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left-stand-homerun · 3 years
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韓国現代フェミニズムにおけるTERF(トランス排除的ラディカルフェミニスト)批判――『文化科学』(2020年冬号)掲載論考紹介
2021年2月4日
影本剛 
1.一つではない韓国フェミニズム
韓国の文化理論季刊誌『文化科学』104号(2020年冬号)の特集が「拡張するフェミニズム」である。特集の英語表記は「Stretching Feminism」であり、雑誌の巻頭文によれば、ここでいう拡張とは、帝国主義的な拡大「expansion/extension」ではなく伸縮性や弾力性をもって「拡がり/広がり/伸び行く」という意味であると規定している(イ・ユンジョン「フェミニズムの拡張性を志向して」同誌、25頁)。
本記事では、この雑誌に掲載された二つの論考を紹介し、韓国においてフェミニズムの名で語られ行われるトランスジェンダー排除の運動や議論(TERF)に対して、いかなる批判的議論が提出されているのかを確認することを目的とする。2016年5月の江南駅女性殺人事件以降盛り上がりを見せている韓国現代フェミニズムについては日本でも注目の対象になっているが、その動きは当然のことながら一面的ではない。とりわけ2020年2月、ソウルの淑明女子大学に合格したトランスジェンダーの学生が、在学生たちの入学妨害運動を受けて入学を放棄するという事件が起こったように、「真なる女性」を標榜する運動は、物理的にトランスジェンダー学生の学ぶ権利をはく奪した。これらの動きに対する批判的議論は、日本語であまり紹介されていないと思われる。本記事で紹介するのは、『文化科学』104号に掲載された論考の中でとりわけ重要だと思われる二つの論考、ソン・ヒジョン「再び、物質――「デジタル・フェミニズム」という政治的企画に対するノート」とイ・ヒョミン「ラディカル・フェミニズムの急進性に対する検討」である(『文化科学』の目次や文献情報は以下参照https://www.aladin.co.kr/shop/wproduct.aspx?ItemId=257872769)。ソン・ヒジョンは『フェミニズム・リブート』(2017)の著者でもあり、日本語訳はまだないが、韓国フェミニズムや韓国の文化理論に関して興味のある方ならば見かけたことがあるであろう書き手である。イ・ヒョミンは、2015年以降の韓国のTERF運動に関する修士論文を2018年に提出した研究者である。イ・ヒョミンの修士論文はネットで無料公開されており、ダウンロード数は3000(!)に達している。二つの論考の論点は多岐にわたるが、ここではTERFに関する批判に集中してまとめたい。
2.現代韓国TREFに対する諸検討
 ソン・ヒジョンは2015年以降の「フェミニズム大衆化」を「フェミニズム・リブート(再起動)」と規定して議論を展開させてきた。そこから現在までの6年間を以下のように記述する。
「去る6年間、オン/オフラインを行き来した論争は、女性は同一な集団ではなく、フェミニズムは一つの声ではなく、社会変革を夢見る者たちの政治とは仲間を発見する過程であるのと同じくらい敵を発見する敵対の過程であったことを示した。」(50‐51頁)
そしてリブート以降のフェミニズムの諸類型を以下のように整理している。
「オンラインに存在するフェミニズム内の多様な立場差をすべて分類し整理することは不可能であろう。ただ、本稿の関心の内部で大きく四つの範疇に整理することができる。①ラディフェミ〔ラディカル・フェミニズムの略〕:2015年以降、ツイッターを中心に登場した韓国型ラディカル・フェミニスト。②スカ〔「混ぜる」の意味〕:ジェンダーの交差性〔インターセクショナリティー〕を思惟するフェミニスト。労働、生態、クィア、障害など多様なイシューを「フェミニズムと混ぜる」と蔑みの意味でラディフェミたちがかれらを「スカ」と呼び始めた。一部の交差性フェミニストたちはこれを領有し、自ら「スカ」と呼びもする。③ウォーマッド:ウォーマッド掲示板ユーザー。自らをフェミニストというよりは女性優越主義者と規定する。ウォーマッドはラディフェミもまた運動圏とみなしてラディフェミ排除的立場を露わにすることもあった。④ウォムスタンス:ラディフェミとウォーマッドが共有している政治的立場。脱コルセット、脱性愛、男性・トランスジェンダー・難民・外国人労働者排除などが主要な立場だ。最近ウォーマッドでは反中国感情が強まっている。」(51頁、脚注5)
 これらの動きの中でいかに「強い「フェミニズムをするのか」、例えば「どれほど脱コルセットをしたのか」などによって内部的なヒエラルキーが形成されはじめる。」(51頁)とりわけ2020年は先述した淑明女子大のトランスジェンダー学生の入学放棄事件、n番部屋が暴露された事件、n番部屋問題を先決課題として提示した女性の党の創建など、多様なイシューが爆発した。そしてその背景にある韓国のオンライン空間はマッチョで女性嫌悪的な市場が広がっている。とりわけ2010年代のアフリカTVやYOUTUBEが「いいね」=金稼ぎという繋がりをつくりだし、n番部屋は賭博サイトと強く繋がっていた。他者を搾取することによって君臨する男の連帯ネットワークであるデジタル共同体が形成された。そしてデジタル空間においても、身体に対する搾取は生じる。韓国フェミニズムが対面しているのはこのような「デジタル」の条件だ。淑明女子大学でのトランスジェンダー学生に入学放棄をさせた事件もまた、デジタル空間におけるTERFらによる排除の声によって醸成された。そしてTERF攻撃を通したフェミニズム攻撃で金儲けをするアンチ・フェミニズム市場もオンライン上で作動していく。
「アンチ・フェミニストたちをはじめとする多くの者たちが韓国社会のトランスジェンダー嫌悪をフェミニストたちの責任にし、内部でその問題を解決しろと促した。フェミニストたちの前にはフェミニストたちが解決せなばならない課題が置かれていたが、だからといってトランスジェンダー嫌悪はフェミニズムだけの問題ではない。TERFのトランス嫌悪論理は西欧のTERF論者たちから借りて来たものであるが、その本体は韓国社会の少数者嫌悪に根ざしているからだ。2018年の済州島のイエメン難民嫌悪扇動の時も同じだった。保守プロテスタントがフェイク・ニュースをつくり、ラディフェミがその内容を熱心に拡散した。そのようにして青瓦台〔大統領官邸〕の請願掲示板にアップされた「イエメン難民受容反対請願」には71万人に達する人々が賛同した。保守プロテスタントとラディフェミの共通部分がいかに大きいのかは分からないが、両者のあいだに意図はしなかったが、しかし効率的な協業が形成されていたことだけは事実だ。」(61頁)
 TERFの議論は、韓国に根付いている少数者排除の議論も主要な養分としている。ゆえに単にフェミニズムの内部だけで議論すべき問いではないということだ。また、TERFの論を支えるのが「女性の安全」という言説であった。そしてその言説のリアリティを担保するものとして、接続したアカウントが26万に達するというn番部屋が明るみになる事件があった。しかし女性の安全言説は生物学的本質主義に基づく女性の囲い込みになり、そうでないものを排除する形の言説が力をもった。フェミニズムのみならず、あらゆる進歩的な政治が、排除の政治がもつ悲壮さと崇高さのエネルギーに誘惑され、その力、その速度に頼ろうとする陥穽が生じた。
