Tumgik
team-ginga · 6 days
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ピッコロ劇団の『パレードを待ちながら』
 ピッコロシアター中ホールでピッコロ劇団オフシアター『パレードを待ちながら』を見てきました。
 舞台は第二次大戦中のカナダーー「そうかあカナダも第二次大戦に参戦してたんだ。知らなかった」と自らの無知を恥じながら見ていました。
 私はピッコロ劇団の『ロボットR.U.R』を2月に兵庫県立芸術文化センター中ホールで見て、人類の滅亡をロボット製作会社のたった7人(だっけ?)の男女で描くのは面白いなと思いましたが、この『パレードを待ちながら』は銃後を守る(という言い方がいいのかな)5人の女性を通して戦争を描くという芝居です。
 私自身は子どもの頃から戦争の悲惨さ、残酷さをこれでもかこれでもかと描く映画、ドラマ、芝居、小説、漫画を見てきて、そういうものに飽き飽きしていたので、こういうのは面白い試みだと思いました。
 ラストで3人の女性が軍隊のパレードを見る場面があります。
 題名が『パレードを待ちながら』なのですから当然と言えば当然ですが、女性が3人なだけに「楽隊の音はあんなにも楽しそうに……」と言い出すのではないかとちょっとびっくりしました(もちろんこれはチェーホフの『三人姉妹』のラストのあまりにも有名なセリフです)。
 それを意識して書いてるのかな。そうは思えませんが、演劇人なら『三人姉妹』のあのセリフを知らないはずがないので、意識して書いているのかもしれません。
 いい芝居だと思いましたが、その一方で「お気楽な話だな」と思ってしまったことも事実です。
 確かに出征して帰らぬ人となったカナダ人もいるのでしょう。夫を、父親を、息子を失ったカナダ人もいるのでしょう。
 カナダは被害を受けなかったなどと言うつもりはありません。
 でも、アメリカ本土と同じくカナダも攻撃は受けていないはずです。
 劇中、女たちは空襲に備えて訓練をしていますし、空襲警報が出たと思わせる場面もありました。でも、実際に空襲を受けたことはないはずです。
 大規模な空襲を何度も受け、2度に渡って原爆を落とされた日本や、ナチスに占領されたヨーロッパの国々に比べれば……と、どうしても思ってしまいます。
 ラスト近くで学校の先生をしている女性が夫の話をする場面があります。
 夫はそれまで朝起きると「バンバン」と言いながら機関銃を撃つ真似をしていたのですが、最近は原爆が落ちるところの真似をするようになったと彼女は言います。
 そりゃわかりますよ。カナダからすれば日本は敵国です。
 同盟国であるアメリカが敵国である日本に甚大な被害を与えたなら、喜ぶのが当たり前です。
 でもなあ……やっぱりそれってどうよと思ってしまいます。
 さすがにこのセリフはカットすべきだったのかな。でも、公演に際してそういう「忖度」をするのもどうなのかなーーふとそんな余計なことを考えてしまいました。
 『パレードを待ちながら』は明日14日(日曜)も11時と16時に公演があります。
 ぜひご覧ください。
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team-ginga · 10 days
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思い出のドラマ2編
 今日は(あ、もう昨日か)非常にハードな1日だったのでなんだか疲れ果ててしまいました。
 リラックスしようと尾崎亜美を聴き、松任谷由実を聴き、カーペンターズを聴いていたら、あるドラマの1シーンを思い出しました。
 大昔に見たドラマで主演は三田村邦彦と岸本佳代子。
 三田村邦彦は子持ちの寡夫で、建設技師としてどこかの街に長期滞在しています。
 彼は幼い娘に親切にしてくれる岸本佳代子と親しくなり、心を通わせるようになります。
 しかし、子持ちの寡夫である自分は若くて独身の岸本佳代子には相応しくないと考え、娘を連れて街を出ることにします。
 その話を聞いた岸本佳代子は別の男(演じるは元阪神タイガースの江本!)と見合いをします。
 三田村邦彦が娘を連れてトラックで街を出る日は、ちょうど岸本佳代子と江本の結納の日で、二人は正装してお寺のようなところにいます。
 三田村邦彦の娘はどうしても一目だけ岸本佳代子に会いたいと言います。
 三田村邦彦はダメだと言いますが、「遠くから見るだけなら」と言って、一緒に車を降り、遠くから岸本佳代子のいるお寺を眺めます。
 岸本佳代子は娘を連れた三田村邦彦が遠くから彼女を見つめているのに気づき、一瞬の逡巡ののち江本に一礼して、振袖のまま二人の元にかけていきます。
 三人はそのままトラックに乗り込み、車窓の風景が写り続ける中、カーペンターズの「愛のプレリュード」(We've only just begun)がかかります。
 もちろんこのラストはダスティン・ホフマン、キャサリン・ロスの名作『卒業』のエピゴーネン(と言って悪ければオマージュ)です。
 それはわかっているのですが痺れました。
 だって……ラストでカーペンターズの「愛のプレリュード」を1曲まるまる流すんですよ。
 そんなドラマ見たことありますか?
 古いドラマです。
 一体何年に見たんだろう。
 決して名作ではないし有名なドラマでもないと思います。
 でも忘れられないドラマです。
 私が5月に上演する『マイ・スウィート・スウィート・ホーム』でカーペンターズの曲を使うのは、このドラマの遠い記憶があるからかもしれません。
 ついでに思い出のドラマの1シーンをもう一つ。
 『偽装結婚』という藤竜也・大原麗子主演のドラマです。
 どこかの私立大学の権力争いに巻き込まれ妹を殺された大原麗子が、その大学の理事長の私生児である藤竜也と結婚して、大学内の不正を暴き理事長を退陣させるというドラマで、まあいろいろあったんでしょうが、私はそこは見ておらず、最終回のラスト30分くらいを見ただけです。
 でも、藤竜也と大原麗子のやりとりはとにかく「粋」でかっこよく、一生忘れないだろうな��思います。
 理事長の不正を暴くことに成功した二人は祝杯をあげ、さんざん酔っ払って家に帰ってきます。
 共通の目的により連帯していた二人ですが、二人の間には愛情らしきものが芽生えています。
 でも、目的を達した今、これ以上一緒にいる理由はありません。
 その時の二人の会話を私は今でも覚えています。
 藤竜也「で理事長の退陣が決まったわけですが、ご感想は?」
 大原麗子「そうね、時刻表にない列車に乗って、地図にない街にでもいきますか」
 藤竜也「ほう、さらば愛しき人というわけですな。でも、そう急ぐことはない。俺がどこへでも連れて行ってやるから」
 大原麗子「お願いできるかしら」
 藤竜也「もちろん! どこへ行きたい?」
 大原麗子「あなたのいない街に行きたい」
 どうです? 粋でしょ?
 このあと藤竜也は必死になって大原麗子を引き止めますが、大原麗子は「さよなら」と言って家を出ていきます。
 もちろんドラマはそこでは終わりません。まだ続きがあります。
 藤竜也は自分が理事長になり大学を乗っ取るつもりだった(少なくとも大原麗子にはそう言っていた)のですが、理事会では別の信頼に足る人物を理事長に推薦し、自分はどこかへ行ってしまいます。
 数ヶ月後、テレビ局に勤めている大原麗子がドラマの撮影をしていると、突然スタジオに藤竜也が現れ、大声で大原麗子の名前を呼びます。
 大原麗子は「あんたはどうしていつもいつもおかしなことをするの」と叱りつけますが、藤竜也は構わず彼女を抱きしめます。
 二人は熱い口づけを交わし、それを見ていたディレクター(浜田光夫でした)が「しょうがねえなあ。サービスだ」と言って、二人の上に作り物の雪を降らせるところでオシマイ。
 まあ、よくできたハッピーエンドですかね。
 これももちろん悪くはありませんが、やはり私は上にあげた二人の会話、大原麗子がキッとなって「あなたのいない街に行きたい」と言い、藤竜也が必死になって彼女を引き止めようとするところが好きでした。
 いつのドラマなんだろう、これ。
 多分私は大学院生だったから、1980年代の前半ですか。
 これも決して有名はドラマではありませんが、忘れられないドラマです。
 今見る手立てはあるのかな。
 あるのなら見てみたい気がします。
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team-ginga · 14 days
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映画『ジャッキー・ブラウン』
 U-Nextでクェンティン・タランティーノ監督の映画『ジャッキー・ブラウン』(1997)を見ました。
 私はクェンティン・タランティーノが特に好きなわけではありませんが、彼の映画はほとんど見ています。でも、この映画は見ていませんでした。
 『ジャッキー・ブラウン』はブラックスプロイテーションにオマージュを捧げた映画だそうです。ブラックスプロイテーションとは1970年代によく作られた黒人を主人公、主要登場人物とする映画ですが、私自身はあまりよく知りません。見たことがあるのは『黒いジャガー』くらいかな。
 ヒロインのジャッキー・ブラウンを演じるのはパム・グリア。ブラックスプロイテーションによく出演していた女優だそうです。
 武器密売人のために現金をメキシコからアメリカに持ち込んでいるキャビンアテンダントのジャッキー、保釈請負人のマックス、武器密売人のオディール(サミュエル・L・ジャクソン)、オディールの手下のルイス(ロバート・デニーロ)、オディールの愛人のメラニー(ブリジット・フォンダ)、オディールを追う刑事レイ(マイケル・キートン)らが織りなす騙し騙されのコンゲームというところでしょうか。
 サミュエル・L・ジャクソンが若い! そして細い! 髪を長く伸ばしポニーテール(?)にしているところがキュートです。
 彼の手下をロバート・デニーロが演じているのも驚きです。あのロバート・デニーロが手下ですよ。それも刑務所帰りのあまり頭が良くない役で、ときおり天然ボケのギャグをかますのですからびっくりします。
 で、物語はというとーー空港の地下駐車場でメキシコから違法に持ち込んだ現金を持っているところを捕まったジャッキーは、ルイたち刑事に取引を持ちかけられます。彼女はオディールのために近々50万ドルを持ち込むことになっているので、それを押収してオディールを逮捕するというのがルイの計画です。
 ジャッキーは保釈請負人のマックスを取り込んでオディールと警察の両方を騙し、金を自分のものにしようと企みます。彼女はルイに現金の受け渡しは空港のショッピングモールのカフェで行うと言い、オディールにはショッピングモールの洋服屋の試着室で受け渡しをすると言います。
 オディールは手下のルイスと愛人のメラニーを洋服屋に向かわせます。
[この��りからネタバレになります。未見の方はご注意を]
 現金の受け渡しのシーンは、まずジャッキーの視点から描かれ、次にルイスの視点から描かれ、最後にジャッキーの仲間である保釈請負人のマックスの視点から描かれます。
 つまり同じシーンを3度繰り返して描いているわけで、それ自体はとても面白いと思いますが、ストーリーは結構単純です。
 ジャッキーは50万ドルを5万ドルと45万ドルに分け、5万ドルを紙袋に45万ドルを自分のカバンに入れます。洋服屋の試着室にメラニーが来るとジャッキーは彼女と紙袋を交換します。
 メラニーが去った後、ジャッキーはカバンに入っている45万ドルをメラニーから受け取った紙袋に入れ、紙袋を試着室に置いたまま店を出て、刑事のルイを探して「メラニーが金を持ち逃げした」と言います。ルイは「どうして洋服屋なんかに行ったんだ」と怒りますが、もうどうしようもありません。
 一方、ジャッキーが出て行ったのを確認したマックスは「女房が試着室に紙袋を忘れた」と言って試着室にあった紙袋をゲットします。
 一番びっくりするのは、紙袋を回収したメラニーにバカにされ嫌味を言われたルイスが駐車場で怒りに任せてメラニーを撃ち殺すところですが、まあそれ以外はそれほど意外性はないというか、複雑に見えて実は単純なストーリーです。
 こうしてジャッキーとマックスは濡れ手にあわの45万ドルを手に入れるわけですが、話はまだ終わりません。
 二人は金を返すと言ってオディールを保釈請負事務所に呼び出します。オディールは「金はどこだ?」とピストル片手にジャッキーを脅します。
 その瞬間、ルイたちが入ってきます。「銃を持っている」とジャッキーが叫ぶので、ルイたちはオディールを射殺します。
 というわけでジャッキーの計画は見事成功。彼女は45万ドルを手にします。
 「私はどこか遠くに行くわ。一緒に来ない?」とジャッキーはマックスに言います。二人はもちろんもう若くはありませんが、それでも互いに恋心を抱き合っていたようです。しかし、マックスは首を振ります。
 車に乗って出ていくジャッキーをマックスが見送るところでオシマイ。
 『レザボア・ドッグズ』や『パルプ・フィクション』のような名作・傑作ではないでしょうが、まあ悪くはない映画だと思います。「嫌いじゃないぜ」という感じです。
 
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team-ginga · 16 days
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映画『シェルブールの雨傘』
 NHK. BSお昼の洋画劇場(と勝手に命名)でジャック・ドゥミ監督の映画『シェルブールの雨傘』(1964)を見ました。
 非常に有名な映画ですが見るのは初めてです。
 え?
