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#中禅寺湖で朝活
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helloharuo tour 2014
Wednesday 16 April 2014
真観は、箱根の旅館に向かった。箱根までは約1時間で到着。この旅館でチェコから来ている観光者Dと初対面。昨年知り合ったチェコの女性Mからの紹介だった。Mは、大学で心理学の教授をしているがその彼女のクラスの生徒の母親が日本に来て箱根に泊まる。その彼女の箱根エリアの観光案内をして欲しいというリクエストだった。真観は快く承知した。9時にDが滞在してい旅館の前で彼女と合流。DとはFacebookで既に繋がっていて何度かメッセージのやり取りをして交流を始めていた。真観は彼女を車に乗せて「helloharuo tour 2014」をスタートさせた。旅館の前には橋が架かっていてその橋の両側に鯉のぼりが何体も風に吹かれて泳いでいた。鯉のぼりの意味をDに話すとチェコではポピュラーで食用するとのこと。真観には新しい情報だった。Dがお茶に興味を示していたので真観は強羅公園に先ず向かった。この公園には茶室があるからだ。強羅公園の入場料は500円。茶室に着いて抹茶とまんじゅうセットで500円。簡易的にサービスされ後は3カ所の茶室を回った。湯を湧かす為の正方形の小さい炉を塞いでいた畳をひっくり返してDに炉について説明すると『畳がこんなに厚いとは知らなかった』と言った。彼女には意外だったんだろう。真観たちがこの茶室を去る時に外国人の団体がやって来た。Dは、彼らの言葉を聞き『ロシア人だわ。チェコ人はロシア人は好ましく思っていない』と言った。真観はその意味を理解していた。それはかつて1968年に起きたロシア侵攻、いわゆる「プラハの春」があったからだ。Dは、チェコでアメリカのパソコン関係の会社の弁護士をしている。歳は真観の1歳上。初めて会った真観だったがDのオープンな性格と真観のオープンな性格がマッチしたのか一緒にいて会話は弾んだ。次に向かったのは富士屋ホテル。ジョンレノンも泊まったと言うホテルならば印象も深まるだろうという真観の案だった。このホテルは、つい先月Kちゃんと訪れたばかりだった。和洋折衷のホテルはDにとっても興味深く感じた様で連れて来て良かったと真観は思った。次に予定していたのは富士山須走口。箱根からR138、そして東富士五湖道路のインターに入った。そして真観は道を間違えたことに気付いた。仕���なく一つ目のIC、山中湖で降りて真観はiPhoneで富士山須走口を検索し一般道路で引き返すことにした。山中湖に差し掛かった時ランチの時間でもあったのでイタリアンレストランを見付けて入ろうとしたら休日だった。これまた仕方なく富士山須走口を見付けることを第一優先と考え車を進めた。まもなく「須走道の駅」を見付けてここでランチを食べることにした。そして真観はやっと富士山須走口に行く為には東富士五湖道路に入っては行けないんだと悟った。「須走道の駅」のレストランは富士山がバッチリ見えるレストランで二人とも「富士山カレーライス」を食べた。このカレーライスのライスは富士山に見立ててライスの盛りつけをしていて日本人の芸の細かさをDは知った。さて食事も終わり富士山須走口に行こうと車を走らせた時更なるどんでん返しがあった。雪でまだ通行止めだというのだ。確かに富士山に雪が積もっているのは茶畑庵からも確認出来ていたがこれは大きな誤算だった。富士山須走口を目指したのはそこから行ける「小富士」に行きたかったからだ。う〜ん、残念。
Dは真観の観光案内にフレキシブルに対応してくれて『富士山が見れればそれで十分』と言ってくれた。真観は気を取り直して古巣十里木高原へと向かった。R469を上り忠ちゃん牧場の先にある富士山絶景スポットに案内。Dは大変感動してくれて何度も真観に感謝を伝えた。今日の富士山は空にガスがあり少し霞んでいたが標高1000mの十里木高原に来たらすこしばかりクリアーに見ることが出来た。そしてさらちょっとした感動をと真観は思い十里木展望台へと向かった。途中真観はDに東京から静岡に引っ越しをするきっかけになった友人のペンションも紹介する。そうやってDとの道中お互いのことを話して打ち解けて行く。Dはご多分にもれず?離婚を経験していたり、その訳あって子育てで子供に辛い思いをさせたことや社会主義時代のチェコの話をしてくれた。真観も出身地から上京しカメラマンになるまでの経緯や日本についての考え等を話した。十里木展望台の駐車場には車が沢山停まっていたが人気はなかった。そして約10分2人は展望台へと登って行く。Dは少々運動不足の日々を送っている様で途中途中立ち止まっては休憩しながら登った。展望台に着くと気持ちよい絶景が待っていた。二人ともこの時ばかりにカメラの機能であるパノラマで撮影をする。そうやって撮りたくなるほど景色はパノラマに広がっていた。当初「小富士」に行く予定で観光案内のスケジュールを組んでいたが諸々で変更となりその分時間に余裕が出来ていた。真観はDに箱根に帰る前に茶畑庵を紹介したいと言った。Dは、茶畑にも興味を持っていたので丁度いいと真観は思った。そして外国からの観光客にとって日本の家屋の造りを見るのも良かろうとの判断だった。茶畑庵の到着すると庵内に入る前にバックヤードにある茶畑に案内した。天気が良ければ富士山が茶畑の向こうにそびえるのだが富士山は雲のベールでかすかにシルエットだけだった。この茶畑庵のバックヤードにある茶畑は茶畑らしい?形状を持ちとてもフォトジェニックである。茶畑庵の中に入ると真観はDに各部屋を紹介した。それはいつも茶畑庵に初めてやって来訪者たちへの恒例の案内。Dは、キッチンや壁の素材に興味を示した。それとバスルームで使う桶は何の為にあるのか?と質問して来た。恐らく日本の旅館に泊まった際に温泉の浴場に置いてあったのだろう。立ちながらシャワーをする欧米人には不思議なモノに写るのだと思う。真観は、バスルームに入って水のないバスタブから水を汲む振りをしてどう使うかをジェスチャーで紹介した。次は寝室そしてリビングと移りオーディオルームやレコードの説明そして坐禅部屋で坐禅の組み方も披露しDにも体験してもらった。英語で禅について説明するのは難解なのでインターネットで調べてほしいと頼んだ。2回に上がり仕事部屋から見える富士山を見たDは真観をうらやましがった。外国人にも富士山は憧れの山ということだろう。ライブラリー室に移ると真観は自身の作品、今回はウェディングアルバムの数々をDに見せた。Dは、一枚一枚ページを丁寧にめくり見ていた。ウェイディングは各国共通項の行事。ウェディングにどれだけの費用が掛かるのかとかどうしてお色直しをするのか興味津々だった。
夕暮れになり時間も6時近くになって来た。そろそろDを箱根の旅館に戻す時間になった。真観は茶畑庵を出発してDに真観が毎朝通う禅寺に案内した。禅寺には枯山水の庭があるのでツアーの最後に紹介したかったのだ。Dは真観の坐禅についての話を彼女なりに汲み取って自分の生活に何かが足りないのかもと気付いた様だった。真観自身がそうだった様に。
もう空は暗くなりヘッドライトを点灯してのドライブになった。朝Dと話した時に旅館でのディナータイムは7時半からだと聞いていたので今回のツアーはそれまでには終えようと真観はスケジュール調整して観光案内をした。
真観の車アーティ21スペシャルが旅館に着いたのは7時13分。 「helloharuo tour」はこうして無事に終える事が出来た。 Dとはこれからもkeep in touchで行こうとハグをして別れた。 いい出会いに感謝。
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yachoken · 1 year
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学生バードソン2022(セッキレイズ)
はじめまして、3年のいちごショートケーキです。
今年もバードソンに参加してきましたので、その様子をお伝えしたいと思います。
11月20日(日)天気は曇り。午後からは雨の予報になっていました。
まずは、チーム「セッキレイズ」メンバーの紹介から。
「私、迷わせません」天才ナビゲーター、3年の“うり“!
「千葉県が生んだ奇跡の鳥好き」鳥狂人、3年の“いちごショートケーキ“!
「わしが記録すればいいん?」スーパータイムキーパー、3年の“ザキ“!
「雨の首都高は任せな」、頼れる女ドライバー、3年の“あすか“!
「狙った獲物は必ず撮る」、超美女バーダー、3年の“すー“!
「スコープはお手のもの」、心優しきイケメンバーダー、3年の“りった“!
昨年のエッフェルズの遺志を継いで、セッキレイズ華麗に舞う!
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AM4:00起床。
昨日はゆっくりお風呂に入って、ふかふかのお布団で眠ったので英気は十分です。
いざ、奥日光に向かいます。
競技は奥日光の森の中からスタートなので、暗い森の中をスタート地点まで歩いていきます。
気温は約4℃。ヒートテック&ウルトラライトダウンでも防げない寒さが辛いです・・・
とここで前方を歩いていたあすかが何かを見つけた模様。
「え、これクマのあしあとじゃない?」
は?
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まさかのまだ湿った新鮮なあしあと発見です。
マジで怖すぎるんですが・・・
野生動物に詳しいうり大先生によると、どうやらツキノワグマの足跡らしいです。
私たちが歩いていくはずだった木橋の上に延々と続く足跡・・・
少し手前に引き返し、震えながら競技開始を待つセッキレイズ笑笑
AM5:45。気を取り直して、競技開始です!
セッキレイズ!ファイヤーーーー!
そして今度は先ほどまではなかったクマの糞を発見・・・・笑
もう勘弁してくれ・・・
10数分経過すると、森の中がうっすら明るくなってきました。
小鳥類の鳴き声もあちらこちらから聞こえてきます。
下見で鳴き声の確認バッチリのメンバーたちは次々と種数を稼いでいきました。続いて、車で中禅寺湖に移動し、ミソサザイ、カワガラスを無事に拾うことができました。
セッキレイズ、順調に舞っております〜!
意気揚々と渡良瀬付近の池に移動。カモはちょっと渋いです・・・笑
気を取り直して田んぼに移動します。数分車を走らせると・・・
ケリが舞い降りてきました!車内大興奮!
次に渡良瀬遊水池に移動します。ここではなんと!コウノトリ・マガンを目撃!
メンバーまたしても大興奮です!こんなこと誰が予想できたでしょう!
また、ここではトモエガモ、ヨシガモなども見ることが出来ました。良かった。
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そして、最後に奇跡が起きました。さあ次いくぞー、と車を走らせていた時。
おや・・・?ハシボソガラスの群れがいる・・・?
あれ・・・?ミヤマガラスがいる!!!!
はい。大収穫の渡良瀬でございました。現場からは以上です。
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お次は期待大の三番瀬に到着です。
当日は干潮の時間に合わせることが出来なかったので少し不安だったのですがどうなんでしょう・・・?
うーん、ちょっと渋いですね・・・。
前日の下見ではビロードキンクロ様がいらっしゃったのですが、どうやら早朝に飛び去ってしまわれたようです・・・残念でございました。
ともあれ、シギチなどを順当に拾って、10種ほど種数を増やしたセッキレイズは、三番瀬を後にしたのでした。
サクッと葛西臨海公園へ向かいます!
ここではなんと、アジサシを見ることが出来ました!
ここまで見れていなかった基本種やバンなども見ることができ、大満足の結果です。
お次はシギを探しに埼玉へ・・・
移動中にパラパラと雨が降ってきてしまい、ちょっと不安なメンバーたち。
ここではアオアシシギとセイタカシギを見ることが出来ました。
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前日の下見ではウズラシギやタシギ、オオハシシギなどが見れていたのでちょっと苦い結果となりました・・・。気を取り直して次に行きます!
日が暮れてきました。
雨も強くなってきてます・・・。
そんな中、我らセッキレイズは白鳥を探しに向かいます。
田んぼの間をガタガタ走っていた時でした。
なんだか、車がおかしいです。
ガタガタガタっ!ばつん!がこっ!
「え????」
車内騒然。
左に車が傾きました。
「道のせいじゃない?」
ウイーン。窓を開けてみます。
バロロロロロロロっ!ブルブルブルブル!
変な音してます笑笑
「・・・パンクしてない?笑」
はい、ご名答。車を停めて様子を見ると、見事に左前タイヤがペシャンコになっておりました。
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しかし、目的のポイントまでは残り1kmほど。競技終了の時間も迫っており、ここで終われないセッキレイズ。本日の相棒、トヨタのノアさんには頑張っていただき、安全に十分気をつけながらなんとか目的地に到着しました。競技者3人が爆走し、ここではオオハクチョウ、コハクチョウを確認することが出来ました。良かった・・・。
その後、修理の方を待ちながら車内でお菓子パーティーを開催したセッキレイズなのでした☆
修理の方によると、タイヤ自体の問題だったようです。替えたばかりの新品のタイヤに稀にあることだとレンタカーの方が後日教えてくださいました。
めでたし、めでたし。
今年のバードソンは、最終結果86種で、当日の結果としては第3位となりました。
下見では見れていた種類を見つけることができず、確認できなかった基本種、猛禽類がいたことが非常に悔しく感じます。個人的には、鳴き声をもう少し勉強しておけば種数は伸びたのではないかと反省しています。
今回の結果を踏まえて、日々の活動の中で、さらに野鳥の知識を深めていきたいと思います。
最後に募金協力のお願いです。
チームの総合順位は、野鳥観察種数と募金金額の2種目により評価されます。
今年の募金先は、「トキの水辺づくり協議会」です。この協議会は新潟県佐渡市のトキ生息環境整備等を通して、生態系の再生を目指して活動されています。
Webサイト:https://toki-mizube.jp/
募金に同意していただける方は下記の募金先および募金方法をご確認ください。
募金方法:お振込には払込取扱票を使用し、通信欄に「セッキレイズ」を明記して下記の口座にお振り込みください。
口座番号:00130-1-391954
口座名称:学生バードソン実行委員会
募金は12月21日まで行っております。皆様のご協力をお願いいたします。
以上、学生バードソン2022のご報告でした。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
お相手は3年のいちごショートケーキでした。
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zaimpod · 3 years
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『 kayak 』 @ Lake Chuzenji
水面での自由度に魅せられて四年。毎年、友人から借りて楽しんでいましたが…ついに念願のmykayak(^^)
購入計画は延期を繰り返し、何とか今シーズンに間に合いました🛶
陽が差し込む前に漕ぎ出し、静かな湖面を滑るように進みます。水音、鳥の声、鹿🦌の鳴き声も聞こえました。キャンプ場の前を過ぎると、朝食の様子が微笑ましいです♪
オールを止めて山々を眺め、空を仰ぎ、生きてることを実感するのでありました。最高の朝活‼️
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ari0921 · 3 years
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)9月14日(火曜日)
通巻第7050号 
 コロナ禍は何かの祟りではないのだろうか?
