Tumgik
#咥え髪留め
kyo-sakisaka · 2 years
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水柱の継子
※継子if
水柱と継子が好きという感情に気付くまでのお話
***
冨岡義勇は水柱である。若くしてその才を余すことなく発揮し、鬼殺隊の柱へと登り詰めた。人と会話することを苦手とし、形見の半々羽織を纏って無表情のまま鬼を殺すその姿は、ともすれば周りの人間に畏怖の念を抱かせる。それゆえか、人脈が乏しく同じ柱である蟲柱に「それだから嫌われるんですよ」とまで言われる始末である。肩まで伸びて無造作に一括りにした黒髪と、心の底まで射抜かれるような澄んだ青い瞳。冨岡義勇とは、そういう男である。 「師範!」 市街地から少し離れた、月明かりの竹林の中。ふと背後から聞き慣れた声を耳にして、義勇は刀に付着した鬼の血を薙ぎ払い、鞘に納める。先程その刀によって首を切られたそれは、最早灰となって何も残ってはいなかった。 「今からお帰りですか」 「ああ、お前もか」 「はい」 長期の遠征任務に駆り出されていた義勇にとって、久方ぶりに見た弟子の姿だった。滑らかな頬には痛々しい傷が付き、額からは真新しい鮮血が流れている。にこにこと花が綻んだような笑顔を見せるが、きっと傷が痛むのを我慢しているのだろうと義勇は思った。 「今からお屋敷に戻ろうとしていたんですけれども、師範の匂いがしたのでつい、」 そう続けようとした炭治郎の言葉は義勇に手首を掴まれて遮られた。 「怪我をしている」 「これくらい大したことないです」 そう指摘された炭治郎は、傷を隠すようにぱっと手を離した。 常の無表情に加え、眉間に皺を寄せた師からは、炭治郎を心配している匂いがした。 自らの師にそんな顔をさせてしまう自らの未熟さが情けなくて、炭治郎は眉尻を下げて俯く。 「俺、もっともっと強くならなきゃ」 長男。その言葉は炭治郎を強くもするが、呪いのようであると義勇は思う。 父を亡くして以来、誰にも甘えることが出来なかった齢15の少年。 俯いた炭治郎の手のひらは何かを耐えるようにきつく握られていた。 「師範の自慢の継子になれるように、頑張ります」 「そう焦るな」 お前はよくやっている。義勇は自らの弟子を見てそう思う。 誰よりも努力しているのを義勇は知っている。稽古に明け暮れて傷だらけになったその手のひらは、炭治郎の弛まぬ努力の証だった。自らの弟子が自分を敬愛し、自慢の継子になりたいと言う。弟子にどうしようもないいじらしさを感じてそっと目を細め、あやす様にぽんと頭の上に手を乗せた。 「稽古なら、後でいくらでもつけてやる」 「だから今はちゃんと休め」 「ありがとうございます」 「ほら、早く帰るぞ」 「はい!」 炭治郎は元気よく頷いて花が綻ぶような笑顔を見せた。ほら、と師が差し出した手のひらを迷いなく握り返し隣を歩く。月明かりが寄り添うように仲睦まじいふたりの姿を照らしていた。 冨岡義勇には、継子がいる。 **** 「炭治郎はさ、水柱と付き合わないの?」 「俺が?師範と?」 良い天気だ。雲ひとつない晴天から暖かな日差しが降り注ぐ。蝶屋敷の縁側で団子を頬張りながら、 善逸は心底不思議そうな目で炭治郎を見つめていた。男の善逸から見ても炭治郎は整った顔立ちをしてると思う。赤くきらきらした瞳は大きいし、屈託のない朗らかな笑みは可愛らしい。それでいて誰にでも優しいときたらまぁモテるのもわかる…と善逸は思う。実際炭治郎はモテる。老若男女問わずモテる。彼が敬愛している師範にさえも。無口かつ無愛想で有名な彼の師範でさえ彼のことを好ましく思っているということを善逸は知っている。だってほら、嬉しそうだから。音が。 「だって絶対炭治郎のこと好きじゃんあの人」 「うーん、確かに良くしてもらってるけれど、俺と師範はそういうのじゃないよ」 困ったように笑って頬を掻く炭治郎にあーあ、全然伝わってないよ水柱、と善逸は思った。確かに炭治郎は師を好いている。好いているけれども、あくまでそれは敬愛だ。 炭治郎に近づこうとする相手には、あの獲物を凍りつかせるような目で睨んでくることなんて本人は知らないのだろう。炭治郎にだけ甘くて優しい眼差しを向けているということも。 (あんなに独占欲丸出しなのにな) 炭治郎が水柱に拾われたことを知っている善逸はそう思う。何しろあの柱は手が早かった。雪山で家族を殺され、妹が鬼になってしまった炭治郎に生きる理由を与えた水柱。最終選別が終わるや否や炭治郎を継子とし、今に至るまで自らの屋敷で寝食を共にしている。甘い毒のようだ、と善逸は思う。自分を敬愛し、依存し、そしてそう在るのが当たり前のように炭治郎に刷り込む。最終選別で顔を合わせた頃の炭治郎と今の炭治郎とでは、善逸の耳には随分と音が異なっているように聞こえた。継子を育てる為といえば聞こえはいいが、最早それは執着だ。 「まぁ炭治郎がそう言うならそれで良いと思うけれど」 「?」 「でもさ、そう思っているのは炭治郎だけかもしれないよ」 善逸は団子の串を口に咥えながら炭治郎の方を振り向いた。きょとん、という音が似合いな顔をしている炭治郎は、いつだって鼻が利くわりには自分に向けられた感情に鈍感だ。自分の同期はまったくもって、大変な人に好かれたものだ。 「だってあの人、」 とんでもなく独占欲強いぜ? 善逸に耳元でそう囁かれた炭治郎は、目を見開いた。 **** 好きってなんだろう。風呂に浸かりながら炭治郎は思う。 山育ちで家族のために働いていた炭治郎には、そういったものに現を抜かしている暇などなかった。長男だから下の弟や妹を支えなければならなかったし、よく町へは下りていたけれども炭を売りに行くという仕事だったから、恋愛なんてものはよくわからなかった。 だから、善逸に付き合わないの、と聞かれた時に吃驚したというのが本音だ。 (俺は今恋をしてるのか?師範相手に?) 確かに、自分の師は男の自分から見ても格好良い。顔立ちが整っているし、物静かで無愛想なように見えるが実は誰よりも優しい人なのを知っている。自分を絶望の淵から引っ張りあげてくれた恩もあるし、尊敬もしている。好きか嫌いかで言われたら、間違いなく好きだ。 でも。でもきっと善逸の言っている「付き合う」は、そういう好きではない。 そこまで考えて、炭治郎は考えることをやめた。考えれば考えるほどよく分からない。これ以上考えていたら逆上せてしまいそうだった。 静かな夜だった。たまにひんやりとした風が木々を揺らす。水柱である師の屋敷は、居心地が良い。夜空にはこちらを見下ろすかのように三日月が浮かんでいた。火照った体を冷ますように夜風に当たっていると、炭治郎の視界に見慣れた姿が映った。 「師範」 義勇は寝る前なのだろうか、着流し姿で髪留めを解いていた。炭治郎が声をかけると縁側に腰掛けていた義勇はゆっくりと振り向いて、その顔に月の光を写してみせた。 「お風呂いただきました、ありがとうございます」 「ああ」 そう言って静かに目を伏せて元の方へ向き直る師の姿を見て、炭治郎は美しい、と思った。 思ってから、少しだけはっとして先ほどまで考えていたことを思い出す。 (美しい、綺麗だ、可愛い………それは好きになるのか?) そう考えながら、師範の隣に腰を下ろす。太腿に触れる少しだけひんやりとした温度が心地良かった。相変わらず横顔が美しい、涼しげな青い瞳は意思が強そうだ、なんて炭治郎が思ってたからいけなかったのかもしれない。 「そういえば今日善逸に会ったんですけど、師範と付き合わないのか、って言われました」 考えていたことが口を突いて出てしまうのは自分の悪い癖なのかもしれなかった。口走ってから、ああ、言ってしまったと炭治郎は後悔した。隣で義勇が息を呑む気配を感じたから。 「変なこと言いますよね、傍から見たら付き合ってるように見えるのかなぁ」 炭治郎はそうだな、と義勇から返ってくるのだと思っていた。笑い話だ、こんなこと本人に言うほどのことでもない、と思っていた。けれども、しばらくして落ちた沈黙を破ったのは炭治郎が予想していなかった声音だった。 「そう見えたら嫌なのか」 「え?いやいやまさか、嫌なんかじゃないですけれども」 「ただ、俺なんかが師範の恋人だなんて、恐れ多いなぁって思いました」 そう言った途端、炭治郎は隣にいる師の匂いが変わったのに気が付いた。先程までの穏やかな匂いとは打って変わって、不機嫌そうな匂いになる。あれ、と思いちらりと横を見やると涼しそうな水色の瞳が炭治郎をまっすぐに射抜いていた。 「炭治郎」 心臓を鷲掴みにされたようだった。師のこんな顔はあまり見たことがなかったから。 不機嫌そうなのだけれど、どこか甘い、脳の奥を蕩かせるような激情の匂い。いつも冷静な師からは想像もつかないような匂いだった。 「俺が、お前のことをなんとも思ってないと、そう本気で思っているのか」 「え、いやその、」 「炭治郎」 義勇の顔が炭治郎に近づく。炭治郎はその勢いに気圧されるように後ろ手に手を付いた。 (どうしよう、俺師範を怒らせちゃったかな) ゆっくりと、けれど確実に近付かれて強くなるその匂いに酩酊しそうになりながら、ずるずると後ずさるように背を逸らす。逸らしたのだけれども、とん、と背が何かに柱に当たる感触がして思わず後ろを振り返った。相も変わらずその綺麗な顔立ちをこの時ばかりは恨んだ。 追い詰められた。逃げられない。どくどくと心臓が早鐘を打つのを悟ったかのように義勇は首元に手を伸ばし、そこにかかる髪の毛をそっと撫ぜた。 「俺の継子はお前以外ありえない」 「ぎゆ、さ、」 「そういうことだ、冷えるから寝ろ」 それだけ言うと、義勇は先程までの空気が嘘のように炭治郎からぱっと離れた。月夜の晩に、遠ざかっていく師の足音だけが響く。冷え込んだ空気が着流しの隙間から入り込んでくるのに、触れられた首の熱と頬に集まる熱が消えない。 「え、?」 **** 師の唐突な行動から一夜明けた翌日。炭治郎は任務に出ていた。 朝、任務に赴く自分をいつものように見送る師の姿を、見辛くなってしまったのはきっと師にはバレているのだろう。優しい師はなにも言わなかった。いつものように達者でな、と声をかけ、姿が見えなくなるまで見送ってくれた。そのこと思い出し、炭治郎は足を進めながらひとつため息を吐いた。 次の任務地は、南東の街。人口が多く活気のある街だ。冨岡邸から結構な距離があるせいか、街に着く頃にはすっかり日も暮れて暗くなっていた。 烏が言うには、ここでは毎晩若い男女が行方不明になっているらしい。なんでもその行方不明となる男女は共通して皆、恋仲であるのだそうだ。そのせいかこの街では皆怖がって異性との接触を避けているという。実際、炭治郎が街を歩いてみても、そういうような仲だと思われる人影は見当たらなかった。と思ったその時。 たったったっ、と闇に響いた2人分の足音。炭治郎の後ろから近づいてくるその音は、どちらとも息を切らしているようで、足音に混じって乱れた呼吸の音が聞こえる。布で顔を隠したその2つの人影は、何かに急かされているように炭治郎の傍を走り去った。 (あ、) 男女だった。この街で見た唯一の。そう認識した瞬間炭治郎は追いかけるように走り出す。すみません、と大声をあげながら逃げる2人の羽織を掴んで話を聞こうとした時、 ふわ、 と香る異臭。腐敗した血の匂い。鬼だ。鬼がいる。日輪刀に手をかけ、ふたりを守るようにして刀身を抜くと姿を現した鬼の腕に斬りかかった。出鱈目な図体、異形の姿。炭治郎の背の後ろにいるふたりはその姿を目にしてがちがちと歯の根を鳴らす。その様を見てニタニタと笑う鬼はしゃがれた声でこう言った。 「ああああ邪魔すんなよォ今食おうとしたところだったのニ!」 「!」 「んー?お前、ただの人間じゃないナ?鬼狩り?」 「きゃあああああああああああ!!!!」 女性の劈くような悲鳴に後ろを振り返ると、制止する男の手を振り払って逃げようとしている姿が目に入った。悲鳴を聞きつけた鬼がそちらに目を向け、狙うかのように鬼の鋭く伸びた手が女に迫る。 (しまっ、) ざくり、と肩に一撃。間に合った。炭治郎の左肩から流れる血を見ると女はその場で気絶してしまったらしい。痛みに顔を顰めながら刃を握る。 (ふたりを庇いながら戦うとなると長期戦は不利だ、) 「たまんねぇなぁその顔!!その悲痛な顔よォ!!」 目の前の鬼が突然楽しそうに笑い出す。視線の先には気絶した女を守るように腕に抱いた男ががちがちと歯の根を鳴らしながら涙を流していた。 ぎり、と奥歯が鈍い音を立てる。胸の奥にぶわりと燃え上がるような炎。純粋な怒りだった。 地面を蹴って高く飛び上がった。こちらに伸びてくる腕を匂いで察知し、咄嗟に躱す。最高速度で間合いを詰め、頭上から刃を振りかぶる。 (見えた!) 捉えた瞬間、ぴんと張った隙の糸がぐん、と炭治郎の体を引く。そしてその糸に導かれるまま、刃の先は鬼の頸を捕らえた。驚愕を浮かべた鬼の首は飛び、やがてぼとり、と地に落ちる。はぁ、とひとつ呼吸を整え、炭治郎は刃を鞘に納めた。 「………………」 炭治郎が視線を向けると、そこには幾分か安堵の表情を浮かべた男がいた。離さないと言わんばかりに強く抱き締められた、女。 顔を隠す布。人に見られぬよう、夜更けの逃亡。この男女はきっと、この街で恋仲になると人攫いに合うという噂を聞きつけ、この街から逃げようとしていたのだ。女を抱く震える腕が物語っている。家族も、友人も、何もかもを捨て、新しい地でふたりで、と。一緒にいたかった、きっとただそれだけだった、なんて。 「別れようとはしなかったんですか」 そう口にしてから、炭治郎は言うべきではなかったと気付いた。なにも知らない自分が首を突っ込むのは野暮だと思ったからだ。男はひとつ視線を落として、女を見つめた。 「街の誰もがそう言ったよ、悪いことは言わないから早く別れろって。でも俺は、こいつと別れるなんてそんなこと���神様に助言されたってしたくない」 「それは、その感情は、恋なんでしょうか」 男は炭治郎の問いにひとつ目を瞬かせると、穏やかな眼差しを向けて微笑んだ。 「わからない、愛おしいと思うだけだ」 君が恋と名をつけるならこれは恋にもなるし、愛にだってなる。 そう言った男に炭治郎は息を飲んだ。彼の顔があまりにも優しかったからだ。 意識を失った恋人をそっと抱き寄せ、まるで壊れ物のように撫でる。その手付きは、似ていた。あの月夜の晩、首筋に落ちた髪を撫ぜた義勇の手付きに似ていた。 ねぇ師範、あのとき、あの月夜の晩に、あなたに触れられたあの熱が、あなたの指先が、何故だかこんなにも忘れられないんです。ねぇ師範、師範なら教えてください、これは恋なんですか、どうしようもなくあなたに触れたくなって、甘えたくなってしまうこれは、恋なんですか。 奪われたわけでも、失ったわけでもないのに、泣きそうだった。どうしようもなく、炭治郎は泣きそうだったのである。 **** 冨岡邸は基本的に静かだ。当の水柱である冨岡義勇その人が無口であり、あまり人と話すのを得意としないためである。その呼吸ゆえか、凪いだ水のように穏やかなその屋敷は、常ならばもう少し活気があるというものだが、如何せん今は水柱の継子が任務で出払っているためいつもに増して静まり返っている。 冨岡義勇は後悔していた。いや、後悔というよりは反省かもしれない。とにかく、自らの愛弟子に自らの思いがまったくもって伝わってなかったことに落胆しているのである。冨岡義勇という男はそれは口下手な人間ではあるのだが、それでも自分の弟子を甘やかしているのはわかるのではないかと思うものだ。そういった意味も込めて「お前以外の継子なぞ取らん」と言ったのだが。 そこまで考えて、かたり、とした物音に顔を上げる。遠くで「ただいま帰りました」という小さな声が聞こえて義勇は腰を上げた。月明かりだけが照らす静かな夜、玄関先には元気とは言い難いものの(いつもなにか怪我を負ってる気がするのだが)、無事に帰ってきた弟子の姿がある。義勇はそっと安堵した。 「おかえり、炭治郎」 「師範、」 「また怪我をしたのか」 「面目ないです………俺が、未熟で」 「俺はお前以外の継子は取らんと言っただろう」 義勇は呆れたようにひとつ息を吐いて、そしてあろうことかぎゅう、と弟子のその体を抱き締めた。初めて抱き締めた弟子の体は想像よりも細くて、こんなにも温かいものなのかと義勇は驚く。赤子をあやすかのように背を叩いてやると、目の前の弟子から息を呑む気配を感じた。 「心配しなくても、お前は俺の自慢の弟子だ。そう肩を落とすな」 どこまでも優しい匂い。これまでならその言葉に安堵できた。溢れんばかりの優しさを感じて、ありがとうございます、とそう笑顔で返すことができたはずなのだ。なのに、出来なくなっている。息が詰まった。優しくされるほど、愛おしさが眼に浮かんで、優しさの熱に溶けてしまったかのように溢れ出す。苦しくて、苦しくて、どうしようもなく苦しくて、酸素を求めた。優しさの水に溺れてしまいそうだった。体中が水を吸い込んでぐずぐずに蕩かされてしまったかのように、力が入らない。 血の巡りが早かった。心臓が早鐘を打った。わけがわからなかった。あの月夜の晩のようだ。ひとつ吸えばふたつ溢れて、ひとたび視線を外せば三度合わせられる。心臓の鼓動が耳元で聞こえた。自分はきっと、悪い弟子だ。炭治郎はそう思った。だって、目の前にいるのは自分の師なのに、こんなにも、恋人の真似事がしたくてたまらない。言えない言葉が、言いたくてたまらない。 「師範」 月明かりに照らされた見慣れた師の顔。この人に拾われて一体どれほどの年月が流れたのだろうか。冷静で、余裕があって、強い。そう思ってたのだけれども、案外抜けているところもあるのだとか、よく見てみると動かないとか言われてる表情も嬉しそうだったり、心配そうだったり、なんだかいろんな色があったのだと、気が付いた。 「試させてくれませんか、」 恋人の真似事を。たまらなく触れたくなって、師の顔をじっと見上げる。ああ、きっとずっと前から俺は恋をしていたんだ。いけない弟子でごめんなさい。大事にしてくれているのにごめんなさい。でももう、無理なんです。あなたが俺に優しい瞳を向けるたびに、俺は苦しくて苦しくて、消えたくなってしまうんです。 炭治郎は強請るようにそっと義勇の頬に触れる。師範の強くなると気づいた時に、ぱしりと頬に触れた手首を義勇に掴まれていた。 (あ、) 顔が近い。睫毛が長い。そんなことを考えているうちに、一拍遅れて柔らかな感触。 甘くて少し苦い匂いと、ばちばちと焼け尽きそうな胸の奥が、キスされたのだと炭治郎の意識を呼び戻す。麻薬のように痺れる脳髄と全身の骨を溶かすよう熱。 (これ、は、) 時間にしたらきっと一瞬だったのだろうが、炭治郎にとっては時が止まったかのように感じれられた。ぐらぐらと揺れる頭の中に鳴り響く警鐘。どくどくと耳元で騒ぐ心臓と頬に集まる熱に炭治郎は思わず顔を覆った。 「し、失礼しました……っ」 「あ、ちょ、待て炭治郎!」 耐えかねた炭治郎は思わず部屋を飛び出す。知ってはいけないことを知ってしまったような気がした。自分の好奇心と甘い誘惑に居場所を取られてしまったようだった。言わなければよかったのかもしれない。このまま、普通の柱と継子という関係でいられたのかもしれない。家族を鬼に殺され行き場を失った炭治郎を拾って、ここまで育ててくれた師。恩を感じていた筈だ。誰よりも強く優しい師を敬愛していたはずだ。それなのに。 (師範の顔が、見れない……) 掴まれた手首が熱い。いつの間に、この想いは育ったのか。 **** 冨岡義勇は数分前に起きた出来事を正しく処理できていなかった。 「…………」 言い訳がましく聞こえるかもしれないが、キスまでするつもりはなかったのだ。 炭治郎は良い子だ。自分に引け目を感じている義勇にとって、炭治郎は心の支えだった。 こんな自分にきらきらとした瞳を向けてくれる。それがなにより義勇にとっては嬉しかったのだ。 だから恋人の真似事をさせてほしい、と言われたとき、義勇は「大人になりたいんだな」と思っただけだった。毎日必死に鍛錬して、少しでも自分に近づけるように。少しでも、大人になれるように。大人に憧れるこども、そう思っていたはずなのに。 (柔らかかった) 唇に残る熱に、蘇る情景。吸い込まれそうな赤い瞳に、しっとりとした唇。毎日鍛錬して鍛えているが自分より一回り小さい弟子の肩。赤らんだ頬。誘うかのような眼差し。隠せない色の香り。情欲。 あ、と小さく声を上げる。電撃が身体中を駆け抜けたような衝撃が走って、義勇は呼吸が荒くなるのがわかった。有り体に言えば、とんでもなく興奮していた。 喰らいたい。あの白い首筋に噛みつきたい。あの大きな赤い瞳いっぱいに自分だけを写させて、そうして何も考えられないようにどろどろに蕩けさせたい。 常日頃から可愛らしいと思っていた。口にこそ出さないが、義勇にとって炭治郎は自慢の継子だった。よく笑い、よく聞き、よく学ぶ。義勇は本当に、炭治郎以外の継子など取るつもりはなかった。それぐらい、炭治郎のことを気に入っていた。 でも、あの顔はいけない。可愛いだけなら事足りた。けれどもあの時見せたあの顔は、男を誘う顔だ。そして、それに自分はまんまと興奮させられてしまったのだ。 (くそ、) こんなの弟子に向ける感情なんかじゃない。そんなことは分かっているのだけれども、それに気づいた瞬間に驚くほどに綺麗に胸の内に収まった。きっと自分はどこか最初から、炭治郎に惹かれていたのかもしれない。そして気づいてしまえば取り返しがつかない。義勇は熱が集まる頬を隠すかのように顔を覆った。 **** どんなに心が苦しくても、どんなに気まずい状況になったとしても、世界はまるでそんなこと気にも留めないかのように回る。こうしている間にも鬼は人を喰らっているかもしれないし、鬼殺隊である限り任務に駆り出されることになる。炭治郎は聞き慣れた鎹烏の少し嗄れた声にひとつ肩を落としてみせた。 義勇にキスをされてから一週間。炭治郎は師の顔が未だに見れなかった。常に一緒に取っていた食事もわざと時間をずらし、部屋でひとりで取るようにしていた。思えば任務帰りの師はいつも手土産をくれていた。炭治郎に充てられた一室はもう、師に与えられた物でいっぱいだった。この屋敷を埋め尽くす泣きそうなくらい愛しい匂いに包まれながら炭治郎は同期の言葉を思い出す。 (とんでもなく独占欲強い、だなんて) そうなのかもしれなかった。冨岡義勇という男に体ごと、精神ごと奪われてしまったかのようだ。お前以外の継子を取るつもりはない、だなんて守るばかりで守られ慣れてない自分をどろどろに甘やかして、匂いを混ぜ合わせて、一等静かなこの屋敷でふたり。そんな自分もどこかで安堵していたのかもしれなかった。継子という、柱にとって特別な存在にある自分に。 ぴゅうと鎹烏が空を飛ぶ。気持ち良いくらいに晴れた空は嘲笑っているようだった。自分たちは甘やかな日常に浸ることは出来ない。命をかけて人を守る。鬼殺隊に籍を置く限りそれは絶対の使命である。どんなに相手のことが好きだろうが、自分たちは色恋などに興じている身分ではない。任務があれば命を賭ける。鬼がいれば首を斬る。そして、無事に帰ってこられる保証なんてどこにもない。 ぶちぶちと心が引き千切れていくようだ。このままでいいのかと炭治郎は自問する。確かなものなんてどこにもない世界で、熱を上げれば上げるほど苦しくなるだけで、それでもたまらなく好きでどうしようもない。縁側で穏やかな日差しを浴びながらそんなことを思った。 「捕まえた」 背後に近づく義勇さんに気付かなかった。いつもなら匂いで気付く筈なのに、敢えて嗅がないようにしていたから。背後から伸ばされた腕に抱き締められる。今まで自分はどれだけこの腕に守られてきたのだろう。不器用なこの人の腕は温かくて、どこまでも甘やかしてくれるのだ。ほんとうに、泣きたくなるくらいに。 「こら、逃げるな」 身じろぐ俺を離さないと言わんばかりに強くなる腕。もう見ないでほしい。どうしようもなく駄目になった俺を。今の俺は、あなたに誇れるような継子じゃないから。 「炭治郎、ちゃんと見ろ」 端正な顔が近づいてくる。ああ、だめだ。唇の隙間で受け渡される熱に、全身の細胞全てが好きだと叫んでいる。身体はぐずぐずに溶けて、熱い涙がこぼれた。良いんですか、あなたを好きでいいんですか。こんな俺で良いんですか。 「……これは確認じゃない」 「義勇さん、」 「任務に行く」 するりと離れた熱に寂しくなる。言いかけた言葉を喉の奥に押し殺して口を噤んだ。俺たちは鬼殺隊だ。無事に帰ってこれる保証なんてどこにもない。ここにいて下さいなんて言えない。それはきっと、義勇さんも俺も同じだ。 「だから帰ってきたら、返事を聞かせてくれ」 「え、」 そう言って背を向けて足を進める師範の姿。跳ね回る心臓がうるさくて、茹で上った頭では何も考えられなかった。やがてゆっくりと巡る血潮が心臓に戻ってくる頃には、師範の姿はなかった。ぬるい風が吹く。風が運んできた花の香りにどうしようもなく師を感じた。 ねぇ義勇さん、はやく帰ってきてくださいね。 俺、今度こそはきちんと、あなたに伝えたいことがあるから。
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hananien · 3 years
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【SPN】見えない手錠
警告:R18 ※スカ描写(排尿シーン)、性描写
ペアリング:サム/ディーン
登場人物:ディーン・ウィンチェスター、サム・ウィンチェスター、アーサー・ケッチ
文字数:約7800字
設定: バンカーにて、賢人アイテムに呪われて拘束されたディーンと、兄をないがしろにして後悔するサム。
言い訳: 拘束シチュを最大限活かさなかった。 いつも通りの謎時系列で兄弟の他にケッチが出てきます。
 今日も今日とて賢人基地の謎は深い。  ここのところ曜日を決めて基地の倉庫の整理をしている。その日は他のハンターたちからのヘルプコールがなければ事件には関わらず、食料も前日のうちに買い込むか、残り物だけで済ませて外出はしない。朝から晩まで資料とアイテムに埋もれ続ける平和で知的冒険心が満たされる(サムにとっては)休日だ。サムは地道に整理分類を続けていたが兄のディーンにそこまでの情熱はなかった。  サムは兄の態度が不満だった。サム以上にこのバンカーを”我が家”として認識している兄が、その我が家にどんな秘密が隠されているのか――もしかしたら時限付きの危険物だってあるかもしれない――無関心なことが理解できない。  今日もまた予定していた休日。ベッドから出てこないディーンを無理やり引きずり出してコーヒーを淹れさせ(この鬼!と怒鳴られた)、ハムとチーズのサンドイッチを手に倉庫へ直行する(飯くらいキッチンで食べろよ、とディーンはいう)。  サンドイッチを齧りながらデスクに向かい、前回整理した目録を確認していると、コーヒーをすすってぼーっと突っ立っているディーンが目の端に入る。「ヒマならその棚の埃でも払っといてよ」と若干いらつきながら指示する。声音は穏やかだったはずだが弟のいらつきに敏感な兄は「ハイハイわかったよ」と逆らわずに棚へ向かった。  パタパタとディーンが働く音だけを耳にしながら目録をデータベースに入力する作業に没頭していた。しばらく後に「あ」と声がしたが他に大きな物音もしなかったので無視した。コーヒーに手を伸ばすとすっかり冷めていたので集中しすぎてあっという間に一時間程度は経ったんだなと思う。  「なあサム」 棚の間からディーンが声をあげる。  「何だよ、もう飽きたの?」  「そうじゃなくて、なあ」  「何だよ、もう」  ため息を吐いて立ち上がり、兄のもとへ向かう。ディーンは壁に設えられた棚の前に立ち尽くしていた。こっちを向いて後ろ手に腕を組んでいる。  「何? ナチのお宝でも見つけた?」 軍隊の”休め”のポーズに似ていたのでまた質の悪いジョークを思いついたのかと眉を寄せる。そうじゃなくて、と返す兄の顔が少し強ばっているのにようやく気づく。  そういえばこの棚はまだ手を付けてない。サムが把握していないアイテムが並ぶ棚は、ディーンの偶に発揮される凝り性によってきれいに埃が払われていた。  「ディーン……?」  「おれ、呪われたみたいだ」  ゆっくりと後ろを向いたディーンの腕は、まるで手錠にかけられたように手首が交差して重なっていた。  棚にはいかにも呪われたアイテムっぽい骸骨の手があって、土台にはご丁寧にギリシャ語で「見えない手錠」と書かれていた。
 『見えない手錠?』  ディーンが呪いのアイテムに拘束されてから半日、サムは倉庫をひっくり返す勢いで解呪の資料を探したが全く手がかりがない。ディーンは今のところ”後ろ手で卵を割る”遊びにハマっていて楽観的だが、サムはそうはいかない。自分のおざなりの指示でディーンが呪われてしまったのは痛かった。  「そう書いてあった。同じ棚には他にもアイテムはあったけど、全部封印されたままだったしディーンの状態からして原因はそれで間違いないと思う」  電話の相手はアーサー・ケッチだ。かつての敵で今も腹で何を考えているのかわからない相手に自分たちの窮状を話すのは抵抗があるというかはっきりと嫌だったが、賢人のアイテムについて尋ねるのに彼を除外するわけにはいかなかった。  『君たちといると退屈しないね』とケッチがいうのでサムは「いないだろ」という言葉を飲み込んだ。  『まあ端的にいうと仲良くなるまで外れない手錠だ』  「は?」  『乱交大好きなギリシャの富豪が十七世紀に作らせたものだったと聞いてる。アイテムが置かれた土地の所有者とアイテム自身が認識する所有者が連動する。主人以外の人物が触れると拘束し、その拘束は主人と激しいファックをすることでしか解けない』  「おい……」  『つまりアイテムは君がその基地の主人だと判断した、ディーンではなく。確かヘンリーは君たちの父方の血筋だったな? ふーん、興味深い……』  「やめろ、僕らの血筋について興味を持つな」 サムは髪をかきあげた。「ふざけないで解呪方法を教えてくれ。どうしたらいい」  『だいたい君は賢人の道具の扱い方を心得てない。しまい込まれた道具にはそれなりの理由があるんだ、封印された位置にすら。まあ、確かに放置するには危険だし、五十年代のアメリカ賢人の収集品を整理するのは意義があることだが……サム、君には疎い分野だし、アドバイザーが必要だ。今回のようなことがないように、次からは私も付き合おう。もちろん、君たち兄弟がよければ』  「いや、よくない。ありがとう。さっさと解呪方法を教えてくれ」  急に無音になった電話に、通話口をふさいで舌打ちするケッチの姿を想像する。コホンと咳が聞こえて通話が再開した。  『解呪方法はさっき言ったとおりだ。本来は複数人での性行為中にランダムで誰かが拘束されるのが正しい遊び……使い方だったと記憶してる。他に誰もいなければ勝手に土台に戻るはずだが、側に置いておいたほうがいいな。ほら、骸骨の手首があっただろ? あれが土台だよ』  「それはわかってる」  『他に何か聞きたいことは?』  「ない」  『そうか、お役に立てて何より。次の木曜日に伺う……』  サムは黙って通話を切った。