「排除の政治を突き動かす嫌悪の言葉はおもしろく、それこそサイダーのように弾ける爽快感を与える。このように政治が娯楽になってしまう瞬間は、常に強い効果を作り出す。そのような感情の激動が「今のようにやっているのでは何も達成できないであろう」という焦りと出会えば速度が加わる。その速度の中で何かをやっているという感覚が高まる。しかし日常的に経験する不安と恐怖を解消するために想像の敵を立てる者と同じくらい、それが嫌悪扇動だということを知りつつも知らないふりをするあるフェミニストたちの焦りが、更に長い時間を逆行させる。/注目すべきことは、かれらの(一種の)転向を正当化させるものが、外ならぬ「まず女から」であるという点だ。つまり「女性運動」と「少数者運動」を分離することで正当性を確保する。その両者が単純に分かれてはいないことを知りつつも、である。そしてこのような簡単な分離はフェミニズムをゲットー化させるのみならず、これまでやってきた女性運動の意義を簡単に廃棄してしまうという結果に至る。「女性団体らが若い女性たちの苦痛をきちんと代弁できていない」だとか「エリートフェミニストたちがチャン・ジャヨン事件について沈黙した」というふうにだ(これはすべて女性の党創建を準備していた人々の口から出た言葉だ)。これはフェミニズム運動の歴史に対する否定であると同時に、共に行かねばならないフェミニストの仲間たちに対する否定でもある。」(64頁)
 次に、イ・ヒョミン「ラディカル・フェミニズムの急進性に対する検討」を整理する。
「若い世代の女性たちが女性嫌悪を自覚し「フェミニストになること」を自負し始めたとき、重要だったことの一つは、まさしく「いかなる」フェミニズムを選択し支持するかの問題だった。」(226頁)
 つまり「韓国フェミニズム」なる一面的表現はそもそも成り立たない。「いかなる」の一つに位置づけられるのがTERFとしての「ラディカル・フェミニズム」である。TERFたちは、「フェミニスト共同体からトランスジェンダーを追放せねばならないだけでなく、かれらの存在自体を認めることはできないと述べ、インターネット空間でトランス嫌悪言説を積極的に主導している。」(226頁)そしてTERFは、「女性人権向上」と「家父長制解体」の目標の下に、トランスジェンダーだけでなく、フェミニズムが障害、人種、動物、環境など、様々なイシューと出会うこと批判する。その中で、TERFらの論争で核心になったものの一つが「既婚女性」の問題だ。
「オンラインにおいて「ラディフェミ」たちは、フェミニズムは人権運動であり単純に一人で考えるだけでは人権運動家とはいえないがゆえに、フェミニストになった以上、家父長制を壊し、女性人権を向上させうる非婚・非出産、非恋愛、非セックス、脱コルセットのような実践を体をもって行うべきだと主張する。この時、結婚はただちに家父長制に賦役する行為とみなされる。〔中略〕かれらは「女性問題が構造の問題であることは認めるが、その構造から抜け出たり壊す方法は、自らその構造から出る方法しかない」と考える傾向がある。」(227頁、脚注4)
また、「ジェンダー」については以下のように整理される。
「問題はTERF言説においてジェンダーが「女性を抑圧するための家父長制の道具」としてのみ意味化されるというところにある。つまりトランスジェンダー排除を主張する若い世代のフェミニストはセックスを生物学的な性、ジェンダーを社会・文化的に規定された性であるとともに性別固定観念を意味する用語として定義して使用しない。そしてセックスの純粋性と絶対性を主張し、ジェンダー解体あるいはジェンダー廃止をフェミニストたちの目標に設定する。女性・男性のような生物学的性による単純な区分には問題がないが、ここに女性性と男性性を指すジェンダー(社会文化的な性)が付け加わることによって女性が二等市民になって抑圧されるようになったという認識だ。「女性はかくあるべき」「女性はこれこれの存在だ」というふうに、あらゆる規定がジェンダーの一環として扱われることによって、女性とは何/誰なのかを問う時、ジェンダー観点に基づいた答え――例えばピンクが好きだとか髪が長いとかスカートを好んで着るのが女性だ――は、それ自体として女性嫌悪的なものになってしまう。許容可能な答えはただ「XX染色体に子宮や膣を持っていて、エストロゲンが分泌される人が女性」というものだけだ。このようにTERFはセックスとジェンダーの概念的区分を通して「真なる」女性と「偽物の」女性を区分し、二つのセックスと二つのジェンダーの一対一対応を仮定することで、支配的ジェンダー規範に不一致する多くの多様な体を排除している。」(228‐229頁)
 このようなTERFにとって、性別とは「感じ」「気分」「信念」ではなく生物学的な領域にのみあり、「ジェンダー論」は、女性抑圧的な現実を見ることのできない政治的正しさに酔った人々くらいが信じるであろう虚構的な話であるとみなされる(229頁)。そのような観点から、TERFの主張と、脱コルセット実践、女性安全言説が重なるとイ・ヒョミンは指摘する。TERFにとって「トランス女性は「わたしたち」があれほど脱ごうとしたコルセットを再び拾って着ることを通してジェンダーを再生産し、脱コルセット実践を無意味にする」(231頁)ということだ。同時に、トイレやスポーツ競技の場に「男性が侵入する」というレトリックを動員して、トランスジェンダーに対して「潜在的犯罪者」の烙印を押す言説を展開する。
 そのようなセックスを自然化し、ジェンダー二分法擁護を主張するTERFの言説は保守プロテスタントの反同性愛運動、嫌悪扇動と出会う。「TERFは保守プロテスタントを出処にする反同性愛宣伝物や主張を積極的に参考し引用しつつ、トランスジェンダー/クィアに対する差別と嫌悪を再生産する。」(232頁)韓国の保守プロテスタントは「ジェンダー」を批判することに力を注いできた。つまりジェンダー平等(gender equality)ではなく両性平等(sex equality)を主張し、「二つの性」という土台を維持することに全力を注いでいる。保守プロテスタントは、「ジェンダー平等政策が施行されれば、トランスジェンダーの性別訂正が認められれば、難民を受け入れれば、「女性たちの安全が深刻な威嚇を受ける」という言説戦略を一貫してとってきた。」(233頁)この論理がTERFを経由して拡散され、トランス嫌悪言説はより力を持つことになる(トランス嫌悪言説だけではなく、ゲイ男性とエイズ患者に対する嫌悪言説も再生産される)。このような保守プロテスタント勢力の議論を栄養素にし、フェミニズムはクィア、移住、障害、環境、動物のような他のイシューと出会っても混じってもならないというTERFの議論の仕方が、どうして「ラディカル」でありうるのかとイ・ヒョミンは問う。
「抑圧のヒエラルキーを想定し、性差別主義をその頂点に置くTERFの主張は全く急進的ではなく、また政治的でもない。フェミニズムは少数者差別に反対する理論であると同時に実践であるがゆえに道徳的かつ倫理的な次元で他の少数者たちと連帯する必要があるというふうな単純な主張をしたいのではない。そもそも混じっていて、分離できない諸問題であるがゆえに共に行かないとならないということだ。」(237)
 そしてTERF批判は決して2010年代以降のみを対象にすることはできず、批判のためには「若いフェミニストが云々」というクリシェに陥るのではなく、自分たちが当然視している根深い土台に向かって(つまり韓国社会に広く根付く少数者差別に対して)、そして自分自身への省察へ向かわねばならないと主張する。
3.まとめ
