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#小妻子求生記
sarahkuei · 1 year
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職涯發展·專欄|機會都是爭取來的,除非你擁有傲人的姿色或成就,否則不要傻傻的等待,更不要期待他人會幫忙
出社會後,我常常思考人生要怎麼樣才能獲得更高的成就。 一開始進公司,就任勞任怨的滿腔熱血在做事,一心想要做到主管在想什麼之前。然而,有想法的同學都打槍我,說不用做那麼多事情⋯⋯不用做到主管想法之前。 而如今,真的有才幹的主管,都是必須擁有能幫老闆解決問題的能力。甚至,要幫老闆提前預測市場趨勢和動向。 所以之前我所受到的冷水潑,如今的她又該怎麼看待? 或者她們,也從來沒有想過創業,只想安安穩穩地當她的會計或者家庭主婦,沒有任何煩惱和壓力的生活。 而如果要改變現在的生活,就從改變自己開始! 想要什麼樣生活品質,就要做出相對應的選擇,並且永不後悔! 貓仔是一個嗲聲嗲氣的嬌嬌女,大學畢業後就在家裡幫媽媽在粉專賣衣服。然而,只是單純PO網,號召朋友追蹤按讚,其餘的行銷方案都沒有真正思考過。一年半後,也就結束營業,隨後當約聘人員加班賺工資。持續三年斷斷續續的工作後,下嫁給大學同班同學。…
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ari0921 · 3 months
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 反スパイ法のない日本、外事警察の苦闘
            櫻井よしこ
わが国は、四桁に迫る数の自国民を北朝鮮という国家権力によって拉致されたまま、約半世紀、取り戻せないでいる。
13歳で拉致された横田めぐみさんは59歳になった。母上の早紀江さんは、日本はなぜ、国民を取り戻せないのかと問い続け、新しく拉致担当大臣が就任する度に「真剣に取り組んでほしい」と要望する。歴代内閣は拉致解決を政権の最優先課題と位置づけるが、吉報は未だ訪れない。
第二次安倍政権の7年8か月間、安倍晋三総理を支えて国家安全保障局長等を務めた北村滋氏は、近著『外事警察秘録』(文藝春秋)の冒頭で当時の拉致問題への取り組みを記した。めぐみさんのものとされる遺骨が螺鈿(らでん)装飾の漆器調の器におさめられて日本側に手渡された時、その遺骨は警視庁鑑識課で横田御夫妻に示された。目に涙を浮かべた父上の横田滋さんが無言で坐る傍ら、早紀江さんが沈黙を破った。
「めぐみは生きていますから。これは警察の方でしっかりと調べて下さい」
早紀江さんは毅然と言い、「遺骨」を証拠として鑑定処分に付することを承諾して下さった。「それは娘の生存に対する確固たる信念の発露」だったと、北村氏は書いた。
周知のように、遺骨はめぐみさんとは無関係だと判明し、日本国内の怒りは頂点に達した。だが、振りかえってみれば拉致は金正日総書記が2002年に認めるまで日本での関心事にならなかった。遡って1988年3月、梶山静六国家公安委員長及び警察庁の城内康光警備局長が、「一連のアベック失踪事件は北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」と答弁した。
北村氏の指摘だ。
「拉致事件について国会で閣僚と警察の責任者が断言し、それと前後して日本人が拉致されたことを示す具体的な情報が複数取りざたされていたが、それでも捜査に追い風は吹かなかった。北朝鮮の国家犯罪の追及は当時、日本政界を支配していたムードに逆行するものだったのだろう」
事実、89年7月には土井たか子、菅直人の両衆院議員らが北朝鮮の工作員・辛光洙の釈放を求める要望書を韓国に送り、90年9月には自民、社民両党が「金丸訪朝団」を結成して訪朝した。当時は日朝友好親善の機運が高まっていたのだ。
世界一、与し易い国
警察が拉致を防げなかったこと、捜査が進捗しないことについての批判は依然として強い。北村氏は言い訳するつもりはないとしたうえで、日本国の体制に注視する必要性を指摘する。まず第一に、スパイをはじめわが国の国益を深刻に侵害する犯罪を直接、適切な量刑で処罰する法律がないことだ。米国では死刑、終身刑、数十年の懲役刑となるような犯罪が、わが国では北朝鮮のスパイ事件に見られるようにほぼ全員、軽微な刑罰にとどまると北村氏は指摘する。
警察庁が認定してきた1950年から81年までの北朝鮮スパイ事件42件に限れば適用された罪名は「出入国管理令違反」等の微罪にすぎず、執行猶予が付くケースが多いという。
第二次安倍政権が「特定秘密の保護に関する法律」(特定秘密保護法)を難産の上成立させたとはいえ、今もまだ拉致問題に典型的に見られる対日有害活動を直接処罰する法律は制定の動きすらない。安全保障に疎いわが国の、これが現実である。
『外事警察秘録』の頁をめくる度に、日本の安全保障体制が法的にも国民の意識という点においても如何に貧弱かを思い知らされる。北村氏が41年間のキャリアを振りかえって取り上げた事件は拉致問題、重信房子の日本赤軍、麻原彰晃のオウム真理教、暗躍する中国スパイなど、実に幅広い。一連の事例から浮かび上がるわが国の姿は、悪意を持った犯罪者にとって恐らく、世���一、与し易い国のそれではないだろうか。
日本と日本国民を守る手段(法整備)に事欠く中で、北村氏らは国内世論の無理解、日本政府内に蔓延する気概の喪失とも戦わなければならなかった。たとえばオウム真理教事件で、早急に打つべき手のひとつが麻原彰晃ら最高幹部の国外逃亡阻止だった。
彼らは当時頻繁にロシアに渡り、レーザー兵器、ウラン、軍事用ヘリコプター、毒ガス用の検知器、自動小銃などを入手した可能性があった。そこで北村氏ら外事警察は「旅券法に基づいて、麻原に旅券返納命令を出してほしい」と外務省に要請。95年3月30日、警察庁長官の国松孝次氏が狙撃された当日のことだ。外務省担当者はこう返答したという。
「返納命令を発出してもし報復テロの対象として我々が狙われたらどうなりますか。警察庁長官ですら銃撃から守れなかった日本警察に部外者の我々を守り切れるのですか」
テロリストの思う壺
最終的に旅券返納命令は発出されたが、恐怖心を煽って政治的目的を果たそうとするテロリストの思う壺にはまっている日本の姿がそこにあった。氏はまた警察庁外事情報部長だったとき、スパイ事件に関する日米の分析検討会議に出席した。日本の摘発事例を説明した際、米側の出席者がたまりかねた様子で尋ねた。
「日本警察が摘発した事件では、そもそも公訴の提起がなされなかったり、スパイ協力者に対する求刑が懲役一年から二年程度だったりすることが多い。判決では執行猶予が付され、釈放されるケースばかりだ。なぜなのか」
日米同盟という関係の中で、日本から情報が漏れれば米国も一蓮托生だ。米国側が懸念するのは十分に理由のあることなのだ。
北村氏は、日本の刑事法にはスパイ行為を直接罰する罪が存在しないこと、したがって捜査機関は、スパイがその情報を入手するためのプロセスを���底的に精査し、あらゆる法令を駆使して罪に問える罰条を探し、スパイ協力者はその共犯として立件すると説明したが、到底、理解してもらえなかったという。
「米国では、情報を漏らした者はもとより、情報を探知し、盗み出した者を、より重罪とする。量刑は最高で死刑だ。(中略)終身刑や被告の寿命を遥かに上回る数十年の拘禁刑という事例も散見された」
北村氏はこう書いたが、これは中国、ロシアを含めておよそ世界の国々の常識であろう。
インテリジェンスの専門家が振りかえる安倍政権、7年8か月の軌跡は、案件のひとつひとつが生々しい記憶をよび起こす。独立国としての日本の再起に文字どおり命をかけた安倍晋三総理。第二次政権発足の翌日、内閣情報官としての第一回総理ブリーフィング(報告)を終えて退出する北村氏に安倍総理が声をかけた。
「これからも時々、報告に来てください」
週一回だった定例報告はそれ以来、週二回となった。安倍総理はインテリジェンス報告に多くの時間を割いた。情報こそが国の命運を決することを正しく理解していた宰相なき後、わが国の前途は多難である。
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patsatshit · 5 months
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Mがタラウマラを退職して今月末で早くも1年になる。Mとの出会いはサイクルショップすずめ時代で、彼がダルクからの帰り道に3,500円のママチャリを買いに来たのがはじまりだった。その後も何度か話をしているうちにとても面白い人だと思うようになり、おまけにサイクルショップすずめが立ち退きを迫られていたタイミングだったこともあり、純粋な気持ちで「自分はこれから新しい店を始めようと思うが、一緒にやらないか?」と声をかけた。その後はとんとん拍子に話が進んで……という訳にもいかず、突然連絡が途絶え、聞いていた住所を訪ねるも接触ができなかったりした(笑)。やっぱりあかんかぁ、と自分は自分で今後の準備に取り掛かっていたところで、突然サイクルショップすずめの店頭にふたたびMが現れて「ぜひともやらせてください」と言って来た。最初に声をかけてから数ヶ月が経過していたと思う。そこからは本格的にタラウマラの準備に取り掛かった。Mには諸々の事情があったので、契約面、資金面については僕がすべて請け負い、あくまでも雇用する者とされる者の関係性のうえで二人三脚で開業の準備を進めた。僕は開業資金の100万円を借り入れ、途中で不足が生じたので社会福祉協議会から新たに40万円を調達した。その間に数人の友人たちに「Mと一緒に新しい店をやろうと思う」と伝えたら、全員から猛反対された。これは誇張や脚色ではなく、本当に色んな人から「何を考えてるんですか?」「いままでやってきたことを棒に振るんですね」「あなたがやろうとしていることは商売ではなく福祉だ」との助言をもらって、これまでのMがやってきたことを勝手に想像しないではなかったが、それ以上にそんなダメダメなMをきちんと支えたいという想いが遥かに上回っていた。なかには「あなたがMと一緒にいるなら、もう関わりたくない」と言ってきた人もいたが、その方とは未だに再会できていない。とにかく当時の僕はMに夢中だったし、むちゃくちゃに酒癖は悪いがどこか憎めないところがあって、すべては許容範囲だと感じていた。実際タラウマラが始まっても酒でのトラブルは絶えなかったし、M自身も慣れない仕事で精神的にきつかったのだろう、いつだって抗不安薬を手放せないでいた。それでも僕はMの才能に魅せられていたし、ひとりの友人としてもこんなに腹の底から笑い合えるのは初めてだとも感じていたから、最初の2年間は本当に楽しかった。タラウマラで雇用する際にひとつだけ約束事として交わしていた「違法な薬物に手を出さない」ということもきちんと守ってくれていたように思う。Mの音楽作品もコンスタントにリリースを重ね、また彼自身の尊敬する先輩や友人からオファーを頂く機会も増えていった。とにかく酒や違法薬物をできるだけ遠ざけ、それ以上に夢中になれることをふたりで模索していた。僕はあのときの自分の感覚とMを信じて良かったと心の底から快哉を叫んだ。唯一の不安は金銭面だった。そこだけは本当に苦しかった。社会福祉協議会に追加の借り入れを申し込んだが、それでもまったく足りなかった。互いに友人や親戚の仕事を手伝ったり、単発の日雇いバイトに従事することで何とか糊口をしのいでいた。そんな金銭的な不安を打開するために僕は出版物のリリースを目論んだ。もともとMは編集者になりたかったと言っていたこともあり、それならば、と季刊刊行物を制作しようと思い立った。それが「FaceTime」である。タラウマラのような小さな店舗ではどれだけ頑張っても自転車だけでは到底2人分の給与は稼げない。Mの持っている技術で新たに売上をつくることができれば、今後、彼自身の自信にも繋がるだろうし、タラウマラの第2ステージとしても最高だと思った。実際、滑り出しは順調で尊敬する友人たちが素晴らしいテキストを寄稿してくれたこともありvol.1の500冊はすぐに完売した。Mの編集技術も回を重ねるごとに更新されていった。ちょうどその頃、Mに恋人ができた。Kという彼女は僕の「DJ PATSATの日記」を読んでMに興味を持ち、好きになったと言っていた。しばらくするとKはジョージアへ1年間の語学留学に発つことになるのだが、ロシアとウクライナの戦争が激化し、ジョージア国内でもキナ臭い動きが表面化したことで、彼女は緊急帰国した。そして淡路にあるM宅での同棲が始まった。突然の帰国に際してタラウマラからは自転車やTシャツを贈呈した。するとMが「Kが土井さんに直接お礼を言いたいとのことですので、土井さんの勤務日にお邪魔しますのでよろしくお願いします」と言って来たので、そんな気を使わんでええよ、と思いつつも心のどこかで楽しみに待っていた。しかし予定の日にKがタラウマラに現れることはなかった。その後、3度、同様のことが繰り返されたので僕ははっきりと気分を害していることをMに伝えた。Mは狼狽しつつも「Kの仕事が急に忙しくなって、家から一歩も出ていないんです」と必死にKを庇っていた。ちょうどその頃、常連のOさんがタラウマラにやって来た際に「そう言えば先日、Mさんの彼女を紹介してもらいました」と言うので「どこかでばったり会ったんですか?」と聞くと「いやいや、タラウマラでに決まってるじゃないですか!ビールまで頂いてしまって」と笑う。Oさんが店を出た後、僕はMに電話をしてはっきりと怒りを露わにした。もうKには挨拶に来てもらわなくて結構!と伝えるとMは終始すみません、ごめんなさいと誤っていた。翌日、Kは菓子折りを持ってタラウマラにやってきた。本人と直接話をしても僕の中で靄が晴れることはなかった。その後、周知の通りMの商業出版が決まり、Mは多忙な日々を送ることになるのだが、明らかに酒量は増えていった。そして遂には◯◯にまで手を出してしまうことになる。タラウマラを一緒にやるうえでの絶対的な約束を彼は破ってしまった。僕の妻は心底呆れて「もうあかんで、やめてもらって」と言っていたが、本人が深く反省していたこともあって、僕はなぜか不問に付することにした。いま思えばもうどうでも良くなっていたのかも知れない。その代わり、Mには土日だけの勤務にしてもらい、給料もそれまで売上の完全折半でやって来たところを日給制に切り替えた。Mは義兄のバイト、土日のタラウマラ、商業出版の執筆、最後の「FaceTime」の編集作業と引き続き忙しそうにしていた。その頃からますますKがタラウマラの業務について口出しをしてくるようになった。給与面、業務時間、業務負担についてなど、それらすべてをMの言葉を介して僕に伝えられた。何度かそばで聞いていた友人が「それ以上はKのことを土井さんに言わない方が良い、ネガティヴキャンペーンにしかなってない」と注意をしてくれた。Kは「なぜMばかりそこまでやらないといけないのか」と繰り返しているようだったが、物事には役割分担というものがあり、僕には僕のやるべきことがあり、MにはMのやるべきことがあるというだけの話だ。どこからか金が降って湧いてくる訳でもなく、自分たちで稼がないといけないのだから。そして遂にはタラウマラで行われるイベントの際にMは「いまのあなたには執筆の方が大事でしょ」とKから言われたとのことだったので、僕はイベントの最中にMに対して「もう帰りや」と言ったのだが、Mは慌てて「そういう意味じゃないんです」と訂正した。いまでもそれがそういう意味じゃなくてどういう意味だったのかわからない(笑)。「淡路が嫌いやから」という理由でMとKが引っ越しをしたり、その後も色々あったが、綱渡りのような精神状態で互いに業務を遂行していた。そしてその先に待ち構えていたMの解雇を決意するに至る決定打は、実につまらない些細なことだった。ライブやバイトのスケジュールでMは度々シフト変更を求めてきたが、僕も家族のことなどで逆にMにお願いすることが何度もあったので、そのこと自体については持ちつ持たれつで何ら気に留めるようなことでもなかったのだが、ある日Mが同日の予定変更を何度か重ねて依頼してきたことがあった。最初の変更時に僕自身もプライベートの予定を入れてしまっていたこともあり、2度目の依頼の際には代わりに出勤することもできず、その日は店を閉めることにした。一応Mに休みたい理由を聞いてみると「Kがどうしてもその日に新開地の立ち飲み屋に行きたいと言っている」とのことで、この瞬間にはっきりと僕の中で何かが崩れた。あのときのことはいまも忘れられない。本当にこれまでMと積み上げてきたことがはっきりと物音を立てて崩れ去った瞬間だった。僕は「わかった、でももうMとはタラウマラをやっていくつもりはない。年内で辞めてくれ」と伝えた。その後も例によって色々ありながらも、彼がタラウマラを辞めると決まってからは僕も色んなことがふっ切れて、随分と気持ちが楽になった。Mの商業出版に関しても素直に応援することができた。ただ一点だけ、彼の出版を手がける編集長がタラウマラにやってきた際に「著者と打ち合わせしたいので、しばし外して頂けますか?」と直々に言ってきたことについてはいまでも呪いのように自分の内側に燻り続けている。タラウマラはコワーキングスペースでもなんでもなく、僕が借金して作り上げた自転車屋やで(笑)。
※ ここから先は「他人の事情」につき閲覧注意!
