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#米軍基地が難民の一時収容と第三国への中継基地
ari0921 · 3 years
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)9月6日(月曜日)
通巻第7041号  
 コソボが、何でいま? 米、アフガン難民の中継基地に使用
   コソボ駐留の米軍基地が難民一時収容と第三国出国の中継業務
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 すっかり忘れられたミニ国家=コソボ。
セルビアの自治州だったが、国際世論を背景にNATOが介入し、もぎ取った。明けてビックリ、アルバニア系のイスラムにすっかり蚕食されていた。
首都プリシュティナは美観を取り戻し、立派なビルが再建されたのも、西側の援助と、海外へ散ったコソボ難民からの送金だった。コソボ独立で、もっとも裨益したのはアルバニアだった。セルビア系は逃げ出した。
 コソボはセルビアとの戦争の結果、(コソボはNATOの支援と米軍の空爆のお陰で独立できた)2007年に独立を承認された。だが、いまもセルビア、露西亜、中国はコソボを承認していて居ない。日本は独立承認をしたものの、2020年まで大使館業務はウィーンで代行していた。
 治安が悪いため安全保障はNATO軍が担当、この関係でプリシュティナに事実上の米軍基地があるのだ。
 さてアフガニスタン難民の行き先である。
 米国は12万人を脱出させた。バイデンは「大成功」だったと言い、ブリンケン(国務長官)は「脱出作戦は終了した」と会見した。
 しかし作戦はアフガニスタンから遠い場所で継続されている。
カタールのドーハ空港から、ドイツやイタリアにも分散して難民は移動しているものの、大半がドーハのキャンプに滞在している。米国への移住希望は五万以上。現在までにダラスとフィラデルフィアへ一部を輸送した。
 
手間取っているのはテロリストとスパイの混入であり、マヨルカス国土安全省長官は「危険人物の混入が認められるため、リストを作成している」と記者会見した。
ミリー統幕議長は「タリバンは統制がとれておらず、まもなくアフガニスタンは内戦に
突入するだろう」とする見通しを述べた。
その難民の一時収容と振り分けをコソボ駐留の米軍基地でおこない、第三国出国の中継業務を展開している。
このためブリンケン国務、オースチン国防長官はそれぞれ中東諸国を緊急に訪問する。ブリンケンはカタールとドイツなど欧州へ、オースチンはサウジアラビア、クエート、バーレンを手分けして廻り、「アフガニスタン以後」の中東の安全保障を話し合うとしているが、難民の受け入れ問題も議題には含まれる。
さてメディアの一部にはアフガニスタンのカブール空港の近くにCIAの秘密基地があって、アフガニスタ政府軍将校らは、この秘密基地から避難したと報道している。
真偽のほどは不明だが、カブール空港の大混乱をみても、政府軍幹部やらの姿はなく、そもそもガニ前大統領がアフガニスタンのどの空港から逃げたかは、依然不明である。カブール空港からではなかったことだけは確かだ。
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monqu1y · 3 years
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大戦がもたらしたもの  「大戦が 齎 ( もたら ) したもの」と題する講演を聞きに行った。  講演内容の要旨は、次のとおり。  1939年9月に始まったドイツとポーランドの戦争は、近隣諸国を巻き込んで規模を拡大していった。  イギリス・フランスがドイツに宣戦布告する一方、ソ連軍は、火事場泥棒的に、東からポーランドに攻め込んだ。  翌年、ソ連は、フィンランドを攻撃して領土の一部を奪うとともに、バルト三国を併合した。  ドイツは、デンマーク、ノルウェー、ベネルクス三国、フランスなどを制圧した。ドイツは、イギリスを牽制するためイタリアと、ソ連を牽制するため日本と軍事同盟を結んだ。近衛内閣は、軍事同盟に応じ、且つ、翌年、日ソ中立条約を結んで南部仏印に軍を進めたが、これらはスターリン戦略[砕氷船テーゼ]に沿うものだった。
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 1941年6月、独ソ激突が始まった。  半年後、日本は、アジア植民地解放戦争を開始し、フランス領インドシナ、イギリス領ビルマ、オランダ領インドネシア、アメリカ領フィリピンを占領した。  それに触発された植民地独立宣言の動きは次の通り。
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 1942年2月、中国共産党の中央党学校開校式で、毛沢東が、学風(学習態度)・党風(党活動)・文風(文書類の表現)の三風を整頓し、党内の主観主義・セクト主義・空言主義を克服すべき旨、述べた。三風整頓運動が起こり、毛沢東 側近の張宗可(康生)は、関係者を拷問して自白を得たうえで、政敵を、スパイ,裏切り者,内通者等に仕立て上げた。拷問は本人だけでなく親族や縁戚にまで及び、拷問に耐えられず、身に覚えのない罪を自白する者も多かった。ソ連人脈の王明,博古,張聞天,王嘉翔,楊尚昆,陳昌浩,杜作祥,沈澤民,張秦秋,王宝礼,王盛荣,王運城,��自舜,李元杰,汪盛荻,北海道特甫,殷剣,元嘉永,徐義新らは、失脚した。権威主義と官僚主義を率直に批判した王実味は、逮捕され処刑された。  1942年6月頃から、[砕氷船テーゼ]の予言通り、経済力と科学技術力を誇るアメリカを擁する連合国側が優勢に転じた。  1943年5月、ドイツと戦う連合国側に与する必要から、ソ連はコミンテルンを解散した。  1945年3月、日本軍がフランス軍を降してベトナムを独立させた。  1945年5月、イタリアが降伏し、ドイツも降伏した。8月には日本が降伏し、五千万(ソ連2060万,ドイツ950万,日本646万,ポーランド560万,中国318万,アメリカ113万,イギリス98万,フランス75万)人以上の犠牲者を出した第二次世界大戦は終了した。  しかし、「尊皇討奸」の志を受け継ぎ、資本家階級を倒して国家社会主義を目指す陸軍将校らは、敗戦受容れの詔を録音したレコード盤を血眼になって探し求めた。
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 彼らの狙いは、ソ連軍に依る日本民族解放を待つための時間稼ぎだった。  近衛文麿人脈が占める政権中枢から「ソ連仲介和平」という口実で情報を得ていたソ連軍は、日本降伏に先立って、軍を極東に集結させていた。  アメリカ軍に依る原爆投下を機に日本への攻撃を始めたソ連軍は、武器を持たない無抵抗の日本人を殺しながら、瞬く間に樺太や千島列島を占領した。
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  占守島 ( しゅむしゅとう ) で樋口中将が抗戦を命じなければ、北海道はソ連軍に 蹂躙 ( じゅうりん ) されていたのだ。
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 ソ連軍は、朝鮮半島も占領したが、アメリカ軍が上陸してくると、米ソ協定に従い38度線以北に退いた。  ソ連軍は、東ヨーロッパの占領地域でも、社会主義人民共和国政権樹立に力を注ぐようになった。  日本の敗戦でベトナムにはフランスの植民地支配者が戻ってきていたが、1945年9月に革命が起こり、ホー・チ・ミンがベトナム社会主義共和国の建国を宣言した。しかし、フランスは、それを認めなかった。  1945年10月、国際連合(本部:ニューヨーク)が発足した。  イギリスでは、大戦終了直前の選挙で勝った労働党政権が、「ゆりかごから墓場まで」の福祉充実策を実施し、銀行,石炭,通信,航空,電気,鉄道,ガス,鉄鋼などの重要産業を国有化していった。そのため、産業は競争力を失い、[イギリス病]とよばれるほど国力は衰退した。復活には、1980年代のサッチャー登場まで待たなければならなかった。
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 朝鮮半島では、信託統治(国際連合の信託を受けた国による統治)が検討されたが、まとまらず、アメリカとソ連による分割占領が行われた。  1945年10月10日、中華民国と中国共産党との間で、「内戦を避け、独立・自由・富強の新中国を建設」するための協議が行われたが、双方の思惑は、相手を潰す準備を整えるための時間稼ぎだった。  1946年6月、イタリアでは王制が廃止されて共和政となった。翌年2月にパリ講和条約を結んだイタリアは、エチオピア・アルバニア・リビア・ソマリランドなど総ての海外植民地を失った。  1946年6月、ベトナム南部で、フランス領コーチシナ共和国臨時政府の樹立が宣言された。  1946年7月、中華民国と中国共産党との間で、全面的な内戦が始まった。当初はアメリカの支援を受けた国民党軍が優勢なように見えたが、次第に、ソ連に降伏した関東軍の装備等( 就中 ( なかんずく ) 精鋭将兵の軍事指導)を利用できる中国共産党に形勢が傾いていった。  1946年12月、ベトナム軍とフランス軍の戦争が始まった。フランス軍が優勢だったが、ベトナム社会主義共和国軍はゲリラ戦を展開して頑強に抵抗した。  1947年2月、建国を悲願とするユダヤ人とアラブ人の紛争が絶えなかったパレスチナを持て余したイギリスは、委任統治を放棄し、国連にゲタを預けた。11月、国連総会は、パレスチナの土地の6割弱をユダヤ国家に、4割強をアラブ国家に分割する案を、可決した。倍以上の人口を抱え、殆どの土地を所有するアラブ人側に過酷すぎる不自然な決定は、アメリカ大統領トルーマンのゴリ押しによるものと言われている。
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 そこから、中東戦争が始まり、長く続くこととなった。  朝鮮半島では、統一政府樹立のための総選挙がソ連の反対で実施できなかったので、1948年5月にアメリカの占領下にある南部だけで総選挙が行われ、李承晩が大統領に当選した。8月15日、大韓民国第一共和国の樹立が宣言され、アメリカ軍政が廃止された。  1948年9月9日、朝鮮半島北部を実効支配する勢力(満州派、甲山派、南労党派、中国共産党、延安派、ソ連派など)が、朝鮮民主主義人民共和国の建国を宣言した。  1949年1月、中共軍が国民党軍を敗退させて、北京に入城した。10月1日、毛沢東が北京市で中華人民共和国の建国を宣言した。10月25日、中共軍八個連隊は、対岸の 厦門 ( アモイ ) からの砲兵隊の援護を受け、200隻のジャンクで三方向から包囲するようにして金門島に迫った。これに対する国民党軍(三個師団と保衛一個連隊)は、旧日本陸軍中将 根本博氏の指揮を受け、一発も反撃せず、中共軍を上陸させて島内に誘い込んだ。日没後、国民党軍は、ジャンクに火を放って上陸軍への補給と退路を断ち、総反撃に出た。中共軍は、混乱し、包囲網の開いた一方向に雪崩を打つように殺到して海岸に向かったが、追いかける国民党軍と島陰で待機していた海軍の挟み撃ちに合って壊滅した。以後、中共軍は、対岸から砲撃するだけで、金門島に上陸しようとしなくなった。
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 1949年4月、北米と西欧の30箇国は、軍事同盟NATOを結んで共産圏の脅威に備えた。  1949年6月、ベトナム王国ができ、ベトナム帝国皇帝だったバオ・ダイが国王になった。  1949年12月、南京から逃れ出た蒋介石らは、台湾島の台北に中華民国政府を移転させた。  1950年1月、イギリス労働党政権が、中華人民共和国を承認した。  1950年2月、フランス、アメリカ、イギリスがベトナム王国を承認した。  1950年5月、韓国の総選挙で、李承晩政権に対する不信任の結果が示された。2年後��期満了時の再選を危ぶんだ李承晩は、人気挽回策として、対日戦意を煽り「対馬侵攻」を名目に精鋭軍を南下させ釜山に集結させた。手薄となった首都ソウルは、「国土完整」を唱える朝鮮民主主義人民共和国軍にとって、格好の餌食に見えた。  1950年6月25日早朝、北朝鮮軍による総攻撃が、青天の霹靂の如く、何の前触れも無く始まった。防衛ラインは次々と突破され、韓国軍はひたすら敗走を続けた。韓国政府は非常閣僚会議で、ソウルを捨てて南にある水原への遷都を決め、李承晩は更に南の大田に逃れた。ラジオは「国連軍が助けてくれるから安心しろ」と大統領の肉声を放送し続け、新聞は事実と異なる韓国軍の反攻を伝えていた。大統領が逃げ、国民を欺き続ける中で、北朝鮮の南進を少しでも遅らせる為、韓国軍はソウルを東西に流れる漢江の人道橋を、多数の避難民もろとも、爆破した。後に、橋爆破の現場責任者だったチェ・チャンシク大佐が責任を問われて処刑され、真相は闇に葬られた。  米軍機動部隊が大田に到着し防衛線を築いたが、北朝鮮軍は韓国軍を攻め、それを崩壊させて横にいる米軍を包囲した。韓国軍は大量の米軍装備を放棄して逃げ、それを北朝鮮軍が使い、米軍の装備で米軍兵が殺害される状況になった。  しかし、李承晩は、韓国軍が前線に立つことを主張し続け、状況は改善されなかった。  その結果、米軍主体の国連軍は敗北を重ね、8月末には、北朝鮮軍が釜山まで60キロメートル余の昌寧郡に迫った。  9月2日、マッカーサー元帥が国連安全保障理事会に「国連軍の活動に関する第3次報告書」を提出し、国連軍増強の必要を強調した。また「北朝鮮軍がカムフラージュの為に民家や民間輸送機関を利用しており、軍事目標を識別することは著しく困難である」旨説明し、民間人・施設に対する攻撃の正当性を説明した。民家人を装い、或は、民間人に紛れ込んで、民間人が攻撃しているように見せかけるのは、共産主義者の常套手段。民間人の犠牲を材料とするプロパンガは、彼らの強力な武器となる。9月15日、国連軍は、仁川上陸作戦を成功させ、ソウルを奪回した。
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 しかし、李承晩の主張に基づき韓国軍を前線に立たせた結果、米軍の装備で米軍兵が殺害される状況が再現され、翌年1月、中共軍にソウルを占領されてしまった。  その後、戦況は、一進一退を繰り返したが、国連は休戦への道筋を作り、両軍の捕虜送還協定が締結された。  6月18日、李承晩は、国連決議を無視し、アメリカに何の予告も無く、抑留中の朝鮮人民軍捕虜二万五千人を北へ送還せずに韓国内で釈放させ、国際世論の非難を浴びた。この釈放は、不法に抑留した日本人の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として日本の刑務所で収監されている韓国人受刑者に対する放免・日本永住許可付与を要求した手口に相通ずる処がある。  1951年9月、サンフランシスコで吉田茂首相が講和条約に調印し、日本は主権を回復した。朝鮮・台湾・南樺太・千島は放棄し、沖縄と小笠原諸島はがアメリカの占領下に置かれることとなった。調印したのは48カ国だった。同日、日米安全保障条約が結ばれ、アメリカ反共陣営に日本が組み込まれた。  1952年1月、韓国は、 所謂 ( いわゆる ) 李承晩ラインを一方的に設定した。  1953年3月、ソ連の最高指導者スターリンが病死した。  1953年7月、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国が、軍事境界38度線を挟む休戦に同意した。軍事委員会委員長に就任した金日成は、朴憲永、金枓奉、崔昌益、許貞淑、金昌満、武亭、朴一禹、朴孝三、方虎山、尹公欽、徐輝、李相朝、金雄、鄭律成、金元鳳、許哥誼、朴昌玉、金烈、朴義琓、総政治局長、崔遠、金七星ら他派の政敵を次々に追い落とし粛正して、権力を強化しいった。  1953年12月、韓国は、日本海で漁船数百隻を拿捕し、乗組員数千人を抑留した。
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 そして、抑留者の返還と引き換えに 日本の刑務所 で常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として 収監 されている韓国人 受刑者 の 釈放 を要求した。日本政府 はこれを飲み、在日韓国人犯罪者472人を放免し、日本での永住許可を与えた。  1954年2月、 嘗 ( かつ ) て中国西北部の陝西省で毛沢東らを迎え入れた高崗が「東北部を独立王国にしようとした」という濡れ衣を着せられて失脚し、半年後に毒殺された。  1954年、ベトナム国王バオ・ダイは、首相にゴ・ジン・ジェムを任命した。翌年、ゴ・ジン・ジェムが国民投票を実施し、ベトナムは共和国になった。ゴ・ジン・ジェムは大統領に就任し、アメリカの軍事援助を取り付けた。バオ・ダイはフランスに亡命した。  1955年、ソ連と東欧諸国は、NATOに対抗するため、軍事同盟WPOを結んだ。  1956年、ソ連での個人崇拝批判の影響受けて、北朝鮮でも金日成批判の動きが出てきたが、金日成は、甲山派と組んで政敵を除名し逮捕した。  1956年5月、毛沢東は、最高国務会議で「百花斉放 百家争鳴」を提唱し共産党への批判を歓迎した。翌年2月の最高国務会議でも中国共産党に対する批判を呼びかけるとともに、翌月6日から1週間かけて全国宣伝工作者会議でもさらに中国共産党に対する批判を呼びかけた。知識人の間で中国共産党に対する批判が徐々に出始めるようになり、共産党の中国支配に異を唱えたり毛沢東の指導力を批判する者も出てきた。5月、毛沢東は、新聞に対して党の批判とあわせて「右派」に対する批判も行うよう命じたが、「右派らは有頂天になっている。まだ釣り上げてはならない」と述べた。6月、人民日報は「右派分子が社会主義を攻撃している」という毛沢東が執筆した社説を掲載した。10日後、人民日報は、毛沢東が 嘗 ( かつ ) て「百花斉放 百家争鳴」を呼びかけた演説内容を掲載したが、演説したという内容は、批判を制約するものだった。党を思い切って批判した知識人たちは社会主義政権破壊を画策した[右派]というレッテルを貼られ、知識人の粛清運動(反右派闘争)が始まった。以後、中国共産党批判は二度と行われなかった。
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cookingarden · 4 years
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ジェイ・ローチ監督『オールザウェイ JFKを継いだ男』 (その2:民主党全国大会から大統領選挙まで) 原題:All The Way 制作:HBO Films, アメリカ, 2016. 大統領選挙に立ち塞がる二つの難題 公民権法はなんとか成立に漕ぎ着けたものの、大統領選はあと4ヶ月に迫っていた。すでに共和党のゴールドウォーターは、1936年以来の保守派出身の大統領候補として活発な選挙活動を展開していた。対するジョンソンは"ALL THE WAY WITH L.B.J.(どこまでもジョンソンと共に)"の標語を掲げる。本格的に大統領選を開始するにあたりジョンソンは、「これまでとは異なる方法で闘う」と闘志を顕にしている。映画のタイトルはこのときの標語から採られたものだ。
この時点でほぼ同時に二つの問題が起きる。ひとつは、公民権運動「フリーダム・サマー」の活動家3人が失踪する事件である。最終的に3人は死体で発見されるが、殺害には3人をスピード違反で逮捕した白人警官のシーセル・レイ・プライス副保安官が絡んでおり、後にプライスがKKKの陰謀の片棒を担いでいたことが明らかになる。この経緯については映画でも簡明に表現されているが、事件の真相については引用文献13) に詳しい。 もうひとつは北ベトナムの空爆である。8月に入ってすぐ、国防長官ロバート・マクナマラからトンキン湾で駆逐艦マドックスが魚雷による攻撃を受けたとの情報が入る。だが、詳細を問うジョンソンに、マクナマラは明快な攻撃の証拠を示さない。確かに攻撃を受けたが被害はないという。だが、マクナマラは大きな問題があるという。いったい何が問題なのかとジョンソンが詰問する。マクナマラは「攻撃された場合、空爆する決まりになっています。残念ながら、この情報が漏れてしまいました。」という。 すぐにジョンソンは、これは国内問題に発展すると気づく。空爆しなければゴールドウォーターが「弱腰だ!」と突いてくるのは間違いない。それに世論が応じれば選挙には大きな痛手になる。だが、攻撃を受けた確たる証拠はない。ハンフリーは「確信を得てから攻撃すべきです。」と空爆を思い止まらせようとする。しかし、ここでジョンソンは苦渋の表情でマクナマラに空爆を命じる。「やれ。」これが事実上の北ベトナムに対する宣戦布告になったと言われている。14) この決定の直後ジョンソンは、彼に反対したハンフリーに「ゴールドウォーターが勝てばソ連との世界大戦がはじまる。貧困や公民権問題も忘れられる。わたしはこの国を変えたいんだ。君を副大統領にと考えた自分がバカだった。お前は慰めにもならん! 選挙の年なんだ!」と罵声を浴びせている。