 ギリシャのふざけた富豪が作った乱交目的の拘束具が、なぜアメリカの賢人たちの手によって基地に保管されていたのかその理由を聞けばよかったとサムは思った。だけど、聞くまでもないと思い直す。これまできっと、数えきれないほど悪用されてきたに違いない。  「というわけなんだ」 解呪方法の説明を黙って聞いているディーンに、サムの罪悪感の嵩は増す一方だ。「ケッチが言ったことの裏は取れてないけど嘘をつかれてる感じでもなかった。もっと調べることもできるし、最悪、ロウィーナに聞くこともできるけど……」  「そいつは最悪だ」 ディーンは唇をすぼめる。  「だろ? 見返りに何を要求されるかわかったもんじゃない」  二人は無言になった。サムはいたたまれなくなって自分の足を見つめる。呪いを解くためにファックするなんてどうかしてる。兄の呪いを早く解いてやりたいけど、そのために早く自分と寝ようなんて軽々しく口には出せない。  「サム、おまえとやるのはいいんだが、その前に何か食いたい」  「へっ?」  「腹減った。何か食わせてくれ」
 ディーンが割りまくった卵でフレンチトーストを作ろうとしたが、色々と怪しい手つきを見てディーンが「スクランブルエッグでいい」というのでそっちにした。  調理台のスツールに座ってディーンはサムが食器やら飲み物やら用意するのを眺めていた。腕が使えていたら頬杖でもついていたに違いないのんびりとした表情だった。サムはディーンのやわらかい視線を感じながらフレンチトーストを諦めたパンをオーブンで温め、山盛りのスクランブルエッグと共に調理テーブルに並べた。  冷蔵庫からビールを取り出そうとすると、ディーンに止められた。  「すぐにやるんだからワインがいい。やってる最中にげっぷ出まくったらやだろ?」  サムはガタガタ音を立ててビールを冷蔵庫に押し戻し、グラスにワインを注いだ。  「喉が渇いた」  というので先にワインを飲ませてやる。今更ながら解呪方法を探すのに忙しくしていて、肝心の兄本人の世話を全くしていなかったことに気が付いた。後ろ手でドアは開けるし卵も割れるかもしれないが、コップから水を飲むことはできない。自分は兄を呪いにかけてしまっただけでなく飢えさせていたのだと思うと自己嫌悪で鉛を飲んだように胸が重くなった。  「卵」「パン」と指示されるままに兄に給仕していく。そのうちディーンは何もいわなくなった。サムも無言になった。自分が運ぶスプーンが兄の唇に包まれるさま、兄が咀嚼して飲み込むまでの一連の動きから目が離せなくなる。  ディーンに注いだワインを飲み干してしまうと、彼はにやっと笑っていった。  「サミー、もっと、楽しもうぜ」  サムは自分にと注いだグラスにまだなみなみとワインが残っているのに気が付いた。手を伸ばしてグラスをつかみ、ゆっくりと仰いで咥内に留める。ディーンはまたあののんびりとした表情をしてサムが顔を近づけてくるのを待っていた。  グラスが二つとも空になると、ディーンは酔いでうるんだ瞳でサムを見つめた。  「トイレに行きたい、サム」
 二人してバスルームに駆け込んだ。後ろ手で拘束されているディーンは上に着ているTシャツとネルシャツは脱げない。サムが下半身だけ脱がせ、シャワーブースに入った。裸になったディーンのを後ろから抱き込み、下腹部にシャワーの湯をかけた。  「あれ、当たってるぞ。おまえ、脱いだ?」  「うん」  「なんで?」  「だってお湯がかかるから」  「あー、おまえだけ、ずるい」  「お尻は僕が洗ってあげる」  そういって湯のすべりを借りて指を潜らせると、「バカ!」と怒られ肩で胸を突かれる。「朝からトイレ我慢してんだ! 先にオシッコさせろ!」  「ええ? トイレ、一度も行ってないの?」  地底を這いつくばるような声でディーンはいった。「行ったよ、ああ、見えない手錠で両手が繋がれててもトイレには行ける。でもな、足の指でベルトは外せない!」  「ごめん」 サムは指を抜いて尻を撫でた。「全然気づかなくてごめん。おしっこしていいよ」  ディーンはうーんと唸って首を落とした。ネルシャツの襟もとからすんなり伸びたうなじにサムの食欲が湧く。ディーンは排尿に集中しようとしているようだが、ワイン一杯分の酔ったふりでは羞恥心を打ち消すには至らず、苦労しているようだった。  サムはディーンのペニスに手を伸ばした。  「サミー!」  「両手で持つ? 片手で持つ? いつもどうしてるの?」  ディーンは首を振ってまたうなった。「両手……」  サムはシャワーを壁に固定して、両手でペニスを持って構えた。  「これでいい? ディーン、目をつぶって。僕も目をつぶるよ。シャワーで全部流れるまで目をつぶってるから」 ���肩口に顔を乗せて、ディーンにも見えるように目をつぶる。ハア、と熱い溜息が頬にかかった。シャワーの熱気に一瞬なじみのある臭気が混じる。どういうわけかそれにますます食欲をそそられて、サムはすぐ側にあるうなじに嚙り付いた。ひっとディーンは仰け反って、排尿の勢いが増したのがサムにはわかった。まるでイッたみたいだ、と思った。  「あ、あ、サム……まだ出る……」  顎、それから開かれた口にもかぶりついて、サムはいいよ、と励ました。それから僕も、といった。「僕も出していい?」  朝からトイレのことなんて頭になかったから、今さらもよおしてきた。サムは片手をディーンのペニスから放して彼の顎をつかみ、きつく唇を押し付けて下半身も密着させる。熱気に喘ぎながら唇を吸って、サムは溜まっていたものを排出した。  ディーンのペニスを握りながらディーンの尻におしっこをかけている。これってファックするよりもどうかしてるよな。  「あ……つ………」  ディーンが漏らす言葉を飲み込みながら、ああ、向かい合ってすればよかった、とサムは思った。そうすれば自分もディーンの熱いおしっこをかけてもらえたのに。  自分が出し終わってディーンのペニスを何度か根本からしごくと、ディーンが肩を回してやめるよう訴えてきた。  「もう終わった、終わったから」  「じゃあ洗うけど、いい?」  「ああ……」  「中もだよ?」  「いいって言ってんだろ」  ディーンは疲れているみたいだ、と思った。当然だ、一日中腕を拘束されて過ごしているのだ。言わないだけで腕は強ばっているだろうし痛みもあるに決まってる。呪われてパニックになるサムをよそにディーン本人は「どうにかなる」といって泰然としていた。もしかしたら長期戦になると思って体力を温存していたのかもしれない。ディーンはそういう野生動物みたいなところがある。
 貪るように体を重ねていたのはサムが地獄に落ちる前のことで、お互いまだ精神的にも肉体的にも若かった。不安や疑惑を欲望のエンジンにお互いを引きずり落としあうようなセックスができたのは若く未熟だったからだ。  サムにとっても我が家となった基地にメアリーが戻ってきてから、何となく関係を控えるようになった。全くやらないわけではないが、今日我慢すれば明日は出先のモーテルでやれるという場合は諦めるのもそれほど苦ではなかった。昔は衝動が起こったら今すぐにファックしなければ死んでしまうと思うくらい切羽詰まっていたからずいぶんと平和に落ち着いた。  平和? 平和などまやかしだ。一時の小康状態にすぎなかったのだ。きっかけさえあればサムはいつでも欲望に火をつけることができるし、言い訳があればなおのこと大胆になれる。  呪いを解くために。腕を後ろ手で拘束された兄の負担が減るように。  上に乗ってくれる? そのほうが、ディーンが一番楽だと思うんだ。  ただ騎乗位の兄が見たいだけのサムの提案を、吟味する間もなくディーンは頷いた。楽というならもっと別の体位がありそうなのは、サムよりよほどマニアックな性技にくわしいディーンならわかるだろうに、バスルームでの洗浄と執拗な拡張ですっかりのぼせていて、考えが巡らないようだった。本当なら休ませるべきだとわかっていたが、ここで言い訳、一刻も早く呪いを解いてあげないと。  激しいファックってどれくらい激しくしなきゃならないのかな。  ディーンは膝立ちでベッドの上を移動して、サムの腰をまたいだ。さすがに体幹がいいから腕がきかなくても倒れ込んだりしない。今はのぼせているから、ちょっとフラフラしているけど。  勃起したサムの上を、ディーンが前後に揺れながら下りてくる。  「ゆっくりでいいから……」  体の自由を奪われた相手を、自分のいいように動かす。久しぶりに感じる、たまらない愉悦。  よだれを垂らしそうになりながら兄が太腿を震わせて挿入に苦労しているのに見入っていたので、彼が涙の溜まった瞳で睨みつけているのに気づくのが遅れた。  「えっ?」  「えじゃねえよ、まぬけ。鬼。ビッチ。入るわけねえだろ、少しは手伝えよこっちは手が使えねえんだぞ」  「え、大丈夫、入るよ。先端がちゃんとハマればあとは自然と入ってくるって。中をあれだけ柔らかくしといたんだから」  唖然とした兄の頬にぽろりと涙がこぼれた。本人の胸に弾かれてサムの腹に落ちる前に消えてしまったが、美しいものを見てサムは興奮した。  「ディーン、僕も手伝うから、一個お願いを聞いてくれる?」  返事もきかずにサムはディーンのネルシャツの裾をまくって内側にまるめ、上に引き上げていく。何かを悟ったが信じられないという表情の兄に首をかしげてみせ、開かれた口の中にまるめた裾を押し込んだ。  日に焼けても赤くなるだけですぐに色が引いてしまうディーンの今の肌は真っ白だ。体毛のない腹から胸にかけてのなだらかな曲線、ピンと立った赤い乳頭がいじらしくおいしそうで、見ると唾液が湧いてくる……  鼻息が荒くなったサムにディーンが身を引いた。サムは両手を伸ばして脇腹を掴む。そのまま手を上にすべらせて親指で乳首をこすった。  「んーっ!」 シャツの裾を強く噛んだあと、ペっと吐き出してディーンは叫んだ。「お、おまえは、おれを、何だと」  「ごめん、本当にごめん」 兄をいじめたいが、この状況では不謹慎にもほどがある。「呪いを解こう。ちゃんとやるよ。僕が当てるからちょうどいいと思ったら下りてきて」  ハアハアと荒い息を抑えながらディーンは弟をにらみつける。  「偉そうに、呪いが解けたら、ぶん殴ってやるからな」  サムはディーンの尻を左右に開いて先端を割れ目に押し当て、ぬかるんだ鍵穴を探した。腹をむき出しにしてディーンが仰け反る。ぷっくりと縁がふくらんだ穴にペニスの先が当たったのを感じると、サムは尻を支えていた手を放した。疲れ切ったディーンが自然に落ちてくるまで時間はかからなかった。  「これ……いつ……解けるんだ?」  挿入を続けながらディーンは目を閉じた。  「さあ。ケッチに騙されたのかも」  「あ――あ――やばい、サム、やばい……今……」 根本まで入りきったと思ったすぐだった。急にディーンの顔色が変わり、一瞬にして上り詰め、風船が割れるように弾けた。何が起こったのかサムにも本人にもわからなかった。  くたくたとディーンが倒れ込み、サムは慌てて肩を支える。紅潮した全身から発汗した彼は起き上がるとき、サムの胸に手をついていた。  「……嘘だろ?」 サムは茫然とつぶやいた。「今のが、激しいファック?」  あまりに唐突なので拍子抜けしてしまった。サムは動いてもいないし、ディーンだってそうだ。理解できなくてサイドテーブルに置いた土台の骸骨の手を見つめてしまう。”見えない手錠”が土台に戻ったからといって”見えない”ままなのは変わらないが――。  明言はされなかったが、ケッチのあの言いようでは、”主人”である自分がフィジカルな絶頂を迎えた時が解呪のタイミングだと思っていた。  「なんだ……何が不満だ……悲しそうな顔すんなよ……サミー」 すぐ側で、汗と涙できらめいた睫毛がまたたいた。ディーンが熱い手でサムの頬をつつむ。パタパタと軽く叩いて笑い、ちゅっと口に吸いついた。  「――入れただけで相手をイかせて呪いを解くなんて、ハ、たいしたご主人様じゃねえか」  サムは息を呑んだ。  「……ディーン……ワオ……ディーン……そのせりふ、かなりやばいよ」  「殴るのはもうちょっと後にしてやる」 ディーンは自由になった腕を上げてシャツを脱いだ。
 きっかけはサムの失態から呪われてしまったディーンを解呪するための”激しいファック”だったが、おかげで以前の狂った情動がなくても情熱的に愛し合えると再確認できた。何となく周りに気まずいからという理由で遠慮するのをやめた。  ディーンは幸せそうだしサムもそうだ。仮初の平和は消えたが、今まで築いてきた兄弟の関係が変わったわけでもない。ただ一つ、今までと変わったことといえば、彼が時々拘束されたがるようになったことくらいだ――本当に手錠を使ったりしない。呪いを受けたときのように、”見えない手錠”を使う。ディーンは拘束されたふりがうまい。  同じ疑念が三回目に心に浮かんだとき、サムはディーンの携帯端末からこっそりケッチの電話番号を消してしまおうとした。だが思いとどまって、目録の備考欄に一文を付け足した。    ――”見えない手錠”――愚かな臆病者を目覚めさせるあなたの策略それから愛
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memeppoi · 5 years
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hinagikutsushin · 5 years
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賽は投げられた
 ヒュー、ヒュイー。
 口笛を吹くような音を立てながら入ってくる隙間風。寒くて布団の中に入り包まる。もう一眠りしようかと思ったが、なかなか寝付けず目の前にある温もりに顔をくっつける。するとそれに気づいた彼が、そっと腕で私の体を寄せた。
 トモエの家に泊まったあの日から何日が経っただろうか。随分と冷え込むようになり、色付いた葉は地面を赤色や黄色に飾った。
 ―—時は既に、秋が終わる頃だ。
 いつも通りの朝だった。起きた後、私たちは普通に朝食を摂り、今日は寒いからとサクの所の近侍さんから頂いた茶葉で茶を淹れ、二人で他愛のないことをぼそぼそと話していた。そろそろ薩摩芋が美味しくなるだろうな、いつ食べようか、とか、そういう取り留めのない話だ。
 暫く話していると、ヒナギは朝食の片づけをする、と土間の方へ行った。因みに私は以前土間で手伝いをしようとしたが、危なっかしくて見ていられないという理由で部屋に返されたことがある。遺憾の意。
 暫く土間の方で洗い物をするヒナギを見ながら、足をパタパタと揺らした。この足も随分と良くなった。最近は杖なしでも歩けるほどだ。
 つまり決断の時期はもうすぐそこまで来ているという事で。
 随分と悩んだが、私は出来うることならヒナギの側にいたい。隣で、今までの恩を返していきたい。そして記憶も戻れば万々歳だ。
 ……正直、記憶に関しては諦めかけている。でも、こうして彼と、そして里の友人たちと他愛もない話をしたりしてのんびり過ごせるのなら、記憶なんぞ戻らなくてもいいのではないかと考えてしまう自分がいる。
 実際私は今、幸せを感じているのだから。
 かさかさと枯葉を踏みこちらへとやってくる人の音が聞こえた。軽いがしっかりとした歩み。それがツグモネのものであると分かった私は、部屋を出て玄関の戸を開ける。すると彼女は戸を叩こうとしたのか腕を若干あげ、こちらを少し驚いた様子で見ていた。
 ヒナギも丁度洗い物が終わったらしく、私の方へ近寄り、誰が来たんだと、戸の方を向く。
「ツグモネじゃないか。突っ立ったままで何をしているんだ」
「……いえ、戸も叩いてないというのにヤスヒコくんが戸を開けたものですから」
 では、お邪魔しますよ、と再びにこりとした笑みを浮かべて家に足を踏み入れた。
「ヤスヒコくん、元気でしたか?あの日以来ですねぇ」
 そろりと頷けば、足の方をちらと見て、またその笑みを深くする。久しぶりのツグモネの笑みは中々なんというか、やはり胡散臭い。
「随分と久しぶりじゃないか、何をしていたんだ」
「なに、少し野暮用でここを離れていたのですよ。それに、ヤスヒコくんの傷はすでにあの時にはふさがっていましたしねぇ、残すは歩く訓練だけでしたので」
「それにしちゃあ挨拶もなしに」
「おやまぁ、私が挨拶もなしに消えることなんぞ一度や二度じゃないでしょうに」
 それもそうか、とヒナギは軽くため息を吐き、ツグモネと私を部屋に上がらせた。
 慣れたように座布団を引き寄せそこに座り、重たげな大きな薬箱をいそいそと降ろした彼女は、部屋の入り口で突っ立っている私を手招きし、自分の前に座るように言った。
 もしかしたらこれが最後の診察になるかもしれない。緊張してヒナギの着物の裾を握ったが、ヒナギはその裾をゆるりと解いて私の背を押した。
 不安になって顔を見上げたが、ヒナギはいたっていつも通り、凪いだ表情をしていた。
「ヤスヒコくん、おいでなさいな」
 痺れを切らしたように私を呼んだツグモネに、私は渋々と歩み寄り、目の前に座った。
 ツグモネは以前のように私の足を触ったり、少し押してみたりして診察をしている。ひとしきり触って、私に部屋の中を歩いてみてください、だとか、その場で跳ねてみてください、だとか言い、その通りに私が難なく動くのを確認すると、大きく一つ頷き、弓なりに瞳を細めて笑った。
「もう問題なさそうですねぇ、言う事なしの完治ですよぉ」
「そうか。よかったな、ヤスヒコ」
 ふっと安心したように笑うヒナギに、私はそのまま勢いよく抱き着いた。そんな私をぎゅっと抱きしめた彼。しかし、その体はいつもより堅く、ぎこちないような気がした。
「それでは、約束通りですよ、ヒナギさん」
「……あぁ」
 そういうと、ヒナギは私をそっと自分の体から引きはがして、ツグモネの方へ背を押した。
 なぜ、と思い彼の方を振り向く。やはりいつも通りの凪いだ表情だ。でも、いつもより表情が読めない。
「どういう、こと」
「ヒナギさんとお話してですねぇ、怪我が治り次第私がヤスヒコくんを安全に過ごせる場所へと案内するという事にしたのですよ」
「そ、んな、知らない」
「すまないな、ヤスヒコ。でも決まったことなんだ」
「大丈夫ですよヤスヒコくん、私がちゃぁんと手配しましたし、実際に行ってみて安全性は確かめてますので」
「そういうことじゃない!」
 私はいつもよりも大きな声でそう反論すれば、驚いたようにその見開いた眼で二人は私を見た。
「わたしは、わたしはヒナギといっしょにいたい! どうして、どうしてわたしには何も言わずにそんなこと……!」
 私が堪え切れずそう口に出すと、ヒナギはさらに大きく目を見開き、そして俯き、私に背を向けた。
「ヤスヒコ、ここは危険だ。サクの所でこの山の事は少し調べたろう。神、あるいは主という管理者がいない霊峰とその周りは何が起こるか分からない。里を見てきたお前さんならわかるだろう。ここに未来はない」
「だけど、ここにはトモエやロクだっている!それにあたらしい友達だって……!」
「遠い地で生きたほうがいい。ここにいた事は忘れなさい。あの子たちには私が上手く言っておく」
「でも!」
「ヤスヒコ!!」
 彼の怒声で、部屋がビリビリと唸った。初めて聞くヒナギの怒鳴り声に私は体をこわばらせ、未だ背を向ける彼を見た。
「怪我が治るまで、だったはずだ、お前さんを見るのは。その傷が治った以上、私がお前さんの面倒を見てやる義理はない」
 言葉を失い、私はその場に立ち尽くした。完全なる拒絶だった。ヒナギはこちらに目も向けず、ずっと背を向けたままだ。
 何も考えられない。心に穴が開いた気分だった。ただただ、彼を呆然と眺めることしかできなかった。
 気づいたら、ツグモネが私の手を引いて、外に出ていた。
 ヒナギの背中が目にこびりついて、離れなかった。
 ツグモネに手を引かれ、山道を歩く。足元を見ながら俯いて歩いていると、彼女がふと、休憩を挟もうと提案してきた。力なく頷き、くたりと地面に座った。ふと空を見上げたが、どんよりとした曇り空で何とも気が滅入る。そんな中でも精霊たちはふわふわと光りながら空中を漂っていて、私はぼうっとその光を眺めた。
 ――面倒を見てやる義理はない、か。確かに彼の言う通りかもしれない。取り合えず怪我が治るまで、という話だったのだ。知らない間にもしかしたら私が彼に迷惑をかけてしまったのかもしれない。
 でもそれにしては急じゃないか。今日の朝までは普通だったのだ。今まで通りの、変わらない日常だったのだ。
 何かが、引っかかる気がしてならない。
「ヤスヒコくん、そろそろ行きましょうか。山を越えたらすぐですよ」
 そう言ってツグモネは私の手をひっぱる。拍子に歩みを進める。どこか有無を言わせないような、そんな態度だ。
 暫く彼女に手を牽かれ歩きながら思考を巡らせる。あの日、彼に拾われた日から何が変わったか、気になることはなかったか。
 まず、身体的な事。怪我はほぼ既に完治している。傷は残ってしまったが、問題なく歩けるし、なんなら走ることもできるようになった。そして、怪我が治るにつれて、目も、耳も、鼻もよくなった気がする。見えなかった精霊やお隣さんが見えるようになった上、足音で誰か分かるようになったし、微かな匂いも嗅ぎ分けられるようになった。元々鋭くて、怪我をした拍子に鈍くなり、それが治ったのか、それとも怪我やツグモネの言った通り、山神の影響でそうなったのかは定かではないが。
 そして、肝心な記憶と、そして自分と山神の関係について。これにしてはもうさっぱりだ。そもそもの話私はこの短期間で文字を読み書けるようにはなったが所詮習いたてでサクが読むような書物は読めるはずもない。分かったのはここの山神のほんの少しの情報と、そしてヤスヨリから聞かされた悲惨な日の話だけ。情報だよりに思い出そうとしても、私がヒナギに拾われたその前の記憶は延々と走っていることしか思い出せず、他はやはり分からない。
 ……そう、読めるはずがない。皆知っていたはずだ。私は文字が読めない。読めたとしてもとても遅い。ではなぜあの日を経験したヒナギもトモエもサクもロクも私に口頭で何も言わなかったのだろうか。ヒナギに聞けばはぐらかされ、トモエに聞けばそのころの書物を持ってくるだけ、ロクはすさまじい日だったとしか言わないし、サクはにやにやと笑うだけだ。ツグモネだってそうだ。私と初めて会ったあの日、私と山神の関係性を示唆した以降は何一つ教えてくれやしない。彼女は何かを知っているはずなのに。今まで口であの日の事を詳しく教えてくれたのはヤスヨリたった一人だ。
 そして今日の突然の拒絶。ヒナギの性格ならあんな強い拒絶はしないはずだ。あの人は、酷く優しい人だから。
 よもや、皆は何かを私に隠しているのではないか。それも、私の記憶に関する何か良くないことを。
 そこまで考えた私は歩みを止め、掴まれた手首を思い切り下に振り下げた。
 あまり強い力で握られていなかったそれは簡単に外れ、そして前を歩く彼女がこちらに振り替える。
「ヤスヒコくん?どうしたのです。手をつながないと迷子になりますよ」
「ツグモネ、話をしよう」
「なんの話です?話すことなどないでしょう」
「ツグモネは、いや、あなたたちはわたしに何をかくしているの」
 瞬間、彼女から漂う空気が変わった。
 大きく目を見開きこちらを見る彼女。灰色に濁った空色の瞳を再び弓なりに細めれば私の手を掴もうと寄ってくる。
 後ろに一歩進めば、彼女も前へ一歩近づく。繰り返せばついには木に道を塞がれ、逃げられなくなった。
 彼女はいつのまにか笑みを浮かべることを止めていた。こちらをじっと見つめている。
「何故逃げるのです。ヤスヒコくんは今から安全な地へ向かうというのに、なぜそんなにも躊躇いがあるのです」
「質問に答えてない」
「その質問に答える意味などありません。あなたはこの地を去るのだから」
「わたしがこの土地にいることで何か良くないことでもあるの。ヒナギもツグモネもヒスイのとこもロクも、ツグモネだってそうだ。わたしのきおくをさがすふりはするけど、明白なじょうほうは絶対にわたしてくれない。まるで、わたしがきおくを思い出すことは、この土地にずっといすわることはきんきなんだと言わんばかりに。  わたしに、なにを、かくしてるの」
 彼女はついに、目に見えてわかるように顔をゆがめた。そして吐き捨てるようにして言い放った。
「そうよ、私たちはあなたに隠し事をしている。私たちは、特にヒナギはあなたがどうして記憶を失ったのか、どうしてこんな現状に陥ったのか全てを知っている」
「じゃあどうしてそれをッ」
「言わなかったかって? 言ったでしょ、知る必要がないからよ!」
 彼女の顔が次第に険しくなる。いつものあの優しい声色はいずこへ、厳しく、そして今までの鬱憤を吐き出すかのように声を荒げ、鋭い犬歯をむき出しにし、こちらを睨みつける瞳は次第に人外のような、縦に割れた瞳孔へと変わっていく。
「そもそもの話私は彼が貴方を自分の元に暫く置くという事自体賛成しなかったわ。 あの時あなたをあちらへ送ってしまえばよかったのに、怪我が治るまでは面倒を見たいだなんて我儘を言って事態をややこしくしたのよあの愚か者は!」
「ヒナギのことをわるく言うな!」
「悪く? 悪くですって?! 私は事実を言ったまでよ。 そうすれば貴方は記憶に悩まされなくて済むし、ここまで人外化することもなかった! ヒナギはあなたの代理として山に還る筈だったのに、これじゃあ元の子もないわ!」
「どう、いうこと」
 私の代理? ヒナギが?
 私がしどろもどろとしていると、彼女は私に大きく詰め寄り、獣化した手で私を大木に押し付けた。胸を押され軽くせき込む。目の前を見ると、恐ろしい形相をしたツグモネが私を射抜いていた。
「そんなに知りたければ教えてあげるわよ。あなたは山主様に育てられた人間、そして奇しくも主の適正があり、山に生を捧げなばならない者。それを哀れんだあなたの本当の父であるヒナギが身代わりとして、主の力を請け負ったのよ」
「彼はこの山を立て直したら命をもって力を返上して新しい主様を迎えるはずだったのに、久しぶりに見る自分の子に目が眩んで匿うだなんて! 元々神域で暮らしていたせいで妖に近いあなたがあの均衡が崩れた霊峰にいては、いくらあの方の力をもってして記憶を封じて人間にいくら近づけさせたとしてもあちらに引っ張られて人外化するだけなのに! 人間として生きて欲しいあの方の願いはあの愚か者によって壊されたんだ!」
 あまりの情報量の多さにだんだんとツグモネの声が遠くなる。
 私が山主に育てられた人間で、でも妖に近い存在になってて、ヒナギは私の本当の父親で、そして私がしなければいけないことをヒナギがしていて、そしてヒナギは、ヒナギは、
 ヒナギは死ななければならない?
「――はなせ!!」
 私は思い切り彼女の腕をひっかいた。すると、反抗するとは思っていなかったのか力が少し緩んだ。その隙にすり抜けようとしたが、今度は頭と背中を地面に押し付けられた。肺の空気がすべて出されて苦しいし、地面に強打した頬が擦れて痛い。
「こうなったら無理矢理にでも……!!」
 唸るように言ったツグモネの手がだんだんと重く、大きくなるのを感じた。恐らく変化が始まったのだろう。彼女は本気だ。変化が終わったら私を咥えるなりなんなりして連れ去るだろう。そうなってはもう遅い。
 圧迫されて膨らみ切れない肺に精一杯空気を入れ、思い切り叫んだ。
「おとなりさん!!」
 そして、暗転。
 目を開けると、霧がかったあの場所にいた。以前より精霊が増えただろうか、地面には天の川が流れているような光が溢れ、まるで星空の中にいるような気分になる。
「危ない危ない、もう少し離れて��ら連れてこれなかったよ」
 耳元で突然幼い子供の声が聞こえた。振り向くと、にこにこと人のよさそうな笑みを浮かべてこちらを見るお隣さんの姿があった。
 思わず彼女に抱き着く。彼女はそんな私をぎゅっと抱き留めると、優しく髪を撫でた。そしてゆっくりと体を離して私の頬をその小さい手で包んだ。
「可哀そうに、私たちの山の子がこんなにも傷ついて……」
「おとなりさん、ヒナギが、ヒナギが死んじゃう!」
「あの人の元に行きたいんだね、そうだねぇ、どうしようかなぁ……」
 彼女はそう言うと私の顔をじっと覗き込んだ。真っ赤な夕焼けの様な瞳が私を射抜く。その妖しさに目を奪われるも、ぐっと目を瞑り、そしてまた見つめ返すと、彼女は本当に嬉しそうに笑った。
「やっぱり私たちの山の子は本当に可愛い! このまま連れて行ってしまいたいくらい! でも今そんなことしたらあなたは怒っちゃうものね、そうだよねそうだよね!」
 私から離れてくるくると空中を踊るように回ると、再び近づいて私の手を取った。
「本当ならすぐ対価を貰うんだけど、今回は特別! 近道を教えてあげる!」
「ほんとうに……?!」
「うんうん勿論! ほら、こっちだよ!」
 そうして私の手を牽く彼女を追いかけた。
 星降る夜を駆けて行く。光の中を掻き分けていく。無我夢中だった。少しでも早くヒナギの元に辿り着きたい一心だった。
 やがて辿り着いたのは樹齢何百年とありそうな大きな杉の木の元。太い根を張り、何千もの枝と葉を天へ伸ばしているそれは、雄々しく強かで、生命感溢れる姿のように見えた。
 圧倒される私の隣に立ち、彼女は木の幹をそっと撫でた。
「この木はね、私たちの木。私たちを生んだ木。この山の源。あの人は今ここの近くにいるよ」
「どうやってそこに行けば」
「こっちにおいで、幹に触れればいい。その時にあなたの会いたい人の事を思い浮かべるの」
 そう言われ、恐る恐る近づき、大木の幹に触れる。固い幹の奥から、トクトクと、まるで心臓が脈打つかのような感覚がして目を見開いた。
 そのままもたれ掛かるように全身を幹に寄せ、耳をぐっと押し付けて、そっと目を閉じる。その静かな鼓動を耳で、肌で、全身で感じる。大きく息を吐き、そしてヒナギの事を頭に思い浮かべた。
 ――お願いします、あの人の元へ私を届けてください。
 酷い立ちくらみがして、ズルズルとそのまま地面に座り込んだ。感覚が遠くなり、寸秒で徐々に戻ってきたかと思えば、あの低い静かな鼓動の音色は既に無く、変わりに小鳥の囀りが、枯葉の掠れる音が、澄んだ水の匂いが、そしてかぎ慣れない――血の臭いした。
 はっと目を開ける。そこは随分前ツグモネと一緒にヒナギを見つけたあの泉に浮かぶ孤島だった。後ろには杉の大木。ここに繋がっていたのか。
 ふらっとする体を木を支えにして無理矢理立たせた。血の臭いが濃い。彼の匂いもする。
 ドクドクと自分の心の臓が耳に残るほど大きく脈打っていて苦しい。臭いを辿り、孤島の裏側へまわる。
 でもそれを見た瞬間、何も聞こえなくなった。
 風で揺れる緋い髪。静かに閉じられた瞳。乾いた唇。土色になった肌。そして大きく裂かれた腹から溢れ出る、泉の水さえも染め上げんばかりの大量の赤と、彼を飲み込まんとする程に群がる蔓植物。
 殆ど飛び込むかのようにしてヒナギの元へ勢いよく駆け出した。血で汚れるのもお構い無しに彼に抱きつき、頬を触った。酷く冷たい。朝はあんなに暖かかったのに!
