2019.11.2~4奥秩父 金峰山~雲取山
Lまっさん、kumiko(記)
紅葉シーズンの美しいシーズン! 憧れの金峰山~雲取山縦走へ行ってきました。
来年アイガーへ行こうと計画を立てている私に、訓練山行としてまっさんが声をかけてくれたのは10月上旬。
それから楽しいフリークライミングにばかり時間を費やし、ロクなトレーニングもせずに当日! 色々無謀で、かなり脚を引っ張ることになるであろう…と容易に想像出来る中、始発に揺られて韮崎駅へ。
DAY1
3連休初日。
バス席の場所取りのため、一本早い電車でまっさんが並んでくれていたおかげで、長蛇の列を横目に無事先頭にて合流。 彼のザックを持ってみると、上手に軽量化しており軽い!私のも同じく軽量化したはずが、何故か重い。初端からやらかした感満載です。
みずがき山荘に到着すると、たくさんの登山者が。いつも平日にしか行かないので、とても新鮮。 まっさんにテント類と鍋を押しつけ、私は定番大量の野菜を担ぎ、ヨロヨロ歩き出す。
道の途中には、ボルダーがゴロゴロ。登れそうだな~と横目で見ると、みずがきトポを持っているク���イマーがおり、やっぱり登れるんだ!と嬉しくなる。
こんな天気の良い日にここにいるのに、クライミングしないなんてと二人で笑う。
まっさんの奥秩父愛は終始炸裂していて、楽しい話をたくさん聞かせてくれる。
歴史に興味の無い私でも、聞きながら歩くか否かでは全然違う。 美しい撮影場所、美味しい水が有るところ、最高の休憩ポイントなどなど、とにかく知識量が半端無い!もはや、奥秩父一番の専任ガイドだ。
富士見平小屋で、まっさん顔なじみの主人から楽しい開拓話を聞いた。天才というのはここまで凄いのか。クライミングは手じゃない脚だという言葉にとてつもない重みが宿る。
美しい小屋の中には美しい写真がたくさん飾られていた。
8年前雪のある時期に歩いた道も、クライミングにハマった今改めて見るとたくさんの岩が目に入る。登ったら楽しそうなスラブもたくさん!ボルトが打っていないことが不思議なくらいだ。
「ここが千代の吹き上げですよ」とまっさんが物語と共に教えてくれた。クライミングルートの終了点があるなんて知らなかった。美しい稜線を進んでいく。
既にまっさんのペースにバテ気味になりつつ、金峰山小屋にもお友達がいるということでそちらへも寄ってみる。談笑タイムに耳を傾けながら休憩。美味しいモノを頂いた。どうやら国師ヶ岳より先は台風の影響でかなり荒れている模様。こちらも美しい小屋で思わず泊まりたくなる。優しいお人柄がかいま見れて、もっとここにいたくなった。
ごったがえす金峰山頂から、本日のお宿、大弛峠を目指す。 私は金峰山はこれで3回目。まっさんはなんと10回以上! さて楽しい下りと思ったら、登りがあることをすっかり忘れていた。以前歩いたのは夏。気温は違っても、奥秩父のまったり加減と苔の美しさは変わらない。初日ということで?まっさんは出来る限りゆっくりゆっくり歩いてくれた。
風が抜ける大弛峠。車はたくさん、テントもたくさん。
この日は初日なのでkumikoのド定番、野菜たっぷり鮭のチャンチャン焼き。のはずが、前日準備していたら味噌を買い忘れる。
で、ハーブ塩を持ってきたが味が薄い。しかも、いつも「くみちゃんの食当は量が多すぎる」と言われるので今回は反省を交えて量を減らしたら、なんとまっさんは大食漢であった。何でいつも一緒に山行ってるのに気づかなかったんだろう。まっさんごめん。しかし一応大量の野菜を満足気に食べてくれた。
冷たい風の抜ける大弛峠。そんなこんなで美しい夕焼けと星空を堪能した後、寒さに震えながらテントに入り、19時過ぎには消灯。お互い朝まで一度も起きなかった。
DAY2
3時頃起床。
風が強かったためか、テントはカラカラに乾いていた。起きて寝袋を終おうと思ったら、股関節が痛すぎて身体が動かせず超スローペースで片付ける。
実はまっさんには内緒にしていたが、数日前クライミング課題で股関節を痛めたまま今回やって来た。 UTMBに脚の小指を骨折したまま出場した魅力的な女性のことを何故か出発前に思い出し、私は股関節くらいで騒ぐなんて何だと決行した。どうしてもこの時期にこの縦走を歩きたかったからだ。珍しくストックとサポートタイツ、トレランでたまに使う鍼灸シールまで常備した。
またしても量の少ないフリーズドライを食べる。今日は長丁場。飲料水1.5L、たどり着かなかった時のためにプラス1Lを炊事用としてお互い担ぐ。やはり水は重い!まっさんにテントやら鍋やら押しつけているのに、何故かやはり私の方が重い。
今日は元々、夜間行動覚悟で「将監峠」まで行くことを目標にしていたが、台風による登山道の状況が分からないこと、夜の寒さを考えてやはり笠取小屋まで歩くことにする。
国師ヶ岳までは私が先頭。歩き始めなのでゆっくりゆっくり高度を上げる。
途中で「北奥千丈、行きますか?一応奥秩父最高点です。俺は何回も行ってるのでここで待ってます」と言ってくれたので、ザックをデポして真っ暗な中、山頂を目指す。
しかし、たった往復10分なのに一人は怖い。幽霊に、熊、動物と嫌なことを考える。
歌を歌いながら進み、真っ暗な中山頂の証拠写真を撮り急いでまっさんの元に戻った。
