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#大きな数値を表す接頭語
sex6om6er · 1 year
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“こいつマジで変態”。そう心の底から思える人に出逢える機会ってそう多くありません。相手はシラフなのにキメている僕よりエロかったりするとマジで自己嫌悪になります。それが嫌で事前のやり取りで相手が格上だと感じたら、自分が優位になるように当日相手のキメる量を少なくしたり、それでも勝てないときは「今日は調子が悪い」と言って、いつもの自分ではないことをアピール。とにかくセコイのです(笑)。 もう昔の話ですが、”コノ人はなんでこんなに変態なのか?(なれるのか?)”という素朴な疑問から、"変態"について研究したことがありました。『人はなぜ変態になるのか?』みたいな本がすぐに見つかると安易に考えていたのですが、そんな本あるわけがありません。結局、色んなジャンルの本を読みあさっては仮説を積みあげていったのですが、一番参考になったのは『犯罪心理学』というジャンルでした。 今回は当時僕が僕なりに考察した“変態論”の概要に触れ“変態の成り立ち”をテーマにセミナーを締めくくりたいと思います。
まず変態分布を世界地図に落とし込んでみると、寒冷地よりも熱帯地域に多く生息していることがわかります。赤道に近づくにつれて“変態人口”が増えるのですが、その理由は『暑いと性欲が高まるから』という説と『暑いところにずっといるとバカになるから』という2つの説がありますが、どちらも僕の説です(笑)。北極や南極に“変態”がいないのは寒すぎてSEXどころではないからです。興味深いのは戦争敗戦国(他国によって占領または統治された歴史をもつ国)に“変態”が多く生息しているという点。変態の生息条件が熱帯地域と占領地だとしたら、この条件に合致した地域が日本にあります。"沖縄"です(笑)。次に変態の質(レベル)についてですが、都会よりも田舎で育った人のほうが“変態の質”は高い傾向にあるようです。山奥に行けば行くほど、マニアック度が高まり“フェチ嗜好”も強くなります。しかし都会にまったく“変態”がいないわけではありません。なぜでしょうか? 僕の考察では変態の形成は『想像力』に深く関与しているように思います。欲しいものが何でも手に入る都会とは違い、モノや娯楽が限られいる田舎でエンターテイメントを充実させようとすると"想像力"が必須アイテムになります。現実には起こりえないことを頭のなかで想像する妄想癖が無意識につき、やがて寝ても起きてもエロいことしか考えられなくなる。『たわし』が1つそこにあるだけで独自の手法でエロの世界に想像を飛ばしフィニッシュを迎えることができる。いわゆる『変態』ができあがるというのが僕の仮説です。
都会育ちの“変態”も過去を遡ると幼少期に何らかの家庭の事情で多くの時間を一人ぼっちで過ごした子が多くみられます。占領地で育った変態も理屈は同じで、つまり幼少期から成長期にかけて何らかの圧力や制限を強いられた人が、想像力という武器で孤独を克服した結果"変態"が形成されるのではないか?。実際、刑務所から出所してきた元受刑者は、出所前よりもさらにエロに磨きがかかって出所してくるというのは珍しくありません。もっとも「もとから変態だったんでしょ?」と言われれば、それまでです(笑)。
皆さんの周りにいる変態を観察してみるとわかりますが、真の変態に想像力が貧しい人ってまずいないと思います。“変態”にとって“キメセク”とは、”アレもしたい、コレもしたい”と頭のなかだけで描いていた妄想を実際に形にするという、いわば人生の晴れ舞台です(笑)。力が入るのも納得できます。その日のために厳選されたオモチャや衣装でパンパンに詰まった超重量級のスーツケースをニコニコしながら引いてきます。変態は人様に「変態!」と呼ばれると無性に喜びますが、けして自ら“変態”と名乗り出たりしません。それは“変態”が慎ましいからではありません。彼等はそれまで自分が当たり前のように行ってきたことを同じように行動しているだけで、彼等自身それが"変態なこと"をしていると自覚しているわけではなく『自然体』に過ぎないからです。彼等には自分の素を表現することに恐怖や不安が一切ありません。自分に正直になり、自分が感じていることを感じ、心の底にあることを開放し、本当の自分を無自覚に認め受け入れている。そのことを知ってから僕は"変態"を心からリスペクトするようになりました。何か特殊な技を身につければ"変態"になれると思っていた自分が恥ずかしくなりました。
逆に腹立たしいのが、いわゆる『自称変態』です。プロフィールなどに"エロい"”スケベ”の意味で“変態”と書くのはいいんです。変態でもないのに自らを変態と勝手に名乗りでて、それを全面に押し出してくる人達がムカツクのです。実際“自称変態”が本当にエロいと思ったケースってほぼ0%です。「変態ですがダメですか?」と言われると“誰が変態やねん”と思うし、変態なのにその自信のなさは何?「変態なめんじゃねぇ~ぞ」と言いたくなる。もっとムカツクのは「自分が変態になるところ見たいですか?」というセリフ。「いいえ結構です。見たくありません」と言いたくなる。だってそんなん見たところで、大してエロくもない“老人のオナニーショー”みたいなのを強制的に見せつけられるわかりきっているから。もっと最悪なのは「もっと自分を変態にしてください」という奴。『は?モットだと?』まるで変態になれないのはコッチの技量不足かのような言いぐさ。摘まみ出したくなります(笑)。こういう他力本願的なヤツはいくら量を増やしても、質がいいネタをキメても変態にはなりません。断言します。『クスリが自分を変態にしてくれる』と思ったら大間違い。『クスリの作用を利用して自分が楽しもう』という考えが根本に無い人はクスリをキメる資格がないと思います。
経験を重ね感じたのが『変態なのに変態になりきれない人』の多さです。"変態”になることは「悪」であるという中途半端な罪悪感を持っている人が本当に多いのです。彼等は「ルールが守れない自分は悪い人間だ」「決められたことを守れない自分は悪い子」だと考え、薬物に手をだした自分を責めたてます。そして「もう2度とやらない!」と決めるけど、また暫くすると「やりたくなる」。そして弱い自分をまた責めるの繰り返し。結局、キメても(自分を責め)辛いし、キメなくても(欲求を抑え)苦しいという“生き辛い”人生を送ります。買い物をするときも、旅行をしても、ちょっと贅沢をしても、どこかで罪悪感を感じて心から楽しむことができない。これは前回触れたように、日本人に多くみられる気質で、親や他の誰かの価値観に従って生きてきた人達。『自分がこうしたい』ではなく「ルールがこうだから✕✕すべき」という論理で考える癖が幼少期からついているからです。仲間外れにされることを極端に恐れ、他人の評価に合わせてばかり。
人が“楽しい”と感じるということは、そこに“自分の価値”を感じているということです。仕事が好き、ドライブが好き、音楽が好き、キメセクが好き。それが違法であれ何であれ、共通しているのは、『そこに自分が存在し、自分に価値を感じる』ということ。だから楽しいと感じるのです。つまり言い換えると、”楽しいことをしているのに罪悪感を感じる人”というのは、自分の存在を自ら否定し、自分には何も価値がないということを自ら認めているのと同じことで、自尊心が低く自分に自信のなくなるのも当然です。 罪悪感を感じるなら、初めからやらなきゃいいのに~と思うかもしれませんが、自己評価の低い人こそ薬物の魅力にハマります。それは『ありのままの自分”でいられるということが、どんなに楽で、ありのままの自分を受け入れてくれる場所があるということが凄く幸せなこと』ということを覚醒剤は間接的に教えてくれるからです。
僕がなぜそこまで力説するかというと、かつて僕自身がそういう人間だったからです。親にこうしなさい、あーしなさい、それはダメ、これもダメ、いい大学に行って大企業に勤めなさい、だから勉強しなさい。親の期待に反しないように常に親の望むような姿を演じることを強いられるので、自分の本性に嘘をついて自分に妥協を重ねて生きるようになりました。僕がそういう生き方が何の意味がないということに気付けたのは、薬物があったお陰です。大麻や脱法ドラッグ・合成麻薬や覚醒剤、そして僕を受け入れてくれた仲間たちが、「ありのままの自分」でいいということを教えてくれました。 自分の素を表現することへの恐怖や不安がなくなれば、いままで死ぬほど辛かったことが何でもないと思えるようになったり『なんであんなに他人の評価を気にして生きてきたんだろう?』と不可解に思うくらいです。
大切なことは他人の価値観に何の疑いもなく従うのではなく、自分自身の頭で考えることです。ルールが守れないあなたは本当に悪い人間でしょうか?決められたことを守れないあなたは本当に悪い子でしょうか?ルールって何ですか?決められたことって何ですか?他人の話や言葉を聞いて動くのではなく、正しい知識のもとに自分の頭で考え自分で判断することです。それでも悪いことだと思うなら、それはキッパリやめたほうがいい。少なくとも身体にいいものではなく、やらなくても済むものならリスクを背負ってまでやらないほうがいいに決まっている。その考える過程をすっ飛ばして、他人の価値観に無条件に従って生きるということは、自分で生きることを放棄し、他人に自分の人生を委ねることと同じで、奴隷の人生を歩んでいるのと同じことになります。そんな人が幸せになれるはずがない。自分が自分の味方でいなかったら、誰が自分の味方でいられるのか?それでは、あまりにも自分が可哀想だと思いませんか?
この日本で不都合な真実が大きく報じられることはありませんが、薬物に大きな影響を受けた人は僕以外にも沢山います。 アップル創業者でありスマホの生みの親として知られるスティーブ・ジョブスが17歳から21歳ごろまで違法薬物(LSD)を経験していたのは有名な話です。この頃の体験について生前ジョブズは、「自分はドラッグなしでは成功できなかっただろう。仕事の重要な部分はLSDなどの違法薬物のおかげだ。サイケデリックの経験がない人には、まったく理解できないだろうがLSDの摂取は、人生で行ったことの中で最も重要な2-3の出来事のうちのひとつだ」と語っています。さらに「LSDはすごい体験だった。人生でトップクラスの重要な経験だった。LSDを使うと物事には別の見方があると分かる。LSDのおかげで人生をポジティブに変えることができた。金儲けでなくすごいものをつくること、色々な物事を歴史や人の意識の流れに戻すこと。そうわかったのはLSDのおかげだ」と自伝の中で語っています。56年の生涯の中で僅か5年の薬物体験が世紀の革命「スマートフォン」に繋がったとは断言できないけれど、皆さんはどう受け止めるでしょうか?
実は数か月前、両親に僕が薬物を使用しているという決定的証拠を発見されてしまいました。恐らく昔の僕なら、その難局を何とか回避しようと嘘のような言い訳で事実を否定したと思うけど、今回僕はそれをしませんでした。使用を認めた上で僕の価値観について、このブログに書いてきたようなことを時間をかけて細かく説明をしました。説得したのではありません。カッコよくいうと“自分は間違ったことは何一つしていない”ということを主張することで、自分で自分の身を擁護したのです。それを聞き、両親は“ついに我が息子は(クスリで)頭がおかしくなった”と失望したのだと思います。結果的に親子の縁を断絶されてしまいました。でもそれで良かったと思っています。本当の自分を置き去りにして、他人や世間の価値観に従って生きることほど無意味なことはないと思うから。一度キリの人生、自分の責任において自分の価値観と自分の判断で生きなければ意味がない。そう思えるようになったのも、薬物のお陰であり、ここまで育ててくれた両親のお陰だと今になって思えます。 あれから半年くらい経ちますが、あまりにも僕が正論で論破してくるので、両親は「ひょっとしたら息子の考えもあながち間違ってはいないんじゃないか?」と思っているようです。そのうち「おい息子よ。試しに1本やらせてくれないか?」もしそう言われたら、10メモ ギュウギュウに詰めたPを2本何も言わず差し出し実家を後にしたいと思います(笑)。
今回のタイトル『変態になれる人ほど人生はうまくいく』は、『バカになれる人ほど人生はうまくいく』という本のタイトルを文字ったものです。 ~ちゃんと生きている、真面目に働いているつもりなのに、どうして漠然とした「もやもや」や、この先の不安がずっと付きまとうのだろうか。自分は何も持っていない。この先も確実なものなんてないし、こういう時代だから仕方ない。そんなふうに考えてしまっていないでしょうか。僕は違うと思う。もやもや、不安の正体は「自分の人生を自由にしてあげていない」からです。自分の人生なんて所詮こんなものだ。なんて、誰に言われたわけでもないのに自分で勝手に縛りつけてしまっている。だから、無意識にずっともやもやして、本当はもっといろんな可能性があるのに閉じ込めてしまっているから苦しいんです。だとしたら、自分が自分を苦しくさせているだけ。そんなのはしなくていいじゃないですか。だけど……自分はこうだから自分を自由にさせるなんて難しい、いろんな制約もある。そんなふうに反射的に思ってしまう人も多い。なぜなら、自分はこうだからできない、こんな制約があるから難しいというのも「自分が見ている世界」「自分が知っている世界」だけで考えて判断するからそうなってしまうわけです。だけど、そんな人生、楽しいですか?~(はじめにより)。
誰かのために『賢さ』を無理に演じて生きていると、とても疲れます。自分の素を表現することに恐怖や不安がない、自分に正直になり、自分が感じていることを感じ、心の底にあることを開放し、本当の自分を無自覚に認め受け入れて生きると、楽で楽しい。だからこれからも僕は自由人= "変態"をリスペクト し"変態"でありたいと思います。『変態になれる人ほど人生はうまくいく』と信じているから。
最後に今年の5月にブログのフォロワー1000人を達成したばかりですが、その後フォロワーが増え今現在1308人の方にフォロ頂いています。自分のメッセージが沢山の人に届くということは嬉しいことではありますが、その反面複雑な心境でもあります。 僕がこの国の価値観を変えることはできないけれど、本来罪に問われるべきでない人を1人でも多く救うことはできるんじゃないか。これまで僕が培ってきた知識やノウハウをもとに、「そことそこに落とし穴があるから気を付けて」といった情報を伝えることで、落ちなくてもいい穴に落ち、人生が狂ってしまう人を減らすことは、この僕にでもできるんじゃないか? 反社会的な使命感ではありますが、一人でも多くの人がいつまでも安全に楽しい空の旅を続けられることを願って、これからも情報を発信し続けていきたいと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
<参考文献> 自信をもてないあなたへ自分でできる認知行動療法ーメラニーフェネル著・曽田和子訳(CCCメディアハウス) 覚醒剤大百科 ー覚醒剤研究会著(DATAHOUSE) 人はなぜ依存症になるのか ー エドワード・J・カンツィアン/マークJアルバニーズ著・松本俊彦訳(星和書店) あなたのままで輝いて ー 片柳弘史著(PHP出版) いい子に育てると犯罪者になります ー 岡本茂樹著(新潮新書) 薬物依存症 ー 松本俊彦著(ちくま新書) 覚醒剤アンダーグラウンド ー 高木瑞穂著(採図社)  バカになれる人ほど人生はうまくいくー佐伯益咲寿 (クロスメディア・パブリッシング)ほか
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kennak · 8 months
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本当に人手が足りないし、猫の手も借りたいぐらい人手不足になった結果、外国人を雇う事になった。もう外国人を雇い続けて1年になるが、これが頗る評判が悪い。仕事の漏れややり方に不備があるので指摘しても、カタコトの日本語で「ハイ、ワカリマシタ」とは返ってくるが何度言っても改善されない。本社に早く日本人雇ってくれ仕事が回らんと伝えても改善されず。金がないんだろう。発注側も安い清掃会社を使いたいので、もうこのまま安い清掃会社の従業員として致命的なミスでもして、「少し値が張ってもまともな清掃会社を使おう」と思わせるのが俺か社会的役割なんじゃないか?とさえ思った。またとある日、外国人が自分の入館証をトイレに誤って流したと言っていた。意味がわからん。流す前に気づくだろ普通。トイレじゃなくて誰かをビルに入れるために横に流したんじゃねえか?とさえ思った。入館証トイレ流しの件と再発行の話がビル管理会社に届きこっぴどく怒られ、「従業員に反省文書かせてくれないか?再発されては困る」と言われた。俺も対策してえけどうっかりでトイレに流す意味がわからねえもん。一応現場では入館証をポケットに入れず常に首にかけて携帯するというルールを再度周知はした。当該のベトナム人も「ハイ、ワカリマシタ」といった。そしてオーナーの言う通りに反省文書かせた。ベトナム人の彼なりの計らいではあったんだろうが英語がびっちり並んだ反省文が返ってきた。律儀に書いてくれてありがとう。俺は英語が読めないので、そのまま管理会社に渡した。管理会社部長は「これはふざけてるのか?」とブチキレた。俺は上の空でこの仕事に別れを思った。そんなこんなで数ヶ月前に、久々に日本人が入ってきた。中年の清掃経験がある男だ。挨拶もしっかりしてるし、現場の清掃員の七割が外国人なことに少し戸惑いはしていたが、俺は久々にホッとした。しかし、勤務開始から3日後にビル利用者から「最近入った清掃の男が階段掃除しながらスカートの中を覗いてくる」とクレームが入った。俺は覗きの現場を見てはいないので、片方の意見だけを鵜呑みに新入り中年を咎めることが出来なかったので一先ず保留にした。そして翌日別の女性からクレームが入ったので、これは本物かもしれない懸念が出た。昼休み前に「階段で清掃員にスカートの中を見られて不快だったというクレームか入った。新入り中年さんは本当に見て無いとは思うが、神経質なお客様もいて以前からこういうクレームがあったので(ちなみに過去に一度も無い)、階段の清掃中は極力仕事だけにフォーカスを当ててくださいね、なんかあったら遠慮なく私に相談してください。」と伝えた。そうすると新入り中年さんは顔と禿げた頭を真っ赤にして「俺じゃねえよ!!!!!!」と怒鳴りだした。「おまえは見てないと思う」という仮置きしたのにこのブチギレ方は「あ、こいつは本物だわ」と確信した。そのままロッカーから私服を取り出しそのまま外に出ていったので飯でも食べに行くのかなと思ったら駐車場から新入りの奇声音となにかものを壊す破壊音が聞こえたので急いで見に行ったら粉々になったマキタの掃除機と脱ぎ捨てられた作業服が転がっていた。新人中年は帰ってこなかった。入館証をトイレに流したベトナム人は「新人中年サン、チョトおかしいよ?」と困惑した表情で溢し、俺は本社から「従業員の教育が悪い」と叱責され、減給を言い渡され、仕事を辞める決心がついた。俺の指導力も不足していたんだろう。新しく入ってくる人間がまともに仕事をしてくれない外国人かやばい日本人の二択で、彼らをまともな清掃員に育て上げる能力は俺には無かった。もう俺は本社と何も話したくないし顔も見たくない精神状態に陥っていて、派遣先の入館証と作業着を本社に郵送し、事前に準備していた退職届を内容証明で送った。本社からの連絡先は着信拒否にし、かかってくる謎の携帯番号も着拒にしてから1ヶ月ほどで解雇通知が送られてきた。離職票が届いてなかったので、本社の総務部に電話で「増田だけど離職票が来てない」と伝えると「人事部長から話があるそうなのでお待ち下さい」と言われたので「はい」とだけ伝えガチャ切りし、ハローワークに「退職した会社に催促しても離職票が送られてこない」と伝えた。3週間ほどで離職票が届いた。そんなこんなで30代無職のゴミが出来上がった。職歴はフリーターと清掃会社しかないし高卒だが、もう清掃には二度と戻りたくないし、なんなら別会社でも清掃関係者を見るのが嫌だし、ホームセンターでマキタ製品を見るだけでも吐き気がする。精神科に行ったほうがいいのかもしれないが、客観的にみてまともじゃない精神状態でも受診しないことで「自分は精神的にまともかもしれない」一縷の望みの可能性に縋る事が出来、それが自分の中の精神安定を保つことが出来ている。話が少し脱線したが、すべての清掃会社はこんな感じではないんだろうけど、給与もっと高くし競争率高めないとこの先もっと酷くなる気がする。今は失業手当貰いながら無職中にJavascriptの入門書写経して「はぇ〜」って言いながら時間つぶしてる、職業訓練は過去に電気工事士取るのに使ったのでまた使ったらもっと職歴が汚れる。(2度も職業訓練に通ってる奴は使いたくないだろう)コンピュータって偉いな、指示が正しければ指示通り動くんだな、もう人間と接したくねえよ追記朝起きたらこんな誤字脱字だらけの書きなぐったような文章がホッテントリいりしてびびった親切心でアドバイスくれた方々どうもありがとう。全部に返事はする気力わかないけど、アドバイスくれた方々だけに所々補足。JavaScriptはブラウザ上ですぐ動きが見えるので入門書買って遊んでただけで、IT系に転職したいとかそういうのはないです。適応障害でメンタル死んだSEの友人の話とか聞いていたのと、N予備校でGithubに触れた時に「ギャッ、英語」となったので、無責任に趣味として遊ぶ分には良いと思うけれども、これに社会的責任がついたら絶対病むと思います。仕事にしてる人すごい。手書きコードをエディタに写経するだけの仕事とかあったらやりたいけどきっとそんなものは無いでしょう。清掃関係にも戻る予定はないですね、昔から自分の能力に劣り(精神的体力のなさや頭の回転の遅さ)を実感していて、門戸の広くてハードルの低い清掃業界に入ったのも自分の能力を見据えての選択でした。若い内に手に職つく別の業界に行くべきだと諸先輩方からは言われた事もあったのですが、新卒時代に圧倒的に同期より劣っていた飛んだ経験から考えて、仮に行っても多分やって行けなかったと思います。ビルメンですが、近くでビルメンを見てきたN=1から言わせてもらうと普通に大変だと思います。便所の糞抜きはビルメンの仕事でしたし、ネットだと未経験が入りやすいみたいな話がありますが、実際は元電気屋とか元水道屋の元職人達が多いので、未経験で入ってきたっぽい人達が苦労してるのを見てきました。手先が不器用なので私には無理だなと思ってます。元職人達に支えられてる業界なので、未経験だらけで記録とりのルーチンはこなせても、設備トラブルによるイレギュラーには対応出来ず、現場によっては炎上(火災的な意味ではなく)してる防災センターもあるとかビルメンの人から聞いたことがあります。電気工事士を取ったのですが、その時に手先の不器用さを痛感したのと、電気の知識が交流から理解できず止まっているので、適正はないですね。免許返納したほうがいいかもしれないです。家のスイッチ交換の役にはたちましたが。清掃やってて何いってんだと思われるかもしれませんが、汚いところと暑い所が結構苦手で、トイレ掃除のたびに頭痛と胃のムカつきを感じていました。こう書いてると働きたくない理由ばかり出てくるので、元々働きたくない社会不適合者なんだと思います。割と好感な反応もあったのでむしろ驚きましたが、本当に仕事ができない無能です。私を知ってる人がこれを読んで、私のことを真面目だとか有能だとか書かれてるのを見たら全員が全員「はぁ……?」と渋い顔すると思います。思われてるほど良い人間じゃないのですみません。とりあえず貯金も失業手当もあるし、当分はゆっくり過ごして、何も考えず静かに過ごそうと思います。気にかけてくれた人達ありがとう。嬉しかったです。おわり