  科学も医学も合理主義も、疫病解決に役立っていないではないか
**************************
 疫病大流行。文献的に最古の事例は崇神天皇の御代である。
『古事記』は以下のごとく惨状を書いた。
 「この天皇(崇神)の御代に疫病多に起こりて人民死にて燼きむとしき。この天皇愁ひ嘆きたまひと神床に坐しし夜、大物主大神、���夢に顕れて曰りたまひしく、『こは我が御心ぞ。故、意富多多泥古(おほたたねこ)をもちて、我が御前に祀らしめたまはば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ』とのりたまひき」(岩波文庫版112p)。
 疫病は崇神天皇以前にも頻繁に起きていたと考えられるが、記録としては、崇神天皇の時代が初で、しかも国民の大半が死んだとの記載があるような猖獗を極めた。
 神の怒りを懼れ、タケミカツジの子である「おほたたねこ」を神主として、三輪山に祈祷し、御社を造成したところ、疫病はやんだ。疫病は神々の祟りという認識が古代人には広くあった。
 時代はぐんと下がって聖武天皇の時代、平城京を仏都として造り替えた功績、大仏殿の造営で知られる聖武天皇は、じつは平城京の前にいくども遷都している。
 疫病と災害の原因は祟りだと考えていたからだ。恭仁京の建設が本格化していた。しかし地の利、水利など諸条件が揃わず、藤原京、平城京が廃止されたように、つぎは柴香楽へと遷都する(現在の滋賀県甲賀郡信楽)。同時に難波にも副都の宮殿を建てていた。柴香楽宮は放火による山火事で廃棄された。
 遷都の理由は旧来の風習を打破し、人事を一新し、守旧派と敵対勢力を追い出すためだったと歴史学者は賢しらに「科学的に」「合理的に」解釈したが、かような政治的理由はむろんあっただろう。
しかし一番の動機はじつは疫病対策だった。そのうえ祟りを懼れての遷都ではなかったのか。皇位継承をめぐってのだましあい、謀、暗殺が続き、怨霊が漂っていた、と当時の人々は認識していた。
 藤原氏の全盛は中臣鎌足の子、藤原不比等が天皇の外戚となって大活躍し、陰険な策謀をもって政敵をつぎつぎと冤罪を仕掛けて葬り、藤原四兄弟は皇子後継をめぐる政争で、最大の政敵だった長屋王を冤罪をでっち上げて葬った。
 ところが、疫病は藤原四兄弟もあいついでに葬る。因果応報、長屋王の祟りだと囁かれた。この四兄弟の死は、それまで権力の下層で燻っていた藤原仲麻呂が中央舞台に踊り出す契機ともなった。
 ▼神社にかわって仏教寺院が祈りの場所となった
 天災は豪雨、洪水、河川の氾濫は凶作と飢餓を産みだし、そのうえ疫病である。国家安泰を祈願するために神道に替わって仏教寺院の造成が急がれ、神社への祈りが仏教寺院へと祈祷場が変わったことに、とりわけの留意が必要である。
 聖武天皇は急激に仏教へ帰依し、全国に国分寺の建設を命じた。仏教は人々の不安を吸収し、救いをもたらす信仰に置き換わった。天平六年(734)畿内は大地震に襲われた。この年に遣唐使が帰国したが、入れ替わりに新羅の使者が太宰府にやってきた。
 「凶作によって人々が困窮したところを疫病が襲い、恐るべき大流行をもたらした。流行は食糧の乏しくなった夏に、まずは太宰府管内からはじまり、冬までに全国各地に拡がった。発生地からみて、遣唐使か新羅使が列島社会に持ち込んだものと考えられる」(吉川真司『聖武天皇と仏都平城京』、講談社学術文庫)。
 疫病が外国からもたらされることは古代からの常識であり、武漢コロナはシナ大陸からやってきた。梅毒も江戸時代に外国人が持ち込んだ。
 奈良時代の疫病は三年続いた。藤原四兄弟が次々に死に、これが僥倖となって藤原仲麻呂が急激に台頭したことは述べた。
疫病による朝廷の被害は皇族、官吏の三分の一に及んだ。全国の死亡率は25%から35%とされた。和泉国で45%、駿河で30-34%、豊後で30-31%が死んだという記録は正倉院文書に残る。
 令和時代のコロナ災禍は中国湖北省の武漢で発生し、日本にもたらされた。やはり外国との接点が多い地方、都市の被害が甚大になるのも古今東西、同じである。
聖武天皇は、疫病の原因を長屋王の怨念と考えた。古代から中世にかけて、科学は発達しておらず、曖爽から夜明け、日中から夕闇と到り、夜は真っ暗な闇が支配する。古代人は闇に鬼が、魑魅魍魎が存在知ると考え、怨霊を信じていた。電気はない。書物も少なく、医学は未発達である。その不安を人々は宗教に求めるのだ。
伝来の神道より仏教を信仰する人々が増え続け、留学生が帰国したおりにもたらされた仏典や新しい信仰スタイルが急拡大し、皇室も人民も仏教に救済を求めた。
 ▼神仏習合が本格化した
ならば古来より宮廷人の拠り所としていた神道への信仰はどうなったのか。じつは、ここで初めて神仏混交が本格化するのである。
神社勢力はだまっていたわけではない。強烈な軋轢が生じるのは当然であり、そこで「有力な神々が仏教に帰依する。あるいは仏教を(神社が)護持するという言説を用いて、新旧イデオロギーの調整が吐かされた」。神仏混交という「日本教」が全土に拡大した。
 「神仏習合の深まりとは、日本古来の神祭りが、外来宗教である仏教によって『文明化』されたことへの証しである。これを受容し、あるいは反発するうちに『神道の自覚過程』が訪れる。神祇祭祀に特有のものがあらたに見出され、やがて中世につながる神国意識が形作られて入った。それはイデオロギー面における『国風文化』の生成であった」(吉川前掲書)。
ならば後世、『神皇正統記』で北畠親房は、この聖武天皇と、崩御後の光明皇后の仏教への急傾斜をいかに論じたのか、興味がある。
想定外だが、後醍醐天皇の改革を熱狂的に支持した北畠親房は、聖武天皇、光明皇后の仏寺建設、大仏開眼、国分寺の建設令、外国からの高僧の来日などを淡々と記するのみで批判はなく、むしろ次の称徳天皇が、一時期に仲麻呂に惠美押勝の氏を給え、まつりことを委任したことも客観的にのべる。
そのうえで、「後に道鏡という法師また寵幸ありしに、押勝(藤原仲麻呂)いかりをなし、廃帝をすすめ申て、上皇の宮をかたぶけむとせしに、こと顕れて誅にふしぬ(道鏡を寵愛したため、称徳天皇廃帝を謀して露見し、仲麻呂の乱は潰えた)」と、経過をのべたあと、道鏡批判に移るのである。
「法師の官に任ずることは、もろこしより始めて、僧正、僧統などといふ事のありし、それすら出家の本意にはあらざるべし、いはむや俗の官に任ずる事あるべからぬ事にこそ。されど、唐土にも南朝の宋の世に惠琳といひし人、まつりごとにまじらいしを黒衣の宰相といひき。」などと多数の唐の例を引きつつも「法王の位をさずけられたりし、猶あかずして皇位につかんといふこころざし有りけり。女帝さすがに思ひわずらひ」、和気清麻呂に神託の真偽を調べよと宇佐神宮へ派遣するのである。
仏教に帰依した女性天皇が、神道の託宣に頼ったという視点で見れば、神仏習合が、顕然と進んでいた状況を物語る。
 ▼無実の罪に陥れられた早良親王の怨霊
 早良親王は光仁天皇の皇子である。母は高野新笠(たかのにいがさ)。両親が百済系とされたために正妻とは認められず側室として桓武天皇、能登内親王、そして早良親王の生母である。早良親王は皇位継承権の有資格者だったため桓武天皇の皇太弟に立てられていた。ところが藤原種継の暗殺に関与したとして廃された。
 母方が皇族ではなく、側室だったために早良親王は早くに出家し東大寺羂索院や大安寺東院に住み、「親王禅師」と呼ばれた。天応元年(781年)���同母兄・桓武天皇の即位があり、還俗、立太子された。すでに桓武天皇には安殿親王(後の平城天皇)がいたが、万一の備えとして安殿親王の幼帝即位を避けるためだった。もとより東大寺で高位の僧侶だったこともあり、早良親王は妃を迎えず、子もなかった。
 延暦4年(785年)、造長岡宮使・藤原種継の暗殺事件に突如、巻き込まれ、乙訓寺に幽閉された。無実を訴えるため絶食、淡路へ配流される途中、守口付近で憤死した。
種継暗殺は桓武天皇留守中の事件だが、東大寺は親王禅師(早良親王)に後事を託したとされ(『東大寺華厳別供縁起』)、還俗後もなにかにつけて東大寺は早良親王に相談していたという。桓武天皇は道鏡事件の経緯から僧侶の政治関与の弊害を懸念し、長岡京遷都を急いだのだ。
長岡京遷都の裏の目的は東大寺など奈良寺院の影響力排除である。
その後、皇太子安殿親王が発病や、桓武天皇妃・藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死、生母高野新笠の病死と疫病の大流行、くわえて洪水が相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われた。
そればかりか、延暦19年(800年)には早良親王に「崇道天皇」が追称され、それでも祟りが収まらずとみるや、五年後に「崇道天皇陵」を造営する。
附近には早良親王を祀る嶋田神社があり、奈良町に崇道天皇社、御霊神社で祭神として祀られた。東大寺の高僧が神道で祭られたのである。
 
 令和の疫病は、それなら何の祟りか。いささか神懸かりと思われるかも知れないが、靖国の英霊を蔑ろにしているからではないのか。
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mizube-japan · 4 years
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ワカサギに翻弄された中禅寺湖の蝉ブラの釣り 2020
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 今シーズン私が初めて中禅寺湖の蝉ブラを手にしたのは6月初旬のこと。今回はその時の模様を振り返ってみたいと思います。 ですがその前に、まずは今シーズン蝉活をスタートした5月末(前回の釣行)の状況について振り返ってみます。向かった先は通称 山側と呼ばれる湖の南側の一帯で、背後の森が湖岸線ギリギリまで迫っている好ポイントが多いのが特徴です。
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(上写真) 初夏の中禅寺湖(山側)。あちこちから春蝉の鳴き声が聞こえてきます 
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(上写真)湖畔のヤマツツジ 
 朝8時過ぎ、お目当てのポイントに向けて湖畔の遊歩道を歩いていると、進行方向の先から突如ガボガボッ!!と激しく水の割れる音が聞こえてきました。 (おっ、何事だ!?) と急ぎ駆け寄り、遊歩道から遠巻きにその個所を眺めていると、ほどなくして小魚たちがピチャピチャ!と水の中から勢いよく飛び出し、その直後に水面が大きく破裂しました! 間違いありません。相手はブラウントラウトです。彼は大胆にも上半身を岸へと乗り上げて、ガボガボガボッ!!!と小魚を水際へと追いやり激しく襲い掛かっていました。よく海外の映像などで見る、シャチがアシカを浜辺に追い込んで喰らいつくあの光景そのものです。小魚というのはワカサギの群れで、今年はこれが湖岸線の至るところに大量に発生していました。 先ほどのワカサギたちは水際ギリギリの位置を縦一列になって右往左往しており、また直ぐに襲い掛かってくるであろう捕食者に完全に怯え切った様子でした。 この状況、釣り人ならば誰もが待ち望む熱い瞬間だと言えますが、こと蝉の釣りを楽しみにやって来た今回の私にとっては、あまり歓迎できない厄介な状況であると言わざるを得ませんした。  というのも、このワカサギの捕食モードに入ってしまったブラウンたちというのは、こればかりに夢中になってしまい、その他の捕食対象(今回の場合はもちろん春蝉になります)にはすっかり感心が無くなり、蝉ルアーでこれを振り向かせるのはたいへん難しく、過去に何度も痛い目にあってきたからでした。近年ではたしか2016年にも今回と同じようにワカサギが大量発生した年があり、蝉ルアーに振り向かせるのにたいへん苦労したことをよく覚えています。 何年かに一度、こんな年がやって来ることは承知しており十分覚悟はしていたのですが、まさか今年がその年なのか?と急に不安になってきました。 ですが釣りというのは実際にやってみないと何が起こるか分からないもの。当日はこの私の不安が杞憂であることを願いながら、山側の奥の方までただひたすら探って行ったのですが、結局 ワカサギに夢中になったブラウンが私の操る蝉ルアーに振り向いてくれることは一度もありませんでした。
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(上写真) 湖岸線は至るところワカサギだらけ(山側での様子)
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(上写真)今シーズンの蝉活初日は山側のハイキングで終了しました(涙)
 そして明けて翌週、6月最初の週に私は再び蝉活をしにいろは坂を登っていました。前回の釣行からおよそ一週間が経過しましたが、山側のあのワカサギの飽和状態が終息しているとはとても思えません。この日はこれを避ける意味で場所を大きく変更、湖の北側となる国道側に入ることにしました。湖の北側と南側、日照量からくる積算水温の違いなどからワカサギの接岸状況にもきっと違いが出るだろうと期待してやって来たのですが、此方もどこもかしこもワカサギだらけ。残念ながら国道側に於いても状況に大きな変化は見られませんでした。
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(上写真) 国道側ではよくサルたちの朝の見回りに遭遇することがあります
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(上写真)対岸に見える山側からは春蝉の大合唱が聞こえてきます
 ポイントに到着し、しばらく水際の様子を静かに眺めていると、やはり此方でも始まりました。水際から1メートルも離れていない位置でブラウンの黄色い魚体がガボガボガボッ!!!と勢いよくワカサギを追い回しています。此方のブラウンも完全にワカサギモードに突入してしまっているようです。 (これはまいった!) もうこうなってしまっては逃げる場所はありません、ただひたすらに探り続けるしかないと腹を決めました。もしかしたら魚嫌いの現代っ子なブラウンが居るかも知れません。急ぎタックルの準備に取り掛かりました。
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���上写真)日中の表層水温はおよそ15℃ 
 この日、最初に手にしたルアーは大美蝉(ダイビセン)! 昨年発売されたばかりのNEWアイテムで、従来品である美蝉(ビセン)をサイズアップ(長さで5mmアップ、重さで1.4gアップ)させたモデル。見た目のサイズ感はほぼそのままにウエイトをアップさせてやることで、飛距離を大幅に伸ばすことに成功しています。  昨シーズンはこの+5mmのサイズアップが魚の反応にどう影響するのかが心配で、その日最初の釣りから投入することには正直抵抗がありました。ですが昨シーズン使用してきた経験から、特に悪い影響は感じられなかったこと、飛距離のアドバンテージが想像以上に大きかったことなどを理由に、今年は何の躊躇いもなく初めから投入することにしました(当日はやや強めの向かい風となる状況が多かったこともあり、沖へのキャストが容易にきまる大美蝉が大変重宝しました)。
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(上写真)大美蝉(No.31 ハルゼミショート)とエゾハルゼミ 
