Page 109 : 口止め
キリにやってきてから一週間程が経ち、少しずつザナトアの元での生活に慣れ始めていた。
元々ウォルタでは弟と二人で暮らしていた。最低限の家事は手慣れており、家事全般を受け持つようになっていた。
一日目のような重労働は十分に出来ないけれど、決まった時間にポケモン達に餌を与えに向かう。目立つのは鳥ポケモンだけれど、他にもポケモン達が住んでいると知るのに時間はかからなかった。
晴れている日には広大な草原でひなたぼっこをしている陸上ポケモン達。身体を地面に埋めて頭の葉を茂らせ光合成に勤しんでいるナゾノクサはいつの間にかここで群を成している。ここらを住処とはしないが恐らくトレーナーに捨てられて保護したのだという外来種の黒いラッタは他のどんなポケモンよりも美味しそうに餌を頬張る。美味しい牛乳を分けてくれるから重宝しているというミルタンクはキリの農場の主人が亡くなって譲り受けたポケモンだという。
小屋からそう遠くないところには小さな林が茂り、その中に大きな池がある。水ポケモン達の楽園だ。山から引いてきた水が貯められ、トサキントやケイコウオといった魚型のポケモンが優雅に泳ぎ、コアルヒーはこの場所と卵屋を行き来している。同じようにこの周囲を自由に飛び回っているヒノヤコマは、この池に住むハスボーと仲が良いらしくしばしば一緒にいる場面を見かけた。清らかな水で洗練された池の端で暢気に見守るように、いつもヤドンはしっぽを水面からぶらさげている。
餌をばらまけばあっという間に食いついてくる様子をじっくりと眺めながら、アランは額の汗を拭う。秋の日差しは柔らかく吹き抜ける風は軽いが、身体は膨らんだ熱を帯びていた。ポケットに入れっぱなしにしている懐中時計を確認すれば、そろそろ次の予定時刻が迫ろうとしている。
薄い木陰に背中から寝転ぶと、草の匂いがこゆくなり、池から漂う独特の鬱蒼とした香りと混ざる。林の中にぽっかりと作られた人工の池は、そこだけ空洞となったように直接陽が入る。少し離れれば木陰があり、水の放つ涼感が疲弊した身体に沁みるのだ。
木の根本から声がする。アランは起き上がり、座らせていたアメモースを引き寄せ、代わりに自分の背を幹に預けた。
アメモースを出来るだけボールから出してやれと進言したのはザナトアだ。ボールの中はポケモンにとって安寧の空間だが、出来るだけアメモースとアランの接触を増やすことが主な目的だった。
彼等の間にある溝は浅くはない。しかし彼女が今アメモースのトレーナーである限り、溝を抱えていても関わりを断つわけにはいかないのだった。
「今日、エクトルさんにも会おうと思うんだ」
ぽつりと告げると、アメモースは静かに頷く。
もう一時間程したら、湖のほとりまで向かう公共バスが近辺を通る。最大の目的はアメモースを一度病院に連れて行くことだが、ザナトアからはいくらか買い物を頼まれている。そのついでにエクトルと再会する心積もりでいた。
昨晩ザナトアが自室に戻った際に電話をかけた。依然休暇は続いているらしく、都合はつけられるとのことだった。
ザナトアの家で世話になっている旨を話すと、少しだけ驚いた様子だったけれど、それきりだった。そしてザナトアには彼との約束を伝えていない。何事もなく夕食に間に合うようには帰るつもりでいるのだろう。
ざわめく木漏れ日の下で暫し身体を休めてから、アランはゆっくりと立ち上がる。軽くなった餌袋を左手に下げ、右手でアメモースを抱えると、元来た道を戻った。
荷物を倉庫に戻した帰路の途中でザナトアに出会う。傍にはエーフィとフカマル。紺色の頭上にヒノヤコマが乗っていた。数日一緒に過ごすうちに、ヒノヤコマが数あるポケモン達のリーダーで、フカマルは気に入られている弟分という関係性が見えつつあった。
「行くのかい」
「はい」
やや驚いたようなザナトアは、もうそんな時間か、と息を吐く。
「わかった。買ってきてほしいものはメモに書いたよ。机の上に置いてある。よろしく頼んだよ」
「はい。行ってきます」
曇った表情を浮かべるエーフィを宥めるようにアランは頭を優しく撫でる。
「仕事、頑張ってね」