国師ヶ岳山頂に到着。
まっさんが国師の名前の由来を教えてくれた。恵林寺の名前が出てきてちょっと親近感が沸く。月稜の山行が中止になった時、皆で観光に行った定番の観光名所だ。
朝焼けに染まる中、富士山に見守られながら進む。
あまりの美しさに、思わずため息が出る。
ここからは倒木が多いということで、まっさんが先頭。
長い足でヒョイヒョイ倒木を交わし、進んでいく。私は短い足でヨロヨロ乗り越えその度に遅れて彼を追いかける。
一瞬迷いそうになるが、直ぐに復帰する。倒木が多い割には、意外と登山者とすれ違い驚く。
美しい朝焼けの木漏れ日だなぁ…とノホホン歩いていると、このペースではたどり着かないとまっさんがペースを上げる。どんどん遠くなる後ろ姿を必死で追いかける。
まっさんは2~3時間に1度しか休憩を取らない。激しく息が切れて立ち止まりそうになるが、ここで止まってたまるかと食らいつく。
ふと、月稜加藤さんや平岡さんの後ろ姿がちらつく。モンブラントレーニング、そして他の山行でも本当にお世話になった。
まっさんは東梓で待っていてくれた。タイム差は10分だったそうで、まぁ許してやろうという雰囲気だった。
その後もまっさんとkumikoの差は開き続けたまま、ゼイゼイ言いながら追いかけた。 股関節の痛くない角度がやっと分かってきたが、たまにバランス失敗して悶絶する。 離れているので、私の叫び声が彼に聞こえないことが唯一の救いだ。
私があまりに息を切らしていたのか、すれ違った登山者に「頑張ってください!」と声をかけられた。いや、そんな中でも美しい富士山や紅葉とか、笹藪とか、一応めっちゃ見てるんやで。
美しい景色が見える度、まだまだ行ける、ガンバ!と自分を励ます。
昨年登った鶏冠尾根が美しく見える。見える山、尾根の見える角度が変わる度、まっさんは毎回丁寧に説明してくれた。
どうにか甲武信ヶ岳の山頂にたどり着いた。「山頂よりもこっちの景色の方が好きなんです」というので着いていくと…
確かに美しい景色が!本当に良く知っているなぁと関心する。
甲武信小屋の主人ともお友達とのことで、小屋に寄ると美味しいネパール茶と、またしても楽しい話を聞くことが出来た。
後から来た女性がテント泊装備だったので話してみると、なんと同じ笠取小屋を目的地にしていると教えてくれた。テント泊できちんと軽量化しており、しかも健脚。私ののろのろペースをとっとと追い抜き爆走していった。 あれくらいにならなければ。
甲武信を振り返る。
「これから核心が2つ待ってますよ。あれが雁坂峠、水晶を超えて、更に笠取山です」と尾根を説明してくれる。遙か彼方が私には見えない…まだまだ先は長い!昨年来た木賊山を通過すると、サイの河原がお出迎え。 甲武信がガンバと言ってくれたかは定かではないが、気合いを入れ直す。
美しい笹の広がる破風山避難小屋からは激登り。
ここでも置いて行かれるが立ち止まらずに頑張る。「コースタイムより少し早いですよ」の一言に、ちょっと嬉しくなる。小屋でまったりしていた時間を差し引いても早いのは以外だった。
2~3分休憩して雁坂峠を目指す。これが私は一番辛かった。もはや脚がヘロヘロ。股関節をかばっていたため片方の膝が痛くなってきた。雁坂峠で止まったまっさんを見たときが一番嬉しかったかもしれない。
またしても10分ほど待たせたが、ここまでも立ち止まらずに歩けた自分を褒めたい。相変わらず息が切れるのを整えつつ、ここで10分大休止。
休憩の度にゼイゼイと座りこみ、回復に時間がかかる。しかし休むとその後一定期間は足取り軽くまた歩けてしまうのが不思議だ。陸上部時代のタイムトライアルトレーニングを思い出す。
しかし、景色は本当に美しい。歩いてきた尾根が遠くまで見渡せる。思えば遠くへ来たもんだ。
時間が読めたということで、先頭は私に変わった。
ノロノロ歩くとあっという間に水晶山に辿り着いた。
まっさんが戦国時代にここでのろしを上げていたと知っており、残っていないかと探すが見つからない。 時間も無いので諦めると言い、古礼山を目指す。巻き道もあるのに…と思ったが、ここからの展望は本当に素晴らしいと教えてくれた。
行ってみると本当に美しかった!「ここを抜かしてしまう人も多いんですよ。本当にもったいないです。ここでテント張りたいくらいですよ」しばし二人で景色に見とれ、もう少しと仕方なく重い腰を上げた。
雁峠でまったりした後、
古くなり使用禁止となっている無人の雁峠山荘をチラ見して(前に来たときはシュラフが干してあったらしい)、笠取小屋のテント場へ。
「綺麗な木道の道だね」とまっさんに伝えると「ここは水道局が道を管理しているんですよ。ハイカーも来やすい場所です」と教えてくれた。
分水嶺の標識もあり、大切に使われていることが伺えた。
笠取小屋のテント場は大盛況で、人間達の他にも鹿10頭以上おり、夕食パーティーしているくらいの混雑ぶりだった。
担ぎ上げたウィンナーと野菜でスープを作るが、またしても量が足りず、味の薄いモノが出来上がった。小屋でカップラーメンを黙って買ってきたまっさんを見て本当に申し訳なくなる。次は、量はどれくらいあれば足りるのか、多いのか少ないのかもっと相談しよう。そして、次は調味料も忘れないように常備!