 この日は岸際で群れるワカサギに夢中になったブラウンを相手にしても仕方ないだろうとの考えから、ワカサギが群れている箇所の遥か向こう、ブレイクラインの先となる沖合(15~20メートル程)を集中的に探ることにしました。その辺りを泳いでいるような個体ならば、もしかするとワカサギをあまり意識していないものも少しは居るのではないか?という単純な発想からです。
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(上写真)大美蝉・シェルが今シーズン発売されました(全8色)。 水面下にシェルプレートの輝きが届くように、サイド~腹部にかけての塗装をあえて抑えて作ってあるそうです 
 そしてランガンしながら探り続けること4時間以上。半日釣行の終了間際となるお昼過ぎになってようやく大美蝉がボコッ!と大きな音を立てて水中に飲み込まれました。  取り込むまでにおそらく5分近くは費やしたのではないかと思われる強烈なやり取りの末にあがってきた魚は、狙いのブラウントラウトでした(60cm)。後頭部がこんもりと隆起したもの凄い体高、全ての鰭が大きくそして整っていて、さらにお腹回りははちきれんばかりに凄いことになっています。 きっとワカサギを飽食してのあの凄いファイトとこのプロポーション、まさにワカサギ様様と喜び、感謝しなければならないのでしょうが、蝉への反応のことを考えると、やはりあまり多すぎるのは困りもの。とても複雑な心境で迎えた2020年シーズン中禅寺湖での蝉初めなのでありました。
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(上写真)大美蝉に出たブラウントラウト60cm(No.01 ハルゼミ・オスにて)。湖流に合わせてのナチュラルドリフト(ホットケ)が功を奏しました。 
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(上写真)きっとワカサギを飽食しているからでしょう、プロポーションもそうですが、走りと持久力にもの凄いものがありました 
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(上写真) 蝉ブラの体表面。初夏の日差しを浴びてより一層輝きを増します 
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(上写真)大きく整った胸鰭。引きが強烈なわけです。 
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【使用タックル】 ⚫︎ロッド : TILF-72 トラウティンスピン イル・フロッソ (SMITH) ⚫︎リール : 13 セルテート2500 (DAIWA) ⚫︎ライン : バリバス ハイグレードPE X4 1.0号 (MORRIS) ⚫︎リーダー : バリバス トラウトショックリーダー フロロカーボン 10lb (MORRIS) ⚫︎ルアー :   ・大美蝉(ダイビセン) (SMITH)      ※ フック変更実施。ラインはアイのスプリットリング(後付け)に直結   ・大美蝉・シェル (SMITH)      ※ フック変更実施。ラインはアイのスプリットリング(後付け)に直結   ・美蝉(ビセン) (SMITH)    ※ フック変更実施。ラインはアイのスプリットリングに直結 ⚫︎フック : シュアーフック Wトラウトタテアイ 4B  (SMITH)    ※ ベリー&テイル共に。バーブは潰しました ⚫︎ネット : チェリーネット Lサイズ (SMITH)
その他の蝉ブラの記事はこちら
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3年越しの湯ノ湖のヒメマス(奥日光)
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春〜夏にかけて釣れるヒメマスのような「美味しそう」というイメージよりも、その小さなサイズ感には不釣り合いなほどの、野生的な色や形が詰め込まれたような、ある意味「ワイルドなミニチュア感」が1番の魅力だと思っている婚姻色のヒメマス。まるでカラフトマスを思わせる立派なこのセッパリマスを、きっと首都圏から一番手軽に狙うことが出来るのが奥日光・湯ノ湖ではないだろうか。
ここ数年、間違いなく自分が一番釣りをしたのは日光だ。一番の頻度で通った中禅寺湖をはじめ、湯川や大尻沼などの奥日光から日光市街地を流れる大谷川やその支流など、栃木に住み始めてからというものすっかりトラウト贔屓な生活なのだけど、意外にも湯ノ湖で釣りをしたことがあるのは一昨年の、確か禁漁になる前日か前々日ぐらいに一人で夕方釣りに行った1回だけだった。ニジマスが1匹だけ釣れたのを覚えている。
今年こそはまだ釣れたことのない奥日光の赤いヒメマスを釣りたいと思い、友人と禁漁間近の湯ノ湖へ向かった。後数日で10月になるとは思えないほどの陽気で、結局1日長袖のシャツで過ごせたほどだった。ちなみに去年はだいたい同じぐらいの時期には、中禅寺湖のインレットは紅く染まっていた。しかしそのタイミングはすでに中禅寺湖は禁漁期間、秋にしか会えない赤いチップ(チップはアイヌ語が語源の北海道でのヒメマスの愛称)をこの手に抱くには、関東では湯ノ湖以外にその場所はないのである。
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去年撮影した中禅寺湖のヒメマス
お昼前には到着していたが、ゆっくり中禅寺湖のかつらでお蕎麦を食べて、結局しっかりと釣りを開始したのは午後だった。数日前にも来ていた友人によると、場所によっては朝や夕方に群が回ってくるとのことだったが、この日は目視できたヒメマスは2、3匹程度で、ルアーを投げても全く無反応。ふらふらと泳ぎ去って行った。
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一緒に行った友人、サイレン
そうこうしているうちに夕方になり、もうぼちぼち帰ろうかという時に、ようやくやる気のある数匹の群がすぐ足元まで寄って来ていた。やる気のある=食い気があるというよりは、スポーニングを意識してしっかりルアーに威嚇バイトしてくるという意味。オーソドックスな釣り方である派手目のミノー等を試すも惜しいところで引き返してしまう中、管釣りのど定番であるシャインライドを試してみるとあっさりと口を使った。しっかりフッキングするまでネチネチと何度も目の前を通し、終了間際にどうにか意地の1匹。初めての湯ノ湖のヒメマスを手にすることができた。
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実は去年このヒメマスを求めて、初めて青森と岩手の県境にある十和田湖へ行った。しかし思っていたような真っ赤な魚が釣れず、満足できなかった僕は北海道の屈斜路湖まで足を延ばした。だが結局中禅寺湖の水中でカメラに収めたような魚は釣ることができなかった。今思うと写真写りの問題もあるのかもしれない。多少の季節の進行具が関係しているにしろ、この3つの湖のヒメマスを釣ってみた感じ「同じだな」というのが正直な印象(苦笑)ただ一番秋の深い���期だったせいか、屈斜路で釣れた顔まわりの真っ黒なほど色の濃いヒメマスはとても印象的だった。
9月いっぱいで湯ノ湖は禁漁となり、本日10月1日からは十和田湖のヒメマスが解禁になった。壮大なスケールと、湖畔で野営のできる十和田湖の環境はとても自由で、とても珍しい贅沢な遊び場である。そろそろ準備を始めよう... 遠く離れた湖にまで追いかけたくせに、釣れた魚を目にしてきっと「湯ノ湖と同じだな!」とか言ってしまうんだろうなぁ(笑)
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moment-japan · 5 years
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京都を愛したデヴィッド・ボウイが涙した正伝寺の日本庭園
NEWS WEEK
ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<訪日外国人にも人気の日本庭園。なぜ歴史に名を残した人たちが日本庭園にたどり着くかを考えると、その見方も変わってくる。デヴィッド・ボウイは日本のテレビCMに起用された際、自ら正伝寺を撮影場所に希望したという>
金沢の兼六園や岡山の後楽園、水戸の偕楽園など、人々を魅了する日本庭園は各地にあるが、訪れるのは日本人だけではない。
実際、Japanese gardens(日本庭園)に関する英語の情報はインターネットにあふれており、アメリカには日本庭園の専門誌まである。今や日本庭園は、日本を訪れる外国人にとって外せない「見るべきもの」となっているのだ。
京都を中心に庭園ガイドをしている生島あゆみ氏はこのたび、「なぜ、一流とされる人たち、歴史に名を残した人たちは、日本庭園にたどり着くのか」をテーマに執筆。『一流と日本庭園』(CCCメディアハウス)を刊行した。
庭園そのものだけでなく、それらを造った人物、深い関わりのある人物の人生を見つめた上で、庭園との結びつきを読み解いた。これ1冊で日本庭園の見方・楽しみ方が変わるというユニークな一冊だ。
足利義満は金閣寺を、稲盛和夫は和輪庵を造った。スティーブ・ジョブズは西芳寺に、デヴィッド・ボウイは正伝寺に通った。ここでは本書から一部を抜粋し、3回に分けて掲載する(今回は第2回)。
※第1回:利他の心に立つ稲盛和夫が活用する京都の日本庭園「和輪庵」
◇ ◇ ◇
デヴィッド・ボウイ(1947年〜2016年)と正伝寺(しょうでんじ)(京都)
たびたび京都を訪れていたデヴィッド・ボウイが、その美しさに涙したという正伝寺の庭。白砂に七・五・三の刈り込み、遠方に望む比叡山の借景......。世界的なアーティストは何を感じとったのか。
親日家のデヴィッド・ボウイ
ボウイは、親日家で有名でした。また仏教や禅に造詣が深かったようです。BBCテレビ『デヴィッド・ボウイの日本流への熱情』によると、ボウイが20歳頃、舞踊家リンゼイ・ケンプ氏のもとで、ダンスとマイムを習いました。このケンプ氏が、伝統的な歌舞伎の様式に大きな影響を受けていたそうです。歌舞伎や能という伝統芸能が、ボウイが日本文化を知る入り口になりました。
また、チベット仏教の高僧はボウイと親交があり、彼が仏教の僧侶になるつもりだったと証言しています。もともと、仏教に深い関心があったようです。
アルバム『ジギー・スターダスト』全盛期の頃に、スタイリスト・高橋靖子、写真家・鋤田正義、ファッションデザイナー・山本寛斎などがボウイと親交があったそうです。
鋤田正義はボウイを京都で撮っていますが、ボウイの希望は京都の人々が日常の生活を送るような場所で、というものでした。
ボウイが梅田行きの阪急電車の前でさっそうと立っている姿は、ファンだけでなく京都に住んでいる人達をも魅了します。切符を買っていたり電話ボックスで受話器を持っていたりする写真などもあります。古川町商店街では、当時、創業70年のうなぎ店の名物八幡巻きを買っている姿もありました。
スターダムにのし上がった1970年代後半、プレッシャーなどからドラッグの誘惑に苛まれ、ベルリンに移り音楽活動をしていた時期がありました。名盤「ロウ」「ヒーローズ」「ロジャー」のベルリン三部作を制作しました。この頃、ボウイはツアーの合間を縫うように京都を訪れていました。ボウイにとっては大きなターニングポイントで、自分自身をリセットするために京都に来ていたそうです。
大徳寺の僧侶は、ボウイと親交がありました。日本、そしてその精神の奥にある禅に、ボウイは向き合っていったのだそうです。WOWOWドキュメンタリー『デヴィッド・ボウイの愛した京都』で「禅の中では、自由を得るというのが究極にあり、特に死ぬことからの自由のことだと。変わるというのは自分が死ぬことで、ボウイは、自分が変わることから真の自由を求めていたのではないでしょうか。」と僧侶は話していました。
「新しい自分、本当の自分の姿を京都で見つけたのです。京都の時間の流れを、ボウイは大切にしていたようです。常に今が大事だということです。」と彼は続けます。
ボウイは芸術や文化、歴史を学ぶ才能に溢れていたと言います。美術品のコレクターではなく、その物の精神を自分のものにしていく才能があったそうです。「ヒーローズ」のB面に収録されたインストゥルメンタル曲「モス・ガーデン」では、美しい琴の音色が聞こえてきます。これはファンが、直接本人に手渡したおもちゃの琴の音色です。これを弾きこなして、自分の音楽表現をしている才能に凄さを感じます。
1990年代には、イマンと新婚旅行に京都に来ていますが、滞在したのは老舗旅館「俵屋」でした。また、江戸時代創業の蕎麦屋「晦庵(みそかあん)河道屋(かわみちや)」本店もお気に入りだったそうです。俵屋と河道屋は、スティーブ・ジョブズも好きでした。二人が遭遇した可能性は少ないと思いますが、好みが似ているのが不思議です。
正伝寺の歴史とその庭園
ボウイが愛した正伝寺は、どのようなお寺なのでしょう。正伝寺は、京都市北区西賀茂にあります。五山送り火で有名な船山の南側に位置しています。臨済宗南禅寺派の諸山の格式を持つお寺です。山号は吉祥山(きっしょうざん)。寺号は正伝護国禅寺で、本尊は釈迦如来です。
正伝寺は、1260年、宋より来朝した兀庵普寧(ごったんふねい)禅師の高弟が、京都一条今出川に創建しました。1265年に兀庵普寧禅師は宋に帰りますが、その後、東巌恵安(とうがんえあん)が跡を継ぎ、1282年にこの西賀茂の地に移りました。
応仁の乱で荒廃しましたが、徳川家康が再興します。本堂は、1653年に金地院の小方丈が移築されたものです。伏見桃山城の御成殿(おなりでん)の遺構を移したものとも言われています。方丈の広縁の天井には、伏見城落城時、徳川家臣・鳥居元忠と家臣らが割腹し果てた廊下の板を、供養のため天井に貼った「血天井」があります。
方丈の各室の襖絵は、1605年頃、徳川家康の命により狩野山楽が描いた中国・杭州西湖の風景です。山楽の残した貴重な作品です。
庭園は白砂とサツキ等の刈り込みが並ぶ枯山水です。方丈の東側に造られており、敷地は363平方メートルです。
方丈から見て白砂の奥に、右から、七つ、五つ、三つと、植栽の大刈り込みがあるだけです。これを七・五・三形式と言いますが、通常は石が七・五・三に置かれ、植栽で表されているのは正伝寺だけです。
植栽構成は、三つがサツキのみ。五つがサツキとサザンカ、七つがヒメクチナシ、アオキ、サザンカ、サツキ、ナンテン、ヤブコウジ、チャと組み合わされています。
この庭園は江戸初期に造られました。小方丈が金地院から移築されているので、小堀遠州作とも言われていますが、時期的に見て、別の作庭家との説もあります。
江戸初期には、滋賀県の大池寺庭園や奈良県大和郡山の慈光院庭園など大刈り込みの庭園が他にも存在しています。龍安寺の石組が「虎の子渡し」と言われるのに対し、正伝寺の七・五・三とする刈り込みは「獅子の児渡し」と言われています。ゴツゴツした石が虎で、ふわっとした植栽の刈り込みを獅子と見立てたのでしょうか。
明治維新以降、寺領・社殿の召し上げなど苦しい時代になります。正伝寺の明治期の写真が残っていますが、高木が増え、刈り込みも乱れた様子です。
戦前の1934年、重森三玲を中心とした京都林泉協会の会員有志が、後から加えられたであろう石を取り除くなど荒れた状態を整えました。こうした努力により、かつての姿を取り戻した現在の庭園は、京都市の名勝に指定されています。
庭に敷き詰められた白川砂と緑の刈り込みの植栽、下界を遮断する漆喰塗りの塀の構成の向こうに、遠山として望めるのが比叡山です。遠くにポツンと比叡山だけを見渡せる巧みな借景の取り方が、正伝寺の庭をより特別な存在にしています。
正伝寺とデヴィッド・ボウイ
