Tumgik
0shoyamane0 · 1 year
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フクリキャオ
「遅かったね、ワラーリキ・サベリキャオ。君はいつも時間に遅れてやってくる」 「すみません、神父さま。ごみの回収に手間取ってしまったのです。今日は火曜日だというのに、呑気なわたしは月曜日だと勘違いしてしまっていました。呆けてしまったのかな、この歳で。いやいやすみません。老人差別ではありませんよ。それに一体、神父さまだって年を召されている。いうなれば老体に鞭打ってここまではるばるこられたのだから、私は目の前の老人、ひいては全ての老人に親しく、親切にするべきだと思っています」 「いやに早口なことだよ、サベリキャオ。別に私は君を責めていない。ご覧なさい。この綺麗な雪景色を。雪もしんしんと降っている。心の落ち着くところだよ、サベリキャオ。それにどうだろう、熱いコーヒーもある。一杯いかがかな」 「ありがとうございます、神父さま。頂きます。実を言うととても寒くて、何か温かい物が欲しかったんです。けど老人に物をねだるのは良くないでしょう? 遠慮していたんです。老人の方から、いや神父様の方から言ってくださると若輩者としてはとても助かるのです」 「気にすることはないよ、サベリキャオ。それにしても、物知りな君に早く聞きたかったことがあるのだよ、サベリキャオ」 「なんです、神父さまも知らないことを私が知っているとは考えづらいですが。たしかに私はこの町で初めて高等教育というものを受けましたが、神父さまの経験には敵うはずがありませんもの」 「何を謙遜するのか、サベリキャオ。とにかくあの木にとまっている鳥をみてくれたまえ。とても大きな鳥だよ。あれはフクロウかね」 「どれです、神父さま。あの遠くの木にとまっている奴ですか」 「違うよ、サベリキャオ。その近くのうんと高い木にとまっているやつだよ。フクロウだろうかね。あの鋭い目と、丸っこい頭は」 「あれは、神父さま。フクロウではありませんよ」 「じゃあ、サベリキャオ。一体なんなんだね」 「フクリキャオです」 「フクリキャオ?」 「そうです、神父さま。フクリキャオです」 「フクリキャオはフクロウとは違うのかね」 「いいえ、一緒です」 「それならフクロウではないか」 「いえ、フクリキャオです。というよりも、フクリキャオであるべきなのです」 「一体、サベリキャオ。君の言っていることはどう言えば良いか、まどろっこしいというか、幼稚だ。仮にそれがフクリキャオだとして、フクリキャオはフクロウなのだから、あれはフクロウではないか」 「神父さま、それは正しくもあり、間違いでもあります。フクリキャオがフクロウと同じだとしても、フクリキャオはフクリキャオでしかないのです。これは公理なのです、フクリキャオがフクリキャオであることは絶対的に、不可侵のことなのです」 「不可侵──」 「はい、神父さま。不可侵です。不可リキャオともいうことができるでしょう」 「不可リキャオ?」 「はい、不可リキャオです」 「いい加減にしたまえ、サベリキャオ。君の言葉遊びは素っ頓狂で面白くない。不愉快になる。フクリキャオに加えて不可リキャオなんて、こんな不毛なやりとりは何になるのかね。そもそも君はとういうつもりなのかね」 「どういうつもりも何も、神父さま。──コーヒーのおかわりをお願いします」 「……。」 「神父さま、コーヒーをもう一杯、お願いします」 「──わかった。あげようサベリキャオ。些細なことだ。別に君も私の機嫌を損ねようとしたわけじゃあるまいし、しかし」 「そんな、神父さま、私はそんなつもりで話をしている訳はありませんよ。言葉遊びというのは、どう言えば良いか、根っからの〝癖〟みたいなものなのです。留めようと思えばかえってタチの悪い他の癖が滲み出てしまうくらいに、私に染みついたものなのです。どうかお許しくださいませ」 「いや、サベリキャオ。とうとう今日は許さない。君とは今日でお別れだ。二度と私の前に現れないでくれ。このやりとりも今日で何十回目と思っているのかね」 「お言葉ですが、神父さま、三十回を超えてからは数えておりません」 「当然だ、サベリキャオ。それほどまでに同じ過ちを繰り返していることの稀有さをこそ、むしろ誇ると良い」 「取り返しのつかないことをしてしまったようですね」 「そうだよ、サベリキャオ」 「それではさようなら、神父さま。コーヒー、ごちそうさまでした」 「ああ、達者でな。サベリキャオよ」 ──静まり返った永訣の闇を、一羽のフクリキャオが音なく切り裂き、消えた。(了)
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0shoyamane0 · 1 year
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夜・猿・気付き
夜になって風が強くなった 部屋の外で洗濯物が揺れている 窓が風に押されきうきうと鳴っている さいきん気付いたことがある 猿が嫌いだと思っていた けどそうではなかった 《卑しさ》を軽蔑していただけであった 実際に まるまると太った猿を私は気に入っている 風はまだきうきうと窓を鳴らしている
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0shoyamane0 · 1 year
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小さい穴
目の前に穴がある 少し小さいが、単なる穴 私の体では通れないだろう けれど関節を外せばいけるかもしれない 目の前に穴がある 少し汚れているが、単なる穴 彼女の体でも通れないだろう けれど関節を外せばいけるかもしれない 思いとどまった 何度も 恐ろしいから だが 私たちは! とうとう外した それぞれの関節を とうぜん痛みを伴った けれど私たちは! 穴を通り抜けた 関節は思ったよりも簡単に元に戻った
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0shoyamane0 · 2 years
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一体、私は何が言いたいのか
