Tumgik
abcboiler · 3 years
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【黒バス】TEN DANCER has NOTHING -3-
 2015/08/10Pixiv投稿作
「未知なるが故に恐ろしい」 『ハムレット』
知れば、わかる、なんて、嘘。 *** 「……何故お前がここにいるのだよ」 「それは俺の台詞かな……」 果たして高尾和成が緑間真太郎を発見したのは、何のことは無い、翌日の夜、緑間の住むアパルトマンのロビーだった。 時刻は丁度夜の八時。幼い子供は家に帰っているだろうが、ティーンエイジはまだまだ遊びまわっている、そんな、まっとうな時間に、緑間は大量の書籍を左手に抱え、右手にサンドイッチの小さな紙袋を掴んで現れた。いいや、緑間からすれば、現れたのは高尾の方だろう。何せここは、緑間のテリトリーだ。彼の生活する場所だ。 「やっぱ良い所住んでんだね。俺警備員にすげー変な目で見られたわ」 「何故そのまま追い出されなかったのだよ」 「おんなじ舞台に出る共演者です、珍しく彼が忘れ物をしたので届けに来たんですけど入れ違いになっちゃったみたいで、って、劇場の入館証見せたら納得してくれたわ。それにね、こう見えても俺、ダンサーとしては名が通ってる方なの。あの警備員さん、舞台好きなんだな。俺の出てるのも観に来たことあったみたいよ」 「…………何故俺の家を知っている」 「そんなの調べりゃわかるさ、人気スター」 実際でいえば、高尾は黒子から緑間の自宅を聞いていた。教えてくれるかどうか、ダメ元で訪ねに行った高尾に、黒子は驚く程あっけなく、メモ書きでそれを投げて寄越したのだった。 どうせ遅かれ早かれ判ることです。彼、恐ろしいほど情報に無頓着ですし、君だって多分半日かからず調べられますよ。その手間くらいは省いてあげます。僕が教えたって、言わないでくださいね。後から緑間くんに文句言われるの、僕なんですから。 表情の読めない瞳を一切揺らがせず、黒子はあっさりと緑間の情報を売った。売ったどころか、捨てたようなものだ。黒子は高尾に何の見返りも求めなかったのだから。ただ、面白がっているだけなのかもしれない、と高尾は考える。情報の対価は、エンターテインメント。観客を楽しませることで、高尾は金を取っている。 「今お前に構っている暇はない、帰れ」 「稽古にも出る暇もないって?」 「稽古のための準備をしている」 「準備のための稽古じゃねえのかよ」 「同じことだ」 高尾の姿を確認してから、緑間の顔は盛大に、不機嫌そうにしかめられている。美しく整った顔が歪む姿というのは、それだけで心を抉る。美しさは、普通の人間ならば存在するだけで怯んでしまう、暴力だ。高尾はそれを知っている。美しいということは、ただそれだけで、災害のようなものなのだ。 それでも高尾は動じなかった。高尾にとって美しいということは、畏怖すべきことであったし、そしてまた、圧倒的な憎悪の対象でもある。そうでなければ何故、高尾はここまで緑間に固執しただろう。 緑間は、高尾が探し求めていた、10点だった。その執着は、この程度の威嚇で怯むほど、底の浅いものではない。 ロビーの前に立ちふさがるように高尾は立っている。他の住民はまだ現れない。まだ人々が活発に行動している時間に、二人は暫く睨み合った。 「……どういうつもりだ」 「納得いくまで帰るつもりねえよ、俺」 「お前に納得してもらう必要はない」 「いくら俺がダンサーとはいえど、今回の舞台に関しちゃ共演者だろ。お前が練習に出てこない、納得のいく説明を求めるね」 「明後日には行くと言っているだろう」 「それまでの間、俺たちは主役不在の練習をさせられるわけだ。立ち位置も距離感もわからないまま。踏み出すタイミングも声の大きさも知らないまま」 現在、緑間の役は監督が外から台詞を読み上げて進めている。誰もいない空間に向かって声を荒げる女優の空虚を、高尾はこの二日間見てきた。緑間にも考えがあるのだろうが、それに付き合わされる側からすれば、率直に言って、たまったものではない。高尾はそう考える。我が儘が、過ぎる、と。 「……わかった。相手をしない方が時間を食いそうだ、付いてこい。ただし、邪魔はするなよ」 「どこに?」 「俺の家だ」 お前、ここまで来ておいて、逆にどこに行くつもりだったのだよ。 怪訝そうな顔をしながら、緑間は高尾に銀色の鍵を投げつけた。最上階の角部屋が、きらめきながら高尾の手の中にすっぽりと落ちてくる。慌てる高尾の横を悠々と通りながら、緑間は告げた。おい、早くしろ、お前が行かないと鍵が開かないだろう。 「これ以上俺を待たせるな」 「いや、待ってたのは俺、っつーか、真ちゃん、やっぱ、おかしいって」 「限りなく初対面の人間の家まで押しかけてきた奴に言われたくはないな」 「家の中までお邪魔するつもりはなかったっつーの! どっか移動して話せればそれでいいやって思ってたの!」 「馬鹿かお前は。俺は今帰って来た所なのだよ。いい加減に荷物も重い」 「そういやなんなの、その大量の本は」 「役作りに決まっている」 言われるがまま、緑間の後ろをついて歩き、顎で示されたドアを開けながら、高尾は自らの置かれた脚本の早さに戸惑っている。現実は小説よりも奇なり、とはよく言うが、現実が舞台よりもめまぐるしいだなんてこと、あるのだろうか。 * 「あのー、しんちゃーん」 「…………」 「おーい、しんちゃーん」 「…………」 「真ちゃん! 別に茶を出せとは言わねえけど、突然連れてこられて放っとかれてもどうしようもねえんだけど?!」 「茶なら台所のどこかにある」 「そういう問題じゃねえ!」 「緑茶」 「俺に淹れろっつーのかよ!」 部屋の中は、高尾の想像する緑間という人物像にたがわず整理整頓されていた。明らかにオブジェとしてふさわしくないような玩具や、謎のポスター等も、その五月蝿い存在感とは裏腹に、きっちりと棚の中に並べられている。シノワズリの花瓶の横に、南米の原住民族の像が置かれているのを見て高尾は把握を諦めた。調和はないが、統制されている部屋だった。 いざ戦わんとする高尾の決意など素知らぬ顔で、緑間はリビングのガラステーブルに持っていた本を全て置くと、そのままそれを一心不乱に読み出した。よく見れば、テーブルには他にもいくつかの文献や写真集、古びたカメラや広げられたフィルムなどが散らばっていて、そこだけがやけに賑やかだ。 しばらくは立ったまま、緑間の動向を伺っていた高尾だったが、自分の存在を忘れられているな、と気がついてついに声を上げた。邪魔をするなとは言われたが、存在するなとまでは言われていない。 「お前は茶も淹れられないのか?」 「それは俺の台詞の筈なんだけど」 「わかった、お前が準備してくれば、それを飲んでいる間だけは話を聞いてやる」 「それで淹れてきたら一気に飲み干して、また無視、とかはねえだろうな」 「うるさい男だな。俺は猫舌だ。安心しろ」 どういう理論だよそれ、と思いつつ、あまりの言いざまに毒気を抜けれて高尾はキッチンに向かう。思いっきり、地獄の煮え湯のように沸騰したお茶を淹れてやろうと決意する彼の前で、殆ど使われた形跡の無い皿だけが、きっちりと四組揃って鎮座していた。生活感があるものといえば、流しに置かれたグラスだけだ。それ以外は全て、うっすらと底の方に埃が見える。 腹をくくって、高尾は二つ分の茶器を洗い、そのまま戸棚を漁り出す。初めて来る家の初めて立つ炊事場だが、整頓されていることに加え、物が少ない。いうなれば、食器売り場にいるようなものだ。戸惑おうにも、戸惑うだけの生活感が無いのである。持ち主の痕跡が一切感じられない道具に、何の違和感があるだろう。調理器具は一通り揃っているものの使われた形跡が無く、冷蔵庫には飲み物とチーズくらいしか見るものが無かった。茶葉は包装が解かれないまま、頭上の棚の上に詰め込まれている。貰い物を、確認もせずにそのまま入れているのだろう。 ヤカンが破裂しそうなほど湯気を立てたのを確認して、高尾は茶器を温めてから、沸騰した緑茶を注いだ。日本茶は少しぬるくなってから淹れなければいけないと知ってはいるが、わざわざ猫舌だと自己申告してきた抜けている男に容赦をするつもりなど彼には毛頭ない。 「はいったけど」 「そうか」 「話、聞かせてもらうぜ」 「話すこともないんだがな」 「じゃあ、勝手に質問するわ。っつーか、まず、何やってんの?」 「本を読んでいる」 「見りゃわかる、何読んでんのってこと」 「タイトルくらい読めるだろう」 「そりゃわかるけどさ、そ-じゃなくって」 皮膚を掻き毟るような気持ちで頭をかく高尾を他所に、緑間は湯呑に口を付けて、熱い、と顔をしかめている。ざまあみろ、と高尾が思ったのは、口には出ていなかったかもしれないが、顔には出ていただろう。緑間は僅かに高尾を睨んで、ぱたぱたと左手で立ち上る湯気をあおいだ。その呑気な動作が、またあまりにも場にふさわしくないので、高尾は肩を落とす。どうも先程から、噛み合っていない。 『多分緑間くん、昨日家に帰ってから、『緑間真太郎』としての生活なんてしてないですよ』 『緑間くんの役は、映画監督になることを夢見て、才能が追いつかず家賃を滞納し、食費も無くバイト代は全てフィルムに回す馬鹿な男でしたっけね』 『君がもし、映画監督になることを夢見て、才能が追いつかず家賃を滞納し、食費も無くバイト代は全てフィルムに回す馬鹿な男だとしたら、どこに行って、何をします?』 黒子の言葉を信じて、一日目の夜、高尾は街中のバーを巡った。映画監督を夢見る男が夢破れたら、きっと酒に溺れるだろうと考えたからだった。太った男たちがビールの泡を撒き散ら���中にも、姿の見えない男がジャズを歌うカウンターにも、緑髪の欠片は落ちていない。映画館を巡っても、カメラの専門店にも、古いフィルムを並べる骨董店にもいなかった。それもそのはず、実際のところ、この男は、家の中でただひたすら何だか判らない本を読んでいたのだ。 「……黒子からさ、お前のことちょっと聞いたんだけど」 「そうか」 「食事とかもしないで女漁ってるかもって」 「はあ?!」 初めて緑間は大きな声を上げて、唖然とした顔をした。その表情に、高尾は黒子に騙されたことを知る。確かに台所に使用された形跡は無かったが、緑間の手元には確かに近所で買ったのであろうサンドイッチがちょこんと置いてあるし、この部屋のどこにも女の影はおろか、香水の匂いのひとつもしない。そうでなければ、高尾をあげたりはしなかっただろうが。 「お前……それを信じたのか……」 「うっ、いや、だって、あまりにも真に迫ってたし」 「俺が、そういった女と一緒に、ふしだらな生活をしていると」 「いや……あの……」 「そうか、そうかそうか。俺は、ほぼ初対面の見知らぬ男に、仕事をサボって、女に耽るような人間だと、そう思われていたわけだ、そうかそうか」 「いや、あの、百%そうというわけじゃなくてですね、役作りの一環として、もしかしたらって、いう」 「役作りのためだけに女を抱くような男だと」 「すみませんでした!」 高尾の発言は、確かに当人からしてみれば謂れのない冤罪なのだろう。しかも、普通に、礼を失している。それを信じ込んだ自らの愚かさもだが、それ以上に高尾は黒子を呪った。間違いなく、ここまで見越して、黒子は高尾に緑間の住所を教えたに違いなかった。今頃、高尾のうめき声を想像して笑っているのかもしれない。傍から見ていれば、滑稽な喜劇だろう。 「あーっくっそー騙された!!」 「そんな台詞を信じるお前も悪い」 「いやいやいや、そりゃ俺だって普通だったらどうか知らんけど、相手お前だし」 「それもまた失礼な発言だな」 「しかも黒子の言うことだぜ? お前の馴染みだろ。信じるわ」 「舞台とミステリー小説以外は全て嘘をつくものなのだよ」 「何ソレ」 「ただの俺の考えだ。舞台も小説も、騙しはするが嘘はつかない。ルール違反だからな」 「それ以外は全部嘘つき?」 「その通り」 溜息をつきながら高尾は自らの分の茶を一口飲む。それを見て緑間も再び口をつけるが、あっつ、と呟いてまた元に戻した。どうやら猫舌だというのは嘘でも何でも無かったらしい。偏屈で気難しい男の癖に、何故かこんなところでは正直らしかった。人としてのバランスの取り方がおかしいのではないかと高尾は思う。 「黒子は別に、小説の登場人物でもなければ、舞台の一幕でもないのだよ。ただの影が薄い、人間観察が趣味だと言ってのける少し意地の悪い男というだけだ」 「真ちゃんって黒子のこと嫌いなの」 「別に、どうということもないな」 あちらは俺のことが苦手なようだが、と平気な顔で言ってのける緑間はまだ手元の湯呑に苦戦している。昔馴染みに苦手に思われていることを、彼は本気で気にも留めていないようだった。 高尾は考える。先程はああ言ったものの、黒子の発言の全てが嘘だったとは、高尾にはどうしても思えない。確かに緑間は女を連れ込んでこそはいなかった。酒に溺れてもいなければ、人を殺しもしていなかった。ただ、黒子の話を聞いた時、高尾が真に怯えたのは何だったか。それは、緑間の、役に対するディテールの、作り込みではなかったか。その役が生まれてから、死ぬまで、何を考えて生きて、どうやって行動してきたのか、それを全て突き詰めなければ気がすまないという、その妄執ともいえるこだわり。 今、緑間の読んでいる本が映画の評論であることも、積み上げられているタイトルがほぼ全て映像関係のものであることも、床に散らばるパンフレットが、往年の名作映画であることも、高尾は疾うに気がついている。 「……俺さ、黒子から、お前がもう家に帰ってから『緑間真太郎としての生活をしてない』って聞いたわけ」 「馬鹿馬鹿しい。俺は緑間真太郎以外の何者でもない」 「うん。まあ、『家に帰ってから』ってことは、家にはいるんだなって気がついてお前の家来たわけだけどさ」 「はた迷惑な話だ」 「真ちゃんは、三日間とじこもって、この部屋で文献漁って役の研究してるわけ」 「まあ、そういうことになるのか。図書館には行ったが」 「食事は? 全部外メシ?」 「元々俺は料理はできん。必要最低限の栄養はとってる。舞台の途中で倒れるわけにもいかないだろう」 「女の子連れ込んだり」 「女よりもうるさい男は図らずも連れ込むことになったがな」 「イヤミっぽい男はモテねえぜ」 黒子は嘘をついてなどいなかったのだ。緑間は、本気で、自らの役を突き詰めて考えようとしている。それは途方も無い、傲慢ともいえる作業だ。役の設定では、二十代後半となっていた。その人生の全てを、三日間で作り上げようというのだから。二十年の人生を得るには、二十年の時間が必要だ。時間というのは、そういうものだ。誰にも早送りなど出来ないし、スキップすることも、できはしない。 緑間が再三、邪魔をするな、時間の無駄だ、と吐き捨てているのは、理由のない言葉ではない。本当に時間がないのだろう。三日間というのは、緑間真太郎が定めたギリギリのリミットなのだ。 かといって、それは、舞台稽古に出ない理由にはならないと高尾は感ずる。与えられて一日で、役をマスターする人間などいないだろう。その為に、練習があり、ステージがあるはずだった。他の者と一緒に、演技の中で本質を見つけ出していけばいい。一人ではたどり着かない発想もあるだろう。 「わかった」 「へ? 何が? 正直言って、俺にはさっぱりわかんねえわ、お前のこと」 「このままだとお前には永遠にわからないだろうということがわかったのだよ。お前に理解されたくも無いが、理解しなければ納得しないなら仕方がない」 「仕方無いって」 「高尾、お前ならこの台詞をどう読む」 「へ?」 「別に試しているわけじゃあないから」 お前は、どう読む。そう言って高尾に渡されたのは今回の舞台の台本だった。そこには無数の書き込みと、高尾には判らないマークが散らばっている。これら全て、緑間がこの二日間でつけた印に違いなかった。書き込みが多すぎて、実際の台詞が埋もれてしまっている。 高尾は緑間の指差す台詞を目でなぞる。特にどう、ということもない。ただ音読すれば良いという訳では無いだろう。どう読む、と聞かれているのだから、それはつまり、どう表現する、と尋ねられているに等しかった。試しているわけではないと緑間は注釈をいれたが、それを信じられるほど高尾は能天気な頭をしていない。オーディション前に、心臓を一本の氷の針が通り抜けるような、ぴりっとした緊張感。それを悟られないように、極めて何でもないような顔で高尾は一瞬その役を演じる。 「『何千枚のフィルムを切ったって、君が撮った一枚の赤子に敵わないんだ』。……これがどうかした?」 「別にどうもしない」 「はあ?」 「どうもしない、が、わからない」 まだまだだな、とか、そんな言い方で恥ずかしくないのか、とか、何がしかの罵倒が飛んでくるだろう、と身構えていた高尾の予想は見事に外れた。緑間は、一切の評価を高尾に下さなかった。褒めもしなければ、けなしもしない。フラットだった。 じりじりと、焼け付くような違和感を高尾は覚えている。出会ってまだ数日しか経っていないが、緑間真太郎という男が、一切の虚飾無しでしか動かないことを高尾は知っている。初対面だとか、或いは上司だとか、部下だとか、神様だとか、そういったものに頓着しないで、緑間は辛辣な台詞を吐くだろう。だからお前は駄目なのだよ、そんなことしても無駄だ、興味が無い、消えろ、死ね。彼の信念に反するものは、ことごとく拒絶される。そんな男が、高尾の台詞に、ダメ出しの一つもしない。そんなことが、あるだろうか。 高尾はベテランの老優でもなければ、天才的な役者でもない、ダンサー上がりの、演技にかけては素人だというのに。 「お前、今、どういう気持ちでこの台詞を読んだ」 「どういうって……、悲しい、とか、悔しい、とか、でもちょっと憧れてる、とか、そういう感じ?」 「そうか」 「なんか間違ってた?」 「正解も不正解もないだろう。脚本に存在するのは解釈の違いだ」 正解が知りだければ脚本家に聞け、と緑間は飄々と受け流す。納得のいかない高尾を、緑間はレンズ越しに僅かに睨んだ。或いはその瞳は、哀れんでいたようにさえ見えた。 誰を? 「俺にはな、高尾、お前が言っていることがわからない」 「……は?」 「わからないから、話せない」 「なに、どういうこと」 「お前は何故、この台詞から、悲しみや、悔しさや、憧れを見出したんだ?」 「いや……それは、だって、そういうもんかな、って」 「わからん。わからないのだよ。お前の言っているこの役の気持ちも、そのの発言も、何もわからん。本当にこいつは、何千枚ものフィルムを使い果たしたのか? それともただの比喩か? こいつの絶望はどれくらいのものだ? 何故これをわざわざ口にした? どういう気持ちで? ただ一枚の赤子の写真に、こいつは何を感じたんだ? 何故それに負けた? 俺には全くわからない」 ソファにもたれながら、緑間は吐き捨てる。舞台俳優として、ありとあらゆる栄光を手にしてきた男は、高尾がちらりと目をやっただけで読み取ったことが、何一つとしてわからないという。ありとあらゆる観客を熱狂させてきた男は、何故人がそこまで興奮するのかわからないという。人の気持ちが、わからないと、言うのだ。 緑間が、無言のまま茶をすする音で、高尾は我に返った。時間が経っている。そして、窓の外の星は刻刻と位置を変えている。夜が深まってきているのだ。流石に泊まるのは気が引けるし、そもそも緑間に泊めるつもりは無いだろう。残された時間は少ない。 「……考えすぎじゃねえの」 「よく言われる」 俺からしてみれば、何故、お前たちは考えないで理解できるのか、そのことが何よりも、理解しがたいのだよ。 緑間は哀れむように呟く。その哀れみの対象は、何も知らない高尾ではない。何も理解できない、緑間自身に向いているのだ。 「高尾、俺はな、お前が何も考えずに口にした、悲しみも悔しさも憧憬も、一つもわからない」 「わからないって」 「お前が何も考えずに理解したそれはな、俺にとってはどんなに複雑な数学の定理よりも難解で、複雑で、混迷を極めている」 誰が想像しただろう。天才だともてはやされ、俳優として得られるだけの全ての名声を得ている男が、たった一つの台詞すら理解できないなどと。 何を馬鹿なことを、と、笑い飛ばすことが高尾には出来なかった。この部屋には真実だけが鎮座していた。緑間真太郎は、その真ん中で、億劫そうに溜息をついている。 「だから言っているだろう。稽古に出るための準備をしている、と」 「出るための、準備」 「今の俺が稽古場へ行っても、初まりの言葉すら発せないだろうな。木偶の坊のように立ちすくむだけだ」 高尾が読んだ一文を、緑間は読めないのだという。どのような気持ちで読めばいいのか、わからないのだと言う。ホンの数秒の、薄っぺらな解釈さえ、理解できないと言う。どうやって感情を載せればいいのかが判らない。どうやって表現すればいいのかわからない。そもそも、表現すべき、個がわからないと言っているのだ。それは役者として、あまりにも致命的な欠点だった。 それでもなお、緑間は、役者として君臨する。 そのための努力が、そのための土台が、この膨大な資料と、三日間の時間だった。高尾ははっきりと理解する。緑間の天才性は、才能は、演技そのものではない。そこにたどり着くまでの、異様なまでの集中力と、執着。与えられた役と脚本に対する、一切の妥協を許さない姿勢。それを押し通すだけの精神。 怪物だ、と高尾は思う。同じ人間とは、とてもではないが思えない。どこにいるだろう、他人の気持ちが一つも理解できないからといって、そいつの人生をもう一度全て見直そうとする者なんて。 高尾の目の前で、怪物は淡々と夜の幕を引こうとする。 「台詞も言えない役者に価値など無い。稽古だろうが何だろうが、俺が舞台に立つ時は役者としてだ。それを邪魔してくれるな」 カツン、と空っぽの音を響かせて、湯呑はテーブルの上に戻された。高尾は空っぽのそれを覗き込む。そこには何も無い。ただ、何も無い。 「ただの緑間真太郎など、舞台の上に立つ価値もない。明後日には練習に出る。それまでには、お前の言っていた、悲しみも、悔しさも、学んでおこう。話は終わりだ。わかったか?」
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abcboiler · 3 years
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【黒バス】TEN DANCER has NOTHING -2-
2015/01/03Pixiv投稿作
「脚本は人生によって汚されたのです」 ジョセフ・エル・マンキーウィッツ『裸足の伯爵夫人』
他人の熱をどうやって知ることが出来るだろう *** 「……あれ?真ちゃんは?」 「緑間くんなら三日は来ませんよ」 高尾と緑間が出会い、夕飯を共にした翌日、稽古の開始は午前十時だった。早朝ランニングの服のまま、高尾が稽古場入りしたのは丁度その一時間前で、板張りのがらんとした部屋に人影は無かった。彼は誰もいない稽古場に向けて「よろしくお願いします」と頭を下げ、靴を履き替えて入口から踏み入る。稽古場だろうと、舞台は舞台である。舞台には、敬意を払わなくてはけない。それは役者だけではなく、ダンサーも、或いはバスケットプレイヤーや野球選手も同じことだ。自分たちが立つ舞台へ、尊敬と畏怖の念を忘れた者から落ちていく。自分がどこに立っているのか、それを理解しない者に居場所が与えられるほど、世界は広くなど無いのだ。 初日にチェックしていた照明のスイッチを入れれば、窓の無い稽古場がぼうっと青く光る。どうやら設備が古いらしく、完全に点灯するまでに時間がかかるらしい。さして気にも止めず、高尾はミラーと椅子を引っ張り出す。歴史ある劇場に備え付けの稽古場は、その歴史にふさわしくあちこちに時間が刻んだシミや引っかき傷が残っていた。けれど、手入れをされていないという訳ではない。大切に使われてきたのであろうことは、机のネジ一つとってみても判る。広さざっと10メーター掛ける6メーター。天井の高さ5メーター。稽古場の中でも、ある程度の広さが確保されている部類だ。軽く準備運動をしていれば他の共演者たちもぽつりぽつりと入って来る。 挨拶を交わしつつ、高尾は共演者たちの目を見る。どうやら、誰よりも早く来て準備を済ませていた高尾に悪感情を抱く者はいないらしかった。高尾は、それなりに名の知れた役者たちの中に、突如紛れ込んだダンサーだ。どれだけ高尾が踊りの世界で名を馳せていようと、ここでは全くの初心者である。準備運動をしっかりとしたかったというのも勿論あるが、誰よりも早く来たのは、共演者達への敬意をわかりやすく示すためでもあった。 いつだって、どこだって、下っ端のやることは変わんねえよ、と言って笑った、高尾のスクール時代の友人がいる。 『誰よりも早く行って、雑用して、笑顔で挨拶して、どんなことでも引き受けるんだ。世界はこんなに広いのに、ボトムビリオンのやることは変わんねえし、逆に言や、それだけやっときゃどんな世界でも受け入れられるんだ。最高に笑えるよな』 全くもってその通りだと、その時の高尾は笑いながらくすねたスタウトで乾杯したものだが、いざ世界に出てみれば、九割は彼の言う通りだった。そして残り一割はといえば、表立ってはそのように従順な態度を示す人間を、侮蔑するタイプの人間だった。そういった人種の大抵はひねくれていて、人の好意を素直に信じない。ごく稀に、そういった「表面だけの従順さ」或いは「気に入られようという下心」を敏感に察知して嫌悪を示す潔癖な人間もいるが、高尾は滅多に出会ったことが無い。そして、この舞台に集まった役者たちは、皆、ある程度の癖はありこそすれ、真面目で、一本気な人間らしかった。そのことに彼は素直に安堵する。仕事を共にするにあたって、仲間は気持ちがいいほうが良いに決まっている。 (まあ、真ちゃんなんかは、割と残り一割の人間っぽいけど) にこやかに笑いながら、高尾は頭の中で気難しそうな緑髪を思い出す。そうして、稽古開始10分前になっても、その鮮やかな芽吹きの色の、影も形も見えないことに首を傾げた。顔合わせの時の緑間は、丁度30分前に現れた。一分の狂いも無かったのだから、それが彼の流儀なのだろう、こだわりの強そうな男だから、自分の決めたルールから外れるようなことはすまい。高尾は、そう思っていたのである。そう思っていた所に、突如かけられた声だった。 「緑間くんなら三日は来ませんよ」 「……三日? 三日は来ないって、どういうこと?」 「僕に驚かないんですね」 「いや、驚くも何も普通に話しかけられただけじゃん」 「そんな反応されたのも久しぶりです。いや、初めてかもしれません」 高尾の横に静かに現れたのは、水色の髪の少年だった。髪と同じ水色の、大きな瞳に感情は見えない。埃一つついていない燕尾服は、舞台の上ならば映えるだろうが、この稽古場では浮くばかりである。黒の燕尾服と青白い肌のコントラストは沈黙を発している。背は低く、線も細く、とても役者とは言い難い風貌をしていた。 そもそも昨日の顔合わせの時に、こんな男を彼は見た覚えがない。稽古場に燕尾服で現れるような人間を、忘れる筈も無いのだから、間違いなく高尾とこの男は初対面だ。けれどこの少年の佇まいは、高尾に既視感をもたらした。 この色を、この空気を、どこかで見たことがある、それも、つい最近。 脳みその奥でぐるぐると記憶が動き始めるが、その既視感よりも、少年の言葉の意味よりも、高尾には気になることがあった。頭蓋骨の奥で回転を続ける脳を放って、高尾は思ったままの質問をぶつける。 「えーっと、真ちゃん、三日は来ないって、マジ?」 「ええ、マジ、です」 「……なんでそんなこと知ってるの?」 「緑間くんはぶっ飛んでいるなりに真面目ですから、支配人に連絡はちゃんと入れますよ。欠席の連絡、ですけどね」 「……支配人?」 「ええ」 高尾の訝しげな瞳にも、鋭さを増していく視線にも動じることなく、水色の瞳はじいっと鏡のように見つめ返してくる。その静寂さを、高尾はふと思い出した。 これは、舞台が始まる前の沈黙だ。 例えば稽古場の照明を灯した瞬間のぼうっとした青い光。或いは、幕が開く直前に落ちた沈黙の色。目の前にいる人間は、舞台の上でスポットライトを浴びる人間ではなく、けれど必ず、舞台の始まりに潜んでいる影だ。既視感の理由を突き止めて、高尾はもう既に判りきった解答が与えられるのを待つ。 「君にこの舞台のオファーを出したのは僕です。顔を直接合わせるのは初めてですね」 「……まさか、こんだけ伝統ある劇場の支配人がこんな若いとは思ってなかったわ」 「童顔なんですよ、僕。年齢的には君や緑間くんと変わりません」 「それでも充分若いって」 「同世代の若造に雇われるのはお嫌ですか?」 「まさか。その逆。すげーよ、お前」 苦笑しながら高尾は右手を差し出した。雇い主に対して随分と馴れ馴れしい口を聞いてしまったとも思うが、恐らくこの人物はそういったことを気にしないだろう。支配人といえば、いつだって、劇場を我が物顔で歩き回り、まだ売り出されてもいないような若い卵を小間使いのように従えて歩いているのが常だった。黒子テツヤと名乗る男に、その虚栄の影も見えなかった。そして何より、入口で丁寧に揃えられた、曇りひとつない黒い革靴を、高尾は確かに視界に捉えている。黒子もまた、舞台という圧倒的な存在に、尊敬と畏怖を覚える人種なのだ。そんな確信と共に、高尾は、自分の右手が、冷たく青白い右手に握られるのを感じている。 「改めまして、この度はこのような歴史ある舞台にお招き頂きましてありがとうございます。高尾和成です」 「黒子テツヤです。この度はご無理を申し上げましたが、快くお引き受け頂き感謝致します。感謝の証に、この口調はやめましょうか」 「はは、助かるわ、こういうしゃちほこばったの、苦手でさ」 「僕も無意味なやり取りは興味ないです。虚礼廃止派なんですよ」 「へえ。劇場��んてトラディショナルマインドの塊かと思ったけど」 「伝統と歴史は大切ですよ。気持ちがこもっていなくちゃ意味が無いってことです」 「耳が痛いね」 別に君は、伝統も歴史もないがしろにする人間じゃあないでしょう。 そう言って静かに笑う黒子に、高尾は目の奥の苦笑を隠せない。出会って数分で、見透かしたようなことを言う。臆するどころか、一つも揺るがない調子で。黒子は、身にまとう静謐な空気とは裏腹に、その内面は感情豊かな男のようだった。いっそ、苛烈とさえ呼べるほど。 「しかし、なんでまたわざわざ俺に声かけたのさ?黒子さん」 「さん付けなんてしなくて良いですよ」 「いや、そりゃ流石に不味いだろ」 「緑間くんの懐に、一日目にしてあそこまで入り込んだ人ですから。『友達の友達は友達』、とまでは言いませんが、『奇妙奇天烈な友人の数少ない友人になりそうな人』は大切にしたいんですよ、僕も」 「……真ちゃんとは友達なんだ?」 「腐れ縁です」 僅かに剣呑な雰囲気を帯びた高尾に、黒子は内心で驚嘆と呆れの入り混じった溜息をつく。黒子も黒子で、この異端のダンサーには思うところがあった。勿論お首には出さないが、どうやら、この高尾和成という男の緑間真太郎への執着は、事前に黒子が伝え聞いていたよりも一段と強いようである。それは、噂の方が間違っていたということでもないのだろう。何せ黒子に高尾の存在を教え、その詳細な情報を伝えて寄越した男は、人を見る目だけは確かだった。口調や言動こそ軽い男だけれど、人脈の広さと内面を探ることに関しては黒子も認める所である。その彼の情報では、ここまでの執心はうかがえなかった。 どうやら『緑間真太郎』の実物と出会ったことによって、その執心が一段と深まってしまったらしい。そう黒子は察しをつける。 「……さっきの君の質問ですが」 「さっき?」 「自分で聞いたんでしょう。『何故俺に声をかけたんだ』って」 「ん? ああ、そうそう、そうだったわ」 「僕には、顔の広さだけは誇れる友人が一人いましてね」 「君の噂はかねがねお伺いしています」 そう黒子が告げた瞬間に、高尾は確かに薄く笑った。高尾和成の『噂』は、どうやら彼自身の耳にも届いているらしい。どこまで知っているのか、等という無粋な質問を、高尾はしなかった。その代わりに浮かべたのが、温かみの欠片も見つけられない、酷薄な笑みだった。会話の切上げ時だ、と黒子は感じる。そうして何故、自分の周りには、こうも厄介な人間ばかり集まるのだろうと考えている。舞台に立つ人間は、そこで輝く人間は、どれだけ真っ当に見えても必ずどこかが歪な形をしている。その歪みこそが輝きを生むのだと思わせるほどに、強烈な光を放つ物ほどその歪みは大きい。黒子の脳裏に浮かぶのは、神経質そうに眉をひそめて腕を組む、緑の友人。 (君は僕の友人の中でもとぴきり奇妙で扱いにくい人だけれど、変人は変人を引き寄せるんでしょうかね) 周りからすれば、はた迷惑な話だ、と一人で納得する黒子には、自分もその一員なのだという自覚は、少なくとも高尾和成からは同じカテゴリに分類されている自覚は、ない。 「長々とお喋りしてしまいました。もう立ち稽古始まりますけど大丈夫ですか?」 「いや、別に準備運動は済ませてっからいいけど……つうか、そうだよ、真ちゃん結局来てねえじゃん。