 今まで見たことなかったの?
 フランス文学者なのに?
 映画好きを自認してるのに?
 隠しても仕方ありませんーーはい、見たことがありませんでした。
 あらすじは知っていました。でも、だからこそ「そんな単純なメロドラマ見たくねえや」と思っていたのです。
 歌が全て吹き替えだというのも、ワタシ的にはマイナス要素でした。
 で、実際見てどうだったかというと……
 「つまんねえ映画だ」というのが正直なところです。
 主演は言わずと知れた(?)カトリーヌ・ドヌーヴ。彼女の出世作ですね。
 ドヌーヴは一般的には美人なのでしょうが、私はあまり魅力的だと思ったことがありません。また、ドヌーヴ出演の映画は結構見ているはずですが、あまり印象にも残っていません。
 『昼顔』、『反撥』あたりは良かった……というか私の好きな映画です。でも、どこまでいっても『昼顔』はルイス・ブニュエル監督の映画、『反撥』はロマン・ポランスキー監督の映画。ドヌーヴの映画という感じがしません。
 『シェルブールの雨傘』のストーリーは非常に単純です。
 シェルブールの街で傘屋を営んでいる女性の娘ジュヌヴィエーヴは向かいの自動車修理工場で働く青年ギイと恋仲です。
 ギイは20歳、ジュヌヴィエーヴは16歳ーー今とは時代が違うんですかね、16歳だけれど高校には行っていない様子で、二人は結婚してガソリンスタンドを開こうなどと寝ぼけたこと……あ、いや夢のようなことを言っているのですが、ジュヌヴエーヴの母親は「まだ早すぎる」と反対しています(そりゃそうです。そりゃ母親の言うことが正しいわ)。
 あるとき母親の元に税金の追徴金支払いの命令書が届きますが、払うべき金がありません。母親は仕方なく宝石を売りに行きますが、思ったほどの金額にはなりません。
 すると親切な紳士が近づいてきて「私がその宝石を高く売ってあげます」と言います。母親は宝石を渡し、紳士は「明日店に伺ってお金を渡します」と言います。
 え?
 な、なんと不用心な。こんなの詐欺に決まってるじゃないですか。
 でも、カサールという名前のその男は本物の紳士でした。彼はきちんとお金を持って店にやってきます。
 そうこうするうちにギイは召集令状を受け取ります。時は1957年ーーフランスはアルジェリア戦争の真っ最中です。ギイは後ろ髪を引かれる思いで戦地に旅立ちます。
 ギイの出征後、ジュヌヴィエーヴは自分が妊娠していることに気づきます。もちろんギイの子どもです。
 さあどうしよう……と思っているところにカサールが現れ、ジュヌヴィエーヴと結婚したいと申し出ます(カサールはジュヌヴィエーヴ本人に言うのではなく、彼女の母親に結婚の申し出をします。随分と前近代的な話だと思いますが、フランスでも1950年代はそうだったんですかね)。
 カサールはすぐには返答は求めず、「3ヶ月後にまた来るので、それまでに考えておいて欲しい」と言い残して旅に出ます。
 その後、ジュヌヴィエーヴのお腹はどんどん大きくなり、ギイからの手紙はだんだん少なくなります。
 3ヶ月後、再びシェルブールを訪れたカサールは、ジュヌヴィエーヴのお腹が大きくなっているのを見ても全く動じることなく、「お腹の子どもは二人の子どもとして育てよう」、「僕と結婚してください」と言います。
 うーん、なんちゅうお人よし……あ、いや、なんていい人なんでしょう。
 というわけで二人は結婚します。
 そんなこととは知らぬギイは、ジュヌヴィエーヴへの手紙に「子どもが生まれて、男の子だったら名前はフランソワにしよう」などとお気楽なことを書いています。
 戦地から帰ってきたギイはジュヌヴィエーヴが結婚したこと、ジュヌヴィエーヴの母親が経営していた傘屋は所有者が変わったことを知って愕然とします。
 やけになったギイは自堕落な生活を送ります。やがて、孤児だった彼を引き取って親代わりとして育ててくれた親切な女性が死んでしまいます。ひとりぼっちになってしまったギイは死んだ女性の看護婦(なのだと思います)をしていたマドレーヌという女性に求婚し、相続した遺産でガソリンスタンドを経営します。
 それから数年ーーギイとマドレーヌにはフランソワという名前の男の子ができています。クリスマスの夜、マドレーヌとフランソワが出かけている間に、ギイのガソリンスタンドに1台の車が止まります。
 運転しているのは……わかりますよね……幼い娘を連れたジュヌヴィエーヴです。
 ギイはジュヌヴィエーヴを事務所に連れて行きます(子どもは車の中に置き去りです。母親としてそれでいいのか、ジュヌヴィエーヴ)。
 二人は事務所の中で抱き合う……なんてことはもちろんありません。あっちゃダメでしょう。二人はただお互いのその後を言葉少なに語り合います。
 ジュヌヴィエーヴの子どもはもちろんギイの子で、名前は……フランソワーズ(フランソワの女名前)です。
 ジュヌヴィエーヴはギイに「フランソワーズに会う?」と尋ねますが、ギイは黙って首を振ります。
 ジュヌヴィエーヴの車が去っていき、マドレーヌとフランソワが戻ってきて、ギイとフランソワが雪合戦をするところでオシマイ。
 うーん、この映画どこがいいんですか?
 偏見かもしれませんが、20歳の男と16歳の女が愛だの恋だの、生きるの死ぬのと言っても、私は本気にできませんし、ジュヌヴィエーヴも母親も結婚のことをギイに知らせなかったのは、あまりと言えばあまりに不誠実ではありませんか。
 作り手としては「甘く切ない恋物語」を作ったつもりなのでしょうが、私には「どこにでも転がっているようなつまらない男とつまらない女のつまらない恋物語」にしか思えませんでした。
 逆に言えばそこが受けたんでしょうか。1964年といえばアルジェリア戦争が終わってまだ2年しか経っていません。ジュヌヴィエーヴとギイのようなカップルはフランスに少なからずいて、この映画はそういう人たちの心に響いたんでしょうか。
 それともセリフが全て歌になっているという形式が新しかったのかな。
 いずれにしても、私は好きじゃありませんね。
 まあ、こういうこともあります。
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team-ginga · 24 days
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映画『隣人は静かに笑う』
 というわけでU-nextでマーク・エリントン監督、ジェフ・ブリッジス、ティム・ロビンス出演の映画『隣人は静かに笑う』(1999)を見ました。
 『ライフ・オブ・デヴィッド・ゲイル』、『閉ざされた森』に続くどんでん返し映画第3弾ということですね。
 私はどんでん返し映画が好きですが、どんでん返し映画というのはなかなかに難しいものがあり、「この映画にはどんでん返しがありますよ」と聞くだけですでに身構えてしまうものです。
 その意味ではどんでん返し映画であることさえ聞かずに見るのがいいのですが、でもどんでん返し映画だから私はこれを見たわけで、もし知らなければ見なかった公算大ですから、難しいところです。
 私は『隣人は静かに笑う』という題名は聞いたことがありましたが、ずっとご近所トラブルの映画、隣人がストーカー化して次々と嫌がらせをしてくる映画だと思っていました(そんな映画実際にありましたよね)。
 でも全く違いました。
 主人公はジェフ・ブリッジス演じる大学教授のファラディ(またしても大学教授ですか!)ーー彼は向かいに住む建築技師のラング(ティム・ロビンス)の息子が怪我をしてフラフラ歩いているところを偶然見つけ病院に連れて行きます。それがきっかけとなりファラディとラングは家族くるみの付き合いをすることになります。
 ファラディは寡婦で9歳の息子がいます。彼の妻はFBIの職員(!)だったのですが、ある家に捜査に入った時に銃撃戦になり死んでしまいました。ファラディはいまだに妻のことが忘れられませんが、元大学院生(だったと思います)の女性を恋人にしています。まあ、それはそれ、これはこれということで、もちろん悪いことではありません。
 ファラディはラング夫妻と親しくしていますが、あることがきっかけで(えーっと何がきっかけだっけ。よく覚えていません)ラングが改名したことを知り、いろいろ調べていくうちにラングはオクラホマシティ連邦政府ビル爆破に関わったテロリストではないかと疑い始めます。
 ここからのパターンとしては、 1)ファラディが思った通りラングはテロリストである。 2)ラングはテロリストではなく、すべてはファラディの妄想だった。  のどちらかしかあり得ませんよね。
 で、どうなるかというと……
[ここからネタバレになります。未見の方はご注意を]
 ラングは本当にテロリストでした。彼はまずい現場を目撃したファラディの恋人を殺し、さらにはファラディの息子を誘拐し、「誰にも何も言うな。黙っていれば息子は無事に返してやる」とファラディに言います。
 ラングとしてはファラディを口封じに殺すこともできるのですが、息子を助けてくれた恩があるので、そういう言い方をしてます。テロリストにもテロリストなりの「仁義」があるということでしょうか。
 そう言われた場合、父親として取りうる選択肢は二つあります。 1)言われた通り黙っている。 2)FBIに全てを打ち明け息子を助けて欲しいと頼む。
 でも、ファラディはどちらの選択肢も取りません。彼は……自分一人でテロを止めようとします。
 え? うーん、それはちょっとどうなんだろう……
 ファラディは宅配業者の車に乗ったテロリストが爆弾を運んでいると考え、車で後を追います。その途中ラングが現れ、ファラディを車から降ろし廃工場のようなところへ連れて行きますが、ファラディは反撃してラングをボコボコにします。
 車に戻ったファラディはテロリストたちはFBI本部を爆破しようとしていると確信し、爆弾を積んだ配送車を探します(えーっと、なぜFBI本部が狙われているとわかったんだっけ? ラングが「お前も妻を殺した奴らが憎いだろう」と言ったからですか)。
 ようやく配送車を見つけたファラディは妻の同僚だったFBI職員のウィットに電話して事情を説明し、配送車の後を追います。配送車はFBI本部の中に入っていきます。ファラディも配送車を追って入ろうとしますが、当然入り口で止められます。
 それでもファラディは制止を振り切り、配送車を追って地下駐車場へ行きます。そんなことをすれば普通は撃たれますよね。撃たれずにすむのは、FBI職員のウィットが「待て、撃つな」と言ったからですが、それにしてもガバガバすぎませんか。
 それでいいのかFBI。
 ファラディは配送車に駆け寄り後ろのドアを開けます。しかし中は空っぽーー爆弾なんかありません。しかも運転手はさっきまで配送車を運転していた人物とは別人です。
 え? 別の配送車なの? とするとこちらの配送車はおとり?
