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1997fbp · 1 year
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-時代を超えて祖父の想いを伝える-
「別視点」を見つける3つの方法 方法① その物自体を深掘りする
 TYPE3:まちの歴史に注目する 峠の鉄道の歴史マニア・上原将太 
-時代を超えて祖父の想いを伝える- 
1997年9月30日のことです。
 信越本線 横川―軽井沢区間が、 長野新幹線の開業により、廃止になりました。 
廃止から25年以上が経過した現在は、 「碓氷峠廃線ウォーク」というガイドツアーで廃線跡を活用しています。
 私は、そのツアーガイドをやりながら、企画をつくったり、 旅行会社に営業したり、いろいろやっています。 
そのなかで、 まちの歴史に注目をしてみたら、 家族の歴史にたどり着きました。 
1952(昭和27)年9月1日。 私の祖父、上原芳徳は18歳で国鉄に就職。
職場は横川機関区。 庫内手と呼ばれる、機関車を磨き上げるのが最初の仕事内容でした。 2018(平成30)年9月1日。 
私は26歳で安中市観光機構に転職。職場は横川の観光案内所。 横川機関区だった場所が碓氷峠鉄道文化むらというテーマパークになり、 その隣にある観光案内で、廃線跡を使った企画を作るのが、最初の仕事内容でした。
 同年10月14日。普段は立ち入り禁止の廃線を歩くをイベント開催。
 軽井沢へ廃線を11km歩くツアー。草刈りは済んでる。準備期間は1ヶ月。 
そこからスタートしました。 歩いている時は、不安でした。本当に軽井沢に着くのか。 鉄道が走っている時に、乗車した記憶もないし、 霧が濃くなってきて視界も雰囲気も怪しい。 それ以外あんまり覚えていません。
 お客さんに、この感情を持たせてはいけない。 そこが、最初の課題でした。 ガイドとして何を話すか、考えるより、当時を知る人に話を聞こう。 と思い、祖父と話すために実家に行きました。
 結果として、今の仕事をしていなければ、 祖父と話す機会がなかったら、 碓氷峠のアプト式機関車ED42型の機関士だったことは、 知らないままだったかもしれません。 
2021年10月14日。 「碓氷峠廃線ウォークサポーター制度」告知開始。
 「峠の鉄道の歴史は人の歴史だった」
 群馬県と長野県を結ぶ、碓氷峠を鉄道で越えた104年の歴史。
 1893年開通、明治期以降の日本経済発展に大きく貢献した。 
鉄道開通によって栄えた、このまちには人の記憶と想いが残っている。 
行き止まりのレールの先を、次の世代につないでいく。
 1997年9月30日まで、運行された日本一の急勾配区間。
 保全と活用を目的に、「サポーター制度」がスタートします。 
信越本線新線 横川−軽井沢区間、通称「碓氷線」 
「峠の鉄道の歴史はこれからも人の歴史だ」 
ビジュアルデザインは古川太一さん。 Googleで「古川太一 プロフィール」で検索した文章を引用します。 古川太一さんは北海道の帯広出身。 2001年に18歳で上京後、すぐにバンド活動を開始した。 大学が埼玉にあったので、最初はその近くに住んでいたけれど、下北沢にあるスタジオに入るようになってからは、ほとんどの時間を下北沢周辺で過ごすようになる。 
私は、群馬県の安中市出身。 2010年に18歳まで故郷を離れ、大学4年まで野球に没頭しました。 大学が北海道網走市にあったので、全国大会出場がすべてのモチベーションでした。都内での滞在+地元に帰れるからです。ベンチメンバー外だったので、自分で滞在先を確保する必要があって、豪徳寺のアパートに住む高校の同級生によく泊めてもらっていました。 そのときのこと。下北沢から歩いて、池ノ上へ。目的地は「MIN-NANO」。 そこで、古川太一さんデザインのトートバックを買いました。今でも使っています。 
大学卒業後は、都内の印刷会社で週刊紙の担当営業として働いて、Uターンしました。 
それで今、こうして皆さんをガイドしている。 と、廃線ウォークのツアー中に話すことが多いです。 そうすると、鉄道のこと以外にも、たくさん質問をしてくれる人が多く、会話のキャッチボールはガイドとお客さんだけでなく、お客さん同士での会話に繋がっていく感じです。 
ガイドするにあたって、台本はつくりませんが、シナリオはあります。 伝えたいことは、 「峠の鉄道の歴史は人の歴史だった」ということです。
 それを、次の世代に語り継ぐために、 峠の鉄道の歴史に携わった人たちにたくさん話を聞いて、 私のフィルターを通して、伝えています。
 峠を超えて、歩き終えると一体感のようなものを、感じてもらえるように案内しています。 
自分の生まれたまちの歴史、暮らすまちにある文化。 
ただ、過ごすだけでは、見つからない。
 見つけてもらうために、別視点で考える。
 みんながよく言う、
 「このまちには、まだ知らない魅力がたくさんある」 
「魅力あるまちづくりをしていく」 
全部を自分で知れたら、それは素晴らしいと思う。 
でも、まずは自分の好きなことに誰しも興味がいくものだ。
 たくさんの人が関わることで、眠っている物を覚ましていけるはず。
 全員が魅力に思うものは、なんだろう。 好きなものは、それぞれ違う。
マニアと呼ばれるジャンルは母数が少ない。
 希少性のなかにある感性に共感することを楽しむものかもしれない。
 それをもっと知ってもらうには、どうしたら良いだろうか。 
その答えが、この本のなかにあるはずです。
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 松澤茂信×村田あやこ×今井夕華×八馬智×上原将太「いつものまちを“別視点”で見る方法」『マニア流!まちを楽しむ「別視点」入門』(学芸出版社)刊行記念 
https://bb230414a.peatix.com/
2023年4月14日
線路跡地の、みんなでつくる新しい「街」下北沢線路街。
ボーナストラック、本屋B&Bにて
https://bookandbeer.com/book/
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1997fbp · 1 year
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2023年3月24日 松井田北中学校  閉校式
校歌に「平和」の願い 安中松井田北中3年・湯本さん調査で判明 
作詞者兄ら戦死多数《戦後77年》
