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madorominonaka · 7 years
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たかが世界の終わり
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 家族とは、と聞かれると、あたしはいつも喉が詰まりそうになる。映画や文学のなかで語られる家族像は、あたしにとってははるか遠くに位置するもので、家族について考えようとすると、あたしの頭のなかでは、いろいろな思い出や感情が絡みあってほどけなくなる。「家族」のことをあたしは大嫌いでそしてこころの底から憎みきれない。だからこそときどきこのひとたちのことをこころの底から大嫌いになって捨てちゃってあたしは「家族」というしがらみから自由になりたいと思う、それぐらいあたしにとって家族と関係を持ち続けることはとても難しくて、人生と同じように一筋縄ではいかない厄介な存在だ。「家族だから」と言われると無性に苛ついたり、納得したりを繰り返している。この物語は、ひとつの家族のそういった苛立ちや100%の理解を求めてしまう怠惰やそれでも大嫌いになれない愛のこもった、ある一日の出来事だ。それはひとが一生で経験するであろう・もしくはあたしが21年間で経験した家族におけるいろいろな感情をギュッと2時間に濃縮している。くだらない会話、無意識に溢れ出る敵意、それでも奪うことのできない愛についてを、これまで「母・息子」という関係を鮮明に描いてきた若き天才、グザヴィエ・ドランが描く最高傑作。
 劇作家のルイは12年ぶりに帰郷する――じぶんの死を告げるために。夜中の飛行機のなか、かれのモノローグから始まり、そして故郷へ。母、兄、ルイのことを覚えていない妹、そして会ったことのない兄の妻。気詰まりの一瞬、そして抱擁、頬へのキス。そして苛立ちとともにはじまる一日。
 かれはなにを思って帰郷を決意したのだろう。ひとが、ある日、いままで一度も振り返らなかった道を振り返り、引き返そうとするのはどうしてなのだろう。恐怖を抱きながらも故郷へ戻るのはほんとうに家族に会うためなのだろうか。ルイは死を目の前に自分自身という存在を残しておきたかったのではないか。たとえば、晩年にいたったルソーが「すべてを語った」『告白』を書き記したり、ロバート・メイプルソープが死のセルフ・ポートレイトを残したように、この世界に自分の残像を確実に残したいという衝動は、はるか昔から芸術家の間で行われてきている。結局はかれの持つセンチメンタリズムとヒロイズムが帰郷を決意させたんだとおもう。だって、かれは自分が一番不幸だと思っていたんじゃないかと思ったから、少なくとも家族のなかでは一番。兄はぼくに無関心で、母はぼくを理解しない。だけど、そんなことはなかったんじゃないかって気づいてももう遅いことにかれは絶望する。兄はかれの秘密を知っていて、母は理解できないかれのことを愛している。
 ルイはもう手遅れだと気付いている、もう離れていた時間は取り戻せない。だけど、ひとつ救いなのは、かれのなかに残る家族の思い出がとっても煌めいていて色あせることなく輝いていること。もうかれに残された時間はきっと少ない。もしかしたらもう二度と家族と顔をあわせることなんてないかもしれない。だけど、かれは家族を失ったわけではない。この物語は家族の崩壊ではない。結局ドランがいうように「家族は家族だ」、この言葉が結局はしっくりくるのだ。家族とはなんて聞くものじゃない。
たかが世界の終わり
Juste la Fin du Monde/2016/カナダ、フランス/99分/ギャガ/監督:グザヴィエ・ドラン/出演:ギャスパー・ウリエル、レア・セドゥ、マリオン・コティアール、ヴァンサン・カッセル、ナタリー・バイ [PG12]
©Shayne Laverdiere, Sons of Manual
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madorominonaka · 7 years
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ヒップスター
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 ちいさいころ、あたしは周りにいたひとたちよりもずっとずっと強くおとなになりたいと思っていた。あのころは周りのことなんて気にする余裕なんてなかったけれど、いまふと振り返るとそう感じる。おとなになれば、いま抱えているすべてが解決出来るものだとおもっていた。もちろん大嫌いなおとなも最低だとおもっているおとなだっていたけれど、それでもおとなは偉いのだと、そしてすべてを解決出来るぐらいに余裕のあるひとびとなのだと思っていた。けれど、20歳を超えてしまったいま、それはまったくもってまやかしだったことを知る。おとなになればなるほど、あたしを取り巻く世界は複雑化していき、あのころ抱えていた言葉にならない焦燥や不安はどんどん増していっている。はてはて、あのころ思い描いていたおとなに、あたしはいつか近づけるんだろうか、いつか気がついたときには、あたしがなりたくないと唾を吐きかけたようなおとなになってしまっているんじゃないの、っていう不安がいまもやっぱり心のどこかで消えることなく渦巻いているよ。そして、21歳の冬、あたしは『ヒップスター』に出会う。
 ミュージシャンとしてじわじわと地元のひとびとから注目を浴びながらも、音楽を創っている行為は無意味だと嘆く。だけど、彼が悲しみ苛立ちがこみ上げたとき、彼が真っ先��向かうのは作曲をするときにも使用している自分の寝室なのだ。彼は苛立ち、ドラムを叩く。彼が感情を表にするのは音楽なのだ。そして彼はいつだって孤独なのだ。仲のいい姉妹たちと楽しく遊んでいても、親身になってくれる友達がいたとしても、それは彼の孤独とは関係のないところにある。そういうのって誰でも経験することなのだろうか。恋人がいても、家族や友達に囲まれていても、あたしはときどき誰かの孤独やさみしさを肩代わりしてしまったような感覚に襲われることがある。幸せであるということと、孤独ではないということは比例の関係にはないのだ。
 あたしのことはあたしが一番よく知っている、だれにもあたしのことなんて簡単に理解させてやらないんだから。そうやって強がってあたしはひとりで生きてきたみたいな顔をしてひとりで生きていくんだと顔を上げて歩くけど、実際のところあたしのことをあたしが一番わかってあげられていないの。きのう眠るまえに考えていたことだって、眠って起きたら忘れちゃってるぐらいあたしはあたしのことが不可思議で仕方ない。お金を稼がなくっちゃ生きていけなくて、やることが山積みで、ときどき誰かを傷つけてしまったり傷つけられてしまったりして、その度毎に立ち止まってしまうちっぽけなあたし。ときどきこの世界なんて大嫌いだと本気で思ってしまって、この世界の滅亡について考えちまうくらいに弱ってしまうけれど、あたしはこの世界でたった一人で立っていると同時に、あたしの周りにはあたしのことを理解できない、だけど理解しようとしてくれるほんのちょっとの人が居てくれるからこの世界が滅亡しなくてよかったと思っている。監督であるクレットンは孤独を通して、アメリカの、いやこの世界が素晴らしくワンダーだってことを伝えてる。『ヒップスター』は、たくさんの悲しいことに打ちのめされる日々のなかで、あたしたちが幸福だったことを忘れないように、笑ったり泣いたりしたその日々を忘れないように、思い出させてくれる。
監督•脚本:デスティン・ダニエル・クレットン 出演:ドミニク・ボガート、アルヴァロ・オーランド 他
I'm Not A Hipster/2012年/アメリカ/91分/配給:ピクチャーズデプト
©2012 Uncle Freddy Productions LLC.