公民権活動家殺害事件が生んだ新党 最初に起きた公民権活動家3人の殺害事件は、大統領選に大きな影響をもたらす。少し詳しく経緯を辿っておきたい。 被害にあった3人は、KKKによって放火された教会の調査に向かうところだった。その彼らが殺されたことで、白人への抗議はかつてない高まりを見せる。黒人の意見を議会に反映させる必要性が叫ばれ、南北戦争以来はじめてといわれる非差別・非排他的な新党MFDP(Mississippi Freedom Democratic Party:統一ミシシッピ州自由民主党 )への議席獲得運動がはじまる。キング牧師はMFDPの代理人に就任する。 これはジョンソンにとって頭痛の種だった。地元テキサスの知事ジョン・コナリーが、もし黒人に議席を与えれば、南部の多くの州が民主党党大会から退席すると通告してきたのだ。民主党全国大会は民主党が正副大統領の指名候補を選出するための大会である。ここで南部の党員が退席すれば、ジョンソンは大統領候補者の指名を得られなくなる。 ちょうどそのとき、MFDP副代表の黒人女性ファニー・ルー・ヘイマーが、1963年に彼女が有権者登録をしようとして受けたひどい仕打ちについて、会場のテレビカメラの前で証言しようとしていた。テレビ中継がはじまり、人間の尊厳を顧みない、人道にもとる暴行が語られる。ヘイマーは、「いったい、ここはアメリカなのでしょうか」と、悲痛な訴えを行う。 この訴えがリベラル派の支持を集め、南部の党員に不快感を与えれば彼らは退席してしまう。テレビの前で危機感を募らせたジョンソンは、自ら会見を開き党大会のヘイマーの会見から人々の目をそらすことを思いつく。内容などどうでもよかった。すぐに準備を整え、ヘイマ一の会見に大統領の会見が割り込む。へイマ一にしてみれば酷い話だ。 ジョンソンは記者団を前に、「副大統領候補は誰になるのか? この件は間もなく決定します。」と発表する。たったそれだけの会見だった。呆気にとられる記者たちの表情が捕らえられている。黒人の権利を尊重しながらも、ジョンソンがいかに選挙戦を重視していたかがわかる。 だが、黒人の議席を求めるMFDPの要求は収まらない。考えた挙句ジョンソンは、黒人と白人にそれぞれ1議席を与えるアイデアを思い付く。その上でジョンソンは、これまでハンフリーを利用してきた全米自動車労働組合のウォルター・ルーサーに「このまま党大会が荒れればハンフリーの将来はない、そうなればお前らの利権は断たれるぞ。MFDPをなんとかしろ。」と脅しをかける。 ルーサーはハンフリーとの政治的な繋がりを利用し、組合を通じてMDFPに資金を提供してきた。利権を失いたくないルーサーはキング牧師と面会し、譲歩しなければ援助を打ち切ると伝える。組合からの援助がなくなれば、MFDPは街頭募金に頼るしかない。それでは組織が維持できない。キング牧師は2議席の妥協案を受け入れようと仲間を誘う。これにたいし、SNCC(学生非暴力調整委員会)の指導者ボブ・モーゼスは「大農場の白人経営者みたいな決め方だ」と批判する。キング牧師は「わたしは100年に一度のチャンスをムダにしたくない」と反論するが、話し合いは物別れに終わっている。 投票権のときもそうであったように、ここでもキング牧師はジョンソンの考えを支持している。キング牧師の活動に理解を示した大統領といえばケネディの名前があがることが多いが、この映画からは、実際に考えと行動をともにしてきたのはジョンソンだったと思えてくる。 寝室で行われた民主党全国大会の舞台裏 結果的に党大会では、MFDPに2議席を与えるという決定に反対したミシシッピとアラバマの代表が退席する。ジョージア州知事カール・サンダースからも、自分たちも退席すると電話がかかってくる。いまにも南部の全州が党大会を抜ける勢いだ。このときジョンソンは、会場から電話で「黒人に議席を与えれば党大会は乗っ取られます。これは信条の問題です。」と訴えるサンダース知事に、次のような説得を行う。(ジ)はジョンソン、(サ)はサンダースである。
ジ「黒人たちも民主党員なのに州大会を締め出された。」 サ「登録していないからです。」 ジ「登録させないんだ! 殴ったり銃で撃ったりして。」 サ「一部の白人の話です。」 ジ「カール、いまどき古いやり方をしていたら政治の世界では生き残れない。黒人を食い物にするのはやめるべきた。」 サ「大統領こそ、あの黒人たちを追い出さないと・・・」 ジ「分からないか!! 君こそ決断すべきだ。キリスト教徒だろう。聖書の言葉を心に刻んでいないのか。君の政治信条は? ジョージア全州民の生活を改善したくないのか?  サ「それは・・・」 ジ「君も男だろう。正しいと思うことを貫くのが男だ。それとも逃げ出すか。わたしを脅しても無意味だ。退席したいなら、早く出て行け! 違うなら──わたしの標語が書かれた帽子をかぶって、そこにいてくれ。会場で会おう!」
ここでもジョンソンは、自分が考えることを相手が自分の身で考えるように相手を誘導している。受話器を置いたサンダースはその場に止まる決断をする。これらのやりとりはすべて、ジョンソンの寝室から、パジャマ姿で電話を通して行われている。だが、会場で興奮状態にある相手を電話で説得するのは大変なことだ。 電話のあと疲れ果てて横になり、「オレはもうダメだ。バード、君はいつも逆らう、ヤツらと同じだ。放っておいてくれ。」と子どものように拗ねるジョンソンに、バードが「お断りよ。わたしを見て。あなたは世界一勇敢な大統領よ、党大会でもこの国でも。わたしの夫はダメ男じゃない。」と声を掛ける場面がある。映画とはいえこの二人の姿には、この男は国民からも愛されていたのだろうと思わせる妙な生々しさがある。 こうして、ジョンソンは民主党の大統領指名候補として選出される。副代表候補は、もちろんハンフリーだった。 大統領選を有利にしたジョンソンのメディア戦略 民主党の大統領候補者指名は獲得したものの、選挙戦に出遅れたジョンソンは苛立ち、巻き返しを図る。大統領選挙の当日11月3日まであと27日に迫った日、ジョンソンは広報ビデオの最終確認を行う。これまで観たこともない映像だ。ビデオを観終わったジョンソンは直ちに「すぐ放映しろ」と指示し、もう一度見せるように言っている。それは彼にとっても印象の強い映像だった。 原爆実験の映像を使ったこのテレビCMは、日本人のわたしには受け入れがたいものだ。しかし、映像は批判的な意図で使われたようだ。Wikipediaには、ゴールドウォーターがベトナムで核兵器を戦術利用すると発言したのを批判したものだとある。15) そしてこのビデオは、何よりも当時のアメリカ人に絶大なインパクトを与た。 「雛菊の少女」と呼ばれるこのテレビCMについて、国際政治学者の松本佐保氏は、『熱狂する「神の国」アメリカ』のなかで次のように書いている。16)
(「雛菊の少女」は)平和な雛菊の花畑が、核爆発の画面に切り替わるもので、タカ派の共和党が政権を取れば核戦争が勃発すると仄めかしたこのキャンペーン用CMは、キューバ・ミサイル危機の恐怖冷めやらぬ国民に、絶大なインパクトを与えた。大統領選での一般投票では、ジョンソンが六一・一%もの票を獲得し、ゴールドウォーターの三八・五%に大きく差をつけて圧勝したのである。(Kindle の位置No.1214-1217)
松本氏によれば、テレビCMによる民主党のネガティブ・キャンペーンで大きな敗北を期した共和党は、その後メディア戦略を見直しメディアの効果的な活用に目覚めたという。現在では主流となっているSNSの政治利用も、源流は1964年に登場したこの「雛菊の少女」にあるのかもしれない。 圧倒的勝利となった大統領選挙 いよいよ選挙戦の終盤となり、ジョンソンはルイジアナ州ニューオルリンズの党大会で演説にのぞむ。共和党候補ゴールドウォーターの支援者で埋め尽くされた会場は、「頑張れゴールドウォーター!」の叫びで包まれている。ジョンソンは「なんで民主党の集会でゴールドウォーターなんだ。」と渋面を浮かべながら壇上に上がり、「南部の皆さん聞いてください」と切り出す。 ちょうどこのときキング牧師は、10月14日に発表があったノーベル平和賞の祝賀会で演壇に立っていた。17) キング牧師は静かな口調で、いまも続く黒人への厳しい差別の現状を訴える。
わたしは公民権運動を代表して、この賞をいただきます。公民権運動は、自由と正義の国をつくるための運動です。暴行され、殺された仲間が後を絶たない。だが、わたしには確信がある。すべての人が、尊厳と平等と自由を享受できるはずだ。
一方の党大会ではジョンソンがこう訴える。
よそ者が人種差別だと騒ぎ立て、南部の人間を分断しようとしているという。だが、皆さんが手をとれば南部はもっと良くなる。それなのに、選挙になれば『ニガー、ニガー、ニガー』の憎しみにあふれている。だがわたしは、偏見を訴え騙すものを許さない。わたしたちは公民権法を手に入れた。わたしはこの法律を執行します。なぜなら、それが正しいことだからです。
このカットバック場面は、ジョンソンとキング牧師の二人がともに思いを重ね手を取り合えたことが、互いの念願だった人種差別の克服に貢献したことを伝えている。二人が共に口にしている公民権法の成立、そしてノーベル平和賞がその具体的な成果である。ジョンソンの演説する姿が選挙戦に勝利する前なのは、大義の成就を約束する未来への予言的な意味あいなのだろう。 そしてついに1964年11月3日、大統領選挙の日が訪れる。テレビが開票速報を伝える。これまで民主党の牙城だったジョージア州では共和党が勝利したことが伝えられる。しかし、南部ではジョンソンが追い上げている。そして夕刻、ニューヨーク州での投票が終わる。 そのころすでに夜になり、地元ジョンソン農場では勝利を確信した人々が集まり、祝賀ムードに包まれていた。その喧騒のなかテレビがジョンソンの勝利を伝える。
リンドン・ジョンソンが次期大統領に選出されました!
人波のなかでジョンソンが叫ぶ、「当選したぞ、バードを呼んでくれ! バードはどこだ?」その背後からバードの声がする。「いつだって、後ろにいるわ」と。当選と同時に妻の名前を叫び、背後から声を掛けるバードの姿に、共に戦ってきた二人の姿が滲み出ている。 開票結果は記録的なものだった。ジョンソンは50州のうち44州とコロンビア特別区を制する大勝利を収めた。ラッセルの地元ジョージアは共和党が勝利したが、共和党保守派は拒絶されたことになる。さらに、ジョンソンは一般選挙で61.1%の得票率を獲得した。これは1820年以降の大統領候補者が得た最高の得票率と言われている。18) こうして1964年は、7月の公民権法の制定、10月のキング牧師のノーベル平和総受賞、そして11月の大統領選での民主党ジョンソンの圧勝という歴史的な変化が、アメリカの政治と国民の意識に刻まれる年となったのである。 悲劇を招いた北ベトナム空爆 しかし、ジョンソンがケネディから引き継いだのは公民権法だけではなかった。公民権法が山場を越えたあと、大きな問題として残されたのがベトナム戦争だった。 ジョンソンは人種差別の克服に大きな功績を残したが、同時にベトナム戦争の拡大をもたらした大統領でもあった。ジョンソンは選挙戦のさなか北爆を命令する。前述のように、このときマクナマラから伝えられた情報は不確かなものだったが、ジョンソンは選挙戦で不利になることを恐れ攻撃の道を選んだ。その判断は正しかったのだろうか。映画にはその後日譚が微妙なタッチで描かれている。 当選が伝えられ祝賀気分に包まれるジョンソン農場には政府の高官たちもいた。祝賀会が中盤に差し掛かったころ、ラッセルとの電話が終わるジョンソンを待つマクナマラの姿があった。マクナマラは「こんなときですが、お詫びがあります。」と、サイゴン(現在のホーチミン)大使館から届いた報告書を手渡す。 映画に描かれているのはこれだけだが、マクナマラが口にした「お詫び」は、8月にマクナマラが報告した魚雷の攻撃が間違いだったことを暗示しているように見える。映画からはその具体的な内容を窺い知ることはできないが、北爆がその後も激化していくことを考えれば、当選祝賀会の夜にこのような形で何か決定的な「反省」が伝えられたとは考えにくい。はたしてこの場面は史実なのだろうか。 映画の範囲を超えるが、この話は4年後のいわゆる「トンキン湾捏造事件」へと発展する。ペンタゴン秘密文書の公開により、攻撃がホワイトハウスで仕組まれていた事実が明らかにされるのだ。ジョンソンが議会に提出し採択された「トンキン湾決議」自体も取り消された。 公民権法で人種差別の解消に務める一方、それを実現するための政治判断が事実の捏造にもとづくベトナム戦争の拡大だったことは大きな矛盾だった。もちろんジョンソンには、もし攻撃を思い止まったことで選挙に負ければ、ゴールドウォーターが世界大戦の口火を切るとの思いがあった。しかし、歴史の事実に「もし」はない。ジョンソンは大きな汚点を残すことになった。 このことは、ジョンソンの政治生命に大きな影響をもたらす。ジョンソンは1968年3月31日夜、次の大統領選挙についてテレビ演説を行い、次の考えを述べたという。6)
アメリカ軍の兵士たちが遥か彼方の戦場にいて、アメリカの未来が国内で危機に瀕し、全世界が平和を願おうと、毎日が不安定な状態にある時、私は自分の時間の1時間、1日たりとも、1個人・1党派の目的追求のために捧げるべきではないと考えます。大統領という大きな義務以外の如何なるものも、自分の時間を捧げるべきでないと信じます。
したがって私は次期大統領候補として、民主党の指名を求めることも、受諾することもありません。
この大統領選挙不出馬の表明は、ベトナム戦争の失敗により、国民との信頼関係が持てなくなったことを表している。その前年の1967年11月には、マクナマラ国防長官が辞意を表明している。さらに、追い討ちを描けるようにテレビ演説の4日後の1968年4月4日、キング牧師が凶弾に倒れる。不出馬を表明したころのジョンソンは想像を絶する悲劇のなかにいたことだろう。映画に描かれた4年前とは状況は様変わりしたのである。このころのジョンソンが映画に描かれることはないだろう。 こうしてジョンソンは、1963年11月22日にケネディ暗殺により大統領に昇格したあと、1969年1月20日を最後に第36代アメリカ大統領の政治人生を閉じた。在任期間は5年と59日だった。それから4年後の1973年1月22日、ジョンソンは永眠した。64年の生涯だった。死因は映画のなかでも持病として描かれた心疾患によるものだった。 プライバシーに見るジョンソンの現実主義と映画のスタンス 本稿を終える前に、この映画のもう一人の重要な登場人物、首席補佐官のウォルターについて触れておきたい。ウォルターは補佐官として常にジョンソンに仕える人物として描かれている。ほとんど使い走りやなだめ役のような描き方であり、政策決定に影響するような会話もない。しかし、ジョンソンからの信頼は厚く、ウォルターは25年間をともにする家族のような存在だった。補佐官として、実際にはジョンソンに影響を与えたと思われるが、映画にはそうした描写はない。 そのウォルターが大統領選挙を目前に、突然、風俗犯罪取締官によって逮捕される。YMCA(キリスト教青年会)の男子トイレで陸軍の軍人と共に捕まったというのだ。当時としてはこれは「事件」だった。ジョンソンは、すっぱ抜かれたら選挙に不利になると考える。報告に来たFBI長官のフーバーはもみ消しを口にするが、ジョンソンはそんなことは当てにならないとして、健康上の問題を理由にウォルターを辞任させる。 なぜ25年も一緒にいて気づかなかったのかと落胆したジョンソンは、フーバーに「どうやって見分けるんだ、その性癖を」と尋ねる。フーバーは「独特の気配り、物腰、服の着こなし、髪の整え方、歩き方も違う」と答える。そのフーバーに「君がいうなら・・・本当だろう」とつぶやくジョンソンの視線に釘付けになり、息を飲んでジョンソンを凝視するフーバーの表情がリアルだ。 この場面は、フーバーの性癖を知る者にユーモアを誘うが、実話であるウォルターの描き方も含め、この映画は登場人物のプライバシーを笑いものにはしていない。妻のバードは、ウォルターはいまや敵だというジョンソンに、「あなたは間違っている。わたしは友達が大切なの。これから声明を出すわ。」とキッパリと反論してみせる。こうした描き方は2016年に制作された伝記映画がプライバシーを扱う際の、ひとつのスタンスなのだろう。 映画の描写はここまでだが、ウォルターに関するWikipediaによれば、逮捕の翌日には大統領補佐官の逮捕は一面トップのニュース記事となり、ウォルターは一躍全米で知られる人となった。19) しかし、ジョンソンの心配をよそに、選挙への悪影響はほとんどなかったようだ。20) ジョンソンは選挙を気にしすぎるあまり、ウォルターに大きな犠牲を背負わせたことになる。ここには、情報が不確かなまま北爆を選んだときと同じ構図がある。 キング牧師の性癖も描かれている。キング牧師は女好きで複数の愛人がいたことが知られているが、21) 映画ではその内実がFBIによって盗聴され、テープに記録された情交の様子が脅しに使われる場面が描かれている。フーバーは自らの性癖を隠しながら、他人のそれを攻撃していたことになる。フーバーはその録音テープをジョンソン聴かせながら、「不貞を働くなど、とんだ偽善者です」と逮捕をそそのかす。しかしジョンソンは、「南部の牧師が聖歌隊と懇ろになるとはな」と笑って茶化しながらも、「妻一筋でない政治家や聖職者を逮捕していたら、誰もいなくなる」とフーバーの考えをいなしている。 これは、ジョンソンの大らかさや寛容さによるものではなく、キング牧師を逮捕すれば公民権法の制定には不利になるという判断からだ。ジョンソンは自分の信念の前にはどこまでも現実主義を貫く人物だったことを伺わせる。そのジョンソンの姿勢は公民権法制定の原動力となったが、同時にベトナムに戦禍をもたらし、近親者に不幸をもたらすものでもあった。 映画『オールザウェイ』を振り返って 以上、史実を補足しながら、本作がどのように当時の状況を描いているかを見てきた。振り返って思うのは、1964年にリンドン・ジョンソンが経験した一年間の驚くべき濃さである。その濃密さは、ジョンソンという人物の情熱と、公民権法の重い希望から生み出された。 リンドン・ジョンソンという名前を聞いて、アメリカの大統領の一人だと思い出す人は少なくないだろう。しかし、リンカンやケネディ、最近ではオバマやトランプなどの大統領に比べ、その印象は薄いのではないだろうか。わたし自身そうだった。しかし、この映画はその必ずしも目立たない一人の昇格大統領が、公民権法制定の真の立役者だったことを教えてくれる。 映画『オールザウェイ』に描かれた公民権法制定の舞台裏は、アメリカの政治が人種差別問題にどのように取り組んできたかを知る貴重な記録だと思う。それが貴重であるのは、完成した法律の条文だけではわからない、社会の事情や人が心に抱く動機が描かれているからだ。私たちはそうした人生の経験なしには何事も生み出せない。 ジョンソンを人種差別の克服に駆り立てた原点は、青年時代の教師体験にあった。その動機を妻のバードや補佐官のウォルターは側で支えた。そして、キング牧師との共闘は動機に社会的な広がりをもたらした。こうした事情は映画を通じてこそ知ることができるものだ。 その一方で、公民権の法制化は人種差別克服の動機に具体性を与え、劇的な効果をもたらした。本文で示したように、法制化によりアフリカ系アメリカ人に白人と同等の権利がもたらされ、彼らの社会進出が拡大した。これは事情や動機だけでは実現できないことだ。 しかし、法制化がそれほどの効果をもたらしたにもかかわらず、半世紀以上が経過したいまも人種差別は一向に解消される様子がない。そのことについて本田創造氏は前掲書のなかで次のように書いている。8)
「黒人問題」は、すでに詳しく述べた公民権運動の数々の輝かしい差別撤廃の成果にもかかわらず、依然として解決されていないということである。(…)黒人大衆の経済状態は、最近では、むしろ悪化さえしている。それは、かれらの存在そのものが、最高度に発達したアメリカ資本主義の重要な存立基盤のひとつとして、この国の社会経済機構の中に差別されたかたちで構造的に組み込まれているからである。 (Kindle の位置No.2903-2908).