 ファラディは自分が乗ってきた車に近づき、後ろのトランクを開けます。するとそこにあったのは……
 爆弾です。
 その瞬間、どこか安全な場所にいるラングが遠隔装置で爆弾を起動させます。
 大爆発ーーFBI本部は倒壊し大勢の死者が出ます。
 すべてはラングが仕組んだことで、ファラディを車から降ろし廃工場に連れて行っている間に仲間がファラディの車のトランクに爆弾を置いたというわけですね。
 これがこの映画のどんでん返しというわけですが……うーん、どうなんだろう。
 ラングの計画がうまくいくためには、ファラディがFBI本部に向かい、中に入ることが必要です。そのためにラングは「お前も奥さんを死なせた奴らが憎いだろう」とヒントを出したわけですが、それにファラディが気づかなかったらどうなるんですか。また、FBI本部まで行ったとしても中に入れるとは限りません。たまたま警備がズブズブだったから入れたものの、入れない可能性だって大きかったはずです。
 それなのに「俺は全部読んでいたぜ」と言わんばかりに得意になるのはどうなんでしょう。
 こうしてFBI本部は爆破され、ラングたちテロリスト一味は逮捕されることもなく、事件はファラディ一人の犯行ということで処理されてしまいます。
 これって……どんでん返し映画なんですかね。
 いや決してつまらない映画だとは思いません。悪が栄えて終わる映画も私は嫌いではありませんし。
 でも、なまじどんでん返し映画だと期待して見ただけにちょっと消化不良(?)なところが残ったというのかな。私が思っていたどんでん返しとはちょっと違うという感じがしてしまいました。
 これで三つ続けてどんでん返し映画を見たわけですが、私が最高のどんでん返し映画だと思うのはやはりジェームズ・マンゴールド監督の『アイデンティティ』(2003)ですね。あれに並ぶどんでん返し映画はちょっとないと思います。
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team-ginga · 25 days
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1月・2月に見た映画
 1月、2月は公演で忙しかったりバイオリズムが低下していたりでほとんどブログをつけませんでした。だからその間に見た映画についても何も書いていません。
 しかし、それではあまりにもったいない(?)ので供養として(??)せめて題名と簡単なコメントだけでも書いておこうと思います。
 まず1月19日関空発パリ行きの飛行機の中で次の4本を見ました。
『インディー・ジョーンズと運命のダイヤル』  インディー・ジョーンズ・シリーズの第五作にして最新作。実はこの映画は映画館に見に行こうと思ってたんです。だって老齢に達したインディーが再び冒険に乗り出すなんて素敵じゃないですか。  でも全然ダメ。つまんない。ただ一つの取り柄というかミソはタイムパラドックスですが、それだってそんなに効果的には機能していません。  インディー・ジョーンズの一作目『失われたアーク』と二作目『魔宮の伝説』は名作だったと記憶しています。でも、それ以降はつまんなくないですか。そういえばパリ出発前にU-nextでシリーズ第三作『最後の聖戦』と第四作『クリスタル・スカルの伝説』を見たのですが、全く面白くありませんでした。  ハリソン・フォードも歳を取ったし、もうこのシリーズは打ち止めでいいんじゃないでしょうか。
『バビロン』  『セッション』、『ラ・ラ・ランド』のデミアン・チャゼル監督の最新作。ハリウッド最初期の狂騒を描く群像劇と言えばいいんでしょうか。  中心となるのは映画女優になるためなら何でもする気でいる田舎から出てきた女と映画の現場で働きたいと思っているメキシコ人青年ーー彼らは映画関係者たちが参加する乱痴気パーティーをきっかけに映画界でのしあがるのですが、初期のハリウッドってあんなに無茶苦茶だったんですか、映画界ってあんなに簡単にのし上がれるものなんですか、その点は大いに疑問でした。  面白かったのはハリウッドの現場が人命をとことん疎かにしているところ……というと怒られそうですが、あそこまで行くとギャグとして成立していて面白いと思いました。
『ラブ・アクチュアリー』  こちらは2003年公開だからちょっと古い映画。クリスマスまでの5週間を描いた恋愛群像劇。  私の好きなタイプの映画ですが、ちょっとどうかなあと思うところが多々ありました。子どものラブストーリーはいらなかったんじゃないですか(私は子どもが嫌いだ!)。
『ビートル・ジュース』  ティム・バートン監督の1988年の映画。見てなかったのかと言われそうですが、見てなかったのです。  でも……まあ見ないなら見ないでいい映画ですね。  ウィナノ・ライダーも全然かわいくないし。
 1月29日、帰りの飛行機で見たのが次の映画です。
『キス・キス・バン・バン』  これはなかなかすごい映画です。私は好きですね。今回飛行機の中で都合8本(!)の映画を見たのですが、その中で一番ーーというか最近見た映画の中で一番です。ここまで面白いクライム・コメディーを見たのは『ゲーム・ナイト』以来じゃないかな。  主人公のロバート・ダ��ニー・Jrが自分の部屋でおしっこをしている最中に浴槽に女性の死体があることに気づき、驚いたもののおしっこを止めることができず、そのまま死体におしっこをかけてしまうというギャグは下品かもしれませんが大笑いさせられましたし、悪者に拳銃を向け「これからロシアンルーレットをしよう。それが嫌なら情報を教えろ」と言って引き金を引いたら、弾が飛び出して悪者は死んでしまうという場面で、ロバート・ダウニー・Jrが「どうしてだ、確率は3%なのに」と言うのに対して相棒のヴァル・キルマーが「お前中学で何を習ったんだ」というやりとりは秀逸でした(言わずもがなのことですが、6連発の拳銃の場合、弾が出る確率は6分の1、つまり16.666...%です)。  ロバート・ダウニー・Jrはコワモテで変人の役が多いというのが私のイメージですが、こんな軽妙なコメディーで3枚目の役もできるんだと感心しました。
 この飛行機ですが、5時間くらい飛んだところで急に「コックピットの酸素量の問題でこのままではヒマラヤ山脈を越えられそうにありません。このままシャルル・ドゴール空港に引き返します」というアナウンスがありました。  そこまで来るのに5時間かかったわけですから、シャルル・ドゴール空港まで戻るのにも5時間かかります。つまり10時間かけて元の場所に戻ったわけです。  シャルル・ドゴール空港に降りる際、「みなさま右手をご覧ください。エッフェル塔が見えます」とアナウンスが流れた時には苦笑するしかありませんでした。  当然ながらというか、幸いなことにというか、エール・フランスがホテルをとってくれていて、夕食の手配もしてくれていましたので、そこで一泊して翌日同じ時刻の便に乗って帰国したわけですが、いやあ疲れました。  なおヨーロッパ発着の飛行機がフライトをキャンセルしたり3時間以上遅延した場合は、法律によって現金600ユーロまたは航空会社のクーポン800ユーロをもらえるそうです。600ユーロというと日本円にして約10万。結構でかいですよね。  我々はもちろん申請して振り込んでもらいましたが、知らないと損をします。是非このことは知っておいてください。
 で、最後飛行機に乗り込んで見たのが次の3本です。
『KIMI』  スティーヴン・ソダーバーグの新作と聞いて面白そうだなと見ましたが、ほとんど覚えていません。疲れのせいもあるかと思いますが、つまんなかったんだと思います。  広場恐怖症だか対人恐怖症だかで家から外に出られずパソコンだけを通じて外の世界とコンタクトを取る女性を主人公にしたクライム・ストーリーですが、新しいふうを装っているだけという気がしてしまいました。
『スクリーム5』  元々期待はしていませんでした。でもまあ期待しなくてよかったという映画ですね。一応『スクリーム』と『スクリーム2』は面白かったような記憶があるのですが……  インディー・ジョーンズにせよこれにせよ長く続きすぎるとつまらなくなるということでしょうか���
『ゾディアック』  アメリカで実際に起こった有名な連続猟奇殺人事件を題材にした映画。セミ・ドキュメンタリーというのかな、私この手の映画はあまり好きじゃありません。現実を下敷きにしている以上、現実から離れられないというところが嫌いなんです。  主演はジェイク・ギレンホール。ロバート・ダウニー・ Jrも出演。私のイメージ通りコワモテの変人役でした。
 帰国してから何を見たっけ。
『アントニオ猪木を探して』  アントニオ猪木のドキュメンタリー映画。私は結構ガチのプロレスファンだったので、新しい情報はほとんどありませんでした。「へえ」と思ったのは、安田顕や福山雅治がプロレスファンだったということくらいかな。
『ナチュラル・ボーン・キラーズ』  クエンティン・タランティーノ原案、オリバー・ストーン監督の1994年の映画。なんちゅう取り合わせや!  私、オリバー・ストーンの映画はほとんど見たことがありません。昔西原理恵子が言っていたように「なんで高い金払って3時間も説教されなきゃならんのだ」と思っているからですが、この映画はちょっと違いました。  バッド・ボーイとバッド・ガールの犯罪紀行と言えばいいのでしょうか。「こういう映画ってラストで二人は壮絶に散るんだろうな」(完全に『俺たちに明日はない』のイメージです)と思っていたら、さにあらずーー映画の中盤で二人は捕まり刑務所に入れられてしまいます。  その二人にインタビューしたいというテレビマンが現れるのですが、二人はその撮影を利用して他の囚人たちを煽って暴動を起こし脱獄ーー二人は結局逃げ延びます。  ふーん、そうなんだ……元気があってよろしい!  なお、二人にインタビューするテレビマンを演じているのはロバート・ダウニー・Jr。別に彼が好きなわけではありませんが、妙に縁があります。
『エンター・ザ・ボイド』  ギャスパー・ノエ監督の2009年の映画。東京に住む不良外人の物語です。  なんじゃこれは。東京を舞台にする必要があったんでしょうか。  でも、東京には本当にこんな訳のわからない謎の外国人コミュニティーがあるんですかね。あったら怖いかも。
 簡単なコメントだけと言った割には結構書いてしまいました。  言いたがりというか言わずにおけない人間なんですね、ワタシ。  だからフランス文学の研究者をしているのでしょうが、言わずもがなのことを言ってしまって損をする場合もあります。  困った性分ですね。
 そのほか白樫由紀子さんの夫君の末次さんが出演した芝居も見に行きましたが、それを語るのはまた別の機会にします。
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team-ginga · 26 days
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映画『閉ざされた森』
 というわけでジョン・マクティアナン監督、ジョン・トラボルタ主演の映画『閉ざされた森』(2003)を見ました。
 「この映画見たことあるんじゃないかなあ」と思いながら見ましたが、全く見たことのない映画でした(それとも見たけれど忘れているんでしょうか。いくらなんでもそんなことはないと思いますが……)。
 南米のある森で演習中の海兵隊員たちに何かが起こり、2名だけが帰還、あとの者は全員行方不明になっています。帰還した兵士は黙して何も語ろうとしません。
 司令官は尋問のためハーディー(ジョン・トラボルタ)という男を呼びます。元海兵隊員で今は警察で麻薬の取り締まりをしている男です。
 本来尋問に携わるはずだった大佐のジュリーは不満タラタラですが、ハーディーの尋問に同席します。
 尋問の中で演習を指揮していたウエスト軍曹(サミュエル・L・ジャクソン)が部下たちを虐待していたことが明らかになり、軍曹に恨みを持った誰かがこっそり軍曹を殺害したのではないかという疑いが持ち上がります。
 また、それと同時に兵士の誰かが海兵隊内での麻薬の取引に関係していたことがわかってきます。
