Tumgik
4554433444 · 4 years
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妹さんと同居23
 店の前に車を横付けする。路駐になるが、いまは急ぐ。 「……」  一瞬考える。  汐里をどうするか。できればトラブルの現場に汐里は連れていきたくないし、ストーカーに汐里の姿を記憶させる必要はどこにもない。それに店が面している通りはそこそこ交通量も多い。 「車で待ってろ。鍵はかけて開けないこと。いいか?」 「うん。わかった」  車を下りて、外から店内の様子を窺う。雑誌のところに例の男がいるのが見える。それだけ確認すると、俺は男から死角にあたる位置に移動する。  俺が姿を見せれば、逃げる。それは確実だ。しかし逃げられては意味がない。レジにいるのは男子高校生のバイト。ということは、中台は事務所に避難しているはずである。女子店員はなんだかんだで絡まれやすいので、面倒ごとが発生するようなら事務所に避難しろとふだんから言ってある。そのとおりに行動してくれていたらしい。  とりあえず店に電話。  しばらくして中台が電話に出た。 『あ、てんちょー』 「店の前にいる。おまえは事務所にいるな?」 『はい』 「オッケー。んじゃそのまま引っ込んでろ。いまから俺が店に入るから」 『……わかりました』  これで準備はよし。  あとは店内に突入するのみだ。  店に入る。 「いらっしゃ」  まで言いかけて、男子高校生のバイトが俺を見る。それに「ふつうに、ふつうに」とアイコンタクトを送るもまったく通じず。  雑誌を立ち読みしていたストーカーの男が、こちらを見た。慌てて逃げ出そうとするが、さすがに数メートルの距離だ。逃げられる前に腕を掴むことができた。 「出入り禁止にしたはずだよな?」 「……」 「なんで店に入ってるんだ?」  二十代半ば、俺より少し上くらいの年齢だろうか。気弱そうな顔をして、どことなく挙動不審だ。俺に脅されているにせよ、目の泳ぎかたがおかしい。 「前に出禁食らったときに、もう二度とこの店には近寄りません、もし破った場合には、どんな処罰でも受けるって念書書いたの、覚えてる?」 「……」  覚えてる、と。まあ顔にはそう書いてある。ちなみに俺は忘れたぞ。 「裏来いよ」  男は暴れるようなことはしなかった。俺に引きずられるままに素直についてくる。  事務所に入って、中台に声をかける。 「売場に出ててくれ。あと飛田さんに連絡して、早めに来れるかどうか頼んでみてくれ」 「は、はいっ」  電話は事務所に一台、子機がレジにもある。  従業員の緊急時の連絡先は表にして保管してあるので、それを中台に渡す。 「しばらく事務所には入ってこなくていいから」  中台が頷いて、事務所から出ていく。  さて。  俺は男を椅子に座らせて、自分も座った。  あとは、どうやってこいつに「二度とこの店には来たくない」と思わせるかだ。  今回は念書がある。話が早い。  通常、万引きなんかだと「二度とやりません。店には入りません」的な念書を書かせるのだが、出禁の場合、明確な犯罪行為であるケースはあまりなく、力づくで書かせるわけにもいかないので、念書はない場合が多い。  俺自身、この男に関してはほぼ忘れていたので、前回のトラブルがあってからあらためて調べたのである。  あとは防犯カメラの映像。だいたい店には一時間ほど前からいたらしい。カメラ越しに見てもやばかった。ほんとに雑誌のあたりに立って、レジにいる中台のほうをじっと見てる。あきらかにやばい。  念書と防犯カメラという物証があって、事前に警察に相談してあったこともあって、事の運びはスムーズだった。保護者と警察を同時に呼び出し、俺を含めて三者面談。具体的な罪状といえるほどのものはないから、警察が引き取ってくれるわけではないのだが、こういうとき警察ってのはいることだけで意味がある。向こうもそれを承知してるから、うまく立ち回ってくれる。  唯一、親がまともじゃないパターンが怖かったのだが、今回はそうでもなかった。途中までは、うちの息子がなにをしたっていうんですか的な態度だったが、念書を見て態度を変えた。どうもほかの場所でもやってるんじゃないかという感じがある。  ともあれ、ここまでやれば、よほど認知能力に問題があるんでもない限り、次はないと思われる。  警官もストーカーもその保護者も、全員が帰ってほっと一段落。 「貸しひとつ、ですな」  本来は二十一時からだったところ前倒しで呼び出された飛田さんがにやりと笑う。 「シフトならいつでも代わりますよ」 「いえいえ、ここはひとつ拙者おすすめのロリゲーを一作ばかりやっていただくことにしましょう」  それは俺に対する貸しにならないのでは?  てゆうかこの人どうもロリゲー仲間増やそうとしてる節があるからなあ……。あとふつうに汐里が家にいるからエロゲやるタイミングがない。地味にきつい。エロゲで癒やされるものは性欲だけとは限らないので。  飛田さんには早速シフトに入ってもらう。 「Irisの新作はまだですかなあ……」  そんなことを呟きつつ売場に出ていく飛田さん。  そんで、中台である。  なんかぼーっとした表情で椅子に座っている。 「中台」  呼びかけると、びくっと反応してから、営業スマイルを浮かべた。 「はい。なんかご迷惑おかけして、すみません」 「あー……」  まずいな、これ。  とりあえず、家まで送って親にでも話を通そう。  場合によっては、親のほうからバイトをやめさせるって話が出るかもしれない。正直、中台を失うことは強烈に痛いが、あの男がふたたび店に姿をあらわす可能性がゼロになったかというと、そうではない。あるいは、中台自身がやめたいと言い出す可能性もある。  もうちょっと俺がうまく立ち回っていれば。  もっとやりようはあったのではないか。  しかしいまさらそれを言ってもしかたない。結果がすべてだ。 「悪かった、中台」  俺は頭を下げた。 「怖い思いをさせた。すまなかった」 「な、なんでてんちょーが謝るんですか?」 「店の治安を守るのは店長の仕事だから。これは俺の職務怠慢だ」 「や、そんな。だって、来るものは来ちゃいますし」 「来ないようにさせるのが俺の仕事だったんだよ。正直、油断してた」 「そんな、謝らないでください。私がちゃんと言えばよかったんですよ。なにしてるんですか、帰ってくださいって」 「おまえ、そういうの言えるタイプじゃないだろ」 「……それはまあ、そう、ですけど」 「中台にそんなことさせるとなったら、俺が不安でしょうがねえよ」 「それって……バイトとして頼りにならないってことですか?」  不安げに聞いてくる中台。  もちろん、そういうことを言いたいんじゃない。  どう言えばいいんだろう。  建前じゃ通らないだろうな、と思う。じゃあ本音で言うしかない。そしてそれは俺とって、少なからず抵抗のあることでもある。  けど、しかたない。中台に、いつまでもこんな顔をさせておくわけにもいかない。 「中台が心配だってことだよ」 「……私、しっかりしてるほうだと思うんですけど」 「おまえがしっかりしてることと、俺の心配とは無関係なんだよ」  頼む。わかって。これ以上、恥ずかしいこと口走りたくないの。てんちょーがデレたーとか言われたら死ぬから。おまえこのへんの空気読むの得意でしょ? なんでいまに限ってものわかりが悪いの?  などと思いつつ、おそるおそる中台の様子を窺うと、ぽけーっとした表情で俺を見ていた。で、その表情のまま、微妙に赤面していく。 「私、心配……されてた……?」 「だからそう言ってるだろ」 「……どうしましょう」 「俺が知るかよ! さっさと支度してくれ。行くぞ」 「は、はいっ」  中台を放置してさっさと事務所を出る。顔がほてる。これだからいやなんだ。人への好意とか、そんなん素直に表現したってろくなことがない。  途中、レジによってカフェラテを買う。そうこうしているうちに、中台が事務所から出てきた。あとを飛田さんに託して店を出る。  カフェラテを中台に渡してやる。 「けっこう冷えるな……」 「そう、ですね……」  中台の家には一度行ったことがある。店を出たら右方向だ。しかし、しばらく進んだところで、中台が着いてこないことに気づいた。 「どうした中台」 「あ、はい。私あの、やっぱり一人で帰るので、平気です」 「俺が落ち着かないから勘弁してくれ……」 「だって、いまはあの人、確実に家にいるわけじゃないですか。考えようによってはいちばん安全じゃないですか」 「そりゃそうだけど……」 「なので平気です」  平気じゃないんだよなあ。こいつ自覚ないのかな……。  俺は、引き返して中台の前に立った。 「ほっとけるわけねーだろ」 「……あれ、私、笑えてません?」 「だからやばいんだっての。おまえ、へこんでるときとか体調の悪いときは、ずっと営業スマイルのままだろ。ぐだぐだ言わないで、こういうときは甘えとけ」 「……」  中台はうつむいてしまった。 「あ、悪い。なんか余計なこと言ったか?」 「……」 「中台?」 「もう、無理……」  ほとんどささやくような小さな声なのに、やけにはっきりと聞こえた。  次の瞬間には、中台が、俺に寄りかかるように体重を預けていた。 「もう、限界です」 「お、おい」 「おかしくなりそうです」  はぁ、と吐息の音が耳元で聞こえる。音どころか、その温度すらも感じる。対照的に、俺の呼吸は止まりそうだった。なのに中台からただよってくる香りだけは入ってくる。およそにおいの強いものを嫌う汐里とは違う、自覚的に中台が選んだのだろうその香りが、俺の内部で暴れる。 「私、クビでしょうか」 「……」  中台は、俺が店内恋愛を嫌っていることを知っている。実際に、それで店内の空気が悪くなったのも、俺とともに見てきた。  だから、中台がそう言うのなら、それはきっと、そういうことだ。  地面が揺れているような気がする。  中台とは、もう二年近くのつきあいになる。そのあいだ、週に数回はかならず顔をあわせてきた。愛想がいい。話しやすい。よく気がきく。仕事ができる。責任感もある。弱みを見せたがらない。でもあんがい脆い。そんなバイトがいて、種類はどうあれ、好意を持たないはずがない。  そんないきものが、いま、無防備に、俺の前でなにかをさらけ出している。  そう意識した瞬間、心臓がどくんと、大きく拍動した気がした。触れ合った部分が、熱を持っている気がする。  汐里とは違う。  そうじゃない。それはいま考えることじゃない。  しかしとりつかれたように、俺の頭はその考えの周辺をぐるぐる巡る。  汐里は俺に不安を与えない。こんな焦燥感を与えることもない。なぜなら汐里は妹だからだ。その関係は、消えることがない。消すこともできない。たとえどれだけ離れようとも、汐里はいつかは俺の手のなかに帰ってくる。  中台は違う。もともと他人だったものが距離を縮めて、いまここにいる。吐息すらも感じるくらいすぐ近くに。バイトのとき以外の中台を見たことがなかった。だから知らないことがたくさんある。俺にこんな感情を抱いていたことすら知らなかった。こんな、脳がどろどろに溶けそうになるような感情を与えうる存在だということを知らなかった。きっと、まだまだ知らないところがある。そうやってお互い、知らないところを知っていって、人はそのたびごとに驚く。きっとそうした驚きの連鎖のようなものを、人は恋と名付けるのだ。  ならば、汐里は?  俺が汐里に抱いている感情は――。 「帰ります」  不意に、中台が体を離した。  熱を持った部分が、急速に冷めていく気がした。なのに、頭の芯に熱が残っているような気がして、俺はまだぼんやりしている。  帰ると言った中台は、動こうとはせず、俺をじっと見ている。  まるで、なにかを待っているかのように。  俺は、なにかを言わなければならない。そう思うのに、なにも言葉が出てこない。  中台は、視線を落とすと、静かに言った。  「……カフェラテ、ごちそうさまでした。さめちゃいましたけど」 「あ、ああ。おつかれ」 「はい」  とっておきの営業スマイルを残して、中台は立ち去った。  ひどい後悔に似た感情が、俺に残された。 「……遅い」  車に戻ると、汐里がふてくされていた。  あたりまえだ。なんだかんだで一時間以上待たせてしまった。 「充電切れそう」 「あー店に充電器あるから持ってくるか?」 「いいよ別に。早く終わらせてゆっくりしたい」  まあそれもそうか。  車を出す。 「寒い」 「エンジン暖まるまで待ってろ」  汐里はあからさまに不機嫌である。言葉が短い。俺としても多くを話したい気分ではなかったので、ちょうどいいといえばいえる。汐里には悪いが、そう考えてしまう。  中台のことは、汐里には伝えないと決めていた。  受け入れるという選択肢はありえない。  ないと決めた。  ならば、汐里に伝える理由はどこにもない。ただでさえここのところ不安定な汐里の不安をさらに煽るだけだ。 「とりあえず、ストーカーの件は解決した」 「うん。見てたから知ってる。警察の人来てたし」 「そっか」  そりゃそうだ。車は店の前に横付けしてあったんだから。  汐里は、充電が切れそうだというスマホを操作しながら、思い出したようにときどき窓の外を見る。つまり、俺のほうは見ない。不機嫌の原因はわかっているというものの、いまの俺には正直堪えた。 「悪かったな、その、時間かかって」 「別に。緊急事態だったんでしょ?」 「まあ」 「じゃあ、しょうがないと思う」  取り付く島もない。  あくまで仮定の話だが、もし同じ状況で、中台が相手だったらどうなるのだろう。こんなに露骨に不満をぶつけあえる距離感でない。 「……」  そんな比較をしてしまったことじたいに罪悪感を覚える。  隣で汐里がため息をついた。 「……だから言ったのに」 「なにが?」 「さあ」  汐里からは回答はなかった。  車は、幾分か交通量が減った夜の道を、家へと向かって走る。  会話は、それきりなかった。
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4554433444 · 4 years
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妹さんと同居22
 クレーマーというものが嫌いである。まあ好きな人はいないだろうが、コンビニという商売をやっていて、悪質なクレーマーに悩まされた経験がない人というのは珍しいだろう。しぜん、自分になにかあってもそうそう文句はつけない。まずは遠慮がちに聞いてみて、それでだめなら遠回しに伝える。それでもどうにもならなかったら諦める。  しかし今日、俺は生まれてはじめて、猛烈にクレームをつけたい衝動にかられている。 「お兄ちゃん、左、危ない、ぶつかりそう」 「ミラーたたんでくれ!」 「どうやるの!?」 「こう、ぱたんと。ぱたんとだ」 「わかんない、ぜんぜんわかんない! ぶつかりそう!」  修羅場である。  クレームをつけたい相手は、横浜市の道路行政をやってるところである。  道が狭え!  そりゃ子供のころから狭い道だなとは思ってたけど、ひさしぶりに運転した慣れてない人間が突っ込むところじゃねえよこれ! 横浜に車で観光に来られた方は、うっかり裏道に入ろうとか考えないほうがいい。まじで。詰むから。  いやわかってるよ。道路行政が云々じゃないってことくらいは。車の通行なんか想定されてない時代に街の骨格ができあがって、いまさらどうにもならないことくらい知ってるよ。じゃあ俺のこの怒りは、焦りは、そして脂汗はどこにぶつければいいの!?  しかもなにが怖いって、地元民、親父も含めて、平然とこの道路を普通車で通ってることなんだよなあ……。慣れってすげえなあ……。  てなわけで、実家に最寄りのコインパーキングになんとか車を入れたときには疲労困憊だった。てゆうかコインパーキングに入れるのですらもわけのわからない超絶テクニック要求されてる気がする。 「お兄ちゃん、だいじょうぶ? なんか死にそうな顔してるけど……」 「もういやだ……二度と車で来ねえぞこんなとこ……」 「よしよし。お兄ちゃんはよくがんばった。えらいぞ」  汐里が背中をぽんぽんと叩いてくれた。  なんだろう、微妙に嬉しくない……。 「もうちょっとママみたいに頼む」 「えぇ……」  若干引き気味になる汐里だったが、じゃあこんな感じで、とか呟きつつ、 「貴大くんえらいね、さすがお兄ちゃんだね」  汐里は少し背伸び気味になって、俺の頭に手を伸ばしぽんぽんと叩きつつそんなことを言う。俺よりあきらかに幼い外見で制服姿の汐里がそんなことをすると、ちょっとした疼きのようなものが自分の内部を駆け巡る。  対等じゃない。  この子は、俺よりも七歳も幼い。  俺は、汐里を自由にできる――。 「お兄ちゃん、二十分二二〇円だって」 「ん、ああ」 「高いの? 安いの?」 「相場並み」 「ふーん」 「そんじゃ、行くか」 「うん」  これから向かう場所は、実家だ。そこでは、母さんがごはんを作って待っている。俺は、自分の兆したものを振り払って歩き始めた。  時間は17時過ぎ。もうすっかり暗くなっている。 「おかえり貴大くーーん」  恒例のハグに迎えられる。  ああうん、これも待ってたよね。いつもだったら微量の気まずさを感じるこのハグにも、今日は無感動である。俺は疲れすぎた。 「どしたの貴大くん、死にそうな顔して」 「ハハハ」  もうどうにでもなーれ☆  俺に続いて汐里がハグされてるのを横目に見つつ、ため息をつく。  そういえば、母さんのハグにもすっかり慣れたものだ。再婚当初はだいぶやばかった。  汐里と母さんはよく似ている。外見もまあまあ似てるっちゃ似てるのだが、それ以上にたぶん体質が似ている。食ったら太る。らしい。実家の脱衣所には、ちょっと一般家庭では見ないようなメカメカしい体組成計があり、それらにまつわる母さんと汐里の悲喜こもごもは何度も目撃してきた。体重の維持には苦労しているらしい。  なんというか、汐里の、抱き心地特化の上級職みたいな人なのである。それにハグされた男子高校生はどうなるかというと……。  俺は思い出すのをやめた。ここは八神家ではない。とりあえず、ただでさえ複雑な家庭事情を俺のせいでこれ以上複雑にしなくてよかったと、それだけを言っておこう。ついでにいうなら、あれは母さんが無神経すぎると思う。 「ごはんできてるから。手洗ってきてね」 「親父は?」 「まだ帰ってきてないわよ。明日も休日出勤って言ってたし」  よかった。不安要素がひとつ減るだけでだいぶ精神的に楽になる。このタイミングで「性行為はしたのか」とか質問されたら、親父の書斎に納豆を二十パックぶちまけるくらいの陰惨な事件起こす自信ある。たれはノートパソコンのキーボードの上に直播きだ。  そしてダイニングテーブルには、すばらしい光景が出現していた。  煮魚、煮物、和え物など、和食のおかずがずらり。 「これだ……これを求めていた……」 「お母さん、今度は煮物、絶対に煮物の作りかた教えて。お願い」 「別にいいけど……あなたたち、どんな食生活してるの? 私なんだか不安になってきたんだけど」 「汐里はよくやってくれてると思う」  誤解のないように先に言っておく。 「でも、そういう問題じゃない……そういう問題じゃないんだ……」 「うん……」  もともと我が家の食生活は和食中心である。一人暮らしを始めて牛丼カレー、はたまたコンビニ弁当みたいな生活に慣れてしまいすっかり忘れていたのだが、このあいだの汐里が作った味噌汁で味覚的里心が一気に戻ってきてしまった。まるで出汁以外に汐里由来のなんらかの成分でも入っていたのではないかと思うくらいの中毒性である。 「いただきます……」 「いただきます……」  兄妹そろって神妙に両手をあわせていただく。  なお母さんは、親父が帰るのを待って一緒に食べるとのことだった。まあ時間もまだ夕方だし。俺と汐里が並んで座っていて、母さんが向かいに座って、俺たちが食べる様子を眺めつつ、軽くため息をついた。 「家にいたときもそれくらい感謝してくれれば、作りがいがあったのに」 「離れてみないとわからないことってあるんだね、お母さん……」  汐里はいくらなんでも堪え性なさすぎである。まだ一週間経ってない。  俺の家に来たときには基本的に牛丼やらラーメンやらを食いたがるのだが、ありゃふだんの食生活が充実していたからこそできた贅沢というやつである。そういや俺もたまに自腹でカップ麺とか買って食ってた。これが恵まれた食生活だという自覚のなかった当時の自分にドロップキックとかかます必要がある。  食後には手作りのチーズケーキまで出た。事前に訪れることを予告してあったからこそだが、至れり尽くせりである。 「やばいかも……カロリー的な意味で……」  メシ二杯がっつり食った汐里が複雑な顔で呟く。  母さんがにまにま笑いながら、 「じゃあやめておく?」 「食べる」  ほほえましい光景である。俺としてはもうちょいふにふにしてもとりたてて問題はない。いや、それはそれで問題あるな……次におへその掃除とかしたときにまちがって鼻を突っ込みかねない。次ある��かあれ。  ところで、だ。 「どうしたの、お兄ちゃん。食べないの?」 「いや、なんかこう、忘れてるような……」  俺はケーキが出てきた瞬間から、なにかが引っかかっていた。  なんだろう、なんか大事なことだったような気がするんだが……。  わからん。  とりあえずケーキ食う。  うまい。  そういえば汐里が子供のころはクリスマスケーキとかも作ってくれたっけ。 「……」  がたっと立ち上がった。  血の気が引いた。 「ど、どうしたのお兄ちゃん。お兄ちゃんなりの感動のリアクション?」 「ケーキは確かにうまい。しかしそうじゃない」 「じゃあなに?」 「クリスマスケーキの発注、今日までだ……」 「え、でもまだ十一月……」  通常、コンビニの商品はたいてい発注してから一日か二日あれば店に届く。しかし例外がある。クリスマスやバレンタインなどの季節商品である。こうした需要が集中する時期の商品は、一ヶ月や二ヶ月くらい前に発注の締め切りがあるのである。しかも発注は特定期間のみ。  なお今回の発注は、ホールの予約ケーキではなく、店頭で売る五〇〇円とかのコンビニデザートの延長線上のやつである。 「やばい?」 「かなり……。あー、電話……いや、いまの時間帯はまず出られないな。中台がシフトだから……」  LINEだ。休憩時間には見ているはずだ。中台なら発注画面の操作方法もわかる。  俺はスマホを取り出す。 「お兄ちゃん、店の連絡にはLINE使わないって……」 「中台は別。急なシフトの変更多いし、こういう緊急の連絡もけっこうあるから」  つーか、不便だし、頼むから使ってくれと向こうから頼まれたのである。中台が業務上で特別扱いの位置にあるのは、ほかのバイトも知っていることだから、それくらいの例外は作ってもいいだろうと判断した。 「ふーん……」  ケーキを食べつつちらちらこちらの様子を目で窺う汐里。  めっちゃ気にしておられる。こういうとき、汐里のことをからかいたくてたまらなくなる。個人的なメッセージでも送るかーとか呟きつつ入力したらすごい反応を見せてくれそうだし、そのあと収拾つかなくなって俺が困る。  結論。余計なことはしないほうがいい。 「別に見られて困るようなこと書いてないぞ?」  ほれ、とメッセージを送信しおえたスマホをテーブルに置く。 「それはまずいよ、お兄ちゃん」 「気になるんだろ?」 「それは……なるけど……」  倫理と欲望のあいだで揺れ動いてる汐里、ちょっとぐっと来ます。  結局、欲望に負けて、スマホに触れる。 「……」 「……」  なんでか知らんけど母さんまで覗き込んでる。中台からはちょいちょい特に緊急じゃない用件とかの連絡あるけど、俺からは純然たる業務連絡しかしてない。  そうしてしばらく俺のスマホを覗き込んでいた二人だったが、やがて、 「……」  揃って、うわぁ、みたいな顔でこっちを見る。 「な、なんすか?」 「なにって……」 「ねえ」  二人して顔を見合わせている。 「あのねお兄ちゃん」  汐里は、言おうと言うまいか迷っているような素振りだったが、やがてためらいがちに言った。 「せめて、既読スルーはやめよう?」 「仕事に関係ないことでいちいち返信なんかしねーよ。既読ってわかるんだからいいだろ別に」 「私からのLINEだったら?」 「気づいたら秒で返すけど?」 「うう……どうしようお母さん、これ喜んでいいの……?」 「難しいところね……」  楽しいデザートの時間が微妙な空気になった。  それが俺なりの公私のけじめなんだという俺の意見は、最後まで受け入れられなかった。こういうところからぐだぐだになっていくと俺は思うんだけどなあ……。  食事にデザートも終わって、なんやかや話をして、夜七時過ぎ。  俺はスマホを見ていた。 「返信? お店から?」 「ああ、いま発注が終わったって」  中台が休憩に入る頃合いである。発注データ送信完了の画面の画像とともに返信があった。 「そう」  コーヒーが出た。  さっきからたまらない香りが室内にただよっていた。  親父が重度のコーヒー好きである。あまりあの父親からの影響というのは考えたくないのだが、子供のころから喫茶店だのなんだの連れ回されていたことを考えると、ほぼ親の影響である。  んで、その親父を満足させるコーヒーをいれるのが母さんだ。 「なにが違うのかな……」  俺がいれるのよりあからさまにうまい。道具なんかは、どこのご家庭にもあるふつうのドリップなので、理屈でいえば俺にも同じ味は出せるはずなのだ。 「慣れと、飲ませる人がいるかどうかじゃないかしら」  母さんも、自分のぶんのコーヒーを用意して座った。  なお汐里は、自室で持ち帰る本の選定中である。ああなったら、たぶん呼ぶまで下りてこない。どうでもいいけど買った家具の運び込みもあるの忘れるなよ汐里。俺は本までは運ばねえぞ。  不意に、母さんが思い出し笑いを浮かべる。 「汐里が、あんな一生懸命、料理を覚えようとするなんて」 「ん?」 「先週の日曜よ。明後日も来るんでしょ?」 「ああ」  毎週日曜は料理を学びに来る日。そんなことを汐里は言っていた。 「どう? 同居は」 「ぐっだぐだ」 「あら」 「基盤がないところに、人間だけぶちこまれても、そううまくは回らないよ」 「そう……それもそうね。ところでえっちなことはもうした?」 「ブボァ」  予定調和のごとく、コーヒーを噴き出す俺。そしてなにごとも起こらなかったかのように布巾を秒で取り出し、テーブルの上を拭く母さん。読まれてる。ここまでの行動含めてすべて事前にシナリオ書かれてる。  俺は口元を拭いながら、抗議の視線を母さんに送った。 「するなってLINE送ってきたのはだれだよ……」 「したいんだ」 「……」  親としたくない会話ナンバーワンの展開ですわ。  しかも、やはり母さんのことは、文字どおりの「親」とは思えない部分がある。丁寧語がとれるまで半年はかかった記憶がある。二人だけで会話をしていて気詰まりというほどではないものの、俺のなかでは「汐里の母親」という意識がどうしても強い。正直なことをいえば、母さんも俺のことを息子としてではなく、親しい親類の子供に類似したなにかとして扱っているような気がする。それを確認したことはない。  どのみち聞かなきゃいけないことだ。そう考えると、汐里がここにいないのは好都合だとも思える。親父がいないのはさらに好都合だ。  俺は、たとえどんな返答がかえってきても取り乱さないよう、腹に力を入れてから質問した。 「そもそも、なんで強引に同居なんて話、進めたんだよ」 「あら、嬉しくないの?」 「俺の感情の話じゃない。母さんの考えを知りたい」 「ほんと貴大くん、まじめね……」 「あの親父の息子なもんでね」  というよりこの場合、疑問を持つほうがあたりまえだろう。 「うーん……」  母さんは、悩むそぶりを見せた。 「建前と本音、どっちが聞きたい?」 「どのみちもうぐだぐだなので、本音だけでいいです……」 「ほんとに本音でいいの?」 「……いい」  覚悟は固めたつもりだ。  ただでさえわけのわからない状況なのだ。せめてわかる部分だけでもすっきりさせたい。 「貴大くんがすっごく恥ずかしい思いするかも」 「人の決意をいちいち揺さぶらないでくれ!」 「ホワイトボード出す?」 「捨てろ」 「まだ一回しか使ってないのに……」  なぜ買った。  俺たち兄妹を苦しめるためだけに買ったのか。  母さんは、そうねえ、などと呟きつつ、コーヒーを飲んだ。 「実はね、反対なの」 「え?」 「兄妹で恋愛なんて、大変に決まってるもの。貴大くんならわかるわよね?」 「それは、まあ……」  汐里との年齢差は決定的な部分がある。俺は社会を知っている。汐里は知らない。  たとえば汐里と同居していることに関して社長にどう説明するのか。いまは汐里が学生だからいい。もしそうした肩書が外れた後も同居しているとなると、それ相応の理由が必要になる。その理由が「恋愛」であった場合に、理解してもらうことはかなり困難だろう。  それを、たぶん現時点では俺だけが知っている。 「だから、あえてこういう言いかたができる。利害だけ考えれば、マイナスのほうが大きい。そして親はトータルでの子供の幸福のことを考える。人生の先輩としてね。まあ、親子の軋轢ってたいていこういうふうにして発生するんだけど」  そこは、わかるわよね。  母さんは念押しするように最後にそう付け加えた。  つまり、母さんは俺を子供としては扱っていない。大人として話せ。そう言っている。  しかしだ。 「じゃあ」 「そう。そこで、なぜ同居なんてさせた、ということになるわよね」  人差し指を立てつつ母さんが言う。  ほんとにこの人、自分のペースに持ち込むよな……。  とりあえずは、黙って拝聴するほかない。 「親も利害だけで動けるものじゃないのよね……。正直にいえばね、貴大くんのことはわりとどうでもいいの」 「ぶっちゃけすぎでしょそれは」 「あ、ううん。そういう意味じゃなくて。仮にね、汐里との関係がうまくいかなくたって、貴大くんの周囲には、今後もいろんな子があらわれるはずだから。そして、そうなったときに、貴大くんはちゃんと割り切って前に進んでいける。むしろ汐里のことなんて忘れて、さっさと彼女作っちゃいなさいって感じ」 「あんた鬼ですか……」  年齢イコール彼女いない人間になんてことを。そしてそんな簡単に割り切れるものなら、俺はなにも悩んでない。  しかし、母さんの次の言葉を聞いて、俺は抗議する気を失った。 「でも汐里はね……あの子はダメ」 「……え?」 「あの子、しつこいのよ」  ちょっとため息なんかつく母さん。 「執念深いって言ってもいいかも。そりゃあの見た目だもの、言い寄ってくる男性には事欠かないとは思うわよ? でも汐里のほうがダメ。彼氏ができても、もし結婚したとしても、五年でも十年でも貴大くんのこと考えつづけて、最後にはこうね。お兄ちゃんとの思い出はお墓のなかまで持っていく、って」 「そこまで……?」 「その思い出を支えに生きていくくらいのこと考えかねないわよ、あの子。……貴大くんが一人暮らしを始めたあとの汐里の話、聞きたい? 軽く引くわよ?」 「いえ、別にいいです……」  ちょっと聞きたい気もするけど、なんか怖いもの出てきそうでいやだ。  しかしそうなると、別の疑問が出てくる。 「なぜ、いまなんだ?」 「勢いとノリで既成事実をでっち上げるためかしら」 「おい」  いまこの人なんつった。  親として言ってはなら���いことを言わなかったか? 「貴大くんも二十三でしょ。私の勘では、貴大くんがフリーでいられるのって、あと数年だと思うのよ。だから、いま押さえておかないとまずいかなって」 「だから俺はだな」 「はいはいどうせモテないとかなんとか言いたいんでしょ。安心していいわよ。そのうちすごく手間のかかる女の子があらわれて、面倒みてるうちに向こうから言い寄られて身動きとれなくなるようになるから」  なにそのメンヘラ吸着装置みたいな扱い。 「それにね、きっかけがあったから」 「……」 「貴大くんのほうから話してくれたじゃない? それって汐里とのことを真剣に考えて、もうごまかせないって判断したからでしょ? そうじゃなきゃ言う必要はないんだもの」 「それは、まあ……」 「そうなったときに、親は潜在的には敵になるもの。実の両親と姑を兼ね備えた存在が同じ屋根の下にいるのって、私なら絶対にいやね。私だってどうしていいかわからないわよそんなの」 「ご迷惑をおかけします……」 「あらあら、こちらこそ、至らない親で」  なんだこのやりとり。 「まあ、私の話はそんなとこ。私はどっちかっていうと汐里の味方ね。同居なんて貴大くんに迷惑をかけるのはわかりきってるけど、それは承知のうえ。だいたい貴大くんにだって責任はあるんだからね?」 「それは、まあ……」 「どうかなあ……。わかってないんじゃないかなー」  頬杖なんかつきつつ、母さんは俺を見てにやにやと笑う。 「わかってるって」 「汐里に言わせれば、また話は別かもよー?」  あきらかに含みのある表情。  これ、絶対になんかの情報を隠し持ってる。まあ聞いても教えてくれない感じだけど。無理に聞きだしたら藪蛇ってことになりそうな気もする。 「それじゃ、日曜は張り切って汐里に煮物のテクニックでも教えるか」  そう言って、母さんは立ち上がった。  しかし、汐里にそんな側面がある、少なくとも母さんはあるとみなしているということは意外だった。  確かに汐里は俺にべったりだが、執着というのとも違うように俺には思える。なにより、地頭のよさから来るものわかりのよさみたいなものを感じるからだ。むしろ諦めは早いほうにも思える。  どうなんだろう、ヤキモチ焼きの萌芽を見せていることは事実だ。そしてそれは、ずいぶんと小さいころからそうだったような気もする。俺が友だちと話していると不機嫌になる、みたいな。  それはそれとしてだ。  最後に絶対に確認しておかなければならないことがある。  俺は、ダイニングを出ようとする母さんを呼び止めた。できることなら聞きたくない。が、聞いておかないと絶対に後悔するようなやつだ。 「その、LINEでいただいた、エッチなこと禁止というのは、あれはいったい……?」  いまのところ母さんとしては、総論反対各論賛成、んで様子見、というポジ��ョンだと俺は受け取った。だとするなら、この問題をはっきりさせておかないと、今後の俺がいろいろ死ぬ。 「あら、そんなの簡単よ」  振り向いた母さんはとっておきの笑顔で言った。 「歯止めがきかなくなるから」 「……」  生々しいご意見ありがとうございます。  その点における自信は当方、皆無であります。  で俺は、いつまで我慢すればいいんでしょうか。さすがにそう問いただす勇気はなく、ダイニングを出ていく母さんをなすすべもなく見送ったのだった。 「荷物運ぶの、何往復かかるかな……」 「俺の経験だと、四往復めあたりから足が上がらなくなってくるな」 「うう……」  帰りの車のなかである。  社長には少し遅れるかもしれないと連絡しておいた。いまが七時半なので、ギリギリである。ちなみに洗濯乾燥機については絶対に買ったほうがいいとの母さんの宣託が下った。主婦が言うのならまちがいないだろう。  それにしても汐里である。  ついつい信号待ちのたびに見てしまう。  この細身の十六歳の女の子のなかに、そこまで俺に対する執着が詰まっているのだろうか。自分が高一のときのことを考えると、なんていうか、もっとアホだった気がする。 「なにお兄ちゃん、さっきからじろじろ見て。私のかわいい顔になんかついてる?」  微妙にうざい。しかもほんとにかわいい。許しがたい。なので不意打ちを狙って言ってみた。 「おまえ、俺のこと好きなの?」 「うん大好きだよーお兄ちゃん」  スマホいじりつつめったくそ棒読みで言われた。 「どれくらい?」 「牛丼中盛くらい」 「うわあちょううれしー」 「よかったね」 「……」  なぜ俺があしらわれている風味になっているのか。なにか反撃しようにも運転中ではそれもままならない。家に帰ったら求婚するぞこのやろう。  無言になった車内。  別に気まずいということもない。しゃべるときはしゃべるし、そうでなければお互いに環境の一部みたいなもんである。  しばらくして、汐里がぼそっと言った。 「お母さんになんか言われた?」 「なんかとは?」 「私のことで」  あいかわらず手はスマホを操作しているものの、こちらをかなり気にしている気配が窺える。 「言われたといえば言われたけど、汐里が気にするようなことはたぶん、なにも。なぜ同居を認めたのかとか、そんな話だったから、必然的に汐里のことにも言及したとかその程度だよ」 「ふーん、そうなんだ」 「ああ」 「……」 「……」 「……ほんとに?」 「むしろおまえはなにがそんなに気になるの」 「お母さんが、その、余計なこと言ってないか、とか……」  どうだっただろう。  すごい言いたそうにしてたけど言っちゃだめだからいやいや黙ってましたとかそんな雰囲気がめっちゃ濃厚であった。基本的に既知の情報しかないと思うんだが。汐里が想定以上にお兄ちゃん大好きかもしれない、ということ以外は。 「ああ、うん、はい」  迷った結果、ものすごい生返事になった。 「……なにその返事」  じとー。こちらを見てくる気配がする。あと声が低い。 「なにも聞いてない」 「なにもって、なにさ」  あー絡んできましたよ汐里さん。よほど後ろめたいことがあるらしい。お兄ちゃん妄想日記の一つや二つ書いてても不思議じゃないぞこれ。  さて、どうやって探りを入れよう。  そんなことを考えていたときだった。  尻ポケットに突っ込んであったスマホが震えた。着信音は、それが電話であることを示している。 「悪い汐里、スマホとって、もし店からだったらかわりに出てくれ」 「え、えぇ……?」  とまどいつつも言うとおりにする汐里。画面を見て、 「あ、お店から……」  汐里は俺の様子を窺う。俺が頷くといやいやという感じで電話に出た。  あとで折り返し連絡というかたちにしないのには理由がある。休みの日には緊急事態でもない限り、連絡を入れないということになっているからだ。これはバイトに対してはもちろん、店長である俺自身についても同様だ。たいていのことは本部に問い合わせを入れればとうにかなるということもある。  店に中台がいてなお電話が来るということは、それ相応のことが起きているということを意味する。 「はい。あ、中台さん? はい、妹の汐里ですけど、兄はいま運転中で……え?」  汐里がスマホを押さえつつ、困惑したように俺に言った。 「そのあいだのストーカーの人が店に来てるって……」 「わかった。すぐに店に行くと伝えてくれ。ここからなら五分もあれば着く」  例の件では、すでに警察には相談してあった。通報すればおそらく警察は対応してくれる。しかし車はたまたま店の近くにいる。これなら中台に通報させるより、俺が直接行ったほうが早い。 「う、うん」  しくじった。  あの手のやつは、警察が介入する可能性をつらつかせておけば、当面はおとなしくなるだろうと考えていた。完全に俺の落ち度だ。俺のスクーターが特定されていて、休みを把握されていたかもしれない。もう一人のバイトは男とはいえ高校生だ。あてにはならない。 「うん。はい。お兄ちゃんがすぐに行くそうです」  そう言って汐里が通話を終えた。 「いまのところは、店のなかにいてじっと中台さんのほうを見てるだけだって」 「わかった」  なにごとも起きないでくれ。俺はそう祈りつつ進路を店のほうに変えた。