本田氏が指摘する構造的差別は、本ブログで紹介した映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』の「その2」で詳しく取り上げたように、例えば警察の収監システムなどを通じて1980年ごろから顕在化してきた。ここで注目したいのは、ジョンソンが行った取り組みのあとまた別の政治的な動機が芽生え、それが公民権法では防げない制度となり、新たな差別が生まれたことである。 重要なことは、差別とその解消はともに人の動機から生まれ、制度となって社会経済的な影響を発揮することにある。動機がある限り、それに実効性を与える仕組みが生まれてくる。そうであれば差別の解消には、差別する動機をなくする取り組みが必要になる。 しかし、現実の経済システムは差異を前提に成り立っている。マルクス・ガブリエル氏が指摘するように、わたしちは「エコノミークラスの席にたどり着くために、ビジネスクラスを通過しなくてはならない」世界に住んでいる。22) それによって消費を動機づける憧れが作り出せるからだ。わたしたちがこうした差異を当たり前のように消費している限り、人を差別する動機の解消はむずかしい。 だが、ジョンソンは大統領に昇格すると同時に、人どおしの差別を無くすことを心に誓った。ジョンソンが差別意識から自由になれたのは、小学校の教師だったころの体験の純粋さによるものだろう。しかし、そのジョンソンさえもが選挙にのめり込み矛盾を抱え込むことになった。残念だが、ひとりの人間が完璧であることはできないということだろう。 映画『���ールザウェイ』からわたしは、差異の多くにはバイアスが掛かっていることを学んだ。そして、差異からバイアスを取り除いたとき、私たちの体験は純粋な体験に近くことができることも。人間には多様性がある。しかし、ベルトラン・ジョルダン氏が指摘するように、生物学的に「人種は存在しない」。23) ジョンソンがそうであったように、人としての純粋な動機を見失わないように、差異のバイアスから自由でありたいと思う。映画『オールザウェイ』は、その努力が新たな「正しいこと」につながることを教えてくれた。映画に感謝したい。 (その1:ケネディ暗殺から1994年公民権法成立まで) (その2:民主党全国大会から大統領選挙まで)
参考資料
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引用文献 13) アメリカンセンター Japan, 前掲資料, p.48. https://americancenterjapan.com/wp/wp-content/uploads/2015/11/wwwf-pub-freeatlast.pdf 14) 世界史の窓「トンキンワン事件」 https://www.y-history.net/appendix/wh1603-065.html
15) Wikipedia 「1964年アメリカ合衆国大統領選挙」 https://bit.ly/2EMrCr0 16) 松本佐保『熱狂する「神の国」アメリカ』文春新書, 文藝春秋, 2016. 17) 正式にノーベル賞が授与されるのは12月10日の授賞式のとき。 18) Wikipedia「1964年アメリカ合衆国大統領選挙」 https://bit.ly/2EMrCr0 19) Wikipedia "Walter Jenkins" https://bit.ly/3i4rX6y 20) Al Weisel "LBJ's Gay Sex Scandal". Out Magazine, 1999. https://bit.ly/32ZFHJD 21) 辻内鏡人, 中條献『キング牧師』岩波ジュニア新書221,  p.205. 22) マルクス・ガブリエル, 中島隆博『全体主義の克服』集英社新書, 2020, pp.186-187. 23) ベルトラン・ジョルダン『人種は存在しない』中央公論新社, 2013.
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technocat1026 · 4 years
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イスラエル軍事協力企業レイセオン社から技術を奪いソニーエリクソン、サムスン電子が協力し5G回線を使用し各ターゲットの端末の回線に攻撃使用が可能な場合、日本は巨大な生体実験場となる。
https://ameblo.jp/indianlegend/entry-12342927613.html
指向性エネルギー兵器
(DEW、directed-energy weaponの略称)は、
砲弾、ロケット弾、ミサイルなどの飛翔体によらず、
兵器操作者が意図した目標に対し
指向性のエネルギーを直接に照射攻撃を行い、
目標物を破壊したり機能を停止させる兵器である。
目標物は対物用も対人用もある。
DEWのうち、実戦に投入された兵器は非致死性の治安兵器で
一部ある程度で大部分は未だ研究開発段階である。
アクティブ防護システムの一環としても開発が進められる。
~電波~
高エネルギー電波兵器(HERF)は
電子レンジと同様の原理で作動し、類似の機能を示す。
2007年1月25日、
アメリカ陸軍は小型装甲車(ハンヴィー)に搭載可能な装置を公開した。
この装置は平面状に配列されるものと似ている。
装置は、460m離れた人間の体感温度を約54度に感じさせることができた。
こうした兵器の実物大での製造は2010年まで予期されていなかった。
この装置はアクティブ・ディナイアル・システムの一つとして、
おそらく最も有用に配備されたものである。
アクティブ・フェーズドアレイ・アンテナによって
高出力の電磁波を特定の部位に収束させる事で
電子機器を焼損させて無力化する方法の開発も進められる。
[マイクロ波]
マイクロ波兵器は、人体に損傷を与えるには充分強力である。
アクティブ・ディナイアル・システムは
ミリ波を供給源として目標の皮膚の水分を加熱し、無力化するほどの痛みを引き起こす。
この装置はアメリカ空軍研究所とレイセオン社により暴徒鎮圧の用途で使用されている。
激しい痛みをもたらすが永続的な損傷を与えないよう企図しているものの、
このシステムが眼球に対して回復できない損傷を引き起こすという、
若干の懸念が示された。
マイクロ波に暴露することでの長期間の副作用に関して
いまだに試験中である。
この装置はまた、保護されていない電子機器を破壊する。
関連技術にはテンペストが挙げられる。
これは予期しない電子情報の漏洩に関する研究である。
これらの装置には様々なサイズがあり、ハンヴィーに搭載されるほどのものも含まれる。
ヴィジラント・イーグルは空港防御システムである。
これは航空機へと発射される投射体に、高周波数のマイクロ波を指向するものである。
この兵装システムは、
ミサイル探知および追尾サブシステム(MDT)、指令および制御システム、
そして走査アレイから構成される。
MDTは多数のパッシブ式の赤外線カメラを固定装備している。
指令および制御システムはミサイルの射点を特定する。
走査アレイは地対空ミサイルの誘導装置を妨害するマイクロ波を照射し、
これを航空機から逸らす。
ボフォースHPMブラックアウトは高出力マイクロ波兵器システムで、
商用オフザシェルフ(COTS)電子機器を、距離を置いて破壊可能であるとされている。
この装置は人体に影響はないと述べられている。
[使用と効果]
人体に対して電磁波兵器を使用するとき、劇的な効果を作り出せる。
レイセオン社のアクティブ・ディナイアル・システムでは
急激な灼熱感が引き起こされ、または距離にもよるが、
個人や複数の人々に、
不安、恐怖、強い倦怠感や混乱などのより巧妙な影響を生み出す。
こうした兵器の軍用としての3つの長所は以下の通りである。
個人または集団が、彼らがこうした装置で照準されていても、
必ずしもそれを理解するわけではない。
マイクロ波の波長は他の無線周波数のいくつかに似ており、
容易に建築物などの素材を透過する。
この波長には特別なアンテナを用い、その効果により、
個人または市や国といった広範囲の双方を照射できる。
こうした兵器の軍用や強制執行としての使用可能性には以下のものが含まれる。
敵兵力または民衆に激しい不安感や急迫の危機感を与え、
闘争よりも逃走するように影響を及ぼす可能性。
反抗や非協力的態度に伴う激しい不安感や恐怖よりも、
わずかな協力的態度でも肉体的に大きな幸福感を伴う方が非常に望ましいということを、
捕虜とした敵兵員に理解させる能力。
耐え難い倦怠感を、すでに疲労した敵兵力に与える能力。
長期間にわたり、敵兵力から正常で連続した睡眠を奪う能力。
敵の親しい兵員達の間に、間接的に思い込みを与える可能性。
これは��る兵士の言動を
(その兵士が聞きつける奇妙な声や音は、しかし他の誰にも聞こえない)
精神的に不安定として真剣に取り上げないというものである。
こうした感覚、声、奇妙な音や夢は、
特別なマイクロ波型式の波長のアンテナにより、ある程度の精密さで敵に強要できる。
〔マイクロ波で脳内に音を発生させる兵器『MEDUSA』:「サブリミナルメッセージも」〕
(2008年7月8日 WIRED)
米軍が初期開発に資金を拠出していた、
マイクロ波を使って脳内に音を作り出す非殺傷型兵器。
しかしその完成品は、筆者が『New Scientist』誌で報じたとおり、
戦場での活躍が想定される一方で、
ショッピングモールで利用される可能性も秘めている。
このプロジェクトは、
「耳に聞こえない音を使った暴徒の抑止」
(Mob Excess Deterrent Using Silent Audio)の頭文字を取って『MEDUSA』と呼ばれる。
少々取って付けたような名前のMEDUSAは、
長距離音響装置(LRAD)やその類似装置など、
単に音を投射するだけのものとは異なる
[LRADは、約270メートルの効果範囲にある対象に向けて大音量・高周波数の音声ビームを発射し、攻撃の意欲を無くさせることができるという]。
ソニーとサムスン電子
日本との関係
「東芝#DRAM」も参照
1986年、東芝半導体事業本部長川西剛[注 4]は国際担当専務の仲介で李秉喆会長や幹部総出のVIP歓迎を受けて建設途中の半導体工場を視察し、見返りに当時世界最大容量1メガビットDRAMを開発中の最新鋭大分工場を見学[17]させている。1986年、三星電子も1メガビットDRAMを開発し、東芝大分工場生産ラインを統括担当する製造部長をスカウトして大分工場と同等設備を有する製造工場を建設している[15]。
1987年5月にアメリカと日本へ研究所を設立し、1988年に半導体事業売上高9億5百万ドルで半導体メーカー売上高ランキング18位になる。
1988年、日本の半導体企業は半導体企業トップ10社中6社を占めるが、1991年バブル崩壊による資金繰悪化でメモリー事業撤退や工場閉鎖など大掛かりにリストラすると、三星電子は韓国政府のバックアップを受けて東芝、松下電器、三洋電機、シャープ、NECなどからリストラされた日本人技術者を高給でヘッドハンティングし、日本人技術顧問が外国人技術者中77名と大半を占めた結果、最新技術を得る[15]。
1992年、東芝とサムスン電子はフラッシュメモリの共同開発と技術仕様・製品情報の供与契約を締結する。1993年、サムスン電子は韓国初の6メガバイトフラッシュメモリを開発する。1995年、東芝とサムスン電子は64メガビットフラッシュメモリ技術の共同開発で提携する[15]。
半導体メーカー売上高ランキングでは1991年は14億7千3百万ドルで12位、1995年は83億2千9百万ドルで6位、2002年から2011年まで米国インテルに次ぎ2位である。
2000年代から現在まで
Samsung Galaxy
1990年代までの韓国国内におけるサムスン電子の位置づけは、主要企業の中の一社に過ぎなかったが、上述の半導体事業での躍進などもあって2000年代以降は韓国国内の事業規模や韓国経済に与える影響面などは圧倒的なものを持つようになり、また、世界の電機メーカーの中でも有数の大企業に成長した。
特に1997年のアジア通貨危機は、国家経済の危機とは裏腹にサムスン電子を強力な企業に成長させるきっかけとなった。通貨危機で韓国の大企業30社のうち16社が破綻し、サムスン電子も韓国政府から公的資金が注入される事態となり、倒産寸前にまで追い込まれたが、破綻を避けるために広範な構造改革の断行や効率的な経営計画の実行などにより、サムスン電子は半官半民の韓国の将来をかけた企業として、グローバル企業への成長を加速させた[18]。インターネット・バブル崩壊後の2000 - 2003年にもサムスン電子は純益伸び率5%を記録した。
また、サムスン電子は、1990年代から半導体で得た莫大な利益を、2000年代前半当時としては次世代産業であったLCD事業や携帯電話事業に大規模に投資を行い、さまざまな製品の世界市場でシェアを伸ばした。またマーケティング活動とコマーシャル活動を大規模に行っている。例としては、1996年には「TOPスポンサー計画」を通じてオリンピックの公式パートナーになり、1998年には長野冬季五輪の公式スポンサーとなり、2000年代以降は継続してオリンピックのスポンサーを務めている[19]。
2009年に、サムスン電子は売上高基準でドイツのシーメンスと米国のヒューレット・パッカードを超え、世界最大のIT・家電メーカーとなった[20][21]。2009年のサムスンのシェアは、薄型テレビと半導体メモリで世界第1位[22][23]、携帯電話が世界第2位[24]、白物家電でも上位を占めている。また、同年には、2020年の目標として売上高4,000億ドル達成を目指すビジョン2020を掲げた[25]。これを実現するために、既存のセット・部品中心の情報、通信、AV事業(Infotainment)に、ソフトウェアとソリューションを中心とした医療/バイオ、環境/エネルギー、利便性/癒しなど暮らしの質を向上させるライフケア(Lifecare)を新たな事業領域に盛り込み、「21世紀型のビジネス構造」への変身を図っている。
2010年、自社で生産したExynosマイクロプロセッサをスマートフォンに搭載。さらに新規CPUコア(マングース)の独自開発に着手。テキサス州オースチンやカリフォルニア州サンノゼを拠点に研究開発が進められていたが、2019年に開発中止が発表された[26]。
ソニーとサムスン電子は、合弁で液晶パネルを製造するS-LCDを韓国の忠清南道に設立していたが、2011年、ソニー側が、合弁会社の株式を全てをサムスンに売却する形で合弁を解消した[27]。
2018年8月、2020年までの3年間に設備投資と研究開発費の合算で180兆ウォンを投資することを発表。既存のメモリー、有機ELパネルのほか、次世代通信規格(5G)に対応した通信インフラ設備やバイオテクノロジー、人工知能、自動車部品といった新規事業の育成にも乗り出すことを示唆した[28]。
2018年10月24日、NECと5G向け基地局の技術開発と営業で提携すると正式に発表した[29]。
2018年5月、韓国検察当局はサムスンバイオロジクスの粉飾決算疑惑の捜査を開始。2019年6月6日までに、証拠隠滅を指示した容疑でサムスン電子の副社長3人を相次いで逮捕した[30]。
2019年9月30日、中国のスマートフォン製造拠点である恵州工場を閉鎖。中国国内でのシェアの低下や製造コストの増加が問題となっていた。スマートフォンの製造は、閉鎖までにインドやベトナムなどの製造コストの低い国の工場に振り分け進められていた[31]。
沿革
1969年1月 - 三星電子工業(株)設立。
1969年12月 - 三洋電機の韓国でのジョイントベンチャーとして三星三洋電機を設立(1977年三星電子に合併)。
1970年1月 - NECの韓国でのジョイントベンチャーとして三星NECの設立。
1970年11月 - 白黒テレビ「P-3202」を試生産。
1973年 - 三星三洋電子設立(現・サムスン電機)。
1973年12月 - 三星家電工場を竣工。
1974年 - 三星電子東京事務所が開設
1975年 - 三星ジャパン株式会社 設立
1977年 - 三星電気(株)を吸収合併。
1978年7月 - アメリカに現地販売法人「SEA」を設立。
1980年3月 - 韓国電子通信株式会社を買収。
1980年9月 - ポルトガルの最初の現地生産法人「SEP」竣工。
1982年6月 - ドイツに現地販売法人「SEG」設立。
1982年9月 - ポルトガルの最初の現地生産法人「SEP」竣工。
1982年12月 - 韓國電子通信、三星半導体通信株式會社に商号変更。
1983年 - 三星電子株式会社 東京支店 開設
1984年2月 - 三星電子(株)と改称。
1984年 - 光州電子(株)を合併。
1984年 - 11月にイギリスに現地販売法人「SEUK」設立。
1984年12月 - アメリカに現地生産法人「SII」設立。
1987年5月 - 海外の研究所(アメリカ・サンタクララ、日本・東京)を設立。
1987年9月 - オーストラリアに現地販売法人「SEAU」設立、カナダに現地販売法人「SECA」設立。
1987年10月 - イギリスに現地生産法人を竣工、生産開始。
1987年 - 李健熙(イ・ゴンヒ)が2代目会長に就任。
1988年 - 三星半導体通信(株)を吸収合併、第二創業宣言「21世紀に超一流企業に」。
1988年10月 - フランスで販売会社「SEF」設立、タイに現地生産法人「TSE」設立、メキシコに現地生産法人「SAMEX」竣工、生産開始。
1988年11月 - にサムスン半導体通信を吸収合併。
1989年8月 - マレーシアに現地法人を設立。
1992年2月 - チェコスロバキア(当時)に現地生産法人を設立。
1992年7月 - 中国・天津にVTR生産法人を設立。
1993年 - 李会長がフランクフルトで「新経営」宣言 量より質の経営へ。
1994年11月 - 障害者のための工場、無窮花(ムグンファ)電子設立。
1996年3月 - アメリカ・テキサス州オースティンに半導体工場を着工。
1997年1月 - 第2創業を宣言。
1997年 - アジア通貨危機で従業員の30%を削減。
1998年 - 日本サムスン設立。
2000年10月 - 中国に通信技術研究所を設立。
2004年4月 - ソニーと合弁で液晶パネル製造会社S-LCD設立。
2004年4月 - 東芝と光ディスク装置の合弁会社 東芝サムスンストレージテクノロジーを設立。
2004年12月 - サムスン電子とソニー、相互特許使用契約の締結。
2007年11月 - 家電販売で日本市場から撤退。ソフトバンクモバイル向け携帯電話の製造・販売は継続される。
2008年4月 - 複数の違法行為の責任をとって李健熙会長兼CEOが辞任。
2008年11月 - 本社をソウル特別市中区太平路から同市瑞草区瑞草洞へ移転
2010年3月 - 李明博の恩赦により李健熙が会長に復帰
2016年11月 - オーディオ機器・車載インフォテイメント関連企業のハーマン・インターナショナルを約80億米ドルで買収。
2017年2月 - 全国経済人連合会(全経連)に脱退届けを提出。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%B3%E9%9B%BB%E5%AD%90
ソニーとサムスン電子はレイセオンから告訴されていた。
積層半導体の製造に関するレイセオン社の特許請求は、自明性のために適切に無効にされた、と連邦控訴裁判所は裁定した。
行政上の有効性の課題を決定する特許庁である特許審判委員会は、特許が先行技術に先行するというレイセオンの主張を正しく拒否しました。米国連邦巡回区控訴裁判所は4月2日を裁定しました。
先例のない決定は、レイセオンが特許侵害で訴えたソニー株式会社とサムスン電子株式会社の勝利です。レイセオンは、デジタルカメラやスマートフォンで使用されているソニーとサムスンの光検知モジュールが侵害されていると主張しています。
グーグル直訳すみません。
https://www.docketbird.com/court-documents/Raytheon-Company-v-Samsung-Electronics-Co-Ltd-et-al/Text-of-Proposed-Order-Proposed-Order-to-Terminate-Stay/txed-2:2015-cv-00341-00126-001
