Tumgik
#身辺雑記
kennak · 9 months
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ジャニーが同性愛者(真性の少年性愛者、児童性愛者)であり、事務所に所属する男性タレントに対して性的児童虐待(同性愛行為の強要)を行っているとの話は、1960年代から散発的に繰り返し報道されてきた。 まず、駐留米軍の「在日軍事援助顧問団 (MAAGJ)」に勤務していた頃(1958年~1966年)から、外交官ナンバーの車(クライスラー)で新宿・花園神社の界隈に繰り出し、「ケニー」、「L」、「牛若丸」といったゲイバーで遊んでいたこと、更に新宿駅南口で網を張り、田舎から出てきた少年たちに声をかけては、常宿の「相模屋」(1泊600円のベッドハウス)に連れ込んでいたことを、当時のゲイ仲間・原吾一が、著書『二丁目のジャニーズ』シリーズで明かしている。 ジャニー喜多川が最初に手がけたタレントは「ジャニーズ」の4名(真家ひろみ、飯野おさみ、あおい輝彦、中谷良)で、当初は池袋の芸能学校「新芸能学院」に所属させていたが、学院内にてジャニーが15名の男子生徒たちに性的児童虐待行為をしていたことが発覚。 オーナーの名和太郎学院長(本名:高橋幸吉。2000年6月7日に急性心不全で逝去。81歳没)はジャニーを1964年6月28日付で解雇した。 しかしジャニーが、ジャニーズの4名も一緒に引き連れて出て行ってしまったためにトラブルとなり、ジャニーらが所属中の授業料やスタジオ使用料、食費など270万円を求めて学院長がジャニーを提訴し、裁判へと発展した (通称:ホモセクハラ裁判)。 なお、当時のジャニーは在日軍事援助顧問団(MAAGJ)に在籍する下士官事務職員として、米国軍人および外交官の立場にあったが、新芸能学院との騒動は「MAAGJの公務の範囲外の職業活動」で起こった問題であるため、「外交関係に関するウィーン条約」(日本では1964年6月8日に発行)の第31条1項による外交特権「外交官は接受国の刑事・民事・行政裁判権からの免除を享有する」の対象から漏れ、訴えられた。 この裁判は長期化し、1964年から実に4年に渡って行われた。 ジャニーズの4名も実際に証言台に立っており、その証言記録は『女性自身』(1967年9月25日号)、『ジャニーズの逆襲』(データハウス刊)、『ジャニーズスキャンダル調書』(鹿砦社刊)にて再現されている。 『週刊サンケイ』(1965年3月29日号)でも「ジャニーズ騒動 “ジャニーズ”売り出しのかげに」として5ページの記事が組まれた他、ルポライターの竹中労も、著書『タレント帝国 芸能プロの内幕』(1968年7月、現代書房)の中で「ジャニーズ解散・始末記」と題してジャニーの性加害について言及した (当書はその後、初代ジャニーズを管理していた渡辺プロダクションの渡邊美佐の圧力で販売停止)。 なお、『ジャニーズスキャンダル調書』では「同性愛」という表現自体を否定しており、ホモセクハラである以上、「性的虐待」、善意に表現しても「少年愛」であるとしている。 『週刊現代』(1981年4月30日号、講談社)にて、「『たのきんトリオ』で大当たり アイドル育成で評判の喜多川姉弟の異能」と題し、ジャーナリストの元木昌彦がジャニーの性趣向問題について言及。 (直後、ジャニーの姉のメリー喜多川から編集部に「今後、講談社には一切うちのタレントを出さない」と猛クレームが入り、元木は処分として『週刊現代』から『婦人倶楽部』の部署へと異動させられた。 この件については、『週刊文春』(1981年5月28日号、文藝春秋)でも、「大講談社を震え上がらせたメリー喜多川の“たのきん”操縦術」と題して報じられた。 なお、ジャニーの性的児童虐待についてメリーは、「弟は病気なんだからしょうがないでしょ!」と言ってずっと放任していた) 雑誌『噂の眞相』(1983年11月号)が、「ホモの館」と題してジャニーズ事務所の合宿所の写真を公開。 元所属タレントの告発も相次いだ。 元フォーリーブスの北公次は『光GENJIへ』(1988年12月)、 元ジューク・ボックスの小谷純とやなせかおるは『さらば ! ! 光GENJIへ』(1989年9月)、 元ジャニーズの中谷良は『ジャニーズの逆襲』(1989年10月)、 元ジャニーズJr.の平本淳也は『ジャニーズのすべて ~ 少年愛の館』(1996年4月)、 豊川誕は『ひとりぼっちの旅立ち ~ 元ジャニーズ・アイドル 豊川誕半生記』(1997年3月)、 山崎正人は『SMAPへ』(2005年3月)をそれぞれ上梓。 タレントの生殺与奪の全権を握るジャニーの性的要求を受け入れなければ、仕事を与えられずに干されてしまうという実態が明るみに出た。 中でも『SMAPへ』は、ジャニーが行っていた性行為の内容について最も細かく具体的に描写しており、少年に肛門性交を強要していたことも明かしている。 同じく元Jr.の蓬田利久も、漫画『Jr.メモリーズ ~もしも記憶が確かなら~』(竹書房の漫画雑誌『本当にあった愉快な話』シリーズに掲載。著:柏屋コッコ、2014年1月~2015年4月)に取材協力する形で暴露している。 ジャニーは肛門性交時にノグゼマスキンクリーム、メンソレータム、ベビーローションなどを愛用しており、少年隊もラジオ番組で、錦織一清が「ジャニーさんと言えばメンソレータム思い出すなぁ・・・」、東山紀之は「合宿所はいつもメンソレータムの匂いがしてた」など、分かる人には分かるギリギリの発言をしている。 元Jr.の星英徳も、ジャニー喜多川の死後になってネット配信で、「ただのJr.だった自分ですら、何十回もやられた。 ジャニーさんが特に好んだのは、小中学生の段階のJr.。 時には平日の朝から学校を休んで合宿所に来いと呼び出され、マンツーマンで性行為を受けた。 その最中は、当時付き合ってた彼女のことを毎回必死に頭で思い描きながら耐えてた。 メジャーデビューしたメンバーは必ず全員やられている。 必ずです! 全員やられてる! そもそも断ったらデビュー出来ない」と幾度も打ち明け、ジャニーによる性被害や当時の事務所内での異常な状況を説明した。 ジャニーズの出身者以外からも、浜村淳が関西ローカルのラジオ番組『ありがとう浜村淳です』(MBSラジオ)の中でジャニーのことを「あのホモのおっさん」と発言したり、ミュージシャンのジーザス花園が、2009年発表の自作曲『ジャニー&メリー』で、AV監督の村西とおるもブログやTwitterで糾弾している。 ジャニーに対する感謝、愛情が誰よりも強いことで知られるKinKi Kidsの堂本剛(児童劇団の子役出身)は、小学5年生の段階で子役活動を辞め、一旦芸能界を引退していたが、姉による他薦でジャニーズのエンターテインメントの世界に触れ、自分もスターになって成功したいという感情が芽生える。 しかし成功するためには、まだ幼い小学6年生の段階からジャニーの性的な行為を耐え忍ぶしかなく、剛が中学2年生の14歳の時に奈良県から東京の合宿所に正式に転居してからは、ジャニーの性行為は更に過熱していった。 当時剛と非常に親しい関係にあった元Jr.の星英徳も、「剛は普通のJr.たちとは違うレベルの性行為をジャニーさんから受けていて、そのことにいつも悩んでた。剛が病んじゃったのはジャニーさんが原因」と、2021年6月25日の深夜にツイキャス配信で証言した。 剛にしてみれば、確かにジャニーには芸能界で大成功させて貰って感謝はしているものの、幼い頃から異常すぎる性体験を強いられ、自分の心と体を捨て去るという代償を払わされてきた訳であり、更に人一倍繊細な性格がゆえ、15歳からは芸能活動へのストレスも相まってパニック障害を抱えるようになり、長年に渡って自殺を考えるほどに苦しんだ時期が続いた。 自分で選んだ道ではあるし、ストックホルム症候群、トラウマボンド(トラウマティック・ボンディング)、グルーミングなどの効果によって、ジャニーに対して大きな感謝はしつつも、もしジャニーと出会わなければ、こんなにも苦しい思いをすることは無かった、という愛憎が入り混じった複雑な感情から、剛の自作曲『美しく在る為に』は、ジャニーへの思いや、芸能活動への葛藤が描かれた曲だと、一部のファンの間では解釈されている。 その歌詞の一部には、 「あたしが悪いなんて 云わせないの あなたが悪いなんて 云う筈がないの 人は勝手だったもの 何時も勝手だったもの 美しく在る為に 勝手だったもの」とある。 [1] 元光GENJIの諸星和己も、2016年11月6日放送のバラエティ番組『にけつッ ! !』(日本テレビ)に出演した際、千原ジュニアとの会話でジャニーについて、 千原 「数年後に大スターになると見抜くその力よ」 諸星 「違う違う、たまたま、たまたま」 千原 「先見の明がすごいんでしょ?」 諸星 「僕の考えだと、“結果論”だね。 あの人(ジャニー喜多川)の目がいいとか、見抜く力がすごいとか、“全く”無い!」 と断じ、ジャニーに対する世間の過大評価に異を唱えた。 そして番組の最後では、「ジャニーの感性はね、あれホ〇だから!」と締めくくった。 ジャニーについてはよく、「少年の10年後の成長した顔が見えていた」などと評されてしまうことがあるが、それは間違い。 確かに子供の頃は冴えない平凡な顔をした者が、美容整形なども踏まえて将来二枚目に化けたパターンもあるが、その一方、小さい頃は可愛かったのに、成長と共にどんどん劣化してしまったパターンも少なくない。 そもそも、テレビなどで頻繁に同じタレントの顔を目にしていれば、視聴者の目はその顔に慣れていく訳だから、マイナス面はどんどん軽減されていく。 ジャニーが持っていたのは権力と財力であって、人の10年後の顔はおろか、人の本質や将来を見抜けるような特殊能力、神通力は存在しない。 ジャニーは将来を予見して採用していたのではなく、ただ単に、今その瞬間の“自分の好み”の少年、個人的に性欲を感じる“ヤりたい相手”を選んでいただけであり、その少年がたまたまスターになるかならないかは、諸星が述べた通り、後からついてきた“結果論”に過ぎない。 ジャニーに個人的に嫌われれば、いくらスター性や才能がある者であっても捨てられるし、ジャニーに個人的に好かれれば、スター性の無い者であっても権力と財力でメディアにゴリ推しされ、結果、誰でも人気者になれた。 こうした、ジャニーの個人的な好み、機嫌だけで全てが操作・決定される、非常に特殊で独裁的な事務所だったため、多くのスターを製造した一方、本当に将来有望だったはずの多くの才能も死んでいった。 なお諸星はこの放送の一ヶ月後の2016年12月2日に大沢樹生と共に開催したトークライブでも、ステージ上で「俺が何で結婚しないか? ホモだから。 ジャニーみたいなものだから」と発言し、ジャニーを茶化している (諸星自身がゲイであるという部分は自虐による冗談であり、諸星はゲイではない)。 1988年~1989年にかけ、月刊誌『噂の眞相』もこの問題を数回取り上げた。 しかしジャニーズ側は、「『噂の眞相』という雑誌はこの世に存在しないもの」という姿勢を貫いていたため、全く相手にされることは無かった。 週刊誌『FOCUS』(1989年8月11日号、 新潮社)に、ジャニー喜多川が合宿所で撮影した田原俊彦の全裸のポラロイド写真が流出掲載される。 1999年10月28日号から2000年2月17日号にかけ、『週刊文春』がジャニーズ事務所に対する糾弾を14回に渡ってキャンペーンとしてシリーズ掲載。 ジャニーが所属タレントに対してセクハラ・児童虐待を行い、事務所内では未成年所属タレントの喫煙や飲酒が日常的に黙認されていると報道し、約15名もの元ジャニーズJr.が取材に協力した。 出版元である文藝春秋は、他の大手出版社と違ってジャニーズ事務所との癒着や影響力が皆無に等しかったために出来たことだった。 【キャンペーン開始の引き金的な記事】 江木俊夫 公判で元アイドルが「ジャニーズ」批判 (1999年10月7日号) 【14回のキャンペーン】 青山孝 元フォーリーブス衝撃の告発 芸能界のモンスター「ジャニーズ事務所」の非道 TVも新聞も絶対報じない (1999年10月28日号・p252~255) ジャニーズの少年たちが耐える「おぞましい」環境 元メンバーが告発 「芸能界のモンスター」追及第2弾 (1999年11月4日号・p190~193) ジャニーズの少年たちが「悪魔の館」合宿所で 「芸能界のモンスター」追及第3弾 強いられる“行為” スクーブグラビア ジャニーズ「喫煙常習」の証拠写真 (1999年11月11日号・p26~29)[1] テレビ局が封��したジャニーズの少年たち集団万引き事件 追及キャンペーン4 マスコミはなぜ恐れるのか (1999年11月18日号・p188~191) ジャニー喜多川は関西の少年たちを「ホテル」に呼び出す 追及第5弾 芸能界のモンスター (1999年11月25日号・p188~191)[1] ジャニーズOBが決起! ホモセクハラの犠牲者たち 芸能界のモンスター追及第6弾 (1999年12月2日号・p195~197) 小誌だけが知っているジャニー喜多川「絶体絶命」 追及第7弾 (1999年12月9日号・p179~181)[1] ジャニーズ人気スターの「恋人」が脅された! 