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#大家千桜都
ho4org · 2 years
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2022.08.11 大家企画 #大家千桜都 @gpsOoieChisato 11/23
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hachikenyakaiwai · 2 days
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【かいわいの時】文久二年(1862)四月二十三日:南画家田能村直入らが大煎茶会「青湾茶会」を開催(大阪市史編纂所「きょうは何の日」)
清湾茶会には、天気がよかったこともあり千二百人もの人が参加したと記録されています(『清湾茶会図録』)。茶席は、大長寺から桜宮まで本席7副席4の11席で、1席の定員10人。1200人だと、延べ120席を11会場で回した勘定になり、1席30分としても6、7時間は要したであろうと思われます。
ところで、この茶会に参加した国学者の近藤芳樹(長州藩士。当時、京にて情報収集活動を行う)が、周防防府の酒造家で文化人のパトロンであった上田光美に送った書簡[註1]によると、
・切符500人前を前日より発売 ・当日に300人前を追加
正規チケットを持った参会者は1200人中800人で、つまり、あとの400人はタダ乗りとゆうことになりそうです[註2]。
船の席は小舟で送迎するので混雑はなかったが、その外の席には一度に大勢の者が押しかけ大混乱。切符を持っている人が席に入れず身動きもとれず、「あいつは切符も持たんと茶ァ飲んでけつかる」などと大声で叫んで大騒動になった。(近藤書簡を超訳)
茶会は、お世辞にも「清風」とは言い難い状況で、そんな中でも、切符をもった近藤さんは、ゆうゆうと全席コンプリートしたと述懐。勤王の志士でも、茶会は別格であったようだ。本人は9席と供述。実際は11席なので、2席は飛ばしたようです。世情穏やかならぬ幕末にあっても、たまたま京・大坂に滞在中であった近藤は茶会を楽しむ余裕があったようです[註3]。
[註1]『近藤芳樹書牘集一』(山口県文書館蔵)。幕末期の国学者。周防(すおう)の人。本姓田中、通称晋一郎、号は寄居(ごうな)。旧長州藩士で明倫館助教。維新後、東京に移り住んで、宮内省御用掛に任じ、御歌所寄人(よりうど)などをつとめた。本居大平、村田春門また山田以文に師事して、国文学、律令学を学んだ。同じ大平門の加納諸平を尊敬して最も歌をよくし、幕末歌壇に際立った活躍をした。学績として《令義解校本》《淫祠論》など、歌論書に《古風三体考》《寄居歌談》、紀行文に《陸路廼記(くぬかちのき)》がある(改訂新版 世界大百科事典 「近藤芳樹」の意味・わかりやすい解説 )。
[註2]売茶翁は、売茶の折、「茶銭は黄金百鎰より半文銭まではくれ次第、たゞのみも勝手、たゞよりはまけまうさず」(『近世畸人伝』1790)とゆう看板を掲げており、切符の代金はいくらであったのか定かではないが、タダで飲まれても文句はいえない。按ずるに、切符は単なる整理券で、茶会はタダだったのかもしれない。「僧侶の身分を放棄し、餓死に繋がる決断を下した売茶翁の声に想いを巡らし、且、清湾茶会が売茶翁の追善と懸賞の爲に開催されたとするなら、“無錢飮食”とゆう表現は、如何なものであらうか」(千三屋)。
[註3]近藤書簡には「伏見も大騒動ニ御座候然處大都會と申ものハ妙なものに而此内ニ過ル二十三日網島ニ於煎茶の大會御座候」とあり、丁度同じ日の夜に起こった伏見の寺田屋騒動にも触れている。
(写真)木村孔陽編・青木夙夜画『賣茶翁茶器圖』1823・1924復刻より「茶籏」 賣茶翁の茶道具は、翁と親交のあッた木村蒹葭堂が其の姿・形を記録した。翁沒後60年の文政6年(1823)に、蒹葭堂の後嗣・木村孔陽が、この圖を蒹葭堂と交友のあッた南畫家・青木夙夜に冩させ、圖譜にまとめて刊行した(千三屋)。高翁(賣茶翁)の衣の紘(切れ端)で作成、「清風」の文字は大典禅師書。
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ari0921 · 17 days
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桜林美佐の「美佐日記」(252)
「地震予知」から建築物・インフラの強靭化へ
桜林美佐(防衛問題研究家)
──────────────────
おはようございます。桜林です。「男もすなる日記
といふものを、女もしてみむとてするなり」の『土
佐日記』ならぬ『美佐日記』、252回目となりま
す。
前回、お休みし、時間が空きましたが、柳澤真一さ
んについてご感想を頂戴しました。「柳澤さんは、
陰徳を励行する方だったのですね。人は、よいこと
をすると、ついつい、言いふらしたくなりますが、
それではよいことをしたことにはならないと、私も
考えています。私も、引き続き、柳澤さんをお手本
にして、できる限り、陰徳を積んでいきたいと思い
ます」  
同感です。ありがとうございました。
 先週は台湾で大地震が発生し、沖縄にも津波警報
が発令されました。自衛隊ではまだ能登半島地震の
災害派遣が続いており、恐れているのは、このよう
に複合的に災害が発生する事態です。
 もはや現在進行中の災害派遣は報じられなくなっ
てしまっていますが、ファストイン・ファストアウ
トが鉄則のはずの自衛隊をここまで長期間にわたり
使うというのは、やはり問題があると思います。水
道などインフラのダメージが大きいことは承知して
いますが、派遣が長期間に及ばないよう国や自治体
は全力で努力してもらいたいです。
そうした中、地震学者である島村英紀さんと対談す
る機会がありました。内容は私にとっては目から鱗
が落ちる話ばかりでした。
 島村先生は東大理学部物理学科で博士課程を修了
し、北海道大学教授、国立極地研究所所長も務めた
方で、海底地震観測を世界中で実施し、研究のため
の海外渡航歴は76回、船上で地球12周を過ごしたと
いう、まさに地震研究のエキスパー��と言っていい
方。
 その先生から出た日本の地震研究に関する言葉は
衝撃的でした。結論から言うと「地震は予測できな
い」というのです。
震度7を記録した能登半島地震は、政府機関である
地震調査研究推進本部では「能登半島が今後30年
間で震度6以上の揺れに見舞われる確率」は、わず
か「0.1%未満」だったといいます。
 なぜ、こんなに大ハズシをしたのか?を問うと
「地震予測はできない」とひと言。そもそも「マグ
ニチュード」という言葉を考案した地震学者のチャ
ールズ・リヒター氏もこんな言葉を残しています。
「地震を予知できるのは、愚か者とウソつきとイカ
サマ師だけである」と。
それなのに、日本では「地震予知は可能」という前
提で、1978年に「大規模地震対策特別措置法」
(大震法)が制定されました。予測の信頼性がない
ことから「見直すべき」との声が上がっているもの
の、依然としてこれが有効になっていることに先生
は警鐘を鳴らしています。
 これには、地震学会に属する3000人の会員の
抵抗があるようです。国費で維持されている地震研
究だけに、これを止めてもらっては困るというわけ
です。
 しかし、数々の地震予測をあざ笑うかのように、
悉くノーマークの場所で大地震が発生してきたとい
います。
 2016年の熊本地震の時は、発生前に「今後30
年以内の地震発生確率はほぼ0%から0.9%」と評
価されたそうで、これが安心情報になったことが、
油断を招き、被害を大きくした可能性も指摘されて
います。
 では、緊急地震速報は何なのか、と思いますが、
これは地震予知ではないので誤解してはいけないと
いいます。
 この原理は単純で、全国に設置されている地震計
のいずれかで揺れを感じたら震源を計算して、まだ
揺れが届いていない場所に警報を送るという仕組み
で、直下地震には対応困難なのだそうです。
 
 地震予知研究は始まって以来、1兆円近い国費と
数百人の公務員が増員され、それも大学だけではな
く、気象庁や国土地理院をはじめとする数々の省庁
に資金が投入されてきたといいます。
 これだけの巨額な投資が容認されてきたのは、私
たち日本人にとって、難しいとは分かっていても地
震予測は悲願だったからでしょう。
 天気予報が可能なのは、大気の運動方程式がすで
に分かっているからだそうです。しかし、地震や火
山の噴火は同じような方程式がまだ分かっていない
のです。
 余震などの前兆を観測していれば何らかの規則性
が見いだせるのではないかという期待に基づき研究
は進められてきたものの、残念ながら、前兆に規則
性や共通性はなく、前兆のない大地震も数多く起き
ているといいます。
 世界には地震の起きない国もあるようですが、4
つのプレートがせめぎ合う日本では、現在言われて
いる南海トラフや首都直下などだけでなく、いつで
もどこでも「起こり得る」というのが答えのようで
す。
 一体、どうすればいいのか、と思いますが、島村
先生は何より建築物の強靭化や木造住宅密集の解消
など「あらゆる地域で」インフラを強くすることを
優先すべきだと説きます。
 問題はそこに国費を注ぐと、地震研究に充てる資
金が減りかねず反発が起こるという、大いなる矛盾
です。
 また「地震が起きない地域」を謳って企業誘致を
したり、逆に地震の可能性のあるなしで不動産価格
も左右するなど、影響は他にもあることでしょう。
しかし「ここでは地震が起きない」という安心情報
によって被害を広げているとしたら、これは見過ご
せません。
 私たちは今、宇宙への進出やAIなどの先進技術
を目の当たりにし、科学の進歩を実感しているとこ
ろです。しかし、地震研究も長くて千年単位のデー
タでしかなく、何万年のスパンでの調査はできてい
ません。海底調査も数キロの範囲で、宇宙に進出す
るよりも困難です。AIといっても、存在する情報
を使用しているにすぎません。
 結局、まだまだ人間の力ではどうにもできないこ
とがあるようです。
今日も最後まで読んで頂きありがとうございました。
どうぞ良い1週間をお過ごし下さい!