[この辺りからネタバレになります。未見の方はご注意を]
 帰還した兵士2名のうち一人は軍のお偉方の息子です。彼は銃撃を受けて怪我をしていたのですが、尋問の途中血を吐いて死んでしまいます。口封じのために殺されたということでしょうか。
 司令官は全て帰還した兵士の残った一人がやったことだとして事件を収め、その兵士を本部に送ろうとしますが、ハーディーは司令官こそが海兵隊内での麻薬取引の黒幕だと気づき、司令官を射殺します。
 どんでん返し……ですかね。でも話はまだ終わりません。
 これで一件落着と思ったのも束の間、ジュリーはハーディーこそが麻薬取引の黒幕だという疑いを持ち、ハーディーを尾行します。ハーディーが仲間たちと合流するところへ乗り込んで行ったジュリーが見たものは……
 そこにいたのはウエスト軍曹とその配下の海兵隊員たちーー彼らは死んではいなかったのです。
 ハーディーは面倒臭そうにジュリーに事情を説明します。彼らは基地内で麻薬の取引が行われていることに気づき、犯人をあぶり出すために事件を偽装したのです。
 事情を知ったからには放っては置けない……ということでジュリーを仲間に加えて映画はオ・シ・マ・イ。
 うーん、どんでん返を狙ったのはわかりますし、決して悪い映画だとは思いませんが、「どんでん返しのためのどんでん返し」というのかな、ちょっと切れ味が悪いような気がしました。
 でもまあ、一見の価値はある映画かと思います。
 次は同じくリストに上がっていた『隣人は静かに笑う』を見てみます。
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team-ginga · 26 days
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映画『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』
 U-nextでアラン・パーカー監督、ケビン・スペーシー、ケイト・ウィンスレット主演の映画『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』(2003)を見ました。Youtubeの映画紹介の番組の「鬱な結末映画」で紹介されていたからです。
 「ひょっとしてこの映画、見たことあるんじゃないか」と思って恐る恐る(?)見たのですが、最初の10分くらいを見た限り全く覚えはありません。
 でも、15分、20分見ているうちに「あ! やっぱり見たことある」とわかりました。でも、ここまで来たら、今更見るのをやめるわけにはいきません。
 記憶がどんどん鮮明になりオチも思い出してしまったので、そういう意味では魅力半減でしたが、「なるほどここでそういう伏線を張っているのか」と妙なところに感心する部分もありました。
 やり手のジャーナリスト・ビッツィ(ケイト・ウィンスレット)が5日後に処刑を控えた死刑囚デビッド・ゲイル(ケビン・スペーシー)に4日連続でインタビューをすることになります。
 ゲイルは大学教授(!)で死刑廃止運動の活動家でしたが、活動のパートナーでもあったコンスタンスという女性を強姦し殺したことになっています。
 インタビューに向かったビッツィはカーボーイ風の謎の男に付き纏われ、インタビュー初日の夜には彼女の泊まっているモーテルが荒らされ、ビデオのカセットが残されています。
 ビデオには全裸で後ろ手に縛られたコンスタンスが顔にビニール袋を被せられ、息ができなくなって死んでいく模様が写っています。
 ビッツィはゲイルは濡れ衣を着せられただけであり、真犯人はカーボーイ風の謎の男だと確信し、インタビューを続けるとともに独自に捜査を始めます。
[この映画は絶対にオチを知らずに見るべきです。未見の方は以下の文章は読まないでください。]
 処刑当日、ビッツィはついにカーボーイ風の謎の男の家を突き止めます。男が家を出るのを見て、彼女は家探しをし��ビデオを見つけます。
 それは前に見たビデオのロングバージョンで、死んだコンスタンスが自ら全裸になり、自分で自分の手を縛り、頭にビニール袋を被って死んでいくところと、コンスタンスに寄り添うカーボーイ風の謎の男が写っています。
 コンスタンスは自殺だった、カーボーイ風の謎の男はコンスタンスの死がゲイルの犯行であると見せかけ、ゲイルを死刑にすることで司法の誤りと死刑制度の愚かさを告発しようとしたのだーーそう確信したベッツィはゲイルの処刑を止めるために刑務所へ急ぎます。
[ここからさらに物語は意外な展開を見せます。未見の方は絶対にーーいいですか、絶対にですーー以下の文章は読まないでください。]
 普通ならギリギリで間に合うはずですよね。でもこの映画ではそうはなりません。ベッツィが駆けつけたときには、ゲイルはすでに処刑されていました。
 数週間後、ベッツィの元に小包が届きます。そこには一本のビデオが入っています。コンスタンスの自殺を記録したビデオの完全版です。
 そのビデオを見たベッツィは唖然とします。
 コンスタンスが強姦殺人に見せかけて自殺すること、カーボーイ風の謎の男が彼女に寄り添っていることは同じですが、そのあとさらにデビッド・ゲイル本人が現れビデオカメラの調整をしています。
 つまり、コンスタンスと謎の男がゲイルを嵌めたのではなく、ゲイル自身がこの事件を仕組んだのです。
 映画の序盤でゲイルはテレビの討論番組に出演し知事と議論を交わしています。その中で知事は「私が死刑にした囚人の中で一人でも無実の人間がいたかね?」と言います。
 無実の人間を死刑にしてしまったというなら死刑は廃止すべきだ、しかしそうでないなら死刑は存続すべきだということですが、ゲイルはこれを逆手にとって自分を死刑にさせることで「無実の人間が死刑になった」という既成事実を作って死刑廃止運動を活性化しようとしたのです。
 なかなかすごい動機ですね。ここまでされると「アッパレ」としかいえません。
 この映画を死刑廃止を訴える社会派ドラマと捉える人もいるかもしれませんが、それは間違いです。この映画は別に死刑がいいとも悪いとも言ってはいません。
 自らの「正義」にかける人間の狂気にも似た執念を描いた映画であり、その執念の恐ろしさと素晴らしさを描いた映画です。そこを取り違えるとダメなのですが、そういう人間の何と多いことか……現にU-nextのこの映画の紹介にも「社会派ドラマ」と書いてありました。
 『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』はとてもいい映画です。もちろんおかしなところもなくはありません。
 例えば、映画序盤でゲイルはある女子大生に「合格点をくれるならなんでもします」と言われます。その時はゲイルは「もちろん合格点をあげるよ」と言い、「君がちゃんと勉強してくれるならね」と付け加えます。まあ、それはいいでしょう。
 ゲイルはそのあと大学のパーティーに行きます。そこには教授たちだけでなく学生も参加しています。アメリカにはそんなパーティーがあるんですか。日本にはコンパはあるでしょうが、そんなパーティーはありませんよね。
 そのパーティーでゲイルは「合格点をくれるならなんでもします」と言った女子大生に言い寄られます。彼女はゲイルの授業を落としたため単位不足で退学になったそうですが、「そんなこととは別にあなたとしたいの」と言われて誘惑に乗ってしまいます。
 うーん、そんな羨ましい……あ、いや、そんなことってあるんですかね。アメリカには、あるいはこの広い世界にはそういう大学もあるのかもしれませんが、私の周囲ではありません。
 で、数日後、ゲイルは女子大生から強姦の罪で訴えられ、教授のポストを失い、妻にも去られ、子どもも妻に連れて行かれてしまいます。
 ゲイルはこうして全てを失ってしまったーーだから無実の罪を着て死刑になろうとしたという展開なわけですが、個人的にはちょっとどうかと思ってしまいました。まあ、そう思うのは多分私のような大学教授だけなので大きな傷ではないと思いますが……(笑)。
 なお、主演のケビン・スペーシーはその後未成年男子へのセクハラで訴えられることになります。最終的には無罪判決を勝ち取ったようですが、役者として大きなダメージを受けたものと思います。
 映画と実人生は別だと言えばそれまでですが、その辺りを重ねて見てみるのも一興かもしれません。
 U-nextでは映画を選ぶと、それと似た傾向の映画がリストに出てきます。リストには『アイデンティティ』や『インヴィジブル・ゲスト』が並んでいます。どちらも名作中の名作ですね。
 その中に『閉ざされた森』がありました。「うーん、この映画も見たことあるんじゃないかな」と思いましたが、思い切って(?)見ることにしました。
 そのレビューは項をあらためて書くことにします。
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team-ginga · 27 days
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『抱ききれない私を抱いて』
 昨日3月23日(土曜)、『リハーサル』で共演した中野聡さんが出演する坂本企画の『抱ききれない私を抱いて』(@インディペンデント・シアター1st)を妻と見てきました。
 舞台はある中学校ーー母親からネグレクトを受けている女子中学生(少女A)とその女子中学生に親切にしてくれる担任の先生がいるクラスにある日、難病を持つ少女(少女B)がやってきます。少女は目も見えず耳も聞こえずしゃべることもできず、最先端の生命維持装置に繋がれています(少女Bは実際には舞台には登場しません。空の乳母車に複雑な機械がついているだけで、少女Bはそこに横になっているという設定です)。
 少女 Bの母親は小学校のとき「お世話係」をしていた生徒に「お世話係」を続けて欲しいと言いますが、その生徒はもう耐えられないと思ったのでしょう、早々に転校してしまいます。
 そこで先生が少女Bの世話をしようとしますが、そうすると授業が全く進みません。そこでクラスの生徒が交代で世話をすることにします。でも、そんなことは長続きしません。世話をサボる生徒も出てきますし不満も湧いてきます。
 少女Aは自分が世話をすると申し出ます。そうすれば先生の負担が減る、負担が減れば先生は以前のように自分に親切にしてくれるだろうということでしょう。
 でも、それだって長続きはしません。クラスの生徒たちは少女Aをいじめるようになり、彼女は教室のロッカーに閉じ込められてしまいます。
 狭いロッカーの暗闇の中で少女Aは少女Bの気持ちがわかったような気がします。少女Bは死にたがっている、だったら死なせてやるべきだと考えた彼女は、少女Bが繋がれた管を抜き、機械を破壊します。
 学校側はこの事件を「不慮の事故」で処理します。だから少女Aが罪に問われることはありません。ところが3年後(かな?)、少女Aは少女Bと同じ難病にかかってしまいます。
 事件後学校を辞めて塾の講師をしている先生は、少女Aから手紙をもらって病院を足繁く訪ねることになりますが、ある日「もうここへは来られない」と少女Aに告げます。遠くの町の中学で教師として働くことになったからです。
 少女Aは「私を殺して」と言いますが、もちろんそんなことはできないと先生は答えます。少女Aは「それなら私と結婚して」と言います。
 翌日(かな?)先生は再び少女Aのもとを訪れます。少女Aは病状が進み、もう声が出なくなっています。先生は白い花ばかりの花束を持ってきて「結婚はできないが、パートナーになろう」と言います。
 しかし、先生が花瓶を探しに行っている間に少女 Bの母親が病室に現れ、少女Aを殺します。
 最後に少女Aのモノローグがあり、「自分が愛する人=先生に殺されたかったように、あの子(少女B)だって殺されたい相手がいたかもしれない。私があの子を殺したのは間違いだったかもしれない」という趣旨のことを言って芝居は終わります。
 中野さんがリッイートしている書き込みを見ると、多くの演劇人がこの芝居を絶���しているようです。