そのこと聞きたかったのに話逸れすぎだわマジで」 「不思議なことです」 「お前なあ……まあいいや。俺は役者じゃねえけどさ、どう考えてもおかしいだろ。場当たり稽古で役者がいないって」 「そうですね」 時計の針は、十時一分前を指している。座ってストレッチをしていたものも立ち上がり、集合の声がかかる瞬間を待っている。もう、舞台は始まるのだ。片手に台本を持った場当たりの稽古だろうと、そのことには変わりない。そうして、高尾が待ち焦がれる緑色は、恐らくもう現れないだろう。 「彼とんでもない馬鹿なんですよ」 「……随分と知ってるんだね」 「腐れ縁だって、言ったでしょう。まあ、馬鹿さ加減なら、君もどっこいだと思いますけどね」 「さっきから、結構ずけずけ言うよなあ、お前」 「そうですね」 飄々と高尾の視線を交わす黒子の顔には罪悪感の一つも浮かんでいない。高尾には判る。この黒子テツヤという人間は全く悪びれていない。高尾が何も判らずに、少しずつ苛々の棘をあらわにするのをじいっと観察している。そうやって、高尾和成を見定めようとしている。そのことが、高尾には、わかる。何せそれは、形こそ違えど、高尾が朝、この稽古場で他の共演者たちに向けたのと同じ瞳なのだから。 「あー、なんかなあ、俺結構人あたり良い方なんだけど」 「自分で言いますか」 「言うね。高尾ちゃんだって顔の広さならそれなりだよ。でもなんかお前は、ちげーや。同族嫌悪ってやつかな」 「そうかもしれません」 集合の声がかかる。高尾は黒子に背を向ける。結局、緑間が何故来ないのか、その答えを黒子は一つも言わなかった。焦ることはない、と高尾は言い聞かせる。黒子が支配人というのならば、彼はこの劇場の住人だ。この劇場の中に、必ずいる。そして恐らく、隠れもしないだろう。練習終わりにでも捕まえればいいし、万が一捕まえられなかったとしても、三日後に緑間が来るという情報は確かなのだろうから。 「でも、君と僕は全然違いますよ。全く、一つも、何もかも、全部」 意外なことに、背中を向けた高尾にも黒子は言葉を続けた。背中でその言葉を受け止めながら、高尾は頭のスイッチをぱちりぱちりと切り替えていく。緑色を遮断して、水色も遮断して、その代わりに頭に浮かべるのは真っ白いスポットライトだ。幕が上がるまでの静寂と、布擦れの音、音楽と、軋む床。それを思い浮かべれば、今まで頭の中を占めていたことはゆっくりと消え去っていく。舞台の上は、もう違う世界だ。 そうやって段々と現世から消えていく高尾へ、亡霊のように、水色の声は続いている。 「僕は黒子ですから」 「……?」 「君はそちらの人間だ」 その声の、あまりの冷たさに高尾は振り返った。振り返った先に見えた瞳は、相変わらず鏡面のように静かで、そこに映りこんだ高尾自身まで反射して見えた。その姿を見たことを、僅かに高尾は後悔した。 「ステージもミュージックもミラーも、僕には手に入れられなかった」 深淵を覗く時、深淵もまたお前を覗いているのだと、そんな古い戯曲の一節を、何故か高尾は呼び起こした。成程確かに、この黒子テツヤという男は影だった。劇場に潜む、影だった。 * 「ああ、高尾くん、お疲れ様です」 「……お疲れ様です……ってかなんでここいんの? そんなケロッとした感じで?」 「ケロッと、というのが何を指しているのかよく判りませんが、そういえば緑間くんが来ない理由言い忘れてたなと思い出して」 「え?! いやそりゃ言われなかったけど、何あれわざとじゃなかったの? 嘘だろ?」 「すみません、忘れてました」 「マジかよ……」 あまりにもあっけらかんとした黒子の態度に、高尾は思わず頭を抱えて蹲る。あれだけ思わせぶりな態度で人のことを引っ掻き回しておきながら、自分は無実だと言わんばかりのこの態度はどうだ。 窓の外はもう日も暮れて、木枯らしの音と星の瞬きが聞こえるのみである。これが演劇初舞台となる高尾にも薄々察せられるように、どうやらこの劇場の練習はかなりじっくりと行われるようだった。公演までは一ヶ月、ほぼ毎日のように練習が入っているが、長い時では一日六時間近く確保されている。恐らく平均の倍近いだろう、というのは事前に高尾が関係者から聞いていた話との比較だ。それだけ、この劇場で行われる演目というのは重大なことなのだろう。それを高尾はこの日一日で感じ取っている。そして、その劇場を取り仕切っているのが、今、彼の目の前でぼんやりと佇んでいるこの男なのだ。 黒子、お前はとんでもない役者だ、という内心を口にするのも悔しく、獣のような唸り声を噛み殺して高尾は小さく文句を告げた。 「いやほんと、お前も大概だわ」 「失礼ですね。僕は少なくとも彼らよりはマシだと思ってます」 「いや本当にどっこいだと思うぜ。真面目に」 「そうですかね」 「はー……、ま、いいや、これ以上言っても無駄だろうし……」 頭をかきながら高尾は立ち上がる。見下ろす黒子はやはり存在感の希薄な何も無い少年で、一体全体この体のどこに熱が潜んでいるのか高尾には全く読み取れない。 「なあ、真ちゃんの連絡先って教えてもらえる? 直接行くわ」 「プライベートもへったくれもないですね。そして残念ながら、僕も知りませんよ」 「知らねえの?」 「自宅のベルという意味なら知っています。或いは郵便物の届け先なら。けど、少なくとも今は無意味ですよ」 「どういうこと?」 「見つけるのは……そうですね、君次第ですけど不可能じゃないです」 「待てって、黒子、ちゃんと説明してくれよ」 「緑間くんを連れてくるというならご自由に。まあ、できるなら、ですけど」 「黒子」 高尾が話についていけないことを理解しながらも黒子は喋り続ける。理解させるつもりが無いのかと苛立つ高尾に黒子が向けた瞳は、高尾の予想に反して一切のからかいを含んでいなかった。ただ、彼に覚悟を問いかけていた。 それは緑間真太郎という役者に、関与することの覚悟である。 「緑間くんはね、絶対に妥協を許さないんですよ」 「稽古には出ないのに?」 「サボりじゃ無いですよ。一応僕だけじゃなく、監督さんや演出さんにも連絡は入ってますし」 「いや、何してんだか知らないけど、来ないんじゃ駄目だろ」 「君だったら朝起きてどうしますか?」 「俺?」 正直な所、高尾和成は、今朝、確かに失望を覚えていたのだ。昨晩ともに夕食を食べた緑間は、少なくとも舞台に対して真剣な態度を示していた。舞台に命をかけている人間の目をしていた。彼は、緑間真太郎が、まさか初日から練習を欠席するような男だとは、ゆめにも思っていなかったのである。そんな男を追いかけてこの舞台に来たのかと自身をあざ笑いさえした。ただ、何より、高尾は、何故緑間がこのような行動に出たのかを問いただしたかったのだ。理由なく休む男ではないと信じていた。けれどその内容如何によっては、あの顔を殴ることも辞さないとすら考えていた。黒子の態度によって誤魔化されてはいたが、高尾が緑間に対して抱いていたのは、紛れもない怒りだった。 自分だったらどうするか、という問いは、高尾からしてみればナンセンスな質問だった。準備をして、練習をしに行くに決まっている。そうして高尾のその答えに、黒子は静かに首を振った。 「高尾くん、君は普段、朝起きて、何をしますか?朝起きて一番に、トイレに行きますか?顔を洗いますか?或いは真っ先に朝ごはんを食べる?それともご飯は食べない?食べるとしたら、パン?ライス?フレーク?それとも果物や飲み物だけ?着替えてから朝食を食べますか?それとも先に支度を全て済ませてから最後に着替えますか?靴を履くのは右から?左から?その靴は誰が選んだ物ですか?どこで買ったもので値段はいくら?新聞は手に抱えますかそれとも鞄?ニュースはテレビジョンで見るだけ?欠伸は噛み殺しますか?それとも手で隠しますか?そうですね、それから」 「ちょ、ちょいまって、なに、黒子、そんなに俺のこと知りたいの」 「そうですね、君には何の興味もないですけど」 「失礼すぎだし、お前さっき、友達の友達候補は大事にとか言ってたろ」 「成程、僕が言いすぎました。でも、そうでしょう? 他人のそんなところまで興味、ないでしょう、普通は」 「そりゃあ、まあ」 「そんな所まで気にするのは、緑間くんくらいです」 黒子の言葉に高尾は首を傾げる。たった一度食事をしたきりではあったけれど、緑間がそのような人間だとは彼にはどうしても思えなかった。彼は高尾に一切の詮索をしなかった。質問こそすれど、高尾が隠したいと望んだことを、隠していると気がつきながら、それ以上踏み入ることはしない男だった。 『そんな姿勢で人事を尽くせるのか?』 そう尋ねた緑間の瞳に燃える炎を高尾は覚えている。茨のような形をした緑の炎。けれど、高尾がその答えをはぐらかせば、その棘を突き刺そうとすることもなくしまいこんだ。緑間は、人の痛みに鈍感な男ではなかった。かといって、わざわざ人に関与しようとは思わない、自分の国を守ることができれば他は預かり知らぬ、そういう態度をとる男だった。 「真ちゃんなんて、他人に興味ないベストテンって感じの顔してるけど」 「君もなかなか失礼ですがその通りですね」 呆れたように笑う黒子の顔に怒りが見えないのは、黒子なりの肯定に他ならない。そう、緑間真太郎は他人などに興味が無い。興味を持たずに、生きてきたのだ。 「でも言ったでしょう。彼は妥協を許さないんですよ。だから、自分の役が、朝、何をしているのか、知らないなんてことを彼は許さない」 「……嘘だろ?」 「嘘なら良かったですね」 緑間真太郎。高尾和成が10点の顔だと評した男。彼が出る舞台のチケットは即日完売。舞台から徐々に人が、観客が失われていく中でも変わることなく、常にスタンディングまで客席は埋まる。赤いベロアの椅子が、その生地を覗かせることなどない。そこには常に、人影がある。高尾だって、チケットを手に入れるには、関係者のコネクションを辿りに辿って、ようやくスタンディングセンター一列だったのだから。 自分はもしかしたら勘違いをしていたのかもしれない、と、ふと高尾は閃いて、脳裏にちらついた空想に背筋を震わせた。この劇場の稽古だから、練習が倍量なのではない。 共演するのが緑間真太郎だからこそ、周囲は倍量の練習を、余儀なくされているのではないかと。 舞台の世界は、決して、顔だけではない。 「多分緑間くん、昨日家に帰ってから、『緑間真太郎』としての生活なんてしてないですよ」 「……真ちゃんは、さっきお前が言ったようなこと、全部、考えてるってわけ? 脚本家だってそこまで考えてないようなことを?」 「ええ、何せ、彼、超ド級の、馬鹿なので」 君はさっき、僕が緑間くんのことを馬鹿だって言ってた時に嫉妬していたようですけれど、それは随分と見当違いだったと言わざるを得ませんね。 腐れ縁じゃなくったって、一回でも彼とおんなじ舞台に立てばきっとわかりますよ。彼がどれだけ大馬鹿なのか。 黒子の言葉は高尾の耳を通り抜けて落ちていく。冷たい夜の床に、黒子の言葉は誰に拾われることもなく散らばっていた。 「緑間くんの役は、映画監督になることを夢見て、才能が追いつかず家賃を滞納し、食費も無くバイト代は全てフィルムに回す馬鹿な男でしたっけね」 「……つくづく真ちゃんとは真逆の男だよなあ」 「そうですね。だから緑間くんは突き詰めるでしょう」 自分には理解できない役だからこそ、その役がどういった人物なのか、どこでうまれ、何を考え、何を食べ、何を感じ、何を信じて今の瞬間にたどり着いたのかを理解するまで、緑間真太郎は止まらない。愚直なまでに、それだけを追い求め続ける。妥協という言葉は、緑間真太郎には存在しない。ある程度、などという言葉で彼を止めることなど出来はしないのだ。 『一つの物を極めるためには、他の物を捨てねばならないだろう』 「もう一度聞きます。君ならどこに行きますか?」 「俺なら」 「君がもし、映画監督になることを夢見て、才能が追いつかず家賃を滞納し、食費も無くバイト代は全てフィルムに回す馬鹿な男だとしたら、どこに行って、何をします?」 高尾の顔色は黒子に話しかけた時と比べて段々と悪くなっている。そこに浮かんでいるのは、一種の恐怖だ。或いは、畏怖だ。舞台に全てを捧げる男の、凄惨なまでの一途さは、人がたどり着いていいものではない。 「君が考えるこの役と、緑間くんが考えるこの役がもし一致すれば、きっと君は緑間くんを見つけられますよ。」 「そんなの」 「まあ、焦らなくてもいいんじゃないですか。彼が三日と言ったからには三日でつかめると判断したんでしょう。三日後には会えますよ」 「三日間、役になりきって生活してんのかよ、あいつ、一人で」 「妥協ができないんです彼は。それに一人とも限りませんよ。もしも彼がこの役を『女好き』だと判断したのなら女性の一人や二人や三人四人、引っ掛けていてもおかしくないですし。三日間、ヒモとして面倒見てもらってるかもしれません」 「……は?」 黒子の発言は、高尾の強ばっていた表情を一瞬呆けさせ、それから引きつらせるのに十分だった。 何かを口に出そうとして、何を口にしても藪蛇にしかならないことが目に見えて、高尾は二の句が継げずにいる。右手はさまよった挙句に、彼の頭を抱えた。そうしてその様子を興味深そうに最後まで観察した黒子は、きっかり三十秒後、��尾から一切の言葉が無いことを確認して背を向けた。今度こそ、用事は無いとばかりに。自分の出番は終わったとばかりに。 「それじゃあ、僕はここで。高尾くんも慣れない練習で疲れたんじゃないですか? 公演が終わるまで体調管理はしっかりお願いしますね。大楽が終わって幕が完全に降りたあとでしたらいつでも熱出してブッ倒れていいので、それまではどうか健康に。心身ともにとは言いませんが、出来れば両方整うと良いですね。それでは」
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abcboiler · 3 years
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【黒バス】TEN DANCER has NOTHING -1-
2014/10/13Pixiv投稿作再録
「私たち俳優は残酷な職業である。その仕事に一生を捧げた以上、残酷さもいよいよ鋭いものになる。 残酷さと生きること、それはまったく一つのものだ」 ジャン=ルイ・バロー
この熱を知らないで、どうやって生きていけるのだろう *** 観客のざわめきが、ブザーの音と共に引潮のように静まり返っていく。隣に座る家族や恋人と、小声で会話をしていただけの観客は、そこでようやくこの無数のざわめきがどれほど大きな存在だったのかに気がつくのだ。そうして、目の前にある舞台の発する、深い沈黙に身を任せる。静まり返った沈黙の底では、ホールの中をゆっくりと渦巻く、空気の音まで聞こえるようだ。 無意識の緊張は時間を引き伸ばす。たった数秒の間に、観客は形の無い期待を、人一人が抱え込むには大きすぎるほどに膨らませる。人の欲に際限が無いように、形の無い期待に上限は無い。その浅ましさを喜んでこそ一流のスターだと、かつて一世を風靡した役者は語った。 姿の無い期待を形にしろ。色も形も具体的なヴィジョンもない子供のように我侭な夢を、目の前で全て見せるのだ。 落とされた照明が作る暗闇の中で、オーケストラの指揮者が静かに腕を振り上げる。指揮者の燕尾服は、必ず暗闇の色をしている。ミッドナイトブルーと呼ばれるそれは、夜の礼服の中で最も格調高い。銀の指揮棒が、どこにも無い筈の光を反射して、一瞬ちかり、と光る。 そうして全てを断ち切るようにその光が振り下ろされる瞬間。臙脂色の緞帳が重く空気を震わせながら巻き上がり、ありったけの照明が舞台を照らす、その、瞬間。 その瞬間に瞳を閉じる。 世界が変わる瞬間に、ふっと取り残される感覚。緑間真太郎が舞台に立つ度に必ず行う、彼だけが知る、彼だけのジンクス。 瞳を開けた時には、世界はもう変わっている。色とりどりの眩しい光。大掛かりな舞台装置から飛び降りる人。鮮やかなドレス。一糸乱れぬ、コーラスライン。 * 「……ミュージカル?」 「ストレートプレイだけではいずれ限界が来ます。映像に行くというなら話は別ですけれど」 「断固断る。フィルムなんてものに魂を吸われるのは御免だ」 「緑間くんはいつもそう言いますね」 稽古場に着いた緑間に、支配人が渡したのはシンプルな楽譜サイズの手紙だった。並んだ文字はインクリボンの滲みもなく、文末にはサインと見慣れたホットスタンプ。見間違うこともない、正式な、次の舞台の契約書。記してある演目名に馴染みはなく、この劇場の新作であることは間違いがなかった。 緑間は劇場と契約を結ぶ訳でもなく、更に言えばどの劇団にも流派にも所属をしない、完璧に独立した珍しいタイプの役者である。何処にも所属しないということは、いつ仕事が無くなってもおかしくないということだ。自由の代償は責任ではなく飢え死にである。自由に好きなことを出来るのは、選ばれたひと握りの人間だけだ。緑間も、そんな人間の一人であった。 それでも長年この仕事を続けていれば、馴染みの劇場も、監督も出来てくる。自由であることは、人間関係からの開放を意味はしない。ここの支配人もその一人で、緑間が名前の売れる前、初めて名前の付いた役を与えられたのはここの舞台だった。パンフレットに自分の名前が書かれたのも、ここが初めてである。となれば自然、縁起を担ぐ緑間にとっては重要な場所になる。名優として引く手あまたとなった今でも、この劇場での誘いを断ることはあまりなかった。 「黒子、俺は舞台を極める前に他の地へ行くつもりはないのだよ」 「だとすると、やはりミュージカルを捨てる訳にはいきません。君の信念を否定するつもりはありませんが、時代は間違いなくショービジネスに流れています」 「判っているし、悪いことでもない」 「緑間くんは運動神経も良いし音楽素養もある。ある程度ならすぐに」 「ある程度?」 緑間は、この支配人からの誘いを断ることは、あまりない。あまりない、という言葉は、すなわち『それなりにある』という言葉の裏返しだ。そのことを、この劇場の支配人、黒子テツヤはよく知っていた。よく知っていたから、自分が言葉を間違えたことに気がついた。無表情の下で、誰にも判らない諦めを彼は浮かべる。これは駄目だ、引き受けはしないだろう。頭の中で、この役を引き受けてくれるであろう他の人物を探し始める。何事も見切りと諦めが肝心だということを彼はよく知っていた。 「ある程度、で妥協するつもりはない」 断るのだよ、と突き返された新しい舞台への招待状を、黒子は動揺することなく受け取った。そもそもが駄目元というのもおかしな話だが、適任は他にもいる。黒子がいの一番に緑間に声をかけたのは、実力は勿論だが、頑なにストレートプレイ以外を演じようとしない緑間を、他の舞台へと誘うためだったのだから。 時代は流れている。確実に、着実に、恐ろしい程のスピードで。 映像演劇が世界に広まってから、舞台へと足を運ぶ人間は目に見えて減った。更に言えば最近の世間のお気に入りは、歌と踊りが咲き乱れる華やかなミュージカルだ。派手であればあるほど、華美であればあるほど好まれる。 悪いことではない、と緑間は言った。その通りだと黒子も思う。悪いことではない、むしろ喜ばしいほどだ。華やかな舞台は必要となる人員も多く、ただでさえ狭い役者の枠を少しでも広げてくれる。キャッチーさはそのまま知名度へと繋がり、次の舞台へも繋がりやすい。 それを理解しながらも、頑なにそれを拒絶する緑間を黒子は歯がゆく思う。黒子の元へ届く脚本も、殆どはもうミュージカルだ。このまま、時代の流れと共に消えるには、緑間真太郎という才能はとても惜しいものだった。それは、黒子には、どうしても許せないことだったのだ。 一週間後に黒子が持ってきたのは新作には違いないもののストレートプレイの脚本で、緑間はそれを承諾した。夢を追い求める老若男女の群像劇。黒子がわざとその脚本を緑間に寄越したことは間違いがなかった。何せ、最来月から上演予定のハムレットは緑間の好む古典舞台で、緑間にその声はかからなかったのだから。そうして渡された脚本の中、役の中にダンサーがあることに緑間は気がついたが、それは断る理由にはならなかった。 * 顔合わせの日に集まったメンバーの殆どは緑間の知る人物だった。ストレートに特化した人間は少ないが、そうでなければ緑間とバランスが取れない。必然、メンバーは限られてくる。香盤表を眺めた時、知らない名前はひとつしか無く、見知らぬ顔も一人きりとなれば、それが今回の『ダンサー』であることは容易に推測できた。 「……緑間真太郎だ。よろしく」 自ら挨拶に行くのは緑間のやり方だった。自分の無愛想を理解しているからこそ、始めの挨拶を自ら行うだけでその後がずっとスムーズになることを彼は知っていた。端役だろうが主役だろうが、年次が上だろうが下だろうが、必ず緑間は自分から挨拶に行く。その反応を見れば、それなりに相手の人となりも判るから、というのも理由の一つだった。 大抵の人間は、笑顔で挨拶を返すか、緊張した面持ちで背筋を伸ばす。稀に、あからさまな敵意をぶつけてくる相手もいるが、腐っても役者だ、取り繕うのはうまい。緑間の想定はせいぜいその程度だった。 「……すげえ、10点」 だから、自分の顔を見られた瞬間に、ぽかんと呆けられるというのは、彼にとって全くの、想像の範疇外だったのだ。 緑間が差し出した手は握り返されることなく行き場を失っている。緑間自身ですら手を差し出したことを忘れて固まった。奇妙な空白が二人を取り巻いて、先に我に返ったのは相手の男だった。差し出されっぱなしの手に気がついたのか、慌てて握り返した手は握手にしては力が強すぎた。節くれだっている指は肉刺でぼこぼこと掠れた感触がする。体温が高い男だ、と緑間は思った。それもまた、後から思えは酷く間の抜けた感想だった。しかし確かに緑間は動揺していたのだ。目の前の男の、鋭い目つきの奥に揺らめく執念じみた炎に。 「なあ、なあ、緑間サン、緑間サン、今日この後予定とかあったりすんのかな」 「……なんだと?」 「あー、ああ、この仕事引き受けて良かった。マジで。俺無神論じゃだけどこれは本当に、神様に感謝って感じだ」 「何の話をしている」 「感動してんだよ。色んな奴と仕事してきたけど、はじめて見た。10点」 「だから、その点数は何の話だ」 「顔の話」 体温の高い男だ、と緑間は思った。何せ握られた左手が燃えるように熱い。いいや、それほどまでに強い力で握られているということなのだろう。緑間の顔を見た瞬間から、その瞳はグサリと音を立てて突き刺さりそうな程に鋭く、離れない。初対面からして、失礼な男だった。人の挨拶を無視して顔を凝視し、あまつさえ点数さえ付ける。誰に聞いても失礼な男だと答えるだろう。ただ何故かこの時の緑間はその考えに至らなかった。ただ、熱い、とそれだけを思った。 「俺は高尾和成、お会い出来て本当に嬉しいぜ」 * 一種異様な出会い方となった二人だったが、その直後に入ってきた監督によってその空気は壊された。失礼な態度を取られたとようやく気がついた緑間も、今更怒りを露わにするには遅すぎた。そうして高尾と名乗る男の方も、先程までの鋭さをどこへ消したのか、笑顔で他の役者との会話を楽しんでいる。漏れる笑い声は高らかで、随分と軽薄な男だと緑間は認識を新たにした。何せあちらと話していたかと思えば次はそちら、かと思えば大ベテランの老優とまで会話をしている。 「あれ、帰んの緑間サン?」 「……だったらどうした」 「や、さっき聞いたじゃん、予定ありますかって」 「何故お前にそんなことをいちいち言わなくてはならないのだよ」 「夕飯ご一緒しませんかって誘いたいから」 「断る」 「てことは暇なのね」 緑間が顔をしかめている間に、高尾は魔法のように会話を切り上げ、素早く荷物をまとめ、他の役者への挨拶を終えて緑間の横に並んだ。そのあまりの手際の良さに反論する気も無くして緑間は溜息をつく。予定が無いのも確かならば、自炊が出来ない緑間はどうせど���かで夕飯を食べなくてはいけないのも確かだった。どうせこれから二ヶ月間は、嫌でもほぼ毎日顔を合わせる相手である。瞬間の面倒くささと長期的な面倒くささを天秤にかけて、緑間は渋々頷いた。艶やかな黒髪が機嫌良さそうに揺れているのを見て、「お前の奢りだぞ」と告げれば途端に慌て出す。くるくると大げさなほどによく変わる表情は、酒の肴にはうるさすぎる。 「店は俺が決めていい?」 「構わんが、何故」 「いや、緑間サンに連れてかれたら高級レストランとかになりそ」 「そんなことも無いが」 「少なくとも俺が奢れなさそうだわ」 「なんだ、気にしたのか」 「え? 冗談だったの?」 「いいや、全く」 何ソレ、と笑う高尾と並んで、裏口から外に出る。劇場の裏は細い路地裏で、巨大なダストボックスが無造作に並んでいる。劇場の裏は、まるでそうでなくてはいけないと決まりきっているかのように、必ず薄汚れて寂しい小道だ。様々な劇場を渡ってきた緑間だが、それだけはどの舞台でも共通していた。どれだけ華やかに入口が飾られていても、どれだけ美しい照明に照らされていても、その裏側は必ず少し腐ったような匂いがする。 それは緑間にとって当たり前のことで、恐らく高尾にとってもそうだったのだろう。ちょっと寒いな、と身を縮めて笑う姿は、暗い煉瓦道によく映えた。 「安くても美味いとこ知ってるから、今日はそこで良いっしょ?」 「美味くなかったら帰るからな」 「だいじょーぶ、残されても俺が食べるから」 「おい、俺が帰ることを前提にするな」 「冗談だって」 * 連れて行かれたのは劇場からほど近い、けれど少し入り組んだ路地に面したバールだった。確かに緑間一人で入ろうとは思わない類の店だったが、立ち食いのカウンター席はそれなりに賑わっており、漂う油と香辛料の匂いも胃を刺激こそすれど不快ではない。マスターに挨拶をする高尾は慣れた調子で奥の方、狭い座席へと向かう。オークで出来た木の机は長年磨かれたために歪んで光っていた。 「何か食べたい物ある?」 「特には」 「あー、じゃあピンチョスとサルモレッホ、アヒージョは……マッシュルーム平気?」 「問題ない」 「じゃ、それにしよ。メインはアロスアバンダでいいかな」 飲み物はワイン?と尋ねられて緑間は首を横に振る。翌日に仕事がある状態で酒を入れる趣味は無かった。そもそも、酔うこと自体に興味が無い、どちらかといえば嫌悪感を抱くタイプですらある。数度瞬きした高尾は、そっか、と頷いた後にペリエを二つ注文した。付き合う必要は無いという意味で緑間は顔をしかめたが、高尾はへらりと笑い返すだけだった。程なくして運ばれてきた瓶の炭酸水は何の味もない。それを楽しそうにグラスに注ぎなおすと、乾杯、と高尾は掲げた。 「ど? うまいっしょ?」 「悪くはない」 「段々緑間サンのこと判ってきたわ、それ褒め言葉ね」 「会って初日で判るも何も無いだろう」 ピンチョスに刺さった串を抜きながら、自分で自分の発言に我に返ったのか緑間はじとりと目の前の男を睨みつけた。楽しそうに目を細めて食事をする男はわざとらしく首をかしげる。 「お前、初日から馴れ馴れしすぎやしないか」 「え、今更?」 「歳はいくつなんだ」 緑間のその発言は間違いなく相手が歳下だろうと思ってのそれだったが、高尾の口から飛び出た数字は紛れもなく緑間と同じだった。そもそも緑間は年齢で人の実力を判断することに対して馬鹿馬鹿しいと感じているし、年次だけを嵩に威張り倒す者をうんざりと思う人間である。しかし少なくとも礼儀を促そうと思っての質問が予想もしない返答を受けて彼は驚いた。まさか同い年とは思ってもいなかったのだ。 「や、それに関しちゃ緑間サンが老けてるんじゃねえの」 「黙れ」 「ちなみに芸歴っつーのかな、それもほぼ一緒だと思うぜ。役者とダンサーだからそんな比べられるようなモンでもないと思うけど」 「お前、やっぱり、役者ではないのか」 「ダンサーだね」 判りきっていたことではあったが、かと言って断言することも出来なかった。台本に高尾の演じるダンサーの台詞はほぼ無く、ほとんどがダンスシーンで占められている。けれど、あくまでもこれは『役』なのだ。役を演じるからには、普通役者が配置されるのが常である。ダンサーはダンサー、役者は役者。その線引きは思いのほか深い。 「ストレートで俺の知らない役者はほぼいないから、まあ、そうだろうとは思ったが」 「うーん、ダンサーの方じゃ結構名前知られてんだけどね、俺も」 「ダンスは全くわからん」 「だろうよ」 緑間の言葉に傷ついた様子もなく高尾は運ばれてきたサルモレッホを掬う。トマトとニンニク、フランスパン、それにオリーブオイルを全て一緒くたにミキサーにかけて作られる冷静スープは豪快でシンプルだ。付け合せの生ハムも一緒にスプーンに乗せて高尾は行儀悪く笑った。お前が知らないことくらい俺はとっくに知ってたよ。そんな底意地の悪いにやつきに緑間は自分でも判らない苛立ちを覚える。 「何が専門なんだ?」 「へ?」 それが緑間に、普段はしないような質問をさせたのかもしれなかった。彼は基本的に他人に一切の興味が無い男である。排他的で、独尊的だ。他人に干渉をしないし干渉されることを厭う。接触したくないしされたくない。もしもここに黒子がいたら、「君が他人に興味を持つなんて、今日は照明が落下するかもしれませんね」と笑っただろう。そう揶揄されるほど、緑間は自ら他人に働きかけることをしない男だった。余程気に入った相手でもない限り。 「ダンスといっても種類があるのだろう。バレエだとか、舞踊だとか、俺はよく判らんが」 「専門って言われてもなあ。色々だよ。色々」 「そんな姿勢で人事を尽くせるのか?」 届いたアヒージョは鉄板の上でまだ存分に油を跳ねさせていた。食べれば?とでも言うようにフォークでそれを指す高尾を無視して緑間は言葉を続ける。 「一つの物を極めるためには、他の物を捨てねばならないだろう。極めるというのは、そういうことだ。全てをそれに捧げるということだ。あれもこれもと手を出して目的を達成できないのでは本末転倒にも程があるのだよ」 「……だからお前はストレートプレイにしか出ない訳?」 「自分の糧になると思えば他のこともする。水泳の選手だって体力をつけるためにランニングをするだろう。だがそれでマラソン選手になろうとは思わないはずだ」 「なるほど?」 「お前もその道でそれなりに知られていると自ら言うのならば、専門としている物があるのだと思ったのだが、違ったか」 「うーん、そーねぇ」 目を閉じ、眉をしかめて唸る高尾の顔に潜む感情を緑間は読み取れなかった。困惑にも見えたし、悲しみにも見えたし、怒りにも見えた。ただその全てを、まるで無かったかのように消化して、高尾が最後に口元に浮かべたのは軽薄な微笑みだった。 「ま、色々、かな」 「……適当な男だな」 あまりにも軽く返された答えに毒気を抜かれて、緑間は少し冷めかけたアヒージョにフォークを刺す。彼からしてみればかなり真剣に話をしていたのだが、どうも躱された感が否めない。緑間への返答に迷った高尾の中には、確かに何らかの信念があった。信念という言葉でおかしければ、反発と言い換えてもいい。あの時、高尾は緑間の言葉に対して反発していた。緑間の何かが、高尾の琴線に触れた。そうしてそれを飲み込んだのだ。何故飲み込んだのかは、彼には全く判らない。 もしも高尾の目を見れていたら、と緑間は思う。高尾和成という男はどうやらかなり感情をコントロールして、口八丁でその場��の場を流す術に長けているようだ���、その分その目は一切の誤魔化しが無い。その目の前ではこちらが誤魔化せないのと同様に、高尾の感情も全て現れる。それほどまでに鋭利で一直線に鋭い目。 「安心してよ。引き受けたからには手抜きするつもりもないし」 「当たり前だ」 「だから色々教えてね、しーんちゃん」 「は?」 一体全体この高尾という男は何を考えているのだろう。そう訝しむ緑間のその疑念は、聞きなれない愛称に全て吹き飛んだ。この店に、他に高尾の知り合いがいるのかと一瞬現実逃避をするも、高尾の視界に映っているのは緑間ただ一人である。鋭い視線はにやにやと楽しそうに弧を描いて、自分の発言が緑間にもたらした効果を楽しんでいるようだった。ざわざわと、周囲の酔っぱらいたちの喧騒が急に緑間の耳につく。注文を取る声と、大声で酒をねだる客と、陽気なマンドリンのレコード。目の前の男の楽しそうな声。 「ほら、俺、役者としては新米みたいなモンだし?真ちゃんに色々教えてもらいたいなーって」 「教えることなど何もない。それよりもその変な呼び名はなんだ」 「同い年だし」 「何歳だろうが呼ばれるのは御免だ!」 「いいじゃんいいじゃん。これもご縁だって、仲良くしようぜ」 ふざけるな、と机を叩こうとした瞬間に、運ばれてきたアロスアバンダの大皿が机を揺らした。二人前とは思えないライスの量に緑間は怯む。そもそもが食の細い彼は、その恵まれた体格とは裏腹にあまり食事をしない。鼻歌を歌いながら均等に二等分しようとする高尾に、三分の一でいい、と告げた緑間の頭は様々な混乱でずきずきと傷んでいた。酒は一口も飲んでいないはずなのに。 * 結局三分の一も食べきることが出来なかった緑間は、「真ちゃん全然食わねえのな!」「真ちゃんそんな食べないで大丈夫?」「真ちゃんよくそんなんでその身長まで伸びたよな、羨ましい」「真ちゃんでも身長の割に薄くねえ?体が資本だろ?」と高尾に延々と話しかけられた。最初はその一つに一つに「そのふざけた呼び名をやめろ」と返していた彼も、途中で遂に折れる位には、高尾の真ちゃん攻撃は凄まじかったのだ。 それぞれのアパルトマンへ帰る二人の足取りは、満たされた胃袋のせいかゆっくりと靴音を立てる。 「あー、本当に、引き受けて良かった、マジで」 しみじみと高尾が告げたのは、帰り道も半ばを過ぎた頃だった。 「オーディションではなく、オファーできたのか」 「言ったっしょ?ダンサーとしてはそれなりに名前通ってんだよ。まあ、俺は役者じゃなくてダンサーだから、『ダンサー役』は引き受けねえんだけどな。基本的には」 表現するものが全然ちげえんだよなあ。そう笑う高尾は根っからのダンサーなのだろう。そうしてその高尾の意見は緑間と同じだ。役者には役者の、ダンサーにはダンサーの領分がある。それぞれの、専門がある。一流と呼ばれる人間は、なおさら。 「ならば、何故引き受けたのだよ」 「ん? そりゃ、お前がいたから」 「……初対面の筈だが」 「そーね。しかも全然映像に出ようとしないし。マジで舞台以外の仕事一切引き受けないってどんだけ我が儘よ。びっくりだわ。取材とかもほぼ断ってるっしょ」 何故そこまで知っている、と尋ねようとして、緑間は思い出した。緑間が何を話すでもなく、高尾は知っていたのだ。緑間がストレートプレイしか出ようとしないことを。 「いやあ、ポスターで見たっきり、どんだけ頑張ってもチケットは取れない、取れてもようやくスタンディングで、真ちゃんの顔見れなくてもー欲求不満だったわ」 「何故お前にそんなことを言われなくてはいけない」 「10点かどうかは、やっぱ直接見なきゃわかんねえから」 緑間は思い出した。ようやく、ことここに至り、帰り道も今や別れの小路にまできて、ようやく。緑間が出会い頭に高尾に告げられた「10点」の言葉、そもそもはそれが始まりだったのだということ。思い出すにはあまりにも遅すぎたが、緑間は元来他人に興味が無い人間だ。そしてそれ以上に、自分がどう思われるのかに興味が無い人間だった。それでも、にこやかに告げられた次の言葉に彼は言葉を失った。 「俺の顔が10点とはどういう意味だ」 「ん? そのまんま」 「何がそのままなのだよ」 「顔の点数」 「10点満点、俺の人生で最高点だよ、真ちゃん」
