ニンニク大好き🧄どんな料理でもとりあえずニンニク入れちゃいたい🧄🧄という方がいらっしゃいましたら、サンフランシスコにありますThe Stinking Rose @thestinkingrosesf さんをお試しになられては如何でしょうか⁉️ 1991年にサンフランシスコのColumbus Avenueで開店🎊したこのレストランでは、前菜からデザートまで、全てニンニクがふんだんに織り込まれた料理🍽️をお楽しみいただくことができます👍 以前はサンフランシスコ店とビバリーヒルズ店 @thestinkingrosela の2店舗営業🈺されておりましたが、ビバリーヒルズ店は現在閉業しており、現在はサンフランシスコ店のみ営業されております😀 #thestinkingrose #thestinkingrosesf #thestinkingrosela #garlic #にんにく #にんにく料理 #にんにくたっぷり #海外 #海外生活 #海外移住 #海外在住 #海外駐在 #アメリカ #アメリカ生活 #アメリカ在住 #アメリカ暮らし #アメリカ駐在 #駐在 #駐在妻 #駐在生活 #駐妻 #カリフォルニア #シリコンバレー #サンフランシスコ #あつまれ駐在員の森in🇺🇸340投稿目 #atsuchuin🇺🇸340thpost (at The Stinking Rose) https://www.instagram.com/p/CqcHy_3ur3b/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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服部吉次さん(俳優・音楽家/78歳)
今年3月に英公共放送BBCが報じたジャニーズ事務所の創業者・故ジャニー喜多川氏の性加害問題のドキュメンタリーを契機に、元ジャニーズJrでシンガー・ソングライターとして活動するカウアン・オカモト氏(27)が実名でジャニー氏を告発するなど、その衝撃は日本中に広がっている。今回、俳優で音楽家の服部吉次氏が小学生の時に受けたジャニー氏からの性被害を告白する。吉次氏は「別れのブルース」「東京ブギウギ」「銀座カンカン娘」などの和製ポップスで知られる国民栄誉賞受賞作曲家・服部良一の次男。長兄は作曲家の故・服部克久だ。(独占インタビュー前後編の前編です)
◇ ◇ ◇
──なぜ、今過去の性被害を公表する気になったのでしょうか。
「ひとつは、カウアン・オカモト氏ら実名で告発した方たちに対する敬意です。ジャニーの悪行にはかつて(2000年代に)司法の明確な裁きが下ったんです。にもかかわらず、それから30年経った今に至るも、主要なメディアはジャニーズ事務所の数々の非道の兆候を明確に指摘することをためらい、忖度し、温存する側に回ってしまった。
なぜか。この国ではむきだしの怒りを相手にぶつけることを避けてしまう。人々はこの世の歪みに気づかないふりをする。でも、少しずつではあるけれども、勇気ある告発は増え続け、海外からの声も追い風になり『おかしい』という声は大きくなってきた。それだけに行動する人に対するバッシングも大きくなる。今回こそ、真正面からその圧力と向き合おう、この機会を失うと、もう二度と発言の機会は失われてしまうかもしれない。そんなやむにやまれない思いで、今回の告白に踏み切りました」
■父の米国巡業の縁で姉弟が服部家に
──被害にあったのはいつ頃でしょうか。
「まず、ジャニーと私の父・良一の出会いから話します。1950年に、父が歌手の笠置シヅ子さんと『ブギ海を渡る』を持ってアメリカ巡業ツアーをしたのです。8月11日にハワイ公演、9月1日から3日間はロサンゼルス公演でした。会場は高野山ホールという高野山真言宗の直営ホールで、当時の高野山真言宗米国別院の第3代主監が喜多川諦道氏。ジャニー喜多川の父です。
諦道氏は『ボーイスカウト第379隊』の結成に尽力したり、プロ野球球団『ゴールドスター』のマネジャーも務めていたという多芸多才な方だと、今回ネットで知りました。ロスの日系社会で声望が高かったそうです。息子のジャニーは当時19歳。姉のメリーと共にコンサート会場を駆け回り、大人顔負けの接待役を発揮し、父や笠置さん、服部富子(叔母で『満州娘』の大ヒットで知られる歌手)、スタッフたちのマスコット的存在だったそうです」
──服部家とはその縁で?
「同じ年の6月に勃発した朝鮮戦争で、ジャニーはアメリカ国民として徴兵され、従軍するのですが、ある日、突然、彼が新宿区若松町の家にカーキ色の軍服姿で現れました。パパ(良一)と叔母は、それを見るなり『ヒーボー(ジャニー氏の本名・擴からこう呼んでいた)! ウワー、大きくなって』と歓声をあげて出迎えました。
それから、何回か若松町に遊びに来ました。今でも忘れられない光景があります。玄関にうずくまり、軍靴をゆっくりと編み上げている彼の姿です。家族はそれを囲んで一言も言わずじっと見つめていました。それから彼は立ち上がり、私たちに別れの挨拶をするでなく、『あー、行きたくないなー』と一言。
今思うと、2世差別の残る戦場へ向かう彼の姿を中国戦線での慰問経験をもつパパと叔母は、どんな思いで見ていたのだろうと思います。ジャニーは朝鮮戦争から帰還し、その翌年日本に戻り、除隊後には米大使館軍事顧問団に勤務したといいます。それで再び、服部家に出入りするようになったのです」
──どんな印象でしたか?
「ジャニーはワシントンハイツ(代々木にあった進駐軍宿舎)に住んでいて、時々、お土産をもって服部家を訪ねてくるんです。ハーシーのチョコレートやハンバーガー、フライドポテト、アイスクリームなど。PX(基地内の売店)で手に入れたものでしょう。当時の日本は皆貧しいですからね、ハーシーのチョコなんて高根の花でした。うちは比較的裕福とはいっても、進駐軍の物資の豊かさは別世界です。
ある時、冷蔵庫が運ばれてきたのでびっくりしました。父が彼に頼んで買ったものでしょうけど、当時は氷を置いて冷やす簡易冷蔵庫しかない時代です。冷蔵庫・洗濯機・テレビが三種の神器と呼ばれて主婦が憧れたのは1960年代の初めですからね」
──ジャニー氏の性癖を知ったのはいつですか?
「私は当時8歳。小学2年生ですから、チョコレートやお菓子を山のように持ってきてくれて、一緒に遊んでくれるヒーボー(ジャニー氏)は優しいお兄さんですし、大好きでした。ある日、いつものようにふらりとやってきて、確か“キャナスター”というトランプゲームなどで遊んでくれたヒーボーが、『もう遅くなったから今日は泊まっていこうかな』と言うんです。母も、『そうね、どうぞ泊まっていって』と言う。
ヒーボーが『どこに寝ればいいかな?』と聞くと、『よっちゃんの部屋がいいんじゃない』と母。『よっちゃん』というのは私の愛称です。
それでヒーボーが私の部屋に泊まることになりました。2階が子供部屋で4部屋あるうちの2つは兄と私、1つは姉3人が寝るようになっていて、一つは布団部屋みたいになっていたと思います。
パジャマに着替えた私が布団に入ると、彼が『肩揉んであげる』と言うんです。私も子供のくせに肩こり性なので、言う通りうつぶせになると、ヒーボーの手が虫みたいに体中をはいまわるので『なんか変だな』と思ったけど、私にとっては優しいお兄さんですからね。
そのうち、下半身をまさぐってきて、パンツをめくって股間のあたりに手を入れてくるんです。指でさすられているうちに生温かいものに包まれたと思った瞬間、今まで知らない突き抜けるような快感があって。それが初めての射精でした。何がなんだかわからず、びっくりしていると、今度は肛門をいじり始め、舌がはい回ってくる。そのうち舌とは違う硬いものが入ってくる感触がするけど、さすがに痛いので身をひねったら、諦めたようで、指で自分を慰めている。それを見て怖いというよりも、8歳だから何がなんだかわからない状態です」
■姉からは「汚らわしい」と言われ…
──母親には話さなかった?