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oniwastagram · 1 year
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📸三千院庭園(京都市左京区) Sanzenin Temple Garden, Ohara, Kyoto ——京都・大原の代表的寺院の京都市指定文化財庭園『三千院有清園庭園及び聚碧園庭園』。桃山〜江戸時代の武将&茶人 #金森宗和 が手掛けた“聚碧園”と、国指定重要文化財の往生極楽院から眺める“有清園”。 ———————— 「三千院」は京都・大原の代表的な寺院/観光名所。平安時代から約1200年の歴史を持ち、代々皇室/皇族の出身者が住職を務めた“門跡寺院”の中でも『青蓮院門跡』などと共に“天台宗三門跡”(五箇所門跡)などに挙げられる高い格式の寺院。 境内にある2つの庭園が“三千院有清園庭園及び聚碧園庭園”の名で京都市指定文化財(京都市指定名勝)。そのうち『聚碧園』の作庭・修築を手掛けたのは戦国時代〜江戸時代の武将/茶人・金森宗和と伝わります。 2022年秋に約3年ぶりに訪れたのでその時の写真を追加して更新。 ■聚碧園 拝観受付の後に最初に鑑賞する庭園が、���殿の前に広がる“聚碧園”(しゅうへきえん)。石橋まで苔むした一面の緑と小さなサツキの刈込の美しい池泉鑑賞式庭園で、現在の庭園への修築を手掛けたのは桃山時代〜江戸時代の武将茶人・金森宗和。氏が作庭ではなく修築を手掛けたということは、年代的には桃山よりもっと古いのかも…。西行法師または陵阿上人のお手植の桜は近年5月初旬に白い花を咲かせるとか。 なお客殿には竹内栖鳳、今尾景年、鈴木松年、望月玉泉、菊池芳文といった近代の京都画壇で活躍した日本画家により明治時代に奉納された襖絵を見ることができます。 ▼他の写真や解説のつづきは @oniwastagram のプロフURLかこのURLから。 For more photos and commentary, please visit @oniwastagram 's profile URL or this URL. https://oniwa.garden/sanzenin-temple-kyoto-%e4%b8%89%e5%8d%83%e9%99%a2/ ———————— #japanesegarden #japanesegardens #japanesearchitecture #japanarchitecture #kyotogarden #zengarden #landscapedesign #beautifuljapan #beautifulkyoto #japanarchitect #japandesign #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #kyototrip #kyototravel #kyototemple #庭院 #庭园 #庭園 #日本庭園 #京都庭園 #京都寺院 #京都旅行 #京都観光 #大原 #京都大原 #おにわさん (京都大原三千院) https://www.instagram.com/p/Cpu5p4GvVQs/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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monthly-ambigram · 10 months
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2023-7月号
アンビグラム作家の皆様に同じテーマでアンビグラムを作っていただく「月刊アンビグラム」、主宰のigatoxin(アンビグラム研究室 室長)です。
『アンビグラム』とは「複数の異なる見方を一つの図形にしたもの」であり、
逆さにしたり裏返したりしても読めてしまう楽しいカラクリ文字です。 詳しくはコチラをご参照ください⇒アンビグラムの作り方/@2r96
◆今月のお題は「神話」です◆
今月は参加者の皆様に「神話」のお題でアンビグラムを制作していただいております。 ご高覧のほどよろしくお願い申し上げます。
では .38氏の作品をかわきりに順にご紹介してまいります。
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「超自然」回転型:.38氏
神話とは自然現象を超自然的な存在に結びつけたもの。カーブの調整が上手なのでチョー自然に読めますね。
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「第三の目」図地反転重畳型:螺旋氏
様々な神話によく現れるモチーフ。複雑なギミックの発見は第三の目で見ているのでしょうか。
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「 神籬(ひもろぎ)/顕現 」回転共存型:mishima氏
『神籬は古来、日本の神を招くための依代のようなもので、反対にすると日本神話の神が「顕現」するという感じで作りました』とのことです。神の依代となりそうなステキなデザインです。
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「八俣遠呂智/草薙剣」回転共存型 :兼吉共心堂氏
八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)を180°回転させると 草薙剣(クサナギノツルギ)になるアンビグラムです。書道筆致が最高に決まっています。共存型(回転させると別の言葉になるもの)はアンビグラムの花形です。
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「 VOCALOID神話入り楽曲」回転型:いんふぃにてぃ氏
盛り合わせで作っていただきましたが、それぞれ文字組の工夫がみられて楽しいです。 (  「ローリンガール」「ワールズエンド・ダンスホール」「天ノ弱」「ワールドイズマイン」「千本桜」「アンノウン・マザーグース」「メルト」「みくみくにしてあげる♪」「モザイクロール」「初音ミクの消失」「マトリョシカ」「ゴーストルール」「脳漿炸裂ガール」「砂の惑星」「アスノヨゾラ哨戒班」「DONUT HOLE」「六兆年と一夜物語」)
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「 神話」図地反転回転型:いとうさとし氏
中央の煌めきの形状が、図地反転により両方の文字でそろってくるのが美しいです。
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「ローマ神話」回転型:ぺんぺん草氏
代表的な神話の一つ。シンプルな図案化に神秘さを感じます。
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「ゼウス」回転型:peanuts氏
ギリシャ神話の主神で全知全能の神。文字の分解と省略が素晴らしいです。ロゴのデザインとしても優れていますね。
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「 ククルカン ケツアルコアトル 」旋回型:kawahar氏
『アステカ神話のケツァルコアトルとマヤ神話のククルカンは同一とされているので同一のグリフでくくるかんじにしました』とのことです。そのグリフ自体もフラクタル的な形状で濃淡をつけているのが読みやすさの向上に効果的です。
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「天照大神」図地反転鏡像型:douse氏
日本神話の主神。とても読みやすくキレイで、アマテラスから授かった図案なのかと感じます。
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「 彦星」図地反転型:いとうさとし氏
七夕伝説の起源は中国の神話。七夕飾りがなびいているように見えてきました。
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「最終戦争」鏡像型:つーさま!氏
神話で語られる、世界の終焉。北欧神話ではラグナロクといいますね。各文字とも文字の特徴をうまく残しているので読みやすいですね。
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「シンオウ神話」回転型:Zn氏
ポケモンにおいて、シンオウ地方で語り継がれている神話の総称。字画の共通化と省略が適切で読みやすいです。
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「非科学的」鏡像型:.38氏
神話は非科学的な言説の神格化ともいえるでしょうか。環状文字組の面白いデザイン。
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「安全神話」鏡像型:ヨウヘイ氏
根拠もないのに安全だと信じている状態 で、非科学的な最たるものですね。各パーツの親鏡像性を生かした作品です。次の作品と比較してみてください。
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「安全神話」回転型:Σ氏
こちらは回転型での作例。明朝体様の処理が読みやすさに寄与しているようです。
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「 物語」図地反転鏡像型:いとうさとし氏
物語としてまとめ上げることで神話は完成すると言えます。ステンシル風の処理も効果的です。
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「宇宙的恐怖」回転型:オルドビス紀氏 
クトゥルフ神話の根幹で、広漠で無機質な宇宙においては、ちっぽけな人類の希望や価値観など何の価値も無く、意思疎通も理解も不可能の絶対的な存在の恐怖にさらされていること。作者が多用する、交差と抜きの切り替えに注目です。
 最後に私の作品を。
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「英雄の旅」回転型:igatoxin
ジョーゼフ・キャンベルが、各地の神話に登場するヒーローの物語の構造を示したもの。英雄神話は共通の構造を持っている、ということを記した書籍です。
「神話」がお題のアンビグラム祭、いかがでしたでしょうか。 新たな参加者も加え、神話の域に近づけるようますます頑張っていきたい所存です。
お忙しい中 御参加いただいた作家の皆様には深く感謝申し上げます。ぜひ講評を寄せていただけましたら幸いです。
次回は『ジャングル』です。締切は7/31、発行は8/8の予定です。よろしくお願いいたします。
——————————–index——————————————
2017年 4月{ミステリー} 5月{音楽}        6月{童話}           7月{食}        8月{宇宙} 9月{回文}         10月{GAME}     11月{TOY}       12月{駅}
2018年 1月{書初め}    2月{蟲}               3月{映画}                4月{色彩} 5月{対語}        6月{アイドル}    7月{数学}                8月{恐怖} 9月{メカ}          10月{神}                11月{スポーツ}       12月{どうぶつ}
2019年 1月{書初め}       2月{地図}                  3月{漫画}            4月{職} 5月{都市伝説}   6月{速��}             7月{道具}     8月{文學} 9月{デパ地下}  10月{漢字4文字}    11月{学校}     12月{怪物}
2020年 1月{書初め}    2月{ART}           3月{気象}            4月{ギャンブル} 5月{カワイイ}   6月{建築}      7月{まつり}   8月{音楽} 9月{植物}       10月{ファンタジー}   11月{お笑い}       12月{時事}
2021年 1月{書初め}    2月{夜}                     3月{わびさび}       4月{日常} 5月{対語}     6月{医学}                 7月{トラベル}          8月{自然} 9月{料理}   10月{ファッション}    11月{ミステリー}    12月{時事}    
2022年 1月{フリー}      2月{天空}    3月{電脳}       4月{マジック} 5月{子供部屋}  6月{世界史}    7月{海洋}       8月{光る} 9月{武}     11月{人名}   12月{時事}    
2023年 1月{フリー}   2月{TV}        3月{クイズ}        4月{健康}   5月{回文}    6月{本}        
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bsamngodangbralba · 5 months
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小町数人説をめぐって
陽明文庫に中世の小町の絵がある。絹本着色、縦六一・六センチ、横四一・七センチの絵を表装してあるのだが、軸心近くの裏面に「小野小町像 貞治六秊六月廿五日」と、まさしくその頃この筆跡にて記されたものが付加されている。表装そのものもそんなに新しいものでないが、表装するにあたって、この絵に本来ついていた紙をここに付加したものであろうことは、その字がまさしく貞治頃〈一三六二〜一三六七〉この事跡であることが疑いもないからであろう。
ところで、この絵は「小野小町像」となっているが、まさしく「玉造小町子壮衰書」によっている。「容貌ハ憔悴シテ、身体ハ疲痩」、「頭ハ霜フリタル蓬ノ如ク、膚ハ凍リタル梨ニモ似タリ」、「骨ハ辣チテ筋ハ抗クナリ、面ハ黒クシテ歯ハ黄バミタリ」、「裸形ニシテ衣ナク、徒跣ニㇱテ履ナシ」、「左臂ニハ破レタル筐ヲ懸ケ、右手ニハ壊レタル笠ヲ提ツ」、「頸ニハーツノ囊ヲ係ケ、背ニハーツノ袋ヲ負ヘリ」、「肩ノ破レタル衣ハ胸ニ懸カリ、頸ノ壌レタル蓑ハ腰に纏ヘリ」とある「壮衰書」の序文をのものである。ここでもまた小野小町と玉造小町を同人物とする中世の理解が確認されるのである。