そう言われれば、エーフィは見送る他無いのだった。
ザナトア達に別れを告げ、アランはリビングへと戻り、そのまま奥の廊下へ向かい途中の右の部屋へ入る。脱衣所となったそこでそそくさと着替える。全身が汗ばんでいたが流すほどの時間は無い。旅のために見繕った服をさっさと着込み、パーカーは暑いので腰に巻き上げる。小さな尻尾を作るように首下で結っていた髪を慣れた手つきで直したところで、薄い傷がついた鏡を見据える。緊張した表情を浮かべた少女が、昏い眼で見つめ返していた。
再度リビングへ帰ってくると、先ほどは横たわっていたブラッキーがゆっくりと起き上がる。
「大丈夫?」
声をかけると、黒獣は深く頷いた。
アメモースだけを連れて行くのは心許ない。だが、最近のブラッキーはやはり不調だった。ついでに診てもらえばいいというザナトアの助言を受けて医者の目を通してもらうつもりでいた。
ダイニングテーブルの上に置かれたリストに目を通し、二つのモンスターボールと共に鞄に仕舞う。
裏口から出て、表の方へと家の周囲を沿っていき長い階段を降り始める。一昨日降った長い雨で、気温がまた一段階下がって秋が深まったようだった。丘を彩る草原もゆっくりと褪せていき、正面の小麦畑からは香ばしい匂いが風に乗ってやってくる。
一番下まで降りて、トンネルの方へと歩いてすぐに古びたバス停にぶつかった。錆だらけで、時刻表も目をこらさなければ読めない程日に焼けてしまっていた。
脇にぴったりとついて離れないブラッキーは、今一目だけ窺えばなんの不足も無く凛と立っていた。昼夜問わず横たわる姿とは裏腹に。
予定到着時刻より数分遅れて、二十分ほど待ってやってきたバスに乗り込み、運ばれていく間車窓からの景色を覇気のない表情で眺めている。途中で乗り込む者も降りる者もおらず、車内はアランと二匹のみのまま町中へと進んでいった。
山道を下っていくと、やがて目が覚めるように視界が広がる。木々を抜けて、穏やかな湖が広がった。波は立っておらず、美しい青色をしていた。水は天候によって表情を変える。静寂に満ちている時もあれば、猛々しく荒れる時もあり、澄んだ色をしている時もあれば、黒く淀んでいる時もある。
駅前のバス停で降りると、そそくさと歩き出す。キリの町は比較的ポケモンとの交流が深いが、ブラッキーに向けられる好奇の視線からは避けられない。抱いているアメモースを庇うように前のめりで歩く。
町の飾り付けは先週訪れた時よりも活気づいている。豊作を祈る秋の祭。水神が指定するという晴天の吉日の催しを、当然のようにキリの民は心待ちにしている。
ザナトアに紹介された診療所はこじんまりとしていたが清潔で、感じの良さがあった。院長でもある獣医はザナトアの知り合いといって納得する、老齢を感じさせる外見だったが、屈託のない笑顔が印象的な人物だった。フラネで診察中に暴れた経験があるので身構えたが、忘れもしないフラネでの早朝の一件以来良くも悪くも取り乱さなくなったアメモースは終始大人しくしていた。傷口は着実に修復へ向かっていて、糸をとってもいいだろうと話された。大袈裟な包帯も外され、ガーゼをテープで固定するだけの簡素なものへと変わった。アメモースにとっても負担は減るだろう。
抜糸はさほど時間がかからないそうであり、その間にブラッキーを預け精密検査を受けさせた。モンスターボールに入れて専用の機械に読み込ませて十数分処理させるらしい。画像検査から生理学的検査まで一括で行える、ポケモンの素質としてモンスターボールに入れることで仮想的に電子化されるからこそできる芸当だが、アランにはその不思議はよく理解できない様子だった。彼女にとって大事なのは、ブラッキーに明らかな変化があるか否かだった。
結論から言えば、身体にはなんの異常も認められなかった。
本当ですか、と僅かに身を乗り出すアラン���決して安堵していないようだった。収穫と言うべきかは迷うだろう。気味悪さに似たざらつきが残っているようだった。見えぬ場所で罅が入っているような違和感を拭いきれない。
ただ、抜糸を済ませたアメモースが少し浮かれた顔つきで、いつも垂れ下がっていた触覚がふわりふわりと動いている姿には、思わずアランも情愛を込めるように肌を撫でた。