本年度末で閉校する安中松井田北中(群馬県安中市、国峯智校長)の生徒が、学び舎を「平和な姿」と表現する校歌が生まれた背景を調べている。お年寄りへの聞き取りや資料から、作詞者の家族を含め地元の多くの若者が太平洋戦争で戦死していたことが判明した。こうした悲しみを背景に平和への願いを込めたとみられ、10月に開く最後の学園祭での発表に向け、さらに調査を進める。
松井田北中校歌
  煙る浅間を背にして
  緑にはゆる妙義嶺を
  望みし丘に朝夕の
  我等(われら)の祈りそのままに
  平和な姿 映えて立つ
  おお我等が北中学校
※1番のみ
 同校は終戦2年後の1947年に前身の旧細野中として設立。54年の市町村合併を経て62年に現校名になった。校歌は細野中時代の誕生とみられるが、住民だった故上原桂さんが作詞したことなどを除き、詳しい経緯は分からなくなっていた。
 同校は現在、閉校を前に全校生徒25人と教職員が細野中時代から75年間の歴史を調査している。校歌は曽祖母が上原さんのいとこに当たる3年の湯本さくらさん(14)が担当。祖母の京子さん(72)や教諭らと協力し、上原さんの長男で同校卒業生の尚さん(74)ら地元住民に聞き取りをしたり、学校に残る記録などを調べたりしている。
 その結果、上原さんが海軍軍人だった兄2人を戦争で亡くしたことや、学区内の20~40代155人が戦争の犠牲になっていたことが判明した。多くが南方戦線で戦死したという。
 上原さんは82年に57歳で死去した。穏やかな人柄で区長や民生委員も務め、地元の婦人会や青年団のためにオリジナル曲を作曲していたという。作詞時は20~30代とみられ、京子さんは「母の兄も海外で戦死した。家族や身近な人が亡くなったことが歌詞に反映されたのでは」と話す。
 悴田匡一教諭(60)も「開校当初は戦争で家族を亡くした生徒もいただろう。校歌が希望を与えたのではないか」とみる。
 湯本さんは「地元にそんなに戦死者がいたことに驚いた。歌詞の深い意味を知り、もっと学びたくなった。校歌がなくなるのは悲しい。どんな形になるか分からないが残したい」と話している。
2022/8/15 上毛新聞 https://www.jomo-news.co.jp/articles/-/160429
来春閉校の松井田北中校歌 戦争の悲しみ背景に 
平和歌う詩の秘話に迫る 誕生経緯を3年調査
2022年度末で閉校する群馬県の安中松井田北中(国峯智校長)の生徒らが学びやを「平和な姿」と表現する校歌の背景に迫る調査を終えた。作詞者の家族や地元の多くの若者を太平洋戦争で失った悲しみが背景にあることを突き止め、作曲の経緯など校歌の誕生秘話を深く掘り下げた。生徒は「閉校後も残していきたい」と話している。
 調査を担当したのは、作詞者の故上原桂さんの親類に当たる3年の湯本さくらさん(14)と悴田匡一教諭(60)。前身の旧細野中が開校した直後の1948~55年に教員を務めた土屋登さん(94)らの証言で、これまで不明だった校歌の誕生の経緯などを詳細に明らかにした。
 調査結果によると、戦争で兄2人を亡くした上原さんは、親せきで細野中の英語教師であった故上原熙さんから詩作を学び、47年ごろに歌詞のもとになる詩を書いた。学区内は20~40代156人が戦争の犠牲になったとされ、旧満州などの引き揚げ者や空襲で焼け出された人も移住。49年発行の校友会誌に亡き両親をしのぶ詩も掲載されている。
 完成した詩はこうした悲しみを背景に、新たな時代への希望を込めたとみられる。詩を読んだ熙さんが「いつか曲をつけて、みんなで歌いたい」と職員室で���を引き継ぎ、55年に音楽教師の故伊藤貢さんが赴任して校歌制作の機運が高まった。そして、伊藤さん作曲の校歌が58年2月、開校10周年記念式典で発表されたという。
 こうした制作の背景や記録は残らず、人々の記憶から薄れたまま歌い継がれてきたが、湯本さんらの調査で再び明らかになった。調査結果は2日に開かれた最後の学園祭「北友祭」で展示発表した。湯本さんは「歌詞に細野の人たちの思いが込められていることが分かり感動した」と話した。
 学園祭では閉校後の校舎の利活用の発表やクイズなどの催し、合唱や卒業生らメッセージビデオの発表も行われ、地域住民や卒業生でにぎわった。
2022/10/18 上毛新聞 https://www.jomo-news.co.jp/articles/-/190039
廃校後の跡地活用で意見交換
中学生が市長にアイデア 安中
今年度で廃校になる安中市の松井田北中学校で生徒と岩井均市長が跡地の活用方法などについて意見交換を行い、生徒たちはそれぞれ独自のアイデアを市長に伝えました。 安中市にある松井田北中学校は、生徒数の減少などのため、今年度で廃校となり、来年度からは隣接する松井田中学校と統合されます。 廃校になることを受け、中学校ではこれまで地域の課題などについて学習を進めてきましたが、生徒たちの意見を市に届けようと27日、岩井市長との意見交換を行いました。 意見交換には全学年、あわせて24人の生徒が参加し、生徒たちはSNSを利用して、地域の魅力を発信してほしいという意見を市長に伝えていました。 続いて、生徒一人一人が廃校になった跡地の活用方法についてそれぞれのアイデアを発表しました。 生徒からは「カフェ」や「ワイナリー」、それに「アウトドア施設」などとして活用してほしいという発表があり、市長はメモを取りながら意見を聞いていました。 参加した2年生の女子生徒は、「祖父母や母も同じ中学校の出身です。廃校はとてもさみしいですが、地域の発展のために跡地が活用されることはとてもうれしいです」と話していました。 岩井市長は、「子どもたちが真剣に地域のことを考えているとわかったので、この意見を大事にしたい。現在、跡地利用は決まっていないので、白紙の状態からしっかり議論していきたい」と話していました。
2022/10/27 NHK WEB
https://www3.nhk.or.jp/lnews/maebashi/20221027/1060013207.html
「僕にしかできないことなんて、なにも無いかも」
孤独が生み出すエネルギーもあるけど、そう思わなくていい。
「僕だから、私だから出来ること」がこのまちにはある。
3月24日。閉校記念誌への寄稿者として、閉校式に参加した。
閉校に寄せて、生徒たちのメッセージを記録した映像が上映された。
記念誌に書かれた内容を生徒たちが読み上げるという内容だった。
「松井田に宿泊施設をつくりたい」と語った生徒もいた。
きっとできるはずだ。数年後、一緒に仕事ができたらうれしい。
その生徒たちの想いに仮説を立てて、閉校記念誌に寄稿した。
