Tumgik
pplesht-blog · 6 years
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一篇で溺れるエンゼル・フィッシュ
 身体の造り変わる速度というのはきっと、俺達が思っているよりずっとずっとゆっくりなんだろう。  ゆっくりで、そしてとても小さいものだから、すぐには気付くことができない。そうしてすっかり変わってしまってから、すっかり変わってしまったんだということばかりが、ばちんと目の前に突き付けられるんだ。  要するに慣れの話だとも思う。慣れっていうのはとても怖い。そのことを考えるといつも思い出すことがある。まだとても幼い頃の話だ。俺が、父さんに字を習った時のこと。  その時のことは今でもよく覚えている。そう、絵本の文字をひとつずつ書き取るところから始めたんだ。「最初は文字を書いているというよりも、まるで絵を描いているみたいだったわね」と、いつかの母さんが教えてくれた。随分小さな頃のことだし、さすがに覚えてはいないけれど、実際そんなふうに考えていたのかもしれない。あろうことかまだ母さんがきちんと取っておいてくれている、俺自身からすればとてもじゃないが目も当てられない紙片の数々を見るに、そう推察される。多分、絵を描くのは嫌いではなかった(「だって総司くん、昔から習い事だってなんだって大抵のことは嫌いじゃなかったでしょう」と、姉さんはくすくす笑いながら言う)から、きっとそんな気持ちで始めたんだと思う。  父さんはそんな俺を欠伸混じりに見守ってくれていたけれど、ただ形を間違って真似したときは割合しっかりと指摘された。そうして俺の手が止まる度に「こうするんだよ」と優しく教えてくれた安定さんと、頬杖をつきながら「よかったじゃん」と頭を撫でてくれた父さんふたりのよく似たふたつの笑顔なら、今も変わらないなぁと思えるんだから、やっぱりよく覚えている。  そして俺自身もきちんと意識して「字」を書くようになってからは、正しい書き順を覚えるまで父さんは決してよくできましたの花丸をくれなかった。これもはっきりと思い出せる。練習帳を見せに行くたび、ひとつでも書き順を間違えていればしっかり直すまで花丸はあげないと首を振られていたので、少しだけしょんぼりした気持ちになったものだ。  そんな時の俺に父さんがよく言い含めていたのが、「慣れっていうのは怖いものだからね」だった。「いい? 特に身体を動かしながらやることには気をつけなよ。小さいことでもちゃんと気を配ること。いつの間にか身体が造り変わって、それに慣れてしまったら、なかなか元には戻らないんだからさ」。  しょぼくれる俺の頭を優しく撫でながらではあったけれど、父さんの瞳は真剣だった。まだ幼い心には、ほんの僅か迫力がありすぎるくらいに。だから、「慣れとは怖いものである」という言葉が、俺の頭の中には鉛筆の匂いの記憶とともにしっかり刻まれている。  そしてその言葉を十七歳の俺がふと思い出したのは――もっと言えば思い出す羽目になってしまったのは、金曜午後十六時半すぎ、ダンスレッスン室でのことである。
「あれ? 総ちゃんだ」
 自主練も兼ねて柔軟体操をしているところで、花撫ちゃんに声を掛けられた。
「花撫ちゃん。お疲れさま」 「ん、おつかれ……って、あれ?」
 そういえば花撫ちゃんたちは、十七時から練習の予約が入っていたんだった。なんだかんだで三十分前には姿を現すところが実に花撫ちゃんらしい。私って意外と真面目なとこあるでしょ、と花撫ちゃんはけたけた笑いながら言っていたけれど、そんなに意外でもないかな、というのがあの時口にはしないでおいた俺の率直な感想だ。だってこの子、やる時は本当によくしっかりやってくれる子だし。そういう一面を、ひとにはやたら見せようとしないってだけで。
「あれれ」
 そんな、片手にドリンクとタオルを抱えてきっと今日も先に身体を伸ばしておこうと思ったのであろう花撫ちゃんは、しかしすぐには取りかからず、何故かきょろきょろとレッスン室の中を見渡すばかりだった。
「あれ? ……あれー?」 「花撫ちゃん?」 「総ちゃん、未来ちゃんは?」
 どうかした、と訊ねる前に先を越されて、俺は思わず目を瞬かせてしまう。
「え、……っと?」
 まるで当たり前のように訊ねられてしまったものだから、俺の頭も一応当たり前のように思考をスタートさせてしまった。えっと、ええっと、そもそも俺達の練習時間は花撫ちゃんたちの後で、十七時半からなわけだし。俺は、未来ちゃんの打ち合わせが終わるまでの間、レッスン室の隅っこでも使わせてもらおうかと思って来ただけだし。と、なると。
「多分、今頃は更衣室じゃない? 打ち合わせの前に、荷物を取りに行くって言ってたし」
 しかし答えてから気付いたのが、それなら俺に聞くまでもないはずなんだ。それならついさっき更衣室で会っているはずなんだから。そんなことを考えながら、俺のそばまでとことこやってきた花撫ちゃんの顔を思わずじっと見返してしまう。まあ、もしかすると、すれ違っただけなのかもしれないけど。
「いや、それはないよ。荷物はあったけど姿は見てないし」 「……じゃあ、プロダクション内で見たの? 未来ちゃんのこと」 「見てないけど、ここに総ちゃんがいるのに未来ちゃんがいないのは変でしょ」
 という、俺の予想をいっそ気持ちいいほどあっさりと裏切ってくれる花撫ちゃんだった。しかも何を言われたのか一瞬飲み込めず、またぱちくりしてしまう。  総司くんは、びっくりするとすぐわかるよね。未来ちゃんはよくそんなことを言うけれど、俺からすれば未来ちゃんのほうがよっぽどわかりやすいよなぁ、と思うわけだ。その後に続けた、目元がやさしいひとは、びっくりして瞳が丸くなるのが見てればすぐにわかるんだよ、なんて言葉も、やっぱり未来ちゃん自身のことじゃないかなって、俺は思うわけなんだけど。
「え、なんでそこで驚くの」
 ともあれ、直後に花撫ちゃんが言ったことから鑑みるに、俺の浮かべた驚きが伝わりやすかったものであることは間違いがないらしい。
「なんでって、そ、そりゃ」 「いっつも一緒にいるでしょ、総ちゃんと未来ちゃん。ていうかびっくりしたのはこっちだし。かたっぽしか見かけないから」 「か、かたっぽ? ……なんかそれ、俺達が靴下みたいじゃない?」 「あーうんうん。靴下ね、そうそう、まさにそんな感じ?」 「や、冗談のつもりだったんだけど……」