先にあげた「無名抄」の文〔五〇頁参照〕の続きに「玉造の小町と小野小町と同人かあらぬ者から、人々おぼつかなきことに申して争ひはべりし時...」とあって別人説もあったことは確かだが、その多くは前述の「玉造小町子壮衰書」の弘法大師著作説を土台にしての疑問であり、中世の大勢は、あくまで両者を同じものと見、「玉造小町子壮衰書」を小野小町の事蹟を語るものと見ていたことは疑いもないのである。
近世に入っても、この傾向は変わらなかった。貞徳の「徒然草慰草」などその顕著な例だが、中期以後の随筆の類を見ても、たとえば天野信景の「塩尻」〈『随筆大成』等〉、志賀忍〈天保十一年、七九歳没〉の「理斉随筆」などは、小野小町と玉造小町を同一人と考えている。
ところが、小町という名は、実は普通名詞であって、〇〇小町と呼ばれる女性はまことに数多くいたのだ、玉造小町と小野小町もとうぜん別人だという、いわば画期的な説が新井白雅の「牛馬問」「〈温知義書〉」に提示され、人々を驚かせたのである。
古代には一国より一人づつ采󠄃女を内裏へ献ぜしこと也。既に仁明帝の前後には、小町とて召されたるもの六十余人ありしとなり。この采󠄃女を后町のうちにをらしめたまふ。故にみなみな小町と呼ばれたるなり。その人々の宮仕へをやめて古郷に帰り身まかりたる墓を、おほか「た小町塚とよびしとなん。さてこそ、国々に小町塚といふもの多し。美濃・尾張の間にさへ二三所あり。
しかるを、なべての小町を一人と思ふよりまぎれたる説多し。たとへば実方朝臣、陸奥へ下向の時、髑髏の目穴より薄の生ひ出て、「秋風の吹くにつけてもあなめ〱」の歌の小町は小野正澄が娘の小野小町なり。文屋康秀が三河掾となりて下りし時、「身をうき草の根をたえて」さそふ水あらば」とよみしは高雄国分が娘の小町なり。「おもひつつぬればや人の見えつらむ」の歌、又業平の「舞の袖」などいひしは出羽郡司小町良実が娘なり。高野大師のあひたまふ、壮なる時憍慢最も甚だし、衰ふる日愁歎猶深しと答へしは常陸の国玉造義景が娘の小町なり。かく一人ならず。故に時代其外異なる事あるのみ。中にも良実が娘の小町は美人にて和歌にもすぐれたれば、独り名高く、すべて一人のやうに伝へ来たるのみ。
まず、小町を采󠄃女をし、采󠄃女のすべてに「町」をつけてよんだといっているが、平安時代の文献にあらわれる采󠄃女は、たとえば「近江の采󠄃女」〈拾遺集〉「明日香の采󠄃女」〈大和物語〉などのごとく、国名を冠して呼ぶのが普通である上に、文献にあらわれる「町」のつく女性は前述のように后町にいる更衣であって采󠄃女ではない。小町采󠄃女説自体が出羽都司良実の娘という伝承をもとにして出来たものであり、出羽国から采󠄃女をさしだすことはなかった〈「続日本紀」「類聚三代格」〉という事実を持ち出すまでもなく、この日雅の説には従えないのである。地方に数多い小町塚の合理的説明としても弱いものである。
ところで、この白雅の説、後半になると、その多数の小町が四人にしぼられて来る。架空の人物である小野正澄とか高雄国分とか玉造義景などの名をどこから持ち出して来たのか不明だが、既に伝説化説話化している小町像のすべてを事実と認定する立場からの合理的整理であって、まったく意味をなさぬものとしか言いようはないのである。
伝承る整理しながら、また新しい伝承を生んでいる感じの「牛馬問」の説であるが、その合理的整理法に人気があったのか。それに賛同して引用している随筆が実ははなはだ多いのである。神沢貞幹の「翁草」〈『随筆大成』第三期所収〉、城戸千楯の「紙魚室雑記」〈『随筆大成』第一期所収〉、石川宣続の「卯花園漫録」〈『新燕石十種』第三所収〉、山本信有の「孝経楼漫筆」〈『随筆大成』第三期所収」、滝沢馬琴・屋代弘賢らの「兎園小説」〈『百家説林』所収〉など、いずれもこれに全面的な賛同を示しているのである。
小町に限らず、伝説的人物は、その伝説化の過程において、事蹟が膨脹し、それを全体的に把握するとなると、そこに新しい矛盾が出てくることが多い。これを予盾なく合理的に統一しようとすると、いわば原生動物の体のように多方面に膨脹したものを分割するほかはなくなる。
たとえば柿本人麿の場合にしても、「万葉集」の記述を信するかぎり人麿は持統朝から文武朝にかけて活躍した歌人であるとするほかはない。だが一方、「万葉集」が引用する「柿本人麿歌集」にはそれよりもかなり後の歌もある。「人麿歌集」に後代の歌が入っているというのは今日の学者の常識だが、人間歌集なのだからすべてが人麿の歌だという立場に立てば、「万葉集」の人麿にして、既に最低二人いたことになる。次に「古今集」の仮名序を見ると、、「おほきみつの位(正三位)柿本人麿」を「ならの御時」の歌人としている。現在では、これを「奈良時代」と解し、しかも人麿が活躍した飛鳥時代は奈良時代に接していたからこのように書いたと説明している。だが、そこに都があった「時代」と解するのはどうか。平安時代において「御時」とは天皇の治世、すなわと御宇のことであり、「ならの御時」は平城の帝の御時の意にほかならないからである。事実、この仮名序に対応する真名序(漢文の序)には「平城天子」とはっきり書かれている。「古今集」より五十年ほど後に出来た「大和物語」にも人麿が平城天皇に仕えていたとある。平城天皇は平安時代第二の天皇だから「万葉集」の人麿とは違う。これ第三の人麿ということになる。ところ、で、「古今集」から百年ほど後の第三の勅撰歌集「拾遺集」を見ると、人麿が渡唐してよんだという歌が二首見える。これ、第四の人麿である。
人麿を一人ではなく四人とすると、その間の矛盾はなくなる。しかし矛盾がなくなったところでどうなるというのだ。私が問題にしたいのはそんなことではない。実在の人麿が、その死後、奈良時代・平安時代にどのように伝説化されていったか、別のことはで言えば、後の人々の心の中に人麿がどのように生き続けて来たか、私はそれを問題にしたいのである。
小町の場合も同じである。江戸時代の学者のように小町を四人にしたり、現代の民俗学系の国文学者のように、小町と称する女が無数にいたとか、小町を名のる遊行婦女・あるき巫女・歌比丘尼のたぐいが諸国をめぐり歩いていたと言い切ることによって事足れりとし、文献に残った小町の文学と伝承について深く考えようともしないのは学問の堕落、ある意味では頽廃という評語が適切でさえある。仮に彼らの言うようなことがあったとしても、せいぜい中世の後期のことであり、「小野小町の歴史」ほ既に平安時代中期以前から始まり、中世、近世と続いていたのである。小町が、その死後も、後代の人々の心の中にどのように生き続け、どのように変容していったか、あるいはまた、時を経て変容しながらその底に変えずに生き続けてゆく、いわゆる小町的なもの、それはいったい何かということの追跡にこそ、私は意味を認めたいのである。世に虚と言い実と言う。しかし、このように見れば、人々の心の中に生き続けていたものはすべてが実だと言うほかはないのである。
以下の章において次第に明らかにしてゆくことであるが、小野小町の説明化は、彼女の死後間もない頃から既に始まっていたのである。そして十世紀の末頃には、我々が知っている小町説話、たとえば(1)雨乞説話(2)好色説話(3)男性を拒否する驕慢説話(4)衰老説話 等、そのおおむねが既に出来るがっていたはずである。だから、そのような流れの中に「玉造小町子壮衰書」を置くならば、「小町老いて後、おとろへさらぼりたりなど云ふめるは、玉造小町の事なるを混じていへるなり」〈本居内遠「小野小町の考」〉というような見方が必ずしもあたらぬことを知るのである。小町衰老落魄の説話が「壮衰書」の影響で出来上がったというよりも、既に世に行なわれていた小町落魄説話の仏教的結実として壮衰書を考えるべきではないか。「玉造」の由来を明らかに出来ぬことは残念であるが、ともかくも「小町」と表題にあるだけで人々が説明を求めないような人物の伝でなければならないこと、しかもそれが「花ノ時ヲ待チテハ玉筆ヲ秉リテ紅桜紫藤ノ和歌ヲ詠ズル」美女の伝でなければならないことなどを併せ考えれば、平安末期から中世にかけての人々の大勢的理解がそうであったように、これをも小野小町のこととするのが、最も素直な、そんなして最も妥当な理解だと思うのだが、いかがであろうか。
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parkhabiomaster · 1 year
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ザ・パークハビオ
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江戸川区の最大の特徴は、区民の平均年齢が41.4歳と23区の中で最も若いことです。 これは、特に子どもの数が数字に反映されるためで、平成24年1月1日時点の東京都の市区町村別年齢別人口統計によると、0歳~14歳の人口比率は約17%を占めています。 私はここにいます。 国勢調査のデータによると、28.3%が既婚子持ち世帯、19.0%が4人以上の世帯、3.35%が3人世帯で、いずれも23区の中で最も高い。 合計特殊出生率は 1.45 で、23 区平均の 1.16 を大きく上回っています。 江戸川区といえば、東京東部臨海部の繁華街を代表する区の一つですが、太平洋戦争では大型台風の直撃や家屋倒壊など大きな被害を受けました。 . 海抜が低い地域と揶揄され、津波や洪水の危険性が高いことが懸念されています。ザ・パークハビオ
臨海部の住宅開発により、子育てしやすい区として多くの若者の流入に成功しています。 ディズニーランドに行きやすいところも、子育てファミリーの魅力の一つかもしれません。 支援制度は子育て世帯だけでなく、中高年向けの「家賃補助制度」や高齢者向けの配食サービスなども充実。 区内のスポーツセンターも温水プールなど設備が充実しています。 やはり海抜の高い地域が多く、自然災害のリスクが高いからです。 しかし、家賃が安いので外国人も多く住んでおり、国際色豊かな街です。 492haの広大な敷地を持つ葛西臨海公園は緑豊かで砂浜もあり、日本の渚百選にも選ばれています。 動物園併設の公園もあり、区内の公園面積は756haと23区の中で最大です。 水族館では魚も見ることができます。 区内を流れる江戸川や那珂川でも自由に遊べます。 荒川沿いには2003年に小松川千本桜、2013年には新川千本桜が完成し、多くの市民に人気の花見スポットとなっています。 江戸川区は若者の流入が活発ですが、江戸時代から庶民の街として栄えた長い歴史を持つエリアです。 江戸川区には伝統工芸品や特産品もあります。
江戸切子は東京都の伝統工芸品の一つで、主に江東区、江戸川区、墨田区などで作られています。 ガラスの表面に金の板や砥石を使って様々な模様を刻む技法です。 18世紀初頭頃から鏡、眼鏡、風鈴などの製造が始まり、明治時代に入るとヨーロッパの技術が導入・近代化され、東京の地場産業となりました。 2002年には東京都の伝統的工芸品に、2014年には経済産業省より国の伝統的工芸品に指定されました。 もうひとつ、江戸川区を代表する商品が小松菜です。 江戸時代の将軍が江戸川区の小松川村に鷹狩りに訪れ、小松菜の入った澄んだ汁を好んだことから村名がついたと言われています。 江戸川区は今でも作付面積第1位。 カルシウムや鉄分を多く含み、今や全国どこでも一年中食べられる野菜になりました。 現在、江戸川区がこの小松菜のブランド化に取り組んでおり、生で食べられる新しいサラダ小松菜が誕生しています。 近年、急激な人口増加により若い世代に人気の江戸川区ですが、治安面で不安の声も多くあります。 子供が多く、ディスカウントスーパーもあり、都心へのアクセスも便利という利点から、空き巣や強盗などの犯罪が多発しています。 長い間、江戸川区は北側を鉄道しか通っていない交通アクセスの悪さから「孤島」と呼ばれていました。 1969 年の東西線開通、1983 年から 1986 年の都営新宿線開通以降、この問題は徐々に改善されてきた。
現在、都心と千葉エリアを結ぶ東西線は完成していますが、区の南北を結ぶ鉄道路線はなく、交通手段はバスのみ。 バスの路線数を増やすなどの対策がとられていますが、1世帯あたりのマイカー保有率は23区内で5位であることからもわかるように、クルマは生活の必需品です。 杉並区は23区の西部に位置しています。 区名は青梅街道沿いに杉の木が植えられたことに由来するが、現在はそのような木はない。 杉並区は、関東大震災後、多くの人が杉並区に移り住み、郊外住宅地として発展してきました。 緑被率は23区で3位、人口密度は11位というデータを見ると、広々とした住宅が立ち並ぶ街であることが想像できます。 震災後に杉並区に転居した者のうち、富裕層は防災のため都心部には戻らず、杉並区にとどまり、広々とした邸宅を建てて優雅な生活を送った。 戦前から文人や画家など多くの文化人が暮らしてきた。 杉並区は、専業主婦の就業率23位、専業主婦率1位、シングルマザー率1位、離婚率23位、高卒大学進学率が高い区です。 . 東京の山腹を代表する住宅地の多いエリアです。 そして杉並区の魅力はそれだけではありません。 沿線には若者が多く住むエリアがあり、安くて魅力的なお店が並んでいます。
意外にもレジャーマダムだけでなく、若い人も多いです。 杉並区は専業主婦が多く、広々とした家で優雅に暮らすだけではありません。 杉並区に住む年齢層別の住民比率を見ると、18~29歳の若者の割合は男性4位、女性2位、全体では3位です。 中央線沿線の吉祥寺、荻窪、西荻窪、阿佐ヶ谷、高円寺エリアに多くの若者が住んでいます。 個性豊かな雑貨店や古着屋、古本屋、ジャズ喫茶、ライブハウスなどが軒を連ねるエリアです。 生活しやすい大きな商店街もあり、乗り換えなしで移動できる新宿へのアクセスも非常に便利です。 昭和の高度経済成長期に生まれ育った人にとっては、広大な土地を持つ一戸建てが杉並の生活かもしれませんが、20代の若者にとっては、音楽や古き良き文化、 、 バラエティショップに囲まれ、毎日刺激を受けながら生活を楽しめるのが杉並の魅力です。 この2つの特徴が、杉並区が住みたい街として人気の理由です。この2つの文化がうまく受け継がれ、融合し、独自の杉並文化が生まれています。 現在、杉並区では音楽を通じたまちづくりに積極的に取り組んでいます。 設備の整った公会堂や毎年恒例の音楽祭など、音楽の街としての地位を築いてきた杉並区。