「その翌朝、起きたらすでにヒーボーの姿はない。何も知らない姉が笑顔で『どうだった? 昨夜は大好きなお兄ちゃんと一緒に寝て楽しかった?』と聞くので、『うん、ヒーボーは僕の体を揉んでくれるんだけど、だんだん、手がパンツの中に入ってきて、おちんちん触るんだよ。おちんちんって汚いよね。��く、なんだか気持ち悪くて……』と言ったら、姉が、『やめなさいよ、そんな話。汚らわしい』とすごい剣幕で言う。
姉がそんなに怒るのは昨夜のことはやっぱりいけないことだったんだと思って……母親に話すことはできないし、まして普段からあまり会話が少ない父親に話すなんて無理。そこで思考停止しちゃったんです。
ジャニーがしたことがオーラルセックスだというのは大人になってわかるんですが、変なことをされたという気持ちとそれを自分が受け入れた後ろめたさが子ども心にも複雑な心理状態になるんですね。
アイスやチョコをくれて、性的な快感を味わわせるということで、こちらに後ろめたさを持たせ、その一方で加害者としてその快楽を使った口封じをしているわけです。性に関する問題は『支配と奉仕』の二重構造があるのだと思います。でも、それで終わったわけではなかったんです」(後編につづく)
▽服部吉次(はっとり・よしつぐ) 本名・服部良次。1944年生まれ。父は作曲家・服部良一。劇団黒テントの創立メンバー。「翼を燃やす天使たちの舞踏」「上海バンスキング」「阿部定の犬」ほか多数の舞台に出演。妻は女優の石井くに子。次男はハンブルク・バレエ団で東洋人初のソリストで、バンクーバー五輪の開会式に出演したバレエダンサー・服部有吉。兄は作曲家・服部克久。甥は作曲家・服部隆之。隆之の娘はバイオリニストの服部百音。
(取材・文=山田勝仁)
(2ページ目)国民栄誉賞作曲家の次男がジャニー喜多川氏からの性被害を告白 「8歳の時に自宅部屋で…」|日刊ゲンダイDIGITAL
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08/10/2019 - #1
ヒューストンから早朝の飛行機でユタ州ソルトレイクシティに向かう。子供は4か月になっている。飛行機の中ではうまい具合に寝てくれたため余裕をもって着陸。大量の荷物のほとんどはストローラー・着替え・ミルク用各種器具などほとんどが乳児用のもの。今回はオムツを現地調達するために少なくしてきた。
飛行機の窓からとんでもない規模の採掘場が見える。しばらくするとソルトレイクの名にふさわしい塩湖がいくつも見えてくる。その間の道を豆粒のような自動車が走っていく。
ユタ州は通称モルモン教と呼ばれている人達がイチから作った州だ。キリスト教から異端とされて全国をさまよった結果、この地を開拓して定住した。モルモン教徒は今では全国各地に強大なコミュニティを築いている。って、会社の同僚のモルモン教徒に教えてもらった。勤めている会社でもモルモン教どうしの結束で人事が決まっているような場面や、逆にしがらみがややこしくなっているような場面に遭遇した。
2017年にハリケーンがテキサス州を襲った時には、モルモン教の同僚にお願いして、破壊された家々を訪ねてゴミ整理、清掃、片付けするボランティア活動に何回か参加させてもらった。地区ごとにチームを組んで動くが老若男女関係なく出動。教会の力およびアメリカのキリスト教系の敬虔な人たちの行動規範というものをすごく感じた出来事だった。
午前10時前には着陸。レンタカーを取りに行く前、空港の構内で宿泊先の施設から妻に電話がかかってくる。それによると妻が宿泊予定を1日間違えて伝えており、明日のお泊まりは予定通りですか?と。いや、今日に泊まります…でも今日は予約が取れていないという。急遽予約をやり直してもらいなんとか事なきを得る。
ワイオミング州にあるイエローストーン国立公園の入り口を目指してひたすら走る。アメリカの国立公園はだいたいが1870代ぐらいに各地探検しすばらしい場所を発見した白人がこの自然を守るべき、ということで国立公園化を推進したものが多い。他には、広大な鉱物の採掘場だったものを残したり。ヨセミテのトレイル名にもなっているジョン・ミューアはその第一人者だ。
ワイオミング州まではアイダホ州を通っていかなければならない。国立公園の周りに空港を建てて良いわけもなく、最寄り空港を選ぶと今回の形になる。距離は350マイル以上。時間は7時間となる。前回サンアントニオで練習はしてみたが、はたして4か月児と行うこの片道500kmの長距離ドライブは成功するのだろうか。
ガソリンスタンドの休憩以外は走り続ける。とにかく「Idaho」と書いたグラスやマグカップ マグネットしか売っていないお土産コーナー。いま思えば買っておけば良かったのだろうか。
17時半ごろ、イエローストーン国立公園内の宿泊施設オールドフェイスフルイン(Old Faithful Inn)に到着する。1904年に建てられたこの公園のランドマークとなる施設だ。
結局無事に走り切れてしまったのだった。子供をベッドに解き放った後は施設のバルコニーから見える間欠泉を見学。もう夜になって来て子どもを寝かす時間だ。大人用ベッドは高すぎて落ちたら危ないと思い、部屋にクリブを用意してもらったのでそこに寝かせる。ところが夜中に泣いて起きてしまった。寒すぎたようだ。
夏でも夜は寒い。南国のヒューストンに暮らしているとついその辺がおろそかになる。なんとか1つのベッドの真ん中に寝かせて大人が挟む形で対応する。その夜どんな夕食を食べたかは忘れてしまった。
次の朝は施設内の食堂で遅めの朝ごはんを食べる。スクランブルエッグ・ベーコン・ソーセージ・ポテト・パンケーキ・メロン(緑とオレンジのメロンがどこでも基本となる)といったごく普通の食事。
レストランの受付で使っているシステムが自分の勤めている会社のERPシステムと同じMAPICSだったのが記憶に残る。こんな古くさいシステムがアメリカの各企業で依然として使われてるのか。
バッファローが集団で暮らしているエリアまで車で移動する。広大な草原にたくさんいるのを遠めに眺める。
次はGrand Canyon of Yellowstone と��う大きな谷になってる所の北側North Rimを走る。Upper Fallという巨大な滝を見るためにトレイルヘッドから降りていく。天気も最高で虹が出ている。駐車場まで登り返すときに妻がかなり疲労していたので少し歩いては休みながら帰る。ヨセミテの時はかなりのハイキングをこなしていた事を考えると、出産というのはこんなに女性の体力を奪ったりするとんでもない作業。
次はNorris Geyser Basinというエリアに移動。鉱物を含んだ熱湯が沸いてる池が点在するのでBasinていうのか。ウッドデッキの遊歩道が整備されてそこから見物しつつ歩く形。乾燥してて暑い。日本の各地にある「地獄」とは比較にならない広さ。
今日はこのぐらいで終わりにして宿泊施設に帰る。夜も朝と同じようなアメリカン食事。その後外に出ると夕焼け。今日の夜は子供もベッドに乗せて寝て寒さ対策。
翌朝は片方が乳児の世話をしている間にOld Faithful Innの前に点在している熱湯の池を交代で見学。コイン投げ込むと泉質が変わってしまうから投げ込み禁止の表示。限られた時間なのでランニングを兼ねて走って見学。
朝食もまた同じ食堂で同じ食事。コテージを超巨大にしたような建築物であるOld Faithful Innを改めて見学。その後 Black Sand Basinというエリアに移動する。まずは遊歩道で間近でみるエリア。眩しい光のなかもうもうと湯気を発している中を赤や水色の池を見てまわる。つぎに小高い丘から全体を眺められる場所を目指して少しハイキングする。4ヶ月児に日差しが当たらないようにしているけど、そんなに長くはいられない感じ。
Emerald Poolという有名な池が見渡せる場所まで来た。日本では福島県に五色沼という同様のところがあって子供の頃に行ったことがあるが、それとは規模が違いすぎる。とにかくでかい。帰りの駐車場に人を恐れる様子のない大きなカラスがいた。 カラスは北米大陸ではネイティブアメリカンによって神聖なものとして扱われたというストーリーをいつも思い出す。
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POST JUNK + Atelier
こんばんは。
急な話で恐縮ですが、この度POST JUNKは店舗を構える事となりました。
盛大にオープンするような柄でもないので、当店らしくこそっと開けるつもりです。
下記詳細です。
POST JUNK + Atelier
オープン予定日時: 2023.6.28(Wed) 12:00-
住所: 山梨県甲府市相生2-4-24 モナークアイオイ1F
昨年末辺りから動いていたので実際には急ではないんですが、ご報告するタイミングがイマイチ分からず今になりました。
この半年で第二子誕生、東京→山梨引越し、店舗探し及び開店準備と、近年稀に見るドタバタを経て今。