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abcboiler · 3 years
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【黒バス】やさしい国で待ちあわせ
2014/02/11発行オフ本web再録
■1■
リアカーを壊した。緑間と二人で壊した。
それもまあ仕方のないことで、この三年間、毎日使い続けていたそれは大分傷んでいて、何処かに寄付するにはぼろぼろ過ぎた。木目は至るところが節くれだって、慣れていないと服を引っ掛けて怪我してしまうし、車輪は少し歪んで、気を付けないといつも進行方向から左にずれてしまった。チェーンも錆びて、ぎいぎい音がしていたし、サドルの布はちょっと破けていた。 俺たちの愛車は満身創痍で、真ちゃんはいつも、リアカーの左角の節くれと、登ってすぐの歪んだ板に触れないようにそうっと乗っていた。俺はいつもハンドルを右側に傾けて運転していた。直した先からパンクするし、毎日油をさしても固まった錆は取れなくなって、着実に増えていた。 だから、壊したのだ。俺と真ちゃんで、卒業式の日に。いつも停めていた、学校の駐輪場の隅で。胸に花を刺して、卒業証書が入って歪んだ鞄を地面に置いて、砂に膝をついて、季節はずれの汗をかきながら、俺たちは黙って作業をした。真っ赤な夕暮れの中、二人で、ネジを外してボルトを取って、板を分解して、壊したのだ。俺たちのリアカーを。思い出を、鉄と銅と板に分解して粗大ゴミのシールを貼って捨てた。次の日の朝には回収される予定だった。駐輪場からは体育館の屋根だけが見えた。そうしてそこまでやってから、俺たちは歩いて駅まで向かって電車で帰った。 だって、まあ、仕方がないことなのだ。 俺も真ちゃんも、行く大学が違って、その方向も違って、お互いに別のアパートを借りて、四月から新しい生活を始めようとしていたのだから。俺が真ちゃんを迎えに行ったってどうしようもない。行き先の違うバスに乗ったって目的地には着かないのだ。そうなってしまうと、リアカーなんて場所を取って邪魔なだけだった。誰かに讓るにしても修理代金が高くついて新しく買った方がマシなレベルだったし、そもそも何処に寄付すればいいのかもわからなかった。 いいや、本当は、俺たち以外の誰かがこれを使うのが嫌だったのかもしれない。
「真ちゃん家だったら置いとけるんじゃねえの」 「置いてはおけるかもしれないが、俺もお前もいなくなる以上、誰も手入れをしなくなる。そうしたら後は本当に朽ち果てるだけなのだよ。修理もきかなくなるだろう」 「そうだよなあ」 「ああ」 「じゃ、壊そっか」 「ああ」
解体するとも、分解するとも、捨てるとも言えなかった。壊すという乱暴な言葉が最もふさわしいと思った。毎日毎日油をさして、毎日毎日真ちゃんが「今日もよろしく頼む」と声をかけて、パンクしたら直して、板が割れたら直して、雨が降ったらビニールシートでくるんで、落書きされたらペンキで塗って、そうやって三年間過ごしてきたこいつを、俺たちは壊す。 だって、仕方がないだろう。俺たちは大人になってしまったんだから。 こうして俺は真ちゃんを迎えに行く口実を失って、真ちゃんは俺に会う口実を失ったのだった。いいや、会う口実なんてのはいくらでもある。映画を見たい、新しい甘味が食べたい、なんだっていい。なんだっていいけれど、それは一般人の話であって、こと緑間真太郎にとって、それは必ずしも誰かが必要なものではないのだった。そして必ずしも必要でない場合、あいつは決して声をかけない。例え内心で寂しいと思っていたとしても、あいつは一人で祭りに出かけるだろう。 意地っ張りで我が儘で、懐に入れた人間には存外甘いあいつは、理由が無ければ他人に頼ろうとはしないのだ。人は一人でも、案外生きていけるものである。そもそも中学の頃は、あんな奇妙な乗り物が無くても一人で何処にでも行ってなんでも手に入れていた男だ。リアカーが無くなった今、あいつは俺を呼びつけないだろう。あれは、緑間真太郎なりのサインだった。不器用なあいつの、唯一の、俺を呼んでいい理由。 だから、俺たちには新しい口実が必要だった。いいや、俺たちだなんてずるい言い方はよそう。俺には口実が必要だった。 何せ、俺は、この緑間真太郎のことが好きだったので。 真ちゃんが俺のことを好きかどうかは知らない。多分好きだろう。俺の好きと同じ形をしているかどうかは知ったこっちゃないが、まあ、ほぼ同じ形で好きだろう。 でもそんなことよりも大切なことは、俺たちはそれを一つも口に出さなかったということなのだ。あれを壊している間中、ずっと。思い出を壊している間、ずっと。 だから俺も黙り続けている。黙ったまま、探している。まだ。
■2■
「真ちゃんホント忙しそうだね」 「まあな。取れるだけの講義を取った。ほぼ毎日一限から五限まであるのだよ」 「うっわ、信じらんねえ。勉強の鬼かよ。鬼真ちゃん。オニシン」 「全く語呂が良くないし何も洒落になっていないと思うが」
そう言いながらサラダを口に運ぶ真ちゃんの頬は、入学式から一ヶ月、少しこけたような気もするけれど、顔色は悪くない。心配していたが、きちんと食事は取っているらしい。今だって、サラダにスープ、ステーキを頼んで黙々と食べている。
「体調管理にも人事を尽くすのだよってか?」 「当たり前だ。自分で入れた講義を自分の不調で欠席するなど愚かしいだろう。初めの週に、きちんと栄養バランスを考えた献立を作った。後はそれ通りに食べれば問題ない」 「すげえ。そんな食事管理SF映画の中でしか見たこと無かったわ」
窓の外は真っ暗で、車が路面を走るザアアという音がする。なんだか雨の音に似ているような気もするが気のせいだろう。時計の針は八時を指していて、夕飯を食べるには、まあ、少し遅いくらいの時間。
「仕方がないだろう、講義があるのだから」 「ですよね」 「それでも今日は早い方なのだよ」
一ヶ月ぶりに再会する真ちゃんはいつもと同じ調子で、ひと月前と何も変わらないように見える。だけど実際は、俺の知らない所で俺の知らない講義を受けて、知識を吸収して、誰かと会話して、段々と新しく生まれ変わっているのだ。
「真ちゃん、友達できた?」 「……挨拶をする程度の顔見知りなら」 「多分それもう相手は友達だと思ってるって」 「そんなものなのか」 「そんなものですね」
飯に誘われたりしないの? と聞けば、真ちゃんは黙って頷く。俺の聞き方も悪かったが、これで頷かれても、誘われているんだか誘われていないんだかわからない。多分、誘われているんだろう。ゆっくりと口の中の肉を咀嚼して飲み込んで、水を一口飲んで真ちゃんは答えた。
「講義の終わりに、飯でも行かないかと言われたことはあるが、俺はその後も講義があったからな。最終講義が終わった後はさっさと帰っているし」 「じゃあ真ちゃん一ヶ月ぼっち飯?」 「昼は一緒に食べている奴もいる」
そんな当たり前の返事にちょっと傷つくくらいなら聞かなきゃいいのに、愚かな高尾和成くん。いやいや、マジで一ヶ月独りで飯食ってる方が心配だろ。健全な社会的人間性を持ち合わせていてくれて何よりだ。何よりなんだけれど、俺はこいつの母ちゃんでは無いのに、こんな心配をしてどうする。何にもならない。
「かわいい女の子はいた?」 「どうだろうな。いつも一番後ろの席に座るから顔は見えん」
心配すべきは、こいつが誰かと結ばれること。なんて、別に、付き合ってる訳でも無いのに、こんな心配してどうすんの。どうにもならない。何にもならない。世の中はそんなことばっかりだ。何をどう心配したって、それは全部見当違い。俺は母ちゃんでも無ければかわいい恋人でもなく、ひとりの友達。ひとりの相棒。
「お前の方はどうなんだ」 「俺? ううーん、俺んとこも女子の割合すくねえからなんともなあ。あ、でも若干みゆみゆ似の子いた」 「宮地先輩に紹介したらどうだ」 「え、真ちゃんがそんなこと言うなんてどうしたの」 「先輩の大学の教授が客員講師として来ているんだが、学部的に先輩が講義を取っている可能性がある。話でも聞けないかと」 「真ちゃんって、案外目的のためなら手段を選ばないよなあ」
真ちゃんはしっかり焼いてもらった肉を口に運ぶ。俺も自分の肉にフォークをぶすり。レアなそれからしたたる赤い肉汁。口の中で思いっきり噛み切ってごくりと飲み込む。生きている味がする。
「真ちゃん、次いつ会えんのさ」 「……そうだな、一通り落ち着いたし、来週の木曜なら問題ないのだよ」 「木曜な。オッケー。六時とか平気?」 「ああ」 「んー、どうすっかな。久々にストバスでもやる?」 「そうだな」
ぶすり。刺さったフォーク。それを持つ左手に、もうテーピングは存在しない。目を細めてみれば、そこに白い幻影が見えるような気もする。真ちゃんはバスケをやめた。悪いことじゃない。俺たちのバスケは、あの日の粗大ゴミの一つとしてどこか遠くで燃やされたのだろう。悪いことじゃない。ちゃんと、俺たち自身が選んだのだから。全てを失ったと悲壮感に浸るほど子供ではなかった。
     ◇
「いや、お前、ホント、ねえわ、マジで……」 「お前は少し鈍ったんじゃないか」 「そりゃ鈍るわ! 昔みてえな練習してねえんだから! お前はなんでそんなキレッキレなんだよ! 人事尽くして自主練しまくってんのかよもしかして!」 「いや、多少の筋トレはしていたが俺もここまでちゃんと動くのは久しぶりだ。元々の地力の差じゃないのか。単純に」 「単純にズバッとひでえこと言うよなお前」
コートに寝そべれば街灯に邪魔されて少し暗く星が見える。たかだか一時間くらい動いただけなのに、荒い呼吸がなかなか止まらなくて俺は苦笑した。一ヶ月でここまで衰えるとは、いやはや時間の流れとは無情だ。これを元に戻すには三ヶ月はかかるだろう。いつだって、壊す方が簡単なのだ。
「そんなこと言って、真ちゃんもまだ息整ってない癖に」 「……お前もだろう」 「ははっ、俺たち二人ともこうやっておっさんになってくんかな!」 「俺は絶対にお前よりも格好良いおっさんになってみせるのだよ」 「ええ、なんだそれ」
たるんだ腹など許さないからな、と俺に指を指してきたって、そんなの俺の知ったこっちゃない。許さないも何もお前の話だし、多分お前は太るよりはやせ細っていくタイプだから筋肉落ちないように気をつけろよ、と言おうと思って面倒になって取り敢えず笑った。母ちゃんじゃ、ねえんだから。うん? はいはい、きっとお前は、なかなかにダンディでイカしたナイスミドルになるに決まってるよ。
「あー! でも真ちゃんが練習してねえなら、俺が真ちゃん抜ける可能性も出てきたな! ぜってー次は抜く。めっちゃ練習する」 「ぐ、人が講義を受けている間に成長しようというのか」 「ふふん、ずるいってか? ずるくないよなあ、俺は人事を尽くすだけだからなあ。ずるいなんて言えねえよなあ。どうだ真ちゃん、自分の信念に邪魔されて文句言えない気持ちは。うん?」 「お前……底意地が悪い、いやそれは前からだったか」 「あん? お前に尽くし続けた高尾ちゃんのどこが底意地が悪いって?」 「どこの誰が尽くし続けたというのだよ。なんだかんだ自分の意見は押し通してきた癖に。俺の我が儘の影に隠れてやりたい放題していただろう」 「おお? それこそ聞き捨てならねえな? 我が儘の影に隠れてたんじゃねえよ、お前の我が儘がでかすぎて俺のが霞んでただけだっつの。お前の自己責任。オッケー?」 「我が儘を言っていたことは認めるんだな」 「いやいや、滅相もございません」 「どっちなのだよ!」
夜のコートで、体ばっかりでかくなった男が二人、真剣に言い争っている。あまりにも馬鹿馬鹿しくて子供みたいな内容を、わざと真剣な調子で言い合う。ああ、なんだか視界が眩しいのは、星のせいか、街灯のせいか、自販機の明かりだろうか。なんだか酷く目にしみて瞼を閉じた。おい、寝るな! なんて真ちゃんの怒った声。寝るわけねえだろ。お前がいるのに。お前がいたら俺はいつだって目かっぴらいて起きてるよ。今は閉じてるけど。はは、閉じちゃってるけど。
「おい、高尾、……高尾? なんだ、死んだのか」 「お亡くなりになった高尾くんに一言」 「高尾……、実は俺はお前のことを……」 「高尾くんのことを?」 「超ド級の変人がいると言って、大学の奴との話の繋ぎに、適当にあることないこと喋ったのだよ……」 「いや、待って待って待って真ちゃん! 何それ! ちょっと待ておい!」
流石に聞き捨てならなくて飛び起きたら、真ちゃんは真顔で俺の顔を見て頷いた。いや、その頷きは何なわけ。何を示してるわけ。全然わかんねえから。
「死人に口無し、バレなくてなによりだ」 「最低じゃねえか!」
叫ぶだけ叫んで、やりとりのあまりの下らなさに溜息をついた。何よりも下らないのは、真ちゃんが大学でも俺の話題を出してることに喜んでる俺自身である。滑稽な独占欲に苦笑いを零していたら、真ちゃんからボールが飛んできてギリギリのところで俺はそれを受け取る。びりびりと、手のひらがしびれる感触。こいつ、本気でぶん投げてきやがった。赤くなった俺の手はまだまめだらけで、皮も分厚くなっているけれど、これも後数ヶ月もしたら普通の手になっているのかもしれない。
「というか、お前は何故そこまで鈍っているのだよ。お前の方が暇なら、今日の時点でここまでへばっていないんじゃないか」 「暇とか言うなって! まあそりゃお前とはちげえけど、俺だってバイトとかめっちゃ入ってんだって。家賃は親に払ってもらってっから、生活費は自分で稼がねえと」 「ああ、なるほど、そうか、それがあったな」 「お前は? それこそ講義で忙しくてバイトなんかしてる暇ねえんじゃねえの?」 「親の脛をかじっている」 「めっちゃ堂々と言ったなおい!」
笑いながら全力で投げたボールは、俺の希望通りこいつの手のひらの中に収まって、そのままゴールリングへ向けて発射された。俺の知っている、俺の憧れたままの高度と軌道。それが変わらないことに安堵しつつ、ボールは勢いよくネットを揺らして落ちる。地面がごうんごうんと跳ねる音。このシュートだって、いつかは終わる。
「事実なのだから仕方がないだろう。家賃光熱費水道代食費学費その他もろもろ全て親持ちだ。そもそも、ラッキーアイテムであれだけ金を使わせていた俺が今更この程度のことで罪悪感を覚えると思うのか?」 「やべえ、どうしよう、言ってることはどこまでも格好悪いのにここまで堂々とされるとそんなことないように聞こえ……聞こえねえな」 「やはり駄目か」 「駄目だったなあ」
少し笑いながら真ちゃんはボールを拾う。��がんだ時に僅かに揺れた上半身と、グレーのセーターが何故か目に焼き付いた。その服の下の筋肉も、段々と衰えていくし、二度とあの派手なユニフォームを着ることもない。そんな当たり前のことを、俺はゆっくりゆっくり飲み込んでいく。別に、悲しいわけではないのだ。少し寂しくはあるけれど。そうだ、寂しいのだ。大人になっていくことが。俺たちが、大学生になって、卒業して、就職して、もしかしたら結婚したりして、子供ができたりとか、して。そういう変化をこれからも続けていく。
「うちの大学は成績優秀者になれば賞金がもらえるのだよ。一年間にかかる金額と比べれば雀の涙のようなものだがな。それは親に渡すつもりだ」 「もう取れることは確定なのね」 「当たり前だ。人事を尽くしているのだから。」
例えば、一人暮らしをするようになって、洗濯だとか料理だとかを少しずつ覚え始めた。電気をつけっぱなしにしたり、蛇口をしっかり締めないで母さんに怒られた理由がようやくわかるようになった。お金のこととか、現実とか、ちゃんと見始めた。悪くないなあ、と思う。あの駆け抜けた日々に比べると少しばかり穏やかすぎて、太陽の光もあまり眩しくないけれど、変わりに柔らかくなったように思うのだ。
「成長してから恩返しということで先行投資してもらうしかないからな、金額の問題ではなく担保のようなものなのだよ。将来性の保証だ」 「お前さ、なんか照れ隠しが生々しくなってねえ?」
パスされたボールを投げ返す。真ちゃんはそれをシュートせずにもう一度俺にパスしてきた。別に俺はシュートなんか撃たねえのに。もう一回真ちゃんにパスしたらまた返ってきて、奇妙なキャッチボールが延々と続く。ぼんやり数えて十二回目で俺はでかいくしゃみをした。背筋からぞわぞわと、這い登るような冷気。
「うあー、さぶ。汗ひくとめっちゃ寒いな。つか、五月ってこんな寒かったっけか」 「五月は寒いだろう」 「五月は寒いか」
寒いっけ、と首を傾げる俺の顔面めがけてジャージが飛んでくる。真ちゃんのではなく、俺のだ。勝手に鞄から出されたらしいが腹も立たない。帰り支度を始めるこいつもジャージを羽織る。お前だって寒かった癖に、先に俺に渡しちゃうんだからなあ、そういうとこ、好きなんだよなあ。好きなんです。あーあ、好きなんだよ、ほんと。
「おい、聞いてるのか」 「へ? あー、ごめんごめん、何?」 「全く聞いていなかったのか。ボケすぎだ」 「ごめんって。で?」 「風邪を引かれても困るから、俺の家に寄っていけ」 「あ?」
耳に届いた言葉が信じられなくて俺は思わず自分の頭を殴りつけそうになった。そこまで驚くことでも無いのにこんだけ動揺が隠せないのは、やっぱり、俺がコイツのことを好きだからなんだろう。好きな奴の、一人暮らしの家に上がり込む、なんてのは、どうしたってそういう意味にしか取れないのだ。勿論真ちゃんにその気が無いことはわかっているけれど。だけど、わかるだろうか、一人暮らしの家だぞ、生活の何もかもが部屋に閉じ込められた、まず間違いなくこいつの匂いで満ちている部屋。
「お前、何回聞き逃せば気が済むんだ」 「いや、聞こえてた聞こえてた! 聞こえてたけどさ! え、いいの」 「構わん。ここから俺の家は近い」
そりゃ、お前の家に近いストバスのコート探したからな。俺のアパートからは遠いのだ。お前の家。俺が三年間迎えに行った、あのだだっ広い門扉がある豪邸とは別の、お前が一人で暮らしてる家。
「おい、どうした、来ないのか」 「いつ誰がそんなこと言ったよ。行く。超行く。真ちゃんのお部屋大訪問」 「そうか。エロ本はまだ買ってないから探しても無いぞ」 「……真ちゃんもなかなかに、俺が言うことわかってきたよね」
     ◇
「……おい、ちょっと待て、待ちなさい、親の脛かじり太郎」 「なんだ、さっき宣言しただろう」 「限度があるだろ! 何だよこの部屋! 部屋じゃねえよ家だよ! どう見ても一人暮らしには広すぎるだろ! 普通六畳一間だろうが! なんだこれ!」 「俺の家だが」
入口がオートロックの門だった時点で嫌な予感はしていたが、大的中も大的中、ドアを開けたら玄関と靴箱があり、そこから廊下が伸びていた。バス、トイレ別だ。というか、部屋までの通路に台所が無い時点で戦慄した。大学に入ってから他の奴の家にも幾度かお邪魔したが、部屋までの短い通路の片側に風呂トイレ、片側に狭い台所と洗濯機置き場、ドアを開ければ六畳間、この鉄則を外れる奴なんていなかったのだ。
「いやー、これはない、マジでない、かじるどころじゃねえ。しゃぶってやがる」 「まあ、富裕層だからな」 「やめろ……聞きたくない……こんな露骨な格差はやめろ……」
風呂に入れと投げ渡されたバスタオル。真っ白で、まだほとんど使われていないそれに遠慮する気にもなれなかった。保温機能で自動で沸かしてくれるバスタブでも俺はもう驚かない。腹いせに、シャンプーとリンスの位置を逆にしたことくらいは許されてもいいだろう。思い切り鼻歌を歌っても近所に文句は言われないんだし。 風呂を上がってみれば、真ちゃんが真剣な顔で洗濯機を回していた。説明書が壁に貼られている。若干首を傾げてセーターのタグを見ていたこいつは、マークの意味がわからなかったらしく携帯電話で調べ始めた。堅実な奴である。
「ちょっとくらいならソフトサイクルで問題ねえと思うけど」 「馬鹿なことを言うな。これだけ細かくラベル分けされているのだから消費者はそれに従うべきなのだよ。ふむ、これは手洗い不可」 「いちいちクリーニング出すわけ? 金がもったいな……いや、俺は何も言わねえ。言ったら言っただけ傷つきそうな気がする。何も言わねえ」 「ドライヤーを使うならそこの引き出しだ。暇ならリビングにいろ。茶は勝手に出せ」 「へいへい」
短い俺の髪は、水気を取れば自然に乾く。面倒くさいからとリビングに向かえばきちんと整理整頓された部屋。プリントも教科書も整然と並び、出しっぱなしの衣類なんて物は無い。思いのほか完璧な一人暮らしをしているこいつに少し驚く。生活力なんて皆無かと思っていたのだが、壁に貼られた手書きのメモを見て納得した。こいつ、毎朝のルーティンワーク完璧に決めてやがる。月曜日、五時、起床、ストレッチ、五時五十分、着替え(引き出し下段)、六時、テレビ兼朝食(チャンネルは六)……目眩がしてくる。多分、中学の時も高校の時も、こうやって自分の動きを決めて行ったんだろう。所々に訂正の箇所があるのは、それじゃうまくいかなかったからか。そういえばあいつはこの前会った時、「一通り落ち着いた」とか言っていた。それはこういうことだったのか。
「何を間抜けな顔を晒している」 「うお、真ちゃん終わったの。いやー、これすげえな。機械かよ」 「人事を尽くすためには必要なことだ」 「いやー、お前の人事に対する執念こんな形で見ることになるとは思わなかったわ。隣に貼ってあんの食事の献立?」 「そうだが」 「……真ちゃん、これってさ、今日の、食事の献立?」 「そうだな」 「……明日の食事の献立は?」 「これだな」 「…………明後日の食事の献立は?」 「これだな」 「まさかとは思うけど、真ちゃん、毎日これ食ってんの……?」 「完璧なバランスだろう」 「お前は! 融通きかなさすぎだろ!」
思わず怒鳴りつければ、何故俺が叱られなければならないのだよという顔で見られる。いや、おかしいのはお前。絶対にお前。誰かこいつに常識を教えてやってくれ。 俺の目の前にある紙には、朝から晩まで、食べ物とどこでそれを売っているかの表がある。ほぼ調理が入っていないのは、自分じゃ作れないと判断したからだろうか。数えてみれば三十品目丁度。それぞれの栄養素もきっちり取れている。それにしたっておかしいだろう、朝、煮干(松の家)、白米、漬物(西武スーパー)、牛乳(二五〇ミリリットル)って、いや、栄養は取れるかもしれねえけど、こいつは三百六十五日同じもんを食べ続けるつもりなのか。嘘だろ。絶対に楽しくない。
「この前お前と食事をした時は計算が面倒だったのだよ。翌日に足りない分は全て追加したからなんとかなったが」 「なんともなってねえからそれ。なんで翌日繰越制度になってんだよ。一ヶ月間焼肉しか食わなかったから次の一ヶ月は野菜しか食いませんってことじゃねえか」 「そうだな、それではカルシウムもタンパク質も足りない」 「ちげえよ! 何にも伝わってねえよ!」
誰か、この超ド級の馬鹿をどうにかしてほしい。お前は頭が良いはずじゃなかったのか。俺にはこいつの思考が手に取るようにわかる。わかってしまう。大学生になったからには勉学に励まねばならない、そのためには心身ともに健康でなくてはいけない、健康な体は健康な食事から、完璧な献立を作らねば。完璧な献立なのだから毎日それで完璧だ。終了。殴りたい。
「そうは言ってもな、毎日別の献立を考えるのは流石に負担が大きすぎるのだよ。できなくは無いが、俺は料理が苦手だから作れるメニューも限られる。その中でどうにかしようとすれば、今度は学業の妨げになるだろう。本末転倒だ」 「なんで俺が説得されてんだろうな。お前の発言だけ聞いてるとお前が正しく聞こえるから不思議だわ。あのな真ちゃん、アウト」
頭が痛いのは長風呂をしてしまったせいだろうか。久々にちゃんと広い風呂入って、ちょっとテンション上がっちゃったもんな、確かに。俺のアパートの風呂は狭くてろくに入れたもんじゃないし。ああ、それとも髪を乾かさなかったせいだろうか。風���ひいたかな。いいや、違う、この目の前の男が全てである。
「っつーか、真ちゃん、今日はどうするつもりだったわけ。俺、お前と夕飯まで食うつもりだったし、まともな夕飯出てくると思ってなかったから外行く気満々だった」 「さりげなく人を馬鹿にするのはやめろ。俺だって外に出るつもりではいた」 「で、それで足りなかった分は明日に追加されるわけ」 「まあ、そうだな」
壁にかかったカレンダーを見る。先週の木曜と、今週の木曜にだけそっけなく印がついている。俺と会ったからだ。俺と会う日だからだ。そしてこいつは金曜日、俺との食事で足りなかった分を一人で追加して食ってるんだろう。どうせこいつのことだから、カルシウムが足りなければ牛乳を必要なだけ追加、タンパク質が足りなければ豆腐を足りないだけ追加、とかそんな大雑把なことをしているに違いないのだ。それはなんだか、酷く腹がたった。一人でそんな素っ気ない、機械みたいな食事をしているこいつにも、それの負担になっているのであろう俺のことも。
「……真ちゃん、来週どっか空いてる?」 「……木曜日なら」 「また?」 「木曜だけは授業が三限で終わるのだよ」 「ああ、なるほど」
さて、俺のこの感情のどこまでが純粋なもので、どこまでが邪なものだったのかは俺にもわからない。俺はもしかしたら母ちゃんのようにこいつのことを心配していたのかもしれないし、恋人気取りでこいつのことを独占したかったのかもしれない。両方かもしれないし、もしかしたら全然関係なくて、俺はただ、何にも考えていない馬鹿野郎だったのかもしれない。
「じゃあ、俺毎週木曜は夕飯作りに来るから」 「はあ?」 「栄養バランス完璧な献立だったら良いんだろ? 任せろって、少なくともお前よりは作れるから」 「いや、別にだからといって何故お前が」 「良いじゃん。お前木曜以外空いてないんなら俺どうせしょっちゅう遊びに誘うし。そのたんびにお前が飯の計算しなおすのも面倒くさいだろ。 だったら俺が作っちゃうのが手っ取り早くね。別にお前が他の用事入れる時はこねえからさ」 畳み掛けるように言う俺の勢いに押されたのか、真ちゃんは、いや、だとか、それは、だとかもごもごと言っている。きっぱりさっぱりしているこいつには珍しい狼狽具合だ。自分でも無茶苦茶なことを言っている自覚はある。だけど俺は全然引く気が無い。多分真ちゃんも、そのことに気がついたのだろう。
「……お前が、いいなら」
渋々と頷いたこいつに俺は笑った。自分があまりに馬鹿らしすぎて笑ったのだ。だけど、俺は、何度も訂正された跡がある木曜日のルーティンワークを見て、何もせずになんていられなかった。そうだよなあ、二週連続でお前の予定変わったら、それは別の何かを考えるよな。来週も俺が誘うかもしれないし、誘わないかもしれないし、そしたらお前はきっと、別の日課を組み立てなくちゃいけなかった。 最終的にクエスチョンマークだけが残されて、『保留』とそっけなく書いてあるそれは、俺がお前の毎日に組み込まれるためのスペースだった。お前は自分じゃ言わないけれど、ちゃんと俺はわかっているのだ。お前からの、新しいサインに。 そうやって、形の無い不安に脅かされていた俺は、入学して一ヶ月と一週目に、驚く程スムーズに、新しい口実を手に入れたのだった。
     ◇
「真ちゃん、最近とみに忙しそうね」 「試験が近いからな。お前だってそうだろう」
七月の頭、室内には既に冷房がかかっている。俺の部屋にもついてはいるが、効きが恐ろしく悪く音だけうるさく、よっぽど扇風機の方が役立っているのが現状だ。大学生の試験期間というのは講義を取っていれば取っているほど過酷になるもので、楽できる奴はいくらでも楽ができる。真ちゃんの忙しさといったらない。試験だけで二十個近いと聞いて頭を抱えた。国立受験だって十科目だっていうのに。
「お前んとこほど過酷じゃねえわ。レポートも多いし」 「レポートの方がかかる時間は多くないか?」 「俺んとこでね、レポートってのは、『なんでもいいから取り敢えず出せば単位はくれてやるから文字数埋めて出せ馬鹿野郎』って意味なわけ」 「凄い意味の込め方だな」
俺が作ったキャベツのホタテ煮を、眼鏡を薄く曇らせながら食べている真ちゃんの顔は呆れている。大根は鷹の爪を入れて煮たから少し辛い味付けだが、これくらいならどうということはないらしい。まあ、こいつは甘党であるというだけで、辛いのが滅茶苦茶苦手というわけではないからあまり心配はしていなかったが。
「生姜焼きはあんま漬けれなかったからよう改良だなー、これは」 「別に、普通にうまいが」 「お前ってすげーおぼっちゃまなんだか庶民舌なんだかよくわかんねえな」 「味の違いはわかるが、どれがうまくてどれがまずいのかはよくわからん」 「おしるこにはメーカーから何からこだわるくせに……」 「おしるこは食事ではないからな」 「じゃあなんなんだよ。飲み物っていうオチだったら来週の夕飯納豆入れる」
生命の源なのだよ、と嘯くこいつの冷蔵庫にはお気に入りのおしるこが大量に常備されている。おしるこばっかだ。あれだけ食事の管理をきっちりやっていた癖に、最も糖分が高く体に悪そうなおしるこに関して、こいつは一切の制限を設けていなかった。ちゃっかりしすぎだ。俺は人一倍脳みそを使うから糖分はいくらあっても足りないのだよ、と堂々とのたまった時は流石に腹が立ってこいつのおしるこを全部捨てた。いや、捨てるのでは勿体無いので俺が全部飲んだわけだが、俺は甘ったるいものがあまり好きではないのでまあ捨てたのと同じようなものだろう。お陰様でその日は胃もたれに悩まされるわ、真ちゃんは落ち込むわで双方ともに撃沈だ。
「……で、今日も泊まっていくのか」 「おー、真ちゃんさえよければ」 「構わん」 「明日の朝ごはん、卵焼きと目玉焼きとスクランブルエッグと温泉卵どれがいい」 「卵以外の選択肢は無いんだな」
こいつは静かに箸を置いて、両手を合わせて御馳走様でした、と頭を下げた。こういうところが、お育ちが良いというのだ。初めてこれを見た時に爆笑したら、お前は「お粗末さまでした」と言わなければならないだろうと激怒された。凄く理不尽な気がする。気がするけれど、まあ別に嫌なわけではないので、俺も今では笑いながらお粗末さまでした、と言う。先に風呂入ってよ、俺片付けてるから、と言えばこいつはたいした抵抗も無く頷いてリビングから消えた。
うーん、どうしてこうなったんだろう。
