエルは、日本などと比較して、20
00年にも及ぶ長い間、国を挙げてあらゆる分野で
「強靭な国家」造りを最優先して実��し続けてきた
国家であり、(すでに触れたような)その“強さ”
は、昨日今日に出来あがったものではありません。
しかし、そのようなイスラエルであっても、今回の
ような事態を招く結果になってしまいました。ハマ
ス側からすれば、10月8日の奇襲攻撃に対する報
復が、現時点において1万5千人以上の犠牲者を含
むガザ地区の壊滅に至ったわけですから、人質交換
のための一時的な停戦合意は継続していても、その
後の展開が不明であることを考えると、“割に合わ
ない、とんでもないことをしでかしたものだ”と思
ってしまいます。
イスラエルの“非情”ともいえる作戦は、単に報復
に留まらず、“この機会にハマスを壊滅する、少な
くとも、未来永劫にハマスに手出しをさせない”と、
本来の戦略に立ち返ってこれまで以上に“強い決
意”をもって作戦を遂行した結果でしょう。それこ
そが、これまでもそうであったように、将来のため
に「強靭な国造り」をめざすイスラエルという国の
“生き様”であり、「国の形」であると私は考えて
います。
我が国にあっては、明治維新に「富国強兵」「殖産
興業」という「国家目標」を打ち立て、迫りくる西
欧諸国の脅威に立ち向かうことを主目的に、まさに
“強靭な「近代国家」”を造ることを目指してきま
したが、幾多の戦争や大震災、世界恐慌の影響など
を経て、ついには「大東亜戦争」を招く結果となっ
てしまいました。
「歴史は物語である」「歴史は検証できない」とは
東洋史学者・岡田英弘氏の名言ですが、“仮に日本
が明治初期に「富国強兵」などを唱えず、「近代国
家」を目指さなかったら、その後の歴史はどうなっ
たであろうか”については検証できないのです。
しかし、18世紀後半、地球の85%を支配した西
欧諸国の植民地主義の拡大、その中でイギリスをは
じめとする西欧諸国に割譲されるという形で独立を
失った「清」の例などを見れば、明治以降の我が国
の「国の形」が相当違っていただろうということは
容易に想像できます。
現在から先の「未来」についても同様のことが言え
るでしょう。“歴史の大きな転換点にある現時点”
において、私たちが、後世のために未来起点のアプ
ローチに基づき、さまざまな手段を行使して“「強
靭な国家」造り”を目指そうとする場合と、逆にそ
のような努力を怠る場合とでは、我が国の「未来図」
を大きく変わることは疑いようがないのです。
昭和16年、日米開戦に至る一連の交渉のなか、9
月6日の御前会議で、海軍軍令部総長・永野修身が
「戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬと
すれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族
永遠の亡国であるが、戦って護国の精神に徹するな
らば、たとえ戦い勝たずとも祖国護持の精神が残り、
われらの子孫はかならず再起三起するであろう」と
発言されたとの記録が残っています(フィクション
だったという説もありますが)。
残念ながら、そのような精神は戦後、無情にもGH
Qによって打ち砕かれたかのように見えますが、こ
れまで縷々述べてきましたような、日本人の根底に
ある“強さ”、 まさに中西輝政氏が指摘する「日本
人の『荒魂(あらみたま)』」は、戦前の歴史を否
定した大方の日本人には忘れられていても、各為政
者の時々の発言などから、周辺国にはその記録や記
憶が依然として“残っている”と想像できるのです。
「強靭な国家」造りの中で、「国家戦略」の目標と
して掲げた「安全」については、我が国は、今回の
イスラエルのように、ハマスによる攻撃の後、つま
り“有事”が起きてしまった後に「手を出すのでは
なかった」と思わせるのではなく、手を出す前から、
「日本に手を出すと“大損”をする」と相手に“躊
躇”させること、つまり「抑止」を目指さなければ
なりません。
これは容易なことではありませんが、その根底に永
野軍令部総長のいう「祖国護持の精神」がなければ
ならないことは明白でしょうし、周辺国に記録と記
憶が“残っている”間に、「抑止」のための「強い
意志」と「能力」を明示しておかねばならないと考
えます。
本メルマガでは、あえて軍事とか安全保障には詳し
く触れませんでした。しかし、終戦後、法律家や歴
史学者など有識者たちがこぞって「再軍備」に反対
していたことをはじめ、最近でも高名な経済学者が
「日本経済の復興が最優先で、防衛力増強などやっ
ている場合ではない」旨を自著に書き記していた事
実を知って、「それぞれの専門家にまかせておいて
は、この国はダメになる」と思う危機意識がますま
す膨らみました。
前置きが長くなりました。我が国の未来に降りかか
るであろう、ほかの「暗雲」でも同じことが言える
と思います。それぞれの分野で“致命的な事象”が
発生してから慌てても遅いのです。我が国が“苦
手”としている「抑止」とか「未然防止」とか「回
避」などをキーワードにして、「下降期」の中で
“どんでん返し”を狙って“「強靭な国家」造り”
を目指さなければならないとの認識が、私には一層
強まっています。
▼「国家」を再生する
“強くて、しなやか”な「国家」をいかに造るかに
ついて、これまで、“強靭性”を主に取り上げてき
ました。
実は、本メルマガの総括にあたる第4編を「『強靭
な国家』を造る」とした訳には、“強靭性”のみな
らず、“「国家」の再生”の方にもかなりのウエイ
トがありました。今回はその「国家」について取り
まとめておきたいと考えます。
ウクライナ戦争やコロナ禍の状況から、「自分の国
を自分たちで守れない国は生き残れない」と気づい
た元朝日新聞主筆の船橋洋一氏の言葉を紹介し、同
氏の「日本には『国家安全保障』という『国の形』
がない。そして、その『国の形』をつくるのを阻ん
できた『戦後の形』がある」との言葉も紹介しまし
た。
私は、この発言を船橋氏の“自責の念”と解釈して
いますが、氏の書籍の中にも「国」という言葉が何
度も出て来ます。一方、その「国の形」をつくるこ
とを拒んできた「戦後の形」にはとても“根深いも
のがある”とも考えてしまいます。
しかし、その要因は明らかでしょう。まずは、戦前、
特に満州事変以降、軍部主導のもとの「挙国一致」
が強調され、教育面でも「国粋讃美」とか「尽忠報
国」などを強要されたことに対する“揺り戻し”、
つまり「反動」があるのでしょう。
そして、終戦後、GHQの巧妙な対日政策もあって、
その“揺り戻し”は、日教組など唯物史観に染まっ
ている人たちにとっては自分たちの思想拡大の絶好
のチャンスとなって、その“揺り戻しが度を越し
た”格好になりました。
なかでも、彼らが好むトロツキーの言葉である「す
べての国家は暴力の上に基礎づけられている」が発
展し、「国家は悪」として、「国」とか「国家」を
全否定する考え方にまで拡大しました。
私は「国家論」について社会学的に深く解説できる
能力はありませんが、少しだけ踏み込んでみましょ
う。まず「国家」の起源ですが、これもまた社会学
的には解釈が分かれるようですが、門外漢の私が理
解した言葉で要約してみます。
欧州諸国が「主権国家」として独立したのは、「3
0年戦争」(1618年~48年)の結果、疲弊し
た諸国が結んだ「ウェストファリア条約」(164
8年)でした。その直後から「国家」の意義づけに
ついて社会学的な論争があったようです。
まず、「ウェストファリア条約」によって、「王が
持つ主権はキリスト教ではなく神から直に授けられ
たもの」(「王権神授説」)とする考えが普及し、
王政国家が欧州各地に出来上がりましたが、その考
えに反発するような格好で、3年後の1651年、
有名な『リバイアサン』が出版され、著者のトマス
・ホッブス(イングランドの哲学者)は、「自然状
態では、人々は絶え間なく恐怖と暴力による死の危
険さえある悲惨な状態にあり、そこを脱して、安全
と平和を手にするために“社会契約”を結び、その
結果、『国家』が出来上がった」と意義付けました。
これからしばらく過ぎた1690年、同じく英国の
哲学者ジョン・ロックは『統治二論』を世に出し、
「自然状態にある人間はすでに理性を持っている」
としながら、「自分の自然権を守るために、その一
部を放棄し、『1つの集合体』に委ねる、その集合
体が『コモンウエルス』と呼ばれる『国家』の起源
である」と説きました。
つまり、ホッブスが、「場合によっては生きるか死
ぬかの岐路に立たされかねない自然状態にあって国
家が不可欠である」としたのに対して、ロックは
「国家は、自然権を破った者に対して有無を言わさ
ず、強制的な手段をもって『処罰』するために作ら
れた」として、「保険に加入するように『より大き
な防御』のためにあり、必ずしも国家は不可欠なも