人生の三年分くらいのイベントをこの半年間に凝縮したような気持ちです。
その間はアメリカ買い付けに行く余裕もなく、またオンラインストアもしばらく更新が滞ってしまいました。
生存確認という名のお問合せメールを沢山いただきまして、誠に有難うございます。
私は元気です。
それで、お店の場所は私の地元山梨県、甲府市内。
中学~高校にかけて足繁く通っていたセレクトショップの跡地です。
まさか二十余年後にそこで自分がお店を始めるとは皆目思っていなかったので、とても感慨深いものがあります。
イケてるセレクトショップが昔そこにあったというイメージを、私の同年代位の服好きの山梨県人は皆持っていると思います。
その場所のイメージを私が崩してしまわないよう心掛けていきます。
で、+Atelierってなんやねんて話しなんですけども。
私事ですが、実はずっとPOST JUNKとは別に、並行して縫製業を営んでおりまして。
むしろPOST JUNKより長い期間。
その他にもグラフィックや縫製仕様書の作成、商品企画など、洋服に関する仕事を請け負ってきました。
そんな中でもしPOST JUNKの店舗を持つなら、それらの仕事を全部行える場所にしようと考えていたので、そのスペースを設け、
+アトリエという名前をくっ付けた次第です。
安易だけどヒネる必要も無いかなと…。
ロゴは超絶強運の持ち主の長女に書いてもらいました。
オープン日も長女の誕生日、それに加えて一粒万倍日。
もうこの日しかないだろ!と、内装業者さんに後出しジャンケンで頼み込んで、ギリギリいけるかな…という状況。
もし無理だったらまたご連絡いたします…。
オンラインストアの方はもちろん継続して更新していきます。
むしろ、できる限りオンライン優先で販売したいと思っています。
というのも、当店は始まりから今まで通販のみで運営してきました。
これまでご利用いただいていた全国のお客様方に、店舗が出来たから店舗優先にするよ!というのは筋ではない気がしまして。
普通は逆だと思いますが、そんな店もあって良いのではないかと楽観的に思い巡らせ。
とは言えオープン日に何も商品が無いのは寂しいので、手持ちの在庫+コソコソ溜めていた黒い服たちを並べてみようと思います。
本当は今年の初売りでオンラインに出そうと考えていた服です。
去年のBLACK POST JUNKが個人的に楽しかったので、今年もまたやろうと思っていました。
でもそれと店舗オープンを天秤に掛け、今年の初売りはやめた経緯があります。
だから今年の正月はつまらなかったけど、結果的に良かったと今は思います。笑
あともう一つ。
実は当方の妻もyakusokuという名の古着屋を営んでおりまして、このお店も同店舗内にスペースを作り併設します。
かっこよく言えばSHOP IN SHOPてやつです。
実情、そのスペースというのは小さなストックルームなんですが…。
とか偉そうに言ってますが、聞いたところ妻はyakusokuを12年位やってるようなので妻の方が全然先輩です。
すいません。
また妻も縫製業などの仕事を一緒に行うので、自動的にお店には第二子(めっちゃ赤ちゃん)が常駐する事になります。
店内BGMとミシン音と赤ちゃんの泣き声が混ざる、カオスな店。
店名は+CHAOSでも良かったか…?
とにかく、6/28に開けられるよう今せっせと準備していますので、皆様とお店でお会いできることを楽しみにしております。
宜しくお願いいたします。
POST JUNK Online Store
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"【腎臓ドナー妻の日常②】慢性腎臓病患者がアメリカ駐在!妻は妊娠中!通院や薬はどうしてた?" を YouTube で見る
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【アメリカ生活スタートQ&A④ -North Carolina in U.S.A-】 写真1枚目は、散歩中の1枚🎵 今日で質問ラスト! . Q.アメリカの暮らしやすさや生活風景はどうですか? . ⇒私の住むノースカロライナは、暮らしやすい地域かなと思います。 気候は日本と少し似ていて、四季を感じれるのもうれしいです。 . <人・安全・治安> 私の住んでいる地域はわりと治安もよく、安全で人もフレンドリーです。 買い物で丸ごとチキンを買ったらレジで、 「食べたことある?これはおいしいよ!素敵なディナーを!」 みたいな感じ☺️ . 同じノースカロライナの中でも、場所によってはよく銃の発砲事件などがニュースとなっていますし、コロナも広まっています。 全てが安全ではありませんが、気を付けていればそこまで心配せず暮らせると思います。 . . <買い物はまとめて!が基本スタイル> 物価は高く、はじめは買い物するたび金額にびっくり💦 量も何でも多い! 牛乳は、基本1ガロン!(約4.5L) 肉も、1パックが大容量! 豚、鶏、牛、魚など買ったのを合計してみると、12㎏⁉️👀 . . <神過ぎる!便利な生活家電> 食洗器やオーブン、冷蔵庫、洗濯機&乾燥機といった家電は日本より大きいものが備え付けられている家が多いです。 食洗器も大きいので、食器や調理器具がすんなり入ってかなり便利✨ . . Q.アメリカには何のために? ⇒夫がアメリカに転勤になったため。 とあまり面白くない答え😅 でもせっかくのチャンスなので、色々と挑戦したいと思っています! . ・英語力アップ! ・アメリカ各地を旅する!など、 まだまだ夢はありますが また、何かの機会に🎵☺️ . . Q. How is it to live in America? . ⇒ I think NC is comfortable and easy to live in. The climate is a little like Japan and I am happy that I can feel the four seasons. . <People/Safety/Security> The area I live in is relatively safe and I feel that many people are friendly. When I buy a whole chicken "How are you? This is delicious! Have a nice dinner!" . Even in the same NC, there are often news about gun firing cases , and corona is also widely spread. < "Buy many things at once " is the basic style > At first , prices are high, and I am surprised at the amount of money each time I shop. America's milk is verry big! Basically the amount of milk is 1 L(about 0.26 gal) in Japan. But it is basically 1 gal (about 3.8 L) in U.S! . . <Wonderful! Convenient household appliances> Many homes are equipped with home appliances such as dishwashers, ovens, and refrigerators that are larger than those in Japan. The dishwasher is also large, it is convenient because I can easily put in! Q. Why have you lived in U.S? ⇒Because of my husband jobs. This is a great opportunity, so I would like to try various things on this occasion! ・Improve your English! ・Travel around America! and so on. I still have a lot of dreams! (^ ^) . +・+・+・+・+・+・+・+・+・+ ♕Yumi's Instagram♕ @yumi.tabinotane 日本、世界の旅のたね(travel information)をお届け♪ +・+・+・+・+・+・+・+・+・+ . #usa🇺🇸 #海外生活 #アメリカ生活 #アメリカ駐在 #アメリカ駐在妻 #駐在妻 #駐在妻さんと仲良くなりたい #ノースカロライナ #NC #世界の散歩道 #夏のゆるさんぽ #自然に癒される #アメリカ情報 https://www.instagram.com/p/CDDJnmrpA7n/?igshid=vppiy8qn2999