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4554433444 · 4 years
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妹が女児になった
 ある朝目覚めるとグレゴール・ザムザはなにになったんだっけ。えーと、虫? なんか虫的な? まあ実話ってことはないんだろうけど、そういうことがまったく起こらないわけでもないらしい。 「おーい美友里ー起きろー朝だぞー」  ドアをノックするも反応がない。死んだかもしれない。死んでは困るので、勝手に妹の部屋のドアを開けた。 「美友里ー、みゆみゆー」  こんな呼びかたではあるが、妹はいちおうこうこういちねんせいだ。重要な外見の問題だが、ものすごい美少女でもなければ生んだ親を恨む級の残念さでもない。なんかふつうなんだけど、ふつうよりちょっとかわいい。具体的にはなんかまるっこくて小さい。身長は145せんち。かわいい。靴のサイズは二十一・五せんち。かわいい。笑うとちょっとだけ見える八重歯がチャームポイントだ。  そして聞いて驚いてほしいのだが、俺はシスコンである。去年の文化祭で、シスターコンプレックスコンテスト、略してシスコンコンという子宮でもノックしてんじゃねえかというようなイベントが開催されて大問題になり、大変な怒られが発生したことがあるのだが、なにを隠そうそのコンテストの優勝者は俺だ。以来俺は学校のダークヒーローだが、特に気にしてはいない。なぜなら美友里はかわいい。問題はない。  で、それはそれとして美友里である。  美友里はかわいいのだが、残念である。これは豆知識なのだが、妹はブラコンである。去年文化祭で開催された(中略)ぶっちぎりの優勝、お兄ちゃんすきすきだーいすき、と駅前でもコアラさんだっこでしがみついてきかねないくらいである(昨日のヘッドライン)。美友里の現在の夢はお兄ちゃんのお嫁さんになることであり、俺の現在の夢は美友里をお嫁さんにすることである。  兄妹ものにつきものの親の反対やらなんやらだが、親は現在夫婦そろって海外に赴任中ということもなく、実は美友里のほんとうの両親は幼いころに事故で死んでおり、親友だった俺の両親が引き取ったということもなく、ガチ血縁の兄妹であるのだが、なんかもうここまで来ると親としても諦めの境地らしく「ああうん、あんたたちなら社会的な後ろ暗さとかもないだろうから。もう好きにすればいいよ」と丸投げである。新しい兄妹ものの地平、それは親の諦め。  説明が長くなってしまった。では、これから美友里の布団をフルオープン! 一晩にわたってじっくりと布団にしみこんだ美友里成分を毛穴という毛穴から吸い込むよ! 「オープン・ザ・みゆみゆのふとーーーん♡」  がばっ。タオルケットその他を一気に剥ぎ取る。どうでもいいけど語呂と頭が悪すぎるなこの掛け声。 「おはよう、美友里……」  なんと、そこにいたのは、高校生にしても小柄すぎてすげえかわいい美友里ではなかった。なんか七歳くらいの女児である。美友里は高校に入ってからも家では俺が頼めば「お兄ちゃんはほんとにしょうがないなあ♡」とか言いながらランドセルを背負ってくれるやさしい妹だが、これはガチ小学生、ガチこどもである。 「お、お兄ちゃん……」  うずくまっていた女児が、起き上がって涙目で俺を見つめた。すっごいうるうるしてる。かわいい。 「おまえ、美友里か……?」 「わ、わかるのお兄ちゃん!?」 「あたりまえだろ! 俺をだれだと思ってる。おまえのお兄ちゃんだ! ちょっと待ってろ」  俺はスマホを取り出し、ものすごい勢いでグーグルフォトを検索。このスマホには、俺が物心つくころからずっと蓄積してきた美友里ちゃん成長記録ダイ♡アリーのすべてが含まれている。略して「みゆみゆとおにいちゃん」だ。子供のころはスマホを持っていなかったから、親から譲り受けた古いデジカメで撮影したものである。そのすべてが俺の魂と、このスマホのなかに格納されているのだ。 「……あった。これだ」  俺は美友里にスマホの画面を見せる。  そこに表示されているのは、新品の赤いランドセルを背負ってというか背負われているというか、大きすぎる飛行ユニットを背負わされてふぇ~とかなってる女児型アンドロイドみたいな雰囲気の女の子である。比喩のほうがよけいにわかりづらい。とりあえずかわいい。最後にかわいいつけとけばなんでもかわいい。ちなみに写真のなかの美友里はなにがあったのか半泣きである。かわいい。 「いまの美友里の姿は、この美友里とそっくりだ。鏡を見てみろ」 「……」  おそるおそるベッドから下りて姿見の前に立とうとする美友里だったが、パジャマが元のサイズのままだったため、裾を踏んづけてこてんと転んで床に落ちてしまった。 「美友里!」 「ふ、ふぇ……いたいよぉ……」 「どこをぶつけた? おでこか? ひざか?」 「えっと……ぜんぶ」 「じゃあ全部なでなでしなきゃいけないじゃないか!」  なでなで。  なでなでなで。 「ううう、高1の美友里もかわいいけど、この美友里もかわいい……」  腕のなかにすっぽり収まるサイズ。これはやばい。シスコンのほかにロリコンも併発しそうである。すでにしてる。謹んでお詫び申し上げる。 「ねえお兄ちゃん、さすがに泣くほどのことじゃないと思う……あっ、だめっ、そこはなでちゃだめ!」 「なぜだ!」 「そ、そこは……おっぱい……」 「やー、まったいらでなんもねえからわかんなかったわー」  ごめすっ。  なつかしい擬音とともに、俺の視界に火花が飛んだ。  美友里の7こくらいある必殺技のひとつ、頭突きである。 「う、うう……おでこがいたいよぉ……」  ただし自分も痛くて泣いちゃうという諸刃の剣である。なんてきけんなわざなんだ。かわいいなあ。 「それはまずい! なでなでしなけれは!!」  鏡の前に立つまで10分くらいかかった。 「ほんとだ……」 「だろ。��あ美友里の外見、正直子供のころからあんまり変わらないから、見たときにすぐわかった」 「ひっさつ……」 「すいませんでした」  剣呑な雰囲気をただよわせてすごいかわいくなった美友里に頭を下げて謝罪する。 「それにしても、お兄ちゃんの動じなさもすごいよね……あまりにふだんどおりだったから、自分が驚くタイミングなかったよ」 「バカだなあ美友里。美友里だったら、たとえ3歳でも愛せる自信があるぞ」 「お兄ちゃん……」 「美友里!」  ひしっと抱き合う。正確には美友里がちっちゃいので俺にひしっとしがみついてる感じだ。ああどうしよう、また新しいかたちの美友里への愛が。脊髄からだんだん下のほうにあふれていって、いま、俺、完全体。 「ていっ」 「ふんごぉぉぉ」  雄々しく屹立したジャパニーズお兄ちゃんスティックメカニズムが、紅葉のようなみゆみゆのおててによっておしおきされた。 「これもまた、よし……」  股間を押さえて膝から崩れ落ちる俺。 「まったくもう、お兄ちゃんはどこでも節操なくおっきくして……ばかなんだから♡」  両手でほっぺたをおさえてぽっと顔を赤らめて美友里。あ、ちっちゃいこがこのポーズするとめっちゃかわいい……。 「でも……それにしても、どうしてこんなことに?」 「それだよなあ。いかに俺が、美友里のためなら現実のほうを捻じ曲げる手のほどこしようのないシスコンだとしても、現実的に美友里の生活に不自由出るしなあ」 「あ、自覚はあったんだね」 「うん、受験とかあるからね……」  シスコンも受験からは逃れられない。  二人して考え込んでいると、窓のほうからとつぜん、異様な気配が漂ってきた。 「お兄ちゃん! 窓に、女児アニメのプリントのついたTシャツを着て、吸盤で張り付いてる絶望的にきもちわるい人がいる!」 「な、なんだって!?」  俺ががばっと振り向くと、その人間は、死にかけのミミズみたいな気持ち悪い動きでシュバババッと窓を開けると、窓枠にねちょっと着地した。 「L・O・V・E!ラブ幼女! ハイッッ!!」  甲高い掛け声とともに、男は室内に飛び込んできた。  ちょうど手頃なサイズのモルゲンステルンがあったので、殴打してみた。  んぬに。  文字にしがたいすごい手応えあった。 「あーいってー、死ぬかと思ったわー」 「あたま! 刺さってる!! モルゲンステルン自立してる!!」  美友里が指を差す。 「いやあ、いいのいただきました」 「えーと、その飛び散ってる血、あとで掃除してね」 「これは失敬。拙者、ちょっと血の気が多いものでしてな。さきほども陰茎から血が止まらぬので献血車に闖入し、ナースの前で献血希望!とおっとり刀で下半身を開帳いたしたところ」  やべえ。本物の変質者だ。俺なんかまだまだ器が小さい。  ひととおりの説明を終えたあと、真の変質者はおもむろに語りだした。 「拙者、幼女を性的な意味で愛する会の日本支部長を務めさせておりまする。これは名刺です」  血まみれで読めねえ。 「当組織は世界中に35億もの会員を擁しており、その資金力、技術力は絶大、NASAにも秘密裏に技術供与をいたしております」 「ロリコンの集団がいったいなんの技術を提供すると……?」 「火星での幼女探査です」 「……」  やばい。完全にツッコミがまにあわない。いったいどうしたらいいんだこれは。 「お兄ちゃんお兄ちゃん」  美友里が、こおろぎさとみ以来の日本の伝統芸のひとつ、やや低めのメゾソプラノくらいのロリ声でささやいてくる。コシがあってまろやかでありながら、しつこさと不自然さがない。背筋をぞくぞくさせる微量の毒すら感じさせる甘い声である。 「なんだ美友里」 「これ、使って」  美友里が、ちょっとしたトランクケースくらいの大きさのものを押し出してきた。 「なんだこれ」 「自律型拷問具、鋼鉄の処女1号さとみちゃんだよ。ここのボタンをこうやって押すと……」  がぱっと、フタらしきものが開いた。箱型のそれは複雑にがっしょんがっしょん展開すると、人間らしき姿となる。 「いけ、さとみちゃん!」 「ま゛っ」  体の中心軸から真っ二つに割れて、がばーっと開いた。その内側にはびっしりととがった釘状の突起が埋め込まれている。えぐいなあ……なんだよあれ……。 「ま゛っ♪」  あ、変質者が飲み込まれた。 「んぎゃあああ、みぎゃっ、あっ、あっ、いんぎぃぃぃぃ……」  そして、悲鳴さえ聞こえなくなった。 「血液型はO型、好きな食べ物は人肉。以上、さとみちゃんのプロフィールでした☆」 「あ゛ーー」  さとみちゃんの作動音?とともに、がぱっとさとみちゃんの体が開いて、ごとっと、男だったものがぼろぼろになって床に倒れ落ちた。 「さ、さすがは我らが見込んだお方……」  あ、生きてる。  わかった。これあれだな。突っ込んだら負けっていうそういうルールなんだな。  割り切ろう。  なんなら、さっき流れてた血ももう消えてるしな。 「我々は……ずっと追い求めていたのです。理想の幼女というものを。穢れのない魂、穢れのない肉体、そしてついに見つけた……美友里さん、あなたこそが……しかしなんたることか!」  男は、床に膝をついて、両手で顔を覆って天を仰いだ。まるで殉教者のように。 「すでに美友里さんは高校生になっていた! そこで我々は対策を立てました。そうして完成したのがこの、光当てたらなんでも幼女になっちゃうライトです!」  ぺしっ。美友里がライトを叩き落とした。  ぐしゃ。踏んづけた。  あーあ、壊れちゃった。 「そんなてきとうなライトで人の人生めちゃくちゃにしないでください!」 「ああ! なんということを! 元に戻すにもそのライトが必要だというのに!」 「え」 「え」  美友里と俺の無機質な声が重なる。 「どうしてくれるゴルァ!!!」  俺は男の襟首を掴んでがくがくいわせた。 「ちっちゃいみゆみゆももちろんかわいいが、高1の美友里だって死ぬほどかわいいんだ。俺とともに時を過ごし、やがては結婚、生まれた子供はみんな美友里に似たかわいい女の子、俺はかわいい奥さんとかわいい子供のハーレムの主として死ぬまで幸福に暮らすはずだったのに!!!」 「お兄ちゃん、思ったより鬼畜思考だね……」 「いますぐ! 予備をよこせ! 予備のためなら貴様の命など捨ててやる! いますぐだ!!」 「そうしたいのはやまやまなれど……」  男は気まずげに目を逸らす。 「まさか……」 「そのまさか、です。そのライトは完全な特注品。世界にひとつしかないものです」 「なん……だと……」 「このことを理解してもらうには、そもそも薔薇十字団の結成の由来から説明しなければなりますンゴぉっ」  手近にあった2本目のモルゲンステルンで殴っておいた。いまはそんなこと聞いてる場合じゃない。 「美友里、どうする……」 「うん……でも私は、いいかな。どこにいても、どんな姿でも、お兄ちゃんと一緒なら……」 「美友里……」 「お兄ちゃん……♡」 「そう、あれは13世紀イタリアでの出来事でした。時のローマ法王」  まだ続いてたのか。  そのときだった。  ガシャンと、ガラスが砕ける音がした。 「美友里!」  俺はちっちゃい美友里を抱きしめてかばう。背中に焼けるような痛みを感じる。食らったか。 「貴様は!」  さっきの変質者の声がする。  痛みをこらえつつ振り向くと、そこに女児アニメのプリントがついたTシャツを着た男が仁王立ちしていた。男は、拳を握りしめて、ぼきぼきという音を立てながら 「ふむ、なかなか馴染むな、この体」 「お兄ちゃん……」 「美友里、おまえは隠れてろ」  美友里を背にして、俺は新たに登場した変態に向きあう。まちがいないこいつは、最初の変質者の関係者だ。それ以外にどう逆立ちしても思いつかないくらい関係者だ。肉弾派の魔法少女の顔がかわいそうなくらい伸びている。それはつまり、その男が筋骨隆々であるということを意味する。 「お二人は逃げてください。ここは私が食い止めます!」  いやあの、逃げるのいいんだけど、ちょっとくらい事情の説明がほしいかなあって……。 「ふむ。名乗りくらいはくれてやろう」  男は顔を歪めた。その歪みが、男なりの笑顔だとわかったのは、しばらく間が空いてからのことだった。 「我こそは、幼女に純愛を貫くロリコンの会の日本支部長。我々の理想の女王、ここは女王と書いてクイーンと読むのだが、女王が覚醒したと知り、推参つかまつった次第。悪いようにはせぬ。美友里ちゃん、我と一緒におさんぽしないかな?」 「おい、キャラ統一しろよ」 「初潮はまだかな?」  ロリコンこんなんばっかだな……。ローティーンのキャラ出ると真っ先に初潮がまだかどうか気にするのほんと最悪。どうせ愛読書はやぶうち優だぞこいつ。 「そいつの言うことに耳を貸してはなりません……」  切羽詰まった声は、最初の変質者。会の名称でいえばおまえんとこのほうがよっぽどやばいがそこは。 「その男は化物です。理想の幼女を求めて、他人に肉体を乗っ取り、何百年もの時を生きてきた。幼女のためならどんな非道をも辞さない、幼女以外のすべてにとって危険な男……その名は……ロリコン伯爵!」 「ひでえなおい……」  捻りがなさすぎてずっこけるのはさておき、その名前を名乗って生きていけるメンタルのほうが計り知れなくてむしろ怖い。 「ここに至っては話し合いはもはや無用。美友里ちゃんは我らがもらいうける」 「させるか!」  変質者2号が魔法のステッキらしきものを、1号はオナホらしきものを取り出した。オナホ?  1号が、目を閉じる。すべてのものがぴたりと動きを止める。  1号が目を開いた。そして静かに呟く。 「ロリオナ砲」  その瞬間、七色の光が室内に溢れた。筋骨隆々の2号を巻き込んだ光は、その光の形に壁を切り取る。おー青空が見える。今日もいい天気だ……。 「ってうちの壁!!!」  そして、光が消えたとき、2号は傷ひとつなくその場に立っていた。 「笑止」  男は顔を歪めた。そして、ステッキを頭上に捧げ、重々しく宣言した。 「加齢なる、性徴」 「まずい!」  1号が俺たちを部屋から押し出す。美友里も俺もまとめて廊下に転がる。 「あの技は発動まで時間がかかります。いまのうち逃げてください。ライトはかならず、かならず私たちがあなたに届けます」 「変質者さん……」  美友里が致命的な呼びかたをする。 「ふ、その呼ばれかた、なかなか陰茎に響きますな」  男が美友里の部屋に戻る。  その瞬間、ドアの形が波を打ったように歪む。  なにが起きているのかわからない。わからないが、あれはやばい。本能的にそう感じるくらいには、異常なことが起こっていた。 「美友里!」  俺は美友里を抱きかかえた。転げ落ちるように階段を駆け下りる。 「あんたたちー、朝ごはんはー?」 「今日は食わない!」 「そう」  母親がのんきに答えた。  かまわず俺は靴をはいて玄関から飛び出す。玄関には、置きっぱなしになっている愛用のママチャリがある。 「美友里、しっかり捕まってろ」 「うん!」  ペタルに足をかける。  全力で踏む。  家の敷地を出た。通りまで出て、わずかに家を離れたときだった。 「あ、ああ……」  美友里の悲痛な声がした。  急ブレーキをかけて、家を振り返る。  カッと、なんか色のよくわからない茶色とか灰色とかきったねえ光が家を包んでいた。その光が収束したとき、そこに家はなかった。 「そんな、おうちが……」 「クッ……」  俺は、現実を直視できずに家のあった場所から目をそむける。 「お母さん、お母さんは……?」  美友里が自転車を下りる。  ふらふらと家のほうへ歩き出す。やがてその速度はだんだんと上がっていき、ついには全力で走っていた。 「美友里!」  止める間もない。もとより家のすぐ近くだ。美友里を捕まえるよりも前に、家に着いてしまっていた。  鉄製の門のところで立ち尽くしている美友里。  その頭に手を置きつつ、俺は覚悟を決めて、敷地のなかを見た。  そこに、一人の女児がいた。 「あれ、あんたたちでかけたんじゃなかったの?」 「……だれ」 「そういえば美友里どうしたの、そんなちっちゃくなっちゃって」 「そんな……」  俺は、よろよろとその女児に近づく。がっくりと膝を落として女児の顔を見た。 「母さん、なのか……?」 「あんたは小さくならないのね」 「もし母さんなら、言ってくれ。俺のエロ本の隠し場所を」 「あんたエロ本とか持ってないでしょ。デスクトップから4階層くらい下にあるみゆみゆってフォルダがあんたの唯一のオカズじゃないの?」 「母さん……!」  俺は号泣しつつ、かつて母親だったものを抱きしめた。 「お兄ちゃん……そんなことしなくても、いつだって本物が近くにいるのに……」 「ああうん、それは別腹だから」 「そういうものなんだ……」  こうしてこの日、俺たち家族は、多くのものを失ったのだった。  それから3年の月日が流れた。 「10さいのおたんじょうびおめでとー!」  よく似た二人の女子小学生が、お互いにそう言い合って、ケーキの上のろうそくをふーっと消す。  母さんと美友里は、今日、10歳になった。あの日7歳相当まで年齢が下がったので、3年後の今日が10歳というわけだ。 「いやー、一時はどうなるかと思ったが、なんとかなるものだな」  父親が感慨深げに言う。 「いやあ、ほんとだねえ。でもまあ、二周目の人生もなかなか悪くはないよ」  母さんが言う。  確かに家は失った。しかし家族は残った。あのころとは違い、2DKの小さなアパートではあるが、俺たち親子はそれなりに楽しく暮らしていた。 「なんか、いいのかな……」  美友里が難しい顔をしているが、まあなっちゃったもんはしょうがない。 「10歳の美友里もかわいいなあ……」 「なんの。母さんだって負けてないぞ」  むくつけき男どもが、それぞれのJSを抱きかかえて笑い合う。  そうだ。起きてしまったことはしかたない。明日に向かって歩こう。生きてる限りどうにかなる。あと美友里まじでかわいい。 「お兄ちゃんのメンタルもたいがい鋼鉄だと思うんだよね……」  などと美友里が呆れ顔で言ったときだった。  玄関のインターホンが鳴った。 「はーいどちらさまで……ってうわ」  俺がドアを開けると、そこにはヒゲまみれのぼろぼろの男がいた。 「お約束の品を、届けに参りました……」  あちこち破れた女児アニメプリントのTシャツ。 「あ、あんたは……!」 「覚えてらっしゃいましたか」  いや、忘れようがないだろアレ。  俺に手渡されたのは、一本のライト。 「それで美友里さんと、お母様を照らしてください。そうすれば、元の年齢に……」 「あー、それなんだけどさ、なんかもうこの状況に慣れちゃったし、これはこれでいいかなって……」 「は?」  そこへ母さんが出てきた。 「おやおや、あのときの人じゃない。ちょうどいいわ。筑前煮があるんだけど食べていかない?」 「は、はぁ……」 「こんなに薄汚れて。うちのでよければ着替えはあるから。まずお風呂入ってらっしゃい。ゆっくりお風呂に入って、おいしいもの食べて。そしたらきっと笑えるから。ね?」  男の目に、涙がにじんだ。 「JSママ、いいかもしんない……」 「ああうん、もうなんでもいいや」  というわけで、2周目の女子小学生生活を送っている美友里は、なかなかおねしょが治らない。俺は美友里の布団を干しつつ、今日も幸せである。 「においかいじゃだめー!」  めでたしめでたし。
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4554433444 · 4 years
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机と椅子の対話
 かつては子供部屋だったその部屋は、がらんとしていた。  あるものといえば、古びた机、そして椅子、布団のないベッド、空っぽの本棚くらいのものだった。  三月の夕暮れの日差しが、部屋に斜めに差し込んでいる。その光の帯の形で、ほこりがわずかに舞っているのがわかる。  部屋の主だった女性は、この三月に高校を卒業した。四月からは都会の大学に通うことが決定しており、一人暮らしを始める。細々とした私物はすでに転居先のアパートに送られていて、子供のころから使っていた古い家具は、処分されることが決定していた。  明日、部屋の主は、住み慣れた故郷を離れる。    そんな無人の部屋で、人間には聞くことのできない、ひそやかな声がする。 「なあ机」 「なんだ、椅子」 「あの子も、行っちまうな……」 「そうだな」 「何年になる」 「あの子が小学校に入学した年だから、かれこれ十一……いや、十二年か」 「そんなになるか」 「俺の脚もがたついてくるってわけだ」  椅子は苦笑した。 「ガキってぇのは、どうしてこうも物の扱いが乱暴なんだろうな。教室の椅子じゃねえってのに、あの子ときたら、後ろに体重を傾けて脚を浮かせる癖があったもんだから……ほら、見ろ」  床には、後ろ側の二本の脚の部分だけ、くっきりと傷が残っている。 「馬鹿か貴様は。机から床が見えるわけないだろう」 「それもそうか」 「貴様からは見えないのだろうな、この天板の落書きも、傷も……」 「ああ、俺ァ椅子だからな」 「思い出すな……」  机は、なつかしむような口調で言った。 「あれはあの子が小学校3年生のときだ。初恋、だったんだろうな。好きな男子の名前を書いて、慌てて消して……」 「てめえだけが思い出を共有してると思うなよ。俺ァなんといっても椅子だ。まだちっちゃかった七歳のあの子のお尻をしっかりとこの座面で受け止めてやったもんだよ。やがて第二次性徴を迎え、少しずつ大きくなる尻。いまや、この老体にはちときついばかりの重量感だ。座面のクッションの擦り切れは、俺の勲章だ」 「テスト勉強のときはかならず居眠りをしていたな……。私のこの天板は、あの子のよだれを数限りなく受け止めてきた。思い出すよ。あの子の頬の感触、ちょっとぬるついた唾液の温度……」 「机ってのはこれだからな。四角四面ばってつまんねえことばっか言いやがる」 「座られるだけの貴様になにがわかる」 「ありゃあ、まだ俺が新品だったころのことだ。初めての一人部屋で不安だったんだろうな。一人でトイレにも行けなくて……」 「ああ、あったな、そんなことも」 「まさか、椅子として生まれて便器の代わりをやる日が来るたァ思ってなかったな。あの生暖かい温度感。俺ァ思ったね、ああ、これが生命なんだと。椅子に生まれたことを後悔しちゃいねえが、あのときばかりは便器の野郎がうらやましくなった。あいつァ毎日のようにこうやって、日々の営みを受け止めていやがる。白っぽいツラで当たり前の顔しやがってな」 「ハハハ、生まれ変わるか?」 「なんの。明日明後日にゃスクラップよ。モノってえのはそういうもんだ。酷使されて、ボロボロになって……それが俺らの誇りってもんだろう」 「そういうものかもしれんな」 「てめえはどうなんだ。俺と違って、その気になりゃ、もう一働きくらいできるんじゃねえのかい」 「そういう机生もありうるのだろう。しかし私は御免だ。一人の主に使われて、不要となれば処分される……そういう机がいてもいいだろう」 「糞真面目な上にロマンティストとは反吐が出る」 「好きに言うがいいさ」  日が徐々に陰っていく。  階下からは、夕食の準備なのか、食器の音や会話の声などが聞こえる。実家で過ごす最後の夜だ。 「椅子よ、まだ私の声が聞こえるか」 「あ、あぁ……ちっと眠りかけてたぜ」 「声が届くうちに言っておきたい。長いつきあいだったな」 「よせよ、使う人間あってのモノだ。俺とてめえはただの椅子と机。それ異界の関係なんかねえ。湿っぽい言葉なんざ聞きたくねえよ」  二つのモノたちの脳裏に、数々の思い出がよぎる。  こんな子供っぽい机なんてもういらないと、さんざんな扱いを受けた日。  初めての失恋で泣き明かしたときの天板にこぼれた涙。なにもやる気が出ないと言って、二日も風呂に入らず部屋に引きこもり、そのあいだずっと座られ続けたときに座面が感じた濃い目のにおい。  受験勉強の長い夜。  やがては別れることになる恋人からの着信のバイブ音を拡大する天板。  こぼれたコーヒー。  それらのすべてが――。 「椅子よ」 「なんだ、机。そろそろ眠らせてくれや」 「幸せだったか」 「愚問だな」  二つのモノたちの弱々しい笑い声が部屋に響く。  部屋に、ついに夜が訪れた。  不意に、照明が灯った。 「……まさかこの期に及んで忘れものとか」  部屋着姿の若い女性が飛び込んできた。 「えっと、あれどこやったかな……」  女性は、椅子に慣れた様子で座ると、引き出しを次々と開けていく。その動作にいっさいの迷いはない。 「えーと……あった。よかったー。これこれ。画像放り込んだままになってたんだよね」  手には、SDカードを持っていた。  用事は済んだとばかりに腰を浮かせかけた女性だったが、なにか思うところがあるらしく、また椅子に腰を落ち着けた。 「なんか、がらんとしちゃったな……」  もののない部屋では、声はよく響く。  女性は、ひとしきり部屋のなかを眺め回したあと、机に突っ伏して、天板を静かになでた。  旅立ちの不安か、あるいは感傷からか、女性の目からは、涙がこぼれた。  机は、確かにそれを感じた。椅子は、もう再び感じることのないだろう、平均よりやや大きくなった女性の尻の温度と重みを座面でしっかりと受け止めた。  ごはんできたよー。  階下から声がする。 「はーい」  女性は答えて立ち上がった。  ドアの近くの照明のスイッチに手をかけた女性は、部屋を振り返って言った。 「ありがとね、いままで」  伝説がある。  すべての愛された道具たちが、たった一度だけかなえることができるという、奇跡があると。人には伝わらぬ言葉で道具たちが太古から伝えてきた、夢物語にも似た――。  こちらこそ。ありがとう。君に使われて、幸せだった。  部屋に、人のものならぬ声が、音ではないやりかたで響いた。 「……え?」  女性は、驚いたように、何度かまばたきをした。それから、 「まさかね」  と苦笑しつつ呟いてから、部屋の照明を落とした。  部屋に、真の静寂が満ちた。  もう、なにも聞こえない。
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4554433444 · 4 years
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妹さんと同居21