のではない」とも解釈したようです。
このように、“社会契約説”としての「国家」の起
源が発展し、やがて「市民革命」に至って近代国家
が出来上がるのですが、それからしばらく後、マル
クスによる共産主義思想が普及し、「国家」の性質
を「暴力の独占」とするトロツキー的な国家論が興
隆することになります。
一方、同じ時代に生まれたドイツ社会学者のマック
ス・ヴェーバー(ウェーバー)は、名著『職業とし
ての政治』(脇圭平訳)の中で、「国家とは、ある
一定の領域の内部で、正当な物理的暴力行使の独占
を要求する人間共同体である」と定義しました。
本書は、1917年、ドイツが第1次世界大戦で敗
戦した後、ミュンヘンにある学生団体のために行な
った公開演説をまとめたもので、それまでのドイツ
社会が、「ドイツ帝国」は存在しても、多種多様な
団体が物理的暴力をノーマルな手段として認めてい
た事実とは違った意義が「国家」にあると解説した
のです。
しかも、トロツキーとは違い、国家の「“合法的
な”暴力の独占」を定義し、「許容した範囲の中で
物理的な暴力行使が求められている」として、「警
察や軍隊はその主な道具・装置である」と解釈した
のでした。
このように考えると、安全保障を米国に丸投げした
まま、あくまで「警察予備隊」として発足し、しば
らく“再軍備”を否定し続けた「吉田ドクトリン」
は、その後長い間、��物史観の人たちに巧妙に利用
されてしまいました。彼らは、マックス・ヴェーバ
ーの「“合法的な”暴力を独占するのが『国家』で
ある」との考えに至らないまま、(単なる暴力装置
としての)「国家」自体を否定している間に時が流
れ、我が国の「戦後の形」として定着してしまった
と解釈できるのではないでしょうか。
余談ですが、マックス・ヴェーバーによって「国家
論」を叩きこまれたドイツに、やがてヒトラー率い
るナチスが合法的に誕生するのですから、歴史とは
皮肉なものです。
さて、我が国の「国家」には、さらに長い歴史があ
ります。我が国の建国は、まだ「国家」という呼称
はなかったものの、「神武天皇の即位」(紀元前6
60年1月1日〔旧暦〕、2月11日〔新暦〕)とされて
いますし、近代国家の建設が始まった「明治維新」
も「国家の起源」として考えられる場合もあります。
戦前の歴史家の巨匠・坂本太郎氏の『日本の歴史の
特性』によれば、我が国の歴史の中で「国家」とい
う文字が初めて出てくるのは、正倉院宝物の中の
「国家珍宝帳」(756年頃に献上された献物帳
(宝物の目録))だそうですが、この場合の「国家」
は、現在の「国家」とは違う意味をもっており、国
家はミカド、つまり天皇と同義に用いられていたよ
うです。同様の表現は、当時の“現行法”であった
「律」の中にもあり、同じく国家=ミカドを意味し
ていたのだそうです。
つまり、トロツキーの「国家の性質を暴力の独占」
のような概念を我が国の「国家」論に当てはめよう
としたのは最初から無理があったのですが、結果と
して一人歩きしまったのでした。
今なお、公の場で「国」「国家」「国益」「国力」
「国体」などの使用が何となく憚(はばか)られ、
挙句の果てには「愛国心」のようなものまで否定さ
れ、放置されたまま今日に至っていることもすでに
取り上げました。一日も早く、真の意味での「国家」
の再生が望まれると考えます。
改めて、「国家」の現代的な理解をまとめてみます
と、「国家」とは、「その領土と人口を通じて、特
定の地域における社会的、政治的、経済的な活動を
組織し、調整する役割を果たし、個々の国民が自由
で平等な生活を送ることができるように、公正で公
平な社会を維持するための枠組み」のようです。
つまり「社会的、政治的、経済的な活動を組織」を
手段として、「個々の市民(国民)が自由で平等な
生活を送ることができる」ことを目的とした「公正
で公平な社会を維持するための枠組み」を指すとい
うことでしょう。
「国家」の起源にさかのぼるまでもなく、手段も目
的もそれぞれが複雑で、幅広く、奥も深く、しかも
現時点のみならず、未来においても、“自由で平等
な生活”を担保する必要があるわけですから、その
ためにも「国家」に「強靭性」を備える必要性がま
すます増大していると考えます。
▼国際社会に“リバイアサン”が復活した
さて、国際社会においても、冷戦後しばらくの間は、
「国対国」の争いから「国対テロ集団」のような争
いがクローズアップされてきました。しかし、この
たびのウクライナ戦争を境にして、再び「国対国」
の争いがクローズアップされ、それが発展して“新
冷戦”のような「分裂の時代」が現実のものになっ
てきました。
現下の情勢下、国際連合の無力さも露呈したことも
あって、ホッブスの言葉を借りれば、国際社会は
“リバイアサン”(つまり“怪獣”)が大暴れし、
それを制御するのが困難な時代になりました。この
厳しい国際社会の中で生き残るため、つまり、暴れ
まくる(可能性がある)“リバイアサン”から生命
や財産や平穏な生活を守るためには、船橋氏の言葉
を借りるまでもなく、個々の「国」あるいは「国家」
を主体に物事を考え、同じ認識を共有する「国」ど
うしの“社会契約説”ともいえる「同盟」とか「連
携」の必要性が“より増してきた”といえるでしょ
う。
“リバイアサン”を制御するためには、「外交力」
とともに「軍事力」が必要なことは明白ですので、
国家の“暴力装置”の重要性がより増して来たとも
いえるでしょう。しかし、その意味は、「世界同時
革命」に立ちはだかった時点の国家の“暴力装置”
と全く意味が違います。
総括しますと、厳しい国際情勢の中で、我が国が生
き残るために、依然として存在している唯物史観、
あるいは自虐史観の持ち主たち(ちょっとでもその
ような考え方に同調する人たちを含め)が自分たち
の信条とか先入観と決別する時が来たのではないで
しょうか。つまり、マックス・ヴェーバーの「国家
は“合法的な暴力”を独占する人間共同体」の考え
を理解し、容認することが求められているのです。
そのステップを踏んで、時計の針を戻して再出発し
てこそ、大多数の国民がこぞって「国家」を取り戻
し、後世のために“「強靭な国家」造り”に邁進で
きるものと考えます。
くどいようですが、戦前のように、あるいは中国や
北朝鮮などのように、我が国にあっては、国家の
「強制力」を行使できないのは明白です。「国を挙
げて」、つまり「挙国一致」と唱えても、大多数の
国民一人一人が“その気になる”ことがなければ、
いかなる政策も「国家戦略」も絵に描いた餅にしか
なりません。
すなわち、「『国家』を再生する」ことは「国民が
その気になる(覚醒する)」とイコールでもありま
す。そのようなことを狙いつつ、「国家意思」を分
析したつもりですが、天変地異や外圧に寄らず、い
かにして“国民が自発的に覚醒するか”を考えると、
そこにまた難題が待っていることもすでに述べたと
おりです。
今回はここまでにしておきます。次回、我が国の
「国家」論から派生する「統治のありかた」や「政
治」についても取りまとめて、第4編の総括を終了
したいと考えています。
(つづく)
(むなかた・ひさお)
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nyantria · 1 month
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アメリカが主導した昭和天皇の戦争犯罪の証拠隠滅
昭和天皇と731部隊
http://blog.livedoor.jp/nobug51/archives/1103925.html
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。
新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。
 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房)
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。
1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・
 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。
このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。
日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
http://blog.livedoor.jp/nobug51/archives/1103925.html