 へえ、そうなんだ……
 ��や、もちろん悪い芝居だとは思いません。でも、少女Bの病気は1千万人に一人の病気ですよ。少女Aが同じ病気にかかるというのはいくらなんでも……じゃないですか。
 それに少女Aの場合は病状がゆっくり進み、最初の段階では手紙も書けるし、先生と話もできるというのは、ご都合主義に過ぎるのではありませんか。
 また、先生が「いい人」過ぎるのも気になります。少女Aがロッカーに閉じ込められた翌日、先生はいじめをした生徒には言いたいことがたくさんあるとしながらも、まず自分の力が及ばなかったことを詫びるところから話を始めます。
 もちろんこれは彼なりの「誠実さ」なのだと思いますが、教師としては絶対にしてはいけないことですね。理解力の低い生徒、いじめをした生徒は「あ、俺たちは悪くないんだ」と受け取る危険性があります。
 先生が少女 Aのパートナーになることを受け入れる(彼はそのためにせっかく決まっていた教師のポストを諦めます)のもどうかしていると思います。そんなことをすれば、先生は一生少女Aに縛り付けられてしまいます。
 だから私は少女 Bの母親が少女Aを殺すのを見て、「ああ、これで先生は少女Aから解放される」といういかにもけしからん感想を抱いてしまいました。
 先生は善意の人に間違いはありませんが、優しさと弱さを履き違えているように私には思えました。だから、少女Bの母親の理不尽な要求も少女 Aの要求も際限なく受け入れてしまうーーどこかにキッパリ線を引くことができない人間であり、どこかにキッパリ線を引くことが本当の優しさだということを理解できない人間なのだと思います。
 先生は生徒が拾ってきた亀にアル���ートという名前をつけて教室で飼っていて、「あの亀は外来種だから日本の冬は越せない。アルバートはここでは生きられないんだ。でも、ある人はここでは生きられないーーそんな社会は間違っている」と言いますが、私にはとんでもなく「痛い」発言に思えます。「ここでは生きられない、でも他のところなら生きられる」というのがあれば、それでいいじゃないですか。そういう場所、その人が生きられるどこかを提供できる社会は「いい社会」だと思います。
 「意識高い系」の人々はこの芝居にアクチュアリティを感じ、「誰も悪くない。それなのにこんな事態が起きてしまう」と考えるのかもしれませんが、そんなことはありません。善悪正邪で考えても仕方ありませんが、悪いのは誰かと言うなら、少女 Bの母親(彼女は完全にモンスター・ペアレントです)とその母親の勝手な要求を唯唯諾諾と受け入れる教育委員会でしょう。
 似たような事態が現実に学校現場で起きているのをもちろん私は知っています。でも、学校でケアできないような障害を持っているなら、養護学校へ行くべきです。それを「他の子どもたちと同じように教室で勉強させたい」と言って、負担を学校や教師や生徒に押し付けるのは親のエゴでしかありません。学校や教育委員会はそれに対して毅然とした対応をとるべきです。その部分を揺るがしてはダメだと思います。
 「意識高い系」の人々はまた、この芝居に「生命の尊厳」を見るのかもしれないなあとも思います。でも、この芝居は「生命の尊厳」など訴えていません。もちろん少女 Aは少女 Bを殺したことを後悔します。でもそれは「少女Bだって誰か特定の人間に殺してほしかったに違いない。それなのに私が殺してしまった。それは間違いだった」という後悔であり、少女Bを死なせること、あるいは自分自身が死ぬことを否定しているわけではありません。
 随分ボロクソに書いているようですが、私はこの芝居が嫌いなわけではありません(この芝居が評価されるなら、私の芝居なぞは全く評価されないでしょうが、それはまた別の話です)。現に芝居終盤、難病にかかった少女Aのもとを先生が訪れる場面で、先生は乳母車の中に話しかけ、少女 Aは脇に立って普通にしゃべるという演出は好きでした。
 私はただこの芝居を誤読してわかったような気になっているヒューマニストが嫌いなだけです。
 中野さんはとても良かったと思います。この芝居ではカツラをかぶっているからでしょうか、私の妻は「中野さんってこんなにかっこよかったんだ」と言っていましたが、私も同じ思いです。
 私は軽妙な(あるいは軽佻浮薄な)中野さん、悪党の(あるいはラスボスの)中野さん、思ってもいなかったことに巻き込まれオタオタする中野さんを知っています(もちろん舞台での話です。現実の話ではありません。現実の中野さんは一緒にパリへ行き苦楽を共にした大切な仲間です)が、こういう「いい人」の中野さんを見るのは初めてでした。
 そういう演じ分けができるのはいい役者の証拠です。決してカツラだけの問題ではありません(笑)。
 坂本企画はこの後、この芝居を東京へ持って行って上演するそうです。パリ公演を行った私が言うのも変ですが、東京公演ってどうなるんですか。代表者の坂本さんは元々関西の人間だけれど、最近東京に拠点を移したとのことなので、集客の当てはあるのかもしれませんが、交通費や宿泊費はどう工面するのか、人ごとながらちょっと気になります。
 中野さん、東京でも頑張ってくださいね。
追記:  この芝居に関する私見を補足しておきます。
 この芝居に意外性はほとんどありません。少女Bがかかっていた難病に少女Bもかかるとか、少女Bに「結婚してください」と言われた先生が白い花束を持ってやってきて「結婚はできないけどパートナーになろう」と言うとか、思いもよらない展開はありますが、その部分で観客を驚かせることは作り手の意図ではないでしょう。
 ただ一つ意外性があるとすれば、それは次のようなことです。
 少女Aは自分がロッカーに閉じ込められ放置された経験から少女Bは死にたがっていると確信し少女Bを殺します。彼女は少女Bのことを思っていわば安楽死させたわけですが、このままだと「動くことができず、目も見えず、耳も聞こえず、話もできない人間は生きていてもしょうがない。死なせてやるべきだ」ということになってしまいます。
 しかし、同じ病気にかかった少女 Aは愛する先生に殺されることを願います。そこから彼女は少女Bもまた誰か特定の人に殺されたがっていたのではないかと考え、自分が殺したのは間違いだったのではないかと思い始めるーーこの芝居の唯一にして最大の意外性はそこにあります。
 障害者を安楽死させることをよしとしない結論は、ある意味予定調和でしかありませんが、この芝居は決して「障害者の人権」や「命の尊さ」を訴えているわけではありません。
 だって……少女Aは少女Bを殺したことを悔いているわけではありません。彼女は少女Bを殺すのが自分で良かったのかと疑っているだけなのです。
 その部分を取り違えるとこの芝居の持つ意味がわからなくなってしまうと思います。
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team-ginga · 28 days
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映画『青春かけおち篇』とドラマ『かけおち'83』(続き)
 続けます。
 康夫が部屋を出ていき、ひとり部屋に残った節子は目の前にある栓抜き(節子はその直前までビールを飲んでいたのです)をとり、視力検査をするように目に当てて「コ・ノ・オ・ト・コ・デ・ス・マ・ス」と言って立ち上がり、ポーズをとって「イエィ」と言います。
 美しいですね。
 康夫がプロパンガスのボンベを持って戻ってくると、節子はあちこちに仕事の電話をかけています。ガスでフラフラになった康夫に節子は「しっかりしなさいよ。土地付きの女はこれくらいのガスじゃ死にやしないの」、「あなたには馬車馬のように働いてもらうわ」と言い、康夫が「萩原さんは?」と尋ねると「昔の男なんて忘れたわ」と答えます。
 康夫が倒れ、節子が仕事の電話をかけ続けているなか後ろの襖が開き、蒸気機関車がこちらに向かってくるところが見えてオシマイ……
 いや、現実にはそのあとエピローグらしいものがあるのですが、私はこのドラマはここで終わるのが「粋」だと思います。だからビデオで見る時は(私は昔このドラマをビデオが擦り切れるくらい見ました)ここで見るのをやめていました。
 で、エピローグーー「一年後」というテロップが出て赤ん坊の鳴き声が聞こえます。節子の母親がやってきて産院の廊下で待っている康夫に「女の子です」、「康夫さん、長い間ありがとうございました。あなたしばらく実家に帰ってていいですよ」と言います。
 続いて節子の父親がやってきて、「おめでとう。名前はもう決めてあるから。直美、直美、いい名前だろ。私の初恋の人の名前なんだ」、「二人でめちゃめちゃに可愛がって母さんや節子を見返してやろう」と言って康夫に抱きつきキスをしようとするところでオシマイ。
 康夫と節子は結ばれましたというハッピーエンド(?)を見せると同時に、でも現実はそんなに甘いもんじゃないよというところを見せるつもりなのでしょうが……蛇足ですね。
 とはいえ、このドラマが私がこれまでに見た全てのドラマ、映画、演劇の中でオールタイムベストであること、福田陽一郎作・演出、木の実ナナ・細川俊之主演の二人ミュージカル『ショー・ガール』と並んで私の書く芝居の根底にその影響があることは動かし難い事実です(この5月に上演する『マイ・スウィート・スウィート・ホーム』でも『かけおち'83』からパクった……あ、いや影響を受けたセリフが少なくとも二つあります。まあ、私以外は誰にもわからないでしょうが……でも、だからこそ『マイ・スウィート・スウィート・ホーム』で共演する立山さんにこのドラマを勧めたのです)。
 では、それを映画にした『青春かけおち篇』はどうだったかというと……
 配役は節子役の大竹しのぶと京都の宿屋の板前役の酒井敏也を除いて全部変わっています。書き出しておきます。
       ドラマ     映画 節子     大竹しのぶ   大竹しのぶ 康夫     長谷川康夫   風間杜夫 萩原     沖雅也     田中健 節子の父   北村和夫    杉浦直樹 節子の母   松下砂稚子   岸田今日子 康夫の弟   萩原流行    永島敏行 萩原の運転手 平田満     柄本明 旅館の女中  中原早苗    渡辺えり 旅館の板前  酒井敏也    酒井敏也
 映画の方ではドラマには出てこない康夫の父親(名古屋章)や京都の旅館の女将(庄司歌江)も出てきます。
 ストーリーは節子と康夫がかけおちに行くあたりまでは基本同じですが、節子が萩原とのデートに行くために家を出ていくのを康夫が見つめるシーンで、節子が家のドアを開けると外は霧の立ちこめるスタジオで向こうに礼服に身を固めた萩原がいて、節子はいつの間にか真っ赤なワンピース姿になっていて、康夫に見せつけるように萩原と一緒にセクシーなダンスを踊るという大胆なというか訳がわからないというか、だからこそ私が大好きな演出がなくなっていたり、ドラマでは雨の中で萩原(沖雅也)が「節子さん、私はあなたを奪って見せます」、「好きな女ひとり自分のものにできないで、私の人生は一体何だったんだ」と叫ぶのに、映画では雨は降っておらず田中健演じる萩原(あ、映画では名前は早乙女になっていました、でも話がややこしくなるのでここでは萩原に統一します)が意外に淡々と同じセリフを言ったりするのは残念でした。
 先取りしていうと、康夫のラスト近くのセリフについても同じで、風間杜夫は拍子抜けするほど淡々とセリフを言っていました。つかこうへいの芝居の魅力は情念の迸りにあるーーそれまでかぶっていた理性の、あるいは虚勢の鎧がもう維持し��れなくなり、裂け目から本音が、情念が一気に迸る、それは見苦しくもみっともないが、そこには人間の真実の姿があるというのが、つかの特徴であり魅力である訳ですが、映画版ではそれがなくなっている訳です。
 そして……かけおち以降の展開はもうダメダメです。
 まず私が魅了された一連のシーンーー「歌う車掌」の「帰ってこいよ」から始まり大垣駅のホームでの「今日の日はさようなら」に至るシーンが完全にカットされています。
 ラストも酷い。
 まず節子と康夫の長台詞は大幅にカットされています。この物語の最大の見せ場なのになぜ?