 思わず苦笑が浮かぶ。俺が首を傾いでいるのも構わず、「ほら、靴下がかたっぽずつなんて変でしょ」と当たり前のことを当たり前に言いながら、隣に座った花撫ちゃんが柔軟を始める。細身の上半身がくにゃりとなんの抵抗もなく折りたたまれる。相変わらずよく伸びるなぁと、呑気に感心してしまった。俺だって身体は柔らかいほうだという自覚はあるけれど、花撫ちゃんのそれは友人内でも群を抜いていると思う。
 そうして、きっちり百八十度開いた足の間でお腹まで床にぺったりつけた花撫ちゃんが、ややいたずらっぽい瞳でこっちを見上げてくる。猫の瞳だ。ふと、そんなことを考えた。きっと彼女の瞳が、そういうきらめきかたをしていたから。
「だってふたりとも、いつも一緒にいるじゃん」 「そ、そうかな」 「そーだよ。だから、かたっぽだともう、そっちのが不自然なんだって」
 猫が欠伸をするように、ふにゃっと笑った花撫ちゃんが言う。いたずらに光る猫の瞳は、俺の思考を器用に誘って、もやりとした渦の中に迷い込ませていく。  靴下みたいな俺達。ふたつあるのにひとつにようで。かたっぽだけだと、ちょっと不自然。背中をぎっぎっと伸ばしながら考えて、しっかり深呼吸しているはずなのに、かっと熱くなってしまったのを感じる。どこが、というのがおそろしく説明しづらいどこかが、かあっと。そして俺は、すぐさま顔を覆ってしまいたくなるのだった。思えてしまったから。どうだろう、そうなのかな、そうかもしれない、なんて、思えてしまったから。  慣れって怖い。本当に怖い。父さん、俺はここにきて、父さんの言うことがとても正しかったとやっとわかったんだ。だって、だってさ。  ――ほんの一瞬でも、俺達、かたっぽずつだけだったらおかしいのかもしれない、なんて、考えてしまったから。
「総司くーん? いるー?」 「ぉわ、」
 タイミングが悪かった。最高に。  こちらに向かってきているらしい未来ちゃんの軽い足音を、あろうことか俺は膝に額を押し当てながら聞いていた。いやいやこれは柔軟体操だから、そう、俺、柔軟体操中だったから。なんて言い訳がちっとも言い訳にならないことくらい、俺が一番よくわかっている。だと言うのにほんの少しでも顔を上げた瞬間、すかさず俺の顔を覗き込んでにやりと笑う猫が、ほんのちょっぴり憎らしい。
「ほーら、やっぱりね」
 まだ廊下にいる未来ちゃんには聞こえない、だけど俺の耳にはばっちり届いてしまう音量で、花撫ちゃんが囁く。
「総ちゃんがここにいるのに、未来ちゃんが来ないわけないもんね?」
 その言葉に対して適切に返せそうなものが、どういうわけか頭のどこをひっくり返しても見つからない。なんてことだろう。これじゃあまるで一も二もなく納得してるみたいになってしまうのに。  しかも焦る俺を他所にして、同じ俺の頭の中は、ぱたぱた近付いてくる軽やかな足音に合わせ紫色のパーカーのフードが揺れている光景をぼんやり思い浮かべるのに一所懸命ときたものだ。なんて話。なんてひどい。
「未来ちゃん、打ち合わせだったんだっけ? おつおつー」 「え、えっと……おつかれさま、未来ちゃん」 「うん、ありがとー! ふたりもおつかれさま!」
 そうして、とうとう目の前までやってきた未来ちゃんは、俺の目の前でちょこんとしゃがんだ。  目が合う。宝石みたいにきらきらと澄み切った紫色の瞳は、今にも吸い込まれてしまいそうなほどきれいだ。だけど、とてもきれいだとは思うのに、それをしっかり覗き込むことは、俺にとって案外難しいことであったりする。何故って、俺と目が合うと未来ちゃんはいつも、すぐに目を細めてしまうから。長い睫毛の向こうに星空がしっかり隠れてしまうほどふわっと眩そうな顔をして、満面の笑みを浮かべてしまうから。どうしてだかわからないけれど、どうしてだかわからないくらい、いつも、いつでも俺と目が合うやいなやにこっと笑う、隠れてしまう瞳がとってもとっても綺麗な未来ちゃん。  うわどうしよう、タイミングが悪すぎる。さっき花撫ちゃんに言い返す言葉が見つからなかったときと同じかもしくはそれ以上に、うっと喉が詰まるのを感じながら、俺は心の中だけで頭を抱える。かたっぽずつだけだったらおかしいのかもしれないなんて、そんな馬鹿馬鹿しいこと、そんな有り得やしないこと思った瞬間に来ちゃうなんてさ。かたっぽでなくなって俺達は自然になっただなんて、ほんの一瞬でも考えちゃうじゃんか。なんて、未来ちゃんはちっとも悪いことなんかしてないのに、まるでいけないことをしでかしたかのような言い方になってしまう。それも含めて、あまりに悪いことだと思う。
「あー……未来ちゃん、」
 それにつけてもさっきから隣でにやにや注がれる花撫ちゃんからの視線に耐え切れなくて、俺はとうとう、無理にでも口をこじ開けることを選んだ。
「その、早かったね? 俺達の練習時間まで、まだ大分あるのに」 「打ち合わせの時間、調整してもらったんだ。総司くんがいると思ったし」 「俺? いや、でも、俺もちょっと用事があるから、時間は大丈夫だって……」 「うん。でも総司くんの用事って、トシちゃんに本を返すだけでしょ? それならすぐ済むだろうなって思って!」
 未来ちゃんと話をしているとしょっちゅうなのだけれど、どうやら会話の内容というのは話をしていた人間よりも聞いていた人間のほうがずっとよく覚えているものらしい。未来ちゃんだってしょっちゅう、総司くんなんでそんなことまで覚えてるの、と驚いたような、もしくは内容によってとびきり嬉しそうだったり、もしくはちょっぴり恥ずかしそうだったりと、いろいろに変わる表情を見せてくれる。  この時も例に漏れずそうだった。俺、未来ちゃんにそんな話、したっけ。いや絶対にしてない。してないはずなんだ。ひょっとするとものすごく不誠実なことを考えながら、俺は思わず先を促すように未来ちゃんのにこにこと細まった瞳を窺ってしまう。大変に今更ながら、俺の目の前にちょこんとしゃがんでいる格好が、どこかご褒美を待ち侘びている子犬のようで、なんだかかわいらしかった。まったくもって、今更ながら。  ――だから、今更ときめいたりなんてしないでほしいんだけどな、俺!