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madorominonaka · 8 years
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シング・ストリート 未来へのうた
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 ゴミ溜めだったあたしのなかからあたしを救い出してくれたのは、間違いなく音楽だった!たった3分間が、どん底の日常を、ときには人生さえも、救い出してくれることができるなんてあたしはいまでもあのときのことを思い出して驚嘆してしまったりする。でも、確実にその3分間はあたしにとって、そしてその他音楽に救い出されたひとたちにとって、消すことのできないかえがえのない3分間になってしまうのだ。あたしは、無敵になれた。世界があたし中心で回ってるとさえ思えてしまうほど無敵だったあのころ。そしていまだってあたしはいつでも無敵になれるんだ。世界はあたしを中心で回っていないことはもうとっくの昔に分かってしまったけれど、無敵になれる瞬間があるってことをあたしはこの映画を観て思い出す。
監督:ジョン・カーニー 製作:アンソニー・ブレグマン、マルティナ・ニランド、ジョン・カーニー 製作指揮:ケビン・フレイクス 出演 フェルディア・ウォルシュ=ピーロ ルーシー・ポイントン ジャック・レイナー マリア・ドイル・ケネディ エイダン・ギレン
PG12/アイルランド、英、米/106分/ギャガ ©2015 Cosmo Films Limited. All Rights Reserved
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madorominonaka · 8 years
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アメリカン・スリープオーバー
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 お泊まり会なんてあたしの学生時代にはなかった。ああ、なんてドキドキする響き!あたしの、いわゆる青春と呼ばれる時代には存在しなかった、こんなにもドキドキする行事を、あたしはスクリーンを通して思い出す。この映画は、アメリカの小さな町で巻き起こる「スリープオーバー」にまつわる一夜のおはなし。
 新学期を直前に控えた、最後の自由な夏の夜を楽しもうと、お泊まり会は開催される。パーティーにお酒に爆音の音楽。アメリカの青春映画を見慣れたあたしにとってはこれが青春の見どころで、両親の不在をいいことに庭についているプールに飛び込んだり、両親の寝室が無料のラブホテルになったり、酒とドラッグで頂点に上り詰める。だけど、この映画で描かれるそれはもっと地味なもの。お気に入りの映画を観たり、スナック菓子を頬張ったりしながらいつの間にか眠りに落ちる。違う家の子のパーティーに呼ばれた大好きな女の子、または男の子のことを考えながら。
 ティーンエイジャーと呼ぶにはちょっと幼さが残る少女たち(マギーとベス)、転校したての女の子(クラウディア)をお泊まり会に誘う誰とでもセックスしたい女の子(ジャネル)とそのまわりの子たち、一目惚れしがちな男の子(ロブ)と親友(マーカス)。進路に迷っている大学生(スコット)。みんながそれぞれ違う悩みを抱えながら、それぞれの一夜を過ごす。
 青春を終えた大人たちの繰り返すこの時代への賛美や羨望は、今を生きるこのころにはわからないものだったりする。なんて皮肉な世界なの!だけど、あたしはあのころ感じた興奮や憂鬱、気恥ずかしさを映画のスクリーンにうつる世界を通して思い起こすことが出来る。不思議と鮮明に。それはあたしがまだ青春の真っ只中にいるからなのかもしれないし、これからおばちゃんになってもおばあちゃんになってもずっと変わらないのかもしれない。不思議と憂鬱にばかり飲み込まれていたあたしを救ったのは音楽であり映画であり文学だった。これらは色あせることなくあたしのなかに染み込んで体の隅々に溶けていってしまうかのよう。悩みは尽きることがなかったし、興味だって尽きることはなかった、そして憂鬱だってそう(そして今でも!)。あのころ、大人はみんなもっとまっすぐにきちんと社会に生きているひとたちなのだと勝手に思っていた。だから悩みや憂鬱、興味さえも尽きることのないあたしはまだまだ子供なんだと。だけどさ、あのころ思い描いた二十歳が終わろうとしている今でも、あたしはいろんなことに悩んでいて、憂鬱に飲み込まれそうな夜をひとりベッドの上で過ごしていて、そして興味はもっともっと尽きることがなくなってしまった!きっと青春に終わりなんてないのかもしれないと最近は考える。実は生きているひとみんな��青春は開かれているのかもしれない。お酒を片手にふらふらと夜通し街を遊びまわって、大好きな子のうちに招待されたときはドキドキして、だれかの横顔に恋い焦がれる夜があって、なにがそんなに面白いのかわからないのに笑っちゃったりして!
 あたしに起こらなかった、または起こった青春が目の前に映し出されたとき、あたしは夢を見る、そしてあたし自身を見る。この世界はあんまりにも歪で、それでいて美しい。青春はいつだって楽しくて、憂鬱で、そして美しいものなんだって教えてくれる。
監督:デヴィット・ロバート・ミッチェル 製作:アデレ・ロマンスキー 撮影:ジェームズ・ラックストン 編集:ジュリオ・C・ペレ4世 音楽:カイル・ニュースマスター、ウィリアム・ライアン・フィンチ
出演 クレア・スロマ マーロン・モートン アマンダ・パウアー ブレット・ジェイコブソン
The Myth of the American Sleepover/2010/97分/製作:ローマン・スプリング・ピクチャーズ 配給:??
