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#築古マンション再生
hangorin · 8 months
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東京五輪から2年 湾岸はいま
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悪夢のようなTOKYO2020大会から2年が経った。 五輪のために姿を変えられたあの場所は、巨額の資金を費やして建てられた会場は、白いフェンスに閉ざされていた公園は、いま一体どうなっているのか。 湾岸エリアを中心に、フィールドワークを行った。
①築地市場
築地本願寺から場外市場に向かう。日曜日。外国人観光客、親子連れ、カップル。賑わいは築地市場があった頃と変わらないように見えた。どの店にも、昼食を目当てに沢山の人が並んでいる。
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立体駐車場の最上階から市場のあった方を見下ろす。縦横に走るターレ、魚の並ぶケース、積み上げられたトロ箱、林立する仲卸の看板――それらが全て消え去り、でこぼこの、剥き出しのコンクリートだけが灼熱の太陽に焼かれていた。その一部は駐車スペースに。数台の自家用車。物悲しくなるぐらいしょぼい。
駐車場のわきに、築地市場の仲卸とおぼしき店名のプレートを付けたターレが放置されていた。よく見ると、ナンバープレートを外した痕がくっきりと残っている。
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石原元都知事が主導した2016年五輪招致当時、築地市場を潰してメディアセンターを作るという話が出ていた。2020東京大会ではそれが「駐車場」にかわり、市場は2018年10月に東京都によって閉鎖された。選手村から競技場への輸送のために新たに作られた環状2号の全面開通は、五輪閉幕から1年以上も過ぎた2022年12月。五輪招致が、都民の台所を打ち出の小づちのように利権を生み出す空虚な「一等地」に変えてしまった。
築地を舞台にしたある連載漫画の中で、目利き一筋の主人公は何故か移転に何の葛藤もないまま「豊洲で頑張っていこう」と仲間に呼びかけていた。築地市場83年の歴史は、急速に「なかったもの」にされようとしている。
②月島
東京では五輪の前から、競技会場と直接関係のない場所でも各地で再開発が起こっていた。晴海にも程近い、湾岸エリアに位置する月島もまたその1つ。もんじゃストリートで有名なこの町は、一本裏道に入ると古い木造家屋が軒を連ねる下町らしさが残っている。私たちが2017年に訪問した際は、月島1丁目西仲通り地区再開発計画のためにもんじゃストリートの店舗が軒並み閉店していた。
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そして今回訪ねてみると、MID TOWER GRANDなる地上32階、高さ121mの超高層マンションが建ち(2020年10月竣工)、その1階にもんじゃ屋などの店舗が入っていた。 月島ではさらに地上48階、高さ178.00mのタワマンを建てる月島三丁目南地区第一種市街地再開発事業、地上58階、高さ199mのタワマンを建てる月島三丁目北地区第一種市街地再開発事業が控えている。フィールドワークの後で知ったことだが、この月島三丁目再開発計画には反対運動や行政訴訟も起こっているとのこと。長年暮らしてきた人々の息吹が聞こえるような町並みが、大手開発業者によって姿を変えられようとしていることには胸が痛む。
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③晴海選手村
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カンカン照りの選手村跡地。ここはHARUMI FLAGなる高層マンション群として開発され、完成すれば5,632戸12,000人が暮らす街になるという。未だ工事中で通行できるのはメインストリートの車道のみ。焼けつくような暑さの中、誰もいないコンクリートだらけの空間は殺伐とした雰囲気が漂っていた。
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選手村をめぐっては、東京都が適正価格の10分の1という不当な安さで都有地を三井不動産ら11社のデベロッパーに売却したとして住民訴訟が起きている。五輪という祝賀的なイベントが作り出す例外状態によって、公共財産が民間資本に吸い上げられた象徴的な場所だ。
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街の中心に近づくと、左手には、大会中、大量の食材廃棄が問題となった食堂の跡地が、中央区立の小中学校(2024年度開校予定)として整備されていた。
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右手には三井不動産の商業施設「ららテラス」。その1階には「東京五輪を振り返りスポーツの力を発信する施設」として「TEAM JAPAN 2020 VILLAGE」が設置されるらしい。五輪と三井不動産のどこまでも続く蜜月がうかがえる。
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その先では道路を挟んで左右両方の街区で50階建ての2棟の超高層タワーマンションが目下建設中だった。
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選手村を訪れるとき、2018年、建設工事中に2人の労働者が亡くなったことを思わずにはいられない。その街区は、労働者の死という痛ましい現実を塗り固めるようにSUN VILLAGE(太陽の村)という輝かしい名前で分譲されている。 この街区だけではない。この街全体が、五輪によって引き起こされた問題などまるで何もなかったかのように成り立っている。この街ではとても生きていけない、生きた心地がしない。生気を抜かれたようにその場を後にした。
④潮風公園、お台場海浜公園
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ビーチバレーボールの会場設営のため何年もフェンス封鎖されていた潮風公園。わたしたちは初めて公園内に入った。こんなに広かったのか!無観客のくせに、この公園全体を占拠していたなんて、ほんとうに厚かましい。
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東京湾の対岸の埠頭にはコンテナが並んでいる。海をみてみると、うっ!海水は泥沼のような色。しかし、なぜか匂いはせず、潮の匂いさえもしない。ファブリーズでもしているのか?
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わたしたちは、野宿の人たちが寝ていた場所を探して公園内を歩いた(東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織員会による追い出し→https://x.gd/ZJP4d)。木がたくさんあってなかなか住み心地よさそうだと思っていたら、屋根のある排除ベンチにたどり着いた。なんて醜いデザインなのだろう。
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次に「トイレのようなニオイ」と話題になったお台場海浜公園のビーチへ、匂いを確認しに行った。「遊泳禁止」の看板があり、スクリーニングのためと記してあったが、やはり汚染が懸念されているのだろろう。このビーチの海水も濁っていて、潮の匂いさえもしない。怪しい水質だ。
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しかし、暑すぎる。灼熱の日差しの下で、ビーチバレーボールや、トライアスロンをやって、汚い海に飛び込んでいたのか。 知れば知るほど、オリンピック・パラリンピックは地獄だ。
⑤有明
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有明の旧会場エリアへ。グーグルマップで見ると、どうやらこの一帯は「有明オリンピック・パラリンピックパーク」と名付けられたらしい。いまや地に落ちた電通がオリンピックでちゃっかりゲットした、唯一黒字と言われる有明アリーナへ。SNSではステージが見えない席があると不評を買っていたが、「ディズニーオンアイス」をやってるらしく、猛暑の折、駅から会場まで大勢の人だかり。
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有明体操競技場はこの5月に「有明ジメックス」と名を変え、株式会社東京ビックサイトが運営する展示場としてオープンしたらしい。第一印象は「・・・神社?」世界的ウッドショックの最中に木材を山のように使って、10年程度で取り壊される予定とのこと。こんなに立派にする必要あったのか?
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そこからゆりかもめの駅を越えると、フェンスで囲われた草ぼうぼうのワイルドな一角が。有明BMX会場跡地だ。グーグルマップには「有明アーバンスポーツパーク(2024年4月開業)」とあるが、いまのところ影も形もない。スポーツ施設より原っぱ公園の方が需要あるのでは?
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有明テニスの森公園は工事パネルが外されて、開放感に溢れていた。こんな素敵な場所を何年もオリンピックのために囲って、市民を排除してきたかと思うとあらためて腹が立つ。
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真夏の炎天下に火を燃やし続けた聖火台があった夢の大橋にも立ち寄った。観覧車が無くなっていた。東京都はこの夢の大橋を含むシンボルプロムナード公園の一角に、新たに聖火台置き場をつくって飾っている。東京都はいつまでオリパラの亡霊にすがる気か。。
⑥辰巳・東京アクアティクスセンター
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アクアティクスセンター
「威圧」を形にしたような巨大建造物。
建物の周りには木陰がなく、取ってつけたような弱々しい植栽が施されている。
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正面外の、広すぎる階段は、車いす利用者でなくても、大げさすぎてびっくりする。コンクリートが日射で熱い。ゴミ一つ落ちていないのは、人が寄り付かないからだろう。
その下にたたずんで私は、ピラミッド建設のために労働を強いられている人のような気持ちがした。
ここは、公園の一部であった。近くに団地もある。誰でも入って、海からの風を感じながらくつろぎ、出会う場所だったはずだ。
5年前に訪れた時は、工事中で巨大な支柱がそびえたっていた。三内丸山遺跡にインスパイアされたのかと思ったが、出来上がったのは帝国主義の終点のようなしろものだった。
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「お前たちが来るところではない。」という声がどこからか聴こえる気がした。
知ってる。だから入ってみた。静かだ。人っ子一人いない、空調が効いて冷え切っている。だだっ広いロビーの小さな一角に、TOKYO2020オリパラのポスターたちがいまだに展示されていた。
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競争をあおり、序列化し、勝者に過剰な価値を与え、「感動」を動員するスペクタクルがここで続けられるのだ。
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生きていくのに必要な潤いをもたらす公園に、このような醜悪なものが君臨しているのを私は許せない。
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炎天下の湾岸エリアを丸1日かけて回った。TOKYO2020跡地は、廃墟になっていると思いきや、むしろ多くの場所でまだまだ開発が続いていた。開発への飽くなき欲望と「レガシー」への執着、五輪災害は閉幕後も延々と残り続けている。 この日撮影した映像を使って「オリンピックって何?東京からパリ五輪1年前によせて」という動画を作成し、1年後に五輪開幕が迫るパリでの反五輪の闘いに連帯を示すメッセージとした。 From Tokyo To PARIS, NOlympicsAnywhere
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kennak · 8 months
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「大成建設ショックがまた起きた」。中堅ゼネコンの幹部はこう語る。 スーパーゼネコンの大成建設 (1801)は8月7日、今2024年3月期の第1四半期(2023年4~6月)決算を発表した。売上高は3289億1400万円(前年同期比0.2%減)、営業損失は80億4000万円(前年同期は60億8000万円の黒字)と、赤字に転落した。 これを受けて、同社の株価は急落。8月7日の終値は4914円と、前営業日の8月4日の終値に対して469円(8.8%)も下落した。 「大成ショック」は今年に入って2度目だ。1度目は3月17日。株価の終値は前日比で360円(8.2%)下落、株価チャート上でマドを開けるほどの落ち込みとなった。大成建設はこの前日に、北海道札幌市で建築中の高層複合ビルにおいて鉄骨の精度不良と発注者への虚偽申告を公表しており、これが株価下落の引き金になった。 ライバル業者が指摘する「あの案件」 「あの案件が原因だろうな」(スーパーゼネコンの幹部)。2度目となる今回の大成ショックの要因について、業界関係者の多くはすぐに感づいた。「あの案件」とは、世田谷区役所(東京都世田谷区)の建て替え工事のことだ。 老朽化が進行する世田谷区役所の第1庁舎、第2庁舎、第3庁舎、区民会館といった建物を3工期にわたって建て替え・改修する大規模工事で、2027年10月の完成を予定していた。ところが、施工を担っていた大成建設はすでに遅れが出ることを公表していた1期工事に加え、2期と3期工事も遅延することで、全体で2年近く遅れる可能性があることを7月に発表した。 工事遅延の理由は「検査工程の認識不足」「応札時の施工計画の見誤り」などとした。「想定の仕事量を実際にできる量よりも多く見積もっていた」と、大成建設の関係者はうなだれる。 大成建設の第1四半期末の工事損失は538億円と、前年同期末の478億円よりも膨らんでいる。大成建設の関係者は「世田谷区役所の工事遅延の影響はあるが、(赤字決算の要因は)それだけではない」と語っている。複数の建築工事で損失が発生したようだ。 大成建設は今通期業績について、売上高1兆7600億円(前期比7.1%増)、営業利益640億円(同16.9%増)の従来見通しを変更していない。だが、社内では第1四半期は少なくとも前期と同水準の営業利益が出る想定だったと見られることから、通期計画が下振れる可能性は高い。 基本的な検査、作業工程での見誤りが原因 世田谷区役所の工事遅延の理由は、資材費高騰などの外部要因が直���的に影響したのではなく、基本的な工程での従業員の見誤りによるものだ。 大成建設は世田谷区役所の第1~3庁舎、区民会館などの建て替え・改修工事を行っている(写真:記者撮影) 大成建設が7月14日に世田谷区に提出した工程遅延に関する報告書には、2・3期工事の遅延の理由が詳しく記述されている。 一部の解体工事を引っ越し作業と並行して行う計画だったが、安全性などを確かめるために、解体工事を引っ越し期間���重複させないようにしたこと(作業制限の認識不足)や、行政検査(消防検査・東京都の仮使用検査)の合格に想定よりも時間を要するようになったこと(検査工程の認識不足)などを要因として挙げている。 この報告書を受けて、世田谷区の保坂展人区長は「世田谷区本庁舎の機能が、約2年にわたって契約時より大幅に遅延することでの影響は計り知れません」とコメント。90万人以上もの住民が住む地域の区役所だけに、工事遅延の衝撃度は大きかった。 とはいえ、工事遅延の問題を起こしている大手ゼネコンは、大成建設に限った話ではない。例えば、スーパーゼネコンの清水建設 (1803)は8月22日に、2023年6月末の竣工を予定していた超高層ビルの「田町タワー」(東京都港区)について、オフィスフロアの床の不具合で工事が遅延し、竣工が2023年9月末にずれ込むことを公表している。 世田谷区役所の工事遅延の背景として、気になるのは大成建設の社内体制が乱れているのではないかということだ。準大手ゼネコンの首脳は、「(特有の事情で)負の連鎖を招いているのではないか」と指摘する。 現在、大成建設は北海道札幌市の高層複合ビルの工事で不具合を起こしたことで、15階まで組み上げた鉄筋を解体して建て直す、前代未聞の「やり直し工事」に粛々と取り組んでいる。もちろん想定外の対応のため、当初計画以上に職人などの人手をとられることになる。 建設業界はもともと人手不足な深刻な状態だ。大成建設はそこに、札幌市での想定外の追加工事が発生した。「世田谷区役所の工事では工程を見誤った分を“人海戦術”で巻き返すつもりだったのが、職人などを十分に投入できないために大幅遅延に至ったのだろう」(準大手ゼネコンのベテラン社員)とみる関係者は少なくない。 ほかの工事に連鎖する危険性も高い 「建築工事は怖い。1つ2つ大きな問題を起こすと、それがほかの工事に波及する」。前出の準大手ゼネコンの首脳はこうささやく。 土木工事はダムやトンネルなど大がかりなものが多いが、工事にかかわる専門業者の領域は比較的少ない。対して、オフィスビルやマンションといった建築工事は、左官工事、電気工事、管工事、塗装工事など、多岐にわたる専門業者が連携している。「関わる専門業者の種類が、建築と土木では数十倍違う」(業界関係者)ともいわれる。 そのため、建築工事は1つの案件で歯車が狂うと、設計図書や実施工程表、施工計画書などを書き換えるだけでなく、多岐にわたる職人も手配し直さなければならないため、ほかの工事に連鎖する危険性も高いというわけだ。 大成建設については、縦割り組織の弊害を指摘する声もある。 ゼネコン業界はもともと、昔ながらの古い体質で上下関係が厳しい会社が多い。その中でも、大成建設はとくに上下関係に厳しく、その社風は「軍隊」と例えられることもある。「上がこける(上司が異動になる)と、下もこける(部下も異動させられる)」(準大手ゼネコンの幹部)。 組織の硬直性をさらに促したのが、現在、大成建設の名誉顧問を務める山内隆司氏との見方もある。 2007年から大成建設の社長、2015年から会長を務めた山内氏は、同社の経営が低迷していた時期に選別受注を徹底し、業績を立て直した立役者だ。業界団体の日本建設業連合会の会長や、日本経済団体連合会(経団連)の副会長も歴任した実力者である。 「デスノート」で社内が硬直状態に 山内氏は現場主義を徹底的に貫いた。その熾烈さに、音を上げる幹部も少なくなかったようだ。 「コスト管理にすごくシビア。社長や会長時代に全国の各支店を回り(あるいはオンラインで面談)、幹部にヒアリングして、それを具体的な施策やエンゲージメント(約束)として、ノートにびっしりと書いていた。そのノートに書き込まれたことは、絶対に遂行しないとやばい。『デスノート』と恐れられていた」(大成建設の中堅社員) 大成建設で社長・会長を担った山内隆司氏。同社を再成長に導いた立役者だが、弊害も残したといわれる(撮影:今井康一) この中堅社員は、「山内氏のこういった厳しい姿勢が、(社内硬直の)弊害を起こした側面もある」と認める。別の業界関係者も、「山内氏の社長・会長時代に、組織の硬直性が増して、社内の風通しが悪くなったのではないか」と話す。 組織が硬直し、社内の風通しが悪くなると、工事進捗などの情報の共有化が遅れ、ひいては問題が起きたときの対応が遅くなる。実際、世田谷区役所の工事については1期工事の遅れを今年5月に公表していながら、2期・3期工事の遅れはその2カ月後の発表だった。進捗遅れの背景に、縦割り組織の弊害が起きていないか検証が必要であろう。 大成建設は今後、適正な事業量の確保と生産体制の立て直しを急ぐ。 大成建設に限らず、ゼネコン業界は先行きを楽観視できる状況にない。建設経済研究所によると、2023年度の国内建設投資は71.7兆円(前年度比2.5%増)と、高い水準で推移している。 一方、2021年や2022年頃の受注競争が激化した時期に獲得した採算の低い案件が、今期から来期にかけて本格的に工事が進む。資材価格は受注時よりも跳ね上がっていることから、結果的に不採算の工事を抱えているゼネコンは決して少なくない。 準大手ゼネコンのベテラン社員は、「大成建設の赤字決算は、(業界全体が再下降する)始まりにすぎない」と見通す。大型工事の損失リスクが表面化してくるのは、これからかもしれない。