COME NOW, Plaintiff Raytheon Company (“Raytheon”), and Defendants Sony Corporation, Sony Corporation of America, Sony Electronics Inc., Sony Mobile Communications (USA) Inc., Sony Semiconductor Corporation, Sony EMCS Corporation, Sony Mobile Communications Inc., and Sony Mobile Communications AB, (collectively, “Sony defendants”), OmniVision Technologies, Inc. (“OmniVision”), and Apple Inc. (“Apple”), Samsung Electronics Co., Ltd., Samsung Electronics America, Inc., and Samsung Semiconductor Inc. (collectively, “Samsung”) (Sony defendants, OmniVision, Apple, and Samsung collectively, “Defendants”) (collectively, “Parties”) hereby jointly file this Joint Report and Joint Motion to Terminate Stay and Dismiss. The Court, having considered this request, is of the opinion that the Parties’ motionto terminate stay and dismiss Plaintiff’s claims against Defendants with prejudice and Defendants’ counterclaims against Plaintiff as moot should be GRANTED.IT IS THEREFORE ORDERED that Plaintiff’s claims for relief against Defendants are dismissed with prejudice and Defendants’ counterclaims against Plaintiff as moot. IT IS FURTHER ORDERED that all fees and costs shall be borne by each party incurring the same.Case 2:15-cv-00341-JRG-RSP Document 126-1 Filed 06/08/18 Page 1 of 2 PageID #: 3094
〈原告レイセオン会社(「レイセオン」)、および被告ソニー企業〉今すぐ来なさい アメリカ、ソニーエレクトロニクスInc.、ソニーモバイル通信(米国)Inc.、ソニー半導体企業、ソニーイーエムシーエス企業、ソニーモバイル通信Inc.、およびソニーモバイル通信AB ,(集合的に「ソニー被告」) OmniVision のソニー企業 従って、テクノロジー,Inc.(「OmniVision」)、およびアップルInc.(「アップル」)、サムスン電子Co.,Ltd.、サムスン電子アメリカ,Inc.、およびサムスン半導体Inc.(集合的に「サムスン」)(集合的のソニー被告、OmniVision、アップル、およびサムスン、「被告」)(集合的に「パーティー」)は、このジョイントリポートとジョイント動作をターミネート滞在と解雇に一緒にファイルする。 法廷は、この要求を考慮し、パーティーのmotiontoが終わるという意見をもっている 人民集会がGRANTEDであるはずであるので、原告に対する先入観および被告の反訴を持つ被告に対して原告の主張を延期し、解雇する 。被告に対するリリーフについての原告の主張が先入観および被告の反訴によって原告 として 未解決 に対して退けられるそれであるTHEREFORE ORDERED。すべての料金とコストが2 PageID#の個々のパーティーを招くthe same.Case2時15分-cv-00341-JRG-RSP文書126-1ファイリング06/08/18ページ1により負担されることとするそれであるFURTHER ORDERED:
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toshihikokuroda · 2 years
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2021焦点・論点 アジア・太平洋戦争開始80年 一橋大学名誉教授 吉田裕さん 2021年12月6日【1面】
「自衛」でも「解放」でもなかった  日本軍のマレー半島上陸とハワイの真珠湾攻撃によって、80年前の1941年12月8日に開始された「アジア・太平洋戦争」。なぜ無謀な戦争を始めたのか、日本にとって「自衛」の戦争だったのか。『アジア・太平洋戦争』(岩波新書)の著書もある吉田裕・一橋大学名誉教授に聞きました。(山沢猛)
 ―この戦争を日本の「自存自衛」、自分の身を守るための戦争だったとか、「アジア解放」の戦争と言う人たちが今もいて、若い人たちには歴史の事実が教えられていません。
 当時の日米交渉の最大の争点は、日本軍の中国からの撤兵問題でした。米国は、侵略戦争で日本が獲得した権益の放棄を要求し、それを日本が拒否、日米交渉は失敗に終わり戦争になりました。ここが大きなポイントです。
 日本に対する米国などの経済制裁は、1940年の北部仏印(フランス領インドシナ)への進駐に始まり東南アジアを支配する、日本の「武力南進」政策を抑止することを目的としたものでした。
 第1次世界大戦(1914~18年)後の国際社会は、新たな二つの原則を打ち立てました。
 一つは、国際紛争を解決するために戦争に訴えることを禁じる戦争の違法化、二つは民族自決権の一応の承認であり、その方向に大きく動き始めました。「一応の承認」というのは、列強が自国の植民地を放棄するところまではいかないという意味です。
 前者を象徴するのが、国際連盟規約(1919年)と不戦条約(28年)、後者が、中国の主権・独立の尊重を国際的に確認した「9カ国条約」(22年、日本も調印)でした。米国の対日政策は基本的にこの流れに沿ったものになっていました。日本はこうした国際的な潮流に逆行して中国を侵略し領土を奪い、武力南進政策を続けました。「自衛」の戦争でも「アジア解放」の戦争でもなかったのです。
 (しんぶん赤旗、2021/12/06)
(1面のつづき)
犠牲者増大させた軍事力過信 日本は後始末もできていない  ―背景には、日本による日中全面戦争が行き詰まったことがありました。
 日米交渉の最大の争点が、日本の中国からの撤兵問題にあったように、対米戦は日中戦争の延長線上に生まれた、ということが重要です。
 日中戦争は1937年、中国の国民党政府の首都だった南京市の占領、南京大虐��で終わりませんでした。国民党政府は重慶まで首都を移しました。日中戦争の長期化や中国の激しい抗戦によって、日本は自力で日中戦争を解決する能力をすでに失っていました。
 このため日独伊三国軍事同盟の締結(1940年)、武力南進による石油、ゴムなど戦争遂行に必要な物資の確保という路線が選択されます。日中戦争以降、1945年の敗戦までの中国戦線における日本軍戦死者は47万人、日露戦争の戦死者9万人の5倍以上です。この犠牲を払っても日本は中国を屈服させることができませんでした。
 軍事力で劣る中国は、欧米諸国の介入・支援という多国間の枠組みの中で日本の侵略を阻止しようとしました。連合国の有力な一員として中国が日本とたたかうという構図をつくり出した点でいえば、開戦は中国外交の勝利、日本外交の敗北でした。
 ―マレー半島上陸、シンガポール占領、真珠湾の奇襲など「初期作戦」は成功したように見えますが。
 1942年春までの初期作戦の成功の原因は、日中戦争以降、欧米諸国に先駆ける形で、日本が軍備の拡充にとりくんできた結果でした。アジア・太平洋地域では米国を上回る軍備を保有していました。しかも日中戦争で実戦の経験をつんだ軍隊を保有していました。だから初期作戦が成功したのです。
 ただし、経済力を示すGNP(国民総生産)では日本と米国は1対12ですから、米国の戦争経済が本格的に稼働しはじめると、日米の戦力はすぐに逆転してしまいます。
 初期作戦の成功に酔いしれて、戦争終結工作に踏み出さなかったこと、連合軍の軍事力を過小評価したこと(自国の軍事力の過信と表裏の関係)が、その後の戦闘で犠牲者を増大させました。
 ―吉田裕著『日本軍兵士』(中公新書)によると、民間80万人を含む310万人の日本人犠牲者のうち、9割が1944年以降と推算しています。なぜこんなことが起こったのですか。
 1944年のサイパン島などのマリアナ諸島の陥落によって、日本の敗戦は必至の情勢でした。ここから日本本土にB29爆撃機が発進したのです。日本の民間人の大量死はサイパンの戦闘が最初でした。見通しのない戦争を継続したことが、餓死に象徴される無残な死を生み出しました。その点では、戦争終結を決断できなかった昭和天皇を含む日本の国家指導者の責任が問われるべきです。
 さらに兵士の人権や人格をまったく承認しない日本軍の体質や人命軽視の思想が、大量死の背景にあります。
 ―「総力戦」となる戦争の総括が国民レベルでなされていないように思います。
 戦争責任の問題も含めた戦争の総括がきちんとされていないのは事実です。アジア・太平洋戦争を「対米戦」とのみ見るような見方では、中国と東南アジアへの侵略・占領が抜け落ちます。
 さらに日本は戦争の後始末もきちんとできていません。
 その一つが、遺骨の収容問題です。海外(沖縄や硫黄島を含む)の戦没者数は、民間人を含め240万人です。そのうち遺骨を収容したのは128万人、約半分です。未収容の海没遺骨は約30万人です。戦没者遺骨収集推進法(2016年)によると、2024年までが「集中実施期間」です。今のままでは収集を終えることは困難です。後始末もまだ終わっていないのです。
 (3面)
 よしだ・ゆたか 1954年生まれ。専攻は日本近現代軍事史、同政治史。著書の『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)は20万部発行、ほか多数
(しんぶん赤旗、2021/12/06)
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mywhitenote · 3 years
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トランプ前大統領・安倍前首相 シンクタンク2022
(女性ナレーター) 2022年のシンクタンクを代表する海外のリーダーの方々。 さて、最初の基調講演は、アメリカ合衆国第45代大統領の偉大なドナルド・トランプ氏が行います。
誰もがご存知のように、大統領時代にドナルド・トランプ氏は北朝鮮を非核化し、朝鮮半島の平和を達成するために多大な努力をされました。特に、彼の金正恩との3回の会談はアメリカ史上初でした。当時のメディアのトップ記事は、トランプ大統領の行動を21世紀の最も力強い劇的展開のひとつとして表現しました。
ご列席の皆様、素晴らしい韓国の統一とビジョンについて、私たちに貴重な演説をしてくださるドナルド・トランプ大統領の歓迎をどうぞよろしくお願いいたします。
(トランプ前大統領) この7回目の希望に満ちた集会で演説をすること、私の気持ちにとても近い目標について今日皆さんにお話しすることは、心の安らぎであり、感銘深い名誉です。 それは朝鮮半島の平和と団結の夢です。
天宙平和連合(世界平和統一家庭連合の組織)と、特にハク・ジャ・ハン・ムン(韓鶴子)博士に感謝したいと思います。彼女は、世界の平和のために活動している、素晴らしい人物です。5歳で北朝鮮から脱出して、朝鮮戦争の開戦を迎えた彼女の人生経験は、全能の神への信仰の力を示す驚異的な事例です。
彼女の夫、リヴェランド・ムン(文鮮明)氏が、ワシントンタイムズという私が非常に尊敬し賞賛している立派な企業を設立したことにも感謝します。 彼らは素晴らしい成果を成し遂げてきました。 私はムン博士が新しく世界を先導する2022年のシンクタンクを立ち上げたことを祝福したいと思います。これは世界中から専門家を集め、朝鮮半島の紛争解決に焦点を当てるものです。
皆さん全員が知っているように、アメリカは韓国の永続的な平和の形成において重要な役割を果たしています。 私の大統領としての最も誇らしい業績のひとつは、すべての韓国人の明るい未来に向けて新しい道を作るのを手伝うことでした。北と南に分断した道、過去の苦難はいつか癒され、これまで誰も可能だと思わなかったレベルにまで緩和されるでしょう。そして半島全体が、驚くべき真の可能性を達成するかもしれません。
私が就任した時、世界と直面していた状況は非常に厳しいものでした。数十年にわたり過去のリーダー達は、地球上のこの地域で増大する紛争の脅威への対処に失敗してきました。オバマ前大統領は朝鮮半島の状況は全世界で最大の懸念のひとつとまで私に言いました。今振り返れば、その状況がいかに危険だったかを忘れがちです。
私が選任された時は、ミサイルが飛んでおり、核兵器のテストが行われ、毎日のように強大な脅威が発生していました。大統領として、私はただ座ってこの問題が悪化するのを待つことはできないとわかっていました。私の以前のいずれの政権も失敗しました、それが私が別の解決策をやり遂げる決意をした理由です。
私のリーダーシップの下で、アメリカはかつてないほどの戦力を発揮する方針を採用しました。これまでの政権以上に、アメリカと同盟国が常に国民を守ることを確実にするためです。 アメリカ国民は軍事的に、外交的に、そして経済的にも屈服しない立場を取りました。我々が決して核兵器で脅やかされないことを、すべての人に明らかにしました。皆さんの多くが覚えているように、小手先の話術は非常に困難で厄介で情けないものになりました
それでも同時に、ごく最初の頃から、私は交渉と対話のために常にドアを開けておきました。 いかなるリーダーも戦争をすることができますが、平和を実現するチャンスを追求するには真の勇気が必要だと私は知っています。人々のためにより良い世界を築くための機会があれば、リーダー達が話し合いを決してためらうべきではないと私は信じています。
私の政権が追求した大胆な外交の中心は、わが国と同盟国、すなわち韓国と日本との緊密なパートナーシップでした。文在寅大統領と安倍首相は、いずれも彼らが成し遂げた素晴らしい成果により、大いなる信用に値します。 私たちは共に4年間かけて、誰もが可能と思ったよりも大きな進歩を達成しました。
我々は、国連安全保障理事会で前例のない全会一致の決議のいくつかを可決させました。我々は、人質を本国に連れて帰りました。とても重要なことなので、もう一度言います。 我々は人質を本国に連れて帰り、北朝鮮に働きかけて命を落とした英雄たちの亡骸もアメリカの土に還しました。
2018年にキム・ジョン・ウン(金正恩)委員長にシンガポールで会った時、私は北朝鮮の指導者と会談した最初のアメリカの大統領になりました。そこで私たちは有意義な関係を確立し、重大な目標に合意しました。それは確かに完全な非核化についての非常に重要な目標でした。皆さんが今までに聞いたことのある最も重要な言葉です。
2019年にDMZ(韓国非武装地帯)で再会した時、私は北朝鮮に足を踏み入れた最初のアメリカの大統領になりました。ハノイでの我々の2回目のサミットで明らかになりましたが、北朝鮮は交渉をする準備がまだできていませんでした。
私は今日もなお未来への希望に満ちています。キム委員長はシンガポールで私にこれ以上長距離ミサイル発射や核実験はしないと約束したことを守りました。北朝鮮は2017年以降、主要兵器のテストを実施していません。そして全世界のために私はこの状態が続くことを願っています。
そして過去1年半、世界的なパンデミックで地球が荒廃しました。悲しいことに朝鮮半島と、地球上の他の多くの他の場所が非常に酷い被害に見舞われました。我々が多くの命を犠牲にしたこの悲劇的なパンデミックから抜け出すまでに、ウイルスが我々の国民に甚大な苦しみを与えました。 今はさらなる紛争の時ではなく、協力すべき時だと双方が理解することを我々は祈ります。敵意を新たにする時ではありません。今は希望で満たすべき時です。 そして核の備蓄に焦点を当てる時ではなく、より良くより素晴らしい世界を築いていくために、我々の国を再建すべき時です。
私は、驚くべき未来が北朝鮮の人々を待っていると本当に信じています。そして彼らが非核化の道を追求すれば、彼らはその未来を見事に実現するだろうと私は確信しています。その祝福の日が来るまで、朝鮮半島の平和のために戦力が不可欠であるがゆえ、強力なアメリカが留まり続けるでしょう。
最近、世界の他の地域で我々が目にしたように、弱さはさらなる暴力を招き、タスクを混乱させます。朝鮮半島の平和を祈る我々全員にとって、我々の国家が権力と豊かな富で勝っているだけでなく、それ以上に我々は精神的に強くあるべきです。 すべての国は、国民と同盟国を保護し、国民のためにより良い未来を維持する意志を奮い起こさねばなりません。それは、国々を動かし、最終的に平和��つながる歴史を作るための力と価値観ということです。
今まで何度も議論してきたように、我々は平和を望んでおり、愛国者を育成しなければなりません。そして我々は、すべての国々と国民にとっての生命・自由・幸福の追求といった、神から与えられた権利を尊重しなければなりません。 世界中の愛国心に満ち平和を愛する国々が、誇りと自信を持ち国民を代表して団結して立ち上がる時、過去4年間にわたり私の政権は、進歩の実現に限界はないことを証明しました。
4年前、私はソウル市を訪問し韓国国会での演説を行う大いなる名誉を与えられました。私がその日、大韓民国の人々に話したように、それは並みならぬ名誉でした。 そして韓国の人々が聞きたいと思うなら、私はいつでもまた演説をします。
数十年にわたり韓国の人々が朝鮮半島で達成したことはまさに素晴らしいことです。彼らが世界全体に引き起こしたインスピレーション(影響力)は驚異的であり、私は韓国の方々を繰り返し祝福します。 人の一生よりも短期間で、彼らは戦争で荒廃した土地を引き継ぎ立派な国へ、世界で最も偉大な民主主義国家のひとつへと変えました。同時に韓国はアメリカの友人、同盟国になったのです。
彼らの手本は私たち全員に、平和とより良い未来のために努力する人々を思い起こさせます。神への信仰と我々の国民への愛をもって、我々は決してあきらめず、希望を失うべきではありません。 より明るくさらに輝かしい明日を、共に努力して実現しましょう。 ありがとう、神が皆様を祝福されますように。
(女性ナレーター) 大統領、朝鮮半島と世界の平和に貢献いただき、ありがとうございました。 皆様、私たちの大いなる賞賛をもう一度表しましょう。 彼は38代目の自由民主党の事務局長、また21代目・25代目の党の総裁、第90・96・97・98代目の内閣首相も務めました。
彼は近代日本の代表的な政治的リーダーのひとりで、日本国憲法史上、日本で最強の政権を率いていました。安倍晋三首相は、約7年8ヵ月の第2次内閣を宣言され、特に経済的緩和と社会経済を安定させる戦略を中心としたアベノミクスとして知られている経済政策を促進されました。 同時に、自由や基本的人権などの価値観を共有して、民主主義の国際的グループを発展させる一員となり、日本での主要な役割を果たされました。 そして自由で開かれたインド太平洋戦略と太平洋横断の戦略的経済パートナーシップをリードすることによって、自由や基本的人権などの価値観を共有されました。 彼の祖父、岸信介首相とその次代の佐藤首相は、1965年に日本と韓国との外交関係を正常化されました。親韓として知られる彼の父、安倍慎太郎氏は自民党の秘書官や外務大臣を務められました。日本の政治一家を代表する安倍晋三首相を大きな拍手でお迎えください。