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me--me--me · 25 days
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ポケモンSV!🌸スグリがいっぱいコレクション編🫐
👆おむらぁいすに貰ってた猫ミームミータマ(可愛い)
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👆ダチ達と過ごす美しき日々(ワロタ)
拙者てゃ、けーちゃん、おむのイツメンすこすこ侍。
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おはこんハロチャオ! ᕲ(˳⊙̿͆˳)ᕳ みーくんです( ΦωΦ )
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おいッ‼️みー太郎テメェッ‼️忘れてねぇだろなァ⁉️😡👇
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👆覚えとるよ🐈‍⬛🎶 ホントォ?>😅
上記のような口約束は簡単に責任を作れる呪いの言葉なので迂闊に発しない方が身の為というのが今回の教訓です。ッてもスグリはやっぱり可愛いので久々に記事を書いてくぞ‼️ほぼ三ヶ月近く空けやがってよ‼️
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👆マジでこれといって特に見所が無いミー太郎VSスグリ戦(30秒録画を継ぎ接ぎしてるのでお見苦しくてスマソ)
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さっそく完走した感想なんですけど僕はね、これでもちょっと重めの記事を書こうとしていたんです。藍の円盤がね、まぁ結構ね、重かったじゃないですか。スグリに感情移入が出来るか否かで大分その辺の受け取り方は変わって来るとは思うんですが。人によっては最悪ただの拗らせたクソガキで印象が終わってしまう場合すらある。
だからね一応、本当は真剣にド真面目な記事を書こうとしていたんです。していたんですよ。(過去形)
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番外編を遊ぶ前までは。(キビキビ)
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👇本来この記事を書こうとしていたテンション。
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👆いま冷静に見直すと論点がズレてる気がするし書き口調が段々と飲み屋で酔った面倒くさいオッサン上司になってしまっているので止めて大正解。こんなん長々と綴ってたら読み手が胃もたれするゾ。上司という言葉で思い出してしまった最近マジで転職したい。
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番外編はキタカミが舞台として戻って来たのもあって、藍の円盤の補足でスグリ休学までの過程に対して匂わせ程度でも仄暗い話も来るかな?って身構えてたんですよね。とはいえ流石にスグリにスポット当たり過ぎかとも思ったので、あくまでメインはホームウェイ組で三人がスグリに助言してくれたりするのかな?とか。
したらね。唐突にギャグホラーが始まるもんだから温度差でブッ倒れたミー太郎はキタカミの公民館に用意された自室に戻り、畳の上に敷かれた質素であるが清潔な布団に潜り、瞼を閉じて深く深く考えた…
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―…スグリ、俺らって本当に色々あったし…お前の事、俺なりに寄り添って沢山考えてみていたけど…―
畏まった堅苦しい言葉の羅列を並べる段階は、とうの昔に過ぎ去ったもので、そんなちんけな文字よりも今必要なのは前を向く事なのだ。スグリにも。俺にも。
スグリ、俺はさ…―――
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お前が笑って明日を迎えてくれるなら、それで良いよ。
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感動の再会。挨拶がてら猫吸い宜しくスグリ吸い。髪型そのままなんかーい。
番外編はホームウェイ組メインかと思いきや割とガッツリとスグリが関わってて笑ってしまったが、そういや藍の円盤だと闇堕ちスグリとはそれなりに関わっていたものの光堕ちスグリとは一瞬しか絡めてなかったもんな…お前気づいたら失踪(休学)してたもんな…。
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ここの掛け合いザ・少年漫画のようで大変◎。心做しかスグリも主人公に頼られて嬉しそうに見える!
前述でギャグホラーとは書いたものの、おばあちゃんのお餅催促のくだりとか要所要所では従来通り怖い演出を踏襲して来るのは流石ゲーフリ。子供泣くぞ。
特にお餅は「ひぐらしのなく頃に」のおはぎのくだりを思い出した平成&昭和生まれトレーナーは多かったのではないか。
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tumblrで画像付きの記事を書いた事あるブロガーの皆様なら薄々この詰めッ詰めな画像見て察してらっしゃるかと思うのですが画像転載数がとうに上限の10枚超えてるのでもうこの記事は限界です。そんな…!🐣
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ホームウェイ組に触れれてなかったがペパ先は愛が重くて刺さる人には刺さった男だろうなと思うし(お前この刺さる系の言い回し好きだな)ネモちはヒソカネモちのままで実家のような安心感があり、私的にMVPだったのはボタちゃんで主人公ん家のオヤツに駆け寄る程はしゃいでたり、礼儀が少々なってない場面でペパ先に窘められたりとメスガキ過ぎて可愛かったのでホームウェイ組で最初に特別講師に呼んだりしてました。ボタちゃんの特殊会話での主人公へのお礼もまた良いんだよな(涙)
まあ結局三人とも好きなんだが。
ゼイユは相変わらずイイオンナだったしな。番外編だと出番少なかったのが若干寂しかったが碧と藍で露出が多かったのでバランスとっての事かなと自己解釈。
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四天王とか更生スター団とか諸々書きたい事は沢山あるが記事内容がごっちゃになりそうなので割愛‼️
…するが、ブルベリ四天王についてはちょっと書く。僕はおタロとアカマツが特に好きです。おタロはキャラビジュ出た時点でもう好きだったんだが、アカマツ…!真っ直ぐで素直な少年に弱いのだ俺は…!!特にあの空気が最悪の状況下だったから一筋の光みたいに見えていた。
ギスギス四天王時代のカキツバタとスグリに対してのアカマツの 「 そーゆーの! マジで めんどくさいよ!!」 マジで好き。
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あとパルデア四天王の方だけど特別講師のポピーちゃんとの特殊会話可愛すぎない❓マジでオススメ。
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こっからメッチャ自己満余談。(ケジメ的なのも含む)
癒しを求めて最近は某美少女ゲーってか所謂ブルーアーカイブにハマりまして勿論キャラの可愛さも要因だが〝エデン条約〟というストーリー(序盤は良くある?美少女ものなんだけど中盤辺りから血を見る展開に…)と各総力戦の戦闘曲がガチで良い‼️因みに僕はBGMから入った人間。(マルク好きはゴズ戦の曲を聴きなさい多分絶対好きだから) んでね。
久しぶりに(2年ぶりぐらい?)Xで新規垢動かしてるぐらいには絵の方ちょっと頑張ろうかなと思えてるので暫くブログの更新を休止します。
なので本当、そういやこんなブログあったな〜って思い出したら立ち寄ってくれよな💋♡ イツメンの皆はdiscordまた声掛けると思うので不定期的に遊ぼうネ★🤪(なんて身勝手な野郎だ)
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更に余談も余談ですがBlueSkyの方に一瞬だけナポ男の垢で生息してました(支払い関係の都合で近々会員を抜けてしまう&少々自分が描くものに思うところがあり現在更新停止)。ポイピクにも同じ絵➕気に入らなくて消した絵を載っけてますがブルスカにはポイピクのURLすら貼っていなかったと思うので同一人物ですよとだけ。賑やかで優しい界隈でした。推しを推す皆様に幸あれ!