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madorominonaka · 8 years
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さざなみ
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毎日ずっと一緒に遊んでいた女の子のことを思い出した。部活も一緒で、帰り道も途中まで一緒で、休みの日は絶対一緒に遊ぶような子だった。彼女のことはなんでも知っていると思っていたし、あたしが一番彼女に近いと思っていた。誰が好きなのかも、親とのいざこざも、誰かの悪口だって、聞いていた。だけど、そんなことなかったかのように、ふと気づくとあたしは一人になっていて、彼女は別の親友を見つけていて、あたしはどうしたらいいのかわからなかった。彼女への戸惑いや勝手な怒りは、表に出すことも出来ず、あたしは学校で友達と呼べる子を作らなくなった。これは、中学校での話で、それは高校でも変わらなかった。だからあたしは親友という言葉にすこし抵抗があるのかもしれない。
どれだけ一緒に居ても、どれだけたくさんの話をしても、人と人には埋められない溝があるってことを、どうしても忘れてしまう時がある。忘れたいだけなのかもしれない。一緒にいる期間が長ければ長いほど、忘れてしまう。彼が凝り性で、だけど何度トライしても読みきれなかった本が、本棚に積まれていることを知っていて、45年間互いを愛し合っているとしても、裂け目は突然現われる。
さざなみは、じきに結婚45周年を迎える夫婦、ケイトとジェフのまえに突然現われた裂け目のはなし。いつものように始まる月曜日。ケイトは、いつものように近所の公園を愛犬と散歩して、家に帰る。すると、ジェフ宛にスイスから手紙が届いている。50年以上前に、雪山で亡くなった、かつてのジェフの恋人であるカチャがその当時のまま発見されたという知らせだった。一心同体だと思ってきたこの結婚生活に、突然現われた元恋人の存在。出会う前の出来事に腹を立てるなんて出来ないでしょう、と口にするケイトの心は、静かに、だけど確かに燃えていく。何も隠そうとしないジェフとその素直さに苛立ちを隠せきれないケイト。しかし、結婚45周年パーティーは、目前に迫っていた……。
あたしが、彼の、または彼女のすべてを知り尽くしている、と思うことはなんて危険なんだろう!突然、突き放されたら、きっとダメ、あたしの心は折れてしまう、ってあたしは、時々防衛戦を張ってみて、大人びたように振る舞ってみる。でも心の中はカッコ悪くて、ビクビクしてるのよって誰かに叫びたくなることがあるね。他人のことを100%理解出来るなんて、どうして思っちゃうんだろう、あたしのことを100%理解出来ないでしょって突き放すくせにね。
信じることは、疑うということ、と誰かが言っていた。あっけなく通りすぎていっちゃう人たちが何億人といるあたしの人生において、あたしが好きになったひとたちのことくらい、信じたいし、だけど疑ってかかって、また信じて、突き放されちゃって、あたしはまた誰かの手を握るのだろう。それくらいあたしはロマンチックに生きて死んでいきたいのよ。
監督・脚本:アンドリュー・ヘイ 製作:トリスタン・ゴーライアー 原作:デヴィッド・コンスタンティン『In Another Country』 撮影:ロル・クローリー, BBC 編集:ジョナサン・アルバーツ
キャスト シャーロット・ランプリング(ケイト・マーサー) トム・コートネイ(ジェフ・マーサー) ジェラルディン・ジェームズ(リナ) ドリー・ウェルズ(サリー) デヴィッド・シブリー(ジョージ)
2015/イギリス/95分/原題:45 YEARS 配給:彩プロ 
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madorominonaka · 8 years
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わたしの自由について -SEALDs 2015-
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2015年夏、大戦以降、平和国家として歩み続けてきた70年間が幕を閉じようとしていた。安倍晋三政権率いる自民党によって、集団自衛権の行使容認を含む新しい安全保障関連法案が提出された。この事態を機に、世界一政治に無関心といわれた日本の国民、とくに若い世代が危機感を持つこととなる。東京を中心に立ち上がった学生団体「SEALDs」(Students Emergency Action for Liberal Democracy-s)が、毎週金曜日、国会議事堂前で抗議運動をはじめ、さまざまな形で異議を唱えると、それは日本全土に広まり、若い世代を筆頭に、この法案に異議を唱えたのだ。この映画は、その若者たち数名が、手探りではじめた社会運動の、半年間の記録である。
そこに溢れだすのは、ほんとうにあたしと同じ年ぐらいの女の子や男の子が、雨にずぶ濡れになったり、真夏の日差しを受けて汗を流しながら、自分の言葉と思いを紡いで、世界と真摯に向き合おうとしている姿だった。あまりにも誠実に、彼らの不安や憤り、苛立ち、勇気、そして希望が映し出されていて、そこには確かに青春が詰まっていた。もっと見ていたいとさえなるような、もっと耳を傾けていたいと思うような、すごくいい顔をしていた。単純に悔しかった。
日本人は、危機感が足りない。あたしだってそう。遠くの国で起こるテロに、同情心が掻き立てられる、と同時にあたしはそこに居合わせなくてよかったと安堵する。恥ずかしいけれど、これがあたしのほんとうの心の内。映像や写真は、あたしたちの目の前にあまりにも多く流され、そして消えていく。そ���はあたしたちを傍観者へと、ただの目撃者へと変える。遠くで起こる戦争や飢饉、テロに、実際に入り込むことはできない。そこへ入り込み、苦痛を感じることができるのは、不幸にもそこに居合わせてしまった誰かの遺族だけなのではないだろうか。視覚メディアが当たり前にあたしたちの生活に存在するいま、あたしたちは単なる見物人にしかなれない。だけど、日本が動いた。2015年の夏、戦争という悲惨な出来事が、また繰り返されるのではないかという危惧は、あたしたち若者の関心を一気に集める。戦争がどれほど多くの罪のない犠牲者を出してきたか、小学生の頃からずっとあたしたちはたたき込まれてきた。それが当然だった。だけど、戦争が起きないのがあたしたちの国だ。いまでは過去形になってしまったのかな。安全保障関連法は、可決されてしまったのだから。でも「終わったなら、はじめるぞ」そうこれから。終わりに、SEALDsのメンバーよりさらに若い高校生たちが、声をあげる。これは、希望のドキュメンタリーだ。