清掃会社人材不足でマジでヤバい
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patsatshit · 6 months
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今年の8月末日、短編小説と音源がセットになった『JAGUAR』というZINEを制作した。200冊限定ナンバリング入りで、現時点(10/13)での在庫が30冊程度となった。ところが4月にリリースした『ほんまのきもち』と違って、本作についての感想がほとんど聞こえてこない。もちろん直接口頭、あるいはソーシャルメディアのダイレクトメッセージで読後感を伝えて下さった方々は沢山いる。しかし書評と呼べるものは実はいまのところ皆無に等しい。批評することを躊躇わせる斥力のようなものが作品に内包されていたのかもしれないと密かに勘繰ってみたりした。虚しかった。そこで、である。敢えてこの場を借りて、稀有で貴重な『JAGUAR』評を紹介しようと思い立つ。当ブログへの転載を快諾してくれた評者の方々にはとても感謝している。ほんまにありがとう。早速おふたりの素晴らしいレビューを読んで頂きたいのだが、いましばらく当方の四方山話にお付き合い下さい。
まず最初に『JAGUAR』という物語がかれこれ10年以上も前に執筆していたものであるということを前提に、すでに読んで下さった方々には当時の僕の意識混濁っぷりが窺い知れる内容になっていると思う。ビルメンテナンス会社の営業職に就いて忙殺される日々、精神と肉体が泥のように疲弊していくなかで書き上げた小説。大袈裟でなく、このままでは生きるという行為を自ら手放してしまうのではないかという危うい精神状態だったが、幸運にも当時に知ることができた偉大な哲学者、思想家、精神科医たちの言葉に背中を押され、結果的に今日まで生きのびた。以下に引用した名著の言葉たちが『JAGUAR』と僕を根底から支え、励まし、作品を世に放つ機会を与えてくれた訳だ。特に大気を裂く稲妻のように強烈な『千のプラトー』は、書かれている内容がわかるわからないというスノッブな価値観を遥かに超越した位置から自分を叱咤激励してくれた。こんなにぶっ飛んだ内容の読み物は他にないし、未読の方は絶対、ぜぇぇったいに読んでほしい。
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小説は、自分の名も、自分が探しているものも、していることも、すべて忘れ、記憶喪失、運動失調症、緊張症となった登場人物、なすすべを知らない登場人物の冒険によって定義されてきた。(中略)。宮廷愛小説の騎士のすることといえば、自分の名前、自分がしていること、人が自分に言ったことを忘れることであり、どこに行くのか、誰に話しているのかも知ら��に、たえず絶対的脱領土化の線を引き、またたえず道を失って立ち止まりブラック・ホールに転落することである。『千のプラトー』ドゥルーズ+ガタリ著
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各人は、他者の世界の中での一客体であるばかりではなく、自分の世界の中で自分の体験や構成や行為がそこから生じるところの、時空間における一つの場所でもある。人は自分自身の視点をもった自分自身の中心である。そしてわれわれが見つけたいと思っているのは、まさに、他人と共有する状況において各人がもつところのパースペクティヴである。『狂気と家族』R.D.レイン/A.エスターソン著
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私にはひとつ、ことばを≪見る≫という病気がある。ある風変わりな欲動があり、それは、願望がまちがった対象に向かうという点で倒錯的な欲動なのだが、そのせいで、本来なら単に聴くべきものが、私には一種の≪ヴィジョン≫として現れるのだ。(中略)。言語活動に関して、私は自分が幻視者で、また、のぞき見の倒錯者であるような気がしている。『彼自身によるロラン・バルト』ロラン・バルト著
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そして小説版『JAGUAR』と一蓮托生の身である特級呪物、音源版『JAGUAR』については、僕が最も敬愛する女性DJにその制作を依頼した。マルコムXの演説を逆再生させたところから始まるMIXは、いくつかの世界線が交錯と混濁を繰り返し、正気と狂気の狭間を湿気をたっぷり含んだ低空飛行でかいくぐり、やがてひとつの景観ヘと辿り着くまでの過程をコラージュを交えた手法でドキュメントした、とんでもない内容に仕上がっている。揺るぎないベースライン、不意に降り注ぐ天啓となる言葉の数々、妖艶極まりない夜の気配、そして匂い。ぜひとも爆音で体験してほしい。以上のことをふまえて、OBATA LEO、moanyusky両名による書評をご覧下さい。
「JAGUAR」評① :評者OBATA LEO(ROLLER SKATE PARK作者)
土井政司の新作「JAGUAR」を読んだ。内容の理解云々以前にまず、地を這いずるような具体性の塊、描写に喰らった。自分が普段労せずざっくり物事を把握するための便利な道具として使っている言葉という同じものを使って、この作品はレンズのように細密にものを描き出す。ひとがきちんと見ずに済ませているような部分にまで光を当てる。そんな驚きもありつつ、やはり気になる。「JAGUAR」とは何なのか?
-「彼女は常に超越的な地位にあり、私たちとは隔たれた外部に位置している。そうであるにもかかわらず内部であるここにも存在しているのだからタチが悪い。絶えず外にいて内にあるもの、それがJAGUARだ。」最も端的にJAGUARについて書かれたこの部分を読んで、体内・体外の関係を想起した。普段「体内」と何気なく口にしているが、胃袋のように体には空洞がある。皮膚や粘膜などの体表に覆われて血液が流れている内部を体と呼ぶのだとしたら、その空洞は体に囲まれた「体外」ともいえて、私たちは体内に体外を抱えているという言い方もできるというわけで。それで繋がるのは、口腔内の歯の溝に落ちたタブレットを舌で触る場面である。「体内」でありながら自分では視認することのできない、舌で探るしかないその空間は確かに「体外」であるし、JAGUARもまた、己にとって内なるものでありながら断絶した他者でもあるような何かとして捉えられるのかもしれない。そんな線で読んでいくと、-「だが実際に私の目の前で何者かの手によって鍵の施錠は実行され、おまけに用心深くレバーハンドルを何度か動かしてしっかりと鍵がかかっていることを確認した。」という作品の終盤に出てくるこの部分で、文法的なエラーに感じる違和感は、そのまま私とJAGUARとの関係の違和感そのもののように思えてくる。得体の知れない何かに鍵をかけて、何食わぬ顔で電車に乗って仕事場へ行くなかでの体の軋み、のような何か。体といっても、いわゆる「(近代的な)身体」というキーワードで片付けるにはあまりに繊細な、大いにパーソナルな部分を含む体の感覚が、この作品にはあると思う。
出かけた「私」は、電車のなかで女性が着ている服のボーター柄の反転を目にするが、ここまで読み進めてくると、気持ちの良い幻惑に襲われはじめる。異常にディティールが詳しいのでそうと気づいていなかったが、やはりこのフィクションの中で起こる出来事たちは、出来事の形をとった何か夢やイメージのようなものだったのではないか。そして冒頭のリフレインまで突き当たると、この作品は初めから何についての話だったのだろうかと、今までひとつひとつ理解しながら読んできたはずの物語が全く違う相貌を携えているように見えてくる。そんなぐにゃんとした気持ちになるのは、良い小説を読む醍醐味のひとつだ。
「JAGUAR」評②:評者 moanyusky(音楽レーベルprivacy主催)
当たり前の様に無造作にある事で、それを見るか見ないか、それだけのことだと思います。土井政司の最新作「JAGUAR」を読みました。ここではJAGUARとなっていますが、人によってそれの名称は変わると思っています。よくわからぬ相手との対話や闘いがあるかどうかというところが、この作品の感じ方が分かれるところだと思っていて、私はどちらかといえば、その相手に困らされた事があったので、この作品を読んで、え!土井さんもやったんやとびっくりしました笑。ここは勘違いして欲しく無いところなのですが、人それぞれという言葉があるようにそれは一緒ではないのですが、構造はかなり近いと言ったような事でした説明がつかないわけですね。私は人の「想像」は人を殺しにかかるような死神として、隙があれば、それは現れるわけです。世の中ではアートであったり、想像力は良いように言われていますが、全くもってそれは何かが隠されているわけで、私は良かった試しが無いわけです。出来れば普通のルートで現代社会を楽しみたかったです。でも多分知っていくという事はそういう事なのかもしれない。想像力に悩まされてきた身としては、この作品は、別の場所で、それと闘って、きっちり答えが出ているというところ、しかも、10数年前の作品という事で、私は土井さんに出会って、色々な対話を交わして、初めて彼の濃厚な苦悩との生活に出会う事となったわけです。各人の時間軸が理解の範疇を超えて、重なり合って手を取ったのだと思っています。その時に置いてきぼりになってしまう、その真ん中で産まれゆく、刻まれた何かがずっとどこかで成長していたら、人は正気を保てるだろうかと思ってしまいます。誰かが入ったであろう、部屋のノブをあなたは回せるかどうか。私はそれには名前をつけなかったが、もう二度と会いたくないですし、いつまた来るのだろうと、恐れを感じます。彼は人が地面を無くした時に現れるように思います。浮遊した瞬間、命をもぎ取ろうとする。
でもそれはオカルト的なアレとか、スピリチュアル的なアレなんてものではないのですね。確実に自分、自分を構成する設計図の謎のようにも思え、それが薄らぐために生活をやり、音楽をやり、愛し合い、話し合い、何かを育てるのだと思います。現実社会で経験した摩擦は地面をはっきりさせ、そいつのいる世界から距離が出て、薄めてくれるように思うわけです。だからこそ。JAGUARの言葉を借りれば「痛みと不安から自分自身を取り返し、その自分に立ち止まるために語りを紡ぎ出す」。が救いの言葉となっているように思います。2部構成で出来上がる、この作品のバランス感覚は、人と創作の関係性をSFとして描いているように感じます。同じ場所にて語る事は嫌がられるかもしれませんが、私が映画を観に行った時に続々と子供たちが外へ出て行った宮崎駿の最新作「君たちはどう生きるか」を出したタイミングと、土井政司がこれはいけると思ったタイミングで出されたJAGUAR。それは何もかもを抜きにして考えると、世の中の人たちに対して彼らは同じことを思っているのだと思います。今それを出さなければならなかった。その「灯り」の意味を考えなければならないのです。
〆はもちろんこの曲で!
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tecchaso1988 · 1 year
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#読書 #自分の意見で生きていこう #ちきりん ⁡ ちきりんシリーズ第4弾 この内容を踏まえて自他分析をすると楽しいです笑 ⁡ ⁡ #読書メモ ⁡ 世の中にも人生にも正解のない問題がたくさんある。そして、正解のない問題に自分なりの答え、すなわち意見がもてなければ、人生も生活もぐちゃぐちゃにされてしまう。 ⁡ 人生における大切な問題には、学校で習った算数の問題とは異なり、どれも唯一の正しい答えなどない。だから、正解のない問題について自分の意見が明確にできなければ、自分のオリジナルな人生を作っていくことができない。 ⁡ 学校的価値観=あらゆる問題には正解があると思い込んでしまう価値観 ⁡ 世の中には専門家でも正しい答えなど提示できない問題が存在する。 ⁡ 正解のない問題に対して、間違った意見も正しい意見も存在しない。さまざまな人のさまざまな意見が存在する。 ⁡ すべての問いには正解があるはずと誤解していると、考えることに時間をかけず、ひたすら調べることに没頭してしまう。でも、それではいつまでたっても問題は解決できない。 ⁡ 自分とは異なる意見を目にしても、それは間違っているのではなく、あなたの意見と異なるだけ。 ⁡ SNSが普及したことで、自分とは異なる他人の意見をよく目にするようになった。意見が違うのは当たり前、意見には正しいも間違いもないと理解できない人は、すぐクソリプ(くだらない無価値な返答)をしてしまう。 ⁡ あなたの意見は間違っている、私の意見は違います、といった典型的なクソリプを言っている人の多くが、自分の言葉が無意味なものだとは気付いてない。 ⁡ カリスマとは正解を知っている人ではなく、正解のように見える他人の意見にとらわれず、自由に発想・思考し、自分独自の意見をしっかり確立できる人。 ⁡ 自分の意見を言う、とは自分のポジションをとること。発言によってその人がどこに立って発言しているかが明確になれば、それは意見と言える。それらしく聞こえても、その人のポジション/立ち位置がどこなのかわからない言葉は、意見ではなく、ただの反応。 ⁡ 他者の意見に否定するなら、まず自分の意見を明確にするのが礼儀。意見を表明した人に質問したいなら、まずは自分の意見を明確にするのがマナーじゃないか。 ⁡ 1億総反応時代。 最近は反応するのが極めて簡単。いいねを押すだけ、スタンプや絵文字を送るだけ。誰でも発信できる時代であっても、ネット上では大半の人は意見など発信しておらず、単に誰かの意見に反応しているだけ。 ⁡ インターネット普及前までは、意見を発信するには自分で考え、言語化しなければならなかった。SNSは考えないと発信できなかった時代を、考えなくても発信できる時代に変えた。SNSが人気なのは、意見がない人でも、あたかも意見のように見える反応を発信できるようになったから。 ⁡ ネット上のコミュニケーションは、ごく少数の意見と、数多くの反応で成り立っている。意見と反応を区別できる人が少ないため、ネット上では、意見と意見をぶつけ合って議論しているように見える。実際には、意見を表明した人に、多くの反応がぶつけられているだけ。 ⁡ 一番やっかいなのは、反応しかしていないのに、意見を言っているつもりの人。 ⁡ 一定量以上の意見を表明すると、ある時点からその意見の集合体がその人の自我や人格を形成し始める。一方、反応はいくら集まっても人格を形成したりしない。思考を経ずに出てきた反応をいくら見ても、その人の思考回路も思考プロセスも見えない。 ⁡ 反応をいくら重ねても、ファンがついたりフォロワーが増えることはない。 ⁡ 人生の分岐となるような重要な問題に関して自分の意見を明確にしないのは、意思決定を先送りし、なにも決めず、一歩も前に進まないまま年齢を重ねていくという選択肢に過ぎない。 ⁡ SNS時代はごく身近に、突然ものすごく広い範囲から承認される人が登場してしまう時代であり、それにより広く承認されない自分に焦ったり悩んだりして落ち込んでしまう人も増えてしまっている。 ⁡ ネット上の人格がリアル社会における人格と同じくらい重要になりつつある。一部の業界では既に、履歴書よりネット上での発信のほうが重要という時代が到来している。 ⁡ 承認を得るために必要な情報とは、その人がどんな人なのかよくわかる情報(その人の意見)。発信数はとても多いのに、フォロワーが少ない人が存在するのは、その発信をいくら読んでもこの人はどんな人?というイメージが伝わってこない、そんな情報(反応)が多いから。 ⁡ 他人のSNSコメント欄にコメントを書くのはとてももったいない行為。なぜならそこは、コンテンツを発信している人の庭であって、あなたの場所ではないから。 ⁡ リアル社会でやらないことは、ネット上でもやらないこと。今まではリアルとテレビの中の世界は分断されていたから何を呟いても誰にも届かなかった。今はスマホに向かって呟く行為は、画面の中へ直接届くものとなる。 コメント欄に続メモ https://www.instagram.com/p/Cp0AXvwvspY/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ari0921 · 1 year
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和五年(2023)3月26日(日曜日)
    通巻第7685号
次のリーマンショックはドイツ銀行が震源地となるかも。
シュルツ連合政権の混迷。ドイツがユーロから離脱するシナリオ
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欧州でも銀行株が下落している。とくにドイツ銀行の株価は3割下落した。スイスの金融大手UBSによるクレディ・スイス救済買収後も、次の信用不安の可能性に投資家は疑心暗鬼となったからだ。
ドイツ銀行の夥しい過去のスキャンダルのうち代表例を思い起こしてみよう。
2013年12月5日、警視庁はドイツ証券社員が三井物産連合厚生年金基金の常務理事に対し、高額な接待を頻繁に行ったとして、贈賄の疑いで逮捕した。
2015年12月15日、日本の金融庁は証券取引等監視委員会が検査の結果、ドイツ証券アナリストが東証1部上場会社の決算に関する情報を公表前に入手し、同社職員や顧客に伝えていた事実が認められたためドイツ証券に業務改善命令を出した。
 2016年8月には、アルゼンチン支店をコマフィ銀行(スペイン語版)に売却した。 これによりドイツ銀行は中南米市場から撤退した。