アニメも地場産業の一つと捉え、その発展支援にも取り組んでいます。 荻窪音楽祭は杉並区を代表する音楽活動の一つです。 21世紀荻窪考える会が主催し、クラシックコンサートを通じて荻窪のイメージアップに貢献してきました。 荻窪駅周辺の銀行、協会、音楽スタジオ、喫茶店など様々な場所で期間限定で音楽フェスが開催されます。 運営スタッフを募集し、ボランティアで開催しています。 無給のスタッフに加え、街のバリアフリー化や音楽祭開催のスポンサーを募り、音楽祭の資金を募っています。 区民が運営側と出演者に分かれて開催する荻窪音楽祭は、2016年で28回目を迎え、町おこしの一大イベントに成長しました。荻窪音楽祭の他にも、 もう一つの有名な音楽イベントは阿佐ヶ谷ジャズストリートです。 1995年のスタート時は、小学校の体育館や企業ロビー、ライブ会場など13会場で開催されていましたが、現在では60会場以上に規模を拡大。 音楽の力で街を元気にするために始まったこのイベントも、地元の有志によって運営されています。 全国に600のアニメスタジオがあると言われ、そのうち70以上がここ杉並区にあります。 杉並区にアニメ関連の企業が多く設立されたのは、自社の住居を確保したことと、交通の便がよかったからです。
杉並区は都心へのアクセスが便利なだけでなく、静かで広々とした緑豊かな環境で仕事に没頭しやすい環境です。 杉並区は、日本で初めてアニメを地場産業として位置づけ、その発展を後押ししています。 2014年3月には、線路下にアニメ関連のショップが集まった施設「阿佐ヶ谷アニメストリート」をオープン。 日本のアニメーションの歴史を紹介するアニメーションミュージアムも開館し、展示のほか、ワークショップやアニメーションの上映会など、さまざまなプログラムが用意されています。 アニメウォークという街歩きイベントも。 アニメーション制作者と視聴者が交流する場として、アニメーション産業の発展をサポートするイベントです。 練馬区は、1947年8月に22区制であった板橋区から分離して設置されました。 練馬区は、東京都の北西部に位置し、23 区の中で最も標高が高く、面積は 23 区で 5 番目、人口は 2 番目です。 まだまだ畑が多いことから「緑豊かな区」というイメージを持たれている方も多いと思いますが、区は農地だけでなく公園もたくさんあります。 緑の多い練馬では、農業が主要産業の一つです。 2013 年 1 月現在、農地面積は 240ha で、23 区の中で第 1 位です。 農家数も372戸と1位ですが、33%の農家が農地面積0.3ha以下、約4割が農家収入0~49万円、500万円未満です。 9割のデータを見ると、大規模な農業をしている人は少ないことがわかります。 1975 年に 746 ヘクタールの農地と 1,342 戸の農家があったことを考えると、農業が衰退していることは明らかです。 農業以外にも、練馬の知名度を上げたアニメがあります。
練馬区には、90 を超えるアニメ関連企業、大学の芸術学部、音楽大学もあります。 都心へのアクセスの良さ、緑豊かな環境、家賃の安さは漫画家志望者の求める条件であり、日本を代表する漫画家が次々と誕生しました。 農業では地元の特産品をブランド化することが多いですが、かつて練馬には練馬を代表する野菜である大根がありました。 練馬大根は江戸時代から盛んに生産され、明治時代になると日清戦争や日露戦争により需要が高まり、その名は国内外に知られるようになりました。 大正時代になると、首都東京に人口が集中し始めます。 この頃から、練馬地区は都心部の農産物の供給拠点となり、その役割は年々強くなっています。 最近では大根の生産も盛んです。 練馬の農業は、鉄道の開通により流通が活発化し、拡大期を迎えました。 練馬大根の最盛期は、明治末から昭和初期の約25年と言われています。 昭和の終戦とともに、それまで大根漬けの一大供給地であった軍部の解体により、大根の生産は衰退し始めます。
大根の収穫は大変だったので、農家は大根からキャベツに主力生産を移しました。 現在、大根は練馬ではほとんど生産されていません。 農地面積は、1975 年の 745.6ha から 239.8ha へと減少し、2012 年度には 3 分の 1 以下となった。 練馬区内の農家・農家数は、1975 年の 1,342 世帯・7,232 人から 2012 年には 498 世帯・1,075 人に減少している。 、ブルーベリーとブドウ、およびその他の植物の 3,549 ヘクタール。 平成23年度東京都土地利用面積データによると、練馬区の農地利用率は区総面積の5.1%で第1位。 23区で最も農業が盛んな地域ですが、全体として農業の規模は縮小傾向にあります。 農産物の出荷量や作付面積は減少していますが、練馬区ではこれまで培ってきた農業のノウハウや既存の人材を活かし、農業を観光資源として活用しています。 大都市東京に近いという利便性を活かし、練馬区には現在約30のブルーベリー農園があります。 農業を観光資源化し、他地域から多くの観光客を呼び込む練馬の生き残り策の一つとして注目されています。 また、小学校での総合学習の一環として、区内の田んぼや果樹園を積極的に小学校に開放し、次世代への農業振興を積極的に行っています。 小中学校での田植え、カキやキウイの選別、受粉・収穫、野菜くず・残飯などの体験を通じて、子どもたちの農業への関心を高める活動。 肥料にリサイクルされています。 日本のアニメーションは、その技術とソフトウェアの両面で海外から高く評価されるようになりました。
練馬区は、日本一のアニメタウンとしてアニメ発展の歴史に深く関わってきました。 区内のアニメーションスタジオが日本初のアニメーションを制作し、1963年にはテレビでアニメの放送が始まりました。 当時の漫画家や後に有名になった漫画家のほとんどが練馬区で働いていました。 現在でも90社以上の関連会社が練馬に集まっています。 練馬区では、区が主体となってアニメ産業を戦略的に強化するための政策を策定するとともに、多数のアニメ関連産業を誘致することで区内産業全体の活性化に向けた活動を行っています。 国勢調査によると、2000年から2005年までの中央区の人口変化率は135.7%、2005年から2010年までは124.8%でした。 どちらのデータも、日本で最も高い人口増加率を示しています。 これを見ただけでも、中央区がますます人で賑やかになっていることが想像できます。 また、2020年のオリンピックに向けて、晴海に選手村が建設され、敷地内に約6,000戸の住宅が建設されます。 江戸時代から現在に至るまで、日本の文化・商業・情報の中心地として発展してきた中央区は、今後も人口が増加し続ける日本最大級のメガシティとして君臨しそうです。 順調そうに見える中央区ですが、紆余曲折がありました。 現在増加傾向にある人口は、1960 年から 1980 年までの 20 年間で 16 万 1000 人から 8 万 3000 人に減少しました。失われた人口を補うために、区は住宅建設を促進するためのさまざまな政策を導入しました。 中央区は区内定住者数の増加に成功したものの、その生活を支えるスーパーマーケットなどの商業施設や、子育て世帯が望む大規模な公園が不足しています。 便利で住みよい街を目指した地域づくりが今後の課題と言えます。 中央区だけでなく、現在の千代田区や港区などトップクラスの23区でも入居者が減少。ザ・パークハビオ
この時期は「都市のドーナッツ化現象」と呼ばれた。 高度経済成長期と呼ばれる1954(昭和29)年から1973(昭和48)年は、急速な都市化の時代でした。 石炭から石油へとエネルギーが変化する中、東京湾沿岸には次々と工場が建設され、産業が発展していきました。 都市部の工業化が進み、所得が増加した結果、裕福な人々はより良い生活を求めて広々とした家に住みたいと思うようになり、郊外に一戸建てを購入するようになりました。 私はそうでした。 この時期、都心部の大企業のオフィスや工場が集中する地域から、快適な住環境を求めて人々が離れていった。中央区では1957年から人口が減少に転じた。 バブル期に入り、中央区の地価が上昇したことで人口はさらに減少し、2000年1月1日現在、69,695人にまで落ち込んでいた。 バブル期の終焉後、都心部の不動産が大量に解放され、比較的安価な住宅が大量に供給されるようになり、都心部に住む人が増え始めました。 これがアーバンリターン現象の始まりです。 中央区は1981年に定住人口10万人を宣言し、1988年には定住人口回復の年を宣言した。 続々と紹介されています。 これらの施策により、長年減少傾向にあった中央区の人口は1998年から増加に転じました。 隅田川流域の住宅開発により、30~44歳の子育て世代の割合は33.9%を超えています。 これは、23 区の平均である 26.0% を大幅に上回っています。 2005 年から 2010 年までの 6 歳未満の子供の人口増加率は 56.0% と、23 区の平均である 5.7% をはるかに上回っています。 2020年東京オリンピックを控え、全国から注目を集めるエリアとなる中央区。 人口が増加の一途をたどる一方で、生活関連施設の整備が遅れています。 前述のように、日常の買い物ができる店舗はまだまだ不足しています。 大型スーパーはなく、食品スーパーも少ない。 ミニスーパーも増え、買い物の悩みも少しずつ解消されつつあります。 また、緑被率が23区内で最も低いことからもわかるように、緑のある公園の数は非常に少ないです。
浜離宮公園を除く公園面積���は23区中20位。 小さいお子さんがいるご家庭にとっては、外で遊べる場所がないというのは深刻な問題です。 現在、中央区内にはオリンピック選手村跡地や築地市場跡地など、いくつかの再開発候補地があります。 これらの広大な敷地を今後も住居専用にするのか、それとも緑の広場を追加するのかについては、議論の余地があります。 東京都が作成した東京都の人口によると、千代田区の人口は昭和35年以降減少傾向にある。 都心復帰の影響。 2016 年 1 月 1 日現在、千代田区の人口は 55,131 人です。 東京23区の中でも大きな役割を担う千代田区は、一言で言えば昼と夜の人口差が最も大きい区です。 昼間は人口が多く、夜間と夜間の差は20倍。 日本一にぎわうオフィス街には家がほとんどなく、夜もほとんど人がいません。 千代田区は23区の中で最も人口が少ない区です。 居住者が非常に少ない地域です。 夜間の人口が少なく、昼間の人口が多いということは、この区は昼間に多くの人が働きに来る場所です。 千代田区は業種別に分類しやすいです。 丸の内や大手町は大企業が集積するビジネス街であり、日比谷や有楽町は銀座の繁華街に近いため商業施設や娯楽施設が充実しています。
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medickalmalpractice · 9 months
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混迷した世界の指南書 『武士道』 藤原正彦(2008) 『この国のけじめ』 文藝春秋
 新渡戸稲造『武士道』が売れているという。昨年末(二〇〇三年)公開されたアメリカ映画 「ラスト・サムライ」の影響もあるとかで、数社から合わせて百万部以上が出ているそうだ。 これを聞いて意を強くした。 『武士道』が英語で書かれたのは明治三十二(一八九九) 年であ る。百年以上前の本を現代日本人がこぞって読むのは、健全な危機感のあらわれと思うから (5)である。 庶民は知識や理屈を持っていなくともときに鋭い感覚を示す。多くが「いまの日本は何かが おかしいぞ」という素朴な実感をもっている。グローバルスタンダードを取り入れるといって、企業はリストラをする。学校では「ゆとり教育」を取り入れる。その結果、職のない中高年があふれ、地方の駅前商店街はさびれ、小学校では国語や算数の時間が減らされ、小学生から大(10) 学生に至るまでの学力低下は著しい。庶民はこうしたことに「自分たちの親や祖父が大切にしてきたものが壊されつつある」と感ずるのだろう。我々のよってたってきた価値観とは何だったのか、(1)というルーツ探しに似た感覚が『武士道』を手にとらせているのだろう。  『武士道』の著者・新渡戸稲造は幕末の南部藩(いまの岩手県)で下級武士の子として生まれ、札幌農学校(現・北海道大学)で農業を学んだ後、アメリカに留学しキリスト教クェーカー派 の影響を受けた。アメリカからドイツへ渡り、研鑽を積んだ後、札幌農学校教授、台湾総督府技師、(5)京都帝国大学教授、第一高等学校校長などを歴任、農学者および教育者として活躍するかたわら、東西思想の調和を目指し「太平洋の懸橋たらん」ことを悲願とした。東京女子大の初代学長、国際連盟事務局次長なども務めた日本の誇る国際人である。  『武士道』が書かれた明治三十二年は日清戦争と日露戦争の中間期で、清を破った新興国家日本に世界が注目しながらも警戒心を持ちはじめた時機である。新渡戸はベルギー人法学者夫妻と散歩中(10)、日本には宗教教育がないと話したところ、「宗教なし! それでどうして道徳教育を授けるのですか」と驚かれた。その後いろいろ考えた結果、自身の正邪善悪の観念を形成しているものが幼少期に身につけた武士道であることに気づいたのである。  同時代人である内村鑑三や岡倉天心にも共通するが、新渡戸には日本人の魂を西洋人に理解させたいという熱い思いがあった。そして英語で武士道を紹介することを決意する。西洋人に(15)も理解しやすいよう、ギリシアやローマの哲学、聖書、シェイクスピア、ニーチェなどと我が国の本居宣長、平重盛、頼山陽、吉田松陰らを比較しながら武士道精神の本質について説いた。  (1)『武士道』初版は一九〇〇年にアメリカで出版され、たいへんな賞讃を受けた。感激したセオドア・ルーズベルト大統領などは、何十冊も買い、他国の首脳に送ったという。その後多くの言語に訳されたが、日本語訳は明治四十一年以来、新渡戸の弟子で東大総長を務めた矢内原忠雄訳(岩波文庫)をはじめとしてさまざま出ている。 (5) 私は勤務する大学の学部一年生に対して、日本の名著を講読するゼミを担当している。こと十年近く、真っ先に学生たちに読ませるのが『武士道』である。受験戦争をくぐり抜けて大学に入学したての学生たちは、『武士道』を読んで一様に驚く。高校までに習ってきたこととあまりに違うことが書いてあるからである。とくに戸惑いを見せるのは、(10)名誉に関する部分である。 武士道では、名誉はしばしば命よりも重いとされる。「それ故に (武士は)生命よりも高価であると考えられる事が起れば、極度の平静と迅速とをもって生命を棄てたのである」(矢内原忠雄訳・以下同)という箇所を読むと、戦後民主主義の教育にどっぷりつかった学生たちは、「名誉より自分を大切にすべきだ」とか「生命は地球より重い」などと拒否反応を示す(むろん(15)新渡戸は「真の武士にとりては、死を急ぎもしくは死に媚びるは等しく卑怯であった」とも述べており、いたずらに死を賞讃しているわけではない)。  (1)学生たちのそうした批判に対して、私は「それではあなた方は一体どうやって価値判断をするのですか」と問う。すると「自分の理性で考えます」「主体的に考えています」などと答える。