追及第8弾 (1999年12月16日号・p185~187) ジャニー喜多川殿 ユー、法廷に立てますか? 「噴飯告訴に答える 追及第9弾」 (1999年12月23日号・p179~181) 外国人記者が「ジャニー喜多川ホモ・セクハラは日本の恥」 追及第10弾 (1999年12月30日号・p38~40) ジャニーズ裁判 元タレントはなぜ「偽証」した キャンペーン再開! (2000年1月27日号・p180~181) ジャニー喜多川よ、ファンもこんなに怒っている 徹底追及(第12弾) (2000年2月3日号・p165~167) NYタイムスも報じたジャ二ー喜多川「性的児童虐待」 (2000年2月10日号・p172~173) ジャニー喜多川「性的虐待」 日本のメディアは腰くだけ ピュリツァー記者が激白 (2000年2月17日号・p34~35) 【追加報道】 スクープ撮! ジャニー喜多川の素顔 (2000年3月16日号) ジャニー喜多川の性的虐待! 母親が決意の告白 「息子は私に訴えた」 (2000年3月23日号・p184~186) 新展開 ついに国会で質問されたジャニーズ性的虐待 なぜNYタイムスしか報じないのか (2000年4月27日号・p176~179) ジャニーズ疑惑 梨元勝国会で証言へ! (2000年5月4日・11日合併号・p180~181) 大手メディアがこの性的児童虐待問題をこれほどまでに取り上げたのは1960年代以来初めてのことで、その波紋は大きく、自民党衆議院議員・阪上善秀(後の宝塚市長)も、2000年4月13日にこの問題を衆議院で取り上げた [注 6]。 1999年11月、ジャニー側は名誉毀損であるとして文藝春秋を訴え、1億700万円(ジャニーズ事務所に対し5350万円、ジャニー喜多川に対し5350万円)の損害賠償と謝罪広告1回を求める民事訴訟を起こした。 2002年3月27日、東京地裁の一審判決では、「高度の信用性を認めがたい。 証人の証言はたやすく信用できない点を残している」としてジャニー側が勝訴し、東京地裁は文藝春秋に対し、ジャニーへ440万円、ジャニーズ事務所へ440万円の、計880万円の損害賠償を命じた (井上哲男裁判長)。 文春側はこれを不服として東京高裁に控訴。 これに対抗するかのようにジャニー側も控訴。 2003年7月15日の二審判決では、ジャニーの性的児童虐待に関する記述について、 「喜多川が少年らに対しセクハラ行為をしたとの各証言はこれを信用することができ、喜多川が、少年達が逆らえばステージの立ち位置が悪くなったり、デビューできなくなるという抗拒不能な状態にあるのに乗じ、セクハラ行為をしているとの記述については、いわゆる真実性の抗弁が認められ、かつ、公共の利害に関する事実に係るものである」 と結論づけられ、ジャニー側の性的児童虐待行為を認定 (矢崎秀一裁判長)。 このため、性的児童虐待部分のジャニー側の勝訴は取り消され、損害賠償額はジャニーへ60万円、ジャニーズ事務所へ60万円の、計120万円に減額された。 ジャニー側は損害賠償額を不服として最高裁に上告したが、2004年2月24日に棄却され (藤田宙靖裁判長)、120万円の損害賠償と性的児童虐待行為認定が確定した。[1]、[2] しかし各芸能マスコミは、一審の880万円から120万円に減額された事実だけをベタ記事で書いて済ませ、「性的児童虐待が認められた」という肝心の部分は書かなかった。 この問題について、懐疑主義団体「JAPAN SKEPTICS」の機関誌『NEWSLETTER 53号』にて、当時同会の副会長だった草野直樹が批判。 「マスコミの誤りというのは、『間違ったことを報じる』だけでなく、『必要なことを報じない』ことも含まれる。 そして後者の多くは、いくつかの『タブー』に縛られていることが原因になっている。 報道におけるタブーのベールを抜いた報道には、オカルト・疑似科学の類と同様に騙されないようにしよう」と訴えた。 芸能評論家の肥留間正明も、「芸能界でホモセクハラが裁判になったのは異例。 真実と認められたのも初めてで、これは社会的な事件」と語っている。 また、ニューヨーク・タイムズや、イギリスの新聞・オブザーバーなどの海外メディアも大々的に取り上げ、この問題をタブー視するなどして真実を報道しない卑怯で腰抜けな日本のマスメディアの姿勢、体質を批判した。 以後もジャニーズ事務所と文藝春秋は対立。 2006年に『武士の一分』が映画化された際、ジャニーズは文春文庫で発売されている藤沢周平の原作本の帯に、主演の木村拓哉の写真の使用を一切許可しない、という対抗措置を取っている。 また、木村が工藤静香と結婚した際にも、会見への週刊文春の参加を禁じた。 そのため、文春側は巻頭グラビアで白紙ページに木村とインタビュアーの輪郭のみを描き、ジャニーズによるメディア統制であると非難した。 2010年3月14日、サイゾーウーマンにてシリーズ連載「新約・ジャニーズ暴露本」開始。 2018年6月6日、サイゾーウーマンにてシリーズ連載「いま振り返るジャニーズの“少年愛”報道」開始。 2019年7月9日にジャニーが逝去。 その際、テレビや雑誌など、日本の主要メディアではジャニーを賛美する歯の浮くような美辞麗句のみが並べられ、まるでジャニーを聖人君子かのように崇め奉った。
ジャニー喜多川 - ジャニーズ百科事典
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hachikenyakaiwai · 2 months
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【かいわいの時】天保八年(1837)二月十九日:大坂町奉行所元与力大塩平八郎決起(大阪市史編纂所「今日は何の日」)
難波橋を渡った大塩軍は、二手に分かれて今橋筋と高麗橋筋に進みます。森鴎外の『大塩平八郎』には次のように描写されています。
方略の第二段に襲撃を加へることにしてある大阪富豪の家々は、北船場に簇(むら)がつてゐるので、もう悉く指顧の間にある。平八郎は倅格之助、瀬田以下の重立つた人々を呼んで、手筈の通に取り掛かれと命じた。北側の今橋筋には鴻池屋善右衛門、同く庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の大商人がゐる。南側の高麗橋筋には三井、岩城桝屋等の大店がある。誰がどこに向ふと云ふこと、どう脅喝してどう談判すると云ふこと、取り出した金銭米穀はどう取り扱ふと云ふこと抔(など)は、一々方略に取り極きめてあつたので、ここでも為事(しごと)は自然に発展した。只銭穀の取扱だけは全く予定した所と相違して、雑人共は身に着つけられる限の金銀を身に着けて、思ひ/\に立ち退いてしまつた。鴻池本家の外は、大抵金庫を破壊せられたので、今橋筋には二分金が道にばら蒔まいてあつた。(七、船場)
この時の模様は、被害に遭った商人側でも詳細な記録が残されており、たとえば、三井文庫所蔵の史料「天保七年 浪速持丸長者鑑」(写真=コメント欄)には、焼き打ちされた商家に赤線が引かれています。ランク順に並べてみると
鴻池善右衛門(総後見)、三井呉服店(行事)、岩城呉服店(行事)、米屋平右衛門(東小結)、鴻池他治郎(西小結)、鴻池正兵衛(西前頭)、米屋喜兵衛(西前頭)、日野屋久右エ門、炭屋彦五郎、米屋長兵衛、甥屋七右衛門、和泉屋甚治郎、鴻池徳兵衛、長崎屋与兵衛、米屋与兵衛、泉屋新右衛門、紙屋源兵衛、小西佐兵衛、越後屋新十郎、よしの屋久右衛門、大庭屋甚九郎、昆布屋七兵衛、さくらいや八兵衛、平野屋喜兵衛、某
など、25商(店)の名前があがっています。今橋筋、高麗橋筋の商家は軒並み焼き打ちに遇っています。肥後橋の加島屋久右衛門(西大関)はコースから外れていたため難を逃れたようです。
(写真)「天保七年 浪速持丸長者鑑」1837(公益財団法人 三井文庫蔵) 相撲の番付表のように商人をランキングした表で、大塩の乱で被害を受けた商家に赤線が引かれている。三井、鴻池���どが被害にあっていることがわかる(三井広報委員会)。
また、諸家の記録から、事件当日の様子や対応策、その後の復旧策を見てみると
(鴻池家)加島屋某筆とされる『天保日記』(大阪市立中央図書館所蔵)では天保八年(一八三七)二月十九日、火見台から望見して「鴻池本宅黒焰大盛二立登、其恐懼シキ事不可云」、幸町別邸めざして落ちのび、そこで加島屋某らが「鴻池於隆君・勝治・和五郎」らと無事出あうところが生々しくえがかれている。和泉町の鴻池新十郎家の記録 『北辺火事一件留』(大阪商業大学商業史資料館所蔵)でも、鴻池本家当主の善右衛門が土佐藩邸、長音は泰済寺、そのほか瓦屋町別荘などへ逃げ、鴻池深野新田農民をガードマンとして急遽上坂させるなど、その被害状況や防衛対策が丹念に記録されている。
(三井呉服店)三井では、同日三郎助高益(小石川家六代)が上町台地の西方寺に避難し、「誠に絶言語、前代未聞之大変にて」と、 ただちにレポを京都に送り、木材・釘・屋根板・縄莚などをすぐ仕入れ、はやくも三月八日に越後屋呉服店大坂店の仮普請完成=開店している様子が詳細に記録されている。(コメント欄参照)
(住友家)住友家史『垂裕明鑑』には、大塩事件のまっただなかで、泉屋住友が鰻谷(銅吹所その他)から大坂城にむけて鉛八千斤(弾丸)を三度にわけて必死で上納運搬したこと、事件による住友の被害として、「豊後町分家、別家久右衛門・喜三郎掛屋敷の内、備後町・錦町・太郎左衛門町三ケ所延焼」に及んだこと、そして住友の親類の豪商としては、「鴻池屋善右衛門、同善之助、平野屋五兵衛、同郁三郎」家などが軒並み“大塩焼け”で大きな被害をこうむったこと等々が、 生々しく記されている。
三井家では、享保の大飢饉の後に起きた江戸における打ち毀し(1733年)に衝撃を受け、以後、食料の価格が暴騰すると近隣に米や金銭を配って援助したり、また飢えた人々に炊き出しをしたりするなど、三都(江戸・京都・大坂)において施行を継続しています。それが、大塩平八郎の乱では標的にされ、襲撃された大坂本店は全焼、銃撃による負傷者まで出るほどであったと伝えています(三井広報委員会)。
儒学者の山田三川が見聞きした飢饉の様子や世間の窮状を日記風に書き留めた『三川雑記』には、乱の前に大塩は鴻池・加島屋・三井の主人らと談じ、富商十二家から五千両ずつ借りれば六万両となり、これで何とか八月半ばまでの「飢渇」をしのげると、「しばらくの処御取替」を依頼していたとあります。同意した加島屋久右衛門は襲われず、三井と鴻池は反対したため焼き打ちに遭ったとも言われています(山内昌之)。
ただし、『浮世の有様』の天保八年雑記(熊見六竹の筆記)には、この話は「或説」として取り上げられており、それによると、「十人両替へ被仰付候処、町人共御断申上候筋有之」とあります。三井はもちろん、鴻池や加島屋にも記録はなく、風評の域を出ないものと思われます。
(参考文献) 中瀬寿一「鷹藁源兵衛による泉屋住友の “家政改革”-大塩事件の衝撃と天保改革期を中心に-」『経営史学/17 巻』1982 三井広報委員会「三井の苦難(中編)」三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.39|2018 Summer 山内昌之「将軍の世紀」「本当の幕末――徳川幕府の終わりの始まり(5)大塩平八郎の乱」文芸春秋2020 山田三川『三川雑記』吉川弘文館1972 矢野太郎編『国史叢書 浮世の有様』1917
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makikominowa · 5 months
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12月1日から、twililightにて、箕輪麻紀子の作品集『Afternoon Reading』(DOOKS)刊行記念原画展を開催いたします。
ぜひ足をお運びください。
会期:2023年12月1日(金)〜 11日(月) 会期中休み:12月5日、6日 会場:twililight
(東京都世田谷区太子堂4-28-10鈴木ビル3F&屋上/三軒茶屋駅歩5分) 営業時間:12:00〜21:00 