 顔を近づけると微かに息をする音が聞こえた。
「ヒナギ……!! ヒナギ、ヒナギヒナギ!!」
 何度も呼びかける。肩を揺らし、必死に彼の名を呼ぶ。もしかしたらまだ助かるんじゃないか。淡い期待と共に続ければ、ふるりと彼の睫毛が揺れ、瞼がそっと開いた。
 しかしその奥にあるのは琥珀色の瞳。
 思わず息を飲んだ。あの時の瞳だ。光を孕んだ目だ。
 虚ろな彼の瞳と私の瞳がゆっくりと交わり、乾いた唇が微かに開いた。殆ど囁くような弱々しい声が私の鼓膜を震わせる。
「迎えに来て、くれたのか……キョウカ」
「……ひな、ぎ?」
「あの子は随分と大きくなっていた……お前にそっくりだよ」
「ヒナギ、わたしキョウカじゃないよ」
「あぁ、でも目の色は私そっくりだったな……緋い、紅玉のような……」
「ヒナギ、ヒナギ、わたしだよ、ヤスヒコだよ、ねぇ」
「あの時、あの子のすがたを見て、よくが出たんだ……そばでみていたかった……ずっと、ずっと……いつまでも……」
 瞳が濁る。光が消える。鼓動が弱くなる。呼吸が小さくなる。瞼が閉じていく。あぁ、だめだ、まだ、まだ、もう少しだけ!
「あのこを、ただ、みていたかった」
 蝋燭の炎が消えるようだった。
 彼はもう私を呼んでくれない。その大きな体で抱きしめてくないし、大きな手で撫でてくれない。
 もう、私を見てくれない。
 酷い人だ。聞きたいことが沢山あるのに、勝手に1人で逝ってしまった。なんて身勝手で、不器用で、酷い親だ。
 目の前が涙で霞む。、込み上げる感情、酷く痛む目の奥と軋む心。もう、止まれない。
 彼の亡骸を抱いて号哭する。荒い獣のような泣き声は、私の声じゃないようで。でもどうすることも出来ない。
 全てが遅かったのだ。 ← →
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hitodenashi · 5 years
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27/肚の内
(はるゆき)(のような何か)
(※CoCシナリオ「ストックホルムに愛を唄え」のネタバレがあります)
(一般的に不快を催すであろうような感じの描写があるかも���れない)
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 幼い頃から疑問だったのだ。
 どうして野獣が得なければならなかったのは、人間からの真実の愛だったのかと。
  初夏。午後の教室には、青葉の匂いが満ちている。気の早いあぶらぜみが、もう中庭で鳴き始めていた。遅い梅雨がようやく明けた六月の空は夜のように青い。再来週に期末テストが近づいていることも吹き飛んでしまうほど、一般的に良い空模様をしていた。  エアコンが稼働しているのに、教室はじんわりと暑かった。手扇でぱたぱたと首元を仰いでも、汗はなかなか引いてくれない。  五限開始のチャイムまで、あと一分三十秒。窓際の席の人たちは、あついあついと口々に言いながら、友達の席を囲んで談笑している。廊下側の席は直射日光が届かず、エアコンの冷風も程よく流れてくるので、ちょっとは居心地がよいけれど、教師たちはやれ空気が悪くなるだの、エアコンの使い過ぎは体に毒だので設定温度を高くしているし、常に教室の窓はどこかしらが換気のために開いているので、さほど教室が快適だとは言い難い。  廊下側でこうなのだから、窓側の席はもう少し不快なことだろう。外から吹き込んでくる生ぬるい風は、すでに気の早い夏の色をしている。  パンティングのような呼吸を一瞬だけして、すぐ咽頭の渇きを覚え、口を閉じた。そして、誰にもばれないようにそっと窓際の席に目を向ける。生成色のカーテンに隠れて、銀色の髪が陽に透けているのが見えた。静かに窓の外を見ている。夏服の白い襟に、首筋を伝った汗がすっと沁みて消えた。  本鈴のチャイムが鳴って先生が入ってくると、皆慌てて席に着いた。初老の国語教師のつまらない口上と、前回授業の振り返りを聞く。指定されたページは言われる前からもう開いている。中国のどこかで撮影されたらしい竹林の写真は、鬱蒼としてひどく涼しげだった。  ぼんやりと指先でシャープペンを回していると、頭上に微かな視線を感じていやな気持ちになった。 「じゃあ二十六ページ、始めから、二十八ページ八行目まで。誰か読んでくれる奴ー」  挙手を促しても、誰が進んで読みたがることなんかないだろうに、必ずこの教師はそうやって聞く。誰も彼も指名されたくなくて、いっそう息を潜めてしまうのが、少し面白かった。現文の時間って、挙手したらテスト悪くても内申上がるのかな。なんて、皆が嘲笑混じりに言っていることを彼が知っているかどうかはわからなかった。  再度、視線を感じる。薄らと、今度は四方から。  反応は返さず、藪の中で息を潜めるように呼吸を小さくする。教師は頭を掻きながら「誰もいないのかあ」なんて決まりきった言葉を吐く。いつもそう。自主性の無い奴は成績が上がらないぞ。それに続いて出る言葉を、私は良く知っている。 「じゃあ、鏡。十八ページから」  いつもの名指し。決まりきったこと。周囲のやっぱり、そうなるよね。という、安堵の呼気を聞いた。「はい」短く返事をする。みんなそんなに読みたくないのだろうか。別に、朗読しろって訳でもないのに、難しい漢字や、句読点の息継ぎがそんなに恥ずかしいものだろうか。  席に腰を下ろしたまま、段落の頭を指でなぞった。唇を舐める。唾液がねばついていた。暑さからだろうか。水が欲しい、生ぬるくてもいいから。 「“なぜこんな運命になったかわからぬと先刻は言ったが、しかし考えようによれば、思い当たることが全然ないでもない。”」  グラウンドから、体操の掛け声がこだましている。見て面白い光景でもないだろう。犬の吐息のように生ぬるい風が、開いた窓から吹き込んでいる。微かに汗ばんだ首筋に、髪が張り付いて鬱陶しかった。横髪を耳に掛ける。  そもそも、どうして髪を伸ばし始めたのだっけ。  ふと思い返したことだが、私は今まで、美容室へ行ったことがない。髪はいつも、母が大事に切ってくれるので、外で誰かに切ってもらうという習慣がなかった。  幼稚園のころ、お遊戯会で赤ずきんちゃんをやったことを覚えている。  私は赤ずきんちゃんをやりたかったのに、生まれの早い私は他の子と比べて背が高く、赤ずきんちゃんは似合わないという理由で、悪いオオカミの役になってしまった。当時の私はそれはそれは落胆して、練習の度に落ち込んでいたのだが、本番の舞台の時、母親が主役の子よりも綺麗に見えるようにと張り切って髪を整えてくれたので、不機嫌にならず演じ切れたことを覚えている。  髪を大きく切ったのは、恐らくその記憶が最後だ。  それ以来、なんで髪を切っていないんだったか。母親がそもそも、女の子は髪が長いほうが良いと夢見るように言っていたからだったような気もする。けれど、多分決定的なものは違う。  そうだ。確か、綺麗だねって、一言褒められたから、伸ばしていたのだ。  多分、そんなありきたりで下らない理由だ。  恐らく、言った本人は、きっともうそんなこと忘れている。それくらい、下らない一言だった筈だ。 「……“人間はだれでも猛獣使いであり、その猛獣にあたるのが各人の性情だという。おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。”」  一つだけ、色合いの違う視線を感じた。窓側、私の左後方から。 「“虎だったのだ。”」  それが誰のものであるか、理解はした。それでも私の目線は、教科書体の黒いインキの上を見ている。俯いた頬に横髪が再び零れてきて、私は句読点の間に小さく唸り声を上げた。  がり。内側で、何かが私を引っ掻いた。  生成りのカーテンが風を孕んでゆったりと膨らむ。囁くような衣擦れ。まるで、下草がざわめくような。私の視界にはない青葉が、窓の向こうに揺れている。 「“ちょうど、人間だったころ、おれの傷つきやすい内心をだれも理解してくれなかったように。おれの毛皮のぬれたのは、夜露のためばかりではない。”」  俯いたまま文字を追う。横髪は、また音もなく滴り落ちてくる。  私は未だ、髪を伸ばし続けている。窓の外に垂らすことのできる日なんて、来るはずもないのに。  私は初めから、窓辺になんていない。
 じわじわじわじわ。
 籠もったような、あぶらぜみの声が耳について離れない。  微かなアンモニアの匂い。薄暗い女子トイレの個室の壁を爪で引っ掻くと、骨を齧ったような乾いた音がした。  放課後の校舎は、どこもかしこもじっとりと暑い。さっきまで涼しい図書室にいたのに、廊下を数歩歩いただけで、もうぶわりと汗が噴き出している。肌に薄い夏服がくっついている。怠い下腹部を抱えて、溜め息を吐いた。 「最悪……」  淀んだ、濃い血液の匂いが鼻についた。  道理で日中、思考がぐらぐらすると思ったのだ。経血にぬるついた下着を下げるだけで不快感が強くて、思わず眉を顰める。不運にも替えの下着を持ってきていないので、血の着いたクロッチ部分をふき取るだけに留める。咥えたサニタリーポーチから、ナプキンを取り出す。  月経血の生臭さは、腐敗した肉の生臭さによく似ていると思った。スカートの裾を引っ張って、後ろに血が滲んでいないことを確認して、一先ず胸をなでおろす。  暑さが纏わりついてくる。途端に全身が重く感じる。 「……帰ろう……」  図書当番を早引けするのは申し訳ないが、幸い今日当番にいるのは後輩の女の子たちばかりだったので、素直に話せば事情は汲んで貰えた。さっさと荷物を抱えて図書室を後にし、下駄箱のたたきにローファーを放り投げる。  気の早い午後の日差しは痛いほど強い。日光を避けて、軒をずるずると這うように歩いていると、ふと、剣道場から人の声がするのを聞いてしまった。  足が止まる。日影から足先が出る。  私の足が勝手に剣道場へ向かっていた。
 剣道場自体に足を運ぶことは、ほとんどない。体育の授業でも、部活棟の辺りは使わないからだ。  グラウンドの隅にある剣道場周辺にはとくに樹が少なくて、日影がない。立ち寄る生徒は運動部の子たちくらいだった。剥き出しの皮膚が、じりじりと焼かれて痛んだ。  道場の外壁には高窓しかついておらず、見上げて聳えるそれはまるで刑務所の壁のように見えた。果たして内側と、こちら側のどちらが閉じ込められているのか、私には判別ができなかった。  通用口と、グラウンド側に繋がる大きな出入口は空いているが、そこから中を覗くことは、とてもじゃないけれど私にはできない。  木目に擬態した道場の外壁に手を当てると、壁は日差しに焼かれて鉄板のように熱かった。内側からは、剣道部特有の咆哮が響いている。  私はたくさんの遠吠えの中から、彼の波形を探した。汗の匂い。くぐもった反響。壁の振動。声はすぐに見つかった。北西側、反対側の壁際、多分三列目。  沢山の気配の中に、彼が混ざっていた。  彼ではない気配の中に、紛れるように、しかし違和を残しながら、そこに溶けていた。水に落とされた、油みたいに。
 不意に、私はどうしたらいいかわからなくなってしまって、その場にただ立ち竦んだ。  人がいるのだ。この中には人がいる。  当たり前のことだ。ここは、学校なのだから。しかし、私ではない人間たちがいた。私が知らない彼を、知っている人間がいた。そうして、会話して、戦って、視線を交わすのだろう。私の知らない、触れあって。  知らないで、見ないで、触れないで。見るな。私の、 。
 喘いだ。  湿度の高い、熱せられた空気が喉に絡んで、小さく噎せた。自分を支えることが困難になって、鉄板のように熱い壁に額をつけて凭れる。壁は、焼けるように熱くて痛い。強く爪を立てると、ぎゃり、と不快な音がした。私の爪は鋭かった。そして、空しい音を立てるばかりだった。
 おとぎ話は、人間が夢を見る為にある。  幼い頃から、私は世界に王子様とお姫様がいることを、疑いはしなかった。本の世界にばかり、足を浸していたからだ。物語に主役がいるのであれば、邪な竜も、野獣もこの世界には存在することになる。役割は、必ずしも自分が望むとおりに振り分けられるわけではない。幼稚園のお遊戯会と一緒。誰も彼もが王子様やお姫様になれる訳じゃない。紡ぎ車も狼も、そうなりたくてなった訳ではないだろう。私が、悪いオオカミを演じたように。
 そうだ。だから、私だって、彼だって、例外じゃないことなんて。
 どうして野獣が得なければならなかったのは、人間からの真実の愛だったのか。  そうだ、小さい頃からずっと疑問だった。彼がたとえ野獣に身を窶しても、同じ野獣の番であれば、傷をなめ合うことのできるはずなのに、って。どうして彼は貶されて、傷を深められても、人間からの愛を得て、人間に戻りたいと思ったのだろう、って。
 おとぎ話は、人間が夢を見る為にある。  頭の中にある書物のページをいくら捲っても、化物と化物が結ばれた結末なんて、一つだってなかった。化物が化物のまま、幸せになる物語なんてなかったのだ。シルヴィアも、李徴も、グレゴールも、みんなみんな。  おとぎ話は人間しか幸せにしてくれない。幸せになりたいなら、人間になるしかない。それを私は知っていた。だから私は人間でいなければいけなかった。人間でいる必要があった。私だけでも、人間でいなければいけなかった。人間で居たかった、人間で居たかった、人間で居たかった。  そうでなければいけなかったのに。  おとぎ話の世界で、私は。
 月が零れる。  獣の匂いが、否応なく下腹部から立ち上る。つま先から皮膚がひっくり返っていく。全身の毛皮があわく月夜に煌めいたとして、たとえそれを千枚縫い合わせても、光り輝くドレスになんかならない。  私は全部、知っていた。最初から分かっていた。目を背けていただけだった。  足元で、ぽたぽたと水滴の垂れる音がした。それは異様に粘ついていて、腐肉の匂いがした。  私の中にいる私が、そっと耳元で囁いた。
 もうどうしようも無いんだったら、はやく喉に噛みついちゃえばいいじゃない。って。  
 ラ・ベッラなんて、最初からいなかった。  狼だったのだ。
 †
 意識は冷たくて、白濁していた。  そこで私は初めて、気を失った時に世界が真っ白になるということを知った。  全身はまんべんなくずきずきと痛んでいる。頭は特に割れるように痛む。焼けた火箸で頭蓋の内側をぐちゃぐちゃにかき混ぜられているような痛みだ。床の感触が冷たいのに、脇腹が異常に熱を持っている。  熱いから痛いのか、痛いから熱いのかわからなかった。全ての熱がそこに集まってしまったようで、事実、指先は凍えていて一切動かない。  私は薄らと目を開いた。  下水のような、饐えた汚物の匂いがする。そして血の匂い。地下室は、ひたすら暗い。髪を垂らす窓も無く、寝台もなく、ただ檻のような壁だけがあった。  晴。  名前を呼びたくても、舌が動かない。呼んで、どうなるというのだ。私が目を覚ましたことを、気付かせるだけではないのか。  床に投げ出された私の手のひらは、まだらな赤褐色に乾いていた。それからは、微かに甘い匂いがし���。床がまだ新しい血で赤く濡れていて、それはひどく生臭かった。きっと狼の血なのだろう。  なんとか視界を広げようと瞼を上げると、部屋の中に晴が立っていることだけが解った。後ろ姿だけのそれを見るや否や、たちまち悔いと後ろめたさが燻った。後悔の念が尽きない。
 私が願わなければ、こんなことにならなかった。ましてや、晴が傷つくことなんて、望んでいなかった。
 私はただ、庭先に咲いた私だけの薔薇を誰にも盗られたくなかっただけ。ただ、それだけだった。  傷つけることを、望んでなんていなかった。  けれど、それを今誰が証明してくれるだろう。現に私は晴を閉じ込め、切り裂いて、頭から丸呑みにしようとした。きっと、またすぐに私は狼になってしまう。狼である証拠に、私は彼を酷く甘いものだと思い込んでいる。一体、これのどこが人間だと言うのだ。健常な意識ですら、獣性を否定できていないのだから。  私は目を閉じた。  目を覚ましたくなくて、冷たい眠気へ緩やかに身を任せる。  そうだ、このまま私が眠っていれば、少なくとも私が晴を傷つけることはない。目を覚ませば、私はたちまち狂気に取りつかれて、彼に牙を立てることしかできなくなってしまう。もう彼を傷つけるのも、怯えた瞳で名前を呼ばれるのも嫌だった。
 眠っていよう。  これ以上、晴を傷つけないように。いっそ、私が救われなくたっていい。茨の内側が暴かれなければ、私はいつまでもお姫様と誤認されたままでいられるでしょう。狼がお姫様を丸呑みにしてドレスを着て、精一杯着飾ったところで、大きな口と生臭い匂いですぐに狼だとばれてしまう。  そんな姿は、晴に見せることができない。彼がまだ、私を人間だと思っているうちに、朽ち果ててしまいたかった。  微睡みは心地よかった。  ふと、何か、喧騒のようなものが聞こえた。悲鳴か、怒号かわからない叫び声のように思った。ただ、晴の声ではないことだけは理解して、どうでもよくなった。それも私の意識が氷湖の底に沈んでいくうちに、ぼやけて遠くなっていった。  夜明けの笛の音も、白く光を亡くした月もなく、薔薇の花も無い。深い眠りの水底には、ただ長い静寂が横たわるだけだった。
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nonono-zzz · 5 years
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咥え髪留め pic.twitter.com/gZWh7riyNr
— POCO (@poco__) 2019年4月5日
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negipo-ss · 6 years
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焼きそばハロウィンはいかにして無敵のアイドルになったのか(1)
 糸のように少しだけ開いたカーテンの隙間から朝陽が差していた。三角形に切り取られたやわらかな光の中を、田園を飛ぶ数匹の蛍のようにきれぎれの曲線を描いて埃が舞っていた。深い紫陽花色をしたチェック柄のミニスカートが、まっすぐにアイロンを当てられたシャツ、左右が完全に揃えられた赤いリボンとともに壁にかけられていて、部屋の主である女子高校生の内面を強いメッセージが込められた絵画のように表していた。  最も速い蒸気機関車が、そのペースをまったく乱されることなく東海道を走り続けていたように、その子どもがアスファルトを踏みしめるスニーカーのちいさな足音は正確に一分間当たり百六十回をキープしていた。それは彼女が小さなころから訓練に訓練を重ねてきた人間であることを示していた。太陽が地面に落とす影はすでに硬くなり、朝に鳴く鳥の歓びがその住宅地の道路には満ちていた。はっはっ、という歯切れ良い呼気が少女の胸から二酸化炭素と暖かさを奪っていった。  白いジャー���に包まれたしなやかな身体は、湖面の近くを水平に飛ぶ巨大な鳥のそれに似ていた。ベースボールキャップからちらちらと見え隠れする桃色の髪がたった今自由になれば、相当に人目を引くほど美しくたなびいただろう。  ちら、とベビージーを見た視線が「ヤバイ」と言う言葉を引き出して、BPMが百七十に上がった。冷えた秋の空気が肺胞をちくちくと刺すようになったにもかかわらず、彼女の足取りは軽やかなままだった。そのままペースを落とさずに簡素な作りの階段をタンタンタンとリズム良く駆け上がりながら、背負っていた黄色のリュックサックからきらびやかなキーチェーンに取り付けられた部屋の鍵を取り出した。  かちゃり、と軽い音でドアが開いた。 「ヤバイってえ……」  靴が脱ぎ捨てられ、廊下を兼ねたキッチンの冷蔵庫が開かれると同時に、がっちゃんと重々しくドアは閉まった。その家の冷蔵庫は独身者向けの小さなサイズのそれで、天板に溜まった微かな埃が家主の忙しさを示していた。リュックから取り出された小さなタッパーを二つ、彼女は大事そうに冷蔵庫の中段に入れた。若干乱暴にそれが閉められた後、その場には一息に服が下着ごと脱ぎ捨てられた。浴室に荒々しく躍り込むと、曇りガラスの裏側でごろ、と音が響いて、洗い場の椅子が乱雑に蹴り退けられたようだった。  水が身体に跳ね返って飛び散り続ける音は短かった。男子高校生並のスピードでシャワーを終えて素早く黄色のトレーニングウェアに着替えると、彼女は強力なドライヤーで頭を乾かしながら鏡を睨みつけた。凄まじい早さで顔を直し、部屋の隅に立てかけてあったドラムバッグを一度だけひょいっと跳んで深くかけ直すと、小上がりに鎮座していたゴミ袋を掴んで「いってきます!」と誰もいない部屋に叫んだ。  キャップから出された、揺れるポニーテール。土曜日の早朝を走り抜けてゆく足音をゴミ収集車のビープ音だけが追っていた。  少女の部屋には静けさが戻る。
 地下鉄の駅を出ると、人混みをすいすいとくぐってきつい坂を下っていった。途中にある寺の横を小さく一礼して通り過ぎ、降りきった先の人通りの少ない路地を抜けていくと、やがてダンススタジオのちいさな立て看板が見えた。軽い足取りで一番下までたどり着き、ふう、と軽く息を吐く。耳から完全ワイヤレスのイヤホンを引き抜いてポケットに突っ込み、「ごめん!」と、笑顔を浮かべたまま身体全体で重い扉を勢いよく開いた。  小さな子どもたちが彼女の頭上を通り過ぎる笑い声と一緒に、白い光が斜めに入り込んで、暗い床を小さく照らしていた。彼女の瞳は、誰の姿も捉えない。 「……あれ?」 「あれ、じゃない」 ��ばこん、と、現れた女性に横からファイルで強く頭を叩かれ、彼女は悶絶して頭を抱え座り込んだ。 「城ヶ崎……集合時間は何時だ?」  く〜、と唸り声を上げた美嘉は、しばらくしてから「九時」と涙声で言った。 「今は何時?」 「八時五十八分、に、なったところです」 「正解だ。じゃあな、私はデートに行ってくる」 「ちょ、っと。トレーナー!」  美嘉はトレーナーの服を掴んで、「え」と言ったあと「……冗談、ですよね」と半笑いの顔を作って聞いた。上から下までトレーナーの服装を見て、それがいつもの緑色のウェアとは似ても似つかぬ、落ち着いた色合いの秋物であることに気づく。 「失礼だな、私にも急なデートの相手ぐらいいるよ。年収五百五十万、二十九歳、私にはよくわからないのだがシステム系の会社でマネージャーをしている――」  美嘉はうんざりとした顔を浮かべて、 「相手の年収なんて聞いてませんよ。ていうかそうじゃなくて、私たちのレッスンはどうなっちゃうんです?」 「まず第一に、私はいつも五分前行動を君たちに要請している」 「……それは、すみません。朝、用事で家を出るのが遅れてしまって」 「第二に、彼は笑うとえくぼがとてもかわいいんだ。好きな力士は豪栄道」 「彼氏情報はもういいですから……」  豪栄道とトレーナーの共通点を美嘉がまじまじと探していると、「第三に」と言って、トレーナーは指を振った。 「次は三人揃わないとレッスンはしないと、前回宣言したはずだ。案の定だったな」  美嘉は、うわっ、と呻いて「志希のやつ……」とつぶやきながらスマホを取り出して乱暴に操作した。 「先に鷺沢に連絡しろー」と、ヒールを履いたトレーナーは外に出ながら言った。 「あいつ、いつも三十分前に来て長々ストレッチしてるんだ。本番前最後の確認でいきなり無断欠席となると、少し心配したほうがいいかもしれないぞ」  ドアの隙間から微笑んで、「じゃあな」と、一言言うとトレーナーは去った。ぽかんと美嘉は小窓から彼女を見送る。かつ、かつという高い音は、軽やかに去っていった。  おかけになった電話番号は、電源が入っていないか――。  美嘉は携帯から小さく流れる音声を一回りそのままにしてから消し、スタジオの照明をつけないまま日の当たるところへと歩いていった。『い』から『さ』へ大きくスクロールして、窓際であぐらをかく。『鷺沢文香』を押し、耳に当てる。短いスパンで赤いボタンを押す。『鷺沢』赤ボタン。『鷺沢』赤ボタン。『た』にスクロール。 『高垣楓個人事務所』  耳元の小さな呼び出し音を聴きながら「なんで……」と美嘉は呟いた。短いやり取りで、事務員に文香への連絡を頼んだ。 「プロデューサーにも連絡お願いします……いえ、アタシは……はい、残って自主練やります。」  電話を切った後、ふうう、と美嘉は長いため息をついた。一息に立ち上がり、バッグから底の摩耗したダンスシューズを取り出して履くと、イヤホンを耳に押し込んで入念なストレッチを行った。同い年くらいの少女たちが数人、スタジオの横を笑い声を立てながら通り過ぎ、その影が床をすうっと舐めていったが、彼女はそれに目もくれなかった。  床に丁字に貼られたガムテープの、一番左の印に立った。トリオで踊るときのセンターとライト、残りふたつのポジションに一瞬の視線が走り、美嘉は目尻に浮かんだ悔し涙を一瞬親指の背で拭った。 「くそ」  いきなり殴りつけられた人がそうするように、美嘉はしばらく下を向いていた。闘争心を激しく煽る力強いギャングスタ・ラップが彼女の耳の中で終わりを告げ、長い無音のあと、簡素な、少し間抜けと言ってもいい打楽器が正確なリズムで四回音を立てた瞬間、美嘉は満面の笑みを浮かべてさっと顔を上げ、ミラーに映った自分を見つめながら大きく踏み出した。だんっ、と力強くフローリングを踏みしめた一歩の響きは、長い間その部屋に残っていた。
「おはようございます……」と挨拶をしながら、美嘉がその部屋に入っていくと、「あら、めずらしい」とパイプ椅子に座っていた和装の麗人が彼女を見て笑った。その人が白い煙草を咥えているのを見て、美嘉は「火、つけます」と近寄りながら言った。 「プロデューサー、煙草吸うんですね」 「いやですねえ、二人きりのときは楓と呼んでくださいと、このあいだ申し上げたじゃないですか」 「……楓さん、ライター貸してください。アタシ流石に持ってないんで……」  こりこりこり。  煙草が軽い音を立てながら楓の口の中に吸い込まれると、こてん、と緑のボブカットが揺れ、「はい?」と返事が返った。煙草と思っていたそれが菓子だったことが分かって、美嘉はがくりと頭を垂れた。 「ええと、ライターですか……あったかしら……」 「……からかってるんですか?」 「まさかまさか」  楓がココアシガレットの箱を差し出すと、美嘉は「いらないですって……」と顔をしかめて言った。 「今日は、打ち合わせ?」 「はい、次のクールで始まる教育バラエティの……楓さん、ちひろさんから連絡行きましたか」 「はいはい、来ましたよ。文香ちゃん、大丈夫かしら」 「……軽いですね」 「軽くなんか無いですよ」  ついつい、と手の中のスマホが操作され、「私の初プロデュース、かわいい後輩ユニットなんですから、応援ゴーゴー。各所からアイドルを引き抜きまくって、非難ゴーゴー!」と、画面を見せた。『高垣楓プロデュースユニット第一弾! コンビニコラボでデビューミニライブ』と大きく書かれたニュースサイトの画面には、『メンバーは一ノ瀬志希、城ヶ崎美嘉、鷺沢文香』と小見出しがついていた。びきっ、と美嘉の額に音を立てて青筋が現れ、「だったら」と美嘉は言った。 「ほんっと、真面目に仕事してくださいよ! なんなの、『焼きそばハロウィン』っていうユニット名!」 「ええ〜かわいくないですか、焼きハロ」 「ユニット名は頭に残ったら成功なの! ニュース見たら一発で分かるでしょ、記者さんも訳わかんなくなっちゃって、タイトルにも小見出しにも使われてないじゃん! ていうか百歩譲ってハロウィンは分かるとして、焼きそばってどっからきたの!!」 「以前、焼きそばが好きだっておっしゃっていたから……」 「え、そんなこと言ってましたっけ」 「沖縄の撮影に三人で行ったとき、一緒に食べておいしかったーって」 「……あれ、たしかに……はっ、いやいやいや、丸め込まれるところだった。好物をユニット名にしてどうすんの」 「美嘉ちゃんには対案があるんですか?」 「た、対案?」  いきなりプロデューサー業を完全に放棄して頬杖をしながらがさがさとお菓子かごを漁る楓に、美嘉は「対案……」と呟いて顎を触った。は、と思いついて「たとえば、志希がセンターだから、匂いをモチーフに『パフュー(ピー)』とか、あと……秋葉原でイベントやるし、そうだ、三人の年齢とかを合わせちゃって『エーケービー(ピイィー!)』とか、あーもうさっきからピィピィうるさい! なんなんですかそれ!」 「フエラムネですよ。あっ、今の若い子はご存じないですか」 「アッタッシッがっ、しゃべってるときにはちゃんと聞いてよ、アンタが考えろって言ったんでしょ! ていうか文香さんのこと、早く何とかしなさいよ!」 「ははあ」  ごり、と、ラムネを噛み砕くにしては大きい音が楓の口内から立てられた。美嘉は激昂から一瞬で冷めて、口元に小さな怯えを浮かばせた。月と太陽とを両眼に持ったひとはそれらをわずかに細め、もう一つラムネを口の中に放り込んだ。 「焼きハロ、私はリーダーを誰かに頼みましたよね。誰でしたっけ」 「……アタシ、です」  ごり。 「トレーナーさんからも話を聴きましたよ。なんでも志希ちゃんは、初回以来一度もレッスンに現れていないとか」 「あれは! その……志希は、前の事務所のときからずっとそうで……」  ごり。 「ふうん、美嘉ちゃんはそれでいいと思ってるんですね」  楓がゆらりと立ち上がり、美嘉に近寄った。彼女が反射的に一歩大きく下がると、壁が背後に現れて逃げ場が無くなった。フエラムネをひとつ掴み、楓は美嘉の少し薄い唇にそれを触れさせた。真っ赤に染まった耳元にほとんど触れるような位置から、楓の華やかな口元が「開けて」と動いて、美嘉がわずかに開けたそこにはラムネがおしこめられた。ひゅ、と一瞬鳴ったそれに、楓は満足そうに微笑むとテーブルに寄りかかった。「口に含んでもいいですよ」と楓が言った。美嘉は少し涙の浮かんだ目で楓を睨むと、指を使ってそれを口に入れた。 「私は高垣楓ですから」  テーブルを掴んでいる指で、楓はとんとんと天板を裏側から叩いていた。「傷つかないんですよね、残念なことに。何が起きても」とほんとうに少し残念そうに言った。 「だから、あなた方が失敗しても、私は特に何も思わない。たとえばコンビニのコラボレーションが潰れても、私は特に怖くない。少しだけ偉い人に、少しだけ頭を下げて、ああ、だめだったのかあ、と少しだけ感慨に浸るんです。でもあなた方はきっと、違いますよね」  美嘉の口の中で、こり、と音が鳴って、 「……何が言いたいんですか?」 「自信がないの? 美嘉ちゃん」  質問に質問を返されて、しかし美嘉はもうたじろがなかった。「最高のユニットにしてやる」と自分に言い聞かせるように呟くと、「なんです?」と楓は聞き返した。 「何も、問題は、ない。って言ったんですよ」  パン、と楓は手を叩いて、「ああ、よかったあ」と、言った。 「今日はもうてっぺん超えるまでぎっちり収録ですし、困ったなあ、と思ってたんですよね。明日の店頭イベント、よろしくお願いします」と、微塵も困っていない顔で言った。 「文香さんち、いってきます」と宣言し、美嘉はトートを抱え直した。行きかけた彼女は楓に呼び止められて、投げつけられたココアシガレットの箱を片手で受け取った。 「さっきはちょっといじめちゃいましたけれど……」と楓が言葉を区切ると、美嘉は心底嫌そうな顔をして「はあ」と言った。 「ほんとうにどうしようもなくなったら、もうアイドルを続けていられないかもしれないと思ったら、そのときはちゃんと私に声をかけてくださいね。す〜ぱ〜シンデレラぱわ〜でなんとかして差し上げます」 「もう行っていいですか。時間無いので」  恒星のように微笑んで、楓は「どうぞ」と言った。美嘉がドアを開けて出ていくと。入れ替わりにスタッフがやってきて「高垣さん、出番です」と声をかけた。  立ち上がりながら、ふふ、と笑うと、「楽しみだなあ、焼きハロ♫」と楓は呟いた。  だん、だん、と荒々しいワークブーツの足音が廊下に響いていた。「いらないっつってるのに……ていうか、一本しか残ってないじゃん。アタシはゴミ箱かっつうの」と独り言を言いながら、美嘉は箱から煙草を抜いて口に咥えた。空き箱はクシャリと潰されて、バッグへと押し込められた。 「あーっ、くそ!」  叫んで、ココアシガレットを一息に口の中へと含む。ばり、ばり、ばり、という甲高い音を立て、ひどく顔をしかめた美嘉の口の中で、それは粉々に砕けていった。