診療所を後にして、入り口付近で待っていたスーツ姿の男にすぐに気が付いた。待合室で二匹の処置を待っている間に連絡を入れていたのだった。
「案外、元気そうですね」
出会って早々、エクトルはそう告げた。
「そうですか?」
「以前お会いした際は見るに耐えない雰囲気でしたので」
はは、と苦笑する声がアランから出たが、表情は変わらない。
時刻は十五時を回ったところだ。夕食までには帰る必要があり、ザナトアから頼まれた買い物を済ませなければならない。とはいえ、頼まれているのは主に生鮮食品だ。そう時間はかからない。その旨を伝えると、
「では、お疲れのようですしお茶でも飲みましょうか」
無愛想な顔は変わらないが、落ち着き払った提案を素直にアランは受け取り、並んで歩き出した。
「アメモース、順調のようですね」
「なんとか」
腕の中で微睡んでいる様子は、エクトルと再会した頃の衰弱した状態と比較すれば目覚ましいほどに回復している。
そう、とアランは顔を上げる。
「ザナトアさんを紹介してくださって、ありがとうございました。今日はそのお礼を言いたかったんです」
「そう言えるということは、生活の方も順調でしょうか」
「……大変なことは多いですけど、少し慣れてきました」
「何よりです。失礼ながら、追い返されるだろうと」
アランは首を横に振る。
「皆のおかげなんです。私は全然。怒られるし、うまくいかないことばかりですし」
「追い出されなければ、十分うまくいっている方でしょう」
冷静な口ぶりには、お世辞ではなく実感を込めていた。
駅前近くの喧噪からやや離れて、住宅街に近付くほどに人の気配が少なくなる。低めに建てられた屋根でポッポが鳴いて、よく響く。無意識のうちに、アランの手は強張っていた。
「……キリに来たのは、アメモースをもう一度飛ばせるためだったんですけど」しんと目を伏せた先では、とうのアメモースがいる。「それについてはもう少し考えてみます」
「それがいいですよ」
すんなりと同意した。
アランはすいと顔を上げる。
「随分焦っていらっしゃるようだったので、安心致しました。一度立ち止まるのは、アメモースのためにも、ご自分のためにもなるのでは」
まじまじと見上げながら、少し間をとって、辛うじてアランは小さく頷いた。
会話が途切れ、不揃いな足音で町を進む。
真夏ほどではないとはいえ、日差しにあたれば薄らと汗が滲む。逆に日陰に入れば肌寒さが勝る。気温も徐々に低くなってきた。アランは腰に巻いたパーカーを羽織る。
「アイスクリームという時期でも無くなりましたね」
歩きながらぼんやりとした心地でエクトルは零す。
「あの時、エクトルさんいましたっけ」
エクトルの意図を掬い取ったのか、何気なく彼女は尋ねる。懐かしい思い出を語り出そうとするように。
「いえ。けどお嬢様から事の顛末は話していただいたので。あの時は失礼しました。驚かれたでしょう」
「そうですね……そうだった気もします」
「他に知る場所も殆どありませんから、仕方がありませんが。お嬢様はキリを知らない」
「でも、生まれも育ちもキリですよね」
「お嬢様からクヴルール家の掟については話を聞いていますよね」
高圧的に刺され、アランは口を噤む。
「ここで生まれここで死ぬと定められていても、この町のことを何も知らずに生きていく。皮肉なものです」
まあ、と自嘲気味にエクトルの口許は僅かに上がる。
「私も殆ど知りませんがね。――綺麗な場所ではありませんが、どうぞ」
不意に立ち止まり、道の途中の喫茶店の扉が開けられる。彼自身は身体つきが逞しいが、恭しい礼と滑らかな所作は一つ一つが画になるような美しさがあった。促されたアランは思わず空いた口を締めて、二匹のポケモンをボールに戻すと、緊張した動きで通されるままに中へと入る。
古めかしい店内は奥に細長い造りとなっており、長いカウンターが伸びている。今は客が他にいないようだった。カウンターを挟んだ向こうの棚には、ずらりと並ぶコーヒーの他にワインやカクテルの瓶が立ち並び、夜にはバーに変わるのだろう。まだ酒と縁遠いアランには関係の無い話だが。シックな内装に見とれるように、入り口で立ち止まったまま動かなかった。