一体、私は何が言いたいのか、それが問題である。何か言いたいことがあれば、それで無問題(モーマンタイ)だ、というオプティミストもいるが私はそうはなれない。どう転んでも、私は一介の鉱夫でしかない。
凡夫──そう言い換えることも無論、できる。何が言いたいのか、わからないまま書いているのがこれまでの私である。そして書くことによって何を言いたいのか明らかにしたいわけでもない。ただ書くということに依存的になっているだけで、言い換えれば書き散らかしでいるというだけのことである。書くという行為は中毒にさえなる。それに依存してしまう力がある。極めて享楽的な、退廃的な因子というものがある。
これまでに何度も、書き言葉から一切、離れてみたいと考えたことがあった。現実に、世界に存在する言葉の多くは書かれていない。当然である。隣町の中華屋に住む三男坊の戯言までも文字にしてしまったらこの世界は文字禍に襲われる。あの中島敦だって真っ青(まっつぁお)になる。
実は私に言いたいことなどなかったかもしれない──という仮説を立てると妙に納得したような顔になる。それはまるで病院を受診しただけで何の治療も受けていないのに殻が楽になったと錯覚するのと似ている。見掛け倒しの対処で済むのであればそれもまた幸福の亜種かもしれない。
その一方で、私に言いたいことがない《故》に文章を書かせるという現実の確らしさを示す考えもある。それは私のこれまでの成果物に表れている。
本という物体として、複数枚の紙が綴じられて記録物とされるためにその余白を文字で埋めていくという作業。ノートブックに本らしさを与えるための作業。原稿用紙のマス目を埋めていく作業。
初めから言いたいことがあるわけではなく、埋めなければならない余白があり、それを埋める作業に都合の良い題材を見つけ文字に変換しているだけに過ぎないという極めて陳腐な「軽さ」──それこそが私の言いたいこと(=してきたこと)なのかもしれない。
もちろんここで論を閉じるのは早合点にもホドがある。実際的に言えばこれではまだ余白が埋められていない。キリのいいところまで進めてこそ作業たりうる。
再開することなく、了。
(2022.10.10)
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0shoyamane0 · 2 years
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死の技法とスケートボーディング・ミックステープ
スピードは死を連想させる、という考えはもはや古典である。というよりも、死にはスピードが必要であると仮定することが現代の気構えというものなのではないだろうか。
現代社会というものは基本的に加速度的に退廃するものであるし、私はそうあるべきとも思うが、その速度に抗おうとするものがいることも知っている。彼らは自動車を運転しない。オートバイに乗らない。そしてスケートボーディングをしない。
スケートボードに乗るときに必要な道具は何か。それはヘルメットでもプロテクターでも、スケートボード自体でもましてや身体でもない。必要なものはただ一つ、死ぬ為の技法である。
イッツ・ベリー・アン・アート・オブ・デス。
スケートボーディングのミックステープをご覧になったことがある人──見たことのない人よりも数は多い──は総じて日常生活の中から死に方を学んでいる。
人は特段、自分から望まなくても死に面している。胎内にいる時から絶えず動き続けている脈動が今日止まらないという保証はどこにもないし、大きな鳥が何かの手違いで亀の甲羅を落っことしてしまうことだって否定できない。大雨の日には雷に打たれる準備があるし、交差点ではよそ見運転をした車がこちらに目がけて進んでくることなど、起こらないことの方がよっぽど不思議なのである。
アスモンテスの『然るべき在り方』によれば「自ら死にもたれかかっているくらいがちょうど歩きやすい」と書いているし、モンテスキューの『エセー』には「哲学することは死に方を学ぶこと」という章もある。まるきり死を生活と切り離して過ごしている方がおっかないと思うのは私だけではないだろう。
スケートボードは言うなれば木の板に車輪がくっついた、素朴な遊び道具であり、一見するとイタイケである。しかしながら、我々は洗面器を満たすだけの水で窒息死できることを思い起こしてほしい。車輪のついた板が洗面器より鋭い致死性を持っていることなど容易に想像がつくだろう。人はおもちゃで遊ぶこともできるし死ぬこともできる。
スケートボーディングにおけるミックステープを見れば難易度の高いトリックを成功させた際のその難易度を強調する演出技法として、複数回の失敗テイクが挿入されていることに気付くだろう。これはある種のスーサイド・ポルノ(自殺に関する誘発刺激)とも言える。ライブ・リークが存在しない今、人は過激な映像を求めてスケートボーディング・ミックステープを見漁るようになった。
フェイル・ヴィデオ(失敗映像)の堆積はやがて芸術性を拡大させ、既存の芸術と結びついた。その傍点としてスケートボーディング・ミックステープは、在る。これによって人は擬似的に死ぬことが可能になった。それは性的情動をポルノグラフィを鑑賞することによって代替することに幾分か合致する。言い換えれば、人はもう死に方を学ぶために哲学しなくて良くなった! 必要なことはただ一つ、スケートボーディング・ミックステープを見ればいい──。
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0shoyamane0 · 2 years
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あなたはなぜ、アルコール飲料を飲むことを嫌うのですか。それほどまでに──私は目の前の猿が上海語を話していることにはそれほど驚かなかった。それよりも自分が何の服も身につけていないことの方で不思議だった。そして強烈に情けない気持ちになった。
「大丈夫ですよ」と猿は言った。「私だって何も身につけていませんし、あなたは立派な体をしていますから」──私は自分の体がどうなっているか気になった。しかしいくら頭を働かせても自分の体型はおろか、姿や顔といった少しの特徴を思い出すことさえできなかった。「さぞかし混乱されていることでしょう」猿は淹れたばかりのコーヒーを私に渡してきた。深緑色のとても品のいいマグだった。