スーザン・ソンタグは、『良心への境界』冒頭で書かれた「若い読者へのアドバイス……」でこう述べる。「傾注すること。注意を向ける、それがすべての核心です。眼前にあることをできるかぎり自分のなかに取り込むこと。そして、自分に課された何らかの義務のしんどさに負け、みずからの生を狭めてはなりません。 傾注は生命力です。それはあなたと他者とをつなぐものです。それはあなたを生き生きとさせます。いつまでも生き生きとしていてください。」映画にうつる若者たちは、生き生きとしていて、希望に満ちていて、それは眩しかった。間違っていることを間違っていると声をあげることは、時に躊躇させる。勇気は、伝染もするが、時に勇者を孤立させるものでもあるから。だけど、声をあげないと、それはもうなかったことになってしまう。声をあげれば、その声を誰かが聞いてくれているかもしれない。SEALDsは、それを証明しているかのようだ。ほんの数人が、手探りではじめたこの社会運動が、日本全土を巻き込み、いろんなひとの背中を押した。「君たちの世界なんだ、君たちの国なんだ、君たちが問われてるんだ」と国会前でするスピーチ。あたしが生きる、これからもこの国を祖国として生きていく。
監督・撮影・編集・制作:西原孝至 撮影応援・カラリスト:山本大輔 サウンドデザイン:柳智隆
出演 SEALDs メンバー
配給:アップリンク 2016/日本/カラー/165分/DCP ©2016 sky-key factory, Takashi NISHIHARA
about-my-liberty.com
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madorominonaka · 8 years
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孤独のススメ
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人はいつだって自由になりたいと切望する。自由がどういうものなのかなんて、ほんとうはちゃんと答えられないくせに。学生だったころ、あたしはここから抜け出したいとずっと思い続けていた。学校の評価やまわりの人たちのルールに縛られて、息ができなくなりそうで、でも学校が終わればあたしは自由になれるってほんとうに信じていた。だけど、学生を終えた今、あたしはもっと息がしづらくなって、窒息してしまいそうだ。じゃあ、いつになったらそのいろいろから解放されるの。その答えにたどり着くための、ほんのちょっとの光をこの映画は照らしてくれている。孤独な男が、いろいろなしがらみから解放されるとき、そこには絶景が広がっていた。
舞台はオランダの田舎町。妻も子も失ったフレッドは、毎日変わらない単調な生活を続けていた。夕食は6時きっかり、お気に入りの時間は、バッハを聴きながらコーヒーを飲むこと、日曜日には教会へ行く。スーパーマーケットにいくときでさえ、スーツにネクタイ姿。孤独が寂しいなんてあまりにもありきたりなのに、彼の生活は、見ているあたしまで窒息してしまいそうになるほど息苦しい寂しい生活。そんな彼の元に転がり込んできたのは、無精髭を生やした、言葉もろくに話さない、素性の知れない男。フォークとナイフの使いかたも知らない男との、不思議な共同生活が幕をあける。
真に「孤独であること」は、今のあたしたちには少し難しいかもしれない。携帯電話を開けば、誰かの日常が垣間見れ、誰がどこでなにをしているのか、今なにを思っているのか、嬉しいのか悲しいのか、いとも簡単に知れてしまう。見えない誰かをすぐ身近に感じれてしまうこんな現代!と嫌気がさして、いやよいやよと言いながらもあたしはその生活から抜け出すことはしない。誰かの評価は、強がっていてもやっぱり気になってしまうもの。嫌われることに対して、昔よりも寛容になったあたしだけど、できれば嫌われたくはないし、他人が持つあたしの印象は、できれば良いものであってほしいと願ってしまう。周りの人が持っているであろう道徳やルールを倣っていればおそらく嫌われることはないだろうって考えて、面白くないときだって、周りに倣って笑ってみたり、興味のないものに対して興味を抱こうとしてみたり、ああ!なんて愚かなの!これってつまりひとりぼっちと同じだ。周りに誰かがいるのに、あたしの心はずっとひとりぼっち。そんな人生ってあるかよ、とひとりごちてみてもあたしの人生は変わらない。あたし自身を形作っているのは、結局他人が創りだすあたしに対するイメージなのであって、ずっとこのままだったらきっとあたしはずっと誰かの創ったあたしに支配され続ける。そのときに思い出されるのが、この映画に出てくる不思議な男、そうフレッドの元に転がり込んできた無精髭の変なヤツのこと。
一緒にスーパーマーケットに行って、小さな女の子のまえでヒツジの真似をやりだす彼は、どうみても社会的に変質者だけれど、その彼に、フレッドはだんだん心を許していく。世間からはみ出したこの男は、周りの道徳やルールからもはじけ出されてしまっている。その彼と時を共に過ごすことで、自分の中に絡みついていたルールをそぎ落としていったとき、フレッドは自分のほんとうの心を知るのだ。日曜日、教会に行くはずの日曜日に彼は男と出掛け、客人を楽しませ、笑いに包まれた日曜日を送る。彼はこの時自分のなかのルールからひとつ解放された。
自由はひとりで手に入れることはできないけど、ひとりで手に入れなければいけない。外の世界からやってくる誰かが手を引いてはくれるけど、そこから飛び出すか、出さないかは、彼次第なの。田舎の田園風景が続き、流れる音楽はほとんどがバッハ。単調に流れる映像にちょっと飽き飽きしたころ、あまりにもシンプルな結末があたしの目の前に突き出され、あまりにもシンプルに感動させられる。いろいろなしがらみから解き放たれた彼の目を通して、絶景が見えた。
監督・脚本:ディーデリク・エビンゲ
出演
トン・カス(フレッド)、ルネ・ファント・ホフ(テオ)、ポーギー・フランセン(カンプス)
2013/オランダ/86分/原題:Matterhorn
配給:アルパトロス・フィルム 提供:ニューセレクト
©2013, The Netherlands. Column Films B.V. All rights reserved.
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madorominonaka · 8 years
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リップヴァンウィンクルの花嫁
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ときどき、なにを信じたらいいのか分からなくなることがある、それは他人だけでなく自分自身に対してもだ。あたしたちの周りはやっぱり嘘だらけだったんだ!けれど、あたしはこの嘘っぱちな世の中のことを少しだけ気に入っていたりもする。だって、真実がときに誰かを傷つけることをあたしはもう知ってしまったし、嘘があたしを守ってくれることだって知っているのだ。誰かを、あたしの口から出た真実のせいで傷つけてしまうくらいなら嘘をついたほうがマシなんじゃないかな、ましてや、あたしが誰かを傷つけたなんて出来れば思いたくない。だから人は嘘を付くのかもしれない。でも待って、それじゃあ悲しすぎないかしら、一体この世界のどこに救いがあるっていうの、と嘆いた先の答えを、あたしはこの映画のなかに見つけた。
あっさりと手に入れてしまった彼氏、鉄也と結婚を決めてしまった七海。派遣教員をしているも情熱はなく、あっさりと職を辞めてしまい、そのままあっさりと結婚。しかし、簡単に手に入れてしまった”幸せ”は長続きするわけもなく、浮気疑惑が絡みかかって、あっさり離婚。彼女を取り巻く世界は、一変する。