それはさておき、2022年の年末でMはタラウマラを退職した。最後の1ヶ月は本当にたくさんの方々がタラウマラを訪れ、みな口々にMを労ってくれた。ほんまに色んな人から愛されとんなぁ、と驚いたのをいまでも鮮明に覚えている。タラウマラを始める際には周囲からあれだけ反対されたのに、どないやねん(笑)。しかしある意味でこの両極の振れ幅こそがM「らしさ」なんやと思う。最後にシャッターをふたりで閉めた際に僕は素直にMに「楽しかった。ありがとう」と伝えることができた。Kからも「色々お世話になりました。これまではタラウマラにあまり顔を出せずにいましたが、来年はもっと遊びに行きます」とメッセージが届いていた。年明け早々にはMと友人と一緒にmole musicに行った。出会った頃のように話をして、笑うことができて嬉しかった。別れ際に「出版もうすぐやな、楽しみにしてるで。僕も同じタイミングで何か作ろうと思ってるから、タラウマラでダブル出版イベントとかできたらええな」と冗談めかして言った。そして「Kと一緒にいつでも遊びにおいでな」と言ってその日はMと別れた。その後、Mの書籍のリリース日が決定したが、タラウマラ限定特典についての打ち合わせもしっかりできないまま��、いよいよ出版社へのオーダーの期日が迫っていた。Mは「義兄のバイトで忙しくて」と言っていたから、退職して間もないし確かにそうだろうなと思っていた。もちろんKも年が明けてから一度も顔を出さない。SNSで別の友人の書店には頻繁に行っている様子だけは伝わってくる。そんなある日、Kがインスタグラムに投稿した内容を見て愕然とした。Mからは「週7で義兄のバイト」と聞かされていた日に彼らは旅行に行っていたのだ。思わず「またや」と無意識に言葉が口から漏れた。1年前、Kの帰国後の挨拶問題とまったく同じことが繰り返されたと感じた。僕は瞬間的に自分を見失うほどの怒りが込み上げた。そしてみんなが呆れてものも言えなくなるような醜悪な内容をSNSに投稿した。純粋に死んでほしいと思ったし、自分も死にたくなった。結果、たくさんの人が僕のもとを去った。それは仕方のないことだといまでも思っている。誰だってあんなことを書くような奴と付き合いたくない。それでも継続して僕との付き合いを続けてくれている方々、大丈夫ですか?あなた方のほうが狂っていますよ、だけど心からありがとうと思っています。自転車関連でも、Mの退職後は何人ものお客様から「あの子がおらんねやったらもうええわ」と言われたし、それまで良好な関係だった方々にいつもと同じように挨拶をしても露骨に無視されるようになったり、Mを慕っていた若者からレジ金を盗まれたりもしたけど、この1年で自分なりのやり方を確実につかんだ。何事もゼロをイチにするまでの地道な活動こそが最も大変で、イチがサンになってようやく人々に少しだけ気にかけられるようになり、サンがゴになって多くの方々に認識される。言うまでもなくKや某編集長はゴ以降にMと出会った人たちだ。そんな彼らに僕らがふたりで積み上げた期間を蔑ろにされたような気がして、自分でも愚かだとは思いつつも怒りを抑えることができなかった。でもそれはもう大丈夫。僕はいまもやるべきことを継続してやれている。何度も言うけど、いまでもサポートしてくれるみんなのおかげ。Mはどうだろう。編集長が言ったように僕が彼の足を引っ張ることになったので、どうにも本来の力を発揮していないように思う。ガヤの勝手な意見やけど、これだけは言っておきたい。Mの胸には「チェンソーマン」のデンジみたいにスターターが付いていて、それを引っ張ってやればとんでもない能力を発揮する。だからお楽しみはこれからってことですよ。
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kennak · 22 days
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私の祖父は今年亡くなりましたが、あなたはそれを知らないでしょう。   実際、彼はあなたがそうしないことを望んでいたのです。   レイ・ハレルは 1930 年代にカタルーチー渓谷で 8 人兄弟の末っ子として生まれ、ピューマを追い抜き、牛を山から追い落とし、借りたジープを衝突させました。そして 90 年後の 1 月 20 日、彼は音もなくこの世を去りました。   それが彼が望んでいた方法です。   墓石は見つからないでしょう。   葬儀には誰も集まりませんでした。   彼はここにいて、70年近く連れ添った妻と共有していたポーチに座っていましたが、その後、彼はいませんでした。   塵から塵へ。 一日の授業を終えて車で家に帰る途中、おばあちゃんから電話がありました。  過去 1 年間、ガンのせいで徐々に命を奪われ、その朝彼はベッドに横たわり、残りの人生はそこに留まり続けるのではないかと思われた。 「あなたのパパの死亡記事を書いてくれませんか?」  彼女は、最愛の人を失ったにもかかわらず、常に現実的な質問をした。 伝えたいことはたくさんあ���ました。  彼は10代の頃にスクールバスを盗み、教師の車の上でバックさせたことがあった。  彼は 1950 年に陸軍とともにドイツに派遣され、そこで空家から誤って大砲を発砲したにもかかわらず、階級を上げていった。  彼は人生のほとんどをそこで働いた繊維工場で労働組合を率いていた。  しかし、彼はそのことについては決して多くを語らなかった。  彼がやろうとしたのは、ノースカロライナ州フルーツランドで小さな生活を築き、娘たちを育て、皿洗いをし、壊れたガレージのドアを直すことでした。  彼は静かに暮らすことを目指したが、その後、同じように亡くなった。 座って執筆していると、テンプレートに詳細を落とし込んでいる自分に気づきまし た 。   死亡届は、何が重要で、何が記憶され、称賛されるべきかについて特別なプレッシャーを与えるが、新聞紙に載る名前や新聞での賞には何の興味も持たず、陰で生き続けることを目指した人生について人は何を語るだろうか。マントルピース?   ジムとコーラの息子であるレイ・ハレルは、じっと座って風が葉を散らすのを眺めて満足していたでしょうか?   レイ・ハレル一等軍曹は、財布の中のお札を金額の高い順に並べましたか?   グレースによって生き残ったレイ・ハレルは、小屋の中で正しい釘を探しながら、毎年同じ発明曲を口笛で吹き続けていました。   私は予想通りの詳細を記入して訃報を新聞社に送りましたが、それが正しくないことはわかっていました。   それは彼の生きた人生を何も捉えていませんでした。   彼が亡くなった数日後、教会の女性たちがキャセロールでテーブルを覆い、おばあちゃんが19歳以来初めて一人でベッドで寝たとき、私が戻ってきたのは、静かな生活のまったくの大胆さでした。 洗濯トラックを運転して一日を終えたレイ・ハレル。  彼の花嫁グレースは、最初の家の外で写真を撮りました。 私たちの時代の著名な人物が亡くなると、私たちのスクリーンに彼らの功績を記録した短いクリップが流れ、彼らの影響について議論するトーキングヘッドが登場します。  しかし、静かな生活は背後で音もなく流れていきます。  しかし、それらは私たちの皮膚の中にある命であり、朝食から就寝まで私たちを導いてくれます。  彼らの命が私たちを作り、世界を動かし続けているのです。 彼らは私たちが気づく前にゴミを出したり、郵便物が来ているかどうかを確認するために道路を歩いたりしています。  ビスケット生地を適切な厚さに並べる方法を教えてくれます。  春の午後、彼らは私たちの息子たちをトラクターに乗せました。  彼らは壊れたシンクを隣の人に手伝ってもらいました。  彼らは18か月の赤ちゃんを引きずり出すために川に飛び込みました。  彼らはフォークリフトに挟まれて腰を折った男性を捕まえ、そのまま抱きかかえて死亡した。  彼らは甥が自分の名前に一銭も持っていなかったとき、彼らのポケットにお金を滑り込ませましたが、恥ずかしくてそれを認めませんでした。  彼らは洗濯をしました。  彼らは床を掃除した。  彼らは子供のように庭で遊びました。  彼らは塩味のパックを食べて、夜がなくなるまで毎晩ベッドに潜り込みました。フルーツランド・ロードから離れた土地で小さな生活を営むことは最も神聖なことだから、残されたのは生き続ける人々だけです私たちは考えることができます。 私たちの周りには、派手なアメリカの個人主義、明るい照明、そして表舞台のサイレンの呼びかけを無視して、頭を下げて両手を広げた生活があります。   私は大丈夫、ここに 部屋の端からの反応があり、その満足感はまったく破壊的です。   どうしてそれだけを望むことができますか?   世界が求めています。   持つべきものは常にもっとあります。   ノースカロライナ州フルーツランドにあるグレースが幼少期を過ごした家の外でポーズをとる新婚夫婦。  その家は、レイとグレースが一緒に家を建て、住んでいる場所の道路を挟んだ向かいに建っていました。 レイ・ハレルが持っていたのは、頼もしいトラクターと、燃えるような女性だった。   彼は正午の夕食時にコーンブレッドを一口食べ、毎晩寝る前にRCコーラを飲んでいました。   彼には子供、孫、曾孫がいて、毎年クリスマスになると家がいっぱいになりました。   それで十分でした。   「私たちは良い人生を送れました」と、最後の年に私が訪問するたびに、彼はほぼ毎回私に言いました。たとえ遠くから見ると奇妙に見えたとしても、私はそれが真実であると確信していました。 やもしものことを後悔する長いリストを残したはずだ   理論的には、クリアクリークの上空にあるこの小さな生命は、もしものこと 。   しかし、この人生こそが人生そのものであり 、  1954年に彼と私の祖母グレースが道の先にある小さな教会で結婚したときに目指したものそのものでした。 それらの訪問では、私はコーンブレッドを食べて落ち着いて話を聞きました。  時間が経つにつれて、私はこれまで知らなかった歴史を収集しました。  スクールバスが盗まれ、ジープが墜落し、牛が泥にはまってしまったことを知りました。  私は、朝鮮戦争中にドイツに駐留していたパポーが高額のトランプを獲得し、その収益を持ってヨーロッパ中を旅したことを知りました。  私は彼が繊維工場から何度も何度も解雇されたことを知りました。 "どうして?"  私は尋ねた。 「そうですね、私がイライラしていたからだと思います。」 ほとんどその通りでした。  彼は誰も聞きたくないときはノーと言い、上司たちが聞きたくないときは労働組合を結集させた。  ハーネスなしで10フィート登って自分でローラーを交換するように言われたときのように。  「私は彼らに、そんなつもりはないと言いました。」  彼らは彼を解雇し、労働組合の弁護士が介入し、彼は仕事に戻った。 「頑固なおじいちゃんだよ」とおばあちゃんは言った。 おそらくそれも正しかったのですが、世界を見て不正義と闘う物語をつなぎ合わせてみると、静かな生活は受動的な生活ではないことに気づきました。  ポーチにじっと座っていることは、世間をやり過ごすことを意味するものではありません。  彼とおばあちゃんはキャンピングカーに乗って国中を旅しました。  彼は組合の会長を務めた。  満足しているということは、盲目であるという意味ではありません。  それは、善良な戦いと利己的な戦いの違いを知ることを意味します。 「私は正しいことのために立ち上がることを信じています」と彼はトウモロコシを一口食べながら言った。  「こんなこと言うべきじゃないけど、みんな私のことが好きでした。」 "なぜ?"  おばあちゃんは尋ねました。 「あなたがそんなことを聞かないといけないとは思っていませんでした。  私は良い歳をした少年だよ。」
静かな生活のための訃報 — THE BITTER SOUTHERNER
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ashrhal · 1 month
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2024年4月8日
みなさん元気ですか?僕は今、東京の公園で小雨に打たれながらスーツ姿でハイボールを煽り指で鼻くそをこねているおじさんです。
ピーマンの汁が飛んだ。ブシャーっという効果音がこんなに似合う光景があるのかってくらい、俺が齧ったピーマンの汁が飛んだ。
月曜日。土曜日に今のクソの中のクソ、汚泥みたいな家から引っ越すべく奥さんと今の街の周辺を練り歩き、不動産屋を梯子して、条件に合いそうないい物件を見つけたり、生理特有のズンとした気持ちをほぐすために日曜日に高円寺にビリヤニを食べにいくなどして僕たちは楽しく休みを過ごすことができたが、朝6時に目を覚まして迎えた二週目の月曜日の朝は暗澹という言葉がここまで似合うのかというくらい濁っていて、瘴気の漂う電車に揺られ出社した。隣に座ったケバいOLが韓流ポップをこれでもかと音漏れしていてつらかった。
仕事は相変わらず、右も左も分からない。当たり前だ、まだこの職場に来て1週間なのだから。それでも仕事は止まらないからあれこれと降りかかってくる。わけもわからないままこうしたらいいかな、こういう考え方でいいかな、ここは上司に聞いた方がいいかな、と俺なりに考えて自分のできることを探して行動する。俺は本当によく頑張ってると思うが俺以外きっとそんなこと誰も思わない。作成した資料を上司に確認してもらうよう依頼する、ミスが見つかる。指摘される。そんなことわかるわけねえだろクソが手順書のどこにも書いてねえから自分で考えてやったんだろうがと思うが口にせずにっこり笑って「ありがとうございます」と伝える。これがサラリーマンだと理解はしていたが、サラリーマンはクソだということをこれまでもより強く理解する。そんなことじゃ俺はへこたれないぞ、と思いながらも心のどこかでストレスを蓄積してしまう俺は煙草が吸いたくなる。これまでの職場は、午前中には一回、午後には一回どんなに忙しくても必ず煙草を吸えた。しかし、他のチームのメンバーが血走った目でキーボードを叩く姿を見て新参者のペーペーの俺はタバコを吸いに行くことすらままならない。そのまま午前が終わり、痺れを切らして「昼休憩行ってきます」と憮然とした表情で伝え、喫煙所に向かう。喫煙所はビルに一つしかなく、毎日昼の時間は行列ができている。煙草を吸いたい煙草を吸いたいというはやる気持ちを押さえつけて20分並ぶ。ようやく据えた煙草は泥みたいな味がして喫煙室にいる人間全員殺すぞという気持ちと、この喫煙室にいる人間は全員こんな俺が抱いているような感情を乗り越えて毎日働いているんだという尊敬が生まれる。
昼飯はマズい食堂のラーメンを食い、午後の業務にあたる。「ここにこういう風に連絡すればいいから」と聞いていた通り連絡をすると「昨年度もお伝えしましたが、担当部署が変わっているのでここじゃないです」と言われる。クソがと思いながら、今後も関係がある部署かもしれないからごめんなさいの電話をしようと思うと何度かけても一向に繋がらず、俺の心は折れる。そんなこんなで「殺すぞ」と「ありがとうございます」の間を行き来しながら今日も朝の8:30から22:30まで元気に健���かに働いた。
昼休み俺に「仕事で失敗した」「死にたい」とLINEを送ってきた「帰るよ」と妻に連絡をすると、最寄駅のルノアールにいると伝えてくれた。今日の俺のつらさが浄化されるのではないかという淡い期待を抱き妻を居酒屋に誘い夜メシを食べに行った。そこは料理もおいしく酒もそこそこ安い価格で飲める、短い東京生活で憩いの場の候補の一つであったが、その店のメニューのひとつに出汁に浸したピーマンがあり、俺はそれを頼んだ。駅で会ってから、昼間の「死にたい」を引きずってる妻と、社会から受けた傷を舐め合って明日からまた元気に働きたかった。俺が一杯目のビールを飲み終えるか飲み終えないかでピーマンが卓に届く。「出汁が飛び出すんで注意してください」店員のそんな声を聞き流しながら、俺はピーマンに齧り付いた。
ピーマンの汁が飛んだ。ブシャーっという効果音がこんなに似合う光景があるのかってくらい、俺が齧ったピーマンの汁が飛んだ。
その汁は、テーブルの対面に座っている妻まで届き、妻が最近購入した水色のストライプが入ったワイシャツを盛大に濡らした。そこからは最悪だった。妻は落ち込みとブチギレの狭間で宙空を見つめ、俺は浄化できないつらさを抱えてそれを妻が拒絶することに傷つき宙空を見つめ、ほぼ会話もすることなく、俺が何かを投げかけても妻は一切歩み寄ってくれる気配もなく、ビール一杯とハイボール2杯を飲んで店をあとにした。
妻がつらい時、俺は優しくしてきたはずだ。他人に平等を求めること自体平等ではないとはわかっているが、今日の俺は妻に優しくして欲しかった。そんな俺の感情よりも自分の気持ちとスタンスを尊重して誰よりも損してしまう妻は終始俺に寄り添うことはなく、帰り道で俺を置いていく妻につらい気持ちをアピールするために壁を蹴ったり半泣きになりながら「なんでそんなにいつも攻撃的なの」と嘯いたり道路にしゃがみこんだりしていたら、妻が俺置いて家(ゴミ)に向かって歩いてどこかへ消えてしまった。
その結果、僕は今東京の名もない公園のベンチでコンビニで買ったハイボールを飲みながら、急に馬鹿らしくなって鼻くそをほじってこねてみたり、リリィシュシュを聴いて神妙な気持ちになってみたり、実は全然つらいことなんかないんじゃないかと思いながらもしっかりとつらさを感じて、小雨に打たれながら日記を書いています。誰か助けてくれ。できれば妻がいいけど。
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myonbl · 1 month
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2024年4月7日(日)
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拙宅から徒歩10分の梅小路公園、週末になればなにがしかのイベントが開かれているが、今日は<循環フェス 2024>の日だ。先日町内の回覧板で知ったのだが、早速リユース価値のある古着を用意して会場へと乗り込んだ。午前10時オープンなのだが、すでに<0円マーケット>には長蛇の列、好きな古着3点まで無料とのことで人気があるのは納得。わたしはと言えば入口左側の古着回収ボックスに大きな紙袋一杯の夫婦の古着を投入してミッション完了。断捨離を要求される身には、次回の開催が待ち遠しいことだ。