温かいコーヒーを飲むにつれ私は少しずつ落ち着きを得ていった。猿はその様子を感じたのか穏やかに話し始めた。「先ほどの続きなのですが──いや別の話をしましょう。私が普段から不思議に思っていることです。それをあなた方とも一緒に考えてみたいのです。よろしいでしょうか。その問いとはつまり、一つ目はこれです。なぜ私たちは病んでいても医者にかからないのか」。猿は私の目をじっ、と見ている。けどそれは優しい眼差しだった。
しばらくのあいだ、私は問いの意味を考えていた。するとまた猿が口を開いた。「その問いについてはそのまま考えていてください。答えを急ぐことはありません。むしろ時間をかけて考え続けることこそが大切ですからね。問いを2つに分けることができたら、私たちはそれをさらに4つ、8つに分けていくべきなのですから。ところで先ほどの問いにつながることなのですが、私たちがはどうして医者に診てもらうだけでいくらか病が治ったかのように感じるのでしょうかね。手術をしたわけでも薬を飲んだわけでもないのに、どういうわけか少しだけ苦痛が和らぐ。私はそれについて今よりも少し詳しくなりたいのです、ですからあなたとも考えてみたい」。私はこの時、初めから気づいていたことに改めて気づいた。この猿は人格者であり教養人*なのだ。
それから長い時間をかけて、私たちはさまざまな問いについて心ゆくまで語り合った。
──────
土手 これ、読んでみるといいですよ。(おもむろに本を渡す)
山根 『禅とオートバイ修理技術』。これは一体、面白そうな題名ですね。
土手 実際に面白かった。差し上げます。ロバート・メイナード・パーシグというアメリカ人が1974年に発表した哲学的な小説です。
山根 ありがとう。私が興味のありそうな本です。それにしても土手さん、どのようにしてこの本を知ったのですか。
土手 それにははじめに、エリック・ホッファーの話から始めるべきです。
山根 ああ、あの港で働きながら哲学をやっていた人ですか。
土手 そうです。彼の愛読書がモンテーニュの『エセー』であることは有名な話ですね。それは猿でも知っている前提として話を続けさせていただきます。
山根 結構です、続けてください。
土手 はい。彼の自伝を読んでいたら、付録として晩年のホッファーへのインタビューが載っていました。その内容はアメリカと老いについてでした。そしてその中で『禅とオートバイ修理技術』について少し触れられていたのです。これは先生、少しでもこの書名について知っていたら、読み始めない理由を欠いてしまったと言えるでしょう!
山根 いかにも。
土手 私は早速、その本を買いました。上下巻に別れた文庫本の表紙はオートバイのエンジンの写真になっていて、上下巻を並べると一枚の写真になります。V型のエンジンです。私はエンジン──内燃機関への関心を隠し通すことができません。
山根 土手さん、久しぶりにあなたと会話していると、あなたがパイドロスのようになった気がします。しかし土手さん、もしもあなたがパイドロスだとしたら、私は話の聞きたがりで有名なソクラテスの役を買って出ることにしますよ! それが礼節というものだと私は心得ています。
土手 ありがとうございます、山根先生。いや、ソクラテス。あなたの産婆術の恩恵を受けて私はかの惨めなソフィストの二の舞を避けることができました。つまり、一介の散歩者になることができました。
山根 それはパイドロス、とてもいいことだと思います。誠実であることが大切ですから。そして土手さん、何の話をしていたんでしたっけ。
土手 すみません、私は興奮するといつもこうなのです。話は──いえ脱線ついでに最近の本の数珠繋ぎをご覧差し上げましょう。私はエリック・ホッファーの著作を読み始めました。その中でパーシグの『禅とオートバイ修理技術』に触れられていたので読み始めました。その中の登場人物がオートバイでの旅行中に持ち運んでいる本がヘンリー・デイヴィッド・ソローの『ウォールデン 森の生活』だったのです。もちろん、これは恥ずかしいことなのですが、私はこれまでモンテーニュの『エセー』を読んだことがなかったのでこれも購入して読み始めました。
山根 なるほど、とても良い広がりに思います。
土手 さらに恥ずかしいことに先生、私はオートバイへの関心が留まることを知らず、自動車教習所に通い始めました。銀行口座から現金を引き出して、それを素手で握りしめて、汗だくだくで、入校を申し込みました。受付の女性は顔が引き攣っていましたよ。彼女には悪いことをしました。
山根 そうして、オートバイの免許は取れたのですか。
土手 あともう少しです。
山根 余暇活動が広がっているようで素晴らしいですね。エリック・ホッファーの言葉の中に週に5日、日に6時間以上の労働はいけない。労働が終わった後に本当の人生が始まるのだからというものがあったのを思い出しました。余暇活動と便宜上言っていますが、実のところ私たちが平静を手に入れるためにはこの余暇活動が不可欠なのですよね。
土手 それは全く、先生、その通りだと思います。結局のところ、労働は労働としての私たちへの効果がありますが、それが本質であることは危険です。それが本質となりうるものは生活であるべきだからです。生活の実践こそが私たちの哲学であるべきです。そして言い換えれば哲学することとは私たちの死に方を学ぶことなのだと思います。
山根 さすが土手さん、最後のところはモンテーニュのエセー第19章「哲学することとは、死に方を学ぶこと」からの発想ですね。確かに私もあの章を気に入っています。たとえば「徳たるものの主たる恵みとは、死を軽く見る(メプリ)ことであって、これが我々の人生に、ふんわりとした平静さを与えてくれるし、純粋で、愛すべき人生の好みをもたらしてくれる。これがなければ、他のあらゆる快楽も消えてしまうのだ。」とか言ったような文句は箴言となって私の中に在ります。
土手 やはり先生、即興で誦じることができるんですね。私もそうなりたいものです。もしも私が鉱山で働くことがあれば、労働仲間とどんな話題を話していても、彼らがこの件についてモンテーニュはなんて言っているんだい、と聞かれれば、いま先生がして見せたようにしたいと心から思っています。もちろん、ルクレティウスの『事物の本性について』だって誦じてみせます。古典を誦じることでしか自己同一性を感じられない虚しい実存にはなりたくは在りませんが……。