「大成建設ショック」再び、建設業界が警戒する"負の連鎖"|会社四季報オンライン
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valiantcreationyouth · 2 months
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店舗デザイン 北九州市
クオリティと信頼の設計・リノベーションサービス「VRILLO」は、福岡市・北九州市を中心に店舗デザイン、設計、リノベーションを手がける信頼できるプロ集団です。高いデザイン力と施工技術を持ち合わせ、クライアントの理想を具現化することにこだわっています。豊富な実績と経験に基づいたコンサルティングで、あなたのビジネスを成功に導きます。北九州市におけるマンションリノベーション:新しいライフスタイルと快適な住環境の創造北九州市には、多くのマンションが建ち並び、その多くが築年数を経て古くなっています。しかし、古いマンションでもその魅力を活かし、新しいライフスタイルや快適な住環境を提供するために、マンションリノベーションが注目されています。今回は、北九州市におけるマンションリノベーションに焦点を当て、新しいライフスタイルと快適な住環境の創造について探ってみたいと思います。古いマンションの魅力と課題北九州市には、多くの古いマンションがありますが、それぞれが独自の魅力を持っています。しかし、築年数の経過による老朽化や設備の陳腐化など、さまざまな課題も抱えています。マンションリノベーションでは、これらの課題を解決し、魅力ある住環境を提供することが求められます。リノベーションのメリットとアイデアマンションリノベーションの最大のメリットは、古いマンションを新しいライフスタイルに合わせてアップデートすることができる点です。例えば、間取りの変更や設備の更新、内装のリフォームなど、さまざまなアイデアを取り入れることで、住み心地の良い空間を創造することができます。デザインと機能性の両立マンションリノベーションにおいては、デザイン性と機能性の両立が重要です。北九州市のマンションでは、限られたスペースを最大限に活用し、快適な生活を実現するデザインが求められます。また、古いマンションならではの特徴や雰囲気を生かしつつ、新しい機能や設備を取り入れることも重要です。グリーンリノベーションと持続可能性北九州市は環境保護に積極的な都市として知られています。マンションリノベーションにおいても、グリーンリノベーションや持続可能な取り組みが求められます。断熱性や省エネ性の向上、再生可能エネルギーの活用など、環境に配慮したリノベーションが注目されています。成功事例と将来展望北九州市では、多くのマンションリノベーションプロジェクトが展開されています。古いマンションを新たなライフスタイルに合わせてアップデートし、住み心地の良い空間を提供することで、街全体の活性化や住民の満足度の向上に貢献しています。将来的にも、さらなるマンションリノベーションプロジェクトが展開され、北九州市の住環境がさらに向上することが期待されています。北九州市におけるマンションリノベーションは、古いマンションの魅力を活かし、新しいライフスタイルや快適な住環境を提供することを目指しています。デザインの工夫や機能性の向上、持続可能な取り組みなど、さまざまなアプローチが試みられています。これらの取り組みが、北九州市の住環境の向上につながることでしょう。
「リノベーション 福岡市」についてはこちら⇒
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junikki · 4 months
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長い目で見ると、全ては借り物。
元旦に起きた石川県の地震見ていると、いざという時の準備せなあかんなとつくづく思う。靴と靴下とリュック(まだ荷物ほとんど入ってない)を枕元に置いて寝ている。地震のことを考えると、日本で無理して一軒家を建てて意味あるのか?と思ってしまう。そもそも、新築一戸建ての持ち家が至高という考え方は日本独特でもある。北米の戸建て住宅って想像以上に古かったりする。築100年は余裕でいってたり。1800年代後期に建てられた家に住むのがステータス。そんなに古いもんだから、色んな人が住んでたりする。敢えて以前住んでいた住人すべての名札の掛かった家を見たことがある。この家は古いんですよ、という自慢。歴史の浅い国カナダでは歴史あることを自慢するのはよくあること。確かに一軒家だけども、マンション並みに入居者が入れ替わりしてるんだよな。ずらっと10世帯ぐらいの名前が住んでいた年代と併せて書かれていた。持ち家でも自分の生きている間住めるというだけでしかない。
ロバートは30代から色んなところに住んできたらしい。ダウンタウンのマンションに住んだり、一時期一軒家も持ってたらしいけど結局売っちゃったみたいだし。何軒もマンション投資もしてたけど、売っちゃって今は一軒しか所有してない。だからまあ余裕はある方だけども、別にすごい金持ちでもないみたいな。トロントにロバート所有のマンションあるけど、人に貸してるし、全然「わたしたちの物」という実感がない。カナダはまだまだ土地に余裕があって新築建つし、海外から移民も増えてくるから、不動産投資に未来があるんだよね。まあトロントのダウンタウンは貧乏移民が増えてスラム化してきているが…今はもう基本的にリモートで仕事できるから、ダウンタウンとか便利な場所に住むメリットも無くなってきてるね。日本だとまだまだ都会に住むメリット多いけども。
石川の地震の復興どうなるのかな、とかよく思う。陸の孤島みたいな感じで支援物資も届けられないほど詰んでるの見ると、不安しかない。阪神淡路大震災の時は都会だったからかなり復興早かった記憶。あれだけの被害が出てたのに、割とすぐ梅田や神戸に遊びに行った記憶ある。2018年の台風の時、結構実家のあたりも被害あったけど、やっぱ関空の復興は早かった。関空も陸の孤島で本当に辺鄙な場所だけども、想像以上に早くてびっくりした。災害があっても復興早いのは都会で住むメリットかな。日本は地方でも宅配便すぐ届いて便利だから、将来は田舎の温泉のある場所で住んだりしたいとか思うけど、地震を考えると温泉街なんてだいたい僻地にあるし、結局よそ者がそういった田舎に住んでも除け者にされるかもしれないとか、色々考えさせられるわ。
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日曜に母と最寄りの駅に行ったら、小中学校時代の友達に会った。彼女はたしか小学5年か6年ぐらいの時に転校してきて、朝鮮学校出身者だった。なので彼女は高学年で普通の小学校に来たというわけ。当時はまだ拉致問題とかギリ世間に公表されてなかったんだよね。でも、そういうのが中学時代に明るみになってきた頃、という感じかな。パクユソンという朝鮮学校出身YouTuberなんてわたしより10歳ぐらい歳離れてるけども、話を聞くほど聡明な人なのに、小中高と朝鮮学校に進んでしまったのがただただ驚きだった。彼の親はそういう北朝鮮の拉致問題とか、気にしてなかったのかな?わたしの友人の時代は、まだ情報が少なすぎて仕方ない面もあるだろうけど、明らかに小学校入学前から拉致問題が明るみになっていたのに朝鮮学校行かせたんだ…って。親も朝鮮学校だったから、なんとなく行かせた、みたいな感じかもしれんけども。確かに日本で住みながらも早期に朝鮮語が学べるのは利点ではあるもんな。
話を戻すけども、当時12歳の友達は、16歳になったら朝鮮学校の彼氏と結婚する!とか言ってたんだよな。結婚するなんてすごい大人だなあーと当時は思ってたけども、良く考えたら全然現実的な話ではない。それだけ結婚願望の強かった友達は何故かまだ結婚していないらしい。一応相手はいて、同棲しているようだけども。詳しく聞けなかったけども、相手ってもしかして日本人だから、それが結婚しない理由なのかも。自分の親族が反対しているのか、相手の親族が嫌がってるからなのか、どっちもあり得るんだよね。昔からものすごい不幸体質で、会うたびにめちゃくちゃ苦労してるなーってつくづく考えさせられる…本人が明るく話すから、より一層苦しくなるんだよね。ああ、こういうところがなんか苦手だったんだよなって思い出す。悪い人ではないんだけども、なんかどっと疲れるというか…ね。
ようつべに動画あげたけども、全然伸びない。やっぱはじめはそんなもんみたいだよね。ショート上げた方が再生されやすいっぽいからショートも試してみよう。iPadのストレージを減らすために、前に撮った動物系の動画をようつべにうpして削除したんだけども、ロバートと野良猫の動画が謎に伸びてる…なんか2時間ぐらいで100再生いってて、人に見せたりしやすいからっていう理由で試しに公開設定にしただけで、他の動画は全く再生されてないのに、謎すぎる。
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ichinichi-okure · 6 months
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2023.11.8wed_tokyo
6時40分起床、ベッドの中でさっきまでみていた夢の記録を寝ぼけながらiPhoneのメモに入力する。
7時30分、朝ごはんを準備しながら回した洗濯機の排水溝から水が溢れ出た。昨晩、排水の詰まりを発見したのでパイプユニッシュを流し入れ、次の洗濯の水で流そうと横着した悲しい結末だった。幸いにも私はリモートワークの日だったので、夫婦二人三脚で流れ出た水を拭き取りパイプユニッシュを再度入れ込む。二人三脚と書いたけど95%私がやった気がする。
9時、業務をあれやこれやこなす。
13時すぎ、ひと段落したので業務を切り上げ、華の午後有給。昨日今日のお昼に食べるために用意しておいた広島焼きを温めて食べた。業務用マヨネーズの味は好きな味。 TVerで「きのう何食べた?」をみる。冒頭から主人公の家の洗濯排水溝が詰まり水が溢れ出そうになるシーンからはじまり、今朝起きた我が家とのシンクロ率100%じゃんと、思わず画面に映る主人公の排水処理写真を撮って仕事中の夫に送った。
15時すぎ、整体へいく。お世話になってる石井先生がいつぞやキレてみそ汁を投げた話や、今探しているデジカメについてお互い素人ながら知り得た情報を細々交換する。
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17時、歯科矯正調整へ。「現在の仕上がり具合はおおよそ70%です」と先生が言う。完成まであと30%とはいえ、次のサッカーワールドカップくらいまでかかるんだろうなと思った。
20時、帰宅。夕食。
22時、試しに洗濯機を回したところ、排水溝から水が溢れ出した。夫婦二人三脚(80%私)で溢れ出た水をタオルで根気よく拭き取る。築40年の古いマンションのせいかもしれないと、人のせいにするべく、大家の小川さんへ明日連絡することに決めた。
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-プロフィール- 楠元朋 41 東京 会社員 https://www.instagram.com/tmhz/
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digoutourcorpses · 9 months
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人にやらせておいて自分は遊び、人の作ったものに文句を付ける
自分一人でできないことを他人に助けてもらいながら、それに文句をつける
自分で作ってみればいい、できなければ文句を言わず受け入れるべきだ
どこかの海が近い南の街
駅前には白い壁の古びた駅ビルがあり、ロータリーがあり、映画館の入ったデパート的な建物が向かいにある
夜にそこをコスメティック田中に似た人物が飛び回ったり、歩き回るMVを撮影する。
若者の女性集団から面白がられていた
ある日、その街の海の近くの集合住宅や家がある一画
四角くマンションや家が真ん中の駐車場を囲んでいる立地で、そこを抜けるとコンクリートと海橋が見える磯が近いところ
呂布カルマに似た人物がそこに歩いており、家と家の隙間に置いてあるゴミ箱に嘔吐していた
夕方、集合住宅の高層階に居て、ベランダに出ると海が見渡せた。海には対岸に工業地帯が霞んで見え、橋が向こう岸までかかっていて、コンテナ船が行き来する。
沢山の国旗を掲げた、黒ずんだ幽霊船が視界を端から端まで横切っていくのを見た
私はカメラでそれを撮影し、ビデオでそれを置い続けた
視界の右方向へずっとぐるりと追っていくと、まだ海が見えていて、手間の木々に遮られながら、船は垂直に伸びるマンションの壁の向こうへ隠れていった
それは予兆だった
ある日
その街の、海に一番飛び出た大きな埋め立て地で、大規模な祝祭が行われた
駅前のロータリーから海の方向へ伸びる坂の歩道橋を歩いていくと、その入り口がある
その道中で私は(Bjorkや大家さんに似た)老婦人に声をかけられた。気に入られたのか、私は彼女に案内されて、会場の中へ入っていった
この道を真っ直ぐ行くと、次第に右側の壁は高く聳え立った灰色の石壁になっていて、左側にはスペイン意匠の重厚で巨大な建築物があった。建築長い回廊が歩道に並行��てずっと伸びており、この二つの間には庭もずっと伸びている。これだけ豪勢な建築物にも関わらず、庭はやや打ち捨てられた雰囲気で、水たまりや草の生えた彫刻、コンクリート片などが転がって日光を浴びて輝いている。逆にそれが、人の手を離れた、最も高貴な雰囲気を感じさせた。建物の隙間からは、海や高速道路が覗いた。
そこを抜けると、下り坂になり、急に視界が開け、様々な店や建物が建っていた。
遊園地、屋台、飲食店、服屋…ありとあらゆる店がそこに密集していた。左側は建物に阻まれて見えないが、右側はもう広大な海が見えて、海中からは巨大な岡本太郎の太陽が伸び、私たちを見下ろしている。
あらゆる建物がJagromanceで、呪力を帯びていた。
婦人は私を連れてどんどん先へ向かう。
下り坂は一度グンっと平地に戻ると、その先には、海に向かって下っていく大きな灰色の砂丘があった。
砂丘の向こうには一面に海が広がっており、川崎人口島がそこに浮いて私を見ていた。
婦人が先に向かうも、私は恐ろしさで固まってしまい、婦人を置いて引き返す。
商店や人でごった返す道を歩いていると、やはり心配になってきて、また砂丘の方へ歩いていくと、幸運にも再開できた。日は落ちて、夕方の青黒さが全体を包み始めた。
帰り道に、婦人と一緒にいくつかの店に寄った。東アジアの呪術仮面を売る店があり、そこからは夕方の黒い水平線が臨めた。
岡本太郎の太陽はライトアップを受けて鈍く金色に光り、海に佇んでいた。
駅前のロータリーまで戻ると、俗世に戻ってきた感があった。人でごった返す駅前で、婦人に感謝され、別れた。なんとなく、もうあの祝祭には戻ってはいけない感じがした。
その足で帰ろうとすると、ある若者に声をかけられた。
あの婦人は街で最も高貴な存在で、話すことなどできないという。
私はそれでいい気分になってしまい、またその若者と祝祭に戻ってしまった。
それまで婦人に案内された道を歩き、店を紹介して回った。もう夜はすっかり濃くなっていた。
有頂天になっていたので、砂丘まで行こうとすると、途中で分かれ道があったのでそっちに行ってみた。
そこには祝祭の外れで、坂を下った先に、真っ暗な公園や古ぼけた家々が遠くに見えた。普段貧困層が追いやられて過ごしている、引き返すべきだとすぐにわかった。
そこに神がいた。
寂れたトタンの家と家の間から老婆がゆらりと現れ、動物のように目は赤く光っている。
こちらに歩いてきて、若者が老婆に何かを言う。
そうすると老婆は凄まじいスピードでこちらへ走ってきて、若者を虐殺した。
もう一度、ここに来てはならない理由が分かってしまった。
私は老婆から逃げ、祝祭の中へ入っていった。
老婆も祝祭の中へと入り込み、人々を手当たり次第に殺し、店を破壊し始めた。
祝祭は一瞬で阿鼻叫喚の地獄へと代わった。人々はパニックに陥り、駅前のロータリーへ逃げていく。
気付けば老婆以外にも、様々な異形が店の間の闇から出てきて、人々を殺して回っている。
辺りが血でまみれている。
私が呆然としながら、岡本太郎の太陽が、こちらを睨み付け、何も言わず、沈黙しながら、海の中へとゆっくり沈んでいくのを見た。
私は逃げ回り、祝祭の中でも外れにある、美容院があるビルに着いた。
一回の美容院はガラス張りになっているが、そのガラスを通り抜けることができた。
壁一面に鏡が並んでいた。鏡の向こうには人がいた。他にも何人かそこにいた。
私は皆と同じように、鏡の前に座った。簡単な手続をして、自分の名前を書き、人々の記憶から私の存在を消し、この呪いを逃れることができた。
それでよかったのか?