 押そっかなー、どうしよっかなー。   朝から自室のパソコンのマウスを握りしめて、ぽちっとやるかどうか���巡している俺である。汐里はすでに学校に行って家にいない。  今日は休みということで、ふだんは昼くらいに起きる俺が、がんばって朝から起きて、汐里と一緒に朝食をとった。昨日の余波からか、朝っぱらからにこにことごはんを食べ、くっついてくる汐里はたいそうかわらいしゅうございましたが、半分ねぼけていた俺は、朝勃ちの泥沼の延長戦みたいな状態であり、わりと些細な刺激でどうにかなりそうで困った。この情報、だれも必要としていない気がする。これは豆知識なのだが、寝不足の状態で無理やり起きると、朝勃ちがなかなか治まらない。だからだれがその情報を必要としているのか。  さて、そんな俺であるが、パソコンの画面には、某家電屋の通販サイトが表示されており、そこには洗濯乾燥機の画像がいくつも並んでいる。  そう、洗濯乾燥機である。  思い出した直接のきっかけは、昨夜の汐里のぱんつない事件(言い方)なのだが、以前から欲しいものではあった。  ところで、一人暮らしの男のQOLを上げるものとして、俺がもっともおすすめしたいのは布団乾燥機である。一万もかからない投資で、毎晩、干したての布団の幸福が貴様を襲う。いくら抗おうともおまえは安眠から逃れられない。なんて恐ろしい。  しかしだ。洗濯乾燥機となると。 「さすがに高え……」  乾燥機能に重きを置くのならドラム型、洗浄機能なら従来型、ということらしいが、どっちにしろ十万越えである。二十八万とかこれなんなのバカじゃないの。洗濯物を干さなくて済むというそのことだけのために、はたして人間は十万以上の金を出せるのか、ということだ。一人暮らしを始めたころならともかく、現在はある程度、家事のパターンもできている。 「……ま、あとでもいいか」  今日は、汐里の学校が終わり次第、家具とかの買い出しに行く予定だが、ついでに実家にも寄る。そして実家には洗濯乾燥機が導入されている。そこで母さんあたりに「奥さん、具合はどう? いい感じなのかい?」などと聞いてからでも、判断は遅くない。ねえどうなんだい奥さん。乾燥機の具合は。なあ奥さん。  洗濯やら掃除やらを片付けて午後二時に家を出る。  この時期はことのほか昼が短く感じられる。この時間だというのに、空はどことなく暮れていく気配がある。  社長の家まではスクーターで二十分程度。今日は、あらかじめ社長に業務用の軽バンを貸してくれと申請してあった。 「ちわーっす。本永です。車借りに来ましたー」  インターホンを押して話す。 「あーい……」  すんげえ間延びした女性の声が返ってきた。  なにいまの。  しばらく待つと、玄関の鍵が開いた。  しかし、だれも出てこない。  入っていいものなのだろうか。まあ、鍵開いてんだから、入ったらいきなりシャワー中の人妻がバスタオル一枚で出てくるとかいうこともあるまい。人妻って社長の奥さん? 熟女? 新章のスタート? 俺はさっきからなにを奥さんにこだわってるの?  アホなことを考えつつ、窺うようにしてドアを開けて、中に入る。  するとそこに、一人の若い女性が立っていた。 「すいません、父はいま筋トレ中で……」 「……」  なんだろう、これ。  俺は、軽く混乱していた。  いや、約束の時間に筋トレしてるっていう社長の意味わからない行動もとまどうといえばとまどうのだが、そっちじゃない。  年のころは高校生……中学生ってことはないかな、くらいの感じである。んで、おそらくは社長の娘なのだろう。そんで……えーと、なんだこれ、よくわかんねえな。  俺がなにゆえこんな微妙な反応になっているかというと、体操着のせいである。目の前の女子は、体操着を着ている。体操着じたいは、汐里の学校の悪夢みたいなサイケデリックな色彩とは違い、ごくふつうである。しかし、胸元にゼッケンらしきものが貼ってあり、そこにでかでかと「2-E 五反田」と書いてあるとなると話は変わってくる。さらにその「五反田」という字が識別困難なくらいに盛り上がっているとなると、俺の股間の様子も変わってくる。  いや別に変わってない。安心してほしい。  ちなみに下は臙脂色のジャージである。 「もうじき終わると思いますので、よければリビングでお待ちください」 「はぁ」  まあ、来たことのない家ではない。遠慮することもなく上がる。  女子の後ろをついていくことになるのだが、動きが遅い。あとスリッパを引きずるずりずりいう音がする。なお字面だけだとセリフはまともに見えるのだが、実際に聞いている俺からすると、ぼそぼそしゃべってるから聞き取りづらいしなんか間延びしてるしで、かなりインパクトある。 「こちらへどうぞ……」  居間に入ると、ソファに案内された。  おとなしく座っていると、 「コーヒーと紅茶と、あとヘパリーゼがあります。どれがいいですか? ちなみに私の推しはヘパリーゼです」 「なにゆえヘパリーゼ」  思わず素で返してしまう。 「渡すだけだから」  ああ、そういう……。いや、そういうことじゃないんじゃないかな……。 「じゃ、ヘパリーゼで」 「まいどー」  と、ローテンションの掛け声とともに、ことんと、ソファとセットのガラステーブルの上に、ヘパリーゼの瓶が置かれた。なんだろう、この放置プレイの居酒屋みたいな微妙な空気。  いや、別にいいよ? 汐里につきあって早起きしたせいで眠いから。これ多少はドリング剤みたいな効果もあるし。  しかしだな。いいのかこれ。客のもてなしとして。 「それじゃ、父に、本永さんが来たって伝えておきます」 「よろしくお願いします」  ずりずり。  スリッパを引きずって、社長の娘らしき人が退場していく。後ろ姿がすげえだるそう。 「……」  開栓したヘパリーゼの独特の臭気に耐えつつ俺は思う。  なんか、キャラ濃い。  俺の周囲にいる女子って、最近めんどくさい雰囲気をまといつつある汐里とか、目から鼻に抜けるような中台だとかそんなんばっかなので、えらい斬新に見える。もっとも体操着の出オチ感ですべてが斬新に見える説もある。俺は巨乳派ではないが、あれなら胸のあいだからスマホが出てきてもおかしくない。俺は乳とスマホの関係性についてなにかトラウマでもあるのだろうか。  つーか学校いいのか。どう見ても学生だよな。 「いやーすまん。スクワットが佳境でな」  大声で言いつつ社長がリビングにあらわれた。  うわあ……なんか汗だくだ……。身長一九〇近くのおっさんが筋肉もあらわに汗だくで登場されるとちょっと引く。 「なに飲んでんだおまえ」 「娘さんのもてなしです」 「なんだって?」 「コーヒーと紅茶とヘパリーゼの三択でした」 「あいつ……」  社長が顔を手で覆う。 「娘さん、いくつなんですか?」 「十九だ」 「え」  中台と同じ学年か、あるいは一個上?  ぜんぜんそうは見えない……。 「ついでにいうと、ニートだ」 「えぇ……」  なにその速度感のある紹介。ちょっと置いていかれそう。なるほど、だから平日のこの時間に自宅にいるのかー。じゃあ体操着は?  社長は、決して軽いとはいえないため息をつく。そんな雰囲気を出されては、うかつに体操着のこととか胸のサイズのこととか聞けない。聞く必要もない。好奇心は社員を殺す。汐里以上の非現実的なスリーサイズが出てきても困るし。 「せっかく現役で合格した大学も、数日しか行ってない。あとは天岩戸状態だ。国公立とはいえ、授業料もタダじゃないんだがなあ……」  社長があまり見せない親の顔を見せつけてくるのでちょっと困る。  社長に子供がいることくらいは知っていたが、俺と同様に、プライベートのことはあまり話さない人でもある。筋トレの話はよく聞かされるが。 「って、車だったな。ほれ鍵」  鍵束から、鍵を一本取り外して渡される。 「家具買うんだったか? もうじき引っ越しだってのに」 「あ、それ、その話」  反射的に俺は言った。 「どの話だ」  と、社長に問い返されて、ちょっと言葉に詰まる。  というのも、この話題については、なんの準備もしていなかったからだ。俺はある程度込み入った話題に関しては、自分のなかで段取りをつけないと、うまくまとまらないことが多い。あとであれを言えばよかった、これは言うんじゃなかったと後悔することが多い。 「あー、えっと新店です。進捗どうなってんですか」  とりあえず無難なところから聞いた。汐里のことで話しておくべきかとも思ったが、心の準備も、内容の準備もできていない。 「あれなあ……」  社長が唇をへの字にして、しかめっ面になる。 「前にも言ったが、揉めてんだよ。本部のほうが。契約を更新するんだかしないんだかわからないオーナーがいてな。そっちが落ち着かないと新店の話は進まない状況だ。更新しないんだったら、ぜひ五反田さんのほうに、ってことなんだが……」 「新店でいいじゃないですか。んな厄介な店を引き継ぐより」 「日販八〇万」 「は!?」 「もうちょい上だったかな」 「なんでそんな条件のいい店やめちゃうんですか!」  思わず声が大きくなる。  チェーンによって違いはあるが「日販」とは、一日あたりの売上を意味することが多い。ちなみにうちのチェーンで五〇万くらいが平均で、某数字のつくオレンジ色のチェーンは六十五万程度である。つまり、八〇万というのは、ほぼ化物店舗といっていい。 「年だよ。でかい病気やって体がきついってのに、後継者がいないんだとさ」 「あー……」 「まあなあ、俺も五十五で現場に立ってて、そこから十年契約っていわれたら、多少は悩むだろうからなあ……」  難しい顔で社長は言う。  社長はまだまだ働き盛りの年齢だ。しかし俺よりは確実に老いに近いのも事実で、思うところはあるのかもしれない。  現場で店長をやっていて、実績を残している限り、俺は社長とは対等のつもりでいる。しかし、こうやって親の顔や、年齢なりの実感みたいなものを見せられると、また違った印象を覚える。 「じゃあ、二十一時までには確実に戻りますんで」 「おう。保険は問題ないが、くれぐれも事故るなよ」 「せいぜい気をつけます」  社長の車は自宅の屋内車庫にある。車が出たあと、シャッターを閉めるべく、社長がついてきた。  しかしボロいしきったねえなこの車。洗車くらいはしてから返そう。  そんなことを思いつつ運転席のドアを開けると、 「なあ本永」  社長に呼び止められた。  いやに真剣な顔である。そしてガタイのでかいおっさんが真剣な表情で迫ってくると、圧迫感がすごい。圧迫面接(物理)。窒息しそう。あと汗くせえ……。 「娘のことを、どう思う?」 「……は?」  なにこの質問。  いや待って。なにこの質問まじで。一般論? 一般論でいいの? 正直、体操着の盛り上がった名前と乳しか印象に残ってねえんだけど。 「女房に似て、美人だと思うんだが」  あっ。退路塞がれた。  なにこのとつぜんの糞フラグ。やめて。そうでなくても中台のことで汐里がめんどくさい感じになってんのに、こんなパワーのあるハラスメントまじでいらない。しかも社長にかなり気に入られてる自覚はある。あるから困る。折しもさっき後継者が云々って話題が出たばかりでこの展開はないありえない。  それにしても、こういうやりかたで社員を束縛しようとするような人ではないと思うのだが。 「頭も悪くはない」 「そ、それはよいことですね」 「せめて、バイトでもすれば、とは思うんだ。前向きになれることが、ひとつでもあればいい。おまえの目から見て、どう思う?」 「……」  なんでやねん。  おっさん、言いかた紛らわしすぎる。  要するにバイトとして、現場の店長から見てあの人材がどう見えるのか、という話なのか。ようやく、強張った肩から力が抜けた。 「ぶっちゃけわかんないすよ。面接用にどこまで取り繕えるか見てみないと」 「……まあ、そうだよな。すまん。忘れてくれ」 「いえ、別に」  一礼だけしてから車に乗り込む。  なかなかに複雑な気分だった。  俺にも親はいる。汐里にも、とうぜんいる。  もし親というものが、こんなふうに子供を心配するものなのだとしたら、二人にとって俺たちはどう見えているのだろう。そんなことをふと思ったけど、運転ひさしぶりすぎてすぐに忘れた。やばい。怖い。 「遅いお兄ちゃん」  そんなこんなで、遅れた。  待ち合わせの場所は、汐里の学校の近くの公園。近隣の小学生が遠足で行く、わりと規模の大きい場所である。地元の延長にある場所なので、俺も汐里もよく知っている。高台にある汐里の学校からすると、駅とは反対側の谷にあるので、まずほかの生徒はいない。そんな理由でここになった。 「車ぼろっ! あとお兄ちゃんが死にそうな顔してる……。どしたの?」 「いろいろあったんだ……」 「いろいろ……」  いろいろの中身は、社長んちでのあれこれもあるのだが、やっぱ年単位ぶりの運転は効いた。車線変更と右折すごいこわい。あと原付だと通れる道が四輪だと一通だとか、あれ完全に罠ですわ。  汐里が車に乗り込んでくる。学校帰りなので、とうぜん制服姿である。  実家の車よりシートの位置が高いため、スカートではちょっと工夫が必要なようだ。まずお尻をのっけるようにしてよいしょって感じで座り、それから足を引き上げる。女子大変だな。こうがばっと、がばっと行っていいのよ? ぱんつ見えてもいいのよ? たぶん見えたら注意するけど。  ちなみ��そこそこの高収入の親父擁する実家の車はカングー。どうしてそういうニッチなところ攻めるんだろうあの親父。  とりあえず、車を発進させる。目的地は決まっている。 「で、いろいろってなにさ」 「なんか社長につかまってた」 「仕事の話?」 「あー、仕事もだけど、なんか社長の娘が」 「娘さん?」  あ。しまった。 「娘さんが、どうかしたの?」  汐里ちゃん先生は、にこにこと愛想笑いである。  やばい。大湿原に草生える。  生えねえよ……。 「体操着着てた」 「だれが着せたの?」 「その発想は明確におかしいだろ」  汐里内部における体操着の定義に深刻な不安を感じる。体操着は着せるものという新しい地平の幕開け。体育の授業がエロイベントに生まれ変わる革命ののろしが上がった。 「じゃあお兄ちゃんが着たの?」 「体操着から離れて。お願い。疲れてるの」 「どれくらい? ブルマくらい? それともスク水くらい?」  離れた結果、どんどん暗黒のほうにぶっこんでいく汐里先生。  これ以上引っ張ってもおかしい方向にしか行かない気がするし、下手に隠してもボロが出るだけだし、そもそも俺にはやましいところなどひとつもない。俺は、乳に関する情報だけ伏せて、社長の家であったことを説明した。 「ふーん……十九歳……」  あ、引っかかるのそこなんだ……。 「お兄ちゃんの年下好きにも困ったもんだね」  どこからツッコミを入れたらいいのかわからない。  なのでもう、すべてぶん投げた。 「そうだ、俺は年下が大好きだ」 「どれくらい下がベスト?」  ああうん、その問題わりと簡単。二十三引く十六だから。 「七歳くらい下かなー」 「そうなんだぁ……」  ほっとしたように呟いた汐里だったが、しばらくして、納得の行かないような微妙な声で言った。 「なんか無理やり言わせた気がする」  信号待ちでちらりと横を見ると、なにやらちょっとふくれっつらをしてらっしゃる。めっちゃ汐里をかまいたい気分になったが、こういうときに限って信号がすぐ青になる。  今日の目的地、おねだん以上でおなじみの某ニトリに到着である。 「ここ、初めて来る……」  汐里が、正方形のでっけえ建物を見上げて呟く。 「友だちどうしで来たりしないのか?」 「なにしに?」  なにしにだろう。女子高生が友だちどうしでニトリ……。  こうか。 「わあ、この衣類ケースめっちゃ映えるー」 「……ない」  汐里の反応が冷たい。  俺は誓った。もう汐里のボケを放置するのやめよう。これあんがいきつい。  にしても、今日の汐里はテンションが低い。正確には、さっき社長の娘さんの話が出たときからテンションが低い。  どうしてだろう。  などと、さすがに鈍感主人公を気取る気にもなれない。  最近の汐里は、俺の周囲に出現する年下の女子に関してえらい神経質である。というより、俺の仕事まわりでの人間関係が視野に入るようになってしまっている。  どうしたものか。  気がつくと、汐里がじとーっと俺を見ている。 「なんか、機嫌が悪いときの私のご機嫌とりそうな顔してる」 「……」  兄妹めっちゃやりづらい……。お互いの手の内があらかじめ全部バレてるもんだから……。 「お兄ちゃんは、なんで私の機嫌が悪いと思ったのかな?」 「妹のことならなんでもわかるからだよ」 「なんか雑」  かわいい。  思わず頭をなでてしまう。  汐里は、むすっとした顔で俺のなすがままになっていたが、やがて、がんばって不機嫌な表情を作っている感じになってきた。ああやばい。楽しい。  汐里が不機嫌になったりするのを俺があまり気にしないのは、そして、どうかするとかわいいとすら思ってしまうのは、端的にいってしまうと、より甘えられている感じがするからだ。そしてそう思えるのは、兄妹としての時間の積み重ねというほかない。本当の意味で、汐里が俺を嫌いになることはないし、その逆もまたそう。だから、機嫌をとっていくその過程がたまらなく楽しい、ということになってしまう。  やや、歪んでいるという自覚はある。  つまりまあ、どっちもバレバレである。 「やめて。人が見てる」  ぺしっ。ついに手を払われてしまった。  がーん。汐里の理性が勝利してしまった。しかし俺は、汐里の耳が微妙に赤くなっているのを見逃さない。こいつめ、照れてるな。単に外でそういうことされて恥ずかしいだけでは? お兄ちゃん汐里のことかわいすぎて認知に歪みがあるのでは?  つかつかと先に歩いていってしまった汐里だが、あわてて俺が追いかけると、急に立ち止まって言った。 「……あのさお兄ちゃん、そういうのほんとにどうかと思う」  いつになく真剣な声の調子に、ちょっとぎくりとする。 「そういうのって、なんだよ」 「お兄ちゃんは、私を甘やかしすぎだと思う」 「……」  痛いところを突かれた。 「やっぱ、そう思うか」 「思う」  たぶん、これは駆け引きだ。  いや、違うな。  探り合い、なのだろうか。それとも違う気がする。  どちらも理解している。この関係が心地よいと。だから、どちらかがそれを変えようとすることに抵抗がある。お互いそれを知っていることすら知っている。  兄妹なら、それでよかった。  考えることすらいやだが、いつか汐里は俺ではない別の男とつきあうようになる。俺は笑ってそれを祝福する。そういう建前だった。そして俺はそのことを五十年くらい引きずる。一生ものかよ。覚悟は決まらないまでも、そうなるんだろうと思っていた。諦めていた、というのがより近いだろうか。  けれどいま、その建前が覆ろうとしている。覆ることが許される条件が整ってしまった。そして、明確に兄妹ではないその関係に足を踏み入れたとき、二人はどうなるのか。曖昧で、居心地のいいこの場所は、どう変わってしまうのか。  それを考えずにはいられないのだ。 「……難しいんだよな」 「わかるけど……でもさ……」 「やっぱ、だめだよなあ、こういうの」  浮かれていた、という感覚はある。  汐里は、素直に謝れないときのような、ちょっと拗ねたような表情をしている。そして、そっぽを向いてぼそっと言った。 「……だめって言えるなら、困ってない」  さっさと店へ向かって歩き始めてしまう。  あー。  俺は、天を仰ぎたいような気分になってしまう。  これだから。  こういうの、めっちゃ効く。効いちゃいけないやつなのに、なんかもう、庇護本能なのか父性本能なのか、それとも恋愛感情なのか、もうどこだかわかんない体内のどこかの部分に、ブッ刺さる。  それを捨てるだなんてとんでもない。  俺のなかのさもしい部分が、俺にそう告げる。 「こんなもんだろっ、と」  軽バンの後部ドアを閉めて、運転席に乗り込む。  すでに助手席に座っていた汐里が、耳をふさいで呻いている。 「どした?」 「音、すごいの。ばんって。風圧でキーンってなった」 「あー、ドアがでかいからか……」  乗用車でもたまになるが、こういう四角い軽バンではさらにひどいらしい。  広々とした後部の荷物室には、けっこうな数のダンボールがある。 「あ、汐里、これ確認しといてくれ」  愛用のコクヨの野帳を該当ページを開いて渡す。今日の買い物リストである。 「レースのカーテンは盲点だったわ……ほかにもそういうのあるかもしんないから」  俺はカーテンに、遮光以外のいかなる機能も求めていない。しかし汐里には「外光を取り入れつつ、視線は遮断する」という概念があった。なので、リストから抜けた。汐里自身も現物を見るまで忘れていたらしい。 「んじゃ車出すぞー」 「ごはんはもうじきできるって。さっきお母さんからLINEあった」 「今日は実家メシか……楽しみだ……」 「このあいだ食べたじゃん」  ホワイトボードとレジュメに凌辱された家族会議のときのことだろう。 「いや、あのときは……もう味とかそういうんじゃ……」 「ごめんなさい……いやなことを思い出させました……」  汐里がガチ謝罪した。増えた荷物で車体が重い。さらに空気まで重くなった。いいことない。あの日のことは、数十年後までトラウマになって残りそう。  西日がひどい。バイザーを下ろす。隣の汐里を見ると、薄目である。正統派美少女も、薄目だと微妙な顔になる。かわいい。  ここから実家までは、実家近辺が地獄の一通大会及び車幅すれすれのクソ狭い道だらけである以外は、基本的に広いし空いている。特にこのあたりの埋立地は、休日なら激混みだが、平日の夕方のいまは運転が楽だ。ありがたい。 「カラーボックス二個、デスクライト、カーテン、衣類ケース、机と椅子は……」 「後日配送な。ベッドも。さすがにあれを汐里と二人で五階まで運ぶのは厳しい」 「そうだね……」 「しかも汐里にはそのあと、部屋のかたづけってイベントも待ってる。もうしまう場所がないという言い訳は通用しないぞ」 「……明日と明後日がんばる。お兄ちゃんいないあいだ、やることないし」  これは死亡フラグですわ。  そう混ぜっ返すこともできた。  しかし、言えなかった。  月曜日に大泣きして以降、汐里は、俺が家に帰ったときでもさびしそうな様子は見せていない。しかしそれは、汐里の問題が消滅したということを意味しない。  汐里は我慢する。耐えられるところまでは、耐えようとする。  実際、俺のほうだって、実は仕事中、気が気じゃない。集中しているときはいい。でも、意識に空白ができたときなんかは、どうしたって思い出してしまう。猫を飼った人が、はじめて家を留守にするときは、こんな気分になるのかもしれない。さびしがっていないだろうか、泣いてないだろうか、怪我なんかしてないだろうか。汐里用見守りカメラとか必要ではないのか。おはようからおやすみまで、お兄ちゃんカメラがじっとりと汐里を見守るよ……。世間ではそれを盗撮と呼ぶよ……呼ぶよ……。  俺がそばにいさえすれば、そんなことにはならないのに。あるいは、そもそもこんな同居なんてしていなければ。 「……」  頭こんがらがってきた。運転中に考えることでもない。  汐里は、俺のメモ帳を閉じて、膝の上に置いていた。まっすぐの道なら、隣の汐里がなにをやっているかくらいは見えるようになってきた。 「お兄ちゃんはさ」 「ん?」 「ダメ人間製造機みたいなとこあるよね」 「えっ!?」 「自覚なかったの!?」  驚かれた。 「いや、甘いって自覚はあるけど、兄ってみんなこんなものかと……」 「思い込みも激しいし」 「……」  ぐうの音も出ないとはこのことである。  同時に、意外に冷静に見られてるんだな、という感じもする。  七年という年齢差、そして兄妹として過ごした年月というのは、けっこう制約が大きい。現在形と、現在完了形の違いというか。そのことは、ともすると現在進行系の汐里の姿を見失わせる結果にもなりかねない。  頭ではわかってるんだけどな……。 「変な話、していい?」 「エロいことじゃなければ」 「……」  汐里は、乗ってこない。ということは、そういうことだ。  もう、けっこうギリギリだ。  俺は、腹のなかで、なんらかの覚悟を固めた。 「一緒に暮らすようになって、なんだか、かえってお兄ちゃんが遠くなったような気がする」 「なんで、そう思う?」 「……なんか、わかっちゃったの。お兄ちゃんにとって、私って、全部じゃないんだって」 「……」 「仕事があって、私の知らない人間関係があって、なんかそれって、すごく変な感じで……」 「俺にとってはいつでも汐里が一番だけどな」 「うん。知ってる。お兄ちゃんはそう言うって知ってた。それで私はまた、安心して、そしたら、またお兄ちゃんのことがもっと遠くなって……なんだろ、うまく言えないや。なんか、不安って感じ」  汐里は、賢い。  俺がバイトをして、それなりに社会に揉まれていく過程で学んだことに、直感的に気づくだけの賢さを持っている。そしてその気づきは、実家を出て俺と同居する、という状況で強制的にもたらされたものでもある。 「わかる?」 「たぶん」 「……変かな?」 「変じゃないと思う」 「じゃあ……どうしたらいいと思う?」 「……」  言うべきことはわからないが、言ってはならないことだけはわかる。  そのままでいい。  それだけは、言ってはならない。  そしていま、俺の喉元を圧迫しているセリフはただひとつ。  そのままでいい。  ずっと俺に甘えて、頼って、些細なことで嫉妬して、不機嫌になって、俺がいなくちゃ生きていけなくなるくらい依存して、そうして……。 「お兄ちゃん?」 「……ごめん」 「なんで謝るの?」 「答えが出せないんだ」  ひどい抵抗感だ。  俺はこんなに利己的な人間だっただろうか。  自分の欲望に抵抗することが、こんなにもきつい。  でも、それでも俺は……。 「いつか、かならず答えを出す」 「そ、そんなに重い質問なのこれ?」 「わりと」 「お兄ちゃんも大変なんだ……」  うん。わりとまじで大変。  急速に戻ってきた兄妹の軽いノリのさなかにあっても、自分の覚悟らしきものが定まったままなのを、確認する。 「うん。でも、わかった。お兄ちゃんがそう言うなら、待ってる。それでいい?」 「ああ」 「でも、答えが出るまではどうしよっか。私、まためんどくさくなっちゃうかも」 「いくらでもつきあう」 「つきあっちゃうんだ……」  答えが出せるそのときまでは。  汐里が、しょうがないなーみたいな笑みを浮かべながら言う。 「お兄���ゃんは、ほんとに私に甘いよね」 「どっちかっていうと、自分に甘いんだよ」 「んー? 私がめんどくさくなると、お兄ちゃんにとってはごほうびになるの?」  わりとあってるからタチが悪い。 「ドM?」 「それだけは違うと思いたい」 「私、もうちょっとドSっぽく振る舞ったほうがいい?」 「よーしやれるもんならやってみろ」  汐里は、んんっと咳払いらしきものをしてから言った。 「こんな年下の妹が好きだなんて、ほんとにお兄ちゃんはダメダメだね!」 「イヤァァァァ!!」 「お、お兄ちゃん!?」  確実に人の心を蹂躙していった。  素質あるかもしれない……。
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4554433444 · 4 years
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妹が褐色ロリ1
 直葬、というらしい。  葬儀も告別式もいっさいおこなわず、病院から直接火葬場に遺体を運び、火葬しておしまい。そういうやりかたのことをいう。数村武志は二十五年間生きてきて、そういうやりかたがあることを知らなかった。もっとも、それでいうなら、そもそも武志は、過去に葬儀というものに一度しか参列したことがない。  父親の遺言は徹底したものだった。葬儀のたぐいはいっさい不要。火葬に際しては、焼き切りという方法を使う。骨を残さずに灰になるまで完全に焼却してしまうのである。こうしてしまえば、火葬後の納骨だのなんだのの心配はいっさい発生しない。灰はただのゴミであり、火葬場が処分してくれるからである。  見届け人は武志一人。最後のお別れをと言われても、別に言いたいこともなかった。遺体を確認して、ああ親父は死んだんだなと思い、あとは灰になった状況を確認しておしまい、である。 「武志さん、そろそろ……」  行政書士の今崎が遠慮がちに声をかけてくる。 「ああ、はい」  今崎の運転する軽自動車に乗り込む。  なんの感慨もない。  ただ、暑かった。  数村十三、享年五十九歳。死因は、虚血性心疾患。ありあまる遺産を武志に残して死んだ男の命日は、昨日だった。  数村武志は、別にどうということのない会社員である。仕事はたぶん激務に属する。高卒の、それも偏差値五〇も行かないような公立高校を卒業しただけの武志を雇ってくれる会社など、そう多くはなかった。しかし、武志には後がなかった。稼がなければ生きていけない。だから死ぬ気で働いてきた。生き残るためならなんでもやった。そうしてついた渾名が鬼だとか冷血動物だとか、そのたぐいのものだ。しかしかわりに武志は、社内における地位と、同期におけるトップクラスの収入を得ることができた。  この二週間というもの、武志は常にも増して働きつづけた。入社以来数年、さすがに最近では要領というものもよくなってきて、そこまでの大残業というものはなかったのだが、このときだけは違った。  目の前に、十連休という餌がぶら下がっている。  睡眠時間を削った。徹夜も辞さなかった。風呂に三日入らなかったのはやりすぎで、これは他人に迷惑がかかった。反省した。  そうしてついにやってきた、連休前の最後の出勤日。武志は、定時で意気揚々と会社を出た。武志は仕事熱心ではあるが、ワーカホリックではない。むしろ本来ならできるだけ仕事に割く時間は短くしたい。だから浮かれていた。  今日この瞬間から俺は自由だ。なにをしてもいい。どこかにふらりと旅行に行ってもいい。ハードディスクにたまりまくったアニメを消化するのもいい。  俺は、自由だ!  ほとんど叫び出したいような気分で武志が思ったそのとき、一本の電話がかかってきた。  電話の声は若いの女性のもので、内容はこうだった。 『お父様が亡くなりました』  こうして、武志の十連休は、初日から盛大にずっこけることとなった。  今崎の運転は危なっかしい。  助手席に乗るのも憚られたので、軽自動車の狭い後部座席に乗っている武志だったが、見ているだけではらはらする。そもそも後部座席から見る今崎の小柄な体格は、まるで子供だ。子供の運転こわい。 「なぜこの道は」  必死である。会話も流暢ではない。 「この道は、こうも、狭いんで、しょう」  実家へと続く道である。  いちおう首都圏に入りはするらしいが、実態はただの漁村である。集落は急傾斜地にへばりついている。すべての道は車の通行など考慮されていない時代にできている。かろうじて、集落のメインストリートのみが車が通れるのである。 「下に止めて、歩いてはどうでしょう」  いちおう助け舟らしきものを出してみる武志。 「いえ、この急坂は……ちょっと……」  とうてい炎天下に歩きたい道ではない。その点では武志も同意する。  歩いたほうが速いんじゃないかと思われるほどの慎重な運転で、ようやく車は集落の頂上部に出る。そこはやや平坦であり、一軒の屋敷らしきものが建っていた。今崎の車は、その敷地へと入っていく。 「着きました!」  ぱーっと、明るい笑顔で振り返った今崎。振り返ってもやっぱり子供に見える。いや、子供は言い過ぎか。女子高生くらいには見える。しかしその顔面は汗だらけだ。武志は、がんばったんだなあという印象を抱くと同時に、行政書士これで大丈夫なのか、とも思った。あと事故らなくてほんとによかった。本当に。  外は暑い。  都心部とは比較にならないくらい真っ青な空が広がっている。  そしてその青空の下、高校を卒業して以来、八年ぶりに見る実家が、陰鬱に佇んでいる。  昨日連絡をもらって、今日の朝イチの火葬である。武志は自宅からまっすぐに火葬場に向かっており、今崎とはそこで落ち合った。今崎は、父親とつきあいのあった佐伯という弁護士事務所の雇われであり、遺言の作成にも関わっているとのことだった。詳しい話はこれから家で聞くことになっている。 「それじゃ、中へどうぞ」  そう声をかけて、家の引き戸を開けようとした武志に、今崎が硬い声で話しかけた。 「実は武志さん。昨日の電話ではお話していなかったことがあります」 「と申しますと」 「……見ていただいたほうが早いかもしれません」  失礼します、そう呟いて、今崎は先に家に入っていく。  家のなかは暗い。  築百年以上らしいが、正確な建物の年齢は武志にもわからない。黒光りする床と、どっしりとした柱。昔ながらの民家である。とりえといえば、エアコンなしでもある程度は涼しく過ごせるということくらいだ。  たぶん何度も訪れたのだろう、今崎は迷いなく廊下を歩いていく。そうして、居間へと続くドアの前で立ち止まった。 「お入りください」 「……はあ」  自分の実家で、他人にそう言われる筋合いもない。不審に思いつつ、武志は居間に入る。  二十畳ほどの、洋間に改装された広い空間。全体的に薄暗いこの家のなかで、唯一外光だけで明るくなる部屋である。見たところ、テレビがブラウン管のどでかいやつから、薄型の液晶になっているくらいで、あとは、時代がかった壁掛けの振り子時計も、やたら重厚な応接セットも、なんら変わっていない。 「……」  その応接セットのところで武志の目が止まった。  なんかいる。  女の子だ。  年齢は小学校高学年くらいだと思われた。体育座りで、ソファの端っこでじっと俯いている。  武志に親類らしきものはいない。母親の実家とはとうの昔に断絶しているはずだし、父親も親戚づきあいはまったくない。だからこそあんな葬儀が可能だったわけなのだが。だから、この子供は親類ではありえない。  もっとも、考えるまでもなく、ひと目でその可能性は否定できた。  髪は、やや暗い色彩の金髪。そして褐色の皮膚。どこからどう見ても日本人ではありえない。武志の知識で判断するのなら、東南アジア出身のように見える。ぼろぼろのTシャツにごわごわの髪。全体で見るなら、ストリートチルドレン感がものすごい。  物音に反応したかのように、少女がのろのろと顔を上げた。  それを見たときに、武志の頭に浮かんだ言葉はこれだけだった。  やばい。  薄汚れている。表情がない。なにも興味がないような死んだ目をしている。  にもかかわらず、その少女は、鳥肌が立ちそうなほどに整った顔立ちをしていた。  くっきりとした二重まぶたの大きな目。真っ白な白目は褐色の皮膚との対比で、よりいっそう白く見える。そしてその目の力に負けない太い眉。低い鼻と薄い唇。武志が知っている欧米や日本の規範的な美少女像とは違う。にもかかわらず、武志は断言することができた。きっと、この少女を見たら、百人が百人こう言うに違いない。この子は美しいと。 「きれいな子、ですよね……」  背後から今崎が声をかけてきた。 「え、ええ、そうですが……」 「その子が、武志さんの妹さんです」 「……はい?」  武志の意識に空白が生じた。 「そうなりますよね……」 「いや、なるっていうか……はい?」 「十三さんの実子という扱いになっています。名前はナミちゃん」 「いや、ちょっと待ってください。実子って、実の子って書いてじっしって読む、あれですよね?」 「はい」 「実子って……えぇ……?」  まず日本人じゃない。それは確定だ。  当然ながら、父親の遺伝子を受け継いでいることはありえない。この美少女のどこに、武志じしんもそれを受け継いでいる人相の悪さがあるというのだ。  今崎は、少し困ったような笑顔を浮かべつつ言った。 「座りませんか?」 「ええ、はい……お茶のひとつも出せませんが……」 「おかまいなく」  武志も今崎も、ソファに腰掛ける。  少女は、そんな二人にもまったく興味を示した様子がない。  どことなく気まずさのようなものを覚えた武志に、今崎が説明する。 「誤解されがちなんですが、実子というのは、かならずしも血縁であるということを意味しないんです」 「そう、なんですか?」 「ええ。親が実子として認知し、戸籍に入れたらそれが実子です」 「ということは……」 「ええまあ、おそらくは。もっとも、十三さんは、そのあたりを明らかにされる前に亡くなりました。ですから、遺伝子検査でもしてみないことには立証はできないと思われます」  結果については考えるまでもない。  言葉にはしなくても、武志も、そして今崎もおそらくは共通の見解を持っているのだと思われた。 「ご遺言があります」  かなりの間を置いてから、今崎が切り出した。 「詳しくは後日、佐伯のほうから説明があるかとは思いますが……」 「遺産なら受け取る気はないと電話で伝えたはずです」 「それは存じています。けれど、今日はどうしても武志さんに来ていただくしかありませんでした」  昨日の電話で武志は、相続を放棄するにも手続きは必要だから、かならず来るようにと念押しされていたのである。でなければ八年前に捨てた故郷にわざわざ戻ることはなかった。火葬なんかは実はついでである。 「相続の放棄については、十三さんのほうで、あらかじめ想定していたようで、その場合の対処についても遺言には言及があります」 「だったら」  言いかけた武志を制するように、今崎が手帳を取り出した。  なにやらろくでもない予感がする。  ぺらぺらとページをめくったあと、今崎は読み上げた。 「武志さんが相続を放棄する場合、かわりに、ナミちゃんの扶���義務を負うものとする」 「……へ?」  まぬけな、裏返った声が出た。自分の声に驚いて武志は口を押さえる。 「どういうことだよ……」 「十三さんの意図まではわかりません。ただ……」  今崎がちらりと少女を見る。  できるだけでかまいません、と前置きしたうえで、今崎は続けた。 「ナミちゃんのそばにいてあげていただけないでしょうか」 「といわれても……」  ナミを見る今崎の目が痛ましげなものになる。  その表情は、演技や建前といったものを通り越して、武志に訴えかけてくるものがあった。 「お願いです」  今崎が頭を下げた。 「ナミちゃん、私たちには、ひとこともしゃべってくれないんです」
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妹さんと同居20