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5時15分起床。
日誌書く。
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朝食には、昨日文楽劇場でいただいた<黒門市場200周年>記念の餅を頂く。
珈琲。
洗濯。
ツレアイは奈良での太鼓練習の日、近鉄東寺駅まで送る。
糠床メンテナンス、奥川ファームの大根と人参を漬ける。
コレモ七条店で買物、コンニャク・チクワ・飛竜頭、今夜は関東煮。
大根の下茹で。
出汁を取って関東煮の用意、小ゑん師のグツグツには登場人物が少ない。
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梅小路公園まで古着を持参、オープンすぐだが多くの人が集まっている。何であれ、近くで断捨離の機会があることに感謝。
ランチ、息子たちはサッポロ一番味噌ラーメン。
しばらくしてツレアイから連絡、近鉄東寺駅まで迎えに行く。
遅い時間のランチ、そば+🍶。
軽く午睡。
ツレアイは買物に、私は資料整理。
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早い時間に夕飯準備、今夜は関東煮。
録画番組視聴、サラメシ
(1)瀬戸内のり漁師夫婦▽53年使い続けた弁当箱 最後の日
初回放送日: 2024年4月4日 冬から初春に旬を迎える岡山県の海苔(のり)。栄養豊富な海水と冬の晴天に育まれ、甘みのある上質な味が特徴。代々漁師の家に生まれた妻と結婚を機に漁師になった夫。仲良し夫婦は漁港そばの食堂のお好み焼きがお気に入り▽神奈川県内の消防署で救急隊員として働く門倉正道さんは、中学生から50年以上同じ弁当箱を使い続けてきたが、今年2月に定年退職。最後の出勤日に密着!▽テレワーク中のランチをのぞき見「テレメシ」も。
落語研��会。
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再放送だが、やはり「百年目」は上方でないとねぇ。
片付け、入浴、散髪。
体重は50g増、明日からランチ抜きで頑張るのだ。
パジャマに着替えて日誌書く。
明日から授業開始、このリズムをキープせねば。
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何であれ、歩数を稼げば後はついてくるのだ。
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oka-akina · 11 months
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おとといの日記。夏至の晩。冬至から数えて今日が一年の折り返しだなんて信じられないなと思った。早すぎる気がする。1月に義父が亡くなってバタバタしていたというのはあるけど、別にそういうのがなくてもそう思う。
冬至は12月の後半なので冬だなあという感じだけど、夏至の6月の半ばというのは梅雨であってまだ夏ではない…という感覚がある? 冬至と夏至で一年を半分に切り分けるとなんかアンバランスな感じがする。
ただまあ、12月が冬というのはイメージの問題だよなと思い直す。実際12月を過ごしているときはまだあんまり寒くなくて、秋の終わりが長々続いている感じだと思う…このあたりの、最近の気候では。銀杏がすっかり黄色くなるのは12月に入ってやっとだし、クリスマスとか年末の慌ただしさで冬感が強いだけのような気がした。そして冬というのは、本当にとても寒いのは1月と2月の始めくらいで、2月の半ばくらいからなんとなく春っぽい感じになるなあと思う。
まだ夏でもないな、冬ってほどではないな、冬ももう過ぎたなあみたいな、季節と季節に片足ずつ突っ込んでまたがるようなグラデーションの期間は案外長い。7月だってほぼ梅雨だし。ずっと前に勤めていた会社、やめる直前は体調を崩しがちだったんだけど、周囲の人がよく季節の変わり目だからねと励ましてくれて、でも季節はずっと変化してるじゃないですか…と思っていた。ずっと体調悪くてもしょうがないってことかとか思っていた。
夕方。会社を出たら涼しくてちょうどいい感じだった。どこまでも歩いて行けそうな、冷たいビールにぴったりの晩。夕飯は一人で済ませていい日だったので何か食べて帰ろうかと思ったけど時間が早かった。いったん家に帰って洗濯機を回し、たまっていた皿洗いをして、その間ロボット掃除機も動かした。掃除機は道に迷っているのか廊下の同じところを行ったり来たりしていて、こっちだよと手で持ち上げて掃除してほしい場所に連れて行った。動物を相手にするみたいに声をかけてしまう。
いくら夏至だからってこんな時間に洗濯物を干すこともなかなかないな…と思いながらベランダにTシャツやタオルを干した。日没すれすれのまだ明るさの残る時間で、夜風が涼しかった。平日に洗濯ができると達成感がある。
いろいろ家事を片付けて、近所のブロンコビリー(ハンバーグのファミレス)に歩いて行き、道が暗いからかやけに遠く感じた。動物病院、寿司屋、鍼灸院、何かの事務所。みんなもう閉めていて暗かった。寿司屋は定休日かもしれない。家事をぱぱっとやって徒歩で外食に行くの、村上春樹の僕みたいだな…と思った。
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ブロンコビリーはサラダバーに力を入れていて、チキンとパクチーのサラダとか切り干し大根と夏野菜のサラダとかおからと柚子のサラダとか、そういうデパ地下のデリっぽいものがいつもずらりと並んでいる。ポテトサラダとかマカロニサラダとかレタスとかトマトとかそういう定番のも。オレンジやグレープフルーツやコーヒーゼリーも。
ディナータイムは料理プラス500円でこのサラダバーがついてくる。すごい。買うより安い。値段もそうだしこんなにたくさんの野菜を使ってこんなにたくさんいろいろ作るなんて自分ではとてもできないと思う。野菜不足を感じていたので今日はブロンコだな…と思ったんだけど、そういうふうに考える人が多いのか、平日の夜だけど人の入りは多かった。近くのテーブルで男の子と父親とおばあちゃんぽい三人組がハンバーグを食べていた。べつにどうってことないし余計なお世話なんだろうけど、おばあさんがリュックを背負ったまま食べていたのがちょっと心配になった。下ろしたら背負うのが大変とかあるのかな、息子手伝ってやれよとか、ちょっと視界に入っただけなのにほんとに大きなお世話なんだけど、勝手に思った。こういう自分の覗き見根性がときどきとても恥ずかしくなる。いい子ぶってるわけでもなく、覗き見の何がしかが小説を書くことにつながっているのは否めないこと、わかってやっていることを含め、恥じ入る気持ちがあり、ありつつ、こういうふうに書いてしまう。
ハイボールを頼んで、大根サラダやポテトサラダをつまみながら読みかけの本を読んだ。正確にはわしわし食べた。メインはチキンステーキ。いつもハンバーグばかり頼んでいるのでたまにはと思った。読んでいた小説の人びとが、この中だったらなんとなくチキンを食べそうだなと思ったのもあった。「やったぜ今日はチキンステーキだ」というのは『ラスベガスをぶっつぶせ』だっけ…。
読んでいたのはジャッキーケイ『トランペット』。著名なジャズミュージシャンが亡くなり、死後彼はトランスジェンダー男性だったと暴露される。知っていたのは妻だけ。息子もバンド仲間も誰も知らなかった。妻や息子や周囲の人びとがかわるがわる語る形式の小説。息子は「親父は男ではなかった」と戸惑い、混乱する…。
死後アウティングされる。死後もなお男・女を行き来させられ、説明を求められ、過去をほじくり返され、暴かれる。「そういえば」これまでの生活でいろいろサインがあったなと「検証」され、あらゆる言葉で揶揄される。
おそらくは前フリ的なものだろうとは思いつつ、そういうシーンがきつくて読むのを中断していた。再チャレンジしてみてやはりきつかった。トランスジェンダーやノンバイナリー等当事者はちょっと注意が必要かもしれない。1998年の作品で、邦訳は2016年。作品の舞台も1997年。ちょっと古い。今だったらこういうふうには書かないかもという箇所もあった気がする。
ただ本作は悪意を持って書かれたものではないと思う。計算づくで書かれている。息子の暴言も、記者の下世話な野次馬根性も、ろくでもないものだと読者にわかるように書かれている。こういう人がこういう状況になったらこんなふうに考えるだろう、こういうひどい言動をやるだろうというのが書かれている。それはすごくわかる。わかるけれどもとてもきつい。わたしはフィクション慣れしている方だと思っているけど、読んでいてけっこう落ち込んだ。
死んだ人だからというのはあるかもしれないなと思った。本人は何も語れないのにあれこれほじくり返すのはフェアではない…これは物語の中の話だけでなく。不在の人物について周囲の人たちがかわるがわる語るみたいな物語はたくさんあり、「死後にトランスジェンダー男性だったとわかった」という話をその構造で書くとこうなるんだろうけど、現実で起きている「本人が言い返せない(言い返すすべをもたない)のに他人が勝手なことを言いまくる」というひどさを物語でもやるのは、このように書きたいのはなぜだろう? このように書かれるとおおぜいの人が読もうとするのはなぜだろう? みたいなことを考えた。
いやなぜだなんて問いはズレているとは思う。物語がどうしてそのように書かれているかは、効果をたくらんでというものでもない…。また、ろくでもない内心を小説が書けなくてどうするというのはほんとに思う。わたしもさっき近くのテーブルを覗き見したじゃないかと思う。それとこれとは関係ないかもだけど。だからこの小説がひどいとか有害だというわけではない。ただわたしとしては読んでいてきつかったという感想がある。ということ。また本作は実在の人物をモデルにしている。完全に埋没して生活していたミュージシャン。
長くなるのでまた改めて書くけど、本作はめちゃめちゃきついシーンはありつつ、彼がなぜトランスジェンダーなのかについては語らないのがとてもよかった。周囲の人間がいくらほじくり返しても、内心で悪態をついても、本人の内心には至れない。そこが本作の肝だと思った。
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warehouse-fujiki · 4 months
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GREENEBAUM BROTHERS
2024 年、ウエアハウス秘蔵のアーカイブがついにベールをぬいだ。1874 年にパテントが登録されたグリーンバウムブラザーズである。
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パテント取得から 150 年という極めて古いこのブランドは、 ワークウエアの黎明期に西海岸にあったその他のブランドとは一線を画している。デニム生地から縫製の仕様、ディテールまで、リーバイスの「5ポケット」とは似て非なるものであるのだ。
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 その理由を知るためにはグリーンバウムブラザーズのプロフィールを知る必要がある。
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1848 年、ドイツでは革命が鎮圧され、行き場を失った自由主義的な 人たちの一部がアメリカに移住した。彼らのようなドイツ系移民を 1848 年革命にひっかけて「48ers」 (フォーティ・エイターズ)と呼ぶが、 彼らはもともとドイツ人入植者の多 かった地域に多くが移住し、やがてそれぞれの都市の中流住民になった。このような激動の時代に、ドイツ移民のユダヤ人であるグリーンバウム一家も「約束の地」を目指したのである。
 ドイツのミュンヒヴァイラー(当時はカイザースラウテルン)に住んでいたグリーンバウム一家は、まずミシシッピ、フィラデルフィアを経てシカゴに行き、乾物や衣料品、靴 作りに携わった。シカゴの荒涼とした開拓時代に短期間滞在した後、末っ子のハンナとサラの 2 人の女 の子はフィラデルフィアで、一家の友人であったマーカスとベラ・カウフマン夫妻のもとで育てられることになった。 
そして 1949 年。西部での金鉱発見に端を発した熱狂は、グリーンバウム兄弟を奮い立たせ、一攫千金を求める数千人の仲間入りをさせたが、彼らは慎重に「商人」としてのキャリアを続けることを決意した。兄弟のうち、ハーマン・グリーンバウムはサンノゼで商店を開けたのち、サクラメントへ。彼と彼の兄弟モーゼス、ジェイコブ、アブラハムはサクラメントで企業家として成功した。サクラメントの名簿には 「国内衣料品の輸入・販売業者」として登録されているが、これが「GREENEBAUM BOROTHERS」である。
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数年間、グリーンバウムの兄弟のビジネスはサクラメントで順当に推移したが、妹のサラはルイス・スロスの花嫁として 1855 年にサクラメントに到着し、ハンナはルイス・ガースルと結婚して 1858 年に到着した。グリーンバウムにとって義理の弟となる「スロースとガースル」は、のちにアラスカ商業会社を設立し大成功を遂げる。 
そして、ハーマン、ジェイコブ、モーゼスのグリーンバウム兄弟は サンフランシスコとニューヨークに移り住み、乾物、衣料品、男性用家具、後には��布やタオルなどを中心に事業を拡張している。 
生地や素材は輸入したものを東海岸につけ、そこで縫製されたものがサクラメントに届けられ、流通させたと考えられる。 
1868 年、ロシアからアラスカが割譲されると、すぐにスロスとガースルら は Alaska Commercial Company (アラスカ商業会社)を設立した。 そして 1870 年にはアザラシを捕獲する 20 年間の租借権を獲得した。 
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アラスカ商業会社は、アラスカの田舎の人々に食品や雑貨を提供した最初の「小 売店」であり、長い伝統を 150 年にわたり培っている。1868 年から 特に 1900 年 代初頭のアラスカのゴールドラッシュの時代には、わな猟師、探検家、金の探求 者に食料品や衣料雑貨を提供した。グリーンバウムブラザーズにとって義理の兄 弟となるルイスとスロースの「アラスカ商業会社」には、彼らの多くの衣料が卸売 されていたことが想像できる。 
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リベットの特許が取得されたのは 1873 年、その一年後に、グリーンバウム兄弟は奇想天外なアイデアで 労動着のストレスがかかる箇所を「外装」した。「サージ·ド·ニーム」のようなヨーロッパから来る資材を入手 し、東海岸でそれを縫い上げ、船と鉄道を駆使してサンフランシスコまで届けた。 それ故に、当時西海岸に存在したライバルメーカーとは、デニムから縫製に至るまでが全く違うのだ。 
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特徴のひとつは、コインポケットが付いていないこと。1880 年 11 月 13 日に配布されたウェストバージニア州の新聞「ニュードミニオン紙」には「Leather Bounded Overall 」(革で外装されたオーバーオール)という記載がある。 既に東海岸でも紳士用品店にこのメーカ ーのパンツの広告が見られるのだ。
北は アラスカ、そして東海岸へと、早くから販売網を広げることができたグリーネバウムブラザーズのワークウエア。 
奇跡的にそろったシャツ、ブラウス、ウエストオーバーオールが、長い時を経てウエアハウスの手で蘇る。
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castatratewriter520 · 11 months
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出門泡湯卻成了閹人
第五章 阿基努
我的天阿,林燁的陰莖竟然直接被倒入醫療廢棄物,難道我的大雞巴也會被當作垃圾一樣直接倒掉嗎,我覺得我的下體瞬間抽痛了一下,我緊抓著我的下體,深怕現在就消失了。
我的名字叫阿基努,家住在臺東祥瀧部落,我是部落酋長的第三子,家中還有兩位哥哥跟一個妹妹,原本在部落生活無憂無慮,也打算與未婚妻走入婚姻,直到有一天,我和我的未婚妻喝了很多酒,決定在當晚結束兩人的處子之身,於是我們2個人都沒有回到各自的家,簡單的找了一家民宿就入住了,剛開始一切都是這麼的順利,正當我們打得火熱的時候,我將內褲脫下時我的未婚妻看到了我那兩顆猶如柳丁一樣大小的睪丸,我的未婚妻瞬間清醒,她驚恐的問我那是什麼東西,也太噁心了吧,我當時回答了她,這不就是男人的睪丸而已嗎,我的未婚妻回答我 ,就算我從來沒有跟男人發生過關係,至少我也在網路上看過不少A片,我知道男人的睪丸是什麼樣子,但是你的也太過病態了吧,你確定你的睪丸沒有生病嗎,我當時立即反駁,我在婚前檢查的時候,醫生就看過了我的睪丸,特別檢查了一下,發現只是很大而已,並沒有說有任何問題呀,我的睪丸就是長這麼大啊,難道你要我割了他們不成,我的未婚妻依然得理不饒人的繼續吵鬧,她怒氣沖沖地說,只要我繼續擁有這兩顆可怕的睪丸,這婚也別結了,我當下理智線也斷了,我告訴她,好哇這樣我連我的陰莖也一起割掉算了,反正連睪丸都沒了留著陰莖有什麼用,我的未婚妻指著我說,這可是你自己親口答應了,當晚2個人就這樣不歡而散。