神は私に対して怒っている。
この緊張感を常に持たなければならないのではないか
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toshimoto160 · 1 year
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【解説】ポップ
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はじめに
スプラトゥーン3買ったらドハマりしたのでアレンジしよう! というわりと安直な発想で作ることを決めた本作でした。おもしろすぎる……。
ゲーム体験がとってもエキサイティングなので、そういう要素を入れようかと当初思っていたのですが、作りはじめてみるとこれがすごく大変で。 まず一曲一曲の個性が強いこと。そして完成度の高いこと。さらに転調の仕方がしれっとズラしたり、遊び心のある方法ばかり。おまけに歌モノ(歌とインストの中間ぐらい?)であることから、歌の豊かさに打ち勝つだけの方法論が必要だったりと、とにかく超えるべきハードルがたくさんありました。 これを崩すのは本当に難しいぞ……と恐れおののきました(これは本当に)。
なので最初はこれは「演奏してみた」なのでは? みたいなトレース気味の叩き台が出来上がっては行き詰まってを繰り返していました。 そうこうしている内に締め切りが近づいてきて、もうこれは自分の中にあるものを率直にぶつけるしかないということになって、捏造パートを繰り返し作ってヒーヒー言いながら作りました。
これまでアレンジCDを何枚も出してきましたが、今回のCDが一番難易度が高かったと感じました。スプラトゥーン、おそるべし。
1.あいつをやっつけろ! 原曲:Splattack!
戦闘中に流れると嬉しくなっちゃう曲ですね。これは絶対入れたいと思っていました。調べてみると1からあるおなじみの曲なんですね(僕は3からはじめました)。 リフ(繰り返されるフレーズ。この場合はギター)主体の曲はとってもいじりづらい。リフ自体を変えてしまうのが多分手っ取り早いのですが、元の最高リフをなくすなんてとんでもない! ということで、この曲はだいぶ「演奏してみた」寄りになりました。
イメージは直球でスプラトゥーンのゲーム体験です。アドレナリンがドバドバな感じ。
2.路地裏で起こっていること。 原曲:バンカラジオ
僕はすりみ連合が大好きで、こいつらにお菓子とか差し入れを持って行きたいとずっと思っています。彼らが統治(?)するバンカラ街はぐるぐる回ってみるだけでそのディテールの完成度に驚きます。
東京の主要駅っぽさと、九龍城っぽさが混ざったような感じがあります。 雑然としているようで複雑な道理で存在している街。新しい建物の間に古い建物がいきなり現れる東京っぽさ(古いデザインの野暮ったいひさしがあるお店!)。街の中央の外側にあるアパートやマンションの、隣接する建物との間隔の狭さは九龍城! 違法建築ファンとしてはとても嬉しい。
この曲はバンカラ街のイメージを中心に作りました。それとスパイキーとダウニー。彼らってなにをしているんでしょうか。カッコいいけどちょっと怖い。スーパーサザエってなにに使うものなの……? スプラトゥーンの登場人物には、しばしば表の顔と裏の顔があります。そこも意識しました。 表と裏、とりとめのない混沌さ、トリップ的なサウンドを盛り込んでみました。
3.むかしむかしのスミソアエ伝説 原曲:スミソアエの夜
まったりした曲を入れたいなと思っていたんですが、スプラトゥーンってまったりした曲が全然ない! ということで初代からやっていた人にそういうのある?と聞いてみたら、この曲を教えてくれました。
スミソアエってやばくないですか。語呂はやたらいいのに酢味噌和えて……。 でもそんな単語が急に出てくるのもスプラトゥーンっぽいですよね。
ブキが既存の文明のパーツを変なかたちで組み合わせているなら、伝承もきっとたくさん掘り起こされているはず。スミソアエなんて言葉もきっともっと神秘的な言葉に聞こえているのかも���れません。まさか調理法だなんて少しも思っていないはず……。
もしかして、ホタルが影響を受けたり参考にしたのはこんな曲? みたいな想像でこの曲を作りました。「~地方のメロディより」ってヤツですね。 メインで使っているのはカンテレです。 この楽器は別口で知っている人も多いかもしれませんね。すごくいい音!
4.春一番
オリジナルのイントロです。最後の曲なのでちょっと豪華にしてみました。
メインで鳴っているリードシンセはモーグ(シンセメーカー)のモデリングです。モーグ、最高の音!
5.春雷轟々 原曲:春風とペトリコール
個人的な春のイメージって、さわやかとかいい気持ちみたいなものではなくて、なんかもっと、全世界がわらわらと動きはじめるような、ちょっと気後れしてしまうぐらいのパワーがある感じなんですよね。0が急に1になる衝撃というか、冬の死そのものの世界がまた動きはじめるような感じ。 なので原曲のさわやかでふわっとした部分を、もう少し活き活きとした感じに変えていく方向にしました。
テーマは春の雷。春の訪れには雷が鳴ることがありますよね。天気が急に不規則になったり。
雷が放電するときには空気中の窒素が酸素と結びついて、雨に溶けます。それが地中に降り注いで、稲は根から窒素を取り込み、より強く生い茂ることができます。 雷が稲妻と言うのはそういうことなんですよね。
というわけで、春のエネルギーの満ちた感じを演奏で表現してみました。 再現部前の混沌とした部分がお気に入りです。
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ap20co · 1 year
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4/6。朝の7時頃に八重洲に到着した。流石に早すぎるので東京駅を眺めたり皇居に行ったり、近くのベンチで本を読んだり周辺の建築巡りをしたりして時間をつぶした。けれどよくない寒さが続いていたことと、先に疲れてしまっては意味がないとカフェに入ることにした。どこのカフェを覗いてもスーツを着たお客さんばかりで入ることを歓迎されていないようだったから、割と歩いて地下にあるスタバで外国人の観光客と混ざってほうじ茶の紅茶を飲みつつ、ジワジワと心を圧迫していた課題を終わらせた。東京を歩く人々の雰囲気が怖い。何故か私の居場所がこの地にはないことを強烈に感じた。
恵比寿駅で落ち合い、夏以来の友人と再会。東京都写真美術館に行き、深瀬昌久の展示を観た。写真を鑑賞することに慣れておらず、どこか浮ついた気持ちで眺めていたけれど、洋子の写真がどれも魅力的で気づけばじっくり鑑賞していた。家族写真を裸で撮ったりしていて変な家族だったけれど、様になっていた。
恵比寿駅に戻り、中目黒と代官山の蔦屋書店をはしごした。中目黒で「愛するということ」という本をお勧めされて購入。私が今、読まなければいけないと思った。代官山では写真集のコーナーに入り浸った。川内さんの「うたたね」が欲しくなったけれど、金銭的な理由と決定となる購買意欲がなく今回は見送った。マンガも映画も雑誌も絵本も充実していて、流石日本で一番大きな蔦屋書店だなと思った。かっこいい。友人2人目と合流。1人は大学との面談があるため一時帰宅。
電車に乗り渋谷へ。あまり好きではない街だった。とにかく人が多い。ルミナリエや梅田駅とは違う、ただ単に雑多とした人混みが好きではないことに気づいた。お好み焼きとビールを食らう。
下北沢に着き、パチンコを少し打ってから再度友人と合流。古着屋や本屋に寄ったり、たい焼きを食べたりしてから下駄を履いた友人の友人と出会い、みんなでミレーの枕子さんのライブへ行った。
枕子さんに出会った。やはりお顔が綺麗で、すとんとした細身の大人っぽいワンピースにアジア風のパンプスを履いていた。私には似合わない。何故か新芽で涙が出た。元恋人への些細な未練が感じられたからかもしれない。羨ましさと普通にこの曲が好きな気持ちが複雑に混ざる。目を何度か合わせてくれたことも嬉しい。少しだけ話したけれど、私のことは認知していないようで安心した。申し訳ないだなんて思わないけど、私は胸を張っていられる立場でもない。これからもただのファンとして目立たずにいようと思う。
みんなで沖縄料理を食べ、解散。メイクを直し、香水をつけ、電車で以前好きだった人の待つ上野へと向かった。上野についてからもお手洗いの時間をもらって汚いスマホカバーを外したり、髪に香水をつけたりした。他の人にならここまでしないだろう。好きだという感情ではなく、幻滅されるかもしれない要素を少しでもなくしたかったように思う。改札を出ると、木の下の煉瓦の花壇に座っているその人を見つけた。挨拶をした。背が高くて、大きくて、大人びた雰囲気の人だった。表情が読みにくい。
途中のコンビニでビールとアイスを買った。最近はビールが好きだから、サッポロ黒ラベルをお勧めされて買った。その人はお茶割りを買っていた。家に向かいながら開けて乾杯して飲む。何を話していたかは覚えていないけれど、途中に現れたこども図書館が怖くて良かった。
マンションについて家にあがらせてもらった。何度も見たことのある風景だった。想像していたよりもこぢんまりとしているように見えたのは、グランドピアノがあったせいだろう。男性の家にしては綺麗で、でも綺麗すぎないところが良かった。家賃は10万弱。
お酒を楽しみながら色んなことを話した。元恋人が待っていたように感じたこと、その人のことを思い出してネット弁慶なんて言葉を使っていたこと、新芽を最後に歌ったことなんかを報告した。報告してどうなるわけでもないけれど、その人が元恋人に対してどう思っているのか知りたかったのと、そんな話題を出すことで私が自分に対して牽制していたのかもしれない。自分のための目的を持った問いにいやらしさを感じた。聞きたいことは沢山あるんですけど、と言いながら看護学生としての生活はどうですか、と問われた。全然興味ないだろ、と思いつつ厳しいことを色々話す。元恋人も看護師であることを教えてもらった。職業で勝つことができなくて悔しい。音楽の話もした。gateballersを教えてもらった。きっと私は好きになると思う。音楽業界の薬物事情なんかを酒の肴にしていたら盛り上がりすぎてあっという間にお酒を飲み干してしまった。黒霧島と紅茶を割ったお酒を作ってくれた。お香も焚いてくれた。間接照明だけで明るさを保っている部屋だから、不自然な白さはなく、夜の自然な重みを感じる。換気扇の元にあるオレンジの四角いライトが味わい深い。私の目の前にいるのがあの頃すごく好きだった人だということにふと感動した。顔を見る。たしかにその顔だ。万人受けではないその造形ひとつひとつが彫刻のように綺麗だと思った。
ギターを弾いて、歌を歌ってほしいと頼まれたから、その人が作った歌を歌った。コードのノートを見せるとストーカーじゃんと笑われた。コードが色々と違っていることに気づいた彼は、私にボールペンを渡してくれ、上から訂正をかけた。本当のコードを知っているのは私と元恋人くらいだろうか。私のノートをじっくりと読んで楽しそうにしていた。ランダムに開いたページの歌を歌ってもらおう、と言い出し、開いたところは「愛は花、君はその種子」だった。知らね〜と笑うけれど、歌い出したらそれって元々英語の歌だよね?と驚いていた。私の歌を聴きながらベランダに出て煙草を吸っている、時折弾いている私の写真を撮っていた。それが何故かすごく嬉しかった。私が歌っていると一緒に歌ってくれた。いつもより控えめな声で、だけど丁寧にビブラートを響かせていて、この人の歌が一番好きだったことを思い出した。一緒に歌えるなんて、以前自分が密かに抱いていた夢がこうして叶ったことが嬉しい。私たちの声は相性がいい。
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amane-koba · 2 years
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キッチンの写真載せ忘れました。 #amane #築古マンションリノベ #築古マンション再生 #toobox #パーケットフローリングオーク大柄 #パーケットフローリング #オーク床 #イナックスタイル100角 #inax #はじめての大家 #オーダーキッチン天板 #コンロスクエア520シンク #フラットレンジフード #壁付け型600ホワイト #東リ #ダイナミックストーン #アイアン塗料ブラック #シュペンパンザー @r_toolbox https://www.instagram.com/p/CXBIIDlPQLe/?utm_medium=tumblr
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hosei-tatemizu · 6 years
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岡山県の田舎に移住して約1ヶ月経ちました。
まだ全然慣れていないですが、田舎の素晴らしい所、嫌な所がある程度見えてきました。
ですが、今のところひとまずやっていけそうな感じはしています。
移住する前から想像はしていましたが、田舎に遊びに行くのとその土地で暮らすのは全く違います。誤解を招く恐れがありますが、個人的に田舎は日本語がたまたま通じる海外の国だと思っています。同じ日本でも田舎と都会では色々なことが違いすぎます。
今日はその違いを書いていきます。
【良かれ悪しかれ他人に興味がある】
あくまで大阪に何十年も住んでいた筆者が個人的に思うことですが、都会では他人に関心がないし、普通の人は他人に干渉しようとしないです。
マンションに住んでいて隣に住んでいる人の名前も知らないし、どんな人かなんてそもそも関心がないです。自分は干渉されたくないから他人へも干渉しない、これが都会の日常だと思います。(会社とか小さなネットワークでの噂話や干渉はあるかもしれませんが)
極端な例が電車の駅で人身事故が起こっても誰も関心がないことだと思います。人身事故が起こっても他人が亡くなったことより電車の遅延に100%関心が行くのが都会。もし他人の命に関心を持っていたら、都会で暮らす人の心が持たなくなるので、ある種の防衛反応ではないかなと思っています。本当はそうあるべきではないと良識ある人は考えると思うのですが。
一方、田舎はとにかく他人のことが気になる人が多すぎます。
僕が移住者だからというのもあると思うのですが、毎日の生活のことから今までの経歴、職歴、妻の仕事のこと、僕が会ったこともない人のことまで事細かにある意味尋問のように聞いてくるし、知りたくもなく興味もない他人のことを詳細に話してきます。そして同じことを何回も言うのは日常茶飯事。
仕事の帰り家に着く直前で子供が遊んでいて、そこを通り過ぎると 「こんにちは」と挨拶してくる。(親か学校で挨拶するように教えられているのか自分の意思か分からないですが)これは干渉に感じなくて、自分にとって古き良き日の昭和の風景、自分も幼い頃は近所の大人の人に普通に挨拶していました。それがいつの頃からか、社会の状況も変わり、見ず知らずの人に挨拶すると危険という風潮になりました。
そういう懐かしい風景に出くわすこともありますが、ほとんどの場合煩わしい話のネタばかりが望まずに降りかかってきます。
誰がどこに住んでいるか家の場所が把握され、車のナンバーも覚えられるし、何時に部屋の灯がついていたことまで話のネタになります。(これは事実です)
だからと言って実害があるかというと、そうではなくて今のところゴシップネタにとどまっています。(今後は分かりませんが)
もちろん上記のような都会の人が感じる煩わしい干渉ばかりがあるわけではなく、本当に困っていることに真剣に相談に乗ってくれたり(これは心から助かるレベル)、現地の方との円滑な橋渡しをしてくれたり、新鮮な野菜を頂いたり、重要な情報をもらえたりすることも多くあります。
つまり田舎の人は良い意味でお世話好き、悪い意味でストーカーのようだと思います.