リビングは相変わらず綺麗に整理整頓されている。けれど、よく見ればラックの中には真ちゃんが全く興味が無いであろう雑誌やCDが並んでいるし、洗面所には歯ブラシが二つある。真ちゃんが翌日着るものを入れていた箪笥は今じゃ俺の着替え置き場だ。そういえばこいつは、洗濯は出来ても畳むのが苦手だったらしく全て広げたまましまわれていた。そのせいで余分なスペースを取りすぎていたから、畳んでしまえば俺の服が入るスペースが出来上がったわけだけれど。ガチャガチャと音をたてて皿を流しに運ぶ。これだって全部、二つ組み。 スポンジでガシガシと皿を洗う。俺が毎週木曜日に飯を作りに来るようになってすぐに判明したのは、飯を食べた後、俺の家まで戻るのがとてもとても面倒くさいということだった。そもそも俺も真ちゃんも、毎日通うのは厳しいくらいの距離に大学があるから大学に近いところに一人暮らしを始めたのであって、その方向は全く違うのであって、何が言いたいかと言うと、真ちゃんの家から俺のアパートまではゆうに二時間はかかる。飯食った後に少し喋って帰ったのでは、簡単に日付をまたぐ。まあ仕方無いと思っていたのだが、それに気がついた真ちゃんが泊まっていけと言ってから、その好意に甘えて、ずるずる。今では木曜は必ず泊まって、金曜の朝飯まで作って帰っていくのが常である。金曜が三限からでよかった、ほんと。真ちゃんは一限からあるので一緒に家を出れば遅刻することもない。そして洗剤が足りなくなってきている。今度来るときに買ってこよう。 皿を洗う時に、思いっきり泡立てるのが好きだ。真っ白な泡がぶくぶくと膨れ上がって皿を飲み込んでいく姿が好きだ。それをざあっと熱いお湯で流す瞬間が好きだ。黙って黙々と洗っていると、言わなくていい、だけどつい言いそうになる余計な言葉が全て一緒に流れていくような気がする。 ええい、消えてしまえ、消えてしまえ。幸福の間にうもれてしまえ。
     ◇
「はー、いいお湯でした! やっぱ浴槽広いといいなー! 俺のアパートと段違い」 「そんなに狭いのか」 「俺が体操座りしてぎっちりって感じだから、真ちゃんは多分はみ出ちゃうんじゃねえかな。はみだしんちゃん」 「語呂は良いが、ご当地キャラクターのように言うのはやめろ」
そんなにご当地キャラっぽくもねえと思うけど、まあなんてことない軽口の一つだと俺は特に返事もしない。テレビをつければよくわからないバラエティ番組で、アイドルが笑顔を振りまいていた。これ、もしかして宮地さんに見ておけって言われたやつじゃなかったっけ、と思えば録画ボタンが点滅しているので安心する。
「……しまった、撮り忘れたのだよ、これ」 「え? 今録画ボタン点滅してんじゃん」 「それは別の番組だ。UFOの謎を追え、古代人が遺す壁画と星の導きという……」 「なんでそんなの撮ってんだよ! どうせナスカの地上絵オチとかだよそんなん!」 「わからないだろう! お前は撮っていないのか!」 「俺の家にHDDなんて高級なモンありません!」 「お前の家、か」
興味があるな、と真ちゃんは笑った。そう、俺は真ちゃんの部屋に入り浸っているが、真ちゃんが俺の家にきたことは一度も無いのだ。そりゃあそうだろう。快適さが段違いだし、そもそも。
「俺の家来てもどうしようもねえからなあ。お前毎日一限あるし、俺ん家からお前の大学まで多分二時間、下手したら三時間かかるだろ。昼間に来るっつっても毎日五限まであるんじゃな」 「木曜は三限までなのだよ」 「知ってますー。木曜だけっておかしいだろ。はーあ、俺もよりによって木曜は四限まであるしな」 「そうなのか?」 「あれ、知らなかったっけ」
俺は土曜日曜月曜の週休三日体制で、金曜以外は一限から入れて三限終わりという楽々な時間割を組んであるのだが、木曜だけは四限まであるのだ。そのせいで、唯一真ちゃんとしっかり会える曜日なのに若干のタイムロスが生じてしまう結果になっている。確かに、いつも俺が真ちゃんの家に授業が終わり次第突撃しているから、俺の時間割なんて真ちゃんは知ったこっちゃないのだった。そんなに驚くことでも無いと思うが、真ちゃんはぽかんとした顔で俺のことを見つめている。それよりも、テレビに写ってるアイドル見て宮地さんへの言い訳考えといた方が良いと思うんだけど。
「じゃあ、一時間半、お前は俺を待たせているんだな」 「え、ええ? そういうことになっちゃうわけ? いやまあ確かに言いようによってはそうかもしんねえけど、そもそも木曜以外空いてねえのお前の都合だからね」 「だが実際そうだろう」 「んー、えー、んー、俺が頑張って大学から遠い遠い真ちゃん家まで移動してることとかへの考慮は」 「移動時間を考慮しないで一時間半だろう。講義一つ分なのだから」 「あー、そりゃ、おっしゃる通りです、絶対おかしいけど」 そうだろう、と真ちゃんが満足げに笑うので俺はもうそれでいいか、という気になる。はいはい、俺が一時間半も待たせてますよ真ちゃんのこと。一時間半も俺のこと待ってくれるなんて、真ちゃんもよっぽど俺のことが好きなんだね。マジで。 なんて言えるはずもなく、俺は空中で目に見えない皿を洗う。新しい踊りか? とか聞いてくるお前は何もわかっちゃいない。
■3■
『今から向かうわ』
夏休みは長かったがあっという間だった。多分これから先、色んなことにこういう感想を抱くんだろうなあと思う。大学生活は長かったがあっという間だった。人生は長かったがあっという間だった。そんな風に。 いつも通り真ちゃんに連絡をして、携帯をズボンのポケットに滑り込ませた数分後、低い振動が伝わってくる。取り出して画面を見てみたら、浮かび上がっている名前はたった今俺が連絡したその人で、はてと首を傾げた。今まで電話がかかってきたことなんて無かったのに。
「おー、真ちゃんどったの。今日はやめとく?」 『制限時間は二時間だ』 「はあ? え? 真ちゃん? どうしたの」
俺はアメリカの諜報機関でもないのに、何故いきなりこんな勝負をしかけられているのかさっぱりわからない。しかも相手は真ちゃんで、まずもって何の制���時間なのかもわからないのだ。わからないことづくしで立ち止まる俺に、真ちゃんは一方的に話し続ける。その声が若干楽しそうな気がするのは気のせいだろうか。
『俺のことを一時間半も待たせているのだから、お前の方もそれ相応の時間でもってして探すべきだ。質問には答えてやる』 「いやいやいや、わけわかんねえから。ちょ、どういうこと」 『毎週俺はお前を一時間半待っているのだろう? 腹立たしいからお前も一時間半かけて俺を探せ』 「いや、それお前さっきと言ってることほとんど変わらねえから。ぜんっぜんその理論理解できねえから、え、ちょ、どうしたのマジで」 『質問は終わりか?』 「いや、んなわけねえだろ! 始まったばっかだよ! お前どこにいんの!」 『その質問に答えられる筈が無いだろう』 「あー、めんどくせえなあ!」
ちょっと待って欲しい。状況を整理させて欲しい。どうやら俺は真ちゃんに何がしかの勝負……勝負と言っていいのかこれは? まあいい、何かを挑まれているらしい。制限時間は二時間で、俺はその間に真ちゃんを見つけなくてはいけない、らしい。ダメだ全く訳がわからない。
「制限時間二時間ってなんなんだよ」 『ずっと待っているわけにもずっと探すわけにもいかないだろう』 「一時間半じゃねえんだ」 『移動時間があるからな』
確実に楽しんでいる。そのことを確信して俺は無意識に苦笑いを浮かべた。そういえば、移動時間はお前が俺を待っている時間には含めない、そんな話しましたね。ってことは、つまり、どういうことだ? 俺は真ちゃんを探さないといけない。まず、真ちゃんが講義終わってから出発してるんだから、真ちゃんの大学から一時間半圏内なことは間違いない。そんでもって、俺の移動時間が三十分確保されてるってのはつまりどういうことだ? 一時間半は探す時間だっつってたんだから、三十分が移動時間で別枠なわけだ。でも探すのも移動すんのも結局は同じようなもんだよな? 探しながら移動してんだから、そういうことになるよな? ってことは単純に、一時間半じゃ間に合わない位置に真ちゃんがいるってことか。取り敢えず俺の大学から一時間半以上二時間圏内、真ちゃんの大学から一時間半圏内。合ってるか? 合ってんのか、これ。いやもう合ってなかったら仕方無い。それにしたって範囲広すぎだろ。
「どこにいんのか聞いちゃ駄目って、何なら聞いていいんだよ。近くにあるものは?」 『ふむ、まあそれは良しとしよう。デパートがある。駅の真ん前だな』 「その駅って何線が入ってんの」 『それは答えられないな。だがメトロ含めて八本乗り入れがある』 「あー、そこそこでかい駅なんだな……」
こうなった真ちゃんを俺が止めることなんて不可能だ。別に真ちゃん家を知ってるんだからそこで待ってりゃいい話なんだが、そんなことしたらこいつは暫く口をきいてくれないだろう。下手したら年単位、一生とかにもなりかねない。仕方がない、お前が見つけて欲しいってんなら探してやろう。見つけて欲しくないと言われるより百倍マシだ。我ながら無理やりなポジティブ思考に涙が出そう。
「で、真ちゃんはそこの駅にいるの?」 『いや、外はまだ暑いから駅近くの喫茶店で大福を食べている』 「満喫しすぎだ馬鹿野郎!」
とは言っても腹が立つものは腹が立つので思わず通話をぶった切った。満足げに沈黙する携帯を操作しつつ、取り敢えず駅に向かう。良い子は歩きながら携帯いじっちゃいけません。悪い子でごめんね。恨むならあの奇想天外馬鹿野郎を恨んでくれ。あまり時間も無いので、真ちゃんがいる範囲内でそこそこでかい駅を適当にピックアップする。実はあんまり無い。その中で路線が八本入っている駅は一つしか無かった。駅の東口に和菓子屋と大きなデパートがある。俺の大学から一時間四十五分。まず間違いなくここだろう。これで違ったらもう知らん。 案外あっさりわかるものだと拍子抜けしながら、そういえば路線の合計数を教えてきたのは真ちゃんだったと思い出した。なるほど、やっぱり、見つけて欲しくないわけでは無いらしい。なんでこんなことをやり始めたのかさっぱりわからないが、俺との木曜日が嫌になったわけではない、ということだけでも良かったと思おう。そしてもしも、この真ちゃんの気まぐれが来週からも続くのだったら、それはどんどん難易度を増していくのだろうということも容易に想像できた。嘘だろ。
     ◇
「いや、マジ真ちゃん、今回ばかりは駄目かと思ったぜ……」 「実際駄目だったのだがな。二十七秒遅刻だ」 「二十七秒で済んだのがすげえよ! 駅まではともかく、そっからのヒントが『信号が沢山ある所を左にまっすぐ』って、知るか!」 「他に言い様が無かったのだから仕方ないだろう」 「お前、まさかとは思うけど、俺を待ってる間暇だからってふらふら歩いてたらよくわかんないとこ出て迷子になってただけじゃねえだろうな」 「迷子ではない。携帯で調べれば帰り道はすぐにわかったからな。ただ現在地がわからなくなっただけだ」 「人はそれを迷子って言うかな!」
俺の真ちゃん探しの回数も片手を優に超えた頃から難易度を増してきた。駅前集合だった初回が懐かしい。最終的に猛ダッシュをしてたどり着いた公園で、真ちゃんは優雅におしるこをすすっていた。住宅地の隙間に無理やり作られた狭い公園内には子供の影すらなく、どこかから飛ばされてきたらしい花の種が芽を出して好き勝手咲いている。入口で荒い息を吐きながら緑間の名前を呼ぶ俺に、真ちゃんは少し驚いたような顔をしていた。わからないだろうと思う場所に呼び寄せるんじゃない、全く。 真ちゃんは俺の恨めしい顔にもどこふく風で、ブランコの板に脚をかける。頭をぶつけるんじゃないかと思ったが、案外大きめに作られていたらしく、真ちゃんを乗せてブランコはぎいぎいと揺れ始めた。すぐに息が整った俺も、なんとなくそれにならってブランコに乗る。ぎいぎいと、鎖と板が軋む音がする。
「あー、なんか懐かしいな」 「そうだな」 「ブランコなんて何年ぶりだろ。はは、めっちゃ軋む音してるけど大丈夫かこれ」 「大丈夫だろう」 「大丈夫か」 「リアカーだって、大丈夫だったのだから」
まさか今ここでその話をされるとは思っていなかった俺は、驚いて真ちゃんの方へ振り返る。夕日に照らされて目も頬も髪も真っ赤だ。ぎいぎいと、ブランコが鳴る。鉄と木の音。俺たちのリアカーの音。俺たちが壊して捨てたもの。
「懐かしいな」 「……そーだな」
それ以外、何も言えずに黙る俺に真ちゃんは笑った。仕方がなく笑ったというよりは、楽しそうに笑った。そのまましばらくぎいぎいと、懐かしい音を鳴らす。
「来週は、三限が休講なのだよ」
真ちゃんがそう言い出したのは、その日、俺が真ちゃんの家に行って夕飯を作って風呂に入って布団を敷いて寝る間際だった。俺のためにいつの間にか買われていた布団はまだまだ新しかったけれど、ところどころに小さな毛玉が見えた。俺はその言葉の意味を、もうちょっと深く考えても良かったかもしれない。
     ◇
『制限時間は三時間だ』 「マジかよ……」
毎週木曜に恒例になった電話をかければ、少しひび割れた真ちゃんの声が俺の耳に届く。三時間、今までで最長記録だ。休講になったって、あれはつまりそういう宣言だったのか。俺はあの時に気がついても良かった。迂闊だったとしか言えない。あいつが二限終わりになるということは、一コマ分多く待たせるのと一緒だ。ということは、その分あいつの移動時間も追加される。
「ちょっと真ちゃん、多めにヒント頂戴……」 『ヒントは無しだ』 「はあ?! いや、馬鹿言うなよ、無理だって!」 『俺が行きたい場所にいる』
それ以上何か言う前に通話が切られた。いくらなんでも理不尽すぎる。制限時間は三時間、真ちゃんの大学から三時間以内、俺の大学からも三時間以内。範囲が広すぎる。今時、三時間もあればたいていの場所には行けてしまうというのに。 真ちゃんは、もう俺に、見つけて欲しく無いのだろうか。 過ぎったその考えに背筋が震えた。理不尽なことを言われた怒りよりも、恐怖の方が先に立った。慌ててリダイヤルする。電源を切られていたらおしまいだと思ったが、どうやらそれは杞憂だったらしく、十五コール目で真ちゃんは出た。
『なんだ高尾。これ以上のヒントは無しだぞ』 「真ちゃん、真ちゃんはさ、もう俺に会いたくないわけ」 『誰がそんなことを言った』 「いや、あんな無茶ぶりされたら誰だってそう思うだろ」 『ヒントはもう言ってやっただろう。あとは自分で考えろ』
ぶちりと切れた二回目の通話。どうやら嫌われたわけではないらしく、かと言ってこれ以上の情報をくれる様子もない。嘆いていても何も変わらないなら、しらみつぶしに探す以外方法は無さそうだった。
「ヒントはもう言ったって……真ちゃんが行きたい場所?」
いや、知るかよ、と思う。素直に思う。あの気まぐれ大魔神の考えが完璧に読めたことなんて一度も無い。あいつが今どこに行きたいかなんてわからない。宇宙とか言い出したっておかしくない奴だ。宇宙に行ってUFOがいるかどうか確かめるのだよ、とか言い出しかねない奴である。三時間じゃ宇宙に行けないけど。行けないけどな。 思わず調べてみたら、宇宙の謎展とかいうのが近くでやっていた。可能性はゼロじゃない。そういえば、この前テレビを見ていた時に見かけた甘味屋に目を輝かせていた。あれはどこだったか。木村さんのとこの野菜が久々に食べたいとも言っていた。久しぶりにラッキーアイテムを探すか、とか言っていたのはなんでだっけ。 ああ、本当に、知るかよ、わっかんねえよ、お前が行きたい場所なんて、思いつきすぎてどうしようもない。
     ◇
「あー、ここもハズレ、か……」
どこに行っても姿が見えず、最後の望みを託して来たのは、懐かしの母校、秀徳高校だ。体育館からは、まだボールが跳ねる音がする。俺たちの一つ下の代は、それなりに癖があるけれど良い奴らだった。IH優勝は逃したが、WCはきっと優勝する。優勝できる。そう信じられるだけの奴らだ。そこに、俺と真ちゃんはもういないけれど。真ちゃんは朝から晩まで勉強三昧だし、俺はそんな真ちゃんを追いかけてこんな不毛な鬼ごっこをしてる。情けないと、去年の俺は呆れるだろうか。そんなことをする暇があるなら練習しろ、走りこめ、一分一秒も無駄にするな、そんなことを、言うかもしれない。今の俺は三限終わりでそっからバイトをして、サークルに顔を出したりして、週に一回真ちゃんを追いかける生活だ。悪くない。全然、悪くない。 駐輪場の方まで足を伸ばしてみたけれど、やっぱりそこに俺の求める緑の影はいなかった。そうだよなあ。だってここは、もう過去の場所だ。いつだって全力で走り抜けるお前が、今更ここに戻ろうなんて、言うはずがなかった。俺じゃあるまいし。
「秀徳―――――っ、ファイッファイッファイッ……」
遠くから聞こえてくる運動部の声出し。俺は今、あんな声が出るだろうか。出ないかもしれない。わからない。 だけど俺は、少しだけわかるようになったのだ。俺たちが練習をしている間、職員室では先生たちが必死になって俺たちの将来とか進路を考えていて、馬鹿にしてた鈍臭い先生だって俺たちが体育館使えるようにいつだって申請書作ってくれてて、スポーツ用品店じゃおっちゃんがいつも営業時間少し過ぎても店を開けてくれてた。家に帰ったらあったかいごはんがあった。俺が帰る丁度のタイミングで妹ちゃんは風呂からあがってて、俺はいつだってすぐに風呂に入れた。風呂から出たその瞬間に肉が焼けてた。あったかい食べ物は全部あったかいままだった。朝おきて引き出し開けたら、そこには絶対に選択済みの下着とTシャツと靴下があった。何にもしなくても部屋の床に埃なんて溜まってなかった。俺が今必死になってやってること、真ちゃんが必死になって作ってるルーティンワーク、そんなものが当たり前に俺たちの周りにあった。
「タイムアップ、かー……」
携帯を開けば、電話をしてから三時間と十五分。俺は初めて、真ちゃんを見つけられなかった。けれど、見つけられなかったと電話をするのもためらわれて、「悪い、無理だった」と一言メールをしたためて送信する。冷静に考えれば俺が悪いことなんて一つもないような気がするけれど、まあ、気持ちの問題だ。見つけられなかったのは、確かなんだし。
「帰るか、ね」
今から真ちゃんの家に向かうこともできたけれど、それはきっとルール違反だろう。俺は自分のアパートへ帰るべく、駅へと向かう。夕日はもう沈んでしまった。背中から、まだ、後輩たちの叫び声が聞こえてくる。 悪くない、全然悪くない。 大人になるのは寂しいことだと、あの時の俺は信じていた。リアカーを壊して、思い出を捨てて、バスケをやめて、学校の友達ともほとんど連絡を取らなくなって、生きるのに必要なことだけ手に入れていくのはとても寂しいことだと思っていた。だから未練がましく、あの日、ポケットを膨らませていたのだ。 ただ、そう、実際生活してみれば、案外そんなこともない。沢山のものを捨てて見つけた世界は、思っていたより優しかった。沢山のものを捨てたから、それまで俺がいた世界が、とても優しいものだったのだと気がつけたのかもしれないけれど、もしそうなのだとしたら、それは本当、悪いもんじゃなかった。真ちゃんは、いないけど。
     ◇
「遅かったな」 「……へ? うそ、真ちゃん?」 「待たせすぎだ。六時間だぞ」
玄関、いや、玄関なんて大層なもんじゃない、アパートの狭い門に寄り掛かるようにして真ちゃんは立っていた。錆びついて低い門は、もうとっくに鍵が馬鹿になっていて、ろくに閉まりもしない。郵便受けだって錆びているからぎこぎこと音がする。 まあ、今時、どうでもいいチラシくらいしか郵便受けには入らないのだからあまり不自由はしていないのだけれど。って、違う、違う、そんなことを考えている場合じゃない。意味がわからない。真ちゃんがいる。
「なん、で、こんなところにいるの……」 「なんでも何も、俺が行きたい場所に行くと言っただろう」
まさか六時間待たされるとは思わなかったがな、と真ちゃんは呆れたような溜息をつく。六時間って、お前、まさか六時間ここに立ちっぱなしだったわけ。不審者として通報されててもおかしくない。いや、そんな通報してくれるような甲斐性のある住人は多分この近辺にはいないのだけれど。っていうか、そうじゃない、そうじゃないだろ。きりがないからって制限時間作ったのお前だろ。なんでずっと待ってんだよ。
「お前、一体全体どこまで行っていたのだよ。もう来ないかと思ったぞ」 「いや、それはこっちの台詞っていうか、まさか俺の家とは思わないじゃん……」 「何故。俺はずっと言っていたはずだが。むしろお前はどこを探していたのだよ」 「そりゃ、いっぱいだよ」 「いっぱいか」 「うん、いっぱいあった」 「そうか」
いっぱいあったなら仕方がない、許してやろう、とふんぞり返る姿勢があまりにも偉そうなので俺は笑ってしまう。別に何が面白いというわけでもないのだけれど笑ってしまう。真ちゃんと一緒にいると、とてもどうでもいいことでだって笑ってしまうのだから仕方がない。そんな俺を見て、真ちゃんも小さく笑う。
「それで?」 「へ? それでって、なに?」 「時間に間に合わなかったのだから罰ゲームを受ける覚悟はできてるんだろうな」 「それで、にどんだけ意味がこめられてんだよ」
どうぞどうぞ、なんなりと。やっぱり俺はそんなに悪くないと思うのだが、六時間外で待っていてくれた相手に対してそんなこと言えるはずもないし思わない。おしるこ何百本おごりでも許そうと思って諦めた。惚れた弱みというやつです。投げやりになった俺の様子に、真ちゃんはにやりと楽しそうに笑って一言。
「お前の家に泊めろ」
     ◇
「狭いな」 「ずっとそう宣言してんじゃん」 「風呂場も狭い、台所も狭い、部屋も狭い、のに物は多い」 「わりーかよ」 「悪くない」
ただでさえでかい部屋に規格外のサイズの奴が入ってきたら、それはもう狭いなんてもんじゃなかった。極小だ。人形の部屋だ。座る場所を探した真ちゃんは見つけられなかったのか、勝手に俺のベッドの上に陣取った。わざとなのかなんなのか、いいけどね、いいですけど。一日中閉じきっていた部屋はもう夏を過ぎても蒸していて、堪えきれずに窓を開け放した。がらがらと、網戸が今にも外れそうになりながら開いていく。車輪が錆びついているのかそもそも設計的に立てつけが悪いのか、三回に一回は外れて俺を悩ませるこいつは、今回は綺麗に開いてくれた。
「ま、別に景色もよくねえけど」 「道路が見えるな」 「道路しかねえだろ」 「向かいの家も見える」 「道路沿いだからな」 「……あそこに」
俺につられて窓から身を乗り出した真ちゃんが下を指さす。そこには庭というのもおこがましい、アパートの僅かな隙間に雑草が茂っている。誰も手入れをしないから、好き放題に伸びきって、今じゃススキが揺れている。
「あそこにあるのは、お前の自転車か」 「そうだよ」
そう、そこは庭というのもおこがましい、アパートの共同駐輪場だ。駐輪場というにもおこがましいのだが、しかし実際駐輪場として機能している以上それ以外の言いようはないだろう。引っ越しをするにあたって、新しく買い替えても良かったのだけれど、ついそのまま持ってきてしまった俺の愛車。
「懐かしいな」
そう言って真ちゃんは笑う。真ちゃんは、いつからこんなに笑うようになったのだろう。そこに俺が関係していると思うのは自惚れかもしれないが、関係ないと言い切るのもまた自惚れだ。きっと、俺は関係があった。だけど、それだけじゃなくて、俺の知らない真ちゃんの生活の色んなものがきっと関係あるんだろう。
「お前、あれ、今でも乗っているのか」 「そりゃ乗りますよ。普通に乗りますよ。なんならあれで大学に行く��、スーパーだって行きますよ。お前の晩飯の材料買ってますよ」 「ああ、そうだ、夕飯、お前こんな狭い家で作れるのか」 「それは流石に馬鹿にしすぎだろ! 言っとくけど週の六日間はここで過ごしてんだからな! 俺!」 「そうだった」
お前が働いて、家賃も光熱費も水道代も食費も払って住んでいる部屋だった、と真ちゃんは笑う。何故だか誇らしそうに笑うので、家賃は親持ちだけどな、という俺の声はなんだか拗ねたように響いてしまった。それでもこいつは、立派なものだと繰り返す。俺よりももっと大変な奴なんて沢山いるから居心地が悪いことこの上ない。
「で、エロ本はどこにあるんだ」 「お前ほんっと楽しそうね」 「当たり前だ。ずっと来たかったんだから」
楽しそうに引き出しを開けるが、残念、そこには俺の下着があるだけだ。母さん直伝の下着の畳み方は、なかなか皺になりにくくてこれが主婦の知恵かと俺は感心している。まあ、真ちゃんの家の服の畳み方も、今じゃこれなんだけど。俺が教えたから。 見当違いな引き出しを次々に開けていくこいつは遠慮を知らないのかなんなのか、もっともポピュラーなベッド下にもないことを悟って残念そうな顔をした。甘い真ちゃん、一人暮らしでエロ本を隠す必要がどこにある。普通に本棚にほかの雑誌と一緒に並んでいるのだがこいつは気が付く様子がない。教えるつもりもない。
「真ちゃん、諦めろって」 「諦めろ、ということは、ないわけではないのだろう? ならば人事を尽くすのだよ」 「へいへい、人事を尽くしたいのはわかったけど、後でな」 「む」 「夕飯にしよう」
飯にしよう。完璧な食事をしよう。お前がいればそれだけで俺は腹いっぱいに幸せだけれど、腹が空かないわけじゃないんだから。
     ◇
「狭かった」
風呂上がりの真ちゃんの第一声がそれだった。そう文句を言っている割に顔は満足げなのだから腹立たしい。洗濯しすぎてくったくたになったタオルで髪を拭くこいつに、ドライヤーなんてねえからな、と声をかければ構わないと返事が返ってきた。嘘つけ。お前髪の毛乾かさねえと次の日めちゃくちゃ絡まるくせに。このねこッ毛野郎。
「真ちゃんさー、なんでこんなことしたわけ」 「別に」 「しんちゃーん」 「……お前の家に行く口実を、探していただけなのだよ」
不機嫌そうに顔をしかめながら真ちゃんは、俺にタオルを投げつける。ぼふりと顔に湿ったタオルの感触。俺の家に来る、口実。俺の家に。真ちゃんがずっと探していたもの。それは、多分、俺が探していたものと、そっくり一緒だった。
「……別に、いつ来ても良かったのに」 「お前は、嫌そうだったじゃないか」 「ああ、それは、お前がここまで来るの面倒だろうって思ってたんだって、それに」 「それに?」 「あれ見つかんの恥ずかしかったから」
俺が指さした先の戸棚には錆びたボルト。あの日の俺の膨らんだポケットの中身。しばらく首をかしげていた真ちゃんは思い当たったのか驚いた顔を向けた。
「リアカーのか」 「リアカーと、自転車の連結部分の、かな」
女々しいったらありゃしない。だけど俺はどうしても、全部捨てることができなくて、こんなものを大事に抱え込んでいる。あの日こっそり、一つだけポケットに忍ばせたそれをまだ大切にしている。
「笑う?」 「笑わない、が」 「が?」 「ずるくないか」 「へ?」 「俺だって欲しかったのだよ」
ふて腐れたような顔で文句を言う真ちゃんの、内容があまりにも予想外すぎて俺は間抜けな顔をしてしまう。何それ、真ちゃん、欲しかったの。そんなの欲しがってんの、俺だけかと思ってたのに。そんなの大切にしたいの、俺だけかと思ってたのに。
「……そういえば、今日、お前探して秀徳まで行ったんだけど」 「はあ?! お前抜け駆けばかりか。そこまでお前がずるい奴だとは思わなかった。何故俺を連れて行かないのだよ。後輩どもはどうしてた。相変わらず生意気だったか」
いや、いきなり行っても邪魔かと思って話はしてねえけど、ていうかお前探すのに必死でその余裕はなかったけど、なんだよお前。なんだよそれ。お前、そんなそぶり全然見せなかったくせに。毎日毎日忙しくて、前だけ向くのに必死ですって顔してやがったのに、そんなの、お前こそずるくねえか。
「真ちゃんってさ」 「なんだ」 「案外あまちゃんだよなあ」
俺の言葉に一気に不機嫌になった真ちゃんの機嫌を取るのは大変だった。どうせ俺は親の脛をかじった世間知らずのお坊ちゃんなのだよと愚痴愚痴ぶーたれるので、どうやら大学でも言われたらしい。まあ否定はできないがそこが真ちゃんの良い所というかチャームポイントなのだから俺としてはそのままで一向に構わないのだが。
「お前のことも言ったら馬鹿にされた」 「へ? 俺のこと?」 「お前が家に来て飯を作っていく話をしたら、通い妻かなんかかよ、そいつもかわいそうだなとかなんとか、他にも色々」 「あー、うん、まあ、そんなもんだろーな……」
むしろ気持ち悪がられなかっただけ僥倖だと思うのだが、その回答はお気に召さなかったらしい。別に俺が通えと言ったわけじゃないのに、というのはその通り。
「だから俺も通うのだよ」 「いやその発想はおかしい」
堂々と告げた内容はあまりにも頓珍漢だ。っていうかこの狭い家には何もない。テレビだってろくに映らないし録画はできないし、クーラーは効かないし多分暖房だって効かないだろう。布団だって敷けないし、風呂だって手足を伸ばせない。
「それがどうした」 「真ちゃん、衣食住の充実って言葉があってな」 「どうでもいい。ここにはお前がいるんだろう」
だったらそれでいい、とこいつは言う。その言葉の意味をわかっているんだろうか。どうせ、わかっちゃいないくせに、馬鹿な奴。本当に、馬鹿な、大馬鹿野郎。
「お前がいればいい」
わかっちゃ、いないのは、俺の方だったんだろうか。
「すっげー熱烈なプロポーズね」 「本当のことなんだから仕方がないだろう。諦めろ高尾、お前のために俺の木曜は全て空けてあるのだよ。言っておくが、他の奴にここまでする気はない」
知っている。知っているとも。お前が、必要な時にしか人に頼らないことくらい。必要がなければ、誰かに連絡なんてしないことくらい。お前の毎日のルーティンに組み込まれることの意味くらい、俺はとっくにわかっていたのだ。
「それなんだけどさ、真ちゃん」
良かったら、金曜の午前も空けてほしいなと、そう告げたら真ちゃんは首を傾げた。後期授業は考慮しよう、とわからないまま頷く真ちゃんを抱きしめて、そのままベッドに倒れこむ。あたたかい。ごつい。でかい。好きだ。あーあ、好きなんです。さっき食った夕飯の食器は、まだ流しに放置したままだ。だけど今日くらい、いいだろう。
「真ちゃん、ちょー好き、残念ながら、マジで好き」 「残念ながら俺もだな」
笑っちまう��俺の家は本当に狭いから、くっつく口実なんていくらでもあるんだ。
     ◇
「おーい、真ちゃん、十時だぜ。起きねえと、三限間に合わねえんじゃねえの」 「腰が痛い……」 「真ちゃんが魅力的だったからつい」 「お隣さんが凄い壁を殴っていたような気がするのだよ……もうしばらくお前の家には来ない……、というかお前、俺が金曜三限からにして以来調子に乗ってるだろう」 「ごめん」 「否定しないのか!」 「事実は否定できねえから……」
朝食を差し出せば、真ちゃんは億劫そうにベッドの上でそれを受け取ってそのまま食べる。まあ随分だらしなくなったことで。まあ、相変わらず栄養バランスにはうるさいのだけれど。一日二日乱れるくらいは何も言わなくなった。俺の腹がたるんだらお前のせいだからなと、せっせと俺の飯を食っている。いいことだ。
「あー、また一週間真ちゃんに会えねえのかよー、ちくしょー」 「仕方ないだろう。学業をおろそかにするわけにはいかん。日々の予習復習、自主学習もろもろ、他のことを加えれば遊んでいる暇などないのだよ。 「そりゃそうかもしれねえけど! 土曜にも講義入ってて日曜が実験で潰れてってホントねえから! お前それ部活ぐらい拘束時間なげえだろ!」 「やりがいがあるな」 「その顔滅茶苦茶腹立つわ」
俺の部屋の引き出しから、こいつの服を取り出してぶん投げる。ベッドの上に散ったそれを適当に身に着け始めるこいつは余裕の表情だ。本当に、腹立たしい。
「へいへい、その間に俺はバイトにサークルにバスケに忙しくさせていただきます。へへ、この前ついに真ちゃんのこと抜きましたし? エース様の座が俺に渡る日も近いんじゃねえの? エース高尾の誕生だぜ」 「まだ一回だろう。調子に乗るなよ」 「悔しいなら悔しいって言っても良いんだぜ、真ちゃん」 「次はぶちのめす」
おっかねえなあと肩をすくめる間に真ちゃんは支度を終える。俺も支度が終わって戸締りをする。火の元、水道、窓。完璧だ。真ちゃんと一緒に家を出て、チャリで駅まで送っていく。俺の大学へは遠回りだけど構わない。最近真ちゃんは、二人乗りを覚えた。滅多にやろうとしないけど。俺も真ちゃんも寝坊した時、ダメもとで提案したら了承したのだ。あの緑間真太郎が、悪くなったものである。それは多分俺のせいで、そして俺以外のせいでもある。そんなもんだ。悪くない。
「で? 俺の家にはしばらく来ないわけ? じゃあ次はどこ行くの?」 「そうだな」
変わることが怖かった。失うことが怖かった。だけど案外世界はそのままで、真ちゃんは変わらずに俺の隣を悠々と歩く。リアカーにひかれていた時と変わらずに、堂々と、傲岸不遜に、楽しそうに歩く。俺はゆっくり自転車をこいでいる。
「お前がいれば、どこでもいい」
色んなことを捨てました。沢山の粗大ごみを出しました。大切なものも捨てました。だけど実は、こっそりちょっと、取っておきました。悪い大人でごめんなさい。だけど世界は、案外こんな俺たちを許してくれたりしてるのだ。お前がいればそれでいい。お前がいるからここでいい。お前がいるからここがいい。次はどこでお前に会おう。どこでもいい、この寂しくて厳しくて優しい世界。次はどこでお前に会おう。