今作には、本と向き合うゆったりとした時間や空想、 その周辺の風景が描かれており、 全て本書のために書き下ろした新作となります。
巻末には、台湾のアーティストであり、 ブックレーベルnos:booksを運営している Chihoiにとても素敵な詩を寄せてもらいました。
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コロナ禍でChihoiから私への小さなお願い事のお礼に、彼自身の 著書 智海”Library & I’m With My Saint 圖書館 & 我和我聖人”(nos:books)という本を送ってくれたことがあった。
Chihoiの本や図書館をテーマにしたコミック作品や、 韓国のUnlimited Editionで私の作品集を丁寧に見てくれたことを 思い出し、私のドローイングについてと、“Midnight Cat“という架空の本を題材にして、絵ではなく文章をお願いできないかという 無理難題に対し、予想を遥かに超える素敵な詩を寄せてもらった。
夜の煙草休憩の時間に何度も推敲してくれたことを教えてくれた。 この詩が出来上がった夜の時間を想像して、とても嬉しくなった。
本を読む人の姿は忙しさを忘れ、ゆったりとした時間が流れている 雰囲気がある。 忙しない日々の中、その姿にとても憧れた。 この作品群はそういった私の、時間や風景への憧れ、想像から出来上がった。
《プロフィール》
箕輪 麻紀子 イラストレーター
広告、書籍、雑誌等で活動。 作品集に『Film』『ESCAPE』(共にELVIS PRESS)『Float 』(DOOKS)等。 http://www.makikominowa.com/
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濁りがない心
Friday 7 March 2014
禅寺へ車で行く。ちょっとこの頃、横着をする真観。 今日の言い訳は雪が降り始めていたことと坐禅会が終ったらすぐ東京に行かなければならなかったこと。
S子 『ふ〜ん、そうなんだ』
7時45分、茶畑庵を出発した。御殿場エリアになると銀世界が待っていた。またもや前と同じ様な事態になるんじゃないのか?でも「気配」としては多分大丈夫だなと感じた真観。8時25分、予定通りのバスに乗り順調に東京へ進んだが東名インター辺りで12kmの自然渋滞。バスは遅れたものの10時半過ぎには新宿に到着。東京はけろっと晴れていた。駅前では今日も募金活動をしている。
『アフリカの貧しい子供たちに募金をよろしくお願いしま〜す』&礼。(リピート)
今朝の真観は募金はしなかっった。
総武線に乗ってオフィスへ。Uさんはまだ来ていない。時刻は、11時過ぎ。今日東京に来た第一の理由はオフィスのMacでiPhotoのブックサービスのデータをネットで送ることだった。真観のWifi環境ではスピードが遅すぎてアウト。今週は仕事も学校もないので静岡でゆっくりしようと思っていたが盲点はこの作業が静岡で出来ないことだった。金曜日の今日にこのデータを送れば来週頭には注文したブックは届くであろう。茶畑庵近くで光回線を借りれるサービスがあればいいのだが。このブックとは真観のクラスの卒業記念ZINEだ。この試みは初めてだった。仕上りがとても楽しみな真観。
Uさんもやって来て束の間のおしゃべりをする。何故ウクライナの問題が起きたのか?と真観がUさんに問いかけるといつも嫌な顔をせず答えてくれるUさん。人種とは?国境とは?・・・と話を聞きたいのは山々だったが真観は次の予定があった。Uさんの話を身支度しながらオフィスを出る。今回の東京はUさんとは「会うこと」を優先し話すことは次回と考えていた。
真観は、歩いて九段下駅に行く。そして表参道駅に向かった。約束の時間は、12時半。明らかに数分遅れると思った真観は、JのiPhoneにメッセージを送った。そう今日は、Jと会う約束もしていた。先月末から10日間東京を滞在しているJ。今回Jがセルビアから来日する前からJと会えるかどうかやり取りしていたが真観には東京に行く予定がなかったので諦めていた。2009年の真観の写真展の時にJからとんでもない不義理を受けそれ以来Jとは昨年まで絶交していた。しかし昨年ふと真観は、Jを許す気になって2人の関係は雪解けした。そしてタイミング良くJが東京に来る事になって彼と再会したのは昨年の4月。真観は、Jと和解したがJとの付き合いにあるルールを作った。
「絶対にJを待たない」
昔の真観だったら東京でもどこでも会いに行くと思うがもうしない。
12時半過ぎ、表参道の交差点でJと再会。一緒に共通の知り合いのAもいた。Jと真観馴染みのオーガニックレストランに向かった。前払いのレストランでレジの前では行列。2人はパティオのテーブル席に座って食事をした。Jも真観も山盛りの料理を皿に盛る。玄米ごはんを久しぶりに茶碗一杯に食べる真観。このレストランはマッチアズユーキャンの店だ。Jの今回の来日目的を何となくアレについてだと思っていた真観だったが彼から話を聞くと全く違う国家レベルの一大プロジェクトに携わる仕事が目的だった。その仕事はプロジェクトが大きいためこれからも何回か日本に来る必要がある様だ。
Jは、面白い!Jはお金がある時とない時の差が激しく今回の来日時の所持金は、100円程度。100円!成田の税関で案の定軽くトラブルになったが難を逃れた様だ。セルビアからの旅費は700€ほど掛かった様だがそのお金はこれまた奇想天外な機関から捻出していた。頼もしい限りだ。Jと真観は、和解してからFacebookで繋がっている。Jは、真観の「Today's Fashion」が大好きな様で絶賛していた。話題は次から次へと移り時間はあっという間に2時を過ぎていた。このランチの後Jは「子どもの城」で他の友人と会う約束をしていた。真観はその友人を知っていた。最初にJと一緒にいたAは共にレストランに来るはずだったがどこかに消えてレストランには来ず「子どもの城」にいるJの友人と合流していた。Jは『一緒に来ないか?』と真観に尋ねて来たが真観はやめておいた。
「絶対にJを待たない」
このルールはJと19年間付き合ってから出した結論だ。Jは、とてもいい人で心に濁りがない人だが時間に極端にルーズだ。今回のランチの間にもその「子どもの城」にいた友人たちから何度もJに催促の電話をして来た。その電話の目の前にいるのが真観。Jは、真観との時間を優先する。だから次の約束に遅れる。待つ方は毎度のことと諦めつつも苛立始める。真観もかつてはそうだった。今回は、待つ立場ではなかった真観。「絶対にJを待たない」Jがこの悪い癖を直そうとしていないのが少し残念でもあり人ごとであればそれも可笑しく見えてしまう。
Jは、また5月に来日予定だという。その時は、是非静岡に来て欲しいとリクエストした真観。今回の来日時もそうリクエストしていた。Jと表参道で別れ1人原宿駅まで向かう。東京も雪が降り始めていた。新宿駅まで移動しヨドバシカメラに寄り、機材の値段やインクジェットペーパーの入荷状況、ラベルシート等の確認をする。また駅前を通ると大震災で飼い主を失ったワンちゃんニャンちゃんたちの里親募集を呼びかけていた。朝のアフリカの子供たちのことと同様複雑な気持ちになる真観。ペットは解体が茶畑庵では無理だ。4時半のバスに乗った。バスに乗る前バスの営業所の自販機でドリンクを買ったがピックアップせずにバスに乗りあとから気付いた真観。キャイ〜ン!な真観。
バスの中にいた時Jからお礼のメッセージが届いた。 『Great to see you today and see you again soon!!』
Jから沢山のことを学んだ真観。 真観の人生のターニングポイントのキーパーソンのJ。 人間的魅力の溢れた素晴らしい人物。彼と出会えて良かった。 でも、「絶対にJを待たない」
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ignitiongallery · 6 days
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桑島智輝「GAGA」
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写真家・桑島智輝の新作ZINE「GAGA ZINE No.3」の販売に合わせて作品を展示します。 会場では、新作ZINE、写真集、過去のZINEなども販売いたします。 ポートレート撮影や能町みね子さんとのトークイベントもありますので、是非会場にお越しください。
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「GAGA」
会期:2024年5月2日(木)〜5月13日(月)
定休日:5月7日(火)
営業時間:12時〜21時
会場:twililight(東京都世田谷区太子堂4-28-10 鈴木ビル3F/三軒茶屋駅から徒歩5分)
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桑島智輝
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1978年岡山県岡山市生まれ。雑誌やタレント写真集、広告などの商業写真で活動する傍ら自身の作品を発表している。2019年に写真集「我我」(青幻舎)、2020年に写真集「我旅我行」(青幻舎)を発表。主な個展に2020年「前我我後」GALLERY X BY PARCO (東京)、2022年「distance」BOOK AND SONS (東京)、「GAGA」PURPLE (京都)など。
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《会期中イベント》
『桑島智輝 ポートレート撮影』
日時 : 5月5日(日)、5月6日(月)
場所 : twililight (要予約)
料金 : 1名1枠15,000円(税込)
写真家桑島智輝によるポートレート撮影を行います。twililight周辺を歩いて撮影し、セレクトしてA4の写真用紙にプリントしてお渡しします。1枠1名をご案内いたします(原則として2ショットは行っておりません)。
5月5日(日) 12:00,12:45,13:30,14:15,15:00,15:45,16:30
5月6日(月) 12:00,12:45,13:30,14:15,15:00,15:45,16:30
件名を「桑島智輝 ポートレート撮影」として、お名前(ふりがな)・当日のご連絡先・撮影希望日時を明記の上、メールをお送りください。
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『桑島智輝×能町みね子 トークイベント』
出演 : 桑島智輝、能町みね子(文筆家)
日時 : 5月8日(水)、19:30開場、20:00開演
場所 : twililight (要予約)
料金 : 2,000円(税込)
写真業と文筆業をそれぞれ生業にしている同い年2人が、最近の事や結婚についてお話しします。
件名を「桑島智輝×能町みね子 トークイベント」として、お名前(ふりがな)・当日のご連絡先・予約人数を明記の上、メールをお送りください。
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能町みね子
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1979年北海道生まれ、茨城県育ち。『私みたいな者に飼われて猫は幸せなんだろうか?』『お家賃ですけど』『皆様、関係者の皆様』『私以外みんな不潔』など著書多数。
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ethology-osaka · 8 days
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ニホンザルのメタ認知:知らない時には情報を探す
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大学院生のスビアスさんの論文がAnimal Cognitionに掲載されました!
Subias, L., Katsu, N., & Yamada, K. (2024). Metacognition in wild Japanese macaques: cost and stakes influencing information-seeking behavior [Article]. Animal Cognition, 27(1), Article 22.