僕が出会う人はたいてい、自分と同じ40代前後の人かそれ以上の年齢の方々です。なので若い方の様子は分からないのですが、田舎で暮らしている方(都会から移住してきて数年経っている方も含めて)はいわゆるFacebookやTwitterの世界を現実に構築しているようだと附に落ちました。
「いつ誰がどこで何をしているか」の情報をfacebookにupしなくてもいつの間にか他人が知っている。そしてそれを情報発信元の本人とつながっていない第三者に現実の会話でシェアをする。そして時間が経ってその人の話題が出た時に、過去のネタを再投稿するように話で持ち出す。
人とのつながりにおいての研究で「六次の隔たり(ろくじのへだたり、Six Degrees of Separation」という仮説があります。
全ての人や物事は6ステップ以内で繋がっていて、友達の友達…を介して世界中の人々と間接的な知り合いになることができる、という仮説。多くの人数からなる世界が比較的少ない人数を介して繋がるスモール・ワールド現象の一例とされる。SNSに代表されるいくつかのネットワークサービスはこの仮説が下地になっている。
wikipediaから引用
田舎の人間関係、人とのつながりを見ていると、まさに「六次の隔たり」があるなと痛感します。
この法則がSNSではなく、現実のしかも人口の少ない町をベースとしたネットワークにおいてだとより強く感じます。
ひとつのネットワークに入ると知らぬ間に自分の存在が公にされるし、話のネタになり、知らぬ間に知らない人に知られます。その裏返しとして困ったことがある時は助けてくれる人が、ネットワークのどこかにいます。
これがweb上ではなく現実の世界で成立しているのが田舎です。
移住する前に、都会から田舎へ移住した方の記事や本をたくさん読みました。ポジティブなことも多く書かれていましたが、ネガティブなことのひとつはまさにこれでした。
極端な例は、閉鎖的で保守的な考えの土着の人ばかりで形成された田舎のネットワークの文化、習慣、掟に従わないと住人は村八分にされるということです。
これは行き過ぎた例なので、すでに実害が出ているとしたら、解決策はその土地を抜け出すことしかないです。
幸い、僕が暮らしている地域は今の所、生活に支障がでる実害はほとんどなく、現状から推測すると向こう10年くらいは大丈夫だろうと楽観的に考えています。(ただし任期は最大3年なのでそこで一旦はこの土地に留まるかどうか考えます)
けれど、もし実害が出るようならすぐに他の地域へ移ろうと決めています。個人的にはそれくらいのフットワークの軽さがないと都会から田舎への移住は難しいかなと思っています。
もし都会から田舎に移住したとしたら、自分という「芯」を持っていないと、田舎独特の文化に飲み込まれて疲弊するだけです。「実害がないなら他人のことは気にせず楽しく暮らす」これが一番良いです。流されないためには自分という「芯」を持っている必要があるので、それなりの人生経験が必要かもしれませんが。
自分としては、移住した土地の雰囲気が好きなのと、やっぱり親切な方がたくさんいるので、自分もできるだけ親切に接したいし、協力できることがあれば惜しみなく力になりたいと思っています。ただ、もしも危害を加えてくる人には自分と妻を守るために相応のことで応戦するし、すぐ別の土地に移ろうと思います。
まあ、今のところはとても快適な生活を送れていて、コロナもほぼ皆無、そして田舎の自然を満喫できているので移住して良かったなあと思っています。
窓の外から山の峰々を眺めて。
建水
P.S 写真は窓の外からではなく高清水高原を訪れた時に撮影したもの
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ari0921 · 4 years
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和2年(2020)10月12日(月曜日)
 アルメニア vs アゼルバイジャン戦争
  彼らは何故、いつまで闘うのか? 現地の実情は?
**************************
 アゼルバイジャンとアルメニアの戦争は、ロシアの仲介で10月9日からいったん休戦となった。しかしいつ再開するか分からない。両国はともに旧ソ連に属したが、冷戦終結以後は明確に対立関係が再燃し、アゼルバイジャンはトルコに傾斜。アルメニアは西側の介入を当てにしている。ロシアは両天秤である。
 この背景を理解する一助として、拙著『日本が全体主義に陥り日』(ビジネス社)から該当箇所のダイジェストを行う。
▼アルメニアは資源欠乏、経済迷走
 アルメニアは文化も宗教も古く、自尊心が高い。アルメニアの宗教はギリシア正教会系アルメニア正教だ。
 世界の流浪民族の「大手」は四つ。ユダヤ人は国を滅ぼされ、二千年間世界各地を放浪したあげくシオニズム運動がおきてイスラエルを建国した。クルド人はイラク、イラン、トルコなどに1500万人も分散しているが、まだ国家として認められない。ロマ(ジプシー)は世界各地の底辺で組織化されないで生きている。そしてアルメニア人は世界に散っておよそ一千万人が欧米、イランなどにコミュニティを形成している。もともとの古里=カフカスの南の山岳地帯には歴とした国家が存在している。
 アルメニアと言えば、コニャックの名産地である。
 世界で初めてキリスト教を国教とした国として知られる。文明はいたって古く紀元前数世紀に樹立された国家であり、伝統的な文化伝統と文字を持っている。39の文字はキリル文字の祖先ともいわれ、「文字公園」がある。キリル文字の原型のような大きな模型が公園の展示物、いがいに観光客が多い。
 アルメニアは地震国で海の出口がなく、世界的に有名なアララット山はいまトルコ領土に編入されている(露土密約による)。
 このアララット山の雪解け水を使うコニャックが世界的なベストセラー。だから紙幣のデザインはアララット山、アルメニア国民のこころの拠り所もアララット山。百年近くもトルコに領土を奪われていることになり、実際に飛び地=ナゴルノ・カラバフをめぐって戦争をしたアゼルバイジャンに対してより、トルコへの恨みのほうが深い。
 アルメニアはトルコが1915年の第一次世界大戦のどさくさに150万人を虐殺したとして国際世論に訴え、フランスやドイツでは「あの虐殺はなかった」という言動を吐くと罰金、収監されるほどの「犯罪」となる。
 トルコはアルメニアのいう虐殺を真っ向から否定しており、「事故扱い」である。
それはともかく山国ゆえに河川の水は綺麗で農業用水も張り巡らされている。琵琶湖の二倍もある淡水湖=セヴァン湖では湖水魚が多く取れる。しかし水力発電に限界があり、かといって地熱発電も施設が不十分、鳴り物入りの原発も建設が大幅に遅れている。電力不足は恒常的である。
 北東に位置する隣国=アゼルバイジャンは資源リッチゆえ、ガソリンは安い。このアゼルバイジャンからの石油パイプラインとロシアからのガスに依存するアルメニア、北の隣国=グルジア(ジョージア)と同様に電力とガソリンが高い。
 地政学的な脆弱性は宿命である。国土の13%が森林地帯だが、南と北に集中しており、その付近はダムも多い。
 牧畜を主体に、チーズ、乳製品の輸出、果物とくに葡萄などで外貨を稼いできた。だが、近代的工業化に出遅れ、若者は国を去って外国へ出稼ぎに行く。驚くべし300万人の国民が250万人に減った。理由は若者の出稼ぎである。
 出稼ぎの送金で経済が成り立つのはフィリピンに似ている。
 若者がロシア、イランにもイスラエルにも、そして欧州各国と米国にでてゆくため各国にアルメニア人のコミュニティがある。ギリシア危機に遭遇した時は出稼ぎからユーロの送金がこなくなって悲鳴を挙げた。武漢コロナ禍で、またも送金が途絶えている。
 アルメニア出身の有名人と言えばカラヤン、ミコヤン(元ソ連外相)、そしてハチャトリアン(名曲「剣の舞」の作曲家)、サローヤン(小説家)がいる。みな最後が「ン」という姓名はアルメニア特有である。
 さて筆者はアルメニアへはアゼルバイジャンからバスで入国した。国境でヴィザが発行される。乗用車、トラック、バスの長い列がある。新車も多いが乗用車はドイツより圧倒的に日本車である。
 首都のエレバンは紀元前から開けた。じつに美しい街でこじんまりとまとまり、中世を感じさせる。この街でみたいと思っていたのはアルメニア正教会の総本山だ。ローマより早く、この国でキリスト教が国教となったから伝統の時間的距離が長い。
 総本山の敷地は広く、広場は数万人が一同にあつまって祈祷できる。ここには世界中から観光客と信者が押し寄せる。例外的に中国人を殆ど見かけない。あの世界中に爆買いツアーにでかけた彼らがアルメニアで少ないのはヴィザを制限しているからだ。
 アルメニアは全土が山岳地帯だが、標高差が激しい。二千メートル近い高地に開けるセヴァン湖では水上スキー、遊覧船、海浜リゾート風のホテルがあるが、エレバンまで二時間かかるため庶民は市内にあるアクアセンター(プール主体の総合娯楽施設)で過ごす。入場料10ドル、飲み物食料持ち込み禁止だから家族で行くと100ドル近くとなる。ちなみにアルメニア国民の平均月給は僅か150ドルだからアクアセンターにしても、せいぜい年に一度しか行けない。
 エレバン市内は綺麗なバスも走り、街区は清潔でビルも建ち並ぶ近代都市に変貌している。これは外国で成功したアルメニア人実業家が寄付したものである。
 経済的にはまだうまく機能しないけれども、表現の自由、結社の自由は回復した。
 ▲アゼルバイジャンと拝火教
  国名のアゼルバイジャンというのは「火の国」の意味がある。つまり古代ゾロアスター教の巨大な影響力が秘められている。イランのヤスドにも火が燃え続ける拝火教寺院があるが、首都バクーにも古代からの拝火教寺院が残る。この地のイスラムはイラン同様に拝火教の強い伝統の上に乗っかっている。
 バクーの沖合には油井が林立する。カスピ海の海底油田で、飛行機から眺めると海面は採掘リグがびっしりと並んでいる。ただしカスピ海に面していても海の出口がないので大型タンカーの輸出は不可能。それでもパイプラインでグルジア経由トルコへのルートを活用した輸出は一日百万バーレルだ。したがって国民の生活は豊かになった。
 とくに原油相場が高騰した時代に急成長を遂げた。首都バクーは人口二百万人。摩天楼が林立し、大型シッピングセンターは雑踏のように賑わい、高級住宅地は公園を挟んで超高価マンションが軒を競う。周辺を行き交うのはベンツ,BMW、レクサスなどが多く、他方で道路を早朝から清掃しているのは外国人労働移民。大きな所得格差を見せつける。
 カスピ海は高台から一望できるのだが、バクーは一級のリゾート地という別の顔を見せる。豪華ホテルが多く、西側諸国からの観光客が夥しくなった。アゼルバイジャンは独特ともいえるイスラム世界的な独裁体制にあって、旧ソ連の書記だったアリエフの二代にわたる「王朝���が築かれている。
 アゼルバイジャンが「火の国」と言われる所以は、拝火教の伝統からきている。イスラム教シーア派だが、地付きの伝統として、いまも生きる拝火教のシンボルは戦没者を祀る高台に登ると永久の火が燃えていることに繋がっている。
 経済は活況を呈し、バクーの都市としての近代化は驚異的スピードで進捗した。「数年の間に、町の様相はまったく一変した。かつては小道が入り組んでいた中心地は、小規模な家屋、店舗と小道がまるごと撤去され、大きな建物ばかりが建ち並ぶ」(広瀬陽子『未承認国家』)。
 地下鉄あり、港湾は近代化され、ガラス張りの摩天楼が国会議事堂の周りにも三棟。こうした近代化のことはともかく、旧ソ連の構成国であったアゼルバイジャンはソ連崩壊後、いかようにして民族的自由、宗教、そしてナショナルアイデンティティを確立したのか。あるいは出来なかったのか。
 アゼルバイジャンの紀元前のご先祖はアルバニア人である。しかしその後、ペルシア、モンゴル、トルコ帝国が入り乱れ、近世の始まる頃にトルコ系(つまりモンゴル系遊牧民)が多数派となった。ゆえにアゼルバイジャンはトルコとの連帯が強い。面積は北海道よりちょっと大きいくらいで、人口は一千万人弱だから人口徴密である。
 「殉教者の小道」という慰霊公園は日本で言う靖国神社。旧ソ連末期の軍事衝突と対アルメニア戦争で犠牲となった人々をまつる拝火教寺院風の建物(「火焔タワー」という)ではいまも真っ赤な火が燃え続けている。
 国民の主体はトルコ系だが、宗教はたぶんに拝火教が土台となったイスラム教のシーア派である。だがイランのような厳格さはなく、世俗的でベールを被った女性は殆どいない。
アゼル人の国民性は徹底的に陽気である。ムスリムなのに酒を飲み、踊りと歌が大好き。イスラム世俗主義ゆえに宗教的戒律は緩く、バクー市内には朝まで営業しているバアが十数軒、寿司バアもある。入れ墨に怪しげな同性愛バアもあった。
 とくに新市街の「ニザミ通り」は「バクーの銀座」、ルイビュトン、グッチ、ディオール、シャネルと何でもござれで、その裏道が深夜営業のバア通りだった。近年は市内にトランプタワーも建設中と聞いた。
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xf-2 · 4 years
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003年4月15日夜、福岡市中央区の日本語学校に魏と王、楊らが職員室に忍び込み、現金約五万円を盗んだ。そこは王が在籍していた学校だった。王、楊はその1月にも、同区のファストフード店に侵入し、現金230万円を盗んでいた。ここは楊のアルバイト先。4月9日には魏が別の中国人留学生2人と共謀し、中国人留学生から現金約26万円を奪うという事件も起こしている。 「3人で何かやろう」  5月上旬には、楊のアルバイト先だった同市博多区のラーメン店経営者襲撃を計画する。「面識があると発覚の危険性が高い」として断念したが、この時すでに「殺害して金を奪う」ことを念頭に置いていた。 http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
中国人留学生
王亮(ワンリャン 当時21歳)
出典福岡・一家4人殺人事件
吉林省出身。父親は土木会社を経営し、裕福な家庭に育った。02年春、日本の大学進学を目指して福岡市内の日本語学校に入学し、同級生とともに寮で暮らし始めた。当初授業の出席率は96%と高かった。(出席率が95%以下になれば入国管理局に報告されるという。さらに低くなると強制送還される)だが王はこの年の9月、同級生とトラブルを起こし、その時の学校の対応に不信感を抱き、ほとんど学校に出てこなくなった。同級生によるとこの頃から王の様子が変わっていったという。03年4月の時点で、王はMさん宅から700mほどのところにある家賃2万円のアパートに楊とともに住んでいた。5月15日に日本語学校から、このままで除籍処分になると通告された。就学生が除籍処分されると、就学ビザを取り消され不法滞在になる。王は1度中国に帰り、両親に再編入のための授業料の工面を依頼していた。だが、両親が王持たせたはずの授業料は学校に納めておらず、除籍処分となっていた。
楊寧(ヤンニン 当時23歳)
出典福岡・一家4人殺人事件
吉林省出身。父親は長春市の中日友好協会に勤め、母親は同市の製紙工場に勤務。王とは両親同市が古くからの知り合いだった。01年10月に就学ビザで来日し、日本語学校を卒業した後、私立大学国際商学部に入学し、アジアの貿易経済について学んだ。02年には1科目を履修しただけでさぼり、後期には病気と称して休学したが、実際は福岡市内のハンバーガーショップでアルバイトをしていた。03年4月に1度は復学したが、年間50万円余の学費が払えず、納入期限の6月末を前に「親から学費を受け取るために一旦帰国する」と大学側に説明して出国した。この時、実家には戻っていない。
魏巍(ウェイウェイ 当時23歳)
出典福岡・一家4人殺人事件