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ここは松井田北中学校だった場所です。
 学舎を「平和な姿」と表現する校歌の背景に迫る調査をした際に、作詞者の家族や地元の多くの若者を太平洋戦争で失った悲しみが背景にあることを突き止め、作曲の経緯など校歌の誕生秘話を深く掘り下げた。
という2022年の新聞記事が残っています。
1947年ごろに完成した詩には、悲しい記憶を背景に、新たな時代への希望を込められていました。
作詞者の「いつか曲をつけて、みんなで歌いたい」という想いが還り、1958年2月の開校記念式典で校歌がお披露目されたようです。
 こうした制作の背景や記録は残らず、人々の記憶から薄れたまま、昭和、平成、令和まで歌い継がれました。
2022年に最後の卒業生が調査して、明らかになり、同年10月2日の「北友祭」で調査結果を展示発表したそうです。並行して、生徒たちが廃校後の跡地活用案を考えたそうです。
生徒一人一人が廃校になった跡地の活用方法として、「カフェ」や「ワイナリー」、それに「アウトドア施設」等として活用してほしいという内容だったと新聞記事に記されています。
そのアイデアを10年間の時間をかけて、実現されたのが、
複合型アウトドア施設『へいわなすがた』です。
改めまして、本日はご予約ありがとうございます。
この隣のカフェスペースは全校生徒が集まって、学校給食を食べる場所でした。廃校になった後、小規模ですが、ワイナリーとブルワリーが出来ました。
窓から見える、向こうの建物がワイナリーです。
元々は体育館だった場所になります。
本日、ご予約のグランピングプランはクラフトビールが飲み放題となっております。
醸造所兼タップルームは美術室だった場所になります。
今年、2058年は校歌完成100年目の節目を記念して、校歌の歌詞がデザインされたタオルをお配りしています。ご案内は以上になります。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。
ルーツを知った生徒たちの想い、これを実現して次世代に還元したい。
              
       平成18年度卒業生 上原将太
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文化祭でやった、めちゃくちゃなGOING STEADYのコピーバンド。
そのせいで、翌年許可が降りなかったおかげで出来たショートフィルム制作。
卒業して1年経って、廃部になってしまった野球部。
高校野球、大学野球が終わったあと。
「野球だけの人」ではなくしてくれたのは、
間違いなく、松井田北中学校での3年間のおかげだ。
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1997fbp · 2 years
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人の想いと 記憶を伝える 「 碓氷峠 廃線ウォーク」
1997年 9月30日 信越本線 横川―軽井沢区間、最後の日。
 別れを惜しむ人たちが横川駅に集い、 「さよなら日本一の急勾配 碓氷峠」 と書かれた横断幕が掲げられていた。 
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2022年。横川―軽井沢区間廃止から 24年。煙をあげて走る蒸気機関車が、峠越えを支えた電気機関車が、 今日もこのまちで動いている。 
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「横川のまちに汽笛は鳴り止まない」 この言葉を、碓氷線の歴史を次の世代に伝えるための合言葉にしている。 
一般社団法人安中市観光機構が地域住民と実施した地域観光を考えるワークショップの中で出たアイデアが形になった企画が「碓氷峠 廃線ウォーク」だった。
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国重要文化財である「碓氷第三橋梁(通称「めがね橋」)や旧丸山変電所、旧熊ノ平変電所などの「旧碓氷峠鉄道遺産群」の知名度の高まりから「この碓氷峠にもう一度スポットライトを当てたい」という地域の思いが高まっていた。 
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2018年10月14日、鉄道の日。第1回目の「廃線ウォーク」を開催し、 年度末まで5回開催し、460名が参加。(月一回開催)第1回開催までに下り線(長野方面)を整備し、12月から2月までの間に上り線(東京方面)の整備を行った。
 2019年から、開催回数を増やし、旅行会社主催のバスツアーを実施。年間合計、1326名が参加。ツアー参加者から提案を受け、信号機などの鉄道設備の復活点灯を実施。施工もノウハウを持つファンと一緒に行った。その結果、原風景を感じられる「活きた廃線」としてPRすることができ、顧客満足度も向上した。 
〈下り線施行時〉
https://twitter.com/tetsu_fr/status/1130086995294736384?s=20&t=20osg7n4cTrt3jyftnoHCg
〈上り線施行時〉
https://twitter.com/haisen_walk/status/1246785507427635202?s=20&t=20osg7n4cTrt3jyftnoHCg
2020年は52回開催し、1185名が参加。コロナの影響を受けつつも、最初の緊急事態宣言発出時に、マイクロソフト AI「りんな」が車掌役として音声案内をしてくれる「廃線VR映像」をYouTube上でリリース。 同時期には廃線区間の現役最後の時刻表を復刻販売した。発行元の「交通新聞社」とのコラボ企画に、プロカメラマンの米谷こうじさんの写真提供、取材協力があって実現した。
 コロナ禍での対応として、現地限定販売からネット販売に切り替え、初版1000部が2ヶ月で完売となった。 このような取り組みを評価していただき、(一財)地域活性化センターによる「第25回ふるさとイベント大賞」優秀賞を受賞した。
 2021年は71回開催し、1407名が参加。累計で4378人が参加。「横川のまちに汽笛は鳴り止まない」プロジェクトとして、JR 東日本高崎支社と安中市観光機構で高崎−横川駅間の開業135周年を記念し、SLに記念オリジナルヘッドマーク掲示運行と、横川駅にオリジナルデザインのマンホール設置。終着駅である現在のイメージを強く持ち、当時を知らない世代にも、信越線の歴史に触れ、鉄道で栄えたまち横川に親しんでもらいたいと考え、お土産品としてアパレルアイテム制作にも取り組んだ。 