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6月のニュースレター
新しいクラスの体験生を募集しています。ラインのタイムラインやインスタ等で発信していきますので、ご興味ありましたら、DMなどでご連絡ください。
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Happy New Year 🌅 I made Japanese traditional new year dishes, Osechi I tried to be a minimalist, I don’t have many pots It took me extra time to wash each time 🤣 I hope you have a great 2021. 🎍2021年元旦🎍 あけまして おめでとう ございます 小さい頃から御節を食べるのが楽しみだったお正月🌅 娘にも味わってほしいという思いと 去年初めて祖母の御節を食べた娘が ママ、おせち食べたい 黒豆ある? お芋は(きんとん)? 手に入るものだけで 背伸びせず おせちを作りました 今年はお出汁からていねいにとってみました 🎍覚書🎍 出し巻き卵 たたきごぼう 千枚漬け タラの西京焼き 黒豆 胡桃入り田作り タコ 高野豆腐の煮物 紅白なます 菊花ラディッシュ 椎茸の煮物 手綱こんにゃくの煮物 酢蓮根 きんとん 筑前煮 作っている間 お家中におせちの匂いが たまりません☺️ 両祖父母の家で 京都と奈良のおせちを味わってきたので うちは伊達巻ではなく出し巻き卵なんです🤭 お雑煮は元旦がお吸い物 2日目が白味噌 が定番です😊 皆さまの素敵で美味しそうな御節を見させていただいてお正月気分に浸っております🥰 皆さまにとって、健康で幸せば一年となりますように✨ Tomoko #happynewyear #osechi #japanesedish #japanesefood #japanesetraditional #yogateacher #yogini #lifecoach #Japan #お正月 #海外でも和食 #御節 #ミネソタ #アメリカ在住 #海外子育て #駐在妻 #海外シンママ #日本の伝統 #ヨガ講師 #nlpコーチ #アラサー #ハーフ子育て #感謝 #新年 https://www.instagram.com/p/CJgp-qsBHRc/?igshid=17h2lrtc1dki1
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会社からスペシャルオファー出ました❣️ . 今日の夜までにREDEFINE, REVERSE, UNBLEMISH or SOOTHEをお買い上げのPC PERKS会員の方に、REDEFINE Rejuvenation Maskがもらえちゃう♡ オーストラリア限定のオファーです! . 私からのオファーは、リップセラム♡ この機会をお見逃しなく✨ . 詳しくはお問い合わせください🥰 . #顔パック #マスク #シミ対策 #くすみ肌 #小じわ改善 #リフレッシュ #乾燥肌 #ニキビ悩み #大人ニキビ #敏感肌 #ワーホリオーストラリア #ワーホリカナダ #アメリカ留学 #駐在妻 #毛穴ケア #ツルツル肌 #オーストラリア生活 #スキンケアマニア #オーストラリアで子育て #ロダンアンドフィールズ #facemask #beautycare #skincareroutine #antiaging #australialife https://www.instagram.com/p/B4Qn_dzlnq9/?igshid=k476gpihnpde
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アフガニスタンで進攻を続ける反政府組織タリバンが15日夜、首都カブールに入った。それに先立ち、アシュラフ・ガニ大統領は隣国へ出国した。タリバンはカブールを攻撃して制圧するつもりはなく、平和的な権力移譲を目指すとしている。タリバンは同日夜には、首都の外で待機していた戦闘員に、市内に入るよう指示。大統領府を掌握したとしている。
アフガニスタン国家和解高等評議会のアブドラ・アブドラ議長は15日夜、ガニ大統領が出国したと確認した。フェイスブックに投稿した動画でアブドラ氏は、ガニ氏を「前大統領」と呼び、「国をこのような状態で置き去りにした」ガニ氏について「神が責任を問うし、国も審判を下す」と述べた。
これに先立ちタリバンは15日午後、首都に武力で入るつもりはないとして、権力の平和的移譲へ向けた協議が続いていると述べていた。政府内相は、閣僚が「平和的権力移譲」を準備していると述べた。タリバン報道官はBBCに、「全てのアフガニスタン人が含まれるイスラム首長国のイスラム政府」は「国民と国に奉仕する」と言い、懸念されている女性の権利についても教育や就労の権利を認めると話した。
大統領はタジキスタンへ
画像提供,REUTERS
ガニ大統領は15日午後に出国した
ガニ大統領については、地元トロ・テレビなど複数メディアが政府幹部の話として、その出国を伝えていた。タジキスタンへ向かったという。アムルラ・サレ副大統領も出国したという。同日午後には、ガニ大統領が、米政府のザルマイ・カリルザド特使をはじめ、他の北大西洋条約機構(NATO)幹部と緊急協議をしているとの情報もあった。
タリバンは15日夜、首都の入り口で待機させていた戦闘員に、市内に入るよう指示した。「略奪を防ぐため」だと、ザビフラ・ムジャヒド広報官は説明した。アフガニスタン治安部隊がすでに市内の持ち場や検問所を離れているため、タリバンが混乱と略奪を防ぐために市内に入るのだと説明した。
同日夜には、大統領府を掌握したと主張した。
タリバン広報官は声明で、市民に戦闘員を恐れないよう呼びかけた。
アフガニスタンにおけるアメリカの外交トップ、ロス・ウィルソン代理大使は15日夜、大使館を離れてカブール国際空港に避難した。米当局者によると、大使館に掲げられていた星条旗も空港へ運ばれた。
カブール空港で発砲があったという情報もある。
「平和的権力移譲」を
アフガニスタン政府のアブドル・サッタル・ミルザクワル内相代行は同日午後、地元トロ・テレビが放送した動画で、暫定政府への「平和的権権力移譲」が行われると述べた。カブールが攻撃を受けることはないとも話した。
タリバンはさらに声明で、国民に国内にとどまるよう呼びかけ、「あらゆる経歴の人たちに、将来的なイスラム制度の中に自分がいる様子を思い浮かべてほしい。新しいイスラム制度では、責任ある政府が奉仕し、全員に受け入れられるようになる」と強調した。
カタールの首都ドーハでアフガニスタン政府とタリバンが続けていた和平交渉の場に、アフガニスタン各地の部族長たちが参加し、政権移譲の形を協議することになったという情報もある。
タリバンは15日午後、戦闘員には首都の入り口で待機するよう指示していた。さらに、首都と市民の安全はアフガニスタン政府次第だとして、権力の平和的移譲へ向けた協議が続いていると述べた。
タリバン関係者は、戦闘員には祝砲の発砲を禁止したと述べた。アフガニスタン政府軍の兵士たちには、帰宅を認める方針という。関係者はさらに、空港と病院は運営を続け、緊急援助物資の搬入を阻止することもないと話した。
外国人は、出国を希望する人には出国を認めるほか、滞在を希望する場合はタリバン当局に申告するように言われている。
タリバンはさらに、カブール北郊にあるバグラム空軍基地と刑務所を掌握したと発表した。バグラム空軍基地は2001年10月に始まったアフガニスタン空爆から今年7月2日まで、タリバンやアルカイダと戦う米軍など外国駐留部隊にとって最大の作戦拠点だった。
空港へ渋滞 銀行では行列
こうした状況で、15日には多くの市民がカブールから脱出しようとして、交通渋滞が発生した。カブールで取材するBBC記者によると、多くの店舗や市場は閉店し、一部の政府庁舎も閉じた。持ち場を離れる兵士や警官もいたという。
パキスタンは、国境沿いの地域をタリバンが制圧したため、越境地点のトルカム検問所を閉鎖したとされる。このため、アフガニスタンからの出国ルートはカブール国際空港発の空路のみになった。
空港への道路が渋滞する中、「鍵を車内に残して空港へ歩き始めた人もいる」と、住民の1人はロイター通信に話した。
カブールではさらに住民たちが、預金を引き出そうと銀行で長蛇の列を作っている。現金が足りなくなった支店もあるという。
米軍を中心とした外国駐留軍が20年の軍事作戦を経て撤退すると、タリバンは一気に国内で進撃を続けて、勢力範囲を拡大した。一連の戦闘で数十万人が避難民となり、その多くが安全を求めて首都カブールに避難していた。