京都の北に位置する正伝寺は、最寄りのバス停から歩いて20分ほどかかりアクセスが良くありません。山門を抜けると登り坂の山道が続きます。本堂まではおよそ250メートル。静かな山道はやがて、下界と離れた特別な禅の庭へと誘ってくれます。
実はこの人里離れた禅寺の正伝寺の庭は、知る人ぞ知る名勝なのです。どうしてボウイがこの庭のことを知っていたのでしょうか。おそらく、彼の友人だった米国出身の東洋美術家・デヴィッド・キッドの存在が大きかったのだと思います。
デヴィッド・キッドは、九条山に邸宅を持っており、「桃源洞」と名付けていました。ボウイはここをよく訪れたそうです。ボウイは、桃源洞の居間にあった平安時代の地蔵菩薩を眺めて時を過ごしていたそうです。菩薩の控えめな様子から深い哀れみを感じていたのではないでしょうか。
1979年の年末、広告代理店が宝焼酎「純」のコマーシャルにボウイを起用する提案をしました。アーティストとして非常に高い純粋性を持った人として、彼以外にいないということでした。
ボウイはお気に入りの俵屋に泊まり、撮影は嵐山にある松尾大社近くの公園や正伝寺で行われました。正伝寺を希望したのは、ボウイ本人だったそうです。宝ホールディングスの元会長・細見吉郎は、学生時代からずっと京都に住んでいましたが、当時、この寺の存在を知らなかったそうです。整然とした枯山水庭園と比叡山の眺めに感動し、訪れる人も少なく、静寂に包まれていたので「ボウイさんが正伝寺を指定した理由が分かった」と語っています。
――「撮影中にボウイさんは庭園を見つめ、涙を浮かべていた」と細見さんは振り返る。「景観に感動したのか、何か悲しい思いをしたのかは聞けなかった。繊細で純粋な人だった」と記憶をたどる。――(日本経済新聞「D・ボウイが涙した静寂」/2016年2月19日)
宝焼酎「純」の販売数量は、1980年からの5年間で11倍に増えたそうです。
コマーシャルには、ボウイ自身が作った「クリスタル・ジャパン」という、雅楽を意識したインストゥルメンタルの曲が使われました。正伝寺の庭の白砂の上に、グラス片手に座っているシーンはとても印象的です。
私がこの庭を訪ねたのは、紅葉が始まる頃でした。デヴィッド・ボウイが愛した庭を鑑賞しようと、海外からの観光客の姿もありました。
刈り込みが美しい庭の方丈前には数人がいましたが、みな庭を観ており、沈黙だけが心地よい空間を作っていました。しばらく静観していると、心が洗われたような気持ちになりました。
ボウイもまた、心を清めるように真の美を前にしていたのかもしれません。庭には、自分をリセットするとともに、自由にしてくれる作用があるのかもしれません。
※第3回は5月23日に掲載予定です。
※第1回:利他の心に立つ稲盛和夫が活用する京都の日本庭園「和輪庵」
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『一流と日本庭園』  生島あゆみ 著  CCCメディアハウス  
正伝寺  京都府京都市北区西賀茂北鎮守菴町72
http://shodenji-kyoto.jp/
正伝寺は、京都市北区西賀茂にある臨済宗南禅寺派の諸山の格式を持つ寺である。山号は吉祥山。寺号は詳しくは正伝護国禅寺という。本尊は釈迦如来。
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xf-2 · 5 years
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覆される常識、日本美術の「独自性」は縮小していた 「独自」とされてきた日本美術の表現は、実は日本特有のものではなかった──?  美術史の研究が進むにつれて、日本美術に関するさまざまな常識が塗り替えられつつある。西洋や中国に目を向けて日本美術を世界の中で位置づけて鑑賞すると、一体なにが見えてくるのか?  美術史家の宮下規久朗氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)が、日本美術、西洋美術の見方のまったく新しいフレームワークを提唱する。(全2回・前編/JBpress)  (※)本稿は『そのとき、西洋では──時代で比べる日本美術と西洋美術』(宮下規久朗著、小学館)の一部を抜粋・編集したものです。 ■ 多くの美術品が現存する幸運な国、日本 日本は各時代にすばらしい美術作品を生み出し、今でもそれらは世界じゅうの人々に親しまれている。しかも、それらの多くが遺(のこ)っている幸運な国である。 隣国の中国や朝鮮半島、あるいはベトナムの場合、相次ぐ戦乱や侵略のため、古い時代のものは遺っていないことが多く、時代によってはきわめて大きな欠落がある。そうした時代の美術は、文献資料やのちの模本から想像するしかない。これに対し外国の侵略をほとんど受けたことのないわが国は、戦災や天災で多少のものが失われたとはいえ、縄文時代以降、各時代の重要な作品のほとんどは現存しており、きちんと美術の流れをたどることができる。世界を見渡すと、そのような幸運な国のほうがめずらしいのである。 明治期に近代国家が成立すると、国家の伝統や歴史を見直す作業の一環として日本美術史というものが構想され、明治33年(1900)にはパリ万国博覧会に際して日本最初の美術史と目される『稿本日本帝国美術略史』が編集された。以後、日本美術史は何度も書き換えられつつ徐々に精度を増し、部分的に更新され修正されることはあっても、そのストーリーの大枠はおおむね定着しているようにみえる。 ■ 「日本美術の特質」への問いかけ このような日本美術史を通覧し、現存する作品群を見ると、中国や西洋などさまざまな外来の美術に影響され、目まぐるしく変化してきたことがわかるが、同時にその底に流れる一貫した日本美術の特質というものが浮かび上がってくる。 たとえば和と漢、あるいは雅と俗という二面性が併存したかのよう見えるが、両者は複雑に融合していた。そして、中国や西洋の美術という外来文化の影響やそれに対する古来の様式という二項対立だけでは説明できない日本美術の独自性があると思われるのだ。 1925年、大著『サンドロ・ボッティチェルリ』をロンドンで出版して評価され、東西の美術について高い見識をもっていた美術史家の矢代幸雄(やしろ・ゆきお)氏は、著書『日本美術の特質』(1943年)において、日本美術の特質は、「印象性」「装飾性」「象徴性」「感傷性」の4つにあるとした。また、日本美術史の碩学、源豊宗(みなもと・とよむね)氏は、『日本美術の流れ』(1976年)で、西洋美術、中国美術、日本美術を象徴するモティーフをそれぞれ「ヴィーナス」「龍」「秋草」であるとした。日本美術を貫くのは、繊細な秋草の美学だというのである。 日本における中国美術の影響について先駆的な研究を遺した戸田禎佑(とだ・ていすけ)氏は、『日本美術の見方 中国美術との比戦による』(1997年)において、日本美術のもっとも重要な特質は「平面性」にあるとしている。 近年、『日本美術の歴史』(2005年)を書き下ろした辻惟雄(つじ・のぶお)氏は、日本美術の特質を、「かざり」「遊び」「アニミズム」という3つのキーワードで説明しようとした。日本美術にはつねに装飾性が見られ、遊戯性があり、自然崇拝の系譜があるというのである。また、東京大学で辻惟雄氏の後任であり、旺盛な活動を続けている美術史家、河野元昭(こうの・もとあき)氏は論文「日本美術の素性」(2010年)でこうした先学の見解を検証しつつ、日本美術の最大の特質は「シンプリシティー」にあると論じている。いずれの見解も傾聴に値するものであり、的を射ているように思われる。 ■ 縮小する「日本美術の独自性」 18世紀末から20世紀初頭にかけて流行したジャポニスムは、浮世絵を中心とした日本美術の絵画や工芸がフランスなど欧米の美術に作用し、日本美術が欧米の先進的な美術に影響を与えた稀有な現象であった。浮世絵の大胆な構図や色彩、平面性は、西洋で伝統美術の様式を打破して新たな造形を生み出そうとしていた芸術家にとってタイムリーであったため、大きな刺激を与えることになった。しかし、皮肉なことにその後の日本美術は、浮世絵のこうした造形的特徴を継承することはほとんどなかったのである。 また、これ以前、日本美術は、中国や朝鮮など近隣の国にすら影響を与えたことはまったくなかった。 12世紀初めの『宣和画譜(せんながふ)』に、徽宗(きそう)皇帝(在位1100~25年)の所蔵する日本の屏風3点について、「金碧(きんぺき)を多用」しているが、「真」に欠けると批判されている。中国や朝鮮の人々にとって、日本美術は中央様式の地方化したものとしか映らなかったのである。 明治以前の日本で、海外で活躍した美術家は知られておらず、中国・元で客死した禅僧画家黙庵(もくあん)やマカオに追放されたキリシタン画家ヤコブ丹羽(にわ)の活動がわずかに推測されるくらいである。 さらに、日本美術の独自性というのは、たまたま日本には中国や朝鮮半島よりも多くの美術作品が遺っているために、そう思われてしまう場合も多いのである。 たとえば、平安時代のやまと絵は、かつては遣唐使廃止による国風文化の産物だとされてきたが、中国美術史の研究が進んだ現在では、やまと絵とされるものの大半は失われた唐宋美術を反映したものであって、その特徴のほとんどは和様化とはいえないということが明らかになっている。截金(きりかね)を多用した繊細で工芸的な平安時代後期の美麗な仏画も、かつては日本化の極みだとされて賞賛されてきたが、じつは、ほとんどが失われた宋代の仏画の技法を模したものであるということもわかってきた。 近年ブームとなった若冲(じゃくちゅう)や蕭白(しょうはく)ら江戸中期の奇想派については、京都の成熟した町衆文化が生み出したものであっても、明(みん)代の奇想派や長崎の来舶清人(らいはくしんじん)の影響によるものも大きいということが指摘されている。 つまり、日本美術の独自性と呼べる要素は、美術史研究の進展とともにどんどん縮小していっているのである。日本美術を正しくとらえようとすれば、その独自性や美質などにこだわらず、東アジア文化圏を中心とする世界の中で位置づけて眺める必要があろう。 宮下 規久朗 JBPRESS 7/8(月) https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life&p=2 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life&p=3 >「独自」とされてきた日本美術の表現は、実は日本特有のものではなかった──?    美術史家の宮下規久朗氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)が、  日本美術、西洋美術の見方のまったく新しいフレームワークを提唱する。 笑www この文章読んでいて、宮下 規久朗とかいう美術史の大センセーの、 自虐的なシナ事大主義的な独自性のないアホぶりがわかった。 この程度で大学教授なら、私にでもできそうな簡単なお仕事だなw この時代になっても相も変わらず、日本文化はシナ朝鮮より劣る的な、 或いは独創性はない的な、みたいなシナチョンスタンスの屁理屈を 大学のエラいセンセーがまことしやかに語っているのに笑った。 そもそも、世界のどの時代のどの文化においても、 完全無欠の民族の文化的オリジナルなどというものはない。 シナ文明も大陸の雑多な民族の文化的要素の集合体ではないか。 それを総称してシナ文明だの、エジプト文明だのと称しているだけである。 そしてその文化もまた他の様々な文化的要素と融合して発展し、 同時にまた、他の民族や地域の文化にも影響を与えるのである。 いわば文化文明は相互に影響しあって発展するものである。 それにこの宮下 規久朗とかいう神戸大学のセンセーって、 美術史が専門だそうだが、シナチョンに何か思い入れがあるのか? ちなみにこの宮下 規久朗センセーのツイッターはこんなの・・・            https://twitter.com/kikuroma         現在の大学にはこの手の人士が多いみたいですな・・・ この論評の■ 「日本美術の特質」への問いかけまでは、 いろいろな学者の日本美術の特質の紹介で、それぞれの説にも整合性があり、 またこれらの説のすべてがまた日本美術の特色ともいえるだろう。 問題はその次である・・・ ■ 縮小する「日本美術の独自性」って何なんだ? 宮下センセーの論文に通底しているのは・・・  日本美術など所詮シナの物真似、  日本美術のオリジナリティなんて、  元々からないも同然なのだから、  特筆評価などする価値すらない、         ・・・ということらしい。
果たしてそうだろうか? >皮肉なことにその後の日本美術は、浮世絵のこうした造形的特徴を  継承することはほとんどなかったのである。 そうだろうか? 私は浮世絵に代表される日本美術はその後の日本人も立派に受け継ぎ、 欧米の美術界に対しても少なからぬ重要な影響を与えつつ、 その後の日本美術にもまた、それを逆輸入してきた経緯があると思う。 「浮世絵の大胆な構図や色彩、平面性」は現代日本画の世界においても、 日本のサブカルチュアを代表する漫画やアニメーションの表現においても、 グラフィックデザインの表現にも立派に受け継がれているではないか。 一応宮下センセーは明治以降の日本美術がジャポニズムと呼ばれ、 西欧の美術工芸界に大きな影響を与えた事は認めていらっしゃるが、 このことだけでも美術史における日本美術の価値は特筆に値する。 浮世絵に代表される日本美術がフランス・パリ万博からジャポニズムとして 全欧州に発信され、印象派(新印象派、後期印象派)やアールヌーヴォーが生まれ、 それがさらに発展してアメリカ現代美術に発展した経緯が美術史の流れである。 ジャポニズムがイズム=主義として表されている思想は無視できない。 それはシノワズリーという東洋趣味の流行とは大きく一線が引かれるべき、 いわば西欧美術思潮の一つのコンセプトでもあったからだ。
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       セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」        様々な角度から描いたヴィクトワール山の連作は、        北斎の富岳三十六景からインスパイアされたらしい。
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      ゴーギャン「マハナ・ノ・アトゥア」       この平面的な色面構成的な表現は浮世絵からの影響だ。
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        クリムト「接吻」
       金箔を多用した大きな空間をとり単純化されたフォルム、        これも明らかに障壁画などの影響がうかがえる作品だ。
中でも西欧美術に影響を与えたのは江戸の町人文化だろう。 しかし宮下センセーはこれとてもシナ文化の影響にあるというが、 一部にそれらしきものがあっても、それがすべてではないと思う。 仮にシナの影響があったからといって、それが何だというのだ? シナの各王朝文化だって周辺の民族の様々な影響があったのだ。 先に述べたように、元来何の影響もなく発展した文化文明など皆無である。 北斎、広重、歌麿などの浮世絵師はもちろんのこと、尾形光琳の琳派系絵師、 伊藤若冲や丸山応挙などは現代美術を先取りしたコンセプトが確立していた。 立体造形でいえば安土桃山時代の織部好み陶器などはまさに現代美術だ。 以下に掲載した当時の巨匠たちの作品には、 現代美術の概念を先取りしたような先進性を感じるが、 宮下センセーのいうようなシナの影響下にあったがゆえに、 日本美術の独自性は縮小(ない)しているのだろうか? 