「すみませーん」  美嘉は三度目の声をかけ、ドアベルをもう一度押した。鷺沢古書店の裏庭にある勝手口は苔むした石畳の先にあり、彼女はそこに至るまでに二度ほど転びかけていた。右手に持っていたドラッグストアの袋を揺らしながら側頭部をぽりぽりとかいて「……やっぱり寝込んでるのかなー」と心配そうに小さな声で呟いたとき、奥から人の気配がして、美嘉の顔はぱっと輝いた。  簡素な鍵を開けたあと、老いた猫が弱々しく鳴くときのような蝶番の音を響かせて、顔をあらわしたのは果たして鷺沢文香だった。「文香さん」と美嘉は喜びを露わにして言った。 「無事でよかったー! なんだ、元気そうじゃん」  美嘉は鷺沢のようすを上から下まで確かめた。ふわりとしたロングスカートに、肌を見せない濃紺のトップス。事務所でも何度か見たことのあるチェックのストールは、青い石のあしらわれた銀色のピンで留められていた。普段と変わらぬ格好とは裏腹に、前髪の奥の表情がいつになく固い事に気づいて、美嘉は「……文香さん?」と聞いた。 「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」と、文香は頭を深々と下げた。  どこか寒々しい予感に襲われ、美嘉は「あ……」と、不安の滲む声を漏らした。はっとすべてを消し去り、いつもの調子に戻して、 「今日のレッスン? もういいっていいって。連絡が無かったのはだーいぶあれだったけど、ま、志希のせいで無断欠席には慣れちゃったっていうか、慣れさせられたっていうか――」 「そうでは、なくて……」  文香は言葉に詰まった。合わない視線はゆらりと揺れて、隣家で咲き誇るケイトウの花を差していた。燃え盛る炎のように艶やかなそれを見ながら「アイドルを、やめようと思います」と彼女はゆっくりと言った。がっと両腕を掴まれて、文香は目の前で自らの内側を激しく覗き込もうとする黄金の瞳に眼差しを向けた。 「なんで!!」  美嘉が叫ぶと、文香はふら、と揺れた。陽が陰り、そこからはあらゆる光が消えた。産まれた冷気を避けるかのように、ち、ち、と小鳥が悲鳴を上げながら庭から去っていった。 「向いて、いないと、思いました」と、苦し��うに彼女は言った。 「突然で、ほんとうに、申し訳ありません……楓さんには、後ほど、きちんとお詫びをしようと――」 「嘘」 「……嘘では、ありません。自分が、古めかしい本にでもしがみついているのがふさわしい、惨めな人間――けだもの、虫の一匹だと、あらためて思い知ったのです」 「何があったの、だって」  美嘉は文香から一歩離れると、心の底から悲しそうな表情を浮かべた。 「あんなに……嬉しい、嬉しいって、新しいことを発見したって、何度も何度も言ってたのに!」 「間違いでした」 「何があったんだってアタシは聞いてるの!」 「もともと何も無かったんです!」  文香がこれまで聞いたこともないような大声を出したので、美嘉は呆然と立ちすくんだ。「すべてがまぼろしだったのです! ステージの上の、押し寄せる波のように偉大なあの輝きも!」と文香は一息に言って、興奮を抑えるようにしばらく肩で息をしながら美嘉を見つめていた。やがて、「まぼろしだったのです、あの胸の、高鳴りも……」と、悄然として言った。 「……なぜ」と美嘉は言った。その反転がなぜ起きたのか理解できないようすで、美嘉はただ文香を睨みつけて質問を繰り返した。  長い沈黙のあとに、「家に、呼び戻されました」と文香は言った。美嘉は唖然として「どういうこと」と聞いた。 「親の同意がないままアイドルをやってたから、やめろって言われたって、そういうことなの?」  文香はうなずいた。 「未成年者は保護者の同意書提出があるはずじゃん」 「あれは、東京の叔父に書いてもらいました」 「……だって、大学だってあるし、文香さんトーダイでしょ。そういうの、全部捨てて、帰ってこいって言う……そういうことなの?」 「そうです」 「そんなの、家族じゃない」  美嘉が断固とした調子で言うと、文香は口を一���字に結んだ。そのようすを見ながら「家族じゃない、おかしいよ」と美嘉は言った。 「だって、アイドルも、学校も、全部夢じゃん。自分が将来こうなりたいっていうのを、文香さん自分の全部を賭けて頑張ってたじゃん。アタシずっと見てたよ。すごいな、ほんとうにすごいなって、思ってたよ。ねえ」  文香の瞳をまっすぐに見つめて、美嘉は手を差し伸べた。 「全部捨てる必要なんてない、大丈夫だから」  青い海のようなそれに吸い込まれそうになりながら、美嘉は一瞬の煌めきをそこに見つけて、笑いかけた。文香が恐る恐るといった様子で、ゆっくりとその手を取ったとき、微笑みを浮かべた彼女の口元は「そう……分からず屋の家族なんて、捨ててしまえば――」と囁いた。「う」と小さな悲鳴を上げて、文香は手を振りほどくと、どん、と彼女の肩を両手で押し、庭土へと倒した。あっ、と倒れ込んだ美嘉は、文香を見上げ、「美嘉さんは、鷺沢の家を知らないんです!」と、文香が絶叫するのを聞いた。美嘉の眉はみるみるうちにへの字に曲がって、 「知らないよそんなの! アタシに分かるわけないじゃん!!」  ぐ、と文香の喉は、嗚咽するような音を立てて、やがて、ふううと長い息が吐かれた。 「……さようなら」と、短い別れの言葉で、ドアは閉められようとした。「待って!」と美嘉が呼びかけたときにその隙間から見えた、雨をたたえた空のようにまっしろな文香の顔色が、美嘉の目には消えゆく寸前のろうそくのようにしばらく残っていた。
 どさ、と重い音を立てて、その白い袋は金網で作られたゴミ箱へと捨てられた。美嘉はよろめく足取りですぐ横のベンチに向い、腰を下ろした。眼の前には公園に併設された区営のテニスコートがあり、中年の男女が笑いあいながら黄緑色のボールを叩いていた。  美嘉はイヤホンを耳に押し込むと、ボールの動きを目で追うのをやめてうつむいた。両手を祈りの形に組み、親指のつけ根を皺の寄った眉間に押し当てた。受難曲の調べが柔らかく彼女の鼓膜を触り終わったあと、シャッフルされた再生が奇跡のようにあの四回の簡素なリズムを呼び出して、今朝何度もひとりで練習したあの曲が鳴り始めた。美嘉は口をとがらせ、ふ、と微かに息を吐きながら顔を上げた。そしてテニスコートの男女が消え、自分の周りにひとりも人がいなくなったことを見つけた。  空はまっ青に晴れ、柔らかな光が木々の間から美嘉に差していた。そのやさしさをぼうっと受け止めながら、美嘉は立ち上がってゴミ箱から先ほど投げ捨てた袋を拾った。冷えピタやいくつかの薬、体温計を自分のバッグに移し、二つのフルーツゼリーをこと、こと、と静かにベンチの横に置いた。  曲はサビに差し掛かり、いつの間にか美嘉は鼻歌でそれを小さく歌っていた。てんてんと指で指してみかんとぶどうからぶどうを選びとると、蓋を開けてプラスチックのスプーンを突き立てた。  口に入るかどうかわからないくらいの大きさでそれをすくい上げて、飢えた肉食動物のような激しさでがぶりと食いついた。  歌い始めたときにはもうこぼれていた大粒の涙が、収め切れなかったゼリーの汁と一緒におとがいへと伝って、ぽとぽとと太ももに落ちた。  泣くときに必ず漏れるはずの音を、美嘉は少しも立てなかった。涙を拭いすらしなかった。たまに「あぐ」という、ゼリーを口に入れるときに限界まで開いた顎の出す音だけが、緑の葉が擦れるそれと共にそっとあたりに響いていた。食べ終わると同時に曲が終わり、美嘉はイヤホンを引き抜いた。ほうっと息を吐いて、ぐすっと鼻を啜った。涙のあとが消えるまで頬のあたりをハンカチでごしごし擦り、そのまま太ももを拭くと、鏡を出して顔を軽く確認した。  そして、は、と後ろを向く。  ベンチの背越しに伸ばされた腕がゼリーを取って、「これ食べていいやつー?」と聞きながら蓋を開け、返事を待たずにスプーンですくい取った。 「志希」と、呆然と美嘉は言った。 「ん?」と、ゼリーを口いっぱいに頬張りながら志希は言った。
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aoi--zine · 2 years
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数年ぶりにチュッパチャップスを買った。
チュッパチャップスを咥えながら独り言を言ってみたら、ジャンクヘッドのあいつらの言葉みたいになってこうやってレコーディングしたのかな、とか
俺が停めてた車のバックウィンドウで前髪を整える二人の女の子
歩いていて、目に留まった枯れ枝を拾う男の子
とか。
俺の知らないところと、知っているところで様々なストーリーが展開されている。俺はそれに全く関係しないという関係の仕方をしている時もあれば、ストーリーの一部になったり背景になったりしている。
俺はなるべく多くを見ていたいと思った
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kuroryo · 6 years
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おしおき(喜多主)
あなたはきのこの喜多主で2月の午前の設定で「手錠」「喫茶店」を使った小説を書いてください。 https://shindanmaker.com/540138 
※主人公の名前:来栖暁
 がちゃり、と重い金属音がして目が覚めた。パッと瞼を上げると横たわった視界に手錠で繋がれた己の両手が見える。二月の冷たい空気に晒されたそれは恐ろしいほど冷たい。 「何だこれは」 「おはよう。夕べは散々やってくれたな」  マットレスがぎしりと軋み、見慣れた部屋着のボトムが現れた。視線を上げれば寝起きで髪の毛が膨張したままの暁がいる。 「暁。どういうことだ」 「俺も掛けられたことがある。お前も気分を味わえ」 「何故こんなものを持っている」 「ベッドの上では制御できない狐にお仕置きするために用意した」  彼が指を鎖の部分に掛けて引っ張ると当然腕を持っていかれる。暁は自分の顔の高さまで手を持ち上げて、唐突に右の中指を食んだ。 「何をする」 「指フェラ」  指を深く咥えて舌を絡める。夕べこちらから仕掛けたことをなぞるように彼は指を舐めしゃぶった。  朝の生理現象に逆らえない下腹部がずくりと疼く。駄目だ、ここは彼の住む喫茶店の屋根裏だ。うっかり放とうものなら下着の替えがない。 「ゆうふへ」  第二関節まで指を咥えたまま暁が喋る。舌が伸びて指と指の谷間を擽った。
  これ以上は拙い。手を退いても暁は鎖を握りしめて引き留める。再びがちゃりと重い音がして手首に冷たい痛みが走った。 「暁っ」 「せっかく久しぶりに優しくしてもらえると思ってたのに……」  ちゅぱ、と音を立て彼が唇を離した。指先からとろりと唾液が滴り、シーツへと染み込んでいく。  暁は部屋着の上を捲って胸元を晒した。白い胸板に散る赤い花、花。腫れあがった頂は見るか���に充血している。 「わざわざ見せないけど、こっちも酷い」  手錠を掴んでいた手が彼自身の尻に触れた。ちょうど谷間を這うように指先が行き来する。  暁がいなくなってからひと月半。昨晩、降り積もった想いを溶かすように彼を抱いた。優しくしたかった。だけど欲望が白い肌を見た瞬間、獰猛な牙を剥いてしまった。  泣いて許しを請う彼を押さえつけ、貫き、印をつけた。俺の想いを刻みつけるように。  だがそれは勝手な行為だった。だからこそ今、報復をしているのだろう。 「すまなかった……」 「……ま、お前の気持ちは痛いほどわかったから。だから俺の気持ちを痛いほど知ってくれ」  溜息を吐いて笑った暁の言葉に首を傾げた。それはどういう意味だ?  
「何だ。わからないのか」  そんな反応が不満だったのか、彼は呆れたように肩を竦めた。左手に掛かった輪と手首の隙間に指を滑り込ませて手のひらをくすぐる。彼が何をしたいのかわからない。 「わからない」 「そっか」  悪戯に大きな目が弓なりに笑んだ。今日は眼鏡を掛けていないから、豊かな表情が丸見えだった。  こんな顔もいい。後でスケッチしておこうと心に誓うと。 「っ!?」  反応の治まらない股間をぎゅっと握り込まれた。驚きに腰を引くと触れられたままの手首を掴まれた。 「俺は祐介を拘束して俺だけのものにしたい。どうせなら俺の思うままにお前自身を受け入れて、お前の身体に俺からの証も刻みたい」  上から覗き込んでくる彼の目は獣の如く爛々と輝いていた。いつもの快楽に蕩けてしまった瞳とは違う、獲物を狙う目つき。  どこかで見たことがあると記憶を辿る。  ……ああ、簡単じゃないか。彼はあらゆる欲望を盗み取った怪盗団のリーダー、ジョーカーだ。 「お前の望むままに」  改心させる次のターゲットは”俺”ということか。  手錠を掛けられた手首を揃えて暁に差し出す。ふ、と笑った彼は恭しく手の甲へ口づけた。
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groyanderson · 3 years
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☆プロトタイプ版☆ ひとみに映る影シーズン2 第七話「復活、ワヤン不動」
☆プロトタイプ版☆ こちらは��子書籍「ひとみに映る影 シーズン2」の 無料プロトタイプ版となります。 誤字脱字等修正前のデータになりますので、あしからずご了承下さい。
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(シーズン2あらすじ) 私はファッションモデルの紅一美。 旅番組ロケで訪れた島は怪物だらけ!? 霊能者達の除霊コンペとバッティングしちゃった! 実は私も霊感あるけど、知られたくないなあ…… なんて言っている場合じゃない。 諸悪の根源は恩師の仇、金剛有明団だったんだ! 憤怒の化身ワヤン不動が、今度はリゾートで炸裂する!!
pixiv版 (※内容は一緒です。)
དང་པོ་
 ニライカナイから帰還した私達はその後、魔耶さんに呼ばれて食堂へ向かう。食堂内では五寸釘愚連隊と生き残った河童信者が集合していた。更に最奥のテーブルには、全身ボッコボコにされたスーツ姿の男。バリカンか何かで雑に剃り上げられた頭頂部を両手で抑えながら、傍らでふんぞり返る禍耶さんに怯えて震えている。 「えーと……お名前、誰さんでしたっけ」  この人は確か、河童の家をリムジンに案内していたアトム社員だ。特徴的な名前だった気はするんだけど、思い出せない。 「あっ……あっ……」 「名乗れ!」 「はひいぃぃ! アトムツアー営業部の五間擦平雄(ごますり ひらお)と申します!」  禍耶さんに凄まれ、五間擦氏は半泣きで名乗った。少なくともモノホンかチョットの方なんだろう。すると河童信者の中で一番上等そうなバッジを付けた男が席を立ち、机に手をついて私達に深々と頭を下げた。 「紅さん、志多田さん。先程は家のアホ大師が大っっっ変ご迷惑をおかけ致しました! この落とし前は我々河童の家が後日必ず付けさせて頂きます!」 「い、いえそんな……って、その声まさか、昨年のお笑いオリンピックで金メダルを総ナメしたマスク・ド・あんこう鍋さんじゃないですか! お久しぶりですね!?」  さすがお笑い界のトップ組織、河童の家だ。ていうか仕事で何度か会ったことあるのに素顔初めて見た。 「あお久しぶりっす! ただこちらの謝罪の前に、お二人に話さなきゃいけない事があるんです。ほら説明しろボケナスがッ!!」  あんこう鍋さんが五間擦氏の椅子を蹴飛ばす。 「ぎゃひぃ! ごご、ご説明さひぇて頂きますぅぅぅ!!」  五間擦氏は観念して、千里が島とこの除霊コンペに関する驚愕の事実を私達に洗いざらい暴露した。その全貌はこうだ。  千里が島では散減に縁を奪われた人間が死ぬと、『金剛の楽園』と呼ばれる何処かに飛び去ってしまうと言い伝えられている。そうなれば千里が島には人間が生きていくために必要な魂の素が枯渇し、乳幼児の生存率が激減してしまうんだ。そのため島民達は縁切り神社を建て、島外の人々を呼びこみ縁を奪って生き延びてきたのだという。  アトムグループが最初に派遣した建設会社社員も伝説に違わず祟られ、全滅。その後も幾つかの建設会社が犠牲になり、ようやく事態を重く受け止めたアトムが再開発中断を検討し始めた頃。アトムツアー社屋に幽霊が現れるという噂が囁かれ始めた。その霊は『日本で名のある霊能者達の縁を散減に献上すれば千里が島を安全に開発させてやろう』と宣うらしい。そんな奇妙な話に最初は半信半疑だった重役達も、『その霊がグループ重役会議に突如現れアトムツアーの筆頭株主を目の前で肉襦袢に変えた』事で霊の要求を承認。除霊コンペティションを行うと嘘の依頼をして、日本中から霊能者を集めたのだった。  ところが行きの飛行機で、牛久大師は袋の鼠だったにも関わらず中級サイズの散減をあ���さり撃墜してしまう。その上業界ではインチキ疑惑すら噂されていた加賀繍へし子の取り巻きに散減をけしかけても、突然謎のレディース暴走族幽霊が現れて返り討ちにされてしまった。度重なる大失態に激怒した幽霊はアトムツアーイケメンライダーズを全員肉襦袢に変えて楽園へ持ち帰ってしまい、メタボ体型のため唯一見逃された五間擦氏はついに牛久大師に命乞いをする。かくして大師は大散減を退治すべく、祠の封印を剥がしたのだった。以上の話が終わると、私は五間擦氏に馬乗りになって彼の残り少ない髪の毛を引っこ抜き始めた。 「それじゃあ、大師は初めから封印を解くつもりじゃなかったんですか?」 「ぎゃあああ! 毛が毛が毛がああぁぁ!!」  あんこう鍋さんは首を横に振る。 「とんでもない。あの人は力がどうとか言うタイプじゃありません。地上波で音波芸やろうとしてNICを追放されたアホですよ? 我々はただの笑いと金が大好きなぼったくりカルトです」 「ほぎゃああぁぁ! 俺の貴重な縁があぁぁ、抜けるウゥゥーーーッ!!」 「そうだったんですね。だから『ただの関係者』って言ってたんだ……」  そういう事だったのか。全ては千里が島、アトムグループ、ひいては金剛有明団までもがグルになって仕掛けた壮大なドッキリ……いや、大量殺人計画だったんだ! 大師も斉二さんもこいつらの手の上で踊らされた挙句逝去したとわかった以上、大散減は尚更許してはおけない。  魔耶さんと禍耶さんは食堂のカウンターに登り、ハンマーを掲げる。 「あなた達。ここまでコケにされて、大散減を許せるの? 許せないわよねぇ?」 「ここにいる全員で謀反を起こしてやるわ。そこの祝女と影法師使いも協力しなさい」  禍耶さんが私達を見る。玲蘭ちゃんは数珠を持ち上げ、神人に変身した。 「全員で魔物(マジムン)退治とか……マジウケる。てか、絶対行くし」 「その肉襦袢野郎とは個人的な因縁もあるんです。是非一緒に滅ぼさせて下さい!」 「私も! さ、さすがに戦うのは無理だけど……でもでも、出来ることはいっぱい手伝うよ!」  佳奈さんもやる気満々のようだ。 「決まりね! そうしたら……」 「その作戦、私達も参加させて頂けませんか?」  食堂入口から突然割り込む声。そこに立っていたのは…… 「斉一さん!」「狸おじさん!」  死の淵から復活した後女津親子だ! 斉一さんは傷だらけで万狸ちゃんに肩を借りながらも、極彩色の細かい糸を纏い力強く微笑んでいる。入口近くの席に座り、経緯を語りだした。 「遅くなって申し訳ない。魂の三分の一が奪われたので、万狸に体を任せて、斉三と共にこの地に住まう魂を幾つか分けて貰っていました」  すると斉一さんの肩に斉三さんも現れる。 「診療所も結界を張り終え、とりあえず負傷者の安全は確保した。それと、島の魂達から一つ興味深い情報を得ました」 「聞かせて、狸ちゃん」  魔耶さんが促す。 「御戌神に関する、正しい歴史についてです」  時は遡り江戸時代。そもそも江戸幕府征服を目論んだ物の怪とは、他ならぬ金剛有明団の事だった。生まれた直後に悪霊を埋め込まれた徳松は、ゆくゆくは金剛の意のままに動く将軍に成長するよう運命付けられていたんだ。しかし将軍の息子であった彼は神職者に早急に保護され、七五三の儀式が行われる。そこから先の歴史は青木さんが説明してくれた通り。けど、この話には続きがあるらしい。 「大散減の祠などに、星型に似たシンボルを見ませんでしたか? あれは大散減の膨大な力の一部を取り込み霊能力を得るための、給電装置みたいな物です。もちろんその力を得た者は縁が失せて怪物になるのですが、当時の愚か者共はそうとは知らず、大散減を『徳川の埋蔵金』と称し挙って島に移住しました」  私達したたびが探していた徳川埋蔵金とはなんと、金剛の膨大な霊力と衆生の縁の塊、大散減の事だったんだ。ただ勿論、霊能者を志し島に近付いた者達はまんまと金剛に魂を奪われた。そこで彼らの遺族は風前の灯火だった御戌神に星型の霊符を貼り、自分達の代わりに島外の人間から縁を狩る猟犬に仕立て上げたんだ。こうして御戌神社ができ、御戌神は地中で飢え続ける大散減の手足となってせっせと人の縁を奪い続けているのだという。 「千里が島の民は元々霊能者やそれを志した者の子孫です。多少なりとも力を持つ者は多く、彼らは代々『御戌神の器』を選出し、『人工転生』を行ってきました」  斉一さんが若干小声で言う。人工転生。まだ魂が未発達の赤子に、ある特定の幽霊やそれに纏わる因子を宛てがって純度の高い『生まれ変わり』を作る事。つまり金剛が徳松に行おうとしたのと同じ所業だ。 「じゃあ、今もこの島のどこかに御戌様の生まれ変わりがいるんです���?」  佳奈さんは飲み込みが早い。 「ええ。そして御戌神は、私達が大散減に歯向かえば再び襲ってきます。だからこの戦いでは、誰かが対御戌神を引き受け……最悪、殺生しなければなりません」 「殺生……」  生きている人間を、殺す。死者を成仏させるのとは訳が違う話だ。魔耶さんは胸の釘を握りしめた。 「そのワンちゃん、なんて可哀想なの……可哀想すぎる。攻撃なんて、とてもできない」 「魔耶、今更甘えた事言ってんじゃないわよ。いくら生きてるからって、中身は三百年前に死んだバケモノよ! いい加減ラクにしてやるべきだわ」 「でもぉ禍耶、あんまりじゃない! 生まれた時から不幸な運命を課せられて、それでも人々のために戦ったのに。結局愚かな連中の道具にされて、利用され続けているのよ!」 (……!)  道具。その言葉を聞いた途端、私は心臓を握り潰されるような恐怖を覚えた。本来は衆生を救うために手に入れた力を、正反対の悪事に利用されてしまう。そして余所者から邪尊(バケモノ)と呼ばれ、恐れられるようになる……。 ―テロリストですよ。ドマル・イダムという邪尊の力を操ってチベットを支配していた、最悪の独裁宗派です―  自分の言った言葉が心に反響する。御戌神が戦いの中で見せた悲しそうな目と、ニライカナイで見たドマルの絶望的な目が日蝕のように重なる。瞳に映ったあの目は……私自身が前世で経験した地獄の、合わせ鏡だったんだ。 「……魔耶さん、禍耶さん。御戌神は、私が相手をします」 「え!?」 「正気なの!? 殺生なんて私達死者に任せておけばいいのよ! でないとあんた、殺人罪に問われるかもしれないのに……」  圧。 「ッ!?」  私は無意識に、前世から受け継がれた眼圧で総長姉妹を萎縮させた。 「……悪魔の心臓は御仏を産み、悪人の遺骨は鎮魂歌を奏でる。悪縁に操られた御戌神も、必ず菩提に転じる事が出来るはずです」  私は御戌神が誰なのか、確証を持っている。本当の『彼』は優しくて、これ以上金剛なんかの為に罪を重ねてはいけない人。たとえ孤独な境遇でも人との縁を大切にする、子犬のようにまっすぐな人なんだ。 「……そう。殺さずに解決するつもりなのね、影法師使いさん。いいわ。あなたに任せます」  魔耶さんがスレッジハンマーの先を私に突きつける。 「失敗したら承知しない。私、絶対に承知しないわよ」  私はそこに拳を当て、無言で頷いた。  こうして話し合いの結果、対大散減戦における役割分担が決定した。五寸釘愚連隊と河童の家、玲蘭ちゃんは神社で大散減本体を引きずり出し叩く。私は御戌神を探し、神社に行かれる前に説得か足止めを試みる。そして後女津家は私達が解読した暗号に沿って星型の大結界を巡り、大散減の力を放出して弱体化を図る事になった。 「志多田さん。宜しければ、お手伝いして頂けませんか?」  斉一さんが立ち上がり、佳奈さんを見る。一方佳奈さんは申し訳なさそうに目を伏せた。 「で……でも、私は……」  すると万狸ちゃんが佳奈さんの前に行く。 「……あのね。私のママね、災害で植物状態になったの。大雨で津波の警報が出て、パパが車で一生懸命高台に移動したんだけど、そこで土砂崩れに遭っちゃって」 「え、そんな……!」 「ね、普通は不幸な事故だと思うよね。でもママの両親、私のおじいちゃんとおばあちゃん……パパの事すっごく責めたんだって。『お前のせいで娘は』『お前が代わりに死ねば良かったのに』みたいに。パパの魂がバラバラに引き裂かれるぐらい、いっぱいいっぱい責めたの」  昨晩斉三さんから聞いた事故の話だ。奥さんを守れなかった上にそんな言葉をかけられた斉一さんの気持ちを想うと、自分まで胸が張り裂けそうだ。けど、奥さんのご両親が取り乱す気持ちもまたわかる。だって奥さんのお腹には、万狸ちゃんもいたのだから……。 「三つに裂けたパパ……斉一さんは、生きる屍みたいにママの為に無我夢中で働いた。斉三さんは病院のママに取り憑いたまま、何年も命を留めてた。それから、斉二さんは……一人だけ狸の里(あの世)に行って、水子になっちゃったママの娘を育て続けた」 「!」 「斉二さんはいつも言ってたの。俺は分裂した魂の、『後悔』の側面だ。天災なんて誰も悪くないのに、目を覚まさない妻を恨んでしまった。妻の両親を憎んでしまった。だからこんなダメな狸親父に万狸が似ないよう、お前をこっちで育てる事にしたんだ。って」  万狸ちゃんが背筋をシャンと伸ばし、顔を上げた。それは勇気に満ちた笑顔だった。 「だから私知ってる。佳奈ちゃんは一美ちゃんを助けようとしただけだし、ぜんぜん悪いだなんて思えない。斉二さんの役割は、完璧に成功してたんだよ」 「万狸ちゃん……」 「あっでもでも、今回は天災じゃなくて人災なんだよね? それなら金剛有明団をコッテンパンパンにしないと! 佳奈ちゃんもいっぱい悲しい思いした被害者でしょ?」  万狸ちゃんは右手を佳奈さんに差し出す。佳奈さんも顔を上げ、その手を強く握った。 「うん。金剛ぜったい許せない! 大散減の埋蔵金、一緒にばら撒いちゃお!」  その時、ホテルロビーのからくり時計から音楽が鳴り始めた。曲は民謡『ザトウムシ』。日没と大散減との対決を告げるファンファーレだ。魔耶さんは裁判官が木槌を振り下ろすように、机にハンマーを叩きつけた! 「行ぃぃくぞおおおぉぉお前らああぁぁぁ!!!」 「「「うおおぉぉーーーっ!!」」」  総員出撃! ザトウムシが鳴り響く逢魔が時の千里が島で今、日本最大の除霊戦争が勃発する!