原先,我並沒有在意那晚的爭吵,想說隔個2天再去道歉好了,誰知道這件事情她竟然告訴了她的好閨蜜,而她的閨蜜也將這些事情告訴了她的男友,她的男友也是跟我一起從小長大的好朋友,我原本想,或許只有男人才能了解男人,於是我告訴他我有兩顆像柳丁一樣大的睪丸,我的好朋友不相信,於是我脫下褲子給他看,怎知道這竟是惡夢的開始,不久後全村的人開始嘲笑我羞辱我,甚至說我是種豬,我實在是受不了這樣的羞辱,決定遠離部落,大約過了兩個月,我的未婚妻突然聯繫上我,我念在八年多的情份上,我跟她約在台中車站碰面,見面時內心的疙瘩依然存在,不過我還是決定聽聽她想跟我說什麼,不知不覺間,兩個人相談甚歡,彷彿回到從前那般美好的時光,直到她說,你當時說願意為了我割掉那兩顆噁心的東西,這件事還算數嗎,我瞬間又垮下了臉,此時我的未婚妻開始委屈了起來,說出為什麼他對於大的蛋蛋如此的反感,我才知道原來他的父親跟我一樣擁有非常大顆的蛋蛋,經常欲求不滿,她媽為了滿足他的需求,各種奇怪的要求都得忍耐,但是他媽終究在生她第7個妹妹時最後難產過世了,而她���對她媽的死絲毫不覺得難過,才隔沒多久就帶了一個年輕的後媽回家,導致現在只要看到她父親,就充滿了怨恨。我的未婚妻也說,她也知道這樣對我不公平,她並不想離開我,但是我的蛋就是會讓她想到過去的噩夢,我心軟了,於是我告訴她,我願意為了她割掉自己的蛋蛋,如果做愛會讓妳想起過去,那我陰莖也不要了,只要跟妳在一起就好,我握著未婚妻的手,我告訴她我決定要去面試天眼集團,只要面試成功,我們就不用再擔心經濟問題了,而且還能解決我們現在面臨的問題,小孩只要去領養就好了,未婚妻很高興的點頭,她會先回去部落,等著我回去娶她為妻。
如今我總算能實現我對她的承諾,我走上了手術台,醫生開始進行身份核對,我回答到,我叫阿基努,今年27歲,身高170公分、體重65公斤,沒有特殊疾病,醫生說,待會的手術會割掉你的陰莖跟睪丸,有沒有問題,我回答沒有,醫生便開始進行外觀檢查,戴上白色乳膠手套,檢查了一下陰莖,並將馬眼掰開,檢查有沒有發炎問題,並用雙手捧著巨蛋,檢查結束後便要我在表格上簽名,當收去同意書後,醫生要我躺上手術台,雙腿打開讓生殖器自然下垂,副手醫生一樣照著上一位的方式做好記號,開始進行量測,我勃起有18公分長圓周16公分,蛋蛋經過量測長8公分圓周19公分約190克重,真的跟柳丁差不多,醫生開始替我進行麻醉注射,等待約兩分鐘,醫生開始在陰囊下刀,隨著陰囊切了下來,如柳丁大的睪丸也隨之掉了出來,沒了陰囊的撐扶,兩顆重達190克的睪丸迅速下墜,我感覺非常大力的拉扯感,腹部覺得很不舒服,主刀醫生迅速抓起一顆睪丸,副手醫生迅速用止血鉗夾著精索,接著快速進行血管結紮,深怕睪丸太重我會受不了拉扯,醫生也沒有多浪費時間,很快的第一顆柳丁睪脫離了,醫生將睪丸遞給我,我看著手上這一直造成我困擾的蛋蛋,心想我總算解決麻煩了,一顆重達190克的白色肉丸,我將睪丸還給醫生,醫生直接放回玻璃瓶中,正當我看著手上的睪丸,醫生已經割下第二顆蛋,醫生毫無憐憫的直接將睪丸丟入玻璃瓶中,好歹我也是這兩顆蛋的主人,怎麼可以這樣用丟的,又不是網球,不過比起生氣,我更開心終於完成切蛋了,我的未婚妻還在等我回去,緊接著就是我的陰莖了,醫生開始進行新尿口製作,不過才花了10分鐘就製作完成,副手將我的陰莖拉直,醫生開始對我的陰莖下刀,怕出現餘根,醫生割的很深很徹底,我看到底下剩一洞在那,我終於完成閹割,醫生將我的皮膚縫合後,立刻噴上藥劑,完全沒有感覺到什麼疼痛,我已經可以活蹦亂跳的走動了,少了將近0.5公斤的重量,滿心期待的想,不知道未婚妻看到全新的我會有什麼表情,我對醫生表達感謝,我泛淚的鞠躬感謝醫生跟總裁。
看著阿基努這麼開心的樣子,難道被閹割有這麼開心嗎,阿基努開心的走向我,似乎想來跟我說些什麼,阿基努直接跟我說,謝淵,我知道你並不想被閹掉,不過,當我看到你看著我閹掉的蛋蛋放入玻璃瓶中的樣子,竟然會感到興奮,其實你是能接受被閹掉的,只是你不知道而已,相信我,你絕對不會後悔的,至少我現在真的很開心,我非常喜歡我現在的樣子。總裁看到我勃起的大屌,笑著說,瞧你還沒閹就這麼興奮,等下開始閹了怎麼辦,我也只是尷尬的笑著,但我的雞巴實在是硬到受不了,總裁握起我的陰莖說到,我賦予你們權勢地位,但是我最不能接受我的部下有著跟我差不多大的雞巴,所以你們不可能留住的,我看著總裁又看向了阿基努光滑的下體,原來打從一開始就不可能只切一部分,那個不過是苟延殘喘的掙扎而已。
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foucault · 5 months
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今日は店は休みです。久しぶりに奈良に来ています。本籍を奈良に置く身としては、故郷へ戻る嬉しさです。仕事があるとはいえ、合間に興福寺で八部衆の御顔でも拝めるとなおなお嬉しいところですが。
そういえば、本日2023年12月12日はちょうど小津生誕120年、没後60年。小津で奈良、といえば『麦秋』の最後、ふっと差し込まれる麦畑の中をゆく嫁入り風景のシーンですが、あれ、どこなんでしょうか。後ろに耳成山のような山が見えるので、橿原のどこかかな。
ついでの話。このごろ書きものの仕事が多くて、頼まれもの以外の文章なぞつらつら書いている場合ではないのですが、小津についてふと気になってしまったことがあり、書いておかないと本来の仕事ができなさそうなので、合間合間に記していた雑文をここに置いておきます。長いですし、結論はないし、ほとんどの方が興味のない内容かと思いますが…。
ちょっとした調べものがあって雑誌『みすず』2001年12月号を読んでいたら、木村伊兵衛が小津安二郎を撮影した写真と文章「上海で小津安二郎氏をうつす」が掲載されていた。時期は1938年1月なので第二次上海事変の翌年。小津は1937年9月に出征して中国に渡り、事変の直後12月から上海にいたようで、その時に偶然木村と出会っている(その後小津は南京・漢口と転戦する)。写っている小津が携えているカメラは、木村の稿に続いて掲載されている田中眞澄氏の文章「ライカという”近代”」によればライカA型。小津関係の文章を読むと、小津は「ご愛用のライカ」をいつも手にしていたと多くの人が書いているので(同文によると山中貞雄はコンタックスだったらしい)さもありなんと思うのだけれど、田中氏の文章を読んでいくなかで、ちょっとしたことが気になるようになった。
小津は1942年から軍の依頼で記録映画撮影のためにシンガポールに滞在し、ただまあ映画製作などできる状況でもないため、自国内では上映が禁止されていたアメリカ映画をひたすら見続け、敗戦を当地で迎えている。そしてそのまま捕虜となり、抑留生活を終え1946年1月に帰国する際に小津はライカを手放しており、「彼が再びライカを所有するのは一九五四年のことである」とある。買った件の典拠はどこにあるんだっけ、と思いつつ近所の図書館に置いてある『全日記 小津安二郎』を紐解くと、なるほど1954年3月22日の項に、
> 「出京 サンにてライカを買ふ 135.000 アメリカン フアマシー 明治屋(燻製)によつて帰る」
とある。と、ここで急に話は脇道に逸れるのだが、ちなみに隣のページ、同年4月8日の項には、
> 「駒場の東大教養学部 民芸館 青山の花屋 それから 車にて銀座に出て なごやかに夕餐を喫す 野田夫妻と江原氏同道」
と日本民藝館に行った旨の記載がある。他にも、1951年11月10日に
> 「宿酔 森昌子さん達と 陶哉 たくみに寄って大船に帰る」
や、1955年5月17日には
> 「駅にて野田氏と待合せ 上野松坂屋の民芸展にゆく」
とも。ほか、パッと目を通しただけでも1952年4月8日、同年6月15日、1953年2月9日、1961年2月2日に銀座たくみに行った記載があるし、志賀直哉や里見弴についての言及は多すぎるので略す。こういうものを読むとつくづく民藝誌において特集「小津と工藝」を組みたいなと思う。白樺派との関係や小津の映画における「巧藝品考撰」について取り上げる特集。『秋日和』で原節子の後ろにかかっている暖簾は芹沢銈介だろうか、『秋刀魚の味』で中村伸郎の後ろに置かれたやちむん?はたくみで求めたものなのだろうか、やちむんであれば誰の仕事だろうか。佐田啓二と吉田輝雄がとんかつ屋で食事をするシーンには確かに芹沢カレンダーが掛かってるな、などといつも気になるので。松竹から写真借りるといくらぐらいかかるかな…。
それはさておき。この時購入したライカが、前掲日記の1961年3月23日の項に「夕方会社帰りの秀行くる ライカ借(貸)してやる」とある通り、のちに小津の甥が譲り受け、現在は茅野駅前「小津安二郎・野田高梧コーナー」に寄贈展示されているライカIIIfとズマリット5cmF1.5なのだろう。と、ここまで長々と記して、まだ前提です。
そこでふと思い出したのが厚田��春・蓮實重彦著『小津安二郎物語』(筑摩書房・リュミエール叢書)の冒頭。ここには小津が『東京物語』と『早春』のロケハンをしている写真が2葉掲載されているのだけれど、どちらにおいても小津はバルナック型のカメラを携え、光学ファインダーをのぞいたりしている。沈胴レンズにフードをつけている様子から、あれはライカなんだろう、レンズは厚田雄春が『父ありき』において75mmを一場面で使った以外はすべて50mmだったと言っているぐらいだから同径のエルマーやズマール、ズミタールとかかな、などとうっかり思い過ごしていた。むろん『早春』については、製作年やロケハンの写真に記載されている「1955.7.20」という日付からするとまったく問題はない。しかし『東京物語』は1953年製作公開だから「再びライカを所有した」1954年では間に合わない。そう気がついて見直すと、小津が構えているカメラは、ライカIII型に似ているがファインダーの位置が違うし、そもそも1954年にあわせて手に入れたと思しきズマリットは沈胴レンズではない。
妙なことに気がついてしまったと思いつつも、ひとまずは日記記載の「サン」を手始めに調べてみようとしたが、何の会社かわからない。名取洋之助が企画編集した「週刊サンニュース」と関係はあるのだろうか。対外宣伝誌の専門家であり、銀座に店を構える森岡さんに聞いたらわかるだろうか。いずれにせよ1949年以降の小津の日記に「サン」が登場するのは、「1951年1月17日・3月21日・4月24日・11月10日、1952年4月17日、1953年6月16日、1954年3月22日(前述のライカを買った日)・10月14日、1955年4月6日、1960年7月14日、1961年2月2日(”たくみ サンに寄って三越”)」。1953年6月16日は、ちょうど『東京物語』ロケの最中だったことが気に掛かる。ほか、関係しそうな記載としては1953年3月30日に「アサヒカメラ座談会」、1954年11月5日の「シュミットに寄ってから」(当時ライカの総代理店だったシュミット商会か)、1955年2月15日「昼寝をしてゐると小尾がくる ニッコールの85m(ママ)のレンズを頼む 四万五千円を預ける」、同年3月11日「小尾に会ひ105mmのレンズを見る」、同年6月27日「小尾から電話ライカピッド(ママ。入手したライカがIIIfであれば、ライカビット SYOOMか)を頼む」ぐらいか。この「小尾」という人は何者なんだろう。
次に小津が構えているカメラの形状から何かわからないかと思い、あらためて細部を見れば、写っているカメラは戦後キヤノンが作っていたコピーライカであることがわかる。決め手はファインダーの位置。同時期の国産コピーライカであるニッカやレオタックスはライカそっくりに作っているのだが、キヤノンは誠実と言っていいのか「打倒ライカとコンタックス」の心意気の現れか、多少スタイルが違う。なお、小津が用いている機種については、この時期のレンジファインダー機は輸出用に作っていたせいか勢いがあり、すぐ新型が出るうえに、外観がどれも似すぎていて小さな写真では区別がつかない。時期を考えれば、1946年発売のSIIから1952年のIVSbの間のいずれかで、III型以降のように見受けられる。レンズもやはり形状から判断するとズマールに似ているので、1949年発売開始のキヤノン Serenar 50mmF1.9か。そう気づいて改めて調べると、「カメラ毎日」1954年6月号に掲載されている座談会「カラーは天どん 白黒はお茶漬の味」ではカメラの話がもっぱらで、その時に手にしているのはキヤノンである。このキヤノンのカメラとレンズ、そして外付けのファインダー、この時期どういう経緯で小津は使っていたのだろう。いずれにせよ、1953年の『早春』はともかく、なぜ1955年に「ご愛用のライカ」ではなく、キヤノンを用いているのか。
ついでに言うと、小津が鏡の前でカメラを向けて撮っているセルフポートレートに用いているカメラはコンタックス。日記をざっと読んだ限りではわからないけれど、これもいつ手に入れたのだろう。レンズはゾナーの5cmF1.5。明るいレンズがお好みと見える。こちらは姪が譲り受けたとのことで、今は先のライカと同じく茅野駅前にある。
長々と書いてきましたが、つまりはこれらが今回生じた疑問です。小津に詳しい人、どうか教えてください。
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gradyamstrup94 · 6 months
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如何加強韌帶和肌腱關節疼痛
商品也有,不過店名正是這樣的 他在賣貧窮。 這種獨特的形狀還可以控制切割的角度、深度、方向和直線度。 顯示器校準不一樣,影像中顯示的商品顏色可能與實物略有不同。 產生神經肌肉回饋並促進肌肉和肌腱更強的放電。 按一下此處重新傳送確認電子郵件。 提出問題的用戶會忽略它。 Nana 是一位韓國流行歌手 他很高興現在他可以經常 他打開一扇貼著壁紙的小門讓她進來 「我在城裡遇到了一位尊貴的紳士,他攔住了我, 「是的,」德馬克太太說,語氣裡充滿了深深的、近乎仇恨的痛苦。 台北整復 當談到你可憐的母親時,你會很在乎。 不是為了出租 你想羞辱自己,但你的鞋子在哪裡買的? 他和領袖能對年輕人說些什麼? 進入工作崗位後,烏雷曼和他的同齡人一樣,首先學習了日語。 當時,日本列島的真正主宰是江戶幕府的創始人德川禮康。 大約在這個時候,日本的基督教團體已經有75萬信徒。 馬既可以躺著睡覺,也可以站著睡覺。 由於在野外度過的時間,它們也能睡得很淺,時時刻刻警惕掠食者。 他們能夠在更短的時間內滿足全部睡眠需求。 總時間差異很大,但家馬的平均每日睡眠需求為 2.9 小時。 馬是一種哺乳動物,其繁殖可以透過自然或人工交配進行。 種馬可以持續生育,而母馬只有所謂的生育能力。 它們可以在泥漿期成功受精,大約需要 10 分鐘。 持續3-10天。 他甚至發出嘶嘶聲並咬緊牙關——如果只是為了德門迪 他還有一絲理智,他能看到他的妻子在他懷裡 現在他感受到了巢穴中那些不情願的人十倍的痛苦 他在愛情中遭受了很多痛苦。 “您非常敏感,先生,對此我深感抱歉。 在遠處的角落,有壁紙門 封閉的單窗小木屋,一看家具就滿滿的 它是由棕櫚製成的。 巨大的蕨類植物,窄葉的鳳凰棕櫚, 每個角落、每張椅子都有堅硬的劍形部分 如果一個人有一雙銳利的眼睛,那麼他幾乎是一個頑皮的人 您還可以發現一架小鋼琴,但在棕櫚樹環境中得意洋洋 是由在單一窗口前沉思的意大利巨人觸發的
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我很累,但也許明天我可以跟他一起去。 德門丁夫人再次低下頭,陷入沉思的悲傷之中 老甜心說,但他只是搖了搖頭,一切都結束了 他向德蒙迪伸出手,德蒙迪將手舉到唇邊。 他吃了一驚,向她俯身。 德門丁夫人沒有反對。 當她的主人按下火熱的吻時,她看著他 在他的嘴唇上。 「那就更好了,」他嘆了口氣,「如果他的愛情也能痊癒的話, 那麼它仍然可以是某種東西。 她補充道,甚至可能是一位伯爵夫人 切成半拳頭或稍小的塊狀。 將醃料放入碗中充分混合,然後將肉塊攪拌均勻。 將其放入冰箱中,蓋上保鮮膜,直到烘烤當天。 烘烤當天,將洋蔥切成半環,將辣椒切成條,將櫛瓜和番茄切成環。 這時,我們把火調大,當它變得多汁時,我們將其粗略地煮沸。 我現在是誰,他問道,剛開口, 天使的眼睛刺痛,沒有等待答案。 拉它,你的眼睛會告訴你,有足夠的緊急煞車。 你的良心只會以你父親的聲音說話。 有一天向貓咪們解釋會很高興, 這裡曾經發生過什麼事。 “我是說,我說的是哪裡? ”畢竟現在是晚上了,這個房間也是你的了。 隨你喜歡吧,米克洛斯。 如果你現在需要我,請不要 認為我累了,我只是這麼說的。 「他是一位好老師,」奧爾加低著頭低聲說。 他靠在德蒙迪身上,兩滴淚水湧入眼眶。 「你的彈奏已經達到了精湛的境界,」德門迪脫口而出 用嘴唇——不過沒關係,只要它適合你,我就會忍受。 「我不會容忍這種事,」德門迪對自己說,但仍然 繼續他的旅程。 在塞爾維塔廣場,一扇門下,masamo 和 有個攝影師的櫥窗,他不假思索地轉頭看了一眼 照片,在他的想像中,他機械地嘗試自己 帽子,然後返回 Koronahercec-utca。 試圖去咖啡館的年輕人和小煙鬥深深地 他們看著他的眼睛,然後猶豫地轉向他。 從低矮的大門 僕人們出現了,打著白領帶,衣衫襤褸,喝得酩酊大醉。 他就倒下了,我也倒下了,他說 他扣上襯衫,拉緊拉鍊。 我會再花很長時間 當你解開鞋帶時 隨後,他連忙踢掉了腳底。 如果他沿著鐵砧路行走,他會坐著不碰湯碗, 就像現在在生鏽的街道上一樣。 顯然,兩者都沒有任何關係 然而生命歷程的方向卻發生了變化,情感和思想, 美德和惡習在這裡成熟,正是在這裡,正是因為 立鏡和一些破舊的紅色天鵝絨扶手椅 他試圖賦予房間一種宏偉的感覺,但徒勞無功。 破裂的框架和未清洗的窗戶玻璃,沒有窗簾, 骯髒的牆壁和地板上的垃圾使它成為一個草率的家 這個接待沙龍。 “噢,親愛的小姐,”布魯姆先生若有所思地微笑著說道,“我願意。 我確信他沒有忘記我們。 偌大的店裡只有兩個鄉村婦女,最寬的一家。 在角落裡,目光低垂,表情陰鬱,嚴肅地等待著 他們聆聽服務助理的雄辯解說。 他們不知道什麼 他們喜歡,我們不喜歡,他們只是決心不這麼做
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ari0921 · 2 months
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桜の季節を迎えました。
今週は、私がTBS系テレビドラマ「VIVANT(ヴィヴァン)」の放映で注目された陸上自衛隊の秘密情報部隊「別班べっぱん」について、ダイレクト出版のビデオ講座で〝証言〟したものをご紹介します。
下記は、ダイレクト出版のPRですが、ご覧頂ければ幸甚です。
 連載中の「金王朝の歴史」は、「金正日による日本人拉致」のうち、「日朝首脳会談」について書きました。
 近日中に五島列島・宇久島をモデルに「故郷の防衛戦略」というビデオ講座を発売します。乞うご期待!!
