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#新八志村
cicadadust · 5 months
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This is a little bit of an older drawing, never posted it cuz I was going to add more characters. But lemme know if I should go back to this and add more peeps! Think this is the first time I drew all the yorozuya!
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byakkun0 · 6 months
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starting to get chilly
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choooru · 10 months
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梅雨☔️
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seigibathala · 8 months
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ぱっつぁん
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backup-pictures777 · 1 month
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愛染香篇rkgk
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yusiyeah00 · 1 year
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万事屋
接下来会画真选组
後は真選組を描きと思います
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gentleoverdrive · 2 years
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(78/?) Why is the sea salty? It's probably because you city folk use it as a toilet!
Sorry for the trauma-dump from yesterday. MDD can be a fucking bastard sometimes. I am better now, though, so let's talk about something else. Let's talk about Gintama...
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(The most poignant rant about how obeying your bladder and doing what's right that anime has ever done) ---- Gintama was birthed by a weird fuck that uses the pen name Hideaki Sorachi who originally wanted to capitalize on one of the taiga dramas that the NHK wanted to do about the Shinsengumi back in mid-to-late 2003, adding his rather weird sense of humor and tackling everything from Idol singers, shitty mopeds and the maintenance they require the concept of honor to how to best to make the most out of your shitty lot in life. ---- Wait, idol singers?! Vespas and mopeds?! ---- After the manga proved somewhat unpopular and fell under risk of cancellation, Sorachi decided to introduce both more dramatic arcs but not without applying an even bigger dose of weird humor and shoutouts. As mentioned before, despite ostensibly taking place on the Imperial Japan period, instead of getting visited by Matthew C. Perry, Japan ends up getting visited by extraterrestrials nicknamed the "Amanto"... extraterrestrials who brought forth a ton of technological innovations after all but snuffing out the samurai caste after a bloody war. ---- The story chiefly follows one of those former samurai, Gintoki Sakata (pictured above), a lazy manchild who struggles to pay his rent via his freelancer/handyman job and who has a terminal sweet tooth as he lives on the Kabuki district, often exploiting his hapless "disciple", samurai-in-training Shinpachi Shimura
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(Shinpachi is the glasses boy on the left; with the iconic red gate, the unofficial "entrance" to the district, even in real life, as backdrop) ---- Shinpachi is a stan for an J-pop idol and spends much of the more light-hearted moments in the series getting ridiculed by his habits and his unremarkable appearance. Rounding out the main trio is Kagura...
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(Apparently having the dubious honor of being the first female character in manga to be depicted throwing up; please don't quote me on this) ---- Kagura is a tomboyish alien girl with crazy physical strength, no filter in her mouth and prone to doing stupid shit... which is a recurring thing for lots of characters. While there are more characters that'll come and go, the Yorozuya trio are prone to be the center of much of the comic and show's shenanigans... ---- So wait, why would you be interested in a dumb gag manga series that runs for fucking ever like Bleach, Naruto and One Piece have done (across 16-18 years, 77 collected manga volumes, 367 episodes + 6 or 7 OVA's, 3 movies and a couple of shorts)? Well, it has fun fights...
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People being dumbasses (if there is a shout-out to make, a gag to deliver, or another piece of popular culture to reference/mock, you better believe they'll do it)...