URL:https://link.springer.com/article/10.1007/s10071-024-01851-z
野生ニホンザルにおけるメタ認知
メタ認知とは、「考えることについて考える」というように、自分の認知過程を認知することです。動物がメタ認知能力を持っているかどうかは、「筒課題」を利用した情報探索行動によって検討することができます。この課題は、数本の筒のうち1本に餌が隠されており、動物がそれを当てるというものです。餌を隠す場面を目撃した場合、動物は餌のある筒をすぐに選ぶことができるでしょう。一方で、餌を隠す場面が見えにくかった時、動物はどのように筒を選ぶでしょうか?動物がいくつかの筒の中を覗いて餌が入っているかどうかを確認するような行動が見られた場合、その動物は「どの筒に餌が入っているのか自分は確信が持てなかった」ので筒を探索したという事になります。つまり、自分の知識の度合い(餌の場所を知っているか知らないか)を自分で評価して(メタ認知)、それに基づいて、筒を調べるか調べないか行動を変化させた(情報希求をするかどうかを決めた)という事を意味します。大型類人猿や飼育下のアカゲザルやシシオザルなどは、餌がどの筒にあるかわからない場合、筒の中を覗いて探します。また、探すコストが高い場合は不必要な探索を減らす、複雑性と柔軟性が示されています。
では、野生のニホンザルは、大型類人猿などと同様の行動を取るのでしょうか。Lorraine Subiasさんの研究では、
①ニホンザルは、必要に応じてより多くの情報を適切に探索するのか
②飼育下にあるサルと野生のサルは同様の行動を取るのか
③マカクは、類人猿やヒトと同様に、コストや餌の種類に敏感なのか
という3つの問いを立て、淡路島モンキーセンター(兵庫県洲本市)の周辺に生息するニホンザル10頭を対象に筒課題を実施しました。
・どの筒に餌が入っているかが明らかな場合と明らかでない場合では、後者の方が筒の中を見る割合が高い
・身をかがめて筒の中を覗く必要があるなど餌を探すコストが高い場合、どの筒に餌が入っているかが明らかな条件では、探索を減らす個体がいる
・好物の餌が用いられている場合、どの筒に餌が入っているかが明らかな条件であっても、見る必要がないにもかかわらず頻繁に筒を覗く個体がいる
という結果になりました。
問いに対して、
① 野生のニホンザルは、必要に応じてより多くの情報を探索する
② 飼育動物と野生動物では、同様の能力を持つ
③ 一部のサルは探索のコストや餌の種類に敏感である
ということが明らかになり、野生ニホンザルがメタ認知能力を持つことが支持されました。記憶の有無だけでなく、コスト、報酬の価値や個体の特性によって情報探索行動が変化することも示されました。(文責:梅津明香)
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gupaooooon · 1 year
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MCUムーンナイトの「静寂」「QUIET」について
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・MCUムーンナイト4話で、アーサー・ハロウが印象的に語る「静寂」「静寂の朝」と、その解放、について。MCUムーンナイトでの「QUIET」の描写・扱われ方について。以下いろいろと。
うまく纏められなくて、話がいつも以上に散らかってる気がするけども。書く。
・ハロウが語る、コンスがいなくなった朝、「The quiet was liberating.」、「静寂」「静寂の朝」として語るものについて。
あれらの台詞はムーンナイトのコミック(レミーア期)の「QUIET.」「FOR THE FIRST TIME IN A LONG, LONG TIME, OUR MIND IS QUIET.」を意識した台詞なのだろうなと、思うんですが。
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MCUムーンナイトにおいては、コミックとは違う印象を抱く描写が連なっていて……葦の原野での描写含めて、DIDに纏わる製作陣の姿勢など、いろいろなものが込められている気がするな、と。
・ムーンナイト3話。コンスが神々の怒りによって自分が石像に封印されるリスクについて話すと、「俺は構わないな(That doesn't sound so bad to me.)」と返すマーク。
その後のエネアドでは「コンスが好むのは苦痛の旋律だ」と話し、身体の制御権を奪われ、声を奪われ……「人形扱い」に疲弊するマークの姿が、会議を通して描かれている。
3話は、冒頭の少年の死を含めて、コンスからマークに対する……支配や抑圧や苦痛についてが描かれ。かつ最後は、ハロウによるコンスへの複雑な心境が表れているような……勝利宣言のような台詞……で締め括られる。
そしてムーンナイト4話。
自分と同じように“化身ではなくなったマーク”に対して、「コンスが去った日の朝」をよく覚えていると、「解放の証」としての“静寂”をハロウが語る訳ですが。
物語として、マークがコンス封印で……静寂を感じるような描写は特にはなく……
ここでハロウが語る“静寂”なるものを、マークが体験するのは……そのような描写が出てくるのは。その後の銃殺後、ドゥアト(の病院)で目覚めたとき。
呼びかけてもスティーヴンから返事がない“静寂”。
それは圧倒的な孤独と不安と恐怖であり、解放などとは違う。大切な存在を失った、スティーヴンの存在を確認できないこと→「静寂」という演出。
そして、5話6話での“葦の原野”での、スティーヴンを失った先にあった“楽園”についても……マークが「とても静かだ」「It's so quiet.」と語る描写があり……マークが選ぶのは楽園ではなく、スティーヴンと共にあること。
・マーク・スペクターにとっての「静寂」は、スティーブンを見失うことで味わう“恐怖”“不安”であったし。葦の楽園の“静けさ”も、その延長線にあるような演出なのではと。
そして2人に訪れる朝は、“静寂の朝”ではなく。ハロウ医師/病棟から解放された先にあるもの、「お互いの名を呼び、確かめ合う、共存の朝」である訳で。
・この「静寂とは何を意味するのか」「静寂の朝、解放の朝……としてハロウが語るような事象は、物語では真逆の演出として印象付けられている」のでは、ということについて。
DIDを扱う作品として、ハロウ医師の存在と配置込みで。製作陣のインタビューなどで触れられている通り……「統合を絶対視すること」への批判的な視点が込められた文脈のひとつなんだろうな、と。
(この辺りの視点は↓の記事でも書いたので、繋げておきたい) 
・また、この「静寂の朝」の印象的な演出。ハロウのコンス/化身に対する執着が漏れ出てるような振る舞いを考えると。
アーサー・ハロウにとってコンスが去った朝は……解放というよりは、ある朝突然訪れた“放棄”で、孤独を味わった朝でもあったんじゃないかなあとも。彼が“化身であること”に執着している/救いを見出そうとするようにみえるのも、そう考えるとしっくりくる気もするし、
コンスとハロウの、トキシックなホモソーシャルな関係性を表す演出でもあったのかな。
アーサー・ハロウは……神と、制裁の拳として扱われる人間との歪な関係性。抑圧者との同一化。ひとつのバッドエンドルートとして提示されているキャラクターであるなと、改めて思う。
・コミック(レミーア期)のラスト。「静寂」「解放」の最後に「雨」が降ってきていて……それは長い長い砂漠を抜け出した恵みの雨であり、癒しの象徴なのだろうけど。
MCUムーンナイトにおける「雨」は、今のところ、弟を失った日の象徴、マークにとってのトラウマの原点であるので。
「静寂」に続いて「雨」の描写/演出も、コミックとは違った……真逆の味わいを持ってる気がするのが、面白い。
・MCUムーンナイトのアッセンブルを観たときにもいろいろ書いたけど、コミックの要素を魅力的に扱いつつも、
現実の精神疾患を扱っている物語であること。実写/ドラマの持つ影響力について。注意深さを持って作られていると感じられるのが……とても好きだ
 
(Twitterに2022年7.8月に書いた感想の一部。抜粋/少し書き足したり整えたりしてまとめたもの。後から更に書き足したり他記事と繋げたりするかもです)
関連記事
(TwitterのMCUムーンナイト感想まとめは↓)
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riastrange2 · 5 months
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EACH OLDEN 2
押忍
前回の続きです
ある日、ネテロ君と話してたらこの名前に辿りついた
その名前をベースに
梵字、仏教のカルチャーをサンプルした。。。。
最初なんかごちゃごちゃ考えたけどあまり思い付かず
人と話して考えだしていこうって事で
ネテロ君に相談したところ
自分の名前から連想ゲームがスタートした
そういちろうのいちろうの部分にフォーカスを当てて
日本人だから漢字使いたいよなで着地したのが
”弌老”
読みをそのままイチロウでもよかったんだけど
漢字と英語のハイブリット感が欲しくて
弌→1→イーチ→EACH
老→老いる→OLDEN
そんな感じにまとまった
ロゴも漢字がいいなってのは思っていて
どうしようかな〜と
悩んでいたタイミングで
NYに行くってことで安全祈願へ
安全祈願してもらったお寺は盛岡にあって
大日如来を本尊とする真言宗智山派の寺院
ここで安全祈願とは別に雑談で
曼荼羅(仏の世界観を絵で表したもの)についてや
守護本尊?だったかなについて話を聞いて
とても興味深かった
盛岡といえばいつもよるところがあって
紺屋町のあたりに”BOOK NERD"という本屋がある
その話を聞いた後この本と遭遇する
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カバーのデザインもインパクトがあるが
中身もめちゃくちゃ面白い
仏教だけでなく様々な宗教に関する絵や記号などを
解説していく内容になっている
この本中で曼荼羅(マンダラ)
についてなど記載がありタイミング的に
すごく刺激になった
興味がある人はぜひ読んでみてほしい
曼荼羅(マンダラ)とは”絵”です
仏教の世界観伝えるための
イラストであり種類がいくつか存在している
複雑で美しい曼荼羅の中には”法曼荼羅”と
呼ばれるものが存在しており
この曼荼羅は絵ではなく文字(記号)で表現される
その中で使われているのがそう、”梵字”であります
なので梵字=仏様を表しています
知らなかったので驚きでした
さらに仏様の中でも生まれ年によって
守護本尊というのがいるらしく自分のは
千手観音菩薩
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この辺りから発想をもらって
なんだかんだ紆余曲折あり
こんな形に
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デザインを作ったり、服を作ったり
そういうクリエイティブな
活動はこの名前で活動して行こうと思います✌️
イー��オールデンです
よろしくお願いします押忍
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kennak · 2 months
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京都市長選挙が終わった。自民党・公明党の国政与党だけでなく立憲民主党・国民民主党といった野党からの推薦を受けた松井孝治氏が当選し、共産党などの支援を得た福山和人氏などが落選したとのことである。SNSを見ていると、主にリベラル・左派と見られる人たちからの立憲民主党への批判の声が非常に大きい。そりゃ共産党と立憲民主党が共闘していれば勝てたかもしれない選挙、そう言いたくなる気持ちもわかる。だが、少しでも京都の政界について関心があればそれは極めて困難(多分関係者が鬼籍に入るまで不可能)なことがわかる。中高年以上の京都人には半ば常識だが、全国的には有名でないだろうから、選挙も終わったことだし残しておこうと思う。過去の京都市長選(新人同士)と今回2008年 門川大作 158,472票(自民・公明・民主・社民推薦)中村和雄 157,521票(共産推薦)※その他保守系無所属の村山祥栄が8.5万票ほど1996年桝本賴兼 222,579票(自民・公明・民社・社会推薦)井上吉郎 218,487票(共産推薦)1989年田辺朋之 148,836票(自民・公明・民社推薦)木村万平 148,515票(共産推薦)※その他社会党と社民連推薦の中野信夫が7万票ほど。(1981年も大激戦だが省略)票差は951票、4,092票、321票で御覧の通り激戦続きだ。今回は非共産で有力候補が三分裂しており、過去よりも共産党有利だったはずが16,251票もの差がついてしまった。これまでの京都を知らない人からすると善戦に見えるかもしれないが、政府への批判が強まる中でのこの結果は、共産党の側からすると惨敗と言わざるを得ないだろう。共産党と立憲民主党が組めない理由全国的に、地方の首長選では非共産で相乗りすることが多い。今回もその形であり決して珍しくはないが、他地域ではリベラル・左派系相乗り候補もちらほら見られる中で京都ではそれが望み薄だ(国政選挙ならともかく)。理由は部落解放同盟に対する態度だ。元々京都では共産党が異様に強い。それは何故か。その大きな理由の一つが、部落解放同盟に対する優遇に対してハッキリとNOを言っていたのが共産党だったからだ。「京都市◯◯局の職員は△△地域出身じゃないと採用されない」「京都市◯◯局の職員は覚醒剤で捕まりまくってる」「ある地域には高級車が路駐されまくってるが通報しても警察は取り合ってくれない」「別に働いていて高給を貰って高級車を乗り回しているのに生活保護も受けている」エトセトラエトセトラ(このあたりは寺園敦史氏の【だれも書かなかった「部落」】シリーズに詳しい。そういえばこれもかもがわ出版で共産党系か)当然他の住民たちは不満に思う。その支持が共産党に入っていったわけだ。そしてこの部落解放同盟を支持基盤にしていたのが旧社会党であり、立憲民主党にもその流れが多く入っている。京都ではこの部落解放同盟(旧社会党)と全国部落解放運動連合会(共産党)(現在の全国地域人権運動総連合)が文字通り血みどろの争いを繰り広げていた歴史があり、彼らが生きている間は感情的なしこりがあるため共闘は難しいだろう。京都の特殊事情・実例1今回の選挙で福山氏(共産党)が勝った区は北区・上京区・左京区だ。特に左京区は圧勝と言って良い。この3区は京都でどのような地域か。いずれも京都市北部で、京都御所近辺であり、どちらかというと裕福であったり誇るべき歴史(やんごとなき一族)であったりする人たちが住む地域だ。(北区と左京区はやたらと広いが、人口密集地に限ればこのとおり)このあたりからも、「過去共産党が部落解放同盟の横暴から護ってくれた記憶」が連綿と続いていることが見て取れる(逆に京都市内で差別されてきた歴史を持つ山科区・伏見区・南区あたりでは惨敗なのもわかりやすい)京都の特殊事情・実例2例えば1996年の井上氏の選挙公約はこれだ今こそ京都市政を改革 今の市政は、大企業や「部落解放同盟」幹部にばかり顔を向けています。(略)②ゆがんだ同和行政をただし一般行政へ移行。ポンポン山疑惑解明。なんと一言目に部落解放同盟へのあり方批判、具体策でも二番目に同和(部落)行政批判だ。わかりやすいね。雑感こういった歴史を持ちつつも今回共産党が惨敗となったのは、当時の記憶を持つ人が少なくなっていった、すなわち京都での共産党人気の低下をあらわしているように感じる。追記近畿エリアにおける解同の持つ利権てのは、住民ではない人間には実感しづらい 奈良の役人の件もソレがらみだと読んだが奈良は職員が上司に「違法だ」と進言したら逆に低評価を受けた案件だね裏事情がまったく見えてこないので妄想しかできないけど上司「んなこと言われてもこの事業切ると俺の命がやべーんだよ」くらいのことはあっても驚かないね