 以上のように、二つの論考をまとめることで、2020年代の韓国フェミニズムにおけるTERF批判を紹介した。『文化科学』の特集には、趙慶喜「ポスト植民フェミニズムの(再)召喚――1990年代在日女性たちの「慰安婦」運動とアイデンティティの政治」という論文も掲載されている。それは独自的にフェミニズムの場を開いた在日朝鮮人女性たちの行為性を浮き彫りにし、それを「韓日間の「媒介」や「架橋」ではないやり方で東アジアのフェミニズムに位置づけ」、「「K文学の日本的受容」や「韓日間女性連帯」などの国民的ナラティブの代わりに、その連帯の差異空間(in-between)におけるポスト植民フェミニズムを模索してきた在日女性たちの実践、そしてかれらと日本社会の遭遇と行き違いの瞬間を明らかにする」(116頁)という論考だ。重要な論考であるが、本記事の目的とずれるのでこれ以上は議論しない(韓国フェミニズムというとき、慰安婦問題に関連して積み重ねられてきた議論からわたしたちが学ぶべきことはかなり多いであろうし、幸いなことに多くの論考と資料が日本語に翻訳紹介されている)。また現代中国フェミニズム運動の紹介や、フェミニズムに関するイメージ表現、ウェブトゥーン分析など、関連する論考が掲載されているが、それにも触れない(特集外にチョムスキーのインタビューやエスポジトの翻訳もある)。ただ、日本における韓国フェミニズムに対する関心の拡大に対して内実を占める議論の紹介が追い付いていない状況の中において、とりわけ韓国内のTERF批判を、ノート段階であれ日本語空間に提出することは、関心のある方に多少は役立つのではないかと考える。
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left-stand-homerun · 3 years
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「トランス叢書」にみる韓国現代フェミニズム運動の理論的展開 ――「トランス叢書」第一巻『両性平等に反対する』の紹介
2021年3月24日 影本剛 1.トランス叢書について このかん日本における韓国のフェミニズム運動および文学への関心が高まっていると言われる。しかし理論的展開については、おそらく読んでいる人は多いのであろうが、日本語でまとまった紹介を見かけていない(私が知らないだけかもしれないが)。本稿では私がいくつか韓国の同時代書籍を読んだ中で、とりわけ強い印象を残した「トランス叢書」(既刊四冊)について紹介し、運動と理論の展開の一断面を書いてみたい。この叢書の筆者たちは運動現場のみならず新聞や雑誌のコラムなどにもよく登場するので、現代韓国の思想や運動に関心のある方ならば見聞きしたことがあるだろう。韓国で議論されている思想や運動のスペクトラムの幅を把握するためには四冊全てを横断的に紹介する必要があるが、この記事をいざ書いてみて、かなり省略したにもかかわらず長文になってしまったことと、全く日本語で紹介されていない状況においてはある程度引用文も必要だろうと判断し、今回は第一巻に限定して紹介したい。 この叢書は、「トランス研究会」に集まった人々が論考を寄せて発行しているから「トランス叢書」という名前であるが、その意図は以下のようなものだ。韓国語の発音ではtransは「トゥレンス」程度になるが、あえて日本語風の英語発音である「トランス」を使用する理由として、韓国の近代が日本帝国主義と米国の混在だという現実を想起させようとする脱植民の努力を逆説的に表現した、とのことだ。今回は論じない三冊の題名は、第二巻『韓国男性を分析する』、第三巻『被害と加害のフェミニズム』、第四巻『ミートゥーの政治学』である。第二巻は二〇一一年に出された『男性性とジェンダー』という論集の改訂版である。第三巻は「被害者中心主義」と「二次加害」に対する言説を批判的に考察することでフェミニズム政治学の射程の広さと深さの最大値を確認させてくれる本である。第四巻は安煕正前忠清南道知事への性暴力告発以降、安煕正と彼の権力を必要とするエリート集団がありとあらゆる手段をとって法廷で性暴力を「不倫関係」へと、つまり「道義的にはアウトだが法的にはセーフ」というストーリー制作をいかに試みたのかが徹底的に分析されている。なお、第四巻「ミートゥーの政治学」は『韓国フェミニズムと私たち』(ダバブックス、二〇一九)に紹介されており(一三四頁)、チェックされた方もいると思う。以下では第一巻『両性平等に反対する』の内容と目次構成を紹介し、簡単な要約と論点を記していきたい。 2.『両性平等に反対する』の構成と序文 『両性平等に反対する』の目次は以下のようだ。 チョン・ヒジン「序文 女性主義は両性平等か?」 チョン・ヒジン「両性平等に反対する」 ルイン「淫乱と暴力を考え直す」 クォンキム・ヒョンヨン「未成年者擬制レイプ、何を保護するのか」 リュ・ジニ「かれらがただ一つ理解する言葉、メガリアとミラーリング」 ハン・チェユン「なぜ韓国プロテスタントは「同性愛嫌悪」を必要とするのか」 「両性平等」は一見よいものに聞こえるのでなぜ反対するのかと疑問を抱かれるかもしれないが、まず韓国における「両性平等」が何を意味するものかについて確認することから開始しよう。キム・ウンシルの簡潔な整理を参照すれば、「例えば韓国の女性政策が両性平等政策なのか性平等政策なのかの問題はとても先鋭な論争対象だ。両性平等はジェンダー平等という言葉を理解するのが困難な政府公務員たちのために、二〇〇五年に女性家族部が考案した用語だ。」そして二〇一四年の「女性発展基本法」改正過程で「性平等基本法」案は退けられ、「両性平等基本法」が政策用語として公式化された。(キム・ウンシル「わたしは女性ではないのですか?――「女性」範疇をめぐるフェミニズムの論争」『コロナ時代のフェミニズム』ヒューマニスト、二〇二〇、二七頁)以上のように、「両性平等」という用語には、ジェンダー平等を拒む「ただ二つだけの性」の平等という意味が込められている。保守プロテスタントが「両性平等Yes、性平等No、ジェンダーOut」と叫び「家族解体フェミニズムに反対」する集会を開くように、「両性平等」は「ジェンダー平等」と全く異なる意味として概念化されているのだ。つまり「両性平等」の含意は男性と女性の「平等な結婚生活」に縮小しているのだ(クォンキム・ヒョンヨン『二度とそれ以前には戻らないだろう』ヒューマニスト、二〇一九、二四三頁を参照)。 では具体的に『両性平等に反対する』を見ていこう。チョン・ヒジンの「序文 女性主義は両性平等なのか?」は本書の射程を簡潔に論じている(この叢書全体の特徴であるが、各序文が各巻所収論文の要約が丁寧にされており、ありがたい)。羅蕙錫の「わたしたちが批判を受けないのであれば何によって歴史を満たすのか」という言葉が引用されるように(一九頁)、相互的信頼による批判と論争を期待する問題提起の書であることも明瞭である。目標は「女性主義(feminism)=両性平等」という誤解に対する具体的分析である(七頁)。 「さいきん「両性平等」という言葉ほど反対陣営によって完全に専有された場合はない。その効果も莫大だった。」 「この本は両性平等言説が対照的な論理として誤用される現実に対する問題提起とともに、論理自体の矛盾に注目する。また長いあいだ「先送りされてきた」、あるいは当然なこととして流通してきた韓国女性主���の主要な認識論である両性平等の実態を分析しようとする。」(八頁) フェミニズムはいまだに女性中心主義や女性特権主義という視線から自由ではないのではないかと、両性平等は近代的自由主義と普遍主義(女性も人間)に基盤をおく言説なのではないかと、そして「両性平等」がむしろ女性の努力と抵抗を妨害するのではないかと問題提起をする。女性主義はジェンダーという社会的矛盾を読解することをもって、非可視化されたジェンダーを露わにして抵抗するが、その過程がジェンダーを当然視し、固定する没歴史的やり方になってはならないのだ(一一頁)。 