//////編集部からのお知らせ//////
「皆さん、私が嘘を言っていると思いますか?
“コレ“が嘘であればいいですね。」
自衛隊元陸将・福山隆先生が
不敵な笑みを浮かべながらそう話した時、
スタジオは静まり返っていました…。
というより、“先生の話す
「あまりに現実離れしたストーリー」に、
その場の全員が飲まれていた“と
言った方が正しいかも知れません…
先生の口から語られたのは…
誰も知らなかった日本人スパイの裏面史…
私たち日本人が知らなければならない…
自衛隊のもう一つの姿でした…
=====
From 福山隆
「ミサイル発射や
核開発を進める北朝鮮。
日朝関係は、常に緊迫した状態だ。
正しい状況判断をするための手立ては
『金王朝の歴史』を熟読することである」
金王朝の歴史(50)
金正日による日本人拉致(4)日朝首脳会談
今から20年以上も前、
時の総理の小泉純一郎と
北朝鮮の金正日が
初めて対面する
「日朝首脳会談」が行われ、
拉致被害者5人の帰国が実現した。
北朝鮮はその後、
金正日に引き続き
後継者の正恩も
核ミサイル開発に狂奔し、
世界の中では孤立化の道を
突き進んでおり、
日朝の対話も進展が見られない。
残念なことに、
今も12人の拉致被害者は
帰国できないままである。
〇 第一回日朝首脳会談
2002年9月17日、
小泉純一郎首相(当時)が
北朝鮮の平壌を訪問し、
金正日と会談した(日朝首脳会談)。
金正日は、その席で、
日本人13人を拉致したことを認め、
「遺憾なことであり
率直におわびしたい。
私が承知してからは、
関係者は処分された」と
口頭で謝罪した。
また、犯人については、
「特殊機関の一部の盲動主義者らが、
英雄主義に走って
このような行為を
行ってきたと考えている」とし、
関係者はすべて
処罰したと述べた。
金正日の
「特殊機関の一部の盲動主義者らが、
英雄主義に走って
このような行為を行ってきた」
という言い訳は、
明らかに嘘である。
金正日自らが首謀し、
指揮を執ったのである。
「嘘と誤魔化し」は、
彼らの本性とさえ言える。
この際、日本側が
安否確認をしたことに対して、
北朝鮮側は地村保志さん、
浜本富貴恵さん、蓮池薫さん、
奥土祐木子さんの4人の
「生存」を明らかにし、
横田めぐみさん、田口八重子さん、
市川修一さん、増元るみ子さん、原敕晁さん、
松木薫さん、石岡亨さん、有本恵子さんの
8人を「死亡」と発表した。
更に、日本側も
把握していなかった
曽我ひとみさんの拉致・生存と、
横田めぐみさんの娘の生存も
明らかにした。
久米裕さん、曽我ミヨシさんについては
入国自体を確認できないとした。
北朝鮮側は「死亡」したとされる
8人に関する「死亡診断書」などの
情報を提出したが、
これらはすべて
捏造であったことを
日朝実務者協議
(2004年11月)で認めた。
この首脳会談で、
「2国間の懸案を解決し、
国交正常化へ努力する」ことを記した
「日朝平壌宣言」を
発表した。
同宣言には
書かれていないが、
小泉首相は「拉致を認め
被害者を帰国させれば
100億ドルを払う」と
約束していたという
(元北朝鮮外交官・太永浩)。
日朝平壌宣言では
「国交正常化の後」、
「経済協力を実施」することと
なっているが、
日本政府は
「拉致問題の解決なくして
国交正常化はありえない」と
当然のスタンスを
維持している。
その後の交渉で、
北朝鮮が生存していると証言した
5人の拉致被害者については、
一時帰国を条件に
2002年10月15日に
帰国が実現した。
交渉は外務省アジア大洋州の
田中均局長(当時)と
“ミスターX"の間で行われた。
田中局長は
「生きている拉致被害者を
4人から5人程度出せばいい」と提案、
北朝鮮側が了承し、
5人の一時帰国が実現した。
こんな提案を行った
外務省の田中局長は、
実に薄っぺらで、いい加減で、
無責任極まりない人物と
言わざるを得ない。
こんな外交官が日本の外務省の
局長になるのであれば、
我が国の外交は寒心に耐えない。
日本政府は
世論や拉致被害者家族会の
要望などにより、
一時帰国した5人の被害者を
「北朝鮮へ帰す」ことを拒否し、
5人の家族の帰国も
要求する方針をとった。
このため、北朝鮮側は
「日本政府に対し約束違反だ」と
主張した。
このような北朝鮮政府の抗議により、
その後の交渉は、
北朝鮮政府が
「日程を決めない」
などした為に中断した。
第一回日朝首脳会談で、
金正日が、
一連の拉致事案や工作船事案を
認めて謝罪した事で、
拉致を巡る世論は一変した。
マスメディアは連日、
日本人拉致問題を報道して
北朝鮮を激しく糾弾し、
国民の多くは
北朝鮮に対する制裁を
強く訴えるようになった。
韓国の東亜日報は、
当時の日本国民の激怒の有様を
「憤怒」と報じた。
報道の世界における
「タブー」として有名であった
北朝鮮の呼称方法
――「朝鮮民主主義人民共和国」――が
一斉にマスメディアから姿を消し、
単純に「北朝鮮」と
呼ぶ様になった。
日本人拉致問題を
「でっちあげ」と言い続けてきた
朝鮮総聯は、
本国から梯子を
外された格好となった。
朝鮮総聯は、
「拉致事件に怒りを覚えた
一部の日本人によって
チマチョゴリを着用した
女子生徒への嫌がらせ事件
(チマチョゴリ切り裂き事件)や
朝鮮学校生徒への暴言・
暴行がある」と主張したが、
日本の警察は、
それらの事件について、
「政治的背景はない」と
クールな判断を示した。
在日朝鮮人社会のショックは、
相当なものであった。
在日朝鮮人で
詩人の金時鐘は
「植民地統治を強いられた
被虐の正当性も、
これで吹っ飛んだ
気にすらなった」と嘆いた。
北朝鮮に対して、
比較的友好的な立場を採っていた
日本人の一部(左翼)は、
日本の世論の大転換を
目の当たりにして、
日本人拉致事件について
言及せざるを得ない状況に
追い込まれた。
日本人拉致事件を
「捏造・デッチ上げ」と
主張していた人々は、
事実認識の誤りを撤回して、
謝罪を迫られる状況に
追い込まれた。
〇 第二回日朝首脳会談
2004年5月22日、
小泉首相は2度目の
平壌訪問を果たし、
日朝首脳会談を行い、その帰途に、
蓮池・地村夫妻の子供たちを伴って、
祖国日本への帰還を叶えた。
また、曽我ひとみさんの場合は、
夫が脱走・亡命した
元アメリカ兵であるゆえ、
アメリカ軍による
軍法会議訴追の問題があるため、
北朝鮮政府側に執拗に
北京での面会を求めたが拒否され、
同年7月に
インドネシアのジャカルタで
家族と再会し、
その後、
日本に帰国を果たした。
〇 拉致被害者問題は解決が困難な重い課題――
一段と進む被害者家族の高齢化
北朝鮮が核ミサイル開発する中、
我が国は米国などと
制裁を課しているが、
これを解決する
決め手はない。
拉致被害者等は
令和の時代に至るも
全く進展していない。
拉致被害者等は、
事実上の「人質」であり、
日本国民・政府にとって
極めて重い課題として
今後も推移することだろう。
この20年余で、
政府が認定している
拉致被害者のうち、
安否が分かっていない
12人の親で、
子どもとの再会を果たせずに
亡くなった人は、
8人に上る。
このうち、市川修一さんの
父親の平さんは
2014年に99歳で亡くなった。
2020年には、有本恵子さんの
母親の嘉代子さんが94歳で、
横田めぐみさんの父親の
滋さんが87歳で死去するなど、
高齢化が進む中、
肉親との再会を果たせないまま
他界する親が相次いでいる。
健在な親は、
横田めぐみさんの母親の
早紀江さん(88)と
有本恵子さんの父親の
明弘さん(96)の
2人だけとなっている。
被害者のきょうだい世代も
高齢となり、
体の不調を訴える人が
多くなっていて、
2021年12月には、
被害者の家族会代表を
14年にわたって務めた
田口八重子さんの兄の
飯塚繁雄さんが83歳で死去した。
拉致問題は、今年、
最初の事件発生から47年、
北朝鮮による
拉致被害者家族連絡会が結成されて
27年が経過した。
家族は「親の世代が
被害者と抱き合うことなしに
拉致問題の解決はない」として、
政府に全力の
取り組みを求めている。
戦後の平和憲法・
憲法9条下の日本は、
外敵から国民の生命財産を
守れない体制にある。
一刻も早く、この
〝ハンディキャップ状況〟から
脱しなければならない。
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patsatshit · 6 months
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奈良県大和郡山在住、日々、育児と楽曲制作に励むmoanyuskyこと小野裕介(以下、小野ちん)に話を聞く。いまから遡ること6年、タラウマラの前身とも言えるサイクルショップすずめにphoneheadが小野ちんの1stアルバム『scapes album』を持って来てくれたことから、僕たちふたりの幻想との舞踏/武闘は幕を開けた。盆地から虚空へと放たれた金魚を追い求めるように、moanyuskyの奏でる楽曲は現(うつつ)と幻の狭間を漂う。2023年現在、phoneheadのレーベルpiano and forestから独立した彼は、自身のレーベル、その名もprivacyを立ち上げ、あまりに独特かつ、奇妙で愛らしい個性を確立しつつある。年内には新たな刺客を世に放つとの噂もあるが真相や如何に……。
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〔土井〕小野ちん、こんにちは。今回のインタビューでprivacyの主宰である貴方のプライバシーに少しでも迫っていけたらと思うので、よろしくお願いします。仕事に子育て、楽曲製作、レーベ��運営等々、多忙を極めているとは思うんやけど、プライベートは何をして過ごしているの?
〔小野〕土井さん。本当によろしくお願い致します。 光栄と言いますか(笑)。光貴さんの後でええのんと思ったりするわけですが(笑)。ここ最近は主たる仕事をメインにしています。 この形態が出来上がったのも結婚してからなので、13年前ぐらいです。 仕事は朝9時から始まって、家に帰るのは21時ぐらいです。 休憩は1時間30分。 この休憩時間が自分の製作時間です。 あとは会社と家までの通勤時間30分、計1時間。 最近は主に文章を書いています。 仕事をして、文章を書いてと言うのが日々のサイクルです。 privacyからのリリースが3作品控えていますので、その作品のライナーと初の小説のような作品���作っていて、その作品も少し加筆しています。 あと、毎日入院している息子に日記を書いて送っています。 休みの日は、朝7時に起きて、娘を学校まで送って行って、雨の日は妻が送ってくれるのですが、その後は家の家事を終わらせて、お昼までには息子が病気になってしまったので、入院している病院へ行って、夕方には娘が帰ってくるので、デイサービスみたいなところへ行っているのですが、そこからの帰りを待って、晩御飯を作って、子どもの寝かしつけをして、1日が終わります。 最近はあまりこのループは変わらないですが、息子の面会が終わったら、2時間ぐらい空く時もあるので、そのような時間を使って製作を手伝って下さっている、土井さんから紹介してもらった、マノ製作所へ行ったり、タラウマラへ行ったりしていますね。
〔土井〕晴信が入院することを最初に聞いたときはほんまにショックやってんけど、それを直接自分に伝えてくれた小野ちんは毅然としているというか、良い意味でいつもと変わらへん飄々とした口調やったから僕もギリギリ平静を保てたと思う。もちろん心中穏やかでないのは察しがつくものの、同様に息子を持つ身としては素直に感心した。小野ちんは強いなぁって。 最近は文章を書いているということやけど、僕は小野ちんの際限なく溢れる思弁的な文章に対してある種の畏怖を抱いてる。一本の幹から四方八方に枝葉が分かれていく軌跡を目の当たりにしているようで、少しでもテキストを書くという行為に身を投じたことがある人は嫉妬すると思うで。小島信夫やカフカと同じCPUが内蔵されてるんちゃうかって(笑)。こないだのインタビューで光貴くんからも指摘されたように僕は生活も文章もシークエンスありきやから。いつまでもひとつのテーマについて考え続けたり、書き続けることがほんまにできへん。自分のやってること、書いてることにすぐに飽きてしまうねん。小野ちんや光貴くんはずっと「それ」を抱え続けることで熟成させるやん。まぁ、ときには「はよ手放せよ」と思わなくもないけど(笑)。書いている本人としては、書き始めたときにはある程度のゴールを見据えてるの?それともまったくの白紙状態?