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とはいえ描かなくなった=もう動画を見てないという訳でもなく、コメントは基本しないので陰ながら応援のスタイルにはなりますが一視聴者は継続してます。これは船長♡にも言える。
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ほなばいにゃら!🐈‍⬛ (2024/03/25)
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myscrap · 3 months
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Xユーザーのみのり@作業中さん: 「三船さんラフ https://t.co/6Ogh14isy0」 / X
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becchi-slstage · 2 years
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がぉがぉカーニバル
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katuo1130 · 3 months
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蔡英文秘史 家史
先祖告誡我們——
瞭解一個人,必先瞭解其家史、身世,瞭解基因密碼與基因病變。
姓乃黃帝之後,源出於姬姓。
蔡姓始祖,可追溯到周朝時的蔡叔度。鄭樵《通志·氏族略·以國為氏》載:「蔡氏,文王第五子蔡叔度之國也。自昭侯以下,春秋後相承二十六世,為楚所滅,子孫以國為氏。」蔡叔度,周初「三監」之一,周文王之第五子,為周武王之弟。武王克商之後,叔度受封於蔡(今河南上蔡縣),為蔡國國君,史稱「蔡叔」。武王讓蔡叔與管叔、霍叔三人共同監管武庚(商紂王之子),教治殷民,稱為「三監」。武王去世,周成王年幼繼位,由周公旦臨朝攝政,蔡叔與管叔等不服,聯合武庚一起叛亂,被周公平定後,蔡叔被放逐。以後,周成王又封蔡叔之子胡於蔡。蔡國立國約600年,西元前447年被楚國所滅,蔡國遺民仍以國為姓。
據史書記載,蔡氏得姓於蔡國,發展於濟陽,故蔡姓族人大都以「濟陽」為「郡望」或「堂號」,以志家世根源。
濟陽蔡氏最初是指居於陳留考城縣的蔡氏家族。濟陽郡始設於晉代,西晉惠帝時,將陳留郡一部分劃出設置濟陽國,後改為郡,治所在濟陽,領濟陽、考城諸縣,轄區相當於今河南蘭考、民權一帶。西晉永嘉之亂,漢人南遷,蔡氏族人亦隨之遷居江南、江東。隋唐之後,蔡姓在南北各地都有發展,而在東南沿海一帶尤盛,因此至今仍有「陳林王鄭蔡,天下占一半」的俗諺。
據莆田東沙《蔡氏族譜》和仙遊楓亭譜(蔡襄族譜)記載,蔡用元乃蔡氏入閩始祖,時在唐代。自蔡用元至蔡襄共六代。蔡襄乃北宋慶曆名臣,為官清正,政績卓著,擔任泉州太守時主持建造洛陽橋,名揚天下。在泉州,「青陽衍派」堂號的故事,更是蔡氏族人幾乎家喻戶曉的。在晉江青陽蔡氏祠堂的正廳,有這樣一副對聯,上聯是「裔出周代,肇基唐代,官封宋代,長綿百代振家聲」,下聯是「脈映濟陽,支分莆陽,派衍青陽,好就三陽開���運」。這副對聯概括說明了青陽蔡姓的源流和發展。溯本追源,青陽蔡氏根在濟陽,後又傳衍到福建莆陽,再由莆陽遷居青陽,故稱「濟陽——莆陽——青陽,三陽開泰」。
明崇禎年間,已有蔡鳴震自金門遷入澎湖。鄭成功率軍收復臺灣時隨之入臺的有不少蔡姓人,泉州、晉江、石獅許多蔡氏留在雲林、屏東等地墾植。明永歷年間,金門人蔡相將、蔡道賓兄弟等由金門遷居到澎湖。清康熙年間,又有南安人蔡為謝、蔡廷、蔡構等入臺開墾。經過400多年繁衍,如今臺北市區、臺北金山鄉、萬裏鄉、基隆市一帶,蔡氏蔚為望族。
蔡姓在臺灣繁衍發展,幾乎遍及臺灣全島各地。從南到北,從東到西,蔡姓的子孫隨處可見。據臺灣有關方面統計,臺灣的姓氏有1000多個,蔡姓名列臺灣百家姓中第8位,人口超過100萬。
蔡英文的祖上蔡攀龍(1738—1798),是大清一位大名鼎鼎的虎將,當年就是他率部一舉平定臺灣叛亂、收復了臺灣,保持了大清領土完整,受到乾隆皇帝親筆詔書嘉獎,榮獲一等功臣。
◎乾隆皇帝欽賜蔡攀龍「健勇巴圖魯」的名號
蔡攀龍本是貧苦出生,年少時以捕魚為生,因力氣頗大,被一老翁看上,覺得此人大有可為,便將自己的女兒許配給蔡攀龍為妻,並建議其從軍。他憑藉著自己的一身力氣參軍入伍,給自己拼一個美好的前程。聽從了岳丈的建議,蔡攀龍決定從軍。
行伍後,蔡攀龍很快就立下了戰功,並被提拔為廈門提標千總,分訊玉州。當時的廈門,海盜猖獗,時時侵擾中國東南沿海領域,身為千總的蔡攀龍假扮成商人,待海盜想要對商船搶劫之時,一舉將海盜捕獲。因為此事,蔡攀龍又被升為廈門守備。
此後,蔡攀龍步步高升,乾隆四十七年升為閔安左營守備,第二年的八月份又擔任金門鎮中軍左營遊擊,四十九年又被凋為澎湖右營遊擊。
乾隆五十一年十一月二十七日,林爽文率領義軍攻佔了彰化縣城,莊大田則從臺灣的南部發動起義,迅速攻佔了鳳山,這讓全臺灣都為之震動。
臺灣坊間傳言,駐臺的清軍準備放棄府城退守到安平,一時之間,府城從上到下人心惶惶。就在臺灣民眾因為林爽文起義而惴惴不安時,蔡攀龍奉福建巡撫徐嗣的命令率領700水師趕到了府城,雖然人並不多,但是援軍的到來暫時穩定住了臺灣府城的人心。
乾隆五十二年二月二十二日,蔡攀龍在收復鳳山的作戰中表現英勇,但是很不幸,總兵郝壯猷在鳳山受到了義軍的伏擊,軍隊被迫退回府城。
三月二十七日,林爽文和莊大田的義軍妄圖趁勢圍攻府城。蔡攀龍奉水師提督常青的命令固守府城近郊的桶盤棧,保護了府城周邊的安全。蔡攀龍由於在鳳山以及府城戰役中優秀的表現,被連升兩級,擔任臺灣北路協副領一職。
林爽文起義被鎮壓之後,蔡攀龍因為赫赫戰功被提升為海壇鎮總兵,不久又改任臺灣鎮總兵,後來還曾擔任過福建陸路提督。乾隆皇帝欽賜蔡攀龍「健勇巴圖魯」的名號,請畫師在紫光閣為其畫像,用來嘉獎蔡攀龍在平定臺灣所立下的戰功。當年那個貧苦的少年,變成了威風凜凜的總兵。
嘉慶三年,蔡攀龍在金門去世,後人將蔡攀龍的屍骨安葬在了金門徑林。蔡氏的後人也將蔡攀龍奉為入臺之後的第一先祖。
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usickyou · 2 years
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ニーナ
(ニーナちゃん①)