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1952(昭和27)年9月1日。私の祖父、上原芳徳は18歳で国鉄に就職した。職場は横川機関区だった。 芳徳さんが横川機関区に就職したのはアプト式時代。庫内手と呼ばれる、機関車を磨き上げるのが最初の仕事内容だった。 
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このページ中にも、廃線ウォークでお客さんをガイドする6時間の間でも、語り尽くせないほどのヒストリーがある横川・碓氷峠。
線路を歩きながら見える景色は、機関車を運転していた人が見てきた景色。トンネル側面の待避坑に入って見える景色は保線員が見ていた景色。ただ歩くだけでなく、立ち止まり、写真を撮る時間を何度も設けて、そこで詳しい説明をしている。イヤホンガイドを導入してからは、ラジオのような感覚で聴いてもらえるように、一日10キロほど歩くなかで、ほとんどの時間喋っている。
私の視点で感じたことも話す。今の仕事をしていなければ、祖父と話す機会や時間がなかったら、碓氷峠のアプト式機関車ED42型の機関士だったことは知らないままだったかもしれない。 18歳まで安中市で育ち、大学4年まで野球に没頭、網走市で過ごし、都内で就職して印刷会社で週刊紙の担当営業として働いて、Uターンした。それで今、こうして皆さんをガイドしている。と話すと、鉄道のこと以外にも、たくさん質問をしてくれる人が多く、会話のキャッチボールはガイドとお客さんだけでなく、お客さん同士での会話に繋がっていく。
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ガイドするにあたって、台本は作らないが、シナリオはある。伝えたいことが明確だから、峠を超えて、歩き終えると一体感のようなものを、いつも感じる。 全国にある廃線や未成線の中でも、碓氷峠は特殊である。
それは、元々が日本一の急勾配区間であること、専用の電気機関車が用いられたこと、 それらは本を読めば、知ることができる。その本があること自体に感謝と尊敬の念を持つのは勿論。本に書いていないような、勤めていた人の苦労や、乗っていた人たちの思い出、沿線の人たちの記憶などは、全国共通のはずだ。残っているものと人の想いを大切にして語り継ぎ、次世代に渡したい。
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そうすることが、大人たちが地域の子どもたちに出来ることだ。その過程として、着地型の旅行商品が育っていくことも、子どもたちの将来にとって良いものになるはずであり、身近な大人へのリスペクトは、子どもにとって地域への愛着へ変わる。と、教わった。 気付くが遅かったが、私にとっての身近な大人へのリスペクトは、祖父だった。だから、愛着が生まれた。 
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「峠の鉄道の歴史は人の歴史だった」ことを次の世代に語り継ぐ。 
そして、今の姿かたちだけでなく、当時の人の想いにフォーカスする。価値の高い体験を提供し、新しい観光のスタイルとして磨き上げる。 
それが今、出来ることだ。 
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20年以上放置されて、自然に帰りつつあった場所が、人々に楽しみを提供する観光コンテンツとして新たな役割を得た。しかし、地域内コンテンツの連動性、インバウンド対応、鉄道遺産の保全など、まだまだ課題も多く、観光誘客戦略も未整備である。 線路を歩くことから軌道上を「乗るもの」へのステップアップの中間として、サポーター制度の創設を予定している。沿線整備などの保全活動、台風被害を受けた区間の保線体験などの体験コンテンツ化を目指し、サステナブルな観光モデルとして、関係人口を創出しながら、これからも、大切に磨き上げていきたい。 
『横川のまちに汽笛は鳴り止まない』
このキャッチコピーが行き止まりのレールの先を繋いでいく。
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発刊:公益社団法人日本観光振興協会
観光とまちづくり「地域資源の価値を高める文化観光」にて掲載
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2022年3月9日に祖父が亡くなりました。群馬に帰ってきてから3年、たくさん話を聞かせてもらえたり、いろんなことを教えてもらうことができました。
碓氷峠に訪れるお客さんのために、働いていたときのことを教えてほしい。と伝えてからは、本当にたくさんのことを聞かせてくれました。
写真が趣味だった祖父は、働いている時の仲間との写真、家族との写真がたくさん残っていて、写真のほかにも新婚旅行の時に使った硬券切符、美ヶ原に旅行した記念の押し花を大事にアルバムに保管していました。
そのアルバムは捨てる。と言った時にすぐ、大事にするからちょうだい。と言いました。自分の子どもにも見せた事ない。と言っていて、そんなことないでしょ。と思っていたら、本当にそうで、葬儀の時にはみんなが、そのアルバムを囲んでいました。
この言葉のおかげで。というのではなく、話を聞いたり、いまの自分の仕事のことや、考えていることを話すことができた時間が支えになっています。
仕事への誇りを持てたとか、シビックプライドだとか、そういうことでなく、祖父が見た景色をいま見れていること、たくさんの汗を流した場所で同じように働けていること、自分でないと見えない視点のことを人に伝えていくことができることに感謝しています。
祖父が大事にしていたアルバムのように定期的に記録を残していきたいと思います。
2022,05.01 祖父が恋しく思い続けたまち横川にて
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1997fbp · 2 years
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故郷で暮らす
 18歳まで安中市で過ごした。西松井田駅から電車に乗り、高崎駅からは自転車で学校に通った。30歳になったいま、故郷に帰っての生活も3年が経って慣れてきた。