 火曜日の夜は、ミートソースのスパゲティに生野菜のサラダ。水曜日はあたたかいそばに、汐里が近所のスーパーで買ってきた海老天を乗せただけの天そばと、炊き込みご飯の素を使った炊き込みご飯。具材が寂しいのがご愛嬌だが、そこまでは求めない。なにより、母さんの指導でだし汁だけは冷蔵庫に常時保管の状況になっているので、つゆがうまいのがありがたい。  いってみれば、男の手抜き自炊と似たようなレベルではあるのだが、とにかく失敗がない。ふつうに食える。これは大したものだと思う。  朝食はパンと目玉焼きとか、昼食は学食という生活を汐里はしているらしいが、汐里はもともと俺よりも母さんの手料理に慣れている。いずれはどうにかしないと飽きが来るはずだ。現在のところは、同居生活の目新しさのせいもあるのか、目立った不満はないようだ。つってもまだ一週間経ってないんだけどな。  そんで木曜日。  今日はカレーである。なにはともあれたまねぎだけはしつこく煮込んでおくこと、という母さんの忠告を守ったせいか、初心者としては想定外においしかった。 「それじゃお風呂入ってくるねー」  そう言って、着替えを取りに自室に入った汐里だったが、数分後、青ざめた顔で居間に戻ってきた。 「どしたー?」 「ないんだよ!」 「人生に対する希望か?」 「どうして即答でそんな重い反応が返ってくるの……。お兄ちゃんだいじょぶ? つらいことない? なでなでする?」  しいて言うなら、汐里がかわいすぎて本能がつらい。 「魅力的な提案だけど、先に汐里の問題をかたづけとこう。なにがないんだ」 「……ぱんつ」  めっちゃ小声である。 「え、なんだって?」 「ぱんつ……」 「聞こえないなあ」 「ぱ・ん・つ!」 「うお!」  耳元でどなられた。 「お兄ちゃんわざとだよね? いまの絶対にわざとだよね!?」  うん。 「オニハラだ」 「なにその新しいっぽい概念」 「お兄ちゃんハラスメント。お兄ちゃんである立場を利用して妹に性的ないやがらせを……」 「ごめんなさい」  ほぼ正解だったので謝るしかない。 「で、パンツがなんだって?」 「じとー」  口に出して言ってるぞ。 「お兄ちゃんは妹にぱんつぱんつ言わせて喜ぶ変態だから信用できない」 「俺はなにもしてないからな!?」 「どうだか」  いらない疑念を抱かせてしまったらしい。  誓ってもいいが、俺は汐里のぱんつをどうこうしたことは一度もない。なんというか「汐里のぱんつ」という概念には興奮するのだが、現物は同居前からふつうに俺が洗っていたので、どうとも思わない。むしろ繊維的にデリケートなものが多いので、めんどくさささえ感じる。わかるだろうかこの微妙な感じ。ぱんつは概念。概念ですぞ。  同居史上最長だったかもしれないジト目を堪能していると、汐里が呆れたようにため息をついて言った。 「洗濯してあるぱんつがもうないの」 「あー、ついにやらかしたか……早かったな……」 「なんで納得顔なの」 「一人暮らしあるあるだ。パンツか靴下、あるいはTシャツ。そのいずれかを切らしてしまい慌てる。みんなやる」  やるよな?  少なくとも俺はそれで靴下とか無駄に買い足して、大量になったぞ。 「ちなみに汐里、おまえ、パンツは何枚持ってる?」 「んー……五枚、かな。柄とか色の解説は必要?」 「おまえ、俺がなんのために枚数を聞いたと思ってる……」 「……自分の犯罪がばれてないかどうか確認するため」 「頭出せ」 「やだ、絶対ぐりぐりするからやだ!」  わかってるなら余計なネタ振るな。 「実家じゃ母さんがほぼ毎日洗濯してくれてたろ。しかもあの家、洗濯乾燥機があるじゃん。だから、そんなに枚数がなくても問題はない。ちなみに、俺はいままで、洗濯は週に一回だった」 「え……そんなにためたら腐敗しない?」 「せめて発酵といえ」 「するの!?」  どうしよう。なんか汐里にめっちゃでたらめ教えたくなってきた。納豆菌が発見されたのは腐ったパンツからだったとか。なんだろう、JKナットウキナーゼ使用の納豆とかめっちゃ売れそう。いやさすがにこれは……売れないのでは……。 「でもさ、じゃあお兄ちゃんも最初は失敗してたってことだよね。そういうときどうしてたの?」  いちいちコインランドリーとか行くのだるい男がやることなんてひとつですよね。 「もう一日、同じものを履く」 「いやっ、きたない!」  悲鳴じみた声をあげた汐里が、がばっと俺に抱きついてきた。 「すーすー。はー。すーすー」 「ちょっと汐里ちゃん。おまえなんでやってることと言ってることがばらばらなの?」 「お兄ちゃんが、二日連続同じTシャツを着てないかどうか、確認……」  全方位的におかしいだろそれ。ちなみにちゃんと毎日着替えてます。 「で、確認の結果は?」 「ほかの女のにおいがする」  問答無用で汐里を引き剥がし、頭をぐりぐりしてやる。 「いたいいたい、お兄ちゃん痛い!」 「おまえは! どこで! そういうのを覚えてくるの!」 「お兄ちゃんの持ってるエロゲー」 「……」  今後、汐里は全面的にエロゲ禁止だ。もともと年齢的に禁止だが、今後はその原則を徹底的に貫く所存。つーか俺、ヤンデレ系のヒロイン出てくる作品持ってないはずなんだけどな……。  俺のいましめから逃げ出した汐里が、頭を押さえつつ、不満そうに言う。 「でも、だったらどうすればいいの? 私、二日連続同じ下着とか絶対にやだよ?」 「安心しろ汐里。そんな人のための心強い味方が、日本にはあるのだ」  家からは徒歩二分弱。要するにめっちゃ近所。ただでさえ治安の悪いこの街でも、さらにもう一本奥に入った場所にその施設はある。なので、汐里はその存在を知らなかったはずである。 「おお……ここが、あの……」  汐里がぽけーっとした表情で、ヤケクソ気味に明るいその施設を見る。 「ほら、入るぞ」 「うん」  いうまでもなくコインランドリーである。  内部は無人。稼働している洗濯機すらない。  壁面にずらりと並んだドラム式洗濯乾燥機。空間の中心には、どでかいテーブル。あとは自販機と、椅子が何脚か。椅子にはセットでテーブルらしきものもあるので、飲み物くらいは置いておける。 「私、初めて入った……」 「実家の近所にもあるじゃん」 「通学路にもあるけど、用事がないもん」 「ま、そりゃそっか」  俺はそう答えつつ、まんなかのどでかいテーブルの上に、汐里の家出バッグをどんと置く。どうでもいいけどこのカバン、大活躍だな。  ファスナーを開けて、中身を取り出そうとするが、その動作を汐里がじーっと見ている。 「なんだよ」 「そのなかに、お兄ちゃんの汚れものと、私の洗濯ものが一緒に……」  せっかくなので、自分の洗濯ものも持ってきたのである。あと汐里、なんで俺のやつだけ汚れものって言った。 「なにか。おまえ、お兄ちゃんのやつと一緒に洗濯されるのいやとかいう、思春期のあれか?」  いままで人にさんざん洗濯させておいて、よく言う。 「ううん、そうじゃなくて」 「じゃなんだよ」 「……妊娠しない?」 「……」  無視だ無視。  汐里はノリはいいしオタ話も通じるよい妹だが、ときどき通じすぎてかわいげがない。中身をわっしわっしと掴みドラム式の洗濯機に��り込もうとすると、 「わー、だめ、お兄ちゃんだめ!」  ばふっと汐里が家出バッグの上に覆いかぶさってくる。 「忘れてた人間が悪い。デリケートな化繊のパンツもごっちゃに洗ってやる。恨むなら忘れた自分を恨め」  ちなみにふだんはちゃんと分けて洗ったり、ネットに入れたりしてます。コインランドリーに来てまでんなめんどくさいことしてられるか。 「ちがうの! 私がいないところで洗うのはいいけど、目の前でぱんつ見られるのはだめなの!」  ちょっと涙目で俺を睨んでくる汐里。  なんだろう。まっとうな恥じらいを目にして、謎の性的感動が沸き起こってきた。この妹、俺がぱんつかぶってアヘ顔盆踊りとか決めたらどんな顔するだろう。たぶん変態を見るような目をするよね。汗まみれのスターにはなれない。 「わ、私が入れるから」 「いや、いいけどさ……」  場所を譲ってやる。  なんかちまちまと一枚ずつ洗濯物をドラムに放り込んでいる汐里を見つつ思う。  料理は、慣れるのも時間の問題だろう。しかし、現状では風呂も便所も掃除は俺。ついでにいうと、汐里の部屋は、一時期の大混乱こそ免れたものの、足の踏み場はあるんだからねっというエクスキューズがかろうじて成立する状態でしかない。ぶっちゃけ家事は俺ひとりでもなんとかならないこともないと思うのだが、教育的見地からは、汐里にもやらせたほうがいいと思う。  タスクは山積みなのだが、なぜかその状態に、楽しさのようなものを感じている自分がいる。俺、タスクためるくらいなら睡眠時間すら削るほうだったんだけどな……。 「って、どうした汐里」  汐里が、固まっている。両手で、なにかを捧げるように持っている。  それは俺のトランクスだ。 「こ、これがお兄ちゃんの……」 「やめろ汐里! それはおまえにはまだ早い!」  俺は、思いつめた表情をしている汐里から、問題のブツを取り上げた。  ほんとやめようね、そういうの。俺がよけいなこと想像するから。 「免許とかいるの?」 「そうだな。お兄ちゃん検定一級くらいは取得してもらわないと」 「第一問、お兄ちゃんの初恋はいつでしょう!」 「七年前だ。早く洗濯物つっこんじまえ」 「お、おう……」  予期せぬ返り討ちにあって赤面する汐里。  そして気づいた。  これ自爆だ。死ぬほど恥ずかしい。  百円玉を五枚ばかり投入。  まもなく、ドラム式の洗濯機がぐるぐると回りだす。  上に持ち上げられては落下してくる洗濯物を追って、汐里の体が微妙に上下している。見ようによってはやる気のないエグザイル的なものにも見える。 「おお……」  感に耐えないような声を汐里が上げる。  なんかなあ、こういうとこ見てると妙にかわいく思えてしかたなくなってくるんだよなあ……。なんか、わかる? 本人が絶対に自覚してないだろうポイントこそがかわいいっていうこの……。 「どれくらいかかるの?」  汐里が振り向いたので、あわてて頭をなでかけた手を引っ込める。 「右上の数字あるだろ。あと五十五分。どうする、いったん家に帰るか?」 「本持ってきてある」  家出バッグに入れてきたらしい。このあいだ��見かけた富士見ミステリー文庫が出てきた。黒髪ロングセーラー服のヒロイン(小5)が表紙である。 「さよか」  プラスチック製の椅子に座って読書開始。 「それ、コミック版も出てるんだよな」 「ほんと?」 「電書化はされてないけど」 「ふーん」  汐里の活字への没入度はかなり高い。話しかけられてもまったく反応がない、というほどではないが、一度呼びかけたくらいでは気づかないことがある。  時刻は二十三時ちょうど。繁華街とはいっても、この裏通りのあたりだと、人通りはほとんどない。自分たち以外だれもいないコインランドリーというのは、思いがけないほど居心地がよく感じられた。一台だけ稼働している洗濯機の音と、ジーというような低いなにかの機械の作動音。  俺もスマホで本を読んでいた。  しばらく無言の時間が続く。  せっかく自販機があるんだし、コーヒーでも飲むか。そう思って立ち上がると、 「私、ミルクティー」  本から目を離さずに汐里が言った。  ちゃっかりしている。  かこんと紙コップが落ちる音がして、それから氷がざらざらと落ちてくる。二人分の飲み物を買って、汐里の前にミルクティーを置く。 「おもしろいか、それ」 「んー、ふつう」  ふつうかあ。  俺が読んだのはかなり前だ。ヒロインに思い入れがないと厳しいタイプの作品だった印象がある。今度、飛田さんに感想でも聞いてみよう。あの人、ロリラノベカバー率九十八%とか豪語してたから。むしろ残りの二%はなんなんだ。 「あ、でも」  本から目を離して、汐里が言った。 「ヒロインの子の気持ちはちょっとわかるかも」 「そうなのか?」  こくん。汐里は頷いた。  まあ、黒髪ロングセーラー服の美少女、という点では属性がモロかぶりではあるが。でも汐里は無口でも無表情でもない。 「人にやさしくされると、どうしていいかわかんなくなっちゃう。自分なんて、外見くらいしか価値がないのに、なんでこの人はこんなにやさしくしてくれるんだろうって。変な人って、そう思う」 「そんなもんか?」 「うん。そんなもん」  くすっと汐里は笑った。  どうでもいいけど、さりげなく自分を美少女の仲間に入れてるの、さすがとしか言いようがない。 「それで、変な人って思ってるのに、自覚なんてないうちに、この人がいなくなっちゃったらどうしようって、そんなこと考えはじめるの」  汐里は、本を開いたまま、テーブルの上に置いた。それ、本を大事にする人が嫌う置きかたな。そして、本を置いた汐里はなにをしているかというと、俺をじーっと見つめているのである。 「……」  さすがに、この視線に意味がないとは思えない。  このままだと確実に空気が煮詰まる。俺は先手を打って話題を変えた。 「同居生活はどうだ?」 「……ちっ」  そのわかるかわからないか微妙な感じで舌打ちするのやめてくれませんか。下品ですことよ汐里さん。  汐里はあんがい早く諦めて、あーあとか言いながら背もたれに体を預けつつ言った。 「お母さんのごはんがちょっと恋しいかなー……」 「わかる」  わかりみしかない。胃袋掴まれるってのはああいうことだ。俺も味噌汁の件で痛感したよね……。なんなら母さん本体より母さんが作る煮物が恋しいくらいだ。 「あと、シャンプーとかリンス、家から持ってこなきゃ。髪がごわごわになっちゃう」 「そうか?」  汐里の髪を手に取る。髪は、手の指の隙間からさらさらとこぼれ落ちていく。とうていごわごわとは思えない。 「お兄ちゃん、なんか手付きが慣れててやらしい……」 「慣れてるもなにも、毎日乾かしてやってるのは俺だろ」 「そりゃそうだけど……なんかお兄ちゃん、だれにでもそういうことしそう」 「いやいや、しないよ?」 「中台さんとか」  いきなりの登場に少し驚いた。  せっかくなので、想像してみた。  いつもどおり至近距離まで顔を寄せてくる中台の、汐里とはまったく違う髪質の髪を手に取る。 「……」  少し荒れてるなとか俺が言う。中台はどんな反応をするだろう。  「するんだ……そういうこと……」 「ぶっは」  噴き出した。 「な、なに?」 「ないわ。ない。想像しただけで噴き出すくらいない」  めっちゃ警戒されたうえで、なにもなかったことにされる。断言してもいい。 「はあ……」  汐里は呆れたように呟くと、テーブルにべたーっと突っ伏した。 「お兄ちゃんはほんと、気楽だね」 「なに勘ぐってるんだか知らないけど、中台、まじでそういうんじゃないぞ」 「どうだか」  日曜の件はまだ尾を引いているらしい。  テーブルに突っ伏したまま、ぷくーっとほっぺたをふくらませている汐里の頭をぽんぽんと叩く。 「なでるなー」  うわ。めっちゃ甘えた声出してる。 「なでてないだろ」 「たたくなー」 「ぐりぐりするか?」 「それはいや」  ばっと頭を押さえて起き上がる汐里。条件反射になるほどやってるか俺?  起き上がった汐里の頭をなおもぽんぽん叩きつつも俺は言った。 「前提が違うんだよ。中台はバイトだろ。バイトはバイトだ。それ以外のものであってはならない」 「告白されても?」 「それはぐらつくかも」 「なんでさーー」  ぱしっと背中叩かれた。 「人生で一度もされたことないから」 「え。一度も?」 「ないぞ」 「え、えぇ……」  歩いてるだけで人が振り向くおまえと一緒にすんなよ……。俺がモテないのはおまえにとっても好都合じゃないの? なのになんでそんなにいやそうな顔してるの? てゆうか顔つきが怖いって、恋愛市場のなかではかなり不利な条件だと思う。 「でもまあ、最終的には断る。バイトとして出会ったから、それ以外のものとしては見れない。仮に見てしまったとしても、いまさら変更はできない。そういう俺の融通のきかなさとか我慢強さみたいなものって、汐里がいちばん知ってるはずだけど」 「あ、うん……それは……はい……」  自分に矛先が回ってくるとは思っていなかったのか、妙にかしこまった姿勢で頷く汐里。まあ兄妹っていう縛りは、仕事の同僚以上の厳しさがあるのは事実ではある。割り切れるものなら、こんなに悩まなかった。  そこで、洗濯機の運転の終了を知らせる電子音が鳴った。 「ま、そういうことだ。かたづけて帰るぞ」 「うん」  乾いたせいで思ったより嵩張った衣類を苦労して家出バッグに詰め込んで、コインランドリーを出た。ちなみに撤収作業のときは汐里は手伝わなかった。いいのかぱんつ。めっちゃ俺が畳んだんだけど。ぱんつというひとつの事象を巡って、汐里のなかで羞恥心がどう機能しているのか確認したいなあ。いやしないけど。なんかこう、いまどこどう踏んでも即空気がおかしくなる地雷原にいる感じあるから。 「うっ、さむ……」  汐里が両腕で自分を抱く。 「今日は冷え込みきついな」 「お兄ちゃん、コンビニ、なんかあったかいもの買って帰ろう」 「時間平気か……?」  もう24時近い。 「へーきへーき」  汐里がへへーんとか言いながら俺の腕に抱きついてくる。夜にこのあたりを歩くときは、そうするのが俺たちのルールだ。つってもだれも人いないんだけどね……。  ココア、コーヒー、ミルクティー、などと変な歌をうたっていた汐里だったが、その歌を中断して、思い出したように言った。 「んー、でもさ、七年前ってことはないんじゃない?」 「なにがだ?」 「だって、それってお母さんたちが再婚したころでしょ。あのころのお兄ちゃんは、私のこと、その、そういう目で見てなかったと思うんだけど……」  人が避けた地雷原にまっすぐ突っ込んでくるバーリトゥードスタイルの汐里である。だからさあ……。 「私、子供のころからそういう目で見られるの慣れてたから、もしそうだったらすぐにわかったと思うし、きっとお母さんもいい顔しなかったと思うんだよね」  いや待って。  なんか話の流れおかしくない?  俺が一人暮らしを始めた理由のひとつとして、このまま汐里と同じ家にいたら、なにか決定的なことをしでかしてしまうかもしれない、そういう危惧があったからだ。だから「ほんとうに」汐里のことを恋愛対象を見てしまう前に家を出た。単に一人暮らしをしたかったというのが最大の理由だけど、それはないではなかったのだ。「だから」つい最近になるまでは、そのへんのことは曖昧なままになっていた。  そのはずである。  いやいや待て。しかしこのあいだの家族会議での親父の説明では……。  勇気を出そう。当事者は目の前にいる。  もう、聞くしかない。 「ちなみに、汐里さんは」 「なんでいきなりさん付け?」 「汐里先生は」 「なぜ言い直してそうなるの」  気恥ずかしいからだよ! 空気読めよ!! 兄妹なんだから心くらい読めよ!! そうか、汐里が自分の見ている前でぱんつ見られたくないというのはこの心理か。俺のハート=汐里のぱんつ。なるほど理解した。たぶんびっくりするほどなにも理解できてないぞ俺。落ち着け。 「その、汐里はいつごろから、俺が汐里を、そのだな、そういうふうに……」 「んー、中学校に入るあたり……もうちょっと前かなあ……」  それ、俺が一人暮らしを始めた時期とがっつり合致するのでは……?  待って。じゃあ俺、家族の前で汐里大好きですまだこんな子供の汐里大好きですってツラぶら下げて生活してたの? なにそれロリコンじゃない? ロリコンとシスコンが合体するとなにになるの? その存在、なんか世紀末変態覇王っぽくない!? 「あそうだ、決定的にわかったのはね」 「アーーーー! 聞きたくないそれすっごく聞きたくない!」 「お、お兄ちゃん?」 「わかんないか? わかるだろ? そういうの妹の口から聞きたくないっていうか、聞いたら自己が崩壊するっていうか、そのなんだ」 「あー、恥ずかしいんだー」  にまー。小悪魔の笑みで汐里が腕を抱く力を強めてくる。 「恥ずかしいですよ!?」 「なんで逆ギレするの……」  真顔でやってられるかよこんなん! 「ねえねえお兄ちゃん、たいへん」 「これ以上よけいなこと絶対に言うなよ……」 「いま、お兄ちゃんのこと好きすぎて、ちょっとたいへん」 「なっ」  なにを言い出すこの妹。  そんな照れたみたいな、わくわくしてるみたいな、ちょっと熱っぽいような、そんな、そんな顔で。そうだこれはメスの顔、警戒すべきメスの顔とか思い込もうとしても、汐里の顔はやけに無邪気で、その無邪気さは子供のころからずっと見てきたものでもあるようで、でも子供だった汐里はこんな複雑でややこしくて俺の感情全部をぶちこみたくなるような魅力的な顔なんてしてなくて、素数を数えようにも八八、五六、八三という数字が浮かんできて、そんなもん覚えてたのかよ俺どうしようもねえなおい。 「っと、ここまでー」  汐里が、俺の腕をぱっと離す。  そこは、表通りとの境界線。  なんだかんだ場所なんか関係なくひっついてる気もするが、今日に限って、裏通りでは腕を組む、というルールが汐里のなかで有効になったらしい。  汐里は俺に向き合って、にまにまとタチの悪い、しかも緩みきった笑顔を浮かべて言った。 「へへー、お兄ちゃんなに考えてるの?」 「汐里のスリーサイズ」 「なっ、それいま関係なくない?」 「関係ないけど、関係なく出てきた」 「お兄ちゃんいっつもそんなこと考えてるんだ……やらしい……」 「やらしいお兄ちゃんはコンビニに寄るのがめんどくさなってきました……」 「あーうそうそ。うそだから。私が離れてちょっとがっかりした顔してるなんて、そんなこと言わないから」  汐里が腕を引っ張ってくる。  なんて頭の悪い会話だ。  コーヒーでも買おう。  半分溶けたような脳には、カフェインが必要だ。寝れなくなっても知るかもう。
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妹さんと同居19
 そんなこんなでいろいろあったわけだが、とにかく同居は始まってしまったわけである。始まってしまったものはどうしようもない。いつやめてもいいというお墨付きはもらっているものの、たいていのことは、始めるときよりやめるときのほうがめんどくさい。とにかく俺としては「続ける」ということを前提にして考えていきたいと思う。  てなわけで、日曜の夜の話し合いの結果である。  ふだんの夕食については汐里がつくると主張した。  しかしいいのだろうか。あんなんでも進学校にいるわけだし、その進学校でも成績は優秀なので、勉強時間についての不安がある。だもんで、細かくタイムスケジュールを組んでみようとしたのだが「お兄ちゃんほんと細かいよね……」というジト目とともに投げ出されてしまった。  ざっと考えたところ、通学時間の短縮で一時間は余分の自由時間が発生するはずだ。いちおうメシくらいならどうにかなる、と思えないこともないが、実際にはそこに有形無形の家事が絡んでくるわけで、やってみなきゃわからない、という部分も多々あると思う。  俺が二十一時までシフトのときは、かならず二十一時の段階で一度連絡を入れる。すぐに帰れるようなら一緒に晩飯を食べるし、そうでなければ汐里は先に食べる。そう決めた。 「でだな、これだけは守ってほしい」 「なにー?」 「夜は、絶対に一人で出歩かないこと」 「肉まん食べたくなっても?」 「そうだ」 「生理用品切らしても?」 「切らすな。あとそういう生々しい話はお兄ちゃんあまり聞きたくない」 「切らすときは切らすんだけどなあ……私くらいの年齢だと、けっこう不安定なことが多くて」 「聞きたくないと言ってるんですが?」 「えっと……今日が安全日かな」  爆弾みたいな情報が耳に強制挿入された。女子高生、そういうの把握してるもんなんすか? もっとも汐里の場合、単に言ってるだけの可能性が極めて高いのだが。中台に安全日聞いたら教えてくれるかなあ? セクハラで退職かな? 教えてくれたらどうしよう……。  ともあれ、夜に外出しないというのは絶対条件である。  すでに何度か触れたように、このあたりはあまり治安がよくない。もっとも俺が暮らしているあいだに、具体的に刑事事件があったとかいう話は聞かないわけで、正確には「雰囲気がよくない」程度だろうが、それでも汐里みたいな美少女が制服姿であんな街を歩いていたら、どんな妹好きがふらふらと引き寄せられるかわかったものではない。なぜ制服が前提なのか。なんの病気か。  そんなわけで、俺はいろいろそわそわしている。 「あの店長、便所行きたいならレジ見てますよ」 「違う。これは武者震いだ」 「どこにカチコミかける気ですか……」  夕方の男子高校生のバイトにも心配される始末である。  いや、なんか違うんだよ。  考えてみれば、汐里が来た土曜日は俺は休みだったし、日曜は汐里は実家に行っていた。俺が仕事に行き、汐里が学校に行く。あたりまえの平日というのは今日が最初なのである。  いままでだってもちろん、こんなシチュエーションは何度でもあった。それこそ汐里は俺の部屋に入り浸っていたわけだし、それ以前に家族である。俺は高校のころからバイトしまくってたせいもあって、たいていは汐里のほうが先に家に帰っていた。  だけどね、違うの。単なる気構えの問題なんだろうけど、確かに違うの。汐里が待ってるの。実家に帰らないの。てことは、家に入るときの儀式っぽいアレ、あの「さて、これから兄をやるぞ」みたいな一呼吸が入らないってことなの。やってたんだよこれでも。汐里が家で待っていることを楽しみにして帰宅した俺は、そのままの勢いで家に入って、そしたら汐里が料理作って待ってるわけじゃん。そしたら汐里が「ごはんにする? それともぱんつ? それとも、く・つ・し・た?」とか聞いてくるわけじゃん。俺くつしたって答えるじゃん。そしたら汐里が「もう、お兄ちゃんほんっと変態なんだから。今日は体育あったんだからね?」って答えるので俺は「ワシには強すぎる……」って言いながらくつしたを掲げて跪くのね。  なんの話だっけ。新しい宗教?  とりあえずあれだな。「兄をやるぞ」っていう一呼吸入れておかないと、俺なにするかわかんねえな……。
 てなわけで、なんか強めの薬物でも入れた人みたいな勢いで仕事をかたづけた俺は、定刻の二十一時にすべての作業を終えた。明日まわしにできるものはすべて明日の俺に任せた。月曜日は新商品が入荷する日なので、こんなこと���り返してたら店のレベル落ちるな。なんか対策考えないと。  退勤後のコーヒーを飲みつつ、スマホを取り出して、LINE。
『仕事すべて終了。二十一時半までには家に帰れる。なんか買ってくものとかあるか?』 『アイス』
 端的な答えが返ってきた。  ちょっと考えたが、まあ汐里の初のてづくり晩ごはんの初日である。ちょっとしたご褒美くらいあってもいいだろう。そう思って、俺はアイスを買ってから店を出た。
「ただいまー」 「あ、お兄ちゃん、おかえりー」  帰宅した俺を迎えたのは、居間の中心にてごろんと横になりラノベを読んでいる妹の姿であった。今日のラノベは……おお……富士見ミステリー文庫……。  ちなみに、汐里の読んでるラノベがいつも妙に古いのには理由があって、俺の影響ということもあるだろうが、汐里のラノベの入手先が、基本的にはブックオフの百円コーナーだからだ。読めればなんでもいい的なところが汐里にはある。実は俺にもある。  ところで。  汐里さん、めっちゃふつうですね。  え、なに、期待と不安で脳内がおもしろ運動会になってたの俺だけなの? はじめてのてづくり晩ごはん♡とかでテンション上げてたの俺だけ? 俺はイベント大好きな女子なの? てゆうことは汐里が男子? 「……」  落ち着こう。 「メシ、無事にできたのか?」  冷凍庫に、買ってきたアイスを放り込みつつ聞いてみた。 「んーまあ。お肉炒めて、出来合いの調味料で味付けして、あと生野菜と味噌汁だけだから」 「昨日の今日でそれができるのが怖いんだけど……」  自分の部屋に入って部屋着に着替えていると、汐里が行動を始めた気配があった。電子レンジが動く音がする。ドアの向こうから、汐里が話しかけてくる。 「昨日、家に帰ったときに、お母さんに基礎は教わってきたから」 「おまえそんなこと一言もいってなかったぞ」 「サプライズのつもりで……」 「んなやる気のないサプライズ、あってもなくても同じだ……」 「そういえばそうだね」  ……なんかテンション低いなこいつ。 「包丁をできるだけ使わずに、味付けは市販の調味料のメニューから、徐々に難しいものにしていくんだって」  顔と手をざっと洗って居間に戻ると、汐里は鍋とにらめっこしている。どうやらガスコンロの恐怖は克服できたらしい。実家ってIHのはずなんだけど。  室内にだしの香りがただよう。  めっちゃ腹減ってきた。 「初心者は、火をかけてるあいだ、ぜったいに鍋から目を離しちゃだめ……」  汐里がぶつぶつ呟いている。  家族会議では、あの父親相手に息のあった行動をするという奇人性の片鱗を見せつけてくれた母さんだが、基本は頭の回転の速い常識人である。よほどしっかりと汐里に教育を施したらしい。なぜもう数年早くそれをしなかった。  こうして、小さなローテーブルの上に、晩飯がセッティングされた。 「うーん……マグカップ……」 「お椀、ほしいよね」 「茶碗もだな……」 「うん……」  食卓の上には、ヤマザキの白い皿に盛り付けられた豚の生姜焼き、ヤマザキの白い皿に盛られた生野菜のサラダ、そしてヤマザキの白い深皿に盛られた白飯、そして店のキャンペーンで入手したマグカップに入った味噌汁である。 「お兄ちゃん、料理しないわけじゃないんだよね……?」 「いや、そうなんだけどさ」  人にもよるだろうが、たいていの男が自分でメシつくって食う場合、食器なんざ入りゃそれでいい、どうかすると鍋から直接食う、みたいな感じになるものじゃないのだろうか。  ところが不思議なもので、こうやって二人で食卓に向かい合っていると、ちゃんとした食器が欲しくなる。 「食器も必要なものリストの仲間入りだな……」  あと、炊きたてのごはんが入ったヤマザキの白い皿、熱くてふつうに持てねえ。 「食っていいのか?」 「ん、どーぞ。てづくりってほどのものじゃないけど」 「変な冒険してメシマズなもん作るよりはるかにマシだろ」  いただきます。二人して言って、食事が始まる。  なんの問題もない。このメニューなら、肉の焼き加減くらいが初心者にとっての関門だろうが、ふつうにできている。味が濃すぎることもない。野菜はもとより袋のカット野菜だし、ドレッシングは市販のもの。米の水加減もまちがっていない。 「なんかあれだな、ソツがなさすぎて、むしろ感動がないレベル」 「なんで上手にできたのに、微妙なディス食らうのかな……」 「時間はどれくらいかかった?」 「一時間くらいかなあ。こんな感じ」  台所に向かった汐里が、メモを持って戻ってきた。  作業工程表みたいなのが書いてある。米を水に浸すところから、こういう手順でやるようにと。これは母さんの字である。 「慣れるまではレシピとかメニューとか教えてくれるらしいから、たぶん、そんなに失敗しないと思う」 「お、おう……」  親子そろってほんとうにソツがない……。  そんなわけで、食事は淡々と進む。  つーか、淡々としすぎてる。  やっぱり、汐里のテンションが明確に低い。ここは、多少うざいくらいに「お兄ちゃんおいしい?」とか聞いてくるはずだ。要因として思いつくのは、昨日の中台の件くらいしかないのだが……。不安を感じつつマグカップの味噌汁を飲む。  その瞬間、いろいろと吹っ飛んだ。 「汐里、これ……」 「うん。私が味噌汁だけはどうしてもだしの素とか無理だからって、お母さんにつくりかたを教わった。だから、だしも味噌も、家のと同じだよ」 「おお……」  ひさしぶりに飲む実家の味噌汁の感動。  別にこだわりがあるわけじゃない。実家のメシが恋しくてしょうがないということもなかった。けど、これだけは。現物が目の前に出てくると、ああこれだわってなる。このあいだ実家に帰ったときは味噌汁で感動するどころの騒ぎじゃなかったしな。 「おまえの味噌汁を毎日飲みたい」 「……? これから毎日つくるつもりだけど」  伝わらなかった。月がきれいですね。にほんごはむずかしい。いや、別に求愛するつもりも求婚するつもりもないけど。 「聞いといてよかった」  そう言って、かすかに笑う汐里。 「……」  俺は、その顔を見て気づいた。  こいつ、テンションが低いんじゃない。外面で俺に接しているだけだ。それが愛想笑いというかたちになって出る。  汐里は基本的に外面がいい。黒髪ロングの清楚な美少女のイメージを崩さない程度には、外ではおとなしい。昨日の中台相手のときは例外的な態度だった。逆にいえば、内面は遠慮がないってことになる。だから家に外面を持ち込まれると、猛烈な違和感が発生する。  汐里がこんな状態になるのは、二つのパターンがある。ひとつは、本気で怒ってるとき。そしてもうひとつは、内面を隠すという意味では同じなのだが……。  しかしだ。理由がわからない。  俺は過去に何度となく、こうした汐里を見てきた。けれど、いまは、その状況には該当しないはずなのだ。 「やっぱ、家でだれかがメシつくって待っててくれるってのは、いいな」 「そうなんだ」 「店にいるときから、家に帰るのが楽しみで、ずっとそわそわしてたらしい」 「そこまで……?」  うん。そこまででした。  そんでだ。もし汐里が俺の推測どおりの状態なのだとしたら、吐き出させてやらないといけない。「なぜ」の部分はわからなくても、対処方法はわかる。それがつきあいが長いってことなのだ。 「汐里はどうだった? 一人で待ってて、さびしくなかったか?」 「そんな、子供じゃないんだし」 「どうだかなー。汐里、なんか元気ないし」 「別に、そんなんじゃ……」  あー、やっぱか。  ビンゴだ。  とりつくろって、なんでもないようなふりをしていた汐里の表情が、どんどん崩れて、泣くのを我慢しているような張り詰めた表情になってくる。 「そんな心配しなくても、俺はちゃんと毎日、帰ってくるぞ?」  小さなローテーブル越しに、汐里の頭に手をぽんと乗せてやる。数回ぽんぽんとやってやると、張り詰めた表情のままの汐里の目から、とつぜん涙がぼたぼたとこぼれてきた。  こうなるとわかっていても���こうも無防備にぼろぼろ泣かれると、理由もなにも考えずに、抱きしめて泣きやむまで撫でくりまわしたくなるのだが、そういうわけにもいかない。なぜなら、今日の汐里の態度は、俺が一人暮らしを始めた当初、ひさしぶりに実家に戻ったときのそれととてもよく似ていたからだ。 「どうした、汐里」 「料理、うまくできなくて」 「ド素人が一時間でこれくらいの料理ができたら充分だろ……」 「学校で、いやなことがあって」 「そういうとき、おまえもっとキレ気味だよな?」  あれな。かなり怖いの。 「えっと、じゃあ……」 「いやもう、そういうのいいから」  だいたいいつもこんな感じだった。あのころ、実家に戻ると、とりあえず汐里はなんでもないふりをしてみせた。お兄ちゃんが帰ってきたことなんて嬉しくもなんともない。そんな態度をとりつつ、三〇分か一時間も経って、二人きりになると、こうやってぼろぼろ泣いて抱きついてくるのだ。まるでなにかの儀式みたいに、毎回そうしていた。  しかし、今日はあのころとは決系的に違う点がある。一週間も二週間も会っていないわけではない。そして汐里はもう十二歳でもない。 「ほら、来い」  体の向きを変えて膝を叩く。  汐里は、落ちてくる涙を手で拭いつつ、しゃくりあげながら、 「で、では、ひっく、ごはんの途中では、ぐずっ、ありますが」  謎の前口上を告げてから、ぎゅーっと抱きついてきた。なんかもうこの子あれだな、嬉しくても悲しくてもとりあえず抱きついてくんのな……。俺が兄モードじゃないときにあんまりやらないでね、これ。正直、兄モードでもちょっとやばいので。 「で、どうしたんだ?」  背中をぽんぽんと叩いてやる。 「……引かない?」 「いまさらなに言ったって引きゃしねーよ」 「私、めんどくさくない?」 「ちょっとくらいめんどくさいほうがかわいい」 「……知ってた」  知ってたんだ……。  衝撃の事実に驚いているうちに、汐里はだいぶ落ち着いてきた。すすり上げる声はなくなって、それでも鼻声だったけど、ぽつぽつと話し始めた。 「学校行って、帰りにスーパーに寄ったの」 「うん」 「で、うちに帰ってきて、宿題やって、予習と復習やって、ごはんの準備して、途中でちょっとおなか空いたから、ごませんべい食べて」  あれまだ残ってたのか。 「それで……お兄ちゃんが帰ってこなかった」 「待て。いまいる俺は何者だ」 「お兄ちゃん弐号機」  初号機はどこ行った。まさかまだ残業してるの? 俺は二人目なの? 「なんか……自分でもよくわかんないんだけど……なんか、違うの。ここが私の家になって、お兄ちゃんが帰ってくるって思って、だったら私は待ってればいいんだなって思ったら、よけいに一人っきりのような気がしてきて……せっかくずっと一緒に暮らせるようになったんだから、変だと思うんだけど……」  ああ、そうか。  俺は、そこで納得が行った。  いままでだって汐里はさんざんこの部屋に入り浸っていた。俺のことを待ってもいただろう。しかし、前は「遊びに来ていた」のだ。実家という絶対のベース基地があったうえでの、オプションとしての居場所だ。しかし、現在、ここは汐里の家となった。そうなるとここは、両親が欠落した孤独な場所ということになる。つまり、遊びの時間が、孤独な待ち時間に変化した。  母さんが専業主婦だったこともあって、汐里は一人に慣れていない。  ホームシックの一種といってもいい。慣れたはずの場所だったから、俺も、そして汐里じしんも、そんなことを感じるとは思っていなかった。そういうことなのだろう。  まあ、なんていうのか。 「悪い。もっと気をつけるべきだった」  さらさらの髪の感触の後頭部をなでてやると、一度は泣きやんだはずの汐里が、またぐずぐずと鼻をすすりはじめた。  よく泣くよなあ、こいつ。あんまり泣かれると、庇護本能が前立腺に影響してわけのわからない感情が出てきそうになる。わりと最悪な感情である気もする。 「前から思ってたんだけど」 「なんだよ」 「お兄ちゃんは、私を甘やかしすぎだと思う」 「そうか?」 「そうだよ。なんか、子供扱いされてる気がする」  ちょっと不満げである。もうこうなると、なに言ってもなにやってもかわいいので困る。 「んじゃ、甘えるのやめるか?」 「……やだ」  頭をぐりぐりと押し付けてくる。おまえその動き好きだよな。俺も好きだから安心してぐりぐりするといいよ。俺の理性が吹っ飛びそうになる以外の実害別にないから。  危ねえ。 「ほら、もっと甘えてみろ」 「……ううう」 「にゃーとか言ってみろ」 「うううう……」  なにやら唸っている汐里は、また俺の胸板あたりに頭をぐりぐりと押し付けてきた。ひとしきりそれをやると、俺を見上げた。泣き腫らした目のまわりは赤くなっていて、瞳はまだ潤んでいる。これで理性飛ばさない俺すごい。などと思っていたら、 「にゃあ」  あ、鳴いた。 「……」 「……」 「汐里」 「にゃ、にゃあ?」 「これは封印だ」 「にゃんで!?」  混ざったらしい。汐里の顔が見る間に真っ赤になってくる。 「な、なんで?」  あ、言い直した。 「なぜかと申しますと」 「う、うん」 「そのですね……」 「うん」  ごくり。  両手をしっかり握りしめた汐里が、生唾なんか飲みつつ俺をまっすぐに見つめてくる。夜遅い時間。二人きり。止めるものはどこにもいない。ファーストキスは豚生姜焼きの香り? もうちょっとこう、クロレッツタブレットとかフリスクネオとかミンティアブリーズとか仕事柄むだに頭のなかを商品名が駆け巡りつつ、そういうもの食ってからのほうがとか、ああこれ俺いま冷静じゃねえな、冷静でいられるわけねえだろなぜなら汐里が、汐里の唇が目の前にあって、これは兄妹だからわかっちゃうの、汐里オッケーだってわかっちゃうの、それとも兄妹とか関係なくこういうのってなんとなくいやむしろふつうの兄妹はキスとか、そういうの、Kissとか。ねえ。ちょっと。接吻の次はなにがあるんですか。 「汐里……」 「お兄、ちゃん……」  そのとき。  ピポ。  と、言葉に表現するとちょっとよくわからないLINEの着信音が、限界まで張り詰めた空気の室内に響いた。 「ウッヒョー」  驚きのあまり、変な声出た。出るにしてもこれはあんまりではないのか。もうちょっとどうにかならなかったのか俺。  汐里はといえば、しばらく熱の余韻の残る目で俺を見ていたが、やがて静かに体を離して、台所あたりに置きっぱなしになっていたスマホを手に取った。 「お母さんだ」 「なんだって?」 「ごはん、ちゃんとつくれたかって」 「あ、ああ……メシな……。あっためなおして食うか」 「うん」  汐里に気づかれないように、息を吐きつつ、体の力を抜く。  いまのはやばかった。  本気でやばかった。  心臓ばっくばくいってるし、よくわかんない汗かいてるし、なんか汐里の移り香とか残ってる気がするし、とにかくだな、これ、どうにかしないと、もう今晩からすでにやばそう。もういまのままだと、来月あたりには汐里がご懐妊しててもおかしくない。避妊しないのか俺。  もうこうなると、汐里の後ろ姿ですら目の毒なので、なんとなく視線を逸らして玄関のほうを見ると、シューズボックスの上に、俺が今度こそ見つからないように隠したはずのコンドームの箱が鎮座していた。  いや汐里、だからあれ、どうやって見つけるんだよ……。