 はじめて出会った日と同じようにニーナちゃんは「朝ですよ! おきて、おきてくだせー!」と私のおなかに飛び乗った。「うう」と私はだらしなくうめいて、それからスマートフォンを見る。時間を確かめる。彼女はいつもアラームの五分前、計ったように私を起こしてくれる。こういう荒っぽい方法を取ることも多くて、それはちょっとだけ、最近の悩みの種だった。  アラームを止めたり予定を思い出しながら目を覚ましているうちに、「美優おねーさん」と彼女は私を呼んだ。「美優おねーさん、朝ごはんはどうしやがりますか?」と、うすく濡れた土の色をした瞳はかがやいた。  それは命をはぐくむ色だ。私はその目で見つめられると、いつも背中がまっすぐになっていくのを感じた。 「どうしようかしら」とつぶやいて、私はベッドを離れる。カーディガンをはおると、リビングの扉を開く。そこには淡くくすんだ五月の朝日が降っていて、少しだけ先の未来を、ソファやダイニングテーブルを優しく温めた。  この家が好きだった。好きになった。彼女と出会ってやっと、私はこの家に規則正しく降る朝日のことを知った。もっとも、それは彼女と出会う前には存在していなかったようにさえ思える。 「ニーナちゃんは、なにが食べたい?」と私は言う。 「たまごやきです!」と彼女は答える。はきはきと大きな声で、嬉しそうに。 「待っていてね」と私は言う。  キッチンのフックにはエッグパンがひっかけてあって、それを手に取るとき私はいつも途方もない喜びにおそわれる。目の前はくらくらとして、息がうまくできなくなる。その感覚はやがておさまるけれど、なくならず、私の中に溶け残った。定着した。少しずつ、心にあった白が色づいていくのを感じた。  隣では、彼女がお野菜をちぎっている。大人のために作られたキッチンで、背を伸ばして、ガラスのボウルの冷たい水にあおい葉っぱを浸している。  私は、夜の残りのスープを温めはじめると、バターロールをオーブンにかけた。それから、玉子を三つ割ってとかすと、お砂糖をいれてまた混ぜた。エッグパンにバターを溶かして、充分に温まったのを確かめると玉子を半分流し入れた。すると、気泡を潰したり玉子を折ったりするので手元が忙しくなる。「ニーナちゃん、サラダの盛りつけもお願いできる?」と言うと、彼女は嬉しそうに「はい!」と言う。もう半分を流し入れると、半熟のところができないように、焦がしてしまわないように、丁寧に焼いた。お皿の上にペーパータオルでくるんで、粗熱を冷ます間にスープやバターロールを盛りつける。彼女が次々テーブルまで運んでくれるから、私はホットミルクをレンジで温めた。「熱いから、気をつけて」と手渡すと、「平気でごぜーますよ」と彼女はスヌーピーのマグを誇らしげに受け取った。  ダイニングテーブルで、私たちは隣どうし並んで座る。食卓はもうはじまりを待っていて、私は、もったいぶるみたいにウッドプレートのたまごやきに包丁を入れる。黄金と真珠を溶かし合わせたみたいな断面に彼女が感嘆の声と拍手をくれてから、やっと「いただきます」と声を揃えた。待ちきれなかったみたいに彼女はたまごやきにお箸を伸ばして、ひと切れをほおばる。小さなお口はいっぱいになって、彼女はおなかの底からの喜びの声をあげる。足をばたばたさせたり私の手を取ったり、世界中の宝石ぜんぶをぎゅっと凝縮しような瞳で、私を見つめたりする。 「飲み込んでから、ね」と言いながら、私はもうお行儀とかそんなことはどうでもよくなっていて、彼女の真似をしてたまごやきを口に放り込む。  すごく、甘かった。これまで生きてきた中でいちばん甘くて、おいしくて、���せで、私は飲み込むと「ありがとう」と思わずこぼした。おかしなことに。 「こちらこそ、ありがとうごぜーます!」と彼女は言った。ふた切れめをお皿に置いて、「美優おねーさんのたまごやきが、ニーナはいちばん大好きです」と笑った。  彼女のくちびるの端にはちっちゃなかけらがついていて、私はそれを指でぬぐうと「でもね、どれもバランスよく食べなきゃだめよ」と言った。彼女は「えへへ」とはにかむと半分のたまごやきを食べて、サラダやスープに手をつけはじめる。  たっぷり時間をかけて、ごはんや瞬間のひとかけらひとかけらを味わい尽くして、「ごちそうさまでした」とふたりで声を重ねた。それから私は、盛りつけたときと同じ、全て残ったままの彼女のためのものだった料理にラップをかけたりお弁当箱に移したりした。  本当に、ゆっくりと時間をかけたのであとは急いで、洗い物や身支度を済ませる。遅れはしないだろうけど、タクシーを使った方がいいかもしれない。そんなふうに思いながらパンプスを履くと、彼女が私を呼ぶ。玄関には段差があって、私たちの目線は同じくら���の高さになる。  私は「行ってきます」と言って、彼女の頬にキスをする。彼女はぎゅっと目を細めて、私にキスのお返しをすると「気をつけて行ってきてくだせー」と大きく手を振る。私は手を振り返しながら扉を閉じる。その瞬間あたりはふっと静かになる。廊下の真っ白な明かりが、私の影だけを色濃く落としている。  このときを待っていたように、スマートフォンが震えた。 『おはようございます。今日は夏日になるみたいなので、おひさまーにやられないようにがんばりましょう』  楓さんからのトークは続いた。 『お弁当、はりきって作っちゃいました。楽しみです』  私はしばらく画面を眺めた。そのうちにエレベーターを呼んで、返事を悩んだ。マンションを出てからもしばらくそうして、タクシーに乗るとやっと、とりとめのない返事をすることができた。  私はきっと、恋をしていた。はっきりとしない、惹かれ方さえもわからない不確かな恋を、彼女に。
(楓さん①)
 年始頃の共演をきっかけに、一緒の仕事が増えた。多くは撮影、ラジオのマンスリーゲストや一度だけの旅番組。並んだときの画や穏やかな会話のリズムがいいと言われて、実際、仕事の評判も良いと聞いた。楓さんはまっすぐ喜んでくれて、二人で食事をしたり外でお酒を飲んだりする機会も増えていった。私も嬉しくて、笑っている時間が増えた。日々が明るい色に染まっていくのを感じた。 「今日は控えめですね」と言って、彼女は小さく笑う。その表情は五月の木陰にある清い日射しを伴って、夏日だなんてすぐに忘れさせた。「でも、足りますか?」 「実は時間がなくて、ほとんど残りものなんです」私は苦笑いをしてみせると、鞄から百円のミニクロワッサンを取り出してもっともらしくつけ加えた。「それにこれ、マイブームで」  彼女は頷いて「それは、ほっとしました」と言った。  二人でする、とりとめのないやり取りが好きだった。お弁当箱の中を見比べたり、公園をはしゃぎ回る子どもを目で追ったり、そういうこと。私はいつも、そんなとき空間が明確な形を失っていくように感じた。私たちを取り囲むものごとの一つひとつがゆっくりと混じり合い、この世界が、近い場所から次々塗り変わっていく。元あったものは同じようにありながら、まるで違う意味を持つ。それは目覚めの予感に満ちていて、雪融けの地平をのぞむ瞬間によく似ていた。 「提案があるんです」と彼女は私の目を覗く。その目が見れないとか胸が苦しくなるとかそんなことはなくて、私はその視線に触れると、優しくなりたいといつも思った。「たまごやきを、いただけませんか。もちろんただとは言いません、私からはこちらのマスカットを」 「釣り合いませんよ」と私は少し笑って、お弁当箱を差し出す。彼女が欲しがってくれたなら、たぶん、私にはなんだって惜しくないような気がした。「どうぞ、お好きなだけ」 「では遠慮なく。それと、どうぞ」楓さんはたまごやきの最後の一つを箸で取って、空いたところにマスカットを何個か転がした。ちょうど木もれびを反射すると、それは宝物みたいにかがやいて見えた。「私、美優さんのたまごやきが好きなんです。これ、言いましたっけ?」 「甘いのがお好きなんですよね」 「そう、そうなんです。私の母が作るといつもひき肉とか青菜が入っていて、なんて言うんでしょう、なんだか大げさで」 「おいしそうですけど」 「おいしいんです。でも……残念、うまく言葉にできないみたい」 「思いついたら教えてくださいね」  私がそう言うと、楓さんはどこかぼんやりとした表情を見せた。なにかおかしなことを、と私が慌てるとすぐに笑って、とても楽しげに「覚えておきます」と言った。  それからたまごやきを口にして、もう一度「覚えておきますね」と笑った。