山根 猿真似、ですか。
──────
「どうしたのですか、気分がすぐれないようですね」。私は、猿が入れてくれたコーヒーを節操なく飲み過ぎてしまったらしい。急に大量のカフェインをとったせいで頭がぼんやりとしてきた。「考えてみれば、コーヒーもドラッグみたいなものですよね、快楽があれば副作用のように、気分の悪さもある。とどのつまり、私は即時的な快楽ではなくそうした二日酔いのような、副作用の方にドラッグの本質を見ています──」猿は嬉々として話している。私の体調は優れていないが、不思議と悪い気持ちではない。
話はいつの間にか西洋哲学と東洋哲学の相違について及んでいた。本当にこの猿は博識だ、と思った。博覧強記というのはこういう人(猿)のことを言うのかもしれないと心から思った。猿は続ける「ことに何かを客観的に分析する際の、その分析自体を疑うと言うことを一つの手段とするのは大切なことだと思うんです。おそらく、あなたも日頃からそう思われていることでしょう。私もかつて何度も考えました。結局のところ、主格を分けることで理解しやすくなるもの──だけではないことを感じることが大切だと思うんです」私はそれに同感した。
日が暮れてきた。目の前の猿が暗闇に溶けていく。「いい灯りがあります」そう言って、猿は彼の後ろにあったオートバイ(いつからそこに存在していたのだろう)のヘッドライトをつけた。「昔は結構、これでどこでも行ったものです。キャンプもしました。そう言う時にこれは役に立つんですよ、このライトは」猿はおもむろにオートバイの後ろにくくり付けられたバッグから本を取り出した「この本、お読みになったことはありますか。よろしければあなたに差し上げたいと思うのです。古い本ですが、きっとあなたも気に入ると思いますよ。もしかすると、私は昔にもこの本をあなたに渡したかもしれません。先生」
オートバイ──その音は徐々に遠くなる。私はじっとしていた。暗闇に包まれて、あたりには何もない。空でさえ見えない。だから私は目を閉じた。何もない。それゆえに、摂りすぎたカフェインによる気分の悪さだけが、より一層際立って感じられた。
* 猿であれば人格者ではなる猿格者、教養人ではなく教養猿と書くべきであるが不必要な混乱を避けるために「人」の文字を使った。この注釈を蛇足だと私自身も思うが、同時にかの猿への唯一にして最大限の配慮だと思っている。また同時に私に内在する加害性と偏見への戒めでもある。
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0shoyamane0 · 2 years
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箇条書きの詩
私は、詩を書く
箇条書きの書式を使って
詩を書く
分からない
誰も、知らない
けれど
それは素晴らしいことだと
ドドは言ってくれた
ドドの顔には皺がある
その皺は川だ
長い時間をかけて
できた流れだ
山はしんとしている
奇妙な詩、私
いい詩だ、とドドは言った
いつも言ってくれた
嘘だ、と
私は気づいている
ドドの顔を見ると、分かる
グリーンの草が揺れた
空が高い
その高さが私を
とても不安にさせて──いる
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0shoyamane0 · 2 years
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性教育の教育性
売り言葉に買い言葉。 解雇免れた蚕は安寧の日々を回顧する。 かしこ。 ともすれば下らない日々というのは── そういう音韻の連続に依ってゐるのかもしれない。 断酒──。 詩はかくあらねばならぬ、といふ無様さを商店街で叫んだ。 すると瘋癲のあいつが近寄ってきた。 「寒いでしょう」 そう言って余に即席ラーメンの空袋をくれた。 それがヴィーナス。 頭ふりさけ見れば、橋立。 詩作の道も思索から。 灯火。 言うなれば行為。 チャーハンの具はない。 貴様は── 性教育の教育性について考えたことはあるか。
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0shoyamane0 · 3 years
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発光体
●要するにそこにあるということが問題でした。お前が。お前がそこに居る、あるいは在るということがなければそもそもの問題は起こっていないのです。それは誰の目にも明らかなことでした。●遠くで中華料理屋の三男坊が私立大学に合格した声が聞こえます。そこは地元でも有名な中華料理屋でした。けれど次男坊が覚醒剤で遊んでいたのが警察に見つかり、もちろん捕まり、小さい町ですのでそんな噂はすぐに広がり、誰も知らないことはなく、けれど誰もがそこの美味い中華を食べていましたので、その誰もが店主と夫人に何をいうということもできないでいて、けれど次第に客はそこに近づかなくなりまして、そしてとうとう立ち行かなくなりまして、やがて店主は蒸発してしまいました。一人で切り盛りするしかなくなった夫人でしたが、美人でしたので、それを目当てに来る客や、新しい主人候補を申し出るような輩が増えてきまして、瞬く間に店はかつての勢いを盛り返していきました。頭と腰に血が昇り降りした輩ばかりでしたから誰も気づいてはいませんでしたが、夫人の作る中華はどれも元の店主のものより美味かった。●店は軌道に乗るどころか、かつての規模をはるかに超えて繁盛し、二号店を出す話まで出ました。夫人は楽しくなり始めていました。何から何までがうまくいくし、そしてそれは自分の努力と苦労によるものだという、強く自尊心を高められる経験を毎日のようにできたのですから、無理もありません。そうこうするうちに次男坊が牢屋から出てきたという話が聞こえてくるようになりました。客の口から聞こえるその話を夫人が気にし始めた頃、次男坊が店に現れました。