京都市長選雑感 立憲と共産が組めない理由/善戦ではなく惨敗
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renachtara0313-blog · 3 months
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2024年の抱負(やりたいこと)
��に新年始まって9日なので今更感はある。…が、ネットで文字を書いて形に残すと自分に言い聞かせる効果があると実感している。だからまとめることにした。
転職活動は続ける。後1社くらいは内定取ってみたい。蹴るかもしれないけど。
→自分の人生で勝つ経験が欲しい。社内政治のプロになることは自分の満足とはズレている。現職という狭い箱の中で認められること、それで自分は満足か?と自問自答してしまう。30代は挑戦ができる最初の機会だし、もしかすると最後の機会かもしれない。その機会を何もやらずにドブに捨てたりせず、「私、ちゃんと生きていたな」と振り返って納得できるような経験をしたい。だから、転職活動を続けることにした。既に書類選考で1社落ちているので、このままでは終われないといった気持ちが大きい事もあるけど。1−3月にやって、ここまでで決着つかなければ現職の都合上、次にトライできるのは8月中旬からだ。向こう3ヶ月一旦頑張って、後は3ヶ月の状況を振り返った上で決めたい。
真面目に勉強する。候補は簿記、プログラミング、ドイツ語と中国語。
→現職で成果出せていることを言い訳に、ダラダラと7年(今年で8年)会社で過ごし続けていた気がする。成果が出ているように見えても、後輩がつかずマネジメント経験はないし、部署異動すら経験していないので実務経験が本当に広がったのかと言えば謎だった。書類選考で落ちた会社は会計や経理関連の経歴/スペックが欲しかったらしい。
なので、いい加減簿記の勉強を真面目に続けようと思う。会社で経験できなければ、自分でさっさと身に着けなければ。
加えて、プログラミングは自分の興味分野だが、興味で終わるばかりでは意味がない。自分も会社で必要な簡単そうな効率化システムとか内製化/デザインできるようにならないと、他人と差がつかない気がする。調べたところ、Paizaなどお手軽にプログラミングの学習素材を提供しているページをいくつか確認できた。何でもいいから手を付けようと思う。自分の現職と関わりが深いものはHTML/CSS(ホームページ担当、大体業者に委託しているが)、う��く活かせば製造現場に役に立ちそうなものはPython、一番とっつきやすいのはJavaらしいと聞いている。この辺りを少しずつ触っていこうかと思う。
最後に語学。ドイツ語は高校で専攻だったけど高校時代はうつ状態?ともかくメンタル不良との戦いだったので、断片的くらいにしか残っていないと思う。その不完全さを、成人になった今だとしても、一生かけて埋めていかないとなと思う。(そうでもしないと、昔の自分の日々がトラウマとして延々と襲いかかってくる気がする)一方で中国語、特に台湾華語を学びたい気持ちが強い。台湾に詳しい人の話を聞くと、他の国以上に治安・国内の人々の性格面で住みやすい環境であるらしい。台湾の人と社会的に関わっていける力を持てば、生きる場所といった選択肢を広げられるのではと思う。ドイツ語に比べて単純に学べる機会は幅広いと思うので、ここは自分に頑張って鞭を打ちたいところ。
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(台湾観光をまともにできなかったという悔しさもある(家族全員体調崩し+思った以上に英語も日本語も通じない+乗り継ぎ待機時間が非常に微妙だった+夏は厳しい、逆に年末年始休暇の際は台湾一周が候補になる可能性あり)。中国語学習のモチベを復活させるには、このことを思い出さんとな。)
見出しに書いていなかったが、そろそろ運転免許も真摯に取得を考えないと親がキツそうである。後は、公共交通機関インフラが脆弱(申し訳ない言い方だが)な地域に住んでいる友達には、自分が車を運転して会いに行けるといいな、という将来の野望もあるので…。
趣味を増やす
→流石に「上手に生きること」を考えると、やはりアニメとゲーム好きのままでは趣味活動が厳しい。アニメとゲームを消費するための脳は、上手く生きることに繋がってこない。自分でも悲しいし心にぽっかりと穴が空いた気持ちになるが、ポケモンと刀剣乱舞も満足に追えないかもしれない。どちらも日本各地に根ざした取り組みが活発なので、旅行のついでに追いかけることは引き続き問題ない。が、今後ゲームをどれだけ消化できるかは不透明だ。刀剣乱舞はちょうど良く昨年に一番好きな刀剣男士がレベルMAXになっている。ポケモンだけが悲しいことになってしまった…がしょうがないんだ…。
旅行はお金も時間も飛んでいくが、両親も私も好きだし他の人との雑談のネタになるので何やかんや続けていくだろう。それ以外に何をするかだ。いろんな本を読むという読書趣味はあるが、それ以外にも欲しい。料理は必須になった時に、ライフであり趣味と同化してきそうな気がする。(既に最近、声優の木村良平さんの料理放送や、ゆるキャン△の外飯レシピをじっくり見てはいるが…)なので他のもので探してみた。
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(京都 東寺の川を泳ぐ野鳥)
野鳥観察。観るだけなら旅行しながらでもできるか。というか名古屋市だと、たくさんの鳥を見るためには港付近の小さな干潟公園に行くしかないような…これまでに撮ったことのある鳥さんをスケッチで描き起こしてみることも、一興ではあるかと思う。
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(相当どうでもいいが、最近は地図を自分で手描きすることが何となく楽しかったりする)
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(静岡 島田のふじのくに茶の都ミュージアム)
茶道。持ち家ではないし、そもそもの人脈上誰かを誘うこともないか…。教室に行ってじっくり学ぶ必要があり、お茶会を開けそうな環境(小道具や服装含め)がないとキツそう。ただし、茶道の知識があると、江戸時代の大名さんが持っていた茶道具の価値や、博物館の展示物コレクションへの理解が深まる。教養として学ぶことに意義があると感じた。
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(埼玉 鉄道博物館で眺めた新幹線「とき」)
東京に何度か行き来すると、鉄道/電車に愛着が湧く。しかし、鉄道も動かす仕組みや歴史を学ぶこと以外だと、基本乗り鉄マニアとして旅行の延長線になりそう。いつか青春18切符で名古屋からできる範囲で効果的に旅をする、といった目標なら考えられるか。
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(埼玉 大宮盆栽美術館。木の幹が龍の形に整えられた、最も私の印象に残った五葉松)
盆栽はとても良い趣味だとフィーリングで思ったが、調べてみた結果、植物を育てることも愛玩動物の世話をすることと同じレベルの手間や丁寧さ、こまめさが必要と分かってしまった。関心事が変わりやすかったり、ふらふら遠出したくなる自分には向かなそうである。ただ、茶道と同じく、知識を身につけることで見れるものが多くなると感じた。何気なさそうな造形から、手入れした人のイメージした世界観や風景を想像する楽しみがある点は、日本刀の観賞に似ている気がする。後植物に愛着が湧く。
ま、まああまり変わらないな。ドローン操縦も気になるが、ライセンスも必要になりそうだし、関係法令をきちんと学ぶハードルもある。何よりどんな教室に通えば学べるのだろう…。
最後の候補は藤井聡太さんで話題になっている、将棋を覚えてみるか....(?!)。
旅行経験や何かしら思い出のある県に関する、話題をまとめたブログ記事(※Wordpress)を書く
→日本国内だと47都道府県の話になるが、実際は日本以外の国も含めて記事化することを想定している。
きっかけは、スマホの旅行写真をなかなか破棄できずに困っていること。また、外付けHDDを既に所持しているは良いものの、HDDにバックアップしたところできっとその存在を忘れるだろうと思っているから。忘れないようにするためには、自分が作ったネットの媒体に写真とテキストを残すことが一番かと思う。手間もあっての記憶だろうか。加えて、プログラミングは自分で触って形にしないと身につかないだろう。HTML/CSS知識習得の手段としても、Wordpressは何とか記事作成と運営を続けるべきだ。地域の思い出に関するネタなら、無難な話を書くことができるだろう。読書感想文を投稿しても良いだろうけど。
ぐだぐだ述べてしまった。これ以外にも増えるし変更するかもしれない。いずれにせよ、自分を出し惜しみせず、後悔のない1年を過ごせるようにしよう。
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aya-ebina · 4 months
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2023年の振り返り
今年も残すところあと1日なので、できごと別に振り返りをします。概ねよい1年だったし、来年の年末にもそう思えるようにしていきたいです。
★詩のこと *詩集について 目標としていた詩集を出すことができた。七月堂から8月20日に『あかるい身体で』を出版した。といっても自費出版で、年始の文学フリマ京都7が終わってから、わたしの手元に100部で見積もりしてもらい、手が出せない金額ではなかったので製作を開始した。中身に関しては、収録作品も配列も自分で決めた。装丁は完全にお任せして、好きな色だとか詩集のイメージだとか、好きな用紙をお伝えしたところ、綺麗に作ってもらった。中身は自分で頑張るから見た目は他の人にお洒落にしてほしい、と思っていたのでそれが叶った。
謹呈はわたしからはしていなくて、七月堂が出版・マスコミ関連に送ってくださった。『現代詩手帖』10月号の詩書月評欄と12月号(現代詩年鑑)の新鋭展望欄、ガーネットVol.101で評していただいた。謹呈をしなかったのは、送っても読まれるかどうかわからないし、親しくない人に送りつけるのは気が引けて、それより買ってでも読みたいと思ってくださる方に文学フリマなどを通して届けたいと思ったから。手元には半分くらいあるので、Storesでオンラインショップを開き、来年も文学フリマ大阪には出る予定だ。 文学フリマは大阪と東京に出て、同じくらいの売り上げだった。わたしの気力・体力では大阪の規模が限界なんだなあと思ったので、しばらく東京には出ないつもり。東京が売れなかったというわけではないのだけど、人混みが凄まじくてそれに疲れてしまったし、雰囲気がより商業の場という感じがしてしまった。
詩集に関連して長谷川書店水無瀬駅前店で「おしゃべりと詩と何か」と題したイベントを行った。ただ軒先に机と椅子を置いて座っていた。おしゃべりしてくれる方も詩集を買ってくださる方もいらっしゃって、文学フリマなど人が多い場所とは違って、ゆったりのんびりできたのがよかった。着実に詩集が届いている感じがした。わたしの詩が初めて投稿欄に載ったあたりから、長谷川さんに詩を書いていることを話していて私家版詩集を置いてもらっていたので、イベントができて嬉しかった。いつ行っても、昨日も来ていたかのように迎えてくださるところも嬉しい。
それから、機械書房さんでどーんと私家版詩集を販売していただいた。岸波さんがTwitterで『きょりかん』をはじめ私家版詩集について言及してくださっているのを見ていて、本屋さんを始められるということだったので思い切って連絡して見た。そうしたら、今までにない数をまとめて仕入れてくださった。こんなに一気に納品してよいのかしら、と思いながら送った。結果、『声を差し出す』はあと1冊になっていたはず。『あかるい身体で』もたくさん置いてくださっているし、文学フリマでも「岸波さんに推されていますね」などと声をかけられて、こうして応援してもらえることは本当にありがたい。
私家版詩集と違って、丸善京都本店に並んでいるのも、12月20日に紀伊国屋書店新宿本店に行ったらまだ平積みになっていたのも嬉しかった。 中原中也賞に応募しているので、今は「二度あることは三度ある」と思って候補になることを願っている。候補になったら、「三度目の正直」と思うことに決めている。