アメリカはドナルド・トランプ前政権が昨年2月の時点で、今年5月までに米軍を撤退させるとタリバンと合意していた。ジョー・バイデン大統領は今年4月、米同時多発テロから20年を迎える9月11日までにアフガニスタンの駐留米軍を完全撤退させると表明した。
画像提供,EPA
タリバンが首都に迫ったと知らされ帰宅を急ぐ人たち(15日、カブール)
女性の権利は
カタールの首都ドーハでアフガニスタン政府と和平交渉を続けるタリバンのスハイル・シャヒーン広報官は同日、BBCニュースのキャスターとして生放送中のヤルダ・ハキーム記者に電話をかけ、アフガニスタンの人たちに「報復はしない」と話した。
「アフガニスタンの人たち、とりわけカブールの人たちには、あなたたちの財産や生命は安全だと、約束する。誰にも報復はしない」とシャヒーン氏は述べた。
「タリバン指導部は兵士に、カブールの入り口で待機し、市内に入らないよう指示した。私たちは平和的な権力移譲を待っている」とシャヒーン氏は話した。
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欧米の外交スタッフの避難加速、タリバンは首都カブールに近づく
「平和と寛容」の政府になると繰り返したシャヒーン氏は、タリバンのイスラム政府には、タリバンに所属しない人も含め、すべてのアフガニスタン人が参加できるとも述べた。「全てのアフガニスタン人が含まれる」「アフガニスタン・イスラム首長国のイスラム政府」は「国民と国に奉仕する」と強調した。
さらに、アフガニスタン内外で懸念されている女性の扱いについては、女子が教育を受ける権利や女性が家の外で働く権利を認め、女性は頭髪を隠すヘジャブを着ければ外出は認められると述べた。タリバンが制圧した地域ではすでに、戦闘員が女子の登校を禁止したという情報があると指摘されると、それは指導部の方針と異なり、タリバンの名誉を傷つけようとする風説だと述べた。
タリバンが掌握した地域ではすでに、女性が全身を覆うブルカの着用を強制されたり、男性の付き添いなしでの外出が禁止されたりしているという。また、タリバンが強制する行動規範に違反した人たちを殴ったりむちで打ったりしているという報告もある。
「女性に対する戦争を世界は静観している」 アフガニスタンの現状を語る
アメリカの対応は
こうした中、欧米諸国はアフガニスタンに在留している外交スタッフや市民の出国を急いでいる。
バイデン米大統領は、「アメリカや同盟諸国の人員が、秩序だって安全に出国できるよう、駐留中に我々を助けてくれたアフガニスタン人や、とりわけタリバンの脅威にさらされている人たちが、秩序だって安全に避難できるよう」、米兵約5000人を現地に派遣した。
イギリス市民の出国を支援するため、英兵約600人もカブールに派遣された。この英兵たちは、イギリス軍を支援し、タリバンから報復される危険のあるアフガニスタン人の移住も支援する。
他の欧米諸国も自国民を出国させている。大使館を閉鎖する国もある。
バイデン大統領は7月2日深夜に米軍の大半を撤退させたことについて、「よその国の内戦のただなかにアメリカが果てしなくい続ける」ことは正当化できないと述べていた。バイデン氏は7月8日、タリバンがアフガニスタン全土で勝利する可能性は「非常にあり得ない」とも発言していた。
アントニー・ブリンケン米国務長官は日本時間15日夜、米CNNに出演。「どうしてバイデン大統領はこの件についてこれほど間違ったのか」と質問するジェイク・タッパー司会者に対して、「まず文脈をはっきりさせよう。アメリカがアフガニスタンにいた一番の目的は、9/11に我々を攻撃した連中に対抗するためだった」として、オサマ・ビンラディン容疑者を裁き、テロ組織アルカイダの能力を後退させるという目的は果たしたと述べた。
「そもそもアフガニスタンへ行った理由については、我々は目的達成に成功した」とブリンケン氏は言い、「我々が部隊を(アフガニスタンに)残しておけば、現状がずっと維持できたはずだという考え方は、ひたすら間違っていると思う」と続けた。
ブリンケン長官は米ABCニュースに対しても、アフガニスタンでの任務は「成功」だったと強調し、ヴェトナム戦争でアメリカが支援した南ヴェトナム軍の敗北が決定的となった、1975年の「サイゴン陥落」と現状は異なるとの見解を示した。
「これはサイゴンじゃない」と、ブリンケン長官は述べた。
東部ジャララバードは無抵抗
カブール接近の前には、タリバンは14日から15日にかけて、北部バルフ州の州都マザーリシャリーフと東部の主要都市ジャララバードを制圧した。
東部ナンガルハル州の州都ジャララバードでは15日朝、タリバンが一発も発砲することなく、無抵抗の市内を席捲(せっけん)したとされる。
地元政府関係者はロイター通信に「ジャララバードでは何の衝突も起きていない。知事がタリバンに降伏したからだ。市民の命を守るのは、タリバンの入市を認めるしかなかった」と話した。
ジャーナリストのタリク・ガズニワル氏は、州知事がタリバンに行政権を移譲する様子だという写真をツイートした。
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ジャララバードを押さえたことで、タリバンはアフガニスタンをパキスタンとつなぐ道路を確保したことになる。
マザーリシャリーフ制圧
ジャララバードに先立ち、14日には北部の要衝マザーリシャリーフがタリバンの支配下に入った。伝統的に反タリバン派だったマザーリシャリーフの陥落は、タリバンにとって大きな戦果となる。ほんの数日前には、ガニ大統領が政府軍の視察に訪れたばかりだった。現地の公務員によると、アフガニスタン第4の都市マザーリシャリーフは、ほとんど戦闘のないまま制圧された。
マザーリシャリーフのあるバルフ州のアバス・エブラヒムザダ議員はAP通信の取材に対し、政府軍がまず降伏し、それに親政府派の武装組織が続いたと語った。
マザーリシャリーフはウズベキスタンとタジキスタン国境に位置する経済の中心地。タリバンが1990年代までこの地域を占領していた。
ウズベキ系軍閥のアブドル・ラシド・ドストゥム司令官とタジク系指導者アッタ・モハンマド・ヌール司令官は、マザーリシャリーフのあるバルフ州を脱出したとの情報もある。
ソーシャルメディアで共有された動画には、無人となったドストゥム氏の家にタリバン戦闘員が入っている様子が映っている。
これに先立ち11日にガニ大統領と協議した際には、ドストゥム氏は「タリバンは何度か北へやってきたが、いつも包囲された」と威勢よく話していた。
ヌール氏は14日、フェイスブック投稿で、自分とドストゥム氏は「安全な場所」にいると書き、マザーリシャリーフでの敗退は政府軍のせいだと非難した。政府軍の兵士たちは自ら武器や装備をタリバンに手渡していたと、ヌール氏は書いた。
マザーリシャリーフの住民はBBCに対して、市内に入るタリバンについて「一軒、一軒、ドアをたたいている。私たちは家にいて、残念ながら何もできない。とても怖い。子供たちはとても怖がっていて、妻は泣いている。明日どうすればいいんだ」と話した。
14日にはこのほか、パクティカ州とクナール州の州都もタリバン支配下に入った。
クナール州アサダバードで撮影された未確認映像では、タリバンの旗を振って道を歩く人たちが映っていた。
カブールでは、タリバンを逃れて避難してきた人たちが、公園などで野宿を余儀なくされている。タリバンが制圧した地域では司令官が、戦闘員の妻にするため未婚の女性を手渡すよう住民に要求しているという話もある。
姉妹2人とパルワンからカブールへ逃れてきたムズダさん(35)は、タリバンに結婚を無理強いさせられるくらいなら、自殺すると話した。ムズダさんはAFP通信に「昼も夜もずっと泣いている」と話した。
画像提供,GETTY IMAGES
タリバンの攻撃から避難して首都カブールで野宿する人たち(10日、カブール)
アフガニスタン政府は何を
14日にはガニ大統領の録画演説がテレビ放送された。住民がこれ以上を家を追われ、各地で破壊が続くことを防ぐため、アフガニスタン軍の勢力を再結集することが何より最優先されると、大統領は述べた。
ガニ大統領は、国民に「押し付けられた」戦争がこれ以上、命を奪うのは許さないとして、アフガニスタン治安部隊の「勇気」をたたえた。
国連はアフガニスタンの近隣諸国に対して、避難民の安全確保のため、国境を閉じないよう呼びかけた。アントニオ・グテーレス国連事務総長は、状況は制御不可能な状態に陥りつつあると懸念を示していた。
アフガニスタン情勢の変化:アメリカの作戦展開とタリバンの進攻
2001年10月: 9月11日の米同時多発テロを受け、アメリカ主導によるアフガニスタン空爆開始
2009年2月: アメリカはさらに兵士1万7000人の増派を決定。NATO加盟国もアフガニスタンへの増派などを約束