19時前にシュラフに入るも、食当の失敗が私の中で尾を引き、考えても仕方のないことを色々考えてしまう。明日も3時起きだ。
DAY3
朝3時。
股関節の状態は相変わらず痛いが、昨日よりは少しだけ機敏に寝具を片付ける。
またしても少ない朝食を取り、足らないので、担いできた行動食の食パンを提供した。 周りのテント群の明かりがつき始めた頃、昨日と同じく真っ暗な中出発。
この日はゆっくり歩こうということで、田中が先頭。水1Lと野菜が無いおかげで、昨日よりは身体が軽い。初っ端から登りの笠取山を目指す。
頂上付近は意外と岩稜帯で、驚く。
唐松尾山までは以外と風が抜けて寒い。シャクナゲの木がたくさん群生しており、良い時期に来たらどんなに美しいだろうと想像する。
ここからは稜線の景色と朝焼けを見ながら進む。
この縦走中、殆どの場所で富士山が私達に微笑んでくれていた。夜間行動をしていたら、この美しい景色は見られなかったと思うと、結果的に良かったのだと私は思う。
将監峠へ行く途中の笹の分岐で、まっさんからこの付近は武田信玄の金塊発掘の場所だったと話を聞く。 連日彼はそのような場所や道をいくつも教えてくれていたが、その度、昔の人はここまで来ていたのか…と思いを巡らせる。
「今、登山道はスポーツとして使われていますけど、昔は人々の生活の道だったんですよ。それを考えながら歩くのが俺は好きなんです」
黒部の話や、昔の人々の食料事情など色々聞くうちに、いつも何気なく歩いている登山道から人々の息づかいが聞こえてくるようで、不思議な感覚になる。
まるでスキーが出来そうな将監峠へ続く下り道を降りると、綺麗なトイレのある小屋に着いた。
ここも水道局が管理しているそうで、とにかく美しい。 「まだ疲れてないんで行きましょう」と休憩も早々に歩き出す。ここからはアップダウンの少ない長いトラバース。
「この道も、昔の水道局の人々が作ったんですよ。今も管理してます。重い荷物も運びやすいようにわざと平行に作ってあるんです」とまっさん。
それを聞いてから歩くと、苔の生えた石垣に妙な愛着を感じてしまう。岩には美しい苔の群生していて、時間の経過を感じさせる。その場でずっと人々の営みを見てきたのか… 連休最終日だからか、ここまで誰にも会わなかった。
そろそろ飽きてきた頃、ハゲ岩の標識が目に入る。スルーしようとすると「ここで休憩しましょう!」と言われノコノコ着いていく。そこにはもの凄い絶景が待っていた!!
歩いてきた稜線が見える。金峰山も見える。ここを知らずにスルーしようとしていたなんて、なんてアホだったんだろう。ここで、雲取山から来たという人々に会う。本日初めての人間達だ。
大休止の後、飛龍権現へ。「飛龍山山頂へ行きますか?俺はここで待ってますけど」行きたい気持ちはあるが、元々今回、飛龍山は行動予定に入っていない。今度改めて来ようと思い、先へ進む。
ここからはずっと笹の生い茂った登山道をトラバースしていく。
夏は綺麗に刈り込まれていた気がしたが、秋はやたらと元気に伸びていて以外と歩きづらい。気を抜くと脚を踏み外し笹藪へ転落しそうになる。
途中で間違えて道をロストし、後方のまっさんが気づいてくれた。稜線通しで歩かなければならないのに、踏み跡にまんまと騙され情けなくなる。
だんだん近くなる雲取山に、まだかまだかと期待が高まる。
延々歩いて、やっと三条ダルミ!
金峰山方面と雲取では、全く気温が違う。ここに来て、始めてお互いに夏用の日よけ防止を出した。 「あとはもう雲取山だ~!」と最後に登り切ると、見慣れた雲取山の山頂に出た!