「すごいなあ、なぜそれほど自分の理性に自信が持てるんですか」と問うと学生は困ってしまう。人間には、理性や論理だけでなく、価値判断の基準となる倫理的な座標軸がなければならない。(5)それがない論理的思考は単なる利益追求とか自己正当化に過ぎない。座標軸の役割を果すのは、外国の場合、主に宗教だから、外国人は宗教のない人間を信用してよいものか訝る。  宗教の力がそれほど強くない我が国でその役割を果してきたのが武士道である。武士道は平安時代末期から鎌倉時代にかけて、「戦うものの掟」として生まれた。それはいわば(10)戦闘におけるフェア・プレイ精神だった。卑怯な振る舞いはしてはならない、臆病であってはならない、という観念である。  騎士道がキリスト教の影響を受けて深みを得たように、単なる戦闘の掟だった武士道にも、さまざまな「霊的素材」が注入されたと新渡戸は言う。 まず仏教、なかでも禅が「運命を任すという平静なる感覚」と「生を賤しみ死を親しむ心」(15)を武士道に与えた。 そして主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝行という他のいかなる宗教でも教えられなかった美徳が神道からもたらされた。さらに孔子と孟子の教えが、(1)君臣、父子、夫婦、長幼、ならびに朋友の間の五倫の道、また為政者の民に対する仁慈を加えた。  こう書くと外国のものが多いようだが、禅にしても孔孟の教えにしても、中国ではごく一部の階層にしか広まらなかった。これらの思想は日本人が何千年も前から土着的に持っていた(5)「日本的霊性」 とびたりと合致していたから、武士の間にまたたく間に浸透したのである。 江戸時代になると実際の戦闘はなくなった。それとともに武士というエリート階級の行動指針であった武士道は、物語や芝居を通して次第に庶民にまで行き渡り、戦いの掟から精神へと昇華し、日本人全体の道徳的基準となった。武士道精神はこうして「遂に島帝国の民族精神を表現するに至った」のだ。  (10)武士道は成文化されていない。聖書やコーランのような経典がない。武士道は「書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法」として親から子へ、口から口へと伝えられた。そして知識よりその実践こそが本質とみなされたのである。  私の父・新田次郎は、幼いころ父の祖父から武士道教育を受けた。父の家はもともと信州諏訪の下級武士だった。生家の二階には三畳の間があり、子供は容易なことでは入らせてもらえなかった。(15)なぜならそこは切腹の間だったのである(実際に使われたことはないらしい)。幼少の父は祖父の命で真冬でも裸足で『論語』の素読をさせられたり、わざと暗い夜に一里の山道を(1)上諏訪の町まで油を買いに行かされたりした。父は小学生の私にも武士道精神の片鱗を授けようとしたのか、「弱い者が苛められていたら、身を挺してでも助けろ」「暴力は必ずしも否定しないが、禁じ手がある。大きい者が小さい者を、大勢で一人を、そして男が女をやっつけること、また武器を手にすることなどは卑怯だ」と繰り返し言った。問答無用に私に押しつけた。  (5)義、勇、仁といった武士道の柱となる価値観はこういう教育を通じて知らず知らずに叩き込まれていったのだろう。義とは孟子が言うように「人の路」である。卑怯を憎む心である。林子平は義を「死すべき場合に死に、討つべき場合に討つこと」と言っている。勇とは孔子が「義を見てせざるは勇なきなり」と言ったように、義を実行することである。そして仁とは、「人の心」。慈悲、愛情、惻隠の情、「強きを挫き弱きを助ける」などがこれに含まれる。  (10)他にも、礼節、誠実、名誉、忠義、孝行、克己など大切な徳目があった。なかでも名誉は重要で、恥の概念と表裏をなし、 家族的自覚とも密接に結ばれていた。前述したように名誉はしばしば生命より上位にくるもので、名誉のために生命が投げ出されることもたびたびあった。  武士道精神の継承に適切な家庭教育は欠かせない。戦前に国や天皇に対する「忠義」が強調 された、という反省から戦後は日本の宝物ともいうべき武士道的価値観がまったく教えられなくなったのは不幸なことである。(15)戦後教育しか受けていない世代が親となり先生となっているから、いまでは子供にこれを教えることも叶わない。 (1)新渡戸の『武士道』は日本人の美意識にも触れている。 武士道の象徴は桜の花だと新渡戸は説く。そして桜と西洋人が好きな薔薇の花を対比して、「(桜は)その美の高雅優麗が我が国民の美的感覚に訴うること、他のいかなる花もおよぶところでない。薔薇に対するヨーロッパ人の讃美を、我々は分つことをえない」と述べ、本居宣長の歌、(5)敷島の大和心を人間はば、朝日に匂ふ山桜花、を引いている。 薔薇は花の色も香りも濃厚で、美しいけれど棘を隠している。なかなか散らず、死を嫌い恐れるかのように、茎にしがみついたまま色褪せて枯れていく。 (10)それに比べて我が桜の花は、香りは淡く人を飽きさせることなく、自然の召すまま風が吹けば潔く散る。桜の時期にはしばしば雨が降り、ときには数日で散ってしまう。自然の大きな力に逆らわず潔く散る。  「太陽東より昇ってまず絶東の島嶼を照し、桜の芳香朝の空気を匂わす時、いわばこの美しき日の気息そのものを吸い入るるにまさる清澄爽快の感覚はない」、つまりこの清澄爽快の感覚が(15)大和心の本質と新渡戸は説く。  (1)日本人は、このような美意識を持ち、いっぽうで行動原理としての武士道を守ってきた。新渡戸はまた、吉田松陰が刑死前に詠んだ、かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂、(5)を引く。吉田松陰は黒船来航以来の幕府の政策を痛烈に批判し、安政の大獄の際に死罪に処せられた。この歌は、たとえ行き着く先は刑死とわかっていても、正しいと信ずることをせずにはおれないという松陰の告白である。名誉のためには死も恐れないという態度である。  こうした「大和心」といい「大和魂」といい、武士道精神の精華といえよう。これを世界の人に知らしめた新渡戸の功績は訳者の矢内原忠雄の言うように「三軍の将に匹敵するもの」がある。(10)日清戦争後の三国干渉等で世界が日本に警戒心を強めていたときに、軍事力でなく、誇るべき民族精神によって日本を世界に伍する存在としたのである。 明治維新のころ、海外留学した多くの下級武士の子弟たちは、外国人の尊敬を集めて帰ってきた。彼らは、英語も下手で、西洋の歴史や文学もマナーもよく知らなかった。彼らの身につけていたものといえば、日本の古典と漢籍の知識、そして武士道精神だけであった。それでも彼らは尊敬された。(15)武士道精神が品格を与えていたのである。  世界は普遍的価値を生んだ国だけを尊敬する。 イギリスは議会制民主主義を、フランスは人権思想を、(1)ドイツは哲学や古典音楽を作った。自然科学のうえでもこれらの国は多大な貢献をした。現在経済的にも軍事的にもたいしたことのないこれらの国が国際舞台で主要な役割を果せるのは、彼らの創出した普遍的価値に世界が敬意を払っているからである。 私は、日本の武士道精神と美意識は、人類の普遍的価値となりうるものと思う。 (5)二十一世紀は、武士道が発生した平安時代末期の混乱と似ていないでもない。日本の魂を具現した精神的武装が急務だ。 切腹や仇討ち、軍国主義に結びつきかねない忠義などを取り除いたうえで、武士道を日本人は復活するべきである。これなくして日本の真の復活はありえない。国際的に尊敬される人とは、自国の文化、伝統、道徳、情緒などをしっかり身につけた人である。武士道精神はその来歴といい深さといい、身につけるべき恰好のものである。  (10)新渡戸は「武士道の将来」と題した最終章にこう書いている。「武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう。(中略)その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう」 世界はいま、政治、経済、社会と全面的に荒廃が進んでいる。人も国も金銭崇拝に走り、利害得失しか考えない。 (15)義勇仁や名誉は顧みられず、損得勘定のとなり果てた。 ここ数世紀の間、世界を引っ張ってきたのは欧米である。 ルネッサンス後、理性というものを他のどこの地域より(1)早く手にした欧米は、論理と���理を原動力として産業革命をなしとげ、以後の世界をリードした。論理と合理で突っ走ってきた世界だが、危機的な現状は論理や合理だけで人間はやっていけない、ということを物語っている。それらはとても大切だが、他に何かを加える必要がある。  (5)一人一人の日本人が武士道によりかつて世界の人々を印象づけた高い品格を備え、立派な社会を作れば、それは欧米など、荒廃の真因もわからず途方に暮れている諸国の大いに学ぶところとなる。これは小手先の国際貢献と異なる、普遍的価値の創造という真の国際貢献となるであろう。この意味で、戦後忘れられかけた武士道が今日蘇るとすれば、それは世界史的な意義をもつと思われる。
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myonbl · 10 months
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2023年7月12日(水)
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一週間前に申し込んだ新幹線の予約、午前8時10分に第一希望がとれたとのメールが届いた。早速アプリから、ICカードの割当をする。今まで気にしたことは無かったのだが、ツレアイは以前からSuica利用、私は先日Icaocaに変更、するとカードの番号が<JW80F>と<JE80F>、なるほど西日本(West)と東日本(East)と区別されているのか。これで Apple Watch ひとつで自宅から桜木町まで楽ちん乗車、むふふふ。
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4時30分起床。
日誌書く。
5時30分、シャワー。
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朝食、洗濯、弁当*3。
空きビン缶、45L*1。
ツレアイの職場経由で出勤する。
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月曜日の<情報機器の操作Ⅰ(看護学科)>の採点作業、Excelファイルをチェックするのだが、学内フォルダなら問題ないが、GoogleDriveにコピーすると100%互換ではない。このことを忘れていたために、途中までの作業が無駄になってしまった。
水曜日は2限・3限<情報機器の操作Ⅰ(栄養学科)>、月曜日と同じく Excel の試験。しかし、欠席者が多くて心配だ。
3限終わりですぐに帰宅する。
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月曜日にツレアイに代行を頼んだ処方箋を持ってファルコ薬局で10日分の薬をいただく。そのままライフ西七条店へ、肉系が続いていたので今夜は魚にする。外に出た途端に激しい雷雨、傘を持っていて良かった。
昨日点滴をしたココ、今日はカリカリと音を立ててご飯を食べている。
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ツレアイも早めに終わって一緒に夕飯、息子たちには冷やした白ワイン、私は八海山を冷やでいただく。
テレビ視聴。
「まっすぐ清らか 竹」
初回放送日: 2023年7月12日
「竹の寺」と呼ばれる京都の寺。美しい竹林を作り上げる手入れとは?▽名人の心意気が生み出す「京銘竹」の世界▽さまざまな物語とともに受け継がれる「茶杓(ちゃしゃく)」。千家十職の黒田家の見極めとは?▽室町時代から500年以上伝えられてきた「茶筅(ちゃせん)」の技▽建築家・隈研吾さんが語る「竹と日本人」▽世界が注目する巨大な「竹アート」。伝統と現代を融合させる製作現場に密着!<File584>
放送日が変更になったことを知らなかったのだが、運良く見ることが出来た。
片付け、入浴、体重は2日前から100g増、いかんなぁ。
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鈴本夏祭りの番組が発表されたとのこと、予約開始は7/29(土)13時、8/12(土)は何としても行くのだ。
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久しぶりに3つのリング完成、やはり気分が良い。水分は、1,400ml。
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natsukikurai · 10 months
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Live Live Live!
7/2 千宝美 & KFB / 山梨 Studio Pellet 7/6 佐藤鈴木田中 / 雑司ヶ谷 エルチェクロ 7/8 KURAI FAMILY BAND / 茅ヶ崎 XAYMACA 7/9 風響 & 松村智恵子 / 群馬 有隣館 7/13 Ikura & 矢後憲太 / 神保町 Bumpodo gallery 7/13 倉井夏樹 & 斎藤渉 / 新横浜 LATELY 7/14 矢井田瞳 / 大阪なんばハッチ 7/15 矢井田瞳 / 京都 FANJ 7/16 倉井夏樹 & 斎藤渉  (GUEST 出演)/ 桶ヶ谷市民ホール 7/22 Regalos + Satsuki / 辻堂 Bistro Zancn 7/23 矢井田瞳 / 東京 大手町ホール 7/26 NEIGHBOR SESSION / 桜新町 NEIGHBOR 7/28 矢井田瞳 / 名古屋 ReNY limited 7/29 矢井田瞳 / 福岡 Gate’s 7
8/5 矢井田瞳 / 広島 Quattro 8/6 矢井田瞳 / 香川 DIME 8/9 Hitomi / 池袋アップルジャム 8/12 矢井田瞳 / 仙台 Darwin 8/15 矢井田瞳 / 渋谷 pleasure pleasure 8/19 金子史央 / 阿佐ヶ谷 スタッカート 8/20 宮武弘 / 鎌倉材木座 海の家 8/22 片桐幸男 & 宮下誠 / 荻窪 rooster 8/27 SUEMARR / 茅ヶ崎 街路樹 8/28 即興の夜明けその10 / 池袋 Absolute Blue 8/29 SUEMARR / 四谷三丁目 homeri 8/30 NEIGHBOR SESSION / 辻堂 Bistro Zancn and more!!!!