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転職を機に帰郷し、同時に結婚をした。妻は「地域おこし協力隊」として秋間梅林を拠点に3年間活動した。最初は実家で暮らし、その後はひと山(松井田城址)越えたところ、松井田町松井田で空き家を借りた。
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祖父は「細野が原から見る妙義山がきれいだ」とよく口にする。妙義山の高い所が飛び出すように見えてカッコいいと私も思う。
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ひと山越えた場所から見えた景色も良かった。妙義山の稜線のほとんど全てがきれいに見えた。早朝に遠くの山に差す光、夕方のオレンジ色に染まる空にそびえる山の姿。自分の生まれ育った場所を好きになるには十分過ぎた。
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 コロナ下の2020年春、G-FREAK FACTORYがステイホーム企画として「ダディ・ダーリン」をメンバーが宅録したミックス版を公開した。私が自宅から見える妙義山を映して制作した。人がつくる音楽や、言葉に気持ちを支えられたことが、いままでたくさんあった。
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 年が明けて21年1月末で、松井田から磯部に引越しをした。妻の地域おこし協力隊の3年間の任期が終了し、創業に向けた準備のためだ。
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お互いに東京で忙しく働いていた頃、休みになると大衆酒場によく飲みに出掛けた。特に好きだったのは「飲み歩きの聖地」葛飾区の京成立石駅周辺だ。
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その街の昔からの日常や、文化は触れたことのない人には「体験」になる。
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まだ、何も見えていなかった3年前、3年間の間でいろんな人と話して見えてきたこと、互いに20代で経験したこと、必要だと思うことを詰め込んで、人に喜んでもらえる店を妻とつくりたい。
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  地元の良いところや、文化を人に伝えて、楽しんでもらうために、「自分が良いと思うから」ではなく、顧客の視点で考えて、実際に誰かに話を聞き、確かめるようにしている。そして、遊びに来る友達に全力で薦められることを自分なりの基準にしている。
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  なぜ、地元が好きなのか。「さみしさ」が愛着に変わったからだと思う。大学生の時に感じた年一回か二回の帰省後の女満別空港の冷たい空気。そこで思い出す、西松井田駅から見た夕焼け空。就職してから、有楽町線の終電で帰る繰り返しの一週間。
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その時間があったから、今、ふらっと寄れる実家で祖父母とお茶を飲むことや「もういいよ」と言っても「もう一杯」となる日常に有難さを感じたり、大事にしたいと思うのだろう。
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ライブハウスで「限りない故郷に愛を」と歌い、伝え続ける、地元の先輩の背中を追いかけ、故郷を思って、涙した。今も、きっと泣く。
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故郷で暮らす日々の喜びと、好きな音楽が鳴りつづけることに。
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上毛新聞 視点 9月30日掲載 「何気ない日常こそ喜び」
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故郷の未来のために
生まれ育った街の「観光」が仕事になって3年がたとうとしている
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安中市観光機構は地域の「稼ぐ力」を引き出すとともに、地域への誇りと愛着を醸成する「観光地経営」の視点に立った観光地域づくりのかじ取り役である。多様な関係者と協力しながら、明確なコンセプトに基づいた観光地域づくりを実現するための戦略をたて、着実に実行するための調整役も担う。
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 本年度は、旅行需要が再び高まる時期を見据えて映像制作に取り組んでいる。単なる外向けのPR映像ではなく、その場所に関わる人にスポットを当て、メッセージ性のある映像を制作する。完成した映像を多角的に利用することが狙いだ。観光PR、郷土学習資料、介護・福祉の現場での活用という三つの目的があり、映像を通して地元の人は身近な場所の「良いところを再発見」できる。安中の観光スポットや、お祭りなど地域に根付いた文化、暮らしの中にある大切にしたい景色を「まだ知らない層」に映像で届ける。加えて意識したいのが、コロナ禍による自粛・中止で、行事やお祭りなどの文化とそれを継承するためのノウハウが途絶えてしまわないようにすることだ。
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 物的欲求は観光や旅行で満たされる。行ったことのない場所に行ってみたい。その場所にしかない自分の好きなことを体験したい。まちの歴史と文化を知ってもらうことで、「また来たい」と思ってもらえるようにしたい。
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 知ることから始まって、好きになる過程には旅先の人との出会いがある。ガイドとして碓氷峠の廃線跡を案内する際には、周辺のさまざまなことをレコメンド(推薦)している。よく行くラーメン店から、「星穴」と呼ばれる妙義山にぽっかり開いた穴のことまで。いろいろと話すうちに「なぜ、今の仕事をしているのか」と聞かれることがある。シンプルに答えると「好きだから、知ってもらいたい」に尽きる。