「ここで立ち止まられても邪魔になります。奥へお進みください」
後ろから静かに囁かれ、慌てて奥へと進む。カウンターに立つのは外見の妙齢な男で、知人なのか、エクトルを見やるとまず目を丸くして、続けざまに気軽な雰囲気で手を挙げた。
カウンター席の更に奥は小さなスペースがあり、二人掛けのテーブルが二つだけある。いずれも空席だったので適当に右側を陣取ると、店員はにやつきながら、店員は水の入ったグラスを二人に差し出す。
「これはまた随分久しぶりだな。元気か? 油を売っていていい身分になったのか?」
「身分は変わりませんが、少々暇を頂きましたので顔を出すついでにと。クレアライト様、コーヒーはお飲みになれますか」
「えっと」
唐突に尋ねられ惑っていると、店員が笑う。
「なあんだ、子供かと思ったら違うのか、つまらんな。うちのコーヒーは美味いぞお」
「彼の仰ることはお気になさらず。好きなものをお選びください」
けらけらと肩で笑う店員を真顔で無視し、エクトルはメニューを差し出した。整然と並ぶドリンクの数々に目を泳がせながら、ミルクティーを選んだ。茶葉の種類は見当がつかないので、適当にお勧めを貰う。
店員が姿をカウンターの奥に消すと、エクトルは小さく息を吐いた。
「彼に代わって失礼をお詫び申し上げます。軽率な人間ではありますが口は堅いのでその点はご安心ください」
「はあ……」
アランが恐縮していると、エクトルは彼にしては幾分弛緩した雰囲気で水を含んだ。
どことなく緊張しながら室内を軽く見回す。カウンターをはじめ物は深い茶色で統制され、落ち着いたクリーム色をした漆喰の壁と似合っている。お世辞にも広いとは言えない限られたスペースだが、それがかえって隠れ家のような秘密裏な雰囲気を連想させた。細部まで店主の拘りが感じ取られる。ささやかなジャズ音楽が流れ、がらんとしていてもどこか寂しくはない空気感だった。
「お洒落な雰囲気ですね」
「創業者のセンスが良いんです」
ぽつりぽつりと言葉を交わすばかりで、会話はうまく繋がらない。沈黙の時間を多く過ごしているうちに、コーヒーと紅茶が一つずつ運ばれてきた。
「少女趣味だったっけ」
テーブルに置いて、一言。硬直したエクトルが、深い溜息を返す。
「ご冗談でもやめていただけませんか。彼女に失礼です。知り合い以上の何者でもありません」
「知り合いねえ」
アランは探るような目をしている彼の胸元を軽く見やる。白いシャツに黒いベストを羽織り、馴染んでいるような黒い名札には白文字の走り書きでアシザワと記されている。アーレイスでは聞き慣れない音感だった。
「しかし、あのお嬢さんはどうした。お付きがこんな所にいて女子と茶をしばいて噂になっても文句は言えねえな。しかもこの年の差はまずい」
「馬鹿馬鹿しいことを。そんな発想になるのは貴方くらいなものですよ。お嬢様は先日無事ご成人されて、私の役目は終わりました」
「ご成人」彼は目を丸くする。「いつのまにそんな時期になっていたっけか。あんなに可愛らしかった子がねえ、早いもんだ。美人に育ったんだろうなあ」
あっけらかんとした物言いにエクトルは返す言葉も無いように首を振る。
「貴方はそればかりですね。頭の固い他の関係者だったら――」
「あ、なんでも色目で見てると思うなよ。これでも話す相手は選んでるんだ。大体こんな噂話くらいどこでも立つだろうが。それより」
アシザワは前のめりになる。秘密の話でもしようとするような雰囲気だが、彼等の他に人はおらず、少々滑稽だった。
「役目は終わった。つまり、あのお嬢さんのお目付役が終わったってことか?」
「それが何か」
へえ、とアシザワは感心したような表情を浮かべる。
「良かったじゃないか。念願が叶って」
アランは顔を上げる。
正面に座るエクトルは静かにコーヒーに口をつけ、熱の籠もった溜息を吐き出す。
「もういいでしょう」
話を無理矢理切り上げるように一言零す。アシザワは明らかに変容した空気を察したようにアランを一瞥し、頷いた。