私が来る時はいつも曇っている雲取山は、今回珍しく雲が少なく、大菩薩などの山々がしっかり見えた。
まっさんは今回の道を全て歩いており、雲取はもう何十回も来ているそうだが、繋げて歩けたことはやはり嬉しかったようで、二人でしばし感傷に浸る。
さてここで、下山場所をどうするか話し合う。計画書は奥多摩駅までと提出していたが、朝は、鴨沢下山にしようかと話ししていたからだ。
お互いにまだ脚は行ける。石尾根は何度も歩いている。3泊4日ではなく、2泊3日だから歩く意味がある。まだ時間に余裕があるのだから、奥多摩駅まで歩こうと意見は一致した。
見慣れた道を歩く安心感に浸りながら、まっさんから雲取山の名前の由来や、森林の話を聞きつつゆっくり下っていく。
七ツ石山の山頂から、七ツ石小屋の主人と奥様へまっさんが電話を入れる。
私が先日七ツ石小屋へ寄った際、縦走の計画を伝えたからだ。明るい奥様の笑顔と猫のデン五郎に会えないのは寂しいけれど、目的を果たすべく、先を急ぐ。
私の奥多摩デビューは、トレランで来た石尾根だった。
それから何度か来ているが、相変わらずの走りやすそうな道は変わらない。15時前になると段々と寒くなってきた。
鷹ノ巣山避難小屋には一人泊まっているようだ。
お互いの行動食が底を着いてきた。厳しいクライミングでは皆酷い食糧事情だよねと話す。頭の中で食料の算段をする。
ここからは夜間歩行もあるため、ヘッドランプを早めに装着して進んでいく。
暗くなるとペースが落ちることを考え、私はスピードを上げた。荷物は重いし脚も痛いが、トレランしていた頃の血が騒ぎ小走りに駆け下りる。「転ばないでくださいよ!」とまっさんが追いかけてくれる。
暗くなってきた頃に、登ってくる登山者とすれ違う。随分遅くに上がってきたなと思う。そろそろヘッドランプの明かりがないと厳しくなってきた頃、足元が見えずに躓くようになり、仕方なくスピードを緩めた。
六ッ石山近くでキラキラと稜線が光ったので、人がいるのかと思ったら、なんと街の明かりが美しく瞬いていた。
真っ暗な中、お互い無言で歩く。まっさんの持ってきたラジオの音に癒される。 限界の脚と空腹を引きずりながらゆっくり下っていくが、真っ暗になり道が良く分からなくなってきた。何度も歩いているはずなのに、核心を持って進めない。
まっさんが現在地を的確に捉え、後ろから指示を出してくれる。何とも情けない気持ちのまま進んでいく。 不老線の明かりがチラチラと見えて、転びそうな土道を越えまだかまだかと思っているとやっと見慣れた神社と道路へ出た。
前はここに大きな百合が咲いていたなと思っていると、ここでまたしても少し道をロストする。情けなし。
登山道と道路を交互に歩き、当初の計画通りの時間に奥多摩駅へ到着した。
ずっと歩いてみたかった金峰山~雲取山縦走。
この紅葉の美しい時期に最適な気温の中、素晴らしい仲間と歩くことが出来て本当に楽しかった。
久々の縦走は、当然のように体力不足の実感と、様々な登山技術の不足を改めて実感する山行になった。いつもは気にとめていなかった失敗もたくさんした。しかし、アイガートレーニングも、私の山もまだまだ始まったばかり。長くやっていると、だんだん形になってくると信じて、また一から作っていこうと思う。
まっさん、最高の3日間をありがとう!
コースタイム 一日目 みずがき山荘9:59~富士見平小屋10;42~鷹見岩分岐11:36~金峰山小屋13:45~金峰山14:27~16:30頃大弛峠(テント泊)約6時間半 二日目 大弛峠4:17~北奥千丈ヶ岳17:01~国師ヶ岳17:15~甲武信ヶ岳9:35~破風山11:54~雁坂峠13:21~水晶山14:00~古礼山14:23~雁峠15:35~笠取小屋16:00頃(テント泊)約12時間半 三日目 笠取小屋4:26~笠取山5:09~唐松尾山6:02~将監峠7:48~ハゲ岩9:52~三条ダルミ12:30~雲取山13:16~七ッ石山14:38~鷹巣山避難小屋15:56~六ッ石分岐付近17:22~道路合流地点17:05~奥多摩駅19:43 約13時間半
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【高知】滿滿大自然之旅Day1,室戶岬、古良川街道、莫內庭院,宿TAMAI飯店
第一次搭乘日本國內線獻給了京都到高知!
ANA 大阪伊丹空港-高知龍馬空港,
平日早晨,往機場的利木津巴士竟然充滿了人,
好多上班族要從機場通勤~
(附京都往伊丹空港的交通連結,巴士車程竟比飛機時程還要久==)
一個多小時的車程,巴士抵達大阪伊丹空港,
空港主要飛國內線,也有看到幾個國際線航班,
機場雖小,但有書店有星巴克。
首先需要到下列這個機器把搭乘券列印下來,
因為沒有託運行李,所以也不用到櫃台排隊,
千萬別傻傻地排隊等候CHECK IN(我就排了半小時= =)
上了二樓,決定先飽餐一頓,
選擇了有大片落地窗的咖啡廳,
看著飛機滑行,是愉快的早餐時光!
安全檢查是起飛前15分鐘,
身上攜帶水也沒關係,
過了X光機,一下就出境了,
國內線感覺就像是買票搭車般,也不需要檢查護照,
從上飛機到降落,不到一個小時的時間,
高知就到達了!
高知龍馬機場,從下機到出關,大約10分鐘,
非常快速,一到機場就可以看到坂本龍馬的雕像。
高知三天兩夜的小旅行就此展開,
第一天要到離機場約一個半小時車程的室戶,
開了40分車程後,先到田野駅屋休息(日本的休息站)
這邊宛如高知特產小縮影,
各式柚子製品、高知特產(番茄、茄子、鹽巴)
還有各式熟食這邊都有!
旁邊也有一個小食堂,販售簡單便宜的麵食~
地址:高知県安芸郡田野町1431-1
官網
各種吉祥物
超多柚子商品
第二站來到室戶地質公園中心,
這邊除��有地質模型展示,還可以拿取地圖,
在這裡發現高知扭蛋~
紀念品店的商品還是可以看到柚子製品,
這邊多了好多海洋深層水的商品。
地址:室戸市室戸岬町1810-2
官網
接著來到室戶岬在礁岩上散步,
偶爾在岩石上可以看到紅色的螃蟹,
往前走是月見之濱,聽說這邊是賞月的超好地點!