現代になくてはならない存在となった���NSは、嘘とは切っても切り離せない便利な道具だ。いくらだって仮面をかぶることができる。名前だっていくつも持つことができる。現代は、そういう時代だ。そういう時代に生まれたあたしにとって、SNSはやっていることが当たり前だし、あたしもやっぱり嘘の名前を持っていて、便利だなと思う。でも、だからなのかな、あたしが今どこにいるのか分からなくなることもある。嘘をついているあたしは、ときどきあたしが吐いた嘘に裏切られてしまう。この映画のなかの七海みたいに、嘘に守られていたはずが、突然嘘に突き放されるのだ。
「ここはどこなんでしょう、わたしどこに行ったらいいですか」と安室に泣きつく七海。その姿を見て、苛立つひとはきっといるだろう。ちょっとは自分で考えろよって、あたしはスクリーンのなかの女の子に舌打ちをするけれど、だけどあたしだって今ここがどこなのか分かったことなんてほとんどないじゃない。確信を持てないままフラフラと彷徨い歩いている、10代が終わった今だってそれはずっと変わらない。この世界に確かなことなんて、存在しないんだ。だからこそ、この世界はワンダーランドなんだ。離婚を経て、安室に言われるがまま「仕事」を続けていく七海は、真白という女性に出会い、このままずっと続いていくかのように思われた幸せを手に入れ、そして彼女はまたひとりぼっちに戻る。けれど、このときの彼女に、あの苛立つような頼りなさはなく、彼女はひとりでしっかりと立っている、見晴らしのいい部屋を手に入れて。
あたしが生きているこの世界を、憎みたくて仕方がないときがある。あたしが幸せだと感じるとき、同時に不幸せだと感じるひとがいることへの後ろめたさや、他人の寂しさまで肩代わりしてしまっているんじゃないかってくらいに、寂しさに打ちのめされる深夜や、あたしがどうしたって動かせない世の中、そんな、どうしようもないことばかりの世界にあたしは途方に暮れて、どこにも怒りをぶつけられないかわりに世界を憎みたくなる。でも、それと同時にあたしはこの世界を心底愛しているのだとも思う。だって、この世界はワンダーランドなのだ。確証のない世界はなんだって起きうるってわけ。この映画は、この世界に住むおとなたちのための童話。嘘のなかに潜む、だれかの愛や優しさが、この世界に溢れてあたしの心を満たしてくれる。
監督・脚本:岩井俊二 原作:岩井俊二『リップヴァンウィンクルの花嫁』(文藝春秋) 製作:宮川朋之、水野晶、紀伊宗之 撮影:神戸千木 音楽:桑原まこ 編集:岩井俊二 制作:ロックウェルアイズ
出演 黒木華(皆川七海) 綾野剛(安室行舛) Cocco(里中真白) 原日出子(鶴岡カヤ子) 地曵豪(鶴岡鉄也) 和田聰宏(高嶋優人) りりィ(里中珠子)
2016/日本/180minutes/東映 ©RVW フィルムパートナーズ
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madorominonaka · 8 years
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合葬
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この世の中を、そして他人を、本気で変えられるんだと思っていたことを若気の至りだったというたった一言で終わらせたくはない。あたしたちは世界にとってほんとうにちっぽけな存在だって分かってはいるけれど、それでもあたしは未だにその思いをすこしばかり捨てきれずに月日だけが過ぎていく。納得のいかないことばかりが溢れているこの世の中を、あたしが変えなきゃ誰が変えてくれるのって、途方に暮れてぐずぐずと泣いちゃうような夜をたくさん過ごしてきた。夢に溺れ、恋い焦がれ、憤り、自分の居場所がどこなのか分からなくなって街を彷徨い歩く、時に一生懸命に、時にダラダラと、日々を過ごしている今のあたしたちと、この幕末を生き抜いた彼らと、すこしも変わりはないんじゃないかってくらいにリアルに突きつけられる彰義隊の若者たち。彼らの魂が、現代のあたしたちのこころに届いて、揺るがしてくれる、青春最後の一ヶ月。
時代は慶應4年。将軍の警護と江戸市中の治安維持のために有志で結成された「彰義隊」。無血開城とともに15代将軍・徳川慶喜が水戸へ謹慎となった後、新政府にとって彰義隊のような反政府的な部隊は排除するべき存在だった。時代に抗い上野戦争で散ってゆく若者3人の、揺れ動くこころを追った日々。将軍に忠誠を誓い闘志に燃える意固地な極、養子先から追い出され行き場のない人に流されがちな柾之助、彰義隊の存在に異を唱えながらもどうにかしたいと入隊を決意した悌二郎。”時代劇”という枠組みを超えて語られるのは、彼らの、馬鹿らしく、真剣な日々。
時たま垣間見えるすべての若者の心が、愛おしく、あたしたちの心を揺るがす。好きな女の子の家の前を行ったり来たりする柾之助のあどけなさや、自らの失態に「笑え」と背を向け布団を頭まで被ってしまう極の自意識の高さ、極に稽古で勝った途端、得意げに持論を語る悌二郎の対抗心。深川で夜遊びをした朝帰りの隊士たちの無邪気さ。彰義隊が通りを歩くのを見てはしゃぐ娘たち。描かれる彼らの姿は、現代のあたしたちのようだ。不穏な空気が流れる江戸の幕末でも、彼らは、恋に焦がれ、自分が無限かのように信じ、馬鹿騒ぎをした朝帰りの気だるさと戯れや嫉妬心を抱えていたのか。そう思うと、あたしの日常ではない彼らの日常が途端に愛おしく思えてきてならない。
カヒミ・カリィのナレーションも手伝ってか、全体的に怪談噺のような不気味さがついて離れない。それは彰義隊に所属する彼らの存在そのものが、あの世とこの世を行ったり来たりしていたからではないだろうか。満月と悲しい笛の音に誘われて、極はかつての許嫁・砂世のもとへ訪れる。足元から静かに歩いてくる極は、まるで幽霊のようだ。腹をくくり、将軍に忠誠を誓った極は死をも覚悟だったはず、しかし、極はまだこの世に捨てきれない心が残っていたのだろう。「行ってはなりませぬ」と首元にしがみつく砂世を抱きしめる極。生きるという選択肢だってあったはずなのに、捨てきれない心を見て見ぬふりしてしまったのか。死んでしまえば、もうどうしようもないというのに。
時代の変わり目と言われる幕末。価値観はひっくり返り、武士の心は失われる。徳川に忠誠を誓った極は、切腹をし、友人だけを死なせるわけにはいかないと、戦に繰り出す悌二郎は戦死、生き残るのは武士として頼りなさが目立つ柾之助だ。養父の仇討ちのために送り出されたものの、茶店で団子を頬張り、闘志を燃やす仲間たちを尻目に自分は恋に一喜一憂する。極を弔ったあと、差し出された封筒に入っていた、かつて3人で撮った写真を見て、柾之助は思い出す。儚く、馬鹿々々しい過ぎ去った日々を。犬死という2文字では片付けられない戦いがそこには存在し、それぞれが、それぞれの思いと戦っていた。
淡々と続いていく日々の映像の端々に彩られる色たち。森が飾る花や遊女たちの着物、戦乱時の鮮やかな蓮花の映像が、若者の日々全体を表しているかのようだ。ダラダラと永遠に続くかのようなうんざりする日々に、一瞬華やかに花が咲く。それぞれの思いを抱え、葛藤しながら生きていた彼らの青春を、あたしたちは自身の青春に重ね合わせ、過ぎ去ったあとの静けさと妙な生々しさに、映画館を後にしてもしばらく鬱々としたなにかを引きずらずにはいられなかった。あまりにも儚く、あまりにも身勝手で、でもこれらがあたしの青春にも通じるから。知らぬ間に過ぎ去った、もう戻ることのできない、束の間の愛おしい日々たちよ、これからもあたしの記憶に、静かに止まって、時々あたしの心を締め付けて離さないでいて。