「なるほどねー。……にしても、総ちゃんがいるかもーって思っただけで飛んできちゃうなんて」
 ばっと隣を見て、しまったと思う。花撫ちゃんは既にそこにはおらず、どこにいたかといえば未来ちゃんの隣に立っていた。ああなんだろう、実に、愉しそうな顔をしている。さっきまでは俺のことを存分にこちょこちょからかって。そうかと思えば、今度は子犬のほうへといたずらっぽくすり寄っていくのが、猫という気まぐれな生き物のしでかすことなのだった。
「未来ちゃんってばほんっと、総ちゃんのことだいすきなんだね?」
 くっくっと喉の奥で立てられる猫の笑い声に、子犬は案外鈍感だ。耳ならとってもよろしいはずなのに(たとえば俺が、振り向いてくれなくてもいいと思ってかすかに名前を呼んだ時ですら、黒髪のぶあっと揺れる勢いで素早くこっちを見て、過たず手を振ってくれるくらいには)。
「うん、だいすきだよ!」
 花撫ちゃんのほうに一度目をやるも、だいすきだよ、のときはしっかり俺のほうを見て、口元を緩めながら未来ちゃんが言った。色素の薄い唇が生み出すピンクは、どうしてこんなに目を焼くのか。  そこからこぼれる言葉は、どうしてこんなに、胸を柔らかくくすぐるのか。
「ほんっとーにだいすきなんだねぇ」 「ほんっとーにだいすきです!」 「あはは、目に入れても痛くなさそう」 「うん、総司くんならどこに入れても痛くないよ!」 「……へー? どこにでも? じゃあもういっそ入れてみたら?」 「ん? どこに、」 「ま、待って! 未来ちゃん、待って。それ以上はやめよう? ……未来ちゃんのためにも」
 それがあまりにも、むずむずと、いやもうかなり暴力的なまでに、ひっきりなしにくすぐってくる、ので。  あの「どこに」の後に続く言葉とそれに対する花撫ちゃんの中学生みたいな(いや、まあ確かにこの子は去年まで中学生だったけど、そういうことでなくて)返答は、とてもじゃないけれど今の俺には耐えられそうになかったので、思わず飛び出た両手をこのかわいらしくてちょっぴりしょうがない子の口元に、あてがわずにはいられなかった。  必死の制止もあって発言は止まってくれたけれど、俺の言わんとする意図が伝わっただけに、余計きょとんとしてしまっているようにも見える。無理に止めてしまった以上、��切な説明を与えるのは義務のようなものだ。だから指先にちょっとだけ触れている唇が柔らかいことについてなんて、考えている場合じゃない。――ないってば!  未来ちゃんはことりと首を傾いで、俺の次の言葉を待っている。無邪気で、しょうがないくらい懐いてくれる子犬は、その実とてもいい子なんだ。
「えっと……あ、あのさ、未来ちゃん? あんまり、その、そういうことは、言い過ぎてもよくないんじゃないかな」 「そういうこと?」 「うん、そう、つまり……、好き、とかさ」 「そうなの? 総司くんは好きって言われるの、やだ?」 「いやっ、そんなことないよ!? ないん、だけど……ほら、勘違いとかされても、未来ちゃん困るでしょ?」 「? 勘違い?」 「え、と、その、……ともかく、あんまり言い過ぎてもよくないんだよ」
 本当にいい子だから、実際のところ苦しいにもほどがある俺の論にだって、素直に頷いてしまうのが未来ちゃんのちょっと危ういところだ。隣で「おっそろしく今更な話だと思うんですけど」と花撫ちゃんが随分大きめな声でぼやいているのは、果たして未来ちゃんのよろしい耳には届いているのだか、いないのだか。
「未来ちゃんがそう言ってくれるのは本当に嬉しいし、俺も未来ちゃんのことが好きだよ。でも……ごめん、なんていうか、その」 「……みんなの前で言われるのは、恥ずかしい?」 「そう、恥ずかしいから……だから、ね?」 「うん。わかった、気をつけるね」
 でも仮に聞こえていたとしたって、この子は俺の言うことだったら多分素直に頷いてしまうんだろうな、なんて。そんなふうに思えてしまったのも、怖い怖い慣れのひとつなのかもしれなかった。
 ところで、俺の寝起きは悪いほうではない。  遠慮をなくして言えば、花丸がつくほど良いほうだ。少なくともそれに関して不便を抱えたことは、十七年の短い人生の中でも一度としてなかった。  世の中には、眠っている間は意識を手放しているというのにどうしてたかだかアラームの音なんぞで目を醒ますことのできる人間がいるのかが不思議で不思議でたまらない、なんて人もいるらしけど(俺の親友こそがまさにその典型なんだけど)、俺は残念ながらそういった類の人々から理解されがたい特技を身に着けているほうの人種だった。  幼い頃使っていたひよこの目覚まし時計でも小学校に上がってから母さんに買い与えてもらった銀色の卓上時計でも、中学校に上がってから手にした携帯電話のアラームでも、そして今持っているスマートフォンのアラームでも、耳にすることなく眠り続けたということは覚えている限り一度もない。というかそもそも、アラームが鳴る前に目が醒めてしまうことのほうが多かったりもする。多少の変動はあったとしても基本的には決まった時間に寝起きするから、体内時計のほうが先に起床時間を報せてしまうんだ。アラームが鳴るまで携帯電話を手に持ったままでいて、鳴った瞬間オフにしてベッドから起き上がる、なんてことも少なくはない。
「……ん、」
 だから、その日の朝は、どちらかと言うと珍しいほうだった。  デフォルトから設定を変えていないスマートフォンのアラームは、停止しなければいつまでもテンポが速くなりうるさくなっていくタイプの音だ。そのアラームが限界まで速くなったとき、俺はようやく目を開けた。  気付いてしまえばあまりにうるさくて顔をしかめてしまうほどなのに、そうとわかるまでは恐ろしくぼんやりとしか耳に届かないのは、一体どういう構造なんだろう。それこそ俺には理解しがたいことだ。振動したままベッドの上を微妙に動きつつあったスマートフォンを手繰り寄せて、アラームをオフにする。喚き立てられていた音がようやく消え、静けさの戻った部屋の中で、俺の頭がふつりと最初の思考を浮かべる。
「……じゅんび、しないと」
 準備だ。そう、準備をしないといけない。それほど急ぐわけでもないけれど、時間を無駄にしたっていいことはない。準備をしないとな。のそりとベッドから出て、やや眠気を引きずったままの足取りで洗面台に向かう。変だな、どうして今日はこんなに俺、眠いんだろう。夢でも見たのかな、そういえばそうだったような気もする。  まあでも、そんなことはともかくとして、準備をしなくちゃいけないんだ。身支度を整えて、朝食を摂って。お昼は多分この前話した、カルボナーラの美味しいパスタのお店になるだろうから、朝はちょっと軽めにしておこう。待ち合わせ場所に向かうのは、いつもの、集合時間十五分前になるように。「総司くんってば、いつもわたしより早く来ちゃうんだから」なんてふくれっ面で言われたこともあるけれど、これは俺がやりたくてやっていることなんだからしょうがない。道行くたくさんの人達の中にどういうわけか決して紛れることのない、一番星みたいにきらきら光るその子のことを探すのがどうしてあんなに楽しいのか、その理由は俺だってよくわかっていないから、訊ねられてもうまくは答えられないんだ。そうそう、十時半に駅ビルの前なら、その前に洗濯物を――。