另一邊有日本幕末的維新志士中岡慎太郎的雕像,
雕像上方有個展望台,上面寫著戀人聖地,
如果天氣好時,應該可以看到漂亮的無敵海景吧~
地址:室戸市室戸岬町
官網
附近有個非常美麗的洞穴-御厨人窟,
不過因為落石很嚴重所以暫不開放(想去)
接著搭車行駛一小段路,來到室戸岬灯台,
要到灯台前會先經過西國24番靈場最御崎寺,
當天濃霧迷茫,真的有種神秘的感覺!
接著前往附近的古良川街道,
早期這邊因為運送土佐備長炭聞名,
這邊有特殊的白壁、紅牆建築(一度感覺好台灣)
安靜的街道上有老式的理髮廳、麵包店與小雜貨店,
散步時還可以在民宅門口發現用土佐備長炭製作的風鈴,
叮叮噹的清脆聲音,很好聽!
地址:室戸市吉良川町
官網
今天最後一個行程,莫內庭園~
以莫內的畫作為靈感,
是座非常美麗的花園!
雨天午後整座庭園只有兩組客人,
有種包場的愉快感!
水之庭園
太鼓橋與荷花池是最佳拍照地點!
光之庭園
充滿地中海風情的各式植物
花之庭院
除了種植多種花卉,這邊還有小溫室,
可以選購植物跟花器。
這邊的紀念品區除了柚子商品
還可以找到很多跟莫內與花卉有關的紀念品
地址:高知県安芸郡北川村野友甲1100番地
官網
傍晚入住安芸市的TAMAI飯店,(竟然還是APA飯店旗下)
單人房附早餐網路訂房只要5700日圓!
雖然飯店不是很新穎,有點老舊,但簡單乾淨~
最棒的是早上從房間望出去,可以看到太平洋,
而且頂樓吃早餐時,餐廳的大片窗戶,
一邊是太平洋、一邊是高山平原,
超級美麗,讓人印象深刻!
地址:高知県安芸市矢ノ丸1-6
官網
看飯店比價
晚餐時間在飯店附近的一間小食堂用餐,
はっしゃん居酒屋(姑且稱之呵呵山居酒屋)
炸竹筍、茄子、魚類料理都好美味,
居酒屋對面還有一間當地的大超市,
超級方便!
地址:高知県安芸市港町1-1-8
下次來日本玩,
不妨選擇有滿滿大自然的高知,
感覺會有另一種不同的感受喔!
高知大自然之旅行程總覽
Day 1-高知龍馬空港-田野駅屋-室戶地質公園-古良川町-莫內庭院-宿TAMAI HOTEL
Day 2-馬路村-にこ淵-土佐和紙工芸村-桂濱-宿PALACE HOTEL-hiromeひろめ市場
Day 3-高知駅-購買MY遊BUS一日券-牧野植物園-竹林寺-播磨屋橋-高知龍馬空港
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日本多多 ALOT JAPAN
【高知大自然之旅】滿寺青綠的五臺山竹林寺
【高知大自然之旅】JR高知駅&MY遊BUS 一日遊票券介紹
【高知大自然之旅】MY遊BUS 一日遊,牧野植物園
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●アッツ島●キスカ島●樺太●占守島
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●アッツ島 キスカ島
◆アッツ島の戦い - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/アッツ島の戦い
アッツ島の戦い(アッツとうのたたかい、Battle of Attu)は、1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ軍のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦闘である。
◆アッツ島- Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/アッツ島
アッツ島(アッツとう、英: Attu Island)は、アラスカ州・アリューシャン列島のニア諸島最西部にあるアメリカ領の島。東西70km、南北30kmの大きさ。
かつて日本軍によって熱田島(あつたとう)と命名された。
2015年現在、厳しい上陸規制があるため無人であり、アメリカ沿岸警備隊の巡回以外に上陸者はいない。
島内に存在する飛行場の滑走路は、老朽化が進み大型機の着陸は不可能とされている。重機を運び込むことも難しく補修計画は立てられていない。
◆日本軍によるアッツ島の占領 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本軍によるアッツ島の占領
日本軍によるアッツ島の占領は、太平洋戦争中のアリューシャン方面の戦いにおけるAL作戦の一環として、日本軍により占領された。アメリカ合衆国本土が外国軍隊により占領されたのは1812年の米英戦争以来初めてのことであった。アッツ島の戦いでアメリカ軍が島を奪還して日本軍による占領は終了した
◆アッツ島沖海戦 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/アッツ島沖海戦
アッツ島沖海戦(アッツとうおきかいせん)は、第二次世界大戦中にコマンドルスキー諸島近海で起きた日本海軍とアメリカ海軍との間の海戦。連合国軍側の呼称はコマンドルスキー諸島海戦(Battle of the Komandorski Islands)。
細萱戊子郎中将 森友一少将: チャールズ・マクモス少将
大日本帝国: アメリカ合衆国
重巡洋艦2 軽巡洋艦2 駆逐艦4 輸送船3: 重巡洋艦1 軽巡洋艦1 駆逐艦4
重巡洋艦1小破戦死14、負傷26: 重巡洋艦1小破 駆逐艦2小破 戦死7
◆アッツ島血戦勇士顕彰国民歌 https://youtu.be/MsNo-Y6qjA8 2015/03/28
◆アニメンタリー『決断』 第16話 キスカ島撤退 2013/11/14