 ドラマでは節子は栓抜きを目に当て「コ・ノ・オ・ト・コ・デ・ス・マ・ス」と言う訳ですが、映画ではガス栓を開けたまま康夫と一緒にずっと萩原を待ち続けます。
 え? それじゃあ物語の意味が変わってきちゃうでしょ。ダメじゃん。
 するとそこへ柄本明演じる運転手が包丁片手に着流しでやってきます。雇い主の萩原に心酔している彼は康夫を殺そうとしているのですが、ガス栓が開いていることにビビってしまい、康夫に捕まって彼らと行動を共にします。
 そこへさらに節子の父と康夫の父が現れます。彼らも同じように康夫や節子と一緒にガスが充満していく部屋で萩原を待つ羽目になります。
 最後に萩原が現れます。彼は「節子さん」と叫んで、襖を開けて中に入りますが、その際畳に落ちていた包丁(運転手が持ってきた包丁です)を蹴ってしまいます。包丁は勢いよくプロパンガスのボンベに当たり火花が散り、ガスに引火して爆発します。
 次のシーンでは関係者全員が包帯を巻いて入院しています。
 で、そのあとエピローグ。エピローグは基本同じですが、これでは節子が康夫を選んだという部分が完全に欠落していることになります。
 ダメじゃん。
 私は最初にドラマの方を見て魅了されたので映画に辛口になってしまうのは仕方ありませんが、それを割り引いても全くダメな映画だと思います。
 逆に言えば、映画『青春かけおち篇』を見たことで改めてドラマ『かけおち'83』の素晴らしさを認識したというところでしょうか。
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team-ginga · 28 days
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映画『青春かけおち篇』とドラマ『かけおち'83』
 演劇ユニット・チーム銀河は今年創立10周年を迎えます。
 それを記念して2014年の旗揚げ公演で上演した3人芝居『マイ・スウィート・スウィート・ホーム』という芝居を、5月18日(土曜)に京都・東一条の関西日仏学館・稲畑ホールで、5月24日(金曜)〜26日(日曜)に大阪・新町のいつもの劇場Regalo Gallery & Theatreで上演いたします。
 作は私、東浦弘樹、演出は増田雄さん、出演が『メフィスト』でも共演した私の憧れの女優さん白樫由紀子さんと、なにわニコルソンズの立山誉(ホマティ)さん、もちろん私も出演します。
 昨日3月21日はその初稽古でした。
 帰りにいろいろ話しているうちに私が大好きだったドラマ『かけおち'83』の話になりました。タイトルが示すように1983年(古い!)にNHKの銀河ドラマ枠で4日連続だが5日連続だかで放映されたドラマで、つかこうへい作、大竹しのぶ主演です。
 ホマティさんにこのドラマを薦めて、白樫さんに「このドラマのDVDは前に(『メフィスト』で共演した時に)貸したよね」と言ったら、白樫さんはドラマもDVDで見たけれど、映画の方も見たと言いました。
 家に帰ってU-Nextで調べると、『青春かけおち篇』という1987年の映画がヒットしたので、早速見てみました。
 でも……うーん、これじゃあダメです。台無しもいいところ。
 原作・脚本つかこうへいとあるので、つかの原作を誰かがメチャクチャに脚色した訳ではないはずですが……つかは本当にこんなものを書きたかったんでしょうか。それとも一応脚本はつかになっているけれど、どこからか圧力がかかって書きたいものが書けなかったのでしょうか。
 ドラマ『かけおち'83』は、数年前からのんべんだらりと生き、のんべんだらりと同棲してきた節子(大竹しのぶ)と康夫(長谷川康夫)の物語です(長谷川康夫は当時はつかこうへい事務所の役者でした。その後、役者は辞めて演出をしているようです)。
 二人は節子の実家で節子の両親(北村和夫と松下沙稚子)と一緒に暮らしています。あるとき、節子の父親の取引先から節子にお見合いの話が舞い込みます。
 節子には当然康夫という恋人がいます(康夫は長男ですが、弟が家業を継いでいるので養子に来ることができます。一人娘の節子やその両親にとっては非常に都合のいい存在なのです)。でも、「見合いの一つくらいしておかないと」という理由で(この辺りがいかにもつかですね)見合いに行くことになります。
 見合いの相手は年商80億の会社を裸一貫から立ち上げた萩原(沖雅也、「親父涅槃で待つ」と自殺する直前の出演です)ーー彼は節子が好きで高校生の時からずっと見守ってきたと言います。
 萩原の迫力に押され、節子はそのままデートを重ねます。しかし、萩原が結婚の申し込みに節子の家を訪れたとき、節子の母は「会社を捨てて家の仕事を継ぐのでなければ節子との結婚は許さない」と言います(節子の家は東京の一等地でレストランを3軒経営しています)。
 激しい雨の降るなか、節子の家の玄関先で萩原が言う……というより叫ぶセリフは実に魅力的です。彼は節子に言いますーー「でも私は諦めません。私はきっとあなたを奪ってみせます。そうでなければ、私はこの10年間一体何のために働いてきたんだ。好きな女ひとり奪うことができなくて、私は一体何のために働いてきたんだ。節子さん、私はきっとあなたを奪ってみせますから」。
 いいセリフですね。
 萩原は節子に相応しい男になるために必死になって働き、年商80億の会社を作り上げたわけで、これまた私が大好きな『グレート・ギャツビー』のギャツビーを思わせます。
 康夫は節子のすることに干渉しないという態度を貫いてきましたが、やはり気が気ではありません。そんな康夫に節子は、こうなったらもう二人でかけおちするしかないと言います。
 ここも実につからしい展開ですね。普通に考えれば……というかどう考えても訳がわかりません。でも、説明はつきます。
 節子はこれまでのんべんだらりと楽な方へ楽な方へと流れる生き方をしてきました。だから彼女の人生には何ら劇的な要素はありません。そこへ突然、萩原という大きな情熱を持った男、この上なく劇的な人物が闖入してきた。節子だって心が動いたはずです。
 そんな節子が康夫との生活を続けていこうと思ったら、萩原というこの上なく劇的な要素に匹敵するだけの劇的な何かがなければならない。それがかけおちです。
 二人が夜行���車に乗って京都(かけおちと言えば行き先は京都でしょう!)へ行くシークエンスは素晴らしいのひとこと!
 二人が夜行に乗っていると、まず東京ヴォードヴィルショーの花王おさむが「歌う車掌」として登場。マイクを持って乗客たちと松村和子の「帰ってこいよ」を熱唱します。
 続いて節子と康夫が座っている座席の後ろから突然、小林克也演じるDJ男が現れ、二人に話しかけます。二人はかけおち中のいとはんと板前になり、大阪弁で話始めます。小林克也はDJ口調で1977年のヒット曲(ジョン・レノンやポール・マッカートニーやオリヴィア・ニュートンジョン)の紹介をして、二人にマイクを渡して「歌いますか?」と尋ねます。「Sure !」とマイクを取り、二人が歌うのは……「昭和枯れすすき」(「貧しさに負けた/いいえ世間に負けた」というアレです)。
 痺れませんか。でもすごいのはここからです。
 節子は康夫とかけおちをしたものの萩原のことが忘れられません。大垣の駅で乗り換える際、節子は康夫に「牛乳買ってきて」と言います。「じゃあ買ってくるよ」と走り出した康夫を呼び止め、節子は指でピストルを作って「バン」と撃ちます。撃たれた康夫(といってももちろん本当に撃たれた訳ではないのですが)は胸を押さえてよろめきます。
 BGMに森山良子の「今日の日はさようなら」がかかり、それに合わせて節子も歌います。朝焼けのホームで二人のシルエットが映ります。
 すごくないですか。私は魅せられました。
 このシーンに何の意味があるのか私に問わないでください。もちろん節子の心象風景ですし、言おうと言えばなんとでも言えます。でも、これは言葉にすると野暮になるというやつですね(私は言葉を使った仕事をしていますし、言葉の力を信じています。だから、言葉にならないとか、言葉にすると野暮になるということは原則として言わないのですが、これは例外的なケースです)。
 康夫はやがてホームに仰向けに倒れてしまいますが、やがて何事もなかったかのように立ち上がり牛乳を買いに行きます。節子はその間に電話をかけます(当時はまだ携帯電話なんてありません。公衆電話です)。かけた先は……萩原のところです。
 節子は一言も喋りませんが、萩原は節子からの電話だとわかったのでしょう。近々バンクーバーに発つので一緒に来て欲しいと言います。節子は何も言わぬまま電話を切ります。
 二人は京都に到着、古風な旅館に逗留することにします。ここでもいろいろあって面白いのですが、それを書いているとあまりに長くなるので端折ります。
 圧巻はラスト近くの節子と康夫それぞれの長セリフです。私はこれほど素晴らしいセリフを聞いたことがありません。
 長くなりますがます節子のセリフを書き起こしします。
 うちは欲しい。愛は欲しい。無理な話だよね。私もいい加減な女だよ。  考えてみれば、あの萩原さんだっていい加減な人だよね。愛してます、愛してます���て、口ばっかりでさ。何にも行動に移さないもんね。何にもしないもんね。  無骨も最初は魅力だったよ。映画館に入ってさ、ちょっと手が触っただけでさ、「失礼! 自分はそんな男ではありません」。「自分」だって? 自衛隊じゃないってんだよ。  レストランに入ってさ、「節子さん、フォークどれ使えばいいんですか?」、「それよ」、「節子さんって物知りなんだな」、みんな知ってるよ。  「節子さん、フォークの背中にご飯乗っけて食べなきゃいけませんか? 僕、お箸使っちゃいけませんか?」、みんな我慢して食ってんだよ。マナーは我慢よ!  「節子さん、お料理なさいますか?」、「ええ、一応は」、みれみれこの口、女の口からは嘘しか出ねえってことが、あいつにはわかんねえのかよ。情けなくて涙が出るよ。  「萩原さんって、背が高いのね」、そういった途端、背伸びしてやがんの。ばか、高すぎるって言ってんだよ。  考えてみれば最初からおかしかったよ。最初からおかしかったよ。  「その持ち物、それはあなたが高校3年の時、書道展の時にもってらしたものですね。そのかんざし、それはあなたが大学4年の時、卒業パーティーでつけていらしたものですね。」たまんないよ。私だって忘れてるんだもん。そんなこと言われたら、誰だって好きになっちゃうよ。誰だって胸締め付けられちゃうよ。  「あなたの思い出の一つ一つが僕の人生の生き甲斐でした。僕の命でした。「純潔」と大きくしたためたあれからあなたは変わっていませんね。」、目ん玉キラキラさせて言うんだもん。「あなたはあれから変わっていませんね。」、「はい!」、言うしかないじゃん。  10年だぜ、10年。女の10年は、おのれの100年じゃあ。  「僕は10年間あなたを思って生きてきました。好きな女ひとり自分のものにできないで、僕の人生は一体何だったんだ。」  何だったんだって、何だったんだよ。  「節子さん、僕はあなたを奪っていきます。僕はあなたを連れて逃げます。」、「萩原さん、私あなたについていきます。あなたとなら幸せになれそうです。こんな女でもいいのですか」、「節子さん、雨の日も風の日も雪の日も、二人でどこまでも歩いていきましょう」、「あ、雨が。雪が。あ、鼻緒が切れてしまったわ」、「さあ節子さん、僕の膝に捕まって」……
 すごくないですか。これを当時25歳(かな)の大竹しのぶが言うんですよ。私は心を鷲掴みにされましたし、今見ても(書き起こすために見直している今この時も)涙なしに見ることができません。
 セリフの中の「みれみれ」は「みろみろ」の言い間違えかなと思いますし、途中画像がぼやけるところもありますが、おそらくこのシーンは一発撮り直しなしで撮ったのではないか、少なくともセリフの正確さや画質より演技を優先したのではないかという気がします。
 「僕の膝に捕まって」と言ってふと節子が顔を上げると、そこには康夫がいます。康夫は節子の独り言を聞いていた訳です。
 以下、康夫の長台詞を書き起こします。