གཉིས་པ་
 大散減討伐軍は御戌神社へ、後女津親子と佳奈さんはホテルから最寄りの結界である石見沼へと向かった。さて、私も御戌神の居場所には当てがある。御戌神は日蝕の目を持つ獣。それに因んだ地名は『食虫洞』。つまり、行先は新千里が島トンネル方面だ。  薄暗いトンネル内を歩いていると、電灯に照らされた私の影が勝手に絵を描き始めた。空で輝く太陽に向かって無数の虫が冒涜的に母乳を吐く。太陽は穢れに覆われ、光を失った日蝕状態になる。闇の緞帳(どんちょう)に包まれた空は奇妙な星を孕み、大きな獣となって大地に災いをもたらす。すると地平線から血のように赤い月が昇り、星や虫を焼き殺しながら太陽に到達。太陽と重なり合うやいなや、天上天下を焼き尽くすほどの輝きを放つのだった……。  幻のような影絵劇が終わると、私はトンネルを抜けていた。目の前のコンビニは既に電気が消えている。その店舗全体に、腐ったミルクのような色のペンキで星型に線を一本足した記号が描かれている。更に接近すると、デッキブラシを持った白髪の偉丈夫が記号を消そうと悪戦苦闘しているのが見えた。 「あ、紅さん」  私に気がつき振り返った青木さんは、足下のバケツを倒して水をこぼしてしまった。彼は慌ててバケツを立て直す。 「見て下さい。誰がこんな酷い事を? こいつはコトだ」  青木さんはデッキブラシで星型の記号を擦る。でもそれは掠れすらしない。 「ブラシで擦っても? ケッタイな落書きを……っ!?」  指で直接記号に触れようとした青木さんは、直後謎の力に弾き飛ばされた。 「……」  青木さんは何かを思い出したようだ。 「紅さん。そういえば僕も、ケッタイな体験をした事が」  夕日が沈んでいき、島中の店や防災無線からはザトウムシが鳴り続ける。 「犬に吠えられ、夜中に目を覚まして。永遠に飢え続ける犬は、僕のおつむの中で、ひどく悲しい声で鳴く。それならこれは幻聴か? 犬でないなら幽霊かもだ……」  青木さんは私に背を向け、沈む夕日に引き寄せられるように歩きだした。 「早くなんとかせにゃ。犬を助けてあげなきゃ、僕までどうにかなっちまうかもだ。するとどこからか、目ん玉が潰れた双頭の毛虫がやって来て、口からミルクを吐き出した。僕はたまらず、それにむしゃぶりつく」  デッキブラシから滴った水が地面に線を引き、一緒に夕日を浴びた青木さんの影も伸びていく。 「嫌だ。もう犬にはなりたくない。きっとおっとろしい事が起きるに違いない。満月が男を狼にするみたいに、毛虫の親玉を解き放つなど……」 「青木さん」  私はその影を呼び止めた。 「この落書きは、デッキブラシじゃ落とせません」 「え?」 「これは散減に穢された縁の母乳、普通の人には見えない液体なんです」  カターン。青木さんの手からデッキブラシが落ちた途端、全てのザトウムシが鳴り止んだ。青木さんはゆっくりとこちらへ振り向く。重たい目隠れ前髪が狛犬のたてがみのように逆立ち、子犬のように輝く目は濁った穢れに覆われていく。 「グルルルル……救、済、ヲ……!」  私も胸のペンダントに取り付けたカンリンを吹いた。パゥーーー……空虚な悲鳴のような音が響く。私の体は神経線維で編まれた深紅の僧衣に包まれ、激痛と共に影が天高く燃え上がった。 「青木さん。いや、御戌神よ。私は紅の守護尊、ワヤン不動。しかし出来れば、お前とは戦いたくない」  夕日を浴びて陰る日蝕の戌神と、そこから伸びた赤い神影(ワヤン)が対峙する。 「救済セニャアアァ!」 「そうか。……ならば神影繰り(ワヤン・クリ)の時間だ!」  空の月と太陽が見下ろす今この時、地上で激突する光の神と影の明王! 穢れた色に輝く御戌神が突撃! 「グルアアァァ!」  私はティグクでそれをいなし、黒々と地面に伸びた自らの影を滑りながら後退。駐車場の車止めをバネに跳躍、傍らに描かれた邪悪な星目掛けてキョンジャクを振るった。二〇%浄化! 分解霧散した星の一片から大量の散減が噴出! 「マバアアアァァ!!」「ウバアァァァ!」  すると御戌神の首に巻かれた幾つもの頭蓋骨が共鳴。ケタケタと震えるように笑い、それに伴い御戌神も悶絶する。 「グルアァァ……ガルァァーーーッ!!」  咆哮と共に全骨射出! 頭蓋骨は穢れた光の尾を引き宙を旋回、地を這う散減共とドッキングし牙を剥く! 「がッは!」  毛虫の体を得た頭蓋骨が飛び回り、私の血肉を穿つ。しかし反撃に転じる寸前、彼らの正体を閃いた。 「さては歴代の『器』か」  この頭蓋骨らは御戌神転生の為に生贄となった、どこの誰が産んだかもわからない島民達の残滓だ。なら速やかに解放せねばなるまい! 人頭毛虫の猛攻をティグクの柄やキョンジャクで防ぎながら、ティグクに付随する旗に影炎を着火! 「お前達の悔恨を我が炎の糧とする! どおぉりゃああぁーーーーっ!!」   ティグク猛回転、憤怒の地獄大車輪だ! 飛んで火に入る人頭毛虫らはたちどころに分解霧散、私の影体に無数の苦痛と絶望と飢えを施す! 「クハァ……ッ! そうだ……それでいい。私達は仲間だ、この痛みを以て金剛に汚された因果を必ずや断ち切ってやろう! かはあぁーーーっはーーっはっはっはっはァァーーッ!!!」  苦痛が無上の瑜伽へと昇華しワヤン不動は呵呵大笑! ティグクから神経線維の熱線が伸び大車輪の火力を増強、星型記号を更に焼却する! 記号は大文字焼きの如く燃え上がり穢れ母乳と散減を大放出! 「ガウルル、グルルルル!」  押し寄せる母乳と毛虫の洪水に突っ込み喰らおうと飢えた御戌神が足掻く。だがそうはさせるものか、私の使命は彼を穢れの悪循環から救い出す事だ。 「徳川徳松ゥ!」 「!」  人の縁を奪われ、畜生道に堕ちた哀しき少年の名を呼ぶ。そして丁度目の前に飛んできた散減を灼熱の手で掴むと、轟々と燃え上がるそれを遠くへ放り投げた! 「取ってこい!」 「ガルアァァ!!」  犬の本能が刺激された御戌神は我を忘れ散減を追う! 街路樹よりも高く跳躍し口で見事キャッチ、私目掛けて猪突猛進。だがその時! 彼の本体である衆生が、青木光が意識を取り戻した! (戦いはダメだ……穢れなど!)  日蝕の目が僅かに輝きを増す。御戌神は空中で停止、咥えている散減を噛み砕いて破壊した! 「かぁははは、いい子だ徳松よ! ならば次はこれだあぁぁ!!」  私はフリスビーに見立ててキョンジャクを���擲。御戌神が尻尾を振ってハッハとそれを追いかける。キョンジャクは散減共の間をジグザグと縫い進み、その軌跡を乱暴になぞる御戌神が散減大量蹂躙! 薄汚い死屍累々で染まった軌跡はまさに彼が歩んできた畜生道の具現化だ!! 「衆生ぉぉ……済度ぉおおおぉぉぉーーーーっ!!!」  ゴシャアァン!!! ティグクを振りかぶって地面に叩きつける! 視神経色の亀裂が畜生道へと広がり御戌神の背後に到達。その瞬間ガバッと大地が割れ、那由多度に煮え滾る業火を地獄から吹き上げた! ズゴゴゴゴガガ……マグマが滾ったまま連立する巨大灯篭の如く隆起し散減大量焼却! 振り返った御戌神の目に陰る穢れも、紅の影で焼き溶かされていく。 「……クゥン……」  小さく子犬のような声を発する御戌神。私は憤怒相を収め、その隣に立つ。彼の両眼からは止めどなく饐えた涙が零れ、その度に日蝕が晴れていく。気がつけば空は殆ど薄暗い黄昏時になっていた。闇夜を迎える空、赤く燃える月と青く輝く太陽が並ぶ大地。天と地の光彩が逆転したこの瞬間、私達は互いが互いの前世の声を聞いた。 『不思議だ。あの火柱見てると、ぼくの飢えが消えてく。お不動様はどんな法力を?』 ༼ なに、特別な力ではない。あれは慈悲というものだ ༽ 『じひ』  ��松がドマルの手を握った。ドマルの目の奥に、憎しみや悲しみとは異なる熱が込み上がる。 『救済の事で?』 ༼ ……ま、その類いといえばそうか。童よ、あなたは自分を生贄にした衆生が憎いか? ༽  徳松は首を横に振る。 『ううん、これっぽっちも。だってぼく、みんなを救済した神様なんだから』  すると今度はドマルが両手で徳松の手を包み、そのまま深々と合掌した。 ༼ なら、あなたはもう大丈夫だ。衆生との縁に飢える事は、今後二度とあるまい ༽
གསུམ་པ་
 時刻は……わからないけど、日は完全に沈んだ。私も青木さんも地面に大の字で倒れ、炎上するコンビニや隆起した柱状節理まみれの駐車場を呆然と眺めている。 「……アーーー……」  ふと青木さんが、ずっと咥えっ放しだったキョンジャクを口から取り出した。それを泥まみれの白ニットで拭い、私に返そうとして……止めた。 「……洗ってからせにゃ」 「いいですよ。この後まだいっぱい戦うもん」 「大散減とも? おったまげ」  青木さんにキョンジャクを返してもらった。 「実は、まだ学生の時……友達が僕に、『彼女にしたい芸能人は?』って質問を。けど特に思いつかなくて、その時期『非常勤刑事』やってたので紅一美ちゃんと。そしたら今回、本当にしたたびさんが……これが縁ってやつなら、ちぃと申し訳ないかもだ」 「青木さんもですか」 「え?」 「私も実は、この間雑誌で『好きな男性のタイプは何ですか』って聞かれて、なんか適当に答えたんですけど……『高身長でわんこ顔な方言男子』とかそんなの」 「そりゃ……ふふっ。いやけど、僕とは全然違うイメージだったかもでしょ?」 「そうなんですよ。だから青木さんの素顔初めて見た時、キュンときたっていうより『あ、実在するとこんな感じなの!?』って思っちゃったです。……なんかすいません」  その時、遠くでズーンと地鳴りのような音がした。蜃気楼の向こうに耳をそばだてると、怒号や悲鳴のような声。どうやら敵の大将が地上に現れたようだ。 「行くので?」 「大丈夫。必ず戻ってきます」  私は重い体を立ち上げ、ティグクとキョンジャクに再び炎を纏った。そして山頂の御戌神社へ出発…… 「きゃっ!」  しようとした瞬間、何かに服の裾を掴まれたかのような感覚。転びそうになって咄嗟にティグクの柄をつく。足下を見ると、小さなエネルギー眼がピンのように私の影を地面と縫いつけている。 ༼ そうはならんだろ、小心者娘 ༽ 「ちょ、ドマル!?」  一方青木さんの方も、徳松に体を勝手に動かされ始めた。輝く両目から声がする。 『バカ! あそこまで話しといて告白しねえなど!? このボボ知らず!』 「ぼっ、ぼっ、ボボ知らずでねえ! 嘘こくなぁぁ!」  民謡の『お空で見下ろす出しゃばりな月と太陽』って、ひょっとしたら私達じゃなくてこの前世二人の方を予言してたのかも。それにしてもボボってなんだろ、南地語かな。 ༼ これだよ ༽  ドマルのエネルギー眼が炸裂し、私は何故かまた玲蘭ちゃんの童貞を殺す服に身を包んでいた。すると何故か青木さんが悶絶し始めた。 「あややっ……ちょっと、ダメ! 紅さん! そんなオチチがピチピチな……こいつはコトだ!!」  ああ、成程。ボボ知らずってそういう…… 「ってだから、私の体で検証すなーっ! ていうか、こんな事している間にも上で死闘が繰り広げられているんだ!」 ༼ だからぁ……ああもう! 何故わからないのか! ヤブユムして行けと言っているんだ、その方が生存率上がるしスマートだろ! ༽ 「あ、そういう事?」  ヤブユム。確か、固い絆で結ばれた男女の仏が合体して雌雄一体となる事で色々と超越できる、みたいな意味の仏教用語……だったはず。どうすればできるのかまではサッパリわかんないけど。 「え、えと、えと、紅さん……一美ちゃん!」 「はい……う、うん、光君!」  両前世からプレッシャーを受け、私と光君は赤面しながら唇を近付ける。 『あーもー違う! ヤブユムっていうのは……』 ༼ まーまー待て。ここは現世を生きる衆生の好きにさせてみようじゃないか ༽  そんな事言われても困る……それでも、今私と光君の想いは一つ、大散減討伐だ。うん、多分……なんとかなる! はずだ!
བཞི་པ་
 所変わって御戌神社。姿を現した大散減は地中で回復してきたらしく、幾つか継ぎ目が見えるも八本足の完全体だ。十五メートルの巨体で暴れ回り、周囲一帯を蹂躙している。鳥居は倒壊、御戌塚も跡形もなく粉々に。島民達が保身の為に作り上げた生贄の祭壇は、もはや何の意味も為さない平地と化したんだ。  そんな絶望的状況にも関わらず、大散減討伐軍は果敢に戦い続ける。五寸釘愚連隊がバイクで特攻し、河童信者はカルトで培った統率力で彼女達をサポート。玲蘭ちゃんも一枚隔てた異次元から大散減を構成する無数の霊魂を解析し、虱潰しに破壊していく。ところが、 「あグッ!」  バゴォッ!! 大散減から三メガパスカル級の水圧で射出された穢れ母乳が、河童信者の一人に直撃。信者の左半身を粉砕! 禍耶さんがキュウリの改造バイクで駆けつける。 「河童信者!」 「あ、か……禍耶の姐御……。俺の、魂を……吸収……し……」 「何言ってるの、そんな事できるわけないでしょ!?」 「……大散、ぃに、縁……取られ、嫌、……。か、っぱは……キュウリ……好き……っか……ら…………」  河童信者の瞳孔が開いた。禍耶さんの唇がわなわなと痙攣する。 「河童って馬鹿ね……最後まで馬鹿だった……。貴方の命、必ず無駄にはしないわ!」  ガバッ、キュイイィィ! 息絶えて間もない河童信者の霊魂が分解霧散する前に、キュウリバイクの給油口に吸収される。ところが魔耶さんの悲鳴! 「禍耶、上ぇっ!!」 「!」  見上げると空気を読まず飛びかかってきた大散減! 咄嗟にバイクを発進できず為す術もない禍耶さんが絶望に目を瞑った、その時。 「……え?」  ……何も起こらない。禍耶さんはそっと目を開けようとする。が、直後すぐに顔を覆った。 「眩しっ! この光は……あああっ!」  頭上には朝日のように輝く青白い戌神。そしてその光の中、轟々と燃える紅の不動明王。光と影、男と女が一つになったその究極仏は、大散減を遥か彼方に吹き飛ばし悠然と口を開いた。 「月と太陽が同時に出ている、今この時……」 「瞳に映る醜き影を、憤怒の炎で滅却する」 「「救済の時間だ!!!」」  カッ! 眩い光と底知れぬ深い影が炸裂、落下中の大散減を再びスマッシュ! 「遅くなって本当にすみません。合体に手間取っちゃって……」  御戌神が放つ輝きの中で、燃える影体の私は揺らめく。するとキュウリバイクが言葉を発した。 <問題なし! だぶか登場早すぎっすよ、くたばったのはまだ俺だけです。やっちまいましょう、姐さん!> 「そうね。行くわよ河童!」  ドルルン! 輩悪苦満誕(ハイオクまんたん)のキュウリバイクが発進! 私達も共に駆け出す。 「一美ちゃん、火の準備を!」 「もう出来ているぞぉ、カハァーーーッハハハハハハァーーー!!」  ティグクが炎を噴く! 火の輪をくぐり青白い肉弾が繰り出す! 巨大サンドバッグと化した大散減にバイクの大軍が突撃するゥゥゥ!!! 「「「ボァガギャバアアアアァァアアア!!!」」」  八本足にそれぞれ付いた顔が一斉絶叫! 中空で巻き散らかされた大散減の肉片を無数の散減に変えた! 「灰燼に帰すがいい!」  シャゴン、シャゴン、バゴホオォン!! 御戌神から波状に繰り出される光と光の合間に那由多度の影炎を込め雑魚を一掃! やはりヤブユムは強い。光源がないと力を発揮出来ない私と、偽りの闇に遮られてしまっていた光君。二人が一つになる事で、永久機関にも似た法力を得る事が出来る!  大散減は地に叩きつけられるかと思いきや、まるで地盤沈下のように地中へ潜って行ってしまった。後を追えず停車した五寸釘愚連隊が舌打ちする。 「逃げやがったわ、あの毛グモ野郎」  しかし玲蘭ちゃんは不敵な笑みを浮かべた。 「大丈夫です。大散減は結界に分散した力を補充しに行ったはず。なら、今頃……」  ズドガアアァァァアン!!! 遠くで吹き上がる火柱、そして大散減のシルエット! 「イェーイ!」  呆然と見とれていた私達の後方、数分前まで鳥居があった瓦礫の上に後女津親子と佳奈さんが立っている。 「「ドッキリ大成功ー! ぽーんぽっこぽーん!」」  ぽこぽん、シャララン! 佳奈さんと万狸ちゃんが腹鼓を打ち、斉一さんが弦を爪弾く。瞬間、ドゴーーン!! 今度は彼女らの背後でも火柱が上がった! 「あのねあのね! 地図に書いてあった星の地点をよーく探したら、やっぱり御札の貼ってある祠があったの。それで佳奈ちゃんが凄いこと閃いたんだよ!」 「その名も『ショート回路作戦』! 紙に御札とぴったり同じ絵を写して、それを鏡合わせに貼り付ける。その上に私の霊力京友禅で薄く蓋をして、その上から斉一さんが大散減から力を吸収しようとする。だけど吸い上げられた大散減のエネルギーは二枚の御札の間で行ったり来たりしながら段々滞る。そうとは知らない大散減が内側から急に突進すれば……」  ドォーーン! 万狸ちゃんと佳奈さんの超常理論を実証する火柱! 「さすがです佳奈さん! ちなみに最終学歴は?」 「だからいちご保育園だってば~、この小心者ぉ!」  こんなやり取りも随分と久しぶりな気がする。さて、この後大散減は立て続けに二度爆発した。計五回爆ぜた事になる。地図上で星のシンボルを描く地点は合計六つ、そのうち一つである食虫洞のシンボルは私がコンビニで焼却したアレだろう。 「シンボルが全滅すると、奴は何処へ行くだろうか」  斉三さんが地図を睨む。すると突如地図上に青白く輝く道順が描かれた。御戌神だ。 「でっかい大散減はなるべく広い場所へ逃走を。となると、海岸沿いかもだ。東の『いねとしサンライズビーチ』はサイクリングロードで狭いから、石見沼の下にある『石見海岸』ので」 「成程……って、君はまさか!?」 「青木君!?」  そうか、みんな知らなかったんだっけ。御戌神は遠慮がちに会釈し、かき上がったたてがみの一部を下ろして目隠れ前髪を作ってみせた。光君の面影を認識して皆は納得の表情を浮かべた。 「と……ともかく! ずっと地中でオネンネしてた大散減と違って、地の利はこちらにある。案内するので先回りを!」  御戌神が駆け出す! 私は彼が放つ輝きの中で水上スキーみたいに引っ張られ、五寸釘愚連隊や他の霊能者達も続く。いざ、石見海岸へ!
ལྔ་པ་
 御戌神の太陽の両眼は、前髪によるランプシェード効果が付与されて更に広範囲を照らせるようになった。石見沼に到着した時点で海岸の様子がはっきり見える。まずいことに、こんな時に限って海岸に島民が集まっている!? 「おいガキ共、ボートを降りろ! 早く避難所へ!」 「黙れ! こんな島のどこに安全が!? 俺達は内地へおさらばだ!」  会話から察するに、中学生位の子達が島を脱出しようと試みるのを大人達が引き止めているようだ。ところが間髪入れず陸側から迫る地響き! 危ない! 「救済せにゃ!」  石見の崖を御戌神が飛んだ! 私は光の中で身構える。着地すると同時に目の前の砂が隆起、ザボオオォォン!! 大散減出現! 「かははは、一足遅いわ!」  ズカアァァン!!! 出会い頭に強烈なティグクの一撃! 吹き飛んだ大散減は沿岸道路を破壊し民家二棟に叩きつけられた。建造物損壊と追い越し禁止線通過でダブル罪業加点! 間一髪巻き込まれずに済んだ島民達がどよめく。 「御戌様?」 「御戌様が子供達を救済したので!?」 「それより御戌様の影に映ってる火ダルマは一体!?」  その問いに、陸側から聞き覚えのある声が答える。 「ご先祖様さ!」  ブオォォン! 高級バイクに似つかわしくない凶悪なエンジン音を吹かして現れたのは加賀繍さんだ! 何故かアサッテの方向に数珠を投げ、私の正体を堂々と宣言する。 「御戌神がいくら縁切りの神だって、家族の縁は簡単に切れやしないんだ。徳川徳松を一番気にかけてたご先祖様が仏様になって、祟りを鎮めるんだよ!」 「徳松様を気にかけてた、ご先祖様……」 「まさか、将軍様など!?」 「「「徳川綱吉将軍!!」」」  私は暴れん坊な将軍様の幽霊という事になってしまった。だぶか吉宗さんじゃないけど。すると加賀繍さんの紙一重隣で大散減が復帰! 「マバゥウゥゥゥゥウウウ!!!」  神社にいた時よりも甲高い大散減の鳴き声。消耗している証拠だろう。脚も既に残り五本、ラストスパートだ! 「畳み掛けるぞ夜露死苦ッ!」  スクラムを組むように愚連隊が全方位から大散減へ突進、総長姉妹のハンマーで右前脚破壊! 「ぽんぽこぉーーー……ドロップ!!」  身動きの取れなくなった大散減に大かむろが垂直落下、左中央二脚粉砕! 「「「大師の敵ーーーっ!」」」  微弱ながら霊力を持つ河童信者達が集団投石、既に千切れかけていた左後脚切断! 「くすけー、マジムン!」  大散減の内側から玲蘭ちゃんの声。するうち黄色い閃光を放って大散減はメルトダウン! 全ての脚が落ち、最後の本体が不格好な蓮根と化した直後……地面に散らばる脚の一本の顔に、ギョロギョロと蠢く目が現れた。光君の話を思い出す。 ―八本足にそれぞれ顔がついてて、そのうち本物の顔を見つけて潰さないと死なない怪物で!― 「そうか、あっちが真の本体!」  私と光君が同時に動く! また地中に逃げようと飛び上がった大散減本体に光と影は先回りし、メロン格子状の包囲網を組んだ! 絶縁怪虫大散減、今こそお前をこの世からエンガチョしてくれるわあああああああ!! 「そこだーーーッ!! ワヤン不動ーーー!!」 「やっちゃえーーーッ!」「御戌様ーーーッ!」 「「「ワヤン不動オォーーーーーッ!!!」」」 「どおおぉぉるあぁああぁぁぁーーーーーー!!!!」  シャガンッ! 突如大量のハロゲンランプを一斉に焚いたかのように、世界が白一色の静寂に染まる。存在するものは影である私と、光に拒絶された大散減のみ。ティグクを掲げた私の両腕が夕陽を浴びた影の如く伸び、背中で燃える炎に怒れる恩師の馬頭観音相が浮かんだ時……大散減は断罪される! 「世尊妙相具我今重問彼仏子何因縁名為観世音具足妙相尊偈答無盡意汝聴観音行善応諸方所弘誓深如海歴劫不思議侍多千億仏発大清浄願我為汝略説聞名及見身心念不空過能滅諸有苦!」  仏道とは無縁の怪獣よ、己の業に叩き斬られながら私の観音行を聞け! 燃える馬頭観音と彼の骨であるティグクを仰げ! その苦痛から解放されたくば、海よりも深き意志で清浄を願う聖人の名を私がお前に文字通り刻みつけてやる! 「仮使興害意推落大火坑念彼観音力火坑変成池或漂流巨海龍魚諸鬼難念彼観音力波浪不能没或在須弥峰為人所推堕念彼観音力如日虚空住或被悪人逐堕落金剛山念彼観音力不能損一毛!!」  たとえ金剛の悪意により火口へ落とされようと、心に観音力を念ずれば火もまた涼し。苦難の海でどんな怪物と対峙しても決して沈むものか! 須弥山から突き落とされようが、金剛を邪道に蹴落とされようが、観音力は不屈だ! 「或値怨賊繞各執刀加害念彼観音力咸即起慈心或遭王難苦臨刑欲寿終念彼観音力刀尋段段壊或囚禁枷鎖手足被杻械念彼観音力釈然得解脱呪詛諸毒薬所欲害身者念彼観音力還著於本人或遇悪羅刹毒龍諸鬼等念彼観音力時悉不敢害!!」  お前達に歪められた衆生の理は全て正してくれる! 金剛有明団がどんなに強大でも、和尚様や私の魂は決して滅びぬ。磔にされていた抜苦与楽の化身は解放され、悪鬼羅刹四苦八苦を燃やす憤怒の化身として生まれ変わったんだ! 「若悪獣囲繞利牙爪可怖念彼観音力疾走無辺方蚖蛇及蝮蝎気毒煙火燃念彼観音力尋声自回去雲雷鼓掣電降雹澍大雨念彼観音力応時得消散衆生被困厄無量苦逼身観音妙智力能救世間苦!!!」  獣よ、この力を畏れろ。毒煙を吐く外道よ霧散しろ! 雷や雹が如く降り注ぐお前達の呪いから全ての衆生を救済してみせよう! 「具足神通力廣修智方便十方諸国土無刹不現身種種諸悪趣地獄鬼畜生生老病死苦以漸悉令滅真観清浄観広大智慧観悲観及慈観常願常瞻仰無垢清浄光慧日破諸闇能伏災風火普明照世間ッ!!!」  どこへ逃げても無駄だ、何度生まれ変わってでも憤怒の化身は蘇るだろう! お前達のいかなる鬼畜的所業も潰えるんだ。瞳に映る慈悲深き菩薩、そして汚れなき聖なる光と共に偽りの闇を葬り去る! 「悲体戒雷震慈意妙大雲澍甘露法雨滅除煩悩燄諍訟経官処怖畏軍陣中念彼観音力衆怨悉退散妙音観世音梵音海潮音勝彼世間音是故須常念念念勿生疑観世音浄聖於苦悩死厄能為作依怙具一切功徳慈眼視衆生福聚海無量是故応頂……」  雷雲の如き慈悲が君臨し、雑音をかき消す潮騒の如き観音力で全てを救うんだ。目の前で粉微塵と化した大散減よ、盲目の哀れな座頭虫よ、私はお前をも苦しみなく逝去させてみせる。 「……礼ィィィーーーーーッ!!!」  ダカアアアアァァアアン!!!! 光が飛散した夜空の下。呪われた気枯地、千里が島を大いなる光と影の化身が無量の炎で叩き割った。その背後で滅んだ醜き怪獣は、業一つない純粋な粒子となって分解霧散。それはこの地に新たな魂が生まれるための糧となり、やがて衆生に縁を育むだろう。  時は亥の刻、石見海岸。ここ千里が島で縁が結ばれた全ての仲間達が勝利に湧き、歓喜と安堵に包まれた。その騒ぎに乗じて私と光君は、今度こそ人目も憚らず唇を重ね合った。
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kurihara-yumeko · 3 years
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【小説】The day I say good-bye (2/4) 【再録】
 (1/4) はこちらから→(https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/646094198472409089/)
 昼休みの時間は、嫌いだ。
 窓の外を見てみると、名前も知らない生徒たちが炎天下の日射しの中、グラウンドでサッカーなどに興じている。その賑やかな声が教室まで聞こえてきていた。
 いつの間にか、僕は人の輪から逸脱してしまった。
 あーちゃんが死んでからか、それ以前からそうだったのかはもうよく覚えていない。もう少し幼かった頃、小学生だった頃は、クラスメイトたちとドッヂボールをしたり、放課後に誰かの家に集まって漫画を読んだりゲームをしたりしていた。そうしなくなったのは、いつからだったのだろう。
 教室にいると周囲のクラスメイトたちがうるさい。グラウンドに出てもすることがない。図書室へ行くと根暗ガリ勉ばかりがいるから気が引ける。今日は日褄先生が学校に来ている日だから相談室へ顔を出してみるのもいいけれど、どうせどこかのクラスの女子たちが雑談しに来ているのだろうから、却下。
 どうしてあっちにもこっちにも人がいるんだろう。学校の中だから、当たり前なんだけど。
「――先輩、」
 居場所がないので廊下をふらふらと歩いて校舎内を徘徊していたら、声をかけられた。名前を呼ばれたような気がしたけれど、よく聞き取れない。僕のことかな、と思って振り向くと、顔も名前も知らない女子がそこに立っていた。僕を「先輩」と呼んだということは、一年生だろうか。
「あの、私、一年三組の佐渡梓っていいます」
 サワタリがハワタリに聞こえて、「刃渡り何センチなの?」なんて一瞬訊きそうになる。ぼーっとしていた証拠だ。
 三つ編みの髪に、ピンク色のヘアピンがひとつ留まっている。女子の髪留めは黒か茶色じゃなきゃ駄目だと校則で決められていなかったか。自分に関係のない女子の服装や髪型に関する規則なんて、おぼろげにしか覚えていないけれど。
「あの、これ、読んで頂けませんか」
 差し出されたのは、ピンク色の小さな封筒だった。
「今?」
「いえ、その、今じゃなくて、お時間がある時に……」
「そう」
 後から考えれば、それは受け取るべきじゃなかった。断るべきだった。なのに受け取ってしまったのは、やっぱり僕がそれだけぼんやりしていたってことなのだろう。
 僕が受け取ると、彼女は顔を真っ赤にしてぺこぺこ頭を下げて、廊下を小走りに走り去って行った。一体、なんだったのだろう。受け取った封筒を改めてよく見てみると、
「あ、」
 丸みを帯びた文字で書かれた僕の名前の漢字が間違っている。少し変わった名前なので、珍しいことではない。
 差出人の欄に書かれた「佐渡梓」の文字を見ながら、一年三組の者だと彼女が言っていたことを思い出す。部活にも委員会にも所属していない僕に、後輩の知り合いはいない。小学校が同じだった後輩に何人か顔と名前をぼんやり記憶している人はいるけれど、それさえも曖昧だ。一体彼女はどういう経緯で僕のことを知り、この手紙を渡してきたんだろう。
 こういう手紙を女子からもらうことは、初めてではなかった。手紙を渡された理由は悪戯だったり本気だったり諸々あったけれど、もらった手紙の内容はどれも似たり寄ったりで、目を通したところでこれといって面白いことは書いてない。
 何かの機会に僕のことを知り、「一目惚れ」というやつを体験し、そうして会話をしたこともない僕となんとか近付きたくてこの手紙を書く。
 よくわからない。こんなものは、よくわからない。誰かを好きだという、そんなものは、僕にはよくわからない。
 受け取るのを断れば良かったな。僕はそう思った。この手紙が読まれないと知ったら、彼女は悲しいだろうか。