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And probably some of the most interesting positions regarding ideals and how these can be both an incredible asset to motivate you down the path that you wish to walk or twisted to lead you down a path that'll condemn you and those you care about to perdition...
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The series, much like the big three (meaning Bleach, Naruto and One Piece) was originally published on Shueisha's Weekly Shonen Jump magazine, and while the manga is perfectly good, the anime is jam-packed with great scripts, stellar vocal performances and incredible music. And while it takes a little while to get going, it'll reward you with some of the most compelling characters, story arcs and emotional gut punches that ever graced the pages of Weekly Shounen Jump (or the bloc before or after Ladies 4, for all that's worth). See ya' tomorrow!
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assy1210 · 2 years
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本日は北多摩カブスカウトラリー。 コロナの影響で実に3年ぶり。 私たちの住む西東京のほか、 東大和、東村山、清瀬、東久留米、 小平の計11団(隊)が参加。 スタート地点の志村の像から 積乱雲鮮やかな快晴の空、 呼吸も気持ちよい清流や新緑、 さらに立派な神社・仏閣、 そして旧鎌倉街道、新田義貞由縁の 久米川古戦場、八国山、将軍塚と、 小3年-5年のスカウトには ちょっとまだ早いかも… と思いつつ 大人にとってはとってもとっても エキサイティングで浪漫あふれる フォトロゲイニングとなりました! ゴール地点では、ロープワークで 団を跨いだ共同作業ののち、 皆で持ち寄った新聞紙のカブトを かぶって大ジャンケン大会。 ちょっと盛り込み過ぎな印象も あるにはあったのですが、 その充実の仕込みのおかげで、 スカウトたちも大変楽しんだ様子で 終始満面の笑顔が輝いていました。 やはり、晴れた日の野外活動は いいですね!! 素晴らしい催しでした。 #ボーイスカウト #カブスカウト #カブラリー #東村山 #八国山 #八国山緑地 #志村けん #鎌倉街道 #旧鎌倉街道 #諏訪神社 #熊野神社 #梅岩寺 #徳蔵寺 #精心幼稚園 #久米川古戦場 #将軍塚 #後醍醐天皇 #新田義貞 (都立八国山緑地) https://www.instagram.com/p/Cd2xl8iP9-V/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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hachikenyakaiwai · 8 months
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【かいわいの時】元禄六年(1693)八月十日:井原西鶴没 (大阪市史編纂所「今日は何の日」)
西鶴は元禄6年(1693)に亡くなったが、その墓は長い間不明であった。明治20年を前後するころ誓願寺境内で発見され再興されたという。発見者についてはいくつか説があり、幸田露伴であるとも、朝日新聞記者の木崎好尚であるともいう。
(1693年)下山鶴平・北條団水、西鶴の墓を建立 墓石は位牌型の砂岩製の��ので、「仙皓西鶴 元禄六���酉年 八月十日 下山鶴平 北條団水 建」と刻まれている。この墓碑を建立した下山鶴平については、西鶴の版元ではないかといわれている。北條団水は京都生まれの文人で、橘堂、滑稽堂と号した。西鶴を慕って来阪し、西鶴の死後7年の間、鑓屋町の庵を守ったことで知られている(大阪市指定文化財)。
(1801年)太田南畝(蜀山人)、書肆山口屋の案内で西鶴の墓に参る 寺町をすぎ 誓願寺に入る、甃庵中井先生の墓あり《略》 此寺に西鶴か墓ありと書肆山口屋かいへるによりて墓はらふ下部にとふに志らず、つらつら墟墓の間を見るに一ツの石あり、仙皓西鶴とゑれり。右のかたに元禄六癸酉年八月十日としるし左の方に下山鶴平北条団水建と有り。也有翁の鶉衣にも、作文に名を得し難波の西鶴は、五十二にして世を去給ひ「秋風を見過ごしにけり末二年」といふ句を残せりとかけり。げに八月に終りぬるには折からの句成へし(太田南畝)。『葦の若葉』四月廿一日条より。句読点後付け。ママ。
(1802年)滝沢馬琴、太田南畝に紹介された田宮盧橘の案内で西鶴の墓に参る 西鶴が墓は、大坂八町目寺町誓願寺本堂西のうら手南向にあり。〈三側目中程〉七月晦日蘆橘と同道にて古墓をたづぬ。はからず西鶴が墓に謁す。寺僧もこれをしらざりし様子なり。花筒に花あり。寺の男に何ものが手向たると問ふに、無縁の墓へは寺より折/\花をたつるといふ。
棹石高サ二尺余ヨコ一尺 台石高七八寸 大字 総高サ二尺八九寸
元禄六 癸酉年八月十日 仙皓西鶴 右ノワキ 下山鶴平 北条団水 建
團水は西鶴が信友なり。西鶴没して後、團水京より來り、七年その舊廬を守れり。そのこと西鶴名殘の友といふ草紙の序に見へたり。追考 難波鶴に云。西鶴は井原氏、庵は鑓屋町にあり(滝沢馬琴)。『羇旅漫録』より。句読点後付け。(写真参照)
(1889年1月)幸田露伴、誓願寺無縁墓にある西鶴の墓を探し当て、卒塔婆を立てる 露伴は住職に供物を出して、 お墓をちゃんとしてほしいと言い、香を焚き、水を手向け、卒塔婆を立てて去るわけです。それが、明治22(1889)年の1月のこと。その卒塔婆には、「元禄の奇才子を弔ふて 九天の霞を洩れてつるの聲」と書いた(肥田晧三)。「上町台地から本をめぐる時空の旅へ」『上町台地フォーラムvol.9』2018より。
(1889年8月)尾崎紅葉、西鶴の墓を訪れ、卒塔婆を残す 紅葉も、同じ明治22年の8月に西鶴の墓を訪れ、「為松寿軒井原西鶴先生追善」と書いた卒塔婆を残した(肥田晧三)。
それではなぜ、この二人は西鶴を知ることになったのか。露伴は帝国図書館、今の国会図書館にあった西鶴の本を随分と勉強したんです。また当時、東京に淡島寒月という人がいましたが、彼は時代に先駆けて西鶴を評価し、自身でも作品を手元に持っておりました。その寒月と仲が良かったのが露伴で、彼の西鶴作品を借りて徹底して読んだわけです。紅葉も、露伴に遅れてですが、やはり淡島寒月から西鶴の作品を教えられたんです(肥田晧三)。
(1889年11月)木﨑好尚、読売新聞に「西鶴の墓」を寄稿 大阪朝日新聞の青年記者だった木﨑好尚は、後に頼山陽や田能村竹田の研究で知られるようになる人です。この人が、明治 22 年にやはり誓願寺に行くわけです。すると新しい卒塔婆が二つ西鶴の墓に立てかけてある。一つは幸田露伴、一つは尾崎紅葉。それで、大阪の青年がびっくりするんです。東京の輝かしい新進の作家二人がここに来ている!大阪の自分たちはちっともお参りせんのに、あの二人が西鶴の墓にお参りしていると。そして 明治22年11月に、東京の読売新聞に「西鶴の墓」という題で書く んです(肥田晧三)。ママ。木崎が朝日新聞に入社したのは明治26年(1893)。
(1889年11月)幸田露伴、「井原西鶴を弔ふ文」を雑誌『小文学』に発表 露伴もまた、「井原西鶴を弔ふ文」という題で、明治22年11月に雑誌『小文学』に発表します。「今や露伴幸に因あり縁ありて、茲に斯に來つて翁を吊へば、墓前の水乾き樒枯れて、鳥雀いたづらに噪ぎ塚後に苔黑み、霜凍りて屐履の跡なく、北風恨を吹て日光寒く、胸噫悲に閉ぢて言語迷ふ。噫世に功ありて世既に顧みず、翁も亦世に求むるなかるべし。翁は安きや、 翁は笑ふや、唯我一炷の香を焚き一盞の水を手向け、我志をいたし、併せて句を誦す、翁若し知るあらば魂尚饗。九天の霞を洩れてつるの聲 露伴」(肥田晧三)。
(1890年5月)尾崎紅葉、「元禄狂」を「国民新聞」に寄稿 西鶴に心酔しているということを書き、その中で、「明治二十二年八月、大阪八丁目寺町誓願寺に、 西鶴翁の墓に詣でゝ」と記し、「ででむしの石に縋りて涙かな」という句も詠んだ(肥田晧三)。
木﨑好尚を除き、全員、江戸っ子です。
(写真)「仙皓西鶴」『壬戌羇旅漫録 2巻 [3]』1802-1812(東京大学学術資産等アーカイブズポータル)より。 注記:写本 注記:目首の書名: 著作堂羇旅漫録 注記:題簽の書名: 羇旅漫録 注記:本文末に「享和二壬戌年八月廾四日筆同十一月朔日挍合畢 曲亭瀧澤觧戯記」とあり 注記:[跋]末に「享和二壬戌年冬十一月二日 著作堂馬琴再識」, 「壬申春日 曲亭主人書」とあり