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abcboiler · 4 years
Text
【黒バス】love me tender/tell me killer
2013/10/27発行オフ本web再録
※殺し屋パロ
「はじめまして」
「……はじめまして」
「っへへ、やっぱ声も思ったとおり綺麗だわ。な、俺、タカオっての。お前、名前は?」
伝統の白壁作りの家々は、夜の闇にその白さをすっかり沈めてしまっている。時刻は零時を丁度回ったところ。街路樹が全て色を変えた季節のこと。
この国の秋はもう寒い。話しかけられた男の方は、きっちりと白いシャツのボタンを首筋まで止め、黒いネクタイを締め、黒いコートを風にはためかせている。コートを縁どる赤いラインがやけに目立った。話しかけた男はといえば対照的に、夜闇でも目立つ真夏のオレンジ色をしたつなぎを着ているのみだ。チャックを引き上げているとはいえ、その中身は薄いTシャツかタンクトップだろう。
しかし突然話しかけられたにも関わらず男は無表情を保ったままで、鮮やかな髪色と同じ、眼鏡の奥のエメラルドの瞳は瞬き一つしなかった。そしてまた対照的に、オレンジのつなぎを着た男は軽薄というタイトルを背負ったような顔で笑っている。不釣合いな二人は、真夜中の淵、高級住宅街の一つの屋根の上で会話をしていた。
「何故名乗らねばならん」
「え、それ聞いちゃう? だってそりゃ、好きな人の名前は知りたいっしょ」
「成程」
初対面である男に唐突な告白を受けても、緑色の男はやはり一つの動揺も見せなかった。その代わりに僅かに、それは誰も気がつかないほど僅かに、白い首を傾げた。白壁すら闇に沈む中で、その首筋の白さだけが際立っていた。
「ならば、死ね」
魔法のように男の手に現れたサイレンサー付きの拳銃から、嫌に現実的な、空気を吐き出す僅かな音。
雑多な人種が集い、少年が指先で数億の金を動かし、老人が路地裏で幼子を襲い、幼子がピストルを煌めかせるような腐った街で、世界を変える力など持たない二人の男が、この日、出会った。
             【ターゲットは運命!?】
  「ねえ真ちゃんー、愛の営みしようよー、それかアレ、限りなく純粋なセックス」
「お前が言う愛の営みの定義と限りなく純粋なセックスの定義を教えろ」
「やべえ真ちゃんの口からセックスって単語出てくるだけで興奮するわ」
  高尾がそう告げ終わるか否かの瞬間に彼の目の前をナイフが通り抜けた。それは高尾が首を僅かに後ろに傾げたからこそ目の前を通り過ぎたのであって、もしもそのままパスタを茹でていたら今頃、寸胴鍋の湯は彼の血で真っ赤に染まっていただろう。壁に突き刺さったそれを抜き取りながら、彼は血の代わりに塩を入れる。
「お腹空いてんの?」
「朝から何も食べていない」
「ありゃー、それはそれは」
お仕事お疲れさん、と高尾は笑う。時刻は深夜一時、まっとうな人間、まっとうな仕事ならば既に眠って明日への英気を養っている時間帯である。
そしてその両方が当てはまらない人間は、こうやっておかしな時間帯に、優雅な夕食を食べようとしていた。落ち着いた深い木の色で統一されたリビングで、緑間はさして興味もない新聞を眺めている。N社の不正献金、農作物が近年稀に見る大豊作、オークション開催のお知らせ云々が雑多に並ぶ。
「しかし久々にやりがいがある」
「真ちゃんがそこまで言うなんてめずらし」
「ああ、俺の運命の相手だ」
緑間がそう告げた瞬間に、台所の方からザク、という壁がえぐれるような音がした。椅子に座る緑間は新聞から目を外すと、僅かに首を傾けてその方向を確認する。見慣れた黒髪と白い湯気。
「……ねえ真ちゃん、詳しく聞かせてよそれ」
「どうした高尾、腹が減っているのか」
「そうだね……俺は昼にシャーリィんとこのバーガー食ったかな……」
微笑みながら振り返る高尾の左手には先程緑間が投げたナイフが握られている。それなりに堅い建材の壁が綺麗にえぐれていることも確認して、彼は小さく溜息をついた。
(台所は本当に壁が傷つきやすいな)
寝所やリビングはもう少しマシなのだが、と周囲を見渡せば、そうはいうもののあちこちに古いものから新しいものまで、大小様々な切り傷や銃創が残っている。床、壁、天井��家具、小物にタペストリー。無傷なものを探すほうが難しい。彼は一通り確認して、もう一度台所に視線をやって、さらにもう一度、リビングを確認する。
(この家は本当に壁が傷つきやすいな)
そう認識を改めると、緑間は満足げに頷いた。自分が正しく現状を認識したことに満足して。もしもここにまともな感性の人間がいたならば、壁が傷つきやすいのではなく、お前たちが壁を傷つけているのだと頭を抱えただろう。良い家だが、と緑間は思っている。その良い家を傷つけているのが誰かというのは、気にしない。
「はい、真ちゃん、どうぞ」
高尾は左手でナイフをいじったまま、緑間の前にクリームパスタをごとりと置く。ベーコン、玉ねぎ、にんにく、サーモン、それから強めの黒胡椒。
「そろそろ引越しを考えるか」
「え、どうしたの、別に良いけど」
そして悲しいことに、あるいは都合のいいことに、この部屋にはまともな感性の人間など一人としていないのであった。
引越しだ、引越しをしなくてはいけない。
     *
緑間真太郎と高尾和成はフリーランスの殺し屋である。特殊な職業だねと八百屋の青年は冗談で流すかもしれないが、それは特殊であるというだけであって、この街ではありふれた職でもあった。なんなら、その八百屋の青年は、夜になったら配達先でナイフを燐かせているかもしれない。その程度である。その程度のありきたりさで、緑間と高尾はコンビで殺し屋をしていた。
しかし殺し屋がコンビを組むのは珍しいことではないが、コンビを組んだまま、というのはこの街でも非常に珍しいことだった。報酬の取り分や仕事のスタイル、そういったことで直ぐに仲違いをして、どちらかがゴミ溜めの上で頭から血を流すことになるのがオチだからである。
かといって、誰もがそんな下らないことで命を落としたくないと考えているのもまた事実で、コンビを組むのは一回か二回、そこで別れるのが一般的にスマートなやり方とされていた。
殺すも殺されるも一期一会と下品な男たちは笑う。
「ま、俺と真ちゃんは運命だから、そんなことにはなりませんけど」
笑いながら高尾は、真昼の路上を歩いている。彼にとって報酬はどうでもいいものであり、ただ緑間真太郎の隣にいることが彼の報酬そのものといえた。
別れるくらいなら死んだほうがマシ。いや真ちゃんが悲しむから死なないけど、あーでも真ちゃんかばって死ぬならまあギリギリ有りかな……いやいや高尾和成、人事を尽くせよそこは一緒に生き残るだろう? でも真ちゃんが万が一俺と別れたいと言ってきたらどうする? 緑間真太郎を殺して俺も死ぬか? いやいやいやいや、何がどうあれ、俺が、真ちゃんを殺すなんてありえない。ありえない!
微笑みを浮かべながら闊歩する高尾の脳内は地獄さながらに沸き立っている。けれど誰も彼を気に止めない。夕飯の買い物やのんびりとしたランチを楽しむ善良な市民たちに溶け込んで、柔らかい日差しを吸い込んでいる。世界に何億人といる、特徴のない好青年。その程度の存在として高尾は歩く。歩きながら考えている。
そう、そもそもそんなことになる筈がないのだ。だって、俺の運命の相手は緑間真太郎その人なんだから。
「運命の相手、ねえ……」
昨晩、正式には日付を跨いでいたので今日の夜だが、その夜、に、当の緑間真太郎が告げた台詞が高尾和成を苦しめている。俺の運命の相手。運命の相手。運命。いやいやいや、俺の目の前で真ちゃん、他の男の話とか無しっしょマジで。
意気消沈する高尾は、しかしそれで諦めるほどかわいらしい精神をしていない。彼がみすみす獲物を逃すことはないのである。逃すくらいなら奪って殺す。けれど彼に緑間真太郎を殺すことはできない。何故ならば愛しているからだ。ならば、彼の取るべき手段は一つだけだった。
「運命の相手の方殺すしかねーだろ」
いや別に殺さなくてもいい、相手が緑間真太郎を振ってくれるならそれでいい。いや、あの緑間真太郎を振る? それこそ万死に値するお前ごときが何真ちゃん振ってんだよそれはそれで死ねよもう。
自分で出した問いと答えに自分で怒りを爆発させるという器用なことをしながら、高尾和成は尾行していた。緑間真太郎を。
真ちゃん、今日も一日美しいね。
     *
「ねえ真ちゃん、真ちゃん今日一日何してた……」
「仕事だが」
「うん、そうだね、そうだよね」
ビーフストロガノフを頬張りながら高尾は溜息をつく。その向かいでは黙々と緑間が口にスプーンを運んでいる。湯気で僅かに眼鏡がくもっているが本人は気にしていないらしい。
「ねえ真ちゃん、ちなみにどんなお仕事なの」
「個人の仕事には口を出さないのがルールだろう」
「それも知ってた……」
そう、フリーでコンビを組んでいるとはいえど、二人の得意とする分野はまるで違う。だからこそ互いに補い合えるわけだが、逆に言えば苦手な分野でない限りは、どちらか一人で事足りてしまうのだ。
そもそもコンビを組むまでに築き上げてきた地盤もお互い全く別のもの。必要以上の情報は公開しないことはお互いのためにも必然だった。
「あーあー、もー。高尾くんがこんなに悩んでんのに真ちゃんはお澄ましさんだもんなー」
「悩んでいるのか? おめでとう」
「ありがと」
お前に悩むだけの脳みそがあったことに乾杯、と言いながら緑間は赤ワインを傾ける。それに応えながら、高尾は左手に持っていた食事用のナイフを壁に投擲した。それはまるでバターを切る時のように白壁に刺さる。とすり、と軽い音。
「今度引越しをしよう、高尾」
「それこの前も言ってたね」
「ああ、俺が運命の相手を見つけたら、すぐにでも」
なに真ちゃん別居宣言なのいくらなんでも酷くない?! 泣きながらビーフシチューを掻き込む高尾に緑間は首を傾げていた。
高尾、食べやすいからと言ってライスを噛まないのはよくないぞ。
     *
尾行が四日目にもなれば、いくら『人生楽しんだもん勝ち』を座右の銘に掲げる高尾といえど、纏う空気は重くなるというものだった。それもそのはず、この四日間緑間真太郎はといえば、近くの図書館にこもりきりなのだから。
「いや、でも、わかったこともある……」
窓際に座る緑間が見える、図書館向かいのカフェでジンジャエールをすすりながら高尾は溜息をつく。
まず、緑間真太郎が本を読みに行っているわけではないこと。毎回場所を変えてはいるけれど、常に入口が見える位置に陣取っていること。つまり、緑間は図書館に訪れるであろう誰かをずっと待っている。
それはわかった。しかしそれは、一日目の段階から薄々わかっていたことであった。ならば後は緑間が接触した相手を尾行し、暗がりにでも連れて行き、少し脅してどこか地球の裏側に行ってもらうか空の国に行ってもらえばいいと、彼はそう高をくくっていたのである。ところが、だ。
「なんで真ちゃん誰とも会わねーの……」
そう、緑間は誰とも接触をしていなかった。ただ黙々と本の頁をめくり、そして閉館時間までそこにいるのである。本に何かの暗号が隠されているのではと、その後忍び込んでみたが、まあ面白い程に何も無かった。
では本の種類か、と思ったが一体全体星占いの本で何を伝えるというのか。では帰り道か、そう思ってつけてみれば、そのまま家へと直帰したので夕飯の支度をしていなかった高尾は慌てふためいた。何せまだ夜の八時、普段からすれば早すぎるのである。
どうやら緑間は運命の相手探しとは別に、他の仕事をいくつか同時に請け負っているようだった。それが無い日は早く、あれば帰りにさっとどこかに寄って仕事をこなして帰っている。そして今の仕事は図書館で星占いの勉強だ。どうなってる、と高尾は頭を抱えることしかできない。
つまり朝家を出て、図書館に行き、帰る、今の緑間は基本的にはそれだけのことしかしていないのである。たまに何か軽い仕事をして帰る。何かに似ていると思ったら、職を追われたことを妻に隠して公園で鳩に餌をあげるサラリーマンだった。
そして今日も緑間真太郎は閉館時間まで本を読んでいる。もうその本を確認する気にもならなかった高尾は、緑間が立ち上がると同時に立ち上がった。
この図書館に何かあるのは間違いない。館内は飲食禁止というのを律儀に守る緑間真太郎は、毎晩腹を空かせて帰ってくるのだから。昼を食べに外に出ることも惜しんでいるのだろう。その間にターゲットが来てはたまらないから。そこまで緑間に想われている相手が憎くもあり、羨ましくもあり、そして今日も出会わなかったことに少しの安堵を覚えつつ、夕飯は何にしようと、高尾はもう考え始めている。
まずは胃袋をつかめって言うしな!
     *
「ねえ真ちゃん、俺に何か隠し事してない?」
「数え切れないほどあるが」
フリットを黙々と頬張りながら緑間真太郎は首を傾げる。この姿を見るといつも餌付けしているような気持ちになって、高尾の心の独占欲やら征服欲やらが幾分か満足するのだが、今ばかりはその小首を傾げた姿が憎らしい。昼飯を抜いている緑間はよく食べる。とはいえど、もともと食が細い方なため、これでようやく高尾と同じくらいなのだが。
「いや仕事以外でさ、仕事以外」
「む」
少し遠回りに何かヒントでも出して貰えないだろうかとやけくそで告げた言葉だった。しかしその瞬間に緑間の眉が僅かに跳ね上がったのを、高尾は見逃しはしなかった。何かある。間違いない。
もしも心暗いところが無ければ、こんな質問は一蹴されて終わりなのに緑間はまだ頬張った白米を咀嚼しているのだから確定である。きっかり五十回噛んだのち、緑間はゆっくりと口を開いた。
「何故バレた」
「バレたっていうか、自分であんだけ色々言っておいてバレたも何も無いっつーか……」
「仕方がないだろう。住所やら証明印やら保証人だか何だかが必要だとぐちゃぐちゃ抜かしてくるから、カードごと叩きつけてきたのだよ」
「ごっめん待って真ちゃん俺は一体全体何の秘密を暴いちゃってるわけ?」
全く噛み合わない会話に高尾は額を押さえた。これはまずい、とカンカンカンカン警鐘が鳴る。響き渡っている。これは、恋や愛などのロマンチックなものではなく、もっともっと切実な話だ。
「? 俺のラッキーアイテムのことを言っているのではなかったのか」
「真ちゃん今度は何買ってきたの?!怪しい骨董買うのはもうやめなさいって言ったでしょ?!」
「怪しくは無いのだよ。曰くつきではあるが」
ちらりと視線をやった先には緑間が愛用する真っ黒ななめし革の鞄。フォークを置くのもそこそこに高尾が飛びついて中を確認すれば、ご大層なジュエルケースが無造作に突っ込まれていた。
「し、んちゃん、これ、何カラット……?」
彼が震える手で開いてみれば、そこには美術館で赤外線センサー付きガラスケースに収まっているような宝石がごろりと存在感を放っていた。青い光が安い蛍光灯の光を反射して奇しく光る。角度を変えれば色も虹色にさんざめいた。
「百七だったか。ポラリスの涙とかいう宝石で、手にした者は皆その宝石の美しさにやられて、目から血を流して死んでいくだとかなんだとか」
「それってただ単にこの宝石巡って争い起きまくってきましたってだけだろ! おい待てこれちょっとおい怖い聞くの怖い、いくら俺でも聞くの怖い怖すぎる怖すぎるけど聞くけどいくら」
「オークションで七億」
「俺たちの全財産じゃねえか!」
緑間真太郎は占いに傾倒している。そのことを高尾は出会って少ししてから知ったが、その理由は知らない。けれど事実として、緑間は好んで占いの情報を入手するし、そこに書かれていることは実行しようとする。物欲の無い緑間の、唯一の趣味だと高尾は思って普段はそれを流しているが、それにしても今回のは過去���高額も最高額、記録をゼロ二桁ほど抜かしてしまった。
手の平に収まる石が高尾をあざ笑うように輝く。
「それが身分を確認するだとかなんだとか面倒くさいことを言うし、まさか言うわけにもいかないし、仕方がないから口座のカードに暗証番号書いて叩きつけて来たのだよ」
「ああ、なるほど、そこに繋がるわけね?! 確かに俺たちの口座普通に偽名だし辿られても問題ないと思うけど、待ってまさか分散させてた口座全部」
「叩きつけてきた」
「もう普通に殺して奪えよ!」
愛は盲目とは言うが、盲目であっても腹は減るし、愛で空腹は満たせないのである。名の通った殺し屋として法外の報酬を得てきた二人にまさか明日の食事を気にしなければならない日が来るとは高尾はついぞ思っていなかった。
カードに暗証番号を全て書いて怒りながら叩きつけた緑間を思うと、本当に何故そんな手段しか取れなかったのかと高尾は純粋に疑問で仕方がない。方法は他にもっとあった筈である。いや、そもそも七億の宝石を買おうと思う時点でおかしいのだが。せめて盗め、ていうかもう殺して奪え、そう思う高尾の主張は、ろくでなしとしては非常に正しかった。
「馬鹿が。普通に殺すとはなんだ。殺しとは普通のことではない。そして普通、モノのやりとりには正当な対価が必要なのだよ」
「そうだね、でも俺たち殺し屋だからね?!」
しかしそれは同じろくでなしである筈の緑間には全く通用しないらしかった。台詞だけを取り出せば間違っているのは高尾だろうが、この状況を見れば正しいのは自分だと彼は自分を慰める。知らぬ間に目尻に浮かんだ涙に、それを宝石に落としてしまっては一大事だと高尾は慌てて輝くそれをしまった。
そして、どうやら一文無しになったことを悟った高尾は項垂れた。確かに二人の口座は共有で、さらに緑間は、今はもう抜けた組織の下にいた頃に膨大な金を蓄えている。割合で言えば緑間の取り分の方が余程多いだろう。
それでもそのうち一億くらいは俺の取り分だったと思うんだけどな、と高尾は涙目を隠しきれない。それは自分の分の報酬を取られたことではなく、明日からの食事の献立を考え直さねばならないことに対しての涙だったけれど。
あまりにも凹んでいる高尾の様子に、流石に罪悪感を覚えたのか緑間は僅かに視線を泳がせながら打ちひしがれる高尾の方に手をおいた。
「高尾、その、なんだ」
「真ちゃん……」
「明日には二百万稼げるから」
「そういう問題じゃねーよ! いやでもそういう問題か?! じゃあ明日も豪華な飯作るからな?!」
半泣きになりながら告げる高尾に緑間は頷きながらグラタンが良い、と答えた。
また適度に面倒くさいモン注文するよなお前は。
     *
「で、真ちゃんそれいつ買ったの」
「一週間前」
一度落ち着こうと、二人はテーブルでコーヒーをすすっている。緑間の方は牛乳を入れすぎてもはや殆ど白い色をしているがそれで本人は満足らしい。
「あーー、一週間前じゃもう完全に差し押さえられてるよな……」
「だろうな」
「はーあ、真ちゃんの我侭にも困ったもんだわー」
机に頬をつけるようにして高尾は溜息をつく。左手でくるくると回していたナイフを机に突き立てればあっさりとめり込んだ。その様子を見て緑間は繰り返す。高尾、引越しをしよう、と。それにへいへいと頷きながら高尾はまたそのナイフを引き抜いて、寸分違わずに同じ場所に差し込む。
「あーあー、もー、真ちゃんのこんな我侭許してあげんの、俺だけだからな? 真ちゃんの運命の相手だってこんなの許してくれないよ?」
「お前は何を言っている。運命の相手に許すも許さないも無いのだよ」
「あー、はいはい、もうそんなの超越してるって?でもさ」
「いや、だから」
お前は何を言っているんだ? 本気で当惑したような表情の緑間に、どうやらこれは腰を据える必要があると高尾は顔をあげた。机に刺さったナイフは幾度も繰り返し繰り返し差し込んだことでついに貫通してしまっている。
取り敢えず、真ちゃん、コーヒーのおかわりいる?
     *
「小学生?!」
「ああ」
「し、真ちゃんって、そんな趣味だった、の、いやお前年上好きって……でも俺今から小学生に……」
「違う、が、その少年しか手がかりが無いのだよ」
高尾の動揺を全て無視して緑間は説明を続けた。曰く、その少年が持っている物がほしい。曰く、姿格好や出会った時間帯から小学生であることは間違いない。曰く、出会ったのは運命だ。
「で、なんでそれが図書館につながるわけ?」
「この街で小学校に通うということはそれなりに裕福な家庭だろう。服も仕立ての良いものだったからな。そしてその年頃の子供の移動範囲は広くない。行ける施設も限られているだろう。治安が良い場所で、そんな小学生が行く場所といったら図書館しかない」
「いやいやいやいやいやいやいやいや」
自信満々に超理論を展開する緑間に、高尾は渾身の力で首を振った。この男は殺しに対してはとんでもない頭脳を発揮するし、普段からその利発さは留まることを知らない、才能の塊だと高尾は思っているが、たまに、とんでもなく、馬鹿だ。
「まあ小学生なのも移動範囲狭いのもいいとして、旅行者かもとか親に連れられてたかもとか色んなのも置いといて、なんで図書館なんだよ!」
「ほかに何がある」
「漫画あるとこでもいいし街中でもいいし公園とかでいいだろ! 図書館とか最も行かねえよ!」
あまりの言われように緑間も何か言い返そうと口を開いたが、「お前がいる間図書館に来た子供の数思い出せ!」という一言には反論ができなかったらしい。口を閉じて悔しそうに高尾を睨みつける。
いや、そりゃそうだろうと高尾は思う。そもそも図書館自体が上流階級の持ち物だ。緑間は何の気負いもなく入っていったが、高尾だってそうそう入りたい場所ではない。そこに、いくら身なりが整っているとしても子供が入っていく筈が無いだろう。
ふてくされた表情のまま、じゃあどうすればいいのだよと緑間は問う。
「その近辺の子供が行きそうな所しらみ潰しに探すしかねえだろ。路地裏とか屋上とか廃屋とか、公園とか、まあ、そういうの」
「面倒だな……」
「言いだしっぺお前!」
露骨に嫌そうな顔をした緑間に左手でナイフを投擲すれば緑間は瞬きもせずにその先を見送った。それは緑間の耳の真横を過ぎていったが、彼は微動だにもしない。ただ壁にナイフが刺さる音と、真新しい傷が一つ増えただけだった。
「てか何をそんなに探してるわけ?」
「俺もわからん」
「はあ?」
もう投げるナイフは無いんだけどなと思いながら高尾は笑顔で続きを促す。普通の人間ならばこの笑顔だけで凍りつかんばかりの恐怖を覚えるのだが、こと緑間にそれは通用しない。何も悪くないといった様子のまま、堂々と信じられない言葉を紡ぐ。
「わからん、が、あの子供に会えば自ずとわかるだろう。その少年が全てを握っているのだよ」
一体全体どこの組織の黒幕だ、といった内容だが、緑間の話しぶりからして恐らくただの中流のちょっと上くらい、育ちの良い所の坊ちゃんでしかないだろう。真に受けるにはあまりにも馬鹿らしい主張だが、緑間真太郎は嘘をつかない。会えばわかるのだろう。会えば。つまりどうしても会わなくてはいけないらしい。そして、一度決めた緑間真太郎を止める要素など高尾和成は持っていなかった。
「いーよ、協力するよ協力します」
「良いのか」
「いや、遠慮するポイントがいまいちよくわかんねーよ真ちゃん」
苦笑を浮かべながら、その表情にそぐわない満足気な声で、高尾はため息のように言葉を継いだ。
「俺はお前の目だからね」
その言葉を緑間は否定しない。否定しないということは肯定しているのと同じことだ。そのことは高尾を満足させるに十分である。
まあ、運命の相手が自分が考えていたものと違っただけえでも御の字とするべきだろう、そう高尾は考える。気持ちも浮上していく。つい先程七億円を失ったことなどすっかり頭の隅に追いやって、高尾はご機嫌に尋ねた。良いだろう、緑間真太郎が探すものならこの俺が探してやろう。俺の目から、逃れられるものなど、そういやしないのだから。
「で、真ちゃん、特徴は?」
サクッと見つけてこの問題を終わらせようとした高尾の、当然の質問は長い沈黙で返された。今まで一度も返答をためらわなかった緑間が、それこそ七億の時ですら堂々としていたあの緑間真太郎の目が泳いでいる。背中をつたう汗に気がついて、高尾の骨が僅かに震える。ここに来てまだこの愛しいお馬鹿さんは爆弾を落としてくれようというのか。おいまさか、おい、緑間。
「……………………ええとだな」
「特徴は?」
頑なに視線を合わせようとしない緑間の顎を掴んで無理矢理自分の方へと向けた高尾の瞳の奥は笑っていない。それでも視線を合わせようとしない緑間は、長い長い沈黙のあとに、聞こえなければいいというような小声で呟いた。
「………………小さかった」
「子供はみんな小さいし、だいたいの人間はお前より小せえよ! お前にデカいって言われるような小学生こっちがお断りだわ! てかお前それで探してたの?! あいかわらず人の顔覚えないのな?!」
「興味がないものを覚えても仕方がないだろう!」
「いや運命なんだろ?! 頑張れよ!」
「見ればわかる!」
「いやいやいや、俺が見てわかんなきゃ協力しようがないじゃん!」
ここぞとばかりに糾弾すれば言い返せないことが悔しいのか緑間の眉がどんどんひそめられていく。
鬱憤晴らしに顎を押さえていた手を離し、両手でエイヤと高尾が緑間の頬を挟めば男前も形無しの唇を突き出したような顔になって高尾は笑ってしまった。ここまでなすがままにされる緑間というのもレアである。どうやら今は何をしても良さそうだとその頬をいじる高尾の手は数秒後に跳ね除けられた。
流石にやりすぎたか、でも元はといえば真ちゃんが、そう言おうとした高尾の目に映るのは、僅かに微笑みを浮かべた緑間真太郎。
「そういえば高尾、お前、何故俺が図書館にこもっていたことを知っていた?」
先程投げて壁に刺さっていた筈のナイフがその手に握られている。
形勢逆転、ちょっと待ってよ真ちゃん。
     *
「あ、緑のおじちゃんだ!」
「おじちゃんではない。おい、お前、この前のあの飲み物はどこで手に入れた」
夕方の公園、イチョウやカエデが舞い落ちる真っ赤な広場で、厳しい瞳をした緑間は無邪気そうな子供に話しかけている。高尾はといえばベンチに腰掛けてぐったりとしていた。
いくらなんでも瞳を酷使しすぎた。既にあの会話をした日から三日間が経過し、高尾はその広い視野を使って全力で子供を探していた。
ようやく見つけた少年は五歳ほどで、せめておおよその年齢くらいは指定が欲しかったと彼は目の周りをほぐしながら思う。
「この前の? 飲み物? ああ、おしるこのこと?」
「わからんがそれだ」
「あれはお母さんの手作りだよー」
遠くからその会話を聞きながら、いやわからないのにそれだとか断言しちゃって良いの真ちゃん、と高尾は心でツッコミを入れる。ナイフを投げる気力は残っていない。当の緑間はといえば、いたって真面目に、そうか、と頷くとコートの内ポケットから一つの袋と白い封筒を取り出してその少年に渡す。
「いいか小僧、あの味は素晴らしかった」
「そお? 甘すぎて僕そんなに好きじゃないなあ」
「あの良さがわからないとは……まあいい。今から俺が言う所にそのおしるこを持ってい���のだよ。いいか、この紙と一緒に持っていけ。赤司征十郎に会わせろ、そう言うといい。手土産にはこれで十分だ」
しばらくやりとりを続けたあと、緑間が何を言ったのか高尾はもう聞き取れなかったが、どうやら子供は納得したらしい。明るい笑顔で駆けていった。その眩しい背中を見送る高尾に、緑間は、終わった、とそう一言声をかける。
「ねえ真ちゃん、あの子赤司ん所に送っちゃってよかったの?」
「何だ、何か問題でも」
「いや、普通、自分の命狙ってる奴のところに子供送らないでしょ」
緑間真太郎は友人であり元家族である赤司征十郎に指名手配されている。その原因でもある高尾は少しそのことを申し訳なく思っていなくもないのだが、当の本人だけは全く気にしていない。
「ふん、赤司は無駄な殺しはしないのだよ。俺に関わったというだけで殺していてはこの街が全滅だ」
逆に、関わったの定義が街全体に及び、その気になれば全滅させられるのだということを暗に示しているその言葉は恐怖しか呼び起こさないが、緑間は何故かそれを安全の担保にする。あいつは子供が好きだしな、という言葉には高尾の方が意外そうな顔をした。
「すでに行き詰まった大人と違って未来の可能性に満ちているから、らしいぞ」
「いやその資本主義やめようぜ」
高尾の言葉を無視して、緑間は家路を辿ろうとする。置いていかれそうになった高尾は慌てて立ち上がって隣に並んだ。真っ黒いコートと、オレンジ色のつなぎは夕日の色合いに似ている。そして高尾が必死についてくることを当然のように享受しながら、緑間は、まあともかく、と言葉を継ぐ。
「俺に関しては、ただちょっとばかし秘密を知りすぎているから取り敢えず殺しておけ、くらいのノリなのだよ」
「いや軽すぎ軽すぎ」
やはり変人の友人は変人だと、変人を愛する高尾は自分を他所にそう考えている。そして腹が鳴った瞬間に、そんなことも忘れてしまった。
「ま、全部終わったお祝いだし? 真ちゃん今日何食べたい?」
「できるだけ簡単なものでいい」
「ありゃ」
大げさに首をひねりながら、なんだろ、サンドイッチとかかな? と適当に言えば、ああそれが良いとこたえが返ってきた。
お祝いって言ってるのに、なんだか欲がないのね真ちゃん。
     *
ガシャンと窓の割れる音がしたのと、二人がテーブルから飛びずさったのはほぼ同時だった。床板をはねあげて高尾はナイフを数本取り出し、緑間は棚を引き倒して奥にあるピストルを手に取る。
次の瞬間、ライフルとマシンガンの音が玄関先から飛んでくる。勿論、音だけではなく、銃弾も。入口からは死角になる場所で二人は身を小さくして様子を伺っていた。
「あーあー、食事中なんだけどな!」
「ふむ、やはり来たか」
「え、まさか真ちゃんだから簡単なので良いって」
「赤司のもとに人をやったからな。久々に真太郎を殺しに行ってもいいな、とか思われる可能性があるとは思っていたのだよ」
「だから軽すぎんだよお前の元家族!」
呆れた顔で高尾は手近にあった鏡を銃弾の嵐の中に投げ込む。投げた瞬間に全て粉々に砕けたが、その一瞬と散らばった破片で彼には十分だった。その動作を当たり前のように見ながら、緑間はやれやれとでも言いだしそうな顔で続ける。
「だから引越しをしようと言っただろう」
「いやいや、ええ、嘘だろ?! えっ、あれってそういうことなの?!」
運命の相手を見つけたら引越しをしよう。そんなことを確かに言っていたような気もするが、その説明は一言も無かった。もうちょっと説明があっても良いと思うんだけど、と、その言葉を口にはせずに高尾は鏡の反射で見えた人物像を緑間に告げる。男六人。全員黒髪で恐らくイタリア系。
「真ちゃん誰か知り合いいる?」
「いいや、知らん。外部から雇ったんだろう」
「そっか、じゃあ誰も殺せねえなあ」
鳴り止まない銃声の中で二人は呑気に会話を続ける。恐らく出口は全て塞がれている。銃声は段々と近づいてくる。どうやら絨毯爆撃ローラー作戦よろしくじわじわと追い詰めるつもりらしい。それでも二人に焦る様子は無い。
「真ちゃーん、貴重品は持ちましたかー」
「新しい銀行口座と印鑑持ったのだよ」
「俺との愛は?」
「お前が持ってろ」
台所に付けられたナイフの痕。あまりにも傷つきすぎて、それは、そう、きっと、大きな衝撃を与えれば崩れるだろう。爆発のような、大きな衝撃があれば、穴が空く。
良い家だったと緑間は笑う。笑いながら構えたのは、改造されたショットガンSH03-R。
「俺と真ちゃんの運命は切り離せないっての!」
轟音。
     *
新居のあちこちに鼻歌をしつつ隠し扉や倉庫を作っていた高尾和成は、いつになく幸せそうな緑間真太郎の様子に首を傾げた。引越しの片付けを手伝うでもなく、ソファに座って何か手紙を読んでいる。この上機嫌は、先程届いた巨大なダンボール箱を開けてからである。あまりにも幸せそうな様子に、こっそりとその箱を覗いてみれば、そこにはぎっしりと同じ種類の缶が詰めこまれていた。
「新商品、デザート感覚で楽しめる魔法のスイーツ飲料『OSIRUKO』……?」
はっ、として会社を見てみればそれは赤司征十郎の経営する会社の傘下である食品会社の一つであり、オシルコという名前に高尾は聞き覚えがある。まさか、と思い振り返れば、緑間は同封された手紙を読み終わったところだった。
「し、真ちゃん、それ見せてもらえない?!」
「構わんぞ」
機嫌が最高潮に良いらしい緑間はあっさりと自分宛の手紙を高尾へと回した。そこに書いてある文面を読み終えて、彼は新居の床にうずくまる。
『親愛なる真太郎へ。
元気にしているようだね。少年から事情を聞いたよ。今年はアズキが豊作過ぎて廃棄していたから丁度良かった。お陰様で新商品が出来たので送る。お前が好きなら定期的に送ろう。それくらいの利益は出させてもらったのでね。刺激が足りないだろうと思って幾人かフリーの殺し屋を手配しておいたので一緒に楽しんでほしい。ではまた。これから寒さが厳しくなるが風邪などひかないように』
いやいやいや、殺そうとしてる相手に風邪の心配とか殺し屋サービスとかちょっと意味がわからないし、新商品? あのオシルコとかいう飲み物が? 緑間はそれを狙って赤司のところに少年を送ったのか? っていうかもう新居の場所バレてんじゃん?