(安倍前首相)*日本語演説+英語ナレーション ご出席の皆様、日本国、前内閣総理大臣の安倍晋三です。UPFの主催の下、より良い世界実現のための対話と諸問題の平和的解決のためにおよそ150か国の国家首脳、国会議員、宗教指導者が集う希望前進大会で世界平和を共に牽引してきた盟友のトランプ大統領とともに演説の機会をいただいたことを光栄に思います。
ここにこの度出帆したシンクタンク2022の果たす役割は大きなものがあると期待しております。今日に至るまでUPFとともに世界各地の紛争の解決、とりわけ朝鮮半島の平和的統一に向けて努力されてきた韓鶴子総裁を始め皆様に敬意を表します。
さて、まだ収束のつかないコロナ禍の中で歴史的意味を持つことになった東京オリンピック・パラリンピックを多くの希望と感動をもって無事に全うできました。ご支援いただいた世界中の人々に感謝を捧げたいと思います。 史上初の1年延期、選手村以外に外出禁止、無観客等、数々の困難を乗り越えて参加できたアスリートの姿は、世界中の人々に勇気と感動を与え、未来への明かりを灯すことができたと思います。
そしてイデオロギー、宗教、民族、国家、人種の違いを超えて、感動を共有できたことは、世界中の人々が、人間的な人々の絆を再認識できたと信じます。 コロナ禍に覆われる世界で、不安が人々の心を覆いつつあります。全体主義国家と民主主義国家の優位性が比較される異常事態となっております。 人間的な人々の絆は、強制されて作られるべきではありません。感動と共感は自発的なものであり、人と人との絆は自由と民主主義の原則によって支えられなければならないと信じます。
一部の国が、全体主義、覇権主義国家が造られており、現状変更を可能とする策動を阻止しなければなりません。私は自由で開かれたインド太平洋戦略を継続的に訴え続けました。そして今や米国の戦略となり、欧州を含めた世界の戦略となりました。 自由で開かれたインド太平洋戦略にとって、台湾海峡の平和と安定は必須条件です。日本、米国、台湾、韓国など自由と民主主義の価値を共有する国々のさらなる結束が求められています。
UPFの平和ビジョンにおいて家庭の価値を強調する点を高く評価します。世界人権宣言にあるように家庭は世界の自然且つ基礎的集団単位としての普遍的価値を持っています。偏った価値観を社会革命運動として展開する動きに警戒しましょう。
とてつもない情熱を持った人たちによるリーダーシップが必要です。この希望前進大会が大きな力を与えてくれると確信いたします。ありがとうございました。
*シンクタンク2002の主旨は、こちらの内容になるようです。 朝鮮半島の平和のための政府間対話が困難な中、南北統一のために継続的に活動してきた民間団体が、国際的なネットワークを活性化することで、南北統一の扉を開くことに着手しました。 天宙平和連合(UPF)と世界平和統一家庭連合(家庭連合)の共同主催で12日、COVID-19の社会的距離ガイドラインを遵守しながら、世界194カ国から200万人が参加して、非対面のオンライン形式で行われました。海外からの参加者向けのテーマとして、「THINK TANK 2022希望の前進大会」を「新統一韓国のための連帯と韓半島の平和サミット組織委員会発足」というテーマで国際的参加者たちのために12の言語に同時通訳して開催した。
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thetaizuru · 3 years
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 「グロテスク」 の語源は、「洞窟」を意味するイタリア語「grotta」からきている。 西暦64年のローマ大火の後に皇帝ネロが建設を開始した「ドムス アウレア」という宮殿群が放置され地中に埋もれていたのが、15世紀末になって偶然発見された。1480年代あるいは1490年代にトンネルを掘って内部に侵入する試みが始まり、1490年代には画家たちが地下歩廊から各部屋の装飾を見学するようになった。その宮殿の壁面装飾模様をラファエロがバチカン宮殿回廊の内装に取り入れ、 これが地中の「洞窟」で発見された装飾様式であることから「グロテスク装飾」と呼ばれるようになった。ラファエロが復興させ、装飾体系として昇華させたことから「ラファエレスク文様」とも呼んだ。版画を通じて広まり、16世紀ヨーロッパの芸術上のレパートリーとなった。  人、動物、植物などをモチーフとし、自然法則や本来の大きさを無視して人から植物へ、さらには魚、動物へと連続して変化する奇妙な模様ではあるものの、似たような模様は中世にも見られた。ラファエロらルネサンス期の芸術家たちを驚かせたのは、古代ローマ人たちが、幻想的かつ形式ばらない軽快で優美な様式を採用していたということであり、古代ローマの人たちも自分たちと似たような感覚を持っていたのかもしれないということを垣間見ることができたことだった。  「グロテスク」という言葉は時間を遡って語義が拡張され、中世の装飾写本における、余白に装飾模様として描かれたキャラクターなどを指す「ドロルリー」も現代の用語ではグロテスクと呼ばれ、中世ヨーロッパの教会建築の装飾に見られる奇怪な生物の彫刻もグロテスクと呼ばれる。今日ではさらに、風変わりで歪んだ奇怪なことなどを指す総称的な形容詞としても使われる。  文学においては、共感と嫌悪感の双方を抱かせるような人物が「グロテスク」であると通常考えられ、 ヴィクトル ユーゴーの『 ノートルダム ド パリ (ノートルダムの傴僂男)』(1831年)は、文学で最も有名なグロテスクの一つとされる。
 時代区分として、中世は、西ローマ帝国が滅亡した476年あたりに始まるとされる。  中世後期、1300年頃のフィレンツェ共和国では、教皇派と皇帝派が争い、教皇派が辛くも勝利するものの、自治政策を掲げる富裕市民層の支持からなる白党(ビアンキ)と、教皇に深く結びつこうとする封建貴族の支持からなる黒党(ネーリ)との内部対立から真っ二つに割れた。当初、白党が政権を握ったものの、翌年の1301年には黒党が政変を起こして実権を握った。白党から選出された三人の統領(プリオーレ)の一人であったダンテ アレギエーリは、フィレンツェ共和国を追放された。流浪をしながら「喜劇」と題した詩を書き続け、それが書き上がった1321年に亡くなった。その詩は後に「神聖喜劇」『神曲』と呼ばれるようになった。
 1326年、フィレンツェで大砲が開発される。
 ダンテと同じく白党に属しフィレンツェを追放されたセル ペトラッコの息子であるフランチェスコ ペトラルカは、中世にはだいぶん形の崩れていたラテン語を古代ローマの古典的形式にならって純正化することを考え、各地を旅して古代の写本を研究し、詩作した。これが人文主義の始まりとされ、ペトラルカは人文主義の父と呼ばれる。
 1431年、バーゼル公会議が教皇派と公会議派に分裂し、教皇派らはイタリアに移転し、1438年、フェラーラ公会議が開催される。しかし、フェラーラでは財政的な困難や疫病の流行という事態に直面したため、教皇庁の金融を担当していたコジモ デ メディチの申し出を受けて、1439年に公会議はフィレンツェに移転した。こうしてビザンツ皇帝や東方教会の聖職者たちがフィレンツェを訪れた。この公会議開催によってメディチ家は、教皇庁での地位を強化し、フィレンツェ共和国の実質的な統治者となった。  これらの公会議では、主に東方正教会とローマ カトリック教会の再合同について議論された。 ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、オスマン帝国からの圧力を受けて、西ヨーロッパ諸国からの支援を求めていた。ビザンツ帝国皇帝ヨハネス8世パレオロゴスは、東西融和の一環として東西教会の分裂の収集を提案した。  しかし合同の実現は果たせなかった。  1453年、オスマン帝国軍がコンスタンティノポリスを陥落させ、東ローマ帝国は滅亡した。  通常、この東ローマ帝国の滅亡をもって中世の終わり、近世の始まりとされる。
 コジモが基礎を作った学芸サークルであるプラトンアカデミーには多くの人文主義者が集い、東ローマ帝国滅亡後にイタリアへ亡命した知識人たちによって伝えられたギリシア語の文献のラテン語への翻訳や研究、討論などが行われた。  この「ネオプラトニズム(新プラトン主義)」と、ルネサンスという時代は、コジモの孫ロレンツォによって最盛期を迎える。そしてフィレンツェはルネサンスの中心として黄金時代を迎えた。  1481年、プラトンアカデミーに集まった人文主義者の一人であるクリストフォロ ランディーノが『ダンテ『神曲』註解』を出版し、そのための挿絵をボッティチェリがメディチ家により依頼されて描いたと言われる。  ランディーノのこの著作を、ダ ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロらも読んだと言われ、ミケランジェロはダンテに捧げる詩を詠んだ。  彼らは、『神曲』はネオプラトニズムのさきがけで、フィレンツェの文化的アイデンティティの象徴と目した。これは『神曲』をフィレンツェという都市国家の文化的覇権を内外に示すためのアイコンとした、メディチ家による‛国家的事業‛となった。  ロレンツォは、『神曲』で使われたのと同様の俗語、すなわち現在のイタリア語の基となった言葉で詩作もし、フィレンツェで広く歌われたと言われる。  ロレンツォは、各勢力が乱立するイタリアのバランサーとして外交手腕を発揮した。その外交の特徴は勢力均衡と現状の維持だった。彼はフィレンツェの主要な美術家を、ローマ、ヴェネツィア、ナポリ、ミラノに積極的に派遣した。これはロレンツォの外交政策の一端だった。これにより、フィレンツェのルネサンス美術は、イタリア中に広まったと言える。  一時的であったとはいえ、イタリア諸国家間の勢力の均衡を保たせることに成功し、フィレンツェのフローリン金貨はヨーロッパの貿易の基準通貨となり、フィレンツェの商業は世界を支配した。
 「フィレンツェ」は、古代ローマ時代に花の神フローラの町としてフローレンティアと名付けられたことが語源とされる。直接の起源は紀元前59年、執政官カエサルによって退役軍人への土地貸与が行われ、ローマ植民都市が建設されたことによる。そのため、フィレンツェには古来より創世神話として、カエサルがこの市を作ったという伝承があった。  「第二のローマ」、すなわち古代ローマの後継者としての地位とアイデンティティを確立しようという理想は、東ローマ帝国の滅亡によって刺激され、ルネサンス(再興)という名を持って花開き、世界史の転換点を飾った。  ラテン語のエピック『アエネーイス』を書いた古代ローマの詩人ウェルギリウスとともに地獄と煉獄を遍歴したダンテの『神曲』はイタリア語のエピックとなった。
 1492年、 ロレンツォが亡くなり、長男のピエロがメディチ家当主となるが、1494年、フランス軍の侵攻にあってその対処を誤り、市民の怒りを買い、メディチ家はフィレンツェを追放される。  その後、かねてからメディチ家による実質的な独裁とフィレンツェの腐敗を激しく批判していたサンマルコ修道院の修道院長サヴォナローラが共和国の政治顧問となり、以降、神権政治が行われる。サヴォナローラは次��に教皇国をも批判し、1497年には教皇アレクサンデル6世から破門される。 同年、サヴォナローラの支持者たちにより、「虚飾の罪」またはその罪を犯す可能性のあるものとされた化粧品や装飾品、不道徳とみなされる本や美術品などを、 シニョリーア広場に集め焼却するという「虚栄の焼却」も行われた。市民生活は殺伐としたものになり、不満も高まっていた。1498年、サンマルコ修道院に暴徒と化した市民が押し寄せ、ついに共和国もサヴォナローラを拘束する。サヴォナローラは、教皇の意による裁判の結果、絞首刑ののち火刑に処された。  その後のソデリーニ政権下で1498年に第2書記局長に選出されたマキャヴェッリは、国民軍の創設を計画し実現させたが、国民軍は期待された成果を挙げることなく、ソデリーニ政権は1512年、メディチ家のフィレンツェ復権を後押しするハプスブルク家スペインの前に屈服し、マキャヴェッリは第2書記局長の職を解かれた。1513年、(ロレンツォの次男)ジョヴァンニ デ メディチ新政権下起こったボスコリ事件に加わった容疑で、マキャヴェッリは指名手配され、実際には加担していなかったと言われるが、自ら出頭して逮捕された。一か月後に、 ジョヴァンニが教皇に選出されたことにより、大赦で釈放された。ジョヴァンニは ローマ教皇レオ10世となった後はフィレンツェを弟のジュリアーノ(ロレンツォの三男)に任せた。 1516年に急逝したジュリアーノの後任に 甥のロレンツォ2世(ピエロの長男)が就任すると、マキャヴェッリに謁見の機会が与えられ、 謁見の場で『君主論』が献上されたと言われる。
  ミケランジェロの代表作「ダビデ像」は、1504年にフィレンツェの共和制のシンボルとして造られたが、その頃にはルネサンスはフィレンツェを離れていた。
 東ローマ帝国の滅亡により、シルクロードの要であったコンスタンティノープルが失われ、その後制限が加えられたことから、ヨーロッパではコンスタンティノープルを経由しないルート開拓として大航海時代が始まった。 ジェノヴァ、ヴェネツィア等の地中海貿易で栄えていた都市国家は、その権益をオスマン帝国に奪われる事になり、一地方都市へと転落して行くこととなる。航海士達の多くは、スペインやポルトガル等のイベリア半島の新興国家に移り、大航海時代に大活躍をする。  ジェノヴァ出身のクリストファーコロンブスが、1492年、スペインの援助を受けて大西洋を航海し、「新大陸」に上陸する。コロンブスは自身が上陸したのはインドだと誤認しており、新大陸を発見したとは認識していなかった。  フィレンツェ共和国のメディチ本家と分家の両方に仕えたヴェスプッチ家のアメリゴ ヴェスプッチは、1497年から1502年まで3度(2度という説もある)にわたってスペイン、ポルトガルの船に同乗して大西洋を横断し、1503年頃、調査の結果をまとめた『新世界』を刊行。 この中で、大西洋を横断した先にあるのはアジアではなく、全く異なる新大陸であることを指摘した。当時は北米と南米が繋がっていることは判明していないので、彼の『新世界』は南米大陸についてのみ論じている。ヨーロッパの古代からの伝統的世界観、アジア、アフリカ、ヨーロッパからなる三大陸世界観を覆すこの主張は、ヨーロッパ全体にすぐ浸透したわけではないものの、人文主義者たちにはセンセーショナルに受け入れられた。  1507年、南ドイツの地理学者マルティン ヴァルトゼーミュラーがアメリゴの『新世界』を収録した『世界誌入門』を出版した。その付録の世界地図にアメリゴのラテン語名アメリクスの女性形からこの新大陸にアメリカという名前が付いた。これがアメリカ大陸という名を用いた最初の例となった。
2021年7月 塔と星
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ari0921 · 3 years
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)8月16日(月曜日)
通巻第7016号 
 「その後の研究」。アフガニスタンがタリバンに制圧された。これから何がおきるか
  1949年中共、74年エチオピア、75年ベトナム、77年イラン。あの既視感
*************************
 米国が支援した傀儡政権は、その他律的依存と汚職体質によって、モラルが確立されておらず武力闘争には脆弱である。
米軍が引き揚げるか、撤退姿勢をみせると、米国依存の傀儡的な政権は戦意を失い、モラルは忽ち消え失せ、武器の横流しをはじめ、密輸に精を出し、政府高官らは祖国と国民を捨てて脱出の準備に入る。
政府軍の軍人と言っても練度は低く、おおくは員数合わせ、あるいは失業対策で給与に群がってきた人が多く、組織的な行動は不得手であり、また軍事力を統率できる軍人は不在。軍閥のほうが機動力を発揮する。
15日、ガニ大統領はタジキスタンへ逃亡した。前日にジャラジャバードが陥落し、パキスタンとの国境がタリバンに抑えられた。陸路のすべての国境はタリバン支配下に入った。
命を捨てても祖国を守るという発想がないか、あるいは希薄である。寺山修司の詩が脳裏に甦る。「身を捨つるほどの祖国はありや」
 8月12日にヘラートとカンダハルが陥落、15日にマザリ・シャリフが陥落し、ドスタム将軍らは国境から先へ逃亡した。ヘリコプターによる米大使館員の退避が開始された。バイデンは急きょ派遣する米軍を五千名に増やすとした。
 そしてタリバンは無血でカブールへ入城し、大統領府を抑えた。カブールの幹線道路は駐車場と化し、一時間に1メートルも動かない。市民がパニック状態となって町を出ようとしているためだ。ATMには長蛇の列ができた。
 最後の日々を迎えたカブール。そうだ、既視感がある。
 サイゴン陥落前、南ベトナム政府の高官たち、グエン・バン・チュー大統領もグエン・カオキ首相みな、米国へ逃亡した。腐敗の体質に溢れていたが、急な脱出だったらしくせっかく蓄財した金塊を持ち出すいとまはなく、グエン・バン・チューは台湾へ逃亡、その後、ロンドンで清掃業をしていた画面が流れたが、最後は米国へ亡命し病死した。
グエン・カオキ将軍はいち早く米国へ逃げ、貿易で成功したうえ、アメリカ各地に講演旅行に呼ばれるほど一部に人気があった。マレーシアの病院で死去した。
 1949年、米国の誤断によって中国を失った。
ニクソンは言った。「WHO LOST CHINA?」
蒋介石から米国は毛沢東へ乗り換えた。この外交的誤断について、当時も盛んに議論されたが、率直に振り返れば米国の外交の失敗に起因する。
つまり「敵と味方を常に間違える天才」がアメリカ外交である。
 1975年にベトナムが失われ、79年にはイランが、そして2021年にアフガニスタンから米国傀儡政権は消え、タリバン主導の狂信的宗教カルト集団が国を乗っ取る。
 ▼米国を挑発し、泥沼に引きずりこんだのはアルカイーダだった 
 問題は「その後」である。これから何が起きるか?
 南ベトナム崩壊後、ラオス、カンボジアには共産主義が浸透した。そしてベトナムは反中国に、ラオス、カンボジアは中国寄りとなった。
 イランは狂信的カルトが政権を掌握し、すぐにイラン・イラク戦争を始めた。
 アフガニスタンは1989年にソ連が撤退し、それまで米国が支援してきたムジャヒディーンは忽ち反米となって、タリバンが政権を掌握した。
その後はカザフ系、ウズベク系がパシュトーン人と内ゲバを始め、爾来、アフガニスタンは軍閥が地域を統治し、中央政府の行政の及ばない地域ではアルカィーダ、ISが秘密の訓練基地を設営し、跋扈した。オサマ・ビン・ラディンらのテロリストたちを最初はCIAが育てたのだった。
 その後、タリバンへ武器を供与していたのはロシアとイランだった(ネリー・ラフォウド論文『フォーリン・アフェアーズ』2021年9・10月号)。猜疑心の固まり、日常的な裏切り、その残忍さはアレキサンダーが征服した古代から変わらないのである。
 1998年 アルカイーダはケニアの米国大使館を爆破した。224名が犠牲となり負傷者は四千名を超えた。2000年10月、アデンに係留中の米海軍艦船「コール」が爆破された。
 ときのクリントン大統領は報復にトマホークミサイルを50発、アルカイーダの拠点とされたアフガニスタンの基地へ撃ち込んだ。
 そして2001年9月11日、NYの貿易センタービルが、ハイジャックにより凶器と化けた航空機によって破壊され数千名が犠牲となった。
 ▼「テロ戦争」で対応した米国は国力を衰退させた
 この怒りを爆発させるためにアメリカはアフガニスタンへの空爆を開始して、テロ戦争は長引くとブッシュジュニア大統領は宣言した。
大軍をアフガニスタンへ投下し、二十年の歳月が流れた。米軍が駐留する限り、地域は安定し、イスラムの反中国集団が暗躍しても限界があり、むしろ安心していたのは中国だった。
 米国は過去二十年に亘って、およそ1兆ドルをアフガニスタンに投じ、インフラ建設を手助けし、戦闘では多くの犠牲を払い、そして得たものは何もなく、却ってNATO諸国などとの心理的溝が拡大した。
米国は肝心の国力を衰退させ、士気は低下し、疲れ果てた。この二十年に中国は経済大国として刮目するべきほどにのし上がった。
 これからどうなる?