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kennak · 3 months
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昨年12月30日に急速進行性間質性肺炎のため死去。 73歳だった。 昨年、膠原病を患っていることを明かし活動休止を発表していた時には、 年内いっぱいぐらいを休養期間に充てて復帰されるのだと思っていた。 膠原病は私がかれこれ15年ほど患っている潰瘍性大腸炎と同じ自己免疫疾患のひとつで 本来は体を守るべき免疫が自分自身を攻撃してしまう病気。 劇症化することも多く、私も食事管理や生活のリズムなどでなるべく気をつけてはいる。 それでも、度々悪化しては座薬やステロイドの世話になり、多少緩和されても 日々の薬は5、6種類を飲み続けなければならない。 「薬を飲まない日」は、もう忘れるほど昔の記憶になってしまった。 その辛さ、煩わしさを知っているだけに、復帰を密かに待っていたのだが叶わなかった。 奇しくも昨年亡くなった大橋純子も73歳、谷村新司は74歳と70代の訃報が続き 私自身の年齢も含めて考えさせられることが本当に増えた。 八代亜紀は「雨の慕情」や「舟唄」などいくつものヒット曲を持つ演歌の女王。 訃報を知らせるニュースでは先の2曲ばかりが取り上げられているが セールス面で言えば「なみだ恋」「おんなの夢」「もう一度逢いたい」「おんな港町」など 同等の売り上げのシングルは何曲も存在する。 歌手生活20周年を記念して服部克久が提供した「花束(ブーケ)」は 演歌色を薄めたバラード調の服部メロディが美しく、最高位こそ低いものの半年に渡るロングランヒットとなった。 服部克久の追悼コンサート(U-NEXTで配信中)でも谷村新司らと共に出演し同曲を披露している。 また自身のルーツであるジャズのアルバムも小西康陽のプロデュースで2枚リリースしている。 ジュリー・ロンドンの声質に励まされて歌手を志した八代亜紀の原点ともいえるジャズの名曲と 熊本から上京した1960年代半ばに流行っていた流行歌をカバーした「夜のアルバム」と それから3年後にリリースされた第2弾「夜のつづき」は私も購入した。 「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」と、りりぃの名曲「私は泣いています」を 1枚に並べて収録できるのは八代亜紀の幅広い表現力があればこそ。 その気さくな人柄はバラエティ番組でも受け入れられ、 ゲーム業界でも「Wii カラオケ U」のCMで「残酷な天使のテーゼ」を歌っていた姿を 思い出す方も多いのではないか。 コロナ禍を抜けたと同時にデビュー50周年を迎え、活動に意欲を燃やしている最中の訃報は残念。 「徹子の部屋」に出演した際にも、コロナによる自粛生活が逆に喉には良い休養期間となり、 今人生で一番良い声で歌えると嬉しそうに話す笑顔がとてもチャーミングだった。 ご冥福をお祈りいたします。
【訃報】八代亜紀、73歳、2023年の年末商戦は「ドラゴンクエストモンスターズ3」が制す - 忍之閻魔帳
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soulass · 12 days
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万事屋
#gintama #gintamatattoo
#銀魂 #坂田銀時
#神楽 #志村新八
#漫畫刺青 #動漫刺青
#mangatattoo #animetattoo
#刺青 #紋身 #台北刺青
#taipeitattoo #taiwantattoo
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ayasley · 4 months
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《一通电话》:阿尔弗雷德·潘尼沃斯的自述
有人打过一通电话。一通电话就足够了,只要一通电话,我们的人生就改变了。
我曾经有一个计划:我不打算为韦恩家族奉献终身。我终会回到英格兰退休,也许在茱莉亚家附近购置房产。当我终将离开,步入生命之终焉,我的身边将环绕和我一样“奇怪腔调”的人们,我的灵魂会于祷告里飞入彼端。布鲁斯少爷曾经对我们的口音很感兴趣,在我初次抵达韦恩庄园之时,托马斯老爷带着小小少爷走在铁栅栏旁。我们用力地握手,我立刻注意到那个机灵的男孩并由衷地欣赏。他先是盯着我的手提箱,然后接过了它,不只是为了接待,也是为了好奇。
我记得我喜爱地说:“看起来,小布鲁斯少爷还有许多要学的。”
而布鲁斯少爷用以他的年纪里最讨人喜欢的聪明、礼貌又不太守规矩的调调回应:“我要学的第一样东西就是你奇怪的腔调。”
这是我们的第一次对话,我从未想过人生的玄妙于此而启。
那个包含了我未来退休生活愿景的计划在某一个深夜来电后彻底破灭了。
它关于一个著名的事件,来自G.C.P.D,向我阐述了那个有名的悲剧。在那里,我接到了雨夜中蜷缩在一件过大的外套里惊惧的布鲁斯少爷。在此后数十年岁月里,我明白这通电话不仅改变了有关我的生活、我的少爷的生活,同样改变了这座异国他乡常雨之城的未来。我们在深夜尝试保持大宅常亮多年,且小布鲁斯少爷对祷告与礼拜的兴趣变得越来越淡薄;我知道某种东西在改变,它悄然变化,在成熟的时刻,长绒的蝙蝠终会破茧而出。
为了哄巨大创伤下难以入眠、不愿在睡前晚祷的少爷继续曾经的生活规范,每天收拾床铺的时候,我总是留下一颗薄荷糖。它用小片的透明薄塑料袋装,背面印着“--W--”*和生产日期。第二天清晨,我总会发觉薄荷糖消失了;但我知道少爷没有依照老爷与夫人在世时的要求做祈祷。这是可以谅解的:我的少爷的童年在八岁时便彻彻底底的结束了。
不久后,我们开始为哥谭市其他无辜儿童更长久——起码久于八年——的童年而斗争。事业并不容易,从来都不。在新泽西州,几近半数的重大劣性犯罪来自哥谭。这座听起来像“愚人村”*的都市滋养了无数臭气熏天的黑暗造物,积累的罪孽不胜枚举,如同奥革阿斯的牛圈,粪秽堆积如山,而布鲁斯少爷试图做完成完成“不可能完成的任务”的赫拉克勒斯*。当我意识到我照看长大的小少爷正在成为受刑架上的英雄,我想任何有职业涵养的管家都无法置之不理。是的,我爱茱莉亚和老贾维斯,也爱怜着失去双亲的小布鲁斯·韦恩,那个曾经狡黠灵动的、为我拎手提箱的小男孩。
这便是一通电话所改变的事情。
我开始期待来自通讯器的电话。是的,我们甚至拥有了这些高科技的小玩具,像是军情六处。我开始期待它们,不是因为我喜欢它们。
每当我走在街道上,或是采购接洽、或是物资管理,我看着拥有家庭、朋友,拥有生命的人们,那些如果不是「他」就不会出现在这里的人们。我开始期待来自通讯器的电话,每当听到「他」的声音从线路另一头涌出都是一种解脱。
只要是「他」本人打来电话,那就不是「那通电话」:那通多年前,由G.C.P.D代劳发来噩耗的电话。
我在能睡觉的时候睡觉,在我知道他安全的时候,我才入眠。我定制了特别的保温瓶,尺寸恰好能够放在蝙蝠战机导弹开关之间的空隙里,上面没有印蝙蝠标志,因为它还需要正好卡在董事会会议桌的圆形凹槽里。在我不得不接受布鲁斯少爷短期无法睡觉的时候,它能帮助年轻的城市守护者至少保有基本的进食....流食。我这么做,是因为他是蝙蝠侠,世界需要他;他是蝙蝠侠,他没时间关注琐事——检查钱包与钥匙、推拒晚会邀请、为自己准备咖啡、给蝙蝠车胎打气、校对战机无线电频....他是如此专注于拯救别人,以至于遗忘了自己。他需要别人记住他,作为韦恩家族的管家,我乐意效劳于此。
「我在能睡觉的时候睡觉,在我知道他安全的时候」——绝不是在他任何出门的时间里。从托马斯·韦恩和玛莎·韦恩身上,我学会了在任何韦恩出门在外之际保持待命。
然而,此时此刻,我的意识正在绵长的回忆里沉睡,于回忆长流之中,我又清晰地意识到这一点。我在回想所有的一切:从最初的职业生涯规划、到那通来自戈登警长的电话,到那在主卧阳光下(不得不说,少爷的主卧少有曦色;盖因布鲁斯少爷遵循吸血鬼的人世哲学,总在白日用窗帘拒绝晨曦)被光线折射衬得五彩斑斓的薄荷糖纸。我在意念里奔波,却听到熟悉的通讯提示在震动。我知道,我必须醒来。
那意味着蝙蝠侠在呼叫便士一*。那意味着布鲁斯·韦恩在呼唤他的助手。那意味着我的少爷——我黑头发的男孩——需要我。
职业信念和激烈的念想支撑着我。我开始感受到我的眼皮如蝶翅震动。真奇怪,人们常说:“当你意识到自己在做梦时,你已经醒了。”而这就像第二十二条军规*,显而易见的逻辑陷阱。我需要追寻那振动,我的小英雄该出发为他的天下追觅金羊毛*了。
一盘松饼。
当我彻底将灵魂回拢至肉体,我开始一如既往地用最近一次数枕边薄荷糖的记忆考验自己的思路是否彻底回归,同时,我发现一个托盘被放在床罩上。
这是厨房常用的铁托盘。
我撑起半个身体,昨日战斗的钝痛潜藏在肌肉群中,一旦我开始活动,便恶毒地攻击着我。我看见布鲁斯少爷赤裎上半身,腹部缠着绷带,坐在床头。我先是长长地吐出一口气息,想来梦里的呼叫是布鲁斯少爷现实的动静。
“没事的,你没错过什么,阿尔弗雷德。”我听见孩子这么说道,开始清晨的第一场对话。我终于想起昨日过往,在38号公路44号大道,是莱斯利为少爷包扎,处理了我的眼球与肩膀。我居然比受刺伤的孩子起得更晚,在我开始责难自己前,我发现我的通讯器与电话不翼而飞。
“我又把松饼烤糊了。我曾经用蛛丝马迹瓦解了一个精妙的全球犯罪帝国,但我还是弄不明白怎么烤松饼。”孩子向托盘示意。
“你拿走了我的通讯器和电话。”我指出。
“是的,我不想打扰到你。”他说。
“你觉得怎么样,布鲁斯少爷?”我想起那道恐怖的伤口。每每布鲁斯少爷都能够说出「需要接一下」的时候,情况总是不太好。昨天是黑色警报,而年轻的披风英雄为过多的失血昏迷许久。
“感觉像是字面意义的被捅了。”我观察年轻人的脸色,以免他一贯地在身心健康方面说谎。幸运的是,莱斯利是个好医生。我的孩子看起来面庞苍白,但恢复良好;他没有刮胡子——他当然没有,他是蝙蝠侠;但我确信布鲁斯少爷刚刚流露出来有限的笑意。我听见少爷继续说:“得留你自己休息了,我应该离开了。”
我的神经再次紧绷起来。
“巡逻时间吗,先生?”