〔小野〕土井さんと晴信の関係には深いものを感じています(笑)。晴信の文章作品も土井さんの表現の場(FACETIME vol.2参照)に投下してくれたし、これまで色々漫画なんかも頂いてますし、本当に感謝してます。 晴信も土井さんのところへ行ったと日記に書くと、やきもちを焼くぐらいで(笑)。晴信は人に恵まれていて、それは自分もそうで、そこは受け継いでくれていると信じています。 変な話しやけど、病気の事があって、より息子の事がわかったんです。 晴信もこれを乗り越えれたら、安泰だと思っています。 彼の中でも全ての価値が変わりましたし、当たり前にあった事がこれほどに特別だったのかと彼が1番に身に染みていると思っています。 私は全然強くないんですね。 弱々しいけど、人に頼って助けてもらおうと若い時は何度もしましたが、まるで助からなかったんで、自分でやらなあかんなと今は思ってます。 自分の人生において実験して、これが良いのかもと思った形態を生活に落とし込んでいまやっているのですけど、それでもうまくいかない事は多いですが、でも前よりは少しだけうまく世の中で生きていけていると思う瞬間があるのですが、その瞬間を感じれると、それもまた幻想になっていって、ずっとこの連続が続いていくのだろうなと、いまは思っています。 そうは言ってもこの歳になってもやっていない事など山ほどあるのですが(笑)。自分にとって表現は、これは断言出来ますけど、「逃避」なんで、生活とは別なんですね。 だから本当の言葉でもなんでも無いと言うとまた難しいのですが、ある種、根源的な(人が生きるためにごく自然とやっている本当の事)事とは違った事でもあるし、本当の事でもあるわけです。 表現が難しいのですが。 離れれば離れるほど、幻想に近づくと言いますか、音楽となるわけです。 だからそれは自分にとって実感を感じられるのは実生活なので、音楽や表現で得ている感覚は明らかに偽物なのだけど、それは自分を投影していると思っているので、ややこしいのですが本当の事なんですね。 本当の事をやらなければならないと思いながらあれこれ「偽物」について探究しています(笑)。自分は結局のところ、好きなところも嫌いなところもずっと変わっていないのだと思います。 その執着が人より濃いのかなと。 手放すというか、自分やから、手放せない(笑)。なので、コード進行しかり、自分のやってる事は生まれてこの方変わっていませんし、同じことをやっていたとしても、その時の現状に全てを委ねれば、音なり文章なりは簡単に変貌すると思っています。 リスナーの延長上で全てやっているので、それを堪能すると言う事が1番に重要なので、それが同じ感じだったら、飽きてしまうんですけど、全然違って見えたり聴こえたりするものだから、飽きないんですね。 だから、今はこれはできないなぁとかは感覚的にですがあります。 自分達の時代や環境となってくると、どこにオリジナルがあるのかという探究がやっぱり重要で、死に物狂いで探さなあかんと思います。 やらなくて良いよとか、探さなくて良い、頑張らなくて良い、 世の中が最近言ってる事は信用なりませんからね(笑)。自分を開け渡してはならないといつも思っているので、出来るだけ、迷い込ませるようにギミックを仕掛けていきたいと考えています。 基本的に嘘ばかりですしね(笑)、得意技です。 文章を書き始めた時は全くの白紙です! ゴールも何もわからないので苦しんでます(笑)。音楽はある程度やってきているので、ここらへんで終わるとなる事がわかりますし、それが1つの音楽を決める重要な部分だと思っています。 でも文章は音楽に比べると特に本を読んでいないので、終わりが分からず、混乱と混沌の中から、いきなり終わりはやってくるんですね。 それがまた面白いのですけど。 だから普通に3年だったり5年同じ題材を書き続けてます。 今回の新作も10年前に書き始めた作品で、結局コロナ禍に入り、1年目に完結したのですが、5年ぐらいはストップしていて、また掘り返してきて、ほとんどのところを変える形で進んでいます。やっと終わりそうです。 他の人がどのように書いてるかわからないので、これでどうなのかな?といつも考えながら書いています。 しかしながら書き始めてわかったのが、出し尽くすのは5万字から10万字の間で、それが何年も経て2万字ぐらいに収まる感じです。短く終われる人に憧れますし、素直にすごいなぁと思ってしまいます。 良い音楽作品もトータルで50分も無い作品なんか多いですしね。 短く表現が出来る事が目標です。 自分の文章は思考しているところから余すところなく書いているので、多くなっているように感じます。アホなんですよ、多分(笑)。
〔土井〕アホて(笑)。いや、でもそういう感覚は確かに僕にもある。簡単に言えばコンプレックスなんやろうけど、ひとことでそう言ってしまいたくない自分もおって、だから未だに往生際悪くジタバタと文章を書き続けてる。でも読む人が読めばすぐに捲れると思う、あゝこいつ浅学菲才の輩やなって。ここで小難しい言い回しを使いたがるのもアホやからやで(笑)。だからと言って僕らは自分の人生を悔いている訳じゃないもんな。「自分なんて」と卑下する感じがいま一番いらんわ、おもろない。自分なんて、とウジウジしてる人の肩にそっと手を添えて「そのままで良いんだよ、あなたはあなたでしかないんだから、ともに歩んでいきましょう」という眼差しを向けるのがいまの世の風潮なんやろうけど、そんなん勝手にやっといてくれ、こちらを巻き込むなって本気で言いたい。それにしても10万字まで膨らませた思考の痕跡を2万字まで絞り込むという話はめちゃくちゃ興味深い。奇しくも僕も2万字という枠内で展開する物語が好きで、例えば小島信夫の「微笑」とか磯﨑憲一郎の「我が人生最悪の時」とかクライストの「チリの地震」とかカフカの「カルダ鉄道の思い出」とか、偉大な先達たちがどういう考えがあって2万字の物語を書いたのかはわからへんけど、僕の場合は最初から明確に2万字を見据えて書き始めるから。今年、自費出版した「ほんまのきもち」と「JAGUAR」も2万字。僕みたいに雑食的にとっ散らかった感じで音楽を聴いている人間にもTERRE THAEMLITZやMOODYMANNみたいなハウスミュージックのBPM120前後で刻まれる4つ打ちが一番気持ち良く感じる。それと同じように文章にも2万字の快楽というものが確実に存在する(笑)。僕は最初から2万字を意識してるけど、小野ちんの場合は始まりも終わりも定めず、ひたすらに頭の中にある考えを出し切って、更にそれらを時間で煮込んで絞り込んでいく。自称エッセイストにはなかなかできない執筆方法やで。小野ちんの自主レーベルprivacyの第一弾リリースとなった『同時再生の夢』に封入されていた訳のわからんテキストもだいぶユニークで面白かった。ところでレーベル名の由来を聞いてもいい?そもそもこのご時世にprivacyって(笑)。
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〔小野〕そうなんですね。2万字なんやぁ。それもよくわかっていなかったです、勉強になった(笑)。自分の人生めちゃ楽しいですね。 話していくと、しんどい事ばっかりですねって言われるけど、これって土井さんも世代やと思うんですが、松本人志の存在って大きいと思ってるんですね。 人生助けられたとすら思ってます。 それはダウンタウンが生み出した作品というより、世の中の松本的捉え方を刷り込んでくれたというところです。 苦しみの中で起こる不条理の中にある真の面白さを教えてもらったから、すべてそのように見てしまうんですね(笑)。これ冗談抜きで、腹立つというより、何やコイツ、みたいな(笑)。板尾もそこらへんに結構居ますしね。 そのままでいいんだよっていう、いまの感じね。 まるで生きるために使えない言葉やなぁと思います。 これは自分の考えやけど、そのままでええわけないと思います。 子供育ててたらわかりますよ。 成長してなかったら焦りますしね。 それは教養も身体的なところも、心の部分もすべてにおいて。 言葉ってたくさん当たり前のようにありますけど、その人の言葉として全然機能しない言葉が多いなあと思ったりしています。 だからこそ、そんな言葉は幻想に過ぎないので、あるべきだとは思いますが、拠り所にしたり、それを基礎に自分を構築するのは大丈夫かなと思ってしまいます。 自分の子供たちが大人になった時には何が本当なのかということは、いま以上にわからなくなってくると思ってますから、だからこそ「個」の考えを若��頃に養ってほしいというか、作る過程で得た価値というかね。そこで得た価値の方が断然大事で、作り出た物なんて実用性無いものばかりですからね(笑)。でもそういう「モノ」が現存しているというところの意味は大いにあると思っています。そこで得た経験をアイテムとして人生進んで欲しいと思うわけです。 最低限、世の中が言ってる事は全部嘘やろと思えるところまで。そのようなヒントを教えてくれる場所が文化圏であってほしいなぁと思うわけです。 なんでもそうやけど、もういらんとなってそこから外へ出るって言うのが人の始まりやと思ってますので、本を捨てて町へ出ようって昔の人たちも言ってますし。そこからは遠ざかった世の中となっているなと思います。 私は音楽から抜け出すところがまずは目標で、なかなかに抜け出せないので困ってます(笑)。40歳にもなって。『 同時再生の夢』では土井さんにお世話になりました、本当にありがとうございました。 頼んで良かったと思いました。 あの同時再生のテキストは3年ぐらいかな書いたんですけど、まだ文章を書くと言うことが浅かったので、「困惑」がそのまま文章になっているように思います。 だから、いま読んでも、思い出せない事も多くて、この前に久々読んだのですけど、よくわからんようになってて面白かったです。 じゃあ、これは誰が書いたんか?と言う事になるじゃないですか。自分やねんけど。それってほんまに?というようなループが生まれるわけで、それは音楽らしいと思うわけです。 privacyというレーベル名の由来は、子どもの名前をつけるように直感なのですが、音楽を通して、これまでの世の中を知っていく中で、やっぱり「群れ」で生きる生き物として、そこで生まれ出る大きな幻想に振り回されてきた聴衆の歴史のなかで生きてきた1人でもあった自分自身の事を考えた時に、群れとどう付き合っていくか、幻との付き合い方とはとか、距離の取り方と言うんですかね。「距離」や「尺」とかに近い位置からの言葉と言いますか。 そんな事を考えた時にこの「privacy」ってええなと思ったんですね。 あと誰も入ってこれへんやんみたいな(笑)。基本的に矛盾だらけの事だらけですが、そのなかでもこの言葉っておもろい位置にある言葉やなと思って、これや!と決めましたね。
〔土井〕ダウンタウンの影響は強烈にある。世の中は不条理で多元的なんやということを最初に教えてくれたのが松本人志やな。こないだもふたりのおばあが突然タラウマラにやってきて、僕の顔を見るなり「あらぁ、あんた立派に大きくなってからに、おばちゃんな、あんたのお父ちゃんに昔から世話になってたんや。あんたお父ちゃんの息子やなぁ?よう似てるわ。目元がそっくりやわ。お父ちゃんここでずっと自転車屋してたやろ?あんた、お父ちゃんから店を買い取ったんか?この自転車も30年前にここで買うたんやで!」とか言うてくるから全力で否定したら「タラのウマなんてけったいな名前の自転車屋がほかにあるかいな?一回聞いたら忘れへんわ。あんた、私のこと耄碌してると思うてんか?」言うてまったくこちらの話を聞き入れてくれへんかってんけど『ビジュアルバム』に収録されてたコント「診察室にて」のまんまやなぁ思うて、ひとりで笑いが止まらんかったわ。淡路という街はそんなことが頻繁に勃発するから好きやねん。自転車の空気を入れに来た半裸のオバハンがコンプレッサーのホースに絡まって「兄ちゃん、助けて」と言うてきたり(笑)。慌てて助けに行ったら首からロザリオぶら下げとって、キリストと同じ格好なっとるやんけ、みたいな(笑)。その数日後には近所のコンビニで万引きをして現行犯逮捕されていたり、とにかくめちゃくちゃやわ。やっぱり現実こそが不条理やし、不条理こそが人生やし、だからこそ面白い。松本人志という人はそれについて誰よりも意識的やった筈やのに、映画を撮るようになってからはファンタジーとしての不条理を描くようになってしまって何だかなぁという感じ。小野ちんの「幻とのつきあいかた」は傍で見ていてだいぶ面白いし、それをきちんと作品化してるのもすごいと思う。その一方で自分のことはぜんぜん客観視できてへんやん。女の子のタイプだってつい最近になってようやく把握してたもんなぁ、縄文ロリ(笑)。僕も奥さんから「自分のことが全然わかってない」って言われるけど、小野ちんも大概やで。はっきり言うて、あんたは究極の天然や(笑)!
〔小野〕土井さんの話もかなりまっちゃん的な話が多いなと思う(笑)。それをどう捉えるかというところが重要で、その目線で捉える方法論やと思っていて、松本人志は自分の町の話を題材にしてたからこそ、おもろかったんやと思うし、聴衆を意図的に動かすような事をやり出してから、どうにもこうにもやと思います。 やっぱり守るものなど無く、自分がおもろいと思うものをリミッター無くやっていた時代の松本人志が好きです。 この守るっていうのは、歳をとればある一定に守らなければならないものって出てくると思うんですけど、特に思うのが音楽界隈の人たちはあえて作って重くなっている感じがあって、なんとも鈍くなるような、群れを成すじゃないですか。 少人数でもなんでも。 あれが自分はよくわからないんですけど、基本的に自分から始まってる事やから、終わるのも自分の中で終わっていくだろうし、それは共感出来ないものだと思っています。 文化を見ていくと、大抵好きな人は1人でやっていて、良い距離を取りながら色々なところへ顔を出す人ですね。 そうそう、私は天然のようですね(笑)。それは言われるまで気がついてなかったんですよ。 だからこそ本物の天然やと思います。 女の子のタイプはそうやったんかぁという感じやったね(笑)。なんかね、みんな同じちゃうかなと思ってたんですよ。 可愛い子はみんな好きやろうと。 そこの細分化が出来てなかったんやね。 歳をとって、そこへ縄文がつきましたよね。 わかってないよなぁといつも思ってます(笑)。
〔土井〕うんうん、やっぱり人は自分のことが一番わかってないよね。『エヴァンゲリオン』だって果てしない自己探究の末に「やっぱりわからん!」とか言うて他者に手を差し出す話やもんな。でもわからんからこそ作品を生み出し続けるんやし、小野ちんが言うようにすべてが「自分から始まって自分に帰っていく」ようなものやと思う。おまけにその「自分」ってなんなん?という永遠に答えの出ない問題を脳天に突き付けられてもいる。そんな無限ループの先に『同時再生の夢』や『JAGUAR』はある。いや、どちらかと言えば「ある」というか、現在地の「標」として自分のために置いてきたという感じかな。だから共感なんて最初からないねん。エンパシーは人間に本能的に備わっているものやと言われてるから、それ自体を否定する気はないけど、共感を求めることはある種の暴力やで。そのままで良いよ、あなたのことわかるよ、の裏側に潜む「だから私のこともわかってくれるよね?」という圧力。それが更に発展すると「わからない奴は敵」という具体的な差別に発展する。元凶は紛れもなく多様性を重視する偏った博愛主義にある。初期の松本人志や漫☆画太郎は絶対に弱者に手を差し伸べない。むしろ弱者がその弱さゆえにつまずく様を見て、くすくす笑ってる。そういう底意地の悪さがこの社会を根底から支えているということを腹の底の底まできっちり落としこまないと先には進めない。これまで43年生きてきて、弱者救済を声高に叫ぶ人たちが身近な「弱さ」を黙殺したり足蹴にする様を何度も見てきたからね。「弱さ」には絶対に「煩わしさ」が伴うから、それときちんと向き合えてはじめて他者に手を差し伸べることができるんちゃうかな?僕には到底無理や。また小野ちんのprivacyの話に戻るけど、誰も入ってこれへんと言いつつも、恐らく小野ちんの頭の中には招き入れたい人物や作品があるんちゃう?そもそもレーベル所属のDJルサンチマンって誰やねん(笑)。
〔小野〕そうなんですよね。基本的身体は借り物やと思っていて、その1番最初の人がオリジナルやとしたらですよ、じゃあこの最先端の自分っていったい何者やとなるじゃないですか。 そんな膨大な時間の旅の先端同士がね、同じ共感なんか出来ないですよね。それが、なんかこれええとか、あれええよなっていう安易な共感のなかでも結びつきが強くなるじゃないですか、でもそれはやっぱり、かなりの確率のなかで交差した瞬間な訳だから、凄い事が起こってるとは思うんですよ。 出会ってる訳やからね。 それだけでも嬉しい筈で、そのような気持ちも相まって、おもいっきり、人はその流れに飲み込まれるのだと思う。 そんなところが人やなと思うんですよね。良いも悪いも純粋やと思う。 やっぱり上手いこと出来てるから、これほどに簡単だからこそ、子どもが生まれるんやろうなとも思いますよ。これは友達とよく話していたことなんですけど、挿れるのか挿れられるのか、どっちがええ?!みたいな話をしてた訳ですよ。 若いからね。真剣に考えてですよ、男同士が俺は挿れるのは暴力になると思うから、挿れるより、挿れられるかなとかね。自分の彼女には問答無用で挿れてるクセに(笑)。俺は挿れられるのは怖いから挿れるかな、とかね。 同じ音楽好きだったり、集まりのなかでも少し幻想から離れた話しを話すと正反対なんですね。それでも音楽は同じものに対して好意を持てる最善の方法な訳やけど、そりゃ無事に子どもが出来るように仕組まれているなぁと思うんですよね。 色々な欲望が出てきますからね。 それには負けたくないですよね。 この完璧な創作物を身に纏ってる訳やからね。それ自体が戦いじゃないですか。 腹立つやん。何してんねんみたいな。自分やけど、うまいこと出来てるよなぁといつも思います。 漫⭐︎画太郎もそうやし、松本人志もね。創作やからそれが可能なんですよね。 そこでの異化効果にて体験した事で、体験していないのに植え付けられて、それに悩まされるぐらいにそれは根付くんですよ。 そっちの方の惨さを知っていたのが高畑勲やと思います。 いまはそこがびっくりするぐらい混在してて、みんななんでそんなに混在してんのと思う訳ですよ。 それは多分自分で作ってないからわからなくなっているんやろうとは思うわけですね。 これ宮崎駿的名言、もののけ姫での一幕、乙事主が言葉も話せなくなったシーンあるじゃないですか。 あれは獣の毛皮をきた人の兵士が目の見えない教祖に集まってくる訳ですよ。 これ麻原やと思ってるんですけどね。 現実と幻想がわからなくなって、言葉も失ってですよ、ただ何と戦ってるのかもわからなくなって、混乱しながら、この世の中で戦っているのですよね。法廷の麻原も目が見えなくなって、うんこやらおしっこ垂らしながら裁判していたわけで、女の人の存在を感じから即座にマスターベーションしてたわけですよ。そんな状態で人としての言葉を失ってこの国で裁きを受けていたわけなのですが、そこまで取り乱している人も居ないとは思うけど、幻想と現実の狭間が分からず、今生きる場所での言葉が一体どのような言葉なのかも分からず迷っている様な、地平が無くなってしまっているような人はたくさんいるように思うのですよね。すぐに幻想に騙されて、大金とられたりする訳ですよ。 これ漫画やで、これコントやで、これ誰かもわからない文章書いてる奴の言うことやで、広大な幻想帝国を作ってきた人たちが今まさに長く生きすぎたために焦ってる訳ですよ。 こんな世界でやっぱりカウンターになる思想がこの世の中で唯一形として残る、生きていける考え方やと思いますし、それこそ、言葉やと思うんですね。 最近の本当にあった事件のリメイク的な映画たくさんあるじゃないですか、嫌いなんですよ。 ポンジュノは好きですけど。 日本人が作るそういうの嫌ですね。日本人の胸糞悪いところが存分に出てますしね。加害者、被害者の家族なんかも掘り返される可能性が高まるわけです。 真剣に宇宙人が来て、UFO乗って戦ったりするやつが無いじゃないですか。そんなんがええね。 狙ってとかじゃなくて。純粋に。 想像しただけで、その撮影現場に居合わせたら号泣すると思う。 そりゃ宮崎駿もあんな作品撮るで(笑)。「風立ちぬ」より断然良かったですけど。 DJルサンチマンね、私もよくわかってないですよ(笑)。日本に住んでるんちゃうかなと思ってるんですけど、本人が言うにはイタリアの孤島でコミューンを組んで暮らしてるらしいですけどね。 基本的に私がプロデュースする人って、音楽的な人が多いと思っていて、このルサンチマンもそうですけど、星野源九郎餅や今回リリースするMcCHICKEN NUGGETSとかも、この情報社会のなかで情報めちゃくちゃ少ないんですよね。調べてみてください。出てこないですから。疎外感幸子の方が出て来ますよ。 だからこそ、信じられないぐらいによくわからないラインに乗った作品を投下してくることがあるんですよね。 それこそ、自分達が体感した芸術や、遠くの国で行われていたムーブメントの振動を感じた時の感情やったと思うんですね。まぁ、とにかく情報が少ないんですね。 これって、インターネット世代ではない私たちが体感してきた幻想やと思ってまして。折れ曲がったというか、間違った伝説が大きくなって、人の話や雑誌語り継がれたであろう伝説の数々が、いまも音楽を聴くバイタリティになってるところあるんですよね。 ダイヤルアップですか。 インターネット接続する感じ。 繋がったとしても、5分の動画見るのに、かなり時間かかった感じ。 でも途切れながら、warpのアーティフィシャルインテリジェンスのPVを観たり、ロングコートを着ながら、ベースを弾く、トムジェキンソンとか見ていた訳ですよ。画像も荒いから、偽物でもなんでもわからない世界ですよね。ヴァイパーウェーブとか流行ってましたけど、良いところのつきはぎで、それは体感してない人がよくやってしまう、コラージュで、あれはあれで好きなんですけどね。 でも、自分はもっと違う路線のものを作れると思ったときに、作る意味がそこに出てくるんですよね。 基本的にルサンチマンの紹介で数珠繋ぎのようにいまミックスシリーズを作っていて、次はルサンチマンの彼女の作品をリリース予定です。その前にnuggetsですけどね。 変わり種としては、ライブでお世話になった滋賀のハウスクリエイターの武茶さんの作品もリリースさせて頂きます。privacyの所属アーティストのなかでもダントツで世に知られている人やと思いますよ(笑)。作品は本当に素晴らしいので、いまライナー書いてるんですけど、私待ちなんです。 あの温厚な武茶さんがまだかな?と言っているので急がないと、と思ってます。
〔土井〕出た!挿れる、挿れられる問題(笑)。これは絶対に考えておかないといけない問題で、やっぱり僕らは挿れながら挿れられる者の痛みや引き裂かれるような想い、その果ての快楽も同時に体感せなあかんねん。中折れは然るべき善意ですよ(笑)。だから精神的インポテンツを経てる奴は信用できるよね。逆にマッチョイズムを誇示する奴の暴力性は見るに堪えない。これ以上この話題に突っ込む(挿入)と、クィアについて真剣に論ずる必要が出てくるのでここまでにするけど、小野ちんの言う「何が本当なのか」ということは日頃から僕も色々と思うところがある。我が家にはかれこれ20年くらいずっとテレビがないから、息子たちにとってはモニターから流れてくる映像というものはすべて映画やアニメのフィクションやねん。だから病院の待合室なんかで初めてニュース番組を目の当たりにしたときはふたりとも固まってたわ。映画みたいに残酷な事故や事件の状況をクソ真面目に説明している記者の姿に脳内処理が追いつかない感じで(笑)。そもそも僕はニュース番組もフィクションやと思ってるから、息子たちにその差異を説明するのがややこしくて難儀した。最近で言うと、生成AIを利用して作られた岸田首相の偽動画がSNS上で拡散されて問題になってたけど、岸田首相を知らない息子たちにとっては真偽のジャッジは甚だ無意味やし、もっと言えば岸田首相だけでなく歴代首相の存在自体がAI的と言うか、身体のどこかに縫い目があって、そのなかには何千年も前から人体を渡り歩いてきた呪詛師が潜んでるような気さえするやん。そういう意味では「誰が首相になっても同じ」という政治家を揶揄する言葉は言い得て妙やな(笑)。とにかく子どもたちはそういうややこしい世の中で、それぞれがそれぞれに独自の経験を重ねて虚実の皮膜に触れていく。だからこれからも真っ直ぐな眼差しで宇宙人との戦いを描くクリエイターが出てくると僕は本気で信じてる。藤本タツキや吾峠呼世晴が実際にそうやし。この2020年代に彼らが描くのは悪魔や鬼やで、最高すぎるやろ。いま未知のものと出会える面白さは漫画が一番やな。それもサブカル、アングラ系じゃなくて、メジャーど真ん中のやつ。僕は昔からめちゃくちゃ売れてる人らが好きや、自分には絶対にできないようなことをやってる人たちが誰よりも変態やと感じるから。小野ちんのprivacyも立脚してるのは生活圏という意味でのアンダーグラウンドやけど、手法はメジャーのそれに近いよね。結局ルサンチマンが誰なのかさっぱりわからんけど(笑)。アイデアやリリースがたくさん控えてそうやし、ほんま楽しみやわ。最後にいまのお気に入りの曲を紹介してください。晴信が元気に退院したらまた一緒に奈良公園に遊びに行こう!