「筆者たちは、この本であつかう同時代韓国社会のイシューは、既存の両性平等パラダイムでは包括できない現実であると見るのであり、両性平等的思惟の軌道の内外を行き来し、別の認識論的道具を動員し(たとえば脱植民地主義)、既存の論争構図を変化させようとする。筆者たちはアイデンティティ・ポリティクス、(男性中心の)平等、女性の社会進出を越え、社会正義としての女性主義を追求する。/女性主義は男性と対立し、男性を代替し、男性に対抗する概念ではなく、新しい社会への移行を提案する思惟だ。女性主義は家父長制の反対言説(counter discourse)ではなく、そうなることもできない。多様な認識者の位置を現わし、その立場と条件を競合する思惟だ。この本がそのような旅程の里程標にならんことを望む。」(一一‐一二頁)  なお、本書の編者であるチョン・ヒジンは、さっこんの韓国フェミニズムへの関心の高まりの中で再読されているであろう『韓国女性人権運動史』(明石書店、二〇〇四、山下英愛訳)の編者としても既に日本で知られている。 3.「両性」と「平等」を問い直す チョン・ヒジン「両性平等に反対する」では、両性概念ではほとんどの「女性問題」が解釈できず、両性平等言説では分析・認識・理解することのできない韓国社会の多様な両性関連イシューが論じられる(二三頁)。階級役割や人種役割という表現はないが「性役割」という表現が存在し、「このような単語の存在は、性差別がいかに自然な日常の政治なのか、ジェンダーがいかに認識しにくい社会的構造なのか、いかに脱政治化されているのかを見せてくれる。」(二四頁)そしてオンラインを中心としたミソジニーに反対する女性たちの対応を、あたかもミソジニーと対称的な「男性嫌悪」と命名する思考回路は、性の区別を社会的抑圧制度ではなく対称集団とみなす思考回路が絶頂に達したことを示す。(なお、チョン・ヒジンは別の文章でミソジニーを女性嫌悪と翻訳すると、あたかも対称的であるかのような「男性嫌悪」との対立構図がつくられてしまうと指摘したことがある。チョン・ヒジン「女性が軍隊に行けば平等になるのか」『よりましな論争をする権利』ヒューマニスト、二〇一八、二二二頁の脚注二番)また、両性を二分法的にみる思考の核心的問題は三つあり、第一に位階を対称に偽装し社会的不平等を隠蔽すること、第二に対立する二項の他に異なる存在あるいは異なる思考方法の出現を原則的に封鎖すること。第三に男性と女性の区分は二分法的思考方式の原型として、あらゆる言語のモデル、尺度、起源、典型として人類を支配してきたことにあると指摘する。(三〇頁) そして「平等」について批判的検討を進める。 「女性が男性の基準にあわせる、男性と同じ対応を受けるという意味の平等は、それを実現するさいにも無数の困難が伴うが、このような意味の平等は、とりわけ既得権勢力と等しくなることを意味するから問題だ。女性主義は男性と等しくなること(「高くなること」)ではなく既存の社会を変化させることだ。/現実において平等は男女全てにとってウィンウィンゲームになりえない。女性の地位変化が男性の地位変化に連結する場合はないからだ。別の階級と人種の女性が既存の女性の位置を占める。」(四六頁) 「平等は別の人と等しくなること(sameness)ではなく、一人の人として他の者たちと公正な待遇(fairness)を受けることだ。〔中略〕また平等は、「適用」されえないものであり、そうであってもならない。適用の主体と対象の区別自体がまさに政治の始まりだ。」(四七頁) 「ジェンダー平等(gender equality)の意味は諸性別のあいだの平等や性別制度による差別是正を意味するのであり、両性間の平等ではない。私も戦略的次元でときおり両性平等という用語を使うが、両性平等は女性主義の錨だ。女性主義の目的のうちの一つは社会正義として性差別を撤廃することであり、男女平等を実現することではない。」(四九頁) そして言葉のミラーリングをこえる「労働の「交換」としてのミラーリング」こそ自分の考える「調和する女性主義」であると主張し、「これまで女性主義は性別分業に反対してきたが、じっさい性別分業がきちんと守られていれば女性たちの重労働は軽減されるであろう」(五五頁)という。「女性の社会進出が両性平等ではない。女性主義のパラダイムは「平等」からケア、差異に対する感受性、社会正義、持続可能な地球に対する責任などへと旧劇に移動中だ。」(五五頁)男性には「良心の自由」より「良心の義務」がより重要であり、「見ないことにする政治」が人間本姓として固定化されてしまうのではないかと恐れると述べ、社会は女性主義からオルタナティブな生の知恵を求めねばならないと論を閉じる。 4.クィア言説と犯罪言説を解きほぐす 次にルインの「淫乱と暴力を考え直す―〇〇地検長事件とクィア犯罪学」に移ろう。この論考は、二〇一四年八月に飲食店の前で自慰をして「公然淫乱罪」で逮捕された〇〇〇地検長の事例から始まる。この事件は有力国会議員によって「露出男」として、つまり一般通念的に命名され、理解と議論の方向性を規定(キュレーティング)した(六〇頁)。ルインはこれに対し「露出男」とは異なるキュレーティングをしてみようと提案する。 「社会通念に従う正誤の判断が、ジェンダーとセクシュアリティをどのように構成し、LGBT/クィアの文脈でいかなる意味になるのか、その通念が何を隠蔽し、いかなる秩序を維持しようとするのかを検討したい。このためにわたしは〇〇〇前地検長が行ったと知られる公共の場における性行為が犯罪になるやり方を、クィア犯罪学によって読解しようと思う。」(六二‐三頁) 「本稿で提起したい問いのように、彼の行動をめぐる論争がクィア政治学といかに出会い相互影響を与えているのかが本稿の争点だ。とりわけ彼の淫乱行為が犯罪行為へと転換される過程はLGBT/クィアの歴史と接点を形成する「慣れ親しんだ」瞬間だという点で、彼がいかなる範疇の人間であれ、クィア犯罪学/クィア政治学でこの事件を扱うことがとても重要だ。」(六三‐四)  その問いに答えるためにまず韓国においてクィアがどのように歴史的に登場してきたかが整理される。特に重要なのは一九六〇年代、軍事独裁時代にクィアたちがどう報道されたかである。つまり風紀紊乱や事件事故として、犯罪を媒介にしてクィアが登場したのだ。ただ、当時はトランスジェンダーや非異性愛者は、風紀紊乱や軽犯罪など多様な罪名で逮捕されたとしても、存在自体を犯罪とする法も通念もなかった。しかし朴正煕政権の男性を軍人するというプロジェクトは、女性と男性の区分を明確化し、軍人になりうる男性身体の条件を規定する二元ジェンダー規範を支配規範化するものだった。長髪取り締まりは性別がわからない男性を規制するものだと明示された。つまりトランスジェンダーは社会的規制・統治と緊密に結びついた犯罪形態として報道に登場し、その過程を通して社会的に可視化したのだ。ここで「��ィア犯罪学」とは何かが以下の引用のように提示される。 「クィア犯罪学はクィア政治学の流れとクィアが歴史的に登場し認識される交差点に位置する。クィア犯罪学の議論は一九九〇年代中盤から登場したが二〇一〇年代に入って本格化・活発化した。それゆえクィア犯罪学をいかに規定するかは依然として論争的であり、最低限の合意がされた概念はないが、先に説明したようにクィアが既存の支配権力を問題視する仕方と軌を一にしていることは明らかだ。であったとしても、クィア犯罪学を説明するためになんらかの概念を採択するのであれば、LGBT/クィアを「犯罪学論議の周辺から中心へと移動させ、クィアを抑圧する道具として犯罪法システムが書かれた方法を調査し、犯罪法システムに挑戦」する学問、というほどである。」