河南省出身。父は工場を経営する資産家。魏自身も高校卒業後、3年間人民軍(※)で班長を務めた。その後大連の外国語学院で日本語を学び、日本留学後は先端技術を学ぶという希望を持ち、01年4月、福岡の日本語学校に入学している。02年4月には予定通り、コンピューターの専門学校に入学した。ここでは成績もよく、奨学生候補だった。故郷には恋人もいて、ごく普通の学生だったが03年になると一転して学校を欠席がちになった。魏のアパートには中国人の女性が何人も出入りするようになり、4月には留学生仲間と中国人宅に押し入り、26万円を強奪、6月には知人の女性に暴力をふるったとして傷害容疑で逮捕された。この頃、インターネットカフェにしばしば通うようになり、王や楊と知り合った。4月9日にはかつて住んでいたアパートへ強盗を押しこんだこともある。また、他人名義で携帯電話を契約する詐欺も働いている。金にも対して困っていない優秀な学生だった彼が、03年春を境に突如犯罪行為を繰り返すようになっていた。
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福岡一家4人殺害事件
福岡一家4人殺害事件
Mさん一家
殺害されたMさん一家は、Mさん(41歳)、妻C子さん(40歳)、小学6年の長男K君(11歳)、小学3年生の長女H子ちゃん(8歳)の4人暮らし。  Mさんは1962年福岡市で生まれた。私立博多高校を中退し、中州のクラブ勤めを経て上京。東京・麻布十番の焼肉店などで修行した後、88年に福岡市中央区で韓国料理店をオープンさせた。この店は繁盛し、有名人なども多く来店、テレビでも紹介されるほど有名店になった。その後、東区にも別の焼肉店を開店し、売上も好調だった。    C子さんも福岡県出身。九州女子高校を卒業後、94年頃まで化粧品会社の美容部員として福岡空港の国際線ターミナル店で働いていた。MさんとC個さんは高校時代から交際しており、90年5月に結婚した。Kくん、H子ちゃんも生まれ、幸せ家庭を築いていた。  しかし、最初の悲劇が起こった。01年9月、BSE(牛海綿状脳症)騒動が起こり、その煽りを受けて経営していた両店は廃業に追い込まれたのである。  MさんはC子さんの親族と一緒に婦人服販売会社を始めるが、売上が低迷、さらに東区の焼肉店開店のために自宅を抵当に入れて借りた4000万円の返済も滞るようになった。  03年3月、夫婦は婦人服販売業の業績が上がらないことから、C子さんの親族から独立して、衣料品などをデパートに卸す仕事を始めた。その2ヶ月後、Mさんの知人から休眠中の会社「W」を継承して復活させた。C子さんを社長にして、衣料品販売業を本格的に乗り出した。  また失業し、金に困ったMさんは闇ビジネスと呼ばれる仕事にも手を広げていく。事件後、家宅捜索で福岡市中央区のマンションから大麻草が発見されている。Mさんは大麻草を栽培して、売りさばいていたとされている。  またMさん一家は94年から96年にかけて、外資系生保会社と、99年には国内の生保会社と、一家4人の生命保健契約を締結した。保健金額はMさんが1億2000万円、C子さんが2500万円、KくんとH子ちゃんが各2100万円の総額1億8700万円に上り、その月々の保険料は14万円近くになっていた。  ちなみにMさん一家は王、楊、魏の3人とは面識はなかった。 http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
強襲
凌遅刑
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%8C%E9%81%85%E5%88%91
凌遅刑(りょうちけい)とは、清の時代まで中国で行われた処刑の方法のひとつ。生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑。歴代中国王朝が科した刑罰の中でも最も重い刑とされ、反乱の首謀者などに科された。また「水滸伝」にも凌遅刑の記述が記載されている。また、この刑に処された人間の人肉が漢方薬として売られることになっていたとされている。この刑罰は李氏朝鮮(朝鮮王朝)でも実施されていた。また、これに酷似したものとして隗肉刑がある。
Mさんの帰宅
日付が変わって翌午前1時40分頃、Mさんが帰宅してきた。愛車のベンツC200に乗って、自宅の車庫前まで帰ってきた時、携帯電話で友人と会話している。Mさんは「今、家についた。これから駐車場にいれるから、後でかけ直す」と電話を切ったが、その友人に再び電話がかかってくることはなかった。家に入ろうとしてきたMさんを犯人達は玄関で待ち伏せていた。工事現場から盗んできた鉄パイプを、いきなり後頭部を殴りつけた後、前に向かって横から額を殴り、さらに左目周辺や頬を殴ったり、全身を蹴ったりした。さらに犯人達は2階で失神していたH子ちゃんを担ぎ下ろし、父親の目の前でいたぶったり殴打しながら、Mさんに何かを聞き出そうとリンチを加え続けていた。だが、Mさんはなにも答えず、「用がなくなった」ということで、H子ちゃんの首を絞めて殺そうとした。Mさんは土下座して、「娘だけは助けてくれ」と言ったが、彼らはこれを嘲笑し、殺害した。さらにMさんの首を白いビニール紐で絞め、気を失った彼を浴槽に浸けて溺死させた。  3人は一家の遺体を運びやすくするため、まずMさんの両手に手錠をかけ、首から足にかけて工事現場で盗んできた太い電線で縛り、H子ちゃんを背負わせる格好で固定した。また、ちょうど血のついて放置しておけない玄関マットがあったので遺体を覆い隠すために持ち出し、車を乗り捨てる際に近くの草むらに捨てた。  3人は一家4人をベンツに乗せ、その車に一緒に乗りこんだ。 博多港箱崎埠頭の岸壁に到着した3人は遺体を海に沈めるために、前もって用意しておいた重りを1個ずつつけ始めた。Mさんの腕とH子ちゃんの足を手錠でつなぎ、その手錠のチェーンの部分に別の手錠をつないで、鉄アレイをつけるなど、万全を期した。C子さんとKくんはそれぞれ両手に手錠をかけ、鉄アレイをつけた。千加さんは服を着ていないので浮き上がりそうだったので、特別に鉄製の重りを針金で巻きつけていた。  遺体を捨てた後、Mさんのベンツを運転して久留米市に向かった。これはNシステム(自動車ナンバー自動読み取り装置)でも確認された。ベンツは「ブリジストン久留米工場」クラブハウスの専用駐車場に乗り捨ててあるのが発見されてい。3人はベンツ放置後、JR久留米駅から福岡に戻った。  20日午後、博多港箱崎埠頭付近の海中から一家の遺体が次々と発見された。これほど早く遺体が発見されることは、3人にとって誤算以外の何物でもなかったはずだ。  なお事件当日の行動については3人の供述をもとに書いたが、3人が責任をなすりつけ合ったり、供述そのものを変えているので、不確かな点も多い。 http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
3人の浮上
事件に使われた手錠は台湾製でレバー操作をすれば簡単に取り外しができる金属製のおもちゃ、鉄アレイは重量20kgのもので、それぞれ福岡市内にある量販店で売られていた。この店の防犯カメラにそれらを買った人物が映し出されていた。その映像から似顔絵が公開されると、日本語学校の生徒が「同級生(王)に酷似している」と証言、ここで王とその交友関係が洗われるようになった。ここで楊の存在が浮上し、楊の携帯電話の通話記録から魏の存在も明らかになった。  また、遺体に付けられていた直方体の鉄製の重り(重量30kg)は魏が過去に頻繁に出入りしていた女性宅がある福岡市博多区の賃貸マンションの所有会社が非常階段への鉄製扉を開放させておくために特別注文したものだった。  事件後、魏は出国2時間前に空港へ向かう途中の路上で、別の暴行事件により身柄を拘束された。だが、この時すでに王は楊とともに福岡空港から上海に出国していた。この航空券は犯行の3日前に楊が用意していた。2人は中国の公安当局に身柄を拘束されることになった。 供述 「窃盗目的で侵入した。黒幕は存在しない」(王、楊) 「Mさんは高級車を持っていて金持ちそうだったから狙った」 「5月下旬に王から『おまえは格闘��ができるだろう。それなりに荒っぽいが、カネになる仕事がある』と誘われ、楊を入れて3人でMさん一家を襲った。家族4人の首を絞めて殺した後、遺体をMさんのベンツでう実まで運んで投げ捨て、その車も遠くまで捨てに行った。王は誰かに殺しを依頼されていたようで、私は成功報酬として約1万円を受け取っただけだ。残りの報酬はまだもらっていない」 (魏) http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
出典kyushu.yomiuri.co.jp
公判を終え福岡地裁を出る魏被告
福岡一家4人殺害事件
王被告土下座にも消えぬ怒り 遺族、厳罰求める
出典kyushu.yomiuri.co.jp
福岡一家4人殺害事件
中級人民法院裏門で、通行人をチェックする職員
憤りは収まらなかった。昨年六月に起きた福岡市の松本真二郎さん一家四人殺害事件。遼寧省遼陽市の中級人民法院で十九日に開かれた初公判で、孫たちの命を奪った元留学生二人と初対面した遺族には、日本語での謝罪もむなしく響いた。「頭を下げれば済むと思っているのか」。一年四か月を経ても消えない激しい怒りが、異国の法廷に広がった。  王亮被告(22)は白いワイシャツ、白っぽい綿のズボン姿で法廷に姿を見せた。楊寧被告(24)は、黒いトレーナーに白っぽいズボンをはき、二人ともオレンジ色のベストを着ていた。両足には鎖、両手には手錠がかけられていた。  起訴状が読み上げられる間、楊被告は、検察側の質問に対し、はきはきと答えたが、何度もまばたきするなど緊張が見て取れた。王被告も時折、目元に手をやるなど、落ち着かない様子だった。  犯行現場となった松本さん宅の子供部屋や浴室、廊下に残された血痕などの写真がスクリーンに次々と映し出されると、王被告は終始目をそらし、楊被告も顔を上げようとしなかった。  静寂が破られたのは、王被告の意見陳述の途中だった。突然、後ろを振り返り、約三メートル離れた傍聴席の最前列に座っていた松本さんの妻千加さんの父親、梅津亮七さん(78)に向かって土下座し、約三十人いた傍聴席から驚きの声が上がった。さらに、裁判長に向き直った後、もう一度後ろを向き、日本語で三回、「すみません」と繰り返し頭を下げた。  数日前に遼陽市入りした梅津さんは、公安当局などを回り、両被告の逮捕に謝意を伝え、厳罰を要請したという。公判終了後、「頭を下げて済むものではない。それ以上にひどい目に遭わされた」と怒りが収まらない様子だった。 http://kyushu.yomiuri.co.jp/news-spe/20090427-462876/news/20090427-OYS1T00564.htm
裁判経過
楊寧被告人は1審で死刑判決を受け、控訴棄却を経て2005年7月12日に死刑執行された。一方、王亮被告人は遼寧省遼陽市人民検察院により無期懲役が確定した。 日本で逮捕起訴された魏巍被告人は1審の福岡地裁で事実を認めた後、ほぼ黙秘を通し、死刑判決を受けた。2審では、一転して動機や犯行過程、3人の役割、遺族への謝罪などを詳細に証言したが、控訴は棄却された。上告したが2011年10月20日に最高裁第1小法廷(白木勇裁判長)は上告を棄却して死刑が確定した。 2014年現在、魏巍は福岡拘置所に収監されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E4%B8%80%E5%AE%B64%E4%BA%BA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
出典stat.ameba.jp
福岡一家4人殺害事件
福岡一家4人殺害事件
日中の捜査共助と問題点
同事件は主犯格2人が中国に逃亡したため、中国との捜査共助が最大の焦点となった。結果的には日本国内の反響の大きさに配慮した中国当局が積極的に協力したため、早期逮捕が実現したが、一方で他の事件では日中間の捜査協力がほとんどなされていない実態や、アメリカ、韓国以外と犯罪人引渡し条約が結ばれていない現状も指摘され、国際化する犯罪に各国捜査当局の対応が遅れている点が浮き彫りとなった。 また、福岡地裁で行われた魏巍被告人の公判では、中国公安当局が作成した王亮、楊寧両被告人の供述調書が日本の裁判で初めて証拠採用された。これまで日本の刑事裁判では、海外の捜査当局が作成した調書は「証拠能力なし」とされることが多かったため、この判断は「国際犯罪の捜査に道を開く」と評価されたが、黙秘権が存在しない中国の調書を問題視する意見もあり、議論を呼んだ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E4%B8%80%E5%AE%B64%E4%BA%BA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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4554433444 · 4 years
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妹さんと同居1
 横浜の中心部に男一人暮らしで2DK。家賃は7万ちょっと。まあ相場から考えるとアホみたいに安い。もちろん理由はある。単純にいうと、あんまり治安のよろしい地域ではない。  とはいえ、生まれも育ちもこのへんである。具体的には実家から原付で二十分くらい。  大都市の中心街、それも古くからの街だとわりとよくあるんだが、山の上の古い住宅街から平地に下りるといきなり治安悪かったり、かといってどこまでも治安悪い地域が続くかっていうと、通り一本向こう側はわりとふつうだったりとか。ずっと同じ土地で生活してるってのは、そういう細かい機微までよく知ってるってことだ。  いま住んでる築五十年のマンションのある場所だって、昼間は別にどうってことはない。夜だって、たとえばむやみに周囲をきょろきょろ見ないだとか、周囲の空気から浮いた服装しないだとか、入ってはいけない裏通りには入らないとか、立ちんぼはうまくスルーするだとか、機嫌の悪そうなホストの兄ちゃんには近づかないだとか、そういう基本的なことさえ守ってれば、別にどうってことはない。だいたい繁華街ってのは、便利な場所にあるから繁華街なんである。男の一人暮らしだとしたら、ラーメン屋は深夜までやってるし、牛丼屋もカレー屋も王将も日高屋もひととおり揃ってるし、まあ便利。コインランドリーも無駄に多いしなー。  というわけで、今日も仕事を終えて家に帰ってきたわけだ。  仕事はコンビニの雇われ店長。ブラックだなんだと言われがちな業種ではあるのだが、うちの会社の場合、社長の方針で、店利益に応じて自分の収入が変動するやりかたで、要するに稼げばそれだけ自分の収入が上がる。結果として、まあまあ同世代では稼いでるほうだと思う。勤務時間が極端に長すぎるということもない。時間が不規則なのはどうしようもないけど。  というわけで、俺の名は本永貴大。二十三歳。高卒。趣味はエロゲとかアニメとか。まあふつうのオタである。
 シフトは二十一時で終了。  家までは原付で十分程度。明日は休み。申し分ない。  ようやくクソ暑い時期も過ぎた。通勤に使ってる大きめのナップザックには、飲み物だとか食い物だとか。明日は一日エロゲ三昧である。いいかげん義足の少女が家の前で気を失ってたエロゲをどうにかしたい。積みすぎである。  でかい病院の前を通過して、裏道を通って、我が家へ。雑居ビル然とした入口から入って、五階の我が家まで。入口の鉄の扉はなんだかやたらにサイケなピンクで塗装されている。鍵を開けて中に入ると、だるそうな声に迎えられた。  ちなみに俺は一人暮らしである。そのはずだ。 「おかえりーお兄ちゃん」 「なんでいる……」  妹の汐里だった。  クラシカルなセーラー服姿のまま、床に寝転がって、ノートパソコン相手になにかやっている。 「なんでって、明日休みだから?」 「休みならなおのこと家にいろ」 「えーやだよー。休みだから好き勝手したいんじゃん。家にいたら息詰まるって」 「……そうかよ」  着替えるために寝室に入ろうとすると、汐里が言った。 「ねーねーお兄ちゃん、このゲーム、なんでヒロインみんなこんなに胸でかいん?」 「待て。おまえなにやってる」 「エロゲ」  俺は無言でノートパソコンの蓋を閉めた。 「なにすんの」 「それはこっちのセリフだ。だいたいそのゲーム、どこから持ってきた」 「お兄ちゃんの部屋に決まってんじゃん」 「ほう……」  部屋への不法侵入はこの際不問とする。いまさらだ。 「ならそのゲームのパッケージは見たか?」 「見たよ」 「そこにはこう書いてなかったか。十八歳未満はやっちゃだめだと」 「じゃあ問題ないね」 「おまえのその制服はなんだ。コスプレか」 「あー、うん」  ノートパソコンの蓋を開いて、ゲームを再開しつつ完全な生返事である。  すげえ。ごまかす気すらねえぞこいつ。  俺は説得を諦めて、部屋に入る。入ろうとして、どうしても言っておかなければならないことがあることに気づいた。 「ちなみにそのメーカー、基本的に巨乳専業だからな」 「乳なら自分のでまにあってるしなあ……」 「乳いうなや」  処置なしである。