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4554433444 · 4 years
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妹さんと同居18
 夜の路地裏である。  俺は背後に中台をかばって、謎の男の前に立っている。 「店に戻ってろ」  俺は中台に告げた。  店にはまがりなりにも男性が二人いる。まだ客が途切れる時間帯ではないから、人の目もある。店に逃げ込めばひとまずは安心できる。  中台が立ち去るのを確認した。これで後顧の憂いはない。  さて。  おもむろにスマホを取り出して電話する。 『はい、警察署です。どうしました?』 「あ、すいません、コンビニの店長やってるものなんですが、不審な人がいまして」  事件性のない微妙な案件は、一一〇番通報をするとわりといやがられるので、地元の警察に直接電話である。  おう、謎の人逃げてったぞ。 「いま、逃げてっちゃいました」 『おまわりさんを派遣しましょうか?』 「今日のところはいいです。本人がいないですし。ただ、後日相談はさせていただきたいです」 『わかりました』  電話の相手の名前を確認。後日、生活安全課に相談に行くことで話をまとめる。  いろいろと評判のよろしくない某県警ではあるが、こういう細かいレベルのことでは、あんがい親切に対応してくれたりもする。警察も人間の集合体であり、また仕事で警察やってるので、要は、気持ちよく仕事をしていただけるよう、いろいろ配慮すればいいのである。と、社長から教わった。  あれはきっちり対応しておかないとまずいな。防犯カメラに姿が映っているかどうか微妙なところだ。店頭のカメラの死角くらい計算しててもおかしくないしなあ……。  そんなことを考えつつ店の事務所に戻ると、座っていた中台が立ち上がって俺に近づいてきた。汐里もいる。 「てんちょー、なにもなかったですか!?」 「なんか警察に電話したら逃げた」 「え、そうなんですか?」 「うん。俺のしたこと、電話だけだったわ」 「……よかったぁ」  心底ほっとしたように吐息混じりで言う中台。そのままへたりこむように椅子に座ってしまう。 「汐里、お手柄だったな。汐里が気がついてくれなきゃやばかった」  頭にぽんと手を置く。 「ちょっと寄り道してっていいか? 中台を家まで送ってかないと」 「うん」  中台が、慌てたように言う。 「そんな、いいですよ。すぐ近くなんですから」 「すぐ近くだから、送ってっても大した手間にならないんだろ?」 「……え? あれ、そうなのかな?」  あの男が逃げたからといって、近くにいないとは限らない。前回のつきまといのことを考えると、今回も、以前から中台に目をつけていた可能性が高い。自宅が割れているかもしれない。一人で帰す、という選択肢はない。どっちにしろ、いまの中台は平常心ではありえない。こんなものを一人で放り出すのはちょっと怖い。 「んじゃ帰るぞ、中台」
 外はじんわりと冷え込んでいる。  店は、片側三車線の広い道路に面して建っているが、その道路からちょっと入ると、昔からの下町っぽい感じの住宅街で、ところどころにアパートや雑居ビルが無秩序に建っている。でかい病院があるせいか、その関連施設めいたものもところどころにある。  通りは、充分に明るいし、車の交通量も多いが、歩道を歩く人は少ない。  そんな道を、汐里と中台、それと俺の三人で歩いている。この組み合わせだと、俺が中心になって、その両隣に汐里と中台、という並びにならざるを得ない。店を出るときに「ハーレムもまずは二人からですな」とか言ってた飛田さんにはあとで厳重な処分を下そう。  なお、汐里の衣類の詰まったバッグは俺が持っている。 「なんかすみません。助けてもらったうえに、送ってもらって、さらにコーヒーまでおごってもらって……」 「もういいって。業務の一環。つーかあんまりしおらしくされると調子狂うから、そろそろやめて……」 「私、そういうイメージだったんですね……」  ところで。  気まずい。  俺は、一対一ならともかく、人数が増えると無口になるほうだ。なにを言っていいかわからないのだ。飲み会なんかだと埋没するタイプ。汐里は、外面はいいが、積極的に自分からしゃべるわけでもない。唯一、積極的に話すタイプの中台は、まだそういう気分ではないだろう。  というわけで、気まずい。  と思ってたら。 「中台さんは、アルバイトは長いんですか?」  汐里から行った。おお、外面よい子はこんなときちゃんとしゃべれるんだね。  対する、本来は愛想のいい中台のほうが、どことなく挙動不審である。 「え、あ、私? うん。えーと、もう二年近くにはなるのかなあ」 「けっこう長いですね。私、お兄ちゃんから中台さんのこと聞いたことないので、知らなかったです」 「仕事のことは、家ではほとんど話さないしなー」 「あ、それ私も。てんちょーにこんなかわいい妹さんがいるなんて知らなかった」 「店ではプライベートのことほとんど話さないしなー」 「……」 「……」  なんで会話が途切れるのだろう。もしかして俺、またなんかやっちゃいました? というほど会話もしてないはずだが……。 「でもほんと、汐里ちゃん、きれいでびっくりしちゃった。てんちょー、自慢の妹さんですね」  はい。自慢です。  とか言うと引かれることはわかりきっているので、黙っている。 「……あ、ひょっとしてアイスのおみやげって、妹さんですか?」 「ん、まあそう」 「あれ、でもてんちょーって一人暮らし……」 「よく遊びに来るんだよ。学校から俺のアパートのほうが近いから」 「へー、仲いいんですねー」  なんか会話が微妙に地雷原の方向に進んでる気がする。  俺は目線で、汐里に、よけいなこと言うなよ。絶対に言うなよ。絶対だぞ、と強いシグナルを送る。  汐里はにっこりと笑って、 「たった二人の兄妹ですから」  ……よかった。事を荒立てる気はないらしい。  俺がほっと胸をなでおろすと、 「血はつながってませんけど」 「え?」  と、中台がぽかんとした顔をする。  ヒグゥ。俺は喉から変な音出した。  心臓ばっくばくしてきた。ちょっと汐里ちゃん先生やめてください。なんでそんな地雷原に降り立った戦の女神みたいなすごい顔で微笑んでるの。君はなにと戦ってるの。 「余計なこと言うな」 「いたたたた」  とりあえず頭頂部をぐりぐりしておいた。 「やめてってば。だってちゃんと言っておかないと、また似てないとか勘ぐられたりするじゃん。お兄ちゃんは気づいてないかもしれないけど、けっこう変な目で見られたりするんだよ?」 「……実は私もちょっと思ってました。ほら、兄妹って、似てない似てないっていっても、並んで立つと、なんとなく雰囲気的に似てたりするじゃないですか。そういうのもないんで、ほんとに似てない兄妹っているんだなー、とか……」 「ほら」  ドヤ顔の汐里。  知ってましたか。美少女のドヤ顔って、いらっとするの通り越して、なんか見下されてるような気分になるんですよ。 「というわけで、今日はお兄ちゃんの店で待ち合わせて、一緒にお兄ちゃんのうちに帰るところだったんです」 「……仲いいんですねー」 「はい。それはもう」 「……」 「……」  ねえ、君たちだからなんでそうちょくちょく会話が途切れるの。中台はなんでジト目してるの。おかしいでしょそういうの。 「あ、そういえばてんちょー」  中台が、場の空気を気にしていないような明るい声で言った。その様子はふだんの俺をからかってくる中台のもので、俺は少しほっとした。なんでもいい。ふつうに行こう。ふだんどおりで。な? 「なんだ中台」 「もうすずちゃんって呼んでくれないんですか?」 「……なんですった?」  いかん。動揺のあまり日本語が微妙におかしくなった。  ふだんどおりでって俺言ったよね!? 心のなかで! なんで悟ってくれないの!? おまえには心を読む能力がないの!? 「もう二年も同じ職場にいるので、別に名前呼びでもいいと思うんですけど」 「いやいやいや、俺はそういうことしないよ?」 「さっきは呼んでくれたじゃないですか」 「あれはだな……」 「じゃあ私はしおちゃん?」  さらっと汐里が混ざり込んでくる。  その呼びかたはやめておけ。俺が汐里を監禁しなきゃいけなくなる。そんなハッピーでシュガーなライフは遠慮したい。 「中台さんこそ、お兄ちゃんとけっこう仲いいじゃないですか。お兄ちゃん、こんな顔だから、女子ウケあんまりよくないかなあって心配してたんです」 「見た目ちょっと怖い感じするもんね。でも、いいてんちょーさんだよ?」 「だといいんですけど」 「てんちょーのぶんまで、私が愛想よくするからねー」 「そういうのは得意そうですね、中台さん」 「そのぶん、親しい人だと気が緩んじゃったりするんだけど。ついからかったりとか、不機嫌なところ見せちゃったりとか。彼氏ができないのはそれが理由かなー」 「そうなんですかぁ」  俺を蚊帳の外において会話が進行していく。  表面だけ見れば、どうってことのないやりとりが続いているのだが、俺はなぜか、弱火でコンロにかけた大鍋の水に浸かっているような気分だった。じわじわと、お湯の温度が上がってきている……。
「あ、うちそこです」  中台が、狭い敷地に建った三階建ての家を指差す。  よかった。コンロの火が止まった。 「それじゃ、今日はありがとうございました!」  ぺこりと中台がお辞儀をする。 「さっきの男については、きっちりと警察に連絡して対応するから、心配すんな」 「はい。それじゃ」  手を振りつつ、中台が家に入っていく。ただいまー、と声が聞こえてくる。  ぱたんとドアが閉まる。  夜遅い時間の住宅街に、人の気配はない。  街中だから、車の音だとかさまざまなノイズは聞こえるものの、そのぶんだけ、かえって静まり返っているようにも思える。  ここからはバス停が近い。というより、自宅方面へのバス停ひとつぶんくらいを歩いて感じ。今日は汐里と帰るのがわかっていたから、俺はバスで来た。帰りは、汐里と一緒にバスで帰る。  中台の姿が見えなくな���た瞬間、仏頂面にシフトチェンジした汐里に、俺は言った。 「おまえなあ、煽るなよ……」 「別に煽ってない」 「中台はそういうんじゃねーって。バイトとしては優秀だけど、それだけ。向こうだって、仕事の上司以上の感情は持ってないだろ」 「……」  汐里は、驚いたような顔をして俺を見る。それから、呆れたようにため息をついて、 「いまのままのお兄ちゃんでいてね……」 「なにその含みありまくりの言いかた」 「たぶんお兄ちゃんが想像してる以上に、なんの含みもないと思う……」  汐里が言いたいことは想像がつく。おおかた俺が鈍感主人公で、中台は実際には俺に好意を寄せていると言いたいのだろう。  しかし俺はそこまでアホではない。というより、長年バイト中心の商売をやってきて、店の空気をぐだぐだにする最たるものが、店内での恋愛騒動だということを骨身に沁みて理解している。むしろ、周囲の色恋沙汰には神経質なくらいだ。  だいたい中台みたいなタイプは、好意を持った相手にはかなり積極的に行くはずだ。ことあるごとにアピールしてくるだろうし、距離も詰めてくるはずだ。  ……あれ?  自分の思考に、なんか違和感がある。  その正体を考えようとしたが、汐里に話しかけられて中断した。 「すずちゃんとか呼ぶんだ……」 「あれはあいつがそう呼べってアピールしてたんだ。じーさんに絡まれてへこんでたから、一時的な処置だ」 「うわあ……自分からそういうこと言うんだ……」 「半分以上は冗談だろ」 「でも、そう呼ばれたら元気出るってことだよね」 「……あれ? そうなのか?」  そうだよな。そういうことだよな。そういう判断のもとに、俺はすずちゃん呼びしたんだから。  うーん……。  考え込んでいると、汐里が腕に絡みついてきた。 「おい、荷物落ちるだろ」 「かわいい人だったね。男ウケよさそう」  いちいち発言が刺々しい汐里さんである。 「おまえに言われても嫌味にしか聞こえねえだろ……」 「じゃあ、バイトと妹、どっちがかわいい?」  うわ、汐里がめんどくさい感じになってる。  俺は、なんだかんだと絡んでくる汐里をてきとーにいなしつつ、ようやく昨日感じたひっかかりがなんであるか理解した。  汐里と中台を会わせるとろくなことにならなさそう。  そういうことだったらしい。  汐里、基本的にヤキモチ焼きだからなあ……。
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妹さんと同居17
 年齢確認ボタンを押してくれと頼むといきなりブチ切れて画面叩くじーさん。  店内の片隅でしゃがみこんで動かなくなるばーさん。  奇声を上げつつ入店してきて、店内でハイタッチをして外に出ていく若者。  などなど。  俺は、売場の商品の整列をしながら考える。  なぜ日曜のコンビニは変わったお客さんが多いのだろう。  長くコンビニやってる人なら、なんとなくイメージ的に「日曜は変な客多い」というのがあるはずだ。まあいちばんは土曜の夜だろうが、あれは酔っ払いとかが絡むからちょっと話は別である。ナチュラルにおかしい人が多いのが日曜である。そういや前に、某スポーツ飲料飲んだら、液体から電波が流れ込んできて体内で反響してうるさいから返金しろってごねるおばちゃんいたよなあ……あの人いまなにやってんだろ。俺なんて返したんだったかな。確か「それはよい電波で、体内のクレンジング効果があるから平気ですよ」とか言った気がする。もうこれ日曜とかそういう問題じゃねえ。  うちの店は、日曜は比較的客数が少ないのだが、近隣に住宅も多いため、そのへんは運次第である。来るときはだらだらと一日中お客さんが来る。今日は比較的ヒマだ。仕事をどんどん前倒しでかたづける。  夕方のピーク前に、いったん店頭のゴミ箱をチェックしておく。うちの店はかなり店歴が長く、造りが古いため、他店のようにゴミ箱を店内に設置することができないのである。  店頭に出ると、俺の姿を見るなり逃げたやつがいた。 「なんだあれ」  二十代くらいだけど年齢不詳で、白髪混じりの……なんか見たことあるんだよなあ……。  店内に戻って手を洗っているときに思い出した。数年前に入店禁止にしたやつだ。  しかし今度は、なぜ入店禁止にしたのかが思い出せない。  俺は、わりと簡単に出禁を言い渡すほうである。グレシャムの法則か、はたまた割れ窓理論かわからんけど、本質的に「買いものに来ていない人間」が店に増えると、その店の雰囲気は悪くなる。なので、深夜に店頭にたまるお子様も、店員相手に怒鳴り散らすじーさんも、カジュアルに出禁にする。いちいちだれをどんな理由���出禁にしたかなんて覚えていない。 「うーん……」  休憩がてら事務所で腕組んで思い出そうとしていると、 「おはよーございまーす。どうしたんですかてんちょー。そんな悪い人相して」  中台が出勤してくるなりいきなり煽ってきた。 「人の顔をとやかく言うな」 「えーいいじゃないですかー。てんちょーも私の外見についてとやかく言ってください」 「……」  とやかくってなんだ。  だぼっとした感じのベージュのパンツに、ボーダーのTシャツ、その上から長いカーディガンらしきものを羽織っている。まあなんていうか、そのへんにいそうなちょっと雰囲気のいい女子大生である。 「ふつう?」 「それ、数ある反応のなかでも、いちばん最悪のやつですよね……」  俺になにを期待してるんだ。 「ちゃんと見てくださいってば」  めっちゃ顔近づけてくる。  こいつ、とにかくナチュラルに物理的距離が近い。俺が相手のときだけそうだっていうなら「え、こいつ俺のこと好きなの?」とか勘違いしそうなのだが、原則としてだれが相手のときでも近いので、完全に無自覚だろう。  そして相手に自覚があろうがなかろうが、こっちは挙動不審になるのである。 「い、いつもどおり丸顔だな?」 「……はぁ」  露骨にため息つかれた。  なにかを諦めたかのように制服のロッカーを開けつつ、中台は髪の毛先をいじる。 「髪、切ったんですけど」 「わーほんとだーよく似合ってる」  もうやけである。 「ぜんっぜんわかってないですよね?」  ジト目もらった。  ジト目マニアの世界では、愛のあるジト目と、そうでないものを峻別する。見下すレベルまで行くと、それはもはやジト目ではない。そして中台のこのジト目は、限りなく、ジト目と単なる冷たい目の境界線上に位置する。なお、単に目を伏せているとかそういうのもジト目でもない。あくまで、呆れたようにじとーっと見ることがジト目の原風景なのである。  茶化すのはやめて、まともに相手することにした。 「どこ切ったんだよ」 「毛先を二センチくらい」 「わかるか!」  汐里ならわかる自信ある。いや、どうだろう……二センチはちょっと……誤差なのでは?  制服に袖を通していた中台は、ジト目を維持したままの横目で俺を見つつ言った。 「だいたい、てんちょーは私の扱いが雑すぎると思います」 「そうかなあ……」  俺なりにけっこう気をつかっているつもりだが。こいつがいるといないでは店のレベルがだいぶ違ってくる。 「そうですよ。だいたい……」  ぶつぶつ。ねちねち。なんかゆってる。三ヶ月前に髪切ったときも気づかなかったらしいよ俺。  どうすりゃいいんだこれ。 「聞いてます?」  機嫌悪いなあ……。
 まあ、中台は、自分の機嫌が仕事に影響するタイプではない。長く一緒にやっていることもあり、分担は決まっている。それぞれの仕事を黙々とこなす。基本は中台がレジ、俺がそれ以外の雑用なのだが……。 「なんだよ愛想ねえなあ」  カップ麺の品出しをしていると、レジのほうからじーさんのダミ声が聞こえてきた。  またあのじーさんか……。  名前は知らないが、毎日来る人だ。年齢はもう七十近いだろうか。ふだんはいいのだが、たまに酔っ払って来ることがあり、そういうときはかなりタチが悪い。 「はいはいお父さん、どうしました?」  俺はかなり大きい声で言いつつ、じーさんに近づく。 「んだ店長、おまえ関係ねえだろ」 「なになに、どうしたの。悪い酒だなあ。もっとうまい酒飲もうよ。ほら、黒霧島とか」  そう言って、がっちりじーさんの肩を組む。じーさんには気づかれないように、中台には、ジェスチャーであっち行ってろと指示。どうでもいいけど酒くせえなあ……。 「なんだあの女は。こっちは客だぞ。手のひとつ握ったくらいでいやな顔しやがって」  あー。  これはあかんやつですね。  この世代、たまにいるんだよね。店で働いてる女性はみんな水商売と互換だって思い込んでる人。なんでああいうお店が高いのか理解してない。 「んー、外で話そうか」 「なんだてめえ? 客追い出すのか?」 「ちょっと頭冷やそうか」  さすがに力なら俺が上である。じたばた暴れるが、それ以上の抵抗はなく、店の外に連れ出すことに成功する。まあ、足元ふらふらしてるしなあ。  さてと。  なんか喚いてるじーさんを睨みつける。 「そちらがどう思うかは知らないけどさ、うちの店は手握らせたりとかそういうサービスはしてないから。いやがる店員の手を握ったら、そりゃだめだよね? つーわけで警察呼ぶから」 「おう呼べよ。俺ァなんにも悪いことしてねえからな」  そこで、俺はじーさんの肩に腕を回して、ぐいっと引き寄せて、耳元で呟く。 「あんたがシラフのときに」 「あん?」 「いまの状態じゃ、お父さんもちゃんと証言できないじゃん? だからシラフのときに警察呼んでちゃんと話しようよ。住所も名前もこっちは全部握ってるから」  もちろんでまかせである。 「なんで俺がそんなのにつきあわなきゃなんねえんだよ」 「うるせえ!」  怒鳴った。 「……な、てめえ、客相手に」  じーさんが怯んだ。ここがタイミングである。追加で脅す。 「潰すぞてめえ。逃げられると思ってんじゃねえぞ」 「……クソッ」  お客さんのお帰りである。どうなるかわかってんだろうなとか捨てゼリフ的なこと吐いてるけど、あのタイプはなにもしない。たぶん、店にもとうぶんは来ない。なお襟首を掴むと暴行罪になるので、注意しましょう。  遺憾ながら、理屈が通じない相手は脅すしかない。あの手の泥酔したじーさんって、実際のところ、警察呼んでも「またあんたか」って警官に言われるような常連さんだろうし、本人は痛くも痒くもない。  テクニックとしては、酔っている現在は気が大きくなっていても、シラフのときのことを持ち出されると、多少は萎縮する。酔ってはいても、完全に理性を失っているわけではないからだ。  あともひとつは、こちらからの攻撃の意志を示すこと。あの手合が傲慢なのは、自分が客だからという前提に基づいている。だから、そんなの関係ねーと伝えてやると、自己保身に回る。  次似たようなことやったら出禁かな。  そんなことを考えつつ店内に戻ると、中台が飛びついてきた。 「平気でしたか!?」 「あー、ぜんぜん。脅しといたから、とうぶん来ない」 「ありがとうございました……。手を触られたので、びっくりして引っ込めたらいきなり怒り出しちゃって、なんとかやり過ごそうとしたんですけど、手を掴まれて……」  あ、まずいなこれ。  いらない責任感じてるっぽい。 「悪いのは一〇〇パーセントあのじーさんだぞ?」 「それは、そうかもですけど……」  納得していないようにうつむく。  だよなあ……ここでおまえは悪くないって言っても、なかなか言葉が通らないんだよなあ……。  少し考えて、俺は言った。 「すずちゃんはなにも悪くない」 「へ!?」  目をまんまるに見開いて、びっくり顔になる中台。 「すずちゃんはいい子だ。なにもまちがってないぞ」 「え? え!?」 「というわけで仕事に戻るぞ中台」 「て、てんちょー? いま、すずちゃんって」 「気のせいだ」 「二回言いましたよね!?」 「気のせいだ。ほら、レジ来てるぞ」 「あ、はいっ」  多少は気がまぎれただろうか。  中台、なんだかんだで気にしいだからなあ。あとでもうちょいフォロー入れといたほうがいいかもしれない。
 多少のトラブルはあったものの、前倒しで進めていたせいもあって、二〇時五〇分には、すぐにでも帰れる状況になっていた。そのぶん疲れたけどな……。  事務所に座って明日の朝勤への伝言なんか書いていると、 「おはようございまする」  夜勤の飛田さんが出勤してきた。  四十五歳のおっさん。外見は、身長が低くやせ型、髪は年齢のわりに薄い。そしていったいどこから探してきたんだというような、フレームの太い眼鏡をかけている。声は甲高い。 「すっかり肌寒くなりましたなあ、ロリゲーの捗る季節です」  そんで、ひっでえオタク。  つーか季節とかあるんだ……。  なんのカルマを背負ったらこんなイキモノになるんだ、という感じの人だが、実はこの人、だれでも名前を知ってる一流商社からのアーリーリタイア組である。なんでも、あとの人生はバイトと資産運用だけで食ってけるらしい。  ちなみに、仕事は誠実で優秀。得難い人材である。 「さーて、今日もがんばって仕事して、家に帰ってロリオナホですぞ」  言動には問題がある。 「ときに店長」 「はい?」 「店頭にものすごい美少女がおりますぞ。絶滅危惧種と思われる黒髪ロングの清純派。あの感じは恋する妹キャラですな。おそらく、お兄ちゃんを想うとすぐ」 「はいそこまで!」  飛田さんを止める。なに言い出すこのおっさん。  俺はあわててスマホを確認した。そこには「もうすぐ着くよ」という汐里からのメッセージ。時間は十五分ほど前。 「ちょっと店頭行ってきます」 「お、おお……!?」
 店頭に飛び出すと、ガラスに寄りかかるようにしてしゃがみこんでいる汐里の姿があった。 「悪い。仕事中でメッセージに気づかなかった」 「ううん、いま来たところだよ」  腕を絡めてくる。 「今度は順番あってるよね?」 「あってるかもしれないけど、LINE入れといてそれはねえだろ……」 「くちゅ」  汐里がくしゃみをした。  この子、なんか猫みたいなくしゃみするんですよ。  寒いときなんか、よく連発して、 「くちゅ。くちゅ」  まずいな。  気温はかなり下がっている。布越しに、ひんやりした感じが伝わってくる。  あー……うーん……あんまり公私混同はしたくないのだが……。  背に腹は代えられない。 「中に入るぞ」 「え、う、うん」  汐里を引き連れて店内に入ると、レジのところでタバコを補充していた中台が、驚いたようにこちらを見ている。 「妹だ。悪い。目をつぶってくれ」 「は、はい。え? えーと……?」 「あとこれ。購入」  レジにあたたかいペットボトルのミルクティーを置く。 「百五十二円です」 「あいよ。お釣りは募金」 「あ、ありがとうございます……?」
 そんでもって事務所。 「はじめまして。本永貴大の妹の汐里と申します。いつも、兄がお世話になってます」 「い、いえ、こちらこそ……」  深々と頭を下げた汐里に対し、中台はとまどい気味にお辞儀を返した。  中台は、もう上がりである。  着席、とばかりにすとんとパイプ椅子に腰を下ろして、ミルクティーをくぴくぴと飲む汐里。ほわーっと息を吐いたりしている。  なお飛田さんともうひとりの夜勤はすでに売場だ。飛田さん、なんか混ざりたそうに事務所を覗いてたけど、遠慮してもらった。あの人二次専門だし、別に悪さはしないと思うんだけど、なに口走るかわかんないから……。いやだってあの人うっかり言いそうじゃん。お兄ちゃんのことを想うとすぐにHしちゃいますかな?とか。しますよ、とか汐里が返事したらどうしてくれる。どうしよう。どうしたらいいんだ。俺だってするぜ!とか元気よく言えばいいか。  思考の迷宮にはまりそうになっていると、 「あ、そうだ。レジの処理でわからないことがあったんです」  中台が、売場に通じるドアまで移動し、手招きしている。  一緒に売場に出ると、中台は、俺の袖を引っ張りつつ、興奮気味の小声で言った。 「ちょっとてんちょー、なんですか妹さん。めっちゃかわいいじゃないですか」  ああ、やっぱ口実だったか……。うんそうだと思った。いまさら中台にわかんない操作方法とかあるわけないし。 「なんですかあの顔のちっちゃさ。線の細さ。もはや意味がわからないです」 「ああうん、なんかごめんな。うちの妹がかわいくて」 「うわぁ……シスコンってうまれてはじめて見ました……あんがい私たちの身近にいるんですね……」  都市に住む野生動物みたいな扱いやめてくんないかな。 「それにしても」  中台は、俺の顔をじろじろ見上げる。だからこいつはなぜ近いんだ。傍から見たらキスねだってるように見えるぞそれ。 「似てないですね。びっくりするくらい」 「……まあな」  一瞬迷ったが、スルーする。血のつながりがないことをわざわざ申請することもない。 「てんちょーが今日、仕事急ぎ気味だったのは、これですか……」 「事情があって、店で待ち合わせするしかなかったんだ」  話を切り上げて事務所に戻る。  もの珍しそうに事務所の内部を見回していた汐里だったが、俺に気づくと、 「あ、お兄ちゃん、もう帰れる?」 「着替えたらな」 「うん、待ってる」  中台は、もはや謎の生物を見るような目で汐里を見つつ、制服を脱ぐ。  汐里があたりまえのツラして椅子に座ってくつろいでいる一方、中台はなぜか居心地が悪そうに見えた。さっさと荷物をまとめて、おさきに失礼します、と言って事務所を出ていく。
「……」  中台が出ていったドアをじっと見て、汐里がなにやら難しい顔をしている。 「どうした?」 「ん……考えすぎかもしれないけど……さっき、店頭に変な人がいて。あの、うぬぼれてるとか思わないで聞いてほしいんだけど……」  店頭で待っていたとき、変な人物がいたらしい���  その人物は、店の外からレジのあたりをじっと見ていた。  汐里いわく、こうした状況では、見られるのはたいてい自分であり、その自分をスルーしてレジの人物を見ていることに、かなりの違和感があったという。  よくも悪くも、汐里は自分の外見が人目を引くことをよく知っている。 「それ、どんなやつだった?」 「んー、なんか変な人。若いのかおじさんなのかわからなくて……あ、頭に白髪がけっこうあった」 「……」  あいつだ。  夕方に俺を見て逃げたやつ。  その瞬間、記憶が蘇った。そうだ、ちょうどこの時間帯じゃないか。 「まずった。汐里、ちょっと待ってろ」  俺は汐里の返事も待たずに事務所を飛び出した。  ようやく思い出した。  以前、女子高生のバイトが、ツイッターに平然と個人情報を晒していたことがあった。まだ中台がバイトを始める前のことだ。自分の名前はもちろん、バイトをしている場所まで。そして「これからバイト上がるよ」などともツイートしていた。で、そのバイトにつきまとい行為をしたのがあの男だ。  いまはどうかわからないが、当時はまだこの手の事案では警察は動いてくれなかった。しかたなく、俺自身がそいつをとっつかまえて脅したうえで出禁措置にしたのだ。それっきり店には来なくなって三年以上は経過していた。完全に忘れていた。  店頭に飛び出すが、中台の自宅の方向である右側にはだれもいない。 「くっそ……」  なにごともなければいい。取り越し苦労であればいい。  そう思って、走り出そうとすると、背後からかすかに声が聞こえた。 「離してください。大声出しますよ」  まちがいない。中台の声だ。  振り返るが、姿は見えない。 「となると……」  店の横には行き止まりの細い路地がある。そこしかない。  俺は、全力で路地に駆け込んだ。  そこには、例の男に腕を掴まれている中台がいた。  まったく。中台は今日、厄日だ。髪を切ったことに気づいてもらえないわ、複数の男に絡まれるわ。せめて罪滅ぼしのひとつはしておこう。 「なにやってんだおまえ」  俺は、中台の男のあいだに割り込んで、低い声で言った。
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4554433444 · 4 years
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妹さんと同居16
「待ってお兄ちゃん!」  喫茶店で一時間ほどだらだらしたあと帰宅。家に入ろうとしたときのことである。  汐里からコールがかかった。 「なんだよ」 「じゃんけーん」 「……」 「じゃんけーん……」 「……」  なにが始まるんです? 「なんで相手してくれないの!?」 「なぜ自宅を前にじゃんけんが始まるのか、理由の説明から始めろ」 「もう、空気読めないなあお兄ちゃんは」 「ここで意図がわかったら、それもう空気とかじゃなく、心読めてる。なに汐里、おまえ心読まれたいの?」 「……」  お、赤面しましたぞ。  汐里ちゃんはいったいなにを考えているのかな?  性的なことかな? 「……だ、だめ。読んじゃ、だめ」  ほてったほっぺたを手で包んで、気恥ずかしそうに視線を逸らす汐里。全身からなでくりまわしたくなるようなかわいいオーラを発生させていらっしゃる。  えーと……。  このまま部屋に入ったら汐里のこと押し倒す可能性があるな俺。あれだよ。ベッドまで我慢できずに玄関で行為に至る系の。そういう……。  ふぅ。  俺は深呼吸めいたことをしてから言った。 「じゃんけーん」 「え?」 「するんだろ、なんか知らんけど」 「あ、うん。する」 「じゃんけーん」  ぽん。  汐里が負けた。  負けたらどうなるんだろう。罰ゲームかな。俺、触手持ってないからあんまり難しいこと要求されると困るな……。  しかし汐里は、なにがどうということもなく、ふつうに鍵を取り出して、玄関に入っていく。一緒に入ろうとしたら、手で押し止められた。 「え、勝ったほうは外で寝るとかそういうの?」 「じゃなくて。お兄ちゃんはそこに立ってて」 「はあ……」  玄関の向こうとこちら側。  汐里は、両手を後ろで組んで、にっこりと笑って言った。 「おかえりなさい、お兄ちゃん」 「お、おう、ただいま……」 「入る順番を決めたの。勝ったほうは、おかえりなさいって言ってもらえる」  勝っても負けてもどっちでもよかったんだけど。汐里はそう言いながら、少し照れくさそうに笑った。  俺も家のなかに入る。  ドアが閉まる。  じゃんけんで順番を決める子供っぽさとか、同居を始めたばかりのままごと感だとか、どうってことない挨拶をことさらにイベントめいたものにしたがる女子っぽさとか、そういうものがいちどきに俺を襲った。  もう、限界。 「え、お、お兄ちゃん!?」 「悪い。このままじっとしてろ」  羽交い締めにするみたいに、汐里のことを抱きすくめる。 「え、えぇ……。いったいいつから、そういうご気分に……?」 「そう、あれは七年前、俺が高校一年になったときのことだった。時の大帝」 「あ、もういいや」  壮大な物語の幕開けを、汐里が打ち切る。  言葉とは裏腹に、汐里も俺の背中に手を回してきた。その手を上下に動かして、俺の背中をなでさする。 「なんだかなあ……」  くすぐったそうに笑いながら呟く汐里。 「えーと、ママでちゅよ?」 「そういう趣味はない」 「じゃあ……えっと……」  うん。汐里はうなずいてからささやくように言った。 「お兄ちゃん、大好き」 「……」  即死した。