(ニーナちゃん②)
 六月に入るとすぐに雨の日が続くようになった。元より休みの日に好んで外出する性格ではないので、食べ物の管理が手間だとか洋服を選ぶときに悩まされるとかの些細なことが気になるくらいで、あとはおおむねこの季節が好きだった。静かに漂う倦怠の空気や彩度をうしなう景色に時おり咲く黄色い傘、何より、雨音。その優しい音を聞いていると、私はいつも許されるような心地がした。  許されるか、許されないか。それが私の人生を形作ったように思う。  今は、少し違うけれど。 「美優おねーさん見てくだせー、こっちです!」とニーナちゃんが呼んだ。テレビを眺めながら、きらきらとその目がかがやいている。私は早採れのスイカを切り分けていたので「ちょっとだけ、待っててね」とキッチンから声をかける。ちゃんと言われた通り彼女はちょっとだけ待って「早くはやく!」と言った。  半分のスイカを切り終えるまで、もう一度そんなやり取りをくり返した。  テレビには遊園地の光景が映っていて、今はちょうどレポーターの女性がジェットコースターに乗り込むところだった。映像はヘッドカメラに切り替わり、いくつかのギネス記録を更新したという回転数とか最高速度を画面越しにまざまざ見せつける。私は何度か視線をそらしたし、そのたび彼女が膨らませる期待を目にした。  放心状態になったレポーターが何かのクイズに答えているところを眺めながら、「乗りたいの?」と私は訊く。にこにこと笑いながら、彼女は大きく頷いて「乗りてーです!」と答えた。 「じゃあ、一緒に行きましょうか」 「いっしょに! ですか?」 「ええ。関西だから、そうね……連休のときに泊まりがけで行くとか、ジェットコースターだけなら近くでも乗れるから……」 「美優おねーさん!」と、彼女がとつぜん飛びついてくる。手にしたスイカがちょっとこぼれて、頬を濡らした。私は少し慌ててティッシュで拭うのに、彼女はくすぐったそうにして、「約束ですよ」と目をぎゅっと細めた。 「約束、ね」と私はくり返して、小指を差し出す。結ばれてもしばらく、彼女は膝の上を離れなかった。  けれど世の中は、時として残酷な表情を見せる。テレビに表示された『12才、140cm以上から』というテロップは、いとも簡単に私たちの間に芽生えたささやかな夢を摘み取ってしまう。  彼女は、理解したみたいだった。それでジェットコースターには乗れないとわかると、ひどく寂しそうに笑った。私は、そんな表情は見せてほしくないと思う。ニーナちゃんには、物わかりがいいみたいに笑ってほしくないと、そう。  メリーゴーラウンドが回っている。やわらかに、真新しい白い馬やハートの馬車はくるくると音楽に合わせて。  膝の上に、彼女の呼吸を感じる。温かくて、ちょっと重たい。さらさらの髪はなんの抵抗もなく私の指のあいだをすり抜けていく。  私は「もう少し、大きくなったらね」と言って、頬をくすぐる。親指のおなかで、そっと。
(楓さん②)
 日付をまたいでしばらくした頃に意識を取り戻すと、目の前に楓さんの寝顔があった。はじかれるように飛び起きて、足のしびれに悲鳴をあげそうになる。起こした方がいいのかまだわからなかったので、声をあげずにしばらく耐えた。  彼女はソファで眠っていた。うつらうつらとかではなく、深く。私がさっきまで伏していたテーブルにはお酒の瓶や空いたグラス、乾きかけたクリームチーズなんかがあって、だいたいはそれでわかる。  素敵な一日だった。楽しいこと、嬉しいできごとばかりが続いて、私たちは時間も忘れてはしゃいだ。いつものお店から二軒目、高架橋の上から乗り過ごした電車を眺めるとタクシーに乗って、ごく自然に宅飲みをすることが決まった。  楓さんと、ふたりでする、初めての。  私は、彼女の眠る姿をじっと眺める。私より高くて、華奢で、繊細なかたちをした体を窮屈そうにまるめている。胸には水色のクッションを抱いていて、生きているなんて信じられなくなるくらい静かだった。  きれいだった。  紅色の頬はもう、メイクなのかお酒のせいなのかわからない。けれど目のきわ、一日の仕事をすっかり終えたマスカラがうっすらほころんで、いつもより彼女をつややかに映す。あんなふうに、子どもみたいに声をあげて笑っていたのに、と私は思う。あまり不思議で、見せてくれたたくさんの表情を彼女の寝顔にしばらく重ねた。  それから膝で、少しだけ彼女に近づいた。  私は、酔っていると思う。  メイクを落としたりシャワーを浴びたり、ちゃんと明日のための準備をしないといけない。もう大人なのだから、それこそ子どもみたいにこのまま眠るなんてそんなの、と。 「楓おねーさんが好きでいやがりますか?」ニーナちゃんが突然言った。私が答えられずにいると、「ニーナは、美優おねーさんが大好きですよ」と言って、背中から抱きしめてくれた。  優しく、羽根みたいに。  私はしばらくそうして、立ち上がる。しっかりメイクを落とすとシャワーを浴びて、テーブルやキッチンを片づけた。  そういう支度を全部済ませて、楓さんを起こす。それからふたり、別々に眠るまで二時間くらいかかった。
(ニーナちゃん③)
 ニーナちゃんの髪は、とても柔らかい。細くてつやがあって、トリートメントを指でなじませるとき私はいつも、こんなふうになめらかな日々が続けばいいと思う。思わず手を止めていることもしばしばあって、「どうしやがりましたか?」と彼女は振り返って愛らしく首をかしげる。私は小さく笑って、「じっとしてなきゃだめよ」とたしなめるみたいに言う。  彼女は「はあい」と答えて、足をぱたぱたさせた。  髪や体をしっかり洗うと、私たちはバスタブに体を沈める。ぬるめのお湯に、ちゃんと肩まで。そこでも私の腿の上が彼女の定位置で、私たちはだいたいの時間をくっついて過ごした。さすがにあひるさんを浮かべるような歳ではないけれど、手遊びや歌、それから他愛のないおしゃべりが絶えず満ちていて、バスルームは私たちの天国だった。  いつも、ここはそういう場所だった。  天井も壁も床も、照明も、乳白色のお湯や彼女の歌声も、天国には白い光を放つものばかりがあって、だから、違う色が混じるとすぐにわかる。今はそれが私で、少しだけ温度を熱くしすぎたかもしれない、そんなことを思いながら彼女を抱きしめた。彼女はびっくりして笑って、それから迷うみたいに私を呼んだ。  彼女の体は、小さい。こうして抱きしめるとすっぽり胸のうちにおさまって、出会ってからずっと眠るときはそうした。私はまるで、たましいの奥まで包まれるように深く眠ることができたし、朝になるとその日いちにちの舞台を踊りきる元気をおなかの奥底に感じた。出かけるときは「いってらっしゃい」と、帰ったら「おかえりなさい」と必ず言ってくれた。どこか透明だった部屋に、少しずつ日の光や月明かりが射し込んだ。  今、私を呼ぶ声が聞こえている。ふしぎそうに、どうしやがりましたか、と私に訊ねている。  ゆっくりと、抱きしめた腕をほどくと彼女が振り返った。「美優おねーさん」ともう一度、お日さまみたいにまぶしい声で、私を呼んでくれた。  私は、彼女の頬をくすぐる。そうして、「今日、好きな人とキスをしたの」と告白をする。