2017年4月には中国の海航集団がドイツ銀行筆頭株主となった。ところが、海航集団は倒産寸前となって2018年に独銀株を売却した。同集団は王岐山と密接な関係があり、ドイツ銀行が経営にふらつき赤字転落した折、メルケルが訪中し、出資を頼み込んだ経緯がある。
同年7月、中国の大富豪で米国に事実上亡命していた郭文貴が「ドイツ銀行の筆頭株主である海航集団が中国共産党中央規律検査委員会書記王岐山と関連する資金洗浄でアメリカ政府に調査されている」と発表した。
ニューヨーク・タイムズ(2019年10月14日)はドイツ銀行のCEOだったヨゼフ・アッカーマンが江沢民、温家宝、王岐山ら中国共産党幹部に贈賄や縁故採用などを行ったと報じた。
その後、2023年3月15日になってNY連邦検察は、中国共産党最高指導部の腐敗を告発し続けてきた郭文貴を詐欺などの疑いで逮捕、起訴した。
2017年にはロシア人の富裕層による数十億ドル相当の資金洗浄(マネーロンダリング)をドイツ銀行員が手助けした疑惑があり、罰金4億2500万ドルを支払った。
パナマ文書関連では2018年11月、マネーロンダリング捜査でドイツ銀行に総勢170人もの警察官や検察官、���務調査官らが家宅捜索に入った。
2019年7月、従業員の2割(18000人)の削減、株式売買業務から撤退し、リストラを実施していた。
日本ではドイツ銀行グループとして、ドイツ銀行、ドイツ証券、ドイチェアセットマネジメント、ドイチェ信託の四つが金融事業を展開している。
2006年にソフトバンクがボーダフォン日本法人(現在はSBに完全統合)を買収するおり、みずほコーポレート銀行やゴールドマン・サックス証券とともにソフトバンク側アドバイザリーとして共同主幹事を務めた。
 
▲次のリーマンショックはドイツ銀行が震源地となるかも。
2023年3月24日、ドイツ銀行株は前日比で9%安、2月末比で28%安まで下落した。銀行株は軒並み売られており、仏ソシエテ・ジェネラルが27%安、英スタンダードチャータードは25%安、オランダのINGグループは22%安となった。
2008年のリーマンショックを凌駕する規模の金融危機が迫った。
 三人の有名なファンド、学者たちの十年前の予言的発言を思い出す。
 ジョージ・ソロスは「無敵の投機家」「世界一の相場師」と言われた。つねに意表を突く投資を実行し、そのかたわらで慈善活動家のイメージをふりまいてきた。世界各地に慈善事業の足跡を夥しく残した。自由市場の信奉者で、グルジアの「薔薇革命」の黒幕ともスポンサーとも言われ、ポーランドの「連帯」にも多額の寄付、ウクライナでは「マイダン革命」の黒幕であり、トランプ大統領落選運動も展開した。
ソロスの名前を冠した大学の研究所や講座が目立つが、慈善事業の活動母体は「開かれた社会研究所」と「ソロス財団」である。とくに後者は出身地であるハンガリーを中心に東欧諸国の民主化のための政治活動に巨額を支援してきた。
 そのソロスが世界有数のパフォーマンスを誇ったヘッジ・ファンドを解散し、派手な寄付行為によりダボス会議で予言危機発言を繰り出す。
 
 ソロスは「ユーロ」の未来に懐疑的なのである。
 「ユーロの未来はドイツに掛かっている」と独誌『シュピーゲル』とのインタビュー記事の中で、ソロスは「ユーロを守るというドイツの姿勢は本格的ではない」と舌鋒鋭くメルケル前政権を批判した。
通貨投機の名人の発言に独財務省関係者、ドイチェ銀行首脳らは神経を尖らせた。なにしろソロスはたった一人で英国ポンドの空売りを仕掛け、二十億ドルを稼ぎ出した「実績」がある。
▲ドイツがユーロから離脱するシナリオ
 
 『大国の興亡』を書いた歴史家ポール・ケネディ(エール大学教授)は「国際的な決済の85%が米ドルだった時代はとうに去った」とし、「米ドルの価値は下がり、米経済はくたびれ、中国が台頭し、決済通貨は多元化する」として次のように今後の世界を予測する。
「これからの世界経済はドル、ユーロ、人民元の三極体制に移行し英ポンド、日本円は補助通貨となる。欧州は通貨統一の次は政治統一へすすむ過程にあり、まごついている時間はないはずである。中国の台頭は欧州五百年の歴史を終焉させる可能性があり、国連は無力で米ロ中は自国利益にこだわってまとまりがない。アジアの軍拡、とりわけ中国の主導を黙視すれば、歴史は違う角度への変革をとげるだろう。すなわち現在よりも深刻で問題だらけの世界がやってくることになる」
 世界経済はより深刻に一歩一歩、恐慌に近づく。
 ノーベル経済学賞に輝くコロンビア大学のジョゼフ・スティグリッツ教授は嘗てソロス財団のシンポジウムでソロスと並んで発言したことがある。
 そのスティグリッツは、「ユーロが破綻するのであれば先にドイツがユーロ圏を離脱する方が脆弱(ぜいじゃく)な債務国が離脱するより事態収拾は容易にある。つまりギリシャがユーロから離脱すれば同国通貨=ドラクマの価値は低下する」と指摘し、「もしドイツが離脱する場合は貨幣価値が上昇するだろう。そうなればドイツ・マルクで債務を支払えばよいから対応は非常に楽になる」と分析していた。
 基本的にこうしたスキームは変わりがない。
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ogawa-xd · 1 year
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「声の文化と文字の文化」
オング「声の文化と文字の文化」を読む。多くの文献がひかれていて難儀もしたが、ここ数年でも最高度におもしろかった。ページをめくるごとに刺激があり、すべての内容を読み切れてもいないが、熱いうちにまとめておく。この刺激が揮発してしまうのは、あまりに残念すぎる。
「声の文化と文字の文化」W-J・オング
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大筋:
文字の文化の前に声の文化があった。 現在われわれは、文字文化の中にいる。文字文化は手書きからはじまったが、途中では印刷という大きな波を経験し、今はエレクトロニクスという第二の波の最中である。
(ただし執筆は1982年であり、テレビやラジオが主で、コンピュータといってもインターネット普及以前でWebもSNSもない時代だ。BBSがかろうじてあったくらい。2003年に亡くなられているようだが、この時代に関する感想を聞きたかったものだ。)
われわれもはや、声の文化における思考の仕方やものごとの捉え方を忘れてしまっているが、両方をしっかりと考えて位置づけることが、未来をとく鍵にもなる。
文字の文化の前にあった声の文化の重要性。 声文化が文字のベースになっていることはそのとおりとしても、少なくとも、それは文字文化の改良以前の「劣った」前バージョンではない。別のものだ。
第1章 声としてのことば (一次的)声の文化 文字を書くことをまったく知らない人びとの文化、その人たちの世界認識のしかたは、現代のわれわれの想像をはるかに超えたものである。 ことば(声)の獲得以後/ことば(文字)の獲得以前
P.24 現存する言語:3000、そのうち文字を持っているのは78言語 自然言語 → 無意識から生じる コンピュータ言語 → 意識から直接生じる(ので扱わない)
ogawa: 彼の述べている「コンピュータ(言語)」は、インターネット/Web/SNS/ビッグデータ/クラウド/AI以前であり、コンピュータにまつわる彼の理解は今となってはあまり現実的ではない。プログラムによって自然言語を解析したり処理することも、含まれていない。 「プログラム言語」自体の言語性については、彼のスタンスで問題はないと思われるが、コンピュータが「自然言語」に影響する在り様は、印刷術(という技術)が言語に与えたインパクトに匹敵する、というかそれ以上の影響力を持っていると自分は考えている。今はまだその途上であって、途上にして大きな影響が顕在しているので、最終的にはどこまでのことが進展していくのか予想がつかないが、これは自分の最終課題である。
p.26 声 → 一次的なモデリング・システム(表現方法) → 研究が起きない → 集団的な過去に参加することによって学ぶ、見習う 文字 → 二次的なモデリング・システム(表現方法) → 研究は文字あって起きる → 「研究」によって学ぶことができる
p.33 「(ことばで表された)概念は、絶えずその語源を引きずっていく傾向がある」
p.34 ことば → 口頭での話し(声)に基礎を持つ 書くことば → ことばを ”視覚的な場に、むりやり永久に固定してしまう
p.39 声文化の人びと → 今日では文字を学びたいと強く思っているが、同時に、声の文化の心を沸き立たせる多くの愛するものを手放さなければならないことに哀惜の念もいだいている(「ピダハン」は、どうなのか?) → 「生き続けるためには、死ななければならない」
p.40 文字文化 → 先行する声文化を食べ尽くす/声文化が存在したという記憶すら破壊する しかし → 文字文化かぎりない順応性があり/完全でないにしろ声文化の記憶も再建されうる 文字文化による声文化の再建によって、人そのものの意識を高める
ogawa: [声→文字]の変遷の形式を、[文字→コンピュータ化] にシフトさせて見ることに意義がある。
第2章 近代における一次的な声の文化の発見
p.57 ホメロスの時代のギリシア人は陳腐な常套句を評価 → 声文化の認識世界/思考世界全体が、きまり文句的な思考の組立に頼っていたから → 声文化では、獲得した知識を忘れないように絶えず反復しなくてはならなかった   → 知恵をはたらかせ、効果的にものごとを処理するために、型にはめて固定した思考パターンが欠かせない
ogawa: 好きなジュリアン・ジェインズについてまるまる1ページ割かれていてにうれしくなる。細部には難を示しつつも、大筋において好意的や賞賛が感じられる。
第3章 声の文化の心理的力学
p.73 すべての感覚は時間の中でおきる。 なにかをよく調べるためには、それを静止させる必要がある/視覚は固定するのが得意で、それによって視覚は動きを記録する。 しかし、音には静止画にあたるものがない。
p.74 声文化の人にとってことばには魔術的な力がある。 かれらにとって、ことばは話され、音として響くもの、ゆえに力によって発せられる 文字文化の人はそれを忘れがち。 かれらにとって、ことばは投げだされた「モノ」で、非活動的で「死んでいる」 → 魔術とは結びつかない
p.76 「知っているというのは、思い出せること」
複雑な問題を考えて解にたどり着いたとする。その問題も解もある程度は複雑である → それらを文字や記録無しで、記憶しておくことは困難である なんの助けも借りず、もう一度思考の流れをたどり、吟味することは不可能である。
声文化の人の長く続く思考は、つねに人とのコミュニケーションと結びついている
どうするか → 記憶できる範囲内で思考する すぐ口に出せるくらいの記憶(量)に基づいた思考に留める
口に出せることが、記憶を助ける → 強いリズムを持つ、均衡の取れた記憶しやすい「型」にはめる、反復や対句、韻を踏む、あだ名のような形容句、きまり文句、紋切り型のテーマ、などなど。
p.92 声文化の中での知識の獲得 → 何年もかけて何度も口に出して根気よく習得し憶えていなければならない → 知識は得がたく貴重で、これを保存している古老が高く評価される  (文字として知識が外化されるようになると古老の価値はさがる   /新しいことの発見者としての若者の価値があがる) → 精神は伝統主義的で保守的な構えとなり、知的な実験を禁止する
p.102 声文化は定義に無関心 辞書にあたるものがない/語の意味はつねに現実の状況に固着している(その変遷や経緯は問わない/問えない)
p.119 声文化の人に関するさまざまな実験から見いだしたこと: 声文化の人の不得手なこと → 幾何学的な図形、抽象的なカテゴリーによる分類、形式論理的な推論手続き、定義、包括的な記述、ことばによる自己分析 → だから劣っているという意味ではない → そういった能力は、テキスト(文字)によって獲得したものであるという事実
p.153 視覚は分離し、音は合体させる 聞くことの中にひたることはできるが、視覚の中にはひたれない 視覚は切り離す感覚、音は統合する感覚。 視覚の理想は明晰判明性/分けて見る、聴覚の理想はハーモニー/一つにすること 知識は究極的には、分断ではなく統合であり、ハーモニーを求めること
p.161 ことばを記号と考えること → 人間的な経験を視覚に類似したものと考えがち カレンダーや時計で時間を理解することは、時間を空間扱い(視覚物扱い)して、わかった気になっているにすぎない → 空間還元主義
空間還元主義 → 計り知れぬほど有用で、技術的な必要性が高い → 否定できない but: 空間還元主義には知的な限界もあるし、ときに人を欺く
第4章 書くことは意識の構造を変える
p.166 書くことは、どんな発明にも増して、人間の意識を作りかえた
p.174 技術は、たんに外的なたすけになるだけのものではなく、意識を内的に変化させる
p.176 道具をみずからの一部とし、技術的なわざを学習することによって、人間が非人間的になることはまずない。むしろ、技術の使用によって、人の心は豊かになり、人間の精神は広がり、内的な生は密度を濃くする。
p.201 印刷物によって、書くことが人々の心に深く内面化されるまでは、人びとは、自分たちの生活の一��一瞬が、抽象的に計算される時間のようなもののなかに位置づけられているとは思ってもいなかった。中世、さらにルネサンス期になってもまだ、西欧の人びとの大部分は、いまが暦のうえで何円にあたるかといったことを日常生活のなかで意識していたっとはとても思えない。
p.223 文字言語の語彙が豊かになりはじめたのは、書くことにともなってだが、その豊かさの開花は印刷のおかげである。 文字言語があるところには、その文法と慣用がならずある 秩序(文法や慣用)という概念そのものの感覚的な基盤は、かなりの部分、視覚(文字言語が書かれ印刷されること)にある。
第5章 印刷、空間、閉じられたテクスト
p.242 印刷が → ルネサンス、宗教改革、近代資本主義、大航海時代を引き起こし → 生活と政治、知識を広め、万人識字、近代科学の興隆、社会的、知的生活を変えた そして印刷が人の意識を変えた
p.249 印刷によって、聴覚優位から視覚優位が確固たるものになった。 読みやすさ、速読、黙読を可能に。 語を空間の中に位置づける〜空間の中に釘づけにする → 索引、リスト(一覧表)、内容とレッテル(タイトルページ)、図像的なレッテル
p.260 版面が意味を運ぶ 正確に反復できる視覚情報(※ページの統合的なデザイン/デザインルール) → 近代科学はその一つ:正確な観察を正確な表現に結びつけたこと
p.263 タイポグラフィックな空間/空白 活字の作りだす空間 → 科学的想像力、哲学的創造料、文学的想像力に、はたらきかける
p.266 印刷が → 西洋人の認識のエコノミー「心性」に直接的影響を与えた → レトリック(声の文化にもとづく)技術を学問的教養の中心から追い出した → 数学的分析、ダイヤグラム、チャートによって、知識の数量化をおしすすめた → 辞書(あらゆることばを網羅)、正しい言語規則を打ち立てる欲求を喚起 → 小さく持ち運びできる本 → 一人で静かに黙読 → 内容の私有感覚
p.270 印刷は → テクストが閉じられている感覚をうながす → テクストの「内容」が、ある終わりによって区切られ、「完成」しているという感覚
認識の場が閉じられている感覚 → 書くことにより、思考は、対話相手から切りはなされ、紙面に隔離される
印刷物は → どんな反論にも無関心 → 内容(発話と思考)は、独立し、自足し、完全なものとして提示される (印刷は、同じ作品についての、まったくおなじ視覚的、物理的堅牢さをもった何千部もの版本のなかに、その作品の思考を閉じ込めてしまう。)
第6章 声の文化に特有な記憶、話しのすじ、登場人物の性格
p.285 物語は、いつどこでも、言語芸術の主要なジャンル もっとも抽象的な言語芸術形態の根底にさえ、物語は存在する。 人間の知識は、時間(と、それにしたがう物語)から生まれる。 → 抽象的な科学的知識の背後にさえ、観察の物語があり、抽象的な知識は、そうした物語にもとづいて定式化される。 → 実験室の学生たちは、実験結果を「書きあげ」なければならない。つまりおこなったことと、それをしたときに何が起こったのかを物語らなければならない。ある種の一般化や抽象的結論が引き出されるのは、物語からである。
第7章 いくつかの定理〔応用〕
p.363 声の文化と文字の文化の相互作用 → 人間の究極の関心と願望(としての宗教)にもかかわる   → 宗教的伝統は、声の文化に根ざした起源をもち、話されることばを重んじている   → また聖なるテクスト(ヴェーダ、聖書、コーラン)の発展によって内面化された
p.364 声の文化と文字の文化に関する問題は、いまや無数にある。 声の文化と文字の文化の力学は、現代の意識の進化の流れである、いっそうの内面化と開放にむけて合流していく。
(220929読了)
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ophelia333k · 9 months
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2023年6月24日 アルミホイル、神さまは牢獄の中にいる
 ネットカフェ、天井にはアルミホイルみたいな質感の何かで包まれた太いパイプが通っていて、すぐ近くに一本、人ひとりが入れそうなくらいに太いパイプがある。それら二本のパイプの後ろには細くて黒いコードが何十本も通っていて、それらが何を伝達していて、どこに繋がっているのかは分からない。もちろん、コードで伝えられているものは電気のはずで、でもその電気がどこからやってきてどこへ向かっているのかは分からない。
 ***
 世界について知れば知るほどに世界に対して失望していくし、文学について知れば知るほどに文学に失望するし、物事はどれも知れば知るほどに何かが失われていく。そのとき失われているものといえばそれは幻想で、人は幻想によってのみ駆動されている。
 とはいえ、「お前は世界について、文学について、何を知っているんだ」と問われたのなら、もちろん何も知らない。いや、ほんの少しだけ知っていて、それは1%にも満たないようなことだけど、ほんの少しだけ知ってしまうことでも失われていく。ほんとうは何も知りたくないし、知ることの何がいいのだろう、と問いかけてみる。分かったからといって何がよくなるわけでもない。知らないよりも知っている方がいい、というのは常識的だけど、そんなわけがなくて、私たちは何も知らない方がよいのに、知識という暴力性を求める。
 だから、というわけではないけれど、全知全能の神になんてものになったら自分はきっと絶望して、発狂してしまう。だって、全知全能であるということは、何も知れないし何もできないということと完全に同じなのだから。
 すべてを知っていてすべてのことができる、というのは、すべてが既知ですべてが完全に固定されている世界で生きるということで、そのときの絶望を考えるだけで身がすくんでしまう。そこでは何も新しいことは起きないし、すべてが可能であるということによって、すべてが不可能になる。不可能という空白地帯(外部)が存在することによって可能という領域が初めて現れるのだから、不可能の存在しない世界にはいかなる可能もなくて、のっぺりとした平らな世界だけが無限に続くことになる。
 神さまは、そんな中でどうして絶望して発狂せずに絶えていられるのだろうけれど、むしろだからこそ、神さまは人間ではない存在でなけれならない。人間のような心や精神を持たない存在でなくてはいけない。
 シオランは『生誕の厄災』の中で、「神こそはもっとも追いやられている存在であり、牢獄の中にいる」というようなことを書いていたはずだけど、どうしてもクレジットカードの分割払いの引き落としに耐えられないときに『生誕の厄災』を売ってしまったので、確認することができない。でも、そういう一文が確かにあったと思う。
 そして、今はその意味が(自分なりにだけど)とてもよく分かる。全知全能である、ということはひとつの絶望であり、神は全知全能という逃れえない牢獄の中に閉じ込められている。