2009年12月: バラク・オバマ米大統領(当時)は、アフガニスタン駐留軍を3万人増員し、計10万人に拡大すると決定。一方で、2011年までに撤退を開始すると表明
2014年10月: アメリカとイギリスが、アフガニスタンでの戦闘作戦を終了
2015年3月: オバマ大統領が、駐留軍の撤退延期を発表。アフガニスタンのアシュラフ・ガニ大統領の要請を受けたもの
2015年10月: オバマ大統領が、2016年末までは兵士9800人をアフガニスタンに残すと述べた。これ以前は、1000人を残し全軍を撤退させると約束していた
2016年7月: オバマ大統領は「安全保障上の不安定な状態」を理由に、2017年には米兵8400人が駐留すると発表。NATOも駐留を継続することに合意したほか、2020年までアフガニスタン政府軍への資金援助を続けると強調した
2017年8月: ドナルド・トランプ大統領(当時)が、タリバンの勢力拡大を受けた増派表明
2019年9月: アメリカとタリバンの和平交渉が決裂
2020年2月: 数カ月におよぶ交渉の末、アメリカとタリバンがドーハで合意に至る。アメリカは駐留軍撤退を約束
2021年4月: ジョー・バイデン大統領、9月11日までに駐留米軍を完全撤退させると表明
5月: 米軍とNATO各国軍の撤退開始
5月: タリバン、南部ヘルマンド州でアフガニスタン軍へ大攻勢開始
6月: タリバン、伝統的な地盤の南部ではなく、北部で攻撃開始
7月2日: カブール北郊にあるバグラム空軍基地から、米軍やNATO加盟各国軍の駐留部隊の撤収完了
7月21日: タリバンが半数の州を制圧と米軍幹部
8月6日: 南部ザランジの州都をタリバン制圧。タリバンが新たに州都を奪還するのは1年ぶり
8月13日: 第2の都市カンダハールを含め4州都がタリバン支配下に
8月14日: タリバン、北部の要衝マザーリシャリーフを制圧
8月15日: タリバン、東部の要衝ジャララバードを無抵抗で制圧。首都カブールに入る
(英語記事 Afghanistan on the brink of Taliban takeover / Taliban take government's last northern stronghold)
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サンフランシスコを拠点に活動するアーティストFnnch(フィンチ) @fnnch さんの作品を撮影したものになります📸 本名や素顔などの情報は一切明かされていないのだそうです😯 代表的な作品” ハニーベア”など、他にもサンフランシスコ市内のあちこちで彼の作品を見かけることができるそうなので、後日改めて散策に行こうと思います😆🎶 MASA @find_masa さんのHPで、各々のアーティストの作品がどこにあるのかを検索することが出来ますので、ご参考まで😄 #fnnch #fnnch👄 #fnnchsf #海外 #海外生活 #海外移住 #海外在住 #海外駐在 #アメリカ #アメリカ生活 #アメリカ在住 #アメリカ暮らし #アメリカ駐在 #駐在 #駐在妻 #駐在生活 #駐妻 #カリフォルニア #シリコンバレー #サンフランシスコ #あつまれ駐在員の森in🇺🇸339投稿目 #atsuchuin🇺🇸339thpost (過去投稿を再編集したものです。 (at The Italian Homemade Company) https://www.instagram.com/p/CqZnPvcu0Dx/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和2年(2020)7月31日(金曜日)参
「アジアの巨星」。邪悪に挑戦した「台湾のモーゼ」=李登輝元総統
「わたしは日本人だった」。「台湾人にうまれた悲哀」と歴史的な名言残して
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何回もお目にかかった。その情景が様々な感慨とともに瞼に浮かんでくる。
1996年に台湾初の直接選挙による総統選挙が行われ、中国がミサイルを撃って脅迫を続けていた。筆者は台北にいて、総統���挙を取材していた。
巷は騒然としていた。李登輝は「国民党は外来政権」と比喩したが、蒋介石に付いてきた外省人の一部は急ぎ財産を売り払って米国へ逃げた。
町の声は「逃げたい奴はとっと失せろ」だった。
李登輝は96年ミサイル危機を目の前にしてこう言った。
「何も心配は要らない。わたしには十八の戦略がある」。
この剛胆とも言える総統の発言に本省人の多くは頼もしさを見出し、安堵感を得た。アメリカは親中派のクリントン政権だったが、空母を当該海域に派遣し、中国はすごすごと引き揚げていった。
96年の総統選には民進党から「台湾独立運動のカリスマ」を言われた膨明敏が出馬していた。
多くの本省人は膨明敏支持だった。しかし同時に心情的には李登輝を応援した。結果は李登輝が55%。膨は25%。残りは林洋港(旧国民党強硬派。参謀総長、首相を歴任した赫白村が副総統候補)と陳履安(無所属)が出ていたが、旧勢力は惨敗だった。
この選挙戦で、筆者は初めて李登輝氏の輝きを見た。この人の行くところ、後光が射しているかの如きで、じつは他の候補は霞んでいた。民進党は善戦したと言える。
前後して日本側が中嶋嶺雄教授と住友電光の亀井正夫氏の呼びかけで毎年一回、台湾と日本を交互に「アジアオープンフォーラム」が開催されていた。私は台中会議から呼ばれるようになり、取材陣に加わった。毎回、李登輝閣下は出席して基調演説をこなし、懇親会にも顔をだされることがあった。
日本側の参加者を総統府に招かれ、ひとりひとりと握手された。筆者は初めて李登輝氏と握手を交わした。手に暖かみがあった。
李登輝はキリスト教を信仰していたが、台湾のキリスト教は一神教の風情がまったくなく、台湾の風土と道教的な馬祖信仰の伝統に被さった、独特のキリスト教である。
なかでも長老会派の勢力が強いが、戒厳令の時代、教会が、じつは台湾独立派の集まる秘密集会の場所でもあった。
▼守旧派と千日の静かなる闘いに李登輝は勝利した
李登輝の使命感は「台湾のモーゼ」。邪なものに挑戦し、正義を回復する。良いものは良いと評価し、一歩一歩、確実に改革に邁進するという政治信条をもち、蒋経国急死のあと、副総統から昇格したのち、守旧派と千日にわたる凄絶な戦いを続け、ついに戒厳令を撤廃し、蒋介石時代からの終身立法委員を廃止し、総統を民意で選ぶ民選にまでもっていく。
独裁政権だった国民党は大きく動揺し、李登輝を敵視する守旧派はあらゆる場面で李登輝を妨害した。
李登輝は怯まなかった。
さずがに「台湾のモーゼ」を自称し、武士道を日本精神の中核とする信念は無私無欲、そして日本との繋がりを重視し、継続発展させるには、新幹線を日本に強引に発注する決断をなした。その後のメインテナンスで、日本との関係は継続され、深化するという独特の読みがあった。
日台の民間交流はますます活発になった。
1999年だった。筆者は竹村健一氏を誘って、李登輝総統への独占インタビューに出かけた。印象深かったのは、同席した「お目付役」の国民党幹部らの渋面である。同席の通訳が早業のように翻訳した紙切れを廻すと「え、こんなことを言っている」「なんとまぁ、こんなことを発言しているゾ」というあきれ顔、渋面、苦渋を浮かべる国民党幹部の顔色と、悠然と自由な会話を愉しむ李登輝総統の対比的な光景を観察しているだけでも愉しかった。
当時、李登輝のまわりを囲んだブレーンの一人が蔡英文(現総統)だった。彼女が「中国と台湾は別個のくに」という二国論を起草した。
ドイツのラジオ局とのインタビューという形で出した「二国論」に中国は猛烈に反発したが、李登輝は自信を持って対応した。筆者は直後に『諸君!』に「猿でもわかる二国論」と題した文章を寄稿した。
蔡英文女史はその後、立法委員に当選し、いつしか党の重鎮となり、2016年総統選で国民党候補を破った。
李総統が『台湾の主張』を出版されたときは、論壇の多くに呼びかけて発起人を引き受けて貰い、オークラに1500名が集まった李登輝出版記念会。大盛況だった。
▼李登輝氏とはその後も何回かインタビューに出向いた
その後、台湾へ出かける度に、李登輝氏の台北の自宅、大渓の別荘、李登輝氏主宰のシンクタンクは淡水にあったが、そこにも三回か、四回は訪問している。
自宅を訪ねたときは花田紀凱、堤堯、中村彰彦氏が一緒だった。別荘に伺った時はたしか高山正之、花岡信昭氏が一緒だった記憶がある。
別荘の地下が書庫となっていて、その大半が日本語の書籍。哲学、思想関係のほかに日高義樹氏の著作もあった。最新の日本事情に詳しい背景がわかった。
シンクタンクへの訪問は最初、ラジオ番組収録のために、ミッキー安川と一緒だったが、このときは急遽入院されたので叶わず、後年、息子のマット安川との特別番組のインタビューの時は会えた。別の機会には、井尻千男、片岡鉄哉、藤井厳喜氏らが一緒だったこともあった。いずれも筆者が台湾側と交渉し、ツアーを組んだ企画だった。