“是的。”
“您会打电话吗?”我尝试。
“不。”
噢,显然不。他收走了我的通讯器和电话,在这种时候——在任何一个韦恩需要外出行动的时候,我最需要的就是我的通讯设备。我顿了顿,以某种多年来「我们需要谈谈」的腔调开口:
“如果您指望我会在床上呆着,不知道您的....”
“....阿尔弗雷德。”我的发言被打断了,我决定倾听。以韦恩家族管家的素养。“我不会走的。”
“什么?”
“我理解如果我在外面你是无法放松的。而且我的腹肌上有几英寸的金属撕裂伤,肾也被刺穿了,现在不方便走动。所以我让卡珊德拉和杜克替我巡逻。”
噢....
“这可真不寻常地合理,先生。”他甚至知道自己什么时候「不方便走动」。
“今天我不想让你担心。”
“真的?那今天为什么特殊呢?”我提起了兴趣。再次观察布鲁斯少爷的行为举止,我看着他起身并走向门边。在拧开把手前,他微微转过身子,这次露出了普世意义的、任何无需苦心孤诣研读「蝙蝠语言」的人类能够辨识出来的微笑。我听见他柔和地——这个更加不同寻常——用往往是布鲁斯在宴会上以某种伪装身份需求的温软的声音回复:
“好好休息,阿尔弗雷德。”
他开门,以忍者的习惯轻轻地走了出去。我知道那个声线这回不是某种伪装,我分辨得出来。
这是我所不习惯的场景。通常情况下,往往看着另一个人的离开的背影的人是管家,而非主人。我环顾我熟知的房间,这个点事实上是整理家庭事务的工作时间,这使我由衷地忧心那些多功能腰带格是否有人补充道具、蝙蝠镖是否有在清点数量(而记录本在我这里),换洗披风是否有在检查、修补与熨烫。我知道如果我去寻找,我总能找到我的通讯设施,对于这个宅邸没有人能更加熟悉,即使是暗夜骑士也无法在这方面超越他的管家。
但在此之前,更重要的,我需要先享用孩子烹饪的松饼。
我慢慢靠近那个托盘,打开盖子,拾起里面唯一一块松饼:它看起来宛如经历过无数次失败的洗礼,从兄弟胞妹们中脱颖而出,将将成为尚且能吃的那一小块。我弓着背坐在床沿上,感受着肩颈沉淀的疼痛,珍而重之地品尝那块松饼。
我的房间装修崇尚极简,这也是韦恩家族管家历届应有的装潢,家具几乎都是木制品。我的神思飘忽,看着远处木桌上安放的木相框。我突然意识到了今天是什么日子。
我天才的大脑——请允许我这样说,不是一种自傲,而是黑暗骑士确实需要一个聪明的助理和天才的头脑——能够处理追踪器和远程操作系统协助蝙蝠侠精准降落在任何他需要的街区,但我忽略了一个显而易见的、大众的常识。
我感到我的眼球在颤动着发酸。
二十几年前,当一个黑头发、蓝眼睛的小男孩陷在他过于宽敞的大床上,因景触情,在节日的夜晚蜷缩在被子里,用脑海反复绘慰风木之思时,我曾经为他讲过查拉图什特拉*的故事:
“....一个人是可以使千万年的历史生色的——也就是说,一个充实的、雄厚的、伟大的、完全的人,要胜过无数残缺不全、鸡毛蒜皮的人....”我念着来自家族藏书室的书,发现我可怜的孩子早已神游天外。这并非意味着我的孩子不好学,也许我的少爷早已通悉这其中哲理。我只是不想让他在又一个特殊的节日孤单地独自坐在床上晚祷,于可悲的祷文里请求神明使双亲回归人间:我和我早熟的孩子都知道那是无望的追思。“....布鲁斯少爷?”
男孩茫然地回过头。他聪颖的小脑袋瓜不知道在转动些什么。
“今天是父亲节,阿尔弗雷德。”
“今天是父亲节,少爷。”
我叹息着收起尼采的大部头,一如既往地,朝小小的少爷柔软的掌心里塞入一颗薄荷糖。
时光彼端的如今,同样的日子里,我发现托盘远处同样躺着一颗薄荷糖。
我颤抖着拿起它。熟悉的糖纸,每天的日常,背面印着“--W--”图案。
那一年的深夜是怎样结束的?
我抚摸孩子柔顺的发丝,通常情况下,作为管家我不会这么做;但他....布鲁斯少爷,他难得地在他该睡觉的点陷入沉眠,而他目前只有十一岁。我悄悄地熄灭主灯,为父母离世后绝望着渴望光明的孩子留下他熟悉的灯。我说:节日快乐,布鲁斯少爷。
也许是幻觉,也许是某种感情作祟,也许是某种穿越了苦痛与时光长河的力量。我仿佛在深夜的宏伟的大宅里也听见沉睡的少爷回应道:
节日快乐,阿尔弗雷德。
*注释*(为非英语母语者或者非欧美文化下读者而注释,如果你生活在英语母语国家且在欧美文化体系内长大,甚至还恰好能读懂中文小说看到了这里,接下来的内容你就可以不用看了):
①“--W--”是韦恩集团LOGO。
②“哥谭市”谐音“愚人村”。
③赫拉克勒斯是是古希腊神话中的最伟大的英雄之一。为了赎罪,他需要完成12项“不可能完成”的任务,其中一项是为奥革阿斯打扫牛圈。奥革阿斯是海神的儿子、厄利斯的国王,他养了无数的牛,粪秽堆积如山,该牛圈在后世常常被比喻为累积成堆或肮脏腐败的难以解决的问题。
④“便士一”是阿尔弗雷德的姓氏“潘尼沃斯”的谐音。
⑤第二十二条军规的典故:“如果你能证明自己发疯,那就说明你没疯”。源出美国作家约瑟夫.赫勒1961年根据自己在第二次世界大战中的亲身经历创作的黑色幽默小说《第二十二条军规》。这部小说太有影响了,以至于在当代美语中,“第二十二条军规”已作为一个独立的单词,使用频率极高,用来形容任何自相矛盾、不合逻辑的规定或条件所造成的无法摆脱的困境、难以逾越的障碍,表示人们处于左右为难的境地,或者是一件事陷入了死循环,或者跌进逻辑陷阱等等。
⑥希腊神话故事中“金羊毛”被看作稀世珍宝,很久以来,希腊人对它传说纷纷。许多英雄和君王都想得到它。金羊毛,不仅象征着财富,还象征着冒险和不屈不挠的意志,象征着理想和对幸福的追求。
⑦“查拉图什特拉”出自尼采《查拉图什特拉如是说》。
故事情节出自《蝙蝠侠V3》年刊3,很感人的小故事。
第一次读这卷漫画时我哭得眼泪都流干了,所以很想写一写这个情节中阿尔弗雷德·潘尼沃斯第一视角下的自述。
这卷漫画真的很感人!如果您还没看,又恰巧喜欢布鲁斯和他的管家的话,强烈推荐您阅读它。:)
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choooru · 10 months