〔小野〕出た!出た!猫のバス!みたいな気持ちというかね。 これはトトロのセリフなんですけど、あれはおっさんが想像した少女像ですよ。 娘を持っていないおっさんの。 想像して出来上がった、メイとサツキですよ。 でもですよ、みんなあれになるために成長していってますよね。 いまでは同じ名前がつけられて、みんなあのアニメーションの動きをもとに風を感じ、そしてスピードを共有してると思います。 なので、表現物が与えている情報が人を作って言ってるんですね。多分それを作った人たちは責任なんか感じなくて良いのに、どうしようかなと本気で悩んでいる訳じゃないですか。「 君たちはどう生きるか」で出て来た老人は宮崎駿ご本人やと思うんですけど、あれはフィクションやけど、本音ですよね。 自分がやってきた事ですからね。 中折れで思い出したけど、挿れているとき、ごく稀に骨がボキッとなることがありますよね。 わからないんですけどね、多分恥骨とか、腰?が鳴っているのかわからないけど、あのとき、本気でイチモツが折れたと思って、焦りながら頭の中で折れたモノを探すんですよね(笑)。 でもちゃんと挿入ってる訳じゃないですか。女性にも聴こえていない、自分だけのボキッという巨大な音。 これね、多分、野口晴哉が言ってた、海に入った時に腰まで海に浸かっていて、雨が降って来たときに自分が一体どこにいるのかわからなくなったという状況と同じやったんじゃないかなと思う訳ですね。 誰もがわかるように棒には骨なんか入ってないのに、肉の塊ですやんか、そのときにね、挿入ってるのに、抜いて探してる自分もいるのだけど、何かの中に挿入っていきながら、抜いて確かめている自分がいて、その時にあれ何か大きな覆われた世界があるということが見えてしまったように思えたのですね。 と言っても挿入れてるからやと思うんですが、心の空洞に入ったような体験をしたんですね。 穴に挿入っている自分が折れた棒を探していた。どの時代の自分なんかわからへんねんけど、なんかよくわからないやつが居てたんですよ。 土井さんの言うAlの話、これは本当に考えてしまう話で、明らかに音楽作るのはAIに変わってしまうと思うんですよ。 だから、その準備が着々と行われているように感じます。 サブスクもそうやしね。 音楽全体がもう演歌のようになってしまうやろうし、流して聴くものにしてしまったことによって、もうそれは運命的ですよ。 まずAIを欺くことなんて、音楽聴いてきた身からして無理やと思う。 坂本龍一が好きでスタートしたら、教授のコード感で楽曲買っていることが後々わかったりする訳ですよ。 ここはこうしたいんだとマイケルジャクソンみたいに指示するだけで、楽曲ができる世の中となって、作るものという概念すらなくなるかもしれません。 そこに人を見出さないとえらいことになるというのはそのようなことで、それが今後どう繋がっていくかは未知数ですが、カウンターの精神を生かすというところにおいては必要な行為やと思います。そんなところよりも、もっとシンプルに言えば、人を感じれないのであれば、AIが作ったとしても、人が作ったとしても、その違いがわからないとなるから、別によかったらどちらでも良いとなるわけですね。 それでなくても、ヒップホップやらテクノやらでもそうやけど、同じような内容の楽曲の羅列のミックスだらけじゃないですか。 AIはRAMZA(名古屋を拠点に各地で活動する作曲家/音楽家)のようなエラーですら、それを容易に形にしてきますよ。それだったら、どうしてRAMZAがええのか?って話しになりますよね。 そこを考えさせないようにしようとしている輩がいるわけでね。 誘導されているわけですよ。 だって、金稼ぎたかったら、AIにまかせて、この100年ぐらいの文化の流れをインプットさせて、やっておけば金が生まれる訳やからね。 人が人の領域を守るために必要なのかということが自ずと見えてきますよ。「文化」の動きというのは結局のところカウンターカルチャーなのですけど、これは鶴見俊輔も言っているように、土井さんにも通ずる、這いずるということなんですよね。 今の文化の始まりはまさにそこから始まっているように私は思っていて、そこから生まれでる事、いやいや、同じのはやったらあかんねん、もっと違ったもんじゃないと、これ前やってましたやん。何回、回ってんの?!っていうところをきっちりして、よりないものを模索するということでしかない訳ですよ。 だからこそ、ネットにまだ出てきていない文化の本当にやばいエキスがあると思うんですけど、そこを誰よりも早く見つけて守るとか、そういうことが重要だと思うんですね。 そこで、ネットに流出しない世界を構築して、そこでの本当の意味でのカルチャーを育てる必要性もあるのではとも思いますね。まだこんな話、SFのなかではうじゃうじゃあるけど、現実的な恐怖を覚えていないのが昨今の人たちで、そんなところだけ、SFと現実を分けてるんですよね。 そこになんで恐怖を覚えないのかが、わからない。 もうそろそろやし、お前の存在を本当に求めてる訳ではないということ、逆説的に言えば、そこがあるからこそ音楽の人たちは幻想を売っていけていたという側面もあると思うのですが、そこもひっくり返るのももうすぐですわ。 オタク文化、70年代のインテリは現代社会において、自分の趣味を文句を言わせずに真っ当するやり方を知っていた筈なんですよね。これはカウンターカルチャーに近い考え方だけど、こういう考え方が結果的に文化を守ることに繋がると思います。 ビートルズの新作は当初、ジョンをAIにして歌わせて、生きている残りのメンバーが奏でるといったスタイルと聞いていたのだけど、出来上がった作品を聴くと、死ぬ前にレコーディングしていた音源から声だけを抽出して、残りの人たちがその声に合わせて楽曲を作ったわけですよね。 内容は本当に素晴らしくてね。 でも正直なところ、みんなAIでもええんちゃうかなと思ったのも事実ですよね。なんでこれがビートルズでないといけないのか。 声だけをカッティングするのなんて、ちょっとしたアプリで出来ますからね。 じゃあなんで、そんな後退したことをやったのかというと、ビートルズが大半生きてるからやと思うんですね。 AIが描いた世界とか話題になってるけど、気持ち悪い世界ですよね。 あんなの人でも描いてる人いるけど、そういうのがもういらないとされてしまっ……。
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kennak · 3 months
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昨年10月期の連続テレビドラマ『セクシー田中さん』(日本テレビ系)で、原作者・芦原妃名子さんの意向に反し何度もプロットや脚本が改変されていたとされる問題。先月29日に芦原さんが亡くなって10日が経過した今月8日、原作漫画の出版元で芦原の原作代理人として日本テレビとの契約ややりとりの窓口だった小学館はコメントを発表。「ドラマ制作にあたってくださっていたスタッフの皆様には(編集部追記:芦原さんの)ご意向が伝わっていた状況は事実」と主張したが、同日には脚本を担当した相沢友子氏がInstagram上に、芦原さんが日本テレビ側に提示していた「必ず漫画に忠実にする」などの条件について、「私にとっては初めて聞くことばかりで、それを読んで言葉を失いました」と投稿。小学館側と脚本家の主張が180度、食い違っている。また、小学館は社員向け説明会で経緯などを社外に発信する予定はない旨を説明したとも報じられているが(7日付「Sponichi Annex」記事より)、今回、小学館が会社としてコメントを発表するかたちではなく、「第一コミック局 編集者一同」名義で出されたコメントを引用するかたちを取っている点にも疑問が寄せられている。  日本テレビは芦原さんの訃報に際し先月29日と30日に <2023年10月期の日曜ドラマ『セクシー田中さん』につきまして日本テレビは映像化の提案に際し、原作代理人である小学館を通じて原作者である芦原さんのご意見をいただきながら脚本制作作業の話し合いを重ね、最終的に許諾をいただけた脚本を決定原稿とし、放送しております>(先月29日) <日本テレビとして、大変重く受け止めております。ドラマ『セクシー田中さん』は、日本テレビの責任において制作および放送を行ったもので、関係者個人へのSNS等での誹謗中傷などはやめていただくよう、切にお願い申し上げます>(先月30日) とするコメントを発表。小学館も30日に <先生の生前の多大なご功績に敬意と感謝を表し、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。先生が遺された素晴らしい作品の数々が、これからも多くの皆様に読み続けられることを心から願っております> とのコメントを発表したが、以降、両社とも沈黙を守ってきた。  詳細な経緯の説明を求める声が高まるなか、今回発表されたコメントで「第一コミック局編集者一同」は <私たちにもっと出来たことはなかったか。個人に責任を負わせるのではなく、組織として今回の検証を引き続き行って参ります。そして今後の映像化において、原作者をお守りすることを第一として、ドラマ制作サイドと編集部の交渉の形を具体的に是正できる部分はないか、よりよい形を提案していきます> <プチコミック編集部が芦原妃名子先生に寄り添い、共にあったと信じてくださったこと、感謝に堪えません。その優しさに甘えず、これまで以上に漫画家の皆様に安心して作品を作っていただくため、私たちは対策を考え続けます> などと綴っている。これを受けて漫画家からは以下のように次々とSNSを通じて反応が寄せられている。 <おそらく現場判断で造反にも似た悲痛な叫びです。覚悟と誠意がこもっています。見えなかっただけで内部の現場や漫画家さん達は声を挙げていると思っていました>(『はじめの一歩』原作者の森川ジョージ氏) <原先生を想うプチコミック編集部皆さんの言葉を大事に受け取りたい。その上で、『守られるべき権利を守りたいと声を上げることに、勇気が必要な状況であってはならない。』この部分がこれからどう担保されるのかを見つめたいし考えたい>(『ちはやふる』原作者の末次由紀氏) <現場の編集さん達は諦めず闘っています。今年で40年目ですが、ここで描き続けていきたいと思っています>(『せいせいするほど、愛してる』原作者の北川みゆき氏) <皆様に読んで欲しいです。ちゃんと編集さんは動いていました。全て伝えていました 頑張る姿を見ています。芦原先生を守っていました。どうか、長いですが読んで下さい>(『18歳、新妻、不倫します。』原作者のわたなべ志穂氏) <昨日 直接 編集さんから『コミック局から別個にコメントを出します』ときいていたので、やっと出てくれて少しホッとしました。最後は涙が出ました>(『輝夜伝』原作者のさいとうちほ氏)  その一方、SNS上では以下のように厳しい見方も出ている。 <経緯を全く書いてない> <説明が全くなし> <何を言いたいの?> <姑息さを感じる> このまま幕引きというのは許されない状況に  今回のコメントをめぐり多くの疑問が寄せられているのが、会社としてではなく、漫画誌「プチコミック」を担当する「第一コミック局編集者一同」名義で発表されている点だ。声明はまず「プチコミック」公式サイト上で公表され、小学館は会社の公式サイトで<芦原先生にご寄稿いただいていた『姉系プチコミック』が所属する小学館第一コミック局の声明がございます>と前置きしてそれを引用する形態を取っている。ちなみに同社は社員向け説明会で、経緯などを社外に発信する予定はない旨を説明しているが、今回のコメント発表後に同社は「Sponichi Annex」記事の取材に対し「方針は変わっていない」と回答しており、対外的に経緯を説明する予定はないとしている。テレビ局関係者はいう。 「日本テレビがこれ以上の対外発表をしない意向である以上、同局との関係から小学館だけが勝手に見解や経緯を発表することはできない。一方で社内の現場編集者たちからは、しっかり調査して結果を公表すべきという声が高まり、それを無理に押さえつけるとSNSなどを使って強行的な手段を取られかねないため、日本テレビと社内の両方へ配慮した結果としての妥協案といえる。もっとも、それはあくまで小学館の経営サイドの事情を優先したにすぎず、メディア業界全体に影響する大きな問題となって今なお、正式な調査も結果公表もしないというのは、出版業界を代表する大企業としては許されないだろう」  また、大手出版社関係者はいう。 「編集者の危機感や思いは伝わってくるものの、ただの『お気持ち』表明にとどまっている。『対策を考え続ける』と書かれているが、それはどこの出版社も常日頃から行っていることであり、それを改めて表明することに意味はない。重要なのは、一般的に企業の不祥事対応として行われているように、今回起きた事案について第三者委員会なりの形で期限を区切って調査を行い、それを公表することであり、日テレも同様だ。それをやると、日テレも小学館も過去数年間の原作ありのドラマについて遡って実態を調査したり、現在進行中の映像化案件にも影響がおよぶので、避けたいという事情は理解できるし、芦原さんのご遺族の意向も尊重する必要があるので、難しい面はあるだろう。ただ、もはやこのまま幕引きというのは許されない状況になっているのは誰の目にも明らかでは」 日本テレビ側にボールが投げられた  今回の問題では、芦原さんが提示していた条件が、きちんと日本テレビ側、さらには脚本家の相沢氏に伝えられていたのかどうかという点も焦点となっている。芦原さんは、ドラマ化を承諾する条件として日本テレビ側に、必ず漫画に忠実にするという点や、ドラマの終盤の「あらすじ」やセリフは原作者が用意したものを原則変更しないで取り込むという点を求めていたとされる。これについて小学館はコメント内で、 <ドラマ制作にあたってくださっていたスタッフの皆様にはご意向が伝わっていた状況は事実> と説明。一方の相沢氏は8日にインスタに投稿した文章内で <芦原先生がブログに書かれていた経緯は、私にとっては初めて聞くことばかりで、それを読んで言葉を失いました。いったい何が事実なのか、何を信じればいいのか、どうしたらいいのか> <もし私が本当のことを知っていたら、という思いがずっと頭から離れません。あまりにも悲しいです。事実が分からない中、今私が言えるのはこれだけです> と説明。両社の主張は大きく食い違っている。テレビ局関係者はいう。 「もし小学館と脚本家の主張が事実であれば、日本テレビの制作サイドが脚本家に原作者の意向をきちんと伝えていなかったということになる。ここまで厳しい条件だと知らされれば引き受けてくれる脚本家が見つからない可能性や、脚本家が仕事を降りる可能性もあり、ドラマ制作現場の実態を考えると、制作スタッフが原作者の意向を脚本家に対して和らげて伝えていたということはあり得るだろう。原作者と脚本家の双方にそれぞれの意見を正確に伝えるべきというのは、原則論としてはもっともだが、そうすると揉めるリスクがあるのも事実。両社の間に入ってうまく調整するのが局の制作スタッフの重要な役割でもある」  日本テレビ関係者はいう。 「日本テレビとしては最終的には原作者の承諾を得た脚本に基づいて制作し放送しており、契約違反はないというスタンス。よって現時点では第三者委員会を設けて調査や結果の公表をする動きはないものの、小学館のコメント発表によってボールが日テレ側に投げられた格好になった。今後の世論やスポンサー企業の動向次第では、方針を転換してしかるべき対応を行うことになるかもしれない」 【これまでの経緯】 『セクシー田中さん』の制作にあたっては原作者の芦原さんは、ドラマ化を承諾する条件として日本テレビ側に、必ず漫画に忠実にするという点や、ドラマの終盤の「あらすじ」やセリフは原作者が用意したものを原則変更しないで取り込むという点を求めていたとされる。