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kachoushi · 1 year
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各地句会報
花鳥誌 令和5年5月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和5年2月2日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
厨女も慣れたる手付き雪掻す 由季子 闇夜中裏声しきり猫の恋 喜代子 節分や内なる鬼にひそむ角 さとみ 如月の雨に煙りし寺の塔 都 風花やこの晴天の何処より 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月4日 零の会 坊城俊樹選 特選句
暗闇坂のチャペルの春は明日あたり きみよ 長すぎるエスカレーター早春へ 久 立春の市の算盤振つてみる 要 冬帝と暗闇坂にすれ違ふ きみよ 伊達者のくさめ名残りや南部坂 眞理子 慶應の先生眠る山笑ふ いづみ 豆源の窓より立春の煙 和子 供華白く女優へ二月礼者かな 小鳥 古雛の見てゐる骨董市の空 順子 古雛のあの子の部屋へ貰はれし 久
岡田順子選 特選句
暗闇坂のチャペルの春は明日あたり きみよ 冬帝と暗闇坂にすれ違ふ 同 大銀杏八百回の立春へ 俊樹 豆源の春の売子が忽と消え 同 コート脱ぐ八咫鏡に参る美女 きみよ おはん来よ暗闇坂の春を舞ひ 俊樹 雲逝くや芽ばり柳を繰りながら 光子 立春の蓬髪となる大銀杏 俊樹 立春の皺の手に売るくわりんたう 同 公孫樹寒まだ去らずとのたまへり 軽象
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月4日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
敬􄼲な信徒にあらず寒椿 美穂 梅ふふむ野面積む端に摩天楼 睦子 黄泉比良坂毬唄とほく谺して 同 下萌や大志ふくらむ黒鞄 朝子 觔斗雲睦月の空に呼ばれたる 美穂 鼻歌に二つ目を割り寒卵 かおり 三􄼹路のマネキン春を手招きて 同 黄金の国ジパングの寒卵 愛 潮流の狂ひや鯨吼ゆる夜は 睦子 お多福の上目づかひや春の空 成子 心底の鬼知りつつの追儺かな 勝利
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月6日・7日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
潮騒を春呼ぶ音と聞いてをり かづを 水仙の香り背負うて海女帰る 同 海荒るるとも水仙の香の高し 同 坪庭の十尺灯篭日脚伸ぶ 清女 春光の中神島も丹の橋も 同 待春の心深雪に埋もりて 和子 扁額の文字読めずして春の宿 同 砂浜に貝を拾ふや雪のひま 千加江 村の春小舟ふはりと揺れてをり 同 白息に朝の公園横切れり 匠 風花や何を告げんと頰に触る 笑子 枝川やさざ波に陽の冴返る 啓子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月8日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
雪を踏む音を友とし道一人 あけみ 蠟梅の咲き鈍色の雲去りぬ みえこ 除雪車を見守る警備真夜の笛 同 雪掻きの我にエールや鳥の声 紀子 握り飯ぱりりと海苔の香を立て 裕子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月10日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
東風に振る竿は灯台より高く 美智子 月冴ゆる其処此処軋む母の家 都 幽やかな烏鷺の石音冴ゆる夜 宇太郎 老いの手に音立て笑ふ浅蜊かな 悦子 鎧着る母のコートを着る度に 佐代子 老いし身や明日なき如く雪を掻く すみ子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月11日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
朝光や寺苑に生るる蕗の薹 幸風 大屋根の雪解雫のリズム良き 秋尚 春菊の箱で積まれて旬となる 恭子 今朝晴れて丹沢颪の雪解風 亜栄子 眩しさを散らし公魚宙を舞ふ 幸子 流れゆくおもひで重く雪解川 ゆう子 年尾句碑句帳に挟む雪解音 三無 クロッカス影を短く咲き揃ふ 秋尚 あちらにも野焼く漢の影法師 白陶 公魚や釣り糸細く夜蒼し ゆう子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月13日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
犬ふぐり大地に笑みをこぼしけり 三無 春浅しワンマン列車軋む音 のりこ 蝋梅の香りに溺れ車椅子 三無 寒の海夕赤々漁終る ことこ 陽が風を連れ耀ける春の宮 貴薫 青空へ枝混み合へる濃紅梅 秋尚 土塊に春日からめて庭手入 三無 夕東風や友の消息届きけり 迪子 ひと雨のひと粒ごとに余寒あり 貴薫
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月13日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
浅春の眠りのうつつ出湯泊り 時江 老いたれば屈託もあり毛糸編む 昭子 落としたる画鋲を探す寒灯下 ミチ子 春の雪相聞歌碑の黙続く 時江 顔剃りて少し別嬪初詣 さよ子 日脚伸ぶ下校チャイムののんびりと みす枝 雪解急竹はね返る音響く 同 寒さにも噂にも耐へこれ衆生 さよ子 蕗の薹刻めば厨野の香り みす枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月14日 萩花鳥会
水甕の薄氷やぶり野草の芽 祐子 わが身共老いたる鬼をなほ追儺 健雄 嗚呼自由冬晴れ青く空広く 俊文 春の園散り散り走る孫四人 ゆかり 集まりて薄氷つつき子ら遊ぶ 恒雄 山々の眠り起こせし野焼きかな 明子 鬼やらひじやんけんで勝つ福の面 美惠子
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令和5年2月15日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
吹雪く日の杣道隠す道標 世詩明 恋猫の闇もろともに戦かな 千加江 鷺一羽曲線残し飛び立てり 同 はたと止む今日の吹雪の潔し 昭子 アルバムに中子師の笑み冬の蝶 淳子 寒鯉の橋下にゆらり緋を流す 笑子 雪景色途切れて暗し三国線 和子 はよしねまがつこにおくれる冬の朝 隆司 耳目塗り潰せし如く冬籠 雪 卍字ケ辻に迷ひはせぬか雪女 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
指先に一つ剥ぎたる蜜柑の香 雪 大寒に入りたる水を諾ひぬ 同 金色の南無観世音大冬木 同 産土に響くかしは手春寒し かづを 春の雷森羅万象𠮟咤して 同 玻璃越しに九頭竜よりの隙間風 同 気まぐれな風花降つてすぐ止みて やす香 寒紅や見目安らかに不帰の人 嘉和 波音が好きで飛沫好き崖水仙 みす枝 音待てるポストに寒の戻りかな 清女 女正月昔藪入り嫁の里 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月17日 さきたま花鳥会 坊城俊樹選 特選句
奥つ城に冬の遺書めく斑雪 月惑 顔隠す一夜限りの雪女郎 八草 民衆の叫びに似たる辛夷の芽 ふじほ 猫の恋昼は静かに睨み合ひ みのり 薄氷に餓鬼大将の指の穴 月惑 無人駅青女の俘虜とされしまま 良江 怒号上げ村に討ち入る雪解川 とし江 凍土を突く走り根の筋張りて 紀花 焼藷屋鎮守の森の定位置に 八草 爺の膝捨てて疾駆の恋の猫 良江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月19日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
古玻璃の奥に設ふ古雛 久 笏も扇も失せし雛の澄まし顔 眞理子 日矢さして金縷梅の縒りほどけさう 芙佐子 梅東風やあやつり人形眠る箱 千種 春風に槻は空へ細くほそく ます江 山茱萸の花透く雲の疾さかな 要 貝殻の雛の片目閉ぢてをり 久 古雛髪のほつれも雅なる 三無 ぽつねんと裸電球雛調度 要
栗林圭魚選 特選句
紅梅の枝垂れ白髪乱さるる 炳子 梅園の幹玄々と下萌ゆる 要 濃紅梅妖しきばかりかの子の忌 眞理子 貝殻の雛の片目閉ぢてをり 久 古雛髪のほつれも雅なる 三無 老梅忌枝ぶり確と臥龍梅 眞理子 山茱萸の空の広さにほどけゆく 月惑 八橋に水恋うてをり猫柳 芙佐子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月21日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
師を背負ひ走りし人も雪籠 雪 裏庭開く枝折戸冬桜 同 天帝の性こもごもの二月かな 同 適当に返事してゐる日向ぼこ 一涓 継体の慈愛の御ん目雪の果 同 風花のはげしく風に遊ぶ日よ 洋子 薄氷を踏めば大空割れにけり みす枝 春一番古色の帽子飛ばしけり 昭上嶋子 鉤穴の古墳の型の凍てゆるむ 世詩明 人の来て障子の内に隠しけり 同 春炬燵素足の人に触れざりし 同 女正月集ふ妻らを嫁と呼ぶ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月26日 月例会 坊城俊樹選 特選句
能舞台昏きに満ちて花を待つ 光子 バス停にシスターとゐてあたたかし 要 空に雲なくて白梅すきとほる 和子 忘れられさうな径の梅紅し 順子 靖国の残る寒さを踏む長靴 和子 孕み猫ゆつくり進む憲兵碑 幸風 石鹸玉ゆく靖国の青き空 緋路 蒼天へ春のぼりゆく大鳥居 はるか
岡田順子選 特選句
能舞台昏きに満ちて春を待つ 光子 直立の衛士へ梅が香及びけり 同 さへづりや鉄のひかりの十字架へ 同 春の日を溜め人を待つベンチかな 秋尚 春風や鳥居の中の鳥居へと 月惑 料峭や薄刃も入らぬ城の門 昌文 梅香る昼三日月のあえかなり 眞理子 春陽とは街の色して乙女らへ 俊樹
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
ポケットの余寒に指を揉んでをり 勝利 黒真珠肌にふれたる余寒かな 美穂 角のなき石にかくれて猫の恋 朝子 恋仲を知らん顔して猫柳 勝利 杖の手に地球の鼓動下萌ゆる 朝子 シャラシャラとタンバリン佐保姫の衣ずれ ひとみ 蛇穴を出て今生の闇を知る 喜和 鷗外のラテン語冴ゆる自伝かな 睦古賀子 砲二門転がる砦凍返る 勝利 小突かれて鳥と屋や に採りし日寒卵 志津子 春一番歳時記の序を捲らしむ 愛
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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ho4org · 2 years
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2022.08.11 大家企画 #大家千桜都 @gpsOoieChisato 23/23
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asa-wt0 · 2 years
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あさの約100冊