数限りなく溢れてくる疑問とそれがもたらす頭痛に高尾は呻く。
高尾の視界の端で、緑間は幸せそうにオシルコの缶を開けている。よくよく見ればもう三缶目で、お前の運命の相手ってそういうことだったのと高尾は肩を落とさざるを得ない。そうだね、お前、コーヒー苦手だったもんね。
もういい、問題は全て投げ出してしまおう。やけくそになって高尾も缶のプルタブを開けた。勢いだけで喉に流し込む。噎せる。
どうも緑間の運命は、緑間に甘くできているらしい。
           【昔の話Ⅰ】
 「ひさしぶりー」
「そうだな、昨日ぶりだ」
暗に久しぶりではないと告げながら、黒いコートをまとった男の顔は目に見えて引きつった。初回に、死ね、と銃を顔面すれすれに撃ち込んでも瞬き一つしなかった、やけに自分を気に入っているらしい同業者のことはここ数日で危険人物として認定されている。この場から消えようにも、如何せん仕事前で、この場所は最も良いポイントだ。タカオと名乗る男は、恐ろしく目ざとくいつも彼を見つけた。
「ねえ、いい加減に名前教えてよ」
「断る」
「本当にほとんど毎日仕事してるよね? 疲れない? 休みたくならない? 手とか抜きたくなったりしない?」
「別に、そこにやるべきことがあるから人事を尽くしているだけだ」
お前には関係ないだろうと睨む緑髪の男には、出会った当初には伺えなかった諦めの色が僅かに浮かんでいる。どうせそう言っても、このタカオと名乗る男は気にしないのだろうと。
「うーん、やっぱ格好いいわ。好きだよ」
百発百中の殺し屋、誰にも媚びず決しておごり高ぶらない、緑色の死神。
「なんだそれは」
「え、知らないの? 巷じゃこっそり噂になってんだよ。緑色の美しい死神がいるってさ」
「下らない」
取り付く島もない返事にも、タカオは楽しそうに笑う。一体全体何がそんなに楽しいのかわからないまま、死神と呼ばれた男は苛立ちだけを募らせていく。早いところ、殺してしまった方が良い。殺してしまったほうが良い。けれど、今はまだ出来ない理由が彼にはあった。
              【ターゲットは瞳!?】
  「ねえ真ちゃん、いっぱい働こうね」
「なんだいきなり」
「お前が男らしく七億使った直後に引越し、装備も半分くらい置いてく羽目になって揃え直し、まあ金がねぇんだよ! 借金まみれだよ!」
「働いているぞ、俺は」
「俺もね! それでも全然足りないの!」
カレーを頬張りながら不満げな顔をする緑間に、高尾はこめかみを押さえる。緑間の金銭感覚がまともではないのは出会った当初からだが、今まではそれを支えるだけの収入と貯蓄があった。しかしいかな売れっ子殺し屋の二人とはいえど、七億の宝石は手に余る存在だった。なまじ緑間が派手に買っていったためにしばらくは闇に流すのも問題がある。いまいち状況を理解していない緑間に恨みがましい瞳を向けながら高尾は苦言を呈した。
「ご飯にも困るし、三食赤司からのおしるこは駄目だろ」
「それはそれで構わないが」
「栄養考えて! 俺は別に糖尿病の真ちゃんでも愛せるけどさ! でも糖尿病になって欲しいかって別の話じゃん!」
そもそも俺甘いものそんな好きじゃねえし、そう泣き言を言えども、緑間はお前の好みなど知ったことではないと取り付く島もない。新居は白い家具で揃えられているが、そこに切り傷が付くのも時間の問題と言えた。
「言っておくけど、このままだとラッキーアイテムも買えなくなるぞ」
「それは困る」
最終手段として持ち出してみれば、ようやく緑間は食いついた。カレーを丁寧に掬い取って口に入れる前に、仕方がない考えておくのだよ、とありがたいお言葉が高尾に降り注いだ。
なに真ちゃん、三大欲求よりラッキーアイテムですか。
     *
「昔ペアを組んだ相手?」
「ああ」
数日後から緑間は頻繁に外に出るようになったが、その表情は日に日に厳しくなっているようだった。これは緑間には珍しいことである。彼は基本的に性格に難アリでも仕事に関しては天才だ。行き詰まるということは滅多にない。日を追えば追うほど狙いに迫り、予定日に目的を果たす。緑間のグラフは右肩上がり以外の形を取らない。
その男が、日を重ねるほどに重い空気を纏う。はて、何か難航しているのだろうかと高尾が首を傾げた頃、緑間の方から声がかかった。
「次の依頼はお前の協力がいる」
「おお?」
シチューを煮込む手を止めて高尾が緑間のもとへ向かえば、人に物を頼もうとしているとは思えないほど嫌そうな顔が高尾を出迎えた。緑間が何かを頼む際はおおよそ常にこのような感じなので高尾はもう気にしていない。むしろ愛する人から頼られて嬉しくない男がいるだろうかと、反比例するかのように高尾はご機嫌である。
「なになに珍しいね、いいよ手伝うけどどういう感じなの?」
「お前がいれば簡単な仕事なんだがな、俺だけでは少し厳しい」
「それこそ珍しいね。なんで?」
「俺のやり方を知っている相手がいる」
「んんん? どういうこと?」
そして緑間の口から告げられた言葉に、新しい家に記念すべき一つ目の傷がつけられたのであった。
「昔ペアを組んだ奴が相手だ」
ねえ、なんか前も言った気がすんだけど、だから他の男の話なんてしないでよ真ちゃん。
     *
「組んだのはお前と会う前の一度きりだったし、顔を見て暫くしてようやく思い出したくらいの奴なんだが」
「それでも、真ちゃんが覚えてるなんて珍しいね」
「ああ」
なかなかに、印象的な奴だったからな、と他意なく言ったのであろう緑間の言葉に高尾は手に持っていたフォークを机に刺した。
緑間真太郎は興味の無いことは覚えない。関係の無い人物は覚えない。それはいっそ清々しいほどに全て忘れる。その緑間の意識に残っているというだけで高尾からすれば嫉妬に値した。けれどシチューに生クリームを垂らしている緑間は気にすることなく食事を続ける。
「それで? そいつがどうしたって?」
「今回の俺の標的に、そいつがボディガードとしてついている。そして、ここからが一番問題なんだが、どうやら俺に狙われていることを今回の標的は知っているらしい」
「情報が漏れてるってこと?」
「恐らく」
緑間が嫌そうな顔をしている理由がわかって高尾も溜息をついた。引き抜いたフォークで青いブロッコリーを突き刺す。さくりといく。
標的が緑間のことを知っていることが問題なのではない、情報が漏れていることの方が致命的なのだ。今バレているということは、これからもバレる可能性がある。単純な話だ。そしてそれは暗殺という点で致命的だった。その流出源を突き止めるのは、人を殺すよりもよほど面倒で手間がかかる。
「まあそちらを突き止めるのは後回しだ。時間がかかるしな」
「あいよ。ボディガード雇うってことはどうせお偉いさんでしょ」
「ネムジャカンパニーの社長だな」
「ああ、あの。なんだっけ、この前新聞で見たわ。ガウロ氏だっけ。結構長生きしてる会社じゃん。十年前くらいから勢い増してるとこか。まあ勢い良くなるのと一緒に悪い噂も増えた��ど」
「どうせどこかで恨みを買ったんだろう。どうでもいい」
緑間がどうでもいいと言うならば、彼にとってそれは本当にどうでもいいことなのだ。どうやらこの話題は彼にとってあまり面白くないものらしいと高尾は悟った。自分から振ってきた仕事の話なのになあと彼は溜息をつく。ウイスキーを割りながら高尾はこの話題を終わらせるべく次へ進むことに決めた。
「で、次のチャンスっていつなわけ」
「明後日だ」
あまりにも急な話に高尾の喉から漏れたのはウイスキーと細かく砕きすぎた氷の欠片だ。噎せている高尾を、緑間は汚いと一蹴する。ごめんごめんと謝りながらも、何故自分が謝っているのか高尾は分かっていない。
ねえ真ちゃん、連絡はせめて一週間前って習わなかった?
     *
「射程距離は一キロ、標的まで直線が開いてさえいれば決して外すことのない百発百中のスナイパー」
B級映画のような宣伝文句、それを現実に実行してしまう男がこの世の中にいるとは誰も思わないだろう。そう、緑間真太郎と、出会わなければ。
オーダーメイドのスーツに身を包み、新品の革靴を光らせ、髪の毛をきっちりセットした高尾は薄笑いを浮かべながら、現在八百mほど離れた屋上にいる男に思いを馳せる。まあ人外だよな、と彼は思う。
熟練した銃の狙撃はただでさえ厄介だ。それが一キロ先ともなれば視認することはまず不可能。周囲一キロを全て護衛することなど大統領クラスでなければ到底できやしない。いいや、今まで暗殺に倒れた大統領の中で、誰が数百メートル先からの銃弾に当たっただろうか。それは全て、至近距離からのものではなかったか。キロ単位なんて前代未聞。
そして一キロの距離を、弾丸は一秒で詰める。
それを避けられる人間がいるならば見てみたいと高尾は思う。
「失礼」
するすると宝飾にまみれた人ごみを避けて高尾は歩く。その動きは不審ではないが、もしも誰かがじいっと見つめていたらその滑らかさに感嘆したかもしれない。
けれど、どれだけ滑らかに動けども、人が歩く速度には限界がある。乗り物に乗って移動するにも限度がある。バイクに乗っても一キロ先に行くのに一分はかかるだろう。
そう一キロ先からの狙撃とは、そういうことだった。捕まえることが、出来ないのだ。
仮に一分でたどり着くとしても、その一分の間に緑間は装備を解体して車に乗り込むことができる。後は逃げればいいだけだ。それも、一キロ離れた狙撃元を明確に理解できていたら、というとんでもない前提をもとにした話、実際はそううまくはいかない。探す時間を含めて三分で済めば奇跡だろう。そしてそれは逃亡するには十分な時間である。
サイレンサーを付ければ音も消え、狙撃元はよりわかりにくくなる。
まだ高尾が緑間と直接出会う前、緑の死神と風の噂で流れては来たが、彼の緑色を捉えた時点で、その人物は相当の人間だったのであろう。普通は、その姿を見ることなく全て終わるのだから。
「招待状をこちらへ」
「お招きに預かり光栄です、ガウロ氏のお屋敷一度拝見したいと思っておりました」
人好きのする笑顔を浮かべながら高尾は招待状を差し出す。ポーターは無表情のまま招待状を受け取って裏へと消えていく。その間は警備員が高尾を見張っている。招待状は無論偽物だがバレるとは思っていない。ここでつまづいていては話にならないのだ。裏で招待状が綿密にチェックされている間、欠伸を噛み殺して、彼は愛する緑間真太郎を思う。この寒空の下、呼吸すら失ってただ静かにタイミングを待っている男のことを。
銃の射程距離は遠距離狙撃で三キロ以上のものもある。一キロという着弾距離自体は、別にないものではない。しかしそれが、百発百中というのが問題なのだ。問題。そう、緑間のそれは災害とも言うべき問題だ。一キロ先。天候や筋肉の微細な動き、銃の調子、全てがそれを左右する。一ミリのずれは、一キロ離れればメートル単位の誤差だ。それが百発百中というのだから、その技術がどれだけ繊細で神がかっているかわかるだろう。
「ようこそおいでくださいました、ミスタ」
暫くして出てきたポーターは招待状を高尾に返すと僅かに微笑んだ。うやうやしいお辞儀に見送られながら高尾は赤い絨毯を踏みしめる。
着飾った婦人と紳士の間を交わしながら、彼はホールへと向かう。この豪邸から少し離れた場所では子供たちがゴミ山で暖を取りながら埋もれていることなど信じられないような、きらびやかな世界。
しかしその華やかさとは裏腹に、全てのカーテンは分厚く閉ざされ、少し閉塞感を生み出していた。ご丁寧に固定され、風や客の手遊びで開いたりすることのないようになっている。
(成程、こりゃ確かにバレてるわ)
しかし緑間の正確さ、それは逆に言えば、つまり緑間の視界から外れさえすれば、狙われることは無いということである。
見えないものに向かって撃つことはできても、狙うことは出来ない。
これが緑間の正確さの弱点でもあった。他にも緑間には、自分の信念に基づいた致命的に大きな制限がある。故に、彼を相手にする際、他者を巻き込むような乱射や爆破に注意する必要は無い。スナイパーライフルは巨大だし、小型のピストルだって会場の入口で持ち物検査で引っかかって終わりだ。今回も勿論高尾は綿密なチェックを受けている。そもそも近距離で殺してしまっては、そこから逃げ出せるという緑間の特性が全く生かされない。
わざわざシェルターに閉じこもらなくとも、カーテンを締め切るだけで、緑間の視界からは外れる。単純だが効果的な手段だ。一生、緑間の目から逃れられるなら、緑間に殺されることはない。
けれど、金持ちが誰にも合わずにいられるはずもないのだ。
全くもって皮肉なことだと高尾は思う。金持ちになればなるほど恨まれやすくなり、標的になりやすくなる。そして、金持ちであればあるほど、社会的に上の立場にいればいるほど、彼らはそれをアピールしなければならない。そういった付き合いをしなくてはいけない。自分の権力を、財産を、力を、知らしめなければいけない。それが彼らの仕事の一つだ。そうしてまた、恨みを買っていく。その連鎖。
今回、高尾が潜り込んだのは、手に入れた宝石のお披露目パーティーとやらであった。その話を聞いた時はあまりのくだらなさに呆けてしまったものである。命を狙われていると知っているのに、しかもそれが緑間真太郎であると知っているのに、こんな下らないパーティーで命を危険に晒すというのか。
(ま、しかし赤司さまさまだわ)
それとも、潜り込むことなど出来ないという自信でもあるのだろうか。確かに緑間は近接の暗殺には向いていないし、コンビである高尾の存在を知らない人間は多いだろう。そのためにも、二人、極力別々に仕事をしているという側面もあるのだ。
まあ、それが運の尽きだと、何の感慨もなく彼は飲み込む。高尾和成を知らないことが、運命に選ばれなかったということなのだと。
(確かに赤司いなかったら厳しかったかもだし)
金持ちの親戚付き合い知り合い付き合いというのは広い。誰それの娘婿の弟の従兄弟の云々。関係は蜘蛛の巣のように広がり絡まっていく。そして結束を強くし、いらないものを切り捨てて肥えるものは益々肥えていく、それが金持ちの常套手段だ。顔も知らない相手を、利益になりそうだからと平気で招く。だからこそ招待カードには華美と工夫が凝らされるわけだが、それさえ偽造できてしまえばあとはこちらのものだった。
そして大抵の招待状は赤司の元に届いている。
それを緑間がどのようなやりとりの結果入手したのかは知らないが、流石に本物を使うことは禁止されていたが、本物があれば高尾にとってそれを偽造することはたやすい。緑間と違って近距離、接近しての暗殺がメインの高尾が長年の間に身につけた技術であった。
立食形式になっているらしい会場で、白い丸テーブルがランダムに、けれど一定の景観を損ねないように並んでいる。盛り付けられた花やレースは美しく、どうやらプランナーは一流のようだった。主席が来るであろう位置を確認した高尾は、それに背を向けるようにして適当なテーブルに陣取る。手持ち無沙汰にしている一人の婦人を見つけて笑いかける。そしてボーイから二つグラスを受け取って近づいていった。
さて、どうしましょうかね。
     *
耳に当てた通信機から、数秒おいて悲鳴と怒号が聞こえたことを確認して緑間は伸びをした。数時間同じ姿勢で微動だにしなかった筋肉は固まっている。ストレッチをしながら、耳元の悲鳴をBGMに、仕事が成功したらしいことを思う。
てきぱきと荷物を片付けると彼は走ることもなく、平然と階段に向かっていく。下手に目立つことをする方が危ないと彼は知っている。どうせ、この場所を見つけるまでに五分はかかるのだから。焦る方が間抜けだと彼は思っていた。
さて、これからどうやって情報流出者を突き止めようかと次のことを考えていた彼の耳元で、唐突に音が途切れた。叫び声が消え、途端に夜の静寂が彼に襲いかかる。聞こえるのは彼自身の呼吸だけ。
通信が途切れた緑間は首を傾げた。無音。自分の機械を確認してみるが電源は変わらずに点いている。
脱出し、落ち合うまで通信機は入れっぱなしであるのが常である。何か非常事態があって電源を落としたとも考えられるが、そもそも通信機は見た目でバレるようなものではない。持ち物検査でも気がつかれないのだ。緑間から高尾に飛ばせない、高尾から緑間への音声の一方通行である代わりに、最大限に小型化され、洋服に仕込まれている。
数秒固まった緑間は、僅かに眉を潜めると屋上でコートを翻して走り出した。手すりに引っ掛けるようにしたロープを掴んで、減速することなく飛び降りる。ビルの下にはバイクがつけてある。
今高尾は潜入するために丸腰だ。小型通信機の持ち込みだけで精一杯。故障や何かの不慮の事故で電源が落ちただけならばいい。
けれどもしもそうでなかったなら、もしも見つかってしまったなら。もしも、緑間の仲間だと気がつかれたなら。
さて、どうしてやろうか。
     *
「よくまあ気づいたよなあ。俺、目立つような行動一切してなかったはずなんだけど」
「お前がシンと一緒に歩いている所を見た」
「んあー、成程、そういうこと」
顔面から血を流して高尾は笑う。骨折まではしていないようだが、十分に痛めつけられているとわかる姿で、彼は一人の大男に引きずられていた。手足は拘束され、身動き一つ取れない状況で、屋敷の奥へと無理矢理連れられながら高尾は笑う。
「そうだよなあ、真ちゃんは目立つからなあ」
「よくあの男をそんな風に呼べるな」
「真ちゃん? 真ちゃんを真ちゃんって呼んでいいのは俺だけだし、真ちゃんって言葉じゃ表現できないくらいにかわいくてかわいくて仕方ないけど、でも別にそのかわいさを教えてやるつもりもないしなあ」
「いや、わかった、お前も相当にクレイジーな奴だ」
捉えられている筈の高尾は陽気に、そして引きずっている筈の男のほうが顔を引きつらせながら曲がりくねった廊下を歩く。侵入者を拒むように、複雑に作られた屋敷。
セレモニーの場に現れた男、今回のターゲットが額から血を溢れさせた時、高尾はその男に背を向けて談笑していた。目の前の婦人の悲鳴、さもそれで気がついたかのように後ろを振り返り、緑間の仕事が見事に成功したことを悟り、気を失いそうな婦人を介抱するフリをして外へ出ればそれで高尾の仕事は完了だったわけだが、どうやら本当に運の悪いことに、緑間とペアを組んでいた男は、高尾の顔も知っていたらしい。
いや、緑間が顔を見て思い出したと言っていた。そのことを高尾はこの期に及んで思い出す。緑間から見えたということは、この男からも見えたということだ。その時、高尾が側にいなかったと、誰が断言できるだろう。自分の迂闊さに彼は血の味しかしない口をあげて笑う。
「で、なんで殺さないわけ……って、わかりきってるか、そんなの」
「ああ」
「大分ボコってくれたけど」
「人の命を奪っているのだから、それくらいの報いはうけろ」
「そりゃ、その通りだわ」
高尾の左ポケットに入れていた通信機は衝撃で壊れている。小型はヤワでいけないねえと彼は改良を心に決めた。緑間に現状を伝える術はない。それでも、引きずられている自分の姿と、その男から伝わる振動に、高尾は笑っている。
ああ、もう、本当に、これだから!