監督:小林達夫 脚本:渡辺あや 原作:杉浦日向子「合葬」 製作:瀬戸麻理子 撮影:渡辺伸二 音楽:ASA-CHANG&巡礼 企画:松竹撮影所
柳楽優弥(秋津 極) 瀬戸康史(吉森 柾之助) 岡山天音(福原 悌二郎) オダギリジョー(森 篤之進) 門脇麦(福島 砂世) 桜井美南(かな)
2015/日本/87minutes/制作:松竹/配給:松竹メディア事業部 ©2015 杉浦日向子・MS.HS
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madorominonaka · 8 years
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マジカルガール
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愛は、こんなにも美しくて綺麗で、そしてとても残酷だ。いじわるな魔法をかけられたかのようになんの躊躇もなくどんどんと転がり落ちていくふたりの男たち。互いが相手への愛に追い詰められ、自ら迷路へと迷い込んでいく。最初は、ほんのイノセントな愛が、悲劇へと。パズルを完成させていくように、混じり合うはずのなかった3人が繋がっていくが、最後のピースはどこかに隠されてしまったように、あたしたちは、この先一生完成することがないであろうこの映画を想像でしか完成させることができない。あたしたちは、このどうしようもない悲劇が世界のどこかに仕舞い込まれたことに安堵して(時には、怒りを覚えて)映画館を後にする。
 白とピンクを基調とした部屋のなかで、少女が踊る。あまりにもイノセントな彼女のイメージがあたしたちに植え付けられると、この後展開されてゆくこの映画の予想なんて出来るはずもない。愛は、そもそもイノセントなものであるはずなのに、それが心の内から外に吐き出されるとき、純潔さは歪めてられてしまう。三部構成で進んでいくこの映画での第一章「世界」では、あたしたちの日常に変わらず散りばめられている愛が溢れている。もうすぐ亡くなってしまう娘の願いを叶えてやりたいと奮闘する父親の姿は痛々しくあたしたちの心を揺るがすが、その後「悪魔」「肉」によってその当たり前にある愛が狂わしく運命を変えていく様を目の当たりにするのだ。
 心に闇を抱えるバルバラと、監獄のなかで模範囚として出所したダミアン、そしてルイス。混じり合うことのなかった3人が繋がり、パズルはどんどん完成に近づいていく。この無情な世界を救うのは愛だって信じたいあたしだけど、でもやっぱり究極に追い詰められた愛はどうなるかわからない。娘アリシアが望んでいることに、一番近くにいるはずのルイスは気づいてあげられない。ダミアンは、バルバラを怖いと思いながらも彼女の怪しさや闇、弱さから離れることが出来ずにいる。その結果がこの悲劇だ。世界を救うはずの愛は、一方通行に運命を狂わしていく。この映画のタイトル「マジカルガール」は誰のことを指していたのか。それは純粋な美少女アリシアとファム・ファタールのバルバラ。この二人の女(少女)に男たちは犯してはいけない罪を犯してしまう。
 あまりにも静かで美しいと同時に、そのなかに潜む激情的な愛に魅せられ、あたしたちは言葉を失ってしまう。これはどういうこと?なにを言いたいの?という疑問を解決するのは、観ているあたしたちで、一生パズルのピースを見つけ出すことはできない。
監督・脚本:カルロス・ベルムト 撮影:サンティアゴ・ラカハ 編集:エンマ・トゥセル
ホセ・サクリスタン(ダミアン) バルバラ・レニー(バルバラ) ルイス・ベルメホ(ルイス) ルシア・ポジャン(アリシア) イスラエル・エレハルデ(アルフレド) エリザベト・ヘラベルト(アダ)
2014/スペイン/127minutes/カラー/シネスコープ 後援:スペイン大使館/提供:ビターズエンド、サードストリート/配給:ビターズ・エンド
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madorominonaka · 8 years
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キャロル
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人混みのなか、自然と混じりあう視線と視線、その瞬間そこには不思議な世界が出来上がる。誰もそんなことには気づかないで、買い物に夢中になっている。誰も知らない、見えない、そこにはふたりだけの世界が広がる。この世の中には、時々こんなにもロマンチックな世界が、わたしたちの気付かないうちに起こっている。いま、あなたが買い物に夢中になっているデパートのなかで、あなたのすぐそばでだって起こっているかもしれない。なんて不可思議!なんて美しいの!と言いたくなるほどにそこにはロマンが溢れかえっているのだ。
パーティへ向かう車中、テレーズは、熱気で曇った窓ガラスのせいでボヤける視界のなか、微笑みながら道を行くキャロルを見つける。そうして彼女は、キャロルとの思い出を思い起こす。ごった返したデパート、浮き足立つ人々……クリスマスを直前に控えたマンハッタンでテレーズはひとりだった。そして、彼女はふと入り口で立ちどまっているキャロルに心を奪われるのだ。必然のように、彼女たちはお互いを見つめ合う。その瞬間彼女たちだけの世界が出来上がる。それは一瞬なのかもしれない、でも永遠に続くかのような誰も知らない、甘美な時間。そしてキャロルは(わざとなのかしら)手袋を置き忘れていき、テレーズをランチへと誘い出す。
キャロルには、どこか捉えきれない陰がある。この世界を軽蔑しているような眼差しや態度は彼女の節々から感じ取れる。うんざりすることばかり。でも彼女はそこに抗っていけるほど若くない、だから諦めている。すこし取っつきにい雰囲気、多くを語らない彼女にテレーズは、右も左もわからないまま、惹かれていく。テレーズはキャロルと居ることで、人を愛することの本当の意味を、大人になるということの意味を知る。そしてキャロルも、テレーズと居ることで本当の自分として生きていくということを決意する。うんざりしていた自分を取り巻く環境から決別するのだ。「偽りの人生」のなかに彼女たちの存在価値はないのだから。
視線が混じりあう数々のシーン、視線はいつも恋い焦がれる側から映し出されていく。出会いはテレーズに始まり、キャロルの視線が混じり、ふたりがお互い惹かれあった瞬間を映し出す。そしてテレーズの視線を中心に展開されていくが、キャロルがテレーズの元を去った後、今度はキャロルがテレーズの姿を目で追う。道で見かけたテレーズは美しく大人な女性へと変化し、NYタイムズで働いてた。その姿を見たキャロルは、自分自身で居る意味を見つける。そして最後は振り出しに戻るのだ。オークルームで、テレーズは人混みのなかにキャロルを見つける。そしてキャロルもテレーズの視線に気づく。映画は終わるが、ふたりはこれから新しいスタートラインに立つのだ。
誰かに恋い焦がれる、という、あまりにも苦しく美しい想いは、性の壁を越えて、ずっとこの世界に存在してきたし、今だってそんな想いが誰かの心のなかに生れているかもしれない。いつもこの世の中に啖呵を切っているあなただって、こう思うと少しはこの世の中を愛してみたくならない?