エラリー・クイーン/オランダ靴の謎 エラリー・クイーン/ギリシャ棺の謎 エラリー・クイーン/エジプト十字架の謎 エラリー・クイーン/災厄の町 エラリー・クイーン/十日間の不思議 エラリー・クイーン/九尾の猫 パット・マガー/四人の女 パット・マガー/七人のおば 有栖川有栖/ダリの繭 有栖川有栖/スイス時計の謎 北村薫/空飛ぶ馬 北村薫/鷺と雪 宮部みゆき/ステップファザー・ステップ 宮部みゆき/心とろかすような マサの事件簿 宮部みゆき/ぼんくら 宮部みゆき/我らが隣人の犯罪 宮部みゆき/小暮写眞館 今村夏子/星の子 三浦しをん/風が強く吹いている サリンジャー/ライ麦畑でつかまえて サリンジャー/フラニーとズーイ サリンジャー/ナイン・ストーリーズ カズオ・イシグロ/わたしを離さないで ウィリアム・アイリッシュ/幻の女 堀江敏幸/雪沼とその周辺 綾辻行人/十角館の殺人 ローラ・インガルス・ワイルダー/大草原の小さな家 島田荘司/占星術殺人事件 サマセット・モーム/月と六ペンス 絲山秋子/袋小路の男 彩瀬まる/あの人は蜘蛛を潰せない 西加奈子/ふくわらい 西加奈子/炎上する君 谷崎潤一郎/春琴抄 佐藤多佳子/しゃべれどもしゃべれども 田牧大和/花合せ 濱次お役者双六 千早茜/あとかた 津村記久子/この世にたやすい仕事はない 津村記久子/ミュージック・ブレス・ユー!! 加納朋子/ななつのこ 朝井リョウ/もういちど生まれる 瀬尾まいこ/卵の緒 瀬尾まいこ/あと少し、もう少し 庄司薫/赤頭巾ちゃん気をつけて 本谷由紀子/嵐のピクニック 小川洋子/猫を抱いて象と泳ぐ 中島京子/小さいおうち 辻村深月/ぼくのメジャースプーン 辻村深月/スロウハイツの神様 円城塔/これはペンです 川端康成/眠れる美女 三崎亜記/バスジャック 飛鳥井千砂/はるがいったら 吉田篤弘/針がとぶ―Goodbye Porkpye Hat 梨木香歩/春になったら苺を摘みに 川上弘美/センセイの鞄 中山七里/さよならドビュッシー 桜庭一樹/私の男 恩田陸/夜のピクニック 時雨沢恵一/アリソン 江國香織/流しのしたの骨 山崎ナオコーラ/昼田とハッコウ 東野圭吾/悪意 冲方丁/光圀伝 最果タヒ/死んでしまう系のぼくらに 森絵都/風に舞い上がるビニールシート 司馬遼太郎/燃えよ剣 北方謙三/三国志 角田光代/八日目の蝉 近藤史恵/にわか大根 いしいしんじ/トリツカレ男 いしいしんじ/麦ふみクーツェ 木原音瀬/美しいこと 西川美和/ゆれる 米澤穂信/遠回りする雛 アガサ・クリスティ/春にして君を離れ ハリイ・ケメルマン/九マイルは遠すぎる 多和田葉子/百年の散歩 サン=テグジュペリ/人間の土地 穂村弘/本当は違うんだ日記 ミヒャエル・エンデ/モモ 中勘助/銀の匙 ボリス・ヴィアン/日々の泡 古谷田奈月/リリース 長嶋有/ねたあとに 皆川博子/開かせていただき光栄です 桜庭一樹編/江戸川乱歩傑作選 獣 ネイサン・イングランダー/アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること トルーマン・カポーティ/ティファニーで朝食を ジョン・ディクスン・カー/火刑法廷 ジョン・ディクスン・カー/皇帝のかぎ煙草入れ クリスチアナ・ブランド/招かれざる客たちのビュッフェ シャーリイ・ジャクスン/ずっとお城で暮らしてる カレン・マクマナス/誰かが嘘をついている フランシス・ハーディング/嘘の木 Roald Dahl/The Witches Louis Sachar/Someday Angeline ジル・チャーチル/ゴミと罰 ルシア・ベルリン/掃除婦のための手引書 ルシア・ベルリン作品集 佐藤亜紀/スウィングしなけりゃ意味がない ジェフリー・ディーヴァー/ウォッチメイカー リアーン・モリアーティ/ささやかで大きな嘘 藤野可織/ピエタとトランジ サラ・ウォーターズ/荊の城 M・W・クレイヴン/ストーンサークルの殺人 ドロシー・L・セイヤーズ/学寮祭の夜 シャーロット・マクラウド/納骨堂の奥に P・J・トレイシー/沈黙の虫たち
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illaalli444 · 2 years
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『犬王』舞台巡り【山陽道編】
友魚の旅路/平家都落ちルートも巡りたいよね、という記録です。関西在住・北部九州出身なのでこの経路なんてもう数え切れんほど往復しているが視点を変えるだけでこんなにも新鮮な旅ができるってすごいなあと思う。
行った場所:腕塚(腕塚堂・腕塚神社)/草戸千軒町遺跡/厳島神社/花岡八幡宮/壇ノ浦古戦場・赤間神宮ほか
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腕塚(兵庫県神戸市・明石市)
腕を埋めて腕塚。一の谷の戦いに破れ西へと落ちゆく途中で非業の死をとげた平忠度の腕を埋めたと伝えられる"腕塚"は神戸市長田区駒ヶ林と明石市天文町の2箇所にある。え どゆことじゃ?と思ったけど知りたいこと全部書いてある論文ありました(大坪舞2008「祭祀される忠度の腕ー伝承を引き寄せる場をめぐってー」『論究日本文学』88)。こちらを参考にすると、そもそも忠度死地は『平家物語』でも史実でも絞り込めない。両地の忠度伝承は、駒ヶ林は17世紀後半(腕塚そのものは19世紀)、明石は17世紀初頭(腕塚は17世紀後半)までは遡れそう、とのこと。
駒ヶ林の腕塚は一の谷からちょっと東に位置。地下鉄海岸線駒ヶ林駅が最寄り。長田港に面する民家に囲まれて"腕塚堂"がある。細い路地に入っていくけど看板や標石があるので迷いはしないと思う。ガレージみたいなお堂。北西に忠度胴塚もある(こっちは看板少なくてわかりにくかった。伍魚福さんの隣)。
明石の腕塚は一の谷から西へ10kmほど離れる。山陽電鉄人丸前駅下りてすぐの"腕塚神社"。神社といってもお堂はごく小さい。木製の腕は地元の彫刻家の方が奉納されたもので、これで患部を撫でるとよくなるとか(境内においてあった「腕塚神社縁起」より)。東南に忠度塚と忠度公園もある。駅をはさんで北の丘陵にある人丸神社は柿本人麻呂を祀るが、境内に"盲杖桜"があり目の見えない人とのゆかりが深い。このへんからは明石海峡と行き交う船たちがよく見えます。
当たり前ですが京都とは全然景色が違っている。南が海、北が山。海を眺めていると友魚としてはこのへんまでは始めて来た場所であっても(見えなくても)"知ってる景色"なんだろうし逆に平家の人びとにとっては都を落ちて流浪の身になってしまったことを思い知らされる景色なんだろうなと思う。
どちらの腕塚も、いまも地元の人に愛されているのが伝わってくるたたずまい。腕塚が複数箇所にあるの、後世の人たちが"物語"を求めた結果だと思うのでそんな人間の営みが愛おしくなります。
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草戸千軒町遺跡(広島県福山市)
直接の舞台ではないのですが、湯浅監督がふくやま草戸千軒ミュージアム(広島県立博物館)の街並み復元模型に言及されていたので。博物館では中世の人々の生活に関連する出土品を沢山見られる。本編で町の人たちが持ってて印象的な曲物の容器もいっぱい並んでる。
草戸千軒町遺跡は当時の海岸線で芦田川の河口付近にあった中世の港町。友魚と谷一さんも寄ったかな?と思っていたのですが、拠点的な大都市というわけではないようなのと、どうやら14世紀後半は一時的に町が衰退していたようなので寄ってないかもしれません。友魚が魚をほぐしているシーンはまだ広島らしいので(オーコメより。広島を2年もまったり旅していたのはちょっと謎)、このあたりかなと思っていたのですが、お金持ちがの人がいるのは尾道とか鞆とかかな。
遺跡現地は博物館から西南約2kmに位置。調査後に掘削されあとかたもありませんが、法音寺橋に説明板が設置されている。橋を渡って芦田川の右岸には草戸稲荷神社と明王院(常福寺)がある。明王院は本堂が1321年、五重塔が1348年に建てられたものなので、友魚たちが見たかもしれない建物がそのまま残っていることになる。明王院入り口付近の石垣にはひょうたん形の石が組み込まれている箇所があり(現地に説明板あり)、犬王ポイント高いように思います。
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厳島神社(広島県廿日市市)
あれに見えるは厳島(ここでお社は映さないの超好き)。斎き島=神様をお祀りする島 として古くから信仰されてきた。1151年に安芸守となった平清盛は厳島神主家の佐伯氏と関係を深め、12世紀後半に海上の社を造営。その後何度か建て替えられているが、主要な建物の配置は基本的には変わっていないらしい。特に印象的な回廊は、現在のものは永禄~慶長年間(1558~1615)の再建。作中の回廊は、1241年に再建され、1537年に焼けたものにあたる。
干潮のタイミングで訪問したので、社殿が建ってるベースとの距離感がわかってよかった。友魚が落ちちゃっても自力で這い上がれそうな深さで安心(海の子なので心配には及ばないんだろうけど)。社殿が海に浮かんでいる姿が見られなかったのがかなり残念だけど、昼に干潮だと夜に満潮になる、という関係が理解できた。
大鳥居は改修中だったので足場が組んであり近くまで行けず。でも社殿の柱にもフジツボいっぱい付いてるのが確認できました。大鳥居も何回か建て替えられていて、現在のものは明治期の再建。1325年に2代目が倒壊してから1371年に3代目が建てられるまで空白期間があるので、友魚訪問時(1360年代後半くらい?)、実際には建ってなかったぽい。
しゃもじって琵琶みたいな形だな~と思いながらお土産見てたのですが、弁財天の琵琶っぽい工芸品としてつくられるようになったんですね。知らなかった。
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花岡八幡宮(山口県下松市)
境内に友魚が雨宿りしてた塔(閼伽井坊多宝塔)がある。多宝塔の建てられた時期、立て看板では「室町中期」となっているのですが、ガイドブックやウェブ上で「室町末期」説も見るのでど~いうこっちゃと思っていたのですが、建築様式からみて室町中~後期、解体修理で見つかった木片に永禄3年(1560)の墨書あり、ということのようです(下松市HPより)。また、お宮そのものも創建当初の鎮座地から1489年頃に現在地に動いているらしい。作中で描かれているのは実際よりも少し下った時期の姿になるのかなと思います。
多宝塔の実物は思っていたより小さい印象を受ける。というか、ここに友魚があの感じで座っているのを想像すると、まだだいぶこどもだな...?!と感じました。
旧山陽道に面した丘陵上に位置し、高いところにあるのでめちゃくちゃ石段を登る。現代人にとっては雨宿りにちょっと寄るレベルを越えてるので、参道入り口あたりでお寺の人が友魚に声をかけたのかもとか想像します。
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壇ノ浦古戦場・赤間神宮ほか(山口県下関市)
鴨の河原と同様、壇ノ浦も始まりの場所であり終わりの場所。
壇ノ浦古戦場跡は関門大橋の下関側のふもとに「みもすそ川公園」として整備されている。ちょうどこのあたりに友魚の暮らしていた集落があったのかなと想像できる景色。作中では霧に包まれて対岸は描かれていないけど、九州側の門司がかなり近くに見える。この土地も"境界"ですね。
赤間神宮は壇ノ浦古戦場跡から南西1kmに位置。壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇を祀る。江戸時代までは阿弥陀寺で、明治の神仏分離により天皇社赤間宮へ。1940年に赤間神宮に改称。1958年につくられた水天門は「波の下にも都がございます」の竜宮城を地上に造りだす意図でデザインされている。
耳なし芳一の舞台でもあり、境内の片隅に芳一堂あり。宝物館ではいろんな種類の琵琶も見られる。境内に平家蟹の標本も置いてる。
生きてる平家蟹は市立しものせき水族館海響館で見られる。海響館ができるまえの旧下関市立水族館は長府にあったのだけど、敷地内に"鯨館"という鯨形の建物があった。現在は中には入れないけど外観は見られます。小さい頃訪れたことがあって、でっかい鯨!のイメージだったけど今回再訪したら思っていたより小さいな...となりました。場所は関見台公園。下関は近代捕鯨発祥の地とされ、鯨とゆかりが深い。たまたまかもしれませんがモチーフの重なりが面白いです。
旅してこの文章を書くことで、山陽道、というか瀬戸内の海辺が友魚の旅路であり作中作(腕塚、鯨、竜中将)の舞台でもあるという重なりをはっきり認識できたのでよかった。この作品の重層的につくられているところが大好きです。
文献(本文中で言及したものを除く)
小川國治編 2001『長州と萩街道』街道の日本史43 吉川弘文館
県立広島大学宮島学センター2020「宮島 大鳥居のひみつ」
広島県歴史散歩編集委員会編2009『広島県の歴史散歩』山川出版社
ふくやま草戸千軒ミュージアム2020『瀬戸内の交流 まちのにぎわい 人のつながり』
峰岸隆2015『日本の回廊、西洋の回廊』鹿島出版会
山口県歴史散歩編集委員会編2006『山口県の歴史散歩』山川出版社
山口佳巳2008「仁治度厳島神社廻廊の復元的研究」『国立歴史民俗博物館研究報告』第148集
頼祺一編 2006『広島・福山と山陽道』街道の日本史41 吉川弘文館
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etanchan · 5 days
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あたしはあなたにはなれない
昼間に書くのは珍しいですね。いつも寝る前に書いています。不眠が加速していたのでブルーライト避けで最近辞めてました。純粋に書きたいと思わなかったしね。まとめておきたいことが終わったので暇だし書き残そう。ずっと書きたかったことでもある。
旅行に行きました。