     *
「ようこそ。君がシンの相棒?」
「ありゃ、随分とちっせえなあ」
高尾が連れてこられた場所は屋敷の最奥、巨大な樫の木の扉を開いた応接室だった。扉を正面に、革張りの椅子に座る人物は、その椅子の重さに比べて、随分と軽そうな、男。
「ええ、ですがあと数年もしたら伸び始めますよ」
そう、男というよりは、少年という方が的確だった。まだ伸びきっていない手足に、滑らかな肌、声変わりをしたのか定かではない柔らかい声。
「あんたがこの屋敷の主人?」
「ええ」
「随分若いんだね」
「今年十六になります」
「そりゃ良いね」
「いやあ、良い事なんて何も無いですよ」
椅子に合わせた机にも、少年の体は不釣り合いだ。それでも、そこに座るのが当然といった様子で彼は微笑んでいる。何かに似ている、と思った高尾は、一度だけ遭遇した緑間の元家族を思い出して溜息をついた。世の中には、たまにとんでもない子供が生まれるものだ。
「六歳の時に父さんや母さん兄さんを殺したまでは良かったんですけど、当時の僕は馬鹿でね、六歳なんて社会的になんの力も説得力もないということに気がついていなかったんです」。
「あんた、家族全員殺したのか」
「まあ、そういうことになりますけど、どうでもいいじゃないですか」
「そうかな」
「ええ」
僅かに目を細めた高尾に気がついているのか気がついていないのか、少年は話し続けている。その頬が僅かに上気していることに気がついて、高尾は僅かに哀れみを覚えた。
「殺してもらった彼は遠い遠い親戚なんですが、僕の力でここまで来れたというのに段々調子に乗ってきてね……まあ幸いにも、僕も自分の意思が認められる年齢になりましたから、ここらで死んでもらおうと思いまして」
これは、少年の自慢話なのだ。
「依頼主はぼくですよ」
種明かしをするように楽しそうに少年は笑うが、そんなことはこの部屋に入った瞬間から高尾にはわかっていたことであった。
「じゃ、なんで俺は捕まえられたわけ? あんたの希叶って良かったんじゃないの?」
「殺し屋を捕まえたほうが後継は楽でしょう」
そしてまた予想通りの答えに高尾は苦笑してしまう。
この少年が社会的にどういった扱いになっているのかはしらないが、ガウロを殺した実行犯を見つけ、ついでに誰か適当な人間をそのクライアントだったと糾弾し、自分がこの屋敷の正統な血統だと証明して跡を次ぐ。そんなシナリオを描いているのだろう。正直な話し、稚拙だ。稚拙で、単純である。しかし稚拙で単純なストーリーは人々の心に届きやすい。それは、わかりやすさに繋がるからだ。その点で、この少年は確かに正しかった。
「あなたたちのこと調べさせて頂きました。百%の達成率を誇る殺し屋。あの男が万全の警備をすることはわかりきっていましたしね、殺せないんじゃ仕方ない」
「別に俺たち以外にも適任は沢山いたと思うけど」
「調べさせてもらったと言ったでしょう。あなたがたは依頼された人物以外は殺さない。女子供老人若者、一般人もマフィアも。何故そんなポリシーを持っているのかは知りませんが、何より、敵に襲撃をされても殺さないというのは驚嘆に値します。だったら、僕が君たちを裏切っても、君たちは僕を殺せないでしょう?」
そう、少年の計画は単純ながら、単純ゆえに、正しかった。ただ、前提を圧倒的に間違えていただけであった。
「いや、君のこと頭良い少年かと思ったけど全部撤回するわ。君、ただの馬鹿だわ。それも、大馬鹿。ただのガキんちょ」
「なんですって」
「そんなちっこい体? あれ? 君百六十ある? ギリそんくらいだよね? まあそんな体でこんな計画して調子乗っちゃってんのはわかるけど、そんなでっけー椅子にふんぞり返って座っても大人にゃなれねえよ」
「負け惜しみですか」
「んん? 別にそう思ってもいいけど、真正面からお前に向き合ってる人間にそういうこと言うのはどうよ」
上気していた少年の頬は今怒りで赤く染まっている。それを見て、高尾はやはり哀れみしか覚えない。馬鹿だなあ、と、そう思うのみだ。そもそも十六歳という年齢に頼らなければ大人を従えられないという時点で器は知れていた。
赤司、お前と似てるとか言っちゃってごめん。少なくともお前は自分の年齢を言い訳になんて一度もしなかった。
「いやー、なんでこんな奴ん所で働いてるわけ?」
今までの全ての口上を無視して自分を連れてきた男に高尾は話しかけた。その様子に少年は気色ばんだが、話しかけられた男は、なんてことないようにその質問に答える。
「今度子供ができるんだ」
「なるほど」
満足げに笑って、高尾は少年に向き直った。その顔は笑ってはいたが、その瞳は猛禽類のように尖っている。少年は僅かに怯んだが、それはきっと、高尾に怯えるには少し遅すぎた。少年が、世界を知るには、遅すぎた。
口を開く最後の瞬間まで、高尾の表情は笑顔で象られていた。
「だってさ、真ちゃん」
「成程」
その瞬間、空気がかすれるような音が二発響いた。
いいや、殆どの人間には一発にしか聞こえなかっただろう。それほどまでにその音は連続しており、微笑む高尾の前で、少年は額から血をあふれさせている。そうしてそのまま、机にうつ伏せるように倒れた。その表情は高尾に怯えた瞬間のまま、自分が死んでいることにも気がついていない。
扉に空いた穴は一つ。正確な射撃は、一発目と全く同じ軌道で、一ミリもずれることなく二発目を撃ち込んだ。
障壁を壊す一発目はどうしても軌道がずれる。それをカバーするように、全く同じ軌道で撃ち込まれた二発目は正確に少年の額を貫いた。それは、先程ガウロを殺した時と全く同じ手段。
次の瞬間にドアノブが外側から高い金属音を立てて飛び散った。開く扉の向こうで��緑間が冷たい瞳で待っている。その瞳はたった今一人の少年を殺したとは思えないほど凪いでいた。
「俺の目から逃れられると思うな」
そう告げる緑間の言葉は、少年には届かない。
狙われた人間は緑間の視界から外れれば、死なないで済む。それは絶対の真理だ。緑間の目に、映らなければ。そう、風の噂で緑の死神を知っている人間はいれども、その死神にコンビがいることを知っている人間は少ない。
死神の瞳が、四つあることを、知っている人間は少ないのだ。
「久しぶりだな、ビル」
「廊下には十五人配置しといたんだけどなあ」
「百人用意しておけ」
十五人の警備がいたという廊下からは呻き声が聞こえる。死んではいないが、手足は使い物にならなくなっているのだろう。
うつ伏せて死んでいる少年に目もくれずに緑間は高尾のもとへと歩く。へらりと笑った頭を思い切り叩くと、拘束具をほどきにかかった。そのあまりの唯我独尊ぶりを、相変わらずだなとビルと呼ばれた男は笑う。
「あんたの相棒にちっとは手を出したが、そうじゃなきゃ俺が雇い主に疑われるんだ。骨まではやってねえ。勘弁してくれ」
ちらりと高尾から視線を上げると、緑間は暫く無言だったが、苦々しげに吐き捨てた。
「……まあ、お前には家族がいるしな」
その一言に、やはりまだあのルールは有効だったのかとビルは笑う。
緑間真太郎が自らに課した最も大きな制限、それは、家族がいる者は殺さない、そんな歪んだ正義である。その理由を知る者は少ない。緑間も正しいと思っているわけではなく、ただそれが彼のルールであるというだけだ。依頼を引き受けるか否かの基準も基本的には全てそれである。家族がいなければ良し、いれば断る。
彼が周囲の他の人物を殺さないのは、襲撃をされても決して殺さないのは、ただ、家族がいるかどうか咄嗟にはわからないから、その一点のみである。もしも天涯孤独の身の上ばかりをターゲットの周りに配置したならば、きっと緑間は無表情のままマシンガンを乱射していただろう。
「しっかしビルさん震えすぎだろマジで。俺笑い堪えんの必死だったわ」
「当たり前だ、緑の死神に依頼したって聞いた時はションベンちびるかと思ったぜ」
冗談を装っているが、実際にビルに触れてここまで連れてこられた高尾はその言葉が嘘でないことを知っている。彼はずっと怯えていた。元ペアを組んだ、緑の死神を、ずっと恐れていた。その振動は、引きずられている時から伝わっていた。その気持ちはわからなくもないと高尾は思う。間近で見ていたからこそ、その恐ろしさを知っている。
緑間の武器は銃全てだ。何もスナイパーライフルのみではない。ただ、安全面から遠距離を選択しただけ。近いのと遠いのだったら、逃げるとき遠い方がお得だろう、そんな単純な理論で彼は一キロ先からの狙撃を実現させた。
屋敷の奥、招待客がいなくなった場所で、緑間が遠慮する理由など一つもない。
「しかしまあビルさん、これから大丈夫なわけ? 依頼主死んじゃったし、報酬もないんじゃない?」
「別に警備団長ってわけじゃなし、そもそも殺し屋だ。こっち方面で評判が落ちたって気にすることじゃねえやな」
そうやって笑うビルには怯えた様子はもう見受けられず、なかなかにタフな男だと高尾は認識する。この世界で生き残っていくために必要な臆病さとタフさを、彼はしっかり兼ね備えているようだった。
「エリーは元気なようだな」
「お陰様で。今度見に来るかい」
「断固断る」
しかし目の前で高尾のわからない話を始める二人に、殴られても捕らわれても笑みを崩さなかった高尾はみるみるうちに不機嫌になっていった。
「ねえ真ちゃん!」
「なんだ」
「俺の前で前の男と話さないでよ!」
その瞬間に容赦なく振り下ろされた拳に、ビルは呆れたような溜息をついた。
緑の死神も、随分と俗物になったもんだ。
     *
「え、真ちゃん、どうしたのこのお金」
「今回の報酬だ」
「いや、だって依頼主殺しちゃったじゃん?」
「俺のところに来た依頼は、カンパニーの社長を殺せ、という依頼だったからな」
「え?」
アタッシュケースを放り出した緑間は興味がないのか、くるくるとぬいぐるみの熊の手をいじっている。それは昨日までこの部屋に無かったはずのもので、どうやら緑間はまた散財をしたらしい。しかしそれを注意する余裕は今の高尾には無かった。
「何故名前の指定がないのかと思ったが、表と裏で二人いたのなら納得だ。全く、こんなことならもう少しふんだくればよかったのだよ」
「え、いや、だって依頼主ってその裏の少年の方で」
「ああ、そちらから、あの男、ガウロを殺せという依頼を受けて、ほかの奴からはカンパニーの社長を殺せという依頼がきた」
「同時に受けたの?!」
「同時期に来たのだから、両方受けて両方から金をもらうほうがお得だろう」
まあ今回は結局片方からしか受け取れなかったわけだが、零報酬よりはマシだったのだよと緑間は何でもないかのように言う。標的が同時期にかぶるというだけでも偶然の力は凄いが、じゃあお得だしという理由で両方同時に受けてしまう緑間の図太さも並大抵のものではない。
「嘘はついていないのだし」
と本人は言うがギリギリのところだろう。しかし。
「これで借金が返せるな」
と、そう言葉を継がれては高尾に返す言葉はないのであった。
真ちゃんって、本当に素直でかわいいおバカさんだよね。
               【昔の話Ⅱ】
  「いい加減に教えたらどうだ」
「何を?」
「お前の家族構成だ」
「えー、どうしよっかなー」
連日現れるタカオに、彼は苛立っていた。いらないことはべらべらと喋る癖に、肝心なことは一つも話そうとしない。
「早く教えろ、でなければお前を殺せない」
「情熱的だなあ」
へらへらと笑いながらも、タカオは彼に教えようとしない。銃口を突きつけても全く動揺する気配がない。家族構成を知らなければ殺せないと、口を滑らせるべきではなかったと彼は後悔する。けれど、最初の弾丸に全く怯えなかった時点で、この男に下手な脅しは無意味だと薄々気がついてしまったのだ。
「あ、じゃあさじゃあさ」
「なんだ、教える気になったか」
「名前! 教えてくれたら俺も教えるよ。どう?」
「却下だ」
一瞬もためらわずに切り捨てたことにタカオは落胆の色を隠さない。
「なんで? そんなに悪い条件じゃないと思うんだけど。俺はもう名前教えてるしさ、別に名前知られたら死ぬわけじゃないだろ? 日常生活、全部本名で暮らしてるわけじゃないだろうしさ」
「断る」
「なんで」
「名前は、家族だけが知っていればいいものだ」
「ええー」
一般とはかけ離れたその理論に、タカオは首を落とす。そうしてしばらく唸った後に、彼はさも名案を思いついたと言わんばかりにこう告げたのだった。
「じゃ、俺、お前の未来の家族になるわ!」
これは、いつかのどこか、昔の話である。
               【ターゲットは君!?】
 緑間真太郎が朝目覚めてみると高尾和成の姿がなく、朝食の準備もされていなかった。普段嫌というほどまとわりつき、朝になればベッドに潜り込んでいることもある煩い男は、忽然と姿を消した。
その日一日、彼は何も無いまま過ごした。そして高尾の作りおきのおしるこが無くなったことを確認して、缶のしるこを飲み、缶のしるこが残り八缶である、そのことを確認した。流石に夜になると腹が空いて仕方がなかったので、外に食べにでかけた。
そんなことを三日ほど繰り返したある日、彼は先日仕事で久々に再開した男にまた出会った。そういえば、と彼は思う。街で高尾と一緒にいるところを見られたのだから、似たような場所に住んでいる可能性は高かった。
     *
「今日はタカオくん、一緒じゃないのか」
「消えた」
「え、大丈夫なのかよ、いつ」
「三日前の朝だ」
あまりにも常と変わらない緑間の様子にビルは戸惑っているようだった。以前の様子から、二人が互いのことを憎からず思っているのは自明の理のように思えた。それがどうだ、消えたというのに、片割れは平然とスパゲッティを口に運んでいる。
「お前、タカオくんのこと好き?」
「馬鹿か」
「あっそ、彼はのろけまくってくれたのにな」
「会ったのか」
「おう。つっても今日じゃねえよ。あれの四日後くらいかな。エリーって誰だって滅茶苦茶しつこく聞かれた。面白かったから言わなかったけどよ、お前、猫だって言ってなかったのか」
「そういえば言っていなかったな」
ビルの家族は猫だ。両親と死に別れたというビルは天涯孤独の身の上である。それを知った時、ではお前は殺してもいいな、と緑間は呟いたが、その時に彼は必死に主張したのだ。
確かに俺には親も恋人もいないが、俺にはエリーっつう大切な奴がいる。娘でもないし親でもないし恋人でもないが、俺の家族だ。
その主張を緑間は受け入れた。猫なんてあんな動物を家族と思うだなんて、お前は随分と変わっているなと、そのことは緑間の意識に強く残った。今度生まれるという子供も、そのエリーの子供だろう。
「そもそもお前、アイツと、タカオくんとどうやって出会ったんだよ」
猫を家族と呼んで憚らない男は、食事のつまみに思い出話を求める。
なあ、なんか、ロマンチックな出会いでもしたのか?
     *
「何故昼間までついてくる……」
「いや、冷静に考えたんだよね」
「何をだ」
「なんで俺のこと信じてくれないかって。それで思ったんだけど、やっぱいきなり夜這いはまずかったよね。ちゃんとお日様の下、清く正しいデートをしてからのお付き合いが必要っつーか」
「死んでくれ」
仕事の時に毎回現れる男が、まっ昼間のカフェで現れた時、今度こそ彼は逃げようと思った。運ばれてきたばかりの前菜など知ったことではない。消えよう。立ち上がろうとする男に、タカオは勝手に向かいの席に座ると注文を済ませてしまう。そのタイミングでスープが運ばれてくれば、完全に彼は時期を逸してしまった。
「ねえ」
「なんだ」
「名前」
「断る」
サラダを食みながら緑髪の男はあっさりと切り捨てる。何度も尋ねればいずれ答えてもらえるとでも思っているのだろうか。何度聞いても答えはノーでしかないというのに、である。
けれどわざわざ昼間に出てくるだけあって、今度のタカオは少し方向性を変えたようだった。
「じゃあさ、あだ名教えてよ」
「は?」
「あだ名っつか、コードネームみたいなのあるだろ。仕事の都合で使う名前。本名じゃなくていいからさ」
「何故教えなくてはいけないんだ」
「だって俺これからもつきまとうけど、教えるつもりは無いんだろ? 俺に馴れ馴れしく『お前』とか呼ばれ続けたい?」
「…………」
「な、本名じゃなくていいから」
そしてきっと、彼が折れてしまったのも、ここが長閑な昼間のカフェだったからに違いないのだ。
「…………シン」
「え?」
「シン、だ。呼ぶなよ」
「わかった! じゃあシンちゃんね!」
「は?!」
渋々教えた仕事用の名前が、そら恐ろしい響きのものとして返ってきたことに彼は驚いた。それは、怯えに近いほどに驚いた。彼はそのように呼ばれたことなど無かった。それを発したタカオはといえば、遂に名前のはし切れを教えてもらえたことが嬉しいのか上機嫌でシンちゃんシンちゃんと繰り返す。
「即刻やめろ。今すぐにやめろ」
「ふふふーん、シンちゃんシンちゃん」
「やめろと言っているだろう、タカオ!」
激高した彼は街中だというのに普通に怒鳴ってしまった。視線が彼に集中する。しまった、と思うがすでに遅い。しかし、それに対してタカオが反省するでも怒るでもなく、酷く嬉しそうにしているもので、周囲の注意は案外すぐに逸れることとなった。
「今、俺のこと呼んでくれたね?!」
「はあ?」
「初めて俺のこと呼んでくれたじゃん! うわ、超嬉しい!」
どうやら自分がうっかり相手の名前を呼んだことにここまで喜ばれていると悟って、彼は遂に体から力を抜いた。真剣に対応している自分が酷く馬鹿らしく、滑稽に見える。
運ばれてきたメインディッシュを見て、彼はフォークをひっつかんだ。食べることに集中しよう。そう思ったのである。
そもそも何故こんな奴にまとわりつかれなくちゃいけないんだ。
     *
「お前は何故俺にこだわる」
「シンちゃんのことが好きだから」
「ふざけるな」
そういえばその理由というものをしっかり聞いたことがなかったと、彼はことここに至ってようやく気がついた。いつもいつも、好きだ愛してる名前教えてと適当な言葉で誤魔化されて、本心など聞く前に疲弊しつくしていたのである。
タカオは左手でくるくるとパスタを巻きながら笑っている。誤魔化すつもりらしい。けれど彼に折れるつもりが無いのだと悟ると、タカオにしては珍しい、気まずそうな表情で語りだした。
「俺さ、実は前にシンちゃんにあったことあるんだ」
「なんだと?」
「いや、会ったっつーか、会ってないんだけど、なんつーかさ」
そこで僅かに首を傾げる動作を入れて、タカオは考え込んでいるようだった。それは、話す内容に悩んでいるというよりは、話している自分に疑問を抱いている、といったような様子である。
「俺の獲物横取りされたわけ」
「は」
「俺もさ、こう見えてもそれなりに仕事にゃプライド持ってたし、ちゃんと周囲に他に人がいないかとか全部気をつけてたのに、それでもお前に気がつかなかった。まさか一キロ先から狙撃してくるとは思ってなかったけどさ、そういう想定外の存在がいたっつーのが、なんか、悔しくてな」
「悔しいのか」
「悔しいさそりゃ」
怯えられ、恐れられ、疎まれることこそ始終だったが、悔しいと言われたことが初めてだった彼は戸惑った。以前一度だけ都合上仕方なくコンビを組んだ相手も、お前が怖いと、はっきりと彼に告げていた。そうはっきりと告げるだけ、そのコンビの相手はやりやすかったとも言えるが、それでも、だ。それでも、彼の周囲につきまとうのは怯え、あるいは、それを上回る怒りのみだった。
それ以外の感情を、彼に教えたのは、唯一。
「お前は、少し、赤司に似ているな」
「アカシ? 誰それ」
「…………俺の家族だ」
今度こそ完全に口をすべらせたことを悟って彼は舌打ちをした。その様子をタカオは不思議そうに眺めていたが、小さく「アカシ、ね」と呟くと、何事もなかったかのように続きを話し始める。
「ま、そんなわけで悔しくて悔しくてぜってーいつかお前超えてやると思って色々頑張ったり調べたりしてるうちになんかすっかりファンになっちゃって、好きになっちゃって、以上」
「全くわからないのだよ」
「恋ってそんなもんじゃねえの。じゃ、次シンちゃんの番な」
「は?」
「俺ばっかり話しても仕方ないじゃん。タカオくんから質問ターイム」
ふざけるな、俺は話さないぞ、そう言う前にタカオは笑みと共にたたみかけた。
「アカシって誰?」
ああ、やはり、昼間に会うべきではなかったのだ。彼の胸に襲い来るのは果てしない後悔である。何が何でも消えれば良かった。けれど日差しは柔らかく、人々が笑いさざめいているこの穏やかな世界で、無駄な波乱を起こすことは、どうも彼にはためらわれたのだ。
「…………家族だと言っただろう」
「家族ねえ」
「ああ」
「家族かあ」
タカオは首を傾げている。シンちゃんは、家族を大切にするんだねえ、と一人で納得している。その様子が何故か不快で、これ以上話すまいと思っているにも関わらず彼の口からは言葉が飛び出した。
「家族を大切にしない奴はいないだろう」
「そうかな。家族でも酷いことするのなんてありふれた話じゃん」
「それは、家族ではないのだよ」
「ふーん?」
楽しそうにタカオは話を聞いている。けれど実際、楽しそうなのはその表情だけで、瞳の奥が全く笑っていないことに彼は気がついていた。家族は、誰にでも存在する、誰にでも存在するからこそ、誰もの傷に直結しているのだと、そう彼に教えたのも赤司だった。
「シンちゃんにとっての家族ってなにさ」
「家族は、家族だろう」
「血の繋がりってこと?」
「結婚した男女間に血のつながりはないだろう」
「そういうものじゃない。もっと精神的なものってこと?」
「そうだな、血が繋がっている必要は、無い」
「成程成程」
じゃあさ、とタカオは尋ねる。笑いながら尋ねる。けれど、その瞳の奥は確かに燃えている。彼にとって家族という存在が全ての基準になるように、タカオにとってもまた、その言葉は看過することのできない鍵の一つだったのだろう。
「もしも家族に殺されそうになったらどうすんの」
「家族は、殺さない」
「いや、そうじゃなくてさ」
「家族は、殺しあわないものだ。家族は、家族を殺さない」
そう、赤司が言っていたのだよ。そう告げた彼の表情を見て、タカオは先程までの炎はどこへやら、呆けたように彼を見つめていた。彼の、エメラルドの瞳を見つめていた。
「ごめん、ごめんシンちゃん、意地悪な質問した。ごめん。だから泣かないでよ」
タカオの言っている言葉の意味が彼にはわからない。泣いてなどいないのだよ。そう告げれば、でも泣きそうだよと笑われた。
「なあ、俺、わかった」
暫くの間、二人の間には沈黙が降りた。ウエイターが食後のコーヒーを持ってきたことを皮切りに、タカオはまた話し出す。俺、わかったよ。
「シンちゃんはさ、やっぱ、普通に幸せになるべきだ。素敵な幸せを手に入れるべきだ。こんなんじゃなくてさ。こんな殺し屋なんてやめちゃいなよ。シンちゃんなら他にいくらでもやりようがあるよ。この街ならやり直しなんていくらでもきく。そんでさ、幸せな家族作るべきだよ。『ただいま』って言ったら、『おかえり』って返ってきて、美味いメシとあったかい風呂があってさ、なんか適当にじゃれあいながらその日のこと話したりして寝るの。そういう、普通の幸せ。そういう家族をさ、手に入れるべきだって。」
微笑みながらタカオは畳み掛ける。シンちゃんはそれがいい。シンちゃんは、お日様の下が似合うよ。
「そしたら、俺は邪魔だけどさー」
笑いながら彼は告げる。暗殺者にふさわしくない、太陽のような笑顔で告げる。
シンちゃんがそれで幸せになるなら、俺は嬉しいなあ。
     *
「真太郎」
「なんだ、赤司」
「次の依頼だ。ちょっといつもとは勝手が違う」
「どういうことだ」
「相手はお前と同じ殺し屋だ。どうも最近しつこく嗅ぎ回られて不愉快だからね」
「わかった」
「お前なら大丈夫だとは思うけど、一応相手もプロだから気をつけて。無理はするなよ。お前が怪我をするところはあまり見たくない」
「心配するな。俺なら問題無い」
「ああ、信じているよ」
「これが、資料か」
「ああ、そうだ。勿論相手に家族はいない。きっちり調べてあるから間違いない。遠慮なくいってくれ」
「…………」
「真太郎?」
「なんだ」
「僕はお前の家族だよ」
「……ああ、知っているのだよ」
「それなら良いんだ」
「赤司」
「なんだい?」
「…………いや、なんでもない」
「うん。それじゃあ、『行ってらっしゃい』」
     *
「え、あれ、嘘、シンちゃんから会いに来てくれるとか、なにこれ夢かな?!」
真夜中の零時。彼の前でタカオは笑う。二人の距離は五メートル。走れば一秒かからないであろう距離。
けれど弾丸は、それよりも早い。
「なーんて、んな訳ないよなあ」
「っ、タカオ!」
銃声は一発、タカオが一瞬で左手に構えたナイフを弾き飛ばした。
それを成したのは常に彼が愛用しているスナイパーライフルではない。M28クレイジーホース、その愛機を彼は置いてきた。代わりに手にするのは近距離用リボルバー。
「はは、シンちゃん、手加減してくれたんだ」
直接撃ち抜かれたわけではないとはいえ、ナイフ越しに至近距離で当てられた左手は痺れて感覚も無いだろう。骨が砕けていてもおかしくない。
それでもタカオは笑っている。
「今、俺の頭撃ち抜けばそれで一発だったのに。それで全部終わったのに。なんでそういうことしちゃうかな、シンちゃんは」
「タカオ、お前は」
「俺、期待しちゃうじゃん」
その言葉が終わるか否かのうちにタカオは彼に向かって一直線に突っ込んできた。使えなくなった左手の代わりに、右手に別のナイフを持っている。
彼は咄嗟に、またそのナイフを狙った。迷いなく引かれた引き金は、そのナイフを弾き飛ばす。
「な、」
はずだったのだ。
けれど引き金と同じタイミングで、タカオはナイフを投げた。一直線に。真っ直ぐに。それは決して彼の弾道がブレないと信じているからこその賭けである。ナイフの中心を一ミリもずれずに狙った弾は、一ミリもずれることのないナイフに弾かれた。
次の瞬間、タカオの手には次のナイフが現れている。
「!」
次の瞬間には彼を押し倒すようにして、喉元にナイフをつきつけるタカオがいた。その額には、彼のリボルバーが突きつけられている。互いの命を互いが握っている状況で、タカオは笑っている。
「ダメだって、近距離戦じゃ。シンちゃんの武器はさ、それじゃないっしょ」
「お前、今の、ナイフ捌き」
「ああ、うん、気がついた?」
タカオは笑っている。悲しそうに笑っている。
「俺は右利きだよ、シンちゃん」
今まで、彼の記憶の中のタカオは常に左手を使っていた。物を食べるのにも、ナイフを構えるのにも、全て。
「お前に憧れて、左使ってただけ」
     *
「お前、何故、赤司のことを調べ回ったんだ」
「……シンちゃんの家族が気になって」
「余計なお世話だ」
互いの急所に武器をつきつけて二人は会話している。今まで、こんなに近くに来たことがあっただろうかと、彼は場違いにも考えている。
出会ったのは、秋だった。木々の色が変わる頃。この国の秋は寒い。けれどどうだ、今はもう、日差しは柔らかくなった。いつの間にか冬すら超えて、季節はもう、春になろうとしている。
「赤司ってあのジェネラルコーポレーションの社長だろ。そんでもって、お前に殺しをさせてる張本人」
「俺が望んだことだ」
「おかしい、それは絶対に、おかしい」
「何が」
「だって、家族は殺しあわないんだろ」
かつて彼がタカオに告げた言葉が今返ってくる。彼の喉がひくりと震える。喉元に突きつけられたナイフは、その動きに合わせて僅かに深く刺さった。
「おかしいだろ。だって赤司は、お前を殺しの現場にやってんだろ。自分は安全な場所にいて、お前は死ぬかもしれない場所にやってる。それって間接的にお前のこと殺そうとしてるのと同じだろ」
「違う」
「違わない」
「違う」
「違わない!」
耳元で聞くタカオの怒鳴り声に彼は黙った。それは初めて聞く怒声だった。叫んだことを自ら恥じたのか、彼は顔を歪める。
「だが俺は殺し屋なのだよ。事実それ以外の道はない」
「そんなことない」
「ある」
「そんなことない」
「あるのだよ。お前は、俺のことを知らないだろう」
今度はタカオが黙る番だった。彼が言うことは正しかった。彼らはいくつかの季節を共に過ごしたかもしれないが、それが酷く偏った時間であることは自覚していた。否定することのできないタカオは、それでも必死に喉から声を搾り出す。
「……それでも、俺だったら、一緒に行くよ。行くなって言いたいけど、そこしか無いってんなら、その場所に行くよ。安全な場所で待ってたりなんかしない。お前が死にそうになってる場所に行って、一緒に死んでやれる」
     *
どれだけの間、そのまま二人膠着していたのかはわからない。先に動いたのはタカオだった。首にかざしていたナイフをゆっくりと外して、放り投げる。彼の上からゆっくりと、どいていく。
「お前」
「はは、俺にシンちゃん殺せるわけないじゃん」
「タカオ、お前は」
「でも本当にさ、お前の方がずっと強いのにこんなことになっちゃうんだから、情けとかかけちゃダメだぜ。一発で決めろよ。できれば遠くから。そしたら多分、きっと、あんまりシンちゃん死なないだろうし」
対して、彼はゆっくりと立ち上がりながら、照準はずらさない。その銃口は、ぴたりとタカオの額を向いたままである。うっすらとタカオは笑っている。その瞳は燃えている。既に、覚悟を決めた瞳である。
「タカオ」
「なあに、シンちゃん」
「お前の家族構成を教えろ」
「……はい?」
今にも銃弾が額を撃ち抜くかと思っていたタカオは、想定外の質問に柄にもなく間抜けな顔をさらした。唖然、といった顔だった。段々と、その表情は苦笑に変わる。
「そんなの、もう赤司から情報回ってんだろ?」
「答えろ」
「いや、だからさ」
「答えろ!」
タカオにはわからない。何故彼が泣き出しそうな顔をしているのか。以前一度、泣かせかけてしまった時、その表情の美しさにタカオは一瞬見蕩れてしまったものだが、その時はタカオの言葉が原因だった。今はその���由がわからない。
いや、わかるのだ。ただ、それが真実だとタカオは信じられずにいる。
「赤司から、書類を受け取った」
「うん」
「だが、情報が一つ足りなかったのだよ」
「へ?」
「だから俺は、確かめる必要がある」
その声は震えている。眉を釣り上げ、睨みつけるようにして、彼は怒るように泣いている。その顔を見て、タカオは、自らの想像を確信に帰る。
「……おふくろは生まれた時にはいなかった。親父はアル中で、酔っ払ったところでマフィアに絡んであっさり殺されたよ。育ての親は俺のことが邪魔になった途端に殺そうとした。兄弟姉妹はいるのかもしれないけど俺は知らねえ。年齢はわかんねえけどまあ真ちゃんと大差ないくらいじゃねえかな。勿論誕生日もわからねえけどお前と相性が良いって信じてる。血液型はO型。これは前に輸血もらった時に聞いたから確実。そんでもって、」
 「未来のお前の家族予定」
 「……緑間真太郎だ」
「……へ?」
「俺の名前。色の緑に、時間の間、真実の真に、太郎は説明しなくてもわかるな」
「へ、あ、シンちゃん、いや、え、真ちゃん」
「家族の名前を知らないのは、おかしいだろう」
   「……高尾和成です」
 「高い低いの高いに、鳥の尾羽の尾、和を成す、で和成」
      *
「何故お前に話さなくてはいけないんだ」
「へいへい、こりゃタカオくんも苦労するだろうな」
ビルの頼みをあっさり断って、緑間は珈琲を飲む。久々に飲むそれはミルクを大量に投入してもまだ苦く、彼は顔をしかめる羽目になった。
「それ、珈琲の味するのか?」
「する」
そういえば、高尾と初めて一緒に食事をした日、まだ互いの名前も知らなかった頃、同じことを聞かれたなと彼はふと思い出した。その時、緑間はなんと答えたのだろう。きっと、同じように答えたに違いなかった。
「なあ、シン、ずっと気になってたんだが」
「なんだ」
「お前さ、家族殺されたらどうするんだ?」
その問いも、やはり、あの日高尾が投げかけたものによく似ていた。家族に殺されかけたらどうする。
「一体全体どういう答えを求めているのかわからないんだが」
「求めてるとかじゃなくて、ただ気になるんだよ。お前の答えが」
「そうだな。もしもアイツが殺されても、別にいたぶったり懺悔させたり或いは……なんだ、まあ無駄なことをするつもりはない」
苦い珈琲を飲み干して緑間は答える。
「誰でも一発で殺してやる」
     *
「いやさ、真ちゃんって家族持ち殺さないじゃん、けど俺って家族いねーわけ。天涯孤独の身の上だぜ? だからさ、全然真ちゃんは俺のこと殺しちゃって良いわけよ。だけど真ちゃん、俺が何しても俺のこと殺さないんだぜ? この前ベッドに押し倒したけど、ウザそうな目で『何してる』って言われただけで、それだけだぜ? いやいやいや俺も抑えましたよ、やっぱね、こういうのは順序踏んで優しくしたいからね。でもさ、これってすげーことだろ。真ちゃんは俺のこと殺さねーんだよ、家族もいない俺を殺さねーんだよ。やっぱ愛だよなこれって。だから俺も真ちゃんのことめいっぱい大切にしたいわけなんだけど、あー、でもいつか真ちゃんに家族って認められたらそん時はもうためらわずに行っちゃうかな。いっちゃうよ。もうなんつーか、狼になります。だって家族になったってことは、それってつまりオッケーってことだろ。いまはまだ家族予定だけどさ。うん? そうだよ。俺は、家族予定の候補者なんだよ」
     *
一人取り残されたカフェで、いやはや、とビルは首を振る。おい、タカオくん、お前はどうやらとんでもない勘違いをしている。お前の執着は、どうやら、とんでもない勘違いをしている。
背中にびっしょりとかいた汗に気がつかないフリをしながら、彼はきつい酒をメニューから探す。
彼はわざと家族、と言ったのだ。一言も、高尾とは言わなかった。けれど緑間は自ら言ったのである。「アイツ」、と。それはそう、つまり、彼の中で、もう高尾は家族として認識されている。そうしてためらうことなく言うのだ。
「誰でも殺す」と。
こと緑間に限って、その言葉の重みをビルは知っている。誰でも。誰でも。恐ろしい言葉だ。家族の有無はそこに意味をなさない。いいや、究極的には、高尾の死に、関係が無くともいいのだ。誰でもとは、そういうことなのだ。老若男女、貧富も聖人悪人も何も関係なく、きっと彼は殺すだろう。例えばそれは、街一つくらいは。それくらいは軽くやりかねないと、正面からその時の緑間の瞳を見ていた彼はそう思うのだ。
なんで俺は、あいつに出会った時、いつもと変わらないなんて思っちまったんだろう。
     *
「ただいま、真ちゃん」
「おかえり、高尾」
血まみれの高尾が入ってきた時、緑間真太郎はソファで興味の無い新聞をめくっていた。廊下にはぽたぽたと赤い染みがつき、折角引っ越したばかりの白い家具で統一された部屋を汚している。
「ごめんね真ちゃん、あったかいご飯食べよう」
「ああ」
その前に少し寝たらどうだと緑間は尋ねる。高尾は笑って、そうさせてもらおうかなと答える。実は結構眠くて死にそうなんだ、これが。
「死ぬなよ」
「死なないよ」
でも寝るわ。そう言ってバランスを崩した高尾を緑間は抱きとめた。さりげなく怪我を確認するが、いくつか深く切れている箇所は全て動脈を避けている。残りは返り血が主なようだった。
「真ちゃん」
「なんだ」
「今日も愛してるよ」
「そうか」
「真ちゃん」
「なんだ」
返事が返ってこないことに気がついた緑間は、腕の中で眠りに落ちている高尾和成に気がついた。僅かに首を傾げると、そのまま血が付くのも構わずに寝具に寝かせる。手早く応急処置をする。
安定した寝息に微笑むと、その額に僅かに触れるか触れないかの口づけを落として、緑間は笑みを崩さないまま、愛用するライフルの確認をした。それはあの日使わなかった、M28クレイジーホース。
「行ってきます」
     *
高尾が目覚めてみれば、血だらけだった洋服は清潔な物に変えられ、傷には適切な処置がされていた。ああ、少し血が足りないなと思いながら彼がリビングへ向かえば、彼の愛する家族がリビングでつまらなさそうにナイフをいじっている。
「あー、真ちゃん」
「起きたか」
「色々ありがと」
「フン、洗濯もしてやったのだよ」
「嘘?! 真ちゃん洗濯できたの?!」
「馬鹿にするな」
「いや待って真ちゃん、これちゃんと染み抜きしてないっしょ! うわ、めっちゃまだらになってる! やっべえ俺の血でシーツめっちゃまだら! やべえ!」
「うるさい。さっさと飯の支度をしろ」
「はいはいはい」
笑いながら高尾は支度を始める。こんな生活がいつまでも続くはずがないと彼らは知っている。
いつか報いを受けて惨たらしく死ぬだろう。惨めに、哀れに、けれど同情の欠片もなく、唾を吐かれ踏みにじられて死ぬだろう。
「そうだ、言い忘れてた」
けれど今ここにあるのは、確かに一つの幸福な。
「おかえり、真ちゃん」
「ただいま、高尾」
Love    me tender
Tell    me killer
死が二人を分つまで
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abcboiler · 4 years
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【黒バス】愛のある生活
2013/05/03発行オフ本web再録
【愛のある生活】
「真ちゃんさ、今週か来週、どっか空いてる日ある?」
空調の効いた部屋の中で、高尾は何のきっかけもなく、たった今、降って湧いたのだとでもいうような口調で緑間に声をかけた。部屋の外ではまだ夕方の火が残って、黒い道路とベランダをじりじりと焼いている。けれどそんな外のことなど、窓を閉じきった二人には関係の無い話であった。二人の厳正なる協議の結果決まった二十八度の人工的な空気の中で、緑間と高尾は古びた革張りのソファに腰掛けている。所々に煙草の焦げ跡が見えるこれは、宮地から受け継いだ歴史ある一品である。宮地もまた、大学の同級生から受け継いだと言っていたから、ヴィンテージと呼んで差し支えないほどの貫禄を持っていた。きっと二人の前に宮地はここに腰掛けて雑誌を読んでいたのだろうし、名前も知らない彼の同級生は野球観戦をしていたのだろうし、きっとその前の持ち主はこのソファの上で窮屈なセックスをしたに違いなかった。時間と情念が染み込んだずっしりとした色は、思いのほか部屋に馴染みやすい。高尾はその上であぐらをかいてテレビを見ていたし、緑間は足を組んで本を読んでいた。てんでバラバラの行動をしている二人は、目線も合わせずに会話している。
高尾の唐突な質問に、緑間は雑誌から顔を上げずに答えた。並んで座るソファの向こうではテレビが騒がしい音を立てている。
「丸一日か」
「んー、できれば」
そこでほんの僅か、緑間は雑誌から視線を上げると宙を見つめた。蜃気楼を見定めようとするように細めた視線の先には何も無い。頭の中のカレンダーを彼はめくる。九月の始め。大学二年生の夏休み。高校生はもう二学期が始まっているだろうが、大学生はまだ半分近く夏休みが残っている。むしろ本番はこれからだろう。しかし、世の学生は講義が無ければバイトと遊行で予定を埋め尽くしているかもしれないが、こと緑間に限ってそれはなかった。伝手で紹介してもらった家庭教師のバイトは酷く割が良かった。一時間二千円で毎回ケーキやらしるこが出るのだよ、と高尾に伝えた時の表情を、緑間は未だに忘れていない。
あれは二人で夕飯の買い出しに出かけた時のことだ。季節は秋の終わりで、冷たくなった空気に秋物のセーターは少し風通しが良すぎた。俺久しぶりに真ちゃんに殺意抱いたわ、とはその時の高尾の言である。今日の夕飯はもやしでいいかな、俺今月ピンチなんだよね、真ちゃんはお金あるかもしれないけどね、とぶつぶつ呟く姿は、緑間でなくともあまり眺めていたいものではなかった。当の本人である彼は、お前は以前にも俺を殺そうとしたことがあったのかと問おうか考えて、どのような答えが返って来たとしてもあまり歓迎できる事態ではない、と結論づけた。喉元まで出かかっていたその言葉を飲み込んだ。その程度には彼も大人になっていた。代わりに、お前とセックスする時は大体死にそうになっているんだが、と伝えれば高尾は何も無い所でつまずいた。その後しばらく無言で、高尾は肉を買い物かごに無心に放り込んでいた。その日の夕飯は牛のすき焼きだった。とてもよく覚えている。
「……真ちゃん?」
「ああ、ぼんやりしていた」
「もー。それで、どう?」
完全に思考が逸れていた緑間は、もう一度、空中に浮かぶ見えないカレンダーに視線を移す。大学に入り、友人もできた。高校ほど顕著に周囲を拒むことは無い。講義の終わりの飲み会にだって顔を出すようになった。しかし、彼は大学の友人たちと毎日繁華街に繰り出すより、二人の家で静かに本を読むことを好んだ。カレンダーはまだ空いている。
「……木曜。来週でいいなら火曜」
「あー、今度の木曜は俺がバイト入ってんだよなー、来週の火曜は空いてる」
「それなら、そこでいいんじゃないか」
「うん」
再び本に意識を戻した緑間は、高尾の「それじゃ���、そこ空けておいてね」という一言に軽く頷いた。
「それで、結局なんなのだよ」
「ああ」
目線を合わせないまま、ゆっくりと会話は続く。高尾の突然な誘いは初めてのことではない。最初は理由から何から全て尋ねていた緑間も、最近では中身も聞かずに許可を出すようになった。全ては『慣れ』の一言で片付けられるのかもしれない。そしてそれは、悪いものでもなかった。二人の間を流れる時間は酷く優しかった。きっと二人は昨日もこうしていたのだろうと思わせるような速度。明日もこうしているのだろうと思わせるような空気。テレビからは、バラエティ番組特有の揃えられた笑い声が響く。
「大掃除しようと思って」
「……大掃除?」
そこでようやく緑間は、読んでいた本から意識を外した。怪訝な顔で高尾の方を見れば、視線に気がついた高尾も、テレビから緑間へと視線をスライドさせる。隣同士に座る二人の距離は近い。
「そ。去年の夏はドタバタしててやれなかったけどさ。年末に大掃除やったじゃん? あれ、夏もやっとこーかなーと」
二人がルームシェアを始めたのは、大学入学とほぼ同時期だ。緑間は危なげなく第一志望の医学部に合格を果たし、高尾も、周囲から危ぶまれつつ有名私大の経営学部に合格した。あれだけバスケしかやっていなかった癖に、と周囲からやっかみ半分賞賛半分の拍手を受けつつ、めでたく二人で現役合格を果たしたのである。
難があるとすれば、それは双方共に大学が自宅から離れていることだった。一人暮らしには躊躇う。けれど自宅から通うには厳しい、そんなもどかしい距離。特に、遅くまで授業が入るであろう緑間にとって、通学に二時間かかるという現実は歓迎できたものではなかった。
「だったら、一緒に住んじゃおうよ」
そう言いだしたのは高尾だったろうか。緑間は「馬鹿なことを言うな、許される筈がないだろう」と言ったかもしれないし、「そうだな」と答えたかもしれない。
いいや、もしかしたら緑間が「一緒に住めばいいだろう」と言ったのかもしれなかった。高尾が「それは無理なんじゃないかな」と答えたのかもしれなかったし、「真ちゃんナイスアイデア!」と叫んだのかもしれなかった。今となっては二人とも覚えていないことである。それは世間一般から見れば大事なことだったのかもしれない。しかしこうして一緒に暮らすことに慣れてしまえば、大切な思い出は存外あっさり過去になっていくものだった。一度この件で二人言い争ったこともあるが、お互いに相手が言いだしたのだと主張して譲らなかった。「どっちが先にプロポーズしたか論争みたいだよな」と、後に高尾は苦笑いしたけれど、それに関してはお互い自分からだと譲らなかったのだから、不思議なものである。
どちらが言いだしたのかはともかく、まだ学費も親に出してもらっている身の上の二人、まさか当人だけで決定できるはずもなかった。恐る恐る親に話を出してみれば、二人が驚くほどスムーズに親同士は連絡を取り、一時間ほどの世間話と五分の要件で話はあっという間にまとまった。妹を抱え、あまり余計な出費をしたくない高尾家と、財政面はともかく、お世辞にも生活力があるとは言えない息子を一人暮らしさせるのが不安な緑間家は、あっさりと大学生二人の同居を許諾したのである。高校三年間、お互いの家に入り浸り続け、親にすれば今更だったのかもしれない。両親同士が、迷惑をかけると思いますがうちの子をよろしくお願いします、と言い合うのを聞いていた二人の表情は、それはそれは微妙なものだった。何故俺がこいつによろしくしなくちゃいけないのだよ、いや迷惑かけるのは恐らく真ちゃんっしょ、という視線が二人の間で交錯していた。
「……よろしくお願いします」
「……よろしくお願いします」
ダンボールに溢れかえった二人の新居で、正座しながら向かい合って挨拶をした初めての夜を、二人ともまだ覚えている。
 一年目は慌ただしく過ぎた。正直な話、幾度か破局の危機を迎えたほどである。女の子と結婚する前に同棲しろってのはなるほど正しいと、高尾は一人、誰もいないトイレで頷いたものだった。ちなみにこの時は、トイレから出るときに便座の蓋を閉めるか閉めないかで二人が大喧嘩していた時であり、現在では蓋は必ず閉じきられている。だいたいそういったことに我慢がきかなくなるのは緑間の方で、彼の様々なジンクスに高校生活で大分慣れたと考えている高尾ですら、一緒に生活してその異常さを痛感することになったのであった。今までこれを全て実行していたのかと思えば頭が痛い。真ちゃんママとパパってさ、流石真ちゃんのお父さんとお母さんだよね。初めて緑間と喧嘩をして仲直りをした日の夜、高尾がぽろっと呟いた言葉は紛れなもなく本音である。とはいえど、緑間から言わせれば高尾の生活も酷いものであった。味噌壺に直接胡瓜を突っ込んで食べる、牛乳パックを開け口からそのまま飲む、CDの外と中身が一致していない、なんていったあれこれである。そういったこと一つ一つ、慣れない暮らしや生活習慣の違いを見つける度に二人は喧嘩をして、たまに食器が一枚割れたりした。しかし二年目ともなればお互いに慣れてくる。緑間が洗濯物を洗う曜日に敏感なことも、高尾が調味料のメーカーにこだわることも織り込み済みである。夕飯を食べるか食べないかの連絡だってスムーズになった。慣れは、決して悪いものではない。
高尾が言った大掃除とは、年末に二人で行ったものである。なるほど、確かに一年分の汚れはなかなか落ちるものではなかった。半年間隔でやってしまおうという意見は、緑間にとっても悪いものではない。
「場所は? 全部か?」
「全部! まあ普段だってちょいちょいやってるし、一日で終わるだろ」
天井払って、壁と床拭いて、窓磨いて、あと洗面所と風呂トイレに台所だろー。
指折り数える姿に、悪いものではないが、これは結構な重労働になるなと緑間は溜息をついた。背の高い緑間にとって、天井付近はあまり負担ではないが、その分床に近づくと途端に身動きが取れなくなる。自分の体が、邪魔なのである。せめてその日が晴れるように祈るしかない。雨の日に水拭きなどしたら間違いなくカビが発生して、本末転倒になるだろう。
二人の協議の結果決まった二八度の冷房。高尾が選んだ柔らかいらくだ色のローテーブル。二人が好きなつまみ。緑間は、細かい朝顔の透かし彫りが入った切子ガラスのコップに手を伸ばす。氷を入れたグラスと緑茶は、見た目からして涼やかだ。冷房の下、僅かに汗をかいている表面をなでて、彼はそのまま一息に飲み干した。頭の中のカレンダーに、大きく赤い文字で、大掃除と刻み付ける。
「ところで高尾、テレビは消していいのか」
「えっ!? あ、ダメダメ。宮地さんが推してるチーム歌うから。真ちゃんもしっかり見ろよ?」
「は?」
「え、だって十月に大坪さんと木村さんも一緒に飲みあんじゃん。絶対にカラオケ行って歌うから、合いの手とコール覚えなきゃだろ?」
「断わる! お前だけやればいいだろう!」
「真ちゃんも一緒にやるから面白いんだろ!」
ほらほら、これCM明けに歌うから!