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 バイクに乗って一人、景色のいい道を走っていると「やっぱり良いところだな」と思うことがある。でも、一人で思うより誰かと話して感じることの方が、何倍も強く「この場所で過ごす価値」を実感する。「この人たちと一緒に成し遂げたい」と挑戦する気持ちも抱いた。
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 携わっている「安中ヘルメットプロジェクト」は、年内に市内の全児童に防災用ヘルメットを届ける。Tシャツの販売に加えて家庭用防災ヘルメットの販売も始めた。
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練習を手伝っている松井田高野球部は夏の大会で3年生が頼もしい活躍をした。部員も1人増えた。
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廃線ウォークはナイトツアーを開始する。
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 「今できることを形に」することからステップアップして「数十年後のために今できること」を考えたい。
そのために「知らない」を「知っている」に変えていきたい。
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上毛新聞 視点 8月7日掲載 「好きだから伝えたい」
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1997fbp · 3 years
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高校球児に贈るエール
 実家の玄関に置いてあるオレンジ色のグローブ。高校3年の時に使っていた。金色の刺繍で「心のキャッチボール」赤色の刺繍で「challenger spirit」と文字が入っている。
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「常に全力疾走」その下には「言い訳は進歩の敵」と大学生の時に使っていたグローブに刺繍が入っている。共通するのは部のスローガンが入り、その下に自身に言い聞かせたい言葉が入っていることだ。
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   大学野球で忘れられない思い出がある。4年生の最後の大会はメンバーに入れず、サポートすることに徹した。
「最後のお願いがある」と、全国大会を決める試合の前に野球部寮の食堂で、応援歌の歌詞をコピーした紙をベンチ入り以外の全員に渡した。農大一高と三高の後輩と私が指導役で「大根踊り」を練習。明治神宮球場で肩を組んで、歌って応援した。その後、部員が「青山ほとり」を歌うことが定着したと聞いた。
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 大学を卒業し、一般企業に就職した。大学野球で一区切りしたつもりでも、頭の中心には野球があった。一年も経たないうちに、会社の先輩が所属していた社会人硬式野球クラブチームのトライアウトを受けていた。
合格通知は来なかった。
 勤めていた会社は軟式野球部があり、企業チームとして強豪だったのは昔の話。名前も変えてクラブチームとして、活動していた。いつの間にかユニホームを着てグランドに立っていた。
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 ここ一年は、松井田高の野球部監督が同級生と知り、練習を手伝わせてもらうようになった。チームスローガンは「率先垂範」人の先頭に立って物事を行い、模範を示すことだ。部員10名、マネージャー3名で活動している。
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早朝練習、放課後の練習と並行して、通学路の清掃活動も行っている。「地域に応援される野球部」になること、恵まれた環境で部活動を取り組めることをP Rすることを目的に、野球部の公式アカウントを作り、SNSで発信している。
 祖父は国鉄・横川機関区で働きながら、松井田高の夜間学校を卒業した。昼間、機関車の下に潜り、「釜磨き」をして油のにおいが付いたまま、急ぎ足で学校に通ったと聞く。
私も現在、横川の観光案内所で業務を終えたら、松井田高校のグランドに向かっている。
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 野球に熱中できたのは、ベンチにいても、スタンドにいても、どんな形であっても、チームに貢献できることがたくさんあったからだと思う。感謝とリスペクト、悔しさと葛藤、それを跳ね返す孤独な戦いも全ての経験が財産になる。
 投げ方も相手に合わせて柔軟に、キャッチボールは一人ではできない。
相手に勝つ前に自分に勝って、挑戦者として、グランドに立つ。
二度と同じ一球はない今を、常に全力疾走で。言い訳は進歩の敵。
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自分自身に今一度言い聞かせつつ、この夏、高校生にはフルスイングをしてほしい。
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上毛新聞 視点 6月13日掲載 「自分信じフルスイング」
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1997fbp · 3 years
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碓氷線の歴史
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1997 年 9 月 30 日 。
信越本線 横川―軽井沢区間、最後の日。
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さよなら。
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日本一の急勾配『碓氷峠』 
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2021 年。横川―軽井沢区間廃止から 23 年。