「ふーさっぱりしたー。って、お兄ちゃんなにやってんの?」 「必要なもののリストアップ。もの考えるときは、紙に書かないと落ち着かないんだ」 「ふーん」  風呂から上がってきた汐里をちらりと見ると、バスタオル一枚である。 「早く服着てこいよ」 「はーい」 「あと、あれしまっとけ」 「あれ?」  俺が厳重に隠したはずのコンドームが、いつのまにか玄関のシューズボックスの上に鎮座している。\コンニチワ/ コンドームの声が聞こえる。これはゴム一枚で避妊ができるオカモトの優秀な避妊具だ。穴が開いているものは精子が通ってよく着床する。  コンドームではない声まで聞こえてきた。  ……視界に入るだけで目の毒である。俺はまるで童貞のようだ。  汐里が部屋に入ってしまったあとも、脳裏に白いひざの裏がちらつく。よりによってそこがちらつくのか、などと自分にツッコミを入れつつ作業に戻る。  まずはテーブル。いくらなんでもいまあるものは小さすぎる。それと汐里の部屋に、安いのでかまわないから、デスクとチェア。ベッドは、汐里が必要だといえば、パイプベッドでも買ってくればいい。あとはカラーボックスがいくつかと…… 「お風呂上がりの妹のいいにおいをお届けにあがりましたー」  汐里が背後からぺとっとくっついてくる。  おっぱい。そうだ、俺はリストにおっぱいと書き加えた。 「うわああああ」  レポート用紙を丸めて放り投げた。俺はいまなにを書いた。必要なもののリストにおっぱい入ったぞ。こいつは驚きだ。 「お、お兄ちゃん……?」 「おまえ、なにをする……」  こんなのテロだ。部分軌道爆撃系人工妹一号だ。攻撃されたものはシスコンになる。俺がこんなになってしまったのは、ひょっとしてアストラル界からの攻撃のせい……? 「まとまったの?」 「なにもかもわからなくなった。つーか離れろ」 「はーい」  さようならおっぱい。また会う日まで。 「どれどれー?」  汐里が、放り投げたレポート用紙を拾おうとする。 「それに触れるな! 爆発する!!」 「お兄ちゃん速っ。残像見えたかと思った。いったいなに書いてたの……?」 「世界の創世神話と、七大悪魔のプロフィール、及びその能力についてだ。世界樹は杉でできていて、信じられないほど大量の花粉を撒き散らすため、大いなる災厄、ザ・ビッグディザスターと呼ばれている」  隠しとおすためなら、遅れてきた中二病にもなってやろう。  妹の目が痛い。 「……ドライヤー持ってこい。髪乾かしてやる」 「やた♪」  まあ、どう考えてもそのおねだりに来たのだろう。汐里は自分の部屋にドライヤーを取りに行った。  その隙に、俺は店に持っていくカバンの奥底に、さっきの紙を入れておいた。  実際、見られたところで「なに書いてんのお兄ちゃん」くらいで流されることはわかっているのだが、問題はそのあとだ。「そんなにおっぱいが好きなら挟んであげようか?」とか言われて、顔挟まれるくらいのことは起こりうる。それとも顔ならセーフか? スマホは? 胸の谷間からスマホ出てくるのはセーフなの? もうなにもわからない。  危険は回避するに限る。  と、さっき自発的に妹さんをぎゅーってしちゃったお兄ちゃんは思いました。  俺のほうから自発的にスキンシップを求めることは、絶無ではないにせよ、数えるほどしかなかったはずだ。それが、わずか一日も経たずにこのありさまだ。  いったい、いつまで理性が持つのだろう。
「ふぁ~~~」  まぬけな声を出しつつ、ドライヤーをあてられてる汐里。  いつものことながら、この髪のさらさらっぷりには驚かされる。 「これ、ほんと好き……」  汐里は心地よさのせいか脱力しきっており、頭が左右に揺れるのでやめてほしい。これもうちょい続くと、そのままぽてっと俺に倒れ込んでくるからね。 「お客様、かゆいところはございませんか?」 「お兄ちゃんの足の裏がかゆいです」 「かしこまりましたー、ってなにやらす気だおまえは」 「ふひゃははは」  笑い声も、とことん緩い妹さんである。 「明日、どうするんだ?」 「んー、あしたー?」 「日曜だろ。俺は九時から二十一時までシフト。朝メシくらいは俺が作るけど、昼と夜は自力でどうにかしてもらうしかない」 「あー、そっか。あ、でも明日はいったん家に戻るよ。服とってこないと。だから、うちで食べてくる」 「だったら、実家に泊まってきたほうがいいかもしんねーな」 「なんで!?」  汐里が、ばっと俺を振り返る。 「前向いてろ」 「いだだだ、首いたいお兄ちゃん」  頭をつかまれて、強制的に前を向かされた汐里が抗議の声をあげる。 「……あんま、夜にこのへん一人で歩かせたくないんだよ」 「心配?」 「そりゃあ……」  実際のところ、そうそう事件が起きるわけでもない。ここに四年住んでいるが、たまに怒鳴り合いの声が聞こえてくるくらいで、身の危険というほどのものは感じたことがない。しかし、それとこれとは話が別だ。なにより、汐里が危険な目にあう可能性があると考えただけで、仕事が手につかなそうだ。  一方で、同居を始めて盛り上がっている汐里の心境を考えると、昨日の今日で実家に泊まるってのも、すっきりしないものはあるだろう。 「昼間に帰ってくりゃいいんだろうけど、それだと結局晩メシがなあ……」  食事の問題は、緊急になんとかしなければならない。俺が二十一時より前に帰宅することはほとんどないのだから。  頭のなかで算段を立てていると、汐里がぽんと手を打った。 「あ、そっか。なんだ、私が帰りがけにお兄ちゃんの店に行けばいいんじゃん。家からだとバス一本なんだし。でっかい病院のそばの店だよね」 「あー」  どうだろう。  あんまり職場にプライベートを持ち込みたくないのだが。 「待ち合わせくらいならいいか。残業になりそうなら早めに連絡する。それで行こう」 「うん!」  元気よく頷く汐里。  そう頻繁にあることでもないし、それくらいはいいだろう。 「……」  なんだろう、なにかが引っかかる気がする。  まあ思い出せないのなら、大したことではないのだろう。俺は自分をそう納得させた。
 あとはだらだらできる。汐里は宿題があるらしいが、日曜に済ませるそうだ。  居間にノートパソコンを持ってきて、二人でアニメを見たり、居間用にタブレットがほしいとかそんな話をしたりして、二十三時になった。 「んじゃ、ちょっと早いけど、俺は寝る」 「私も寝よっかな……今日はなんか疲れたし……」  居間の電気を消して、それぞれの部屋に入る。  自分の部屋から顔だけ出した汐里が言う。 「おやすみ」 「ああ、おやすみ」  ぱたん。扉の閉まる音が聞こえた。  おやすみなさい、明日はおはよう。  脈絡なく、そんな言葉が思い浮かぶ。あれはなんのアニメの曲だっただろう。古い、きっと子供のころに見たアニメだ。  電気を消して、ベッドに潜り込む。  眠りが訪れるまでの束の間の時間、なんとなく思う。  そういえば、汐里とは一緒に寝たことがない。出会ったときには汐里はもうそんな年齢ではなかったし、最初から自分たちの部屋があった。両親が再婚するまでの汐里の時間を、俺と汐里は共有していない。 「……」  なんか、アホみたいだ。  兄妹であることに苦悩したくせに、兄妹として欠落があることに違和感を覚える。  矛盾している。 「やめだ、やめ」  考えてもしかたないことは考えない。これからのことを考える。ひとまずは明日のことを。そうしてその次の一週間のことを。  俺は、そう決めて目を閉じた。  汐里の、ひざの裏の映像が浮かんできた。  えぇ……俺どんだけひざの裏に執着あるの……。
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4554433444 · 4 years
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妹さんと同居15
 そろそろ夕方というより夜に近い刻限。 「終わったーーーーっ」  汐里の喜びの声が聞こえてきたので、俺はキッチンのシンクを掃除する手を止めて、汐里の部屋のドアをノックする。 「入るぞー」 「うん」  ドアを開ける。 「……」  すげえ、びっくりするほどなにも終わってねえ。  つーか二十三年生きててここまでひでえ部屋の状態って、数回しか見たことない気がする。なんか、要するに、えーと……箱の中身ぶちまけただけだ。それが部屋一面にどさーっと広がっている。  俺はドアに寄りかかりつつ言った。 「参考までに聞くが、なにが終わったんだ?」 「かたづけが」 「終わってないよな?」  散らかったさまざまなもののせいで居場所がなく、布団の上に座っている汐里が、気まずげに顔をそむけて言う。 「終わったよ」 「なにが?」 「荷物を箱から出すのと……」 「ほう」 「あと、現実逃避のための読書が終わりました……」  汐里の座っているまわりには数冊の本。うわあゴクドーくんだ。まじか。つーか途中からどおりで静かだったわけだよ。 「汐里、おいで」 「……はい。ところでお兄ちゃん、私はこれからなにをされるかわかってるんだけど、だから行きたくないんだけど、そこはあえて素直に行くことで謝罪の意を……」  ぶつくさ言いながら汐里が俺の前に立った。 「頭出せ」 「はい」  とりあえずおしおきである。頭ぐりぐりしてやった。 「いたいいたい、来るってわかっててもいたい!」 「まじめにやれ!」
 汐里の微妙な初手作り料理を食ったあとは、俺は家の掃除、汐里は荷解きということになった。ちなみに俺は掃除については相当の自信がある。社長の方針で、店は徹底的に磨き上げるってのがあって、その過程であらゆる掃除テクニックを身に着けた。ポイントは用具と洗剤の選びかた、あとは隅を重点的にやることなんだが、それはさておき。
 どうにもならない現場を離れて、居間にてお茶である。  俺はコーヒー。汐里にはホットミルク。 「おまえ、家にいたときはちゃんとかたづけてただろ……」 「だって、置く場所が決まってたんだもん。出したらしまうだけで自動的にかたづいてた」 「……」  わかってしまった。  こいつは、かたづけていたのではない。散らかさなかっただけなのだ。  実家の内部のものは、母さんによる強度の支配下に置かれている。例外は俺の部屋と親父の書斎である。つまり、汐里の部屋はあらかじめ母さんによって完成されており、汐里はその完成状態を維持するだけでよかったのである。いわれてみれば本棚なんかもそうで、汐里の部屋の本棚は、いつも本がかならず同じ順序で並んでいた。散らかさないがかたづけられない。そういう人間は存在するらしい。 「でもさ、バリッ、お兄ちゃん、バリッ」  さっき買ってきたごませんべいを盛大にかじりながら汐里が言う。どうでもいいけど牛乳とごませんべいって合うの? 「私にも言い分があるよ。箱から出しても置くところがない」 「あー……」  家具なあ。  てゆうか、それでいえば、このローテーブルだって、二人で毎日食事をするのだとしたら小さい。 「必要なものをリストアップしとかないとだめだな」 「あ、そういえば」  汐里が居間のゴミ箱を漁る。  差し出したのは、親父が作った資料である。そういや読めとか言ってたな……。 「これ。必要なものはだいたい書いてあるって。そのぶんのお金も振り込んであるって言ってた」 「ふーん?」  ぱらぱらとめくる。契約書的なものが長々と続いたあと、最後にリストらしきものがあった。つーかURLが羅列してある。某巨大通販のもので、要するにこれを購入しろってことらしい。 「なんで紙にURL書くんだよ……メールかなんかで送れよ……」  しかも商品名が書いてないので、なにがなんだかわからない。これでは直打ちしか手がない。そんなものが数十も並んでいては、試す気力もわいてこない。なにごとにつけ能率と合理性優先の親父だが、書面にすることに異常なこだわりがある気はする。つーかあの世代のおっさん、けっこうこういうことやりがち。 「来週の金曜まで休みないんだよなあ……」  必要なものは実家から運び込むという手もあるが、いいものを長く使うという両親の方針のせいで、実家の家具はやたら重厚である。いつまで続くかわからない同居のために、そこまでおおごとにするのも考えものだ。 「うーん……」 「あ、お兄ちゃんお兄ちゃん」 「なんだよ」 「いまなんか、ちょっと一緒に暮らしてる感なかった?」 「え、どこで?」 「えーと……来週の予定考えたりとか」 「考えないと始まらないだろ」 「そうなんだけど、そうじゃなくて! えーと……なんか、相談したりとか!」  いまひとつよくわからない。  腰を浮かしてテンション上げかけてる妹さんが、とつぜん叫んだ 「あ、ああっ!」 「なんだよ、急にでけえ声出すなよ」 「私いま、すごいことに気づいちゃった」  なんかろくでもないことしか出てこない予感がするが、 「……いちおー発言を許可します。どうぞ」 「私、今日、帰らなくていいんだよね!」 「お、おう……」 「明日も、明後日も、ここに帰ってきていいんだよね?」 「……まあ。明日は日曜だけどな」 「どうしようお兄ちゃん」  もじもじとわくわくの中間くらいの、なんかこう、やたらなでくりまわしたくなるような雰囲気を発散している汐里が、俺を見る。 「……甘えたくなりました」 「えーと、それは、いま?」 「うん。いま。ナウ」  俺が許可を出す前から汐里がにじり寄ってくる。  いったいどんな脈絡でそういう気分になったのかは知らないが、なんていうのか、こういうのにも呼吸とかタイミングがあって、これは拒めないほうのやつだ。  体の向きをずらすと、汐里が抱きついてきた。  こういうときの汐里の抱きつきかたって、どうやったら最大に表面積が密着するか挑戦してるくらいの勢いがある。べたーっと全身を引っ付けるように体重を預けてくる。もちろん俺の背中に手が回っているので、体中のやわらかいところの弾力がぜんぶわかります的な感じある。 「ううう……」 「便秘か?」 「……お兄ちゃんのアホ」 「アホとはなにか」 「うううう……」  まだ唸ってるこの子……。 「どうしよう……やみつきです……」 「……さようですか」 「さようです……溶けます……」  胸板に顔を押し付けていた汐里が、ふと、顔を離して俺を見上げる。  うわあ……こいつすげえ顔してる……。にへらーって完全に緩みきった笑顔。  お兄ちゃんとくっつけて嬉しいとか、すごい幸せな感じとか、そういうのを隠す気がまったくない、完全に無防備な顔。  ……やばい。  フウウウ……こいつはまずい……下品なことになりそうな感じが……前立腺のあたりに……。  そのときだった。  ぐぎゅるるるー。 「あ、おなか鳴った」 「……」 「お兄ちゃん、おなかすいた」 「そっすか……」  ああうん。とりあえず勃起の危機は回避されました。はい。
「さむっ」  汐里がしがみついてくる。  築五十年のアパートから外に出ると、風が冷たい。  汐里は、Tシャツの上にパーカー一枚である。俺みたいに、気温十五度までは半袖でいけますみたいな人間とは違い、汐里はやや寒がりだ。 「おまえ、上着とかは?」 「……さっそく足りないものが出てきた」 「持ってきてないんだな……」 「だって、いきなりこんな冷え込むなんて思ってなかったんだもん」  秋という季節が年々短くなっているような印象はある。  十八時過ぎとはいえ、この時期だと完全に夜だ。とはいえ、まだ夜の勤めの人たちは多くない。それらの人々が街に増えてくると、一気に治安の悪い雰囲気になってくる。  俺だけならともかく、汐里が一緒となると、あんまり住みやすい街ではない。  社長が言っていた転勤の話を思い出す。アパートは用意してくれるという話だったが、社宅として借り上げるらしいので、敷金礼金の負担は俺にはない。しかし、そう都合のいい場所に引っ越せるわけでもないし、なにより汐里との同居のことを持ち出さないといけない。  悩むところだ。 「なに食べる?」  汐里が聞いてきた。  夜は外食ということになった。兄妹どっちも動き回っていたので、いまからメシを作る気力がない。この時間帯なら選択肢も多い。 「そうだなあ……」 「あ、私、やってみたいことがあったんだ」 「ん?」 「コンビニの中華まん食べくらべ!」 「えぇ……」 「ほら、いこ、お兄ちゃん」  汐里に手を引かれる。  土曜の夜の商店街は、まだまだ人通りが多い。  街灯に石畳、通りにまではみ出したさまざまな立て看板。洋食、蕎麦屋、古本屋、風俗店。人のざわめき。呼び込みの声。そうしたものを眺めながら歩いているうちに、ふと気づいた。  一人暮らしを始めたのは十九歳のときだ。俺は、この街で四年暮らしてい���ことになる。けれど、生活で必要な場所以外は、あまり歩いたことがない。  なんだか知らない街を歩いているような気がした。  雑駁な商店街だ。なにも劇的なことはない。なのに、まるで映画のスクリーンの向こう側に入り込んだような、奇妙に浮ついたような空気を俺は感じていた。  なにが違うのだろう。  なにが俺をそんな気分にさせるのだろう。 「第一目標発見!」  手を引く力が強くなる。  まるで、汐里までが知らない女の子のように見える。
「食べ過ぎた……」 「肉まん四個はやりすぎだろ」  ぐてーっとテーブルに突っ伏す汐里。  ちなみに俺は途中でピザまんとかに逃げた。それでも四個はけっこう来る。三大チェーンだけならともかく、このへんコンビニの密集地なんで、ミニストップもあったからね。  けっこう歩いたし、コンビニの中華まんだけで食事が終了というのもなんなので、喫茶店に入った。 「ご注文は?」  かなりご高齢のマスターがテーブルに来る。  家からは徒歩一分。本来は土日が稼ぎどきの店だったはずだが、この寒さのせいか、店内は空いていた。まあ食事どきだということもあるかもしれない。 「俺はブレンドで。汐里は?」 「う、うう……こういうとこ来たことないからよくわかんない……」  メニューを手に取るが、逆さだと気づいてあわてて逆にする。 「なに……がてまら? もたまかり?」  言えてない。  俺はマスターに言った。 「JKになんかおすすめのやつは?」 「キャラメルクッキーバーフラペチーノ」 「あるの!?」 「ないよ」  真顔でなに言ってんだこのじーさん。 「カフェオーレでいいかな?」 「じゃあそれで」  黙礼して立ち去るマスター。  汐里は、その背中を目線で見送りつつ、上半身を起こして店内を眺め回す。 「なんか喫茶店って感じ……」  なにしろ看板には「純喫茶」と銘打ってあるくらいだ。こんな古風な喫茶店が成立するのは、土地柄だろう。ここは繁華街ではあるが、同時に古い商店街でもあり、住人には年寄りがわりと多い。夜勤明けの午前中に来たりすると、近隣の常連とおぼしきじーさんたちがよくスポーツ新聞とか読んでる。 「よく来るの?」 「わりと。まあマスターと顔見知りになるくらいには」 「ふーん」  天井近くにはJBLのどでかいスピーカーが設置してあり、店内にはジャズが流れている。店の片隅には棚があって、大量のLPレコードが置いてある。リクエストすると流してくれるらしいが、ジャズの素養はまったくないのでよくわからない。  しばらくすると、マスターがコーヒーを持ってきた。 「はい、お嬢さんはカフェオーレね」 「ありがとーございます」  俺の前にもブレンドを置くマスターだったが、なんとなく目線に意味がありげである。 「妹ですよ」 「なるほど」  マスターは頷いて立ち去る。  別に教える必要もなかったのだが、今後も来ることがあるかもしれない。  お嬢さんだってお嬢さん、などと俺にテンション高く囁きかける汐里の目は、カップに移動する。 「なんか高そうなカップ……」  華奢で繊細な作りのコーヒーカップをおそるおそる持って、口に運ぶ汐里。  ひとくち飲んだ瞬間、目が驚きに見開かれる。 「おいしい……! なにこれ! お兄ちゃん、すっごくおいしい」 「だろ」  俺もコーヒーをひとくち。  俺はさほどコーヒーにこだわりがあるわけではない。単に好きなだけだ。それでも水準を越えておいしいものは、いやおうなしにわかってしまう。入りづらい外見の店に、近所だからとりあえず、という理由で最初に入ったときのことを思い出す。近所においしい喫茶店があるって、けっこう素晴らしいことだと思う。 「なんか、今日はいろんなことがあったな……」  汐里が、ほわーっとため息らしきものをつきつつ言う。 「買いものして、料理して、かたづけして……」 「かたづいてない」 「明日から本気出す」  絶対にやらないやつだ。 「一緒に暮らしてるっていう実感、出てきたか?」 「んー、どうだろ……」  ちょっと考え込む様子を見せるが、やがて、表情が緩んでくる。体のなかに蓄積したなにかが、勝手にこぼれおちてくるように、控えめな笑顔になる。 「なんだよ」 「ん、なんか、いいなあって」 「そっか」 「うん」  軽快なピアノとサックスのかすれた音が掛け合いを演じるジャズが流れる店内で、時間はゆっくり流れていく。  まあ、こんな時間は、悪くはない。つい長居をしたくなるくらいには。
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妹さんと同居14
 てなわけで、さっそく昼食のための買い物である。  なし崩し的に同居となってはたまらないので、いろいろ言ったりしたのだが、いざ出かけるとなると、同居感とかまったく皆無である。汐里とこうして出かけることじたいはよくあることだし、そもそも一緒にメシを作ったりなんてのもやったことがないわけじゃない。  どのへんで実感とか湧くんだろう。やはりラッキースケベの降臨をもって実感と為すのであろうか。ちなみにあれ、リアルで起きると気まずいだけだからな。店の便所のドアなにげなく開けたら、六十歳の女性の現場に出くわしてしまった俺の貴重な経験談だ。参考にしてほしい。なんか、ゴミ出し当番の汐里がゴミを出し忘れて、室内に生ゴミの異臭がただようとか、そういうどうしようもないあたりで実感するような気がしてしょうがない。
 土曜の商店街はなかなかに人出が多い。もっともそのほとんどは観光客である。  汐里はこのあいだユニクロで買った服をそのまま着ており、俺は……まあ、どうでもいいな。普段着だ。 「はーいでは今日はソムタムとガイヤーンを作ろうと思いまーす」 「……なんだって?」 「ソムタムとガイヤーン」 「なにその秋山ジョージの初期作品のタイトルみたいなやつ」  なんかそういうのありそうじゃんね。 「知らないの? タイ東北部、イサーン地方の郷土料理だよ」 「ネタにしてもなんとなくで思いつくような代物しゃねえだろそれ……」  出かける前に熱心に調べてたのがそんなことだったのか。もうちょっとまともなこと調べろよ。「裸エプロン お兄ちゃん 喜ぶ」で検索! 違法アップロードサイト以外なにも出てこない気がするが。個人的には制服下だけ着けてて上半身裸とかすごい来るんですけど。  しかしまあ、せっかく汐里が振ったネタなので、相手はしてやる。 「で、どんな食材を使うんだ」 「えーと、ちょっと待ってね」  スマホを操作する汐里。 「鶏がまるごと一羽」  こんこん。汐里の頭をノックしてみた。妹が頭がからっぽだといろいろ困るので。 「AFK」 「ねえ、おまえそういうネタどこで拾ってくるの?」 「うーんイサーン料理はだめかあ」  答えろよ。怖いだろ。なんでスルーするの。 「つーか、実際おまえどれくらい料理できんの」  汐里じしんが食事の準備をしていたのはもちろん、手伝いで台所に立っていた姿すら見たことがないような気がする。 「ごはんが炊けるよ」 「……」 「……ごはんが、炊けます」  微妙に視線を逸らす汐里。  どうしよう。ごはんだけでも炊けるという事実を褒めるべきか。それとも……。  俺は話を逸らすことを選んだ。 「包丁は使えるのか?」 「お兄ちゃんどいてそいつ」 「もういい。おまえしゃべるな」  待ってましたと言わんばかりの超反応しやがった。人の気遣いを返せよ。  前途多難である。  まあこいつ本体はもともと器用なほうだし、学力が高いやつ特有の覚えのよさもある。簡単なものならさほど時間もかけずに覚えられるだろう。  信号に引っかかった。横断歩道の向こうが目的地のスーパーである。 「むー」 「なんだよ」 「むむむ、むーーむ、むー」 「……」  ああ。しゃべるなって言われたから。しゃべれない設定なのね。 「むー……ぶふっ」  ほっぺたふくらんでたので、指で押したら空気漏れた。  完全なる不意打ちだったのか、きょとんとした顔をしている汐里。 「ぶふっ、だってさ」 「……」 「やーい汐里から変な音出たー」 「……うー」  ぺしっ。手のひらで額を叩かれた。 「なにをする」  ぺしぺしぺしっ。追撃が来た。  タイミングを狙いすまして、叩きに来た手を掴む。 「むっ」  腕を引き抜こうとしてじたばたする汐里だったが、そこで、ぴぽっ、ぴぽっという音がした。信号が青になったので、おとなしく汐里の手を離して渡る。 「……あのさお兄ちゃん」 「なんだ」 「すごく言いづらいんだけど……」 「だからなんだよ」 「お兄ちゃん、私が子供っぽいことすると、かなり喜ぶ傾向、ない……?」 「なにを根拠に」 「私の頭をなでてる手」 「……」  汐里は、んんっと咳払いのようなことをしてから、 「なお容疑者は、犯罪という意識はなかった。妹がかわいすぎて魔が差したなどと供述しておりいたいいたい、頭つかまないでお兄ちゃん、中身出ちゃう」 「信号が青になりました。ごはんしか炊けない妹はおとなしくお兄ちゃんになでられましょう」 「いいよ? なでられるもん。なでられるの好きだし」  腕を絡めてきて、ほれほれといわんばかりに頭を手のひらに押し付けてくる汐里。新しいタイプの当ててんのよである。もちろん本家のほうも当たっているわけだが。  つーか人はいつになったらこの感触に慣れるのでしょう……。
 えー、大変にお恥ずかしい感じでスーパーに入りました。さすがに腕組んだ状態のままスーパーで買いものしてたら、今晩は子作りですねがんばってください的な感じになってしまうので、離れる。 「で、結局なに作るんだよ」 「んー、無難にパスタ? ソースは出来合いのやつを買って、野菜切って入れるだけって感じ。はじめてだから、そんな感じかなって。野菜がほしいから、袋のカットされたやつでも買って……」  うわーソツがねえ……。いっそかわいげがないくらいソツがねえ……。 「んーと……」  カゴを俺に持たせて、スマホを片手に売場を歩く汐里。 「あったあった。えーと、しょうゆ&ペッパー。だいたいのレシピも書いてある……。うん、これで。お兄ちゃん、パスタの買い置きってある?」 「あるぞ」 「じゃ、あとはほうれん草とベーコンくらいでいいのかな」 「ベーコンもある」 「ほんと? えーと、予算は?」 「俺は一日二千円くらいで考えてるけど、これはかなり使ってるほうだと思う」  仕事の時間が不規則なうえに、男の一人暮らしだ。圧倒的に外食が多い。もうこのへんは、楽をするための必要経費だと割り切っている。あと汐里にメシをおごるぶんが地味にでかい……。  それにしてもあれね。この子賢いよね。  料理なんかまともにしたこともないのに、日々の食事ってのは食材の連鎖であるってことをあらかじめ理解してるし、なにも言われないうちから予算の概念がある。学生のバイトを多く使う仕事をしていると、そういう些細な行動から「仕事ができるかどうか」を考える癖みたいなのがついてしまう。  さっき家ではあんな言いかたをしたが、仕込んだら��事はまともにできる気がする。 「私、スーパーってほとんど来ない」 「そりゃそうだろうな」  別になにを買うというわけでもなく、売場を順繰りに回る。 「お菓子、買っていい?」 「買いすぎなきゃな」 「じゃ、これ」  ごませんべい入りましたー。  渋いなあ。  ほかにも、洗剤やら文房具やら、ああでもないこうでもないと言いながら見て回るのはけっこう楽しい。  三〇分くらいかけて、売場を一周してから会計。 「あ、袋詰やりたい」 「任せた」  俺がやると爆速で終わるからな。毎日数百回やってるし……。
 そんでアパート前。 「ここで暮らしている俺からいわせると」 「うん」 「用事が済んでから、階段を五階まで上がるのが絶妙にだるい」 「うん……」  実際だるいのである。古いリノベ物件で、エレベーターなしの五階とかかなり家賃が安い例があるけど、あんまり簡単に飛びつかないほうがいいよ。覚悟して借りた俺でもだるいからね。経験上、三階までは慣れるんだけど、五階とか慣れないから。本気で。  帰宅するなり、荷物を放り出して床にべたーっと寝転がる汐里。 「買ったものはすぐに冷蔵庫に入れないと、あとで後悔するぞ。夏とかな」  今日のところは俺が片付けることにする。菓子とか俺一人だとほとんど置かないから、場所決めとかないとなあ。  えーと、ほうれん草が一束、袋入りのカットレタス、冷凍するつもりで買ってきた豚バラのジャンボパック、粉末タイプのコーンスープの素、それと牛乳、あとは極薄のコンドーム。 「……」  なにかいま、とても違和感のあるものが混入してなかったか。  俺、お菓子とまちがえて買っちゃったかな。  んなわけねえだろ。 「おい汐里」 「なにー」 「これはどういうことだ」 「あそれ? 必要になるかと思って」  ねえ、この子なんで照れもせずにこういうこと言うの? お兄ちゃん、この子の羞恥心の基準よくわかんないんだけど。 「絶対に必要になりません」 「え、お兄ちゃん、まさか、なかだ」 「誤チェストーーーーッッッ!!!」  なんでもいいから叫んでおかないと、妹に致命的なセリフを言わせてしまう。危ないところだった。なんでこんな叫びが最初に出るんだ俺。 「返してきなさい」 「え、やだよ。絶対にやだ」  だろうね。俺だっていやだよ。 「じゃあ俺が返してくる」 「え、ちょっと待ってよ。それ私が、こんなこともあろうかとって言いながら取り出そうと思ってたのに」  いざ盛り上がって、兄妹なのに、でも、とか切羽つまった空気になったときに、ドヤ顔で汐里が「こんなこともあろうかと」ってコンドーム取り出す。  死ぬほど萎えそう。その後に続くのは、がんばれ♥がんばれ♥だろうか。俺あのシチュあんま趣味じゃないんだよなあ。  食材をかたづけた俺は、盛大なため息をつきつつ、床にどっかりと座り込む。 「座れ」 「……」  不満顔で俺と向き合って座る汐里。 「おまえ、わかってんのか? 仮にこれを使うような行為をしようとしたとして、もう止める人も、止める建前も、なにもなくなってんだぞ?」  正確には母さんには「高校卒業までは我慢しろ」と釘を刺されているが、それを言うと話がこじれるので、黙っておく。 「別に、いいじゃん……止められないなら。……悪いことじゃないってことだよね?」  あ、こいつわかってない。  いや、俺だって童貞だ。わかっているはずがない。けど、俺は男だけに明確な性欲がある。少なくとも汐里を相手にそういうことをする可能性について考えたことは日課まちがえた絶無ではない。てゆうか汐里もそうだったらどうしよう。性欲強かったらどうしよう。「妹の性欲」ってタイトルつくと、なんかエロ小説みてえだな。駅の売店とかで売ってる濃いめのやつ。  どこから、どう説明したものだろう。  一線を越えるということは、決定的に関係が変質してしまうということ。俺たちは血のつながりがないから、法律上は結婚することに支障はない。親の反対もない。性行為だけなら、そもそも俺たちを縛るものはなにもない。けれど、世間に対して胸を張って言えることでもない。むしろ隠さなければならないことに属するだろう。  それは、嘘をつきつづけるということだ。  たぶん汐里は、その後ろ暗さを理解していない。 「とにかく、だめなもんはだめだ」 「……じゃあいい。飾っとく」 「おいやめろ」 「中身見ていい?」 「もう勘弁してくれ……」  いまの汐里は、浮かれている。いずれ、こういうこともきっちりと説明しておかなければならないんだろう。  ……そのときまで俺の理性がもてばいいんだけど。
 てなわけで。  汐里がガスコンロの火をつけられない、葉物は洗わなければならないことを知らなかった、などのトラブルはあったものの、なんとか料理は終えた。今日の昼食は、ほぼ汐里が一人で作ったといえる。 「なんか味がうすい……」 「だな」  具材を入れると味が薄まる。そのぶんが計算に入っていなかったわけだ。逆にいうと、この程度のパスタではそれくらいしか失敗要因がない。 「おいしくない」 「母さんの料理と比較するなよ? あれは家庭の主婦としては最上級の腕だぞ」 「どうやったらうまくなるの、料理」  ぶすっとした顔で呟く汐里。 「慣れだろ」 「もう料理やだ」  驚愕の諦めの早さ。  汐里は器用だ。そして頭の回転が速い。新しく始めたことは、だいたいなんでも人並み以上にできる。その裏返しがこれだ。うまくできないことは、すぐいやになる。 「一緒に暮らすんだろ」  テーブル越しに、頭をぽんと叩いてやる。 「ごまかされないもん」 「避けて通れないだろ」 「それは、そうだけど……」  ぶつぶつと呟く汐里 「私の予定では、はじめて作るのにけっこううまくできて、それで、お兄ちゃんがおいしいって言ってくれるはずだったんだもん」 「……なに言ってんだか。ほら、食うぞ。せっかく作ったんだ。残すなよ」 「ん……」  もそもそと、パスタを食う汐里。  その姿を眺めつつ、俺は不意に思い出した。 「そういやさ、さっき家に入ったのって、俺が先だったよな」 「……だと思うけど。鍵開けたのお兄ちゃんだし。それがなに?」 「いや、言ってなかったと思って」  いままで、ここは俺だけの家だった。だから俺はこの言葉を言う機会がなかった。 「おかえり、汐里」 「……」  汐里は、フォークを持ったまま、少し驚いたような顔をしている。その表情が、徐々に崩れていって、ゆるんだ笑顔になる。  そして、汐里もはじめての言葉を言った。 「ただいま、お兄ちゃん」
 このあと、何十回か、何百回かわからないけれど、何度も繰り返されるだろう、その最初のやりとりを俺たちはしたのだった。
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妹さんと同居13
 なんとなく目が覚めた。時間は午前十一時。  即座に寝直すことを決意する。  今日は寝る。寝るのだ。なぜなら今日も休みだからだ。  経験からいえることがある。人間死ぬほど寝れば、たいていのことはどうでもよくなる。なにも解決しないが、だるすぎてどうでもよくなる。どうかすると生きてることじたいがどうでもよくなってくるが、すべてがどうでもよくなるという意味では、悩みはそのなかに埋もれてしまうともいえる。俺は疲れた。本当に疲れたんだ。惰眠くらい許してくれ。今日も休みなんだ。  というわけで、布団のなかに潜り込んだ。  ぴんぽーん。  インターホンがまぬけな音を立てる。  無視だ無視。十月のエロゲフライデー分なら、すでに昨日受け取った。ほかに配送の予定はない。  ぴんぽーん。 「……」  ぴんぽーん。 「……うるせえ!」  新聞か宗教の勧誘か。くそ、全裸で出てやろうか。なんなら勃起した状態で出てやる。「こんちわー◯◯新聞ですー」「ところが弊社、勃起中である。ズッバーン!」 驚くかな。驚くだろうな。もう二度と来ないだろうな。かわりにおまわりさん来るかな。勃起現行犯とかで逮捕されるかな。 「……くっそ」  布団を抜け出し、寝間着がわりのTシャツとトランクス一丁の姿のままどたどたと大股で居間を横断し、相手の確認もせずにドアを開ける。 「はいどなたー」 「……来ちゃった」  なんか、制服姿の美少女いる。  手に持った重そうなバッグは、通称、家出バッグとも呼ばれるでかいやつである。 「……」  すー。  俺は無言でドアを閉めた。  ぴんぽーん。ぴんぽーん。 「ちょっとお兄ちゃん、なんで閉めるの!?」  ドアの向こうから声がする。  ……待て。なんだこの状況は。  冷静になれ。状況を整理しよう。昨日、母親が汐里との同居を強制するようなことを言っていた。とうぜん俺はそれに対する明確な回答はまだしていない。そしていま、汐里がなんか大量の荷物を抱えてドアの外にいる。 「……」  まったく、つながってない。  ねえ、これなんか、俺の意志とかまったく無関係になんかが進行してない? 関係者の思惑のなかで、俺の意志だけどこにも存在してない展開っぽくない?  ……まあどっちにしろ、来てしまったものを放置しておくわけにもいかない。  俺は、頭をがしがしかきつつ、ドアを開けた。 「おはよう貴大くん」 「まだ寝ていたのか、貴大」  なんか増えてる!  汐里の後ろにダンボール持った親父と母さんいる!!  俺は再びドアを閉めた。今度はかなり乱暴に。可及的速やかに。なんなら鍵もかけた。そのままドアに背中を預けて、ずるずるとしゃがみ込む。すげえ。ドキドキしてきた。俺、いま窮地に立ってる。  んで、鍵が開いて、ドアが開かれた。俺は転がった。  うんそうだよね。汐里、合鍵持ってるよね。そうなるよね。 「汐里ちゃん、荷物はどこだ」 「んーとね、右側のドアのほう。そこが私の部屋だから」 「諒解した」  玄関から外廊下に転がり出た俺を避けつつ、親父が勝手にずかずかと上がり込む。  なにこれ。なにがどうなってんだ!