 寂しかったな。  寂しかったよな。  大丈夫だよ。萩原さん、来てくれるよ。萩原さん、いい人だもん。  いや、俺は平気だって。俺、SLあるしさ(康夫はSLを撮影するのが好きなのです)。俺だって10年間そうやってダラダラ生きてきたんだもん。俺は全然平気だよ。  (電話が鳴る。)  電話だよ。萩原さんからだよ。出てあげなよ。  (節子は電話をとります。萩原は「節子さん、明日です。成田発20時30分。一緒に行ってくれますね。一緒に行ってくれますね」と言いますが、節子はそのまま電話を切ります。)  なんだって?  (節子は「明日8時30分成田発だって」と答える。)  (間)  あなたの思い出の一つ一つが僕にとってのかけがえのないものでした。あなたのその思い出の一つ一つが僕の命でした。僕はあなたをきっと奪ってみせます。あなたのその瞳も、その口元も、その手も、全てを僕のものにしてみせます。好きな女ひとり自分のものにできないで、俺の人生は一体何だったんだ。俺のこの10年間は一体何だったんだ。  俺、こういうこと言えなかったもんな。こういうこと言ってあげることできなかったもんね。  だってさ、俺、めちゃくちゃな男だもん。ひどい男なんだよ。もうとんでもない性格してるんだよ。やなやつなんだよ俺。嫌われてばっか。  (電話をとりダイヤルを回す。)  どこに電話してると思う? お前のお母さんに電話してんだ。  (電話口で)ああ、お母さん、あの、あのね、前にあの話してくれたことあるでしょ。節子がさ、萩原さんと結婚したら僕にお嫁さんとってうち継がしてくれるって、あれほんとですよね、あれ。お母さん、ちょっと、返事してくださいよ。あれほんとですよね。  ははは……また切られちゃった。お母さんにまで嫌われちゃったよ。だってさ、俺、生まれてからさ、人に好かれたことなんてないんだぜ。俺、みんなから嫌われてたんだよ。  (電話が鳴る。萩原の運転手・松田(平田満)からの電話。松田は康夫が節子の恋人だと知って康夫を詰り電話を切ろうとする。)  松田さん! 松田さん、聞こえる? あのさ、萩原さん連れてさ、すぐこっち来てくれないかな。すぐ萩原さん連れてきてよ。それじゃないと節子死ぬよ。ほんと死ぬんだから。ちょっと待ってよ。(部屋のガス栓を開ける。)ほら、この音聞こえるでしょ。ガスが出てんだよ。シューシュシュシュって聞こえるでしょ? ガス出してんだよ。節子はさ、萩原さんのことが愛おしくて、萩原さん来てくれないと死ぬって言ってんだよ。  俺? 俺、関係ないって。俺、関係ない男だって。絶対来てよ。ほんと絶対だよ。絶対来てよ。  (電話を切る。)  来てくれるってすぐ。飛んできてくれるってさ。大丈夫だって。萩原さん、俺のこと全然知らないもん。全然気にしてないさ。  節子、お前幸せになれよ。絶対幸せになれよ。あのさ、萩原さんと一緒になったらさ、ほらドライブとか連れてってくれよな。一緒に遊んでくれよ。俺、だから、そういうのできるからさ。お前、ほら、料理とか作ったらさ、ごちそうしてくれよ。俺のためにさ。萩原さんと3人でさ。俺、そういうの全然平気だもん。  全くシューシューシューシュー音ばっかりでたよんないガスだな。大丈夫だよ。俺たち気合い入ってるから、このくらいのガスで死にやしないよ、全くよ。どんどんどんどん来いっていうんだ。全くよ、関西のガスは効かねえよ。  俺よ、ちょっと足りないものがあるから下行って借りてくるわ。
 康夫はそう言って部屋を出ます。
 見苦しいですね。みっともないですね。どうしてここまで卑屈にならなきゃならないんだと思う人もいるでしょう。
 でも……それが素晴らしい。本気になった人間、必死になった人間は見苦しくもみっともなく、そして美しいーー私が好きなパターンですが、それを感じさせてくれるセリフです。
 ドラマはまだ続きますが、ちょっと書き疲れました。  続きは次回にします。
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team-ginga · 1 month
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山田との1日
 昨日(3月17日)はピッコロ演劇学校研究科同期の山田麻結と大阪・玉出のベトナム料理店「ホイアン」でランチ。
 玉出に行くのは初めてでしたが、ここってあの「スーパー玉出」の発祥の地という認識でいいんでしょうか。
 迷いに迷って山田は牛肉のフォーを、私はカリカリ塩豚ご飯のっけを注文。ベトナム前菜セット(えびせん、生春巻き、揚げ春巻き)とアヒルの丸焼き4分の1も頼み、食後はデザートにマンゴーを入れたタピオカ・ココナッツミルクと揚げバナナとベトナム・コーヒー練乳入りを頼んだので、お腹いっぱい。
 え? 料理の写真ですか。話が弾んでいたので全く撮りませんでした。
 11時に入店して結局出たのが15時頃。それから玉出の街を散策。
 西成劇場という大衆演劇専門の劇場があったり、寂れた商店街があったり、商店街に昔懐かし玩具屋があったので入ってみたり、スーパー玉出(元祖なんでしょうか)があったので入ってみたり……雨が降っていましたが、私は見知らぬ街を歩くのは好きなので結構快適でした。
 そのあとサンドイッチハウス兼喫茶店のようなところで「当店自慢のミックスジュース」を飲んで、別れたのは17時過ぎ。
 なんだかんだで6時間くらい喋り続けていたことになります。
 山田と会うといつもこんな感じーー歳は離れていますが気が合うんでしょうね。
 山田、また会おうね。
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team-ginga · 1 month
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レストラン「キャラント・キャトル」
 話が前後してしまいますが、3月14日(木曜)にある方の送別会に大阪・北浜のレストラン「キャラント・キャトル」(「44」の意)にディナーに行きました。
 久しぶりでしたが、いいレストランです。
 話が弾んでアミューズ・グール(突き出し)の写真は撮り忘れましたが、あとはバッチリ!(まあ私が撮ったのではなく、連れの方に撮ってもらったのですが……)
 ラインナップは次の通りーー
アミューズ・グール(突き出し):ホタルイカのマリネと野菜のムース(だっけ?)を詰めイクラを乗せたシュー
前菜1:タルタル状に細かく切った生のカワハギとその肝をあえて上に極小のホワイトアスパラを乗せたもの(写真では黄色く写っていますが、一番上に乗っているのが極小のホワイトアスパラです)。
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前菜2:半生の帆立貝にパプリカとリンゴのソースを乗せ独活(うど)を添えたもの
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スープ:人参のポタージュ 給仕の女性が「砂糖は入れていません」と言っていましたが、「砂糖を入れたんじゃないの?」と思うほど甘い!
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魚料理:本来は鯛でしたが、鮑に変えてもらいました。ソースはもちろん鮑の肝を使ったソース。 付け合わせはそら豆や菜の花。春ですね。
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肉料理:牛肉、鴨、子羊の三つから選択。我々は子羊を選びました。 追加料金なしで鴨や子羊が選べるのは嬉しい限りです。
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デザート:金柑のクレープ、グラタン仕立て 金柑のクレープにカスタードクリームをたっぷり加え、オーブンで焼いたものにカシスのアイスクリームを乗せたもの。熱々です。 熱いグラタンと冷たいアイスクリームのハーモニー。 もう随分前パリ・ブローニュの森の中のレストラン「プレ・カトラン」で食べた赤い果物のグラタンを彷彿とさせるデザートです。
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プティ・フール:マカロンとナッツのクッキー こういうのがあるだけで「特別な食事」という感じが出ますね。
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 これにエスプレッソ(なぜかこの店には紅茶がなく、ハーブティーしかありません。まあ私は断然エスプレッソ派だから問題はありませんが、紅茶派はちょっと困るかも)がついて、おひとりさま6,000円(プラス鮑の追加料金1,600円)。
 量はちょっと少なめですが、お得じゃないですか。
 いい店です。
 また贔屓にしようと思います。
 みなさまもどうぞお出かけくださいませ。
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team-ginga · 1 month
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『この話、したっけ〜約束の夕焼け』
 白樫由紀子さんが出演する劇団からくりの朗読劇『この話、したっけ〜約束の夕焼け』を大阪・大正のからくりスタジオで見てきました。
 白樫さんは『メフィスト』で共演し、今年5月に予定されている演劇ユニット・チーム銀河の次回公演でも共演することになっている女優さんです。
 長年在籍した大阪放送劇団を昨年退団したとのことで白樫さんの舞台を見るのは久しぶりでしたが、やっぱりいい女優さんだ、私の目に狂いはなかったと思い、こんなにいい女優さんと私が共演させてもらっていいものかとさえ思いました(そう言いつつもちろんちゃっかり共演させてもらいますけれど)。
 『この話、したっけ』はある家族の物語で、野球好きの少年と父親が河原でランニングをしているところから始まりますが、次の場面では父親はすでに亡くなっていて、高校生になった少年(雅之)は祖父(金造)、母(香津代)、姉(真弓)と暮らしています(この真弓役が白樫さんです)。
 祖父・金造は熱烈な阪神ファンで、「カレーは食わん」と言ったり、平気で食卓でオナラをしたり、やりたい放題ですが、テレビで阪神ー巨人戦を見ていて興奮しすぎたのか死んでしまいます。
 天国に行った金造は亡き妻・はつや息子・利夫と再会。本来なら寿命はまだ尽きていなかったのですが、どんどん頑迷になっていく金造を見かねてはつが天国に呼んだことがわかります。
 金造が「そんな勝手なことをされては困る」、「わしは現世に戻って阪神の優勝を見たい」と言い張るので、天国のハートカウンセラー(?)銀次は特例として金造に1日だけ現世に戻ることを許可します。
 ここまでくればあとの展開はわかりますよね。金造は家族がどれほど金造のことを好きだったかを知ることになるというお話で、甘いと言えば甘いのですが、私が見た劇団からくりの芝居(この劇団にはピッコロ演劇学校で同期だったマッキンが所属していたので結構見ているはずです)の中では一番いい芝居だったと思います。
 何より面白いと思ったのは、朗読劇だけに衣装は全員黒で舞台には椅子が数脚あるだけで、役者が交代で語り手になり、普段は読まれることのないト書きを読むというところです。
 金造が真弓のバラの匂いがする高級石鹸を使って真弓が怒る場面で「バラの匂いに包まれる金造」なんてト書きが読まれたときには思わず笑いが漏れましたし、私は白樫さんが「暗転!」という時の言い方が好きでした。
 この芝居はボイス・シアターと銘打たれていますが、その意味ではこの言い方は不適切ですね。役者は本を手に持っていて動きらしい動きはしませんが、それでも物語の推移に合わせて舞台上で移動するわけで、その少ない動きや顔の表情が観客の想像力を刺激します。
 おかしいなと思うところもあります。現世に戻ってきた金造は雅之と架空の野球の試合の実況をします。対戦相手はジャイアンツ。こちらは阪神……かと思いきやさにあらず金造たち一家で、雅之は9回裏2アウト満塁で打席に立ちます。
 金造は銀次に「頼む、打たせてやってくれ」と言いますが、これって変じゃないですか。そもそも一家がジャイアンツと野球の試合をするという意味がわかりませんし、架空の試合なのだから結果は自由に作れるはずーーそれなのに「頼む、打たせてやってくれ」というのは理解できません。
 また、爺ちゃんの頑固ジジイ振りを見かねた婆ちゃんが寿命がまだ尽きていない爺ちゃんをあの世に呼ぶというのもどうかと思いました。もちろんそれがあるから1日だけ現世に戻ることが可能になるわけですが、寿命がまだあるのに死なせることの善悪とか、それは愛なのかエゴなのかとか余計なことを考えてしまいました。
 とはいえ久しぶりに白樫さんの舞台を見ることができて私は満足です。
 よーし、これから白樫さんとの稽古ーーがんばるぞ!