 自室に入った俺は、手早く服を着替えつつ、ちょっとため息なんかついてみた。  汐里は十六歳である。近隣ではまあまあ知らない人はいないだろう、山の上のほうにあるお嬢様学校の現役の一年生である。とうぜんエロゲなんかやっていい年齢ではないっていうか、あれ女がやって楽しいもんなのか? まあ巨乳専業の某メーカー、けっこうシナリオも読ませるから退屈ってほどではないかもしれないが……。  いやまあ、それはいい。  俺は、高校を卒業した翌年から一人暮らしを始めた。実家が近くにあるのに一人暮らしを始めた理由は、まあいろいろあるんだが、その最大のものは「単に一人で暮らしてみたかったから」だ。十九というその当時の俺の年齢くらいなら、だれでも似たようなことは考えるんじゃないだろうか。でまあ、高校のころからいまの店でバイトしてて、社員になるならそこそこの給料を出してやるっていう社長の言葉もあったし、両親の許可もわりとあっさり出た。いつでも帰ってこれる場所というのもあっただろうし、なにより俺は両親からやたら信用されている。その信用のされかたにやや問題があるっちゃあるんだが、まあとにかく許可は出た。汐里以外の許可は。  俺はもともと孤独耐性が高いほうだし、一人暮らしは最高というほかない。スピーカーで音声出してエロシーン見ようと、そのエロシーンを眺めつつ全裸でオナニーしようと、なんならブリッジしながらオナニーしようと自由である。いっておくが、実際にやったことはない。オナニーに関しては自由の具体例として出しただけで、まあつまり、俺は一人で暮らすことに適性があるタイプの人間だったといえる。  そこまではよかった。  今年の三月まで、俺は自由だった。  しかし、汐里が高校に入学して以来、事情が変わった。  ちょっとこのへん、土地勘がないと説明しづらいのだが、実家から汐里の学校までは、直線距離はそんなに遠くない。なのに、通学するとなると、バスに乗って電車に乗ってバスに乗るというわけのわからない経路をたどらなければならない。バスがなければ生活できないうえに、地形が複雑極まりない横浜あるあるだ。地元民なら理解してくれる人もいるんじゃないだろうか。  そして、俺の家からは、徒歩七分程度の駅から電車一本なのである。まあそのかわり学校の最寄駅からは、急坂を徒歩十五分ということになるらしいのだが、通学時間でいうと、比較にならないくらい短い。  で、どうなったかというと。  入り浸るようになった。
「ねーお兄ちゃん、おなか空いたんだけど」  ノックもなしにドアが開く。  俺はトランクスいっちょうである。 「きゃー」  汐里がやる気のない悲鳴をあげた。 「悲鳴あげるなら本気であげろ」 「美少女の妹に半裸見られたら勃起しない?」 「……ごめん。俺の妹がバカすぎて人生を後悔しそう」 「バカとはなにかバカとは」 「なんでもいいから出てけよ」 「私のごはんは?」 「台所の横に生ゴミのゴミ箱あるだろ。そこに昨日食ったサンマの骨が入ってる」 「やったー、汐里サンマの骨だーいすきって、そんなわけないでしょ!? パンツ脱がすよ!?」 「脱がされる前に脱ぐスタイルで」  トランクスに手をかけて決めポーズで汐里を見る。 「ぎゃーっ」  さっきよりはちょっとやる気のある悲鳴を上げてドアが閉まった。  俺はちょっと考えて、部屋着ではなく、帰ってきたときの服をふたたび着た。ジーンズにパーカー程度だが、まあ外出はできる服装だ。  居間に出ると、ふくれっつらの汐里がいた。 「妹にちんこ見せようとするヘンタイお兄ちゃんだ」 「ちんこ言うなや……おまえも着替えてこい」 「スク水持ってないんだけど」 「だれがそんなこと要求した! 外に出られる服に着替えてこいっつってんだよ!」 「えー」 「腹減ってんだろ。おまえ来ると思ってなかったから、冷蔵庫になんにも入ってねーんだよ。メシ食いに行くぞ」 「やったー」  汐里がぱっと立ち上がって、もうひとつの部屋に入っていく。  さて、この家は2DKである。間取りは六畳が三つ。振り分け式というやつで、DKのほかは寝室扱いの部屋が二つ。ひとつは俺が私室として使っている。ではもうひとつの部屋はどうなっているのか。  なし崩し的に汐里の部屋になってんだよなあ……。
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shintani22 · 2 years
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2022年4月16日
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2021-22 Yogibo WEリーグ第17節 ノジマステラ神奈川相模原 0-2 サンフレッチェ広島レジーナ@相模原ギオンスタジアム 791人/44分 上野真実、70分 上野真実
【N相模原vsS広島R】上野真実の2得点でS広島Rが8試合ぶり白星!【マッチレポート Yogibo WEリーグ 第17節】
初の連勝を狙うノジマステラ神奈川相模原は14分、CKからのこぼれ球を#6松原有沙が狙いますが、サンフレッチェ広島レジーナの守備陣が身体を張った守備で掻き出します。44分、S広島R#7川島はるなからボールを受けた#9上野真実がゴール右隅に決め、チームとして5試合ぶりの得点で先制すると、70分にも再び上野が決めリードを広げます。反撃したいN相模原は#22伊東珠梨のロングシュートでゴールを脅かしますが、得点には至らず。守り切ったS広島Rが8試合ぶりの白星を飾りました。
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広島駅北に大規模な病院整備案 県立広島病院とJR広島病院の統合検討も 県構想で検討委提言へ(中国新聞)
広島県による高度医療や人材育成を担う拠点づくりの構想で、県医師会や広島大、県、広島市などでつくる検討委員会がまとめた提言「拠点ビジョン」の概要が15日、分かった。JR広島駅北側の二葉の里地区(東区)を候補地に、千床程度の入院ベッドを持つ大規模な新病院の整備を提案。県立広島病院(南区)と同地区にあるJR広島病院を統合する案の検討を盛り込む見通しだ。
県は今後、実現できるかどうかを検討し、新病院の整備の可否を判断するとみられる。広島都市圏内の病院の今後の役割分担などを巡り、医療関係者たちを巻き込んだ幅広い議論が必要になる。
複数の関係者によると、検討委は3月下旬に非公開で会合を開き、主に県への提言である拠点ビジョンを大筋でまとめた。新病院の役割を「高度・急性期医療を担う基幹病院」と明示。整備候補地として、利便性の高さなどを考慮して二葉の里を挙げる。
病院の再編・統合が本格化(NHKニュース)
高齢化と人口減少が進む中、広島県などが病院の再編や統合を本格化させることがわかりました。
医師を集め、高度な医療を提供する拠点病院を整備するため、JR広島駅近くの候補地に県立広島病院とJR広島病院を統合する案が今後、検討される見通しです。
高齢化で医療ニーズが高まる一方、人口減少で医療を担う人材不足が懸念される中、広島県や医療関係者などでつくる協議会は今後の医療提供体制について検討を進め、3月、報告書をまとめたことが関係者への取材でわかりました。
この中では、医師を集め高度な医療を提供するとともに、人材を育成する拠点を新たに整備する構想が示され、JR広島駅から徒歩5分の広島市東区二葉の里を候補地として、この場所に立地しているJR広島病院と広島市南区にあり、老朽化が進む県立広島病院を統合する案が今後、検討される見通しです。
新たな病院はベッド数が1000床程度と大規模なもので、がんや小児救急など高度な医療を提供するとともに若手医師を育成して、県内各地に派遣する拠点を目指すとしています。
高齢化と人口減少が進む中、必要な医療を効率的に提供するため、国は全国の都道府県に対し病院の再編・統合を議論するよう求めています。
県内のうち特に広島都市圏では病院の数は多いもののそれぞれの病院が同じような診療を担い、医師なども分散して配置されているため、非効率な医療体制になっていると指摘されていました。
広島県はほかの病院についても、連携や機能の分担を検討することにしていて、病院の再編や統合が本格化することになります。
JR広島駅北口に「1千床規模」の大型拠点病院、設置を本格検討へ(朝日新聞 4月20日)
広島県は19日、JR広島駅近くで新しい大規模病院の設置を目指す方針を明らかにした。1千床を確保し、中国地方で初の小児救命救急センターも設ける計画で、早ければ県の9月補正予算案に関連費用を盛りこみたい考えだ。
県によると、候補地はJR広島病院(広島市東区二葉の里、275床)を含む約2万6千平方メートルの民有地。同病院と県立広島病院(広島市南区宇品神田、712床)を統合した上で、全国トップレベルの専門医療を受けられる拠点病院を建設する計画という。
この案は、県や医師会、広島大などでつくる検討委員会が策定。報告書では、広島市内で複数の基幹病院が同様の機能を持つ状況が「非効率だ」と指摘。医師がより多くの症例を経験できる大規模な拠点病院として統合することで、全国から若手医師を集めながら、中山間地域にも医師を派遣しやすくなる、とした。
ただ、この日の県議会では県の方針に理解を示す声が相次いだ一方、「(県立広島病院の近隣住民から)病院がなくなると困るという声が出ている。県立病院をどうするかを示さないと不安が広がる」との批判も出ていた。(大久保貴裕)
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23年G7サミット、広島が有力(中国新聞)
政府が、2023年に日本で行う先進7カ国首脳会議(G7サミット)の開催地に関し、岸田文雄首相の地元・広島市を有力な候補として検討していることが分かった。ロシアによるウクライナ侵攻を受け、核兵器の脅威と平和の重要性を訴える上で戦争被爆地・広島での開催に意義があるとの見方が背景にある。福岡市も候補に残っており、近く本格調整に入る。複数の政府関係者が15日、明らかにした。
今年6月下旬にドイツ南部バイエルン州のエルマウ城で開かれるG7サミットまでに、来年の開催地が発表される見通し。首相は選定へ詰めの協議を進め、関係国と調整した上で決定する。
来年日本で開催のG7サミット 有力候補地として広島市検討(RCCニュース 4月15日)
来年、日本で開催されるG7サミットをめぐっては、広島市、福岡市、名古屋市が立候補しているほか、仙台市も開催に意欲を示しています。
岸田総理としては被爆地・広島で開催し、「核なき世界」の実現をアピールしたい考えですが、核保有国であるイギリスやフランスなどが難色を示す可能性もあります。
政府内には、「警備面を考えると福岡の可能性も、まだ十分ある」との声もあります。
3地域が争うG7サミット開催地  広島は首相の地元(産経ニュース)
誘致に力を入れるのが福岡空港からのアクセスの良さなどをアピールする福岡市だ。高島宗一郎市長は福岡県を地盤とする自民党の麻生太郎副総裁らとの親密な間柄も強みにする。
その福岡市は、岸田首相の地元・広島市を強く意識。高島氏は今年1月、サミット誘致の要望のための首相との面会後、記者団に「ライバルは広島市だと思っている」と宣言した。被爆地の広島市は、首相のライフワークでもある核兵器廃絶を前面に打ち出したい考えだ。
ただ、G7には核保有国の米英仏が含まれており、こうした国々の賛同を得られるかが焦点となり、首相の働きかけが不可欠だ。首相は4月末からの大型連休での外遊や、5月の日米首脳会談の機会を通じ核保有国首脳の意向を探る。
名古屋市も自動車など「ものづくり王国」の産業力をアピールを続ける。(永原慎吾)
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マンションが芸術家の“巣”に 広島(広島ホームテレビ)
芸術家たちの活動拠点になっている賃貸マンションで工房や展示スペースとして活用中の部屋がお披露目されました。
広島市中区の築45年で4階建てのマンションでは16部屋のうち7部屋でアーティストらが活動しています。
2017年、リノベーション可能な賃貸を開始したところ、立地の良さや手ごろな家賃から若い芸術家が集まりました。
第2三沢コーポ 三澤正明さん「我々が部屋をつくると他にある部屋とあまり変わらないが、アーティストがつくることによって作品のような部屋ができる」
織り作家の平浜さんは約1年半をかけアトリエ兼ギャラリーに改装しました。
織り作家 平浜あかりさん「シンクもコンロもない状態だったが、染めの作業をするために中古の機材屋で探し購入して設置した」
5月にはウクライナ出身でアメリカ在住のアニメーション作家も入居するということです。
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文豪トルストイのひ孫、スイスでウクライナ難民受け入れ(AFPBB)
【4月16日 AFP】ロシアの文豪レフ・トルストイ(Leo Tolstoy)のひ孫、マルタ・アルベルティーニ(Marta Albertini)さん(84)はスイス・アルプス(Alps)近郊の小さな村に暮らしている。家族のルーツであるロシアによるウクライナ侵攻が起きるとすぐに、難民を助けなければという思いに駆られたという。
「本能的でした」と言うアルベルティーニさんはスキーリゾート、クランモンタナ(Crans-Montana)近郊のランス(Lens)に所有するアパートを、ウクライナから避難してきたアナスタシア・シェルドゥコ(Anastasia Sheludko)さん(24)と母親に貸している。
曽祖父のトルストイは、平和主義者だったことで有名だった。もしも、ウクライナの紛争を見たら「戦慄(せんりつ)」し、「完全に打ちのめされてしまうだろう」と述べる。
「戦争と平和(War and Peace)」や「アンナ・カレーニナ(Anna Karenina)」などの名作を書いたトルストイは、19世紀半ばのクリミア戦争(Crimean War)に従軍し、セバストポリ包囲戦(Siege of Sevastopol)を経験した。
アルベルティーニさん自身はイタリアとフランスで育ち、数年前にスイスを永住の地に選んだ。自身を含めトルストイの多くの子孫が、「私たち一族は、罪のない国を侵略するという現在の恐ろしい行為に反対します」と記した書簡に署名し、ロシアのウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin)大統領宛てに送ったことを明かした。
シェルドゥコさんと母親は、住んでいたウクライナ南部の都市ミコライウ(Mykolaiv)の自宅を後にし、先月13日にランスに到着。ウクライナ人家族の受け入れを支援している地元男性の仲介で、アルベルティーニさんのアパートに滞在する話がまとまった。
2週間が過ぎた今、シェルドゥコさんは新たな土地に落ち着いた様子だ。近隣の町シエル(Sierre)にある大学の授業も受け始めた。スイスに来て心底安心したと言う。
アルベルティーニさんと初めて会ったときは「とても感情的になりました」とシェルドゥコさん。ロシア語を話す家主が誰かを知ったのは、後になってからだった。偉大な作家の子孫に受け入れてもらえて「大変な名誉です」と言う。
シェルドゥコさんの言葉を押しとどめるように、アルベルティーニさんは「アパートを持っていたから、お手伝いができた。それだけのことです」と述べた。