その顔はすっかりさっぱりとしていて、心から改心をした、この店で一からやり直したい、とそう言いました。夫人は次男坊の誠意を感じましたし、新しい店舗への挑戦ということに興味を持っていましたから、思い切って次男坊を二号店の店長にさせてやろうと思いました。一週間くらいは厨房に缶詰でしたが、次男坊はめきめきと腕を上げていき、どういうわけか誰から見ても料理屋の店長に相応しい感じがしてきました。●翌日に開店を控える本店の二階、彼らにとっては実家の畳の上で夫人と次男坊は経営の「いろは」について勉強していました。雪の残る東北、早春の一日でした。そこにツンと鼻を突く嫌な臭いがしました。場所を突き止めるとそれは奥の部屋の押し入れでした。次男坊が襖を開けると中には半分骨、半分肉の長男が在りました。長男はずっとそこにいましたが、誰も気づきませんでした。いえ、誰もが気づかないように心の底へ底へと意識を追いやっていたのです。悪さで家を崩しかけた次男坊の方が、真面目な長男よりも母親と関わっていたのです。長男は皆と近くに居ながらにして究極に孤独だった。夫人と次男坊が青くなっていると一階の店の戸が勢いよく開きました。三男坊が大きな声で受かった、と言っています。涙ぐんでいるのが声からもわかります。二階の三人は一つも音を出しませんでした。そしてそのうちの一つが次第に光り始め、建物の外にまで漏れ出るくらいになりました。一度崩れかけて、大きく持ち直されたものがまた崩れそうになっています。たった一つの、その発光する死体のせいで。お前が、そこにあるせいで。
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0shoyamane0 · 3 years
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文章でさえ横になった
●こんにちは。山根正です。●ところで青空文庫(https://www.aozora.gr.jp)というものがありますよね、これを私は大きな発明と考えています。それはもちろん、著作権が消滅した作家の作品へのアクセスをとても容易にしたという事柄についても言えるのですが、私が最もこれの発明と言いたいところは、日本の古典を「たやすく」横書きで読めるようにしたという、平たくいえば、日本文学に文字通り90度の変換を起こした点にあるのです。日本文学におけるタテかヨコか論争については私は門外漢ですので、好きな時にしか首を突っ込まないにしろ、これは現代における重要な回転であるということはいうも愚かです。●なぜヨコが素晴らしいか。私のホームページ(https://0shoyamane0.tumblr.com)がHTMLとCSSと人様の人力の苦心(https://github.com/metasta/nagame)によって縦書きの体をなしているというのにそれはいかがなものか、というご意見もあるでしょうが、インターネットというものは元来、��コからはじまったものでありましてね。●ダイヤモンドよりも硬い頭をお持ちのレディース・アンド・ジェントルメン(紳士淑女、あるいはその間に存在する階層の無限への思慕!)はいらっしゃるけれど、ヨコというのは極めてタテなんでありますね。貴方様がこの文章を縦で読むか横で読むかは知りませんがね、文章の向きに対して直角に進むのが段落というものでありまして、一覧性という観点から見ればそれは小窓(ディスプレイや紙面)の縦横比で長い方に進んでいく方が負担が少ないのは当然です。そして今世界では縦型の窓が実に増えていますね。段落が縦に落ちていくのが容易であれば、文章は横が良いのです。●日本文学を横で読むための正���な方法というのはこれまでにあったのでしょうか。無論、それは印刷物における話題です。●パーソナルコンピュータ、はたまたもっと小型の電子端末で横向きに原稿をしたためたものが出版される際には縦向きにされるのが前提となっているというのは、実は都の条例で公には指摘してはいけないことらしいのです。どこの都かは知りませんが。●無論、未だに原稿を縦で認める奇人もいらっしゃる。どうぞ続けてつかあさい。●けれどどうです! ヒトの目は左右に一個ずつ付いている!●(2021.03.26)
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0shoyamane0 · 3 years
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杭の打ち方
──というわけで牡蠣はお好きですか。
山根正「いえ、全然。食べないですね。もうしばらく」
──けれど山根さんのご出身は牡蠣が有名ですよね。昔からお嫌いなんですか。
山根「昔は普通に食べてましたよ。鍋とかで。けど確か、いつだったかな。中学生くらいの時に、鍋を食べてて牡蠣を掬い上げたら、なんか、ぶよぶよしてたというか、病気だったんでしょうね、ぶつぶつしてる牡蠣だったんですよ。それを見た後くらいから少しずつ食べなくなりました」
──じゃあ今は全然食べてない。
山根「はい」
──カキフライもですか。
山根「そうです」
──カキフライ、美味しいじゃないですか。
山根「食べませんね」
──そうですか。
山根「そうです」
──それはさておき、山根さん、この頃はしばらく文章を発表されていませんが、執筆はされてるんでしょうか。
山根「してないですね」
──何をされているんですか。
山根「何もしてないです」
──何もってたって、何かはしてるでしょう。人なんだから。
山根「普通に生活してますけど、作品を作ったりとかはしてないです。する気もあんまりない」
──山根さんの作品を待ってる読者もいますよ。
山根「はい」
──それでもお書きにならない。
山根「すみません」
──いや、叱ってるわけではないんですよ。ただ一時は毎日のように独自に作品を発表なさったり、ラジオ番組を製作されたり活発にされていたじゃないですか。
山根「......」
──すみません。
山根「いえ、あなたが謝ることじゃないですよ」
──では......最近おやりになってること、なんでも良いので何かありませんか。本当になんでもいいんです。
山根「最近ですか......」
──最近です。
山根「......パン」
──え?