 
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team-ginga · 1 month
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映画『ペギー・スーの結婚』
 NHK. BSの「お昼の洋画劇場」(勝手に命名)で『ペギー・スーの結婚』(1986)をみました。
 全く予備知識なしで見たのですが、監督はあのフランシス・フォード・コッポラなのですね。私はあまりコッポラを評価しておらず、『ゴッド・ファーザー』も『地獄の黙示録』もそれほど好きではないのですが、これはなかなかいい映画だと思いました。
 主演はキャスリン・ターナー、共演はコッポラ監督の甥っ子でもあるニコラス・ケイジ。まだ売れる前(なのかな)のジム・キャリーやコッポラの娘のソフィア・コッポラも出演しています。
 キャスリン・ターナー演じるペギー・スーは二人の子どもをもつ43歳の主婦ーー高校の同級生で卒業後すぐに結婚した夫のチャーリー(ニコラス・ケイジ)とは別居中で離婚を考えています。
 高校の同窓会に出席したペギーはそこで気を失って倒れてしまいます。ハッと気がつくと彼女は高校3年生に戻っています。つまりペギーは25年前(1960年!)にタイムスリップしたわけです。
 高校生のペギーは同級生のチャーリーと付き合っていますが、その後のことーー結婚後チャーリーは浮気をしたようですーーを知っているので、チャーリーとの交際を続けることを迷っています。
 ペギーは文学少年のマイケルに惹かれる一方、物理学オタク(?)で将来は有名な物理学者になるリチャードに事情を打ち明けます。
 ペギーの心が自分から離れようとしていることに気づいたチャーリーは気が気ではありません。
 そんなリチャードをよそにペギーはリチャードに未来の話をして、彼に様々な発明をさせようとします(おいおい、そんなことをしたら未来が変わってしまうじゃないかとちょっとハラハラしました)。
 ペギーは誕生日の前日に祖父母の家に行き、事情を打ち明けます。祖母に「あなたにとって一番大切なものを選びなさい」と言われたペギーは「二人の子どもに会いたい」と言います。
 翌日(なのかな)、祖父はペギーを怪しげな集会に連れて行きます。タイムトラベルを研究する秘密の集会のようです。会のメンバーたちがペギーを祭壇に上げ祈りを捧げると、突然電気が消え、再びついたときにはペギーはいなくなっています。
 ペギーは未来に戻ったのだと会のメンバーたちは考えますが、さにあらずーー電気が消えている間にチャーリーがペギーを攫ったのです。
 チャーリーはペギーにプロポーズをしますが、ペギーは「あなたと2度も結婚するなんて真っ平よ」と断ります。しかし、チャーリーは諦めず、誕生日プレゼントと言ってペンダントを差し出します。
 このペンダントはペギーにとって思い出の品で、同窓会に出席したときにも身につけていたもので、開くと中にペギーとチャーリーの二人の子どもの幼い頃の写真が入っています。
 ペンダントを開いたペギーはそこに二人の子どもの写真が入っているのを見て驚きます。「どうして?」というペギーにチャーリーは「何を言ってるんだ? これは君と僕の子ども時代の写真じゃないか」と答えます。
 それから二人は抱き合い、気がつくとペギーは元の時代に戻り、病院のベッドに寝ています。ベッドの脇には心配そうなチャーリーの姿があります。
 チャーリーは「浮気相手とは別れた。許して欲しい」と言い、ペギーは「時間を頂戴……でも、今度の週末にはうちに食事に来て」と言ってハッピーエンド。
 もちろんこうなると思っていました。というか、こうならなければ嘘ですよね。でも、正直「詰めが甘いなあ」と思います。
 ペギーはほんとにタイムスリップしたのか、単に気を失っている間に夢を見ただけなのかはともかく、その特異な経験によって彼女は自分の人生を生き直す、そしてそのことによって何かが変わるという展開は素敵だと思います。
 カミュが『シーシュポスの神話』で書いている「何一つ変わらないが、全てが変容する」というやつですね。わかりやすく言えば、客観的には何一つ変わらないが、主観的には全てが変わるということです。さらに言い換えれば、自分の人生と和解するということかもしれません(客観的に何かが変わってしまうと台無しです。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に対する私の不満はそこにあります。あ、そういえば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は1985年の映画ーーつまりこの『ペギー・スーの結婚』の前年に作られた映画です。この時代はそういうものが流行ったのかな)。
 でも、そのためにはペギーとチャーリーの間にもっと突っ込んだ……というのか、それこそ全てを変容させるようなやり取りがなければならないと思います。
 そこで子どもを出すのは……うーん、どうなんでしょう(そもそも一番大切なものが子どもだというのは、私はにわかには賛成できません。それにペギーには男の子と女の子がいるはずですが、男の子が一度も物語に登場しないのはどうしてなのでしょう)。
 とはいえ、こんなふうに「現実の人生」と「あり得たかもしれない人生」を並行して描くのは、実に私好みのストーリーです。なにしろ私の戯曲はほとんど全てがそうなっていますから。
 一つの映画の中で18歳と43歳とを演じるのは大変だろうなあと思って役者の実年齢を調べたら、1954年生まれのキャスリン・ターナーは当時32歳、1964年生まれのニコラス・ケイジは22歳。
 中途半端やなあ!
 どうせなら本当に40代の役者に高校生を演じさせるか、本当に10代の役者に中年を演じさせるかすれば面白いのに。
 まあ、いいや。決して名作・傑作ではありませんが、ちょっと心に残る作品でした。
 コッポラはこんな映画も撮ってたんだ。
 
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team-ginga · 1 month
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映画『アムステルダム』
 Amazon Primeでデヴィッド・O・ラッセル監督の映画『アムステルダム』(2022)を見ました。
 ほとんど予備知識なしに見たのですが、いやあなんというか「惜しい映画」ですね。
 時は1933年ーースラム街(なのかな?)の診療所で働く医者のバートが、黒人弁護士のハロルドの仲介で、第一次大戦中彼らの上官であったミーキンズ将軍の遺体を解剖することになる。その結果、将軍は何者かに毒殺されたことがわかる。バートとハロルドはそのことを将軍の娘リズに報告に行こうとするが、リズは二人の目の前で自動車に轢かれて死んでしまい、二人はリズ殺害の容疑者に仕立てられるーーという最初のシークエンスはなかなか魅力的です。
 そしてそこから第一次大戦に時間を遡り、バートとハロルドの関係、さらにはヴァレリーという謎の女性との関係が語られるのはワクワクします。
 特に素晴らしいと思ったのが、バート、ハロルド、ヴァレリーの友情です。恋をするのはハロルドとヴァレリーで、バートは邪魔者といえば邪魔者の立場なのですが、ハロルドもヴァレリーもバートを邪魔者扱いすることなく、バートもいじけることなく、3人で本当に楽しそうにしているのが実に微笑ましく、私が10年前演劇ユニット・チーム銀河の旗揚げ公演のために書いた『マイ・スウィート・スウィート・ホーム』を少し思い出しました。『マイ・スウィート・スウィート・ホーム』もある夫婦とその友人の男二人、女一人の友情の物語だからです。
 で、物語は再び1933年に戻り、バートとハロルドはヴァレリーと再会し、自分たちの濡れ衣を晴らそうとするうち国家的な陰謀(!?)に巻き込まれていきます。
 この映画はどうやら第一次大戦の英雄である将軍がムッソリーニやヒトラーを支持するアメリカ人ファシストの陰謀を告発したという史実を使い、そこにバート、ハロルド、ヴァレリーの架空の物語を加えたもののようですが、残念ながら我々日本人にはピンとこない部分があります。
 全体としてバート、ハロルド、ヴァレリーの友情��物語は素晴らしいし、ユーモラスな語りも面白いのですが、余計なものが多いというのかな、そのせいで面白さがストレートに伝わってこないきらいがあります。
 例えば、ラスト近くで陰謀が暴かれる場面で、バートはおかしな目薬を差してしまったため目の前で何が起きているか十分に理解できず、ぼーっとしているだけです。一番大事な場面で主人公がそんな状態でいいんですか。なぜそんな設定にしたのか理解に苦しみます。
 また、バートとハロルドは第一次大戦中に戦場で出会い、傷を負ってフランスの病院に入り、そこで看護師をしていたヴァレリーと出会い、3人でオランダのアムステルダムへ行ってしばらく一緒に暮らします。だから3人にとってアムステルダムは幸福と友情のシンボルであるわけですが、なぜフランスの病院で出会った3人がアムステルダムへ行くのかよくわかりません。
 ラストでもハロルドとヴァレリーは船でアムステルダムへ行こうとするのですが、彼らの仲間(MI6のエージェントとCIAのエージェント)は「この船はアムステルダムへは行かない。アムステルダムはいつゲシュタポが来るかわからないから危険だ。君たちはもっといい場所へ行く」と言います。
 え? それって話がおかしくないですか? 「もっといい場所」ってどこですか?
 そもそも3人の幸福と友情の地はヨーロッパならどこでも良かったはずです。それならアムステルダムにせず、チューリヒとかローザンヌにしておけば良かったんじゃないですか。監督はアムステルダムに何か思い入れがあったんでしょうか。
 主人公のバートを演じるのはクリスチャン・ベイル。『アメリカン・サイコ』に出ていた役者ですね。クリストファー・ノーラン監督の『プレステージ』にも出てましたっけ。
 ヴァレリーを演じるのはマーゴット・ロビー。パリ行きの飛行機の中で見たデイミアン・チャゼル監督の『バビロン』に出ていた女優ですね。『バビロン』では映画スターになるためならなんでもする奔放な女性を演じていました。
 ハロルドを演じたのはジョン・デイヴィッド・ワシントン。私は全くわかっていませんでしたが、クリストファー・ノーラン監督の『TENET』の主演の男優ですか。
 ヴァレリーの兄で富豪のトムを演じたのはラミ・マレック。顎が張っていて特徴のある顔だなと思っていましたが、『ボヘミアン・ラプソディー』でフレディー・マーキュリーを演じた役者なんですね。
 トムの妻リビーを演じたのはアニャ・テイラー=ジョイ。『ウィッチ』や『スプリット』や『マロボーン家の掟』や『ラストナイト・イン・ソーホー』に出ていた女優で、この人も特徴のある顔(目と目の間が広い!)ですね。
 それに忘れちゃいけないロバート・デ・ニーロも出演。
 そう考えていくと「豪華キャスト」ということになるのかな。でもこの映画あまり売れず、大赤字だったそうです。
 そうなんだ……
 いや、悪い映画だとは全く思いません。好みから言うと私の好きなタイプの映画です。
 もうちょっと余計なところは削って、ストレートに物語を伝えてくれれば、こちらに余計な疑問を感じさせないような作りにしてくれれば、私自身は大好きになっていたに違いないと思います。
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team-ginga · 2 months
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散歩で見た風景
 パリ公演から帰ってきてずっと体調が悪かったのですが、このところ少し回復の兆しが見えてきたので、毎日7千歩の散歩を再開しています。
 さすがにどの道も見慣れてきて新鮮味がなくなってきたのですが、それでも一本脇へ入れば見たことのない風景に出会うこともあります。
 例えば武庫川沿いの菜の花畑
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 西宮北口と武庫之荘を結ぶ橋(正式名称は知りませんが、地元では「ガリガリ橋」と呼ばれています。昔は橋の幅が狭く、車がガリガリと車体を擦って通っていたとかなんとかいう話からついた名前のようです)から撮ったものです。
 また例えば、「荷馬車がゴトゴト仔牛を乗せていく」という名曲『ドナドナ』の一節を看板に掲げた焼肉屋
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 なんだか食べるのがかわいそうになりそうですが、「それはそれ、これはこれ」ということなのでしょう。ちなみに裏側には「牛さんありがとう」とありました。こちらはフツー……なのかな?
 また例えば、「きむらたくや整形外科」という整形外科の看板
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 もちろん院長がそういう名前なんでしょうが、絶対狙ってますよね。ひらがなで書いてあるということは、「たくや」は字が違うのかな。でも、小学校、中学校では随分いじられただろうなと推測します。
 きれいなもの、面白いものを見つけるのにわざわざ遠くまで行く必要はない、近所にだってそういうものはあるーーというところでしょうか。
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