https://youtu.be/aeuVSMxP_ag
◆キスカ島 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/キスカ島
キスカ島(キスカとう、英語: Kiska)は、アリューシャン列島西部のラット諸島に位置し、アメリカ合衆国アラスカ州に属する島である。 “キスカ”の名は、この地方に居住していた先住民族であるアレウト族がこの島の呼称として用いていたアレウト語(英字転化:Qisxa)に由来する。
◆キスカ島撤退作戦 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/キスカ島撤退作戦
キスカ島撤退作戦(キスカとうてったいさくせん)は、1943年(昭和18年)5月27日から7月29日に行われた日本軍の北部太平洋アリューシャン列島にあるキスカ島からの守備隊撤収作戦のことである。正式名称はケ号作戦。
北方部隊指揮官河瀬四郎第五艦隊艦隊司令長官が総指揮をとる。
5月下旬から実施された潜水艦による第一期撤収作戦は成果の割には損害が多く、また効率も悪かったため6月下旬をもって打ち切られ、水上艦艇による撤退作戦に切り替えられた。
第一水雷戦隊司令官木村昌福少将が収容部隊を指揮した第二期撤収作戦において、同艦隊がキスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず日本軍が無傷で守備隊全員の撤収に成功したことから「奇跡の作戦」と呼ばれる。
大日本帝国: アメリカ合衆国
潜水艦3: 戦死2
河瀬四郎中将 古宇田武郎少将 木村昌福少将: トーマス・C・キンケイド中将
◆コテージ作戦 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/コテージ作戦
コテージ作戦(コテージさくせん、Operation Cottage)は、太平洋戦争中の1943年8月に行われた、アメリカ軍などによるアリューシャン諸島のキスカ島への上陸作戦である。本作戦は、大日本帝国陸軍のキスカ島守備隊が撤退した後に実行された。
なし(軍用犬3匹): 34,426; 戦艦3隻; 巡洋艦2隻など
なし: 同士討ちにより戦死122; 行方不明191; 駆逐1隻大破
◆キスカ島の奇跡について調べてみた - 草の実堂
https://kusanomido.com/study/life/military/25303/
2018/02/10
1942年6月、大日本帝国海軍はアラスカ半島に近いアリューシャン列島のアッツ島とキスカ島を攻略し、ここに守備隊を配備した。
しかし、アラスカ半島に近い両島はアメリカ軍にとっては目障りな存在であり、日本に対する反攻作戦が開始されると、両島も攻略目標となったのである。
目次
アッツ島の玉砕
守備隊を救出せよ!
キスカ島突入!
キスカ島の奇跡
日本では活躍できなかった「日本製アンテナ」
最後に
◆昭和18年のキスカ島撤退作戦は、適切な霧予報で成功した奇跡の作戦
https://news.yahoo.co.jp/byline/nyomurayo/20160729-00060070/
2016/07/29
昭和18年7月29日、アルーシャン列島ほぼ中央部のキスカ島守備隊5183名が撤退をしています。5月中~下旬には、連合軍上陸作戦によって近くのアッツ島守備隊2600名のほとんどが戦死するなか、入念な準備と時期を待つ忍耐力、適切な霧予報で無血撤退でした。
同年の2月のソロモン諸島・ガダルカナル島撤退で多数の犠牲者を出すなど、太平洋戦争初期に太平洋の島々に展開した日本軍は、連合軍の反攻のまえに、多大な犠牲が相次いでいますので、奇跡の作戦でした。
◆アッツ島玉砕の悲劇が導いた、キスカ島撤退の奇跡 | WEB歴史街道
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4103
2017/07/14
「断乎反撃せよ!」 アッツ島玉砕から奇跡のキスカ島撤退へ。後世に伝えたい誇り高き日本人たちの知られざる戦記。
◆キスカ島の奇跡、占守島の真実、ムルデカ独立の約束… 「断乎反撃せよ!」
2017/07/13 https://youtu.be/Gx03SZNKFVA
奇跡のキスカ島撤退、ソ連軍を撃退した終戦後の占守島、インドネシア独立を助けた残留日本兵たち……。後世に伝えたい誇り高き日本人。
https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-83655-3
◆占守島の戦い 昭和20年8月18日 ソ連による日本の分割占領を断固阻止した史実 2017/01/23 https://youtu.be/9oNT1fjsQ3c
スターリンの野望、ソ連による日本の分割占領を断固 阻止した将軍・樋口季一郎の決断。ソ連が、日ソ不可侵条約を破って非道な軍事侵攻を行う中で、北海道と日本を救った占守島の戦い。樋口季一郎の決断こそが、ソ連の日本分割占領を食い止めた。映像:企画・制作 株式会社 ACC
◆占守島〔シュムシュ〕 日本以外の国は卑怯者ばかり 嘘つき 特に ...
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2012/08/20 - 占守島〔シュムシュ〕○日本以外の国は卑怯者ばかり 嘘つき 特に大陸の国は ☆ねずさんの ひとりごと 占守島の戦い http://p.tl/3q0s 今日、8月20日は、樺太の真岡市で、郵便局の電信局の職員の女性9人が、集団自決をされ...