(七一頁)  ここでは英語圏の諸文献(Carrie Buist, Emily Lenning, “Queer Criminology”など)が引かれて理論的な議論がなされているが、ルインはフーコーとバトラーの批評critique概念を用いて展開していく。それは事件に対して正誤を語るのではなく、事件を分析する過程で隠蔽されるもの、当然視されるもの、隠蔽と当然視の態度によって発生する暴力と、それを可能にする権力構造を明るみに出す作業のことだ。そして問うべきは、〇〇〇地検長が犯罪者なのか、いかなる処罰をすべきなのか、ではなく「公共の場で性行為を犯罪として処罰することが何を意味するのか、このような処罰や論乱が公共性をいかに構成するのか、そしてこのあらゆる論乱は何を隠蔽して保護するのかを問わねばならない」(七四頁)というのだ。  韓国における性犯罪の加害者が非トランス男性である場合、多様な理由が情状酌量され、比較的軽い処罰になることを指摘しつつも、以下のように問題提起する。「性/暴力を問題にしてきちんと処罰することと、淫乱行為それ自体を暴力に還元し性暴力犯罪に準じて論ずることは全く異なる問題だ。」(七六頁)そして韓国の最高裁判所は、公共の場における淫乱行為を「健全な社会通念」や「善良な性的道義観念」に反するとする判決を何度も繰り返しており、それは社会の支配規範を構成してきた。「淫乱行為は犯罪であり、それ自体として深刻な暴力」だと解釈する論理は、クィアパレードを健全な社会通念に反する「公然淫乱」であると主張し、告発するという事例においても活用される。また、小児性愛や児童性愛や児童性犯罪事件は、異性愛の脈絡、つまり成人男性加害者と幼い女性被害者という構図があるにもかかわらず、異性愛や二元ジェンダー関係による事件だとは命名されることはないと指摘し、以下のように述べる。 「加害者を性倒錯症あるいは小児性愛症と規定し、精神異常であると、怪物であると追放するだけだ。つまり異性愛と二元ジェンダーはそれ自体としてかなり狭い範疇であるのみならず、犯罪が最も多く発生して暴力が最も頻繁に起こる実践であるのにもかかわらず、犯罪と最も無関係なものとして規定される。より正確にいえば、犯罪と関連付けられる時は、異性愛を削除した「異常」セクシュアリティ犯罪、病理的幻想、(精神)障害と関連する行為としてのみ命名される。」(八八頁) 「公共の場での性行為を性倒錯症として命名する作業は、その行為がじっさいに「倒錯」なのか「犯罪」なのかが重要なのではなく、異性愛を安全に保護し異性愛を認識から消して隠蔽するあためにつくられた作為的な診断行為だ。」(八八頁) つまり、犯罪を「倒錯」へと追いやることで異性愛‐ジェンダー構造は成功的に保護されるということだ。 5.性の問いを権力関係から分離させない 次の論考はクォンキム・ヒョンヨン「未成年者擬制強かん、何を保護するのか」だ。擬制強かんとは「同意有無に関係なく強かん」とみなし処罰する法条項のことであり、英語のStatutory Rapeだ。韓国の未成年者擬制強かんが適用される年齢は一三歳未満であり、世界で一番低い年齢に属する(日本の法体系といかに重なりいかに異なるのかを調査すればより立体的な紹介になるであろう)。韓国社会で強かんは長い間貞操の問題として思われ来たが、一九九〇年代以降になって個人の性的自己決定権の侵害問題として理解されはじめた。当初、父が「娘の純潔」を保護するためにつくられたこの法は、二〇世紀に入り、未成年者の性を規制しようとするプロテスタントと、訓育名目で成人が子どもや青少年に性的接近することを封鎖せねばならないと主張するフェミニストによって注目された。この相反する二つの立場は、共通点がある。つまり成人と未成年者を性的に中立的存在と仮定するという点だ。しかし現実はそうではない。 「多くの場合、問題は暴力自体ではなく規範的ジェンダーを実践したかどうかによって評価基準が異なるものになる。/他の犯罪と異なり、性暴力犯罪において捜査官と裁判官たちは被害者の状況を絶えず問題視する。」(一〇〇‐一頁) これは服装、外見が問題視されるということだが、被害者の状況を問わないのがただ一つ年齢だ。児童性暴力犯罪統計をみれば、一三歳未満の被害者の性別は女性八七・八%、男性一二・二%だ。しかし一三‐二〇歳の間では男性被害者は四・二%になる。同時に性暴力犯罪者のうち一八歳未満の男性青少年は二〇%に達する。「つまり一三‐二〇歳の女性青少年たちは性暴力犯罪被害者になる可能性、同じ年代の男性青少年たちは加害者になる可能性が高いということだ。」(一〇二頁)にもかかわらず、擬制強かんの報道は性比が等しく、「両性平等という概念が現実を隠す代表的事例」(一〇一頁)になっている。問いは、年齢が問題を��しているのではないか、ということだ。擬制強かんの議論が出てくるのは、同意決定能力が年齢によって段階的に構築されるという信頼体系に基づく。「重要な点は性暴力において同意有無は個別事件では重要だが、性暴力という社会問題を認識させるさいには不足した概念であると理解すべきである」。(一〇四頁)また、刑法一三歳、児童福祉法一八歳、青少年保護法一九歳など、法によっても何歳以下を未成年と見なすかは異なっている。年齢によるこのような分類は直線的時間感と肉体に対する精神の優越性を強調する近代的主体論に根拠を置く認識論的信念を規範として前提する。そして韓国において擬制強かん法が果たして子どもを保護する法なのかを問う。 「韓国は全世界で最も低い水準の年齢制限を置いているだけではなく、行為者は、被害者が一三歳未満であることを知らなかったり被害者が年齢をごまかしたと主張すれば処罰を免れる。二〇一一年水原地裁刑事一一部裁判部は一二歳の小学生を成人男性三名が協同し強かんしたにもかかかわらず解釈の問題ゆえに無罪判決を下した。被害者が事件後、再びモーテルに戻って加害者たちにタクシー代をねだり、行為途中に呻吟する声を出すなど同意に準ずる意志表現をしたという理由だ。」「同意あるいは認知の有無を問わず処罰するという原則は適用されないのだ。」(一一六頁) 「児童・青少年を保育および教育、保護観護、医療行為、職業的必要ゆえに会う成年たちが児童・青少年に性的に接近する行為をすべて優越的地位を乱用した行為だと認定するならば、強いて未成年者擬制強かん法を適用する必要がない。/問題は欲求ではなく欲求の実現を可能にする権力だ。暴行、脅迫、威力、位階は私たちの社会が権力の不法的な使用目録として合意してきたものだ。個人間の同等な関係を妨害する社会的な各種の位階を除去するとき、私たちは「自由」な関係を結ぶことができる。」(一一七‐八頁) 「未成年者擬制強かんの保護法益は青少年の「健康な性的発育」ではなく青少年の「性的自己決定権」であるべきだ。この時性的自己決定権の概念を「セックスする権利」とのみ理解してはならない。性交としてのセックスは自分の欲望と快楽、苦痛とのみ関係するのではなく、必ず他人が関与している。バトラーの主張通りに私たちは「私たちの快楽と苦痛に関して常に相互依存的に存在し、これが人間の脆弱性の根本」なのだ。性的自己決定権は性的主体化(subjectivation)過程を経験する権利、つまり具体的関係性の中で自分の身体を社会的な身体として構成していく権利だ。未成年者たちがはく奪されたのはセックスをする権利ではなく、セックスという行為を決定し責任を負うことができる権利、つまり性的主体になる権利をはく奪されたのだ。」(一二〇‐一頁) また選挙年齢と擬制強かん年齢基準の差は韓国が最大であり、「韓国の青少年たちは政治経済的権利から最も排除されていつつも、男性中心の結婚制度の外の性行為においてのみ法的権利を行使できる。」