監督:トッド・ヘインズ 製作:エリザベス・カールセン/スティーヴン・ウーリー/クリスチャン・バション 脚本:フィリス・ナジー 原作:パトリシア・スミス「The Piece of Salt」 衣装:サンディ・パウエル 音楽:カーター・バーウェル 音楽監修:ランドール・ポスター 美術:ジュディ・ベッカー 撮影:エド・ラックマン
キャスト ケイト・ブランシェット(as キャロル・エアード) ルーニー・マーラー(as テレーズ・ベリベット) カイル・チャンドラー(as ハージ・エアード) ジェイク・レイシー(as リチャード・セムコ) サラ・ポールソン(as アビー・ゲーハード)
2015/米/カラー/DCP/ビスタ/118minutes/PG12 ©NUMBER 9 FILMS (CARO.) LIMITED /CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION 2014, ALL RIGHTS RESERVED
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madorominonaka · 8 years
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神様なんかくそくらえ
狂おしいほどの恋をすること、路上で声を上げて泣くこと、だれかのために死んでもいいとさえ思えてしまうこと、等身大な自分で生きてゆくことは年を重ねるにつれて難しくなっていく。だって路上で泣くことさえ恥ずかしいと思えてしまってならなかったりするでしょう。でもなぜか若い時ってそういうことができてしまうの、そんな身軽さや儚く消えていくその一時を羨ましくおもってしまう。あの頃は、将来のことなんてどうでもいいと思っていた、というより考える暇がなかったのかしら。今生きているこの時間がすべてだった。だからこそ、儚く一瞬で消えゆくこの青い世界は狂っているし、なにもかもがぐちゃぐちゃになってしまう。だけど、彼だけがいればわたしは生きていけるような気がしたんだ。そんな青春の日々、愛とドラッグとセックスに溺れたある一人の少女のはなし。
ニューヨークの路頭で生活しているハーリー。盗みや物乞いをし、ドラッグと酒に溺れる毎日を送っている。たいせつな人であるイリアからは拒絶され、カミソリで手首を切る、彼への愛の証明をするために。ハーリーのことを大事に思い説得してくれるひとや、生活を助けてやるからお前も働けと手を組む仲間が出てくるが、彼女には彼イリアしかいない。どれだけ酷い仕打ちを受けても、どれだけ拒絶をされても彼女には彼しかいない、彼が彼でなければ意味がない。自分の中に優しさがあること、そして闇があることを気づかせてくれた大切なひと。映画を観ている途中、どうしても両手を握りしめてふたりの将来に幸せがあることを願ってしまう、どう考えても彼らの行く末は破滅だって分かってはいるのだけれど。この物語には救いとなるものも結末も待っていない、イリアはいなくなり、ハーリーはまた売人の元に戻ってしまう。だけどハーリー自身はイリアがこの世界に存在している、息をしているってだけで、この混沌とした狂った世界で生きる意味を見出していた。それこそがこの物語の唯一の救いであり、だからこそとても痛ましい。
彼女が体験した路上での経験は、日本では考え難いことだ。子供が路頭に迷っているなんて!でも彼女の日々を観ていると、自分のなかの青い感情が湧き上がってきて仕方がなくなっていく。うずうずして落ちつかなくなってしまう。わたしには、このひとのために死んでもいいと思えるほどの熱い恋も、カミソリで手首を切った経験もない。だけど、はっきりとしない不安のせいで幾夜の眠れない日々を過ごしたこと、誰かの理不尽な怒りに悔し涙を流しながら真昼間に下校したこと、誰かに恋い焦がれ日々を暮らしたこと、そういう思いが募って、過ぎ去り、また募りゆく。最初は彼女の人生の一部に何も共感が持てなくて、どうして!なんで!と怒りにも似た哀しい思いが募って仕方なかったけれど、日々を過ごすうちに思い出されてきたそれらの淡い思い出を想って、またこの映画を観たいという衝動に駆られている。中毒性の高い、危険な映画!
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STAFF 監督/脚本/編集:ジョシュア&ベニー・サフディ 原作:アリエル・ホームズ「MAD LOVE IN NEWYORK」 共同脚本:ロナルド・ブロンスタイン 製作:シャルル=マリー・アントニオーズ、セバスチャン・ベア・マクラード、オスカー・ボイサン 撮影:ショーン・プライス・ウィリアムズ 音楽:冨田勲、アリエル・ピンク、タンジェリン・ドリーム、ヘッドハンターズ
CAST アリエル・ホームズ Arielle Holmes(as Harley) ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ Caleb Landery-Jones(as Iria) バディ・デュレス Buddy Duress (as Mike) ロン・ブラインスタイン a.k.a. Necro (as Skully)
2014/米・仏/English/97m/カラー/ステレオ/DCP/日本語字幕:石田康子/R15/原題:Heave Knows What 配給:トランスフォーマー
©2014, Hardstyle, LLC. All Rights Reserved.
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madorominonaka · 8 years
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裁かれるは善人のみ
大人になっていくにつれて、「自然」の素晴らしさに圧倒されるようになる。いつだってそばにあった青空のはずなのに、ふとした瞬間に見上げたその空の広大さや青さに心を打たれたりするのだ。それはなぜか、成長するにつれて「時の流れ」が残酷であり偉大でもあることに気づいていくからだろう。叶わなかった初恋や、愛していた誰かの死、けんかして以来顔を合わせなかったあの子のこと。あの頃、わたしの胸を締め付けて離さなかった悲しく苦しい思い出は、時間の流れと共に風化していき、(忘れたい思い出も忘れたくない思い出も関係なく)綺麗で優しい思い出となってぽつんとわたしの心に残る。わたしたちの心には思い出が残り、自然は依然として続いていく。涙が枯れ果てるほど泣いた後の彼らに残された未来は、観客であるわたしたちを涙が出ないほど打ちのめすが、その後、わたしたちは圧倒的な自然が魅せる壮大な「静けさ」に導かれる。この映画は、美しい悲劇なのだ。
崖のうえにぽつんと建てられた一軒家。立派ではないが、丁寧に生活をしてきたのであろう面影が窺えるその家で暮らすのは、自動修理工のコーリャと後妻のリリア、一人息子のロマ。リリアに反抗的な息子やそれに手を挙げてしまう夫、ここには不器用ながらに必死に家庭を築こうとするひとつの家族が存在している。しかし彼らの幸せの前途に立ちはだかるのは、醜く俗悪な権力者たちだ。市庁からの不当な立ち退きに迫られ、彼らは友人弁護士ディーマと共に戦おうとしていた。しかし、彼らの正当な戦いは、どうにかして土地を得たい市長ヴァディムによってひれ伏すことを余儀なくされる。外側の圧力とは別に内側からも軋みが生じ始めたコーリャたち一家は、着実にゆっくりと悲劇を呼び寄せ飲み込まれていく。