「悪い悪い。じゃ、ごゆっくりお過ごしください」
とってつけたように軽く会釈をすると、アシザワは足早にその場を去って行った。
小さな喧噪が終わり、後には気まずい空気が吹きだまりとなって残った。
「口が堅い、を訂正すべきですね」
溜息まじりにエクトルは言い、黒々と香りを浮かばせるコーヒーを飲む。アランもつられるように紅茶を飲んで、その後思い出したようにミルクを入れた。透明な飴色に細い白が混ざり、瞬く間に濁っていく。
「聞きたいことがあれば、答えられる範囲で応じますが」
「……いくつか」
「どうぞ」
「念願が叶ったというのは」
エクトルは思わず口許を緩ませる。誤魔化すような笑い方だった。
「本当に口が軽いことです」
「離れたかったんですか。クラリスから」
「そう簡単な話ではありません。温度差を感じる程度には、彼とも長く会っていません。確かに昔は嫌になったこともありましたが」
エクトルは目を伏せる。
「湖上でお嬢様を呼んでいた、貴方とは真逆ですね」
栗色の瞳が大きくなる。
その名を何度叫んだだろう。寂しさと怒りの混ざった感情を爆発させ、銀の鳥に跨がって、朝の日差しに照らされた湖上で喉が嗄れても呼び続けた。朝に読んだ手紙と、あっけない別れを受け入れられずに無我夢中で走り出した夏の終わりの出来事は、彼女の記憶にもまだ新しいはずである。
「クラリスに聞こえていたんですか」
「いいえ」
間伐入れぬ即答に、アランは押し黙る。
「クヴルールの中心には誰も届かない。あの日お嬢様の耳に入っていたのは風の音のみ。私も後ほど知りました。湖上にエアームドと少女の姿があったと」
一呼吸置く間に流れる沈黙は、重い。
「やはり貴方だったんですね」
確信ではなかったが、彼にとっては確信に等しかったのだろう。エクトルですら今まで真相を知らなかったのなら、クラリスが知るはずもない。
アランは俯き、力無く肯いた。
「……神域に繋がる湖畔を守るように風の壁を施しています。ポケモンの技ですがね。誰も近付けぬように。キリの民は誰もが当たり前に知っていることです」
「そう……初めから届くはずがなかったんですね」
言葉に沈痛なものを感じたエクトルは黙り込み、重々しく肯いた。
「まさか、たったあの二日で、そこまでお嬢様に入れ込む方ができるとは考えもしませんでした。申し訳ございません」
「どうして謝るんですか」
決して怒りではない、純粋な疑問をぶつけるようにアランは問いかける。
「私が中途半端にお嬢様を許してしまったがために、無闇に無関係の貴方を危険に曝しました」
「違います。あれは私が勝手にやったことです」
「そう。貴方がご自分でそうされました。想像ができなかった。キリを知らず偶然立ち寄っただけ、それも訳のありそうな旅人なら何を告げたところで深く干渉はしてこないだろうと」
アランは眉根をきつく寄せる。
「何を言いたいんですか」
突き放すように言うと、エクトルは薄く笑った。
「見誤っておりました」
店内の音楽が切れ、本当の沈黙が僅かの間に訪れる。
「噺人は成人すれば完全に外界との関係を断ち、全てを家と水神様に捧げ、自由は許されない。クヴルール家の掟は他言無用。とりわけ未来予知、消耗品のように使い捨てられ続けてきたネイティオの件は禁忌。公となれば、いくらクヴルールとはいえ只では済まないでしょう。愛鳥を掲げる町ですから、尚更。それを他者に教えるなど、いくらキリの民でなくとも許されない。今回の件を他のクヴルールの者が知れば、お嬢様は代用のきかない立場ですので考慮はされるでしょうが、私の首は飛ぶでしょう」
アランは息を詰める。
「つまり、クラリスの元を離れたというのは」
「ああ」エクトルは軽く首を振る。「それとは関係ありません。このことを知る者はクヴルールで私とお嬢様の他にはおりません。先ほども言ったでしょう、役目を終えただけです。もし知られていれば、私は今ここにいませんよ」
平然と言ってのけるが、アランは一瞬言葉を失う。
「そんな恐ろしい口封じをする家なんですか」
直接的には言葉にしていないが、首が飛ぶとは形容でなく、言葉そのものの意味を示すのだというニュアンスを含めているのだとアランは嗅ぎ取っているようだった。