「あ、れ」
 手にすくった水をぱしゃんと一度顔にかけ、そこでようやく気が付く。鏡を見ると、実にすっとぼけた顔をした寝起きの俺がいて、顎のとこからさっきかけた水がぽたりと雫になって落ちていた。あれ、俺。
「……っ、」
 俺ってば、なに、してるんだろ。  どうやらそこでやっと完全に覚醒して、思わず洗面台で膝から崩れ落ちそうになる。ひとりのときにしでかす恥ずかしいことは、誰にも分け与えられないからこそ、全部ひとりで抱えるのが辛いものだ。恥ずかしい。開きっぱなしの蛇口から水がざあざあ流れているのも構わず、顔を覆ってしばらく唸ってしまう。あれ、じゃないだろ、俺。ほんと、俺ってば。
「……ああ、もう」
 ――今日は俺、未来ちゃんと出かける約束なんて、してないだろ。
 よくよく考えれば、というかよくよく考えなくても思い出せた。なにしろこれは昨日の出来事だ。レッスンを終えて帰る前のロビーで、未来ちゃんが話してくれた。
「あのね、総司くん。明日なんだけどね」 「映画?」 「うん、映画!」
 そう、映画だ。ホラー全般が苦手なえがおちゃんとアクション映画が好きな花撫ちゃんと、ポップコーンのメニューが充実していれば内容はなんでもいいというそれはもはや映画の嗜好ではない独特な感性を持ったうさぎちゃんの四人で、休日に映画を観に行くという話だ。何を見るかと何味のポップコーンにするかで言い争いになりそうだね、なんて笑って頷きながら、ちゃんと聞いてたはずなのに。俺ってば、どうして。  慣れって本当に怖い、と、どうもあの花撫ちゃんと話した土曜日からこっち数日間、しょっちゅう突き付けられてばかりいるような気がすることを、再び噛み締めざるを得ない。確かにアイドルになる前はもちろんのこと、アイドルとしてユニット活動を始めてからも、オフが重なることは多かったけれど。確かにその度、一緒に出掛けてはいたけれど。でもまさかそれが、まるで身体の中の時間割に自然と組み込まれてでもいたみたいになるだなんて。そう、そうだよね、いつでも俺達の約束の時間は十時半で、駅ビルのどちらかと言うと人が少ない西側、時計台の裏側に立ってると、「総司くん!」って、いつも、駆け寄ってきてくれたもんね。ああ。  信じ難いほど乱暴に顔を洗って、もういっそ軟らかくなんてなくてよかったタオルでごしごし拭いて、恐る恐る目を上げ鏡を見る。ああ、――なんてマヌケな顔してるんだろう、俺。  そんなふうに、端的に言って最悪な滑り出しを迎えてしまったオフの祝日をなんとか取り戻すべく、俺は即座に行動を開始した。危うく軽めにするところだった朝食をしっかりしたものに変更して、食べ終わるが早いか洗い物を片付けた。洗濯機を回している間に家中の部屋という部屋を掃除して、洗濯物を干した後で今度はいつもだとちょっと見逃してしまいそうなところにまで掃除の手を伸ばした。小物箪笥の裏だとか、本棚のてっぺんだとかまで。さながら年末の大掃除のようであったというか、年末はなんだかんだ忙しくなってしまう俺からすれば、その時よりもよっぽど丁寧に部屋中を綺麗にしてしまったかもしれない。  それでも、ついでのついでのついでくらいで引っ張り出した冬用布団を天日干しし終えると、いよいよ手の付けられそうな家事がなくなってしまった。時刻はまだ、ようやく昼に差し掛かったというぐらいか。なんてことだろう、一日が長い。なんだか花嫁修業みたいね、誰のところ嫁ぐつもりなのかしら、とくすくす笑ってからかいながらも、母さんは幼い頃から俺に家事の技術を身につけさせてくれた。それがまさかこんなところで裏目に出るなんて、母さんだって思いもしなかったことだろう。  テキストを開いて勉強でもしていればいくらでも時間は潰せるだろうに、そういったものに対する努力は怠ってこなかった自負ならあるからこそ得ている絶望的確信がひとつある。それは要するに、噛み砕いて言えば、今日は絶対に集中なんて出来ない、という確信だ。座っていてはいけない。考え事のできるような猶予を、少しでも与えてはいけない。こういうときは身体を動かしているのが一番なんだ。高校の部活の練習日ではなかったのがひどく悔やまれる。  だって多分、俺、座ってじっとしていたら、きっと。
「……そうだ、夢」
 きっと俺、あの子のことで、いっぱいに、なってしまう気がする。  いつの間にか造り変わっていた、いつの間にか造り変えられていた、この身体。
「夢、見たんだ、俺」
 やけに眠りの浅かった理由を、今更になって思い出す。  夢を見たんだ。
 ――総司くん。  ――総司くん?  ――総司くん!
 あの子が、俺のことをたくさんたくさん呼ぶ夢を、たくさんたくさん、見たんだ。  どうしてそうてんで駄目なことになってしまっているのか、という理由について、何も心当たりがなければいっそよかったんだろう。だというのに俺の中には、残念ながらひとつ、思い当たることがあった。  スマートフォンのアラームがやかましくがなりたてるまで、あの子の夢を見てしまう理由。休日を全部埋め尽くすくらいまで、どたばた家事をしなければならなくなってしまうような理由。そんな馬鹿げた内容について、実に情けない話ながら、俺にはひとつ心当たりがあった。
 悪いのはあの子じゃない。  悪いのは、あの子じゃない。
「未来ちゃんは、」
 悪いのは、あの子じゃないから。
「いい子、すぎるんだよ」
 だからきっと俺は、君が悪い、みたいな言い方を、ついつい選び取ってしまうんだろう。  それでも悪いのはあの子じゃないんだ。なにしろ未来ちゃんは俺の言いつけにきちんと従おうとしてくれているだけなのであって、危うく口を滑らせそうになったとき両手でばってんの形にぱちんと口を塞ぐ仕草を見せてくれることなんか、なんて健気なのだろう、という話なんだから。つまりいい子の未来ちゃんはそのくらい頑張って、俺の言った、みんなの前であまり好きという言葉を口にしてはならない、という命令を正しく守ろうとしてくれた。それだけなんだ。
 休憩室のソファに座って、サインを書いていた時もそうだった。ちょうど空き時間が重なっていたから、今度のイベントで配るCDにサインを書いておこうという話を持ちかけたのは俺のほう。やるべきことは何事もなるべく早めに済ませておきたい、という俺のせっかちな性質に、未来ちゃんはよく付き合ってくれる。ときどき窮屈に思っていやしないだろうかと心配になることもあるけれど、どこまでも奔放なように見えて未来ちゃんもお母さん譲りなのかたいへん真面目な子であるため、文句のひとつも出てこない。「そんなふたりだから、ユニットとして組んでもらって、先んじてデビューしてもらおうと思ったんだ」と、トシちゃんがやさしい目でそう言ってくれたこともある。  言い出したのは俺だったけど、先に書き終えたのは未来ちゃんのほうだった。女の子らしい丸っこいくせを持った、未来ちゃんの文字たち。昔から全然変わらないな、とこんなところでしみじみ思ってしまうのはもしかしたらいけないことだろうか。なんて、それらがふにふに柔らかそうな指先によってするする並んでいくのを思わずぽけっと見ていたら、未来ちゃんが書き終えても尚、俺の手元にはあと数枚CDが残ったままだった。