*合評会のこと 詩の水辺と題して合評会をしている。誰も来なかったらどうしようと思っていたけれど、わたしを含めて3〜4人の参加者でこぢんまりと続けられている。あんまり多いと収拾をつけられる気がしないので、ちょうどよい。最大でも6人と思っている。
★生活のこと *映画を見る これを目標に挙げていたが、失速した。何回かは映画館に行ったのだけど、映画の上映時間は前週の木曜日くらいにならないと発表されないので、土日で予定を合わせにくかった。そこでAmazonプライムに入って、プライムビデオで見るようにした。見たいものが意外とあるのにウォッチリストに入れっぱなしにしており、月1本も見ていないと思われる。来年は月1本、年12本は見られるといいな。
*推し活 2021年1月からずっとロックミュージシャンを追いかけており、今年は5本のライブを見た。32歳にして初めてライブハウスに足を運んだ人間としては、多いなあと思う。ファンクラブ限定ライブ、ワンマン、ツーマン、イナズマロックフェス、ワンマン。2回東京まで行った。いつか飽きるのではないかと思っていたけれど、全然そんなことはなかった���ライブに参加することや懸命に活動し活躍の幅を広げている姿などが生活の励みになるので、生活に支障をきたさない範囲でこのまま楽しんでいたい。 余談だけれど、「ライブ参戦」という言い方がなんだか違うと思うようになった。あと、即売会をはじめ買い物における「戦利品」も。実際に世界で戦争が続いている中で、娯楽に対して「戦」という単語を使うことへの違和感がある。ライブは観に行くものというより自分もその空間でライブを作っているから「参加」という言い方に、買い物は「購入品」と言おう。
*仕事 海老名絢として働いているわけではないので、あまり仕事については語らないようにしようと思い始めた。転職して丸1年が過ぎ、環境も収入も好転した。わたしは事務担当なので、どうしたってルーティンワークの側面があるけれど、部署の特性上ルーティンが月次や四半期・年次で回って種類も多いので飽きない。徐々に任せてもらうことも増えた。あと、はちゃめちゃにお金を使ったのに貯金が底をつかなかったので、というか底をつかないという目算が立ったためはちゃめちゃに使えたので、収入面でも非常にありがたかった。詩集を出し(数十万の単位)、iPhone SEの調子がおかしくて思い切ってiPhone15を買い、ライブと文学フリマで東京に3回行き、ライブ等でグッズを買い、高山と富山を旅行したのだった。
★その他雑感 詩も日記も感想もとにかく1冊のノートに書くようにして、今年は4冊使った。意外と書くことがある。書いておけば安心して忘れられるし、逆に記憶にも残る。年始に書いていることを読んだら、今も思っていることもあればすっかり忘れていることもある。読み返したら、半分他人みたいで面白い。それに記録をしておくと、そこから詩が生まれるようだ。あるいは、感覚の記録が詩となる。 今年は変に気を張らずに過ごせたような気がしている。強がらずにというか、わりと自然体だった感じ。これは年齢を重ねることの利点かもしれない。自分の得手不得手・限界などが見えてきて、それで何を自分は大事にするのか、どう生きるのかを考えると無理をしている場合ではない。無理をして続けると本当に自分がダメになるので。
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ari0921 · 4 months
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我が国の未来を見通す(96)
連載最終回を迎えて
宗像久男(元陸将)
───────────────────────
□おわりに──「今」の取り組みが「未来」を創る
思えば、109回に及んだ『我が国の歴史を振り返
る』の続編のような格好で、『我が国の未来を見通
す』と題したメルマガを発信開始したのは、202
1年11月8日でした。あれから2年あまりの歳月
が流れ、今回で96回を数えます。
本メルマガは、我が国の未来に立ちはだかることが
予想される課題のうち、(1)少子高齢化問題、(2)農
業・食料問題、(3)気候変動・エネルギー問題の3大
課題から始めました。いずれも私の専門外でしたが、
第1話でも告白しましたように、「もとより歴史の
専門家でない自分が、歴史の書籍を刊行したのだか
ら、それぞれの分野の専門家でなくとも、躊躇する
必要はないのではないか」との“陰の声”が騒ぎ出
し、逆に勇気が湧き、このテーマで書く決心をした
のでした。
「未来がどうなるか」など神様以外だれにもわから
ず、未来は不確実・不透明で予測困難です。一方、
歴史を研鑽してわかった重要な1つとして、「歴史
の時間軸・空間軸のつながり」がありました。時間
軸で過去を振り返れば、江戸、明治、大正、昭和と
その時代時代の国の「舵取り」をはじめ、様々な事
象が次の時代、つまり「未来を創ってきた」ことは
否定できませんし、空間軸でいえば、我が国の動き
と諸外国の動きを切り離して論じた歴史は真実を物
語っていません。
よく言われるように、「過去はやり直すことができ
ないが、未来は創り出すことができる」との立場に
立てば、国家が直面する様々な課題に対する「今」
の取り組みが「未来」を創ることは当然なのです。
そのような視点に立って、“いかに「未来」を創り
出すか”について取りまとめたのが第4編でした。
本音を言いますと、“のたうち回りながら”考え抜
いた結果、「『強靭な国家』造り」というキーワー
ドが“降りて”きました。
「『強靭な国家』造り」を目標として、では“どの
ようにして「強靭な国家」を造るか”に関しても、
具体案を提示することから“逃げたくない”との決
意もあって、ずいぶん悩みました。しかし、これに
ついても、突然、“降りて”きました。
言葉を代えれば、インスピレーションでしょうか。
前回のメルマガでも不思議な体験を何度か経験しま
したが、今回の連載は、何も考えないでパソコンに
向かって原稿を書き始め、一挙に4000字ほど書
き上げるようなこともしばしばでした。いま思うと、
とても奇妙でした。本屋で必要な書籍を見つけた経
験談についてはすでに紹介しましたが、自分で書い
た原稿を後で読み直し、「誰が書いたのだろうか」
と首をひねりながら推敲したこともありました。
こうして、第4編だけで32回、7カ月ほどかかり、
しかも1回あたりほぼ6千字~7千字のボリューム
になってしまいました。時を合わせたように、ウク
ライナ戦争が佳境に入り、ガザ地区の紛争が勃発し
たことなどもあって、これらについても、そのつど
自分が認識している範囲で触れましたので原稿は膨
らむばかりでした。
さぞや、読者の皆様には読むだけでも大変だったも
のとお詫びかたがた反省しております。このテーマ
で第4編のようなまとめ方が適切なのかどうかにつ
いては、読者の皆様を始め、他の有識者などの評価
を頂かなければならないのですが、その中で、「国
力」という言葉も“降って沸いた”ように頭に浮か
んだのも事実でした。
この「国力」という言葉自体も外交文書などでは使
われなくなって久しいこともわかりました。そこで、
現役時代に読んだ書籍を再び開きながら、現在の我
が国に相応しい「国力」については自分で“定義”
するしかないことに気がつき、大胆にもそれを実施
し、それぞれの要素をさらに現状分析してみました。
そうしたところ、我が国の現状の課題は上記3分野
に留まらず、経済力や政治力や科学技術力や教育な
ど「国力」を構成する「ハード・パワー」の実際の
データをチェックしてみると、軒並み「下降期」に
あることを理解しました。これらを知った時のショ
ックはとても大きいものがありました。
さらに、「国力」を構成する「ソフト・パワー」の
うちの「国家戦略」となると、戦後の我が国では検
討された歴史がなく、戦前の歴史を辿ってみても、
明治維新の「富国強兵」「殖産興業」しかないこと
も知りました。これも我が国の「国柄」なのでしょ
うが、戦前は国家目標として「国防」、つまり「安
全」重視であり、戦後は「経済」、つまり「富」重
視と、著しくバランスを欠いていたこともわかりま
した。
戦前の関係者の名誉のた���に少し補足しますと、戦
前も「国是」とか「国家目標」とか「国家戦略」と
いう概念はあるにはありましたが、それらよりも
「国防」の方が上位に位置していたなかで、4度に
わたる「帝国国防方針」が定められ、紆余曲折の中、
実際の「国家運営」がなされてきました。なかには、
「国是」や「国家戦略」が省略され、「国防の本義」
として要約された方針もあったようです。
余談ですが、戦後は「国力」のみならず、「国益」
「国防」、もはや死語になっている「国体」など、
「国」を冠した言葉が公の場で使われなくなって久
しいですが、昨年末に「国家安全保障戦略」ととも
に策定された「国家防衛戦略」の前身は「防衛計画
の大綱」と呼ばれていました。その源流は、昭和3
2年に策定された「国防の基本方針」でした。
「国防の基本方針」は、米ソ対立の冷戦が激烈さを
増したこともあって、「安全」をアメリカに丸投げ
し、経済一辺倒の「吉田ドクトリン」の中で、“せ
めて「基本方針」ぐらいは”と考えて策定したので
しょう。アメリカから圧力もあったのかも知れませ
ん。わずか8行の中に4つの基本方針を述べている
だけなのですが、���時の状況からするとなかなか内
容にある方針だったと考えます。
しかし、いつの間にか、その「国防」から「防衛」
とか「安全保障」と“柔らかい表現”になり、長文
で複雑な計画にもなって、その上に「基盤的」など
の形容詞がつけられたこともあって、「防衛力」の
“本来あるべき姿”から離反し続け、その分、“ツ
ケ”が溜まってきたと思えてならないのです。私は、
昭和32年以来一貫して「国防」という言葉を使い
続けていたら、現在の「防衛力」はその名称も中味
もかなり違っていたものと考えるのです。
話を戻しますと、この「国家戦略」については、そ
の策定の必要性を訴え、具体的な提言を試みた書籍
は、私自身は1冊しか発見できず、驚きと同時に寂
しさを覚えました。
それでも「国家戦略」については、誰かが強いリー
ダーシップをとって、知恵者を数人集めて研究させ
れば、その策定は不可能ではないと考えますが、大
方の国民の精神を集大成した「国家意思」の統一と
なると一層難しいと考えました。
しかし、研鑽を重ねるうちに、我が国の憲法の精神
ともいうべき「基本的人権」、しかもそれを「公共
の福祉」に使用する「責任」があるというくだりは
活用できると閃きました。なぜならば、「強靭な国
家」を造ること、そしてそのために「国力」を増強
することは、「公共の福祉」そのものであると考え
たからでした。
つまり、現憲法下においても、憲法の精神にのっと
って「国家意思」を統一しつつ、「強靭な国家」を
造ることは可能と判断したのでした。なにしろ残さ
れた時間は短く、憲法改正の議論をする余裕がない
と考えていますので、この発見は嬉しいものがあり
ました。
しかし、このようなことについて理論的には実行可
能としても、だれが国家・国民の先頭に立って舵取
りをするか、と問えば、それこそは国民に後押しさ
れた「政治家」の仕事であることには論を俟たない
でしょう。
本メルマガでは、「国力」の「ハード・パワー」の
一要素として「政治力」を取り上げ、素人の域を超
えない範囲で現状分析を試みました。まだまだ言い
足りないことはあるのですが、マックス・ヴェーバ
ーの『職業としての政治』の中の最後の文章、私が
最も感銘を受け、納得した部分を(少し長いですが)
紹介しておきたいと思います。
 「政治とは、情熱と判断力の2つを駆使しながら、
固い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いて
いく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指
して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能
なことの達成もおぼつかないというのはまったく正
しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。
しかし、これをなしうる人は指導者でなければなら
ない。いや指導者であるだけでなく、英雄でなけれ
ばならない。(中略)自分が世間に対して捧げよう
とするものに比べ、現実の世の中が──自分の立場
から見て──どんなに愚かであり卑俗であっても、
断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても『そ
れにもかかわらず!』と言い切る自信のある人間。
そういう人間だけが政治への『天職』を持つ」
このような気骨があり、政治を行なうことを「天職」
と認識している政治家(達)の出現が待望されます。
最近の政治家の不祥事についてのコメントはあえて
避けますが、政治家の先生方にこの一文を読ませて
あげたい衝動にかられます。
一方、民主主義国家である我が国の未来は、つまる
ところ、マックス・ヴェーバーがいう、政治を「天
職」と認識している政治家(達)を輩出する国民に
かかっているとも言えるでしょう。国民の側もカー
ライルの「この国民にしてこの政治あり」をしっか
り認識する必要があるのです。
戦後の歴史教育を批判した1冊として有名な『日本
の歴史の特性』も紹介しましたが、著者の歴史家・
坂本太郎氏は、「どこの国の教科書も、自国の立場
を正当化し、過去を美化していないものはない。ひ
とり日本だけ自国の立場を冷淡に批判するというの
は常識にはずれている」として、「青少年の心に訴
え、明日の活躍への希望をつちかうものは、愛情に
根ざした歴史でなければならぬ。2千年もの長い間、
1つの民族をもって1つの国家を造り、輝かしい平
和と独立とを保ちつづけた日本の歴史を、世界一の
存在だと知るとき、国家愛、民族愛、伝統愛は、油
然として沸き起こらねばなるまい、と思うのである」
と結んでいます。
坂本氏のこの指摘は、まさに“我が意を得たり”で
あり、改めて、「歴史のつながり」の重要性を訴え
るものと考えます。過去・現在・未来はつながって