エクトルは短い沈黙を置く。
「程度によりますが。強い力を持てば、手は汚れるものです」
諦観を滲ませ悟ったように呟き、続ける。
「アシザワ……先程の店員に、貴方がお嬢様のご友人だということを伏せ���のも念のためです。彼はキリの事情には驚くほど無関心ですがね」
「そんなことも?」
「本来、彼女は外界に関係性を持ってはいけない存在ですから」
また長い沈黙が流れていく。
場を持て余すようにエクトルがコーヒーを飲むのを冷めた表情でアランは見守る。
「口止めをしたいということですか」
エクトルの動きが止まる。
「それならそうと、はっきり言えばいいじゃないですか」
「口止め……そうですね。そう言っても良い」
アランの唇が引き締まった。
「貴方も、暫くキリに留まるつもりなら言葉は選んだ方が良いでしょう。これは警告です」
「だったら」
声が僅かに震えていた。
「初めからクラリスに何も言わせなければ良かったでしょう。外に関係を持つなと言っておきながら、学校に通わせたり……中途半端に許したということは、そもそもクラリスを止めることも出来たということですよね。何を今更」
「言ったでしょう、軽率だったと」
刺すように言い放つ。
「判断を誤ったのは私の責任です。だから出来る限りの協力は致します」
「ザナトアさんを紹介したのも、だからなんですね」
虚を衝かれたエクトルだったが、表情には出さない。ザナトアの存在は、彼にとって苦みのある、できるだけ触れたくない部分ではあった。
「クラリスの約束だけではなく。気が進まなかったけれど協力してくださった理由は、それですか。手は貸すから、余計なことは言うなと」
「一つは、確かに」
アランの唇が僅かに歪む。
「……これも、この時間も、口止めのつもりだと」
言いながら、手元のカップの縁をなぞる。
どこまでも深い黒い視線はあくまで凪いでいた。軽く首を振る。
「あまり警戒を強くされないでください。貴方は私を利用し、何事も無かったように過ごせばいいのです。ただ、一つ覚えておいて頂きたいのは」
強まった語気にアランは身を正す。
「私は貴方の身と、お嬢様の身を案じているのです」
辻褄合わせのように吐き出される言葉達に、アランは表情を変えなかった。
暫しの沈黙の間に、細い指先が持ち手を強く握り、また和らぐ。長い息と共に一口、渦巻いているだろう感情諸共流し込んで、温もった甘みのある吐息が小さく零れた。
「わかりました」
凜と言い放つ。
その直後のことだ。アランの顔が不意に、微笑んだ。
首都で訣別として笑いかけてから、意識していても強ばったまま動かなかった頬が解れた。凍っていた表情が溶けて、ふわりとした綿のように優しい微笑みが咲く。
「わかりました」
繰り返す。言い聞かせるように、或いは強調するように、しかし今度は随分と和らいだ口調だった。同じ言葉でありながら、全く色の異なる声を使っている。
「エクトルさんは、甘い人なんですね」
エクトルの肌が強張る。
「あの子、言ってました。本当は優しい人なんだって。その意味をちゃんと理解した気がします。……クラリスの望みをできるだけ叶えようとしてたんじゃないですか」
「クレアライト様、それは違う」
「エクトルさん」
咄嗟にエクトルは息を呑んだ。
ただ名前を呼ばれただけなのに、今までで最も意志の強い声だとエクトルは思った。有無を言わさず黙り込ませるだけの強い声。
「丁度良かったんです。私、クレアライトは捨ててるんです」
「……はい?」
僅かに動揺するエクトルとは対照的に、にこやかな顔を彼女は崩さない。
「クラリスと友達になり秘密を知ったラーナー・クレアライトはキリに居ない。そんな人間はここにいない――丸く収まりますよね」
「何を……」
「アラン。アラン・オルコット。今はそう名乗っています」静かに頷く。「これで踏ん切りがつきました」
驚きを隠さぬ顔で、エクトルは妙にさっぱりと笑うアランを凝視した。
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attention