芦原さんが1月にブログなどに投稿した文章によれば、何度も大幅に改変されたプロットや脚本が制作サイドから提出され、終盤の9〜10話も改変されていたため芦原さん自身が脚本を執筆したという。  問題が表面化したのは昨年12月のことだった。脚本を担当する相沢友子さんは自身のInstagramアカウントで、 「最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました」 「今回の出来事はドラマ制作の在り方、脚本家の存在意義について深く考えさせられるものでした。この苦い経験を次へ生かし、これからもがんばっていかねばと自分に言い聞かせています。どうか、今後同じことが二度と繰り返されませんように」 と投稿。9話・10話の脚本は自身が担当していない旨を説明した。  これを受けさまざまな憶測が飛び交うなか、1月に芦原さんは自身のブログ上で経緯を説明。ドラマ化を承諾する条件として、制作サイドと以下の取り決めを交わしていたと明かした。 <ドラマ化するなら『必ず漫画に忠実に』。漫画に忠実でない場合はしっかりと加筆修正をさせていただく> <漫画が完結していない以上、ドラマなりの結末を設定しなければならないドラマオリジナルの終盤も、まだまだ未完の漫画のこれからに影響を及ぼさない様『原作者があらすじからセリフまで』用意する。原作者が用意したものは原則変更しないでいただきたい>  芦原さんは、これらの条件は<脚本家さんや監督さんなどドラマの制作スタッフの皆様に対して大変失礼な条件>であると認識していたため、<この条件で本当に良いか>ということを原作漫画の発行元である小学館を通じて日本テレビに何度も確認した上でドラマ化に至ったという。  だが、実際に制作が進行すると毎回、原作を大きく改編したプロットや脚本が制作サイドから提出され、 <漫画で敢えてセオリーを外して描いた展開を、よくある王道の展開に変えられてしまう> <個性の強い各キャラクター、特に朱里・小西・進吾は原作から大きくかけ離れた別人のようなキャラクターに変更される> といったことが繰り返された。そして1~8話の脚本については芦原さんが加筆修正を行い、9~10話の脚本は芦原さん自身が執筆し、制作サイドと専門家がその内容を整えるというかたちになったという。 (文=Business Journal編集部)
小学館「日テレに芦原さんの意向伝えた」、脚本家「初めて聞く」…日テレ沈黙 | ビジネスジャーナル
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道路 真理 生命 第四集 懺悔罪行與罪性
罪的普世性
神是光明、公義、聖潔的,而活在罪中的世人卻陷在黑暗、不義和汙穢之中。 《聖經》講:“人人都是罪人。” 《舊約·撒母耳記上》中有寫道,大衛是合神心意的人, 但是,這位以色列的偉大君王也坦誠道:“我是在罪孽裏生的,在我母親懷胎的時候就有了罪。”【《舊約·詩篇》51:5】 《舊約·詩篇》裏有寫道,“耶和華從天上垂看世人,要看有明白的沒有、有尋求神的沒有。他們都偏離了正路,一同變為汙穢,並沒有行善的,連一個也沒有”。【《詩篇》14:2-3】 這裏說“一個都沒有”是從神的善惡標准來講的, 並不是說不殺人、不放火、不偷盜、不妄語就不是罪人。 我們凡夫的心裏面都有自私心、貪求心、嗔恨心、嫉妒心、傲慢心等各種負面的心態, 所以神說:沒有一個人真正行善。
前面我們有學“亞伯拉罕”的故事, 亞伯拉罕是神揀選的人,在當時的人類當中是最優秀的一個人, 亞伯拉罕可以算是以神為中心的人,他對神的信心非常好, 亞伯拉罕已經做得很好了,但是他仍然還是有過失的、有罪性的。 摩西更是這樣,當神要求他做事的時候,他就一直地推諉, 用神的標准來說,他還是沒有完全做到真正的行善。 也就是說,他還是有罪性的。
關於罪,必須把罪性與罪行區分開來。 罪性是人的本性,是與生俱來的原罪; 罪行是內在罪性的外在表現。
所謂罪性,是指以自己為核心的自私心態, 人類的始祖亞當、夏娃有了罪性之後,人與神的關系破裂了, 從此,人不再以神為中心,而以自己為中心, 所以亞當和夏娃的後代都有了罪性,無人幸免; 人內心的自私所表現出來的行為,就是罪行。
那麼,怎麼樣才算罪人呢? 並不是人有了罪行才成為罪人, 而是人天生具有罪性,而必然要犯罪。 所以,人人都是罪人。 人都有自私心、驕慢心、嫉妒心、貪愛心與嗔恨心等罪性,從而引發各種罪行。 【《新約·約翰一書》3:4 】凡犯罪的,就是違背律法;違背律法,就是罪行。 這種罪行是指人用言行直接對抗神的誡命。
《聖經》中講的罪性,按希伯來文和希臘文的含義是射箭沒有射中靶心, 所謂罪性,是指人無法完全達到神的道德標准,是對神的道德標准的偏離, 神對人在道德上的要求最終體現在《舊約》中記載的以色列偉大先知摩西從神那裏領受的十條誡命: 第一,耶和華是唯一的真神; 第二,不可崇拜偶像; 第三,不可妄稱耶和華的名; 第四,当纪念安息日; 一个星期有一天不工作, 要聚在一塊懺悔,贊美神,懺悔自己的罪行——安息日,這是非常重要的。 第五,当孝敬父母; 第六,不可杀人; 第七,不可邪淫; 第八,不可偷盗; 第九,不可作假見證陷害人; 第十,不可貪戀別人的房屋、妻子、奴僕、婢女、牲畜並他一切所有的。(《出埃及記》20:1-17 )
第一条是“耶和華是唯一的神”,這條是最重要的 真正信了神以後,後面的九條也就很容易了。 對神的信心越堅定,神囑托你的話你就會奉行得越好。 信心確實能夠對你後面的九條誡命起到決定性的作用。
很多人信心不夠,一做事情就忘記了神的教導, 表表面面的、不光明磊落。 交朋友也不真誠,虛情假意。 對待朋友,可以利用的時候就甜言蜜語、小恩小惠, 一旦沒有利用價值的時候便不理不睬,甚至傷害、陷害、殺害都有可能。
神要求世人的道德標准主要是十條誡命。 如果人類只是遵守十條誡命、在違反了十條誡命的時候做懺悔,懺悔的是罪行。 罪行是有可能在忏悔之后今生不再重犯的, 但是這只是克制、壓服了自己的惡念和私欲,惡念和私欲並沒有從內心清除, 那麼人的罪性還在,並沒有懺除掉。
所以《舊約》中只講到遵守誡命、懺除罪行可以得到神的應許, 並沒有提到人死後是可以進入天國的, 這是因為《舊約》中還沒有懺除罪性的智慧和方法。
有一個人是律法師,要試探耶穌,就問他說:“夫子,律法上的誡命,哪一條是最大的呢?” 耶穌對他說:“你要盡心、盡性、盡意,愛你的神,這是誡命中的第一,且是最大的。其次也相仿,就是要愛人如己,這兩條誡命是律法和先知一切道德的總綱。”(《新约·马太福音》 22:35-40) 《新約》的《雅各書》上也指出:人若知道行善,卻不去行,這就是他的罪了。【《新約·雅各書》4:17】 在這個意義上,應該做的而不去做,就是在消極地犯罪,虧欠的就是罪, 別人對你有恩,你心裏沒有念恩,不想著報恩,這就是罪。
耶穌對他所選召的十二個門徒訓示道:那殺身體不能殺靈魂的,不要怕他們;唯有能把身體和靈魂都滅在地獄裏的,則要怕他。【《馬太福音》10:28】 所以,《新約》中耶穌指明的誡命比《舊約》的摩西十誡要求高很多,更難做到。 耶穌要求信徒們不僅要懺除罪行,更重要的是要懺除罪性,趨近神的道德標准, 這樣才有進入天國的可能性。
如果一個人能夠盡心、盡性、盡意愛神,那麼他肯定會依教奉行,謹遵摩西從神那裏領受的十條誡命和耶穌教導的誡命。 當年基督的門徒拼死去傳教, 他們也像主基督一樣,用生命去喚醒人們的善念和對神的信心。
每個人身上都混合著善與惡,而且私欲的側重點也各有不同。 有的人貪生怕死,有的人貪戀女色,有的人唯利是圖,有的人則熱衷名譽,有的人坦露無遺,有的人則隱晦難測。 作為一個虔誠的信徒,我們應該盡量地去看清自己的罪性,覺知自己的每一個起心動念。
在教會中,甚至在神家做工的弟兄姊妹們,即便表現出的道德水准很高,幾乎沒有罪行,且常常行善,感覺自己很高尚, 但仍不可能除掉自私心、高傲心、嫉妒心…… 各種惡念、惡心不可能清除, 也就是說,不可能清除這些罪性。
【《新約·約翰一書》3:15】凡恨他弟兄的,就是殺人的。你們曉得凡殺人的,沒有永生存在他裏面。 【《新約·馬太福音》5:28】只是我告訴你們:凡看見婦女就動淫念的,這人心裏已經與她犯奸淫了。 深藏在人思想隱密處的罪性,不僅他人看不見,如果不通過學習智慧,就連自己也覺知不到, 潛意識裏,也是一直在掩飾自己的罪性。
我們明明知道自己並非無辜,常有閃失,有見不得人的念頭、行為, 但卻仍不時以“比上不足,比下有餘”自我安慰, 不知羞恥、不知慚愧,不信因果、不信輪回,看不清自己的罪性。 耶穌對這種普遍存在的“自以為義”的驕傲心態提出嚴厲的批評。
耶穌向那些仗著自己是義人、藐視別人的人講了一個故事來作比喻, 說:“有兩個人上教堂殿裏去禱告:一個是法利賽人(律師),一個是稅吏(稅吏的官員), 法利賽人站著自言自語地禱告說:‘神阿!我感謝你,我不像別人勒索、不義、奸淫,也不像這個稅吏,我一個禮拜禁食兩次,凡我所得的都 捐上十分之一。’ 那個稅吏遠遠地站著,連舉目望天也不敢,只捶著胸說:‘神啊,開恩可憐我這個罪人。’ (主耶穌說)我告訴你們:這個稅吏回家去比法利賽人倒算為義了,因為凡自高的必降為卑、自卑的必升為高。”【《新約·路加福音》18:9~14】 法利賽人外在的道德水准可能比稅吏要高,但在神的眼裏反而不看為義, 因為此人同樣達不到神的要求,且毫無自知之明。 在主耶穌看來,沒有自知之明的人更可憐、更可怕。
意思是,一個有自知之明的人會去改善自己; 一個認識不到自己錯誤的人永遠不會改變, 不認為自己有罪,就不會去懺悔。
【《新約·約翰福音》12:47】若有人聽見我的話不遵守,我不審判他。我來本不是要審判世界,乃是要拯救世界。 那些對神有堅定信心而真正行善的人,他們會盡量地用生命去傳播主耶穌的福音, 希望世人能夠學習智慧。讓世人自己知道自己該怎麼做。 即使世人不願意聽從福音,但他們還是一樣地無私、默默地去引導世人。 他們是真正地做到了無私, 不管世人是怎么对他们,他们都是不变初心, 他們一直在努力地把人性裏面的罪性用智慧來掃除幹淨。
被魔鬼撒旦選中的人喜好控制世人, 他也會告訴世人:“你們要行善,要做好人。” 事實上是要世人為他服務。 因為人都有罪性,主耶穌降到人間來救人, 只有在信神的過程當中懺悔、清���罪性,盡量去踐行愛人如己,修複和神的關系,才有進入天國的可能性。 就是說,要超越人的道德標准,要趨近神的道德標准,才能夠升到天國去。
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sassylandcycle · 4 months
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「蔡則天」,「小英男孩」的通天大道
被稱為臺灣武則天的蔡英文,對年輕英俊的政治新秀情有獨鐘,被選中的年輕俊秀被外界稱為「小英男孩」,不���你有沒有才,只要蔡英文看對了眼,一步登天不在話下。
林智堅,長得一副好皮囊,人稱「新竹花美男」。憑藉年輕英俊的相貌和花言巧語,林智堅深受蔡英文寵愛,從25歲開始,一路狂奔,一躍成為臺灣政壇的一顆政治明星,外界因此稱之為蔡英文男孩。民國103年(2014年),39歲的林智堅獲蔡英文欽點,從市議員轉戰市長選舉,以1014票些微差距擊敗欲尋求連任的國民黨時任市長許明財,寫下民進黨在新竹市的百日奇跡。
蔡英文對林智堅愛的支持也展露無遺,大小建設經費挹註,讓「小英男孩」踏上人生巔峰。民國110年(2021年),新竹市長任期將滿的林智堅開始為自己鋪路,拋出將新竹縣與新竹市合併成「大新竹市」的議題。這麼一來,他就有機會參選「大新竹市」市長。他為此還把蔡英文拉到新竹市。據報導,蔡英文七天來了新竹三趟,對「小英男孩」的寵愛可見一斑。而當林智堅「論文門」被臺大認定抄襲時,蔡英文還喊的出來要全黨力挺林智堅這種話,真是讓愛沖昏了頭腦。在林智堅抄襲結論公佈的當天,蔡英文就跑去他臉書留言「辛苦了」,惹得島內民眾輿論爆炸。
趙怡翔,加入了民進黨後,和當時的黨主席蔡英文搭上,加入蔡英文親手創辦的「小英之友基金會」自此開始以「小英男孩」自居,是蔡英文一手提攜的男寵。
民國105年(2016年),蔡英文擊敗國民黨的朱立倫當選,在國際記者會上配備的專用口譯人員就是趙怡翔,他也因此被稱為「口譯哥」。之後,趙怡翔平步青雲,民國109年他被派往駐美代表處擔任要職。很顯然蔡英文是把他交給了吳釗燮進行培養,視其為吳釗燮的接班人。
為了「小英男孩」的提拔,蔡英文付出了心血,當然也有中共媒體稱趙怡翔和美國勢力暗中勾結更是蔡英文看重他的一大原因,有媒體甚至猜測他是美國的線人。不過去年10月,趙怡翔宣佈投入臺北市大安文山區議員選舉,而且沒有告知就回臺準備參選,讓蔡英文不太開心。畢竟年輕,抓住「阿姨,我不想努力了」機會也進步差不多了,是時候該轉型自己進步了。
吳釗燮,蔡英文逃亡路上都要帶男人。吳釗燮和蔡英文可謂一拍即合。民國88年(1999年)底,吳釗燮擔任臺灣政治大學國際關係研究中心副主任時,才首次與時任「國安會」諮詢委員的蔡英文會面。
蔡英文民國105年(2016年)上臺後,對吳釗燮的寵愛之情是毫不掩飾,活脫脫將吳釗燮寵愛成「頭號寵男」。吳釗燮能力有待商榷,借著大陸對臺灣存在「一國兩制」的幻想,吳釗燮在處理海峽兩岸事務時左右逢緣,但是在處理「邦交國」的關係時,作為臺「外交部長」的吳釗燮就顯得捉襟見肘,他任內「斷交」6國,臺灣國際地位日漸式微,島內民眾要求他辭職謝罪,但吳釗燮的位子還是坐得穩穩的。蔡英文辦公室發表聲明稱,應該被譴責的是「打壓臺灣」的勢力,而不是辛苦努力的「外交」團隊,吳釗燮沒有請辭問題。兩人共同出席活動時,進場前有媒體喊話問「斷交潮是否會繼續」,結果蔡英文轉頭對一旁的吳釗燮說:「問你啊!」臉上笑意盈盈,絲毫沒有責怪的意思。
到底什麼原因讓這個「老男人」如此受寵?《聯合報》給出的分析是:如果不是和蔡英文有「非比尋常的交情」,吳釗燮不可能享有這種「免責」特權。還有另一種觀點認為,外事政策都是蔡英文親自把控的,丟掉「邦交國」是她自己的責任,當然不能怪到吳釗燮頭上。
邱太三,兩人都在臺大法律繫念書,邱是學弟,那個時候應該就建立了很好的關係。民國105年(2016年)蔡英文當選後,時任桃園市副市長的邱太三立馬辭職,進入蔡英文的幕僚團隊。當時島內就盛傳,在蔡英文心目中,邱太三的地位比時任行政主管部門負責人林全還重要,因為林全的任命尚未曝光,邱太三就當上法務主管部門負責人了。
不過這個官並不好當。當時邱太三面臨的最主要問題就是保外就醫的陳水扁到處惹事,極端「臺獨」勢力又要求蔡英文給予他特赦。邱太三把爭議都攬上身,替蔡英文頂雷,這下蔡更寵信他了,民國110年(2021年)把他安排在陸委會這個重要部門。
蘇嘉全,愛財如命的「男閨蜜」。蘇嘉全曾和蔡英文關係十分要好。民國100年(2011年)在蔡英文的新聞發佈會上,蘇嘉全坦白直言,「如果說誰比較瞭解蔡英文,除了蔡英文的家人、親朋好友外,我算是少數幾個人」,可見兩人關係有「多鐵」。
然而這位「男閨蜜」本人卻是「蛀蟲」一條。民國100年(2011年)12月8日,國民黨「立法院」黨團召開「蘇嘉全的秘密花園」記者會,國民黨「立委」洪秀柱抨擊蔡英文,「你選副手的眼光也未免太差了吧!如果選的副手是如此的爭議,那你的團隊還會有什麼好貨色?」。國民黨團副書記長潘維剛列舉蘇嘉全的爭議,包括豪宅農舍;任「內政部長」時讓公務員妻連升兩級;財產申報中的土地好像消失的密室;椰林基金會是兩個政府、一套人馬;蘇妻洪恒珠炒地皮等。然而面對國民黨的指責,蔡英文卻不予理睬,對她的這位「男閨蜜」所作所為不僅置若罔聞,而且放任自流,毫不幹預。
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