 僕はひとりで廊下を歩き続け、階段を降り、誰もいない西日の射し込む昇降口のゴミ箱に封も切らずに手紙を捨てた。宛名や差出人を誰かに見られては困るので、ゴミ箱の奥の方へと押し込んだ。
 昼休みももうすぐ終わる。掃除の時間になれば、誰かがこのゴミ箱の中身を袋にまとめてゴミ捨て場まで運んでくれるんだろう。誰の目に触れることもなく、誰にも秘めた想いを届けることができないまま、ただのゴミになる。
 それでいい。こんなものは、ゴミだ。
 読まなくてもわかる。僕は誰かが期待するような人間じゃない。きみが思うような僕じゃない。
 保健室に行こうかな。僕はそんなことを考える。
 保健室登校児の河野ミナモは、今日もひとりでベッドの上、スケッチブックに絵を描いているだろう。僕が顔を出したら、「また邪魔者が来た」という表情をするに違いない。でもそれでもいい。保健室へ行こう。他にもう行く場所もないし、あと少しの時間潰しだ。
 それに、僕なんて、どうせこの世界には邪魔なんだから。
    夏休みは特に何事もなく時間だけが過ぎ、気だるい二学期が始まった。
 始業式の後、下校しようと下駄箱へ向かうと僕の靴の中に小さな紙切れが入れられており、それには佐渡梓からの呼び出しを示す内容が記されていた。
 誰もいない体育館裏、日陰のひんやりとしたコンクリートの上に腰を降ろして待っていると、ホームルームが長引いたのだという彼女が慌てたようにやって来た。
「すみません、遅れてしまって……」
「いや」
「あの、夏休み前にお渡しした手紙、読んで下さいましたか?」
「いや」
「……え?」
 恥ずかしそうな彼女の笑顔が凍りつく。
「読んで、ない?」
「読んでないよ」
「……あの、先輩、今、お付き合いされている方がいらっしゃるんですか?」
「いない」
「なら、好きな人がい��っしゃる?」
「いないよ」
「じゃ、じゃあ、どうして……」
 どうして読んで下さらなかったのですか、とでも言いたかったのだろうか。半開きの彼女の口からはそれ以上何も聞こえてこなかった。
 ということはやはり、あの手紙は「そういう」内容だったんだろう。実は手紙を捨てた後、全く見当違いの内容の手紙だったらどうしようと、捨てたことを少しだけ後悔していたのだ。
「悪いけど、好きだとかそういうの、下らないからやめてくれる?」
 僕がそう言うと、彼女はきょとんとした顔をした。
 きょとんとした顔。表情から恥ずかしそうな笑顔が完全に消える。全部消える。消失する。消滅する。警告。点滅する。僕の頭の中の危険信号が瞬いている。駄目だ。僕は彼女を傷つける。でも止められない。湧き起こる破壊衝動にも似たこの感情は。真っ黒なこの感情は。僕にも止めることができない。
「興味ないんだ、恋愛に」
 僕はこういう人間なんだ。
「あときみにも興味がない。この先一生、きみを好きになることなんてないし、友達になる気もない」
 僕はきみが好きになるような人間じゃないんだ。
「僕に一体どんな幻想を抱いているのか知らないけど、」
 僕は他人が好いてくれるような人間じゃないんだ。
「僕のこと好きだとか、そういうの、耳障りなんだよ。何を勝手なことを言ってるのって感じがして」
 僕は。
 僕は僕は僕は僕は僕は。
 僕は透明人間なんです。
「僕のことだって、何も、」
 知らないくせに。
「やめて……」
 消え入りそうな小さい声に、僕は我に返った。
「もう、やめて下さい……」
 彼女は泣いていた。そりゃそうだ。泣くだろう。一瞬でも、たとえ嘘でも、好きになった相手に、面と向かってこんな風に言われたのだから。
「すみませんでした……」
 涙を零したまま深く頭を下げて、彼女は体育館裏から走り去っていった。僕はただその背中を見送る。それから不意に、全身の力が抜けた。
 コンクリートの上に背中から倒れ込む。軽く後頭部を打ち付けたが気にしない。
 どうしてだろう。どうして僕は……。こんなにも、どうして。どうして。どうして、どうして、どうして、どうして、どうして。
「は、はは……」
 自分でも驚くくらい乾いた笑い声が口から漏れた。
 どうして、僕は嘘をつかないと、こんなにもひどいことを言ってしまうんだろう。
 嫌になる。まるで嘘をつかないと僕が嘘みたいだ。本当の気持ちの方が嘘みたいだ。作り物みたいだ。偽物みたいだ。僕なんかいない方がいい、嘘をつかない僕なんて、死んだ方がいいんだ。
 自己嫌悪の沼に落ちかけた時、よく知っている、ココナッツの甘いにおいが漂ってきて、僕は思わず目を見張った。
「よぉ、少年」
 こちらを見下ろすように、いつもの黒い煙草を咥えた日褄先生が立っていた。
「……見てたんですか、さっきの」
「隠れて煙草吸おうと思ってたら誰かが来るもんだから、慌てて隠れたのよ。そしたらなんだか見覚えのある少年で」
「学校の敷地内は禁煙ですよ」
「ここの空気は涼しくて美味しいよ」
「先生が咥えてるそれから出ているのはニコチンです」
「せんせーって呼ぶなって何度言わせる気だよ」
 先生は僕の隣に腰を降ろした。今日も彼女は黒尽くめだ。
「ちょうど良かった、少年に渡そうと思ってさ」
 差し出されたのは、見覚えのあるピンク色の封筒。僕は反射的に起き上がった。
「なんで、それを――」
 咄嗟に伸ばした僕の手をひらりとかわして、先生は封筒をひらひらと振る。
「宛名と差出人が一目瞭然なもの、ゴミ箱に捨てるなよなー」
「ゴミ箱に捨てたものを拾ってこないで下さい。ゴミを漁るなんて、いい大人のすることじゃないでしょう」
「もらったラブレターを読まずに捨てるなんて、いい男がすることじゃないよ」
 頭を抱えた。信じられない。一ヶ月以上前に捨てたものが、どうして平然と僕の目の前にあるんだ。
「拾ってほしくなかったら、学校内で捨てることは諦めるんだな」
 再度差し出されたそれを、今度は受け取る。僕の名前が間違って書かれた宛名。間違いない、あの��彼女が僕に手渡し、読まずに捨てたあの手紙だ。僕が深い溜め息をつくと、先生は煙を吐き出してから言う。
「他人からの好意を、そんな斜に構えることはないだろう。礼のひとつくらい言っておけば、相手も報われるもんだよ」
「……僕にそんなこと期待されても困るんですよ」
「今からでも、読んでやれば?」
 先生はそんなことを言って、その後煙草を二本も吸った。
    夏が終わると、なんだか安心してしまう。
 夏は儚い。そして、醜い。道路に転がる蝉の抜け殻を見る度にそう思う。
 その死骸も、ほんの数日経たないうちに、もっと小さい生き物たちの餌食となる。死骸を食べるなんて、と思いかけて、僕が今朝食べたものも皆死骸なんだと気付く。死を食べて僕は生きている。
 もしかしたらあーちゃんも、もう何かに食べられてしまったのかもしれない。
 あーちゃんの死が、誰かを生かしているのかもしれない。
「……これはなんの絵?」
「エレファントノーズ」
「えれふぁんと? 象のこと?」
 僕がそう訊き返すと、河野ミナモは面倒臭そうに言った。
「魚の名前」
「へぇ……。知らなかった」
 不細工な顔をした魚だな、と思い、「国語の定男先生に似ているね」と言おうとして、ミナモが一度も教室で彼を見たことがないということを思い出した。言葉を飲み込む。
「この、鼻っぽいのは鼻なの?」
「魚に鼻なんてある訳ないじゃん」
「じゃあ、これ何?」
「知らない」
 ミナモはいつも通りぶっきらぼうで無愛想だ。
 ベッドの脇の机に広げた真っ白なままの画用紙に目を向けることもなく、自分のスケッチブックに不気味な姿をした生き物の姿を描き続けている。
「河野、説明したと思うけど、」
 机を挟んだ向かいに座って僕は言う。
「悪いんだけど、夏休みの課題を手伝ってくれないかな」
「いいけど、絵画の課題だけね」
「下書きからやってもらってもいいかな」
「その方が私も楽。誰かさんの描いた汚い絵に色塗るなんて、苦痛」
 そう言いながらも彼女は定男先生によく似た魚の絵を描くその手を休めない。と、彼女の三白眼が僕の方を見た。
「で? なんの絵?」
「テーマは、夏休みの思い出」
「どんな思い出?」
「特にない」
 前髪の下に隠されたミナモの双眸が鋭く尖ったような気がした。
「なんの絵を描けっていう訳?」
「なんでもいいよ、適当に、僕の過去を捏造して下さい」
「…………」
 ミナモはしばらく黙って僕を睨んでいたけれど、僕が前言を撤回しないでいるとやがてスケッチブックを傍らに置き、小さな溜め息をひとつついて白い画用紙と向き合い始めた。
 僕はミナモと違って、絵を描くのが苦手だ。夏休み中にやってくるように、と出された絵画の課題は、後回しにしているうちに二学期が始まってしまった。それでもまだやる気が目を覚ますことはなく、にも関わらず教師には早く提出するようにと迫られてたまったものではないので、仕方なくミナモに助けを請うことにした。彼女が快く引き受けてくれたのが嘘みたいだ。
 ミナモが画用紙に何やら線を引き始めたので、僕はすることがなくなった。いつもはなんてことのない雑談をするけれど、話しかけることもできない。自分から課題を手伝ってくれと頼んだので、邪魔をする訳にもいかないからだ。
 夏休みを明けてもミナモは相変わらずで、日に焼けていなければ髪も伸びていない。痩せた身体と土気色の顔は、食事をろくに摂っていないことが窺える。まだ暑い時期だというのに、夏服の制服の上には灰色のカーディガンを羽織っていた。彼女が人前で素肌を晒すことはほとんどない。長く伸ばされた前髪も、最初は目元を隠すためかと思っていたが、どうやら真相は違うようだ。
「ラブレター」
 僕が黙っていると、唐突にミナモはそう言った。
「ラブレター、もらったんでしょ」
「え?」
「後輩の女の子に、ラブレターもらったんでしょ」
「……なんで、知ってるの?」
「日褄先生が言ってた」
 あのモク中め、守秘義務という言葉も知らないのか。
「――くんはさ、」
 画用紙に目線を落としたまま、こちらを見向きもしないミナモが呼んだ僕の名前は、どういう訳か聞き取れない。
「他人を好きにならないの?」
「好きにならない、訳じゃないけど……」
「そう」
 今までは慎重に線を引いていたミナモの鉛筆が、勢いよく紙の上で滑り始める。本格的に下書きに入ってくれたようで僕は安堵する。
「河野はどうなの」
 ラブレターのことを知られていた仕返しに、僕は彼女にそう尋ねてみた。
「私? 私は人を好きにはならないよ」
 ミナモは迷うことなくそう答えた。
「人間は皆、大嫌い。皆、死んじゃえばいいんだよ」
 ぺきん、と軽い音がした。
 鉛筆の芯が折れたようだ。ミナモはベッドの枕元を振り返り、筆箱の中から次の鉛筆を取り出した。
「皆、死んじゃえばいい」、か……。彼女は以前も、同じようなことを言っていたような気がする。僕とミナモが初めて出会った、あの生温い雨の日にも。
 それにしても、日褄先生も困ったものだ。僕が読まずに捨てたラブレターを拾ってくるだけではなく、ミナモに余計なことまで教えやがって。今度、学校の敷地内で喫煙していることを教師たちにばらしてしまおうか。
「あ、」
 新しい鉛筆を手に、ミナモが机に向き直った時、その反動でベッドの上にあったスケッチブックが床へと落ちた。中に挟まっていたらしい紙切れや破られたスケッチがばらばらと床に散らばる。
「いいよ、僕が拾うから」
 屈んで拾おうかと腰を浮かしかけたミナモにそう言って、僕は椅子から立ち上がってそれらを拾い始めた。
 紙には絵がいくつも描かれていた。春の桜、夏の向日葵、秋の紅葉、冬の雪景色。鳥、魚、空、海。丁寧に描き込まれた風景の数々は、恐らく、全てミナモが描いたものだろう。保健室で一日じゅう白い紙と向き合って、彼女はこんな風景を描いていたのか。彼女がいるベッドからは決して見ることができない世界。不思議なことに、どの絵の中にも人間の姿は描かれていない。
 ふと、僕は一枚の絵に目を止めた。紙いっぱいに広がる、灰色の世界。この風景は、見たことがある。他の絵とは異なり、これは想像して描いたものではないことがわかる。
 ぱっと横から手が出てきて、僕の手からその絵を奪い去った。見れば、ミナモが慌てた様子でその絵を僕に見せまいと胸に抱いていた。
「これは、ただの落書き」
 他の絵とたいして変わらない筆致で描かれたその絵も、やはり丁寧に描き込まれているように見えたけれど。僕はそれには何も言わず、全て拾い集めてからミナモに絵の束を渡した。彼女はそれを半ばひったくるように受け取ると、礼を言うこともなくスケッチブックに挟めて仕舞う。
 僕はあの絵を知ってい��。あの風景を知っている。日褄先生も、あーちゃんも、あの景色を見たことがあるはずだ。
 あーちゃんが飛び降りた、うちの中学の屋上から見た風景。
 僕とミナモが出会った屋上から見える景色。
 灰色に塗り潰されたその絵は、あの日の空と同じ色だった。
    河野ミナモは、小学校を卒業する頃、親の虐待から逃れるためにこの街へ引っ越してきた。
 今は親戚の元で暮らしながら学校に通っている。彼女にとっては、たとえ教室まで行くことができなくとも、毎日保健室に来ていること自体が大変なことのはずだ。
「――くんは、」
 放課後の保健室。
 ミナモが描き始めた僕の絵画の課題は、まだ下絵も終わりそうにない。
 彼女は僕に言う。
「やっぱり、市野谷さんのことが好きなの?」
「……え?」
 本気でミナモに訊き返してしまった。彼女は何も言わず、画用紙に向かっている。
 市野谷さん?
 市野谷さんって、ひーちゃん?
 僕が、ひーちゃんのことを好き?
「……なんで、そう思うの」
「――くんは、市野谷さんのために生きてるんだと思ってたから」
 僕の分まで生きて。僕は透明人間なんです。
 あーちゃんの遺書の言葉が、脳裏をよぎる。
 なんのために生きているのか。自問の繰り返し。答えは見つからないから、自問、自問、自問。この世界で、あーちゃんが死んでひーちゃんが壊れたこの世界で、どうして僕は生きているんだろう。
 嘘ばかりついて。嘘に染まって。嘘に汚れて。そのうち自分の存在までもが、嘘のような気がしてしまう。僕なんか嘘だ。
 ひーちゃんを助けるつもりの嘘で、余計に苦しめて。
 それでも僕が、ひーちゃんのために生きている?
 ひーちゃんのため? 「ため」って、なんだよ。
 僕がひーちゃんに何をしてあげられたって言うんだ。
 僕がひーちゃんに何をしてあげられるって言うんだ。
 嘘をつくしかできなかった僕が、どうしたらひーちゃんを救えるって言うんだ。
 僕じゃない。僕じゃ駄目だ。必要なのは僕じゃない。それはいつだって、あーちゃんだった。ひーちゃんの全部はあーちゃんが持っている。僕じゃないんだ。
 あーちゃんは、透明人間なんかじゃない。本当に透明人間なのは、ひーちゃんにとって必要じゃないのは、僕の方だ。
 僕は。
 僕は僕は僕は僕は僕は。
 僕は必要になんかされていない。
「河野、」
「なに」
「あの時、僕は、」
「うん」
「河野にいてほしくなかったよ」
「そう」
「河野に、屋上に来てほしくなかった」
「でしょうね」
 ああ、また僕は、上手に嘘がつけない。
 そんな僕をまるで見透かしているかのように、ミナモは言う。
「だってあなたは、死のうとしていたんだものね」
 死にたがり屋と死に損ない。
 去年の春、あの雨の日。
 ミナモが描いていたのとそっくり同じ、灰色の景色。
 いつもの自傷癖で左手首に深い傷を作ったミナモが保健室を抜け出し辿り着いた屋上で出会ったのは、誰かと同じようにそこから飛び降りようとしていたひとりの男子生徒。
 それが、僕。
 雨が髪を濡らし、頬を伝い、襟から染み込んでいった。僕らをかばってくれるものなんてなかった。
 僕らはただ黙ってお互いと向かい合っていた。お互い何をしようとしているのか、目を見ただけでわかった。
「死ぬの?」
 先に口を開いたのは、ミナモだった。長い前髪も雨に濡れて顔に貼り付いていて、その隙間から三白眼が僕を睨んでいた。
「落ちたら、死ぬよ」
 言葉ではそう言いながらも、どこか投げやりなその口調を今も覚えている。僕の生死なんて微塵も気にかけていない声音だった。
「きみこそ、それ、痛くないの」
 彼女の手首を一瞥してからそう返した僕の声は震えていた。ミナモが呆れたように言った。
「あなただって、その手首の傷、痛くないの?」
 そう、僕もその時、ちょうどミナモと同じところから血を流していたのだ。
「それよりも、そこから落ちた方が痛いと思うけど」
 彼女にそう言われて、そうか、と僕は思う。きっとあーちゃんも痛かっただろうと思いを巡らせる。
「それは、止めてるの?」
「止める? どうして? あなたが死んで私に何かあるの?」
 ミナモはその日も無愛想だった。
「死んだ方がいい人間だって、いるもの」
 交わした言葉はそれだけだった。それきり、ミナモは僕に何も言わなかった。ただそこに立っていただけだ。彼女にしてみれば、僕がそこから飛び降りようが降りまいが、どうでも良かったに違いない。実際彼女は、僕には心底興味もなさそうに屋上から見える景色に目を凝らしていた。
 飛ぼうと思えばいつだって飛べたはずなのに、その日、僕は自殺することを諦めた。
 そしてそれ以来、屋上のフェンスの外側へは一度も立っていない。
 ミナモのスケッチブックに挟まっていたあの絵は、あの日彼女が見た風景だった。そうして、今、ミナモが画用紙に描いているのも、やっぱり――。
「なに泣いてるの。馬鹿みたい」
 涙でぐちゃぐちゃに歪んだ視界の中、白い画用紙に描かれていたのは、やはりあの屋上の風景だった。空を横切る線は、飛行機雲だろうか。
 僕はあーちゃんと飛ばした紙飛行機のことを思い出して、込み上げてきた涙を堪え切れずに零してしまう。
 ミナモは心底呆れたように、「泣き虫」と僕を罵った。
   「えーっと……」
 僕が提出した画用紙を前に、担任は不思議そうな顔をしていた。
「これは、なんの絵なんだ?」
 ミナモが描いてくれた僕の夏休みの課題の絵は、提出期限を二週間も過ぎてから完成した。ミナモが下書きしてくれた時点では素晴らしい絵画だったのだけれど、僕が絵具で着色したら、これが新しい芸術なのだと言わんばかりの常識はずれな絵になってしまった。もはや、ミナモの下書きの影もない。
「まぁいいか。二学期は美術の授業を頑張った方が良さそうだな」
 担任はそう言い残して職員室へと去って行く。
 これで、僕の夏休みの課題は全て提出されたことになる。少なからずほっとした。
 夏休みが明けても、教室の中は相変わらずだ。ミナモも、ひーちゃんも、教室に来ていない。二人の席は今日も空席で、いつものように違う誰かが周辺の席の生徒とお喋りする時の雑談場所にされている。そんなクラスメイトたちを見やり、やっぱり僕は、あいつらと友達になれそうにない、と思う。
 僕は教室を出て、体育館の裏へと向かった。
 今朝、僕の下駄箱に紙が入れてあった。
「今日の昼休み、体育館裏に来てくれませんか」という文字が記してある。差出人の名前はない。書き忘れたのだろうか、それとも伏せたのだろうか。しかし、名前がなくても字でわかる。見たことのある字だ。
 そう、僕は読んだのだ。一度は捨てたあの手紙を。どうってことのない内容だった。手紙を書いて、それでも僕にまだ、話したいことがあるんだろうか。
 ざくざくと砂利を踏みながら向かうと、既に彼女は僕を待っていた。やっぱり佐渡梓だった。こんなところに僕を呼び出す人なんて、学校じゅうで彼女しかいない。
「……どうも」
 なんて声をかけるか悩んで、僕は結局そう言った。「こんにちは」とどこか強張った表情で彼女が返事をする。
「何か僕に用事?」
「あの……」
 彼女は今日もピンク色のピンを髪に挿している。
「先輩は、保健室の河野先輩とお付き合いされているのですか?」
「……は?」
「あ、いえ、その……一緒にいらっしゃるところをよく見かけると、友人が言っていたので、気になってしまって……」
 僕の表情を見て、彼女は慌てたように両手を顔の前で振った。
 僕がミナモと付き合っている、だって?
 僕が? ミナモと?
 ――やっぱり、市野谷さんのことが好きなの?
 当のミナモには最近、そう尋ねられたばかりだというのに。全く、笑ってしまいそうになる。それにしても、「保健室の河野先輩」なんて、ひどい呼び方だ。
「付き合って、ないけど」
 意地悪するつもりはなかった。不必要に人を傷つける趣味がある訳じゃない。でもその時、僕が尖った言い方をしようと決めたのは、そう言った時に彼女がどこか嬉しそうな顔をしたからだった。
「付き合ってなかったら、なんなの」
 そう口にした途端、彼女の表情が暗くなる。それでも僕はやめなかった。
「先に言っておく。きみとは付き合わないから。それと、こういうことでいちいち呼び出されるのは迷惑。やめてくれないかな」
 傷ついた顔。責めたいなら、責めればいいだろ。罵ればいいだろ。嫌いになればいいだろ。けれど彼女は、何も言わなかった。泣きはしなかったものの、「すみませんでした」と頭を下げ、うつむいたまま足早に去っていった。
 本当に、これだけのことのために、僕を呼び出したのだろうか。
 彼女は一体、なんなのだろう。僕のことが好きなのだろうか。好きだなんて、笑わせる。僕の何がわかるっていうんだ。僕の何を見て好きだっていうんだ。何も知らないくせに。僕がどんな人間なのかも知らないくせに。僕が今、一体どんな気持ちできみと向き合っているのか、そんなことさえ、わからないくせに。
「あーあ、かわいそー」
 ぎょっとした。
 頭上、ずいぶん高いところから声が降ってきた。
 思わず見上げると、体育館の二階の窓からひとり、こちらへ顔を出している男子がいる。見覚えのない顔だった。僕はクラスメイトの顔さえ覚えていないけれど、そいつの顔は本当に見た記憶がない。視線を絡ませたまま、どうしようかと思っていると、そいつがにやりと笑った。
「ひでぇ振り方」
 ピンで留められた茶色っぽい前髪、だらしなく第二ボタンまで開けられたワイシャツ。そいつは見た目同様に、軽そうな笑い声をけらけらと上げている。
「あんな言い方はねぇんじゃねーの、あれじゃ立ち直れないじゃん」
 彼女を気遣うような言葉だったが、その声音に同情の色は全く滲んでいなかった。口にしてはいるものの、興味も関心もなさそうだ。
「……盗み見なんて、趣味が悪いんじゃない?」
 僕が二階からこちらを見ているそいつの耳にも聞こえるように、少し声を張り上げてそう言うと、そいつはぱっちりとした目をさらにまん丸くして僕を見た。
「あー、わりぃ。ここで涼んでたら、お前らが来たもんだから」
 悪気があるようには見えない言い訳をされた。なんだこいつ。
 僕が立ち去ろうと歩き出すと、そいつはまた声をかけてきた。
「なーなー、あんた、――くんだろ?」
 僕の名前を呼んだような気がしたが、遠いからか聞き取れない。
「ちょっとそこで待っててよ、今そっち行くからさ。うちの、ミナモの話もしたいし」
「…………え?」
 今、一体何を。
 再び顔を上げると、そいつはもう体育館の中へと頭を引っ込めていて、もう見えなかった。
 うちの、ミナモ?
 ミナモって、あの、河野ミナモ?
 あいつ、もしかして……��
「河野の、身内なのか……?」
 体育館裏の砂利の上、僕は立ち尽くしていた。
 ついさっき、二階の窓から顔を覗かせていた男子は「うちの、ミナモ」と確かに言った。あいつは河野ミナモと何か関係があるんだろう。
 やつは僕の名前を知っていた。だが僕はやつの名前を知らない。知らないはずだ。記憶を探る。あんなやつ、うちのクラスにはいなかった。廊下や校庭ですれ違っていたとしても、口を利いたのは初めてのはずだ。
「おー、わりーな、呼び止めて」
 やつは体育館の正面玄関から出てきたのか、体育館用のシューズのまま砂利の上を小走りで駆けてきた。
 何か運動でもしていたのだろうか、制服の白いシャツはボタンが留められておらず、裾はズボンから飛び出している。白と黒の派手なTシャツが覗いていた。昼休みに運動部が練習をする場合は体操着に着替えることが決められているから、恐らく運動部ではないか、もしくは部活中という訳ではなかったようだ。腰までずり下げられたズボンは、鋲の付いた派手な赤色のベルトでかろうじて身体に巻きつけられている。生徒指導部に見つかったら厳重注意にされそうな恰好だ。僕はこういう人間が、正直あまり好きではない。
「あんた、二組の――くんだろ?」
「そうだけど……」
「俺は二年四組の河野帆高。よろしくな、――くん」
 二年四組。やはり、こいつは僕のクラスメイトではなかった。同じ学年だが、その名前も知らない。いや、知らないけれど、どこかで聞いたことがあるような気もする。一体いつ耳にした名前なのかはすぐには思い出せそうにない。
 それよりも、河野。ミナモと同じ姓だ。
「河野ミナモと、親戚?」
「そ。ミナモは俺のはとこ。今は一緒に俺の家で暮らしてる」
 やつはあっさりとそう明かす。
 ミナモのはとこ。
 彼女が今、親戚の家で暮らしていることは知っていた。だがミナモの口から、身を寄せた親戚宅で一緒に暮らしているはとこが同じ学年にいることは聞いたことがなかった。
「……本当なんだよな?」
 僕がそう疑うと、やつは笑みを浮かべた。それは苦い笑みだった。
「やっぱり、話してないんだな。俺たち家族のことは」
「……河野はあまり、自分のことは話さないよ」
 保健室のベッドで一日じゅう、絵を描いて過ごしているミナモ。こちらがいくら声をかけても、返す言葉はいつも少ない。僕は何度も保健室を訪れ、言葉を交わしているからまだ会話をしてもらえるというだけだ。彼女に口を利いてもらえる人は、学校の中でも少数だろう。
 そうだ、日褄先生。彼女も先生とは、多少言葉を交わしていたような気がする。
「――くんにすら話してないってことは、他の誰にも話してないんだろうな。そりゃ、俺との関係が知られてなくて当然か」
「……僕以外の人には話しているかもしれないけどね」
 僕はミナモの人間関係まで把握はしていない。僕が知らないところで誰か親しくしている人がいたっておかしくはないはずだ。だけどやつは首を横に振った。
「そんなこと��ないと思うな。あんたが一番、ミナモと仲良さそうだもん」
 ――先輩は、保健室の河野先輩とお付き合いされているのですか?
 佐渡梓の言葉が耳の中で蘇る。そう疑われるほど、僕とミナモは親しげに見えるのだろうか。
 僕が黙っていると、やつは続けて言う。
「あいつ全然喋らないんだよ。俺が話しかけても無視されるばっかりでさ。もう一年も一緒に暮らしてるのに、一言も口利いたことないよ、俺」
 ミナモは家でも口を利かないのだろうか。
 彼女の口数が少なく無愛想なのは、決して彼女が性悪だからではない。ミナモは人と関わるのが怖いのだ。対人恐怖症、とまではいかないが、なかなか他人と打ち解けることができない。なんだかんだ一年の付き合いになる僕とでさえ、彼女は目を合わせて会話することを嫌っている。
「なぁ、俺と友達になってよ」
「……は?」
 唐突な言葉に、思わずそう訊き返してしまった。さっきまで苦笑いしていたはずのやつは、いつの間にかにやにやとした顔で僕を見ていた。
「ミナモと話せるあんたに興味があってさ」
「……僕はあんたに、興味ないけど」
「ははは、さっきもあんたが女の子振るとこ見てたけど、やっぱり手厳しいねー」
 軽薄な笑い声。こいつの笑い方はあんまり好きになれそうにない。
「まぁそう言わずにさー、俺と仲良くしてくんねーかなー? どうやったらミナモと打ち解けられるのかとか、知りたいし」
 なんだか厄介なやつに捕まってしまったかもしれない。いつもならこんな軽そうなやつは適当にあしらっているのだけれど、今回ばかりはそうもいかない。ミナモが関係しているとなると、僕もそう簡単に無下に扱うことはできないのだ。
「……まぁ、いいけど」
 僕が渋々そう頷くと、やつはその顔ににっこりとした笑みを浮かべる。裏があるのではないか、と疑ってしまうような、あまりにも軽々と浮かべられた笑顔だった。
「あ、今、もしかしてミナモが関わってるから、仕方なくオッケーしてくれた感じ?」
 にっこりした笑顔のまま、やつは鋭いことを言った。鈍いやつではないらしい。見た目は軽薄そうなやつだけれど、頭が悪い訳ではないようだ。
「言っておくけど俺、ミナモのこと抜きにしても、――くんに興味あるよ」
 やつはさっきから何度も僕の名前を呼んでいるようだけれど、何故だか僕の耳にはそれが上手く聞き取れない。
「僕に、興味がある?」
「そ。あんたさ、知ってるんだろ? 一年前にこの学校で自殺したやつのこと」
 どくん、と。
 僕の胸の奥で嫌な予感がした。
 一年前にこの学校で自殺したやつとは、あーちゃんのことだ。
 今まで、あーちゃんの死のことをここまであからさまに誰かに言われたことはなかった。
 僕らがこの中学に入学する一ヶ月前に亡くなったあーちゃんについて、学校側も僕らに対しては詳しい説明をしていない。
 いや、たとえどこかであーちゃんの死についてきちんとした説明がされていたとしても、どうしてこいつは僕のことを知っている? どうして僕とあーちゃんのことを知っているんだ?