 第一にタリバンを誰が率いるのか? オマル師はすでに不在である。タリバンを代表する幹部らはカタールに和平交渉のオフィスを構え、イラン、中国などと交渉をしてきたが、この協議機関は、これからどうなるのか。
 パキスタン情報に拠れば、タリバンを2016年以来、最高指導者として統率してきたのはハイバトラ・アフンドザタと言われる謎の人物。軍の最高司令官はオマル師の息子のヤクブとされるが、飾りでしかない。
 タリバンはカンダハルで誕生した。このカンダハル軍閥を率いるのはバラダール師で、カタールのタリバンオフィスを代表する。
 また自爆テロ、海外テロを行っているのは「ハカニ・ネットワーク」で、この集団をまとめるのが副最高司令官のシラジデン・ハカニと推定されている。
 
 第二に当面は連立政権が組まれることになると思われるが、軍閥の呉越同舟となり、いずれ内ゲバを始めるだろう。前政府はガニ大統領の逃亡によって、臨時代行を誰が務めるのか。引き継ぎチームを率いるのはアリ・アーマド・ジャラリ前内相と発表されているが、アブドーラ元外相(元副大統領、行政長官)が表にでてくる可能性もある。アブドーラは過去二回の大統領選挙でガニに僅差で敗れているが、不正投票だとして、現在も「影の大統領」を自認している。カルザイ初代大統領の影もちらついている。
 英国のジョンソン首相はタリバンを外交承認することはないと言明し、新政府の誕生を見守るとしているが、大半の西側諸国も、当面、タリバン承認はしないだろう。
 
 ▼中国はタリバンに大々的な投資を約束したらしい
 第三にタリバンが内部崩壊を防ぐには新しい敵が必要であり、それがイスラム弾圧の中国へ向かう公算が強い。中国は揉み手してタリバンに薄笑いを浮かべながらちかづくだろう。
 先月、中国はタリバン幹部9名を天津に招き、王毅外相と会談したが、ETIM分子の摘発をタリバンは約束したという。見返りに中国はどのような土産をタリバンに与えたのか。なにがしかの密約が成立した筈である。
 第四にイランは同じイスラムカルトの政権を歓迎すると予測する向きが多いが、タリバンはスンニ派である。アフガニスタン国内に少数のハザラ人がいるが、彼らだけがシーア派とされる。したがってイランとアフガニスタン関係は緊密にはならないだろう。
 第五にロシアは、隣国タジキスタンから動向を見極めつつ、有利と判断すれば介入するだろう。げんにロシア軍およそ七千名がタジキスタンに駐屯しており、また難民キャンプ設営を終えて、十万人収容と発表されている。
 第六にパキスタンは難民問題に悩まされ、また国内がスパイ合戦と代理戦争の基地化するだろう。パキスタン軍部はタリバンと舞台裏で緊密に繋がっているとされ、イスラン・カーン政権とは距離を置いて独自の諜報作戦を行使する。
 第七にインドの関心事はパキスタンの動向と中国国境での軍事対決にあり、アフガニスタンにチャンスがあれば介入するだろう。インド企業のアフガニスタン投資も目立つが、インドにとってアフガニスタンはパキスタン、タジキスタン、キリギス、ウズベキスタン、イランと国境を接する地政学上の要衝であり、国家安全保障上、つねに監視対象である。
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naturalmagickk · 4 years
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ATMの機能停止時に
保険業界にできること
黒い白鳥
金融の世界ではほぼ7年から10年の周期で「考えられない」ことが定期的に起きています。そのたびに必ずと言っていいほど幹部達は不意打ちを食らいます。このような「考えられない出来事」は「ブラック・スワン(黒い白鳥)・イベント」と呼ばれるようになりました。ナシム・ニコラス・タレブは彼の著書「ブラック・スワン~不確実性とリスクの本質」の中で命名したものです。
ナシム・ニコラス・タレブ
ブラック・スワン理論
 これらのイベントが確実に起きることは分かっているけど、問題は「いつ起きるか」だけだという人もいるでしょう。リーマンショックに関しても、問題の深刻さは2007年や2008年始め頃にすでに浮かび上がっていたのに、世界の銀行業界は誰も表向きでは心配を示しませんでした。
 いまとなって、やっと人々はそれを認めはじめました。あの頃、「大きすぎてつぶせない」という言葉は殆ど使われていませんでした。でもいまは普通に使われる言葉になりました。
 2016年に早送りしてみると、前回の危機を引き起こした問題に関して、銀行・保険業界・投資ファンドなどの金融セクターでは、自画自賛の声明がたくさん出ています。リスク・マネージメントがいかに改善されたかについての議論に留まらず、自慢話まで日常的に飛び出しています。「もうそんなことは二度と起きないよ」と。
 重要な変化としてもてはやされたのは、今のTBTF(大きすぎて潰せない)銀行はリスク・マネージメントの一環として、「生前遺言」を作っておく必要があるという規制です。もし、いまのシステムにとって重要な機関が破綻寸前になったときにそれを適用すれば、現実に危機が起きても、それが伝染することは防げるという主張です。
Living Will Requirements for Financial Institutions
日本語関連記事の一例:規制当局が大手行の「生前遺言」公表
 しかし、次のリンクにある記事によると、リスク管理者はいまだに「前の戦争と戦っている」そうです。しかも、彼らが解こうとしている問題は、差し迫った最大のシステム的脅威からはほど遠いのです。
Cyber attacks could be bigger threat to our banking system than bad debts
 もしあなたがある企業のCRO(最高リスク管理責任者)だとしたら、現実の世界で現れた問題には対処済みと伝えることは簡単です。実際に起きた出来事のシナリオをモデルとして作り上げ、そのシナリオの中で自社がどのように耐えうるか、ストレスの幅を多少広げて、ストレステストを行うだけで済みます。それから、それらをまとめて、パワーポイントでプレゼンテーション資料を作り、自社がそのリスクにどう���処するかを自己宣伝すればいいのです。
 でも、真実をありのままに彼らに伝えるとなると、それは全く別の話になります。
 「我が社のITインフラを、毎晩眠れないほど心配しています。下手するとそれが我が社を破滅させるだけでなく、世界全体の経済を破壊するかも知れません。我が社の技術を改良し、各システムを統合させるために何百万ドルも投資する絶対的な必要性があるのです。」
 しかしながら、真実をありのままに伝えると、その場でいとも簡単に首を切られかねないのです。
困りましたね。
「まあ、一通りのシナリオを検証した結果、我が社の場合は同じ結果に収束しているようです。」ということになりそうです。
 問題のシナリオはこの上にリンクされたガーディアンの記事に述べられています。ある都市銀行で起きたITインフラの機能不全もしくはそれに対するサイバー攻撃により、それが電子金融システム全体の機能不全を引き起こす、というシナリオです。
 2008年9月、リーマンブラーザースが破綻を宣告した時、それがドミノ効果を引き起こしました。システムの中の、たった一つの重要な機関が機能不全になるだけでも、連鎖反応が起きることをすでに私たちは目撃しました。では、もし複数の巨大多国籍金融機関で、上記のインフラ機能不全が一斉に起きた場合、どうなるでしょうか。
 私は保険数理士として20年近く働いています。この職業にとって、リスク管理は極めて重要な専門分野です。この記事が指摘しているように、投資を怠って時代遅れのITインフラを長期間使い続けていると、システムがいつ完全な機能不全に陥っても不思議ではありません。しかも、その脆弱さ故に、様々なサイバー攻撃で、様々な手段で停止させることが容易であることを意味します。これは巨大なシステム・リスクです。でも歴史的に見て、この問題の是正に一体どれだけの投資が行われてきたのでしょうか。時代遅れのITインフラの問題を究明して解決するための研究企画部隊はどこにいるのでしょうか。最後に、これらのシステム的な懸案事項への取り込みに対して、該当の金融機関の責任問題を追及するための規制当局は、どこへ行ってしまったのでしょうか。
 悲しいことに、問題を本気で修正する意思は存在しません。いまの指導体制の監視下で大きな故障が起きないように、絆創膏を貼る程度の資金しか投入されていません。短期的な金融実績を求める圧力によって、いつかやってくる「歴史を書き換えるような出来事」に対する有意義な備えは殆どなされていません。国家、大陸あるいは世界全体の経済を完全に停止させうる雪崩式の伝染を避けるために、先を見越した対応策を考えておくことは必要不可欠です。そういう意味では、現状でそれが怠っているのは紛れもない事実です。
 従って、単にストレステストのモデルという限定された構造から得られた結果に依存するより、現実世界の制約内でできることを考慮する必要性があります。現実世界の中では、出力された数字だけではなく、人間の死活問題も掛かっているのです。もし、問題が大陸全体に蔓延して、しかも十分長く留まった場合、社会全体の完全機能停止を招く恐れがあります。
 保険数理士からみれば、「リスク管理」は社会全体への自分の専門職としての責任です。でも、企業や監視機関のこのような冷ややかな反応を見ていると唖然します。私の職業教育と訓練の中で、財産を守る社会的必要性を説明するのに多くの時間が費やされています。これは自分の雇用主の顧客だけに留まらず、社会全体に対しても言えることです。
 たとえ一日や二日程度の比較的に短い期間でも、電子金融システムの機能不全は社会の資産に対して壊滅的な影響を与えます。商業が広範囲にわたって継続できるように、実行可能な回避策を速やかに立てる必要があると思います。最低限でも、生活必需品や不可欠なサービスを、必要とする人たちに提供されなければなりません。
 もし、保険の原理を活かして、独創的でしかも合法的な手段を考えて、基本的な商業を維持できれば、命を救ったり、住民への被害を最小化する基本目的は達成できそうです。こんな危機の中でも、人々よりも利益優先を主張する人は流通システムを維持すれば、相当の金銭的な利益は得られるでしょう。単純に考えれば、もし文明が崖っぷちに追い詰められたら、投資の見返りはどうなるでしょうか。おそらく自分の命まで含めて、すべてを失うでしょう。そう考えると、投資の見返りという意味では、ビジネスを正常に機能させるための負担共有によって、多少の金銭損失が生じても、それは最終的にはずっと優れた選択肢でしょう。
 ちょっとからかっているだけですよ。もしこのシナリオ通りのことが起きた場合、この危機の規模を考えれば、雇用主のバランスシートの最終損益を見通すのは絶対必要でしょう。この記事は、困難な時期に公共の利益になるように、ある目立たない保険商品を活かして改良することについて書かれているのです。金融は民衆のためにあるものです。民衆が金融の犠牲になってはいけないのです。
私たちには、従来の考え方にとらわれずに創意工夫できるチームが必要だ。
発想の飛躍が必要です。
以下の記事では、複数の金融機関を狙う攻撃について、かなり詳細に検討されています。ある監視官の提案が示されています。でも、これが発表されたのは 2015年2月とあって、また日が浅いためか、その規制に対する大きな取り組みはまだないようです。
Regulator warns of 'Armageddon' cyber attack on banks
 
 
これはアメリカ固有の懸案事項ではありません。次の記事に示されたように、発表された後も目立った取り組みはありません。
CYBERSECURITY: THE ROLE OF CENTRAL BANK AND BANK SUPERVISORS
 現時点で議論されている解決策は、IT危機の「自己申告」と「自主管理」へのさらなる依存にすぎません。本格的な危機が起きた場合に対して、本当の意味での革新的な行動計画は作られていません。
 私が提案する解決策は、戒厳令の導入よりも簡単で、民衆にとってもずっと安全になるでしょう。利害関係者全員の友好的かつ速やかな合意が得られれば、最終的な実施コストも大幅に下がるでしょう。武器や外出禁止令や軍用食への依存は生じません。それより、社会の全階層からの協力に依存します。BII(事業中断保険)というある種の損害保険の補償範囲がモデルになっています。でも、標準の保険契約で適用される範囲より遥かに広いです。理由は進めていくと明らかになってくるでしょう。事業中断保険の仕組みについては、入門書としては次の記事をお読み頂ければ幸いです。
http://www.propertycasualty360.com/2009/12/03/lost-business-income-101?page_all=1&slreturn=1466738214
http://www.nieinsurance.com/loss_of_business_income.html
https://www.irmi.com/articles/expert-commentary/business-income-losses-three-column-approach
 さらに、次の保険に関連する記事の中では、部外機関が委任した法的措置の潜在的な影響力と、管轄地域横断による協力と、最終的に社会の中における保険業界の役割について、面白いコンセプトが提起されています。
https://www.marsh.com/us/insights/research/business-insurance.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Business_interruption_insurance
http://www.insurancecompact.org/documents/member_resources_gao_response.pdf
https://www.ciab.com/uploadedfiles/resources/roleofinsint.pdf
 上のリンクでは、多くの情報を消化しなければなりません。要約すると、それらは基本的に次の命題を支持するために作られた資料です。「保険業界は現代の経済システムの中では、商業にとっては必要不可欠です。ゆえに、保険業界は企業として、公共利益のために働く責任があります。」
 「考えられない」事態が起きたとき、保険業は常に支払い義務を持っていることから、それが顕著に表れます。直接的な金融損失にしろ、間接的な名誉毀損にしろ、大きな損失が保険によって回避できているのです。保険金を支払わなければ、誰もその保険会社と契約しなくなるからです。さらに、もし電子金融システムが世界規模でたった数日間停止しただけでも、長期的にどんな経済的な影響が出るでしょうか。いろんなシステムがすべて復旧したところで、最悪の結果として地球規模の恐慌が起きるかもしれません。また、金融セクター全体が破綻に巻き込まれ、強制合併・企業買収・訴訟によって、本来なら危機から世界の実体経済を回復させるために広く投入可能な資金を凍結させてしまうかも知れません。
 電子金融システムに関連したインフラへの広範囲な攻撃によって生じうる結果を考えたら、社会の完全な機能不全への対策として、問題解決するための独創的なアイデアが必要かもしれません。
 次の節では、ベーグルと事業中断保険がいかに世界を危機から救うかについて話します。
「あなたの見解に一ペニー、あなたの正直さにベーグル一つ。」
 2005年、Freakonomics という本が出版され、ミクロ経済に関するいくつかの従来の常識をひっくり返しました。ベーグル・マンという愛称で呼ばれるポール・フェルドマンを主役にした物語から、とりわけ物事の本質を垣間見せる視点が、消費者の心を掴みました。
 以下のリンクは、フェルドマンの経済実験の結果の詳細について説明しています。
http://understandingcriminology.pbworks.com/f/bagel+story.doc
https://www.youtube.com/watch?v=WlZtBlvIL9A
 実験では、回収した売掛金の割合に応じて報酬が支払われるという自己申告システムの中で、人はいかに正直かを示しています。実験内容をおさらいすると、ポール・フェルドマンは毎日ベーグルと木箱を配達時に置いていきます。昼ごろに売掛金を回収しに木箱を取りに戻ります。通常、回収率は100%にはなりません。それでも87%以上の回収率を達成しました。上の動画の1分37秒のところでは、9/11事件のあと、支払い率が2%上昇しました。そして、その実験に関する彼の著書の初版発行まで、上昇率は通常より最低でも+3~4%のままでした。
 当日の4~6時間内の自己申告システムによる支払いだけで、簡単に実現できました。しかも、すべて一回のみの回収で済ませており、残りの11%~13%を取り返すための複数回にわたる試みに一切時間をかけませんでした。彼が適度に稼ぐために必要なのは、その13%の未払い率を打ち消すための売値の上乗せだけでした。
 代金の回収率に影響を与えた興味深い要因がいくつかあります。
9/11のような、社会を奮い立たせる(一時的な)事件は支払い率を引き上げます。
従業員人数を基準にして、小さい企業のほうは支払い率が高いです。
幹部職などの高収入従業員の支払い率が低いです。
天気が悪いと支払い率が下がります。季節外れの好天では支払い率は基準値以上に跳ね上がりがちです。
休日を判断基準とすると、個別に受けるストレスの相対的な減少が結果的に高い支払い率に結びつくことが観測されました。「長い週末」になるとさらに顕著になります。反対に、短めの休日では支払い率は下がります。
上記の YouTube のリンクが示したように、もし、人々は責任を求められていることに気付けば、支払う人は大幅に増えそうです。これは農家が案山子(かかし)を抑止力に使った場合に似ています。
 このデータはリスク管理と大いに関係があるのです。なぜなら、私たちは次の二つの情報を手に入れました。
小売業者と卸売業者が安心して営業を続けるための有力な代替策
 事業中断保険の補償原則を大幅に導入することで、「支払紛争が生じた場合の最終解決策」として、第三者による支払責任が確立されれば、企業に安心感を与え、ビジネスを公正かつ合法的に実施できます。
 著者の注釈: このような「第三者の支払い責任者」の体制については多くの選択肢があります。この記事の場合、この補強の仕組みに必要な資金は管轄区域によって異なります。戒厳令を布告せずに、部外機関によって導入・施行されることが可能であることを仮定しています。
消費者の振るまいに関する重要な情報が分かったので、それを活かして、金融面と物流面の代替策を作成し、広範囲で速やかに適用させることが可能になりました。
 前に説明したインフラの機能不全シナリオの中で、電子金融システムは数日から数週間の機能停止になることが考えられます。この期間が長引く場合、消費者の行動心理に変化が起きるかもしれません。購入時の支払いの代わりに、自己申告システムの活用で、大半の人の購買行動は品良くなる結果が期待できます。ずっと支払わない人がいる場合、追加措置としてその人たちを催促し、最終的な支払い率を上げれば、停止期間が長引いてもなんとかなるでしょう。
 広く速やかに導入する方法として有力なのは、あらゆる金融取引に使われる基本書類である領収書です。領収書をある種の仮通貨として使うのです。
(編者注) 仮通貨を使う仮の案は以下のリンクで紹介されています。電力や通信が一時的に止まった場合に活用できます。支払い不能で起きるクレームにも利用できます。
生活必需品に関わる製造・流通・小売業界の業務継続計画
 続いて、これをいかに広く導入するかについて詳細に説明します。地域の商業リーダー・政治家や、文民による部外期間との間の連携と迅速な反応が要求されます。
仮通貨としての領収書~今も完全に機能するはず
ここでは、特定の管轄区域内において、小売業者や卸売業者に限らず、あるゆる物とサービスの購入に特定の通貨が使用される個人取引について、その基本法則を説明します。なお、これはあくまでも叩き台にすぎません。特定の管轄区域内で、平和かつ公平な商業の維持という目的が達成されるのなら、ここに示された基本概念を必要なら改良や修正を行って下さい。
導入方法について~小売業者の場合
現金による支払いを原則とします。
領収書を二通作成します。これは借用証書として使われます。それによって、電子金融取引が再開されたら、消費者が小売業者に該当代金を支払うことを誓約します。
顧客は両方の領収書にサインし、日付を記入しなければなりません。レジ係もその領収書に捺印を��、日付を記入します。
一定額、たとえば5000円以上の購入について、買い物客は住所や電話番号などの連絡先情報を知らせなければなりません。
回収不可能な領収書に示される金額は、既存の事業中断保険による損失補填として申し立て可能です。もし定められた商業保険契約の補填条件に該当しない場合、これを第三者機関に申し立てて賠償してもらうことが出来ます。(上記の著者の注釈を参照)
既存顧客とのネット取引について: 顧客とネット小売業者の間にすでに取引関係が確立済みの場合、金融システムが再開されれば、すべての電子システムによる資金移動は自動的に実行されます。言い換えれば、銀行口座やクレジットカードやデビットカード情報がすでに両者の間に交換されているため、ビジネスは従来通りに進めても問題ありません。
新規顧客とのネット取引について: 電子金融取引システムが停止中では、銀行は閉鎖されているため、銀行口座番号などの情報の認証はほぼ不可能です。そのため、新規顧客とのネット取引は難しいでしょう。もし、銀行はその時点での顧客口座情報を使って営業を続けていれば、小売業者が直接に銀行の顧客サービス担当に口座情報の認証をすることで、可能かも知れません。
卸売業者とその他の企業間取引の場合の導入方法:
こちらはもう少し簡単に導入できます。すべての購入は「支払い可能な口座」による通常処理で扱えるし、物品の売却やサービスの提供は「信用できる口座」による通常処理で簡単に扱えます。取引は単純に信用の延長です。電子金融取引システムが再開されれば、すべての取引の金銭的解決は自動的に行われます。すべての取引の必要書類、信用の「承認」、物流への考慮、取引相手とのやりとりなど、各企業はそれぞれの方針や施策に各自の責任を負うことになります。
主な懸念として、キャッシュフロー問題によって生じる企業の破産や支払い不能に関する一時的な支払い猶予があります。再開後、閉鎖期間中の全取引が処理され、消費者からの支払いが済み、既存の商業保険(事業中断保険)または第三者による補償が完了するまでは、すべての企業はビジネスを続けることを強いられます。これらが完全に決着がついてから、はじめて通常の法的、金融的な手続きによる破産または支払い不能の宣言ができます。