 呆然としているうちに、荷物の運び込みが完了した。ダンボールにして五箱分ほど。 「それじゃ貴大、詳細はこちらの資料を確認してくれ」 「貴大くん、あとはよろしくねー」  かなり分厚い紙の束と、汐里の荷物と、汐里本体を残したまま、両親は去った。つーかまた資料かよ……。この分厚さ、避妊のしかたとか解説してたりしねえだろうな……。外出しでは確実に避妊できないとか親父が真顔でタイピングしてるの想像したら、なんか泣きたくなってきた。  ……もう、止めても無駄なのはわかってた。押し問答になったら俺が負ける。もうこの場はノーガードでやり過ごして、事後対応でどうにかするしかない。それが俺の判断だった。  んで現在、居間にはちょこんと正座した制服姿の汐里がいる。 「えーと……」  どこからなにをどう確認したら。  とりあえずスリーサイズでも聞いてみようかな。 「汐里、スリーサイズは?」 「上から、八八、五六、八三だよ」 「そんな冗談みてえな体型あるわけないだろ! グラビアアイドルのウエスト六十以��はすべて幻想だとだれかが言ってた!」 「じゃあ測ってみればいいじゃん!」  なにそのお誘い。ちょっと楽しげ。計測中にまちがっておへそに指入ったりするよね。ウエストしか計測しないの、逆に変態度高い。  いや、しかしだ。 「いまはおまえの体型の話はいいんだ」 「なぜ聞いた……なぜ聞いたお兄ちゃん……」 「答えると思ってなかった。ちなみに体重は?」 「九十五キロ」 「比重でけえなあおまえ」 「じゃあグラム四十九円」  あ、怒ってらっしゃる。しかも微妙に前のこと根に持ってる。  ふー。息など吐いてから、汐里はローテーブルの上の書類を目線で示す。 「とりあえずそれ読めって、お父さんが」  なんか見るだけでも疲れる予感のするブツである。 「……」  汐里を横目で見ながら、紙を取り上げる。  第一ページ目。  汐里の生活にかかる諸経費の試算表と、その試算に基づいた仕送り額。及び振込先の口座番号や振込日。 「うああ……」  頭抱えた。  ガチだ。これ完全にガチなやつだ。  その次のページの「本契約は、本永貴大(以下甲と称する)」の文面がちらりと見えた時点で、俺は書類を投げ捨てた。  直接聞いたほうが早い。 「つまり、どういうことだ」 「……昨日、お兄ちゃんが帰ったあと、お父さんとお母さんと話をして」 「ほう」 「引っ越すことが決まりました。てへ」 「てへじゃねえ! なんだよその異常な速度感は!」 「荷造り大変だったよー」  そりゃそうだろうな……。 「つーかさ」  俺は汐里と微妙な距離を置いて、座り込んだ。 「おまえはそれでいいのかよ」  たぶん、現実的な、たとえば金銭面だとか、学校の許可とか、そういう部分については、親父の分厚い資料のなかになんか書いてあると思う。そういう意味では異常なくらいに気が回る人間だ。で、親父が現状を許可したということは、たぶん「世間的な」問題は回避できるという判断を下したのだと思う。 「別に、いままでだって、一緒に暮らしてたようなもんじゃん」 「ばーか」 「バカとはなにかバカとは」 「ぜんぜんちげーよ」 「どこが?」 「洗濯、料理、掃除、ゴミ出し。たとえばおまえが着てるその制服だって、クリーニングは自分で出さなきゃなんねーんだぞ? 母さん専業主婦だからな、そのへん、たぶんふつうの親よりも面倒みてくれてる。そんで、俺は仕事でいっぱいいっぱいだ。母さんのかわりはできない」  幸いなことに、近所の目は気にする必要がない。場所が場所だけに、周囲のほうがわけがわからない。階下の部屋からベトナム人が十五人くらいぞろぞろ出てきたときはなにごとかと思ったよね。 「そんなの、自分でやるし……」 「生活時間帯の食い違いもでかい。俺は、汐里が寝てから帰宅するようなことはザラだ。そういうとき、夕食はおまえ一人で食うことになる。毎回外食とかコンビニ飯ってわけにもいかない。自分で作って自分で食う。おまえ、料理そんなに得意だったか?」 「それは、これから練習するもん」 「その練習ってのは、今日、この瞬間から始まる。なにしろ腹は減るからな。猶予ゼロだ」 「……」  汐里が、じとーっと俺を睨んでくる。 「……お兄ちゃんはさ、そんなに私と暮らすのがいやなわけ?」 「いやとかいいとか言ってない。もし一緒に暮らすなら、おまえがこれから直面する現実の話をしてる」  ……しまった。  少しだけ、両親が、汐里と俺の同居を許可した理由がわかってしまった。  というより、理由のごく一部、程度かもしれない。  汐里は、決して生活無能力者というわけではないが、手伝いをするというほどでもない。中高一貫の超がつく進学校に通っていることもあって、勉強さえしていれば許されていた部分はある。  対するに、俺は自分のことは自分でやるタイプだ。基本的に生活環境の乱れはあまり許せない。これは性格の問題だと思う。  その二人を、同じ生活空間に放り込むとどうなるか。  こうなるわけよ。  たぶん、実際に一緒に暮らしたら、こんなもんじゃ済まない。衝突する可能性もある。 「……あんなにぎゅーってしたくせに」 「……」 「もう汐里を手放さない、ずっと一緒にいようって言ったくせに」 「それは言ってない」 「言ったも同然でしょ! あんな、あんな……」  おいやめろ汐里。  妙なことを思い出させるな。いやまじで。 「……」 「……」  気まずい。  死ぬほど気まずい。  ここには、お兄ちゃんなら全部オッケーと断言してしまった妹さんと、そんな妹さんを抱きしめてしまったお兄ちゃんがいます。二人きりです。  えーと……。  汐里が、ちょっと熱っぽいような顔で、ささやくように聞いてくる。 「……お兄ちゃん、いまなに考えてるの」 「来月の店の経費予算」 「それ、絶対に嘘だよね……」  なんといったらよいのだろう、モードみたいなもんがあるのだ。少なくとも七年は兄妹をやってきた。だから、ふつうに接している限りは、あんがいふつうに兄妹なんである。問題は、それが崩れる一瞬があるということだ。 「……汐里? なんで近づく?」  四つん這いで近づいてくる汐里。 「お兄ちゃんに近づくのに、理由が必要?」 「理由は……別にいらないけど……」  やばい。  これは、全部オッケーな妹。  そう思ってしまったら、すべてが終わる。  たとえば、俺に汐里のあまり大きくない口に指をつっこんでもいい。うなじのにおいとかさんざんかいでもいい。背中に手つっこんで素肌をなでなでしてもいい。なんなら素早く汐里の後方に回り込み、制服のスカートをめくりあげ、ぱんつに顔突っ込んでも拒まれない。いや、たぶん拒むなそれ。  汐里がくっついてきたら、俺はその汐里になにをぶちまけてもいい。  なにをしてもいい。  どくんと、体中の動脈に一度に血液が送り込まれたような錯覚を覚えた俺は…… 「てやっ」 「あた」  汐里の額にチョップした。 「むーー」  たいそう不満げな顔で、汐里が俺を見る。 「むーじゃねえ。座れ」 「はーい」 「だれが俺の膝の上に座れと言った」 「お兄ちゃんの本能が、私の脳内に直接そう命令……」 「やめなさい」  なんとかどかそうと、汐里を押す。 「きゃーーお兄ちゃんが私のおしりさわったーー」  やかましい揉むぞ。やわらかいなあこんちくしょう! この細身な体のどこにこのみっしりとした充実感が。俺の本能が直接語りかけたら、汐里の脳、キャパオーバーでねじ切れるぞ。揉むよりむしろ座られたい。座られたいと思うのです。どうでもいいけど空から女の子が落ちてきて、尻から顔面にヒットするやつ、あれ首の骨一撃だよね。親方! 女の子が空からハプニング顔騎! なんの話だ。  なんとか汐里を押し切って、膝の上から排除した。 「いいじゃんこれくらい……。だれもいないんだし……」  それが問題なんだよ! 超絶エクセレントデリシャスアウトレイジャス大問題なんだよ!! 「いいか汐里、よく聞け」 「つーん」 「おい聞け」 「つんつーん」  ぷいっと斜め上を向く汐里。ああもうこいつあざといなあかわいいなあ。あざといことやっても許されるっていうこの自意識がかわいいなあ。俺めんどくさいなあ! 「いいから聞けよまじで」 「……なにさ」  微妙にふてくされた顔のまま、答える汐里。 「こういうの含めて、やばいんだよ。ぶっちゃけていえば、理性が持つかどうかわからない」 「理性……?」  ぽかんとした顔で呟く汐里だったが、やがて 「り、りせっ!?」  意味を理解したらしい。にわかに、わたわたしはじめた。お兄ちゃんが、理性を、まるで、野獣のように、などと矢継ぎ早に呟くが、やがて、だんだん落ち着いてきて、うつむいて、もごもごと言った。 「やばくてもいいじゃん……。それはその、しょうがないことなんだし、私は別に、その……お兄ちゃんなら……」 「汐里」 「な、なに?」 「それ、言うな」 「言っちゃ、だめなんだ……」 「……」  いま、この空間に、七歳という絶対的な年齢差が顕現している。  兄妹ならば、特に問題のない年齢差。  しかし、そうでないものになるとしたら、決して無視はできない年齢差でもある。  俺は、立ち上がりつつ、すっかりしゅんとなった汐里の頭にぽんと手を置く。 「お兄ちゃん……?」 「ちょっと待ってろ」  自分の部屋に行って、スマホを取ってくる。そのまま玄関の外に出た。
 電話の相手は親父だ。寄り道せずに帰ったのなら、そろそろ自宅に着くころだろう。 『貴大か、どうした』  案の定、親父はすぐに出た。  親父が相手のときは、前置きとかそういう余計なものはいらない。いきなり本題でいい。 「やっぱ同居とか無理だ。ありえない」 『なぜだ』 「現実的じゃない。生活が成立しない。続かない」  さすがにそれ以外の本音の部分は言えない。たとえバレてるんだとしても。 『おまえ、あの書類を読んでないな?』 「さっきのいまだぞ。つーか二ページ目で挫折した」 『ならあとでちゃんと読め。第十二条三項にこうある。同居の解消については、甲または乙のいずれかの申し出により成立する。両者の合意は不要』 「つまり、やるだけやって無理だったら、やめていいってことか」 『そのとおりだ』 「それ、やる意味あんのか?」 『逆に問おう。やらない意味はあるのか?』 「意味はなくても妥当性はあるよな。つーか息子に悪魔の証明しかけんなよ……」 『……』  珍しいことに、親父が沈黙した。  無理筋だということは理解しているらしい。 「ひとつだけ聞きたい」 『なんだ』 「やっぱ、親父の前では、汐里は無理してるか?」 『……させている。そう、思う』 「そっか。わかった」 『頼む、貴大。……あ、早百合さんなにをする。だめだ。いまは、ああっ』  おいなにやってんだ、電話の向こう。 『やめて……早百合さん……息子が聞いてる……』  無言で電話を切った。  スマホ叩き割りたいなあ。もうすでに昨日の夜に落として液晶ばっきばきだけどなー。  
 電話は終わった。なにあれ。  とはいえだ。  理由はさまざまだろう。さっそく夫婦よろしくやってるようなので、それだって本当に理由の一部なのかもしれない。  結局は、だれが、なにを我慢するかということだ。  すべてがうまく行くことなんてない。 「……お兄ちゃん?」  部屋に戻ると、汐里が、俺を不安そうに見上げる。  電話をしてきたことはバレているに決まっているし、相手の想像もつきそうなものだ。となれば、内容も想像がつくというのが道理だ。汐里はこう想像しているに違いない。親父相手に、同居の解消を申し出たのだと。  まあ、あってる。  俺は汐里の前にどっかりと座り込んだ。 「あの……」  こんなときになんだが、不安げに俺の様子を窺う汐里がかわいい。  もうちょっとつついたら泣いちゃうんじゃないか。そんな汐里見てると、めっちゃ撫でくりまわしたくなる。  一事が万事、この調子なのだ。正直、自分がまったく信用できない。けれど、いやなら同居をやめていいというお墨付きまでもらっているのだ。 「とりあえず、昼飯からだな」 「……?」 「練習だよ。今日は俺休みだからな。一緒にメシつくろう」 「お兄ちゃん!」  汐里が抱きついてきた。  この、しょげてる状態からの抱きつき、かなり効きます。  汐里は、まるでにおいつけでもするように、俺の胸板あたりに顔をぐりぐりと押し付けながら、もう一度言った。 「お兄ちゃん!」 「汐里!」 「結局デレるなら最初からオッケーしとけばいいのに!」 「クソやかましい」 「いたいいたい、ぐりぐりするのやめて!」  まあ、とりあえずやってみよう。  なにがどうなるかはわからないけれど。
「ところで汐里、なんで制服なんだ、土曜なのに」 「いちばん荷物になるのが制服だったから、着てきた」 「あー、そういう……」  納得した。
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4554433444 · 4 years
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妹さんと同居12
 時間はあった。  俺なりに考えた。  しかし、それらのすべては徒労に終わった。  話し合いを終えた二十一時過ぎ。冷たい雨がじとじとと降る実家の玄関前で、俺は顔を覆って、呆然と立ち尽くしていた。  口から出てくる言葉といえば、たったひとつ。 「なんでこうなった……」
「えーと、この生シューと、そんでイチゴショート、それとモンブランと……」  雨ということもあって、人通りも少ない商店街。汐里からもそこそこご好評をいただいていたケーキ屋で、俺は註文をしている。一人あたり二つとして、六個も買えば充分だろう。  時刻は十七時半。雨だし、仕事ではないから原付ではないが、実家には余裕を持ってつける時間だ。 「そんで、あとこのイチゴのミルフィーユも。以上です」  最後に汐里の好きなケーキを思い出して、汐里のぶんだけ三個にするあたり、俺もたいがいである。 「お時間はどれほどかかりますか?」 「一時間くらいです」 「かしこまりました」  店員さんと会話をしつつ俺は考える。  優先順位その一。  汐里が傷つかないこと。  これが最優先事項だ。  大前提として、俺と汐里はまともな兄妹に戻らなければならない。これは家族である以上、覆らない。その前提において、最大限汐里が傷つかないような結果になること。これは両親の利害とも合致するだろう。 「ありがとうございましたー」  女性の店員さんの爽やかな挨拶に送られて店を出る。  もう外は暗い。  さてどうしたもんか。移動を開始するには早すぎる。  軒先でぼんやりしていた俺の前を、制服姿のカップルが相合い傘で通過していく。 「……」  なぜ、と思ったことがなかったといったら、嘘になる。  なぜ兄妹というかたちで出会ったのだろう。  しかしその疑問は、あたりまえのように反論を連れてくる。そもそもああいうかたちでなければ出会うこともなかった。だいたい汐里みたいなきれいな子を前にして俺になにができよう。それはそれとして制服カップルは妬ましいなあ。雨すらも世界から二人を隔絶するやさしいカーテンですか。人糞踏んで転べ。特に男のほう。  ……落ち着こう。 「コーヒーでも飲んでくか」
 赤い看板でおなじみのお安いチェーン店に入る。  頼むのはエスプレッソである。  店内の混雑ぶりはふだんと変わらない。この店は場所がいい。雨の日は客数が上がるとかそういうデータあるのかな。仕事柄こういうことはよく考えてしまう。 「さて」  優先順位その二だ。  家族に後腐れを残さないこと。  これは一番目とややかぶるが、少し違う。  単純にいうと、俺が汐里と今後会わなければ、問題の大半は解決する。が、それでは家族に重大なしこりを残す。俺もまた家族の一員だからだ。一人だけを切り捨てて安穏としていられるような人たちでもないし、なにより汐里が救われない。  だから、まともな家族に戻るためのロードマップをしっかりと提示しなければならない。  考えごとをするときに、メモを取るのは俺の癖だ。いまもテーブルの上にはコクヨの野帳がある。縦にして使うのが俺の流儀だが「汐里を傷つけてはならない」とか書いてあるメモ、素に返って見直すと、ほとんど黒歴史の生成現場である。マインドマップってあれか? 俺の心の地図? 僕の心の県庁所在地は横浜じゃない、汐里なんだ。  うん。だめだな。  死のう。
 雨になるとバス停は混雑する。  二十四時間営業のスーパーの前のバス停は、人でごった返していた。十八時近くという時間帯も悪い。あと傘な。あれのせいで無駄に一人あたりの専有面積が増えてる。  雨だし、人は多いし、これからの用件はアレだし、ポジティブになれる要因がどこにもない。  何本か行き先の違うバスをスルーして、ようやく目的のバスが来た。  乗り込もうとバスのステップに足をかけたとき、ひとつの光景が見えた。  黄色い雨合羽を着た、小学生になるかならないかくらいの小さな女の子が、転んだ。 「……」 「乗るんですか?」  後ろの人に声をかけられた。立ち止まっていた。 「あ、すいません」  あわてて乗り込む。  圧縮された空気の漏れる音がして、ドアが閉まる。まもなくバスは発車した。  流れ出した車窓の景色は、ぎらつく車のライトと雨粒で見えづらい。にじんだ視界の向こうで、女の子が制服姿のだれかに手を引っ張られて立ち上がる光景が、一瞬、見えた。たぶん兄妹だろう。兄のほうは中学生くらいだろうか。  なぜだろう。  何度も自分のなかで殺したはずの疑問は、ゾンビのごとく蘇ってくる。  なぜなんだろう。  なぜ自分たちはあんなふうに、ふつうの兄妹ではあれなかったのか。  腹の底が熱くなるような悔しさと、同時に、ある種の空虚さみたいなものが心を支配する。なにをしたって結論は覆らないという諦めにも似た感情だ。わかりやすくいえば「俺はいったいなにと戦ってるんだ」という感じ。  バスが実家の最寄りのバス停に近づくにつれ、その空虚さはだんだんと俺を蝕んでくる。  バスを下りる。俺と一緒に下りた人たちが、それぞれの家のある方向へ散っていく。俺も家へ向けて歩き出す。どうせ、なるようにしかならないという気分とともに。
 着いてしまった。  事前に「汐里のことで話がある」という連絡はしてある。  さて。呼吸を整えよう。最初になにが起きるのかはわかっている。  インターホンを押すと、まもなく玄関のドアが開いた。顔を覗かせたのは母さんだ。 「おかえり、貴大くん」  汐里によく似た、しかし汐里より数段ほんわかした笑顔が俺を迎える。いつも思うんだけど、この人いくつだったかな。  さて、ここからだ。 「ただいま」  そう言って、玄関に入る。 「おかえりー!」  抱きつかれた。  はい。これが最初に起こるイベントです。  通常攻撃が抱きつきでいいにおいの血のつながらないお母さんは好きですか。  そういう問題じゃないんだよなあ……。階段の陰から汐里がじっと見てるし。ちなみに、言うまでもなく、汐里の抱きつき癖は、子供のころからこの光景を見てきた影響だと思われる。 「よう汐里。約束どおりデザート持ってきたぞ」 「デザート?」  その言葉に反応したのは、汐里でなく母さんだ。 「どこの? おいしい?」 「汐里のお墨付きなんで、たぶん」 「楽しみだなあ!」  ようやく解放してくれた。 「ごはんできてるからね。ダイニングに行ってて」  廊下をぱたぱたと小走りに駆けていく母さん。  靴を脱いで上がる。 「ただいま汐里」  階段の陰に隠れた姿勢のままの汐里の頭にぽんと手を乗せてやる。 「……おかえり、お兄ちゃん」 「いちごのミルフィーユあるぞ」 「ほんと!?」  と、一瞬ぱーっと表情を輝かせてから、思い出したようにじとーっと俺を見る。  どう接していいかわからないので、とりあえず不機嫌になってみた。顔にそう書いてある。 「メシのあとでな」 「……うん」  俺を振り返りつつ、ダイニングへ向かう汐里。  俺は、息をひとつ吐く。  どう接していいかわからないのは、俺も同じだ。  しかし、ひとつ気がついたことがあった。この家にいる限り、俺はどうやら兄として自然にふるまえるらしい。内心でなにを思っていようとも、そのことは崩れない。  俺はそのことを確認して、少し安心した。
 ダイニングには、汐里に加えて、親父もいた。本永利通、四九歳。ノートパソコンに向かってなにやらやっている。母さんは、キッチンに向かってなにかしている。 「おかえり貴大。ひさしぶりだな」 「ただいま」  デザートを冷蔵庫にしまって、手だけ洗ってきてからダイニングに戻る。  眼鏡がよく似合う、やや陰のある雰囲気のイケメン。それが俺の親父だ。俺も親父によく似た外見だといわれるが、引き継いだのは陰の部分だけである。つまり、人相が悪い。  で、親父がどういう人間かというと……。 「貴大、今日は夕食が終わったら家族会議だ」  パソコンから目を離さずに、いきなり宣った。  びくっと汐里が固まった。 「……」  勘弁してくれ……。   親父は、ひとことでいうと変人だ。とある企業で研究職をやっており、かなりの高給取りである。汐里があんなお嬢様学校に行ってられるのも、親父の収入あってこそだ。頭はいい。ワケわかんないくらいいい。しかし、成果さえ出していれば文句を言われない人間特有の、圧倒的な協調性のなさがある。母親と死別して以来、俺は親父を反面教師としてずっと見てきた。 「はーい、ごはんできたわよー」  テーブルの上には卓上コンロがある。そこに母さんが土鍋をどんと置いて、夕食のスタートである。
 夕食はつつがなく終わった。  母さんがよくしゃべり、汐里が相槌を打ち、親父は黙々とメシを食い、たまに「うまい」「早百合さんの料理は最高だ」「僕は幸福な人間だ」などと呟く。この家で暮らしていたころは日常の光景だったので疑問を持たなかったのだが、ひさしぶりに見ると、けっこう異様な光景である。  俺はタイミングを見計らっていた。どこかで汐里を席から外させなきゃならない。少なくとも、親父に仕切らせるのだけは絶対にまずい。  母さんと汐里が食器をかたづけて、テーブルの上がきれいになった。親父は席を外していた。言うとしたら、ここしかない。ケーキが出てきてしまっては、みんなで食う流れになってしまう。 「汐里には、ちょっと外しててほしいんだ」 「……どうして? これからケーキよ?」 「話があるって伝えてあったろ。汐里抜きで、俺から話したい」  いやな汗が背中をつたう。声が震えそうだ。  汐里が不安そうな顔で俺を見ている。 「んー、でも……」 「僕は認めない」  親父がダイニングに戻ってきた。手になにやら紙を持っている。 「僕は言ったはずだ。家族会議だと。であるなら、家族の構成員は参加する権利がある。汐里ちゃんはどうしたい?」  しまった。汐里に話を振られてしまった。  親父の口ぶり、家族会議という言葉。おそらく俺が話そうとする内容は、すでに察せられている可能性が極めて高い。  汐里がすがるような目で俺を見た。 「わ、私は……」 「汐里、部屋行ってろ。俺が話す」 「汐里ちゃんの権利については、汐里ちゃんがこれを行使する権利を有する。おまえは他者の権利を害するのか」  口で反論したら負ける。絶対に負ける。ゴリ押しだ。要は汐里が逃げ出せばそれでいいのだ。 「汐里、部屋行ってろ」 「ふむ」  親父はダイニングに座ると、手に持っていたA4の紙をぱさっとテーブルの上に置いた。 「まあいい。レジュメを見てから決めてもらおう」 「は? レジュメ?」  およそ家庭で出るはずのない言葉を聞いて、一瞬、頭が真っ白になった。 「早百合さん、あれを頼む」 「はーい」  ダイニングを出た母さんが、台車付きのなにやらでかくて薄いものをごろごろと押してきた。 「ほ、ホワイトボード……だと……!?」 「今日は重要な会議になると思ったのでな。購入しておいた」 「って買ったのかよ!」  レジュメにホワイトボードのある家族会議! なんだこれ! 俺なめてた。親父の変人っぷり完全になめてた! 汐里も完全に出ていく機会を失って呆然としている。 「それでは家族会議を始めよう。各自、レジュメを参照していただきたい。本日の議題は、貴大と汐里ちゃんの恋愛関係についてだ」  ぼきっと、心の折れる音が物理的に聞こえた気がした。  地獄の蓋が、まったく想像もしてない場所から、盛大に開いた。  もう、無理だ。  死のう。
 会議は滞りなく進んだ。正確には、俺は完全に抜け殻になっていて、呆然と見ていただけだった。汐里なんか瞳のハイライト消えてる。俺もきっと消えてるんだろうなあ……。  ホワイトボードに書き込みをしつつ熱弁する親父。そこには、両親が再婚してからの七年の俺たちの動向などがびっしりと書き込まれていた。「汐里ちゃんは美少女」という書き込みにマルがついていて「貴大は極端な年下好き」にもマルがついていて、その二つの項目を二重線でつないで解説されるの、ほとんど殺人行為だと思うんです。こんなに効率的な家族内における公開処刑、聞いたこともねえ。 「以上だ。もう一度レジュメに目を通していただきたい。僕は早百合さんと結婚するにあたって、あらゆる可能性を考慮した。そのなかには、とう��ん、貴大と汐里ちゃんが恋愛関係になるという未来も含まれていた。予断は愚かな行為だが、仮説をもって経過を観察することは重要だ。そして、観察の結果、貴大と汐里ちゃんが恋愛関係にあることは検証されたと言ってよい。以上をもって、僕の発表は終了だ。ご清聴ありがとう」 「わー、ぱちぱちぱちー」  ぱちぱちぱちーじゃねえよこの母親。スキンシップが激しいだけの常識ある人間かと思ってたけど、それまともな反応じゃねえだろ。あの変人親父と再婚して今日まで続いてた理由がようやくわかったよ! こんなかたちで知りたくなかったよ! 「さて、以下、質疑応答の時間にしたい。なにか意見があるものは挙手してほしい」 「うわああああああああ!!!」  俺は立ち上がって、レジュメをテーブルに叩きつけた。 「僕は挙手をと言ったはずだ。叫べとは言っていない」  だめだこいつ。殺そう。机に突っ伏して痙攣してる汐里の敵を取ろう。安心しろ汐里。この化物は俺が殺る。犬に噛まれたと思って汐里はすべてを忘れるんだ! 「まず僕のほうから確認事項がある」 「黙れ妖怪!」 「性行為はしているか」 「……」  空気が、凍った。  机に突っ伏していた汐里が顔を上げて、ひきっと変な音を出した。  いやん。母さんが、場違いな恥じらいの声をあげた。 「伝わらなかったか。言い換えよう。セックス」 「うおおおお!」  俺は親父の首根っこを掴んでがくがくいわせた。 「なにをする貴大」 「おま、おま、おま! 言わせておけば! いますぐ謝れ! 日本中の童貞に土下座しろ! 泣いて詫びろ!」 「そうか、まだか」  がくん。  俺は親父の上着を掴んだまま、ずるずると膝から崩れ落ちた。 「そうです……僕は……童貞です……」 「あらあらあら」  ぽっと顔を赤らめる母さん。  ねえこれ、包丁持って暴れまわっても、俺無罪だよね? 情状酌量の余地すごいたくさんあるよね? むしろ正当防衛だよね……? 「座れ、貴大」  親父は、伸びた襟元を直しつつ、自分も着席した。  俺は、ずるずるともたれかかるように椅子に座った。  ああ、汐里が涙目だ……なんだこの修羅場……。 「それじゃ、ケーキ出しましょうね♡」  いそいそと冷蔵庫からケーキを運んでくる母さん。  ねえ、なにこの人……意味わかんないんだけど……。この状況で笑顔でこのセリフ言える人、ちょっと怖いんですけど……。  テーブルの上にケーキが並ぶ。  汐里の前にはいちごのミルフィーユ。 「っておまえ、食うのかこの状況で……」 「ケーキは……別腹……」 「あそう……」  まるでケーキが自分をこの世界につなぎとめる最後の糸であるかのように、無表情でケーキを食べる汐里。母さんも親父も食ってるので、俺だけ食わないわけにもいかない。  たぶん、このケーキの味は一生忘れない。思い出すたびに、布団のなかで死にかけのエビみたいな動きする自信ある。  カチャカチャと、フォークと食器が当たる音だけが響くダイニング。  親父がふと、手を止めた。 「僕には、夢があった」  その思いのほか真摯な声の調子に、家族全員が親父を見る。 「僕が家に帰るとおかえりと言ってくれる人がいる。愛する人がいる。子供がいる。みんなで夕食を食べる。それが僕の夢だった」 「親父……」 「そして、僕はもう、充分にそれをもらったと思う」 「……」  なんとはなしに、汐里と顔を見合わせる。  親父は、真剣なのだ。親父なりに考えて、今日の会議の準備し、こんなレジュメまで用意した。いかにやりかたが奇矯であろうとも、その真剣さだけは疑うわけにはいかない。やりかたはもう少し考えてほしかった。なんなら時間を巻き戻してやり直してほしいくらい考えてほしかった。いまなら俺、死に戻りにも耐える自信ある。 「あとは、貴大、汐里ちゃん、君たちの問題だ」 「……」  どこか陰のあるイケメンは、思いのほか、柔和な笑みを浮かべることができたらしい。 「とはいえ」  表情を引き締めて、親父は続けた。 「これは家族の問題もある。したがって、今後の貴大と汐里ちゃんの関係について、こんなレジュメを用意してみた」 「燃やせそんなもん!!」  こうして、本永家の家族会議は、無事終了した。  無事じゃねえよ……満身創痍だよ……。