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         尾形光琳「紅白梅図屏風」        川や梅の木を特徴を残して単純化させる意匠概念は、        のちに日本のデザインにも多大な影響を与えている。
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    伊藤若冲「鳥獣花木図屏風」 この絵は升目描きという、升目ごとに色をいれてモザイク画のように表現した。 現代風にいえばドット画像みたいなもので、このような手法は同時代にはない。 あえていえば新印象派のスーラの点描が近いが、概念が全く違う。
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伊藤若冲「鶴図屏風」
墨をつかった白線描の作品。鶴の様々な姿態が単純化されたフォルムと
勢いある線の筆勢がいかされた、ある意味現代の漫画にも通じる作風だ。
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   丸山応挙「大瀑布図」 この絵は円満院というお寺の住職に贈られたものだが、この寺の庭に滝がなかったので、応挙はこの絵を庭木の枝に掛けて垂らし、下三分の一は地面に寝かせて滝つぼを表した。このような平面絵画を立体的に鑑賞するインスタレーション的手法はこの時代になかった。
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   丸山応挙「氷図」   湖面に張った氷のヒビを線一本のみで見事にあらわした傑作である。   無駄な要素を一切排除した究極の単純化で凍てつく寒さを表現している。
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織部好み茶器 武将古田織部のプロデュースとでもいう「織部好み」の陶器は、「へうげもの」と称され、わざと歪めたフォルムや幾何学模様をあしらった伝統や形式にとらわれない実に現代的な表現だ。                 ↑         これら一連の様式もすべて、         シナの模倣だというのか!? 以下はほとんど日本美術を腐すだけの屁理屈。 >これ以前、日本美術は、中国や朝鮮など近隣の国にすら  影響を与えたことはまったくなかった。 当たり前じゃないか(笑) そもそも・・・ 日本は江戸時代に265年も鎖国をしていた国なのだから、 明治以前に日本の文物そのものが諸外国に輸出されることもないし、 あってもごくわずか、だから影響も与えるものではなかった。 こんな事日本の歴史をみれば高校生でもわかる話だ。 しかしだからそれ何だというのだ?  いったい宮下センセーは何が言いたいのだ? この人は文化は影響を与えれば、 「エライ」と思っているようである。 だから明治以前の日本美術はシナ朝鮮に影響を与えていないから、 シナ美術の物真似レベルの評価に値しないものといいたいのだ。 宮下センセーの「影響を与える、与えない」にこだわる意図は何なんだ? じゃあ、明治以降の日本美術は先進国の西欧に大いに影響を与えたから、 すご~く特筆大書すべき価値があって、西欧より優れているということか?  そうではあるまい。上述したように「文化は相互の影響で発展するものだ。 どちらの文化は優秀とか劣っているという問題ではないのだ。  宮下センセーの御説はまるで朝鮮人が  「これはウリジナルニダ~♪」というのを思い出す。 ルネサンス期の西洋美術も西域のイスラム教文化や遠くは、 インドやシナの様式にも影響を受けてきたことは近年の研究、 特に田中英道東北大学名誉教授の研究で明らかになっている。 しかしルネサンス絵画がその後のシナ絵画に影響を与えなかった事は、 西欧絵画が明朝や清朝の絵画より劣っているという事なのだろうか? 宮下流のコンセプトで見れば、こういう事ではないのか? さらに首をかしげたくなるのはシナと朝鮮を同列に置いて語っている事だ。 朝鮮など千年以上も歴代シナ帝国の属国属領に過ぎなかった植民地だ。 こんな国にオリジナルがあろうはずがなく、自ら小中華と誇った事大主義国だ。 なぜ宮下センセーはシナと朝鮮を同等に置きたがるのだろうか? 所詮は事大主義のシナの劣化コピー版が朝鮮に過ぎないのである。 まさか小中華思想が日本より優れている?というのではあるまいな?
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judachigeiju · 6 years
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まつもと・かずや『戦後世相史と口語俳句』読書メモ
「鹿火屋」の市川一男「これからの俳句は翻訳しても世界に通用するような俳句でなくてはならない。そのためには口語の俳句が作られるべきだ」(昭和二十二年一月十九日、小田原市の俳句大会)
指一本とられて職人らしくなったか 藤井以身
昭和二十三年、「鹿火屋」は昼間種・富沢正一・西村秀治・大竹竜・藤井以身・椎橋清翠・水谷六子・宮坂竹雄・高橋木槿・堀込のぼるなどの口語俳句で埋まろうとしていた。
市川一男らは「鹿火屋」を離れ昭和二十三年七月に「口語俳句」を創刊。内田南草・浦賀広巳・松本和也・湖光子・水谷六子ら。
水谷六子の予言「口語俳句は今は俳句ではないかもしれないが、そう遠くない将来には、俳句は口語俳句になるだろう」
学校菜の花に埋もれたった二人の先生です 藤井以身
青麦にまだうたがわれている戦死 間宮春生
卵の値がさがって夜ごとにうるむ星 小南健治
地ばたに大��く描いた船この船で父さん帰る 滝沢清
吉岡禅寺洞、口語俳句の別名としての「自然律」。
市川一男「自由律の人達は、自分の芸術を表すために、便宜上、口語調を必要に応じて採った」というのが自由律と口語俳句の違い。また自由律には短律があるが、口語俳句は十七音より長くなると予想している。
青虫がごま食ってる妹一家爆死のあと 市川一男
空は空の悲しみを持ち三月雪降る 湖光子
だまってだまってこの石をあちらへのける行為 まつもと・かずや
ぐったり疲れた肉体がそこに横たはる朝の浴槽は透明すぎる 黒田忠次郎
いるような星がふるような待ちぼうけ 平松星童
雪の日の運命の文字が電光ニュースとなって明滅する 筒井茎吉
ぼろタクシーよ俺は乗るどころじゃない十二月 橋本夢道
父はつねに大きな涙ためている まつもと・かずや
処女でないときいたあの人の座った布団 藤井以身
雲が夕日もゆるとき画かきになるといった少年 藤井以身
なめくじとけながらみているちぶさのみごとさ 藤井以身
市川一男「口語がものを考え、学び、思想、意志、感情を伝えあう社会生活の言葉であるなら、新しい俳句も口語でなければならないのは明らかだ」『新日本俳句』昭和二十五年十二月創刊号
孤独の目が二本の足で寄ってくる 浦賀広巳
三十にしておとこの純潔が尊いといわれそんな涙がおちてもくる 藤井以身
月夜の肋骨をすりぬけてカッパへらへら笑いつづける 帯谷瑛之介
子等を育てて忘れていた映画館の椅子のかたさ 池上倭文子
靴には砂ばかり靴をぬいでひもじくなる 田中波月
��いつめられた群像で肩に冬日をひからすのか 漆畑吐志男
落ちていた画鋲仰向けに妖婦の部屋 藤井以身
春の夢哀しく鶴の葬列見てしまった 藤井以身
東京都内でひぐらしもなき留守たのんで出る 藤井以身
鮎の艶事皿からつるりと落ちる 藤井以身
夜の灯がつき男をまたぎ女が出てゆく木造アパート まつもと・かずや
気持のいい時計の正確さがビルの前に立たせるのです 早川八重子
少年の日の飛ぶ夢は額に飛行郵便の切手をはる 市川忠男
あなたの特にいやなものは予備隊ですかかやの実ですか 藤島範孝
月の青さが街の電信柱をぐんと高くした 浦賀広巳
群像の一人にこはれた埴輪がある 吉岡禅寺洞
南風狂った時計が見おろしてる 芦田みさ子
人は無言で坐ると果実に似る 加藤太郎
かゆいところをかいて自分にすなお 高田声三
自衛隊志願の教え子とながめる鰯雲 加来光洋
ストリップ館出てタクシーを呼ぶけんめいに 田中陽
加藤太郎「文語文のホットなリズムに対して口語文のクールなリズムは、微妙で困難な要素を含んでいるだけに、今後、未開拓な面白さを期待できると考えている。」(『口語俳句協会年刊句集』昭和四十三年)
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世の中もう桜は咲いている
Monday 31 March 2014
真観は、禅寺に行った。今日の参禅者は真観を入れて3人。最近男性の方が来ていない。風邪でも引いたのだろうか?坐禅会が終るとご住職から参禅者にフルーツとお菓子を用意してくれた。お寺の行事の時に檀家の方から頂いたものだろうか?おすそ分けと解釈。
茶畑庵に戻ると朝食は、その頂いたお菓子を食べた。カロリーが気になったが甘いものはついつい手が出てしまうもの。なので真観は酒やお菓子等は茶畑庵には置かないことにしている。
今日はいい天気だった。世の中もう桜は咲いている様で真観には実感がなかったがニュースやFacebookで知る限り結構な見頃の時期に入っていて今週末がピークになると思われる。以前御殿場の東山湖の桜を見に行ったことがある真観。今週にでもお花見しながらランチでも食べに行こうかなと何故か東山湖が気になり出している。
YouTubeで海外の瞑想関連の動画を観ていたら「雑念」のことを「MONKEY MIND」と呼んでいた。そしてネットで調べてみると「MONKEY MIND」はパソコンでいう「マルチタスキング」であると表現していた。確かに例えばiPhoneはマルチタスク機能がありホームボタンをダブルクリックすると一度開いたAPPがすぐに呼び出される機能があるが人に置き換えれば、頭の中が一つのことに集中出来ていなく、様々なことが頭の中に詰まっているとも言える。そういった意味で坐禅は「雑念」を取り払うには良いことだと思う。真観は実際その効果を感じている。とは言え坐禅中に同じ考えが堂々巡りでやってくることはざら。だから修行なんだと思う。
今日で3月も終わり。今月は、学校の卒業式や茶畑庵に2人の来訪があったり、食生活の改善をしたり、Facebookで非表示だった友達を表示に切り替えたり真観なりに少しは成長した月だったと思う。来月、学校の今期の授業が始まるまでに大きなプロジェクトは2つ残されている。
精進して行きたいと思う真観だった。
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shakuhachi-kataha · 3 years
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中世の文学と尺八📖「宗長手記」篇
齢八十四まで尺八と共に、生きた!詠った!連歌師、宗長。
宗長手記とは、室町時代に書かれたいわゆる日記、紀行。柴屋軒宗長(さいおくけん そうちょう)という連歌師が書きました。2巻。大永2 (1522) 年 75歳の5月から同7年 80歳の年の暮れまで書き継がれたもので、連歌、俳諧についてばかりでなく、当時の世相を知るうえにも貴重な資料。
柴屋軒宗長(1448~1532)は室町中期の連歌師で、一休宗純と親交があり、また一節切尺八の名手であったとされます。永正元年(1504)駿河国宇津山麓に柴屋軒を結び(家に屋号をつけてそこに構えた)、以降今川家の政治的活動の為に旅をくり返したそうです。
そして、誰もが知っている
「急がば回れ」
を、唱えた人だそうです。
(そうだったの!😮)
『武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋』
琵琶湖を渡って京に上るには矢橋(やばせ)の港から大津への航路が近道に見えるが、風の影響などを受けて、しばしば、遅れたり危険を伴ったりする。確実に行こうと思うなら、瀬田の唐橋まで南下していくべきである、の意。
急いでいる時に限って、だいたい失敗してさらに時間がかかるなんて事はよくあることで…。
逆に、今日早起きしてめっちゃ余裕ある〜なんて時に、何故か気がついたら時間が無くて遅刻する、なんて事もありますね😅
何事も慎重にいきたいものです。
その宗長、職業は連歌師ということですが、
連歌(れんが)とは日本の古来に普及した伝統的な詩形の一種。5・7・5の発句と7・7の脇句の,長短句を交互に複数人で連ねて詠んで一つの歌にしていく。奈良時代に原型ができ、平安時代半ばに長短2句を唱和する短連歌が流行して、やがて連ねて長く読まれる長連歌になり、鎌倉時代初期に50、100、120句と連ね、同後期に100句を基本型とする形式の百韻が主流となる。南北朝時代から室町時代にかけて大成されたが、戦国時代末に衰えた。多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構造を持つ。百韻を単位として千句、万句形式や五十韻、歌仙(36句)形式もある。和歌のつよい影響のもとに成立し、後に俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。(wikipediaより)
一節切の名手だったということで、日記にも度々尺八のことが書かれています。
そんな中世の頃の情景を思い浮かべながら、尺八を親しんだ宗長の日記をかいつまんで読んでいきたいと思います。
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「宗長手記1群書類従  新校 第十四巻」国立国会図書館より
(赤いラインの部分から)
「紹崇(せうすう)として尺八(1)吹僧。もとは東山霊山の時衆。五条東洞院常福寺、柴野大仙院四・五年もありて、此ごろは和泉の堺草庵。尺八の弟子、だんなにて活計。伊勢に参宮とて、長阿(宗長のこと)折ふし山田に逗留。尋来て十日あまり、長阿は山城薪へのぼりしなり。昼夜もてなし「共(いなし)」とぞ聞えし。いかゞ有けん、二見の浦の浪にしづみけるとつたへきゝて、
 無常心(2) おこす一曲 いかにして 吹沈みけん あなうみのよや 
南都にてつたへ聞し事なるべし。山田へ申つかはし侍し。此尺八物にもかへて、跡の事とぶらはんとて、妹の尼時宗度々いへども、つひにのぼせず。」
ここで言う尺八は一節切のこと。
【無常心】世の中をはかなく思う心
宗長と親交のあった紹崇(じょうしゅう)という薦僧がおり、彼は元は東山霊山の時衆(時宗)徒であった。臨済宗大仙院に四、五年いた前歴もあり、近頃は堺の夢庵(肖柏・しょうはく)の弟子になり、尺八を吹いて旦那(信者)から施しを受けて生計を立てていた。伊勢参宮いうことで、私(宗長)はその折りに山田に逗留。こちらに尋ねてきて十日あまり、山城の薪(荘園)に行く。(紹崇は)昼夜もてなされ共にいたとも聞いたが、何があったのか、二見浦(伊勢)に入水自殺したと伝え聞いた。
「無常心 おこす一曲 いかにして 吹沈みけん あなうみのよや」