東京に来られたときも六本木の国際文化会館で開催された後藤新平賞授賞式では楽屋に訪ねた。日本李登輝友の会の懇親会では拙著への質問があり、氏の隣に呼ばれた。
李登輝総統との幾つかの会話で、筆者は多くを発見した。
第一に『武士道解題』をかかれた李登輝氏の武士道理解は『死ぬことと見つけたり』の山本常朝の武士道という悲壮な世界観に立脚するのではなく、新渡戸稲造的なキリスト教的コモンセンスの世界解釈だったこと。
第二に、三島由紀夫に関しては、おそらく情報不足からか、一度も発言がなかった。
第三は、李登輝世代は恋文も哲学も日本語でなしたので、大正から昭和初期にかけての日本的情緒、その奥ゆかしさを体現でき、思考の基礎を日本語で組み立てることだった。それも正調日本語である。
或る時は駐日大使(台北経済文化代表処長)のお招きで芝のレスオランに筆者夫妻、阿川弘之夫妻、竹村健一夫妻が招かれ、懇談した。席上、阿川弘之氏が李登輝総統に会いに行くことになった。そのとき阿川氏は「断じて自費で伺います」と元日本海軍将校の基本姿勢を言われたのも印象深い。
かくして日本李登輝友の会は初代会長を阿川弘之、二代目が小田村四郎、そして現在は渡邊利夫(拓殖大学学術顧問)となって地道な活動を続けてきた。
これからも李登輝総統閣下をカリスマとして、日台友好発展のための中核的組織として継続される。毎年7月30日の命日には追悼行事が組まれることになるだろう。
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今日お会いした駐妻さんのお話がめちゃユニークで強烈。 突然のヒューストン南部の田舎に駐在帯同、しばらく車なし。英語も出来ない。知り合い皆無だったので、一番近い(それでも2km!)カフェに半年間毎日通い同じ席でヘッドホン付け黙々と折り紙をしたらしい。
彼女曰く「そりゃ半年毎日やってたら折り紙の腕もあがる」で、アジア人が毎日来てなんかすごいもん作ってるぞという噂は徐々に広まり、地域イベントに呼ばれるわ、ついにはコミュカレで折り紙を教えるまでになったそう!! 芸は身を助く。継続は力なり。ですな~。
英語が出来ないのに、夫の都合でアメリカ南部の田舎に引越→カフェで毎日折り紙をしていたら、噂が広まりイベントに呼ばれるまでに至った話
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2021年7月の夢
- 2021年7月31日 土曜日 6:57
夢
大学教授みたいな人。外国人ですご���恰幅がいい。
- 2021年7月29日 木曜日 6:34
夢
まいせんのカツサンドの写真を撮っていたもの。
- 2021年7月28日 水曜日 7:39
夢
パソコンが何台も並んでいる部屋。古いWindows機。人がたくさんいる。
腐ったリンゴ小屋の話をする。
牛乳を届けてあげなきゃということになり、名乗り出る。
コンビニが遠い。
パンを2つ、ひとつは幼馴染のために購入しようとするのだが、ひとつ600円とかする。インド風のもので、練った小麦粉の生地を揚げ、サモサというか餃子のようにしたもの。
- 2021年7月25日 日曜日 5:28
夢
歩いて研究者みたいな人と同行する。
帰りはこっちでおろすと言ってくれる。
縁石が高い。
- 2021年7月24日 土曜日 8:26
夢
遊園地のようなところ。
夕暮れ。作り付け戸棚。交際相手が遅れて追いついてくる。ストライプのワイシャツ。鮎。
- 2021年7月23日 金曜日 6:34
夢
文鳥を逃してしまう。
- 2021年7月22日 木曜日 6:40
夢
ドラえもんのコマを見て泣く。
- 2021年7月21日 水曜日 7:49
昨日の夢
ラランドの西田が入り口に立っている店舗がある、知り合いという設定、オレンジ色の玄関口で地下の雰囲気、中に入るのを少しためらっていたら外まで出迎えてくれた。
ガブリチュウの詰め合わせみたいなものを出され、思ったよりいろんな味があり、黄色のエナドリみたいな味を気に入る。サーヤもおり、サーヤさんと呼んだ。
- 2021年7月21日 水曜日 7:28
夢
駐車場で車を停めようとしているが、本当にうまくいかない。一時的に止めてみたところから、サイドブレーキの引き忘れでズルズル進んでしまい、人を轢きそうになる。なぜか激しくバックしてしまい、いつ人を撥ねてもおかしくない感じで大きくグルグル回ってしまったりする。
暗い。嫌な感じの集団がいる。
ガムシロップ、フレッシュ、小さい容器に入ったカルピスを飲む。炭酸だった。
あまり思い出せない。
- 2021年7月19日 月曜日 5:56
夢
ピザ生地を上だけ食べる
- 2021年7月17日 土曜日 6:34
夢
見たけど忘れた
- 2021年7月16日 金曜日 6:31
夢
エレベーターか壊れていて閉まらない
500階とかになる
クッキングパパのような男性に引っ張り出してもらう。
病院だが院長の妻がスピリチュアルに傾倒しているらしく胡散臭いものが飾られている
- 2021年7月15日 木曜日 5:24
夢
思い出せない。
- 2021年7月14日 水曜日 6:33
夢
母方の祖母ら、親戚らと食事会のようなものがある。ひどく薄暗い施設。
ものすごく古いエレベーターに乗って移動するが、古すぎて不安。
水にさくらんぼを浮かせているディスプレイ。
半身不随の飛び込み選手の練習風景を見ている。女性だ。室内にプールみたいに浅く水を溜めていて、そこをぐるぐる回ったりする。すごい運動量。飛び込み自体は補助の人に体を持ち上げてもらい、だらっとした姿勢のまま落水する感じ。
いとこがいる。子供が読むような謎々の本が並べてある本棚。
- 2021年7月13日 火曜日 6:03
夢
わりといい歳の男性ライターに、何か手作りの冊子のようなものをもらい、読む。
閉店間際のどこかのレジ列。インコのモチーフがついた足踏みポンプのようなもの。
- 2021年7月12日 月曜日 6:21
夢
何かを追うようにして細い道を進む。
暗い部屋に警察の人々が集まってくる。
セルみたいに今にも破裂しそうに膨らんだ中年男性。
若手芸人と連絡先を交換しているところを目撃され、弁解したい気持ちになる。
- 2021年7月10日 土曜日 6:46
夢
祖父。便失禁されている部屋。リザードン。絵本を返しに行く。若い先生がいてまだ返す時期ではないという。預かろうかと聞かれるが断る。
韓国食材店。直引き。様々な食材がある。妹に黒いカボションイヤリングを譲る。
- 2021年7月9日 金曜日 6:36
夢
妹の友達がいる。
何かしてる。
- 2021年7月8日 木曜日 6:43
夢
Tさんと数人でクジラの串焼きを食べる。
30,000円くらい。
お年玉袋を預かる。7袋くらい。
母方のいとこが二人いる。赤いヘルメットをかぶっている。ひとり出かけていく。
母がいる。バイクの装備を整えている。赤で統一してある。手袋が目立つ。
母の上唇の一部みたいなものが混ざっているサラダ。理由は不明だがそういうものだと思っている。つらい。
動物の動画を撮る。
入り組んだ日本家屋。
椎の実を探すが、ない。代わりに似ている実が置かれている。ジュズダマに似ている。水につけてある。それとなく糸も探すが、見つからない。
- 2021年7月7日 水曜日 7:15
夢
アメリカ、何か独立記念日のイベントをやってる広場みたいなとこ。
船を組み立てる。
- 2021年7月6日 火曜日 6:39
夢
恐山の家の浴槽がすごく変な二層構造になっていて、その様子を配信している。一応ヒノキみたいな素材だが。蛇口が五本くらい突き出ているのが干渉しあっていて伸ばせない、業務用の乾燥機みたいなものが2つもある。
Tさんと何らかの展示みたいなものを見ている。
5人いる戦隊もの。
- 2021年7月5日 月曜日 2:46
夢
パック屋さん。すごいパックばっかり。22枚入りで500円程度のものもあり、在庫整理の様相。ジョジョ五部のパックがある。パッケージに絶体絶命のときのミスタが印刷されている。
何か後輩に写真整理を任せている様子。
いとこが車で髪の毛を結ぶときに貸したのがきっかけで、黄緑色の寸詰まりのマグライトを購入したとの話を聞く。そんなものが欲しくなるんだ、今の子の流行りってわかんないなー、と素朴に思っている。
幼馴染のHがレインコートのドレスみたいなやつ着ている。ドレープをボタンでまとめる。
マカロン屋さんでマカロンを作る仕事をしている。動物モチーフのマカロンを表紙にした冊子があり、私ともうひとり女の子の名前が記名されている。
星野源とバナナマンが同じ舞台に出るらしい、ということを誰かと話しているのだが、よく考えたらその人が星野源だった。星野源が退室していく。部屋の一面の画面なのか窓みたいなとこに星野源が出てきて、本当に休む暇もないんだな〜みたいなことを思いながら見ている。他のキャストの人も地毛をバナナマン風の襟足を詰める感じのカットにしている。イッセー尾形とか生瀬勝久もギリギリ出ている感じ。