「あ、ごめんね、すぐ済ませちゃおっか」 「ううん、大丈夫だよ」 「え?」
 慌てて作業に戻ろうとしたところで、向かいあって座っていたはずの未来ちゃんがすとんと隣に腰掛け、微笑みかけてくる。目尻のところにいたずらっぽさが見え隠れしていたのは、きっと気のせいじゃなかった。
「あのね、ゆっくり書いてほしいんだ」
 それが狙いでした、みたいないたずらっぽい顔で、未来ちゃんはそう言って。  虚を突かれているかどうかがどうにもわかりやすいらしい俺の顔はきっと今思っていた「どうして」だってすっかり未来ちゃんに伝えてしまって、きっとそうだったから、彼女は一層目元を細めたのだろう。
「総司くんの書くところ、見せて?」 「書くところ? ……字を?」 「うん。総司くんの文字も、指も、すっごく綺麗だから。すごく、」
 ――すき、って、続くはずだったんだ、きっと。
「むぐ」
 けれど未来ちゃんはぎりぎりのタイミングで両手を持ち上げ、自分の口をしっかり塞いだ。指は細いしてのひらも薄い方だけれど、ぴったり押し当てれば空気の漏れる奇妙な音だけしか漏らさない。そういうところまで未来ちゃんは真面目で、いい子だった。  そちらを向いてぴたりと固まっていた未来ちゃんの前で、俺がそろりと手を降ろす。
「……うう。ごめんね、総司くん」
 別に叱るつもりはなかったしそもそも未来ちゃんはルールを破っていないのに、小さく謝った後、未来ちゃんはばつが悪そうに破顔してくっと肩を竦めていた。  確かにぎりぎりではあったかもしれないけど、それでも未来ちゃんは俺の言いつけを破りはしなかった。俺の把握している限りだと、きっと一度も。花撫ちゃんが(わざわざ)教えてくれたことによれば、未来ちゃんのやるあの口ばってんはここ数日で散見されるようになったとのことなので、多分俺がいないところでも未来ちゃんはちゃんと俺の言った通りにしようとしてくれている。「まあそれ以前に、今まで一体どんだけ総ちゃんすきすき全開だったのって話だけどね」。
 だから未来ちゃんは悪くない、未来ちゃんは、悪くないんだ。  悪く、ないんだけど。
「……未来ちゃん」
 鼻がすんと鳴ったのは、とりあえず今玉ねぎを刻んでいるからに違いない。  どういうわけか俺だけがひとり取り残されてしまった我が家(母さん達は泊りがけで少し遠くのショッピングモールに行くと言っていた。その日は俺ちょっと予定があるかも、なんて変な見栄を張らなければよかったと今になって後悔している)で、溜まっていた家事も溜まっていなかった家事もすべて片付けてしまった今、俺の本日あまりよく回らない頭で思いつけたのは時間のかかる料理をすることくらいで、ぼけっとした足取りでスーパーまで行って帰ってきて、見慣れたロゴの袋にはどういうわけか肉じゃがの材料が入っていた。時間のかかる料理と言ったじゃないかと叱りつけたくなったところで時既に遅しなのであり、頭をひねった結果、今俺はカレーを作っている。食べるのは恐らく夜で、仕込みはなんと十三時から始めているという豪勢な時間をかけたカレー。あれこれと隠し味を試すより、煮込み時間という最強にして最高の手間を掛けた者にだけ口にすることが許される至上のカレーを、今俺は玉ねぎで鼻をすんすん鳴らしながら作っている。休日をまるごとつかって一体何をしているのか、という問いなら、洗濯機を回しだした辺りでしておきたかったものだけど。  それでも未来ちゃんは悪くない。別にあの子だって俺の夢に出演したくてしたわけではないのだし、約束があると勘違いして焦ったのだって俺が勝手にしでかしたことだ。口にばってんをしてみんなから未来ちゃんどうしたの、と聞かれてもあの子は神妙な顔でぶんぶん首を振るばかりだって聞いたし。  鍋に薄く油を引いて、切った具材を炒めていく。ぱちぱちと水分の弾ける心地よい音が、昼過ぎ、たったひとりの台所に響いている。未来ちゃんは悪くない、未来ちゃんは悪くないんだけど。
“総司くん、総司くん”
 木べらで鍋の中身をかき混ぜる。乱切りにしたまだ固いにんじんやじゃがいもが、鍋のふちにころころぶつかって軽やかに舞う。
“ねえ総司くん、なに作ってるの?” “総司くん、わたしお手伝いするよ!” “お皿、何色がいい?” “――総司くん!“
 よくよく炒まった具材の上に水を注ぐと、じゅうっと景気のいい音がした。  タイマーをセットして、鍋の蓋を閉めて。エプロンもつけたまま、俺はとうとう、キッチンのひんやりとした床の上にしゃがみこむ。息を吸って、吐くのが、少しだけ難しい。  あの子はなんにも悪くない。ただ俺が、慣れてしまっていただけなんだ。こうして気付くと、本当に怖いくらいに。一体どんだけ、なんて花撫ちゃんは言っていたけれど、本当のところ、一体どんだけ、だったんだろう。それはもうわからないけど、わからなくなってしまったけど、きっと俺が溺れてしまうには十分すぎるほどだったに違いない。  俺はきっと、これまでずっと、溺れていたんだ。あの子がくれるたくさんの名前や、あの子がくれるたくさんの言葉に。まっすぐ、本当にまっすぐ、俺にはちょっと眩しすぎるくらいのひたむきさで、両手いっぱいに抱えた気持ちをまるごと届けてくれる、あの子に。  だからきっと、そうしてたくさんたくさん注がれたものに、俺はいつの間にか、溺れきってしまっていて。慣れてしまうということは、どれほど怖いことだろう。気付いたら俺はもう、息が苦しいんだ。気付かないほどゆっくりと、けれど毎日少しずつ確実に、俺の身体は造り変わった。注いでもらって注いでもらってゆっくり沈んで、溺れている中で、俺の身体は変わってしまった。日陰ではもう、呼吸がうまくできないんだ。透き通った晴れの空の下に、一度でも飛び込んでしまえばもう駄目だったんだ。太陽の下でなければ生きていけない。  注いでもらった光がなければ、息も、できない。
 キッチンで、ひとりきりのために作られた虚しくて美味しいカレーが、くつくつと静かに煮えている。
『映画、すっごく面白かったよ! あのね、空、飛んだの! 亀が! びゅーんって! えがおちゃんも面白かったって! 怖くなかった、よかったーって!』 「あはは、えがおちゃん、ホラー苦手だもんね。怖いシーンなかったんだ、よかったね」 『うん! 総司くんにもちゃんとおみやげ買ったからね。明日持っていくね!』 「ほんと? ありがと、未来ちゃん。どんなのかなぁ、楽しみ」 『えへへ。まだひみつ、だよ』 「えー。気になる」 『……ん?』 「未来ちゃん?」 『総司くん? ……どうかした?』 「え? どうもしてないよ?」 『……大丈夫?』 「うん」 『うーん……』 「………、未来ちゃん」 『んー? なぁに、総司くん』 「言って」 『……えっ?』