(ニーナちゃん④)
「おさんぽしてーですよ」とニーナちゃんが提案をした。私も、長湯で温まりすぎた体を冷ましたかった。  外は涼しくて、心地良かった。互いの足音がはっきり聞こえるくらい静かで、それでも、どことなく湿った空気は夏を感じさせた。  迷いなく先を行く背中に「どこまで行くの?」と訊ねてみた。彼女は振り向くと笑って「わかんねーです!」と答える。それで私は、そうだ、これはお散歩だったんだと思い出す。  でも、だったら、ひとりでなんて行かないで。  少しかけ足になって彼女の手をとると、それからはふたり並んで歩いた。  私たちは明るい道を選んだ。街灯が多くて、立ち並ぶ家々から生活の明かりがこぼれる、そういう道。だけどこの街は私が知っているよりずっと狭く、すぐに大通りへたどり着いてしまう。誰もがこぞって家路をたどるような時間ではないけれど、そこには絶えず人の気配があって、広い道に途切れることない車列が続いた。ヘッドライトが、細くながく伸びるふたつの影を照らした。  地下鉄の入り口や小さな神社を横切ると、階段が見える。歩道橋へ、彼女はのぼりたいと言う。  そこはひどく古びていて、一歩踏むたびに骨組みは大げさな音をたてた。ほど近くに信号があって、今はあまり使う人もいないのだと思う。柵は錆びついていたし、うっすらと積もった土からは青々した草が寂しげに顔を覗かせている。  中心まで進むと、私たちは橋の下を眺めた。  次々と、光が過ぎていく。まっすぐな道を信じられないような速さで、どこまでも遠くへ行って、やがて消える。この橋を揺らすくらい巨大でも、街路樹に覆われるほど微小でも、等しく。  あとに残る光の像も、目を閉じればそこにもうない。 「楓さんが、好きでいやがりますか?」とニーナちゃんは言った。楓さんとは、ちょうどこんな場所でキスした。表参道の、地下鉄入り口のすぐ近く。そこはもっと新しくて、きれいで、夢みたいに誰もいなかった。私たちは橋��中心までくると、どちらからともなく近づいて、触れ合った。ごく自然に、長い年月を連れ添った二人がするみたいに、優しいしかたで。  楓さんは階段を上がるとき、「星は、見えるのでしょうか」と言っていた。だけど私たちは駅のホームで手を振って、別れた。  私は、やっと答える。 「私ね、ううん、私たち、惹かれ合ってるみたい。もう、どうしようもないくらいに」  それを聞いてニーナちゃんは「じゃあ、大丈夫でごぜーますよ!」と笑って言った。私は「ありがとう」と言うと、繋いだ手が離れていたことに気付く。 「追いかけっこですよ」と彼女は言った。「ニーナが先で、美優おねーさんがあと! 六十かぞえたら、おうちまで競争です!」と、いつもと同じ元気な声で。  私が頷くと、「よーいどん!」と言って彼女は走り出す。橋を渡ると階段を下りて、もと来た道をどんどん進んでいく。驚くような速さで、まるで飛ぶように通りを駆け抜けると角を曲がってその姿は見えなくなる。  私はぴったり六十数えて、スマートフォンを手にする。楓さんにコールをして、遅くにすみませんとかの挨拶を終えると「今から、会えませんか」と告げる。  通話を終えるころには、すっかり声が震えていた。心臓はどきどきして、体が熱くて仕方がなかった。  私は「よーい、どん」と言う。そうして、彼女のことを追いかけはじめる。  あの、まっすぐな心を。ぴんと伸びた背中を。  もういない、小さなお友達のことを。
(楓さん③)
 その日のことを、はっきりと覚えている。  二十二時までの生放送を終えてラジオ局を後にすると、私たちはなじみのお店へ向かった。そこは小じんまりしていて、静かで、休日でも遅くまでやっているから二人でいるときの定番だった。  珍しく翌日は二人ともオフで、最初から(私たちにしては)盛り上がっていた。モンラッシェの白、14年から始まるとお酒や言葉の小さな花は絶えず咲いた。お店が閉まるころには心に花束があって、抱えながら二人でふらふら歩いた。もう春はそこまで来ているのにひどく寒くて、繋いだ手はタクシーの中でさえ離れなかった。  先に降りたのは楓さんだった。マンションに着くと「はあい」と楽しそうに言って、タクシーを降りた。私も上機嫌のまま「気を付けてくださいね」と車内から声をかけて、扉が閉まった。  それからのことは、ほんの数秒でしかなかったと思う。  彼女が何かを言った。窓越しに、スモークガラス越しに何かを言ったということだけがわかった。聞こえません、と私は言おうとした。聞こえません。いつの間にか彼女は今にも泣きそうな顔をしていて、別世界の窓の外から、何も聞こえないとわかっているのに、また言った。その姿がエントランスの壁にまじって消えていった。私は心の中で言った。聞かせてください。何度も、何度も。  彼女は手を振った。笑顔に見送られて、タクシーが走り出した。あまりずっと外を見ているので、運転手さんが「戻りますか?」と訊ねた。私は「いいえ」と言って、住所を伝えた。  部屋に戻ると習慣に体を預けて眠るまでの支度をした。寝てしまうまでそうできたら良かったのに、ベッドの中で彼女のことばかりを考えた。一緒の部屋に帰ったらかわりばんこにお風呂を済ませて、大きくはない洗面台で並んで歯みがきをして、二人で眠れたならとか、おやすみなさいとまどろみの中で笑って言えたならとか、そんなことを。  次の日、「朝ですよ! おきて、おきてくだせー!」という声と思いもしない衝撃で目を覚ました。「うう」と私はだらしなくうめいて、おなかの上の少女を眺めた。彼女は「おはようごぜーます!」と言って、それから、「ニーナでごぜーますよ!」と元気な声で名乗った。  私は「ニーナ、ちゃん」と呼んだ。ニーナちゃんは、「美優おねーさん」と笑った。そうやって私たちは出会うと、ゆっくりと互いを知っていった。  ニーナちゃん。  誰も知らない、私だけのお友達。
(三船美優と市原仁奈①)