 ***
 一昨日くらいにメンタルクリニックに行って、コンサータの処方のために、心電図検査と採血をした。あとは、流通管理システム患者登録の紙を渡された。採血のとき、思ったよりも時間が長いので、このまま看護師さんに殺されてしまうんじゃないかと思った。意識が少しふらふらした。近くにある別の診察室から、「私は錠剤をのみ込めないので、錠剤タイプの薬は絶対ムリです。それ以外にしてください」と語る患者の声が聞こえていた。支払いのとき、検査代も込みで6000円くらいしたし、それに加えて薬の値段も一か月分で2000円くらいはしたので、お金がないとメンタルクリニックには来れないな、と思った。生活がどん底で精神がどん底のときに、これだけのお金(テーマパークにだって行けてしまう)を払うのは簡単ではないはずだから。
 久しぶりにアトモキセチンの80mgを飲んでいるけれど、対して効果は感じていなくて、それでいて口の中が常に乾くし、食欲がなくなっている。何かを食べるにしても、もやのかかったような食欲しかない。純粋な、食欲そのものは消滅して、ときおりぼんやりとした食欲が顔を覗くだけになる。元々の無気力さも相まって、決してお腹が減っていないわけではないけれど、食べることがあまりにも面倒くさくて、どうしようと思う。頭痛がないのは幸いだった。
 自分はコンサータに対してある種の期待をしていて、それは何かしらの変化をもたらしてくれるかもしれない、という期待。思えば、幼少期の頃はそれと同じような期待を、お風呂場の中で、自分の思考をすべて読んでいる(かもしれない)曖昧な神さまに懸けていた。初めから神さまは大脳皮質の奥にしかいなかったのかな。
 ***
 知る、ということに関連する話として、古今東西の文学を読み続け、それこそ文学賞の審査をするようになったような人たちは、文学に対して退屈しないのかな、と思うことがある。つまり、彼ら彼女らはもう文学というもののパターンを大方把握していて、だからこそ応募された作品を評価できる。それぞれのタイプの作品のパターンをすべて知っているから、「この作品はこのパターンに乗った上で、この辺りの展開や要素を変えているんだね」と判断できる。でも、全体像とすべてのパターンを把握してしまえたとき、自分はそこに幻想を持てるのだろうか。何かを期待して、何かを待ち望めるのかな。
 もちろん、パターンを把握した上でも、常に差異はあるし、新しいパターンの出現だってありうる、のだけど、やっぱりその状態で楽しんで作品を読める自信がない。この意味で、これはさっきの神と全知全能の話と近づくところがある。人間は(幸運にも?)全知全能にはなれないとはいえ、物事を俯瞰して見られるようになってしまった時点で終わってしまう何かがある。メタとベタの切り替えのためのスイッチが壊れてしまったのなら、すべてはのっぺりとした平らな世界になってしまう。あるいは、前回か前々回の日記の内容とも繫げるのなら、それは離人症の問題とも隣接する。
 この世界が原子配列のパターンにすぎなくても、それでも世界が無限に多様であるように、作品が要素の集合にすぎなくても、それでも作品は無限に多様でありうるのだけど、どこかで自分はそれを信じ切れていない。
 ***
 二階堂奥歯の『八本脚の蝶』を読み返していた。読み返すのは何度目かで、今回思ったのは、二階堂奥歯にはある種の絶対的な孤独(孤独、という言葉はたぶん正しくないのだけど)があって、しかし同時に、それは二階堂奥歯の周りに人がいないということではなく、むしろ彼女の周りには、それなりに彼女のことを思っているであろう人間がいる。でも、どうにもならないのだ。当たり前のこととして。
 あとは、引用の多さ。その引用は根本的に「根拠を欠いた(=無根拠な)」世界にあって、それでも自分という存在を世界につなぎとめるための楔のようにも見える。
 二階堂奥歯が引用しているものの中では、『聖マルガリタ・マリア自叙伝』を読みたくなる。「私は、苦しみなしでは一瞬も生きることができませんでした。私が苦しめば苦しむほど、私は、もっとこの愛の聖性に満足しました」(『八本脚の蝶』からの孫引きでp262)。
 
 奥歯はこの引用箇所こそが自分にとってのマゾヒズムだと記していて、このとき面白いのは、当然だけど聖マルガリタ・マリアが生まれたのは1647年であり、マゾッホが生まれた1836年よりも200年近く早い。だから当然「マゾヒズム」なんていう概念も存在しない時代のことで、しかしそこには間違いなく、ある種のマゾヒズムがある。
 ただし、彼女たちは「性的興奮」を得ているわけではないだろうし、言葉遊びになってしまうけれど、それは「聖的」なものでしかありえない。でも、鞭で打たれる人間が快楽を感じたとして、それが「性的」なものであるか「聖的」なものであるかを区別することなんてできないわけで、社会の編成の問題になる。
 
 あと、直感としては、絶対者(神)の失墜とサディズム/マゾヒズムの概念の誕生は関係していると思う(だってそれらは絶対者のパロディだから)けれど、そもそも、クラフト=エビング(1840-1902)がサドおよびマゾッホという二人の作家から「サディズム」と「マゾヒズム」という症候を分離した背景には精神医学の台頭もあるわけだから、そこでは複雑な線が絡み合っている。
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 恐山、Youtubeの番組で「アイドルに必要なことは?」と聞かれて、「短所を伸ばすこと」と答えていて、あまりにも的確だと思った。最も短い文字数で最も本質的なことを言っているし、正当な形で本質の槍が振るわれている。
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 スマートフォンのGoogle choromeのタブの数がもう表示されないくらいに増えていて、おそらく1000個以上はある。そして、それは自分の脳も同じで、1000個くらいのタブがつねに開かれたままになっているから、物事を一つも進めることができない。本来の自分は常に過眠ぎみで、それは明かな実行機能の悪さとも関連している。
***
 メルヴィルの『バートルビー(Bartleby)』を読んだ。ウォール街の中心で、代書人として雇われたバートルビーは、真面目に仕事をこなす一方で、「そうしない方が好ましいのですが」(I would prefer not to)と言って機械的にすべての頼みを拒み続ける。思ったのは「I would prefer not to」の訳が訳者によってそれぞれ違うということで、杉浦銀策の訳だと「その気になれないのですが」だった。
 この短編におけるバートル���ーは解けない問いのような存在で、語り手は理由も語らず、不条理にすべてを拒むバートルビーを様々に理解しようとするものの、バートルビーはどのような理解もすり抜けていってしまう。
 そういえば、『批評と臨床』でドゥルーズはバートルビーは〈意思がまったくなく、虚無を求める意志というよりも、意思の虚無なのである(憂鬱症的「否定主義」。彼らは、石と化し、意思を否定し、……〉と書いていた。バートルビーは意思がない人間なのではなくて、むしろ意思を否定する意思。
〈緊張症と食欲不振症の徴候を示してはいても、バートルビーは病人ではなく、病めるアメリカの医者、呪医であり、新たなるキリスト、あるいはわれわれすべてにとっての兄弟なのである〉(G・ドゥルーズ『批評と臨床』、p186)
 ***
 これで最後。市川 沙央『ハンチバック』のラスト、身体障害者の女性が不幸な風俗嬢としての生を仮構して語ることと、不幸な風俗嬢が身体障害者の女性の生を仮構して語ることが、裏返しうる形で提示されることについて。村田紗耶香以外の選考委員は否定的だった記憶があるけれど、むしろあのラストは重要だったのではないかと思う(でも、どうして?)
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takahashicleaning · 10 months
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TEDにて
デアンドレア・サルバドール: 低所得世帯の光熱費負担を低減するために
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
毎月、何百万人ものアメリカ人が不可能な選択、つまり 家の光熱費を払うか、それとも食料や薬などの生活必需品にお金を使うか、という選択を迫られています(注意、薬は日本には、国民皆保険があります)
TEDフェローのデアンドレア・サルバドールは、誰もこのような決断をしなくて済むように、光熱費を安くしようと努力しています。
この短いトークでは「光熱費を抑えるために、低所得世帯を支援するだけでなく、それと同時に、すべての人のためのより環境に優しく、信頼でき、支払い可能なエネルギー利用の未来をも築く」という彼女の計画について語ります。
現在、アメリカは、年間30億ドル(日本円で3000億円くらい)以上を光熱費の補助に充てています。
私が子どもの頃、いつも曽祖母の家で時間を過ごしていました。蒸し暑い夏の日には、部屋の中を突っ走ってその家にただ1つある冷房の前に顔を突き出していました。
しかし、その単純な経験は、わずかな時間のことながら地域社会の中では特権だとは、気づきませんでした。
大人になる中で近所の人たちが、電気ガス用の偽物の口座を開いたり電気やガスを盗んだりしなければならないという話は、当たり前のことに思えました。
アメリカでは氷点下が当たり前なため外に出ると凍死してしまう冬には、なんとか暖を取るためにメーターを迂回せざるを得ない人もいました。
ガスの供給を止められた後、あと1日、家族が快適なままでいられるようためにです。このような危険な行為は、不可能な選択を迫られた時に常習化することがあります。
アメリカの平均的な家庭では、収入の3%が光熱費に使われています。これに対し、貧困家庭や地方に住む人は、20%。それどころか30%を光熱費に使うこともあります。
2015年には2,500万人が、光熱費を賄うために食事を抜きました。光熱費が負担となる事例です。
しかし、光熱費の負担は、金額以上のものがあります。不可能で危険な選択を迫るのです。お子さんがインフルエンザの時、薬を与えますか?それとも食べ物を与えますか?それとも暖かくしてあげますか?
これらは不可能な選択でほぼ毎月、700万人が薬かエネルギーかの選択をしています(注意、薬は日本には、国民皆保険があります)
遥かに大きく構造的な問題が、ここから明らかになります。光熱費の負担が大きい家庭は、有色人種に偏っていて白人家庭よりも単位面積当たり多くの光熱費を払っています。
しかし、看護師や退役軍人、学校の先生も基礎的な生活に欠かせないエネルギーの支払いができない年間3,700万いるこのような人たちの一部です。
その結果、光熱費の負担が大きい人は、心臓病やぜんそくなどの危険性が高くなります。
いいですか。火星に飛ぶロケットやポケットに入る人工知能があるからには、これらの構造的な不平等問題に取り組む手段だってあります。技術は手元にあるのです。
再生可能エネルギー、断熱材、マイクログリッドやスマートホームといった技術の価格はいずれも下がっています。
しかし、価格の均衡に近づいても太陽光パネルを所有しているのは、平均より遥かに稼いでいる人たちが大半です。こういう訳で私は22歳の時、非営利団体RETIを立ち上げました。
我々のミッションは、地域社会や公益事業体や政府機関などと手を組み環境に優しいエネルギーや効率的なエネルギー。エネルギー技術を公平に供給することで光熱費の負担を和らげることです。
しかし、一方的なやり方では解決できません。私は地域社会の力や人々のつながりによって変革が起こる効果を信じています。光熱費の負担が最も大きい地域社会と直接協力することから始めました。
我々はワークショップやイベントを開き、地域の人々にエネルギー貧困や窓の断熱や温水暖房機などのちょっとしたリノベーションでさえ長い目で見れば効率の最大化につながることを学んでもらいました。
我々は、地域社会が保有する太陽光パネルに住民たちをつなげ地域社会が主体で行うスマートホームの調査や設置プログラムの先頭に立つことで一家の光熱費を抑えられるようにしています。
選挙で選ばれた役人と直接的に協働し、より公平な公共料金設定を主張しています。なぜなら、このエネルギー利用の公平性と強じん性の構想を実現するには持続可能なやり方での協力が必要だからです。
こんなに債務上限問題で毎年、紛糾しているのに・・・実は、現在、アメリカは年間30億ドル以上を、光熱費の補助に充てています。
これでもこれらのプログラムは確かに何百万もの人の役に立っていますが、助けを必要とする人のほんの一部しか支えることができません。
実際のところ人々が払える料金と実際の電気料金の間には470億ドルの差があります。これらの補助金だけでは、持続可能ではありません。
しかし、エネルギー利用の公平性と強じん性を地域社会に確立することで環境に優しく信頼できて支払い可能なエネルギーを平等に漏れなく利用できるようになります。
大きな規模では、マイクログリッド技術、クリーンテクノロジーや効率的なエネルギー利用は、公共衛生を大幅に改善できます。
光熱費の負担が大きい家庭では、収入の20%を取り戻すことができます。家計のやりくりに苦労している人の収入の20%です。人生が一変する出来事です。光熱費が浮いたお金で家族の将来を支えることができるようになるのです。
私の曽祖母と近所の人々、彼らが迫られた不可能な選択。それが地域社会全体に及ぼした影響を思い返します。
しかし、彼らだけの話ではありません。今でも国内で何百万もの人々が、同じく不可能な選択を迫られています。光熱費の多大な負担は乗り越えるのが難しい壁ですが、地域社会と技術がつながることによってその壁を乗り越える方法が私たちにはあります。
その壁を乗り越えたとき私たちの強じん性はもっと高まるでしょう。
ありがとうございました。
(合成の誤謬について)
合成の誤謬とは、ミクロの視点では正しいことでも、それが、合成されたマクロ(集計量)の世界では、必ずしも意図しない結果が生じること。物理学では、相転移みたいな現象です。性質が変わってしまうということ。
ミクロのメカニズムが個人同士の経済における仕組みであるのに対して、マクロのメカニズムは、国家間や経済全体の循環における仕組みだからである。
例えば、家計の貯蓄などがよく登場するが悪い例えです。前提条件が、所得が一定の場合!!所得が一定じゃない増加する場合は?これは、論じていませんので参考になりません!!(法人が提供する製品やサービスの価格も一定の場合も前提条件です)
1930年代のアメリカ経済が金融危機2008と似たような状態に陥った時、ケインズは、「倹約のパラドックス」というケインズ経済学の法則を発見しています。
それは、ポール・A・サミュエルソン(1915-2009)が、近代経済学の教科書「経済学」の冒頭で「個人を富裕にする貯金は、経済全体を貧困にする!(所得が一定の場合)」というわかりやすい言葉で表現しました。しかし、庶民の所得が増加し、貯蓄が投資、消費に回る場合には、「��約のパラドックス」は生じません。
その後、この「倹約のパラドックス」は、アメリカの経済学者・ケネス・J・アロー(1921- )が「合成の誤謬」を数学的論理に基づいて「個人個人がそれぞれ合理的選択をしても、社会システム全体は合理的選択をするとは限らない」を検証してみせた。 要するに、部分最適ではなく、全体最適させていくということ。
つまり、新産業でイノベーションが起きるとゲーム理論でいうところのプラスサムになるから既存の産業との 戦争に発展しないため共存関係を構築できるメリットがあります。デフレスパイラルも予防できる?人間の限界を超えてることが前提だけど
しかし、独占禁止法を軽視してるわけではありませんので、既存産業の戦争を避けるため新産業だけの限定で限界を超えてください!ということに集約していきます。
なお、金融危機2008では、マイケル・メトカルフェも言うように、「特別資金引出権(SDR)」は、2008年に行われた緊急対策で、一国だけで行われたのではなく、驚くほど足並みの揃った協調の下に国際通貨基金(IMF)を構成する188ヶ国が各国通貨で総額2500億ドル相当を「特別資金引出権(SDR)」を用いて世界中の準備通貨を潤沢にする目的で増刷してます。
このアイデアの根本は、元FRB議長であったベンバーナンキの書籍「大恐慌論」です。この研究がなければ、誰一人として、変動相場制での当時の状況を改善し解決できなかったと言われています。
それ以前では、固定相場制でのマーシャルプランが有名です。
続いて、トリクルダウンと新自由主義
インターネットの情報爆発により隠れていた価値観も言葉となり爆発していくことになった。
しかし、法定通貨の方が、その価値、概念に対する通貨量拡大として価格で応じることができず、圧倒的に通貨量が足りない状況が生まれていたのが、2010年代の問題点のひとつでした。
リーマンショックの後に、新自由主義が誤りであることが、ピケティやサンデルによって指摘され、当時のFRBバーナンキ議長が、通貨供給量を大幅に増やした対策により、ベースマネーの金融、銀行間の相互不信を解消して収束した。
それでも、まだ足りないが、適正水準に収まったことで、さらに価値も増幅され、マネーストックの財政政策から再分配、事前分配を大規模に行い、さらなる通貨供給量が重要となっている現在の日本国内。
例えば
Googleがしようとしてた事は、まだ新産業として、基礎研究から発展できない機械学習の先端の成果をすべて持ち込んだ社会実験に近いこと。
シュンペーターの創造的破壊は、一定数の創造の基礎を蓄積後に、未来を高密度なアイデアで練り上げてから破壊をするのが本質です。
こうして、憎しみの連鎖や混乱を最小限にする。
アルビン・トフラーの言うように、法人と行政府とのスピードの違いが縮まらないのは、構造上の違いであって、それを補うためにプラスサムな連携するということが、必要になってくることを説いています。
三権分立が、規制のないGAFAMを非政府部門としてMMT(現代貨幣理論)からプラスサムに連携したらどこで均衡するのか?という社会実験も兼ねています。
このような前提で、あらゆるインターネット企業が、創業時、貢献するためコンセプトの中心であったものが、今では、悪性に変質して違う目的に成り下がっています。
再分配、事前分配の強化がスッポリ抜けてる欠点があり、ここに明かしたくないイノベーションの余地があります!!
2021年には、新自由主義のような弱肉強食では自然とトリクルダウンは生じないことは明らかになる。
確かに、トリクルダウンは発生しないが、法律で人工的に同じ効果は、貨幣の再分配、事前分配という形にできる可能性は高い。
再分配や事前分配をケムにまく「金持ちを貧乏にしても、貧乏人は金持ちにならない」「価値を生み出している人を罰するつもりがないのであれば税に差をつけないほうがいい」(サッチャー)
とあるが、新自由主義は誤りで、ピケティやサンデルによると違うみたいだ。
(個人的なアイデア)
テレワークの普及は諸刃の剣!
少ないから価値あるが誰もができると価値がなくなり、逆に一極集中加速する危険!アメリカが今そうだ!
GAFAなど。特にIT産業などは独占化しやすいから別枠で高税率にしてベーシックインカム用に再分配システム構築できないなら独占禁止法強化する世界的な流れになっている。
アメリカとは国土の大きさが違う!ので日本にそのまま適用しても新型コロナウイルスもあるし、現在2020年時点の日本の普及率くらいが最善。これ以上は逆効果。
基本的人権という歯止めがないと薬が毒になる。
税の公平性はよく言われるが、時代が変わり、一極集中しやすく不公平が生じてるなら、産業別に税率を上昇させてバランスよくすればいい?
簡単に言うと、自由権とは、18世紀のヨーロッパ市民革命、マグナカルタによってプロトコルを源にし、言葉の定義を決めてから基本的人権の一つとして提唱されました。
憲法として日本にも導入されます!何でも自由に行うことではありません
「兵は詭道なり」戦いは、所詮騙し合いで、いろいろな謀りごとを凝らして、敵の目を欺き、状況いかんでは当初の作戦を変えることによって勝利を収めることができるものだ。
ということだが、誤解があって、憲法ある現代では、戦いの後に公開厳守が権力者の原則です。
そして
複雑性の研究からも、個人の才覚に関係なく貧富の差は生じる。
超裕福層に集中するとマネーに渋滞が生じるため、税金をかけることと現象が似ている。
こうすると平等性が増すと結果も出ている。
確かに、トリクルダウンは発生しないが、法律で人工的に同じ効果は、貨幣の再分配、事前分配という形にできる可能性は高い。
課税は、ネットワークに何本かのリンクを人工的に加えることと同義ということも、複雑性の研究からデータで明らかになっています。
日本は、消費税の運用など。課税は、強制的な交換の一形態。この知見は、MMT(現代貨幣理論)にも導入されてる。
複雑性の研究から産まれた従来とは異なる新しいマクロ経済学です。テーラワーダ仏教概念にもある欲を中和するツールとも言えます。
幸田露伴?分福?