(一二二頁)なんら権利が与えられていないのに、ただ性に対してのみ同意有無を、満一三歳以降から決定できるということは何を意味するのか。 「父母あるいは成人に対する経済的依存こそが性的自己決定に有害な条件だ。それゆえ未成年者の自由権を、制限するやり方ではなく保障するようにしようとすれば、この問題を青少年の身体的・精神的に「健全な」発達過程の問題という発想から捨てねばならない。むしろより効果的で現実的な性教育を受ける権利、未成年者の安寧と福祉のためによりよい教育環境と政治制度を要求する権利、生活可能な最低賃金を受ける権利などが未成年者の性的自己決定権を可能にする条件だ。擬制強かん年齢上向の可否に対する討論がしばしば「最近の子どもたち」の性的発育に対する(かなり小児性愛的欲望のように聞こえる)事例にはまり込んだり、過去の根深い悪習である早婚を未成年者の性を尊重する事例として誤解するというひどい状況にはまり込む理由は、性を他の社会的関係から独立的で自律的な変数として見なすからだ。」(一二三頁)  このように閉じられる議論は、セックスの問題ではなく権力の問題として、年齢そのものではなく年齢によって権威が分配される政治経済学の条件を問わねばならない、ということだ。「選挙権の年齢を下げ、最低賃金を施行し、擬制強かん年齢を上げる」(一二四頁)とき、擬制強かん法を、よりより生を可能にする公的介入の契機として考えることができるのだ。 6.保守プロテスタントはなぜ同性愛嫌悪を必要とするのか 次の論考はリュ・ジニ「かれらが唯一理解する言葉、メガリアとミラーリング――ポスト女性主体の誕生に寄せて」は、ミラーリングに対する状況の整理とミラーリングはヘイトスピーチではなく新しい表現であると評価していく論考であるが、紹介は省略する。 最後の論考はハン・チェウン「なぜ韓国プロテスタントは「同性愛嫌悪」を必要とするのか?」である。この論考の問題提起は以下のようなものだ。韓国の保守プロテスタントはなぜ二〇〇七年に差別禁止法反対を主導したか? なぜ二〇一〇年から反同性愛運動を組織的に展開することになったのか? なぜ二〇一五年になってクィアパレードに対する数万人の反対集会を開くようになったのか? なぜいま同性愛を嫌悪することにかくも総力を傾けるのか? 「韓国プロテスタントにのしかかってきた危機は、単純な信徒数の減少ではなく、はるかに深い底からの崩壊という深刻なものであり、韓国プロテスタントが政治勢力化を夢見て性的少数者の人権運動と正面から出会う場面を発見することになるだろう。」(一五八頁) 韓国の保守プロテスタントが反同性愛運動を積極的に展開した最初の時点は二〇〇七年だ。プロテスタント信者であった金泳三大統領に続く金大中大統領はカトリックであり、反共主義を根幹にする保守プロテスタントの立場からは金大中の太陽政策などは受け入れがたいものだった。また同時に有名牧師の横領事件や教会牧師世襲など、保守プロテスタントに対する社会的信頼も墜落した。盧武鉉大統領の当選(二〇〇二年)は保守プロテスタントが極右政治勢力と本格的に手を結ぶきっかけになり、星条旗と太極旗を掲げた集会を開き、危機をあおっていく。 保守プロテスタントが二〇〇七年に差別禁止法反対を鮮明にした理由は同性愛を罪と教えると犯罪になり、そのような国家の弾圧を通して境界や教会系の学校の自主性が奪われる、というものだった。 「そもそも差別禁止法に最も反対していたのは、この法によって労働者の採用と解雇に制約を受けることになる「全国経済人連絡会」と「韓国経営者総協会」のような財界であったという点だ。それゆえこの差別禁止法がプロテスタント界の反対にぶつかったのは予想できないことだった。」(一六五頁) これは法務部〔法務省〕も予想していなかったと思われる。(一六五頁脚注一二番) 二〇一〇年に入ると、韓国のドラマ史上、初めて男性同性愛者を主人公にした「人生は美しい」(SBS)が放映されたが、これに抗議する「正しい性文化のための国民連合」による新聞広告が出された。その中身は「「人生は美しい」をみて「ゲイ」になった私の息子がAIDSで死ねばSBSは責任を取れ」という題名の声明書だった。また、二〇一〇年一〇月、国家人権委員会が同性間性行為を性暴力と同一視する軍刑法九二条に違憲の疑いを表明し、憲法裁判所に改正の勧告案を提出した。「反同性愛運動側は焦点を変えて軍隊で同性愛を許容すれば軍隊の基軸が壊れて戦闘力が弱まり、北にのみ有利になり、けっきょく赤化統一されると述べ、安保問題と〔反同性愛運動を〕結びつけた。」(一七一頁)このように二〇一〇年代の政治的イシューが保守プロテスタントにとっていかに受け取られたのかが一つ一つ語られる。 また保守プロテスタントの関心は朝鮮民主主義人民共和国での宣教であり、教団別に宣教地域の分割もしていた。朴槿恵の有名な発言である「統一は最高(テバク)」の背景でもある。また同性愛者に対する嫌悪は、信仰から出たものというよりは、恐怖と嫌悪を通して勢力を拡大する目的によって行われた。「教会を攻撃したい「外部人」を想像することだけでも、ただちに教会に「苦難」がぶつかってきたように設定できる。そしてこの「苦難」はともすれば神がわたしたちを「試される」ことでもありうる。」(一八〇頁) 同性愛を愛や生、アイデンティティではなく性行為としてのみ扱う時、簡単に社会的通念にしたがって道徳的な非難対象になる。政治的に優位を占めたいときに道徳的・倫理的な優越さを見せつけることはありふれた手法だ。つまり「反同性愛をさけぶ者たちは同性愛を真に嫌悪しているのではなく、「同性愛嫌悪」を切実に必要とするのだ。」(一八九頁)そして、性的マイノリティは、「大衆が簡単に思い浮かべることができるステレオタイプのイメージを帯びたありありとした「他者」であると同時に、いかなる抑圧にも屈せず激烈で強靭に抵抗することが明らかな「集団」でもある。かくも素晴らしい「敵」は決して逃すことはできない。このような点で二〇〇〇年代後半に政治勢力化を夢見るプロテスタントと人権増進を夢見る性的少数者の衝突は必然的な出来事だ。」(一八九‐九〇頁)誰がなぜ嫌悪を必要としているのか、それを問わねばならないのだ。 7.まとめ  長々と書いてきたが、「両性平等」という用語が保守的に占有されている中、「両性平等」という用語に込めることのできない諸現場から、現場で使える別の概念をつくっていくために、絶えず理論や歴史を参照し、新たな接合を通して自分たちの力になる議論を模索する諸事例を見ることができる。そして個別化するのではなく社会的文脈の中で事件を解釈するという強い意志も表示されている。ここではトランス叢書第三巻『被害と加害のフェミニズム』の序文から、フェミニズムの展望を描く部分を引用しよう。いかなる磁場で議論せねばならないかが浮き彫りにされている部分だ。 「フェミニズム運動は、一体いつまで被害経験の共通性のなかに意識高揚の「燃料」を求め、怒り、暴露するというやり方を繰り返さなければならないのだろうか。いつも同じ所を堂々巡りするような感を拭えない。問題のある数多の個人を名指し、加害事例のリストを増やし、被害の証拠を収集し、お互いの抑圧された経験の共通性を掘り下げていくことは、結局、女性を被害という現実に押しとどめてしまうのではないだろうか。被抑圧者のアイデンティティが本質主義に出会うとき、解放への展望は失われる。そうなれば、私たちにできることは、せいぜい被抑圧の条件を持ち寄って一緒に暮らす臨時避難所に過ぎない。/「被害者の味方」をして加害者を処罰することは、フェミニズムの目標でも展望でもない。それは単に法治国家の常識であるにすぎない。そのために被害者が人生を賭けなければならないような社会なら、希望はない。フェミニズムは加害者を処罰し、被害者を保護しようという思想ではない。フェミニズムはそれ以上のものだ。フェミニズムはむしろ、被害と加害という位置が与えられる方法そのものに関心を持つのである。(クォンキム・ヒョンヨン「序文」『被害と加害のフェミニズム』教養人、二〇一八、九‐一〇頁) トランス叢書の議論は閉じられておらず、信頼に基づいた批判が待たれている。日本の文脈に移植して直ちに使える議論だとは言えないだろうが、議論を展開していく方法と、何を前提にして議論を始めるべきなのかを思い切って設定すること、そして現場と分離不可能な記述によるエンパワメントの可能性は実感できるのではないかと考える。