(この世の儚さを奏でる尺八の曲は、まるで海のように吹き沈んでゆくようだ、どうして逝ってしまったのか。)
南都(奈良)で伝え聞いた。山田に告げ知らせに行く。(此尺八物にもかへて)去っていった彼を慰問する(探し求める)と思い、妹の尼に度々言ったけれども、ついに上京しなかった。
んー、この自殺してしまった薦僧に、一体何があったのか?!気になります。
宗長は、海に沈んでしまった薦僧を想い、この世の儚さを奏でる尺八の曲は、まるで海のように吹き沈んでゆくようだ、どうして逝ってしまったのか。と「吹き沈む」という言葉を使い弔っています。
そして、翻訳、難しいです…。古語が難しいのはそうなのですが、その上、今更ながら日本語って主語がないから分かりにくい!アメリカ人の知人にもそう言われたことがありますが、まさにその通りで。一体誰の事を言っているのかホント分からない。下手な訳をご容赦下さいませ😅 
ふと、思ったのですが、いちいち誰の事か前後の文章で考えなくてはいけない日本語の構造は、こういう事から「察する」とか「空気を読む」とかそんな日本人の特徴が生まれてくるのかしらと感じました🤔
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「・・・京よりいざなはれくる人々、舟ばたをたゝきて尺八笛吹きならし、宇治の川瀬の水車なにとうき世をめぐるなど、このごろはやる小うた興に乗じはべり。」
京都から舟に乗って来る人々が、流行りの小歌を歌いながら、舟ばたを叩いてリズムをとって尺八吹いていたそうな。楽しそうです。
「東圓坊尺八、今夜兵部卿(1) 尺八とり出られて平調(2) 一手二手ばかり吹きすてられりし。身にしみてぞ覚えし。」
【兵部卿】律令制下の八省(はっしょう)の一つ(軍事を担当)の兵部省の長官。
【平調】(ひょうちょう)「五調子」と呼ばれるものの中の一つで、我が国の音楽の当時の基本的な音階。
吹きすてられりし、という表現が何ともいいですね…
↓こちらのミニ講座では、『體源抄』に記載される五調子の一節切の事をやりました。宗長が愛用したとされる、一節切も登場します。
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「寺の東圓坊、八十の老宿(1)、連歌の内夜ふくる物語のついでに、尺八の面白くもあはれにも身にしみてぞ侍りし。」
【老宿 ろうしゅく】 年をとり、徳を積んだ人の意。目上の人や高徳の僧に対する尊称として用いる。
「尺八の面白くも哀れにも身にしみてぞ侍りし」…うーん侘び寂び感…。
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「三井寺東圓坊、八十まで尺八の名をえたると也。尺八をきりしらべらるゝこと上手にもや、切りておくらる。歌あり。
 すさめおけ五のしらべすむ竹の齢八十の身になすをみてまとに八十の作、不思議のことにぞ。かへし、
 君がなす五のしらべすむ竹の千代に八十を取添えてける祝着をかさねて、殊にこの竹なり。うつくしく手にふれがたければ、 
 竹のよの 美しさ手に ふれがたみ 君が調べを 聞かぬ限りは」
こちらも、訳が難しゅうござりますが😅…三井寺東圓坊は八十まで尺八の名手で、製管にも通じていたとのことで、彼の尺八を讃えているのでしょうか。
 「大津津田宗桂一宿。京よりの堅等勝蔵(1) 尺八吹て、夜一夜おもしろく明けぬ。打出の濱より舟にて坂本、船の中勝蔵堅等かれこれ数盃。時雨し風の名残荒くて、船にや酒にや。いずれともなくて酔ひふしながら、比叡辻の法泉寺栄能の聴月軒���又こゝにて酒ありてぞ、勝蔵かへられし。一雨夜休息。」
堅等さんと、勝蔵さんの二人の名前のことでしょうか。
京から来た知人と一晩、一緒に尺八を吹き、船に乗ってお酒を飲みながら楽しく過ごしたようです。
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「三井寺で勝蔵坊日暮れて訪来。終夜尺八。」
またまた勝蔵さん登場。
いいですね〜、朝まで尺八三昧。
この日記によって、この頃尺八は、時宗、禅宗の僧侶や、宗長のような連歌師などの文化人たちによって愛用されていること、最初に書かれていた紹崇のように尺八を演奏することで身を立てていた薦僧も存在していたということがわかります。
昭和中期あたりまで、尺八というのはオトコの嗜みとして、多くの人に好まれたようですが、今やもう存在すら危ぶまれております。この尺八の音色が醸し出す侘び寂び、無常感に対する日本人の感度が、文化と共に消えているということなのでしょう。
少しで足りた時代に私は思いを馳せるのでした…。
さて、この尺八の音色で、現代の日本人の心を揺さぶることができるのか⁉️
 
長生きした宗長さんを見習って、八十歳すぎるまで⁉️いやいや死ぬまで(笑)元気に尺八吹いていられるといいですね〜😊
参照 
「尺八史概説」山口正義
「十七世紀における虚無僧の生成」保坂裕興
...
 
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acchali · 6 years
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200Miles
群馬県を中心に活動するサイクリングコミュニティCycleClub.jp(ccjp)は、関東圏から多くの参加者を集めるクラブライドを活動の中心に、前橋シクロクロスをはじめとしたイベントを何度も成功させ、自転車のまちを標榜する前橋市との信頼関係を築くなど、地元の自転車仲間という枠組みを超えた存在感を示している。そんな彼らが過去2年で2度クローズドで開催した200miles、320km/4300mUPというビッグライドのことは友人であり同じくRaphaアンバサダーを務めるccjpの中心人物の1人、Tkeyから話は聞いていた。僕は自身の最高距離も平坦基調で260km程度が一度あるぐらいで長距離走にも別段興味はなく、半笑いで彼に「自転車好っきゃな〜」と賛辞を送るに過ぎなかったのだけど。聞くところによると、満を持してということかはわからないが、その200milesをオープンなイベントとして開催するという。4人を1チームとして群馬県は前橋からスタートし、平坦を東へ栃木県小山市まで進んだところで北上、日光いろは坂・中禅寺湖を経て、国道日本3位の標高である金精峠の2024mをピークとし、群馬の沼田へ下り、中之条・東吾妻とアップダウンを繰り返し前橋へと戻ってくる320km、獲得標高4300mの道のり。朝3:30のスタートで、完走が認められるのは夜22:00まで。という話を聞いた頃には、なぜか僕も走る流れになっていた。長距離走が自分の関心外だったこともあり、特に走りたかった訳でも無いけど、なりゆきでそうなったら走らない理由は無い。運命が選んだんだ、と静かに受け入れた。走ることが決まったら、それはそれで楽しみだと感じていた。結局は「自転車好っきゃな〜」ということである。 そうこうして決まったチームは、Rapha Japanのヒロ、Onyourmark MAGAZINEのユフタ(もちろんこのライドも記事にしている)、RaphaCyclingClub(RCC)の東京チャプターを牽引する落合さん、そして僕という4人で、ヒロとユフタはCANYON Japanから新作のグラベルバイクGRAILを借り受けていて、オンロードでのインプレッションするという事になっていた。落合さんもまたCANYONライダーだという。チーム3人がCANYONで参加するのなら僕もということで、CANYON Japanのご厚意でハイエンドのカーボンディスクロードUltimate CF SLXを借り受けた。彼らが持つテストバイクのパーツを利用して市販のアッセンブルより軽く仕上げてもらったこのディスクロードは、油圧ディスクにeTapとまさに最先端の装備。僕のクロモリバイクとは対極の価値観で生まれたスーパースポーツは、ディスクブレーキで驚きの7kgちょうどという軽さで、このビッグライドを少しは楽にしてくれそうだった。結果として、このバイクは僕を強く支えてくれることになる。そうしてチーム全員がCANYONにまたがり、Raphaの新作カーゴビブショーツとテクニカルTシャツをチームキットとして身にまとい、プロモーション臭をそこはかとなく漂わせつつ、我らがCANYON//シャカヶ岳チームは準備万端で5月4日午前3時35分にスタートしたのだった。この時には知る由もないが、この日、北関東圏の一部を襲った異常気象は、ちょうどそこを走っていた僕たちを雨、雷、霰、雹、吹雪、氷点下の気温と、気まぐ���に様々なカード(もちろん晴れも)でもって翻弄した。最初の試練はスタートしてたったの30分後に天気予報で伝えなかった雨として現れる。未だ明けぬ宵闇の中で弱まることのない雨脚は、徐々に僕たちを削っていくが、とにかく前へ前へとペダルを回していく。ジャケットを雨予報ではなかったけど2000mからのダウンヒルの防寒と万が一の雨に備えてお守り的にRaphaのClassic Rain Jacket IIをチョイスしたのは幸いだった。これもこの日、僕を強く支えてくれることになる。 別のチームと出会って抜いたり抜かれたり、トレインを組んだりして走り続けると、やがて空は白み始めるが、雨雲は厚くなり雷を呼び込み、真夏の夕立のように様相を変えた。最初の平坦路で長い休憩を取る予定は無かったが、雨宿りに入ったコンビニで足留めをくらってしまう。既に全身は水浴びをしたようにぐっしょりと濡れていて、靴にも水が溜まっているような状態だが、ジャケットのおかげで胴がドライなのはありがたい。しかしまだ平坦を70km程度しか走っていない。先はまだまだ長く、ダウンヒル向けの装備が既に濡れていて、窓の外はさながらスコール。これからの旅の困難さに眩暈を覚えていた僕の横で、仲間たちはインスタントラーメンを食べながら晴れたらすぐ乾くだろうと笑っていた。 雨脚が弱まってきたところでリスタート。小雨になったとはいえ雨が降っている状態で自転車を漕ぎ出すなんて、税金を支払いに金融機関に行くぐらいに完全なる億劫でしかないが、日光方面に向かうにつれ、雨は止み雲はちぎれ、太陽が控えめに顔を出してきた。しかし先程のスコールは相当な雨量を広範囲にもたらしたようで、どこまでも路面はウェット。水捌けの良くない路肩は浅い川のような状態。前走者や自身の跳ね上げる飛沫で、体感としては雨の中を走っているのと変わらず、タフな状況はまったく変わらない。既に僕の意識と身体は切り離され、ただペダルを回し続ける機械としての自己を認識することで、かろうじてこのストレスフルな状態に耐え、歩みを進めていたのだが、北へと進路をとる頃には徐々に登り勾配を感じることになる。前半の100kmに及ぶ平坦区間が終わろうとしていた。 日光のコンビニで休憩していた他チームの友人と談笑すると疲れも少しは和らぐが、135km地点のここからピークの金精峠まで50kmほど登り続けることになる。いよいよ山岳コースか、と静かに気合を入れて走り出したのだが、見上げると、僕たちの進む道の先には黒々とした雲がかかっている。山頂は全く見えない。誰も何も言わないが、あれはどうみても雨雲、むしろ今日これまで雨を降らせてきた雲よりもどす黒く、嫌な予感しかしないが、雨が降っていないとそこそこ暖かく、このあたりは例のスコールが降っていなかったようで路面も乾いており、久しぶりにストレスを感じずにペダルを回すことができるので、僕は意識的に無意識を操作して前方の暗雲を消し去ることにした。そうして淡々と登り続けると、すぐに日光東照宮を超え、いろは坂へとさしかかる。チームメイトは皆ジャケットを脱ぎTシャツ姿だ。思えば、この日ここだけがチーム4人が揃ってチームキットを見せることができたタイミングだった。とても短い時間だったが、かっこいいと思った。本当はずっとTシャツ姿でいるつもりだったんだけど。 連休中ということもあり、車もとても多いが、いろは坂は2車線の一方通行で交通量が多くても比較的登りやすい。とにかく負荷をかけずに淡々と。それなりにヒルクライム的な気持ちよさを感じていたところ、ふと顔に水滴がかかると、僕が操作した無意識はあるべき場所へと立ち戻り、残された意識はすぐさま状況を判断する。気づけば周りは真っ暗だ。見上げていたあの悪意すら感じる色の雲に飛び込んだ格好だ。すぐに雨脚は強くなる。せっかくなんとなく乾いてきたウェアやシューズがまた濡れるのかとうんざりしていると、早々に本降りになりそうで慌ててレインジャケットを着る。チームキットのTシャツはまたおあずけだ。 15分後、山頂あたりで雨脚は弱まった。他チームも山頂に設けられた駐車場で休憩をしている。苦しそうな顔、色んな感情が混ざった無表情、伏し目がちで立つ姿、様々に入り交じっているが、そこに笑顔はない。そりゃそうだ。気まぐれに降った、たった15分程度の強い雨でまた濡れ鼠にされ、残りは150km以上ある。あんな短時間に強く降るならせめて僕たちが居ないタイミングでやってくれという話で、ここでヘラヘラしてるヤツなんてネジが一本飛んだと表現されるような人間だ。幸い、チームメイトもそれなりに渋い表情をしているし、僕もそうだ。思いっきり渋い顔をしてやった。皆無言だが、その表情から様々な感情を吐露している。誰も口を開かない。ここで弱音を吐く意味が無いことは皆理解していたし、何を言おうが今ここにいるのは自分の判断で、天候なんて誰の所為でもない。誰も何も言えないから、一様に無言で、吐息で毒を吐き、表情で文句をたれる。それぐらいは許してくれ。 ここは頂上に見えるのだか、ここから下るわけではなく、標高1,250mあたりの中禅寺湖を横目に少しばかりの平坦を走り、いよいよ本日のピーク金精峠へと向かう。この後はコンビニ的なものはしばらくないと言うので、中禅寺湖のほとりにあった小さな商店で補給をすることにした。気まぐれな天気はここで晴れ間を見せ、雨の中でカップラーメンやおにぎりを食べるなんてバカバカしいことにはならなかったが、身体は冷えている。僕は身体の中から暖めるイメージでカップヌードルのカレーと豚キムチ丼を選択した。少しでも暖かいところへと日が当たるところで皆で座って食事をするが、弱音のようなものは出てこない。僕たちにとって暖かい食事と太陽というのは太古の昔からいつだってそういうものだ。 腹が満たされ、太陽に暖められると、なんとなく走り出そうという気持ちになるのだから不思議なものだ。さっきまで努めて渋い顔をしていたというのに、冗談なんか言って笑い合えるようにもなったりする。ここはちょうど半分ぐらいの地点。思ったよりも身体に疲労はなく、このまま天気が良ければと空を見上げるが、太陽は厚い雲の切れ目から顔を出しているだけであり、山岳というのもあってどうにも楽観的ではいられない。むしろ厚く複雑な形をした雲が浮かぶ空はもう一雨ぐらい持ってきそうに見えてしまう。それはまるで、お気に入りのシャツにいつの間にか付けてしまった染みのように、僕の心には気づいたら不安がこびり付いていて、指でなぞっては、もう取れないことを確認するような作業だ。