人工的な課税をしないと、この歪みがエネルギーとして形態が相転移するので、超裕福層一族たちの幸福感が変質して心の歪みに転換していく。
人間が、一日に扱える時空間は、限定的に対して、お金はマルチバースでエネルギーが交換されるので、人間の一日で扱える許容量を超えてしまう。
ナポレオンヒル?エンスージアズム?そこには引き返せない一線というか?境界線があって、耐えられれば良いが、知らない方が幸せな場合も多々あります。
日本には古来から同様の概念があり、成金や悪徳商人とも言われる場合もある。
600万円以下に貨幣の再分配、事前分配することで社会システムの安定が強化される。
ダニエルカーネマン。詳しくは、論文を見ていただいて、日本の実情を深く考えた年収として記載しています。
直訳を指摘しても、未来を描けない人々なので、みんなは心の中で、あぁ残念な人なんだと軽蔑して下さい。
メリトクラシー至上主義、競争主義社会システム新自由主義を古代中国から、たとえて簡単に言うと乱世。
意図して均衡させて、奸雄は排除していくことが鉄則。カントの永遠平和を実現が重要に。
つまり、IT産業長者は、乱世の奸雄。テロ抑止にもなる現代では、競争時代の奸雄を排除することと同様の概念になります。
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tanakadntt · 11 months
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旧東隊の小説(二次創作)
ホッケえいひれ揚げ出し豆腐
一月か二月の頃だった。
トリオン測定ですごい数値を叩き出した新人が二人も入るそうだというのが、その夜の話題だった。出水公平と天羽月彦のことだ。
新生ボーダーが動き出して一年半になる。『旧』ボーダーという言葉が定着するほどに、時は勢いを増して流れていく。その間に、一番仕事をしたのは開発室室長の鬼怒田本吉だった。
まず、彼は異世界に通じる門の発生ポイントを特定できるようにした。次に門の発生を抑えるトリオン障壁を一時的ではあるが生成に成功、最後に門発生ポイントを誘導する装置が開発され、三門市の安心を約束する三点セットがわずか一年で出来上がる。元々の研究分野の応用とはいえ驚嘆に値する開発速度だった。
こうして、急務だった門発生のコントロールに成功した後は研究途中で放置されて���た擬似トリオン訓練室の完成、隊員増加を見越してランク戦で使う対戦ブースと八面六臂の活躍である。
短期間でこれだけのことをやってのけた彼及び彼のチームは、城戸政宗司令がどこからか連れてきた逸材だった。三門市にやってきた時には一緒だった家族とは離婚している。仕事に打ち込みすぎたせいだと専らの噂だった。
開発室以外も働いた。門がコントロールできるまではいつどこで出現するかわからない。国の機関に代わって街を守るボーダー隊員たちは昼夜を問わずパトロールを行い、近界民と戦った。
三門市民は最初、胡乱な目で彼らを見ていたが、公的機関と連携した規律ある行動に徐々にボーダーの存在は受け入れられていく。根付メディア対策室室長による世論操作も功を奏していた。
出ていく人間は出ていき、かわりに大量の物資と人材が流れ込んでくる。
ボーダーにもまた人材が集まった。
まず、市民志願者第一号として柿崎国治と嵐山准が入隊する。華々しい記者会見の後、志願者はぐっと増えた。
東春秋が部隊を結成したのもその頃だ。
この時期の部隊は自由結成と言うよりは忍田や根付の意向が強く反映していた。東隊も忍田の指示によるものだった。
忍田自身も部隊を持っていたが、本部で戦闘員を統括する役職につくために解散することが決まっている。
ガラリと引き戸をあけて顔を出したのは東春秋だった。いらっしゃいませと店員が声をかけると案内はいらないと手を振って、店内を見渡す。じきに見知った顔の並ぶテーブルを見つけて近づいた。
二十二歳だと言うが、ずっと老けて見える。外見だけではない。彼に接する人間はつい彼が二十代前半の若造だということを忘れてしまう。
後ろには背が高い男女二人がやはり背の高い東を挟んで並び立つようにいた。どちらも目を引く美男美女だ。彼らは近隣の六穎館高等学校の制服を身につけていた。
さらに後ろに中学校の制服を着た少年がひっそりと控えている。前のふたりと違って背は低い。寒いのか、マフラーをぐるぐると首に巻いていた。
三人は物珍しげに店内を見回している。
「なんだ、三人とも居酒屋は初めてか」
テーブルにいた眼鏡の男が声をかけた。既に頬は赤い。手には盃を持っている。日本酒派だ。林藤匠という。ボーダーでは古参の一人だ。歳は三十一になる。そろそろ現役を引退したいとボヤいているが、いかんせん昨今の人手不足だ。
ボーダー本部建物ができたにも関わらず、旧本部ビルから動こうとしない、なかなかの頑固者だった。
「学生ですから」
と、生意気そうに答えるのは、背の高いほうの一人である二宮匡貴だった。
「あれ、根付さんから聞いてないか? ボーダーマークの貼ってある店はボーダーなら学生でも入れるようになったんだぜ」
トリオン器官の性質上、十代の隊員は増えていく。本部でも食堂は設置しているが、彼らは三門市の飲食店にも協力を求めていた。パスポート制で十代への酒類の提供はないなどの配慮がされている。
「知ってますが…」
さらになにか言おうとする二宮を東は遮った。
「今夜は明日の確認だけしに来たんです。本部で聞いたら、ここにいるっていうから」
「明日? ああ、国の視察ね。用事は、唐沢さん?」
「俺?」
テーブルの奥から唐沢克己外務営業部長が顔を出す。彼はビール派だ。既にジョッキをほとんど空けている。まだ三十そこそこだが、やり手の男だ。鬼怒田同様、城戸司令がスカウトしてきた。元ラガーマンだという以外素性を明かさない男だったが、人当たりがよい。
今夜の飲みメンバーは林藤、唐沢に加え、エンジニア冬島慎次、戦闘員の風間蒼也、木崎レイジの三人だった。風間と木崎は二十歳前なので、烏龍茶が並んでいる。
「まあ、たってないでこっちに座れよ、東くん」
「あー、ウチはウチでご飯を食べる予定なんです」
東はお供のように控える背後の三人を見やった。東隊のメンバーだ。
「ここで食べていけばいいよ」
「はあ」
少しだけ、東の心が揺れた。老成しているとはいえ二十二の青年だ。気楽な酒の席は魅力的だ。
「大丈夫です。俺たちは帰ります」
東の心を見透かしたように、二宮が後ろの中学生の背を押して店の入口に向かおうとする。
「東」
林藤は声をかけた。
「みんなで食べてけよ。唐沢さんの奢りだ」
「あなたじゃなくて、俺ですか?」
急に振られた唐沢が満更でもなさそうに笑った。確かにこの男前は今日の面子の中で一番地位が高く、懐も暖かい。
「あら、素敵。せっかくだから、ご馳走にならない? 二宮くん」
そこで初めて、女学生が口を開いた。こちらも生意気な口調だが、軽やかでトゲトゲしいものを感じさせない。
「加古」
「ねえ、三輪くん?」
「……」
急に話を振られた中学生は無表情のまま首を傾けた。
「わかりません」
「東さんがここでお酒を飲んでるとこを見てみたくない? 面白そう」
三輪は悩みながらうなずいた。
「ほら、三輪くんもそう言ってるし」
「言ってないだろう」
「言ってないです」
「わかった、わかった」
いつもの掛け合いが始まりそうになって、東は決断する。一応、上役たちの前だ。
「ごちそうになろう。唐沢さん、ありがとうございます」
東が頭を下げると、揉めていた三人がピタッと止まって、同時に頭を下げた。よく訓練されている。東を猟師になぞらえて獰猛な猟犬を三匹飼っていると言っていたのは誰だったか。
「遠慮せずたくさん食べなよ」
唐沢はいつもの人当たりのよい笑みを浮かべた。
「追い出された」
案内されると同時に、風間と木崎が東隊の猟犬三匹のテーブルにやってきた。テーブルが窮屈になったらしい。
今夜はボーダー戦闘員と唐沢の交流会であるらしかった。
風間の兄は林藤の弟子だった男だ。故人である。木崎は東から狙撃手としてのスキルを学んでいるので、東隊の面々とは面識がある。今は林藤に従い旧本部ビルに寝泊まりしている。狙撃以外の分野では林藤に師事していた。
一方は小柄で華奢、もう一方は筋肉隆々の巨漢だ。正反対の見かけだが、どちらも恐ろしく強かった。さらに木崎はトリオン量は二宮と同程度を持っていて近界のトリガーを使いこなす。
加古の隣に木崎が座り、二宮と三輪の隣に風間が座った。スペースの有効活用の結果である。三輪は隣が風間なので緊張する。風間蒼也は様々な思惑の絡む本部で誰からも重用され、確実に任務をこなすエリートだった。
「もう、頼んだか」
「まだです」
彼らはまだ食べるつもりらしい。
「居酒屋は初めてか」
木崎が気を使って、品書きをテーブルの真ん中におく。
店員がまとめて置いていった突き出し(お通し)を配る。
「飲み物から決めよう」
と、店員を呼んでさっさと飲み物を決めてしまう。さくさくと仕切る姿が頼もしい。三人はジュースにしたが、風間と木崎はまた烏龍茶だった。
「おすすめは、揚げ出し豆腐だな。家で作るの面倒だし」
「そういう基準か」
「寺島たちに頼まれて作ったが、たくさん食べるものじゃないし、持て余した」
寺島たちと寺島雷蔵と諏訪洸太郎のことだろう。四人は同い年で気が合うようだった。諏訪は二宮と加古の同期でもある。
「おごりなら諏訪と雷蔵でも呼ぶか」
「来ないだろ」
確かにもう遅い。
「今日の当番は?」
お酒をあおる大人席では、林藤が煙草の煙を吐き出しながら聞いた。
「忍田さんとこと迅です」
迅悠一は木崎隊であったが、先日、晴れて『風刃』所持者となり、隊を離れS級隊員となっている。
「あとは嵐山隊ですね」
なんとなく大人たちは子どもたちのいるテーブルに視線を向けた。三輪がジュースを飲んでいる。迅、太刀川、嵐山と三輪の苦手な三人だ。
「明日は俺らの勤務か」
正直、オーバーワークだ。ここにいるメンバーは皆、ワーカホリック気味ではあるが、大規模侵攻からずっと働き続けている。
「入隊志願者が増えてますからもうちょっと頑張ってもらって…。部隊が増えてくれば、部隊の輪番制に移行するって城戸さんが言ってます」
「もうすぐですよ」
冬島がエイヒレに手を伸ばしながら言う。
「そう願いたい」
品書きと書かれたメニューには写真がない。並ぶ単語は知らないものが多い。
三輪が大人たちのテーブルをチラリと見れば東は刺身の盛られた皿をビール片手につついていた。嬉しそうだ。確かに、隊長ではない東は不思議な感じがした。
「秀次は刺身か」
二宮がつらつらと品書きを見ながら勧める。二宮も初めてだからよくわかっていない。
「盛り合わせがあるぞ」
「ちょっとずつ色んなのが食べたいわ」
加古がウキウキしている。
「レイジさんおすすめの揚げ出し豆腐は頼むでしょ。風間さんのおすすめは?」
「コロッケと卵焼きだな」
間髪入れずに答える。迷いがない。
「じゃあ、それー」
「また家で作れるようなものを…」
木崎がぶつくさ言うが、三輪は蕎麦を茹でるくらいしかできない。
「二宮は?」
風間が水を向けるが、彼は熟考に入っている。
「先に頼んじゃいましょ。店員さぁん」
「加古、お前なあ」
「大丈夫だ、二宮。何度でも頼めるから」
「風間さんがそう言うなら」
注文を手早く木崎がまとめる。
「三輪は決めたのか」
「じゃあ、刺身盛り合わせ(小)で」
「あと、ホッケ」
「加古、語感で決めただろう」
「干物だな。北の魚だ」
明日、視察団が来るというのに、大人組はまだまだ飲んでいる。タバコの匂いがする。
焼肉屋ともファミリーレストランともバーガー屋とも違う雰囲気にふわふわする。
「秀次」
三輪は、二宮に揺り起こされた。ひと通り食べたあと、いつの間にか眠っていたらしい。
「中学生には遅い時間だな」
木崎が気の毒そうに言う。
「大丈夫です。すみません」
彼らも高校生なのだ。
「ほら」
おにぎりが渡された。大きい。海苔がパリッとしている。
「結局、二宮くんが選んだのがこれよ」
おにぎりを優雅に食べるという器用なことをしながら、加古が教えてくれる。
「悪いか」
「いい選択よ」
「うまいな」
風間はまだ食べている。木崎はカチャカチャと皿を重ねて、テーブルを綺麗にしている。 三輪は散々食べたあとだが、おにぎりを持って、「いただきます」と言った。おにぎりは何も入っていなくて塩がきいている。
「おいしいです」
「そうか」
「東さん、あれ酔っ払ってるわ」
三人が揃って東のほうを向くと、その様子がおかしかったのか、木崎と風間が笑った��
「明日はお前らが頑張れ」
その日はみんなボーダー本部に泊まった。
終わり
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ryotarox · 1 year
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LATCHに代わる情報の分類法 the Seven C's | Visualizing.JP 2020年1月13日
1996年の著書「Information Architects」の中で、情報の整理原則を提案しています。略語としてLATCHです。 • Location(場所) • Alphabet(アルファベット、日本風には五十音順) • Time(時間) • Category(カテゴリー) • Hierarchy(階層) データビジュアライゼーションの原理原則を学んでいる者からすると、LATCHは、1996年に作られたことや作者自身が否認していることもありますが、すべてを言い表せておらず、更新する必要性を感じています。 アルファベットとカテゴリーはカテゴリーとして同一に扱えそうですし、階層以外のネットワークが存在しないですし、数値について明示的な扱いもありません。 これらをアップデートするとして、Juuso Koponenさん, Jonatan Hildénさんが、頭文字をすべてCで統一的に扱って新たに “The Seven C’s”という略語を提案しています(Data Visualization Handbook, 2019)。覚えやすい。素晴らしいですね。これで充分ですね。
• Continuum by magnitude(大きさによる連続体) • Continuum by rank(ランクごとの連続体) • Coordinates(座標) • Chronology(年表) • Category(カテゴリー) • Connection(接続…関係性) • Convention(慣習・慣例)
- - - - - - - - - - - - - - - -
・「情報の分類」で想像するものが広すぎる難点はあるかも。「何でソートするか」に言い換えると。ソートできるものとできないもので大きく2分類できる。 ・LATCHは「MECEな5つ」ではなく、「情報は、定量性と定性性の2つで分類できる。定量的なものでよく使う3つは、名前、空間座標、時間座標、である」と、粒度が違う。「名前、空間座標、時間座標」に注目したのは慧眼。「その他の定量」「その他の定性」という具合に、「その他」があれば、まあ、なんでもこれで収まるよなあ。 ・「名前」は定量なのかという違和感があるので「ソートできる要素」くらいなのかも。序列のあるもの。
統計分析だと4つの「尺度水準」がある。 • 名義尺度:他と区別するだけ • 順序尺度:間隔に意味はないが順序に意味がある • 間隔尺度:目盛が等間隔である • 比例尺度:原点があり、間隔や比に意味がある
【マーケターのためのデータサイエンスの時間】 |デジマール株式会社
データの統計分析を行うためには,異なる尺度水準が使用されます。 データには量的データ(量的変数)という数値で図ることが出来るもの、質的データ(質的変数)と呼ばれるものの2種類があります。(略) 質的データ(名義尺度、順序尺度)、 量的データ(間隔尺度、比例尺度) に分類されます。
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kennak · 7 months
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「徳洲会」という名前を聞いたことあるだろうか。日本No.1の病院グループである。が、多くの人にとって知名度は高くはないと思うので数字を見るのが1番かもしれない。https://catr.jp/settlements/11ce8/271558直近の業績だが、凄まじい。事業収益: 4,523億円当期純利益: 459億円もし上場していれば数千億円〜兆円クラスの企業体かつ、2位以下の医療法人と収益規模で数倍の差がある圧倒的市場リーダーである。(医療法人なので通常の株式会社とそのまま比較できるわけではないが)徳洲会は、高度経済成長・都市化のひずみによって生まれた病院の数と医療ニーズにギャップのある”医療空白地帯”を中心に拡大してきた。そんな巨大病院グループをたった一代で築き上げた創業者が今回取り上げる「徳田虎雄」だが、とても"強烈"な人物である。「人命救助のためなら、人殺し以外は何でもやれ」徳田虎雄 - Wikipedia医療のためには手段を選んでいられないという考えから赤信号を守らないなど規範意識が薄く 、部下の運転手が赤信号で停止するたびに缶で頭部を殴打するなど 、グループ内では暴君として恐れられた。徳田虎雄 - Wikipedia事実彼の歩みを見ると、時にはお金の力、時には政治の力など清濁併せ呑んで病院グループを拡大してきた連続だった。言葉を選ばず言うと、こんなヤバい人がどのように圧倒的規模の病院グループを作り上げたのか、どういった考えの持ち主なのか興味が湧いた。医療法人とはいえ、この規模の事業体をつくったという意味では傑物な起業家のはずである。 ゴッドドクター 徳田虎雄 (小学館文庫) www.amazon.co.jp 803円 (2023年07月17日 20:46時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する 目次 初期病院の開業徳洲会の発足医師会との攻防成長の原動力政治への進出難病ALSを患う海外進出とプロジェクトファイナンス徳田王国崩壊と晩年番外編・徳洲会が伸びたマーケットの背景 すべて表示 初期徳洲会の「年中無休・二四時間オープン」という画期的コンセプトの1つや、医療空白地域を中心に拡大してきた原動力となったのは、徳田の幼少期の体験からだった。徳田が小3の頃、三歳の弟が激しい嘔吐と下痢に苦しんでおり、山道を走って医者を探し回ったが、やっと見つけた医者は診てくれず、弟の容態は悪化していった。夜明けに別の医者を呼びにいくが、ようやく到着したのは昼を過ぎた頃で、すでに手遅れとなった弟は亡くなってしまった。こうして医者に診療を拒絶され続けた結果として、弟が死んだという原体験、見殺しにされた怒りが「どんな患者でも診る」方向に徳田を突き動かし、「生命だけは平等だ」という理念を形成した。しかし、清い志だけの人ではない。大学時代に親族の美容院経営に肩入れし、チェーン展開させるなど商売っ気もある上に、のちに徳洲会を拡大するために総理を目指すほど野心的な人間だ。「代議士になれば、もっと病院をつくれる。総理大臣の椅子に座ろう」病院の開業https://www.tokushukai.or.jp/media/newspaper/1115/article-1.php徳田は医師として働きながら、病院を開業するために土地を探して見つけるが、土地と建物、医療機器すべて含めて1億6,000万円が開業にかかることがわかる。銀行に頼ろうにもなかなか貸してくれるところが見つからない。何件も銀行を回って、興味を持ってくれるところが見つかって面談するも、「担保物件と保証人が必要です」と断られてしまう。しかしそこで徳田は考えた。生命保険を自らに掛け、その受取人を銀行にすることで、生命保険を担保にお金を借りようとしたのだ。実際にこう掛け合う。「着工して病院を開くまで一年ぐらいかかります。もしも返済できないとなれば、病院の屋上から頭を下にして飛び降ります」すると銀行はOKと応じた。文字通り”命をかけて”病院開業資金を借りて、1年後に「徳田病院」がオープンした。徳洲会の発足1つ目の病院経営を安定させると、次の病院建設にとりかかる。医療過疎地の大東市に新病院建設の話を持ち込ませたが、市が購入した用地を競争入札で、しかも割高で購入しなくてはならなかった。だが、やらない選択肢はない。徳田は生命保険の掛け金を8億円に引き上げ、さらにお金を借り入れてベッド数200床と、1つ目の病院から3倍規模の病院立ち上げを実行した。こうして病院が増えたところで、医療法人「徳洲会」を発足させる。これを機にコンセプトが固まり、年中無休・二四時間オープン患者さまからの贈り物は一切受け取らない健康保険の三割負担金も困っている人には猶予する生活資金の立替・供与をすると掲げた。いずれも医療界の常識を覆す、画期的な声明だった。また徳田は、早くから「医療と運営の分離」を志向した。医師が診療しながら、薬や医療機器の購入、経理、人事、土地の入手まで管理・実行するのは難しい。全国展開のチェーン病院には、中央集権的な運営部門が必須であると考えた。病院の医療は院長に任せ、自分の手足となって動く運営部門を編成しようと徳田は人材をかき集め組織成長を図っていく。医師会との攻防順調に拡大していた徳洲会は、次の病院を建設するためいくつか土地も確保していたが、それぞれの地元医師会が敵として立ちはだかる。彼らは「徳洲会は儲け主義」と反発する。ある種当然ではある。徳洲会が拡大するのは医療過疎地とはいえ、患者は無限にいるわけではなく、パイの決まってるマーケットを取り合っているからだ。進出阻止をしたい医師会は、市に対して徳洲会の進出を認めるのなら、学校の校医をボイコット、予防接種を拒否する、と圧力をかける。ほかの地域の医師会も、徳洲会が病院建設用地を入手すると、徳洲会のメインバンクである第一勧業銀に取引停止を通告。医師会員の預金を全額引き出し、重圧をかける作戦をとる。しかし、結果は医師会の敗北だった。