います。改めて、“過去は変更することはできませ
んが、未来は創り出せる”のです。
そして「国家100年の計」とはこのようなことを
指すのだろうと考えます。私は、「我が国の歴史を
振り返る」として主に「国防」の分野の歴史を振り
返り、史実を知ってから先人たちに敬意を表してい
る自分自身を発見しました。それもあって、「我が
国の未来を見通す」としてメルマガを発信し続けな
がら、現在の我が国の課題を引き起こした最大の要
因は、戦前の歴史を否定し、歴史を分断したことあ
るのではないだろうか、と考えるようにもなりまし
た。
百田尚樹氏は、近著『大常識』の中で、「日本人の
平和ボケは不治の病」と断定していますが、その原
因こそ、戦前の歴史を否定し、あえて学ぶことを避
けてきたことが、多くの日本人から“現実をしっか
りとらえる”知性を奪って、それが「平和ボケ」に
つながっていると思えてなりません。今こそ、しっ
かり軌道修正する必要を感じます。
また、元国連職員の谷本真由美氏も近著『世界のニ
ュースを日本人は何も知らない』の中で面白い指摘
をしています。つまり、「日本は世界の文化の最終
終着地である」として、日本は、国内文化のみなら
ず、“イギリスや中国国内などもはや(現地には)
存在しないそれぞれの伝統文化さえも大事にしてい
る”「良さ」があると解説しています。このような
日本文化が将来、“世界を救う”ことにつながる可
能性もあるでしょう。
このようにあれこれか考え、悩んだ結論として、我
が国の「統治のかたち」あるいは「国のかたち」は
現在のままでよいのだろうか、という点については
今も頭に残ったままです。本文では少し触れました
が、結論はどうあれ、そのための憲法改正を含み、
勇気を振り絞ってその議論に立ち向かうのは、戦後
世代に課せられた「宿題」のような気がするのです。
260年あまりの徳川幕府に終止符を打った幕末の
志士たちは、吉田松陰が唱えた「草莽崛起」(そう
もうくっき)〔志を持った在野の人が立ち上がり、
大きな物事をなす〕によって心を動かされ、命を賭
して行動したと言われます。
講話の行脚をしている時、偶然にも何人かの人が熱
い気持ちを込めて「草莽崛起」という言葉を口にし
ておりました。現在、本当に「明治維新」ならぬ
「令和維新」として、心ある在野の人が立ち上がる
時が到来しているのかも知れないのです。後世に我
が国の有形無形の”資産“を残すために戦後世代が
覚醒して立ち上がり、やがて「巨大なパワー」に成
長する・・・本メルマガがそのような輪が広がるこ
とに少しでも貢献できるのであれば本当に望外の喜
びです。
12月12日は「漢字の日」でした。今年の漢字は
「税」だそうで、京都清水寺の森清範貫主が本殿の
前で揮毫されているお姿を拝見しました。実は、大
阪の講話の折に、京都清水寺に立ち寄って貫主にご
挨拶させて頂く機会を得て、漢字1文字を揮毫して
いただきました。
私は、「我が国の未来」が「明るく、輝かしい未来」
になることを心より祈念し、「輝」という漢字を揮
毫していただきました。私自身は今なお、心ある多
くの日本人が覚醒し(「荒魂」が眠りから覚め)、
力を合わせて、様々な障害を乗り越え、必ずや明る
く、輝かしい未来を創り出す、そのような日本の
「国柄」は変わらないと信じていることを付け加え
ておきたいと思います。
まとまらない「あとがき」になってしまいましたが、
これをもって「我が国の未来を見通す」完結です。
読者の皆様、長い間、お付き合いいただき、本当に
お疲れ様でした。元自衛官としてあるまじき暴言の
数々について心よりお詫び申し上げ、重ねての御礼
とさせて頂きます。
最後になりましたが、毎回、私の誤字脱字だらけの
つたない原稿に目を通していただき、メルマガ軍事
情報と仲介の労を取り続けて頂いた並木書房の奈須
田社長、そして、毎回のように、冒頭で過分なご紹
介を賜り、時に極めて適切なコメントや叱咤激励を
頂いた上、「我が国の未来を見通す」のバックナン
バーも残して頂いているメルマガ軍事情報オーナー
のエンリケ氏に心より感謝申し上げ、結びと致しま
す。長い間、本当にありがとうございました。
(おわり)
(むなかた・ひさお)
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senpenbanka0426 · 4 months
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コレクションハンター - Part1
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カメラMODのみの状態でSims4のコレクションコンプリート目指してレッツプレイ。ルールとしては、
・露骨なチートは使わない。 ・デバックアイテムからコレクションアイテムを出さない。 ・ギャラリーからコレクションをダウンロードしない。
って感じでやっていくZOY。
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ただ、私はパック全部購入してる訳ではないのでその点はご勘弁。私が持っててコレクションに関わってるパックの一覧は↑こんな感じになりやす。
過去にコレクションショップを作った事はあるが、久々にまた一から全部集めてみるかって事でプレイ。あと、攻略情報とかでもないので、解説とかも書けないと思われ。あんまり期待しないで見ていってネ!
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そんな感じで手始めにカエル、化石、MySimsトロフィー、クリスタルを回収。
今回のニューゲームで作ったこのシムには「特質:コレクター」が付くように初期願望を「館長」にセットしたZOY。
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クリスタルと金属はダブったら地質調査協会に送って元素に交換してもらう。
クリスタルと金属の種類で貰える元素って決まってた気もしたが、もはやそんなの覚えている訳ないのでテキトーに同じ物が手に入ったら全部送って行くZOY。
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あとポストカードの存在を思い出してパソコン設置。ペンフレンド探して、返信確認して、手紙書いて、ポストカードお願いする……って割と面倒な工程踏まないといけないが、唯一運が絡んでこないコレクションではある。
で、ここら辺で満足ポイントが2000溜まって「鉄の膀胱」をGET。今後、世界中を回ってコレクションを集めていく為にも人間離れしたシムになってもらう予定。
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そんな感じで、カエルを繁殖させつつ、ガーデニングやりつつ、家の周りの岩を掘りつつ……ベースゲームのポストカードをコンプリート。
ハムスターが取って来るタイプのポストカードは今の所は後回し。
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そうこうしてる間にロマンスフェスティバルが開催。ここで固定配置される作物を回収。Seasons導入で取れる作物が減ってしまうが、まぁそれはしゃーない。(無いよりはマシ)
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そんでお次はエイリアン目当てにロケットを設置。
ロケットを完成させて2択のチャンスカードを引き当てる事でコレクションアイテムが貰える訳だが、確かロケットをアップグレードする必要は無かったはず。
1000ドルで建設してそのまま飛ばしてもコンプリートは可能……だけど、目当てのチャンスカード引き当てる為に50回くらい飛ばさないとコンプリート出来なかった記憶が……ww(屑運だともっとかかるかもしれん)
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そんな事を考えつつ同時進行でカエルを繁殖させてたらコンプリートしたわ。
カエルはコレクションの中でも割と簡単な方だと思う。多少の運要素はあるけど狙って繁殖させる事が出来るし。
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で、案の定、ロケット飛ばしまくってるがエイリアンがコンプリートできねぇww
もう春も24日目を迎えて夏になりそう……。
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ダブったコレクションアイテムとかガーデニングの作物売りまくってたら所持金も潤沢になっちまったYO! って事で「フリーランス植物学者」達成させる為にカウプラントベリー目当てで「レア植物」の種袋を購入。
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で、マジックビーンをコンプリート。カウプラントベリーも植えて置いたZOY。
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その後もロケットを飛ばしまくって何とか隕石はコンプリート出来た……が、エイリアンが揃わず。恐らく2択のチャンスカードで選択をミスってるっぽい。どれ選んだら何が貰えるのか、サッパリ思い出せないww
これは最悪、Get To Workの特殊エリア行くまでコンプリートできないかもしれんww
ただ「UFO(未確認フルーツ物体)」は問題なくGETできたわ。これは確か種袋から出て来ないタイプで入手方法が割と限られてるアイテムだった……はず。
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まぁ、それでも過去に揃える事は出来たんだから、どうにかなるべ。って事で今度はスパイスフェスティバルで採取。
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別の日にはフリーマーケットへお出かけ。運が良ければここでスノードームが一気に全種類コンプリート出来たりするんだが……まぁそんな簡単に行く訳がないww
コレクションコンプリートはリアルラックが顕著に影響するのがヤバい。物欲センサーもビンビンだぜ!
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そんな感じでプレイを続け��夏も半分終わった頃。
エイリアン集めは一旦諦めて満足ポイントを確保する為に「願望:オタク脳」を開始。
Jungle Adventureのコレクションやる時に器用さスキルと論理スキルがあった方が良いから、それの準備でもある。
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いやーしかしパッチノートをチラッと見た時は「ガーディング関連のバグを直しました!」的なことを言ってたけど、やっぱり直ってないっぽい。
↑の雑草がどうやっても除去できない。シムが延々雑草取りのアニメーションを繰り返すだけで動けなくなるわ。マジでガーデニング関連のバグは息が長いな。3年?4年くらい続いてる気がする。
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もう資金も心配ない所まで来てたからカウプラント以外は撤去しちゃってSulaniへお出かけ。
「願望:釣り名人」を達成させて「疲れしらず」を購入。
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途中でフリーマーケットの告知が来たから行ってみる。スノードームは手に入らなかったが、まだ未所有だった金属を1つだけGET。やったぜ。
あと、まだまだ満足ポイントが欲しかったから「願望:ベストセラー作家」も開始。
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んで、ベストセラーを3冊書き終わって本の印税が貯まるまでロケットを飛ばす日々を送りつつ、地下室を作成。
とりあえず、置き場に困り始めたコレクションをテキトーに並べておくことに。
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しかし、本当にテキトーに作ったせいでシムが不快になったわww
これ確かシムが到達できない所に、ある程度の大きさの部屋があると出るんだっけか? なんか別な理由で発生する気もするが……良くわからんww
コレクション並べただけの部屋だし、シムが出入りする必要もないだろって思ってたが、しゃーないから階段付けたわ。んで無事、不快じゃなくなったZOY。全く、我儘なモヒカン野郎だぜ!
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そんで、そんなモヒカン野郎を宇宙に飛ばし続けて、とうとうエイリアンコレクションコンプリート!
マジで長かった……ww 「希少度:ありふれている」でも2択の選択をミスると絶対出て来ないんだもんなぁ! 正解の選択を思い出せないから手当たり次第にやりまくったZOY。
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ただ、今思うとエイリアンシムを一時的に世帯に加えてダブって手に入ってた「死んだ宇宙のヤマアラシ」を生き返らせて手に入れた方が早かった気もするww あとは特殊エリアのシグザム行ってからでもよかったかもww 無理にロケット飛ばし続ける必要は無かったww
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まぁ、もうコンプリート出来たから深くは考えないけども。
で、お次は「宇宙の写真」と「顕微鏡の写真」を揃える為に天文台と顕微鏡を設置。
「宇宙の写真」が時間帯によって種類が変わるくらいで大して難しいコレクションでは無いが、屑運だと全然揃わないイメージがある(笑)
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とか、思ってたら誘拐されたわ。うっわ面倒臭ぇ! 妊娠させられたら最悪や!