 未来ちゃんは悪くない。  未来ちゃんは���悪くない。  じゃあもう悪いのみんな俺でいいから、俺がみんないけないんだから、だから、だったら、いけないことを言ったって、構いやしないんじゃないのか。  酸素の足りない、まともに息もできてない頭がぼうっと考える。  君は悪くない、悪いのは俺、だから俺は、いけないことを言ってしまう。ねえ未来ちゃん。
「俺のこと、好きって言ってよ」
 いい子になんて、ならないで。  思��ず押してしまった通話終了のボタン、手から滑り落ちてキッチンの床を叩いたスマートフォンの転がる音。ごくごく微かな電子音、電車が遠くを走っていく音。  カレーの煮える、音がしている。
 ごくごく微かな火で具材がみんなとろけてしまうまで煮込んで、焦げ付かないよう時々かき混ぜて。ソファと台所の間を行き来するだけを繰り返し、一体どれほどの時間が経っただろう。慌てて送った「なんでもないよ」「気にしないで」「ごめんね」のLINEには、一向に既読がついてくれないままだ。そのうち携帯を見るのが怖くなって、現在それはテーブルの上で置きっぱなしになっている。  とは言えぴくりとでも振動すればすぐに駆けつけただろうが、それもない。未来ちゃんがメッセージを見たかどうかはもう確認できないけれど、とりあえず返事はまだ来ていないというのは事実だ。それがどういう意味を示しているのか俺にはわからなかったし、わかろうとするのが恐ろしかった。有り得ないくらいひどいことを言ったというのは、自分が一番よくわかっていたから。
「うわ、……っ!?」
 だから、インターフォンが鳴った時には、文字通り飛び上がって驚いた。  なにしろ音が鳴るとすれば携帯電話だと思っていたんだ。まったく予想していなかった出来事に、人間はいつだって弱すぎる。もう驚きが目元に出やすいとか、そういう問題ですらなかった。飛び上がった衝撃に合わせきしりと揺れるソファの上で、俺は思わず呆然と玄関の方を見つめてしまう。ぴん、ぽーん。ぴんぽん。ぴんぽんぴんぽん。そうこうしている間にも、音はしきりに鳴り続けている。  チェーンロックをかけずに扉を開いたのは、とても大きな罪の証拠だったようにも思う、けど。
「っ、総司くん!」 「……未来、ちゃん」
 淡桃色の頬が真っ赤になるまで、ぴょんぴょん跳ねているのがかわいい黒髪がぺったり額やこめかみに張りつくまで、顎のところから光るぽたっと滴が落ちるまで、とにかく必死に走ってきてくれた彼女がたった今目の前にいるにあたって、余計なことを考えている隙間なんて、もはや俺の頭には残されていなかった。  は、は、と浅い呼吸を繰り返しながら、未来ちゃんは一生懸命こっちを見つめていた。流れ落ちてくる汗を拭いもしない。しんぱい。だいじょうぶかな。総司くん、総司くん。呼吸するのがやっとで、名前を一度呼ぶのがせいいっぱいでも、未来ちゃんの瞳はいつも通り、全力で俺に注ぎにかかってくれる。それが、――ああ、それが。
「……入って、未来ちゃん」
 それがこんなに心地よくて、俺はやっと息ができる。俺はやっと息が、出来てしまう。  俺が肩を引いたことで、未来ちゃんはととっと数歩前に出た。抵抗があまりなかったのは、もう足がすっかり疲れ切っていたからなのかな。扉が、未来ちゃんの背中でぱたんと閉まる。  俺は息が、できてしまう。
「そう、じ……くん?」 「あんまり好きって、言わないものなんだよ」
 君のことを無遠慮に抱きしめてやっと、俺は、生きていられてしまう。  君の香りをたっぷり吸って、俺は息ができてしまう。  君の胸の音に合わせて、俺の中も脈打ってしまう。  君の瞳に飛び込んでやっと、俺は俺を見つめられる。
「外、とかさ。……みんなの前では、言わないものなんだよ、未来ちゃん」 「………、なら」
 いい子のいい子の、未来ちゃんは。
「中で、ふたりなら、いいんだよね?」
 俺の言うことを聞くのが、いつだって、とっても上手だ。
「総司くん、すき」 「……ん」 「大好きだよ、総司くん」 「うん」 「総司くんが好き。好きだよ、好き、いっぱい、だーいすき!」 「うん、」
 ねえ父さん、慣れって本当に、怖いものなんだね。  だけど俺はきっと、こうやって、生きていってしまうんだと思うんだ。  肉じゃがじゃないけど、でもきっとおいしいカレーだから食べてくれませんか、なんて言って。そのまま、よければうちに泊まっていきませんか、なんて言って。  とってもおいしいカレーがあるから、ふかふかな干したてのお布団もあるから。  一晩中、好きって言ってくれませんか、俺をそれで、すっかり溺れさせてくれませんか、なんて、言って。
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pplesht-blog · 6 years
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夏とハニーフレーバーと麻痺毒
 それなりの付き合いになると、決まりきったやり取り、みたいなものが必ず出来てくると思う。その殆どに内容なんてものはありはしないし、言ってみればとてもくだらないことなのに、どういうわけか、それを繰り返さないと始まらない気がしてしまうのだ。  もっとも、僕と彼女の間で、そう劇的に何かが始まったり終わったりしている、というわけでもないんだろうけど。
『そういうわけですから、獅子丸くん。お昼から付き合ってください』 「……ボク今デート中なんだけど、って言ったら、君、どうするつもりだったの」 『どうでしょう。でも、それは困りますね』
 それにしたってこの小動物の皮を被った化物と来たら、しおらしい言葉のなんて似合わないことか。いよいよもって電波を通じて相手の頬を抓る方法の開発が待たれる。そもそも、彼女が本気で困ったことなんて、果たして本当にあるのだろうかという話だ。まあとんでもないことを考えているなって自分でもわかっているけど、否定するための確かな何かがこれっぽっちも浮かばないのが、それこそ困り物と呼んでもいい気がする。  大体にして、どうやって確認しているのだかは知らない(きっと知らないほうが幸せだ)けど、どうせ今日も彼女は僕の予定なんてしっかり確認済みなんだろう。じゃなければ突然連絡なんてしてこないはずだから。いつだって突飛なように見えて、実は緻密に練られた計画の元──言ってしまえば僕にそれらしく断る理由が用意できないタイミングを虎視眈々と狙って──連絡を寄越すのが、このずる賢い生き物のやり方なんだ。そして僕はと言えば、この時期特有のじわりと蝕むような蒸し暑さにいい加減うんざりして、とにかく冷房がガンガンに効いた快適な場所で適当に時間を潰すため、宛もなく外に繰り出す準備をしているところだった。実に、実に癪ながら。  電話口の向こうで彼女はもう一度要件を繰り返す。ね、どうでしょう、獅子丸くん。どうでしょう、じゃないっての。そのくせ急き立てるような様子はない。だからきっと、断ったら断ったで、ああそうなんですかそれは残念ですね、なんてちっとも残念そうに見えない一言が返ってくるんだ。そんなもの、聞いたこともないくせに、導くためのステップを踏んだこともないくせに、我ながら驚くほど鮮明なイメージが浮かぶ。  それでもやっぱり、僕がその言葉を耳にすることはなさそうだ。だってそうだ、こうして溜息をついているうちにも、僕の喉元にはもう次の言葉が引っ掛かっているんだから。