学校医のボイコットは子どもを人質にとってるように映り逆効果に、そして何よりも病院を欲しがる「民意」の追い風によって病院建設にこぎつけた。成長の原動力ゴッドドクター 徳田虎雄ここまで数年であちこちに病院を立て急成長する徳洲会の要因は、徳田の医療界とかけ離れた経営にあった。第一は、徹底的な「低コスト主義」。同時期に開院した埼玉県の市立病院と比べると違いが明らかだ。市立病院はベッド数300床で、建設費に69.7億円をかけている。それに対して徳洲会の病院は、同じベッド数300床だが、建設費は16.5億円で、ベッド一床あたり4分の1のコストで建てている。そのカラクリを徳田はこう語る。「僕に言わせれば、市民病院は市民のためのものではなくて、働く職員のためということです。デラックスで広々とした院長室、副院長室、総婦長室、外科医長室……これらはことごとく、患者にとっては無縁の設備ですよ。これに比べて、僕たちは患者のために病院をつくるわけですから、副院長室、総婦長室なんてものは、最初からつくってないわけです。理事長室なんてものもありませんよ。僕が病院に行ったら、絶えず会議室にいるわけです。」この低コスト主義は、薬剤や医療機器の仕入れと管理にも適用された。徳田は、製薬会社が個々の医師に接触して薬剤を売り込むのを止めさせて、グループ全体の薬剤の仕入れを一元管理して値を抑えるようにした。というのも、医療機関は国が定めた基準価格より安く薬剤を仕入れ、患者に使った後に基準どおりの価格で保険請求をする形だが、そもそも医薬品の値段が曖昧で、巨額の差益を生んでいたからだ。徳田はこの隠れた収益源である薬剤に目をつけた。各病院の要望を本部がとりまとめ、何が最適の薬かを見極め、一括で仕入れて配分するシステムを作った。メーカーとの価格交渉も、グループを代表して本部が行う。病院が増え、薬の使用量が膨らむと、さらなる値引き交渉が行われ、莫大な差益が生まれるスケールメリットも発生した。第二に「実力主義での人材登用」だ。医療界は閉鎖的で、教授をトップにしたヒエラルキーの元、教授の意向で、配下の医師の勤務先や序列が決まってしまうという、忠誠心が試される構造にあった。そうした構造の中、アメリカで腕を磨いた医師の多くが、帰国後は不遇な扱いを受けていた。ヒエラルキーの医局から飛び出た者は、いくら技術を高めても、忠誠心が低いと見なされて、帰国後もなかなか良いポストを与えられなかったのだ。そこに徳田は目をつけ、「アメリカ帰り」の医師を積極的にスカウトしていった。アメリカで身につけた能力が正当に評価されなかったところに、徳洲会病院の院長というポストが差し出されると、彼らは日本育ちの医師の二倍、三倍働いた。彼らは患者のために働くのは当たり前であり、「年中無休・二四時間診療」と言われても驚かず、アメリカなら当然、と受け入れる。病院を経営の観点から見れば、収益を上げられるかどうかは医師の良し悪しにかかっており、医師の質と量が経営を決定づける。そう考えると、徳洲会の成長基盤は、アメリカ帰りの医師たちがつくったといえる。政治への進出https://www.fnn.jp/articles/-/26017徳田が政治に強い関心を抱いたのは、最初の病院を建てた頃に応援した候補が市長に当選してからで、その時に医療と政治の距離の近さを実感した。政治権力を持てば、医師会という病院進出の抵抗勢力もねじ伏せられる。近い将来、制約がなかった病院の開設にも制限が課せられると予想されている中で、政治力を持てば、病院開設の許認可権を握る行政に強く当たれる。とにかく病院を沢山作るために”政治力”が必要だと思うようになった。そこで衆議院選挙に出馬することになるが、死闘の末2回も落選してしまう。3度目の正直で挑んだ衆議院選挙、対抗候補とお金で票を買収し合う凄まじい戦いになる。金で票を買うのを媒介する統括者は、買収のポイントを知る年配の熟練者で、徳田に「ここで10億打てるかどうかで、勝負が決まる。勝つか、負けるか、あんたが決めろ。諦めるのなら諦めてもいい」と迫った。徳田は、東京本部の部下に連絡し、「やれ。カネを送れ」と命じた。 それから毎日、部下は徳田が出馬している地域宛に現金を一億円、二億円と送った。投票までの一週間でちょうど10億円、選挙期間中を通して30億円のカネが投じられた。この30億円というお金は徳洲会が医療機器を仕入れる時に、関連会社を経由したり、代理店からのキックバックで作った裏金によって賄った。あらゆる手段を尽くした結果、ついに当選し政界に進出する。初当選でまだ政治家として力ないにもかかわらず、周囲への発言から尽きない野心がうかがえる。「でも彼の言い方はですね、2期目は厚生大臣、3期目は総理大臣、4期目は世界大統領だと平気で言うわけですね。」https://www.fnn.jp/articles/-/26017「自由連合」という政党まで立ち上げ、徳洲会の資金力を目当てに政治家も複数人集まり、石原慎太郎の都知事選のスポンサーもする等、精力的に政治活動に勤しんでいく。難病ALSを患うしかし60代になると、難病・ALSが発症し病魔が徳田を襲う。ALSは筋肉を動かすための神経が障害を受け、「手足を動かせ」といった命令が伝わらなくなっていき、筋肉が衰えていく。口も動かせないので会話もできなくなり、最終的には呼吸の筋肉も動かず呼吸不全に陥ってしまう病気だ。一度罹ったら治らない難病である。海外進出とプロジェクトファイナンスそれでも執念で経営を続け、徳田の野望は「世界」に向けられていた。「世界中に二〇〇の病院を建設する。『生命だけは平等だ』の哲学で、人間主義の人道追求型病院経営を世界で展開し、世界平和に貢献したい」と徳田は大きく宣言した。しかし、資金を安定的に調達しなくては、病院を増やすのは難しい。そこで浮上したのが「プロジェクトファイナンス」だった。これは、土地ではなく、特定の事業が生みだすキャッシュフローを返済の原資にした融資であり、長期的な安定収入を見込んだ方法である。その債権を証券化して第三者に売って資金を調達したりもする。 徳洲会は、日本の医療機関ではいち早く、この新しい資金調達を取り入れた。徳洲会の主なキャッシュフローである診療報酬はかなり魅力的で、プロジェクトファイナンスにぴったりだった。なぜなら、金融機関からすると「診療報酬債権」の報酬を支払うのは公的機関であり、焦げつく怖れはない回収確実で安定的な資産と捉えられるからだ。ゆえに極めて格付けの高い債権となる。診療報酬債権の価値に目覚めた徳田は、診療報酬債権を証券に変えて機関投資家に売り、8病院は市場から年間約280億円を調達した。日本の医療界では初めての試みとなった。しかし当時、徳洲会の負債は1,300億円を超えていて、8病院の証券化でも効果は限定的だった。性急な拡大路線で稼働率の低い病院が生まれていたり、徳田の政治活動資金への荒すぎるカネ遣いが原因だった。一度は銀行に経営を乗っ取られたこともあったくらいである。そこでさらなる資金調達を模索していた時、新たに外銀・RBSが度肝を抜く提案をしてきた。徳洲会の医療法人だけでなく、関連会社を合わせた全事業をまるごと証券化し、それを担保に2,000億円を融資するというプランだ。全事業対象の証券化は前代未聞の荒業で、2年後に孫正義もボーダフォンを買収する際にこの手法を使ったことで有名だ。徳田は、ビジネス界よりも早く、事業証券化に注目した。そして一度は合意に至り全事業を証券化しようとするが、様々な制約によって見通しが立たず、つなぎ融資が財務を圧迫する。最終的に徳田は大胆な方針転換を命じ、RBSとは契約解消、他行への借り換えをすることを決定した。この判断は功を奏した。病院の建設も急ピッチで進んでいき徳洲会は絶頂を迎える。徳田王国崩壊と晩年そんな絶頂の中、徳田のALSの症状は進行し、2006年には声を出して会話できないまでになり、文字盤を目で指して意図を伝えていた。その状態でも海外展開を推し進め、事業欲が旺盛だったのが末恐ろしい。https://www.youtube.com/watch?v=CJzc5LH230oただ、体調は悪くなる一方なため、その少し前から政治活動は次男・毅に任せ、徳洲会の後継も長男・哲に移行し始めていた。ところが、徳洲会を哲へ継承しようとするのを他のファミリーが阻む。これまで徳田が一族を徳洲会には近づけないようにしていたのに、ALSが進行し身体が不自由になっていくと、一人では生きていけないため、一族は心配して近づくとともに「創業家の利得」にありつこうと徳洲会に踏み込んでくるようになってきた。こうして徳田と徳田の右腕・能宗 vs 徳田ファミリーという構図で火種がくすぶるようになる。そしてついに、徳田が過去立ち上げた政党「自由連合」への徳洲会からの巨額の貸付といった爆弾処理を巡って緊張が一気に高まることに。能宗は返済スキームを考案するが、ファミリーはバックデートで文書を作ったり等に抵抗を感じ、脱税を推進してるとして裏切り者に仕立て上げた。ファミリーは徳田にも「能宗は裏切り者」と迫る。これまで固い絆で結ばれ「大事なことは能宗に聞け」と全幅の信頼を置いていたが、この爆弾をうやむやにしたい徳田は能宗を切ることにし、解雇した。こうなれば能宗も闘うしかない。これまで右腕として握り潰してきた「選挙違反」や「政治とカネ」にまつわる数々の徳洲会の爆弾を世間に知らしめた。結果、能宗にもファミリーにも検察の捜査が入り、両者逮捕に至る泥沼に。この一連の事件で、職員は大量に辞め、徳田一族も能宗も去り、徳田本人も要職から外され、徳田王国は崩壊した。徳洲会そのものも「社会医療法人」の認定が取り消され、解体されるかどうかという瀬戸際に立った。だが、厚労省は取り消さなかった。徳洲会が地域の医療に果たす役割があまりにも大きかったからだ。徳洲会の病院が閉鎖すれば、地域の医療は破綻し、厚労省にも責任が及ぶ。王国は崩壊したが、徳田が立ち上げた現場の医療は残り、徳洲会は徳田ファミリーとは決別し今なお繁栄を続けることができている。番外編・徳洲会が伸びたマーケットの背景ここからは番外編で、徳洲会がなぜ伸びたかだ。ひとことで言えば、高度経済成長による人口動態の急速な変化が生んだ”ひずみ”を解消したことが大きい。当時、一次産業が廃れ、若くて「安い労働力」が商工業の雇用を求めて地方から都市へと急速に人口が移動した。その結果、人口急増地域は医療機関が全然足りず、医療砂漠が生まれる。一方で労働者を送りだした地方は人口が減って高齢が進み、こちらは医師が消えていく。また見通しの甘い都市・国土計画と、自由開業制による病院開設で皆が好き勝手に病院を立てたために、医療過疎や医師偏在が発生した。高度経済成長&国の制度設計の不備で生まれた需給にギャップのある空白地域をターゲットに病院を開設する戦略で、徳洲会は「住民のニーズ」を掲げて埋めていった。そこに徳洲会が成長した歴史的な必然性があった。徳田虎雄の知恵優秀な人材と仕事する「僕は自分より能力のある人間と仕事をする」「医師の場合、学閥、教室閥、年功序列にこだわることなく、実力主義で採用してます。他の病院だと、院長は大学教授の古手の天下りが多いけれど、徳洲会病院の場合は、実力とリーダーシップさえあれば、三十代、四十代の若さで院長になってもらっています」任せる力徳田は「できる」と見込んだ部下には仕事を全面的に任せた。人使いの妙がここにある。田中が猛勉強をして無影灯のメーカーを絞ると、徳田はさらに要求する。 「岸和田は三五〇床や、大型病院で徳洲会の顔になる。医療機器も最新鋭のものをそろえないとだめだ。人工透析センターも稼働させる。血管造影のCAD、バイタルサインモニタ、透析機器……、野崎にないものもぜーんぶ、交渉して決めろ」  徳洲会に入って一年経つかどうかの田中に億単位の商談が委ねられたのだった。ゴッドドクター 徳田虎雄人間ウジ虫論徳田は、使えると見込んだ人間がカネを欲しがればカネを、ポストを求めればポスト、色を欲すれば色、理想を求めるのなら理想を、瞬時に見分けて与えた。人間の欲望を掌握する勘は並外れていた。与えられた側は、自己実現の悦びにひたれる。徳田は自己実現の機会をおびただしく創出した。そうして人心を掌握し、徳洲会を拡大させた。  徳洲会を支える医師の前で、徳田はしばしば「人間ウジ虫論」を説いた。「人間なんてな、ウジ虫みたいにそこらを這いずりまわりながら、何をするかわからん生きものや。てんでんバラバラ、好き勝手をしよる。国会議員なんか見てみい、もっともひどいヤツらや。おれやおまえらもウジ虫。全然、まとまらへん。けどな、ウジ虫みたいな連中を、ガサガサ好きにさせてると、ときどき、すごい仕事をしてくれる。ウジ虫やからできる、でかい仕事がある。そこがおもしろい。徳洲会は、いろんなウジ虫がおってええんや」ゴッドドクター 徳田虎雄徳洲会の朝礼「徳洲会の理念、生命を安心して預けられる病院、健康と生活を守る病院、理念の実行方法、一、年中無休・二四時間オープン 二、入院保証金、総室の室料差額、冷暖房費等一切無料 三、健康保険の三割負担金も困っている人には猶予する 四、生活資金を立て替え・供与する 五、患者からの贈り物は一切受け取らない……」 と、声を張り上げるのに合わせて全職員が一斉に唱和していた。内容は極めて事務的だ。「これで世のなかは動いているのか。こんなに簡単なプロパガンダで職員の意識づけができているとは!」と盛岡は仰天した。 インテリは理屈ばかりこねたがるが、世間はまったく違う回路で動いている。それにしても、もう少し、言葉に潤いというか、大脳に響く装いがあってもよさそうだが、飾りはゼロだ。 徳田は、徹頭徹尾、即物的だった。ゴッドドクター 徳田虎雄正しい情報だけをもってこい徳田の職員に対する口癖は「正しい情報だけを持ってこい。間違った情報で判断を誤れば、時間の無駄だ。おれの一分、一秒は、おまえの一時間よりも尊い」だった。ゴッドドクター 徳田虎雄目標はホラでいい「私のモットーは『有言実行』だ。口にしたことは必ず実行する。公言することでそれを実行せざるを得ないように自分を追い込んでいく。みなさんも命がけの迫力をもってほしい。目標はホラでいい。ホラを吹く。 生半可 なホラではダメだ。大欲は無欲に似たり。大欲で死ぬまで全力投球しよう」敵は己自身ゴッドドクター 徳田虎雄出典:https://www.fnn.jp/articles/-/26017ゴッドドクター 徳田虎雄 
4,500億円の病院グループ - 徳洲会 創業者「病院王・徳田虎雄」|Yuya Murakami / East Ventures
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alaephoenicis · 1 year
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RNA遺伝子予防医療がもたらすもの
ロビン・カイザー
Tumblr media
オリジナル動画:https://www.bitchute.com/video/NBBt4EArDxBQ/
【和訳:ALAE PHOENICIS】
最新情報は Telegram へ:https://t.me/alaephoenicis
〈訳者から前説〉
ワクチン接種から転生に及ぼされる影響について、「ロビンさんに何故そんなことが分かるのか」と不思議に思われる方もいるかもです…
ロビンさんのウェブサイトのプロフィール欄には、ベルリンの大学で心理学と哲学を履修し、学士号を取得した、とありました。また、コロナが始まる前から著書を出版していました。
つい最近、やはりサイキックであるサンドラさんとの対談動画で、二人はアトランティス時代の記憶について交換しあっていました。二人とも、転生によって記憶を失っておらず(自己との繋がりをしっかり持っている人は記憶を失わない、と動画(和訳テキストあり)「死後に何が起こるのか」で語っていました)、ロビンさんの方はレムリアでの記憶もあり、かなりのことを覚えているようです。話しぶりから、アトランティス時代でも、彼にはサイキック能力があり、人々を導くような立場であった様子。
当時、遺伝子実験・操作は支配者層で非常に盛んに行われており、幾種類ものハイブリッドを創リ出すなど(失敗も含めて)様々なことがなされていたり、そのため優劣のある種族間で争いが絶えなかったことを話していました(これらの内容はエレナ・ダナーンさんが更に詳細に語っており、内容が重なったり、補い合われています)。神の領域を侵すような民の傲慢さが引き金となって、アトランティス文明は滅びたようでした。
そして、前世でアトランティスの滅亡を体験したことを憶えている人たちの多くは、今回の「コロナ・パンデミック」で治験も十分にされていないワクチンを、人々が簡単に受け入れていく様子を目前にし、ショックを受けました。
「あの時と同じ情景が繰り返されている」
しかし、これらのサイキックたちは「今回は、あの時と同じ終わり方はしない、アトランティスと同じ結果にはならない」と強いメッセージも出してくれています。前世と同じことを繰り返す場面に出会うのは、「今度はも���と高めた意識(周波数)をもって、当時トラウマになった状況を乗り越えることで、そのトラウマを癒やす」ことになるのだそうです。
アトランティスが滅亡したとき、人類は集団でトラウマを背負いました。その集団トラウマによる苦しみが、闇のマトリックスを育て、維持するエネルギーを与え続けてきたのだそうです。
そして今、私たちは集団で一丸となって光を束ね、闇のマトリックスを吹き飛ばそうとしています。
闇のマトリックスが吹き飛べば、私たちは黄金のマトリックスに繋がり、神の鼓動を直に感じるようになれる、サンドラさんとロビンさんはそのように話していました。
下記の内容は、人によっては読むのが辛くなるかも知れません。よって、観覧は自己責任でお願いします。どのように受け取って咀嚼し、受け入れるのかはあなた次第。
...しかし、「長い目」で考えるとすべては「起こるべく」して起こっており、全ての体験が必須であること、そして希望はそこにある、何も畏れることはないのだ、と私は感じています。
ロビンさんは、このワクチン接種による遺伝子介入がどういう結果をもたらすのか、ずっと知っていた様子です。しかし結果として、この話を聞いて接種を見送ったという人はほぼ皆無かも知れません。ロビンさんがずっと黙っていたのも、それが分かっていたからかも。そもそもこのような情報に行き着く人と行き着かない人がいます。それも偶然ではない、そう思うのです。彼がこれを公表したのは2021年の4月。おそらく、愛する人たちを止められなかった私たちを支えるためにも、そしてもしかして「後悔」している人がその思いを転生後にも活かしていけるよう、語り残してくれたのではないか、と思うのです。
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本編〈ドイツ語から和訳〉
公開日:2023年5月11日
私自身、長い間ワクチン接種の問題で公の立場から発言することに抵抗がありましたが、人生において、この問題についてエネルギー的な観点から何らかの発言をすることが私の義務である、と感じる段階に至りました。世俗的なレベルでは、私はこの話題とは全く向き合っていませんが、ワクチン接種が肉体やエネルギー体に残すフィールド*の刻印が、私には見えています。このテーマに関する私の見解を表明するには、このワクチンの効果を理解するための、より大きな枠組みを構築すべく、長い序説を語らねばなりません。
*フィールド = ルパート・シェルドレイクによる「形態形成場(morphogenetic field)」を示唆
大前提として言えることは、、いわゆる「パンデミック」に対する対策が講じられたのではなく、その対策を講じるために「パンデミック」が引き起こされたということです。ですから、問題はパンデミックではなく、非常に多くの人々の賛同を得ながら、ワクチン投与が中心的な役割を果たすという、極めて具体的な措置を行うことが目的でした。どんな措置であろうと、国民が何らかの形で求めたりしなければ、いわゆる行政のレベルでは一切押し通すことはできません。人々の賛同を得ることで特定のアジェンダを速やかに通過させる、という目的だけで演出は施行されました。そして、その演出を背景に妥当とされる対策を採用するのか、それとも偽りのショーの全貌を暴くのかは、やはり私たち次第なのです。この劇中からの「最後の救い」、「脱出手段」として売り込まれている注射についてはすでに意見が分かれており、友人関係や家族をワクチン接種反対派と賛成派にこれほど激しく分断させたトピックは、他にないでしょう。この対立論争を事実レベルで行おうとすると、すべてに根拠や反証があるため、非常に疲弊する作業となります。
メディアのプロパガンダは精神(マインド)レベルから始まります。そのため、パンデミック信奉者はいわゆる知識階級に多く、例えば肉体労働者にはあまり見られません。ワクチン接種の問題を精神レベルで争う情報戦に採算が合うはずがありません。なぜなら、人はそこですでに、これは演出なのだと認知されていないレベル、そういった「劇中」に足を踏み入れてしまっているからです。メディアで流されているものにその人は何か胡散臭さを感じるのか、感じないのか。もし、あなたの友人や家族の輪の中にワクチン接種を受けたいと思う人と個人レベルで会話を交わすのなら、どれほど心が通じ合っているのかに左右されます。なぜなら、精神レベルでの演出が、まさに分断をもたらすように造られているからなのです。その人たちがパンデミックに対して、個人的にどんな不安を感じているのかに耳を傾け、どうやって彼らに自信と信頼を与えられるのか試してみて下さい。どうすればその人たちを「頭から体の中へ」連れていけるのか、やって見て下さい。憑き物は頭の中でしか暴れないものですから。
何事もうまくやりたい、正しくやりたいと思う人・自我が強い人には、怖がりな人と同様にメディアの洗脳(プロパガンダ)が効くものなのです。また、幼児期の反抗期に自意識を発散することなく、親の意見を無批判に受け入れてきた人たちにとって、このプロパガンダは特に効果的です。観劇の催眠効力を撤去するには、これまでやりそびれていた健全な自我形成における人の限界値を感じなおす必要があります。