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米のウクライナ支援で「予測できない結果」に ロシアが警告文 報道(AFPBB)
【4月16日 AFP】ロシアが、ウクライナへの軍事支援を続ける米国に対し正式に不満を表明し、先進兵器の供与を進めれば「予測できない結果」をもたらすと警告する文書を送っていたと、米メディアが報じた。
米紙ワシントン・ポスト(Washington Post)によると、ロシアは今週、米国と北大西洋条約機構(NATO)に外交文書を送付。その中でロシアは、ウクライナに「最も高精度」な兵器を供与しないよう警告し、そうした行為は「火に油を注ぐ」ようなもので、「予測できない結果」を招く可能性があると記した。
米国のジョー・バイデン(Joe Biden)大統領は今週、ウクライナに対し、ヘリコプターやりゅう弾砲、装甲兵員輸送車など計8億ドル(約1000億円)相当の追加軍事支援を約束していた。
米国務省はこの外交文書についてコメントしていない。
ポスト紙は匿名で取材に応じた米高官の話として、「われわれがウクライナのパートナーに提供してきた膨大な支援が、極めて効果的であるという表れだ」と伝えた。
米紙ニューヨーク・タイムズ(New York Times)が引用した当局筋の話によると、外交文書は通常のルートで届いたもので、ロシア政府高官の署名はなかった。
また米CNNによると、内容に詳しい関係者は、今回の警告はロシアがウクライナ侵攻を続ける一方で、米国とNATOに対し攻撃的な姿勢を強めようとしていることを示唆するものかもしれないと語った。
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【本日 (4/16)の広島県内の感染状況】(広島県)
【国内感染】新型コロナ 48人死亡 4万7598人感染(16日18:30)(NHKニュース)
山形県 新型コロナ 新たに192人感染確認(NHKニュース)
福島県 新型コロナ 新たに556人感染確認(NHKニュース)
東京都 新型コロナ 9人死亡 新たに6797人感染確認 前週比1300人余減(NHKニュース)
神奈川県 コロナ 7人死亡 4048人感染確認 前週土曜日比257人増(NHKニュース)
大阪府 コロナ 8人死亡 3644人感染確認 前週土曜日比500人余減(NHKニュース)
京都府 新型コロナ 新たに917人感染確認(NHKニュース)
兵庫県 新型コロナ 1人死亡 2040人感染確認 4日連続2000人超(NHKニュース)
鳥取県 新型コロナ 新たに111人感染確認(NHKニュース)
島根県 新型コロナ 新たに152人感染確認(NHKニュース)
高知県 新型コロナ 新たに147人感染確認(NHKニュース)
沖縄県 新型コロナ 1人死亡 新たに1439人感染確認(NHKニュース)
地方で「第7波入り」の見方 各自治体、対策に手詰まり感―コロナ感染、9県で最多更新(時事通信)
新型コロナウイルス感染が地方の一部で急拡大していることを受け、自治体の間では「第7波の入り口に立った」との見方が広まりつつある。厚生労働省によると、福島や長野、宮崎など9県で12日までの1週間の新規感染者が過去最多を更新。各自治体は若者にワクチン接種を呼び掛けるなど感染対策に注力するが、手詰まり感も漂う。
新規感染が過去最多となったのは3県に加え、岩手、秋田、新潟、愛媛、大分、鹿児島の各県。地方で急増していることについて、厚労省専門家組織の脇田隆字座長は「免疫の獲得で地域差が生まれている」とし、第6波でそれほど感染が広がらなかったためとの見方を示す。ただ、9県の間からは「無症状の人を含めた検査をしているわけではなく、仮説にすぎないのでは」と懐疑的な声も漏れる。
9県のうち、宮崎県の河野俊嗣知事は12日の会見で「過去最悪の感染状況。局面が全く変わってきている」と危機感を表明。「感染がさらにひどくなり、医療が逼迫(ひっぱく)すれば、より強い行動自粛をお願いせざるを得ない」と述べた。長野県の阿部守一知事は15日、「国レベルで都道府県別データをよく分析してもらいたい」と求めた。
福島県では国の「まん延防止等重点措置」が解除された先月7日以降、県民に家庭内や会食での感染対策徹底などを要請。今月18日からは街頭活動や防災無線を通じた呼び掛けも始めるが、長引くコロナ禍でこうした注意喚起の効果は薄れつつある。県の担当者は「呼び掛けをやめれば『じゃあ、いいんだ』となる。数字として効果は表れにくいが、発信し続けるしかない」と語る。
一方、全国的に見ても感染は高止まりしている。背景にはオミクロン株の別系統で感染力がより強いとされる「BA.2」の出現や、若者のワクチン接種率の低さがある。「BA.2は第7波の大きな原動力になる」(平井伸治鳥取県知事)、「第7波に入ったという前提で対応を」(丸山達也島根県知事)との指摘も相次ぐ。
東京都の小池百合子知事は15日の会見で「感染の連鎖を断ち切る効果が期待できるのがワクチンだ」と強調。愛知県の大村秀章知事も「コロナ以前の日常を取り戻すためにもワクチン接種を」と訴えた。
コロナ禍、4割が妊活に影響 「前倒しした」「やめた」(共同通信)
住友生命保険は16日までに、仕事と妊活の両立に関するアンケートの結果を公表した。新型コロナウイルス感染拡大で妊活中の人の4割に「前倒しした」「やめた」「延期・休止中」などの行動の変化があったことが分かった。
妊活を「前倒しした」は10.9%、「やめた」が10.5%、「延期・休止中」が9.1%、「延期・休止したが再開した」が8.8%となった。
妊活の延期や休止、やめた理由を複数回答で尋ねたところ「感染した場合の妊婦・胎児へのリスクの不安」が最も多く32.7%。「感染リスクの高い時期の出産は避けたい、乳児の感染が不安」の27.8%が続いた。
中国・西安が新たにロックダウン、市民1300万人に移動制限(ロイター)
[北京 15日 ロイター] - 中国北西部の西安市当局は15日、新型コロナウイルスの感染増加を受け、4月16─19日に部分的なロックダウン(都市封鎖)を行うと発表した。市民約1300万人の移動を制限する。
13日に南部の海南島を訪問した習近平国家主席は、深刻なパンデミック(世界的流行)の下で「ダイナミックゼロコロナ」政策を継続する考えを示している。
西安では昨年12月にもデルタ株拡大を受けてロックダウンを実施。今回のオミクロン株拡大では43件の市中感染が確認された。
市政府によると、導入するのは完全なロックダウンではないが、市民の行動は主に住居敷地内に制限され、企業には在宅勤務を推奨する。
レストランでの食事、娯楽施設や文化施設、学校の一部対面授業も停止される。また、タクシーなども市内から出られない。
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TMNまで届くのは時間の問題!? 団塊ジュニアは老人ホームで「Get Wild」を聞くという予想ツイートが未来視感(ガジェット通信)
2022年4月8日に発売35周年を迎えたTM NETWORKの大ヒット曲「Get Wild」。アニメ『シティ・ハンター』のED曲としても馴染み深く、カラオケで一度は歌ったという人も多いのではないでしょうか。
『3分診療時代の長生きできる受診のコツ』(世界文化社)の著者で神経内科医の高橋宏和氏(@hirokatz)が、団塊ジュニアの老年期に老人ホームで「Get Wild」がかかるようになるとツイートして話題を集めています。
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2008/04/25 DS455 RIDE WIT THA D.S.C.
今でこそ完全にいちジャンルとして定着した感のある、日本のウエッサイ・サウンドだが、その基礎を築き上げたパイオニアで、名実ともに現在も最高峰に位置するのがDS455であることに疑いの余地はない。メジャー・デビュー以降の名曲を収めたベスト盤「The Best Of DS455」のリリースは、そんな彼らの成功への道のりを再確認し、再評価する絶好の機会だ。今となっては語られることも少ない、彼らのストラグルの時代と、そこから這い上がってきたサクセス・ストーリーを語ってもらった。
(90年代中盤当時は)NYサウンド全盛の時代だったから、ライヴする場すらなくて。 でも、日本のHIP HOPは多分一枚残らず聴いてたし、 『さんピンCAMP』も出れなかったけど観客として観に行って。 俺もパブちゃんもMACCHOも、雨の中で客席から見てるのを凄く悔しく思ってて。 そういう経験がプライドだったりこだわりになっていったんだよね——Kayzabro
 ウエスト・コースト・スタイル不毛の地だった日本に種を蒔き続け、現在では一大勢力となった日本のウエスト・コースト・スタイルの始祖と言えば、DS455をおいて他にいないだろう。今回は初となるベスト・アルバム「The Best Of DS455」のリリースに際し、来年20周年を迎えるDS455ヒストリーを語り下ろしてもらった。
インタビュー:高木晋一郎   ■今回はベスト盤のリリース・インタビューということで、DS455のヒストリー的な部分からお話しを伺おうと思っています。まず、DS455の最初期ですが、DS455はKayzabroさんとSHALLAさんとで、PMXさんはMAZZ & PMXと、そもそもは別々に活動をされていたそうですが。特に、MAZZ & PMXでは12インチ“GO YELLOWS GO”や「DANCE 2 NOISE 001」収録の“ヴァイオレーター”を出されて、音源リリースもあったそうですね。 Kayzabro(以下K)「ただ、89〜90年ぐらいにはもう出会ってて。元々DSは俺の地元のツレ連中で集まって作ったグループで、凄くちっちゃなイヴェントを横浜で開いたりしてたんですね」    ■PMXさんが合流される前に一緒にライヴをされたりしてたんですか?  K「MAZZ & PMXがCLUB CITTA川崎でライヴをやった時があって、その時に『DSも一緒に出ないか?』って誘われて、MAZZ & PMX WITH DS455って形で一緒にライヴをやったことがあったんだよね。それが一番最初にやったライヴかな。それでMAZZが抜けて、パブちゃん(PMX)がDSに入った形になって。それと同時期に俺のやってた洋服屋があったんだけど、そこにレイダースのキャップにウィンドブレイカー着た『こいつギャングスタ・ラップ好きそうだな〜』っていう中学生が来て、それがまだ14歳だったMACCHO(OZROSAURUS)なんだ。それでMACCHOが毎日店に遊びに来るようになって『ラップやってみたら?』って話したら、すぐに上手くなったから、じゃあDSに入れようって。それが今に至るDSが形作られた最初かな」  DJ PMX(以下P)「音楽的なことをやり始めたのはそれ以降で、それまでは一緒に遊んでツルんでって感じだったよね。パーティを開いたりDJしたり、みんなで週末遊ぶような」 
■DS音源としては、「THE BEST OF JAPANESE HIP HOP VOL.3」収録の“ROLL IN MY NIGHT OF MADNESS”が最初になるんですか? P「いや、WILD BLUE YOKOHAMA(注:90年代に鶴見に存在した屋内型プール。現在は閉園)のコンピCD『CLUB WILD.B』にDS455として“ROLLIN WITH MY MUSTY, ROLLIN WITH MY CADI”を入れた方が早いかな。マッチョもMC MACCHOとして“NANATSUKI”が入ってて。それが95年かな」  K「たぶんそれが一番最初だと思う。イントロでD.Lに喋ってもらってるんだ」
■KayzabroさんとD.Lさんって実は付き合いが古いんですよね。  K「コンちゃん(D.L)はずっとNYに子供の頃から行ってたんだけど、高校の時に一度戻ってきてて、その時にクラブで知り合ったんだよね。彼は茅ヶ崎だし、歳が一緒っていうので仲良くなって。それでまたNYに戻るんだけど、20歳ぐらいの時に一旦日本に帰ってきた時に、パブちゃんにも紹介して」  P「MILOS GARAGE(注:DJ DOC HOLIDAY[現:須永辰夫氏]やZINGI、ECDなどが出演していた新宿のクラブ。現在も名前を変えて営業している)で、毎週火曜にHIP HOPばっかりかかってるイヴェントがあって、その時にコンちゃんを紹介されて。HIP HOPがクラブでかかるイヴェントなんてそれくらいしかなかったから、みんな集まってたね。それが90年ぐらい」 K「MUROやBOY KEN、キミドリ、GAS BOYSなんかも来てたよね」    ■パブさんはGAS BOYSの曲をプロデュースされてますが、それもMILOS GARAGE繋がりですか?  P「そう。あの当時は裏方としてECDやZINGI、RHYMESTERにもトラックを提供して。その頃から俺はウエッサイをやりたかったんだけど、ウエッサイそのものが認知されてない時代だし、まだ自分の中でも見えてない部分もあって。その少し前はPUBLIC ENEMY(以下PE)みたいな激しいのも好きだったから、N.W.Aも好きになって、その流れで両方(東も西も)追いかけてたんだよね」    ■それが西に完全に針が振れたのは?  P「DR. DREの『THE CHRONIC』が出た時だと思う。あのぐらいから完全に西になって、メロウなモノの方がカッコイイなって。それからWARREN Gとかを追い始めるんだよね」  K「俺もRUN DMC〜PEって東モノをガッツリ聴いてたんだけど、DE LA SOULぐらいから物足りなくなって。その時にパブちゃんにN.W.Aを教えてもらって、はじめは『ダサいな』って思ってたんだけど(笑)、聴いてく内にその中毒性に気付いて。それで『THE CHRONIC』が出るぐらいにはもう完全にハマってて」  P「それで『CLUB WILD.B』とか、『THE BEST OF JAPANESE HIP HOP VOL.3』ぐらいのタイミングで裏方仕事を辞めて、DSとしてウエッサイなトラックを発表し始めたんだ。やっぱり徹底しないとどっちつかずになっちゃうから」 
■その意味ではウエッサイものを作れないフラストレーションは裏方の時にはありましたか?  P「ちょっとね。ウエッサイな曲を作ってもリリースできないし、レコーディングさえできなかったから。今みたいにPro Toolsが個人でも持てて、自宅で録れる時代じゃなかったから、録るとしたら高い金払ってスタジオ押さえなくちゃいけなかったし」
  ■そういう意味ではウエッサイ・スタイルが無視されていたというか。  P「流れ的にそういう時代だったね」
■それは何故だったんでしょう?  P「やっぱり、ギャングスタだったりっていう、イメージが良くなかったからなんじゃないかな。それにNYモノのビートの方が受け入れられやすかったんだと思う。クラブで踊るにしてもね。ウエスト系のHIP HOPはチルってるモノが多いし、聴いた印象も全く別物だったろうしね」    ■そういう状況をどういう風に見てました?  P「その時思ってたのは、とにかくDSは日本のウエッサイのはしりのグループとしてやっていけば絶対芽が出ると思ってた」  K「ただ、その当時MICROPHONE PAGERだったり、BUDDHA BRANDだったりががんがんメディアに出れるようになってくのを、ちょっと悔しく思ってた。NYサウンド全盛の時代だったから、俺らはライヴする場すらもなくて。それで段々気まずくなって(NYサウンドにインスパイアされた勢と)離れてっちゃったって部分もあるんだよね。でも、日本のHIP HOPは多分一枚残らず聴いてたし、『さんピンCAMP』も出れなかったけど観客として観に行って。でも、俺もパブちゃんもMACCHOも、雨の中で客席から見てるのを凄く悔しく思ってて。そういう経験がプライドだったりこだわりになっていったんだよね」  P「それで、そこに入るより、ウエッサイの第一人者になろうと、シーンを作ろうって意識になっていたんだよね」    ■ただ、例えばそういう状況だと腐ってしまったり、極端な話、辞める人もいると思うんですね。その状況にあっても「このスタイルで進めば大丈夫だ」って精神を保てた理由は?  P「趣味に近い感覚というか、『好きだからやってる』ってトコなのかな。今だってその気持ちは変わらないし。特にその当時は、『他の仕事しながら音楽できりゃいいや』って気持ちだったからね、音楽で食おうって思ってないし」  K「だから、『俺たちはやれてない』って意識じゃなくて、『あいつらだけいけるようになったんだな』って気持ちだったから。例えば草野球のチームがあって、みんなそこに最初はいたんだけど、その中からプロに行くヤツもいるけど、俺たちは草野球が好きだからやってるって感じだったんだ」 P「だから1stの『BAYSIDE RIDAZ』を出す以前は、一生懸命練習してっていうより、酒呑んでる時にラップしたり、遊びに近い感じだったね」  K「その頃、マンション一部屋借りてて。毎晩のようにそこにみんな集まって、『この新譜聴いた?』とか、みんなでリリック書いたり、溜まり場的な感じだったね。それで出れるライヴがあればどこでもみんなで行って。繋がりはみんなウエスト・コーストのラップが好きってくらいで」