「それじゃ、気をつけてね、貴大くん」 「ああ」  靴を履きつつ答える。ぶっちゃけ、体に力が入らない。俺、家までたどり着けるんだろうか。  見送りは、汐里と母さんだ。 「お兄ちゃん……」 「まあ、なるようにしかなんねーだろ。そんな顔すんな」  結局、有耶無耶のうちに俺と汐里の関係は親公認となった。俺が事前にあれこれ考えたことは、すべて無駄になりました! おめでとうございます!  ちなみにこれ、喜ばしい結末に見えるかもしんないけど、実際は死ぬほど気まずいからね。なに親公認の兄妹カップルって。脳湧いてんでしょ。軽めの地獄ですよ。 「あのね、貴大くん」  親父の作った地獄のレジュメを手に持った母さんが、話しかけてくる。  やだなあ。その話題もうやめてほしいなあ。  ちなみに親父が考えた今後の方針としては、三つあるようだ。前提条件として、俺はともかく、汐里はまだ高校一年生で、今後どんな出会いがあるかわからない、いまの感情だけがすべて��と思わないほうがよい、と掲げられているあたり、親父は本当に真剣に考えたのだと思う。  そのうえで、一つは、二人ができるだけ距離を置くこと。汐里は実家で暮らし、俺たちは会わないようにする。これは俺が事前に考えたことでもある。素直に考えれば、これがいちばんまともだ。  二つめは、現状維持。つまり汐里は俺のアパートに泊まりに来ることもあるが、基本は実家暮らしというもの。これについては親父の「あまり推奨できない」というコメントがついている。俺も同意できる。中途半端な状況は、あまりよくない。  そして三つめなのだが……。これには「母さん超おすすめ♡」という手書きのコメントがついている。ついているのだが……。 「ぶっちゃけ、親としてどうなのこれは。完全に同居してしまえってのは」  俺は呆れ半分に、レジュメを母さんに返す。 「あら、それは、あなたたちだけじゃなく、私たち夫婦にもメリットがあるのよ?」 「なんなんですか」 「心置きなくいちゃいちゃできるじゃない。私と利通さんが」 「……」 「……」  汐里と二人して絶句する。 「それにねえ」  母さんは、汐里の頭に手を置く。 「利通さんは、汐里がまだ若いからって前提で考えてるみたいだけど、この子たぶん、もう心変わりなんてしないわよ?」 「ちょっとお母さん、その話は」  え、どゆこと?  えーどうしようかなあ、などとにこにこと笑っている母さんと、ひたすら焦っている汐里。  母さんは、はいはい、などと汐里をいなしつつ言った。 「だから、母さん権力で決定します。近いうちに、貴大くんと汐里は同居することにしましょう!」 「なにそれちょっと待って。俺らの意見は?」 「あら、貴大くんはいやなの?」 「いやとかそういう……って汐里おい! なに顔あからめてもじもじしてんだよ!」 「えー、だってー♡」  くねくね。  だめだ。こいつ母親に取り込まれてる。 「それじゃね貴大くん」 「まだ話は終わって」 「それじゃあね、貴大くん!」  ぐいぐいと押される。  ついに外まで押し出されて、そこで玄関のドアがばたんと閉まった。
「……なんだこれ」  俺の悲壮な覚悟はいったいなんだったのか。  いまからドアを再び開けて、母さんに挑む気力がない。絶対に押されて終わる。  まあいい。よくないけど、まあいいよ。今日は帰ろう。死ぬほど疲れた。反論するにしても、きちんと体勢を整えてからだ。親父のいない場所で。これ重要。  傘を手に取って、開こうとしたそのときだった。  ポケットのなかのスマホが震えた。  取り出してみると、母さんからのメッセージが入っている。
『あ、でも汐里が高校を卒業するまでは、清い関係でいましょうね。えっちなことは禁止♡』
 ガツン。俺の手からスマホが落ちた音がした。  なにか。あの母親は、汐里と俺を同居させておいて、あと二年近い日々を生殺しで過ごせと。そうおっしゃるか。  俺はスマホを拾うことも忘れて、風の加減で吹き込んでくる冷たい雨に濡れたまま、両手で顔を覆った。なんならさめざめと泣いた。  口から出てくる言葉はただひとつ。
「なんでこうなった……」
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4554433444 · 4 years
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妹さんと同居11
 靴を見ている。  赤いローカットのキャンバススニーカー。サイズは二十二.五。意外に小さい。  汐里によって数時間使用された靴を見つめながら、俺は考える。
 親と話すなら、対策は必須である。  血縁のない美少女の妹がいる人は考えてみてほしい。実の父親と、美少女の親だけあって美人である母親に「実は妹とちょっとおかしいことになりましたー」と告白するところを。  え、なに、おまえその境遇なんだからそれだけで勝ち組だろ、とっとと妹さらって場末の旅館で「二人きりになっちゃったね……♡」「でも、二人きりだ♡」とか言って一組しかない布団の上で性的な組体操でもやれとおっしゃるか。ついでに旅館の一人娘で家業の手伝いをしている十五歳の仲居さんがうっかり俺たちの性的ふわふわ時間の最中に入ってきて「し、失礼しましたーっ」とか叫びながら逃げ出すところまで想像したが、これ完全に関係ねえな。  話が逸れた。  要するに、傍から見たらどんなうらやましい境遇だろうと、当事者にとっては厳しいということは、いくらだってあるということだ。  ましてうちの両親である。  話題が話題だけに、どっちにしろ地獄のような空気になることはまちがいないが、それでもまだ母さんはいい。汐里の母親だけあってそりゃ美人なのだが、話をするうえではとりたてて困ったところのある人ではない。困るのはそれ以外の部分である。  問題は親父だ。  親父と話をするのなら、それなりに筋の通ったことが言えないとまずい。俺自身に曖昧なところがあってはならない。  だから俺は靴を見ている。  汐里は言っていた。お兄ちゃんとキ、キキキキキスすることを想像したらいやじゃなかった、むしろ朝までずっとギュッとして♡と。脳内の捏造が捗る。むしろいままで考えたことがなかったのが意外だった。俺なんか汐里が十三歳くらいのころにはもう自主検閲、はっ、ここは? ノクターン!?  えーと、なんの話だったか。  そう、靴だ。俺は靴を見ている。  仮にこの靴が妹の靴だったとする。ここまで事態が逼迫させておきながらなんだが、俺の内部には確かに汐里を妹としてみなしている部分がある。それも思ったより大きく。もし妹だとするなら、この靴を嗅ぎたいと思うだろうか。  嗅がないよなあ。たった数時間だもんなあ。せめて一ヶ月くらい履きつぶしてちょっとぼろくならないと話にならないもんなあ。  まあ俺は靴フェチではない���で、そのへんの事情はよくわからないが、たぶんマニアならそう思うことだろう。  本気でなんの話かわからなくなってきた。  要するに俺は、両親と話をする前に、自分の気持ちを「説明可能なものとして」固めておかなければならない。そのために靴を見て考えていたのだが、すでに前提が盛大に狂っていた。桶屋を前にして扇風機で送風してみようくらいには狂っている。 「店行くか……」  いやわかってるよ。考えてるふりして現実逃避してたことくらいは。  なにがどうなるかはわからない。けれど、話さないという選択肢は、もうここに及んではありえない。これは、家族の問題なのだ。  泣いても笑っても決戦は明日。  俺は、定まらない覚悟とともに、ため息をつきつつ家を出る。
「おはよーございまーす」  コンビニの挨拶は二十四時間いつでも「おはよう」のところが多い。 「おはようございます。あんれまあ店長そったらよだがばすたみたいなんまぐね顔ばすて」  どうしよう。今日も佐々木さんの言ってることがぜんぜんわからない。  昼にメインで入っているパートの佐々木さんである。御年五十六歳。方言キャラというのはよくいるが、あれは一部が訛っているからキャラで済んでいるのであって、意思疎通が困難なレベルになると、もはやキャラではない。  うちの店は、レジ横にあるカウンターフーズの売上では、地区でもトップクラスに属する。佐々木さんは当店でも最強の戦力の一人だ。よくわからないが「け? け? んめがら。け?」って言われたら勢いに押されて買う人が多いらしい。拡販強い人間って、中台もそうだけど、基本的に対人距離が初手からゼロなんだよなあ……。中台の場合は、それでも高度な空気読み技術に裏打ちされてるんだけど、佐々木さんだともう空気とかそういう次元ではない。そこはすでにワールドオブ佐々木さん。取り込まれたものは揚げ物を買う。  佐々木さんの人生はそれだけで重厚な物語が書けそうなものがあるらしいのだが、俺としては「踏み込んできた警察官に平手打ち食らわせて説教したところ、相手が泣き崩れておふくろ!と叫んで抱きついてきた」というエピソードだけでもうおなかいっぱいだ。濃すぎる。俺が気になるのは「どうやって会話ができたのか」という一点に尽きる。
 店の仕事はさまざまだが、役割分担はだいたい決まっている。レジは基本的にバイトに任せて、俺はそれ以外の雑用をする。並んだときはレジをヘルプする。  ピーク時間帯である十六時から十九時くらいは、二人がかりでレジを打つ。十九時以降は客足がやや鈍るので、そこで集中的に書類作業など、事務所に引っ込まないとできない仕事をする。もちろんレジが混んだら呼ばれるが、今日の夕勤は中台だ。呼ぶタイミングを含めて、レジにはいっさい気を回さずに済む。  二十時半ごろ、だいたい終わりが見えてきた。あとは売場を一周して整頓でもしようと思っていところ、ひょっこりと社長があらわれた。手にコーヒーの紙カップを二つ持っている。 「はいはいはい、はい、どうよ売り下げ。今月の売り下げ」  鬱陶しい。 「百ちょいです。天候がきつかったですね」  百ちょい、というのは今月の前年比が売上ベースで百パーセントちょっとだった、ということである。今月は雨がちだったうえに、台風の直撃があったから、どうしても売上は伸びない。  社長はでかい。身長は一九〇近くあると聞いた。事務所がすごく狭く感じられる。 「利益は?」 「うーん、どうですかね。タバコの構成比が高すぎるんですよね……。アイコスがキャンペーン打って、本体がやたら売れたせいだと思うんですけど」  店の利益は、原価率にかなり大きく左右される。あたりまえの話だが、商品の原価率は、ものによって違う。条件がよくて五割以上が店の利益という商品もあれば、タバコのように一割程度のものもある。そして売上全体に占めるタバコの構成比は、もともと大きい。  よって、タバコの構成比が高すぎる場合、全体の利益率をかなり圧迫してくるのである。 「ほうほう、なるほど」 「で、社長はなにしに来たんです?」 「おう、それだがな」  社長は、どっかりとパイプ椅子に腰を下ろした。隣に座られると圧迫感すさまじい。  俺は、社長がこの店で店長を兼任していたころのバイト上がりである。ほかの社員と違って、どこかやりとりにぞんざいなところがある。相手が社長であっても、事務用のちゃんとした椅子を譲るとかいう気配りはない。 「おまえ、転勤しろ」 「は?」 「ほら、言ってたろ。新店の話。あれがまとまりそうでな。五店目ってことになるか」  社長が現場での仕事から手を引き、社長業に専念してから三年。急激に店舗数を増やしてきた。確かに新店の話は、前の社員会議でも出ていた。 「場所は?」 「あーそれがなー。候補地がいくつかあって、まだ決めかねてる。なんなら既存店を引き継いだほうがいいかもしれんくらいよい条件の話もあってな。だがまあいずれにしても、店長として送り込むのはおまえだってのは変わらない」 「時期は?」 「それも未定だが、今年中ってのはないだろうな。来年の早い段階だ。既存店の引き継ぎの場合、その限りじゃないだろうが……まあ引っ越しの準備はしとけ。近くに家くらいは用意してやる」 「はぁ……」 「なんだよ、すっきりしねえ返事だな」 「そりゃそうですよ。なんだかんだ、この店で六年やってるんですから」 「俺が悪いんだがな、長すぎだ、そりゃ」  社長は、コーヒーを一口飲むと続けた。 「おまえは優秀だ。仕事はできる。が、経験が足りない。いちばん足りないのは、新しい環境を構築することだ」 「なんですかとつぜん。褒めてもコーヒー代は出しませんよ」  アホか、おごりだ。社長はそう言って、残りのコーヒーを一気に流し込む。 「若いうちの苦労は買ってでもしろって言葉があるだろ。あれな、実際は、若いうちに苦労しておかないと経験が身につかず、その後に変化に対応できない、という意味だと俺は思っている。つまり場数だな。どれだけ場数を踏んでるかで、その後の人生における対応の幅が変わってくるってことだ」 「はぁ……」 「人間おっさんになってくるとな、慣れた環境を手放したくなくなる。新しい環境を受け入れられる柔軟性を持っているのは、圧倒的に二十代だ。だから、慣れろ。変化することじたいに。おまえは特にそうだ。目的を持ったときには強い。しかしそのぶんだけ視野が狭くなる。自覚はあるだろ?」 「……まあ、あるっちゃあります」  いやなことを言う。 「転勤はあくまで俺の都合であり、会社の都合だ。しかし、後ろ向きにはとらえてほしくない」 「……」 「つーか、新しい店をゼロから作れるとか、わくわくしないか?」 「あんまり」 「だろうなあ……そういうとこだぞ」  ドヤ顔をするおっさん。若者っぽい言葉を使ってみたいらしい。  社長は言いたいことだけ言うと、とっとと帰ってしまった。飲んだコーヒーのゴミくらい捨ててけよ。  手つかずだった自分のぶんのコーヒーを飲む。  ぬるくなったコーヒーは、酸味とえぐみが出ていた。あまり、おいしいものではない。
「てーんちょー、ゴミ交換終わりましたー。上がっていいですかー?」 「おつかれ。上がってくれ」 「はーい」  二十一時の定時、中台が上がってきた。 「社長なんだったんですかー? 店に入ってくるなりコーヒー買って、今日もかわいいねえとか言われて……」 「ああうん、そういう人だから……」 「気持ち悪かったです」  言いかたな。中台。言いかた。おまえわざとだろそれ。あとそのセリフ、たまに童貞ものすごい傷つくから、使いどころまちがうなよ。俺もいまちょっといやな動悸してるから。まじでやめろ。  制服を脱いで、ロッカーのなかにしまっていた中台だったが、その手を途中で止めて、俺を見ている。なにかもの言いたげのような、意味のある目線である。 「なんだ?」 「いえ、社長の話って、なんだったのかなーと思って」 「あー」  ちょっと迷ったが、中台なら問題ないだろう。いちおう他言はしないという口約束だけとって、転勤のことについて話した。ふむふむ、などと声に出してあざとく相槌を打ちつつ聞いていた中台だったが、 「ああ、それで……」  ひとりで納得したように呟く。 「ちょっと待っててくださいね」  売場に出ていった中台は、すぐに戻ってきた。 「はい、どーぞ」 「なんだこれ」 「グッドプライスバーですよ?」 「じゃなくて」 「おごりです。甘いもの食べましょう」  そう言うと、さっきまでどでかい生物が居座っていたパイプ椅子に、ちょこんと腰掛ける。同じ人類なのに、なぜここまで圧迫感が違うのか。人間は性的二型の生物ではなかったはずだ。  にこにことアイスを食べている中台。  よくわからないが、俺も食べる。グッドプライスバーは、入荷時点ではいろいろな種類がひとつの箱に入っている。いま渡されたのは無難にバニラ味である。 「あ、けっこううまい……」 「でしょー? たまに食べたくなるんですよねー、これ」  うまい。  たまには、こういうのを汐里に買ってやるのもいいかもしれない。  あのあと、汐里から連絡はない。  どんな顔をしているだろう。  なんだろう、無性に汐里にアイス食わせたい。ゆるんだ顔でアイス食ってる汐里を見たい。  その俺を、中台がじっと覗き込んでいる。 「てんちょー、あのですね」 「なんだよ」  近い。めっちゃ近い。ちょっと体を引くレベルで近い。汐里とはまた違うベクトルの整った顔が近くにある。 「私の友だちで、自分はポーカーフェイスだって思ってた子がいるんです。そんなことないよ、すっごい顔に出てるよって指摘されたら、いやそうな顔してました」 「……」  俺から顔を離した中台は、うん、と首を縦に動かしてから、 「正解です。てんちょーも、そういう感じの人ですねー」 「いやそうな顔まではしてねーだろ……」 「なにかあったら、すずちゃんが聞きますよー? 聞くだけですけど」 「だれがすずちゃんだ。つーか放置かよ」 「あ、なにかはあるんですねー?」 「ぐ……」  五歳下の女子にいいように手玉に取られておる我輩……。  しかしこいつ、妙に嬉しそうである。  ……まあ、あれだよな。俺も覚えがあるけど、これくらいの年齢のやつって、自分のスキルみたいなものがどこまで通じるのか試してみたくなるんだ。中台は、かわいくて、雰囲気がおっとりしていて、しかも頭が切れる。そしてそうした自分に自覚的でもある。試す相手としてちょうどいい距離感にいるのが俺なんだろう。  中台は、いつのまにかじーっと俺を見ていたが、まいっか、と呟いて息を吐いた。 「アイス、おいしかったですか?」 「ん、サンキュ。うまかった」 「甘いものは、人を幸せにしてくれるじゃないですかー。てんちょーも、もっと甘いもの食べたほうがいいです」 「栗きんとんとかか」 「渋っ」 「ふだんあんま食わないからなあ……おすすめは?」 「えーと……」  中台はあごに指をあてて、うーんとか言っていたが、やがて、はっと思い当たったような顔をした。 「なんかいいのあったか」 「い、いえ。ないです。ないない。これはない」 「は?」 「なんでもないです! そもそも食べものじゃないし、なんならいきものですよこれー」  珍しい。素であわてた顔である。なんなら両手を突き出して俺の顔の前で振っている。絶対にノウと言わんばかりだ。 「いったいなにを思いついたんだおまえは……」 「そ、それではお先に失礼します」  慌ただしく事務所を出ていってしまった。  なんじゃありゃ。  俺は鈍感主人公のように考えてみたが、さすがに情報量が少なすぎる。わけがわからん。  甘いいきものって、なんだそれ。チョコでコーティングしたネトゲ好きの女子高生かなんかか?
「おつかれっすー」 「んじゃお先ー」  夜勤のぞんざいな挨拶に送られて店を出る。  明日の予報は雨。今日はずいぶんと冷え込んでいる。そろそろスクーターには厳しい季節がやってくる。なんとなく空を見上げる。星は、見えない。  スマホを取り出した。二十一時十五分。着信その他はなし。  うちの兄妹は、なぜかLINEでのやりとりをあまりしない。汐里が家に来るときはたいていアポなしだし、俺が実家に行くときもそうだ。どうしても必要なときは、いきなり電話がかかってくることが多い。どうしてそうなったかはわからない。なんとなく、としか言いようがない。  アプリを起動するかどうか、ちょっと悩んでいると、いきなりスマホが震えた。 「うお」  確認してみると、汐里からだ。
『明日、夜は、お父さんとお母さん、家にいるって』
 それだけだった。  だから俺もごく事務的に返す。
『わかった。十九時くらいに行く』
 俺は、いまからもっと汐里にメッセージを送ってもいい。なんなら電話してもいい。汐里はたぶんいまごろの時間、自分の部屋にいて、本を読んでいる。いまから実家に行くことすら、俺にはできる。  しかし俺はそのいずれも選ばずに、スマホをポケットに入れる。  入れようとして、またメッセージを見返す。  それは、ただの文字の羅列に過ぎない。二十文字ちょっとのごく短いテキスト。  それなのに俺は、何度も何度も、そのテキストを繰り返し眺めていた。
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4554433444 · 4 years
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妹さんと同居10
 子供のころ、水風船で遊んだことがある。どういう経路で家に来たのかわからないが、開封済みで数個はすでに使われたようだった。  台所の水道の蛇口に直接つけて、水を出してみた。  風船はどんどんふくらむ。最初のうちこそわくわくして見ていたものの、思っていた以上に風船が大きくなると、今度は不安になる。水を止めればいいのだが、どこまで入るのか見たくもある。いつかはかならず破裂する。そのことを子供ながらに理解していても、止められない。  その一瞬を見たい。  盛大に水を撒き散らして、風船が爆発するそのときを見たい。  もちろん、風船は破裂した。水は、シンクのなかだけでは収まらず、相当の広範囲に広がった。母親にめちゃくちゃ怒られた。  その母親も、いまはこの世にいない。  新しい母親の娘が、ここにいる。つまり、妹だ。 「ホットミルクでいいか」 「ん……」  汐里は、放心したように、ぺたんと居間に座り込んでいる。  人の人生なんて、たいていドラマチックにはできていない。命を賭けた大悲恋のさなかでも人はトイレに行くし、七年ぶりに北の街で幼なじみと運命的な再会を果たしても、親知らずで激痛が走っているかもしれない。人が生きているってのは、そんなアホみたいなことの繰り返しだ。  あのあと、俺を冷静にしたのは人の目だった。  そりゃそうだ。いくら大通り公園にそこまで人がいないからって、昼間なのだ。しかも休日だ。そんなところで男女が抱き合っていれば、じろじろ見られるのがあたりまえだ。俺には、兄妹の関係を世間様の前で大公開する趣味はない。  それになにより……。 「ほら、ミルク」 「ありがと」  熱でも出しているかのように、ぼんやりとした表情の汐里。  こんな汐里を、だれかの目に晒したくはない。 「ぬるい」 「文句言うなら飲むな」 「うん」  ことんと、ローテーブルの上にマグカップを置いた。 「いや飲めよ。もったいないから」 「うん」  こくこくと、ミルクを飲む汐里。こくこくこくこくこく。  いや、飲みすぎだろ。 「けほっ、けほっ」 「おまえなにやってんだ……」  数度咳き込んでから、汐里が俺を見る。なんとはなしに俺も見返す。  数秒ほど、意味もなく見つめ合う。  すると、なんの前触れもなく、汐里の目に、涙がじんわりとたまってきた。 「あ、あれ?」  あわてて、目元を拭う汐里。  そのしぐさが、なんだか子供のようで、見ているだけで痛々しい。 「あの、ごめんね。私いま、なんか不安定みたいで、なんかもう、わけわかんなくて……いやー、困ったなー……」  冗談めかして笑ってみせようとして、完全に失敗している。無理をしたぶんだけ、涙があふれる。  俺は無言でローテーブルを横によけて、汐里を手招きする。  それで汐里には通じたようだった。身を寄せてきて、俺に体重を預ける。  落ち着かせるように、後頭部をなでてやる。  汐里の体から力が抜ける。  しばらくそうしてやってから、俺は言った。 「おまえさ、今日はもう家帰れよ」  弾かれたように、汐里がばっと俺を見上げる。 「やっぱり? 私おかしいから? こんな妹おかしいから?」 「どっちかっていうと俺がおかしいから」 「二人ともおかしいの!? それってやばくない? おもしろ兄妹!?」  ナチュラルに混ぜ返してくるあたり、この妹、筋金入りである。なお本人にボケてる自覚、絶対にない。  俺は、汐里の鼻をつまんでみた。 「んがっ、な゛に゛す゛る゛の゛お゛兄゛ちゃん」  危険を回避してんだよ。  やばいんだよおまえ。  こいつきっと、俺がなにを言っても拒まない。右向けっていえば右向く。服脱げっていえば脱ぐ。アヘ顔によるダブルピース体操をしてくれるかどうかはわからないが、俺が望んだことなら、たぶんなんでもする。安心してほしい。俺が信じて送り出すのは実家である。そこには両親がいる。つまり、まともな家族がいる。  汐里はいま、無防備だ。汐里にとって俺は、兄であり、兄ではない男性であり、すべてをさらけ出しても許容してくれる存在でもある。つまり、全部だ。丸裸の精神に「好き」という透明な感情の薄布一枚だけをまとって、ここにいる。それを、俺がどんな形に歪めようと、きっと気づきすらしない。それくらい無防備に見える。  俺は、仙人じゃない。  二十三年分の彼女いない歴により蓄積されたものを大量に抱え込んだ、ふつうよりやや理性の閾値が低い男だ。 「俺のそばにいたって、おまえは落ち着かない。明日は学校に行かなきゃならない。ほっといても明日は来るし、来月も来る」 「でも」 「あと、俺もだ」  と、俺は汐里の言葉を遮る。 「お兄ちゃんも?」 「頭冷やそうと思ってたんだよ」 「……なんで?」  汐里はきょとんとした表情で俺を見上げて、ぱちぱちとまばたきを数回したあと、はっとした表情になった。 「まさか、そ、そんなにおへそで興奮しちゃったの……?」 「なぜそうなる!」 「だ、だって……」  消え入るようにつぶやきつつ、汐里はパーカーの裾に手をかける。 「えーと……見る?」 「やめてください。絶対にやめてください」 「ちょっと食べすぎでおなか出ちゃってるから、恥ずかしいけど……」 「まじでやめろ……」  別に俺はおへそフェチではないが、仮にそういう性質の人間がいたとして、おなかが膨らんだ状態でのおへそというのは、より強い劣情をそそるものなのではないだろうか。丸いなら丸まれと、どこかの格言もそう言っている。  パーカーにかかったままの汐里の手を阻止しつつ、俺はため息まじりに言った。 「そうじゃねえよ。先週の金曜に出かけたときに……」  言いかけて、はっと口をつぐんだ。  が、口を「あ」の形に開けて、目を見開いている汐里の表情を見れば、もう手遅れであることははっきりしていた。伝わってしまっていた。  あの日、プラネタリウムを見た日。  別に、なにがあったわけじゃない。  ただ、俺も汐里も、少しだけ、踏み外していた。それはたぶん当事者どうしにしかわからない。兄妹だから、兄妹ではないことがわかってしまった。あれは、そういうたぐいのものだ。  俺は、がしがしと頭をかきむしって、 「だから、そういうことだよ」 「……」  俺を無言で見る汐里の目に、また涙が浮かぶ。 「お、おい」 「あれ? 違うの。そうじゃなくて……」  目をこする。なんだかもう、目元は腫れぼったくなってるし、白目は充血してるし、鼻の頭を真っ赤だし、えらいことになってる。 「……ごめん。いまなんか、嬉しいのも、楽しいのも、おかしいのも、全部泣くのになっちゃう。……なんだろこれ。思春期?」 「俺に聞かれても……」  とんでもねえワード出てきた。  俺は、汐里を抱き寄せて、頭をなでつつ言った。 「ま、そんなわけだから。今日は帰れ。家までは送ってくから」 「ん……」
 目の腫れが引くのを待って家を出た。汐里はもとの制服姿だ。さっき買った服は、俺の家に置いておくことになった。  通りまで出て、タクシーを拾う。俺のアパートから実家までは、電車バスだとやけに行くのが面倒だが、直線距離ならそう遠くはない。俺と一緒にいるだけで不安定になる汐里を人目に晒したくないというのもあった。  実家のあたりは、道路がほぼ迷路だ。一方通行の嵐、軽自動車でしか通れない道、階段でしかたどり着けない家。そんなんばっかである。なので、自宅の最寄りのわりと広い通りで、タクシーを止めてもらう。  丘陵部の尾根道の両側にえんえんと続く商店街。シャッターが下りている店が多い。 「寄ってかないの?」 「今日はやめとく。金曜が休みだから、夜にでも行くって、親父と母さんに伝えといて」 「ん、わかった」 「そんじゃな。帰りはバスにするわ」  軽く手を上げて、バス停へ向かう。  向かいたいのだが……。  うん。汐里、こっち不安そうに見てるよね。立ち去る気配もないよね。 「……」  あーーーーッ。  こういうなんでもない一瞬にですね、なんですか、この胸が締めつけられると申しますか、いじらしいというかほっとけないと申しますか、妹だったらかわいいし、妹じゃなかったらお持ち帰りしたくなるし、その両方が重なったらあなた、これどうなると思いますか。  自分の部屋だったらベッドの上で転げ回ってるよね。  カホンに全裸でまたがって超高速BPMでぶっ叩きつつ、世界でいちばん汚いボサノヴァとか絶叫したくなるよね。マシュ・ケ・ナダ!  病気かな?  しかし現実にはここは自分の部屋ではないし、シャッター商店街で転げ回っていたら通報ものである。  さて。  俺は、踵を返して、立ち尽くしている汐里に言った。 「ここは俺に任せて先に行け」 「……とつぜんなんなの」  汐里が、ちょっと呆れたような表情を浮かべた。  そうだろう。ここでそんなバカなネタを振るとは、空気が読めないやつだろう。おまえの期待していたセリフとは違うだろう。  おまえは、俺に呆れていいぞ。  呆れて、ふだんどおりのノリに戻れ。 「人がせっかく死亡フラグ立てたんだから、それなりの反応しろ」 「えーと……バカ、お兄ちゃんを見捨てるなんてできるか?」 「なぁに、こんなザコどもは俺ひとりで充分だ。金曜日にはうまいデザートでも持って、遊びに来てやるよ」 「ほんと、バカなんだから……! 死んだら一生許さないからね……かな?」 「そんなとこだ」  よくできました。俺は汐里の頭をなでてやる。 「なんか微妙……」 「いいから、はよ帰れ。デザートは楽しみにしとけ」 「うん……?」  微妙に納得していない表情ながらも、汐里は歩きだした。  俺のほうを何度か振り返りつつ、家へと通じる路地に入るときには、小さく手を上げた。
 汐里の姿が見えなくなった。  俺は大きく伸びをする。  そう。死亡フラグはもう立てた。  もう曖昧にはできない。なにしろ風船はもう破裂してしまったのだ。兄妹という小さな器に、大量のなにかを注ぎ込んで、それはついに破裂してしまった。俺を叱ってくれつつも、一緒に台所の拭き掃除をしてくれ実の母親はもういない。  俺は、溢れ出たものを、自分で始末しなきゃならない。  金曜日、俺は両親と会う。
 会って、話す。  すべてを。
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