山根「パンを食べたり......とかしてますかね」
──近くに美味しいパン屋さんができたとか、そういうことですか。
山根「いえ、普通の食パンを......」
──そんなこと誰だってしてますよ。
山根「すみません」
──他にありませんか。
山根「結構おいしいですよ」
──他を、お願いします。
山根「他ですか」
──はい。
山根「ええっと......(沈黙)」
──では話題を変えましょう。いま山根さんが頭に浮かべてること、なんでもいいので話してください。
山根「そうですね、電話......固定電話ですかね。固定電話の回線を部屋に引いて、電話番号を分厚い紙の電話帳に載っけたりなんかして、知らない人から電話がかかってくるのを部屋で待つとか、そんなことをしてみたいなぁなんて」
──何の話をしてるんですか。
山根「いや、何でもいいとおっしゃったので」
──常識ってものがあるでしょう。
山根「学がないもので」
──困った人ですね。
山根「恐れ入ります」
──すっかり目的から外れてしまっている。
山根「すみません、ところでこれは何の取材でしたっけ」
──ディジタルメディアの歩き方、ですよ。ちゃんと確認して始めたでしょう。
山根「ああ、今いわれて思い出しました」
──まったく。
山根「あなたも牡蠣の話をしてましたし......」
──は。
山根「いや、すみません、デジタルメディアですね。はい、どんなことをお話ししましょうか」
──とりあえず、以前どこかで話されていたスクロールという行為についての考察を少し詳しく説明願います。
山根「はあ、スクロールですね。スクロールというのはつまり、画面を舐めることですね」
──舐める、なぞるということですか。
山根「いえ、言葉の通りディスプレイをベロで舐めるという行為です」
──なるほど......続けてください。
山根「舐めるというのはつまり接触を伴いながら、味を、ベロなどにある味蕾が物質を感じて、脳に情報を送るわけなのですが、いかんせん昨今は情報社会ですからね、一口で済むということはないのです。情報いわんや味の量というのは膨大になりましたね。そのために一時で満足しるのは良いのですが、少し経ってもう一回前のやつから味わおうとすると、そこに辿り着くまでが面倒なんですな」
──はい。
山根「だから我々は杭を打たないといけない」
──杭。
山根「はい、要するにライクボタン、あるいはお気に入りボタン、はたまた『いいねボタン』、などです」
──つまり山根さんがおっしゃりたいのはLikedという行為は膨大な情報の中に、目印をつけておく行為だということですか。
山根「その通りです、そしてそれは非常に批評的な行為だといえます。またその手軽さから、その人の、為人というものがあけらぽんと浮き上がってくるでしょうね、それはもうまざまざと」
──偽れない。
山根「はい、いずれ博物館にアーカイブされるのは個人の情報履歴だと私は睨んでいます」
──ではですね、そういった杭の打ち方というものがより意識的になったとき、個人の行為という範疇で理想的な変容というのはどういったものだと、山根先生、考えますか。
山根「人それぞれです。くだらないものに印をつけて他人を惑わしてもいいし、それは大前提に何もしなければ他者に行為(好意)が筒抜けになってしまう問題があるのですがそれは置いておいて、素直に自分のつけたいところに節操なく印をつけてもいいと思うのです。誰も貴様には興味がありませんので」
──貴様......。私のことですか。
山根「いいえであり、はいでもあります。英語のYouが指すくらいの範囲だと思ってください。貴様」
──(銃声)
(2020.03.26)
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0shoyamane0 · 4 years
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半固定へのあこがれ
私がある一個の風景を詩にしたいというのは 写真によるその瞬間を永続的に固定したい欲望と また、 体験を流動的で実際より美しくさせておきたいという いわば半固定へのあこがれというものがあるのだと思う 写真と詩の両方への本格的なのめりこみがないのは そのいずれもが補完をしていることの証左であり 複数のディペンデンシーの確保というセルフケアである (2020.08.18)
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0shoyamane0 · 4 years
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危険な散歩
危険な散歩をするべからず 真っ暗な都会の、ビルの隙間を うつむいて一人、歩くべからず 無関係な喧騒がお前を突き刺し やがて内から蝕むだろうから それはお前の孤独を自覚させ 頼んでもいないのに拡大し やがて お前を一個のポテトにしてしまう 役に立たない、しゃがれたポテト けれど────危険な散歩なくしては 危険な詩は生まれない 危険な散歩をするべからず 故に 危険な散歩をしんさいや (2020.08.16)
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0shoyamane0 · 4 years
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私といふ記憶媒体
記録を趣味に始めたら それが生活の糧になり、欠かせなくなった人がゐる 不憫で取り返しのつかない現代病の一つ 記録と記憶を取り違えたら鬼だってそいつを見捨てる ★ けれどそれもまた、ある種の祝祭で 祭りであるから折り合ひがつくといふこともある 日常をたっとぶだけが生活でないやうに 墜落を実験するのは通過儀礼の一個にだってなりうる ★ 八月────私の最もきらひな頃 私は今 駅の北にある新しい喫茶店にゐる 人はまばらで外は暮れかかってゐる ★ 私は先月のみそかに起きた 一個の── ──腫瘍のやうな記憶を この記録とかいふ刃物で切り捨てなければ不可ない ★ 「記録と言ったって、机の上には コンピュータの一つも無いぢゃない」 ──と、コケシのやうな人が言った 私はペンとノートブックを持ってゐた ★ 「一番いいのはやっぱり石なんだってね」 と私がお道化けて返した瞬間に その人は、私への一切の愛想をなくした 「一番大きな石を買ってあげるから、さようなら」 ★ 私と巨石だけが部屋の真ん中にゐた 古い知人は何かと錯覚して彫刻の道具を一式くれた 背丈とてうど同じい 浅黒い直方体のかたまり ★ 半時間ほど離れた図書館は涼しかった ひっそりと並んだ開架を進み 必要以上に自らを不潔がる鼠のやうに 私は『彫刻入門』という本を取った ★ 見よう見まねにしては 見事だった 初めての彫刻と誰も思はないだらう出来 でっぷりとして上品な《でかい》左手 ★ 「一応できたよ。