 やつは変わらず笑みを浮かべている。
 体育館裏に吹く風は涼しい。まだ暑さの残るこの時期に、日陰で受ける風の心地よさはなおさらだ。だけれど僕はその風を浴び、思わず歯を食い縛った。
 厄介なやつに関わってしまったと、確信しなくてはいけなかった。
    図書館へ行って、去年の新聞が綴じられているファイルを手に取った。
 空いていた席に腰掛け、テーブルの上に分厚いそのファイルを広げる。
 あーちゃんの命日の新聞を探し、そこから注意深く記事に目をやりながら紙をめくっていく。
 新聞なんて普段読まないから、どこをどう見ればいいのかわからない。見出しだけを拾うようにして読んでばさばさとめくる。どうせ、載っているとしたら地域のニュースの欄だ。そう当たりをつけて探す。
 そして見つけた。
『またも自殺 十二歳女子 先日の自殺の影響か』
 そんな見出しで始まるその記事は、あーちゃんの命日から八日経った新聞に載っていた。
 その記事は、僕の通った小学校の隣の学区で、一週間前にその小学校を卒業した十二歳の女子児童が飛び降り自殺をした、という内容だった。生きていれば、僕と同じ中学に進学していたはずの児童だ。もしかしたら、同じクラスだったかもしれない。
 女子児童は卒業後、教室に忘れ物をしているのを担任に発見され、春休み中に取りに来るように言われていた。その日はそれを取りに来たという名目で小学校を訪れ、屋上に忍び込み、学校裏の駐車場めがけて身を投げた。屋上の鍵は以前から壊れており、児童は立ち入り禁止とされていた。
 彼女は飛び降りる前、自分が六年生の時の教室にも足を運んでいた。教卓の上には担任宛て、後ろのロッカーの上には両親宛て、そして机ひとつひとつにその席に座っていたクラスメイトひとりひとりに宛てた、遺書を残していた。
 そうして、黒板には、
『私も透明人間です』
 という文字が残されていた。
 女子児童の担任がクラス内からいじめの報告を受けたことはなく、彼女は真面目で大人しい児童だった、と記事には書かれているが、そんなものはあてにならないので僕は信じない。僕だって、死んだら「真面目で大人しい生徒」と書かれるに決まっている。
 記事はその後、女子児童が自殺する一週間前、近隣の中学校で男子生徒がひとり自殺していることを挙げ、つまりは、あーちゃんの自殺が影響しているのではないかとしていた。自分が春から在籍することになる中学校で起きた自殺の話だ、この女子児童だってあーちゃんの死を耳にしていたはずだ。
 僕は透明人間なんです。 
 あーちゃんの言葉を思い出す。「私も透明人間です」と書き残した、女子児童のことを思う。「私も」ということは、やっぱりあーちゃんの言葉に呼応した行動なんだろう。
 あーちゃんの自殺のニュースを聞いて、同じような言葉を残し、自殺した女の子。
 もしかしたら、と僕は思う。
 もしかしたら、ひーちゃんの記事が、ここに載っていたかもしれない。
 いや、ひーちゃんだけじゃない。この新聞には、僕の記事が載るかもしれなかった。
 僕が、死んだという記事が。
 たまたま、この子だった。この女子児童の記事だった。死んだのはひーちゃんでも僕でもなく、この子だった。
 そんなものだ。僕たちの存在なんて。たまたま、僕がここにいるだけなんだ。代わりなんて、いくらでもいる。
 新聞のファイルを元通り棚に戻し、僕は図書館を出た。
 出たところで、ぎょっとした。
 図書館の前には、黒尽くめの大人が立っていた。黒尽くめの恰好をよくしているのは日褄先生だ。けれど、日褄先生ではない。その人は男性だった。
 オールバックの長髪に、吊り上がった細い眉。鷲鼻、薄い唇、銀縁眼鏡。袖がまくられて剥き出しになった左腕には、葵の御紋の刺青。そうしてその左手には、薬指がない。途中からぽっきり折れてしまったかのように、欠けている。
 そんな彼と目が合った。切れ長の双眸に見つめられても、咄嗟に名前が出て来ない。この男性を僕は知っている。日褄先生とよく一緒にいる、名前は確か……。
「葵、さん?」
 日褄先生が彼を呼んでいた名前を思い出してそう呼ぶと、彼は目を丸くした。どうやら、僕は彼のことを認識しているが、彼は僕のことがわからないらしい。「どうしてこの子供は俺の名前を知っているんだろうか」と言いたげな表情を、ほんの一瞬した。
「えっと、僕は、日褄先生にお世話になっている……」
「あれ? 少年じゃん」
 僕が自分の身分を説明しようとした時、後ろからそう声をかけられて振り向いたら、そこには日褄先生が数冊の本を抱えて立っていた。やはり今日も、黒尽くめだ。
「図書館で会うの初めてじゃん。何してるの? 勉強?」
「いえ、ちょっと調べたいことがあって……」
 僕の脳裏を過る、新聞記事の見出し。
 日褄先生は、知っているんだろうか。
 あーちゃんの死を受けて、同じように自殺した女の子がいたことを。
 尋ねてみようと思ったが、やめた。どうしてやめたのかは、自分でもわからない。
「へー、調べものか。お前アナログだなー、イマドキの中学生は皆ネットで調べるだろうにさ」
「先生は、本を借りたんですか」
「せんせーって呼ぶな��てば。市野谷んち行ってきた帰りでさ、近くまで来たからこの図書館にも来てみたんだけど、結構蔵書が充実してんのね」
「ひーちゃんの家に、行ってきたんですか」
「そ。まぁ、いつも通り、本人には会わせてもらえなかったけどね」
 日褄先生は葵さんと僕とを見比べた。
「葵と何しゃべってたの?」
「いや、しゃべってたっていうか……」
 たった今会ったばかりで、と言うと、日褄先生は抱えていた本を葵さんに押し付けながら、
「葵はあんま喋らないし、顔が怖いから、あたしの受け持ってる生徒にはよく怖がられるんだよねー。根はいいやつなんだけどさ」
 嫌そうな顔で本を受け取っている葵さんは、さっきから一言も発していない。僕は彼の声を聞いたことがなかった。
 薬指が一本欠けた、強面の彼が一体何者なのか、僕は知らない。けれど、ない薬指の隣、中指にある黒い指輪は、日褄先生が左手の中指にいつもしている指輪と同じデザインだ。
 この二人は、強い絆で結ばれている関係なのだろう。
 お互いを必要としている関係。
 僕はほんの少し、先生が羨ましい。
「少年は、もう帰るの? 今日は葵の運転で来てるから、家まで送ってあげようか?」
 僕はそれを丁重にお断りさせて頂いて、日褄先生と葵さんと別れた。
 頭の中では声が幾重にもこだましていた。聞いたはずはないのに、それはあーちゃんの声だった。
「僕は透明人間なんです」
「私も透明人間です」
   「あー、そうだよ、そいつそいつ」
 河野帆高は軽い口調でそう肯定した。
「屋上から飛び降りて、教室にクラス全員分の遺書残したやつ。ありゃ、正直やり過ぎだと思ったねー」
 初めて会ったのと同じ、昼休みの体育館裏。
 やつは昼休みに友人とバスケットボールをするのが日課らしい。僕がやつの姿を探して体育館を訪れると、やつの方が僕に気付いて抜け出してきた。
 ――あんたさ、知ってるんだろ? 一年前にこの学校で自殺したやつのこと。
 僕と初めて会った時、やつは僕にそう言った。
 そして続けて言ったのだ。
「俺の友達も死んだんだよね。自殺でさ。あんたの友達の死に方を真似したんだよ」
 だから僕は図書館で調べた。
 あーちゃんの自殺の後に死んだ、女子児童のことを。
 両親と担任、そしてクラスメイト全員に宛ててそれぞれ遺書を残し、卒業したばかりの小学校の屋上から飛び降りた彼女のことを。
「その子と、本当に仲良かったの?」
 僕が思わずやつにそう尋ねたのは、彼女の死を語るその口調があまりにも軽薄に聞こえたからだ。やつは少しばかり、難しそうな顔をした。
「仲良かったっていうか、一方的に俺が話しかけてただけなんだけど」
「一方的に、話しかけてた?」
「そいつ、その自殺したやつ、梅本っていうんだけどさ、なーんか暗いやつで。クラスでひとりだけ浮いてたんだよね」
 クラスで浮いている女の子にしつこく話しかけるこいつの姿が、あっさりと思い浮かんだ。人を勝手に哀れんで、「友達になってやろう」と善人顔で手を差し伸べる。僕が嫌いなタイプの人間だ。
「まぁ俺も、クラスで浮いてた方なんだけどね」
 やつは、ははは、と軽い笑い声を立ててそう言った。そうだろうな、と思ったので僕は返事をしなかった。
「梅本も最初は俺のことフルシカトだったけど、だんだん少しは喋ってくれるようになったり、俺といると笑うようになったりしてさ。表情も少しずつ明るくなってったんだよ。だから、良かったなぁって思ってたんだけど」
 だが彼女は死んだ。
「私も透明人間です」と書き残して。
「梅本は俺のこと、ずっと嫌いだったみたいでさ。あいつが俺に宛てた遺書、たった一言だけ『あんたなんて大嫌い、死んじゃえ』って書いてあってさ」
 あんたなんて大嫌い、死んじゃえ。
「それ見た時は、まじでどうしようかと思ったよ」
 やつは笑う。軽々しく笑う。
「なんつーの? 心の中にぽっかり空洞ができちゃった感じ? しばらく飯も食えなかったし夜も眠れねーし、俺も死のうかなーとか思ったりした訳よ」
 まるで他人事のように、やつは笑う。
「ちょうどミナモがうちに来た頃で、親はミナモの対応にあたふたしてたし、俺のことまで心配されたくないしさ。近所のデパートの屋上に行ってはぼーっと一日じゅう、空ばっかり眺めてた。梅本はどんな気持ちだったのかなーって。俺を恨んだまま死んだのかなーって。俺にはなんにもわかんねーなーって」
 僕は透明人間なんです。
 そう書き残して死んだあーちゃんは、一体どんな気持ちだったのだろう。
「中学入学してさ、俺もまぁそこそこ元気にはなったけど、なーんか変な感じなんだよなー。人がひとり死んだのにさ、なーんにも変わんねーのな。梅本なんてやつ、最初からいなかったんじゃねぇのくらいの感じでさ。特にあいつは友達が少なかったみたいだから、俺と同じ小学校からうちの中学きたやつらもたいして気にしてねーって感じだったし。『あいつって自殺とかしそうな感じだったよな』とか言ってさー」
 私も透明人間です。
 そう書き残して死んだ彼女は、あーちゃんの気持ちが少しは理解できたのだろうか。
「おれもそのうち、『梅本? あー、そんなやついたなー』ぐらいに思うようになんのかなーって思ってさ。逆に、『もし俺が死んでも、そんな風になるんじゃねー?』とかさー」
 世界は止まらない。
 常に動き続けている。
 誰がいようと、誰がいまいと。あーちゃんが欠けようと、ひーちゃんが歪んでいようと。ひとりの女子児童が自殺しようと。それを誰かが忘れようと。それを誰かが覚えていようと。
「でもそう考えたらさ、あの『大嫌い、死んじゃえ』って言葉にも、もしかしたらなんか意味があるんじゃねーかとか思ってさ。自分のこと忘れてほしくなくて、わざとあんなひでーこと書いたのかなとか。まぁ、俺の勘違いっつーか、そう思いたいだけなんだけど。そもそも遺書なんて、一通あれば十分じゃね? それをわざわざクラスメイト全員に書くってさ、どう考えてもやり過ぎだろ。しかもほとんど喋ったこともない相手ばっかりなのにさ。それってやっぱ、『私のことを忘れないでほしい』っていうメッセージなのかなーって思ってみたりしてさ」
 僕は透明人間なんです。
 私も透明人間です。
 私のこと、忘れないでね。
「そう考えたらさ、いや、俺の思い込みかもしんないけど、そう考えたら、ちゃんと覚えててやりてぇなーって思ってさ。あいつがそこまでして、残したかった物ってなんだろうなーって」
「……どうしてそんな話を、僕にするんだ?」
「あんたなら、この気持ちわかってくれんじゃねーかなっていう期待、かなー」
「知らないよ、お前の気持ちなんて」
 僕がそう言うと、やつは少し驚いた顔をして、僕を見た。
 他人の気持ちなんて、僕にはわからない。自分の気持ちすらわからないのに、そんな余裕はない。
 だいたい、こいつは人の気持ちを自分で決めつけているだけじゃないか。梅本って女子児童が、こいつに気にかけてもらって嬉しかったのかもわからないし、どんな気持ちで遺書に「あんたなんて大嫌い、死んじゃえ」と書いたのかもわからない。
 こんな話をされて、僕が同情的な言葉をかけるとでも思っているのだろうか。そんなことを期待されても困る。
 でも。
 でも、こいつは。
「あーちゃんの自殺のこと、どこまで知ってる?」
 僕がそう尋ねると、やつは小さく首を横に振った。
「一年前、この学校の二年生が屋上から飛び降り自殺をした、遺書には『僕は透明人間です』って書いてあった。それくらいかな」
「遺書には、その前にこう書いてあったんだ。『僕の分まで生きて』」
 やつは、しばらくの間、黙っていた。何も言わずに座っていたコンクリートから立ち上がり、肩の力を抜いたような様子で、空を見上げていた。
「嫌な言葉だなー。自分は死んでおいてなんて言い草だ」
 そう言って、やつは笑った。こいつは笑うのだ。軽々と笑う。
 人の命を笑う。自分の命も笑う。この世界を笑っている。
 だから僕はこいつを許そうと思った。こいつはたぶんわかっているのだ。人間は皆、透明人間なんだって。
 あーちゃんも、ひーちゃんも、お母さんもお父さんも兄弟も姉妹も友達もクラスメイトも教師もお隣さんもお向かいさんも、僕も、皆みんな、透明人間なんだ。あーちゃんだけじゃない。だからあーちゃんは、死ななくても良かったのに。
「あんたの気持ち、わかるよ」
 僕がそう言った時、河野帆高はそれが本来のものであるとでも言うような、自然な笑みを初めて見せた。
※(3/4) へ続く→(https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/648720756262502400/)
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kachoushi · 3 years
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各地句会報
花鳥誌令和3年2月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和2年11月4日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
柿の村皆同姓の十戸かな 世詩明 時雨るや鯖江は橋の多き町 ただし 脱がされし菊人形の薫りけり 同  紅の雲の棚引く崩れ簗 同  ここからは一人でゐたい十三夜 秋子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年11月5日 うづら三日の月句会 坊城俊樹選 特選句
最果ての北の海より冬に入る 喜代子 秋晴に喜寿の体背伸びせん 同  落葉焚き黒き煙りの後白く 同  冬めくや手に息かけて背をまるめ さとみ 雨音もそれらしき音冬に入る 都   良き日よと地蔵微笑む小春かな 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年11月5日 さざれ会
木の葉髪お粥嫌ひは母似とも 雪   月上り来て万葉の月見石 同  四方の風四方にみだれて秋桜 匠   花の守る岩佐又兵衛墓に石蕗 数幸 園児等の声に色づく榠樝の実 和子 巫女一人ぽつんと座る神の留守 啓子 行く秋や足羽に眠る夫の墓所 笑
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令和2年11月6日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
鴨来たる巡礼のごと湖に下り 都   露天湯の頭上ゆらりと初紅葉 すみ子 遠巻きに棕櫚剥ぐを見る車椅子 幸子 木洩れ日を残して発たれ神の旅 悦子 此処もまた日溜りの椅子黄落期 都   どんぐりの打つ音の善し帽の縁 宇太郎 遠山にあえかなる日や初時雨 美智子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年11月7日 零の会 坊城俊樹選 特選句
海猫帰るために汽笛の響くかな 三郎 瓦斯燈の昔へ落葉踏みながら 光子 万国旗揺らさぬやうに神渡  久   朱雀門肌やはらかく神迎へ 三郎 赤いバス白い巨船も冬帝の遊び 順子 冬帝の過ぎるや小船きしませて 小鳥 麗人よ冬靴大きすぎはせぬか 公世 纜の過去を流して冬に入る 三郎 浜風の手首に触れて冬に入る 小鳥 フィアットを皮手袋で埠頭まで いづみ
岡田順子選 特選句
港町初凩の吹く番地 荘 吉 海月とも舎利とも沈む今朝の冬 俊樹 啄木鳥やわが郷愁の奥処より 公世 標的は船首に立てる皮ジャンパー いづみ タグボートの波にて洗ふ冬の岸 眞理子 冬浅きナイフの音を立てし皿 久   冬鴉とは姑娘を嫉妬せり 俊樹 枯蔦へ古き楔へとほり雨 光子 冬が来し港に船を見送れば はるか 汽笛吸うて海黒々と冬に入る 眞理子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年11月9日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
見据ゑたる鷹の視点の空遠き 秋尚 枯葉舞ふ径学食へ急ぐ径 あき子 枯葉舞ふこの先通り抜け禁止 有有 急降下一直線に鷹の影 秋尚 残照にしがみつきたる枯葉かな 有有 獰猛と記さる鷹の淋しき眼 三無 冬構大仰なほど周到に あき子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年11月9日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
信州の雲の中より林檎落つ 世詩明 天に星地に満天星つつじ燃ゆ 信子 小春日や臍見せ給ふ観世音 世詩明 庭下駄をあたためてゐる冬日かな 昭子 少年と岬鼻に舞ふ鷹仰ぐ 同  松手入れして青空へ引き渡す 信子 神の留守拍手の音の虚ろなる みす枝 行く秋の沖を指す舟帰る舟 清女 秋愁に横たふ夫は卒寿なる さよ子 霜月や日本海の色鈍し 久子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年11月10日 萩花鳥句会
秋惜しみ老後を惜しみ苦吟の夜 祐子 ボール蹴り落葉と遊ぶスニーカー 美恵子 落葉掃く心の荷物はふり投げ 陽子 久々に子と過ごす日々冬ぬくし ゆかり 苔むしし石灯籠や石蕗の花 克弘
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令和2年11月10日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
落涙も乾きたるかな小鳥来る 紀子 小春日や見返り阿弥陀拝観す みえこ 日本海黒光りして冬立てり 令子 黄昏や背中寂しき落葉道 実加 眠る子の時間ゆつくり小六月 同  静かなる朝さくさくと落葉踏む 紀子 早起きの母を手助け冬菜畑 登美子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年11月13日 芦原花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
柱時計止つたままに冬きざす 孝子 鰤起こし息子買ひきしカップ酒 寛子 ぬきん出て躑躅の奥の冬薔薇 よみ子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年11月14日 札幌花鳥会 坊城俊樹選 特選句
初雪に老いの決意のあらたなる 独舟 水底に青空沈め冬たてり 同  蔦紅葉めらめら大樹登りゆく 美江 小春日や誘ひ出したき車椅子 同  冬に入る暗さの雲となりにけり 清   晩年をさらに孤独にマスクして 同  バスを待つ親子を包む木の葉雨 晶子 海光を宥め賺して冬耕す 岬月 風除を突き破りたる怒濤かな 同  冬眠の噴水かこむベンチかな 豊作 小春日や膝に針穴写真集 慧子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年11月14日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
雲幾重風のきままよ芭蕉の忌 美枝子 俳句の目持ち旅に出で芭蕉の忌 瑞枝 蒼穹の臍となりける木守柿 光子 茎漬や茶は熱く濃く夜半の飯 同  熟る郁子の紫映ゆる玻璃戸かな 三無 耳動く猫と小春を頒け合ひぬ ゆう子 句碑温め遍し多摩の小六月 百合子 散りゆけるものに紛れて冬の蝶 光子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年11月15日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
神の旅見送る西に消ゆるまで 久子 だるまさんがころんだ銀杏散りつづく 千種 剥落の幹に小春の水かげろふ 斉   元禄の立膝仏へ落葉積む 慶月 綿虫の朝日散らしてさ迷へる 秋尚 泣き声の遠くにありて空高し 幸子 その下に影を吊して吊し柿 千種 朴落葉蹴りて砕きし罪重し 三無
栗林圭魚選 特選句
神の旅見送る西に消ゆるまで 久子 黄落の激しき静寂くり返す 千種 空と樹の十一月がやはり好き 幸子 冬ぬくし髪に宿りし日の砕片 ゆう子 山茶花や噂話が通り過ぐ 千種 機関車の缶に冬蝶縋りをり 幸風 冬の蜂如雨露の口に来て休む 久子 落葉道抜けて燿ふ母の塔 幸風
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年11月16日 伊藤柏翠俳句記念館 坊城俊樹選 特選句
曼珠沙華咥へて君を驚かす 雪   北風吹く越前岬海猫帰る ただし 雲水の跣足で駆ける初時雨 同  花八ツ手雨戸締めたるままの家 清女 日和得て足長く翔つ冬の蜂 同  うかつにも短き秋を逃しけり 和子 内蔵に何か貯め込み暮の秋 同  冬めくや北前船の大錨 月惑 秘め事の一つや二つ木の葉髪 英美子 時雨雲はりつき初める日本海 かづを
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年11月18日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
クリームをつけて大根洗ひたる 世詩明 大根を洗ふ女ら尻向けて 同  能登半島かき消す時化や神の旅 千代子 和紙を貼り手遊びの箱小六月 昭子 マント着て父は時をり夢にくる 令子 犬の声重くて遠し冬の夜 同  亡き人をなつかしみゐるつはのはな 同  うかうかと道にまどふも小六月 よしのり 墓訪へば石蕗の浄土に入りにけり 数幸 黄を尽くし紫尽くし枯るるもの 雪   待ち人の訪るるごと初時雨 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年11月21日 鯖江花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
死ねばそれ迄の事よと螻蛄の鳴く 雪   蓬けたる芒を風の素通りす 同  石蕗の花より生れきし番蝶 信子 今日一と日神の子となる七五三 同  露の世の日光月光菩薩かな ただし 黄落やピンヒール行く音楽堂 上嶋昭子 愛すべき俗物集ひ薬喰ひ 同  白といふ豊かなる色菊人形 中山昭子 晩学や粧ふ山を範として 一涓 闇汁の何とらへしや女の座 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年11月25日 花鳥月例会 坊城俊樹選 特選句
神木の銀杏落葉の無尽かな 政江 黄落の骨董市の調べかな みもざ セーターに黒いクルスの祈り架け 順子 ハシビロコウの直立不動憂国忌 公世 歳市のいかがはしさを売る子供 公世 冬帝の指呼に配られたる香具師ら 順子 音深き方の落葉を踏みにけり 秋尚 帯解やわづかに父を遠くして 千種 何も無き冬空やがて白き鳩 和子 朴落葉大往生でありにけり 公世
岡田順子選 特選句
蓮枯れて水漬くかたちを晒したる 要 歳市のいかがはしさを売る子供 公世 根の国に恋ふ人ありや紅葉落つ 圭魚 手触れたきかの狼のたなごころ 公世 小春日や得体の知れぬ骨董屋 月惑 裏門の無垢の落葉を衛士の踏む はるか 花八手見ゆる一ト間に巫女の昼 梓渕 あの空に触るる銀杏は黄葉せり 俊樹 黄落や黄色だらけと子が父に 和子
栗林圭魚選 特選句
神木の銀杏落葉の無尽かな 政江 すずしろの首の蒼白一葉忌 公世 大綿や土の匂ひを纏ひつつ 炳子 黄の帽子冬を掴みて走り出す ゆう子 帯解やわづかに父を遠くして 千種 祀らるる兵の数ほど銀杏散る 梓渕 黄落にセーラー服のひるがへる はるか
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年11月26日 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
幸せの皺を増やして木の葉髪 喜和 杣人に神の高さの銀杏散る 成子 ふつくらと媼座はりて胡麻叩く 佐和 まだ熱を蓄へ普賢岳眠り初む 洋子 根深提げ鞄を持たぬ暮しかな 伸子 黄落を踏みゆく人と掃く人と かおり 北窓を塞ぎ夜明けは訪れず 愛   木の葉髪家居の好きで遊び下手 光子 本屋の灯また一つ消ゆ獺祭忌 千代 海哭きて榾火に明かき老の顔 桂   木偶の衣の一糸ほぐれし寒さかな 洋子 霜夜更く鬼も天女も鬼子母神 伸子 罪人の離島へクリスマスローズ 愛   マスクしてうはさ話をする女 ひとみ 前衛の画風守りて木の葉髪 かおり 手品師のやうな黄落きりもなく 久美子 北塞ぎては鳴り止まぬ古時計 愛   人住まぬ生家に灯る返り花 由紀子 文化の日誉められしこと在りや無し 豊子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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hananien · 4 years
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【/D】テーブルクロスの下で
AU、モブ×ディーン、モブ視点。8500字くらい
兄弟は少年(S10/D14くらい)。ジョンがいなくなり、里親に引き取られている。わるいソーシャルワーカーとわるい里親に搾取されるディーン。気づかないサム。
以前「誰にもいわないで」という話をアップしましたがあの設定で書きたかったのがコレです。でももう別物です。。
気味の悪い話です。
 人の家に招待されるのは慣れているが今回は特別だった。イドリスは今にも吐きそうな気分で塗装のはげたインターフォンに指を伸ばした。何十年も前に取り換え工事をしたのか古い配線がスイッチのすぐ側にぶら下がっている。その黒ずんだスイッチを見ていると腹の具合がますます悪くなる気がする。普段の彼ならこれに触れるくらいなら一晩の飯くらい喜んでキャンセルするだろう。今回は特別なのだ。  ベルが鳴ってすぐに見知った顔が彼を迎えた。この家の家主ではないがイドリス��招待した男だ。人好きのする丸顔。清潔そうな金��色の口ひげを蓄えた、評判のいいソーシャルワーカーだ。イドリスは常々、恵まれない少年たちに対する彼の情熱と行動力に感心していた。今ではその感心は尊敬の念にまで達している。  「ようこそ。よく来てくれました」 ニックというその男はにこやかに挨拶をして、イドリスの上着と帽子を預かった。コートハンガーにはすでに重そうな上着が数枚かかっていた。イドリスは自分が最後の訪問者になったことに怯んだが、少しほっとした。というのも家の内装が外見といくらも変わらない古ぼけて汚らしいものだったからだ。ドアの前に敷かれたマットなど、うっかり踏もうものなら何百年もの間蓄えた埃と靴裏の糞を巻き上げそうだ。なかなか立派なシャンデリアや装飾額の絵画などもあるが、どれも埃のかぶった蜘蛛の巣に覆われている。長居はしたくない家だ。  ところがダイニングルームに入ると景色が一変した。部屋が明るい。広さはそれほどなく、八人掛けの長テーブルが置かれていてそれででいっぱいの印象だ。着席していた三人の男たちが一斉にこちらを見たので、イドリスはいつも通りの愛想笑いで会釈をして、ニックに示された席に腰を下ろした。清潔でシミひとつ見えない白いテーブルクロスと同じ刺繍をされたカーテンが、通りに面している六角形の窓を外界の視線から守っている。床は椅子が滑りやすい板張りで、埃ひとつ落ちていなかった。まるでここだけが他の家のように美しい。  「ようこそ、校長先生」 上座の男がいった。「アンドリュー・リックスです。あなたをご招待できて光栄です。こちらはアデリ保安官」 左手に座る男が小さく手をあげた。「こちらはキンツル医師」 右手の男が頷いた。  「こちらこそ、ご招待に預かりまことに光栄です」 イドリスは椅子を引き直した。滑りがよくてテーブルに腹がくっつきそうになり、足を踏ん張って少し戻す。向かいの席に座ったニックが自分に声をかけたことを後悔していたらどうしようと思ったが、ちらりと見た彼の顔には、新参者に対する期待と、これからの楽しい時を想像させるような高揚感の色があるだけで、ほっとする。「わ、私は、ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、この地区の学校の校長をしていまして……」  とつぜん、みんなが笑いだした。イドリスはぎくっとしたが、それは緊張がほどけるような和やかな笑いだった。「いや、いや。あなたのことはよく知っていますよ」 グレーの髪を短く刈った、おそらくはもう六十代になるだろうに、若々しい印象のキンツル医師が手を伸ばしてきた。「イドリス・ウエイクリング校長。私の孫が来年転入予定です。よかったら目をかけていただきたいね」  「ああ、それは、ぜひとも」 あわてて手をつかみ、握手をする。  「私も先生のことはよく存じ上げています。一緒にコンビニ強盗を追いかけたでしょう? 忘れてしまった?」 アデリ保安官にも握手を求められる。ぱりっとしたクリーム色のシャツの肩がはち切れそうな体格の良い男だ。イドリスは日に焼けて皺の深い彼の顔をまじまじと見つめ、もうすいぶんと昔の記憶がよみがえってくるのを感じた。「――ああ! あの時の! あれはあなたでしたか、保安官!」  遠い未知の世界に飛び込んでいくものとばかり思っていたのが、あんがい近しいコミュニティの男たちに歓迎されていると実感し、イドリスの腹の具合はとてもよくなった。  「さて、そろそろ始めましょうか。お互いのことを知るのは食事をしながらでもできますしね」 家主のリックスが手を一度叩いた。「さあ、おいで」  暖炉の影からゆらりと人が現れて初めて、イドリスは少年がずっとそこにいたことに気が付いた。  少年のことは、当然イドリスは知っていた。彼の学校に通う問題児として有名な子だ。イドリスがこの集まりに参加する気になったのも、彼の学校以外の態度に興味があったからだ。  しかし、当の彼を見るまでは、信じられなかった。ソーシャルワーカーのニックは彼を”とても従順”だと評したが、イドリスはそれは自分を不道徳な会へ引きずり込むための方便だとすら思った。学校での彼を見るに、とても”従順に”扱えるとは思えなかった。ニックは彼の舌のテクニックの上手さを声高にセールスしたけれど、イドリスは自分の大事な持ち物を咥えさせるのは不安だった。部下の教員が暴れる彼を抑えようとして二の腕を噛まれ、一か月も包帯を巻いて出勤したことを思うと震えが走る。それでも断らなかったのはこの少年が非常に端整な見目をしているからで、よしんば暴れる彼を押さえつける役として抜擢されたのだとしても、そうして嫌がる彼が弄ばれるのを見ることができれば上々と思ったからだ。  それがどうだ。ここにいる少年は、学校での彼とは別人のようだった。高い襟のボタンを上まで留めてまっすぐに立つ彼は若木の天使のように静かだ。  