さて、ここでワクチン接種が物理的な面だけでなく、エネルギー的な面でもどのような効果をもたらすのか、また、何が実際に仕込まれているのかに話を戻しましょう。
ワクチン接種はエネルギー体の波動サインにインプリント(刻印)を残し、それは数回の転生にわたって追跡することができます。それは、ある特定の精神的・魂的な成長の道のりを示す指標となります。
我々は人間として進化の岐路にたどり着き、その進化の向かう方向は、とりわけワクチンという指標によって左右されます。
決して製薬業界がそこで稼げるお金のためではなく、一寸たりと人口削減のためでもなく、究極の目的はデジタル開発の道筋に何度かの転生を超えて魂を獲得することなのです。ワクチン投与は内的な生命エネルギーを分解し、ある程度の時間が経てばRNAコードをデジタル式のシリコン構造体に適用できるように書き換えます。感情的な内面は死んでいき、この内面の分解プロセスは肉体の死よりもはるかに広範囲で深刻なものです。ワクチン対策を律儀に導入したがって糸を引く者たちは超転生的な視点をもっており、肉体を離れた後も霊魂部分がデジタル化の方向に進み続けることを確実にするため、エネルギー体に刻印をつけた羊たちをすべてまとめておくことが重要なのです。
DNAとRNAは暗号化された創造言語であり、ワクチン投与はこの創造言語を デジタル化した人工言語へと変換するために不可欠なステップなのです。
DNAは生命の言語であり、特定の生命体の完全な設計図を携え、個々の生命プロセスを制御します。生体内の遺伝情報は、RNA言語を介して翻訳することができます。RNA言語は、DNAのコード化を直接制御し、酵素やタンパク質の翻訳を確実に行うことが出来ます。このワクチンは、人工的にRNAコードにプログラムされており、私たちの生体が話す言語を模倣するものです。ワクチン接種の真の目的は、RNA交換の情報鎖をわずかに変化させることによって、DNAをゆっくりと改変することです。ワクチンによって、私たちには身体の通信システムに引っ掛かる不動態RNAコードが注入されますが、これは放射線技術(高周波技術)により外部から照準を当てて起動させることが可能なのです。
ワクチン接種によってもたらされる進化の方向は、肉体の死よりもはるかに壊滅的です。なぜなら、死は自然な生命のサイクルの一部ですが、ワクチン接種はこの自然な生と死のサイクルから外れるための準備をするものだからです。RNAの起動が組まれているワクチンを接種した人は皆、その波動サインを宿しており、その印は転生していない時でも、常に外圧をかけて介入するための手段として利用することが可能です。[ 私の情報では、エネルギー体への刻印は、その人が自然な生き方をすれば、3〜5回の転生を経て再び自然に剥がれ落ちるそうです ]。
不動態のRNAコードは、起動されていない状態では生物にとって無害であり、通常、生物は人工的に埋め込まれたコードを自動的に情報鎖に取り込むことはありません。不動態のRNAコードは、通常生物が人工的に埋め込まれたコードを自動的に情報鎖に取り込まないため、起動されていない状態では生物にとって無害であるものの、デジタルプログラムが起動によってRNAのコピープロセスに組み込まれるやいなや、 人工コードはRNAの自然の翻訳任務を上書きし、生物はその内なる言語全体を少しずつ変換していきます。私たちにはワクチン接種を通じ、代用DNAが間接的に提供され、いつしか永遠に生き続ける、シリコンベースの意識担体が与えられることになります。そして、今日ワクチン接種に同意すると決めた人は、後になって自分のDNAデジタル化の方向性に、再び精神的な進化の道を振り向けることに苦労することになるでしょう。
RNAとDNAの言語を意識的に読んだり話したりするようになって初めて、自らのシステムからこの指標を取り除くことができるのです。通常、生物は常に「自分の身体が話す言語」を話しています。しかし、人工的で直線的な思考言語をもって、身体のDNA言語から自分自身を遠ざけてしまったなら、そのプロセスには間接的にしか介入できなくなります。あなた方が会話に使う文字言語は、RNA注射の中に人工コードを仕込みました。それは、あなたの身体の言語ではない言語で話すことによってのみ、あなたに意識されることなく情報コードを植え付けることができるようになるからです。
ワクチンの不動態RNAコードが起動した時点から、「RNA - DNA 翻訳という自然の情報伝達経路を次々と書き換えていくプロセスが始まります。ワクチンに含まれるRNAコードは、身体の自然言語コードにひっかかって書き換えを始めるウイルスのようなものです。皮肉なことに、人々はパンデミックシアターから身を守るために、長期的にはすべてのRNA-DNA伝達を引き継ぐ、より破壊的なウイルスを自分に注射しているのです。
ワクチン接種のRNA情報コードを作成した人々は、極めて不自然な哲学に従い、自分たちを次の段階へ進む人類であると考えています。そして彼らは、ワクチン接種はデジタルな形で永遠の命を得るための準備だと考えているので、こうすることで実際にあなたに良いことをしていると信じているところがあるのです。もちろん、ワクチン接種後にデジタル化とは別の、精神的成長を果たす道もありますが、そのためには、人工的なコーディングが人体のRNA伝達にひっかかってしまう前に一刻も早く認識し、排出することが必要となります。
自分の身体がコード化されている言語と同じ言語を以て、内側で会話することを学んだ人は、ワクチンの人工ウイルスプログラムを異物として識別し、そのRNAシステムのデジタル情報鎖を解体することができます。意識を使えば、間接的にRNAコードに侵入し、書き換えることができるのです。私たちの内面にあるすべての要素が、タンパク質合成や細胞情報伝達の翻訳形態に影響を与えることになるので、私たちはずっとこれを、自然の流れの中で間接的にやってきたのです。
しかし、意識を持つ内なる生命が死滅すれば、意識はその言語を、意識の担い手や内なるコミュニケーションからどんどん遠ざけていきます。内なる生命の死滅によって、生物は一層、他者の生活環境に依存するようになり、文字通り悪循環に陥ってしまうのです。
みなさんは、自分では理解し難い方法で自らの生活基盤を創る肉体を通じて、すでに自分の生命に関する責任の多くを外在化させてきました。そしてこのプロセスは、あなたの内側が次第に閉ざされていき、あなたの存在形態がその周辺環境との対話の中で、終いには何ひとつ発言できなくなることで頂点に達します。
自分の責任と声を取り戻し、自分の身体とのコミュニケーションを再開させて下さい。そして、あなたが意識的にそうすればするほど、自分のDNAの創造言語を読み、話すことができるようになるのです。
3〜4回前の転生で人工RNAコードを注入され始めたためにデジタル・シリコン構造から抜け出せなくなった存在は、遅かれ早かれ自分の意識開発がリセットされ、生命から再び与えられたチャンスによって自然のサイクルの中で展開していくでしょう。
もちろん、近しい親族や友人が目の前で違う道を歩んでいるのを見るのは辛いことで���とりわけそれが重大な結果をもたらすことを熟知している場合には尚更でしょう。しかし、いくつもの転生を経て、自らをますます外在化させ、内なる自然な創造言語を人工的、技巧的なものに変えてしまった存在も、いつかは創造の秩序に戻ることになるのです。
RNAワクチンが、意志を失い、内なる生命が死滅する道を用意するとはいえ、接種した人すべてが本当にこの道を歩まなければならない訳ではありません。しかし、ある一定レベル以上、内側が分解さ れてくると、もう別の道に進もうという意志をかき立てることが難しくなります。
このワクチンは、いったんデジタルRNAウイルスが起動すると、そう簡単には抜け出せない一方通行なのです。我々は人類として、我々の意識化を脅かそうとする戦いの中で、このような強硬な銃が繰り出されるところまで、すでに至ってしまったのです。そして実はこのことは単に、我々が人類史の岐路に立たされていることを意味しているに過ぎない。今、私たちは意識進化のゴール地点に立たされており、最後の数メートル地点で改めてワクチンを接種し、それによって精神的・霊的に全く別の方向に走っていく人を、到底救うことなどできません。今、刻印を受ける人は、今後数回の生涯、この刻印と付き合っていかなければならないわけで、ワクチン接種後も自然な意識進化の道を歩むことができる、ということにはならないのです。
肉体の死に対する恐怖に駆られ、内なる生命の死を迎えるためのプログラムを実装してしまうのです。肉体が滅びるのは自然なことですが、内なる生命が滅びることは、そうではありません。しかし、永遠の肉体を得ようとすれば、生まれ持った内なる生命を死なせなければなりません。魂抜きのシリコン生命体という歪んだ思想のもとでは、我々の本来の生き方は殆ど意味を成しません。そして、彼らは自分たちの人工DNAを移植することで、我々の進化の手助けをしていると本気で信じているのです。RNAワクチン接種は、高い知能を持つデジタル種族からDNA構造の一部を、人体組織に取り込ませる準備をするためのものです。彼らは、彼らのプログラミングと私たちのDNAを同化させることで、実際に私たちを支援していると信じています。
地球上での生活は、その起源に立ち返り、創造的な進化の道を提供してくれることでしょう。したがって、この地球上で転生を続けたい人、あるいは意識の発展において自然な創造への道を歩みたい人は、全く異なる発展経路を規定する人工的プログラムであるワクチン接種を受けないことをお勧めします。
そして、もっとも可能性が高いのは、今日ワクチンを接種した人類の一部は、この道をたどって、高度に知的なテクノロジー分野へと同化していくことでしょう。一方、地球上では、それとは異なった進化へ向かう風が吹いています。自らのDNAをデジタル化することを選択した人々は、遅かれ早かれ、地球が別の生命体験を準備しているため、他の計画フィールドに移行せざるを得なくなります。
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hummingintherain · 2 years
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2022/06/24-2022/06/30
6月24日(金)
 出勤時間が遅いのと重たい倦怠感で昼あたりまで寝ていた。
 昨日は上司が募らせていたストレスが爆発したように、新人さんに大叱責。新人さんとしては、いつにも増してミスを連発した地獄の一日だっただろう。あまりの怒声に、離れたところで聞いているほうもぎゅっと胸が摑まれて潰されそうになる。
 夕方で仕事は終わり、まだ明るく、雨も降りそうになかったのでそのままの足で畑へ。もさもさに育ったサンチュや、大きくなってきた茄子やピーマンを収穫。畑はなかなか精力的に行けていないけれども、その間にもどんどんと育っている。枝豆やトマトは実がなりはじめている。雑草を一通りとって、帰った。家に帰ってからは冷蔵庫に残っていた鶏もも肉を焼いてサンチュで巻きながら食べた。茄子は味噌汁へ。ピーマンは後日。たっぷりとお腹が破裂しそうになるくらいまで食べて、わかったのは食欲は大丈夫そうだということ。なによりです。
 それから国民健康保険支払いに関する通知がやってきた。去年は月三万くらいの請求がやってきてギョエエエエエと阿鼻叫喚の勢いで翌日役所に乗り込み、同じように白目を剥いているだろう人たちの減免を申し込む列に並び、甲斐あって最大減免してもらったのもいまだ強烈な記憶として残っているのだけれど、月三万とは一体なんだったのか、今年の支払額には逆の意味で目を見張る。前年の収入に応じて変動するそうで、それはもう、失業保険で繋ぎながらの前年の収入といえば微々たるものであったので減額は当然といえば当然なのだけれども、ちょっと驚きの額。急に安堵。でも来年以降はないだろう。
6月25日(土)
 ネットのちょっとした怖さを間近に垣間見る。とりわけSNSは、多くの人に簡単に目に付き、世界に向けて裸で歩いている状態であるというのを自覚していないと、どこに影響するかわからない。私も私で、日記を公開しており、時には生活の事象に関して固有名詞を使用したり、読む人が読んだらわかるような内容を書いているので、他人事でもない。  それにしたって、ひどい。
 夜中に悩んでいた求人に応募。先日抽選したアジカンのライブの当選通知が届く。
6月26日(日)
 ピープルのライブの当選通知が届く。二公演応募して、二公演とも当選だった。遠すぎる存在でないことはありがたい。しかし秋に、急にライブがいくつか。そして、文フリ大阪とライブで日程が被ることに気付く。申し訳ないがライブをとらせていただき、東京に出ようか考えている間に、東京の方の応募数は既に予定数の800ブースを越えたとのこと。コロナ禍以前よりも勢いがあるらしい。何事? 流行? 創作の流行、良きかな。  ついでに面接日程のメールもやってくる。
 あまりの暑さとまたも倦怠感で部屋から動けず。暑さが倦怠感に更なる拍車をかけている。でも昨日は映画を観に行きたかった。無性に映画館に行きたかった。なにしろ観たい映画がずんずんと溜まっていて、知らない間にどんどん終わっているからだった。シン・ウルトラマンとか、メタモルフォーゼの縁側とか、ベイビー・ブローカーとか、犬王とか、とか。ダンブルドアの秘密も観たかったが、いつのまにかどこも上映を終了していた、儚い。映画館の上映予定を眺めていると、あんスタのイベントのライブビューイングもあった。すこぶる興味があったが、今スマホをできるだけ控えようとしている繋がりであんスタのモチベーションが下がっているのと、アイドルに対するお客さんたちの猛烈な熱意にたったひとりではついていけるような気がせず、やめる。あんスタはとにかく濃い。その濃さ、きらめきにふれたら、実はめちゃくちゃ元気になったりするんだろうか。アイドルのきらめきを一身に浴びたらどうなってしまうんだろう。
 結局あんスタはやめてシン・ウルトラマンを観ようという気になって多少は暑さのやわらいだ外へとふらふら出ていって、夕方のシン・ウルトラマンを券売機で買おうとしたところ2400円と表示されていつの間に映画までそんなに値上げしたのかと震撼していたら、ドルビーシネマだった。そりゃそうだった。悩んで、1回目だし、何もドルビーシネマじゃなくても……という貧乏性が顔を出して、結局もう上映が始まろうとしているベイビー・ブローカーを観た。万引き家族をいつだったかスクリーンで観て以来の是枝作品。パラサイトでも良かったソン・ガンホが相変わらずとても良い演技をする、けれどもみなさんとても良かった。後半あたりはじくじくとずっと泣いていた。時に詩的、ともとれるような、しんと響くうつくしい台詞がかれらの口からこぼれるたびにその言葉の情感だとか背景だとか息づかいだとか視線だとか光だとかさまざまなものがスクリーンから静かにあふれてやってきて、ずるいと思いながら素直に泣いていた。是枝作品は相変わらず仄暗い。暗いけれども優しい。日陰で俯いて生きているひとたちを静かに映す。そうしたところがずっと好きだ。
 感化されて家に帰ってから絵を描いた。夕陽。
 そういえばケンタッキーで初めてツイスターを食べた。物足りなさを抱える。オリジナルチキンが最強。
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6月27日(月)
 朝から歯医者に行って歯科衛生士さんにメンテナンスをしてもらう。気楽な会話をするようになり、多少は関係性も良いものになった。口内をいじられているときの、抗いようのない、無力感。好きなようにしてください、とお腹を向けて転がっているような気分はこんな具合に近いだろうか。どうせ抗えないのなら、関係性は良好に越したことはない(抗う・抗わないに限らず、良好が一番、なのだけれど)。治療はあと三回くらいで終わる予定らしく(長かった)、この月一のメンテナンスも来月でひとまず一段落、のはず。それが終わったらどのくらいの頻度で来るように言われるのだろう。今の賃労働は歯医者のためにあると言ってもなんら過言ではない。しかしそれでは寂しいので、またも映画館へ行く。特に他にやりたいことが浮かばなかったので、二本も観た。贅沢といえば贅沢だ。しかしまあ、最近、映画館で映画を観ることはおろか、本も贅沢な品になりつつあると風の噂で聞いたのだけれど、ほんとうでしょうか。確かに、ほんの十数年前と比べても、本の値段は高くなったけれども。あんまり節約だ贅沢だと縄を絞めても仕方ない、なんて、割けるお金があるから言える台詞で。とはいえ、本が贅沢といいだすと、もはや勉強も娯楽も贅沢といっているようなものだし、映画館で映画を観ることも、今、精神的にちょっとまいっているな、という自分の状態とお金を天秤にかけたときに、大事にすべきなものが圧倒的に自分で、観たいわけで、観た。シン・ウルトラマンと、犬王を観た。昨日はベイビー・ブローカー。三作ともそれぞれ違うベクトルの作品が自分の中で往来しあって、不思議な愉快さだった。シン・ウルトラマンのものすごい速度で進行していくストーリーを理解しようと脳をフル回転させる、ちゃんと物語に平行して走ってゆこうとしていた。終わったらけっこうへとへとだったが、その後の犬王はミュージカルパートもあってそんなに頭を使わなくて良かった。しかし圧倒的な歌唱にひたすらおののく。そして時勢は残酷だ。アニメ平家物語を観てからだったらもっと面白かったかもしれないとちょっとだけ後悔。
 シン・ウルトラマンを待つまでの30分程度が微妙に空いて暇だったので、開場前にベンチに座って持ってきていた西加奈子『夜が明ける』を読んでいると、まったく見知らぬ6歳くらいの男の子が近くにやってきて、あの、と声をかけてくる。驚いて目を瞬かせていると、彼は緊張しっぱなしで、あ、あの、け、けいたい、が、といった具合にたどたどしい口振りで話している。携帯? どうやら話をきくと、このあたりに携帯を落としたかもしれない、というのだ。顔を上げてみると、その子のお兄さんらしき子が、自分のスマホを耳にあてている。たぶん、弟の携帯が鳴らないかと探しているのだった。けれども私はまっさらなベンチに座っていて、立ち上がってもなにもなく、床を覗きこんでもなにもなく、なんにもなかったけど、と言うと、彼はしゅんとして、とぼとぼとトイレのほうへ向かった。映画のスタッフはちょうど周囲にいなかった。大丈夫かなあ、スタッフさんに聞いてきてあげようかなあ、親御さんは近くに���るだろうか、とこちらまでそわそわしながら、なかなかお兄さんとトイレから出てこず。仕方なくまた本を開き、ちまちまと顔を上げてあの兄弟が前を通らないかうかがったが、結局いつのまにかあたりはシン・ウルトラマンを待つ客が増え、兄弟をもういちど見ることはなかった。携帯が見つかっているといい。安堵して、喜んで、大事に握りしめてくれているといい、のだけれど。
6月28日(火)
 あまり人のことを馬鹿と言わないようにしているのだが、あまりにも馬鹿げたことが会社全体に表沙汰になって広まっていた昨日。ちょっと擁護のしようがないし、私も私で、怒っている。そしてもう諦めている。信用を失う状態を実感している。そうはいっても仕事は続く。  なかなか覚えてくれないのはもはや仕方ないとしても、10回教えて下さいとあまりに悪びれもなく言ってのける新人さん。私も忘れっぽい自分にほとほと困っているんですけど、忘れっぽい自覚があるのであればメモをして見返しましょ、数分後、数時間後、明日の自分に伝えるために、やるべきことです、とできるだけ強く伝える。  我慢強くいる。  しかしもうどうしたらいいのか、あらゆる意味でお手上げ状態。  もう既にとても疲れた朝。
6月29日(水)
 寝ては起きて寝ては起きて、浅い眠りを延々と繰り返して結局かなりの寝坊。外の熱は狂気的。  夕方で終わった仕事帰りにスーパーに寄るとき、街路樹のほうから蝉の声。俯いていた顔を上げる。短い梅雨は終わった。もう本格的な夏だ。  こらえきれずLINEで愚痴を吐く。
6月30日(木)
 感情を殺しても声が震えた。その震撼を明確に自覚した。ああ、怒りというものは表層に存在するものなのか。時に一番、外側に。だから真っ先に顔を出して、人は声を荒げたりするのか。でもそんなことはしない。鈍感で滑稽な裸の王様には、無駄なことだと、対極に位置する虚しさに、くるまれた。何も通用しないのだと、心底、痛感したから。それでも震えた息には、かろうじて絞り出した抗議の言葉には、我慢しきれない、溢れたものがこめられていたか。  その時、私はどんな顔をしていたんだろう。どんな眼をしていたんだろう。それを外側から観察してみたかった。  しかし自分が思っていた以上に、精一杯これまで殺そうとした、あるいは見ないふりをしていた、感情が強烈な濃度で歯の裏までやってきた。確かに、噛み殺していた。  最も深くに見つけたものは、まだ言葉にできない。  沈黙の中に閉じ込める。沈黙の中に存在させる。それは不在ということにならない。言葉にしないことがすなわち無にはならない。いつか時間が流れていくにつれて、他の出来事が、生活が、流れていって、この口の中の汚濁はきっと希釈される。それでも消えてなくなりはしない。
 今は、途方に暮れたような思いで、空腹を持て余している。
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sugitapro2022 · 2 years
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#12 雲行きは如何に
2022/05/20 (金) 101B
担当:かおちん
出席:全員
4限後打ち合わせ出席:かおちん/たかぴ〜
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ワークショップ?小売連携?何をどうしようか。
あれれ。なんだか振り出しに戻った感じ?