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left-stand-homerun · 3 years
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鎮安通信(1)
2021年2月11日
H
私は韓国に住んでいるのだが、ソウルではなく鎮安(ジナン)という山間地域に数年前から移り住んでいる。 レフトスタンドホームランを始めた友人たちに、何か韓国のことを書いてくれと言われて引き受けたのだが、 いざ書きはじめてみると、申し訳ないことに韓国のことになっていない。
もちろん韓国についても書くつもりだ。コロナウィルスで思うように移動できないからか、それともそもそも単に散漫な性格のせいなのかもしれないが、思いつくことが、 彼方此方のことになってしまっている。しかも内容的には多分ほとんど個人的な出会いを手掛かりにしたことになりそうである。そんなこともあるでしょうと言われれば何とも言い返せないし、人が読んで面白いものなのか正直分からない。
最も重要だがレフトの方向にちゃんと飛ぶのか心配でもある。間違えて流し打ちをしてしまわないように気をつけるが(右打ちなので)、ホームランにはなりそうにない。セイフティーバントかバスターという感じかもしれない。
ともかく、こういうことを書いているということは、後から書き足しているということだ。とりあえず書きはじめたらそうなってしまったというお断りである。例えば、先日のドイツからのレポートでタンザニアのことが書かれているのを見て、昔の記憶が蘇ってきた。韓国のことを書こうとしていたのにもかかわらず、である。
その昔、大学主催のタンザニアでのボランティア体験ツアーに参加したのだが、ツアー終了後 、里帰りを兼ねて一行に参加していたケニア出身の友人の誘いでケニアに居残った。ケニアはタンザニアの北に位置する隣国である。そして私たちの旅程もケニアの首都ナイロビの国際空港を経由していたからである。 確かツアーの日程は約一ヶ月で、そのあとケニアに二ヶ月ほど滞在したと思う。本来は二週間の予定が、友人の実家の村から予約の再確認ができずに帰りの便に乗れなかったのだ。結局、飛行機に乗り遅れてから数週間というもの、 ほとんどの日程を友人の兄弟姉妹(確か7、8人はゆうにいた)訪問の旅に同行して家から家へと ケニア西部(ヴィクトリア湖近辺)をひたすら車に乗って旅した 。
友人はルオ族である。族・部族というといかにも未開のような響きだがケニアで四番目に大きい民族言語グループで、いかなる意味でも未開ではない。しかし、その地域は少なくとも当時はかなり田舎だったし、ケニアの公用語である英語もスワヒリ語もあまり通じなかった。全く関係ないがオバマの父親はルオである。
携帯はもちろんのことインターネットもまだ普及していなかった。今思えば夢のような時代のことだ。夢というのは良かったという意味ではない。当然ながら個人的にはいい経験だったが、思えばあまりにも今の私たちの世界とはかけ離れていて現実にあったこととは思えないという意味だ。
そんな旅路でのこと。友人の遠縁の親戚の村を訪れた。そこでは宿泊せずお昼をご馳走になった。半農半牧であるルオの食事は、トウモロコシの粉を煮て餅状に捏ねたものが主食である。それを掌で小さくちぎってこねておかずを包んで食べる。よく出てきたおかずは、トマトとケールの炒め物だった。ご馳走にはそれに牛や羊などの家畜の肉か、おそらくヴィクトリア湖から来た淡水魚がついていた。煮干しのスープのようなものもあった。味は大まかに言ってスパイスのないインド料理という感じだ。いつも美味しく頂いた。
その日、ご馳走されたのは羊だったような記憶があるが定かではない。ともかく食後に歓談していると、村で一番の年寄りが私に会いたがっているという。案内されて彼の家に行くと、80代だろうか、見るからに古老といった雰囲気の老人が待っていた。一通り挨拶をした後、老人は友人の通訳を通じてこんなことを言った。
むかし中国人たちを見た。彼らは賢かった。建設現場で足場に登って身軽に働いていた……。
話を聞いてみると、若かりし頃、どうやら彼はイギリス軍によって北アフリカ戦線に動員されていたのだった。もちろん自分の目の前にいる若造が中国人でないことは老人も聞いて知っていただろう。思うに、遠くから客人が来たというので、会って 話したかったのかもしれない。語り合う相手もいなくなった遠く離れた場所でのことが思い出されたのだろうか。しかし、私は相手として役不足でうまく受け答えできなかった。
昨年の秋のことである。数年前まで五年ほど住んでいた隣り村の知り合いから電話がかかってきた。彼は私たちと同じく移住者だったが昨年から里長になっていた。 戸籍の翻訳をしてほしいというのだ。
やりとりはこんな具合だった。
—毎年の秋夕(チュソク)に、むかし村に住んでいた縁故のない方々をお祭り(祭祀(チェサ):儒教の法事)しただろう。覚えているか。
—はい。
—その人たちが誰だが誰もわからない。ちゃんと知ってお祭りしたいから戸籍を翻訳してくれないか。お前できるだろ。
—多分、できると思います。いいですよ。
そんなわけで全く見知らぬ数家族の戸籍を翻訳することになった。おそらく法的にいうとダメなことなのだが、 80代にもなる村の老人たちも誰だかわからない昔の村人の戸籍を調べて、どういう人たちなのかを知った上でお祭りしたいという奇特な里長さんを咎める人はまずいないだろう。そんなわけで次回はそこで見えてきたものについて書いてみようと思う。当然ながら身元は特定できないようにである。
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むかし住んでいた家
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右側がトウモロコシでできたウガリ
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となり村の秋
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雲に隠れたキリマンジャロ
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left-stand-homerun · 3 years
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「本物」、「真の」兵役拒否者など存在しない    ――代替服務制度以降の韓国兵役拒否者・忌避者たちの新しい課題
2021年1月29日
影本剛