「ディーン、お前ももう腹がぺこぺこだろう。今日は先生もいらしてる。ご挨拶して、準備にかかりなさい」  「はい、おとうさん」  リックスの言葉に従順に頷くと、なんと彼はそのまま、”おとうさん”と呼んだ者の唇にキスをした。それが終わると、きちんとアイロンのかかったハンカチをズボンのポケットから出して、ていねいに口をぬぐった。そしてまた、今度はリックスの隣に座る保安官に「こんばんは、ようこそ、アデリ保安官」とあいさつすると、白い手で保安官の頬を包み、ちゅっとキスをしたのだった。  唐突に始まったショーに、イドリスはすっかり動揺し、その動揺を表に出さないよう必死に尻の穴を引き締めた。少年ディーンは、順当に隣のニックにもキスしたあと、やはりていねいに口をぬぐい、イドリスの横に立った。  「こんばんは、ようこそ、ウエイクリング校長先生」  「こんばんは」 だれも返事をしなかったのに、とっさに挨拶を返してしまい、まずいのかと思ったが、慌てて周りをみると、みな微笑ましい様子で見守っているだけだった。  「エヘン――」 気恥ずかしさに咳をしていると、するりと手が伸びてきて、頬を少年の手で包まれた。くるなと思った時には、もう柔らかい唇が触れていた。  小さなリップ音とともに唇は離れた。手が離れていくときに親指がやさしくもみあげを撫でていった気がした。イドリスがぼうっとしているあいだにディーンは自分の唇の始末を終え、最後のキンツル医師にも挨拶とキスをした。  最後にディーンは、それまで口をぬぐってきたハンカチで自分の目を覆い、頭の後ろで結んだ。  「さ、それではお楽しみください」 リックスの言葉が合図だったかのように、さっとしゃがむと、ディーンの姿はそれきり消えた。  キンツル医師が親切そうにほほ笑んで家主とイドリスの顔を交互に伺い見る。「アンドリュー、今日は彼は初めてだから……」  「ああ、そうか! ルールを説明しておりませんでしたな。先生、これは実に紳士的でシンプルな約束です。ディーンを呼ぶ時は足を使ってください。届かないからといって、靴を脱いで飛ばすのはなし。ディーンが怪我をしてしまうし、誰かが準備万端のアソコをむき出しにしてたら大変なことになるでしょう?」 ハッハッハッと、陽気に笑う。「基本的には終わるまでディーンはやめませんが、あまり長いと他のみなさんが不満になるので、私のほうで様子を見てやめさせることもあります。今まであったかな、そういうの?」  「ないよ、ない。だって十分だってもたない」 ニックが自分のことのように誇らしげに、自信たっぷりにいう。「ディーンはすごい。今までの子で一番だ。僕らはいまや、彼にすっかり飼いならされてるよ」  「その通りだ」  「たいした子だよ」 医師も保安官も笑い合って頷く。  「だれにもついていないのに、呼んでもすぐに来ないこともある。そういう時、彼は休憩中だから、少し待ってやってくれ」  「あとはサムだ」  「そう、サムだ。校長先生、サムのことは知っていますよね?」  「ああ、ええ。ディーンの弟でしょう。四歳下の。知っていますよ、教員が言っていました。学校でも二人はいつも一緒だそうです」  「サムがこの部屋にいる時は、最中だったらいいんだが、そうでなければサムがいなくなるまで待ってあげたほうがいい」  「サムがこの部屋に?」  イドリスは驚いた。この会合のあいだ、この部屋へは不道徳な合意を果たした者だけしか入れないものだと思っていた。  しかし、リックスは平然とした顔で頷いた。「ええ、彼には給仕を任せていますから」  「大丈夫ですよ、難しく考えなくとも」 キンツル医師がイドリスのほうへ首を傾けてささやく。「皿が空く直前に呼んでしまえばいいんです。サムが給仕しているあいだは特に良くてね。タイミングを教えてあげますよ」  リックスがみなに確認する。「では?」  三人の客がダン、と一斉に床で足を鳴らした。それと一息空けて、リックスが手元のベルを鳴らす。イドリスは少し様子をみることにした。テーブルクロスは床まで長さがあり、その中でディーンがどのような動きをしているか、まったくわからない。そもそも、ほんとうに彼はいるのだろうか? 男たちはテーブルの端に手をついて上半身をゆらゆら揺らしている。顔だけは澄ましてテーブルの上の蝋燭や果物を見つめているのが気色がわるく、たまらなく愉快だ。ここにいるのはいずれも地元の名士たちで、その彼らがダイニングルームで食事を待ちながら、クロスの中で足をバタバタと動かして少年を自分のほうへ引き寄せようとしているなんて。  イドリスは興奮しすぎて足を床から離せなかった。何とか自分もと、震える膝を持ち上げたとき、その膝にするりと手が置かれた。  「あっ」 と思わず声を上げてしまい、慌てて同士たちを見回す。彼らの顔に理解が浮かんだ。おそらくは、ルールの中に”クロスの下で行われていることなどないような顔をすること”も含まれているんだとイドリスは想像したが、彼が新参者だから大目にみてくれているのか、不届き者を見る目つきの者はいなかった。ただ少し残念そうな表情を浮かべて、みな背もたれに背を預けた。  こうなれば自分は見世物だ。イドリスはもう必死に尻の穴に力を込めて、みっともない声をあげないよう努力した。ディーンの手はゆっくりと太ももの内側を辿り、ズボンの上からふくらみを確認すると、ベルトに手をかけたまま、開いた足の間に膝をついて座ったようだった。イドリスは改めて、なぜこの部屋の床がよく磨かれ、埃一つ落ちていなかったのかわかった気がした。  ベルトを解かれ、ジッパーを外す音はよく響いた。これが食事中ならここまで音は目立たないのだろうと思った。もはやみなの目線は遠慮なくイドリスに当てられている。彼の表情の変化で、いまディーンがどのような技で彼を喜ばせているのか推測しようというのだ。全員が目と耳が澄ませているなか、ディーンの手が布の層をかき分けて熱い肉に触れた時、彼が漏らしたであろう吐息がはっきりと聞こえた。イドリスは視線を上げないようにした。少年にそんな声を出させた自分が誇らしかったが、まだそれを表に出すのは早すぎる気がした。  ディーンは広げたジッパーの間から出して垂らしたペニスを、指の腹を使って根本から丹念にしごいていった。すでに興奮で立っていたイドリスのペニスはすぐに天を向いた。裏筋を濡れた何かが辿っていき、それが彼の指でなく唇であると気づいたとき、彼はそれだけで絶頂するところだった。  ディーンの唇はゆるく閉じたり開いたりしながら上へ登って、ついに先端に到着すると、鬼頭だけを飲み込んだ。きゅっと絞るように吸い付かれ、時々力の加減を変えながら、そのまま先の部分だけをねぶられる。イドリスは目を見開いて、膝の上のテーブルクロスを握りしめた。それをめくって、ディーンが――学校一の問題児が――自分を――つまり、校長のペニスを――咥えている姿を見てみたい衝動を抑え込むのは大変な苦労だった。  「失礼します!」 明るく元気な声がダイニングルームに飛び込んできた。ディーンが口の力を緩めて息を吐いたのがわかった。イドリスはとっさに、テーブルクロスの下に手を入れて、彼が逃げないように髪の毛を掴んだ。  「サム、待ちくたびれたよ」 リックスがいう。  「ごめんなさい。ピンチーさんが遅刻したんです。オーブンの調子も悪いみたいで……」  トレー台のカートを引いたサムが現れた。兄にくらべて体が小さく、病気しがちという話は聞いていたが、実際、その通りの見た目だった。  「言い訳はいい。早く配って。その前にご挨拶なさい」  「はい。こんばんは、アデリ保安官、キンツル先生。ようこそいらっしゃいました、ウエイクリング校長先生」  「や、やあ、サム――」 ディーンに動くよう指示するのに、髪を掴むのはルール違反のはずだ。乱暴なやり方が他の同士にばれる前に、イドリスは手を放して、かわりに膝を揺らした。ディーンはためらいがちに舌でカリをこすったあと、顎を上下しはじめ、動きを大きくしていった。  「校長先生は君のために来てくれたんだよ、サム」 リックスが何をうそぶくのかと、驚きながら聞くイドリスだったが、何のことはない、それはニックからも聞いていた、この会合に招待される代わりの”寄付”のことだった。  「僕のためですか?」  「数学の勉強がしたいといっていただろう。これから週に一度、校長先生が家まで教えにきて下さる」  サムはびっくりして目が飛び出しそうな顔をしていた。当然だ、ふつう校長がそんなことしない。イドリスだって初耳だったが、週に一度というのは、この会合の後ということだろうか? それならば、特に断る理由もない。週に一度、彼の兄と遊ばせてもらう代わりに、数学を教えてやるくらい、どうってことない。むしろ、このテクニック。イドリスは根本まで唇に包み込まれ、舌の上下運動だけでしごかれている今の状態に、非常に満足していた。このテクニックと、背徳感を味わうためなら、もっと犠牲を払わなくては、恐ろしい気すらする。  「ああ、君のような、勉強熱心な子には、特別授業をしてあげなければと、そう思っていたんだ……」  「そんな……でも……本当に……?」  「ああ、本当だよ」  イドリスは、衝動にしたがい、右足の靴を脱いで、爪先でディーンの体に触れた。それが体のどの部分なのかもわからないが、シャツ越しに感じるやわらかでハリのある若い肉の感触に、たまらない気持ちになった。  サムは、養父のほうを見て、それからもう一度イドリスを見た、イドリスは、深い呼吸をしながら、これは、麻薬よりもクセになりそうだと感じた。サムもまた、可愛らしい見た目をしていた。兄のような、暴力的な裏面を持つがゆえの、脆さや、はかなさはなかったが、天��爛漫な、無垢な愛らしさがあった。それに、とても賢い子だ。  「ありがとうございます、ウエイクリング先生!」  自分は今、ディーンの口を使って快楽を得、それとは知らぬサムを喜ばせている。同時に二人を犯しているようで、言葉では言い尽くせないほどの興奮を覚えた。  イドリスのこめかみに伝う汗に気づいたキンツル医師が席を立ち、サムの給仕を手伝った。医師が大きな長テーブルに前菜とスープを並べているうちに、サムが一度キッチンに戻ってパンを運んできた。なるほどこれをサム一人がやろうとすれば、給仕に十分以上はかかったかもしれない。  「それでは何がご用があれば――」  「ベルを鳴らすよ。ありがとう、サム」 リックスが手を振り、サムはもう一度イドリスに向かってうれしそうに会釈をした。出ていこうとしたが、振り返り、こういった。「どうせなら、ディーンも一緒にみてくれませんか、校長先生? ディーンも本当は数学が好きなんです」  リックスはもう一度うるさそうに手を振った。「ディーンはバイトで忙しいから無理だ」  「でもおとうさん、週に一度くらい休んだって」  「ディーンは君のために頑張ってるんだよ」 ニックが自然と口をはさんだ。「知ってるだろ? 兄弟で同じ里親のもとにいられるのは幸運なんだよ。ディーンは学校とバイトをちゃんと両立させて、いい子だってことをアピールして、君と一緒にいるほうがいい影響があるって証明しようとしてるんだ。ソーシャルワーカーの僕や、ここにいる偉い人たちにね」  みんな、しようのない冗談をいわれたように笑った。サムもすねたように笑って、肩をすくめたが、すぐにまた真面目な顔に戻る。  「でもディーン、最近疲れてるみたいなんです。夜もあんまり眠れてなくて、何度も寝返りを打つんだ」  それでイドリスは、この兄弟がいまだ一緒のベッドで寝ていることに気づいた。興奮はいよいよ高まり、もう数秒も我慢がならないほどだった。  「ディーンに今のバイト先を紹介したのは僕だ。僕から言っておくよ、あまり彼をこき使わないでくれって」 ニックの声はやわらかく、有無を言わせない力があった。サムは会話が終わったことを受け入れ、いたずらっ子らしい仕草で唇の片方を上げると、空になったカートを押して出ていった。  「……お、オオオッ!」  サムが出ていった瞬間、イドリスは堪えていたものを吐き出した。  親切でよく気がつく医師がスープ皿をテーブルの中央へ遠ざけてくれなかったら、胸元がカボチャ色に染まっていただろう。今までに体験したことはおろか、想像すらしたことのない、すさまじい絶頂感だった。  目の裏がチカチカした。どうにか正気が戻ってくると、自分がとんでもない失態を犯してしまった気がした。これでは普通にしゃぶられてふつうにイッたのと変わりない。ここはバーの二階のソファでもホテルでもないんだぞ。秘密の会合。澄ました顔はどこにいった? ”テーブルクロスの下”のルールは。  その上、最初に出したものを飲み込んだディーンが、残りを搾り取るようにチュっと吸ったので、そこでも声が出てしまった。穴があったら入りたいという気持ちになったのはこれが初めてだった。不正入試がばれかけて両親にさらなる出費を強いたときも、こんなに恥ずかしい気持ちにはならなかった。  さぞやニックは自分を引き入れたことを後悔しているだろうと思ったが、ここでも彼は同士の寛容さに感動することになる。まずは保安官のアデリが快活に、気持ちのよい笑い声を上げて場の空気を明るくした。  「先生、若いですね!」 ボトルからワインを注ぎ、グラスをイドリスに差し出した。イドリスはまだ震える手を伸ばし、なんとかそれを受け取って、下でディーンがていねいな手つきで後始末をしているのを感じないようにして、一口飲み下した。たった一口で酔いが全身に回りそうだ。  「最初は誰だってそうなる」 医師の手が肩を撫でた。「慣れてくれば、サムがいるときに絶頂を合わせることもできるようになる。兄弟が同じ部屋にいる時にイくのはとんでもないですよ。どうしても声が出そうな時は、ナプキンを使うんです」  「……なるほど」 イドリスはそう返すのが精いっぱいだ。  「いや、でも、今日のシチュエーションは初めてにしてはハードでしたね。初めてで、サムと一緒の時間があって、しかもサムがお兄ちゃんを気遣うような言葉を使うなんてね。ラッキーだ。僕だってそんな条件の揃った状況でやったことないですよ、いいなあ」  ニックがそういってくれたことで、ほっとする。彼とイドリスとの付き合いは長く、ずっと昔、彼の担当する少年が不慮の事故で亡くなったことがあり、ともに処理をした。彼との絆は絶ってはいけない。それに、人見知りの強いイドリスが本音で話せる唯一の友でもある。  「うちの子はどうでしたと、野暮なことは聞きません」 リックスもむしろ満足そうだった。「あなたの態度が証明してくれましたからね。ようこそ、これで本当の仲間だ、先生」  その後もかわるがわる、イドリスが気をやまないよう声をかけてくれた面々だった。イドリスはスープを飲んだ。勧められたときにはワインを飲み、その味がわかるほど回復した。いつの間にかベルトはもとの通り閉められ、足の間からディーンの気配はなくなっていた。  気づくと、また男たちの上半身がゆらゆらと揺れていた。
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skf14 · 4 years
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09110115-1
街の外れ、小さな白い家。扉に掛かった「close」の字が時折「open」に変わる。その時にだけ訪れることができる不思議なお店。噂がまことしやかに囁かれ始めてから暫く経った頃、私はその家の前に立った。
何度目だろう。この白い扉を見たのは。そして、毎度目に映るのは、白地の板に黒いゴシック体で彫られた「close」の文字。はあ。ため息が溢れて、思わずその無機質なプレートを手でなぞった。今日も、ダメだった。これが裏返しになってたら、良かったのに。私の未来はこの店の中にあるのに。どうして。
なんだかもう力が抜けてしまって、私は玄関の前に膝をついて座り込んだ。膝に、砂が刺さって少し痛い。着ている白のワンピースは少し汚れている。洗わなきゃ。でも、何もかもが億劫。私がそうして裾の黒いシミを見ていたら、不意にガチャリ、扉が開かれて、扉がおでこにぶつかった。
「いてっ」
���......えっ?」
中から驚いた表情で顔を覗かせた、薄い水色をした男の人。まさか扉が開くとは思ってなかった私と、人がいると思ってなかったであろう彼。私を心配そうに見下ろして、そして、彼は「close」のプレートに伸ばしていた手を引っ込め、「中へどうぞ。」と、扉を開いた。
おでこを押さえながら踏み入れた念願のそのお店。二つの扉をくぐった先には、こじんまりした部屋。物はあまりなく、ロッキングチェアが1脚とテーブルが一つ、小さな椅子が二つ。シンプルだ。小さな椅子に促されるまま座って、壁に立てかけてあるレコードやドライフラワーを眺めた。素敵。上手く言い表せないけど、暖色に囲まれていて、素敵。
「これで冷やして。」
「ありがとう、ございます。」
手渡されたひんやりと冷たい濡れタオル。おでこに当てると心地いい。ほう、と一息吐いて、彼を改めてじっくり見た。ここに人間が住んでいることは知っていたけど、見たことはなかった。いつも閉じられた扉と物音一つしない家しかなかったから。彼は色素の薄そうな目と髪の色をしていて、柔らかい、消えてなくなりそうな青空の色。年は、幾つぐらいなんだろう、よく分からない。けど、多分成人はしてるはず。私よりは年上かな。
「何してたの?」
「えっと、その、このお店に用事があって、でも、閉まっていたので...すみません、閉店してるのに、中に入れてもらって。」
「僕の不注意で痛い思いさせちゃったから、気にしないで。それに、丁度、開けようかと思ってたんだ。」
「じゃあ、もしかして...」
「うん。貴女の願いを叶えられると思うよ。」
じわ、じわり、目が熱くなって、私はまだ何もしてないのに、込み上げてくる涙に勝てなかった。ぽろぽろ頬を滑っていく涙を必死に拭っていたら、彼に、ハンカチを渡された。
「どうぞ。」
「あっ、ありがとう、ございます、すみません。」
「いいえ。僕、簡単に説明だけさせてもらうから、落ち着いたら、話を聞かせてくれる?」
「わかりました。」
そして彼は落ち着く声色で、ゆっくり、店の説明を始めた。なんてことはない。ここは、ただの香水屋だ。彼はいわゆる調香師で、お客さんの求める香りを作り出してくれる。
ただ、この店は、香りと共に、忘れていた記憶が戻ることがある。というのが、密かに噂されていた理由だった。香った時、その場面で何か、大切なことが起こっていたとしたら。それを思い出すことが出来る。過去に囚われる人々がこの家を訪れる理由がよく分かる。
「それで、貴女は...『ガチャガチャ!ガチャ!』
説明を一通り終えた彼が私に質問した瞬間、玄関の扉が乱暴に揺らされる音がして、びくりと身体を震わせてしまった。closeの札は掛かってたはずなのに、ドアの向こうの誰かはガチャガチャと扉を揺らし、そして、鍵を開け物音を立てながら店へと入ってきた。
「篠宮ぁ。邪魔すんでぇ。」
現れたのは、タバコのような白い棒を咥えて、この暑い中黒いスーツを着崩して着てる、青黒い男の人。なんだか粗雑で、ヤクザみたいな人。私は慌てて振り返り、驚いて固まる彼にこっそり声を掛けた。
「け、警察、呼びますか、」
「いや、それは...」
「けーさつぅ?ナハハ、自分おもろいこと言うやん。」
男が胸元をごそごそと探り、手帳を取り出した。開かれた面に光る桜の代紋、そしてきっちり制服を着て写真に映る男。まごうことなき警察手帳だ。状況が飲み込めない。
「どーも、お呼びですか。」
「...脅かすのやめてくださいよ、鴻神さん。」
「ど、どういうことですか...?」
「近く寄ったから来てん。君、ダレ?」
「僕のお客さん。」
「あー、客。そんならお前、鍵閉めたらあかんやん。監禁罪成立すんねんで。」
「ご、ごめん、お客さん、久しぶりだから忘れてた、」
「はー、あっつい。なあ、冷コー。」
「はいはい、待ってて。」
「警察、本物...?」
男のレイコーという呪文を聞いた彼は立ち上がり、部屋の奥へと消えていった。得体の知れない男と二人、部屋に放置されてしまった私は、ぽつり、思わず心の声を呟いた。その言葉は運悪く目の前の男に届いていたらしい。私と彼が話していた机に行儀悪く腰掛け、また、ナハハ、と気の抜けるような笑い声を立ててから、咥えていた棒、飴を口から取り出してガリ、と噛んだ。私は男に対しての警戒を解かない。
「証明したいとこやけど、今は手ぶらでなぁ。チャカもワッパも持ってないねん。」
「???」
「えーと、あぁ、あったあった。ほい。」
男はポケットをガサゴソ漁り、少しくちゃっとなった小さな紙を取り出し机に投げた。この男の名刺らしい。ガリガリ、男の歯は飴をとうに失い、何もついてない紙の棒を手持ち無沙汰に噛んでいる。
「警視庁、刑事部捜査二課、特別捜査第二係巡査部長、鴻神、......」
「ルイ、や。鴻神誄。」
「...本当?刑事さんなの?」
「せやで。ま、自分が想像してんのは捜一の方やろうけどな。」
「そーいち?」
「そ。殺人事件の捜査をするかっちょいー刑事は皆捜査一課やねん。」
「鴻神さんはカッコいいよ。はい。」
グラスに満たされた黒い液体と氷。ああ、レイコーは冷たいコーヒーのことか、と納得する。何かと思った。彼が退いた後の椅子に座った男は放った名刺と棒をぐしゃりとまとめて握りゴミ箱へ放り投げて、私の正面に座って機嫌が良さそうに刺さった黄色のストローへ口を付けた。こちらに向いた細い糸目はどこを見ているのか、開いているのかすらよく分からない。
「この人は、鴻神さん。僕がお世話になってる人で、こう見えてちゃんとした警察官。」
「ナハハ、どー見えてんねん。」
「...捜査二課っていうのは、知能犯を専門にしてるの。詐欺とか、贈賄とか。」
「へぇ...すごい。賢いのね。」
「そうそうそう見た目と違って、ってなんでやねん。誰が見た目アホや。」
「ははは、元気だなぁ。」
私は、胸に留めた言葉を吐き出さず、そのまま飲み込んだ。夏にそぐわない不健康そうな白肌の男は、男とは対照的に汗をかいたアイスコーヒーを飲み干し、氷をかき混ぜながらずるずると残りを啜っている。何かを噛むのは癖なんだろうか、プラスチックのストローが波打ってへにょへにょになっている。男はちらりと腕時計を見て、「ごっそーさん。」と呟き立ち上がった。誘われるように向かった先はロッキングチェア。
「篠宮、俺また戻らなあかんから、30分後起こしてくれ。」
「分かった。」
「公務をサボるのね、悪いお巡りさん。」
「君はオカンか?束の間の休みくらい大目に見てえな、かわいこちゃん。」
「今日はどれにする?」
「いつものがええ。ほな、おやすみ。」
汚れた小さなぬいぐるみとくたくたのブランケットを巣のように整えた男はこちらに背を向け、器用にチェアーの上で縮こまり丸まった。昔、誰かが飼ってたハムスターみたい。
彼がカウンターの下から小瓶を取り出して、男の眠る椅子の上から降り注ぐように、シュッ、シュッ、香水を撒いた。少し間を置いて私のところまでふわり、香ってきたのは、ごく普通の、でもどこか懐かしいような、夏の石鹸の匂いだった。薄緑になった男は何も言わず、ただ微かに肩を上下させている。もう眠ってしまったのだろうか。
かたり、音がしてハッと我に帰ると、私の前に薄黄色の炭酸が置かれた。
「レモンスカッシュ。嫌いじゃなければどうぞ。」
「ありがとう。」
「彼の事は気にしないで。もうぐっすり眠ってるはず。で、貴女は、何を探しに来たの?」
「私は、あの日、母に言われた言葉を、探しにきました。」
あの日、私が学校の行事に参加なんてしていなければ良かったんだ。そう思い続けることで、贖罪している気分になっていた。甘い、甘すぎる。過去に戻れるなら今が無くなっても、あの日に帰って私は家族と共に死ぬだろう。
簡単だ。高校の修学旅行から帰ったら家が燃えていた。それだけだ。私に残ったものは、父母、そして7歳だった妹の僅かな生命保険と、家族だったモノの消し炭だけ。原因は放火だった。犯人は捕まったけど、否認を続けていて、発言が支離滅裂だから、刑法39条が適用される可能性があるらしい。私は犯人に関わるのを辞めた。罪の意識?そんなものはなから無いから人の家に火をつけられるんだ。贖罪?反省?するなら最初からしない。何もかもが虚無だった。ただ前にある道を、止まっては死ぬと歩き続けていた。
私には、昔から人の周りにさまざまな色が見えていた。色は変幻自在で、動き回り私を楽しませた。色は意味を持ち、時に人の幸せを、人の秘密を、そして人の不幸を、曖昧なニュアンスで私に伝えてきた。
あの日、確かに家族の周りに、紫の雲が見えていた。色は言葉を話してくれるわけじゃない、ただその不穏な影に、私は目を伏せて、鏡を避けて、逃げた。どうにもならない、どうにもできないことは分かっていた。私には、見ることしか出来ない。未来を変える��はない。
あれは、まだ私が3歳の頃、目の前で真っ赤な色を纏っていた子猫が、止めるのも間に合わず道路に飛び出してトラックに轢かれた時のことだった。泣きじゃくった私は家に帰って母にすがりつき、ずっと隠していた私の秘密を話した。頭がどうかしてると思われるかも知れない、嘘だと笑われるかも知れない。それでも良かった。母は、優しい笑顔で微笑んで、そして、私に言った。何かを、確かに言った。頭の中の母は何度思い出しても口をパカパカとくるみ割り人形のように動かすばかりで、音が耳に届かない。お母さん、何、聞こえないよ、教えて。抱き締められた背中は暖かく、母のエプロンからは使っていた柔軟剤の香りがする。いい匂い、落ち着く。私はここにずっといたかった。
「思い出せないんです。」
「そっか。分かった。この中から、似てるなって思う香りを選んでくれる?幾つでも構わないよ。」
彼は部屋の中を歩いて思案しながら、持ってきた親指ほどの小瓶を机の上にいくつか並べた。中には1センチくらい液体が溜まっていて、どれも淡い色をしていた。蓋を開け、似ている、お母さんみたい、と思う匂いを、示していく。どれも似ているようでどれも違う。柔軟剤の香りじゃダメなんだ。あの、お母さんの香りは、どこに。
「ありがとう。」
私が選び出した瓶を持って、彼は隣の部屋へと消えていった。私は一人、眠る男の微かにすら聞こえない寝息に耳をそば立てながら、過去の記憶に想いを馳せていた。男へ目線を向けることはなかった。男の周りには、黒いシャボン玉が無数に浮いている。
シュッ。彼が香水を撒いた瞬間、私の意識はふわりと空高く浮かんで、そしてブラックアウトした。
ここは、記憶の中だろうか。私は小さな手で母のエプロンにしがみついて、エプロンからは今日の晩ご飯のチキン南蛮の酸っぱい香りと、私の大好きな柔軟剤と、お母さんの化粧品の匂いがした。お母さん、お母さん。大好き。私のこと、捨てないで。
「...素敵なギフトを貰ったのね。」
「ぎふと?」
「神様はね、皆が生まれる時、一つプレゼントを持たせてくれるの。困った時、誰かを助けられるように。」
「だれかを...」
「そう。もしかしたら、助けられないかもしれない。プレゼントの重さに、疲れてしまうかもしれない。それでもいつか、貴女が貴女として生まれて、良かったって、貴女として生きていこう、って思える日が来るの。」
「わたしとして、いきていく?」
「そう。だから、たいせつにたいせつに、離さないようにね。」
母は私の小さな手と母の少しカサついた手を重ね合わせて、きゅっ、と握ってくれた。手首には、私が幼稚園で編んだミサンガが巻かれていた。お母さん、私、私として生まれて、良かったのかな。まだ分からないけど、お母さんの子供で、良かった。
「......落ち着いたかな。」
「っ...はい、ありがとう、ございます、記憶、思い出しました、母の言葉も、全て、」
「良かった。もし辛ければ、ここに置いて帰っても構わないよ。」
「...持ち帰ります。私が、私であるために。」
涙を拭いて、彼から薄い紅色の香水瓶を受け取る。ひんやり、冷たいそれに頬を押し付けて、そして、もう一度、その香水を手首へと振りかけた。少しだけ、ほんの少しだけ、顔を上げて進める気がした。
「あ、いけない、もう30分経ってる。」
時計を見て慌てた彼は男に駆け寄り、肩を揺さぶった。シャボン玉は彼をするりと避け、触れたものはぱしゃりと割れ、床に黒く染み込み消えていった。
「あー...よう寝たわ。」
「ほら起きて、しゃんとして。今日も遅くなるの?」
「せやなぁ、てっぺん超えるから気にせんで。明日、忘れたらあかんで。」
「病院でしょ、分かってる。ありがと。」
「おー、ええのん貰ったやん。かわいこちゃん。」
猫のように伸びた男が私に近寄り、香水を見て機嫌がよさそうにニコニコと笑う。そして、ポケットからお札を取り出し、「これでええか。」と彼に握らせた。
「私、ちゃんとお金持ってます。」
「これはサボタージュの口止め料や。所謂賄賂やな。」
「......お兄さん、体調悪いの?」
「いや、定期検診だよ。」
「ほんなら、俺行くわ。」
「この子、家まで送ってあげて。」
「はいよー。今日はこれくらいにしといたるわ、言うて。ナハハ。」
流されるまま、香水をタダで貰ってしまった。彼は優しい笑みを浮かべて、私達が角を曲がってしまうまでずっと、扉の前で見送りをしてくれた。
横を歩く男の周りには、相変わらずふよふよとシャボン玉が飛んでいる。私は、知っていた。黒いシャボン玉は、嘘ばかり吐いている人の呼吸の色。
「刑事さんは、詐欺事件を追いかけてるのね。」
「せやで。」
「だから、嘘ばかりついてるの?」
「せやなあ。」
「お兄さん、どうして関西弁なの?」
「高校まで向こうおったから。」
「篠宮さんとは、一緒に住んでるの?」
「入り浸ってんねん。アイツ世話焼きやから。」
「お兄さん、幾つなの。」
「30。」
「なんで警察官になったの。」
「そら公務員やからなぁ、安定や。」
「警察官が、アクセサリー付けてていいの。」
「ん?あぁ、このネックレスはなぁ、自分がくたばって肉片になっても判別出来るように、イニシャル付けとんねん。」
「......どうして、今は嘘付かないの?」
男の口から吐き出されるシャボン玉は全て、無色透明。不可解な様子に、気味が悪くなる。男はまた一つ新しい飴を取り出し、私にも一つ差し出してくる。恐る恐る受け取って、葡萄味のそれは食べずにポケットへ仕舞った。男は包装を剥いたイチゴミルク味を咥え、カツカツと歯を当てながら舐めている。
「よかったなぁ、君。記憶戻って。」
「ええ。篠宮さんは、凄い人だわ。...何をするつもりか、知らないけど、彼を傷つけるようなこと、しないでね。」
「はっ、えらいご執心やな。過去なんてなあ、何の意味もないねん。」
「...そんなことないわ。どんな過去も、私を作る要素よ。」
「強いなぁ、君は。ええやん、大事にしぃや、ソレ。」
暫く歩いて、ふと私の住むアパートの前で立ち止まった男が、「ほなな。」と手を上げ、ふらりふらりと大通りの方へ消えていった。
「嘘ばっかり。」
吐き捨てるように言った言葉は、男には届いたのだろうか。私は一度も、家の場所を聞かれていない。
「おおきになぁ、篠宮。」
『僕はただ、彼女の手伝いをしただけだよ。』
「こんな早くお前のとこ行くと思わんかったわ、いやー、焦った。機転聞かせてくれて助かったわ。」
『あんな丁寧に説明しなくても、ソーイチもソーニも若い子には分かりませんって。』
「相棒とか見とるかもしれへんやん。」
『...気丈に振る舞ってましたね。』
「んや、あれはホンマに元気が出たんやろ。帰り道も、篠宮さん篠宮さん言うて尻尾振ってたわ。」
『...ふふ、そうですか、それは良かった。』
「なんや、嬉しそうやな。」
『面白い子だな、って思っただけです。』
「...あっ、すまん、呼ばれたわ、また連絡する。」
『はぁい。頑張って。』
通話終了、の文字を暫く眺め、怒鳴るように俺を呼ぶ上司の元へと歩みを進めた。内容は大体分かっている。どうせ、捕まえたなら最後まで責任を取ってキッチリ放火犯を吐かせろ、だ。出来ることならやってる、と心の中のゴミ箱に吐き捨てて、怒り散らかすハゲ頭を眺めながら、楽しそうに会話する二人をぼんやり思い返していた。
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