そんなネガティブな気持ちと休憩明けの重い脚で中禅寺湖のほとりを進むのだが、路面は乾いておりストレスなくペダルを回すことができる。そうそう、これこれ。このまま後半戦を進めていこうよ、と心の染みに向かってつぶやいてみるが返事は聞こえない。高地の気温は低く、乾ききらず湿ったままの靴は足先を冷やす。香辛料をもってしても足先までは温まらないし、むしろ体温もいまいち上がらないが、いよいよ本日の最高点の金精峠へのヒルクライムがスタートする。分かれ道を右へ進路をとると、すぐに勾配が強くなった。ゴールを探し空を仰ぐように見上げるとただ真っ白な雲の中へと道は続いていくのだった。 ところで、さきほどから小さくヘルメットやカーボンフレームを叩く音がしていて、それは金精峠を登るにつれて降ってくる雹とも霰ともつかないものが僕を打ち付ける音だ。マイペースで登ろうと序盤でチームからあえて遅れたが、この天候に心はバキバキに折られている。サイコンが示すパワーの表示は150W程度だ。軽量級の僕とは言え、こんな省エネルギーで登れるわけはなく、その歩みは亀のように遅い。僕はふたたびペダルを回し続ける機械と成り果て、一切の感情を持たずに登り続ける。そうだ、僕がいま、こんな天候でこの峠を超えていることに意味なんてないし、ただWahooのサイクルコンピュータが塗ったルートをトレースしているだけで、むしろ僕はサイクルコンピュータの一部で、パワーメーターが示す値の通りに僕の脚が回っている。それは僕の脚が150Wの出力をしているのではない。パワーメーターが150Wと僕に指定しているのだ。電子機器に支配されたサイクリストはいつのまにかパワーメーターに乗っ取られ主従関係が逆転していることに気づかず、今日もこうしてディスプレイに示された値を視覚から入力し、それを自らの脚で出力しているだけに過ぎない。 という状況に至るまで感情を身体から切り離したところで、ピークの金精トンネルが見えてきた。チームメイトが雹とも霰ともつかないものから逃れるようにトンネルの入り口にいるのが見えると、感情が一気に戻ってくる。待たせてごめん。さっきまでパワーメーターに乗っ取られていたんだ、とは言わなかったが、お互いにこの苦しいヒルクライムをクリアしたことを称え合い顔が綻ぶ。やはり孤独はだめだ。仲間がいればパワーメーターに乗っ取られることなんてなかった。さぁ、このトンネルをくぐればあとは30kmにも及ぶダウンヒルで、ご褒美的に一気に210km地点まで気持ちよくワープできるのだ。この下りこそディスクロードの本領を発揮するところ。いつもより安全に気持ちよくダウンヒルを楽しめるだろう。そう思いリスタートした。前方のトンネルの出口が近づくにつれ、僕たちは違和感を覚えだす。色がおかしい、あまりにも白いのだ。その色に「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」なんて昭和初期の小説の冒頭が思い浮かぶが、彼は列車に乗っていたはずで、僕たちは自転車だ。このトンネルを抜けた先に美しい物語の始まりはなく、地獄のダウンヒルが待ち受けているだけだった。 トンネルの出口からその雪国とやらにつっこむと、完全に吹雪で気温はマイナス2度を指している。ニーウォーマーもなく、ペラペラのグローブはすぐに氷結した。少しでも体温が上がるかとペダルを回すが、膝に電気のような痺れが走ったので止めておいた。ここで選択を誤ると、とんでもない故障をしてしまいそうな気がする。指先も足先も痺れるような痛みがあるが、油圧ブレーキはこの極限状態でも優秀で、安全なスピードをキープすることができる。すぐに山小屋が見えてきたので退避する。もう限界だ、これ以上どうして下ればいいというのか。まだ山頂から3kmしか下っていない。時間にしても5分も経っていないと思う。ずぶ濡れの身体がガタガタと震え、手足の痺れと痛みが取れることがない。チームメイトが暖かいコーヒーを買ってきてくれ、山小屋の方がストーブを付けてくれたので、なんとか震えは収まってくる。 寒さ耐性というのは個人差があり、僕は昔から冬に痩せて夏に太る体質が示すように、寒さが苦手で暑さが得意である。こういう極限状態を経験するまでは寒さも暑さも趣味嗜好かと思っていたが、低体温症になった経験もあり、どうやらそういうことのようだ。以前にシクロクロスのレース会場で低体温症になり救護された時と比べると、レインジャケットを着ていることによって胴が濡れていないことで相当に冷えは軽減できているように思えた。先が見えない状況だが、いつまでもここに居るわけにはいかない。吹雪は収まりそうになく、標高が100m変わるごとに気温は0.6度変わるというので、今が1番辛いんだと言い聞かせ、山小屋のお土産物として売られていた群馬県のゆるキャラ、ぐんまちゃんが描かれた手袋を買い、チームメイトと吹雪の中に飛び出して凍りついた自転車にまたがり重力に任せて下り始めた。サバイバルの鉄則は現地調達だ。新しいグローブをゲットして少しは楽になるだろう。 山小屋で取った暖は一瞬で消え去り、地獄のようなダウンヒルが続く。子どもの頃に読んだ絵本のようなもので、様々な地獄出てくるお話があったのを覚えていて、その中に灼熱地獄はあったが、逆のものはなかった。これからは極寒地獄も追加するべきで、なぜならここは地獄のようだからだ。すでに知覚が鈍っていて痛みのディティールを感じることは出来ないが、身体のあらゆるところが痛い気がする。手足は先程まであった痺れを伴う痛みを感じなくなったが、それは感覚が無くなったということだろう。得意の無意識を発揮して、何も感じずに下るだけの機械になることが出来ればいいのだが、あまりにも僕はそこで人間だった。ここでパンクしたら死ぬだろうなと思った。ましてや落車なんか。5月の装備でマイナス2度の吹雪で走行不能になったら死ぬに決まっている。チームメイトの命だって危険に晒してしまう可能性もある。そんな人間的な考えばかり溢れてくるが、そのぶん意識は冴えてくる。感覚がなくても油圧ブレーキはしっかりと仕事をしてくれるので、危険を感じることはなく、パンクのリスクがありそうなところを避けたラインを取ることができた。自転車を借りて本当によかったと心の底から思った。心の底というのはこの深さにあるのかと自覚したほどに。これまでディスクロードに対して特に必要性を感じていなかったけど、とにかく安全でいるということに関しては圧倒的だった。5月に氷点下で吹雪のダウンヒルなんてあまりに極限状態であることは確かだが、それでも油圧ディスクブレーキがもたらす安全マージンはかなりのものだ。しかし身体は冷え切っている。もう限界だと何度も思ったが休めるところはなければ話にならない。ふと先にリフトが見えた。どうやらスキー場があって休憩できそうだ。ここまで10kmで約15分。永遠のように長かった。 ガタガタと震えて建物に逃げ込む。5月ということもあり暖房はあまり効いておらず、灯油のストーブみたいな暖を取るものもない。激しく震える身体と、おぼつかない手元で凍結したグローブと靴と靴下を脱ぎすてた。全身びしょ濡れだが、スキー場の食堂だけあって気兼ねなく座れる感じの椅子なのは助かった。暖かい飲み物や蕎麦をかきこむ。空腹ではなく、温度に飢えていた。なかなか回復しないが、それでもここにいれば大丈夫だと実感する。実際にここに入ってきた時よりも震えは小刻みになっているし、なんとなく、これから先のことを考えたりもする。今は約190km地点。残りは2,000mほどの獲得標高となるアップダウンを130kmほどとなる。そして、僕はふと「次、雨が降ったらもう帰るから」と口にした。何度も心は折れそうになったし、パワーメーターに意識を乗っ取られるなど実際に折れたこともあったかもしれないが、諦めた訳ではない。だけど固執はしていない。こんな連休の遊びのライド、いつでもリタイアすればいいと思っていたし、退路をつくるのも役割かなと、くらくらする頭で考えたはずだけど、チームメイトはそれでも果てしなくポジティブで、その時、僕たちは完走するんだなと思った。ほうぼうの体で吹雪から逃げ、低体温に震え、手も足も感覚なんて全くなくて、それでも僕はここでそう確信したんだった。この苦痛の先になにがあるかはわからないし、栄光なんて確実にない。だけど、こいつらと、このクソみたいな状況で前しか向かない連中と、やりきってみたくなったんだ。今日やろうとしたことすべて、ひとつのこらずだ。 ようやく回復したと感じる頃には1時間も経っていた。その頃には吹雪も止んでいて、なんて運のない日なんだろうと苦笑いする。なんとなく暖かくなった気がする下りを進むと、ほどなく雲は予めそうであったかと思わせるほどに、一片も残らずに消え去り、このライドではじめて見る晴天となる。さっきまで震えていたのが嘘のようだし、馬鹿みたいだ。いつも、いつだって意味のあるように見えるものは、あっけなく消え去って、結局は何も僕たちにもたらすことはない。でも、だけど僕たちはこんなにも青い空の下で、行き先なんてどうでも良くなるのかもしれないし、なるようにしかならないのかもしれないが、つまり自由だということなんだ。 群馬県の沼田まで降りきって久しぶりのコンビニで補給すると、参加者の連絡用のメッセンジャーにリタイアの連絡が飛び交い始める。そうか、そうだよな。だってあんな地獄で、そこに何を見出せるというのだろうか。いや、無い。そこにあったのは、ただ、この青空のように底抜けに明るいチームメイトのことばだけだった。もし君のチームにそれが無かったなら、残念だがそのリタイアは決まっていたことだったんだ。それは僕たちが生まれた年月日で、運命が予め決められているように語るほどに、なんら意味のあることではないし、そんなものは道化師か占い師に任せるしかないのだから。 コンビニの駐車場で大の字に横たわって感じる。太陽の暖かさを、その恵みを。僕の細胞に葉緑素があったとしたら、きっと光合成はこんな気分だろう。僕の肌を焼く陽光を、こんなに全身で待ち望んだことはなかった。靴下を雑巾のようにしぼり、レインジャケットを脱ぎ、僕は今日ここにまた生まれる。残りは110kmだ。もうなんの迷いもない。あの時に交わしたことばのとおりだ。だから、ここから先の全てを僕が引き受けよう。この先で何が起きても、その事実に誰の心が折れたとしても、僕の真実で、その事実を捻じ曲げよう。もう僕は無意識を操作したりはしない。さぁ共に進み登ろうぜ。リタイアした彼らを指差す腰抜けどもに、勇敢な彼らの証人となる為に、じき訪れる宵闇に向かって走りだそう。登りきった先に何も見えなくたっていい。 そうして僕たちは進みだした。それから、いくつもの苦しい登り坂があり、同じだけ下り坂があった。気づけばもう真っ暗だ。太陽が登る前に走り出し、果たしてその太陽は再び地平線に沈んだ。ひたすらに前を引くヒロの背中に僕たちのライトが光を落とす。彼が着るジレは、まるではためく旗のようで、そこにはあのロゴが見える。あぁ、そうだった。いつだってサドルの上で僕たちに多くのもの、それは、発見であり、学びであるし、多くの気づき、または苛立ち、諦め、哀しみ、喜び、畏れ、感動、妬み、あるいは愛情かもしれないし、おそらくこの世界のあらゆる感情だった。そして、僕にとってそれはいつだってRaphaという文字列の延長線上だった。光を追い抜いて消えてしまいそうなヒロの背中を追い続ける。やがて僕たちは街に降りていく。22時の制限時間に間に合うのかと考えたりもするのだが、僕にとってそんなことはもはや些細な事象に過ぎない。ただ太陽が動き、時間が過ぎただけで、それ以上でも、それ以下でもない。 見覚えのある前橋の街並みを走っていた。やっとここに帰ってきて、それは長い長い旅路の終わりだった。幸福を求めた少年が世界の素晴らしさに気づいたその時にスプーンの油をこぼしてしまったように、果たして僕たちはゴールした時に何かを見出すのだろうか。スタートして最初に曲がった交差点を逆に曲がる。みんなが待っていた。それもそのはずだ、僕たちは21時58分にゴールしたのだから。走行時間は18時間24分。チームメイトと肩を組み、皆で破顔する。ありがとう、ありがとう、こんなにもクソみたいな1日は人生で初めてだ。バカヤロウ、ファック!本当に最高だし、同時に最低でもあって、やはり全ての感情がここにはある。それを言語化なんて到底出来そうにもないし、チャレンジすることも愚かなことかもしれない。でも、こうして書き残そうと思ったんだった。もし君がスタートする時のために。どこか遠くへと乗り出すその日のために。その時、僕たちがどこにいるのかは、まだわからない。 10日ほど経って、未だに痺れが残る指先でこの文章を書いている。あれ以来、自転車には乗っていない。いま振り返ってもやはりこのライドの核心は氷点下の金精峠のダウンヒルだ。あまりにも不安定な天気はおそらく1時間早かったら、または遅かったら表情を変えていただろう。しかしあの日、多くのチームが地獄の時間にそこを下っていた。スキー場で会った他チームの友人もみな憔悴しきっていたのを覚えている。あらためていま、参加者の連絡用のメッセンジャーを見て、リタイアの文字が飛び交う様を見て、涙が出そうになった。わかる。ここでリタイアを決意する気持ちは痛いほどわかる。人の想いは良し悪しを問わずに伝播する。もし僕があの時、次に雨が降ったら、と言わずに、今すぐ帰る、と言っていたら。誰かひとりのその判断は諦めではないし、弱音でもない。あの日、あの時、あの場所であの状況なら至極真っ当なものだ。僕もそう言われると否定せず、もう辞めようか、と思ったかもしれない。だからこそ僕は、底なしにポジティブなチームメイトたちに本当に感謝し、尊敬する。僕はこの過酷な環境で、それでもここに立つことになった運命を信じ、その輪を回し続けるために、次に雨が降ったら、と話したとき、こう返してくれたことを。「じゃあ、もう雨が降らなかったら?」 結局、雨は降らなかったし、その光はいつだって眩しかった。
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sususio · 4 years
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先日、奥日光出勤の後で菖蒲ヶ浜キャンプ場で初ソロキャンしてきました!⛺️ 1.テントにオレンジのレジャーシートで小川張り風に。 2.夜はダイソーメスティンと自作のアルコールストーブで米を炊き、焚き火台とダイソースキレットで肉を焼き、ダイソースキレットでカマンベールのアヒージョを作る。 3、4.朝のテントからの景色は最高。 5.朝飯は昨夜のアヒージョの残りと焚き火でベーコンにソフトフランスパン、コーヒー忘れて缶コーヒーを再加熱。 6.周りのキャンパーさん達の様子にワクワクして。 7.まさかの知り合いに遭遇(リラックマの持ち主一家)。 8.そしてキャンプ場に鹿。🦌 いやー、色々勉強になった。 ・仕事終わりで来ると寝るまで意外とバタバタする。 ・日向は開放感があっていいが、朝露と直射日光がキツい。 ・もっとランタンが必要。 ・トレラン用のハイドレーションがウォーターサーバーとして活躍。 ・ゆるキャンて何? よし、次回の夕飯はカレーヌードルにしよう。まずはそこから。 #ソロキャン #ゆるキャン #菖蒲ヶ浜キャンプ場 #奥日光 #中禅寺湖 #エアライズ2 #エーライトモナークチェア #カマンベールのアヒージョ (菖蒲が浜キャンプ場) https://www.instagram.com/p/CEP93pMFe-0/?igshid=1eb4vbtat6ia5