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煙をあげて走る蒸気機関車が、
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峠越えを支えた電気機関車が、 
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今日もこのまちで動いている。
「横川のまちに汽笛は鳴り止まない」
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碓氷線の歴史を次���世代に伝えるために制作したショートフィルムの冒頭の原稿だ。
撮影は年末から行われ、インタビュー形式で蒸気機関車の機関士一名、電気機関車機関士三名に汽笛にどんな思い出があるか話を聞かせてもらった。
このショートフィルムは全編で30分。鉄道の開通から廃止までの歴史を解説しながら進行していく。ナレーションは横川がホームタウンの安中市観光大使の茂木洋晃さんが、優しくも力強く語ってくれる。
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急勾配の碓氷線には、専用の補助機関車が不可欠だった。
1893年から1963年まではアプト式機関車が、 1963年以降は特殊装備を施したEF63 形電気機関車が使用された。 
それら碓氷線専用の機関車を管理、整備し、乗務する機関士が所属したのが、現在は碓氷峠鉄道文化むらが位置する横川機関区だった。
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アプト式時代の碓氷線は1列車に機関車4両。機関士が4人と助士が2人。
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6人が出勤から退庁までワンチームで動く。アプト式は歯形のレールに噛み合わせる高崎駅から31kmの地点が腕の見せ所。丸山変電所を越えて、ラックレールに噛み合わせる前には機関車のピニオンギアの回転を始める。衝撃が加わらないベストな進入速度を保ち、レールに噛み合わせると汽笛で合図をする。気心が合わないと列車がうまく動かない、仕事がうまく回るように仕事後はみんなで一杯交わす。家庭的な雰囲気があったという。
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インタビューでは、時代の変遷、碓氷線廃止当時のこと、を続けて語ってもらった。
本で読めることじゃない、ネットで検索すればわかることじゃない、聞かせてもらわないと知ることのできない、このまちにある「誇るべきストーリー」がそこにはあった。
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人々に残る、暮らしの記憶も、旅の思い出も、 この場所で生まれたすべてのことは、 知ってもらうことから始まる。
 
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当時ホームビデオで撮った映像を提供してもらったものと対比するように、新たに撮影を行った。急勾配に挑んだ先人たちのようにワンチームで制作することができたのは、歴史から教わったことの偉大さを現場で全員が肌で感じたからだ。
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碓氷峠に汽笛が鳴り響いた 104 年。挑戦の歴史。
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私の祖父が汗を流し、手を真っ黒にして働いて、いまでも愛する横川のまち。
『横川のまちに汽笛は鳴り止まない』
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このキャッチコピーが行き止まりのレールの先を繋いでいく合言葉になり、映像やデザインで人の力が重なりあってきている。
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歯車が噛み合って進むように。
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上毛新聞 視点 4月22日掲載  「峠越えの記憶を後世に」
YOKOKAWA WHISTLE TOWN SOUVENIR On Sale Now 
 at ANNAKA GIFT MARKET https://annakacity.thebase.in 
 Design by @taichifurukawa 
 Photo by @tetsuyayamakawa-blog​
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1997fbp · 3 years
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小学生にヘルメット
 2019年12月。
安中市の定例校長会議で「安中ヘルメットプロジェクト実施事業計画」についてのプレゼンテーションをする機会をいただいた。
その場には中学2年生、3年生で担任だった先生がいて、見守るように聞いてくれた。
プロジェクト代表の茂木洋晃さんと二人で、プロジェクトメンバー全員の思いの丈を5分間で校長先生たちに伝えた。
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それから1年、市内の小学校1年生から3年生、1141人に防災用ヘルメットを届けることができた。
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「ANNAKA CITY」と胸に大きくデザインされたTシャツを着ている人たちが、イコールでいることになる。
オリジナルTシャツを1枚販売するごとに1個のヘルメットに換えて配布しているからだ。
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学校の協力で、教室にTシャツを着て、ヘルメットを届けにいく。
子どもたちに「このヘルメットはTシャツ一枚を買ってくれた人の、何かあったときに、みんなの命を守りたいという思いが込められています。」と説明した。
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自分も20年前に、小さな椅子に座っていた母校の教室で。