 二人とも次の予定が事務所だったのと、しばらく時間があったのと、そういう理由で近場のカフェに落ち着くことにした。年の瀬を控えた街はどこか閑散として、あたりはひどく寒かったから、体が温まるまでゆっくりと過ごした。そうなってしまうと私たちは長いので、そろそろ動かないと昼食の時間が怪しいという頃になってようやく席を立つ。楓さんがトレーを片づけてくれたので、私はまだ途中の、頼んだばかりの二杯目のカップを持って店を出た。 「ありがとうございます」と言って、彼女はカフェモカを受け取る。そのときに、私の手の甲をそっと撫でていたずらに笑った。 「こちらこそ」と私は答えて、逃げていった指先に一瞬だけ触れた。  彼女にはそういう、子どもみたいなところがあるのは知っていた。私にもまた、同じような子どもが眠っていたのだとはじめて知った。  恋人になって、やっと知ることがたくさんある。相手のことも自分のことも、数え切れないくらい。  そのうちの一つ、お弁当のこと。  私はOL時代の習慣があって、朝食をそのまま詰めたりする。彼女は朝が弱いから、夜のうちに準備を済ませることが多い。それと、本当に不思議なことに、一緒に作って中身なんてぜんぶ知っているのに、せーのでお弁当箱を開く瞬間はいつもわくわくした。少しだけ違うものを詰めてそれを交換するとき、嬉しくて泣きそうになった。  そんな時間を味わっていると、ふと彼女が何かに気付く。私の後ろに向けた目をぱっちり開いて、柔らかく細めると小さく手を振る。誰か来たのかしら、と私は思う。このラウンジはいつも日が射していて心地良いから、今日みたいに誰もいないことはむしろ珍しい。最近は私たちがここによくいるからと、友人がお昼を食べに来ることもよくある。 「こんにちは」と楓さんが言った。つられて振り返ると私は、私だけの小さな奇跡を目にした。  かわいらしい女の子がそこにいて、彼女は怖じ気づいたり戸惑ったりすることなくすたすたと近付いてくる。そうして、「こんにちは!」と元気よく答えた。 「あらいいお返事。お名前を教えてくれる?」 「市原仁奈、九歳ですよ!」 「仁奈ちゃん、お母さんかお父さんは?」 「おかーさんは今、大人のおにーさんとおはなししてやがるです。仁奈はおとなしく待ってるですよ」 「偉いのね、すごくいい子」 「あたりまえですよ、だって仁奈はアイドルになるんですから!」 「まあ、そうなの……仁奈ちゃん、私たちもアイドルなのよ」 「すげー! おねーさんたち二人ともそうでいやがりますか?」 「ええ、私は高垣楓っていいます。こっちのお姉さんは……」  そう言って、楓さんは口をつぐんだ。少しして、やっと促されていると気付くと、私は「三船、美優です」と答えた。 「楓おねーさん、美優おねーさん」と言って、彼女はにっこり笑った。そうして私たちの手もとを見ると、きらきらと、目を輝かせる。  まるで、世界中の宝石をぜんぶ集めたみたいに。 「お弁当、すげーです! おねーさんが作ったですか?」 「ええ。お姉さんたち二人で作ったの。仁奈ちゃんもご一緒しませんか?」 「しやがります!」と答えて、彼女は同じテーブルにちょこんと座る。何度も二つのお弁当箱を見比べて、はじめにたまごやきを口にすると頬を手でおさえて、幸せそうな声をあげた。  私は「おいしかった?」と言う。彼女が頷くと、「ありがとう。いつでも作ってあげるからね」と続ける。「いいんですか?」と彼女が言うので、「もちろん」と答えた。  私は、そうしたかった。望むことは、なんでもしてあげたかった。甘いたまごやきを作るのだってこんなふうに飽きるまでおしゃべりをするのだってそう。膝枕も、おふろで髪を洗ったり遊園地に行ったり、何より手を繋いで歩きたいと、そう思った。  けれど私には、いちばんにしたいことがあった。  私は、仁奈ちゃんを見る。しっかり背中を伸ばすとまっすぐにその瞳を見つめて、「言い忘れてたことがあったの」と言う。彼女は「なんでごぜーますか?」と首をかしげる。楓さんも、どこか不思議そうに私を見ているのがわかる。  あの子と過ごした日々が、駆けめぐった。たくさんの、光の反射みたいに。  私は、仁奈ちゃんの髪に触れる。さらさらの髪を指で梳かすと、頬をなでる。彼女はくすぐったそうにして、私の手をとった。あの子と同じ感触に思わず笑うと、私は「はじめまして、仁奈ちゃん」と言う。「はじめまして美優おねーさん!」と仁奈ちゃんは答える。そうやって、私たちが始まる。
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『毎日会いたい。』  https://twitter.com/Street195B/status/1016335180938633216
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greenpens-world · 1 month
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2024/02
去了那座荒涼的小島,天空灰濛濛的,早上還有綿綿細雨。人口以前曾經破萬人,現在已經減少到七千人以下。
剛下了船,頭還是沈沈浮浮的,昨天的夜晚好奇幻。
「啊!看不到~」嬌小可愛的女孩墊著腳尖,伸頸想看遠方的橋墩的七彩燈光。
「我幫妳~嘿呦~」一旁眼睛水汪汪的優雅女孩竟然從後把她抱起。
這幅溫馨景象讓我有些遲疑。我做不到這些事情,永遠也無法融入他們。
三十歲以下的單身女性,選美的標準好嚴苛。
回來後突然覺得精神好虛弱,做什麼事情都提不起勁。好像留了一部分的靈魂在那個開著山茶花的小島,明明沒有受到驚嚇,卻想去收驚。
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油壺溫泉在海邊,溫泉水源自於因地層板塊變動隔離的海水,因海藻、草木融入其中,而形成化石溫泉。富有腐植酸,據說有保濕功效。
溫泉鹹鹹的呀!
蔚藍海水搭配粉艷櫻花,這幅溫泉絕境絕對是我人生中數一數二的。
風很強,吹得一旁的高高長長的棕櫚樹搖搖晃晃,櫻花花瓣也禁不起這勁力,不停散落,無能為力。
櫻花落在冒著煙的溫泉水上,小小粉色花筏順水流動。
「好可惜,這家溫泉今年三月中就結束營業了,這麼漂亮的風景再也看不到了……」我感到很惋惜:「今年河津櫻也開始散落了,明年要去哪裡賞櫻呢?」
「如果這是你這輩子最後一次看到櫻花,你會怎麼辦呢?」有個聲音突然問。
我從來沒有想過這個問題,因為櫻花每年都會綻放,錯過今年,可以等明年。如果,眼前這棵櫻花樹是我人生最後一次賞櫻,之後再也無法賞櫻了,要怎麼辦?
很驚訝自己好像沒有想像中那麼可惜,因為我已經看過大大小小的櫻花,覺得已經很夠了。
今年櫻花季提前,還不到三月,河津櫻都已經長出粉嫩綠葉,櫻花瓣也逐漸飄落。
沒幾天,妹妹傳訊息給我:「爸爸說阿嬤狀況很不好,讓你準備一下。」
我克制不住自己在回程的電車上哭了,免洗口罩都濕透。
「你覺得已經很夠了嗎?」那個聲音不停敲打著我的頭。
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從敵方不停的發射來的炸彈打在我身邊,每一次都帶來好大的漣漪,我們的堡壘已然千瘡百孔。
炸彈在我身旁炸裂,以前我都直接蹲下,讓旁邊的人接球,並處理化解強大的波動,自己只是躲避逃跑,讓衣服一塵不染。
現在我嘗試站起,並以自己的力量接受巨大波動。
那個重量和力道讓我一度覺得自己承受不了,但每一次我都覺得是一種成長。
航海王最近看到ビッグマム篇,對手太強勢,實力落差太懸殊,所以魯夫一行人簡直面臨快滅團的邊緣。
現實生活總是這樣,好多時候會突然出現多數強大的攻擊,讓人招架不住。
你怎麼能獨善其身?
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[パルファム・ゼラニウム]三船美優 by *Motodo
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