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桜🌸
花見☺️
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vespasiane · 5 months
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白居易
51个
2023/10/20: 唐代存诗最多的白居易,流传至今的诗歌也只有三千多首
白居易是唐代存诗最多的一位诗人,他的诗歌流传到现在的有三千多首。他也是唐代继李白、杜甫之后最杰出的一个诗人。
2023/10/20: 中国文学由雅到俗、由士大夫正统文学到市民文学、由抒情到叙事转变中的白居易叙事诗
《长恨歌》、《琵琶行》是白居易叙事诗的杰出代表,它们在故事的曲折完整、描写的细致生动和抒情气氛的浓郁等方面,都有突出成绩,都显示了中国古代文人叙事诗所达到的艺术高度,体现出古代叙事诗鲜明的民族特色。并且在中国封建时代文学由雅到俗的转变、由封建士大夫正统文学到市民文学的转变、由抒情到叙事的转变过程中,起到了无可替代的昭示作用。
◆ 一、十年之间三登科第(772—806)
2023/10/20: 男性情史悲剧助于闺怨描写
“乐天深于诗,多于情者也”,这是友人王质夫对他的评价,白居易亦自诩是“情所钟者”(《祭符离六兄文》),他与湘灵那段“两心之外无人知”(《潜别离》)的悲剧经历,有如春梦朝云长萦心头,因此在诗篇中总给那些失宠、幽闭及婚姻情感不幸的女子以一种特别的同情。
◆ 邯郸冬至夜思家
2023/10/20: 我意君心
《初与元九别后忽梦见之及寤而书忽至》:“以我今朝意,想君此夜心。”
◆ 长恨歌
2023/10/20: 君王掩面,黄埃散漫。芙面柳眉,夕殿萤飞
渔阳鼙鼓动地来,惊破霓裳羽衣曲。九重城阙烟尘生,千乘万骑西南行。翠华摇摇行复止,西出都门百余里。六军不发无奈何,宛转蛾眉马前死。花钿委地无人收,翠翘金雀玉搔头。君王掩面救不得,回看血泪相和流。黄埃散漫风萧索,云栈萦纡登剑阁。峨嵋山下少人行,旌旗无光日色薄。蜀江水碧蜀山青,圣主朝朝暮暮情。行宫见月伤心色,夜雨闻铃肠断声。天旋日转回龙驭,到此踌躇不能去。马嵬坡下泥土中,不见玉颜空死处。君臣相顾尽沾衣,东望都门信马归。归来池苑皆依旧,太液芙蓉未央柳。芙蓉如面柳如眉,对此如何不泪垂。春风桃李花开日,秋雨梧桐叶落时。西宫南苑多秋草,宫叶满阶红不扫。梨园弟子白发新,椒房阿监青娥老。夕殿萤飞思悄然,孤灯挑尽未成眠。迟迟钟鼓初长夜,耿耿星河欲曙天。鸳鸯瓦冷霜华重,翡翠衾寒谁与共。
2023/10/21: 仙袂飘飘
风吹仙袂飘飘举,犹似霓裳羽衣舞。
2023/10/21: 通过对史实的改造与取舍,“净化”、“淡化”、“美化”诗中李、杨的形象,不影响他们令人同情、赞颂
如“杨家有女初长成,养在深闺人未识。天生丽质难自弃,一朝选在君王侧”,通过对杨妃入宫史实的改造与取舍,通过“净化”、“淡化”、“美化”诗中李、杨的形象,使他们成为令人同情、赞颂的角色。
2023/10/21: 《长恨歌》悲剧源于爱得太过分、太出格,不顾爱情的社会影响
李、杨的爱情悲剧,既非封建婚姻、封建礼教所造成,也很难归咎于某个奸相如安禄山、杨国忠,当然更不能归咎于“六军不发”的首领陈玄礼。他们的悲剧根源就在于过度沉溺于欢爱,到了“从此君王不早朝”的程度,结果也就必然会引起“渔阳鼙鼓动地来”,导致生离死别的悲剧结局。占了情场,误了朝纲,又反过来毁灭了爱情。从抽象意义上说,《长恨歌》所描写的是一曲因为爱得太过分、太出格而引起的悲歌,又是一曲不顾爱情的社会影响而引起的悲歌。因此,为了维护爱情的永恒,必须把爱情控制在适当的范围内,摆在适当的位置上。
2023/10/21: 丹青画出竟何益?不言不笑愁杀人
汉武帝,初丧李夫人。夫人病时不肯别,死后留得生前恩。君恩不尽念未已,甘泉殿里令写真。丹青画出竟何益?不言不笑愁杀人。
2023/10/21: 魂之不来君心苦,魂之来兮君亦悲
九华帐深夜悄悄,反魂香降夫人魂。夫人之魂在何许?香烟引到焚香处。既来何苦不须臾,缥缈悠扬还灭去。去何速兮来何迟?是耶非耶两不知。翠蛾仿佛平生貌,不似昭阳寝疾时。魂之不来君心苦,魂之来兮君亦悲。背灯隔帐不得语,安用暂来还见违。
2023/10/21: 诗人毕竟“不能忘情”,感到无法抗拒“倾城色”的“惑”,所以卒言“不如不遇”。一旦遇上,只能“生亦惑,死亦惑”了
白居易在《胡旋女》、《八骏图》、《古冢狐》等讽谕诗和政论文章中,对历史上真实的“一人荒乐万人愁”式的爱情毫不含糊地持批评讽刺态度,而这首诗却有些“气短”,因为诗人毕竟“不能忘情”,感到无法抗拒“倾城色”的“惑”,所以卒章显志之言是“不如不遇”。如果再追问一句,一旦遇上了怎么办?那就只能“生亦惑,死亦惑”了。因此,有一个从政治角度还是从人性人情角度看待李、杨爱情的不同,从理智、政治上说,这种“惑”要不得,误国害民害己,应该批判;从情感、人情上说,他又觉得这种“惑”有其合情、值得同情甚至赞颂的一面。看来,作《长恨歌》时的白居易“多情”诗人浪漫气质要重得多,这正是他把《长恨歌》写成一曲哀感顽艳的爱情悲歌的主观原因。
◆ 观刈麦
2023/10/21: 南风陇黄
夜来南风起,小麦覆陇黄
2023/10/21: 念此私自愧,尽日不能忘
听其相顾言,闻者为悲伤。家田输税尽,拾此充饥肠。今我何功德,曾不事农桑。吏禄三百石,岁晏有余粮。念此私自愧,尽日不能忘。
2023/10/21: 微雨众卉新,一雷惊蛰始
微雨众卉新,一雷惊蛰始。田家几日闲,耕种从此起。
2023/10/21: 北风利如剑,布絮不蔽身
八年十二月,五日雪纷纷。竹柏皆冻死,况彼无衣民!回观村闾间,十室八九贫。北风利如剑,布絮不蔽身。唯烧蒿棘火,愁坐夜待晨。
2023/10/21: 念彼深可愧,自问是何人