旅行が嫌いです。子供の頃からあまり好きじゃない。修学旅行も小中高ずっと行きたくないなぁと思いながら義務で行ってた。ここ数年は年に1度だけ毎年同じメンバーで近所にのみ行ってた。静岡とか栃木とか。それも去年はなくて、正直ホッとしてた。旅行、本当に嫌過ぎる。嫌だけど年1は頑張ろうという気持ちだった。「卒業アルバムってマジで要らないし場所取ってるから捨てたいけど、捨てたら人間として何か大事なものを失う気がするから実家に置き去り。」と同じ気持ちで、旅行したくないけど全く旅行をしない人間になるのは逆に怖くて頑張ってた。でも基本行きたくない。長距離移動が苦手。家が好き。旅行で得られる経験と、旅行で得るストレスが釣り合ってない。どんなに仲が良くても誘われたら断っていた。結婚式と葬式と旅行とBBQは基本行かない。繰り返しになるけど、嫌いだから。
そんな私が旅行に行きました。いつものメンバーじゃない人と。その人へのお礼のつもりで、自分の殻を破ることでしか誠意を見せられないな、そういうつもりで覚悟決めて行ったのですが、思いの外うまくいったので、逆に旅行させてくれてありがとうみたいな感じになってしまい、恩を返すつもりがまた恩に着ることになってしまった。なので感じたことを書き残しておこうと思う。その人と破綻して全てが嫌になっても、起きた事実を忘れないように。
2泊3日。目的は仙台で行われるイベントへの参加。でも彼が福島県が故郷なのでついでに実家に顔を出したいとのことで、まず1日目に福島県へ行きました。初めて会う人とドライブするなどして過ごした。人と会うのが多分好きなので、そういう目的の旅はいいのかもしれない。ずっと会いたかった人だったしね。観光となると楽しまなきゃ感が出るけど、��に会いに来たよだと急にフッ軽な感じがして、気負わなくてよかった。夜は飲みに行って、いかにんじんを食べたりした。郷土料理に触れるのも案外悪くはないのかもしれない。義務感あるけどそれもまた思い出みたいな。因みにいかにんじんは別に好きじゃなかった。夜はひとりでドミトリーに泊まった。ずっとカプセルホテルに泊まってみたかったんだけど機会に恵まれず、また男性のみみたいなところも多いので、泊まれずにいた。カプセルホテル探してたら古い建物をリノベしたおしゃれなドミトリーが見つかったのでそこに泊まった。4人部屋で赤の他人と寝るの面白いなぁって。多分旅慣れてる人たちだったんだろう。嫌な気持ちにはならずに無事朝を迎えた。ドミトリーの斜向かいにお寺があって、そこにねこが何匹か住みついてた。朝散歩した時に撫でるなどした。そうやって行く場所全てでねこの友達を作っている私は。千葉のねこ、練馬のねこ、福島のねこ、仙台のねこ。ねこと酒はどこにでもあるし、ねこと酒きっかけで友達が増えることが多々あるので、ねこと酒が好きで良かったと思った。
2日目は仙台へ移動。在来線で1時間ぐらい?かけて向かいました。電車は寒冷地仕様でボタン押さないとドア開かないタイプ。田舎だからか日曜日だからか、乗った電車は全部座れたな。嬉しかった。途中川沿いの満開の桜並木に出会った。急に窓の外がありえないぐらい美しくなってびっくりした。見惚れた。嬉しくなった。あとから調べたら白石川堤一目千本桜というらしい。1200本のソメイヨシノが植ってて、8キロもあるらしい。本当の千本桜だった。眼福。朝早かったからまだ花見客もいなくて、純粋に川と桜だけがずっと流れていって、ほんとにまばらにしか乗ってない乗客も、みんな黙って流れる景色を見ていて、なんかすごかった。夢とか創作みたいな景色と空気だった。電車から桜が見えるなんて知らなかったのもよかった。そのあとは月並みだけど牛タン定食を食べた。麦飯ととろろ。ネギが入ったテールスープ。あと定規揚げ。食べながら彼のお兄さんと話した。大人になった兄弟を並べるのは面白い。イベントに参加した後、ホテルにチェックインしてお風呂に入ってから晩ご飯を食べに出かけた。2泊目はアパホテル。旅行嫌いはアパにも東横インにも入ったことがない。お風呂が思ったよりよかった。小さいけど露天があって、日曜の昼だから誰もいなくて、大変快適。なんでこんな遠くまで来て人混みにうんざりする必要があるんだよ。という気持ちにならなかったのがよかった。人混みも別に好きではあるけど。露天風呂の壁に書かれていた「虫さんや葉っぱさんもお風呂がだいすきです。見つけたらそっとすくってあげましょう」みたいな注意書きがかわいくて嬉しかった。風呂って変だよなぁって思った。夜は牛タンカレーと牛タンのたたきを食べた。そもそもルゥが美味いのに、でかい塊の牛タンが煮込まれてて天才だった。あとなんか日本で初めて牛タンのたたきを出した店らしい。知らんけど。美味しかったです。帰りにいちご飴を食べた。今年は彼とたくさんいちごを食べれて嬉しい。彼とじゃなくても嬉しいけど。夜は手を繋いで一緒に寝た。いっぱい頑張っててえらいねぇって言われて、そうだぞ私は今めちゃめちゃ旅行を頑張っているんだぞという自意識。寝る時になって泣いた。疲れてるのと、自虐性質でいっぱいになって泣いた。心の中であり得ないぐらい自分のことを虐め抜いてることに気づいた。言われなかったことを悪く想像して勝手に傷つくっていうよくない癖。直したいなと思いながら眠った。
3日目は松島に行くと決めていた。朝7時からやっている老舗っぽいお蕎麦屋さんで朝ごはん食べた。少し待ったけど美味しかったし、女将さんが優しくて、帰る時にいってらっしゃいって言ってくれて、それだけでまた来たいなんて思ってしまった。あと七味がめっちゃ美味かった。買ってくれば良かった。そのあと30分ぐらい電車に乗って松島へ。旅行の嫌いなところ第二位、観光。何観光って。意味ある?興味ないんだが。となっている自分の機嫌を取るために、私がだいすきな漫画、ハチミツとクローバーの聖地巡礼を絡めてなんとか気持ちを乗せた。竹本くんが自転車でたどり着いた場所が松島で、瑞巌寺。ある程度の区切りをつけるきっかけとなったのが、五大堂へ続く透かし橋。同じ場所に行くんだと思えば多少楽しみだった。晴れていたら遊覧船に乗ろうと思っていたが、あり得ないぐらい晴れていたので乗った。島々を見るための遊覧船だが、海苔と牡蠣の養殖を見れたのがよかったという独特な感想。カレーパン、笹かまぼこ、おせんべいなどの食べ歩き。あとは竹本くんと同じように缶コーラを用意しといて、飲んだ。少し写真も撮ってもらって、あぁ今思い出を作っているなぁという自覚がすごかった。晩ご飯に3回目の牛タンを食べてから帰りたかったので、時間を潰すために仙台駅近くの猫カフェに行った。地方都市の平日昼間の猫カフェは最強です。完全にオススメ。東京だと外国人がいつでもいるからね。3回目の牛タンは焼肉。厚切りと普通のと味噌と。3回目なのに3種類食べた。厚切りは誇張なしで拳ぐらいあった。牛タン以外の肉も全部質がいい良い焼肉屋さんでした。ハラミ、美味かったなぁ。あとハイボールも丁寧に作ってくれてて美味しかった。〆にアイスを食べてから少し過去を回想して、新幹線に乗ったよ。帰りの新幹線はずっと泣いてた。嬉しくて。感動してた。旅行が楽しいということに。達成感もあった。でも家に帰りたい気持ちもあって、なんか色々丁度良かった。
頑張ってくれてありがとうと言われた。頑張った。私が彼のことをすきな気持ちをわかってもらえたような感覚があった。頑張れたのは彼に誠意を見せたかったから。彼のことがすきだから。彼と出会ってから私は久しぶりに、ずっと彼とあと自分自身に真面目に真っ直ぐ向き合っている。健全な人間関係。とは言い切れないけど、自分の気持ちを誤魔化したり、相手に無理を強いたりしないでいる。この気持ちを諦めたくない。負けないと信じたい。すきなものをすきだと言い続けたい。表面じゃなくて根幹を愛したい。
旅行というと、ストレス発散とか気分転換に良いとされている行動のひとつだ。リフレッシュ。正直意味がわからない。こんなにストレスの強いものはない。お前ら狂ってるよと思っていた。いやまだ思ってる。そういう大衆の意見から外れていることは自己肯定感の低下に繋がる。しかも持続的なものだから社会不適合感も煽られる。旅行が嫌いなだけで非人間感まで得ていた。なので今回旅行を遂行できたことで、少し人間になれた気がする。ちゃんと楽しかったと思えるんだ。そんな自信をつけた。リフレッシュできたかと言われるとそれは残念ながらできてない。慣れればそうなるもんなのだろうか。分からない。
死にたいと思った分だけ、生きててよかったが来るのかもしれない。ここ1年ぐらいずっと生きててよかったと思っている。心の底から思う。感動して泣くこともある。あの時死なないでよかった。生きててよかった。そういう時は大体きれいなものを見ている。世界が美しいと知ったとき。でもそれはひとりじゃ見られなかった、知れなかった。誰かと一緒だから出会えた景色であることが圧倒的に多い。そうなると、君に出会えてよかったとなる。彼に出会えてよかったと、途中からはそればかり考えていた。こんなに旅行が嫌いだと言ってる人間をこんな遠くまで連れ出してくれてすごい。勇気があるなぁと。強いと思った。僕も強くなりたいと思った。
とはいえやっぱりストレスが強かった。特に行く前。準備が終わって、あとは当日を待つだけの数日間が1番しんどかった。行きたくないとか死にたいとかずっと思って泣いてた。自分には遠すぎるとか長すぎるとか。主に不安と心配。うまくできるかどうか分からない不安と、うまくいかなかったときに自分を守るために逃げる場所がない心配。他人に迷惑をかけるんじゃないかという心配。こんなだったら家にいたほうがいい。失敗してやっぱり旅行は嫌いだなんて改めて結論が出てしまうくらいなら行かないほうがいい。旅行嫌いのコンプレックスが頂点まで達して毎晩泣いたし全く眠れなかった。ただ、仕事中に牛タンがモチベになったのも嘘ではない。楽しみではあった。食いしん坊め。あと旅行中もあまり眠れてない。元々不眠だし場所が変わると眠れないタイプだから仕方ないことだけど。休めないクセにスイッチがずっとオンだったから、旅行から帰ってきた翌日はずっと知恵熱が出てた。こうやって書いてると本当に負担が大きくて笑う。それでも俺はやり遂げたんだ!という自負。
人の故郷に触れるのは2回目だ。1度目の時も感慨深いなぁとは思っていたけど、今回はよりそう感じた。彼の後輩とお母様とお兄様に会った。こういう場所でこういう人たちに囲まれて育ってきたんだという、ひとつの答えが目の前にある感覚。彼のことはすきだけど、顔とか声とか性格とか、そういうのは好きじゃない。好きじゃないというのは語弊がある。好きではある。けどファーストインプレッションであぁこの人のことすきだなと思ったのは、多分こいつは恵まれた環境で過ごしてきたんだということで、今まで積み重ねてきた経験や出会いを好ましいと思った。それを見てきたのだから、そりゃあ感慨深い。みんな優しかったなぁ。もっとお話しして仲良くなりたかった。
頑張ってくれてありがとう、俺も楽しかった、俺の好きな場所と好きな人に会って楽しんでもらえてて嬉しかった、そう言われて、これ以上ない尊重だなと感じた。自分が楽しむことで相手を喜ばせちゃった。これはヤバい良いサイクルの中に入ってしまったかもしれない。このまま高め合って幸せになってしまうかもしれない。今後から目が離せないな。とか言って特に何もないのが人生だったりもする。
大変忙しい時期に2日間お休みを頂いたので、職場にお土産を買っていった。笹団子?ずんだ餅?みたいなやつ。すると同僚から「お土産いただきました」「ごちそうさまです」「どこ行ったんですか?」「牛タン食べましたか?」と声をかけてもらえた!多分これ当たり前のことなんだけど、旅行嫌い人間からするとヤバいことなのだ。こっちは自分の旅行も嫌なので他人の旅行に興味なんか1mmもないのだ。だって話を聞いても行きたいとか思わないから意味ないんだもの。他の同僚が休憩室にお土産を置いてても、あーなんかお菓子があるなぁ程度にしか思ったことがない。そんな非人間に対して、どこに行っただの何を食べたのだの声をかけるなんて。ヤバい。ヤバすぎる。超嬉しい。松島に行きました。牛タンは3回も食べました。楽しかったです。お休みありがとうございました。え?!?!?!私!!!!!人間じゃん!!!!!!!!今超人間なんですけどーー?!?!?!大興奮である。構ってもらえて嬉しいという大変原始的な感情。旅行すごい。お土産すごい。人々の文化的な営みの仲間に入れてすごい。旅行終わってるのにまだあるんですかーーー?!ってなった。次からはお土産をいただいたら興味を持って軽い雑談をしようと思いました。すみません今まで無味乾燥にお菓子だけ食べてて。
さて、じゃあ旅行が好きになったかと聞かれると、別にそんなことはない。ずっと嫌いだったものをそんなに急に好きにはなれない。ただこの3日間のことは好きだった。楽しかった。行くまでの気分の落ち込みもなかったことにはならない。確実に嫌だった。楽しかったからいいや!とはならない。誰とどこに行くかが大事なので、旅行ならなんでも!みたいなことはない。とっても限定的な旅ではあったが、私にも楽しむことができるんだという光明を得たのは大きい。今年はもういいけど、来年なり再来年なり、もっと未来でもいい、またどこかに行けるかもなぁという希望を抱かされた。実際に行くかどうかは分からない。ただ希望を持ってるのと持てないでいるのとでは生きやすさがだいぶ違う。他の苦手なことも挑戦してみようかななんて気持ちにもなる。
貴重な経験だった。連れて行ってくれてありがとう。また僕をどこか遠くに連れてってくれますか?
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