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中禅寺湖レイクトラウト解禁②
4月5日はこれまで続いていた高気圧の暖かい数日が続いた後、少し天気が崩れそうな空模様。それでもまだまだ例年に比べたら暖かくて、ついつい天候を釣れない言い訳にしてしまいます。
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Monster Breakデビュー戦
朝一のポイント、まだ薄暗い時間帯にこの日から初めて投入したMonsterBreakに1投目からバイト。掛ける事は出来ませんでしたが幸先の良いスタートに期待するも、釣れるのは可愛いレイクちゃんばかり。そんな中菅井さんがMonsterBreakでついにヒット!ルアーのサイズがサイズだけに、魚のサイズにも期待しましたが45cmほどのヤングレイクでした。ルアーはMTレイクスのWILD-1オリカラのワカサギの方が一番バイトが多かった。
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現在最終段階?まで来たテスト中のルアー「Break85R」のアップサイズモデルで、そのサイズ感の持つ独特のアピール力に期待しているルアーであるMonsterBreak。
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普通の?ブレイクとRainbowtrot02、BIGFISH1983の偏光グラス
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解禁日からの潮回りは大潮、さらに満月で明るい条件。こういう時は夜中に餌を活発に食べてしまっているせいか、朝マズメはいまいち食いが悪いことがどの魚種でもあるので、普段なら気を抜きがちな時間帯もコーヒーブレイクを挟みながらみっちりと。しかし結局お昼まで異常は無く、ランチ後にしばしシエスタ。
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夕方は小さなレイクを1匹だけでしたが、冷たい風に小雨の天候に、翌日に期待が持てそうな感じで終了。ちなみにルアーはMTレイクスのグリーンチャート。
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4月6日、曇り時々晴れ
翌日は今季初の渡船で山側へ。がっつりピクニックするのも楽しいけど、渡船だとコーヒーセットもフルで持ち込む事が出来るので、自分の中では中禅寺湖のグランピング的な楽しさがあります。
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暗いうちから色々と試すも可愛いサイズの反応もなく日も昇り始め、相変わらずコーヒーを飲みまくる(笑)だけどこれまでコーヒーを飲んだ直後に良い魚に出会った経験が多々あるので、場所を休ませる意味でものんびりとマイペースに。それに可愛いサイズが連発しない方がむしろ期待してしまったり。
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ビッグベイト好きの僕としては巻いてるだけでもちょっと楽しいMonster Break。ルアーの”振り”を感じながらゆっくりと巻いていると、ゴゴっと突っかかるようなバイト。基本スライドスプーンのスライド中のゴン!っていうアタリがメインだったので、巻きで食わせる感じが何とも新鮮で嬉しい。
ランディングシーンを撮影してもらいました。特別大きなサイズではありませんが、めっちゃ喜んでます。はい、だってめっちゃ嬉しい。
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ROD: HuercoXT711-5S, Huerco REEL: STRADIC4000MGX LINE: SUPERTROUT ADVANCE S-spec(1), VARIVAS LEADER: SUPERTROUT Shock Leader 18lb, VARIVAS SNAP: BaksynSnapHP, Baksyn Lure Designs LURE: Monster Break prototype, Rmagic EYEWEAR: Rainbowtrout#02 White Turtle, BIGFISH1983
やっぱりレイクの釣りでは外せないMTレイクス
その後は少しポイントを変えてみるも、遊んでくれるのはちびレイクのみ。お昼にはお迎えの船が来るので、荷物のある場所まで戻り粘ることにします。通常個人的には昼前後はそこまで釣れるとは思ってないのですが(人によりきり)、前途の通りこんな潮回りは特に気が抜けないってことでキャストを繰り返してみたところ最後の最後に反応が。根掛かりかと思ったら魚だったっていうレイクトラウトあるある。いや自分だけかもしれない(笑)
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上がって来たのは67cm、鼻の尖ったカッコいいレイクでした。これぐらいになってくると顔まわりの老獪さや尾ビレのサイズなんかがレイクらしくなって来ますね。いや〜嬉しかった。
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ROD: Test sample, Huerco REEL: STRADIC4000MGX LINE: SUPERTROUT ADVANCE S-spec(1), VARIVAS LEADER: SUPERTROUT Shock Leader 16lb, VARIVAS LURE: MTLakes WILD-1別注カラー/UVヒメチャート/グロー EYEWEAR: Rainbowtrout#02 White Turtle, BIGFISH1983
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5日の夜はちょっと奮発、旅籠なごみでお風呂と晩御飯
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夜はヒラスズキを釣りに行くという正気の沙汰じゃない言葉を残し菅井さんは千葉へ。僕は休憩を挟んで他の仲間と合流して夕マズメのワンちゃんを狙いましたが、チェイスのみで終了。だけど普段はやらないエリアで、Monster Breakで魚の存在を確認出来たので収穫はアリ。またシーズン序盤に試したいパターンを発見したので、まだしばらくはソワソワする日々が続きそうだ。
ではまた。
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ANOTHER VISION OF FISHING #05 The Opening Day of Spring from bigfish1983jp on Vimeo.
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tsuntsun1221ts · 4 years
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2020.06 男体山(日光2/2)
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梅雨空の上は雲海
1日目より
2日目はホントは女峰山に登ろうと思っていたが天気悪そうだということと、 朝5時半に東武日光駅のタクシー乗り場に来てもタクシーは待機しておらず、看板に書いてあったタクシー会社へ電話しても出ない(一応前日に朝タクシー来てるって確認とっておいたんだけどな、予め時間を伝えて予約しておかないとだめみたい)。タクシーがいつ来るかもわからず、ましてや女峰山方面行きの始発のバスを待っていたら遅すぎるので急遽男体山に変更した。
行き先は昨日購入したフリーパス(2日間有効)が使える範囲なので、往復約2000円が節約でき、非常に有能。天気のせいもあってか、昨日とは違い登山客は自分しかおらず、始発バスは貸切。
男体山へは2017年6月に来たということで3年ぶり。あのときはまだ梅雨前だったと思うが、山頂からの光景は素晴らしかった。そして今回は完全な梅雨空で景色は明らかに期待できない。まぁ景色はともかくさくっと登ってさくっと下山して早く家に帰ろうというモチベーションで登り始める(ついでに今回はソロなのでタイムがどれだけ短縮されるのかも気にして)。
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【コースタイム】二荒山神社中宮祠 (0710)→5合目 (0820)→7合目(0850)→8合目 (0920)→山頂 (0945)→休憩→下山 (1020)→7合目 (1055)→ 二荒山神社中宮祠  (1205)
昨日は結構長い行程だったのだがその疲れは残っておらず、足も普通。コロナ自粛中でのトレーニングの成果?あるいは5年目くらいだから自然と体が出来上がってきた?
二荒山神社中宮司下車して登山届を記入、入山料は前回500円だったけど1000円に値上がりしていた。
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まずは洗礼として長い階段。
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薮笹の土の道は滑りやすい箇所がところどころあるが、昨夜の雨に対してぬかるみは殆どない。
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笹薮を抜けたら車道をしばらく歩く、意外と長い。そして再び登山道へ。
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基本土の道。まだこの時点では登りやすいが・・・。
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5~6合目で次第に岩が目立ち始め、7合目には完全にゴーロ帯となる。以降はずっと急登であり、やっぱ男体山は山の中ではキツイほうだと思う。山頂まで景色も無いし。
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9合目くらいか、山頂に近づくとようやく傾斜が緩くなる。
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山頂直下で青空が見え始める。もしかして上は天気いいのかな?
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いつの間にか雲を抜け、振り返ると・・・っっ!!!まさかこんな光景は想像していなかった。
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青空の下の山頂が見えたときには早く上から景色を見たくて、走りだした。
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山頂まで2時間半(前回は3時間15分)、まさか上はこんな光景になっているだなんて思いもよらず。昨日の奥白根と比べて山頂の人の数は1/20以下か、やはり麓の天気が悪いから登る気にならないよな。
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シャキっ。(知らない人)
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当初登る予定だった女峰山。このときは晴れていたけど、そのうち雲で覆われていた。あっちからだと雲海も見えづらかったと思うし、こっちに変更したのは結果オーライ。
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山頂晴れているのは周囲ではここだけの模様。昨日登っていた日光白根も、男体山とほぼ同じ標高のはずだが雲に覆われて山頂は見えなかった。
天気が悪いから景色がないとは限らない、登ってみなければわからない。今回でよく理解した。 (昨日だってあんなに晴れていたのに山頂だけガスっていたし)
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サクッと登ってサクッと降りてくる予定だったのだが、山頂から離れたくなくなった。と言っても明日は会社だしなぁ。
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30分ほど山頂で休憩し下山する。天空の道、素晴らしい光景だ。どんどん雲の中へ降りていく。
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9号目以下は雲の中に突入。
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途中、この日最初で最後の中禅寺湖が見えた。
下りの岩場は若干湿っているので滑りやすくなっており、傾斜もありスピードも出るので注意。下りはノンストップ、当然疲れるがそれほどでもなかった。
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1時間半くらいで下山。
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神社前の中禅寺湖。すごい霧(笑。これボート漕いでる人たちは元の場所にもどってこれるのか?割と危ないと思うんだけど。
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下界はひどい霧の中で100m先が見えない。いろは坂を下れば霧が晴れて普通の曇り空となる。まぁ中禅寺湖はそもそも標高が高いから雲(霧)も湧きやすいか。
そして日光市街地はすごく賑わってる。ようやくコロナ前の活気が戻ってきた感じか?
ということで、奥白根も男体山もどちらも予想外で面白かった。女峰山に行くには予め 早朝にタクシーを予約しておくか、車を用意しておかないと登れない。
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