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って思ってら妊娠させられたww 連日、夜に天文台で作業するから高確率で発生するんだよなぁ。
いやしかし……やっぱりこのイベント、どうしてもレイプを連想してしまう……(笑) 女性シムでも起きるイベントだったらGet To Workは発売出来なかっただろうなって思う。男だったら誘拐してレイプOKって、Get To Workの世界は男性に厳しすぎぃ!ww
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で、まぁ、そんなこんなありつつ、「宇宙の写真」、
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「顕微鏡の写真」はコンプリート。やったぜ。
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んで、妊娠中はやたらと空腹になりやすいし、走れなくなるから出かけるのを止めて家の周りで集められる物を集めてたら「MySimsトロフィー」をコンプリート出来た。
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地味に「希少度:レア」のこの4つを初見でコンプリートするのは難しい気がするww
普通に手に入るカプセルと宝の地図を使って手に入るカプセルは見た目は全く同じだが中身は別物で、「希少度:レア」のトロフィーは宝の地図を使って入手したカプセルからじゃないと出ない……って説明されなきゃ私は分からなかったよ!ww
昔、「なんで最後の4つだけ出て来ないんだ?」ってずっと思ってて攻略サイトとか見つつ海外の実況動画を眺めてたら宝の地図使ってるシーンあって驚いた記憶がある(笑)
まともに説明文読んでなかったせいでずっと「宝の地図」って書いてあるのにゴミアイテムだと思い込んでたわww
んで、今回はセーブ&ロードも駆使しつつコンプリートしたZOY。最後の一個がなかなか出て来なくて「宝の地図」集めるのも億劫になったから目当てのトロフィー出るまで岩を掘る直前のセーブからロードしまくって揃えたZOY。
どの時点までカプセルの中身を抽選してるのかは分からん。魔法シムと科学者キャリアのシムならコピペ呪文やクローン装置でカプセル増やして開けまくるって事も出来るんだろうけど……まぁ、その方法は最終のコレクション集めで使う事になると思われ。
そんな感じで次回へ続く。
次回へ
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benediktine · 5 months
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【チャリを交通の主役に 魅力発信、片山右京の挑戦 疾走チャリノミクス(1)】 - 日本経済新聞 : https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFK132ME0T10C21A2000000/ : https://archive.is/XQzTa 2021年3月21日 2:00 (2021年3月22日 2:00更新)
環境に優しく、健康によく、密も避けられる夢の乗り物――。脱炭素や新型コロナウイルス禍で改めて脚光を浴びる自転車。チャリンコと侮るなかれ。IT(情報技術)などの最新テクノロジーを取り込み、自転車経済圏は国内外で広がる。競技から開発、安全対策までそれぞれのフィールドを全速力で走るチャリダー(自転車乗り)を追う。
■《自転車競技の中心にカミカゼ右京》 東京五輪の競技運営責任者に、新設するプロリーグのチェアマン――。いま日本の自転車競技界の中心には、元F1レーサーの片山右京(57)がいる。かつて怖い物知らずの走りから「カミカゼ・ウキョウ」と呼ばれた男だ。
 {{ 図版 1 : 東京五輪の自転車競技スポーツマネジャーも務める片山 }}
「あなたの街へ興奮と感動を届け��す」。こんなうたい文句で3月27日にシーズン1年目の幕を開ける自転車ロードレースのプロリーグ、ジャパンサイクルリーグ。新設に汗をか��た一人が片山だ。チェアマンとして組織体制作りやスポンサーの獲得に奔走。メインスポンサーには不動産大手の三菱地所が就いた。「多くの人たちが自転車に関心を持ち、スポーツとして応援しようとしてくれている」
人生最初の挑戦は小学校5年生の時、三重県から神奈川県の自宅まで走破した自転車旅行だったという。いったん遠ざかったが、F1レーサー時代、体力トレーニングで再び自転車に乗るようになった。引退後はその魅力に取りつかれ、数々の市民ロードレースに参加。2012年には自らロードレースチームを立ち上げた。「40代半ばから本格的に始めても、毎年記録が上がったり、200キロメートル以上走れたりする。頑張った分だけ確実に力がつき、生きてるという感覚をもらえる」
■《登山で環境破壊に危機感》
自転車に託すのは競技への思い入れだけではない。F1引退後、自転車とともに登山にのめり込み、キリマンジャロなど世界6大陸の最高峰登頂に成功した。だが、そこで見たのは消えゆく氷河やプラスチックゴミなどの環境破壊だった。
人力でペダルをこいで進む自転車は二酸化炭素(CO2)を一切出さない。脱炭素への意識が世界的に高まるなか、究極のクリーンモビリティとして注目され始めた。片山は「今後30年で公共交通の構造が変わり、自転車はその中心の一つになる。皆が自転車に乗って動き回るようになれば、自動車が入りにくい裏通りの価値も変わる」と訴える。
■《日本の自転車利用、拡大の余地》
特定の移動手段の利用頻度から算出した「交通分担率」をみると、日本の自転車は13%。最も高いのは自動車の48%だが、国土交通省の調査によると、自動車の移動距離は5キロメートル未満がうち43%を占める。同省は「���距離の移動で今後、自動車から自転車へ交通手段がシフトする可能性がある」(道路局)とみている。
 {{ 図版 2 : 日本の交通分担率の内訳 主要国の交通における自転車分担率 }}
■《車椅子に乗る15歳の社長》
「自転車産業はITとの融合でもっともっと成長する」。シェアサイクル事業、チャリチャリを展開するneuet(ニュート、東京・港)の社長、家本賢太郎(39)は、真っ赤な自転車が並ぶ本社内のガレージで力を込める。家本は15歳でネット関連のコンサルティング企業、クララオンライン(同)を立ち上げた異色の経歴を持つ。
 {{ 図版 3 : クララオンラインとニュート社長を兼務する家本(東京・港) }}
脳腫瘍の手術の後遺症で14歳から18歳まで車椅子生活を送った。電車など公共交通機関での移動に大変な不便を感じ、「移動に選択肢があることは幸せと感じるようになった」。特に羨望のまなざしで見たのは、自らの力だけで自由に移動できる自転車だ。
車椅子生活を終えた後、自転車は家本の趣味になる。そしてITを武器にアジアへ事業を拡大した際、中国で目の当たりにしたのはシェアサイクル事業の勃興だ。鍵となっていたのが、あらゆるモノがネットにつながるIoTだ。ITに精通した家本は「これなら自分にもできる」と思い立つ。
■《ITからシェア自転車に》
17年秋には福岡市でシェアサイクル事業を展開しようとしていたメルカリから「一緒にやりませんか」と声がかかり、IoT関連のサポートなど裏方仕事に携わった。そして19年夏、「ここから先は僕にリスクを取らせてほしい」と事業譲渡を持ちかけ、チャリチャリとして再スタート。今は名古屋、東京と事業を広げ、専用駐輪場(ポート)は430カ所、保有台数は2000台に達した。
 {{ 図版 4 : シェアサイクル「チャリチャリ」の専用駐輪場は430カ所に達した }}
チャリチャリはITの塊だ。利用者はまずスマートフォンにアプリをダウンロードし、付近のポートにある自転車を探す。見つけたらサドルの下にあるQRコードをアプリで読み取り、解錠。利用後は近くのポートに駐輪し、施錠する。料金は1分4円で、アプリに登録したクレジットカードに課金される。24時間365日利用できる。
全地球測位システム(GPS)が搭載されているため、万が一ポート以外に放置されても、すぐに見つけ出せる。買い物や通勤などの短距離移動はシェアサイクル、サイクリングなどの遠出は自分の自転車と住み分けが進めば、「日本が長年抱える放置自転車の解決につながる」。
日本のシェアサイクル事業は地方自治体が関わっていることが多いが、チャリチャリは行政から補助金を一切貰っていない。自立には利用率の向上が必須で、昼間人口の多さや人口密度の高さに加え、公共交通機関の乗り換えが不便な場所などを狙ってポートの候補地を探す。「シェアサイクルが日本でちゃんと事業として成り立つことをみんなに見せたい」
■《環境派市長「パリをつくり替える」》
チャリノミクスは国境を越える。「環境保護を進めるため、今すぐパリをつくり変えなければいけない」。市長のアンヌ・イダルゴ(61)は自転車でパリ中心部を疾走する。優先レーンを作るなどして、全ての道で24年までに危険なく自転車を利用できるようにする目標を掲げる。
 {{ 図版 5 : イダルゴ市長は環境保護のため、市民に自転車の利用を呼びかけている(パリ)=ロイター }}
14年に就任したイダルゴは環境派として、セーヌ川沿岸の一部を自動車進入禁止にするなどの政策を取ってきた。コロナ禍で人との接触を避ける動きが強まったのをきっかけに自転車の利用を一層促す。20年には自転車用レーンを60キロメートル分延ばすと表明した。
かつて自動車で混雑していたルーヴル美術館前の有名なリボリ通りはいまや、自転車で混み合うほどの様変わりだ。「大気汚染や騒音が著しく減っている」。イダルゴは胸を張る。
フランス政府も自転車の利用を後押しする。コロナ発生後、自転車の修理費を50ユーロ(約6500円)まで補助すると発表した。一時は数カ月待たないと予約が入らないほど修理業者がにぎわった。市場は爆発的に拡大している。仏テレビLCIによると、20年の仏自転車販売台数は330万台と19年比3割近く増えた。
■《自転車経済、年7%で成長》
今後も世界的に自転車市場の拡大は続きそうだ。英調査会社テクナビオによると、20年の世界の自転車市場は約540億ドル(約5兆9000億円)で、25年まで年平均7%で成長するという。
 {{ 図版 6 : スポーツ自転車が大きく伸びている(1店舗あたりの国内販売台数の前年比) }}
日本国内の20年の自転車市場規模(国内生産と輸入の合計)は約1300億円。最近では特にスポーツ自転車の伸びが大きい。野村証券チーフエコノミストの美和卓(53)は「スポーツ車は単価が高いだけでなく、ヘルメットやライトなどを追加購入しないと走れない。アパレルや付属品など周辺市場の広がりに期待できる」と話す。自身も約15万円でロードバイクを購入し、本体以上のお金をかけてギアやホイールを好みの部品に取り替えた。
 {{ 図版 7 : ロードバイクで通勤をする野村証券チーフエコノミストの美和(東京・千代田) }}
前日のニューヨーク市況のチェックから始まる美和の朝は早い。西東京市の自宅から東京・大手町の職場まではロードバイクで1時間半。夜の喧噪の名残ある新宿の繁華街を抜け、大手町が近づくころには皇居のお堀に反射する荘厳な朝日が見えてくる。6時過ぎに会社近くの駐輪場に愛車を止め、サイクルジャージからジャケットに着替えると、今日も美和の一日が始まる。
=敬称略、つづく
(生田弦己、松本萌、福井環、パリ=白石透冴)
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ryotarox · 10 months
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硫黄島の戦い - Wikipedia
最後の生存者として、終戦から4年後の1949年(昭和24年)1月2日に潜伏していた元日本兵2名がアメリカ軍に投降した。 海軍所属であった両名は千葉県出身の一等兵曹 (38) と、岩手県出身の二等兵曹 (25)※ ( 山蔭光福兵長と松戸利喜夫上等水兵 )であり、終戦後も島内の洞穴などに隠れて4年間にわたり硫黄島に暮らしてきたものであった。 両名によると終戦から1年半が過ぎた頃に島内に駐在しているアメリカ兵が捨てたとおぼしき雑誌を拾ったところ、その雑誌に東京の不忍池でアメリカ兵と日本人女性が一緒にボートを漕いでいるグラビア写真があるのを見つけたことにより、日本が戦争に敗れたことに気付くとともに激しくショックを受けたという。この元日本兵2名は1月22日に羽田空港に帰還した。 その後、二等兵曹が「硫黄島に日記を忘れてきた、本を出版するためにどうしても日記を取りに戻りたい」とアメリカ軍に申し出て、同年5月7日に再びアメリカ軍機に乗って硫黄島へと戻った。 ところがいくら探しても日記が見つからず、摺鉢山の火口から400mほど離れた場所から「万歳」と叫びながら飛び降り自殺をしてしまった。 この二等兵曹は日本に帰国した後、周辺の者に「生きて帰ってきて申し訳ない」「硫黄島へ日記を取りに行って見つからなかったら日本へは戻らない」などと漏らしていたことから自殺の覚悟を決めていた節があり、戦友の死んだ地で自分も死のうとしたのではないかと推察された。
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