顾我当此日,草堂深掩门。褐裘覆絁被,坐卧有余温。幸免饥冻苦,又无垄亩勤。念彼深可愧,自问是何人。
◆ 二、救济人病裨补时阙(807—811)
2023/10/21: 正色强御,刚肠喔咿
正色摧强御,刚肠嫉喔咿。
2023/10/21: 启奏之外,有可以救济人病、裨补时阙、而难于指言者,辄咏歌之
“欲开壅蔽达人情,先向歌诗求讽刺”(《采诗官》),经过风云激荡的政治生活洗礼,白居易认识到“文章合为时而著,歌诗合为事而作”,因此“启奏之外,有可以救济人病、裨补时阙、而难于指言者,辄咏歌之”。
2023/10/21: 首句标其目,卒章显其志,《诗》三百之义也
为君、为臣、为民、为物、为事而作,不为文而作也
篇无定句,句无定字;系于意,不系于文。首句标其目,卒章显其志,《诗》三百之义也。其辞质而径,欲见之者易谕也;其言直而切,欲闻之者深诫也;其事核而实,使采之者传信也;其体顺而肆,可以播于乐章歌曲也。总而言之,为君、为臣、为民、为物、为事而作,不为文而作也。
◆ 杜陵叟
2023/10/22: 善政不能及民者多矣
《唐宋诗醇》评曰:“从古及今,善政不能及民者多矣。一结慨然思深,可为太息。”
2023/10/22: 绝大多数封建皇帝只顾与官吏唱双簧
皇帝降下德音,税早已收完,从中可见皇帝要减税,主要是为了笼络人心,装装样子,执行与否,执行到什么程度,他是不去管的。而地方官也明知这一点,利用其不闻不问、不检查督促,搞了一场骗局。这种“善政”真让人“慨然思深”。宋代诗人受白居易诗启发,写下了“自从乡官新上来,黄纸放尽白纸催”(范成大《后催租行》)、“一司日日下赈济,一司旦旦催租税”(米芾《催租》)、“淡黄竹纸说蠲逋,白纸仍科不稼租”(朱继芳《农桑》)等作,这说明绝大多数封建皇帝只顾与官吏唱双簧去“虐人害物”,连“善政”的美名也不要了。
◆ 井底引银瓶
2023/10/22: 两心之外无人知,彼此甘心无后期
白居易早年曾与邻女湘灵相恋,其《长相思》诗有云:“妾住洛桥北,君住洛桥南。十五即相识,今年二十三。”但这段缠绵的恋情最终却是分离的悲剧结局,《潜别离》诗言及分手的痛苦:“不得哭,潜别离。不得语,暗相思。两心之外无人知。深笼夜锁独栖鸟,利剑春断连理枝。河水虽浊有清日,乌头虽黑有白时。唯有潜离与暗别,彼此甘心无后期。”
◆ 轻肥
2023/10/23: 把他们的骄奢淫逸写足,好比射箭,要引满而发,“结语斗绝,有一落千丈之势”
全诗共十六句,用了十四句写宦官的长街走马,写军中宴会,层层铺垫渲染,把他们的骄奢淫逸写足,好比射箭,要引满而发,到了最大限度时才对准目标猛地射出一箭——“是岁江南旱,衢州人食人”,这一箭才特别有力
2023/10/23: 衢州人食人”的惨剧,正是这一小撮不顾人民死活的家伙掌握了军政大权的结果
一方面是花天酒地、骄奢淫逸,一方面是大旱饥荒、人吃人,这两种现象强烈而鲜明的对比是对宦官的尖锐抨击。这两种现象之间又有着深刻的内在联系:一小撮宦官糜烂发臭的生活,就是建筑在广大人民饥饿和死亡的基础上的;“是岁江南旱”两句前面放上“食饱心自若,酒酣气益振”两句,暗示了“衢州人食人”的惨剧,正是这一小撮不顾人民死活的家伙掌握了军政大权的结果。
◆ 三、中道左迁天涯沦落(811—820)
2023/10/24: 根情、苗言、华声、实义
对于诗的性质,他概括出“根情、苗言、华声、实义”四大要素。诗歌要以情感为基础,用形象的语言、和谐的韵律表现出来,内容必须具有充实的义理。否则,诗歌就失去了价值。
2023/10/24: 谓之讽谕诗,兼济之志也;谓之闲适诗,独善之义也
他将自己的诗歌分为四类:讽谕诗、闲适诗、感伤诗和杂律诗。《与元九书》云:“自拾遗以来,凡所遇所感,关于美刺兴比者,又自武德迄元和,因事立题,题为《新乐府》者,共一百五十首,谓之讽谕诗。又或退公独处,或移病闲居,知足保和,吟玩性情者一百首,谓之闲适诗。又有事物牵于外,情理动于内,随感遇而形于叹咏者一百首,谓之感伤诗。又有五言、七言、长句、绝句,自一百韵至两韵者四百余首,谓之杂律诗。”四类中他最看重的是讽谕诗和闲适诗,“谓之讽谕诗,兼济之志也;谓之闲适诗,独善之义也。故览仆诗,知仆之道焉”。因为这两类诗集中表现了他进退出处之道和平生志尚,也体现了他诗歌创作的指归,所以值得珍视。
◆ 欲与元八卜邻先有是赠
2023/10/24: 暂出犹思伴,安居须择邻
每因暂出犹思伴,岂得安居不择邻。
2023/10/24: 两岸人烟,一溪灯火
“两岸人烟分市色,一溪灯火共书声”(吴企晋)
◆ 蓝桥驿见元九诗
2023/10/24: 每到驿亭先下马,循墙绕柱觅君诗
蓝桥春雪君归日,秦岭秋风我去时。每到驿亭先下马,循墙绕柱觅君诗。
2023/10/24: 诗人内心正经受着贬谪的屈辱和愁苦的煎熬,急欲借遍觅故人之题咏来稍作安慰
三、四句则用“下马”、“循墙”、“绕柱”、“觅君诗”等四个细节动作,真实而准确地描绘出诗人寻觅、辨认友人诗作的动人情景,而这种寻觅又表明诗人内心正经受着贬谪的屈辱和愁苦的煎熬,急欲借遍觅故人之题咏来稍作安慰。出语看似平淡,表达的情意却极为深挚,这是白居易诗的独造之境。
2023/10/24: 此句他人尚不可闻,况仆心哉
元和十年,元稹正月入京,不料三月又复贬为通州司马,八月,在病危之中惊悉白居易贬江州,忧愤难禁,写下了充满深情的《闻乐天左降江州司马》诗:残灯无焰影幢幢,此夕闻君谪九江。垂死病中惊坐起,暗风吹雨入寒窗。全诗用残灯、阴影、暗风、秋雨、寒窗等景物,构成了一种凄惨孤独的意境,借以衬托诗人所处的环境和关切友人的挚情。白居易读到这首诗后,十分感动,在《与微之书》中说:“此句他人尚不可闻,况仆心哉!至今每吟,犹恻恻耳。”
◆ 放言五首并序(选一)
2023/10/24: 草萤有耀终非火,荷露虽团岂是珠
朝真暮伪何人辨,古往今来底事无?但爱臧生能诈圣,可知宁子解佯愚?草萤有耀终非火,荷露虽团岂是珠?不取燔柴兼照乘,可怜光彩亦何殊!