自分にとってウエッサイはライフ・スタイル。 サウンドからファッションからローライダーまで、 自分の生活の全てに近いものだね。そこにドップリ浸かってる——DJ PMX
■その当時って今みたいにネットも発達してないし、ウエッサイ専門のパーティもほとんどなく、メディアも(特に日本の)ウエッサイものは黙殺してるような状況でしたよね。つまり、誰がウエスト・コーストHIP HOPが好きなのかが分かりづらい中で、どのように繋がることが出来たんですか? K「いや、だから『まったく知らないけどウエッサイが好きだから繋がる』っていうような、そういう繋がり方は出来なかったね。ウエッサイを聴いて、そのスタイルをやってるヤツなんて俺たちしかいないと思ってた。だからその溜まり場にいたのも俺たちの友達や、マッチョの友達ぐらいで。だから、俺たちだけで孤立してやってた感じだよね。『THE BEST OF〜』を聴いてPHOBIA OF THUGが名古屋に呼んでくれたぐらいで。だけど、2000年に『BAYSIDE RIDAZ』を出したら、ライヴのオファーが凄く来て、『あ、俺らと同じようなヤツらがいたんだ』ってその時に分かったんだ」 P「『BAYSIDE RIDAZ』も『出すだけ出しとくか』みたいな気持ちで、1,000枚ぐらいしか作ってなかったんだけど、今は10万枚ぐらい売れてるし、そういう繋がるキッカケにもなったんだよね」
■そういう狼煙を上げたからこそ、「そこにいるぞ!」ってことがみんな分かって、そこで繋がることが出来たわけですね。 K「96年にSNOOP DOGGが来日した時にDSはフロント・アクトをやったんだけど、それを色んなヤツらが見てて、日本人がそういうサウンドでやってることに驚いたらしいんだ。だけど、繋がってなかったから、自分達のペースでやらざるを得ないし、繋がることでの相乗効果も生み出せなかった。『BAYSIDE RIDAZ』を出すことによって、そういう相乗効果も生み出せるようになったのかなって思うんだよね。音楽の話も普通に出来るようになったし。そんな時が来るとは思ってなかったんだけど、『やっぱり来たんだ』って。作られたムーヴメントじゃないが故に、凄く手応えを感じた」   ■その時期にはパブさんのプロデュースされたOZROSAURUS“AREA AREA"もリリースされましたね。 P「あの時期から世の中の流れが一気に変わった感じだったね。サウンドにしても、横浜の見方にしても」 K「そこで横浜のイメージが確立されたと思う」 P「それくらいから自分の作りたい音楽を直球で作っても受け入れられることが分かったから、このままやっていって大丈夫だって自分でも気付けたし」 K「で、その頃はまだまだ自分のことで精一杯だったんだけど、2002年にメジャーに移った時に、出来つつあったウエッサイ・シーンのことや、そのシーンにおいてどうすべきかってことを考え始めたかな」   ■2000年からのDSの動きは凄く速くなりましたよね。ライヴ的にもリリース的にも。 K「もう溜まってたものがいっぱいあって。それこそ構想は10年以上分あるから。色んな経験や思いもいっぱいあったし、それを形に出来る喜びも強かったね。でも、今まで無視されてたのが急に受け入れられたわけだから、『DabStar CLIQUE』の時は、『これでいいのかな』って戸惑いもあったけど、その戸惑いも一瞬だったし、進めるだけ進むしかないなって」
■先ほどシーンのお話しが出ましたが、その「DabStar CLIQUE」の時に認識されたシーンは、自分たちの想像と同じでしたか? K「うーん……。認識するまで、シーンが出来るなんて想像もしてなかったから、その時は『シーンが出来たな』って感じだったかな。ただ、今のシーンは少し想像と違うね」
■今のシーンはどのように想像と違いますか? P「昔はローライダーもいっぱいいたし、もっとコアなものになると思ってたんだけど、今は若い子も多くて、コアなモノに『憧れる人』が多いなって」 K「あと、アメリカのHIP HOPを聴かない人が大半を占めてて、そこが俺たちの思ってたものとは大分違うよね。俺たちはアメリカのウエスト・コースト・ラップが好きで、その思いを共有したかっただけだから。それは(日本のウエッサイ・アーティストを含めた)シーンが熟成されたからだとは思うし、それを見て育った層がシーンの大半だからだとは思うんだけど」 P「『これをウエッサイと言っていいのか?』っていうのも多いしね」 K「それはすげえ思うね。変にこだわったりして、俺たちが味わってきたような苦い思いを繰り返す必要はないと思ってるけど。ただ、ウエスト・コースト・ラップ自体にしっかりした定義がないから仕方ないと言えば仕方ないけど、とは言っても、イエスとは言えない状況もいっぱいある」 P「『メロウって言葉で片付けてるけどそれJ-POPだろ』って言うのもあるし」 K「まあ、俺たちがこだわってやってきたからそう感じるんだとは思うんだけどね。例えば日本にロックが入ってきた時に、『日本語でロックなんてロックじゃない』っていうのもあったように、時代と共に変わっていくものだから、今までの意見は『2008年のシーンに感じること』なんだけど。またこれから変わっていくだろうしね」 ■なるほど。 K「ただ、凄く良いと思うことは、俺たちの世代ではUSの東西抗争みたいな時代背景もあって『ウエスト・コーストなんて……』ってハナからバカにしてた人もいっぱいいたけど、若い人達はもっと自由に聴けてると思うんだよね。だから、俺たちが『ウエスト・コーストとは』みたいな話をしても、『うるせー親父だな』って思うかもしれないし(笑)、それでもしっかりしたウエスト・コースト・スタイルを守ってくれるヤツはいるだろうし、また別の進化をするヤツもいるかもしれない。ただ、それが日本語ラップなんじゃないかな、っていう目で俺は見てるけどね。内心は複雑だけど(笑)。俺たちの頃はセルアウトするのが一番ダサイことだったけど……」 P「今の若いヤツはそういう感覚ないよね。最初から売れたいと思ってる」 K「『セルアウトの何が悪いんですか?』って(笑)。『売れたくて音楽やってるんでしょ?』って思ってるよね」 P「感覚が全く変わってきてる。『売れること』と『セルアウトする』ことはまったく違うんだけど、その差を理解できないんだろうね」 K「『ウエッサイが流行ってるから、こいつら使って金儲けしよう』ってヤツもいるし、それに乗せられて操られてしまうヤツらもいてっていう、どの音楽でもやられてきたことが、ウエッサイにも来てるのが恐いね」   ■では、もっと総括的な質問で、DSが日本のHIP HOPシーンに与えてきたものを自己分析するとなんでしょうか? P「別の流れ……かな。流れの一つを作ったってことだと思う」   ■ベスト盤って自分たちを見つめ直す機会にもなると思うんですが、その中で気付いたものってありますか。 P「サウンド的に言うと……90年代中期ぐらいのことをずーっとやってんな〜って(笑)」 K「最近のアルバムは新しいことやってるんだけどね」 P「最近はね。ただベストに入ってる曲は95〜6年の一番いい時代のウエスト・コーストを一生懸命追求してると思う」   ■では、このベストからDSに触れる人にはどう聴いてほしいですか? K「まあ、今までのような話は実際考えてもらわなくていいと思ってるんだ、俺は。車でかけてたらHIP HOPが好きじゃないヤツでも『これ良いね』って感じてもらえればいいかなって。でも、それは昔だったら考えられないことだと思うし、それが出来るようになったのは凄く嬉しい」   ■これからDSの動く方向はどんなモノになるでしょう。 P「特に大きくシフト・チェンジするってことはないだろうし、DSの場合はあくまでもウエッサイのサウンドやファッションを追求したモノになるだろうね」 K「ただ、その見せ方を変えてければいいなって。今までは流れでここまで来てる部分があるから、自分達のモティヴェーションを高めるためにも、色んなことをやっていきたい。若手の育成だったり、ちょっと燻ってるけど面白いアーティストのリリースを出来たらいいと思ってる」
■最後に、DSにとってウエッサイ・スタイルとはなんでしょう。
P「ライフ・スタイル。サウンドからファッションからローライダーまで、自分の生活の全てに近いものだね。そこにドップリ浸かってる」 K「人生の半分以上これに費やしてきたし、冗談じゃなくて命がけでやってきたから、毎日の全てでもあるし、生きてきた時間の全てなんだと思うね」
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lonesomedog · 2 years
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音楽と僕
どんな曲聞いてるの。っていう質問めちゃくちゃ困る。
そりゃあもう、すごくたくさんの曲を聴くし、ジャンルも決まっていないし、一人のアーティストがずっと好きなわけではない。
昔、親友におまえのプレイリスト(正確にはiPod)はいいけど、たまに変な曲が入ってるからなと言われたことがある。変?よくわからない気がするし、なんとなく理解することもできる。僕の音楽をシャッフル再生したら、ハードロックの次の曲にアニソンが来るし、ゴリゴリのHIPHOPの後にElvisが流れる。
音楽との出会いなんて、だれも覚えていないと思うけど、なんとなくあれかな~というのはやっぱりCD買ったとき。これに尽きる。といっても、おそらく人生で初めて自分で買ったCDはORANGERANGEのMusiQだったと思うけど。あれは流行ってたし、当時最高にかっこよかったよね。でも、その次に記憶があるCDというと、昔は100円ショップに売ってた、クラシックのBEST盤みたいなもの。ボレロとか、そのあたりの有名な曲が入っているやつ。クラシック音楽は親がバレエをしていたから、ずっと聞きなじみがあった。マンションの上階からはピアノの練習が聞こえたし、当時好き子もバレエをやってた。出会いなんてそんなもん。
音楽との触れ合いの中でいくつか衝撃的な出来事があった。
ある時のクリスマスに、親がiPodを買ってくれた。それまではCDを少しづつMDに入れてプレイリストを作って聞いていた。これが一つ目の衝撃だった。もう今となっては時効だと思うからいうけど、昔は無料ダウンロードのサイトが山ほどあって、悪いお兄さんがたくさん使いかたを教えてくれた。逸れるけど、iPodとの出会いは、膨大な数の音楽との出会いであると同時にパソコン/インターネットという文化に触れるきっかけにもなった。使いかたがわからなくても、聞く人はいない。一つ一つ手探りで失敗して、イライラして、そうやって憶えていった。戻って、膨大な音楽の中から好きな音楽をピックアップして手当たり次第にiPodに入れて聞いた。同世代の中で、(まぁこれはこの当時の世界だから学校の人たちと比較して)僕が絶対に一番音楽を幅広く知っているという自信と誇りがあった。
二つ目の衝撃は、M君との出会いだった。M君は柔道教室で一緒だった人で、ギターをやっていて、すごく物知りだった。ある教室終わりに、パソコンを持ってきていたM君が僕に音楽を聞かせてきた。気に入った僕は、M君に勇気を出して聞いた。「これなんて曲?」M君は「知らないの?」って言った。これがもう、悔しくて悔しくて、この時から僕の中で「これなんて曲?」とか今だったらShazamしてる姿とか、絶対に言わないし見せたくないものになった。(ある種これはPrideの一種なのだと思うから、これはこれでなんとなく自分の好きなところでもある)
三つ目の衝撃は、Aviciiだった。これは前の話からだいぶ離れていて、というのも、人に聞くのは嫌な性分だから一人で音楽の世界をディグってたわけだ。大学生の時にヨーロッパに行った。それは人生で初めての一人旅で、ドキドキと不安で、とても普通の精神状態ではなかった気がする。でも、そんな中でヨーロッパの友人とパーティに出かけた時、LEVELSというAviciiの曲に出会った。その当時少しずつ流行り始めていて、僕も聞き始めていたEDMというか、クラブミュージックの先駆けだった。その少し前はPitbullとか、オラオラ系のダンスミュージックが流行っていた中で、AviciiのLEVELSは洗練されていて、どこか懐かしく、それでいて最先端だった。帰国するなり、錦糸町のタワーレコードに行って、CDを買った(この時CDを買うのはとても久しぶりだった。多分5年ぶりくらい)それから何年かして、クラブで働いていた時(これも勝手に運命だと思ってる)勤務中にAviciiが死んだことを知った。大好きなアーティストだったから亡くなった時は、喪失感はあったけど、LinkinParkのボーカルが死んだときも同じような喪失感があったから、それくらいかなと思っていた。でもある日、ふと気になってAviciiのラストパフォーマンス、IbizaのClub SPACEのパフォーマンスをYouTubeで見た時に稲妻が走った。というか泣いた。AviciiのLEVELSは、Etta JamesのSomething’s got a hold on meという曲のサンプリングで、Aviciiは最後のパフォーマンスに、彼を最初に有名にしてくれたLEVELSのサンプリングから(つまりEttaの曲)流して、それをLEVELSに繋げるという超カッコいいDJをした。で、その時、僕はこのサンプリング元の曲は知らなかったんだけど、Aviciiも僕と一緒だったんだ!って思った。たぶん、いろんな曲を調べて聞く中で、なんでこんなの聞いてるんだよとか、変な奴とか、こんな古臭い曲って言われてきたと思うんだけど、いやいや違うよって。めちゃくちゃカッコいいじゃん。聞いてみなよっていうスピリッツにすごく共鳴した。そもそもDJってそういうものなのかもしれないけど、こういう昔の曲、(とくにこのサンプリング元の曲は僕も大好きなった、テイストが似ているなって思った)をもう一度日の目あてて、それでまた世界中で有名にしちゃうなんてもう最高にかっこよかった。僕の気持ちを代弁してくれたような気がした。すごくいい曲なのに、恥ずかしくて人の前で再生しなかった、僕の聞いてきた最高の曲たちが、一気に報われたような感じがした。だからこそ、Aviciiは今も昔も、僕の中では特別なアーティストになった。
こうやって築かれてきた、僕と音楽の関係は、今もこれからも僕にとってなくてはならないもので、その中からどれが好き?と聞かれてもわからない。というか全部好きっていうのが答え。音楽のすべてが好き。原住民が奏でる足踏みの音楽も好きだし、パンクも好きだし、ロックも好きだし、アニソンも好きだし、クラシックも好きだし、EDMも好きだし、HIPHOPも好きだし、JPOPも好きだし、KPOPも好きだし、ラテンも好きだし、レゲエも好きだし。とにかく全部好き。アニメ好きの友人に、こんな質問したことがあった。「このアニメ、点数つけるなら何点?」友達は「好きだからなぁ。100点。」って言った。「じゃあこれは?」「100点。ハマったからなぁ。」うん。こんな質問して悪かった。わかる。めっちゃわかる。大好きなものは、嫌いなものを見つける方が難しい。
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