連携と導入の普及に関する考慮事項 以下の主な利害関係者はすべて重要です(順不同)
自治体首長(市長)
自治体議会(市議会)
商工会議所
保険規制機構
(アメリカの場合は NAIC 全米保険監督官協会)
(日本では金融庁・日本損害保険協会など)
公益事業法人
注意: 地域の法執行機関の人員や国家警備隊は流通システムの継続運用への従事を特に要求されていませんが、緊急必需品の運搬車両や食品、水、医薬品などの配布において、助けが必要な状況であれば、交通維持などに手を貸すことも出来るでしょう。このような危機的状況では、戒厳令への危惧を和らげるために、目立つ行動を控えたほうがいいでしょう。
即時必要な人員
追加のレジ係当番と小売り店員
小売店での友好的な「監視員」
店先で来店者に挨拶する従業員を想像してみてください。任務は各取引において名前を記入してもらい、買い物客が店を出る前にきちんと支払いを済ませ、市民としての義務を果たしてもらうように声をかけることです。
臨時的な会計担当
公共への告知を作成し、あらゆるメディアで広めること
状況を誰でもわかるような言葉で説明します
個人や企業として何が必要かについて人々に教えます
レジでの待ち時間を短縮するために臨時小売り店員を雇います
年寄りや障害者への戸別訪問によるサポートと、犯罪防止のための近隣パトロール隊へのボランティア募集
便乗値上げや不当営利行為が起きないように、民衆による監視を勧めます。たとえば、仮通貨での支払いに対して5%か10%の追加料金を要求するのは不当営利行為に該当します。逆に、現金で支払う場合を5%割引にするなどの場合もそれに該当します。
緊急必需品の確保ができるようにするための追加手段として、慈善活動、物品交換会、フリーマーケット、直接取引や物々交換による個人間取引を奨励します。
長期的に必要な人材
保険の申し立てを検討し、処理できる経験者
申し立ての合法性について調査する法廷会計士
臨時の会計担当者
便乗値上げや不当営利行為の報告例を検討する会計監督者
金融システムの停止中に特定の団体が有害な活動を行い、個人・企業・または地方政府に金銭損失をもたらした場合、被った損失についての弁償を求めるように、保険代位を立てます。集団訴訟の結果で得た賠償金を補償ファンドとして設立するといいでしょう。この場合、支払金の監督と管理には、誠実で資格を満たす人間が求められることは言うまでもありません。
終わりに
 この記事は、ITインフラの機能不全またはサイバー攻撃に由来する広範囲で深刻な未曽有の金融危機というシナリオについて説明しています。上記に書いた行動手順は一つの基本計画を表します。地域、文化、法体制またはその他の取り上げていない特殊な状況によっては、重大な変更が必要になる場合もほぼ確実に存在するでしょう。
 この記事の主旨は、このようなシナリオが訪れても乗り越えられることを強調しています。重要なのは、物事が展開されていく前に所定の準備をしておくことです。
 文民や企業リーダーがメディアを通して、速やかに実現可能な解決策の提起や明確な対話を行い、さらに迅速な導入で民衆を安心させることが要求されます。これを達成できれば、社会の不安は最小限に抑えられ、法や秩序の維持よりも、実際の物やサービスの分配に人員を割くことが出来るようになります。すべてのシステムが復帰されるまで、最初の48時間から72時間に民衆を落ち着かせることが、銀行閉鎖の残り期間を無事に乗り切るために肝心なのです。
翻訳: Shigeru M
/ PFC-JAPAN Official Group
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野口悠紀雄『中国が世界を攪乱する ―AI・コロナ・デジタル人民元』(3/3)
■中国とアメリカが抱える逆説的ジレンマ■
野口氏の『中国が世界を撹乱する』を指南書に、本項の1/3では覇権志向を邁進する中国と、それに対抗姿勢を示しはじめたアメリカの現状を整理した。つづく2/3ではエイミー・チュアの『最強国の条件』をひもときながら、歴史的な覇権国には寛容性と基本的人権の二つの要素が影響していることを学んだ。最終項の今回は、近未来の覇権には地球的な連帯というべき第三の軸が関わることを示し、そこには民主主義とデジタル技術の葛藤があることを取り上げたい。
近未来の最強国に求められる第三の要素
こうして覇権国の要件を辿っていくと、結局のところ、近未来の覇権国家の姿を思い描くには、個人の基本的人権と国家の寛容性の二軸ではむずかしいことがわかる。これまでの考察によれば、最強国になるには、二番手の強国にたいする寛容さが試される。しかし、この要件がいかに非現実的かは、現在進行中の米中貿易戦争や、新型コロナウィルスに対するアメリカと中国の反目ぶりを見れば明らかだ。近未来の最強国には、寛容と人権の二つの軸と垂直に交わる三次元の視点が必要なのだ。
エイミー・チュアやマイケル・ハートによれば、その第三軸はいわば地球軸のようなものになる。ここでは国家や個人の境界は曖昧になり、地球視点に立つ全人類的な共有価値を人々の知恵でどのように管理し関係付けるかが問われる。所有は共有を経由して地球の修復となり、個人は国境を超えて連帯し、国家は帝国を超えた多角主義、すなわち地球的な統合へと向かう。近未来の最強国はいかにも逆説的に非国家的な姿になるというのは、チュア氏が指摘した通りだ。
人類の争いは統合の困難故に争い悲劇を繰り返してきた。その反省のもとで、歴史上の最強国が見出した国家維持の知恵が寛容だった。しかし、同化としての寛容は人材と交易による寛容へと姿を変え、人権・自由・民主を統合したはずの国家的寛容は、帝国へと肥大するあまり自己否定に追い込まれつつある。そしていま世界は、地球的な課題に向けて多角主義的な「絆」を模索しはじめた。
この2000年にわたる変転の歴史のなかで、最強の地球像に向けて未来に引き継がれなくてはならないものがある。それは、ハート氏がいう「わたしたち全員」を束ねる民主的な選択と決定の方法である。その仕組みがチュア氏のいう国家を超えた絆なら、それはデジタルネットワーク抜きには成り立たない。デジタルなネットワークは軽々と国境を超える。これは「絆」のための強力な仕組みになるはずだ。
だが、「絆」はただそれだけでは情緒的な概念に過ぎない。それだけなら、ヒトラーがナチス体制を目指して用いた民族共同体と変わらない。そうならないように、チュア氏のいう「絆」を民主的な方法で支える必要がある。デジタル技術はそのための重要な手段になる。
しかし、デジタルパワーがいつも寛容性や基本的人権を支え、人類の知恵を公平に接続する仕組みとして機能すると考えるのは、いささか楽観的だろう。なぜなら、ローマ時代の寛容が奴隷に及ばなかったように、ヒトラーが憲法を停止し選挙で民意を偽装したように、民主主義本来の機能を正しく維持させるのは容易ではないからだ。こうした過去の事実を思い起こせば、インターネットやAIが反民主的な偽装の手段になる可能性を無視するわけにはいかなくなる。デジタル技術そのものは汎用的で無性格なものだけに、取り扱いには慎重になる必要がある。
地球環境といいデジタル技術といい、近未来の地球像を見通すための第三の軸には、従来の考えを延長しただけでは捉えきれない難しさがある。
中国の足かせとなるデジタル技術の強圧的な利用
強国が近未来の覇権を目指すとき、デジタル技術は極めて重要な手段になる。しかも、高度に進化したデジタル技術は、強圧的な手段にも民主的な手段にもなる。前者のうち経済と軍事への影響については、すでに1/3項で見たように、米中貿易戦争を通じて国家間での争いが繰り広げられている。
このデジタル技術の強圧的な側面は、国家間の覇権争いだけではなく国民に向けられることがある。これについては野口氏が『中国が世界を撹乱する』のなかで、中国国内で進む顔認証や信用スコアリングなどの事例で詳細に取り上げている。1)
それらはいずれも個人のプライバシーを国家に委ねることと引き換えに、犯罪を抑止し社会的な信用を得ることで中国国内で安心して暮らすことを可能にするものだ。中国人の多くはこの個人と国家のバランスを受け入れている。
しかし、形骸化しつつある一国二制度のなかで香港の若者を中心に、このバランスを受け入れようとしない人々も少なくない。顔認証技術は中国以外でも使われているが、日本人やアメリカ人の多くもプライバシーを国家に委ねることには反対だろう。著者は次のように書いている。
中国の顔認証システムでは、顔情報という重要な個人情報が、永続的に第3者に渡るわけで、空港やスマートフォンの顔認証とは本質的に異なるものだ。このことの重要性は軽視できない。(No.2537)
これを国家の寛容の視点に照らし合わせると、日本人やアメリカ人にとって、デジタル技術で国民を監視する中国の現状は個人に不寛容なだけでなく、プライバシーの観念がないとしかいいようがないものだ。日本では憲法第13条に「すべて国民は、個人として尊重される。」と書かれており、プライバシーの権利は保障されていると考えられている。顔認証や行動監視により個人情報を常時収集する中国のシステムを国民が受け入れているのは、国民の側がプライバシーに無関心かよほどか寛容なのだろう。少なくても日本に暮らす自分にはそう思える。そうなるように事を運んだ、中国の国家運営の巧みさによるものかもしれないが。
チュア氏は、不寛容な国は覇権国になれないとする歴史的な原則を導き出した。そうであれば、中国が今後さらに世界での存在感を増やし、世界派遣を目指す場合、不寛容でプライバシーを尊重しないデジタル技術の利用は、他国とその国々の人々との間で大きな齟齬をもたらすはずだ。
言い換えれば、ここに中国が寛容さを発揮する糸口がある。しかし、国民監視の手段を緩めれば思想の自由を許すことになり、やがて民主的な真の普通選挙2) への渇望が起こり、一党独裁という中国の根幹を揺るがすことになるだろう。中国が寛容になり、最強の地球像に向けて世界と連帯する「絆」を紡ぎ出す未来を考えるのは容易ではない。
格差の拡大に無力なデジタル技術
高度なデジタル技術は民主的にも働く。デジタル技術で世界を牽引してきたアメリカは、その自由でイノベーティブな活用により国力を拡大させてきた。これはデジタル技術の民主的な側面のひとつである。
しかし、その一方で、民主的だったはずのデジタル技術の利用に新たな問題が起こりはじめている。ひとつには、デジタル技術が格差の拡大に一役買っているように見えることだ。もうひとつは、基本的人権の在り方がデジタル技術の発展に大きな影響を及ぼしはじめていることである。全体として、デジタル技術と民主主義は相性が悪くなりつつあるように見える。
まず最初に、デジタル技術と格差の関係がどのような状況かを押さえておきたい。
デジタル技術はインターネットの普及とともに政治・文化・ビジネスに変革をもたらし、組織や権威を超えた接続性の高さから、自由と民主を尊重する人々の連帯にとって不可欠なものと考えられてきた。例えば、ニコ・メレは2013年に出版した『ビッグの終焉』で、インターネットにより地位や規模を超えて機会は平等になり、大きな組織が崩壊したあと個人や小さなものの時代がやってくると考えた。3)
しかし、その後の7年間の状況はメレ氏の予想を大きく裏切るものだった。Google、アマゾン、フェースブック、アップル、マイクロソフトの売り上げや時価総額は拡大を続け、世界を代表する巨大企業としてデジタル市場に君臨するようになった。デジタル関連企業以外でも、金融、製薬、化学など巨大企業の勢いは衰えることがない。いまや、全世界の富の82%を1%の富裕層が独占する現実がある。4)
格差の拡大により、自然災害や世界的災難が起きた際の、弱者の脆弱さも目立つようになった。いまがまさにそうだ。2019年12月に中国の武漢で発生した新型コロナウイルスは、その後半年を待たずして全世界に広がり、本稿を執筆している2020年5月24日現在で感染者数520万人、死亡者数34万人を超えている。5)
この惨禍により4月初めの段階で、すでに世界の労働者の8割が打撃を被り2億人が失業したと伝えられている。6) そのほとんどは自営業者や非正規労働者など、メレ氏がいう「個人や小さなもの」たちだ。その一方で、外出規制によりテレワークや家庭内でのコンテンツ利用が拡大したことにより、GAFAMなどのデジタル系大企業からはむしろ増収増益が伝えられている。7)
アップルもマイクロソフトも最初は企業経営者に相手にされない小さな存在だった。その小さなものが大きくなれたのは、身分や失敗、外観や経歴に囚われず独創と挑戦を歓迎する寛容なアメリカ的気質が貢献している。しかし、スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツが半世紀をかけて作り上げた組織は巨大化し、小さなものたちが生み出したデジタル技術は、いまや格差を拡大する仕組みとして機能しているように見える。
この経緯は、アメリカが自由と民主という寛容精神により帝国を築いたものの、帝国化したが故に嫌われるようになった覇権国の歴史を思わせる。インターネットが市民生活に普及しはじめておよそ20年になるが、少なくても現状ではデジタル技術は格差を拡大する方向に機能していると言うしかない。
デジタル技術の発展の足かせになる民主主義
デジタル技術と民主主義の関係を考えるとき、もうひとつ大きな問題がある。民主主義がデジタル技術の発展の足かせになりはじめたことだ。
中国はいま、電子マネー決済、行動監視、信用スコアリングなどで世界の最先端にいる。これらはいずれも、AI、インターネット、ビッグデータを複合した応用技術としてデータでつながっており、全体として世界最大規模の超監視社会を構成している。個人の属性や行動を監視するカメラの台数は、すでに1億7,000万台に達したと言われている。これらの実態は『中国が世界を撹乱する』でも、第10章「信用スコアリングの光と陰」で野口氏が詳しく取り上げている。
こうしたなか中国は、2020年5月21日、全国人民代表大会で香港国家安全法の制定を発表した。これに対し「国家安全法は非常に限られた人にしか影響しない」として同法を支持する声もある一方で、民主化を求める活動家や香港市民、進出企業、台湾、アメリカなど多くの組織や国からは、自由が制限される、香港を擁護すれば違法になりかねない、ビジネスへの悪影響があるなど多くの懸念が寄せられている。8)
先にも述べたように、デジタル技術を利用した中国の監視網は、今後間違いなく、香港国家安全法の運用に不可欠の手段として利用が拡大していくだろう。それは、自由と民主を尊重する人々の大きな反感を引き起こす。野口氏も『中国が世界を撹乱する』のなかで「香港のデモでは、参加者が地下鉄の切符を買うのに、電子マネーを用いず、現金を用いたそうだ。電子マネーの利用履歴という情報は、それほど強力なのである。」(No.2354-2356)として、デモの参加者が監視網のスキをついて行動する様子を紹介している。
市民の行動監視への懸念はこれだけではない。デモ参加者のなかには、街中に設置された「スマート街灯」に監視機能があるとして破壊行為に出る者もいる。実際に顔認証が行われているかどうかは明らかではないようだが、少数民族のウイグル族に対してはすでに同様の技術が使われているという指摘がある。9)
一方、こうした中国でのデジタル技術の利用と対照的なのがアメリカだ。2020年5月8日、多くのメディアが、Googleの子会社がトロントで進めていた「未来都市」からの撤退を報じた。約48,560m2の街にサステナブルな高層ビル群を建築し、ビッグデータを生活と仕事に積極的に活用する、いわゆる「スマート・シティ」が作られる予定だった。そこでは移動手段となる車両の自律走行はもちろん、次のようなデータ収集が行われることになっていた。10)
キーサイドには街中にセンサーが設置され、住民の行動はすべて記録に残される。公園でどのベンチに座ったか、道を横切る際にどれだけの時間がかかったかまで追跡されることになるのだ。
この計画が頓挫した表向きの理由は、新型コロナウイルスの流行によるものとされている。しかし実態は、WIREDが「データの収集と監視が新型コロナウイルスの感染拡大を遅らせる重要な手段であると見られるようになったタイミングで、トロントのプロジェクトは中止となった。」と皮肉な書き方をしているように、11) 撤退の本当の理由はコロナではない。前掲記事には次のように書かれている。10)
公共の場でのデータ収集については事前に同意を得ることが難しいため、すべてのデータを匿名化して、個人を特定できないように分割する。第三者へのデータの販売は絶対に行わないほか、一定の手続きを踏めば、住民などが収集されたデータを確認できるシステムを整えるという。(…)それでも人々の懸念は解消していない。
要するに「あらゆるデータの収集という基本哲学」が人々に受け入れられなかったのが撤退の理由だ。似たような話は欧州にもある。野口氏も指摘しているように、2018年に欧州連合は顔認証や信用スコアリングはプライバシーの侵害や人種大別を助長するとして、規制強化(EU一般データ保護規則:GDPR)の方向に動いたことは記憶に新しい。
このように、中国とアメリカとではデジタル技術の利活用に対する考え方と現実はまるで異なる。このことが近未来の覇権像を考える上で重要なのは、顔認証や信用スコアリングなどのデジタル技術の高度利用は、民主主義との相性が悪いということだ。「相性が悪い」とは、民主主義のもとではその技術を役立てることが難しいということである。民主主義社会ではデジタル技術がプライバシーを侵害するとみなされると、たとえそれが世界最先端の技術であっても規制の対象になりやすい。すでに述べたように、民主的な国家ではプライバシーが尊重され、その権利が保障されているからだ。デジタル技術の積極活用を重視する企業や国家にとって、これは技術発展や企業活動の足かせになる。
これとは反対に、プライバシーの侵害よりも行動監視による犯罪の抑止や国家お墨付きの信用情報を歓迎する社会では、デジタル技術の積極活用が進みやすい。こうした日々更新される市民の行動データは、国家を管理運営する側にとって体制を維持する上で極めて好都合であるばかりか、デジタル技術の高度化を通じた経済発展に役立つ。とりわけ14億人の国民を抱える中国の場合、そのデータ量は世界のどの国をも凌駕する膨大な量になる。ビジネスなどで中国国内で活動する外国人も、そのなかに飲み込まれるかもしれない。このことはAIの発展に絶大な恩恵をもたらし、結果的に中国の経済や軍事のパワーを高めることになる。こうした実情を考えると、民主的であることが中国とアメリカの国力を分かつという、まことに皮肉な事態が進行していることを認めないわけにはいかなくなる。
デジタル技術はこれまでがそうであったように、高度化すればするほど人間にとって透明な存在になる。すでに現状でも、AIやビッグデータの働きが利用者の目に届かないように、やがてはカメラやドローンといった物理的な存在も、実態として捉えることができなくなるだろう。そうなれば、市民が自覚することすら難しい超監視社会が到来する。
そのような近未来社会は、チュア氏のいう「究極的には正統性と支配される側の同意によって成り立つ民主主義の世界」とは正反対の、個人に不寛容な体制のなかに産み落とされることになるだろう。具体的にはどの強国がその先鞭を付けるだろうか? 現状では民主主義の足かせがあるアメリカではなく、すでに監視社会を受け入れている中国だと考えるしかない。
大いなる寛容の民主的な統合に向けて
以上が、わたしが野口氏の『中国が世界を撹乱する』を読んで、「大きな問題が進行していることに慄然とした」理由である。
書き進めるにあたって未読だったエイミー・チュアの『最強国の条件』を読み、多くの知見を得たことは幸いだった。しかし、チュア氏が同書を書いてからの13年間で世界は大きく変わった。ニコ・メレが『ビッグの終焉』で予測した未来は、ずっと先延ばしになったのかもしれない。
その間にアメリカは中国の野心に気づき対抗策を取るようになったが、大きくタイミングを失しただけでなく、その後、多角主義的な連帯よりむしろ自国主義の性格を強めてしまった。新型コロナウイルスへの対応は、民主社会の閉鎖性を顕にした。アメリカはいまも、世界最悪の感染被害国の記録を更新中だ。アメリカが近未来に待たれる真のリーダーを見出すのはいつのことだろうか。
中国は建国100年目の「中国の夢」実現に向け、着々と歩みを進めている。経済と軍備を整え、デジタル技術ではすでに世界のトップクラスに立った。56の民族と14億人を束ね、AIやビッグデータを活用した監視網で国家の中枢へと大量のデータを吸い上げる様子はSF映画さながらだ。そして、民主主義を尊重する人々や国々からの非難を顧みることなく、数日中にも香港に国家安全法制を導入する見込みだ。(同法は、2020年5月28日に開催された全国人民代表大会で、賛成2878票、反対1票で可決された。)
チュア氏が近未来に託した多角主義的な連帯意識の「絆」は、民主的な選択と決定の仕組みを必要とする。その有望なひとつとして期待されるデジタル技術が、民主主義とデジタル技術の間で、発展のジレンマを抱えている。
未来のことは誰にもわからない。人口問題が中国に影を落とすかもしれない。どんな権力者にも等しく寿命がある。アメリカは未来に向けたスーパースターを見出すかもしれない。未来は不可視だ。しかし、このまま進めば中国は世界一の経済大国になり、アメリカと中国のデジタル格差は開いていく。それでも相変わらず不寛容な中国は、世界の嫌われ者であり続けるだろう。人心の本質に反するからだ。
民主主義も一党独裁も、それぞれの矛盾を抱えているのが現在の強国の姿だと思う。真に多角主義的な連帯の絆が結ばれるのは、それぞれが抱える問題を受け入れ自らに寛容になった後のことだろう。それには倫理的な自覚がいる。アメリカは小さきものに目を向け、格差の克服と真剣に取り組む必要がある。中国は大国として国家の寛容に目覚めなくてはならない。互いの自覚こそが、共通語としてのデジタルに未来を豊かにする民主的な力を与えるだろう。それまでに不幸な衝突が起こらないように、いまはただただ祈るしかない。
(1/3:世界覇権への中国の歩みとアメリカの対応) (2/3:新たな段階を迎えた「最強国の条件」) (3/3:中国とアメリカが抱える逆説的ジレンマ)
1)「第III部 未来への驀進に危険はないのか?」の「第10章 信用スコアリングの光と陰」
2)下記の文献に書かれている「中国の現行の《選挙民主主義》 」ではない、「普通選挙権に基づき、定期的で競争的な、かつ複数政党による選挙を通じて、立法府と行政首長が選出される、文民による憲政のシステム」 (ラリー・ダイアモンド)で定義される普通選挙。
鈴木隆「中華人民共和国における「選挙民主主義」の現状 」愛知県立大学外国語学部紀要第 45 号, 2012.