◆●ソ連対日宣戦布告 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/ソ連対日宣戦布告
ソ連対日宣戦布告(ソれんたいにちせんせんふこく 英語: Soviet Declaration of War on Japan)
1945年(昭和20年)8月8日に、ソ連が日本に対して行った宣戦布告を言う。
この布告では、連合国が発表したポツダム宣言を黙殺した日本に対し、
世界平和を早急に回復するために「武力攻撃を行うこと」が宣言されている。
これに先立ち、1945年(昭和20年)4月5日に、
ソ連は日ソ中立条約の不延長(事実上の破棄)を通告していた。
ソ連軍は連合国の要請により対日参戦し、
満州国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島への侵攻を開始し、
日本軍と各地で戦闘になった。
既に太平洋戦線の各地でアメリカ軍に敗退していた日本軍には、
ソ連軍の進撃を防ぐ手段は無く、日本の降伏を決定付けた。
布告はモスクワ時間1945年8月8日午後5時(日本時間:午後11時)、
ソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣から日本の佐藤尚武駐ソ連大使に
知らされた。
事態を知った佐藤大使は、東京の政府へ連絡しようとした。
モロトフ外相は暗号を使用して東京へ連絡する事を許可した。
そして佐藤大使はモスクワ中央電信局から日本の外務省本省に打電した。
しかしモスクワ中央電信局は受理したにもかかわらず、
日本電信局に送信しなかった。
なお、ソ連の宣戦布告に対する日本側の措置であるが本来対ソ宣戦を
決定すべき最高戦争指導会議がポツダム宣言受諾問題で紛糾していたため、
対ソ宣戦問題を討議する余裕が無く、結局日本側からの対ソ宣戦は行われなかった。
よって、日本側の対ソ戦闘は、国家としての意思決定された戦闘ではなく、
ソ連軍の攻撃に直面する現場での防衛行動という色合いが強い。
ソ連軍の攻撃は8月9日午前零時を以って開始されている。
●占守島の戦い - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/占守島の戦い
占守島の戦い(しむしゅとうのたたかい)は、大東亜戦争終戦後(もしくは終戦準備・戦闘停止 期間中)の1945年(昭和20年)8月18日 - 21日に、千島列島 ... 千島列島のほぼ最北端にあり、北東は千島海峡(ロシア名「第1クリル海峡」)を挟んでカムチャツカ半島ロパトカ岬に面する。南には幌筵 .... 15日、日本軍のポツダム宣言受諾が公表され、正午にはソ連軍を除く連合国軍は積極的な行動を停止し、大部分の戦線で停戦状態となった。
●日本を救った「占守島」の真実 - iRONNA
https://ironna.jp/theme/435
終戦直後、祖国を分断から救うべくソ連軍に敢然と立ち向かった日本兵がいた。昭和20年8月17日、千島列島北東端の島・占守島にソ連軍が突如侵攻し、樺太のみならず北海道の領有までも目論む熾烈な戦いが始まった。北方の島で死闘を演じた誇り高き男たちの覚悟とその思いとは。
敵の無法に敢然として起つ
1945年、占守島…日本を分断から救った男たち
『歴史街道』 2015年12月号
早坂隆(ノンフィクション作家)
終戦後の「忘れられた戦い」
日本は昭和20年(1945)の何月何日に戦争を終えたのか――。
この問いに「8月15日」と答えない日本人はまずいないと思います。
一方、大東亜戦争(太平洋戦争)におけ
る「地上戦が行なわれた日本の領土」といえば、
多くの方が「沖縄」を連想することでしょう。
しかし、「終戦の日」の2日後、昭和20年8月17日の深夜、
紛れもない日本の領土で始まった戦いが存在したことについては、
知る人が少ないように思えます。
日本領千島列島の北東端・占守島(しゅむしゅとう)に不法侵攻してきた
ソ連軍に対し、日本軍が祖国を守るべく戦った「占守島の戦い」です。
現在の北方領土問題へとつながる出来事でもありました。
●池上彰も「驚くべき史実」と語る占守島の戦い | WEB歴史街道
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/2654
2015/11/20
「まさに教科書に載っていない歴史」(池上彰)
今年の夏以降、にわかに話題を集め続けている太平洋戦争期の「秘史」がある。
1945年8月の「占守島(しゅむしゅとう)の戦い」だ。
占守島の戦いとは、太平洋戦争が「終戦」した2日後の
1945年8月17日深夜(18日未明とも)、日本領だった
千島列島北東端・占守島に、ソ連軍が攻め込んだ出来事だ。
当時、日本とソ連は中立条約を締結していたが、ソ連は千島列島、樺太、
さらには北海道の北部を日本から奪い取ろうと「不法侵攻」を仕掛けた。
この時、ソ連軍の侵攻を食い止めたのが、占守島に残っていた日本軍将兵だった。
この史実は、戦後の日本においては、作家の浅田次郎氏が小説『終わらざる夏』
で題材にしたことはあったが、語られることは多くはなかった。
「8月15日、皆が無事に帰れたわけじゃない」(宮崎美子)
「終戦って、いつなのか。1945年8月15日じゃなかったのではないか。どこで区切りつけるのか。占守島の戦いは、まさにその話。8月15日に玉音放送があって、その場で全部戦闘は終わり、皆、無事に帰れたわけじゃなかった。そこから始まった戦いがあって、その結果が、今の北方領土問題にもつながっています。
今回、ロシアでの取材で現地の方の話を聞きました。千島列島は、もともとは平和的にロシアと日本で条約が結ばれて、平和裏に日本の領土になったのですが、そうじゃないように現地では教えられていました。『日露戦争の時に奪い取られた千島列島を、我々が血で購って取り返した』と。
『だから北方領土も自分たちのものだ、当然だろう』って怒られたこともありました。そうした点は、実際に取材を行なわないと分からないことです」(宮崎美子氏)