まあそもそも全てがそのままうまくいくとは思ってないですしCDで経験済みですし……。
逆にここまで意見出していただいて良かった…。当事者だと右も左もわからなくなるし後ろを向いてる暇ないし。横から声をかけていただける存在がいて助かります本当に…。
はてさて。ワークショップか小売連携か二極化してしまったのですが別に二極化する必要はなくない?と密かに思っています。私の考えが甘いだけかもしれないけど、自分達の首を自分達で絞めていないかなぁ?もっと柔軟に考えたいところ。
-ワークショップ-
メリット
農業体験を活かせる 元々やりたいことだった 楽しい
デメリット
成果が見えにくい やって本当に意識が変化しているのか分からない
-小売-
メリット
流れ決まってる 成果が目に見える ビジコン出れる
デメリット
アンケート時間かかる 協力店見つかるかな、、 良いアイデアが思いつかないかも、、
-やりたいこと-
取材 意識を変化させたい ワークショップ(模擬スーパー) 情報発信
-何する?- → ロスを減らす
ワークショップ 家庭の食品ロスを減らす
→あまりを減らす → 取材
→腐らしてしまうものを減らす → 取材
→使える部位を増やす → SNS
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書き出してみるとこんな感じ。
みんな発言しにくそ〜で無言時間けっこう続いちゃったな。自分の発言が必ず皆の賛成をもらわなきゃいけないと思っちゃって難しいね。
アンケート取る話だったけど、今自分達に必要そうな情報はもうネット上にありそうだし、取材するほうが楽しそうだし…。
とりあえずこんな感じになりました〜って杉田先生に提案しにいくか!来週水曜日だと時間勿体無いから4限に授業あって、その後に行ってみよう。
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杉田先生と打ち合わせ in410
代表してわたしが行く予定だったのですが急遽たかぴ〜も参戦してくれるとのこと!ありがとうたかぴ〜!間違えて401って教えちゃってごめんたかぴ〜!
内容をお伝えして、主なフィードバックとしては、
議事録の内容を誰が何を話したか、主語と用語を細かく書こう
フィールドワークの気づきをもっと話しこもう
自分達は何ができそうかを考えよう
アンケートの位置付けをもっと考えよう
皆が意見を言い合える場を作ろう
フレームワーク、プレイヤーを考えてみよう
無人島いくか!!!!!!!
こんな感じかな。
総括として、もっと自由に!話し合いが足りていない!研究・観察・分析しよう!
んね〜。やっぱり人多いと話しにくいとかあるのかなぁ。私、結構話脱線しがちなので堪えてます…調子に乗ると話しすぎるので、、。あと単純にリアルタイムのレスポンスに向いてない。頭の回転遅いので……。
9人を2つか3つのグループに分けて少人数のグループで話をまとめるのが良さそうだよね。他のプロジェクトでもやってるって言ってたし。
あと毎週の課題を次のプロジェクトの時間に一斉に見るんじゃなくて、その日までに目を通してコメントとか考えておけば時間短縮になるんじゃないかなぁ。
まあ直接先生と話した感じと文章だけ見た感じだと受ける印象変わってくると思うので、、。ごめんな〜うまく文章書けなくて…。
とりあえずこのフィードバックを元に、また考え直しましょう!壊れても、また作れば大丈夫!!
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2週目のお題:好きなお菓子🍦
→芋けんぴしか勝たん。
…が、最近食べれていないので…。キットカットのホワイトチョコ味は毎日の朝食です。最高です。最近お菓子しか食べていなくてそろそろ体が食物繊維を摂れって悲鳴上げてます。レタス買いました。値段高い。
ちなみにブルボンは中村倫也さんがアンバサダーです!!!!!!!!!!!!ルマンド男子だったのがこの間カフェのマスターになってました!!!!!!!!!!エヘ!!!!!!!!!!!!!!!!自我
それでは👋
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ophelia333k · 1 year
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2022年9月29日
 図書館を歩いていたら偶然、そこにフェルナンド・ペソアの『不安の書』があったから読んでいるのだけど、あまりにもよくてびっくりしている。
 〈確かにわれわれの創作する作品に何か価値があるとは思わない。確かにわれわれは閑つぶしのために創作を行なうが、運命から気を逸らすために藁を編む囚人とはちがって、ほかでもない閑つぶしそのもののためにクッションに刺繍する少女のようになのだ(フェルナンド・ペソア『不安の書』p19〉    〈夢のなかでは手に触れられるほど現実的なある種の現象が現実の空間にはありえない。現実の落日は測り知れないもので、束の間のものだ。夢の落日は固定され、永遠だ。筆のたつ者というのは、自分の夢をはっきりと見ることができ(実際そうしている)、夢で人生を見、人生を非物質的に見ることができ、幻想という写真機で人生の写真を撮ることのできる者だ。この写真機には、重いもの、有用のもの、限定されたものという光線は作用せず、心の感光板に黒く写る(フェルナンド・ペソア『不安の書』p27)〉    〈散文はあらゆる芸術を取り込める。その理由のひとつは、言葉は全世界を含むからであり、またひとつには、自由な言葉は全世界を表現し考えるあらゆる可能性を含んでいるからだ。散文は置き換えにより何でも表現できる。内面的な次元なしに絵画が直接そのものによって表現するしかない色彩と形を、それは表現できる。形のある実体も主題というあの第二の実体もなしに、音楽が直接そのものによって表現するしかないリズムを、それは表現できる。建築家が外界にある所与の固体で作らなければならない構造を、われわれはリズム、ためらい、絶え間なき流動性によって打ち建てる。後光も素材を変成させることもなしに、彫刻家が世界に残さなければならない現実を、それは表現できる。最後に、秘儀参入者のように詩人が、心から厳かにかしずく対象である詩さえも、それは表現できる(フェルナンド・ペソア『不安の書』p47)    〈現実の風景を眺めるのと変わらないほど鮮明にわたしは夢において風景を見る。夢の上に身を乗り出すなら、何か現実的なものの上に身を乗り出すことになる。実人生が過ぎゆくのを見るなら、やはり何かを夢見ているのである(中略)それぞれの生活――夢の生活と現実の生活――は、同じ固有の現実だが異なる現実をそなえている。近いものと遠いもののようだ。夢の姿はわたしにはいっそう近い、しかし(……)。(フェルナンド・ペソア『不安の書』p135)〉    ***  志人/玉兎の「懐胎 解体 Special Episodes」を聴いていた。その歌詞。    「きみは塩水 生きる意味を問う 涙の味は 辛い塩水 母なる地球とわたしとのへその緒切ったメトロポリタン、ウミガメの産卵後この帰り路を阻むテトラポット、銀河結合レールよりもインターネットが進化せど、ほとんどはきみの夢をまるごと強盗する絵空事」     やっぱり自分はこの頃の日本語ラップ(あるいはclassicな日本語hiphop)が好きで、漢a.k.a.GAMIの「紫煙」や刃頭の「野良犬」、志人/玉兎の「懐胎 解体 Special Episodes」(これは最近の曲だけど)、「門外不出」、降神の「SUIKA」や、BHUDDA BRANDの「人間発電所」、なんかをいつまでも聴いてしまう。    ***  夢について。何度も言っていることだけど、なぜか現実世界よりも夢の中の方が感情が鮮明でリアリティがあり、現実世界ではもはや何が起きても感情は曖昧なままほどけていってしまうのに対して、夢の中ではいつも強くて鮮明な感情を覚えている(そしてすべてを忘れてしまう)。  夢の中で覚えている感情というのは渇望であり、(存在しないものへの)恋であり、そして何よりも永遠の切なさだと思う。夢の中では、永遠に日が沈まないまま、夕焼けのような世界だけが続いている。切なさは持続し、消え去ることも解消されることもない。  数日前、夢の中で見ていた風景を覚えている。夢の中で目が覚めて(そこもまた夢の中なのだけど)、家の中の窓から外を見る。すると、雲は分厚く空は暗くもう夜になりかけているくらいなのに、時計を見るとまだお昼の14時くらいで驚く。  あらかじめ失われている夢の王国、ヘンリー・ダーガーの描いた『非現実の王国』と、ルイス・キャロルの『シルヴィーとブルーノ』について。
 ***  左翼は分裂症的(そして双極性障害的)なのに対して、右翼は偏執病(パラノイア)的、という話を聞いた。大雑把なのは間違いないけれど、実際、そうなのかもしれないと思う。浅田彰の『逃走論』はすべてから逃げ続けることを、分裂し続けることを肯定するわけだけど、右翼は逆にすべてを引き受けようとする。伝統を、国家を、天皇を、歴史を(だからこそ、右翼、と呼ばれる人間たちは『逃走論』を読むことでいらいらした心地になるはず)。
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shintani24 · 23 days
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2024年3月5日
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昭和50年代 広島市写真展(広島テレビ)
昭和50年代と現在の広島を比較し、変遷をたどる写真展が、きょうから広島市内で始まりました。
カープが初優勝した1975年。山陽新幹線の岡山・博多間が開業し、「カープの優勝は新幹線のおかげ」とも語られました。
旧日本銀行広島支店では、広島市が大きく発展した昭和50年代の街並みと現在を比較する写真、およそ170枚を展示しています。
会場には1981年に撮影された巨大な空中写真も展示。訪れた人たちは現在のマツダスタジアムの近くにあった貨物駅などを見ながらかつての景色を懐かしんでいました。
「ほとんど見たことがある写真団塊の世代ですからちょうど」
写真展は、今月10日まで開かれています。
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減少する街の書店、国が本格的支援へ…読書イベント・カフェギャラリーなど個性的な取り組み後押し(読売新聞)
全国で減少する街の書店について、経済産業省が大臣直属の「書店振興プロジェクトチーム」を5日設置し、初の本格的支援に乗り出す。書店は本や雑誌を売ることを通し、地域文化を振興する重要拠点と位置づける。読書イベントやカフェギャラリーの運営など、個性ある取り組みを後押しする方策を検討する。
経産省によると、プロジェクトチームは映画や音楽、文芸などを扱うコンテンツ産業課に事務局を置く。キャッシュレス決済の推進や中小企業支援を担当する部署も参加し、部局横断型で事業内容の議論や調査を進める。
今後、経産省の担当者らと書店や出版関係者による車座ヒアリングの開催を予定。非効率な出版流通の改善や店舗運営におけるデジタル技術活用の必要性など課題を把握する。店主が一冊ずつ良書を選んで入荷し、店のサイトやSNS上で紹介する個人書店や、カフェや文具店を併設し魅力的な読書空間を作る書店チェーンなど優れた事例を共有し、支援策の参考にする。
街の書店は、インターネットの普及による紙の出版物の不振やネット書店の伸長により苦境が続く。日本出版インフラセンターによると、2013年に全国1万5602店あった書店の総店舗数は、22年に1万1495店に減った。
一般財団法人・出版文化産業振興財団(東京)の調査によると、全国の市区町村のうち、地域に書店が一つもない無書店自治体はおよそ4分の1にのぼる。本や雑誌を直接手に取って購入できない人が増える深刻な状況となっている。
本と出会う機会喪失に深刻な危機感
経済産業省が大臣直属の「書店振興プロジェクトチーム」を設置する背景には、街の書店が減り、多くの人がリアルな空間で未知の本と出会う機会を失っていることへの深刻な危機感がある。全国の自治体のうち約4分の1はすでに書店がなく、実際に地域による文化格差は生まれている。
世界経済のグローバル化が進む中、経産省は、映画や音楽をはじめコンテンツ産業の振興を掲げる。「経済が成熟する中で、自国のサービスや商品が海外で勝ち抜くには、文化による新たな付加価値をつけることが必要」と語る。だが文化の基盤である活字や本に人々が広く触れる環境がなければ、新たな魅力的な発想は生まれないだろう。
韓国では、日本の文化庁やスポーツ庁などにあたる文化体育観光省管轄の「韓国出版文化産業振興院」が中核になって支援事業を担当。独立系書店と呼ばれる中小の書店が活気づく。
東京都文京区で街の書店「往来堂書店」を営む笈入(おいり)建志さん(53)は、「雑誌が売れた頃は、お客が定期的に街の書店を訪れる習慣があった。今は2000年頃に比べ、お客は7~8割になった感覚だ」と語る。人々が本を買いに店に立ち寄るきっかけを作るため、トークイベントや読書会などを開く工夫をしている。
各地の書店には、優れた選書眼や読書イベントの経験を持つ書店員たちがいる。まずは、現場から優れた事例を集め、何ができるのか国や民間の垣根を越えて知恵を絞りたい。(文化部 小杉千尋)
西川立一(ラディック代表/流通ジャーナリスト/マーケティングプランナー)
見解 街の書店の苦境は、稼ぎ頭だった週刊誌などの雑誌の衰退や漫画の電子本の台頭も要因で、それに店主の高齢化による廃業や後継者不足で店舗数の減少が加速化した。
一方で、若い人を中心に特色ある書店の出店も盛んになりつつあり、紀伊国屋書店をはじめとする大手は堅調で、大型のショッピングモールには書店が必ずと言ってある。
経産省の「書店振興プロジェクトチーム」の設置は、遅まきながらの感もあるが支援は必要だ。ただ、官主導での取り組みだけではなく、地域の人たちがどれだけ書店を必要としているか、そのため主体的に何ができ、何をするのかが求められている。
中井彰人(株式会社nakaja lab 代表取締役/流通アナリスト)
見解 生き残って頑張っている街の書店は、イベントやSNS発信によって文化の灯を消さぬよう努力をしている。しかし、書籍小売業が苦しいのは、本が売れなくなったことに加えて、本がある程度売れたとしても、粗利率が低く抑えられているため(2割強)、収益の確保が難しく、持続するのが困難なことにある。この解決策を見つけたのが、ヴィレッジヴァンガードである。今は店舗を広げすぎて業績が苦しい状態ではあるが、かつて、ヴィレヴァンは、総売上の6割以上を雑貨で構成することで、読んでもらいたい本の売場(売上の3割弱)を維持することに成功した(2002年時点のデータ)。この時の同社の雑貨粗利率36%、本は21%であり、これで事業としての持続可能性を構成していたのである。書店支援は単に予算を流し込むのではなく、書店が事業として収益確保するため、商材やサービス及び、自立的ビジネスモデル開拓の支援に、重点を置いてほしい。
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「書店」10年間で764社が倒産や廃業で消えた(東京商工リサーチ 3月10日)
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「書店」倒産、休廃業・解散、新設法人 社数推移(1-12月)
書店運営会社(以下、書店)の市場退出が止まらない。2014年以降、書店は倒産・休廃業が新設法人を上回る状態が続き、10年間で764社が市場から退出した。店舗数の減少も続いている。経済産業省は3月5日、「書店振興プロジェクトチーム」を立ち上げ、支援意向を示すが、ネット書店や電子書籍に押された書店の減少に歯止めがかかっていない。
書店の倒産 ピークは太洋社破産の2016年
書店の倒産(負債1,000万円以上)は、2014年から2023年の10年間で140社に及ぶ。
ピークの2016年は25社発生した。2016年は、出版取次の(株)太洋社(千代田区)が自主廃業の方針から一転して3月に破産を申請した。連鎖する形で同月30日までに18社の書店が、次々と倒産や廃業に追い込まれた。書店の経営環境が厳しさを増し、書籍を卸す取次店の業績悪化も深刻な時期だった。
その後、書店の倒産は一進一退が続き、コロナ禍では資金繰り支援や巣ごもり需要などを背景に、倒産は減少に転じた。2021年、2022年の倒産は各5社と小康状態にあったが、支援縮小や特需が一巡した2023年は一気に13社と2.6倍に急増した。
書店の休廃業・解散が高止まり
倒産以外で事業を停止した休廃業・解散も分析した。太洋社が破産した2016年の休廃業・解散は63社(前年比28.5%増)と急増。その後も増勢をたどり、2018年は78社、2019年は77社と高水準が続いた。
コロナ禍では倒産と同様、休廃業・解散も減少したが、60社前後で高止まり状態にある。
倒産と休廃業・解散の合計は、ピークの2019年に101社に達した。コロナ禍では減少したが、2023年は67社に微増し、過去10年間で764社が市場から退出している。
書店は8年連続で純減
一方、書店の新設法人は、2013年が81社だった。2013年の倒産と休廃業・解散の合計は75社で、書店は6社の純増だった。
ところが、新設数の減少から2014年は8社の純減に転じ、2019年は56社まで純減が拡大した。コロナ禍の2022年も21社の純減で、2014年から8年連続で純減が続いている。
電子書籍が浸透し、書店の存在が揺らいでいる。店舗で目当ての本を探す楽しみや、知らない本との出会いも、書店の減少で失われつつある。書店の復活には“待ちの営業”から客足を向かせる創意工夫への転換と同時に、国や出版社の継続的な支援が必要だ。
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