2018年6月28日、韓国の憲法裁判所(日本には存在しないが、1987年憲法によって創設)は、代替服務制度を含まない兵役法第5条は憲法不合致と判決した。これにより国会は2019年12月31日までに代替服務制度を導入する方向でこの条項を改定せねばならないことになった。しかし憲法裁判所は同時に兵役拒否者の処罰根拠になってきた兵役法88条第1項は憲法に違背しないと判断した。これが意味するのは、「良心的兵役拒否者」と堂々と言える思想的・宗教的背景を持たない、ただ戦争が嫌だ、行きたくないという「兵役忌避者」を選別し、後者は処罰されてもよいという思考だ。つまり、「正当な理由なき入営拒否、いわゆる「兵役忌避者」を処罰する条項は合憲という決定が下されたのだ。兵役拒否者の前に置かれた「良心的」という修辞は兵役忌避者の修飾語としては使用されない。良心的「兵役拒否」に対する論議の場の片隅で、「兵役忌避」の問題はそもそも議論の対象としてすら受け取られなかった。」(シム・アジョン、2020、158頁)憲法裁判所の判決以降の法廷では、信念をもつ「拒否者」と、そうではない「忌避者」の分離が「法廷の言語」でなされていく。
憲法裁判所の判決から4か月後の2018年11月1日、大法院(最高裁判所)が「宗教的信念などの良心的兵役拒否」が正当な事由に該当すると判決した。その判決文では何が「良心」であるかを規定している。「真なる良心による兵役拒否であれば、これは兵役法88条第1項の「正当な事由」に該当する。/良心的兵役拒否においての良心は、その信念が深く、確固としていて、真実でなければならない。信念が深いということは、それが人の内面深くに位置づいているものとして、その者のあらゆる考えと行動に影響を及ぼすということを意味する。生の一部ではなく全部がその信念の影響力の下にあらねばならない。信念が確固としているというのは、それが流動的だとか可変的ではないということを意味し、必ず固定不変であらねばならないものではないが、その信念は明らかな実体を持つものとして、簡単には変わらないものでなければならない。」(シム・アジョン、2020、160‐161頁から再引用。)ここでも、思想的・宗教的に法廷で自らの一貫性を証言できるような人のみが「良心的兵役拒否者」であるという裁判官たちの思考が読み取れる。そのような「限定」は、当然軍隊を管轄する国防部(防衛省に相当)からも発せられた��2019年1月に国防部内で「良心的兵役拒否」という用語の代わりに「宗教的信仰などによる兵役拒否」という用語を使用して論議の的になった。つまり「良心」の意味を宗教的なものに縮小するたくらみだ。
「大義名分を持っていたり社会運動の次元で行う拒否以外にも兵役を拒否する事由の幅は広がってきた。多様な言語を持つ人々の登場によって拒否と忌避の境界が少しづつ壊れてきたのだ。他方で憲法裁判所や大法院における判決以降、兵役拒否の層位が再び変わってことも目に見えてきた。たとえば大学生のころから十年以上社会運動をしたある兵役拒否者は大学の恩師が出廷して「良心」についての証言をしてくれた。にもかかわらず有罪判決を下され、「忌避者」ではない「拒否者」であることを証明する控訴審を続けていった。過去には周辺の知人たちに説明したり宣言をするやり方にとどまっていた兵役拒否の事由が、いまや代替服務という市民権を得るために、法廷の言語ではっきり証明すべき状況になった。」「じっさいに制度が変わる過程は逆説的だ。エホバの証人信者ではない兵役拒否者たちの良心は「真なる」良心ではなくなり、かれらは兵役拒否者でないと、制度外へ押し出される状況であるからだ。」「兵役を拒否する人々はいまもなお監獄に行っている。ともすればこのような状況は「言葉を発しても聞いてもらえない」状況であると言える。代替服務審査委員会の構成員はほとんどが判事、検事、弁護士、教授だ。かれらの前で法の言語ではない自分の言語で良心の真正性を立証することが果たして可能なのか? 審査委員たちが提出せよと求める資料も問題であり、兵役拒否宣言をした以降の活動は活動として認めない、というやり方だ。」(シム・アジョン、2020、166‐8頁)
ここで生じているのは法廷において自らを「真の良心的兵役拒否者」であると証明する作業だ。もちろん思想的・宗教的信念を一貫して持ちつづけている人もいるだろう。しかし、実際に入営通知を受け取ってから軍の問題を考えだしたりとか、かつては軍に肯定的な考えを持っていたとしても考えが変わるであるとか、わたしたちの考えは常に変わりうるものである。このような者たちは自らの一貫性を証明できない。憲法裁判所と大法院での判決以降、法廷で検察が兵役拒否者に問うのは、光州民主化闘争や植民地期の抗日闘争において銃を取った市民たちを否定するのかという尋問である。それを通して、銃を取らない=平和主義者であるかどうかを問うのだ。また、これまで良心的兵役拒否者や、兵役拒否者として国外亡命した者たちの理由として、平和主義的信条や宗教的理由、あるいは性的志向などが取り上げられてきたが、シム・アジョンが指摘するように菜食主義であったり工場的畜産に対する反対も充分兵役拒否の理由になりうる(シム・アジョン、2020、173頁)。しかしそのような可能性は全く議論されていない。
そして法廷で認められうる「真の兵役拒否者」を崇高な者としてとらえる視線には、兵役を避ける理由を堂々と立証できない「忌避者」に対する烙印が含まれている。それは、兵役忌避者であれば何をされてもいい、という社会的常識につながってしまう。「わたしは兵役忌避者ではないが拒否者である」という言葉が社会的に説得力を持ってしまうのであれば、前者は何をされてもいい、差別をされてもいい、社会的烙印として通用してもいい、という意味になる。しかし2018年以降の法廷では、いかに自らを「真の兵役拒否者」であって「偽の兵役拒否者」でないのかを証明することが兵役拒否運動の戦略になってしまうジレンマがあるのだ。
また、2019年11月に大法院は、良心的兵役拒否を主張し入隊しなかった20代男性に懲役刑を確定した。その理由として、「その者が今まで兵役拒否に対する信念を外部に表出する活動をした事実が全くない」ことを挙げる。兵役拒否の支援をする「戦争なき世の中」の活動家イ・ヨンソクは「韓国社会では非転向長期囚の思想検証や兵役拒否者の問題で「良心の事由」が議論されてきたため「良心」とは監獄行もいとわない強い信念として理解される傾向が大きいが、じっさい国民の普遍的権利は私たちが生きるさいに空気を吸うように行使できるべきものなので、監獄が怖くて行きたくない人すらも享受できる権利として理解され、代替服務制度もそのようにならねばならない」と述べる(シム・アジョン、2020、163頁)。そうなれば、「忌避者」と「拒否者」を区分する必要もなくなる。
代替服務制度の導入は兵役拒否運動の中でかなり重要な進展であるが、法廷内部で代替服務を勝ち取るために、「真の」良心的兵役拒否者としてふるまうことが必要になってしまうのだ。もちろん、兵役拒否運動の中では朴相旭氏が以下のように述べるように、代替服務制度は「とりあえず監獄に行かせないために支持」してきたものであり、到達すべき目標はもっと遠くにあることを付記しておきたい。
「兵役拒否運動団体である「戦争なき世の中」は、刑務所行きを避けるために、とりあえず代替服務制度の導入を支持していますが、良心や信念の範囲をどう広げるかが課題です。将来、兵役が志願制となったとしても、経済的に貧困な若者や市民権が欲しい外国籍の若者が軍務に就くことになるという問題は残ります。志願制になったとしても、議論は続けていくべきだと思います。」(『人民新聞』1664号、2018年11月10日)
■参照文献
シム・アジョン「「国民化」の暴力を拒絶する心――「難民化」メカニズムに照らす兵役拒否と移行を考え直す」『難民、難民化する生』カルムリ、2020(심아정, <’국민화’의 폭력을 거절하는 마음><난민, 난민화되는 삶>갈무리)。
『人民新聞』1664号、2018年11月10日
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