◆ 琵琶行并序
2023/10/24: 予出官二年,恬然自安,感斯人言,是夕始觉有迁谪意
遂命酒,使快弹数曲。曲罢悯然。自叙少小时欢乐事,今漂沦憔悴,转徙于江湖间。予出官二年,恬然自安,感斯人言,是夕始觉有迁谪意。
◆ 暮江吟
2023/10/24: 草风沙雨
建昌江水县门前,立马教人唤渡船。忽似往年归蔡渡,草风沙雨渭河边。
◆ 四、闲居泰适觞咏弦歌(820—846)
2023/10/24: 以当时心言异日苏、杭苟获一郡,足矣 敬宗宝历元年(825)三月,除苏州刺史,二年以病免郡事
元和十五年(820)正月宪宗暴卒,穆宗即位。夏初,白居易自忠州召还长安,除尚书司门员外郎;十二月,改授主客郎中、知制诰。穆宗长庆元年(821)十月,转中书舍人。长庆二年,河北藩镇复乱,居易多次上疏言事,但“天子荒纵,宰相才下,赏罚失所宜,坐视贼,无能为,居易虽进忠,不见听”(《新唐书》本传)。于是他请求外任。七月,除杭州刺史;十月,至杭州。白居易少年时慕苏州刺史韦应物、杭州刺史房孺复之风流才调,“以当时心言异日苏、杭苟获一郡,足矣”(《吴郡诗石记》)。因此,出牧杭州可谓了却当年心愿。杭州本江南大郡,当时已是形胜佳丽的繁华都市,居易在此留下了大量优美的诗篇。
2023/10/24: 为向两州邮吏道,莫辞来去递诗筒
长庆三年(823),元稹外放为浙东观察使,居易与其邻郡而治,“为向两州邮吏道,莫辞来去递诗筒”(《醉封诗筒寄微之》),从此两郡常以诗筒往来,两位文友诗歌唱和略无虚日。
2023/10/24: 元白 刘白
大和五年(831)七月,挚友元稹卒于武昌,此后,他主要是与刘禹锡为诗友,世称刘、白。
2023/10/24: 朝廷雇我作闲人
《唐宋诗醇》说白居易“洎大和、开成之后,时事日非,宦情愈淡,唯以醉吟为事,遂托于诗以自传焉”。他自长庆以来,虽仕途坦顺,已无意于趋竞,委顺思想得到突出的发展。他在《长庆二年七月自中书舍人出守杭州路次蓝溪作》诗中说自己“置怀齐宠辱,委顺随行止”,“因生江海兴,每羡沧浪水。尚拟拂衣行,况今兼禄仕”。以委顺行之于仕途,一个主要表现就是吏隐,“山林太寂寞,朝阙空喧烦。唯兹郡阁内,嚣静得中间”(《郡亭》)。以太子宾客分司东都时,他的感觉是“朝廷雇我作闲人”(《从同州刺史改授太子少傅分司》)。这时,白居易又进一步提出“中隐”思想。
2023/10/24: 似出复似处,非忙亦非闲。不劳心与力,又免饥与寒
大隐住朝市,小隐入丘樊。丘樊太冷落,朝市太嚣喧。不如作中隐,隐在留司官。似出复似处,非忙亦非闲。不劳心与力,又免饥与寒。终岁无公事,随月有俸钱。君若好登临,城南有秋山。君若爱游荡,城东有春园。君若欲一醉,时出赴宾筵。洛中多君子,可以恣欢言。君若欲高卧,但自深掩关。亦无车马客,造次到门前。人生处一世,其道难两全。贱即苦冻馁,贵则多忧患。唯此中隐士,致身吉且安。穷通与丰约,正在四者间。
◆ 勤政楼西老柳
2023/10/24: 半朽树,多情人。开元柳,长庆春
半朽临风树,多情立马人。开元一株柳,长庆二年春。
2023/10/24: 未堪摩霄汉,只合觅稻粱
其《初罢中书舍人》诗云:“性疏岂合承恩��?命薄元知济事难。”又《病中对病鹤》诗云:“未堪再举摩霄汉,只合相随觅稻粱。”
◆ 采莲曲
2023/10/24: 欲语低头笑
菱叶萦波荷飐风,荷花深处小船通。逢郎欲语低头笑,碧玉搔头落水中。
2023/10/24: 斜倚熏笼坐到明
泪湿罗巾梦不成,夜深前殿按歌声。红颜未老恩先断,斜倚熏笼坐到明。
2023/10/24: 秋霜手先知,灯底剪刀冷
寒月沉沉洞房静,珍珠帘外梧桐影。秋霜欲下手先知,灯底裁缝剪刀冷。
◆ 钱塘湖春行
2023/10/24: 松排山面,月点波心
湖上春来似画图,乱峰围绕水平铺。松排山面千重翠,月点波心一颗珠。碧毯线头抽早稻,青罗裙带展新蒲。未能抛得杭州去,一半勾留是此湖。
◆ 杭州春望
2023/10/24: 涛声夜入伍员庙,柳色春藏苏小家
望海楼明照曙霞,护江堤白踏晴沙。涛声夜入伍员庙,柳色春藏苏小家。红袖织绫夸柿蒂,青旗沽酒趁梨花。谁开湖寺西南路?草绿裙腰一道斜。
◆ 除苏州刺史别洛城东花
2023/10/24: 残暑蝉催尽,新秋雁带来
小宴追凉散,平桥步月回。笙歌归院落,灯火下楼台。残暑蝉催尽,新秋雁带来。将何迎睡兴?临卧举残杯。
2023/10/24: 卧迟灯灭后,睡美雨声中
凉冷三秋夜,安闲一老翁。卧迟灯灭后,睡美雨声中。灰宿温瓶火,香添暖被笼。晓晴寒未起,霜叶满阶红。
◆ 与梦得沽酒闲饮且约后期
2023/10/24: 贤豪虽殁精灵在,应共微之地下游
四海齐名白与刘,百年交分两绸缪。同贫同病退闲日,一死一生临老头。杯酒英雄君与操,文章微婉我知丘。贤豪虽殁精灵在,应共微之地下游。
2023/10/24: 不教才展休明代,为罚诗争造化功
杜甫说李白是“文章憎命达,魑魅喜人过”(《天末怀李白》),韩愈评价柳宗元云:“然子厚斥不久,穷不极,虽有出于人,其文学辞章必不能自力以致必传于后如今无疑也。虽使子厚得所愿,为将相于一时,以彼易此,孰得孰失,必有能辨之者。”(《柳子厚墓志铭》)白诗亦谓梦得:“不教才展休明代,为罚诗争造化功。”
◆ 览卢子蒙侍御旧诗多与微之唱和感今伤昔因赠子蒙题于卷后
2023/10/24: 平生定交取人窄,屈指相知唯五人。四人先去我在后,一枝蒲柳衰残身
晦叔坟荒草已陈,梦得墓湿土犹新。微之捐馆将一纪,杓直归丘二十春。城中虽有故第宅,庭芜园废生荆棘。箧中亦有旧书札,纸穿字蠹成灰尘。平生定交取人窄,屈指相知唯五人。四人先去我在后,一枝蒲柳衰残身。岂无晚岁新相识,相识面亲心不亲。人生莫羡苦长命,命长感旧多悲辛。
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銀魂後祭り2023(仮)
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今日は店は休みです。久しぶりに奈良に来ています。本籍を奈良に置く身としては、故郷へ戻る嬉しさです。仕事があるとはいえ、合間に興福寺で八部衆の御顔でも拝めるとなおなお嬉しいところですが。
そういえば、本日2023年12月12日はちょうど小津生誕120年、没後60年。小津で奈良、といえば『麦秋』の最後、ふっと差し込まれる麦畑の中をゆく嫁入り風景のシーンですが、あれ、どこなんでしょうか。後ろに耳成山のような山が見えるので、橿原のどこかかな。
ついでの話。このごろ書きものの仕事が多くて、頼まれもの以外の文章なぞつらつら書いている場合ではないのですが、小津についてふと気になってしまったことがあり、書いておかないと本来の仕事ができなさそうなので、合間合間に記していた雑文をここに置いておきます。長いですし、結論はないし、ほとんどの方が興味のない内容かと思いますが…。
ちょっとした調べものがあって雑誌『みすず』2001年12月号を読んでいたら、木村伊兵衛が小津安二郎を撮影した写真と文章「上海で小津安二郎氏をうつす」が掲載されていた。時期は1938年1月なので第二次上海事変の翌年。小津は1937年9月に出征して中国に渡り、事変の直後12月から上海にいたようで、その時に偶然木村と出会っている(その後小津は南京・漢口と転戦する)。写っている小津が携えているカメラは、木村の稿に続いて掲載されている田中眞澄氏の文章「ライカという”近代”」によればライカA型。小津関係の文章を読むと、小津は「ご愛用のライカ」をいつも手にしていたと多くの人が書いているので(同文によると山中貞雄はコンタックスだったらしい)さもありなんと思うのだけれど、田中氏の文章を読んでいくなかで、ちょっとしたことが気になるようになった。