「……見返りは」 『いちごパフェでどうですか』
 そうして今日も、僕達は定型のやり取りを交わす。まっすぐ引かれたラインの上をなぞるように。いちごパフェなんかよりよっぽど冷たいくせに、だけどどこか甘くもあるそれに、いつまで経っても飽きが来ないのは、そう、僕じゃなくてあの子のほう。そういうことにしている。  せめて言われた待ち合わせ場所には彼女よりも早く着いてやって、呼び出したのはそっちのくせに来るのが遅いとかどういう神経してんの、なんて文句のひとつでも言ってやろうか。今日の空と同じくらいにはバカバカしくてくだらない思いつきを、歩き出しの一歩目で踏み潰した。
「お弁当を食べるのに、付き合ってほしかったんですよ」 「はぁ?」
 葉からは水が蒸発しているから木陰は涼しい、とは聞いたことがあるけれど、それにしたってさっきまでの蒸し暑さがまるで嘘みたいに、麗らかな日差しが射し込んだ木々が生い茂る公園のベンチにて。夏でもこんなに涼しい場所もあるんですよ、と見透かすな目を細めて穏やかに笑ってみせた彼女は、そんなことを言った。  それから僕の表情を伺うように見上げる。お世辞にも生まれ持った目つきはあまりよいとは言えない僕とは対照的に、垂れ下がった瞼の奥のびいだまかなにかみたいな瞳が、亜麻色の前髪の隙間から覗いていた。少し伸びたようにも思う。いつからって──そんなのは知らないけど。ちなみに僕は、獅子丸くんはふわふわしたものが好きなので、とかなんとか言いながら御自慢の三つ編みを愛おしそうに撫でる姿を散見するようになってからは、彼女の前で髪の話題を一度たりとも出したことがない。  ──いや、お弁当の話だった。言った通りに、彼女の手にはバスケットが握られていた。そしてサイズから予想するに、ひとりぶんじゃあ、ない。なんだかひどく嫌な予感が頭を掠める。何が嫌って、こういう時の虫の知らせみたいなもの、それも彼女に纏わる話に関しては、大概驚くほど正しかったりするのだ。つまるところ、ジンクスみたいなものだった。
「見てください。結構上手にできたと思いませんか?」
 僕が顔を顰めているのなんてもはや目に入ってませんと言わんばかりに、嫌な予感が満載な僕の視線をさらりと往なして、彼女はバスケットを開けた。二人分のカップと水筒、そしてレタスの色もまだみずみずしいひとくちサイズのサンドイッチが、その顔を覗かせる。それなりに空腹、いやそれでもその程度のくせに声を上げそうになった身体が、非常に憎らしい。  ところで、これはもしかしなくても、片手でだって食べられるってとこがミソなんだろうか。たとえばいつ急な連絡が飛び込んだって構わないように、なんて。どうやらよりにもよって自分で嫌な予感の裏付けを見つけてしまったらしいけど、今更頭を抱えても遅い。あーん、だなんてとんでもないことを言ってくる彼女を無視して、手から奪い取ったそいつに、出来るだけ乱暴にかぶりついてやる。
「おいしいですか?」 「まあまあ」
 まあまあと最高の間には一体どのくらいの差があったっけか。考えないほうがいいことをいちいち考えてしまうこの頭が、本当は一番、憎らしい。  ハムカツの衣が頬の裏あたりをざくざく擦れるのをよそに、ごく自然な所作で差し出されたお茶でそいつを一気に流し込む。味覚器官あたりがちょっともったいないんじゃないの、と悲鳴じみた声を上げるけれど、うるさい、ちょっと黙っててよ。今はピンクの肉の話より、脳内ピンクの女の話をしないといけないんだから。  いや、そりゃまあ、しないで済むならそれが一番だけど。まったくもって憎らしいことに、僕の頭は、どうもそういうふうに出来ていないらしくて。
「それで?」 「はい?」 「それで、どこぞの希望くんは、一体どんな急用が入って、こんなまあまあのサンドイッチを食べ損ねたの?」
 出来ることならこの憎らしくてめんどくさいあれこれを、半分くらい分けてやりたいあの男は、それで、一体どんな顔をして、一体誰と、一体どこをほっつき歩いているのか。  彼女は──うさちゃんは、特に驚いたわけでも、不意を突かれたというわけでもなく、そうですねえ、とたまごサンドの端っこを咥える。
「獅子丸くん、こんなにまあまあって、なんだか変ですよ?」
 そして、それだけ言った。  非常に残念なことに、それだけ、が、答えだった。
「……君ってさ、」
 これだから嫌な予感というやつは嫌なんだ。希望くんには今度嫌ってほど付き合ってもらおうか。何をって、なんでもだよ。思い当たるワガママのすべてを、なんでも。そのくらいしないとなんだか気が済まない。つまり、有り体に言えば、腹が立っていたから、とても、とても八つ当たりがしたかった。自分に腹が立っている時というのは、大抵そういうものだ。  ああもう、本当に腹が立つ。日が当たっているというのではなくて、僕の頭から陽炎が出ていたように見えたとしたなら、それはまるきり見間違いというわけでもないのだろう。それなりに長い時間と、たっぷりの視線と。それで定型句も鮮明なイメージも予感も手に入れたつもりなのに、確信だけが生まれない。はっきりとした像が、この面倒なほどからっぽの頭の中に、どうしても生まれない。
「君って、本当に──かわいい女だよね」
 そのたった一言くらいしか、このいちいち腹立たしい女について、思い付く言葉が見つからない。  獅子丸くん、獅子丸くん、そんな苦虫噛み潰したみたいな顔で言われても、全然褒められている気がしませんよ。とてもおかしそうに笑った彼女が言うので、鼻を鳴らしてやった。そりゃそうだ、僕は褒めているつもりなんてないのだから。ただとにかく、苛ついているのだから。いつまでもぼやけた像が眩しくて、眩しくて眩しくて、腹が立っているのだから。  約束はいつ頃から取り付けられたものだったんだろう。きっと彼女からすれば大いに周到な準備が行われていたに違いない。そうは言っても、希望くんが抱えている責務(なんて大層な名前をつけられたただの世話焼き気質)が果たされる相手は、彼女じゃない。彼女ではないことになっている。だから恐らくは朝早くから準備したであろうこの豪勢なお弁当も、出掛けるには上々な天候も、きっと突然別の用事が出来たことをふたつ返事であっさり許されてしまった希望くんには、もはや関係のないことなんだ。  そういうことに、しているんだ──ああ、もう、腹が立つ!