今回の文では、登場人物の欠損表現および軽いグロテスク表現が含まれます。簡単な内容、あらすじを知りたいだけの方は、一番下までスクロールを動かしてください。
報告書
20××年○月△日
ノースサイド 海溝
戦闘部隊所属 GROUND BEAT
交戦中 負傷
左腕 二の腕から下を欠損 医療部隊にて治療中。
同じ任務はひとつとして存在しない。
今回の任務は、綿密な情報を元に練られた、掃討任務であった。
事前に渡された情報にすべて正しく、抜けはなく、目の前の敵も情報通りのもの。
粛々と敵を屠り、銃弾と刃のぶつかる喧騒を背に、彼らはただひたすらに任務へと没頭していた。
敵の数は残り三分の一。このまま進めばいつものように完璧に、冷徹に、調べを奏でるように美しく。
ただ終わるだろうと思われていた。
少なくとも、戦闘部隊構成員の一人である、グラウンド・ビートは考えていた。
だが
よほど切れ味のよい刃物だったのか。
グラウンドビートの左腕が、ひじ上から切り離された。
グラウンドビートは目を見開き、次の瞬間海中に血が噴出、血のもやを作った。
遠くで誰かが自分の名前を呼んだ気がした。
腕を切り落とした敵はこの隙を逃すまいと、果敢に追撃をかける。
きっとショックで身動きができなくなるだろう。そう踏んでいたのかもしれない。
しかし次の瞬間、敵は目の前が真っ赤に染まり、自身が真正面から十文字に切られていることを知った。
切られたことを知った時、壮絶な痛みが敵を襲った。
そしてさらに、敵は叫ぶ暇もなく決定的な一撃を体に刻まれる。
勝利した、と確信��た立場が逆転し、大量出血で自身がショック状態に陥り、命が急激に消えていく実感を覚えながら。
敵の意識が霞に落ちていく中で見たのは、血のもやをまといながらも眼光を鋭く、刃を下ろした灰色の男の姿であった。
追撃をされる前に敵を処理したグラウンドビートであったが、とっさの緊張状態から解放された瞬間、頭が腕を切り落とされた、という事実を認識し、急激に血の気がうせ、目の前が瞬き始めた。
これはまずい、と自身を奮い立たせ、次の行動に移れたのは、持ち前の強固な精神ゆえだろう。
周りに新たな敵が来る前に何とかしなければならない。
グラウンド・ビートは速やかに刀の柄を口にくわえ、ジャケットのうちポケットに右手を入れた。勢いよく出した右手に握られていたのは簡易注射器。
それをきられた左腕に素早く注射した。
医療部隊と武器開発部隊が共同開発した、出血を抑える薬だ。持ち運びがしやすく、注射しやすいよう形状を整えられ、誰でも簡易的に使える注射器を、任務前の支給品として受け取っていたのである。
手早く注射をすませ、その注射器を放り、また懐から布のきれっぱしを取り出した。
布のきれっぱしを切られていない片腕と自身の胸を使い、切られた腕に器用に巻きつけ、簡易的な応急処置を完了とした。
急激な出血とショックで目がくらむ中の処置。その間の敵の攻撃を他の戦闘部隊のメンバーが、援護していてくれたおかげだった。
でなければただ畳み掛けられ、今頃グラウンド・ビートは哀れな死体になっていただろう。
遠くからの狙撃音、前にきらめく刃物の光に感謝していた。
ふーーーーっと、深く息を吐き出して、グラウンド・ビートは前を見据える。
その眼に闘志は消えていなかった。
咥えていた刀を右手で持ち直し、流されないようにと尾で抑えていた切り離された左腕を、その口で咥えた。
腕を切り落とされてもなお、戦場にゆらりと立つその姿は。
それは、まるで鬼のような。
「さあぁて、続きをはじめるかぁねえ」
口角を鋭く上に上げ、鬼のように、獣のように目を光らせ、グラウンドビートは不敵に笑い、目の前の闘争に向かって泳ぎだした。
敵は征圧され、アクアステージのマフィアのみがこの海溝に立っていた。
まばらにそれぞれの敵と戦っていた仲間たちが、集まってくる。
敵がすべて倒れたことを確認した時、アドレナリンが切れたのか。
グラウンドビートの視界は再び、ゆがみ始めた。
「…お、おぉう?」
いくら流血を抑える薬を打ち、布で巻いてはいたとしても、時間がたちすぎたのだろう。