3)ニコ・メレ『ビッグの終焉』東洋経済新報社, 2014,(原著の出版年は2013年)
4)ウィニー・ビヤニマ「1%の富裕層が全世界の富の82%を独占する、オックスファムが「格差」報告書」オックスファム, 2018.1.22. https://www.ganas.or.jp/press/20180122oxfam/
5)新型コロナウイルス感染症(COVID-19)WHO公式情報特設ページ, 2020.5.24. https://extranet.who.int/kobe_centre/ja/news/COVID19_specialpage
6)BBC News Japan「新型ウイルス、世界の労働者の8割に打撃 2億人が失業も」2020. 4.8. https://www.bbc.com/japanese/52210030
7)大越章司「出そろったGAFAMの四半期決算 ~新型コロナの影響は?」オルタナティブ・ブログ, 2020.5.12. https://blogs.itmedia.co.jp/appliedmarketing/2020/05/it_4.html
8)日本経済新聞「「金融センター」香港に打撃も 国家安全法に不安の声」2020.5.25. https://www.nikkei.com/article/DGXMZO59534410V20C20A5EA1000/
9)Ellen Ioanes「香港デモ、参加者の新たな標的は監視カメラを搭載した『スマート街灯』」2019.8.29. https://www.businessinsider.jp/post-197553
10)Aarian Marshall「グーグルが計画中の未来都市『IDEA』は、徹底したデータ収集に基づいてつくられる」2019.7.5. https://wired.jp/2019/07/05/alphabets-plan-toronto-depends-huge-amounts-data/
11)Aarian Marshall「グーグルがトロントで夢見た『未来都市』の挫折が意味すること」2020.5.9. https://wired.jp/2020/05/09/alphabets-sidewalk-labs-scraps-ambitious-toronto-project/
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10.朝鮮近代化の推進
問い7:朝鮮の近代化とその阻止>10.朝鮮近代化の推進
目次は こちら
10.朝鮮近代化の推進
 『韓国の歴史教科書』の「4 近代的改革を推し進める」より、朝鮮の本格的な近代化推進とその阻止に関する記述を、174ページから引用します。
【折しも改革を要求する東学農民運動が起こり、清日両国の軍隊が入って来た。思いがけない状況に、政府は農民軍と「全州和約」を結んで両国の軍隊に撤収を求めた。しかし、日本は朝鮮の社会安定のために内政改革が必要だと主張して撤収しなかった。そこで、政府は校正庁を設置して東学軍の要求を一部取り入れ、自主的な改革を推し進めた。
 (中略)
撤収要求を無視した日本は景福宮を占領する一方、清日戦争を起こした。結局日本の強圧により閔氏政権が崩壊し、大院君を摂政とする第一次金弘集内閣が成立した。金弘集内閣は校正庁を廃止して軍国機務処を設置し、大々的な改革を断行した(甲午改革)。】
 甲申政変から10年後の1894年7月末に成立した金弘集政権が発した法令によって、第一次改革が断行されました。『韓国の歴史教科書』の174~175ページの「甲午改革を推し進める」には次のようにその第一次改革の内容が記されていますのでその要点を示します。
【第一次改革ではまず国政と王室業務を分離し、それぞれ議政府と宮内府が司るようにして内閣の権限を強化した。両班の特権を保障した科挙制度を廃止し、新しい役人登用制度を整備した。社会的には公私奴婢法を打破し寡婦の再婚を許可するなど身分・女性差別を廃止して人権を改善する措置を実施した。経済面では、全ての税金を貨幣で出すようにし、銀本位制の貨幣制度を実施して度量衡を統一した。
 日本は清日戦争で勝利が近づくと、朝鮮の内政に積極的に干渉し始めた。日本の強要により興宣大院君が退き、甲申政変で日本に亡命していた朴泳孝が帰国して内務大臣になった。そして第二次金弘集内閣が発足して軍国機務処は廃止された。
 改革が更に推し進められ、高宗は洪範十四条を領布して改革の基本方向を示した。】
 以下この洪範14条を宣言するに至る経緯とその内容を『朝鮮紀行』の「第21章 国王の宣誓・国王と王妃」の322~327ページより引用します。
[1895年1月8日、私は朝鮮の歴史に広く影響を及ぼしかねない、異例の式典を目撃した。
 (中略)
 (前略)北漢山のふもとの鬱蒼とした松林にある、朝鮮で最も聖なる祭壇において、王族と政府高官列席のもとに誓告式は執り行われた。
 (中略)
 予定よりずっと遅れ、国王は外国からの圧力に最後の抵抗を示すつもりだろうかという憶測が私の頭に何度も浮かんだあと、行列が王宮から現れた。(中略)ついで紅絹の傘があらわれ、(中略)両側にガラスのはまった簡素な木の輿がつづいた。その輿には青白く気落ちした表情の国王が乗りかつぎ手は四人しかいなかった。
 (中略)
 行列が、聖なる場所に到着すると、軍の大半は塀の外にのこり、国王と高官、そして主な従者のみが祭壇の前へと進んだ。(中略)政治的な見地からは朝鮮国王がつぎのような宣誓を行ったことは、このたびの戦争という事冗長なドラマにおける最も意義深い場面であった。
国王の宗廟宣誓文
 開国503年12月12日の本日、尊き皇室祖先のすべての御霊に対し、その卑しき末裔たる朕は、今をさかのぼる31年前、幼少にして代々の強大な遺産を継承したことを、また天地神明を畏み、祖先伝来の規範に従って、幾多の困難に遭いながらも結束の緒をゆるめずにきたことを明らかに宣言申しあげる。
 (中略)
 卑しき末裔たる朕は、ここに十四カ条の洪範を定め、わが祖先の御霊の前において、代々伝わった功徳を信じ、この洪範を成功裏におさめることを不退転の決意で誓う。輝かしき御魂よ、朕を見守りたまえ。
国政改革のための洪範十四ヵ条
一、 清国に依存する考えをことごとく断ち、独立のための確固たる基礎を築く。
二、 王室典範を制定し、王族の継承順位と序列を明らかにする。
三、 国王は正殿にて事を見、みずから大臣に諮って国務を裁決する。王后ならびには王族は干渉することを許されない。
四、 王室事務と国政事務を切り離し、混同してはならない。
五、 内閣[議政府]および各省庁の職務と権限を明らかに定義されねばならない。
六、 人民による税の支払いは法で定めるものとする。税の項目をみだりに追加し、過剰に徴収してはならない。
七、 租税の査定と徴収および経費の支出は、大蔵省の管理のもとに置くものとする
八、 王室費は率先して節減し、各省庁ならびに地方官の模範をなすものとする。
九、 王室費および各省庁の費用は毎年予算を組み、財政管理の基礎を確立するものとする。
十、 地方官制の改正を行い、地方官吏の職務を正しく区分せねばならない。
十一、国内の優秀な若者を外国に派遣し、海外の学術、産業を学ばせるものとする。
十二、将官を養成し、徴兵を行って、軍制の基礎を確立する。
十三、民法および刑法を厳明に制定せねばならない。みだりに投獄、懲罰を行わず、なにびとにおいても生命および財産を保全するものとする。
十四、人は家柄素性に関わりなく雇用されるものとし、官吏の人材を求めるに際しては首都と地方を区別せず広く登用するものとする。 現在朝鮮の改革は日本の保護下では行われていないとはいえ、進行中のものは殆どの段階において日本が定めた方針に則っていることを念頭に置かなければならない。]
 この「洪範十四条」を、国王が自ら制定するのは、朝鮮の将来のために大変素晴らしいことと思っていました。しかし、国王の本心は、機会があれば王の無制限の特権を復活させようと思っていたことを、歴史が示しています。高宗にはその無制限の特権が、李氏朝鮮の混乱と衰退を招き、朝鮮の民衆を苦しめてきたことに思いが至っていないのです。
 『日韓併合の真実』の「第3章 溶解しはじめた李氏朝鮮」の156~162ページでは、洪範十四条を全てもれなく記述をし、関連事項も記されています。洪範十四条に関連した記述内容を次に引用します。
[高宗は11月に日本の要請に従って、大院君の名において、金弘集を領議政(首相)とする革新内閣を発足させた。金弘集内閣には、甲申(1884年)政変に加わって、日本からアメリカへ亡命していた朴泳孝と、徐光範の親日派二人も、入閣した。
 (中略)
 金弘集は日本の意を受けて、内政の大改革である甲午更張を進めた。「更張」は、琴の糸を改めて張ることであって、これまで緩んでいた事柄を改めて、盛んにすることを意味している。
 もし、甲午更張が忠実に行われていたとすれば、その後の韓民族の進路が、大きく変わっていたことだろう。李氏朝鮮は、倒れるのを待っている腐木に似ていた。しかし、甲午更張によって朝鮮を、日本のような近代国家として創造することができるはずだった。
 歴史はこのために、まず金玉均に韓民族を救う機会を与えた。金玉均が甲申政変で失敗すると、金弘集を登場させた。
 甲午更張こそ、韓民族が五世紀にわたって待っていた黎明だった。
 (中略)
 高宗は高宗32(1895)年1月7日に、大院君・王世子・文武百官を率いて、大廟を参拝し、祖宗の霊前に跪いて、大更張――根本的な大改革を行うことを、誓約した。
 そして、そのうえで洪範十四条を宣布した。
 洪範十四条は、甲午更張の骨子となる基本綱領を明らかにしたものだった。この洪範十四条は、今日、反日学者によっても、「朝鮮最初の憲法」として評価されている。
 (中略)
 甲午更張は、それまで李氏朝鮮が清と結んだ条約をすべて破棄した。清との宗属関係を廃することによって、朝鮮が自主独立した国家であることを打ち出した。
 そして、政治、経済、社会の全ての領域にわたって、大胆な改革を断行して、朝鮮が日本と同等な文明国となることを目指していた。
 (中略)
 李氏朝鮮では、国家予算も無く、官僚たちが百姓を中心とする民衆から最大限に徴収――搾取した金銭、あるいは米穀類を、自分の櫃か、倉庫に蓄え込んで、中央へは三分の一程度しか納めなかった。
 しかし、大院君や高宗や閔妃たちは、官僚を売官売職によって任命したから、大金を横領していることを知っても、追及することができなかった。
 中央では、大院君や、高宗や閔妃たちは、民衆が飢えて苦しむのをよそに、毎日、宴を催しては、遊興に耽って、浪費を重ねていた。
 (中略)
 洪範十四条の中には、国王の親政を廃して、王権を制限し、王妃と王族の政治への関与を禁じた上で、王室と国家の経費を分離して、国庫と王室費である内帑金を切り離すことが含まれていた。これは高宗や閔妃にとっては、国庫を私物化することができなくなることを意味していた。]
 この改革は、停滞していた李氏朝鮮の諸弊害の根源を取り除き、現代朝鮮の基礎を創ろうとした素晴らしい改革です。そして当時の国民の大半が奴婢から解放され救済されようとしたのです。この解放され自由になれた人々は、積極的に自発的に活動できるので朝鮮の発展に大きく貢献できる可能性を持っていたのです。そして何もせずに良民・奴婢からの搾取で贅沢をすることが権威の徴であった両班も、その特権が無くなるので、額に汗しては働く必要が出てきたはずです。さらに、将官を養成し、徴兵法を行って、軍制の基礎を確立することは、朝鮮の防衛を清国に依存しなくなるので、本当の意味で独立国になれるはずでした。このように朝鮮人全体が積極的に活動できる体制は、朝鮮の自主独立と発展の基礎になるはずでした。従って、金弘集などこの改革を進めた人々は朝鮮の近代化と発展と自主独立の基礎を作った恩人として尊敬され、顕彰されて当然であると思われます。
 しかし、『韓國の歴史教科書』の175ページ「甲午改革を推し進める」には、
【第二次甲午改革は、三国干渉によって日本の勢力が弱まり、改革を主導していた朴泳孝が政変を図ったという疑惑で失脚したことによって中断された】
と記されており、せっかくの期待の改革が中断されてしまいました。朴泳孝の失脚に関して、『朝鮮史2』の「第1章 朝鮮の開国と開化」の44ページの「甲午改革」の項には『韓国の歴史教科書』と異なる次の記述がありますので引用します。
[しかし第二次金弘集政権の中では、金弘集派と朴泳孝派とが対立するようになり、5月8日に金弘集は内閣総理大臣を辞職し、朴定陽が後任と成った。三国干渉後の親露派の台頭にともなって、6月2日には学部大臣に親露派の李完用が任命され、7月6日には内部大臣の朴泳孝が王后殺害を企てたとの嫌疑を受けて、日本へ再亡命するにいたった。】
 朝鮮では政敵に罪を着せる手段として多くの誣告が、常套手段として存在したことはすでに見てきた通りです。「朴泳孝が王后殺害を企てた」との嫌疑も、改革に反対する誰かの誣告であった可能性が高いと思われます。多くの誣告は釈明や事実確認が行われずに、嫌疑だけで疑われた人の処刑が行われていましたので、朴泳孝が直ちに亡命したのは、賢明だったと思われます。またしても、一つの誣告によって、朝鮮が底無しの泥沼から脱出する機会が閉ざされてしまいました。この誣告を仕掛けた人物あるいは人々は、洪範十四条の実施で不利益を受ける王や王妃および両班や官僚たちであると推測されますが、教科書にはどこにも誣告の仕掛け人のことは記されていません。
 『朝鮮史2』の「甲午改革」の項には、第二次金弘集政権の成立から朴泳孝の亡命までにも多くの改革が行われたことが、44~45ページに記されていますので、引用します。
[第一に内閣制度が創設された(議政府を内閣に改め、八衛門を七部に改め、農商、工務衛門は農商工部に統合された。1895年4月)。
第二に軍制���革である。1894年12月に「陸軍将官職制」を定め、大将、副将、参将以下の階級が定められた。(後略)
第三に裁判所を設置し(1895年4月)、司法機構の行政機構からの分離の第一歩とした。(後略)
第四は財政改革である。それは、⑴「管税司及徴税署官制」施行(中略)、⑵「会計法」施行(中略)、⑶還穀の廃止(95年4月)などであった。(後略)
第四に学校行制の整備に着手した。(後略)〈第四は第五の誤り?〉
第五に地方制度改革である(1895年6月)。従来の八道は二三府に改編し、邑の名称は一律に郡とされた(二三府制)。(後略)
第六に清からの独立を明示する諸措置の実施である。(後略)
第七に宮内府の機構改革である(1895年5月)。(後略)]
 これらの改革は1895年に決定されていますが、朝鮮半島全体には何時頃に実施されたのか分かりません。なぜなら、1895年に裁判所が設置されて公正な裁判が行われているはずですが、10年後の1905年時点ではまだ裁判の名のもとに残酷な笞打刑と見るに堪えない残酷な死刑が旧来然とした法廷で行われているのを、スウエーデン人ジャーナリストが目撃しているからです。
 のように改革の実施がなされていない理由は、金弘集内閣が間もなく高宗によって潰され、金弘集首相も虐殺されたので、その後の執権者たちは改革を実施しなかったのかもしれません。
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