ロシアの教科書には、占守島の戦いでは「正義の戦いとして載っている」(池上氏)という。その一方で、日本においては宮崎氏が「正直、私もこれまでは知らなかった」と語るように、ほとんど語られることはなかった。
侵略戦争と色んな方面から洗脳されて育った終戦以後 生まれの人間が今一度歴史の書を解いて見てはどうかな。
侵略戦争をしたと一方的な意見を押しつけられている。
戦争というモノはしてはいけない事では有る。
平和が一番。
平和だから良いだけでは済まない。
今現実に平和ボケし過ぎて世の中変になって居る。
物事総て行う時には何らかの理由が有り決行している。
今回の戦争も裏に色んなモノが絡んでいるのは間違いない。
人の持っているモノが欲しいだけで侵略していったのだろうか。
も一度原点に立ち振り返って見るのも大事では無いだろうか。
「アメリカ人も原爆について複雑な思いがある」スタンフォード大の研究者、戦争を語る【終戦の日】
https://www.huffingtonpost.jp/interveiw-dan-sensei_n_17747496
2017/08/14
なんども過去を思い出し、記憶し続けないといけません。オバマ前大統領がリスクを取って広島をたずね、戦争の記憶を蘇らせたことは貴重なことなのです。
竹下隆一郎
太平洋戦争が「終わり」を迎えてから、2017年8月15日で、72年がたった。今となっては遠い昔のことのように思えてしまうが、2016年5月、アメリカのオバマ大統領が現職として初めて広島を訪問した。
その直前、ハフポスト日本版はスタンフォード大学アジア太平洋研究所(APARC)のダニエル・スナイダー研究副主幹を取材した。
アメリカでは、広島と長崎への原爆投下が戦争を早く終わらせた「必要な手段だった」と考える意見も強い。スナイダーさんは、小さいころに日本に住み、記者として日本に滞在経験もある。戦争に対する日本人の心情に思いを寄せつつ、複雑なアメリカ人の「胸のうち」も語った。「8・15」に改めてスナイダーさんの言葉を紹介したい。
オバマ前大統領がリスクを取って広島をたずね、戦争の記憶を蘇らせたことは貴重なことなのです。 ... アメリカ人も原爆について複雑な思いがある」スタンフォード大の研究者、戦争を語る【終戦の日】 ..... 宇宙から見た光の街、いくつわかる?
◆【士魂】しこん 士魂部隊 侍
https://plaza.rakuten.co.jp/shibaracu/diary/201211130001/
2012/11/13
★しこん 2 0 【士魂】
武士のたましい。
★昇平夜話(しょうへいやわ)
江戸時代の武士の教訓書。上下2編、10巻。無苗氏著。1796年(寛政8)成立。無苗氏は、越後(えちご)(新潟県)長岡藩の儒者高野常道。... おもに諸侯に関する雑話を記し、下編は、風俗・賞罰・武備・文武・節倹・士魂・俸禄(ほうろく)・諸役人・衣服・飲食・家居・雑事の12章に分かれ諸士の心得となるべきことを述べる。
◆1946年 2月20日 ロシアは押し込み強盗 千島・南樺太の領土編入を正式に宣言
https://shibaracu.blogspot.com/2013/02/1946-220.html
★ソ連が千島列島・南樺太の領土編入を正式に宣言(1946年)
所在地 ロシアの旗 ロシア (北樺太)
※現在も日本とロシアの間で平和条約が未締結であり、国際法上北緯50度以南(南樺太)は帰属未定地である。
★樺太 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/樺太
1945年までは北緯50度線を境にして、南半分(南樺太、南サハリン)を「樺太(カラフト)」として日本国、北半分(北樺太、北サハリン)を「サハリン(ロシア語: Сахалин)」としてソビエト連邦が領有していた。日本領有下においては、南樺太およびその付属島嶼を指す行政区画名として「樺太庁」が使用された。
現在はロシア連邦が北樺太の領有に加え、南樺太をも実効支配している[1][2]。南樺太については、日本はサンフランシスコ講和条約によって放棄させられた(しかし、一部の日本人が領有権を主張している)。一方で、ロシア(ソビエト連邦)は、日本との間に南樺太に関する条約は結んでおらず、サンフランシスコ講和条約にも調印していない。従って、国際法上は日本の土地ともロシアの土地とも認められていない(帰属未定地域)とするのが日本政府の立場であるが、日本の他にロシアの領有権を否定する国はない。この問題は北方領土問題との関係も深い。
ただし、日本政府はロシアの実効支配について「異議を唱える立場にはない」としている。南部のユジノサハリンスクには日本国の総領事館が置かれており、島全体(サハリン州)をその管轄とし、所在地も「ロシア・サハリン州・ユジノサハリンスク」としている。
第二次世界大戦における日本本土最後の地上戦が行われた地でもある。
◆占守島(しむしゅとう)https://ja.wikipedia.org/wiki/占守島
占守島(しむしゅとう)は、千島列島北東端の島。ロシア名はシュムシュ島(о.Шумшу)、英語表記はShumshu。サンフランシスコ条約締結以来、領有権の帰属は未確定であるが、ロシアの実効支配下にある。
元禄御国絵図にある地名「しいもし」や鳥居龍蔵の記録にある「シュモチ」はこの島に当たるとされる。
島の名前の由来は、アイヌ語の「シュム・ウシ(南西・<そこに>ある→南西に存在する、或いは南西に入る)」からとする説があるものの、この島の語源を「シー・モシリ(本島)」とし新知島の語源を「シュム・シリ(西島)」とする説や、占守島を「シュム・シュ(油・鍋)」とし新知島を「シュム・ウシ(南西にある、入る)」とする説もあり、山田秀三は「判断がつかない地名」としている。
現在この島の住民は灯台守だけで民間人はいない。また島への上陸はロシア連邦軍の許可が必要で、ペトロパブロフスク・カムチャツキーからヘリコプターで約2時間かかる。
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