小津は1942年から軍の依頼で記録映画撮影のためにシンガポールに滞在し、ただまあ映画製作などできる状況でもないため、自国内では上映が禁止されていたアメリカ映画をひたすら見続け、敗戦を当地で迎えている。そしてそのまま捕虜となり、抑留生活を終え1946年1月に帰国する際に小津はライカを手放しており、「彼が再びライカを所有するのは一九五四年のことである」とある。買った件の典拠はどこにあるんだっけ、と思いつつ近所の図書館に置いてある『全日記 小津安二郎』を紐解くと、なるほど1954年3月22日の項に、
> 「出京 サンにてライカを買ふ 135.000 アメリカン フアマシー 明治屋(燻製)によつて帰る」
とある。と、ここで急に話は脇道に逸れるのだが、ちなみに隣のページ、同年4月8日の項には、
> 「駒場の東大教養学部 民芸館 青山の花屋 それから 車にて銀座に出て なごやかに夕餐を喫す 野田夫妻と江原氏同道」
と日本民藝館に行った旨の記載がある。他にも、1951年11月10日に
> 「宿酔 森昌子さん達と 陶哉 たくみに寄って大船に帰る」
や、1955年5月17日には
> 「駅にて野田氏と待合せ 上野松坂屋の民芸展にゆく」
とも。ほか、パッと目を通しただけでも1952年4月8日、同年6月15日、1953年2月9日、1961年2月2日に銀座たくみに行った記載があるし、志賀直哉や里見弴についての言及は多すぎるので略す。こういうものを読むとつくづく民藝誌において特集「小津と工藝」を組みたいなと思う。白樺派との関係や小津の映画における「巧藝品考撰」について取り上げる特集��『秋日和』で原節子の後ろにかかっている暖簾は芹沢銈介だろうか、『秋刀魚の味』で中村伸郎の後ろに置かれたやちむん?はたくみで求めたものなのだろうか、やちむんであれば誰の仕事だろうか。佐田啓二と吉田輝雄がとんかつ屋で食事をするシーンには確かに芹沢カレンダーが掛かってるな、などといつも気になるので。松竹から写真借りるといくらぐらいかかるかな…。
それはさておき。この時購入したライカが、前掲日記の1961年3月23日の項に「夕方会社帰りの秀行くる ライカ借(貸)してやる」とある通り、のちに小津の甥が譲り受け、現在は茅野駅前「小津安二郎・野田高梧コーナー」に寄贈展示されているライカIIIfとズマリット5cmF1.5なのだろう。と、ここまで長々と記して、まだ前提です。
そこでふと思い出したのが厚田雄春・蓮實重彦著『小津安二郎物語』(筑摩書房・リュミエール叢書)の冒頭。ここには小津が『東京物語』と『早春』のロケハンをしている写真が2葉掲載されているのだけれど、どちらにおいても小津はバルナック型のカメラを携え、光学ファインダーをのぞいたりしている。沈胴レンズにフードをつけている様子から、あれはライカなんだろう、レンズは厚田雄春が『父ありき』において75mmを一場面で使った以外はすべて50mmだったと言っているぐらいだから同径のエルマーやズマール、ズミタールとかかな、などとうっかり思い過ごしていた。むろん『早春』については、製作年やロケハンの写真に記載されている「1955.7.20」という日付からするとまったく問題はない。しかし『東京物語』は1953年製作公開だから「再びライカを所有した」1954年では間に合わない。そう気がついて見直すと、小津が構えているカメラは、ライカIII型に似ているがファインダーの位置が違うし、そもそも1954年にあわせて手に入れたと思しきズマリットは沈胴レンズではない。
妙なことに気がついてしまったと思いつつも、ひとまずは日記記載の「サン」を手始めに調べてみようとしたが、何の会社かわからない。名取洋之助が企画編集した「週刊サンニュース」と関係はあるのだろうか。対外宣伝誌の専門家であり、銀座に店を構える森岡さんに聞いたらわかるだろうか。いずれにせよ1949年以降の小津の日記に「サン」が登場するのは、「1951年1月17日・3月21日・4月24日・11月10日、1952年4月17日、1953年6月16日、1954年3月22日(前述のライカを買った日)・10月14日、1955年4月6日、1960年7月14日、1961年2月2日(”たくみ サンに寄って三越”)」。1953年6月16日は、ちょうど『東京物語』ロケの最中だったことが気に掛かる。ほか、関係しそうな記載としては1953年3月30日に「アサヒカメラ座談会」、1954年11月5日の「シュミットに寄ってから」(当時ライカの総代理店だったシュミット商会か)、1955年2月15日「昼寝をしてゐると小尾がくる ニッコールの85m(ママ)のレンズを頼む 四万五千円を預ける」、同年3月11日「小尾に会ひ105mmのレンズを見る」、同年6月27日「小尾から電話ライカピッド(ママ。入手したライカがIIIfであれば、ライカビット SYOOMか)を頼む」ぐらいか。この「小尾」という人は何者なんだろう。
次に小津が構えているカメラの形状から何かわからないかと思い、あらためて細部を見れば、写っているカメラは戦後キヤノンが作っていたコピーライカであることがわかる。決め手はファインダーの位置。同時期の国産コピーライカであるニッカやレオタックスはライカそっくりに作っているのだが、キヤノンは誠実と言っていいのか「打倒ライカとコンタックス」の心意気の現れか、多少スタイルが違う。なお、小津が用いている機種については、この時期のレンジファインダー機は輸出用に作っていたせいか勢いがあり、すぐ新型が出るうえに、外観がどれも似すぎていて小さな写真では区別がつかない。時期を考えれば、1946年発売のSIIから1952年のIVSbの間のいずれかで、III型以降のように見受けられる。レンズもやはり形状から判断するとズマールに似ているので、1949年発売開始のキヤノン Serenar 50mmF1.9か。そう気づいて改めて調べると、「カメラ毎日」1954年6月号に掲載されている座談会「カラーは天どん 白黒はお茶漬の味」ではカメラの話がもっぱらで、その時に手にしているのはキヤノンである。このキヤノンのカメラとレンズ、そして外付けのファインダー、この時期どういう経緯で小津は使っていたのだろう。いずれにせよ、1953年の『早春』はともかく、なぜ1955年に「ご愛用のライカ」ではなく、キヤノンを用いているのか。
ついでに言うと、小津が鏡の前でカメラを向けて撮っているセルフポートレートに用いているカメラはコンタックス。日記をざっと読んだ限りではわからないけれど、これもいつ手に入れたのだろう。レンズはゾナーの5cmF1.5。明るいレンズがお好みと見える。こちらは姪が譲り受けたとのことで、今は先のライカと同じく茅野駅前にある。
長々と書いてきましたが、つまりはこれらが今回生じた疑問です。小津に詳しい人、どうか教えてください。
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