気分を害しているのなら尚 いちど見て欲しい 案外に君の好みかもしれないから」 などと書いた手紙をその人に出した ★ 週が明けて返信があった その人のではない文字で 「あの娘はもうゐませんので」とあった 私はしばらくじっとしてゐた ★ 誰かの勧めで その左手は展示されることになった 七月三十一日 巨大船の停まる、港ちかくの美術館中庭 ★ 美術館は坂の上にある その近くには二人で行ったことがあった 蒸し暑い日の、夕と夜の間 外から建物を見るだけの──初心な散歩 ★ そこに向かう坂には 数米の間隔で抽象的な彫刻が貧しく並んでゐた 写実的な男女像や 丸みのある抽象的なサムシン ★ けれどそれより印象に残るものがあった ごみかと避けようとしたものが 夥しい数の電子記憶媒体だった 気味悪い思ひをしたが後で二人は少し笑った ★ 翌朝、私は珍しく早く起きた その有様をも一度見たかった 一体、それらは通勤通学を急ぐ人らの 踵あるいは自転車の車輪によって踏み潰されてゐた ★ 私はその横に立ってゐた抽象彫刻らを懸命に睨んだ 朝日に逆光して在ったそれらは まるでびくともしてゐなかった──むしろ私の方が それらの実在の重量に怯えへてゐた ★ 私は記録といふ営みをこそ好んでゐた 文字への興味もあったし 実際に印刷物をこしらへ 資料整理学についても素人の範囲で学んでゐた ★ また、その方法論や 用ゐられる手段に対しての恋愛すらもあった 私の体の外に私の有様を そっくりそのまま復元する営み! ★ 展示の日、あの人の昔の同居人からの電話が鳴った 「あの左手はもう飾って無いのですか」 「港ちかくの美術館にあると申しましたが」 「そこに無いのです」 ★ 夜 上仕立ての背広を着た展示主催者は私に謝った 私は案外に平気だった 「確かに、《ばかでかい》石だけが無くなりましたね」 ★ 朝、私はいま見終はった夢を思ひ出しながら水を飲んだ 親しくない同窓が馴れ馴れしく私に授業する夢 「──つまりネ、この舞踊といふものもネ、この土地や その風俗を織り交ぜた一個の記憶媒体で──」 ★ 昼ちかく、私は庭に火を作った、そして 本やノートブック、筆記具、写真、歯ブラシ、 食ひ物、着物、革靴、たばこ、手紙── そのほか記憶の周辺の一切を放り込んだ ★ 記憶といふ道楽があるとすれば 私はずっとそれを愉しんでゐたはづだった、けれど 長い手段の実験のすゑ、えうやく気付いたのは 生活には私といふ記憶媒体だけで十分といふことだった (2020.08.03)
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0shoyamane0 · 4 years
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犬は先に死ぬ
★不細工な愛玩動物の死を悲しむ人のように、どれほど歪な物であっても使っているうちに愛着が湧いてくるという経験は誰しもするはずで、そうでなければ病院にかかった方が周囲の為、という言葉をスワヒリ語で右肘の周囲に刺青した。町の外れの〝ちっちゃ〟な刺青屋さんで。施術はほんの二、三分だった。えらく早かったから流石におかしいと思って鏡で確認すると想像と幾分も違わない有様でこれまた驚いた。少しくらいヘマをしてくれた方が案外にいい思い出になるかもしれないと思ったのは私が日本で生まれ育ったからだろうか。WABISABIとかいう認識論が廃れて久しい。そんなことはどうでも良い。★とある葬式の帰り、参列者らが話している声が聞こえた。曰く「これが奴さんの寿命だったんだろうね」やら「太く短くという生き方だって立派な生き方だよ」などと鼻すすりしながら拙い演技をしていた。おそらくそこにいた若い参列者は、私を含めて全員がその死が特に意味を持たない無用の死だということに気付いていた。そしてそれに気付いてないふりをしていた。奴さんは自殺だった。好物の西洋菓子を無理に口いっぱいに詰めて窒息した。享年二十五才。学歴・家政学修士。★一切の方々は食器が割れることにさえ深刻に物語を求めたりする。とりわけ、人の死に関しては特に。無用の死というもの、言い換えれば犬死のようなものを人が受け入れ難いのはなぜか。その無意味さに納得できないのはなぜなのか。木目を顔と認識するような、あるいは黒猫クロスオーヴァーを不吉と判断するような意味依存症の成れの果ては他人の死に対する物語的消費なのだろうか。私は一種の思想として、他人の死を物語化したくない。無意味な死であればそれを無意味なまま許容したい。質量保存という考え方を援用すれば、意味のある死があるのなら意味のない死があると考えるのは筋が通る。それらに質量があるのかという質問には無論「ノン」と答えるのだが。要するに交響曲なのである。他人の選んだ死に自己解釈をせずに、それに相応する衝撃を精神に受け取るのである。そうすれば奇妙な講釈を公に並べることもしなくなるだろう。犬は先に死ぬ。当然である。一般に犬の方が寿命が短い。ただそれだけのことでそこに意味を見出そうとするのは自己完結のみで結構。犬死は犬死で尊厳のある死ではない。ハウエヴァー・メメント・モリ。
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0shoyamane0 · 4 years
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しまい