そのままふらり、ふらりとグラウンドビートの体は揺れ…
あぁ、これは倒れるなと自分でも思ったとき、急いで駆けつけてくれたのだろう。まだ若いゴシックメタルが、倒れそうになるその体を支えてくれたのだ。
ゴシックメタルが自分を見て何かを言ってくれているのはわかる、だか声が聞こえない。
援護射撃を遠くから行っていたダークコアの姿が向かってくるのも、見えていた。
ただ、それ以上は体も言うことを聞かず。
「あー…すまねぇ」
そう困ったように笑いながら、グラウンドビートの意識は底へと落ちて行った。
情報部隊のエピックは、その知らせを受け取ったとき、普段感情をあらわにしない彼女にしては珍しく、眼を見開いた。
しかしすぐに一息、すってはいて、冷静を取り戻し、その情報を報告書としてまとめ始めた。これもひとつの仕事である。自分がまとめなければ、誰がまとめるというのか。
そしてこの情報は、ある程度確定してから渡すべきものだ。いたずらに心配させ、不安にさせるべきではない。
新たな情報を得るために、エピックは医療部隊への連絡先を開いていた。
「まったくこれは。綺麗に切れすぎているくらいだ」
グラウンド・ブルーの院長であるマキナは重ねられたカルテを見て、嘆息をつきながら言った。
「ええまったく。だからこそ、接合手術もこれだけスムーズに行うことができました。これなら、回復も早いでしょう」
カルテに書き込みをしながら、スラッシュメタルも続けた。
「さてスラッシュ、手術の報告書もそうだが、術後の経過もまとめなければならぬ。お前に任せてかまわんな?」
「もちろんです、院長」
「何かしら怪我をしたとき、お前があやつの担当であったからな。気心知れたものが見ていたほうが、やつにとってもよいだろうよ。頼んだぞ」
「はい」
そこからの話は、まあ至極簡単な話で。
手術後三日間の眠りから覚めるも、また眠るを繰り返し、面会謝絶が解かれたのが二週間後。
一番に情報部隊と戦闘部隊の幹部ことアンダーボスであるロックと面会し、状況を説明、今回の任務での結果、処分を聞き、二度とこんな姿は晒さないと、グラウンド・ビートは改めて誓いを立てていた。
自分の状況を整理し、半年もあればリハビリをしつつ腕は治るだろうという診断結果に、心のなかで安堵する。
さすがグラウンド・ブルー、といったところか。優れた医者と看護士がいるこの病院で治療を受けられなければ、まず腕はだめになっていただろう。
動かない片腕を見る。
しばらくは片腕での生活、仕事となるが、二刀も使うが、基本的に一刀で戦闘をしていたため、その点については問題はなさそうだと感じていた。
しかしベッドに寝たきりで動けないことで、体が重くなってしまうのではないかと思い���めてきた。なまるのだけは避けたい。
入院中にも、誰かにダンベルを持ってきてもらおうか。
スラッシュが聞いたら怒り出しそうなことを考えていたグラウンド・ビートは、ふと自分が気絶する前の事を思った。
まるで死ぬときのように、走馬灯というのだろうか、いろんな人の顔が頭を瞬時によぎっていたあの時のこと。
同じ戦闘部隊の仲間、可愛がっている若い子達、年の近い酒飲み仲間、手合わせ仲間。
そして、歳が一回りも二回りも違うが、仲良くしてくれている、情報部隊の若い女の子。
そうした人たちの笑顔が頭をよぎっていった。自分の中にある、色褪せない記憶だ。
自分は様々な人と出会い、様々なものをもらってきたと思う。
そんな眩いほどに尊い人達だからこそ、自分は彼らを失いたくないと思い、守りたいと思っている。だからこそこの体を、腕を振るい組織に貢献したいと思う。
あぁ彼らが大切だ。
そう噛み締める。
そしてなにより
優しいあの子の笑顔は曇らせたくないと。
静かに、一人、極限の状況を経て、自分の深いところにある物を感じ取っていた。
まとめ:グラビさんが大怪我したけど半年したら完治するお話!
怪我したことで深層意識にちょっと気づくよ!
あと性癖にしたがってちょっとおじちゃんをぼろぼろにしたかった。
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