「……こんなにまあまあだし、きっと希望くんなら、ここで食べ切るには勿体ないな、とかなんとか言っちゃうんだろうね」 「……獅子丸くん?」 「移動するよ。付き合ってやったんだから、付き合ってよね」
 手を取ったのは僕なりの応酬であったわけだけど、この底なし女を、どのくらい満たしてやれたかは、ちょっとわからない。  ハムカツの、きっと彼の好みであろう、酸味の利いた果肉の風味がいっぱいなソースの味がかすかに残る頬。そのあたりにじわりと集まってしまった熱が、振り返ることをよしとしなかったので。
「獅子丸くん、あの、もしかして、ここまで自転車で来たんですか?」 「他に何があるって言うのさ」 「……徒歩?」 「君に合わせて歩いてたらそれだけで日が暮れるよ」 「ふふ、それもそうですね。獅子丸くん、歩くのが速いですから、いつも置いて行かれてしまいますし」 「だからだよ」 「え?」 「これなら、置いて行かれないで済むでしょ」
 ところで応酬というものは諸刃の剣もいいところらしいと、いい加減ロックを外す手も震えてきそうな気分で思ったわけだけど、今度はしっかりぽかんとした顔が見られた。ので、よしとする。もはや自分でも一体何と戦っているのかよくわからなくなってきたけど。とりあえず、よし。そう、だって、いつまでも僕ばっかり腹を立たせてるなんて、割に合わないじゃん、そうだろ。  何か言いたげな顔こそ見せはしたものの、この女と来たら、隙の見せ方の案配まで絶妙らしく、小さく笑っただけで荷台に乗り込むうさちゃんだった。こんなに近付いたら、離れられなくなってしまいそうですね? そのくせそういうことはしっかり言ってくるのだから、これはよくない。とっとと次のステップに入った方が良さそうだ。  気紛れでなのか、計画的になのか、自分でもあんまりはっきりしないままギアを上げた自転車に跨がって、ペダルに足を掛ける。決め手が背に伝わる柔らかさだったので、後者の可能性が限りなく高いことは、とりあえず無視して。彼女の掴まり方が概ね人をぎくりとさせるものであることくらいは、想定の範囲内だ。
「獅子丸くん、耳、赤いですよ」 「……飛ばすから!」
 範囲内、だ!
 言った通りに飛ばしてやった。僕の運転技術と交通法をギリギリ、本当にギリギリ振り切らない程度には。そういったことのすべては半ば仕返しめいていて、つまりは不格好な意地だった。悲鳴のひとつでも聞けたなら、それはそれで面白そうだ。ひっくり返りそうなくらい楽しいことを考える。  チェーンの回る音と風が耳元でごうごうと無骨な呻りを上げていた。空気の中に、僕と同じく往生際悪く残った春の残り香みたいなつめたさが、背中にしっとりと絡みつく体温を鮮やかにしてい���。もっと早く季節なんて動いてくれればいいのに。無茶な操縦を繰り返して、景色はあっという間に町の外れだ。ガードレールのふちをタイヤでなぞるように、急カーブを曲がる。
「獅子丸くん、獅子丸くん」 「なに!? 口閉じてないと、舌噛むからね!」 「ふふっ、いいですよ? それなら獅子丸くんが、舐めて治してください」 「はぁ!?」
 だんだん舗装が怪しくなってきた道路で、車体は一度大きく、このままどこまでも飛んでいくんじゃないかってくらい、飛び跳ねて。荷台でがちゃんと揺れたバスケット、腰に無遠慮に抱きついてくる腕のなめらかな熱、夏の匂い、夏の、匂い。  まったくこの女と来たら、どこまで底なしなのかは知らないけど。とりあえずそうやって僕の背中にじゃれついて、きゃあきゃあ笑っている限りは、僕の頬のあたりがむず痒いことには、さすがに、気が付かないかな、なんて。  君はそう、僕の、顰めっつらしい顔だけ知ってればいいんだ。それだけ見てればいいんだ。そういうのもなかなか悪くない。そう思っているうちに、海が見えた。
「これはちょっと……ひどいですよ。まあ、かなり揺らしてましたからねえ、獅子丸くん」 「別に、ちょっとくらい形が崩れたって……味は変わらないでしょ、おいしいものはおいしいよ」 「あ、今おいしい言いましたか? やっぱり、おいしかったんですね?」 「ま・あ・ま・あ、ね!」
 ちくしょうちくしょう、それにしたって気が抜けなさすぎるんだ、この女は。案の定崩れきったサンドイッチを海岸の岩で広げながら、迂闊な自分に舌打ちを禁じ得ない。  そして今度もあーんなどとふざけたことを繰り返してくるうさちゃんだった。応じてやったら少しくらいは驚くかもしれない、なんて思った通りにやってみたのはさすがに間違いだったのかもしれない。彼女の想像を越える、というのは、それはつまり、僕にとっても、諸刃の剣なのであって。小指にくっついたソースを舐めとる仕草が妙に艶めかしいのは、わざとか、わざとなのか、こいつ。  くすくす笑ううさちゃんを横目にも見ずに、まあまあとりあえず最高においしいサンドイッチを、後は無言で片付けた。時期としてはまだ少し早い海には他に人影はなくて、ただロマンチックですねとつぶやいた彼女の言葉は、多分に悪い冗談だった。笑ってやれるほどの心の広さは持ち合わせていないけど、特にそこを期待されているということもないんだろう。
「あ……見てください、獅子丸くん。この貝、ちょっと希望くんに似てますよ」 「……紅色で、尖ってるところが?」 「はい。……そうですね、少し泳いできてもらいましょうか」
 ただそういう悪い冗談を飛ばす程度には、はしゃいでいるようにも、見えて。うさちゃんは手に持った貝をぷかりと波に押し出した。獅子丸くんも泳ぎましょうよなんて言い出すあたり、やっぱりはしゃいでいる。  それにそのまま乗ってやるのも癪だったから、ちょうどそばにあった薄紫色のちいさな貝を、紅色の貝の近くの岩に置いた。出来るだけ、乱暴に投げるように置いた。
「……獅子丸くん? これは?」 「あの貝を健気に待ってる、誰かさん」
 紅色を映す彼女の瞳は、きっとこんな色をしている。考えない方がいいことが、だけどしっかり頭を掠めた。きっと、さっきのひとくちのせいだ。わかっているのか、わかっていないのか、わからないし、出来ればわかりたくもない表情で笑った彼女と僕の、目の前で。  ──ざあと大きな音を立ててやって来た、突然の大波で、気が付けばいつもよりずっと小さな希望くんは、ものの見事な転覆を決めていて。
「……ぶっ」 「ふっ、……ふふっ! もう、なんですか、これ」 「ち、ちょっと、背中叩かないで……っ、ふ、あはは!」
 なんかもう、わけわかんないくらい、笑えた。  しかも悪いことと同様におかしいことも続いてやってくるものらしい。なにって、うさちゃんの携帯だ。涙を拭いながらどうにかそれを取り出した彼女は、着信先を見て更にお腹を抱えてしまって。だからなのか、とても出られるような状態じゃなかったからなのか、通話ボタンを押したくせに、それを僕に押しつけてきてしまって。
「ぷ、くっ、ふふふ……も、もしもし?」 『もしも……って、獅子丸か? ……俺、間違えたか?』 「うん、そう、そうだね、大間違いだよ……っ、あはははは!」 『な、なんだよ……? 獅子丸、おい獅子丸? お前、なんか悪いものでも食ったのかよ……?』
「うん、おかげさまで、もうお腹いっぱいだよ!」
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