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最初にヘルメットを届けたのは、最も浅間山に近い「臼井小学校」の1年生だった。
校長先生には、小学生の頃に野球を教わっていた。
1年生の子どもたちが、どんなふうに話を聞いてくれるか、ヘルメットを受け取ってくれるか、と考えながら廊下を歩いて、教室に入った。
迎えてくれたのは、小学1年で担任だった先生。
ヘルメットを受け取った子どもたちは「ありがとうございます!」と元気な声でお礼を言ってくれた。嬉しそうに頭に被ってくれた。
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防災用ヘルメットを使う機会がない方が、もちろん良い。
危機意識を持つこと、そしてそのきっかけになればという想いも込めて安中市内の小学校に通う小学生に防災用ヘルメットを寄贈する。
この活動を通して安中市で暮らす若者同士の顔を繋ぎ、地域離れを食い止める。
子どもたちの未来を守る活動として大人たちからメッセージを届け、郷土愛の醸成を図る。
この3つの目的のもとスタートしたプロジェクトで感じるのは、give and takeではないこと。
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子どもたちにヘルメットを届けたときに、もらえていることがたくさんある。物質的なものでなく気持ちの部分で、届ける側と受け取る側にボーダーラインのない関係性のもと、人と人がつながっていく。
それが結果として、まち全体の防災になる。
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まず、つながることが、必要とプロジェクトメンバーで話をしている。
このプロジェクトのおかげで、会えた人がたくさんいる。
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1人の限界値はキャパシティを広げるほかない。
大きくても小さくても、1は1にしかならない。
欠けたら、0になってしまうから。
 Tシャツのデザイン性がブランド化していくのではなく、既に多くの人が関心を持ち、尽力する人た��のマンパワーが生み出す、ローカリズムがブランドになりつつある。
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上毛新聞 視点 2月28日掲載 「広がる出会いが生む力」
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1997fbp · 3 years
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3年前、3年後
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3年前の今日、何をしたかが、3年後の今に跳ね返るなら、
3年後に迎える同じ今日のために、やりきれない今を。
G-FREAK FACTORYが今年リリースしたVINTAGEという曲の詞。
 3年前の私は東京にいて、新卒で入った会社を辞めることを決めていた。   地元に帰って「何ができるか」漠然としていたことを覚えている。
ただ、安心していた。地元で挑戦したいこともあった。
帰ること決めたのは「いつでも帰ってきていい。待ってるぞ」
と言ってくれる人がいたからだ。
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 東京の印刷会社で働いていた時、週刊誌の担当を任された。
仕事は楽しかった。朝早くに原稿を取りに行き、徹夜で原稿を書いている担当編集者から、その場で原稿を受け取ることが日常だった。
人の手を介して、一冊の本が毎週、世の中に出ていく。
そこに関わる人たちの思いがあることを知った。
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 北海道網走市で野球漬けの大学生活を過ごした反発か、休日はほとんどライブハウスにいた。
思えば、3年前の11月には、HI-STANDARDのライブを観に福島県へ行った。  東日本大震災を経て、「今、自分たちが人のため、仲間のためにできることを精一杯やろう」とした結果、再始動したバンドだ。
共演したCOUNTRY YARDは東京・八王子で活動している。
育った街のこと、人のことを大切にしているのが、言葉でも姿でもわかった。「こうなりたい」と思った。
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 そのバンドのレコードジャケットを仕事として一緒にものづくりをすることもできた。
海外のデザイナーのイラストが和紙に落とし込まれたり、厚手のトレーシングペーパーに印刷をして出来上がった。
「こだわりや、想いを形にして届ける」ことを学ばせてもらった。
これからも学びたい。
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 3年後の今、地元の安中市で「何ができるか」を考えて形にできるようになってきた。
 信越本線新線の横川–軽井沢区間を歩く『廃線ウォーク』
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まず、第一に「楽しかった」という一日をお客さんに思ってもらいたい。
そのためには、どんなメッセージを伝えるかを考えている。
祖父が国鉄勤めだったことは知っていた。地元に帰って、今の仕事をしていなければ、祖父と話す機会や時間がなければ、碓氷峠のアプト式機関車ED42型の機関士だったことは知らないままだったかもしれない。
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「峠の鉄道の歴史は人の歴史だった」ことを次の世代に語り継ぐ。
それが今、出来ることだ。
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帰ってくることを待っていてくれた人たちが、
地元で暮らして出来ることの「1人の力の限界値」を上げてくれている。
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上毛新聞 視点 12月27日掲載 「今できることを形に」
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