●確かに山根さん、あなたは以前、とても魅力的なアイデアを私に教えてくれましたね。覚えていますか。確かあの時の電子メールの題名は「オリジナルのみに色の特権を! 複製物にはモノクロームを」というものでしたね。その中の山根さんのアイデアというものはずばり、こんなものだったと思います。色に対するデリカシーを失ってしまった方々があまりにも多い。駅前のベンチで寛ぐご両人も、地面と一体化した老人も、高等数学を習う乳飲み子も。そのいずれもが、豊かな技術に支えられた現代的な生活のせいで、却って原始的な楽しみ、おかしみ、ふくらみに対して知らずのうちに背を向けてしまっているということ。そこで色におけるルネサンスをやりたい。そのためには複製物から一時的に色を奪わなければならない。と、おおよそそのようなものだったと解釈しています。あのアイデアについて、しばらく一人で考えていたのですが、やはりそれは素晴らしいものだと思うのです。確かに、いろいろな反証の余地はありました。なぜなら山根さんは論理的に、あるいは人格的に完全に崩壊しているためです。抜け穴という抜け穴からそのアイデアの揺らぎを入り込むことができました。けれど入り口ばかりかと思ったそのアイデアに出口は一つも見当たらず、私はいつ壊れるかわからない論理の中で怯えて暮��しています。そして一番悲しいのは、ここが案外に住みよいということです。もしかすると住みよい、というのは表現として間違っているかもしれません。それどころではない、いつまでもここに暮らしていたい楽園のようなところだったのです。これではまるで、あなたのこれまで書いてきた文章の中に閉じ込められたかのようです。無論、それは光栄なことです。しかしながら、どこかそれ以前にの生活に対する未練のようなものも、恥ずかしながらあるのです。過去と決別する勇気さえないのに、この変化、あるいは来るべき崩壊に期待すらしている。そんな品のない、自分の無意識の中にある差別意識に私は苦しみ始めてしまったのです。気づいてしまったのです。太陽に触れてしまったのです! どうか山根さん、この文章をお読みになったのであれば、返信をください。私の肉体と精神は、あなたの論理以上に脆いものです。少なくとも私はそう認識いたしております。匿名。●返信を寄せます。初めまして匿名のお方。山根正です。どうやら私のアイデアを気に入ってくれたみたいですね。ありがとうございます。けれど非常に困った状況にあると。結論から申しますと、あなたはもうおしまいです。しまい、といった方が正しいでしょうか。そのため何らかの措置を取るという必要はありません。助けを求める必要もありません。なぜならあなたはもうおしまいだからです。まだ始まってもいない、という救済のクリシェがありますがそれにも当たりません。あなたはしっかりと自分の意思によってあなたの生活を初め、複数の他者と相互に関わり、確実に時間を経て、失敗をした。それも取り返しのつかない失敗をしてしまった。あなたに限った話ではありませんが、取り返しのつかない失敗というものを、他の人も、もっと時間をかけて考えるべきなのです。不可逆性というものについて。確かに、想像の中ではいろいろとやり直すこともできます。芸術の中では存在し得なかった現実について表現することもできます。けれどやはり、生活というものを基盤に考えると過去を変更することはできないし、失敗をなかったことにすることはできません。失敗を失敗ではなかったと思い込むことはできますが、そうした脆弱な、子供騙しはいずれ虚しさを深めるだけだからおよしになった方がよろしいかと。それとあなたは私の論理と人格の脆さについて鋭い指摘をしてくださいましたね。これはあなたの最後の成果かもしれません。しかも最高の成果の一つかもしれません。もうしばらくすると私の論理や文章は崩壊します。その瓦礫を見るときにはあなたのことを思い出すかもしれません。ただそこには可哀そうという感情もなければ、嘲笑う気持ちもありません。やがて忘れられる、一個の事実にすぎません。そういうことですから、あなたは自分の中に必要以上に場所を占めている、あなた自身への期待を捨ててぺしゃんこになった方がよろしいかと思います。それでは、晩ご飯の支度がありますのでここらへんで失礼いたします。
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0shoyamane0 · 4 years
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ラジオとその周辺
●大仰なスピーカーや高価なアンプ、小さいのに何万円もするレコード針や、果てはフォノイコライザー。それらを並べて順に見ていくだけでも疲れていくのに、それよりも悲しいことがある。それは我々が身体を持っているゆえに、疲労を感じてしまう、または老いてしまうことである。これがどういうことかというと、素晴らしいハイファイ装置は、確かにその独立した、文化的な営みこそあるが、健康を損なった身体の前ではそれらのあらゆる間接芸術は看過されてしまうという、至極当然の事実である。●そこでラジオなのである。ここ最近であれば、例えば五〇ドルも出せば満足のゆくものが買える。実用的なものであれば十ドルほどで入手できる。これがまた良いのであるなあ。ただ、ラジオについて何か書いてくださいと頼まれても、またしても私は迷ってしまう。それはラジオを聴くことを主目的とするのかラジオ番組を製作することを主目的とするのか、あるいはラジオというメカニズムやメディア装置から大風呂敷を広げて記号論、それを受け取る実存思想の分析までを文章の範疇とすれば良いのかという点である。けれど必要な文字数を聞けばおおよそ一〇〇〇字くらいでお願いしますとのこと。それであれば生活の中にひっそりと、しかし確実に存在する、生活としてのラジオについての雑感を述べるくらいしかできないじゃないと聞くと、そんな感じでお願いします、と言う。それはさすがに調子が良すぎるねなんてやりとりをしながら強引に仕事を押し付けられてしまったけれど気がつけばもう七割近く書き終わった。つまりはラジオということ、ラジオ的なことというのはこういうことなのだと言えます。●ラジオの聴衆者の多くは基本的に付けっ放し、流しっぱなしというのが多いという。これは要するにジョン・ケージへのふっかけなのである。あるいは情報依存症とでも言いましょうか。無音や空白、余白や暇、退屈といったものに人は耐えられない。けれどテレビジョン(バカ箱と言われた時代もありますね)は情報が多くて精神的な胃もたれがする(素直に疲れたと言えないものかねこのプロレタリアートは)とかいって、結局ラジオに落ち着くのです。レコード盤を裏返すことは面倒がるくせに、何も聴かないことは耐えられない。そんなのがラジオの媒介仕事というものです。この文章もそんな性質を帯びていますよ。紙面に空白があったっていいはずですよ。余白恐怖症の皆さん。けれどこれで飯が食えるのだから私は喜んで書き続けます。(初出:不明)
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