真なる善人なんてこの世に存在するのだろうか、と自分たちの世界から目を背けたくなるような物語がわたしたちの目の前に突きつけられる。善人(コーリャやリリア、ディーマ)は悪人によって打ちのめされるが、しかし善人たちもまた罪を犯し、大切なひとを傷つけている。不倫や知りたくない性行為、そして自殺。誰もが無意識であったり、その場のタイミングの悪さから、誰かを傷つけて生きているのだ。悪人として描かれるヴァディムにも善人たちと同じように家族が居て守らなければならないひとたちがいる。教会では子供に説教をし、車で家まで送ってやる。こう思うと本当の善人なんて存在しないように思えてしまうのだ。しかし、ひとは、傷つけられてもまたひとを愛してしまう。傷つけ、傷つけられ、そんな辛い悲しい思いを抱えながらまた誰かといろんな感情を分かち合いたい、一緒に時間を過ごしたいと思うのだ。
骨になったクジラがそのまま放置される浜辺でロマは背を丸めて泣いている。自分にはどうしようもない出来事が襲いかかり、現実や未来が途端に暗いものになってしまう。そんな時、ひとは静かに泣くことしか出来ないのだと、暗い劇場内でひとり途方に暮れてしまうほどこの映画はわたしたちの心を抉り、納得のいかない未来に心を怒らせる。しかし、圧倒的で壮大な自然は依然として彼らのまえに存在し、わたしたちの怒りや悲しみで火照った心をゆっくりと落ち着けて静ませてくれる。自然は偉大であり残酷だ。傷をつけられたこと、傷をつけたこと、その両方が風化され綺麗な思い出となって人の心に残るのだ。どれだけ技術が発展し、人が地球上にどれだけ溢れていっても、この事実は変わらない。美しい悲劇に圧倒され、映画やフィクションという垣根を越えて、社会的政治批判とはまた異なる普遍的な現代の神話なのだ。
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『裁かれるは善人のみ』 Leviathan│2014年│ロシア│140分│© 2014 Pyramide / LM
STAFF 監督:アンドレイ・ズビャギンツェフ  脚本:アンドレイ・ズビャギンツェフ     オレグ・ネギン  製作:アレクサンドル・ロドニャンスキー     セルゲイ・メルクモフ  共同製作:マリアナ・サルダーロワ  製作指揮:エカテリーナ・マラクーリナ  製作部長:パーヴェル・ゴーリン  撮影監督:ミハイル・クリチマン  キャスティング:エリナ・テルニャーエワ  編集:アンナ・マス  ヘアメイク:ガーリャ・ポノマリョワ  衣裳:アンナ・バルトゥリ  美術:アンドレイ・ポンクラトフ  音楽:フィリップ・グラス 音響:アンドレイ・デルガチョフ  CAST コーリャ・セルゲーエフ:アレクセイ・セレブリャコフ  リリア:エレナ・リャドワ  ディーマ:ウラディミール・ヴドヴィチェンコフ ヴァディム市長:ロマン・マディアノフ ロマ:セルゲイ・ポホダーエフ アンジェラ:アンナ・ウコロワ  パーシャ:アレクセイ・ロージン 
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madorominonaka · 8 years
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恋人たち
途方もない怒りと悲しみはどこへ流れていくのだろうと答えの出ない考えを巡らすことがある。どうすることもできないこれらの感情が、涙やため息とともに空気に溶けて消えてなくなればいいのにと心のそこから思ったりもする。だけど、わたしは今ここに生きているということ、そして残酷で卑怯で憎いこの世界にも愛すべきひとが居るということがわたしをこの世界に留まらせ、この大嫌いな世界を少しだけ好きになってしまう夜があったりすることも事実だ。「恋人たち」は、不器用に生きているわたしたちの人生を肯定し賞賛してくれる映画だ。ひとはこの作品に触れ、自分の人生における何気ない幸せに気づかされるだろう。橋口亮輔監督『ぐるりのこと。』から7年ぶりの長編映画『恋人たち』。
数年前通り魔によって最愛の妻を亡くした男・篠原アツシ。裁判のため奔走するも5人の弁護士に断られ、最後の頼みであった四ノ宮からも「裁判はやめましょう。僕が傷つくので」と突き放される。復讐を果たすことも出来ず、死ぬことさえ怖くて出来ないと泣いて、周りに苦しい、助けてくれと叫ぶ。しかし自分の苦しみを、悲しみを理解してくれることはないと、アツシ自身が殻に籠ってしまっている。 自分に関心のない夫とソリの合わない姑と味気のない日々を暮らす高橋瞳子。毎日パート仲間と皇室の追っかけをしたり、家で漫画や小説を書くことに明け暮れているが、自分の痛みには気づかない、というよりも気付きたくないのかもしれない。こんな生活!と思っていても、一歩踏み出せないまま、惰性のまま彼女の日常は続いていく。 完璧主義者でゲイのエリート弁護士・四ノ宮は、完璧主義者ゆえ恋人は離れていき、密かに想いを寄せていた聡からも距離を置かれる状況になってしまう。痛みは、すっかり四ノ宮の体に取り込まれてしまったのか彼は足掻こうともせずただそこに突っ立って傍観者のように見ているだけ。
「こんなはずではなかった」現実がわたしたちに襲いかかる。後悔をしないようにと決断をしたはずのわたしたちの未来は、予期せぬ事態に出鼻を挫かれてしまう。しかし、水が、川が流れていくように時も流れていく、そのなかで出逢った人々によって救い出される彼ら「恋人たち」の日常。結局のところ、ひとを傷つけるのは大抵の場合ひとなのであって、そしてひとはひとに救われてしまうの。絶望の淵で「犯人を殺したい、法律や世間は許さなくても神様は許してくれるとおもう」というアツシに職場の上司・黒田は言う「殺しちゃダメだよ。だってこうやって話せなくなるでしょ。僕はもっと君と話したい」と。黒田の存在は、アツシにとって優しいささやかな光のようだ。仕事を休んだアツシに弁当を届けてくれる、そしてこうやって声をかけてくれる黒田の姿を見て、思わず涙してしまう。今の世の中、ほんとうに暗闇ばかり。人は皆じぶんのことで手一杯、自分が一番不幸だって思い込んでいる、皆が各々の歩幅で悲しみを背負って生きているということには気づかない。無条件に幸せな人間なんていない、誰もが苦しみを背負い悲しみに顔を覆いながら、それでも歩いていかなくちゃいけないのに。
この映像のなかの日本は、虚構でもなく遠い国の話でもなく現在の日本だ。しかも、俳優たちの演技は日常のようにリアルで、わたしたちが体験し得るような日常の会話たちが繰り広げられる。現在の、現実の日本を背景に、洗いざらいの気持ちをぶつけていく俳優たちは今そこにいるかのような錯覚に陥るほどだった。「どんな悲しみや苦しみを描いても、人生を否定したくないし、自分自身を否定したくない。生きているこの世界を肯定したい」という監督の言葉どおり、この作品には悲しみ/苦しみのなかにほんの微かな温かい光が差し込まれている。映画では、だれの生活も変わらず各々が抱えている問題はなんの解決もしない。だけど、彼らはきっとこれからも生きていくのだろう。悲しみ/苦しみを背負いながら、一歩一歩自分たちの歩幅を確認しながら。見終わったあと、一息つき、そして頑張らなくちゃ、とふと自分のいまの生活を愛おしく想ってしまった。なんと!なんだろう、こんな衝撃な作品を観たあとなのに、このポジティブは、と疑いたくなる気持ちは、きっと橋口監督が用意してくれた「ささやかな希望」のおかげなのだろう。
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『恋人たち』 2015年/日本/140分/ピスタ/5.1ch
橋口亮輔(原作/脚本/監督/編集) 上野彰吾(撮影) 赤津淳一(証明) 安宅紀史(美術) 小川武(録音) 明星/Akeboshi(音楽/主題歌[Usual life_Special Ver.]
篠原篤(篠原アツシ) 成嶋瞳子(高橋瞳子) 池田良(四ノ宮) 光石研(藤田弘) 安藤玉恵(吉田晴美) 木野花(瞳子の姑・敬子) 黒田大輔(黒田大輔) 山中聡(四ノ宮の友人・聡) 内田慈(女子アナ) 山中祟(保険課職員・溝口) リリー・フランキー(アツシの先輩)
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