夢2
Hとミニ四駆の話をする。ミニ四駆が好きらしい。うろ覚えの作品名を言おうとする。
みなみの家のようなところにいる。見知らぬ間取り。広い。めずらしい大きな鳥を何匹も飼っている。名前を聞くのだが、私の小鳥の名前と大部分が被っていて複雑な気持ちになる。
- 2021年7月4日 日曜日 7:56
夢
二度寝したら前の忘れちゃった。
妹の部屋。何かすごく大きな方眼紙に生徒たちのいろんな記事が載っている。和服の構造を覚えたいとか。モニターの大きな知らないメーカーのPCがある。部屋のどこかから熱風が出ている。
- 2021年7月3日 土曜日 6:22
夢
fさんからメールが届いている。
ちえからのメール。
古いプレハブ小屋。壁や樋やいろんなところがマカロニ状にぼろぼろになっていて、そういう虫に食われたあとだと説明する。
- 2021年7月2日 金曜日 5:55
夢
アニメ絵の切手を換金する。貴重なものだがちょっと使っちゃってるし。
役所。トイレ。後から増築したものなのでつまりやすく、狭い。なるべく職員が使うようにとの通達がある。
地下。喫茶コーナー。女性二人といる。何やら甘いものを頼もうとしているらしい。ホットブラック。
- 2021年7月1日 木曜日 6:08
夢
苛性ソーダのような粒状の薬品と液体状のものを混ぜて毒物を作ろうとしている。
周囲には人がおりためらいがある。
間違えて肥料を入れているらしい。
体格のいい男。
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《奴隷制の歴史を知ることは、現代に残る構造的な差別を理解することにつながります》…👍👍👍👍
歴史直視するオランダ
17~19世紀の奴隷酷使、植民地搾取で繁栄
2021年9月21日【3面】
国立美術館が初展示 ■ 「負の遺産」巡るツアーも
オランダで、17~19世紀に奴隷を酷使し、植民地から搾取した富で「黄金時代」を築いた自国の歴史を直視しようとする動きが始まっています。レンブラントの「夜警」をはじめ名画のコレクションで知られるアムステルダム国立美術館は5~8月、特別展「奴隷制」を開催。市内では植民地にルーツを持つ人たちが「奴隷制の遺産」を訪ねるツアーを行っています。(アムステルダム=桑野白馬)
所有者が奴隷に着けさせ、富を誇示した金の首輪。複数の奴隷を一度に拘束できる木製の足かせ―。オランダが17~19世紀に南米スリナム、カリブ海の島々、アジア、南アフリカで展開した植民地支配と奴隷制をとりあげた国内初めての展示です。
メインは、奴隷制にかかわる10人の記録の展示です。オランダ人の俳優が音声ガイドでそれぞれの人物の体験を語ります。奴隷にされた人、奴隷制に抵抗した人、奴隷所有者だった人―さまざまな視点から歴史を追体験できます。
スリナムの大規模農園で働いていたワリーさんは、サトウキビから搾り出した液体を煮詰める作業に24時間ぶっ通し、命がけで従事しました。1707年に奴隷の蜂起に参加。捕まって、生きたまま焼き殺されました。
語りは、日本の格闘技「K―1」でも活躍したキックボクシング元世界チャンピオン、レミー・ボンヤスキーさん。祖先がスリナムの農園から逃亡したとされています。
レンブラントが描いた肖像画のモデル、アムステルダムの富豪マルテン・ソールマンスと妻オーピエンは、奴隷制と深い関係がありました。
ソールマンス一族は、ブラジルの奴隷農園で生産された砂糖で巨額の財産を築きました。「家にはブラジルの風景画が飾られ、サトウキビ工場の模型もあった。オーピエンはどこまで、奴隷制のことを認識していたのだろうか」。語りは、絵の取得に関わった同美術館のディレクターです。
国立美術館・歴史部のファリカ・スムルダース責任者(52)は「すべての人の声が、オランダの重要な歴史の一部だ。さまざまな視点から、過去の歴史にもっと注目してほしい」と話します。
展示会の準備段階で、新たな発見もありました。金の首輪は美術館に寄贈された際、「犬の首輪」と記されていました。ところが、専門家が再検討した結果、アフリカ出身の黒人奴隷につけられた首輪だったことが判明しました。
アムステルダム出身の女性(50)は家族4人で訪れました。感想を聞くと、家族の議論が始まりました。
「植民地支配はオランダだけが関わった問題ではない」と女性が語ると、大学生の娘(20)が「まず自国の歴史を振り返らないと、他国の評価はできないと思う」と反論。「学校で習わない歴史を学べたのは良かった。家で、両親とじっくり話し合うつもりだ」と話しました。
ルーツ目にするたび、心波立つ
アムステルダム市内に残る「奴隷制の遺産」を案内する「ブラック・ヘリテッジ・ツアー」は、運河をボートで巡りながら、奴隷の搾取や植民地支配で繁栄した市の歴史を振り返ります。
案内人のアシャキ・レイトゥさん(35)は、カリブ海のオランダ自治領キュラソー島出身。参加者と目を合わせ、ほほ笑みながら説明していきます。
市中心部のダム広場に立つ壮麗な王宮はもともと、17世紀に建てられた市庁舎でした。オランダの「黄金時代」を象徴する豪華な装飾、彫刻や絵画で飾り付けられています。
「ここで(アメリカ大陸やアフリカで奴隷貿易を展開した)西インド会社や市の幹部が、植民地での奴隷の取引や輸送について重要な取り決めをしました」(レイトゥさん)
奴隷の所有者や、大規模農園の投資家が住んでいた運河沿いの通り。建物の入り口に、主人に仕えた黒人の像が彫られています。「私たちのルーツを目にするたび、心が波立ちます」とレイトゥさんが心の内を明かします。
当時、奴隷制を正当化するために白人の学者たちが使った研究資料も紹介します。
「ねつ造した資料をもとに、『黒人の脳は小さい』といった情報を広めました。これが、白人優越主義と制度的な人種差別を拡大する要因となったのです。奴隷制の歴史を知ることは、現代に残る構造的な差別を理解することにつながります」とレイトゥさんはいいます。
レイトゥさんがオランダに来たのは1歳のとき。オランダの学校で「真実の歴史を学んだ記憶はない」と話します。「自分がどこから来たかを調べ、このツアーに行き着きました。観光客にも、オランダの繁栄がどのような犠牲で成り立ったのか知ってほしい」
昨年、米国で広まった「ブラック・ライブズ・マター(黒人の命は大事だ)」運動を受け、世界で過去の植民地支配を見直す議論が活発になっています。
レイトゥさんは「旧植民地出身の人たちが長年たたかい、築いた土台が可視化された。ようやく準備が整ったと考えています」と語りました。
対話しより良い未来の共有を
歴史部責任者 ファリカ・スムルダースさん
展示会には、とても温かい反応が寄せられました。「当時の人の目線で過去を振り返ることができた」「もっと歴史が知りたくなった」などの意見が次々届いています。
過去の歴史が、現在の不公平な社会を形作ったという意見もありました。いま、過去を知り、それについて語り合うことは緊急の課題となっています。
国内の博物館や美術館では、植民地支配や奴隷制の歴史について、十分に紹介されてきませんでした。長い間、過去を語るか、語らないかが議論の中心になっていたからです。
「語らない」ことを選べば、対話は始まらず、攻撃的なやりとりばかりが目立つようになります。事実を公にして、対話の場を提供することこそが、前に進む方法です。
オランダ国民にとって、奴隷制度が痛ましい歴史の一部であり、拒否されるべき制度だということは、だれもが同意するでしょう。ただ、その歴史を公に口にすることを避けてきました。いまこそ、展示を通して国民が対話を始め、より良い未来を共有するための一歩を踏み出すことを願っています。
■過去と向き合うオランダ
2005年8月 ボット外相、インドネシアに対する植民地支配と、独立後の同国に対するオランダ軍の攻撃について「インドネシア国民の利益と尊厳を傷つけた」として「深い遺憾の意」を表明
11年9月 ハーグの裁判所、政府に対し、オランダ軍が1947年にインドネシアの村で起こした虐殺事件の遺族への賠償を命令
同12月 駐インドネシア大使が、虐殺事件で初の公式謝罪
20年3月 ウィレム・アレクサンダー国王、訪問先のインドネシアで、独立戦争当時のオランダによる暴力行為を謝罪
同6月 ルッテ首相、BLM運動を受け自国の人種差別の問題を認めるも、謝罪は拒否。政府は、奴隷制の現代への影響に関する独立委員会を設置
同10月 政府、インドネシアでの虐殺事件に関し、犠牲者の子どもへの賠償金支払いを発表
21年1月 政府、植民地起源の略奪文化財の無条件返還を決定
同7月1日 独立委員会、政府に対し、大西洋奴隷貿易は「人道に対する犯罪」だと認め、オランダの果たした役割を謝罪すべきだと勧告
同 アムステルダムのハルセマ市長、奴隷貿易に「市が積極的に関与した」と公式に謝罪
(しんぶん赤旗、2021年9月21日)
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