逃げだそうとする緑間を押さえつけて高尾はテレビの音量を上げた。暴れだす体の向こうで、同じ顔をしたアイドルたちが笑顔を振りまく。半年前に出た新曲と同じようなメロディと同じようなキャッチーさで、彼女たちはテレビの向こうから愛を届けている。日本中の可愛い恋人たちのために。
二人、相手を黙らせるために仕掛けたキスに夢中になって、結局ろくに歌を聴くことはできなかったのだけれど。
     ***
 よっしゃ、良い天気だ。
前日に二人で作ったてるてる坊主が効いたのかどうかは判らないけれど、檸檬色のカーテンをひけば高い青空が見えた。白いちぎれ雲が自信ありげに浮かんでいる。ホンの少し涼しくなった空気はまだ残暑模様。朝でも肌には汗が浮かぶ。午後からはきっと焼け付くような暑さが来るだろう。おり良く強い風が吹く。洗濯物がよく乾きそうだった。絶好の掃除びよりだと高尾は笑う。お前はそんなに掃除が好きなら、普段からもっと部屋を片付けろと緑間は溜息をつく。そう言う緑間が、いつもより十五分早起きしていることを高尾は知っている。
「じゃ、まずは上からな」
「壁か」
「んー、天井ざっとはたいてから壁かな」
汚れても良い格好ということで、二人とも服装はラフである。高尾は少しくたびれたTシャツに、これまた古びたジーンズ。緑間も洗いざらしのシャツとクロップドパンツだ。二人とも素足だが、ここでも去年の夏、スリッパ派と素足派による二日間の戦争があったことを知るのは、この二人だけである。ちなみにこれは開戦から二日目の夜、素足派による「だって夏のフローリング気持ちいいじゃん!」という叫びを否定しきれなかったスリッパ派の譲歩によって幕を閉じた。一週間に一度のクイックルワイパーを条件にして。それももう、一年前の話である。
ハタキと、堅く絞った雑巾を手渡され、緑間は黙々と天井の埃を落とし始めた。丁寧にやるような箇所でもないので、四角い部屋を丸く掃くような雑さで終える。そもそも、椅子に乗らなくとも天井に手が届く緑間にとっては簡単な作業である。洗剤やらスポンジやらを出して準備している高尾を尻目に壁にとりかかった。手渡された雑巾で、力をこめずに、壁紙の目に沿って拭いていく。ポートレイトや写真が貼られているのを丁寧に外してみれば、うっすらと壁に日焼けの跡が見えた。僅かに色の変わった境界線を、感慨深く緑間は撫でる。ついでとばかりに、飾ってあった額も拭いてしまう。それにしてもなんだか見慣れた雑巾だと思えば、それは高尾が寝間着代わりに使っていた白いTシャツだった。それがざっくばらんに切り刻まれ、雑巾として再利用されていることを見て取って、緑間はまたひとつ溜息をついた。いつの間にこんな主婦臭い技を身につけていたのか。
そもそも壁を拭くことすら緑間は知らなかった。しかし考えてみれば壁も汚れるものである。年末に帰省した際に母に聞いてみれば、毎年拭いていたとのことで、それまで母の仕事に全く気がついていなかった緑間は少し自らを恥じた。言われれば手伝ったのにと暗に言えば、あなたにはもっとやって欲しいことがあったから、と少し老いた母は笑った。高尾に、何故お前は知っているのだと聞けば、俺ん家は妹ちゃんも俺も総出で掃除させられたから、とあっけらかんとした答えが返ってきて、彼は黙り込むしかなかった。
その高尾は先に窓を始めている。バスケをやめた今となっても、自分にあまり水回りの仕事をさせようとしない高尾のことを緑間は知っている。基本的に自分の物は自分で片付けることが二人の間のルールだが、食後の皿は緑間がやろうとしても高尾が全て洗っていた。高尾が手際よく洗っていく皿を、緑間は隣で黙々と、白い木綿の布巾で拭いていく。会話は、あったりなかったりである。さすがに大掃除となって、濡れた雑巾に触れないわけにも行かないが、洗剤を使うような場所は頑なに自分でやろうとする高尾を、今更とがめはしなかった。その小さなこだわりは、きっとこれからも続いていくのだろうと緑間は知っていた。いつか高尾が緑間の左手を大事にしなくなった時、二人の関係は終わるのかもしれないなとぼんやり緑間は思っている。それが、本当の終わりなのか、それとも次の場所へと進むのか、そこのところはまだわかっていないし、わからなくて良いと思っている。結局、今のこの場所が居心地良いと思っているのは、双方同じなのである。だからこそ、こうやって二人で手入れをするのだから。
二人暮らしの狭い家とはいえど、壁一面となればそれなりに重労働である。意識をそっと白い壁に移して、彼は壁紙をなぞる。固く固く絞られた雑巾が、ホンの少し黒ずんでいく。その分また壁は白くなる。世の中はうまい具合にできている、と緑間は思う。
 緑間が壁を拭き終わり、高尾の様子を窺えば、彼は丁度全ての窓を磨き上げたところだったらしく、休憩にしようか、と笑った。曇り一つ無く、洗剤の跡すら見えない窓ガラスと積み上げられた雑巾に、こいつも大概完璧主義である、と緑間は思う。太陽は既に頂点、二人が掃除を開始してから二時間が経過、時計は十二を僅かに過ぎていた。朝の想像通り、日差しはますます勢いに乗って世界をじりじりと溶かす。無論掃除している最中にクーラーはつけていないので、二人とも背中には汗の痕が滲んでいた。風呂入る? という高尾の一言に緑間は首を振る。どうせこれからもっと熱くなるに決まっているし、目的はまだ半分しか達成されていなかった。
その様子に高尾は軽く頷いて、額に滲んだ汗を首から下げたタオルで拭う。窓の裏側を掃除するために外に出ていた高尾の方が体感はより暑かったのだろう、顔は少し赤くなっていた。素麺で良いよね、という言葉に緑間は頷いて、そのままぐるりと首を回した。パキ、と空気が割れるような音がする。あー、お湯沸かすのあっつい! という高尾の叫びを無視して、緑間はテーブルの準備を進めていた。どうせ手伝うこともないので、黙々と皿を並べる。濃緑の箸は緑間、橙は高尾。今は良いだろう、と緑間はクーラーのスイッチも入れた。お世辞にも新しいとは言えないそれは、大きく低い振動音と共にゆっくりゆっくり動き出す。ゴオ、オという音をたてて冷たい空気を排出するそれが効き始めるまでに、もう少し時間がかかるだろう。それまではこの部屋はただのサウナだった。気分だけでも涼しく、とグラスに氷を入れて緑茶を注げば、案外喉が渇いていたことに気がつく。
「きゅうり入れるー?」
「入れる」
台所の方から飛んできた声に、緑間は髪間入れずに答えた。夏の胡瓜は、夕立をナイフで切ったような食感がするから好きだと彼は思う。
「卵は?」
「細切り塩で」
「なんだよこまけえな」
文句を言いながらも、高尾は注文通りに手際よく仕上げていく。サラダ油がたっぷりと敷かれたフライパンの隣で、ボウルめがけて白い卵の殻がパカリと割れる。出てきた黄身をダンスでもするようなこ気味良さでかき混ぜて塩をふれば、その頃にはフライパンはすっかり温まって湯気を立てている。卵を流し込めば薄く広がって、柔らかいそれを一気にまな板の上に放り投げた。食べ物で遊ぶなと緑間が苦言を呈したことは数知れないのだが、最後に放り投げる癖は未だに抜けないままである。余熱で固まるそれを手際よく畳んで細く切りながら、なんか残り物あったっけ、と高尾は呟いた。緑間が冷蔵庫を開ければ昨晩の煮物が出てきたので、彼はそれを小鉢に盛る。タッパーから直接食べてしまえばいいだろうと言う高尾と、残飯を食べているようだと許せなかった緑間の、そんな戦争の結果はここにもある。
「おい、高尾、吹きこぼれそうだぞ」
「うっわ。やべ、あぶな」
透明な素麺は、川のようだから好きだと、昔高尾は笑って言った。
「いただきます」
「いただきます」
両手をあわせて自分の器にきゅうりと卵を投入しながら緑間は尋ねる。
「このあとは」
同じくきゅうりと卵を投入して、ごっそりと素麺を器に入れながら高尾は首を傾げた。麺つゆが器から溢れそうになるぎりぎりのところまで素麺が入り込んでいて、よくもまあそんな絶妙な量を取るものだと、緑間はいっそ驚嘆の目でそれを見つめる。彼の器には二口ほどで食べきってしまえる程度しか麺は入っていない。
「んーあとは床と水回りだな。台所洗面所風呂トイレ。あとリビング片づける」
「なるほど」
ネギは無いのか、という緑間の台詞に切らしてる、と口の中に詰め込みながら高尾は答えた。キムチならあるけど、という言葉に首を振る。生姜はするの面倒くさいから却下ね、と尋ねる前に答えられて緑間はいささか不機嫌そうに麺をすすった。
「台所は絶対に俺だとして、他の水回り、いやでも真ちゃんにできると思えねえ」
「失礼な」
「いや、そーは言うけど、排水口に詰まった髪の毛ヘドロって結構えぐいぞ」
「う」
緑間がそこの掃除を担当したことは今までに一度も無い。水回りだからである。しかし初めてパイプがつまりかけて、すわ水道トラブル五千円か、と慌てて掃除をした時の憔悴を高尾は覚えている。髪の毛だって人体の一部だということを何故忘れていたのだろう。生物の一部が、ずっと水にさらされていればどうなるかは明白だった。すなわち、腐る。その時の異臭とあまりにもグロテスクな見た目を思い出して、高尾は慌てて首を振った。間違っても食事中に思い出したい光景ではない。あれ以来、髪の毛はなるべく排水口に流さない、紙にくるんでゴミ箱に! と叫び続けていたが、そうはいっても限界はある。こまめに掃除をするようにはしていても、夏場の腐食の早さを冷蔵庫を預かる高尾は知っていた。そして、どう考えても潔癖症のきらいがある緑間に向いている仕事では無いということも。
「水回り全般俺がやるから、真ちゃん床お願いね」
「……分かった」
高尾の悲壮感の漂う決意を受け取ったのか緑間は神妙に頷いた。別に死地に赴くわけでもなし、高尾は笑って緑間の状況を告げる。
「しゃがむのきついだろうけどファイト」
身長百九十五にとっては、床に這うのも重労働である。広くないとは言えど、終わる頃には腰が悲鳴を上げることは歴然としていた。
「……代わらないか」
「ヘドロ」
「……」
緑間は黙って素麺をすすった。やっぱネギ欲しいな、と高尾は笑った。
 「高尾」
磨き上げられた窓の向こうから夕日が差し込むのを見て、緑間は風呂場にいる高尾に向かって少し大きめの声をかけた。実際、やってしまえば床は案外すぐに終わり、高尾が悪戦苦闘している様子を見てとった緑間は一人だけ休憩するのもなんとなく心地悪く、結果リビング全体の掃除を始めていた。小物に少し溜まった埃だとか、装飾棚の隙間まで、一度始めてしまえば徹底的にやり切るまで集中する緑間は、目を刺す橙の光にふと気がつくまで、黙々と掃除を続けていたのである。
「ん、真ちゃん終わった? 俺も終わりかな~」
風呂場でシャツとズボンの裾を捲りながらカビと戦っていた高尾は、最後に洗剤をシャワーで流して伸びをする。腰からも肩からも不穏な音を感じて高尾は苦笑した。風呂に充満する洗剤の臭いに、少し頭が痛くなっている。換気扇を回して浴室から足取り軽く飛び出した。
「お、スゲー。リビング超きれいになってる」
「当然だろう」
床だけをやっている割には時間がかかっているなと薄々感づいていた高尾だったが、新居さながらに整えられたリビングと少し誇らしげな緑間の表情に、全てを悟って彼は笑った。完璧主義はどっちだよ、と告げれば軽く肩をすくめられる。
「やっぱ整理整頓は得意だよな真ちゃん。あんだけのラッキーアイテム把握してただけあるわ」
「だが、これが」
入らないのだよ。そう続けた緑間の視線の先には積み上げられた本と雑誌。幾枚かのCD。二人ともに気になっていたから、自分の部屋には持ち帰らずに置き放していた書籍の類である。月バスの五月号を買ったのは高尾だし、六月号を買ったのは緑間だ。緑間が気まぐれに買ったミステリの新刊を、高尾が気に入ってシリーズで揃えてしまった事もあった。高尾がおすすめだと無理矢理押し付けたバンドの新作のアルバムを何故か緑間が買ってきた。そういった、二人の間で分かちがたかったあれそれがリビングテーブルの上に広げられている。どちらが買ってきたのかももう覚えていない物もちらほらと見受けられた。これも一種の慣れなのかもしれないと、高尾は思う。放っておくには量が多すぎたし、どちらかの部屋に持ち込むにはあまりにも二人の間で共有されすぎていた。
「んー」
彼がちらりと壁に目をやれば時刻は四時。陽は頂点を過ぎてなお盛んである。むしろ暑さはこれからが本番だとでも言いたげな表情で、町は赤く燃え盛っていた。朝から掃除をしていたことを思えば結構な時間だが、一日を締めくくるにはいささか早い。まだ太陽は今日を終わらせるつもりがなさそうである。そう結論づけて、高尾は一仕事終えたと言いたげな緑間を振り返る。その表情を見て緑間は顔を引きつらせた。ろくなものではない。
「買いに行こっか」
「は?」
「本棚」
ホームセンター近えし。
その高尾の言葉に自らの予想が完璧に当たったことを理解して、緑間は一つ大きな溜息をついた。
そう、二人がこの街に居を構えることに決めた、大きな理由の一つがそれだった。本屋やコンビニを併設した大型のホームセンターが徒歩圏内なのである。トイレットペーパーから墓石まで揃うと謳うその店は流石の品揃えで、信じられないことに深夜二時まで営業している。男二人暮らし、計画的な買い物が得意ではない以上、いざという時に頼れる存在は大きかった。それは例えば、夜中にいきなり花火をしたくなった時なんかに。
「…支度をする」
置くのここでいい? と窓枠の下を指した高尾は、どこに持っていたのかいつ取り出したのか、メジャーを使って寸法を測り始めている。奥行ありすぎると通る時にぶつかっちゃうかな、でもあったほうが上に物とか置けて便利かな、そう目を輝かせる高尾はもう緑間のことを見ていない。これはもう止まらないな、と、この一年で学習した緑間は着替えるため、一人先に部屋に戻ろうとした。
「え、いーじゃんもうこのままで」
「外にでる格好ではないのだよ!」
見ていなかったはずの高尾に腕を掴まれて緑間は怒鳴る。その視野の広さを無駄に活用するくらいなら、素麺の噴きこぼれを防げと緑間は言いたい。そんな怒気に気がついているのかいないのか、メジャーをポケットにしまいながら高尾は笑う。
「今日組立までやるとしたらまた汚れるから着替え直しだし、めんどいだろ」
「そういう問題じゃ」
繰り返すが、今日は掃除で汚れると思っていたから、緑間も手持ちの服の中で最も汚れていいものを着ているのである。それに汗もかいている。近所のコンビニ行くのにラルフローレン着る必要なんてないだろ、と高尾は笑うが、コンビニじゃあないしラフにも限度があるし、これはマナーの問題だと緑間は思う。大丈夫真ちゃん別にくさくねえって、との言葉に彼は本気で頭を叩いた。
「ほれ、はやく」
涙目の高尾に引きずられて、結局、そのままの格好で、鍵と財布だけをポケットに突っ込んで二人は出発した。外に出た途端に額に滲む汗に、緑間も降参の溜息をつく。仕方がない。ここまできたら、とっとと買い物を済ませて綺麗になった家に帰ろう。足下のサンダルは安っぽい音を立てて道を進んだ。
 「ぜってえこっちの方がいいって」
「そんな下品な色がか? こちらの方が落ち着いていて良いだろう」
「そんなじじいっぽいのやだよ俺!」
とっとと買い物を済ませようという当初の思惑などすっかり忘れ、緑間は高尾と二人、本棚のコーナーでにらみ合っていた。ただでさえ目立つ二人組は完全に周囲の視線を集めている。案内している販売員も、最初は少し驚いたようだったが今は完全に笑いをこらえた顔で二人のやりとりを眺めていた。
「この人だってこっちのほうが今はやりだっつってたじゃん!」
「はやりの物は飽きるのも早いのだよ。こちらのほうが容量も大きく沢山入るとあの方も説明していただろう」
「いいや、いっぱい入ったって好きじゃなかったらしょうがないね。見るだけで嫌になるようなものに物を入れたいなんて思わないじゃん」
「ふん、入りきらなければ元も子もないだろう。それに」
「それに?」
「大きいほうが良いに決まっているのだよ」
「真ちゃんここでもそのよく判らない大きいもの志向持ち出すのやめようぜ!」
話し合いは完全に平行線である。こちらの商品はいかがですか、と指し示されたものを見た二人は、数秒間それを見つめ、「財政的にちょっと」と同じタイミングで声を発した。
「待って真ちゃん、一回冷静になろう」
「良いだろう」
「まず容量だ」
ああでもないこうでもないと言い争えど結論が出ないので、ついに高尾は最終手段に出ることにした。申し訳なさそうに販売員に紙とペンは無いか尋ねる。快く差し出されたそれに、高尾は雑に「デザイン」「色」と書き込むと、他に何かある? と緑間に尋ねた。特になかったらしい緑間は首を振って黙って見ている。それに頷いて、高尾は二本の線を伸ばし、間に横線をランダ��に引いていった。二人がどうしても戦争を終結させられなかった時、諦めの平和条約の作り方をこの一年間で彼らは生み出していた。
「真ちゃん、右と左どっち」
古式ゆかしいあみだくじだった。
一時間後、高尾の選んだ色と緑間の好みの型をしたブックシェルフは無事にレジを通り抜けた。販売員に頭を下げて、二人は板を小脇に抱え込む。あみだくじはぐしゃぐしゃに丸められて高尾のジーンズのポケットにつっこまれていた。後で洗濯をする時に出し忘れて洗濯物を汚すパターンなのだが、今の彼はそんなことには気がつかない。二人、何かをやり遂げたような顔で家路を行く。配送業者も組み立て業者も近くで待機していたが、これくらいならば自分達でやると丁重に断わった。自転車で来れば良かったかな、とぼやく高尾に、逆に載せられないだろう、と緑間も淡々と返す。背中に夕日を背負って、二人の前には長く長く影が伸びている。やべえ俺モデルみたいに脚長い、お前はもう脚長おじさんって感じ。そう言って高尾が笑いながら取ったポーズがあまりにも滑稽で緑間は笑う。どうやら笑わせようと思って取ったポーズでもなかったらしく、高尾は一瞬複雑そうな顔をしたが、どうやら調子に乗ったようで、その後も家にたどり着くまでことあるごとに奇妙なポーズで緑間を笑わせにかかった。調子に乗りすぎて板を落としそうになったところまでご愛嬌である。とはいえどなかなかの重労働で汗をしこたまかく羽目になったので、あの服装で正解だったのかもしれないと緑間は頭の片隅で思った。そんなこと、口に出しはしないけれど。
 会議という名の喧嘩時間に反比例するように、案外あっさりと組み立て終わった白いそれは二人の腰よりも低く、窓枠の下にぴたりと収まって、雑多に積み上げられていた本も雑誌もCDも、全て収めて夏の光をはじいていた。これに合わせて変えようと、高尾が一緒に買った白いカーテンがはためいている。磨き上げられた窓、滑らかな床、白い壁は夕日で赤い。本棚もカーテンも、夕焼けと同じ色で呼吸をしている。暑さも和らいできた。午後七時。夕日は地平に差し掛かり、町陵を金で縁取っている。昼間、高尾がいつの間にか干していたシーツが、朱金の鼓動を飲み込んで乾く。一日が、終わろうとしている。
「よっしゃ、これで終わり!」
「雑巾はもう捨てて良いか」
「おう!」
あー、一仕事終わったし、ビール飲もう! 枝豆冷やして! あとはなんだ、漬け物と、キムチで鶏のささみ和えて、いや、手羽先の方が良いかな。夏はうまい!
次々と夜の献立を並べる高尾に、緑間は僅かに頬を緩めた。腹が減っているのはお互い様である。何せ今日は、とてもよく働いたので。はじめは全くと言っていいほど合わなかった食の好みも段々と近づいて、今ではお互いの好物を好きだと言えるようになっている。
ねえ真ちゃん、今度おっきいソファ買いに行こうよ。今のも良いけどさ、もっとスプリング効いたヤツ。並んでテレビ見てさ、そんでそのまま…。
不真面目な頭を思い切りはたいて、歴史あるソファに緑間は腰をおろした。高尾が座れないように、真ん中に。空中にある明日のカレンダーの予定を見つめて、彼は午前中の用事に大きくバツをつけた。文句を言う高尾の口を塞ぐ。洗いたてのシーツで惰眠をむさぼるのも悪くないだろうと思って。
開け放した窓から夜風。彼らの城は今日も明るい。
Love is life.
        【愛こそすべて!?】
  まさか真ちゃんがあそこまであのソファに愛着を持っているとは思わなかった。その点は俺の見込みが甘かったとしか言えない。そりゃ、俺だってあれのことは気に入ってるさ。大分古びてるとはいえども、それがまた洒落てる感じ出してるし。座り心地だって悪くない。いや、悪くなかったんだ。でもさ、スプリング壊れちゃったんだから仕方ないじゃん。布を突き破って出てきたバネは鈍い黄金色をしていて、王様みたいな貫禄があってやけに格好良かった。それが真ちゃんとのセックスの最中じゃなければね。あの男三人が座ったらぎゅうぎゅうになる場所でどうやんのって話だけど、まあ窮屈には窮屈なりの楽しみ方があるってことでここはひとつ。
さて、俺たちはしばらく顔を見合わせたあと、まあお互いのケツにそれが刺さらなくて良かったじゃないかっていう結論に達した。その後ベッドに移動してどんくらい何をどうやったかっていうのは、俺だけの秘密にさせてくれ。
んで、後日修理してもらおうと、見積の業者さんを呼んだ俺たちは、提示された金額に頭を抱える羽目になった。流石王様。流石ヴィンテージ。俺たちは知らなかったが、このソファに使用されていた革は本革の相当質の良いものだったらしく、 これを貼り直すとなると普通に新品を買ったほうが良いというような、そんな値段になってしまうのである。古い物ほど、整備には金がかかるってことらしい。人間もそうかもね。
「あっちゃー、これはしょうがねえな……買いなおすか」
「……」
「やっぱ無いと不便だもんな。真ちゃんいつ空いてる? 別に丸一日じゃなくてもいいけど。買いに行こう。粗大ゴミって確かシールとか貼って業者さん呼ばなきゃ��けないんだっけ……」
「…………」
「真ちゃん?」
「捨てないのだよ」
「は?」
「捨てない」
パードゥン? って感じだった。っていうかパードゥン? って言っちゃった。そしたら、捨てないのだよ、ってもっかい強く言われて、マジか、ってなった。その時は、俺は真ちゃんの、いつもの、まあかわいい我が儘だと思ってたんだけど、思ってたから、割と軽い調子で説得を始めちゃったんだけど、どうやらそれがより気に食わなかったらしく、結局その日の夕飯は無言でお互いにカップラーメンをすすった。そりゃ、俺だって愛着がないとは言わないけど、流石にあの値段は学生には無理だ。そんなの真ちゃんだってわかってるはずである。なんでそんなにこだわんの? って聞いたら、視線をそらされながら「バネが飛び出たソファがラッキーアイテムになるかもしれないだろう」って言われた。もしもそんなことになったらいよいよおは朝は専属の占い師を変えるべきだと思う。
とりあえず翌日、前の持ち主である宮地さんに電話してみた。もらったんですけど壊れちゃいましたすんませんっつったら、お前らにやったモンだから別に構わねえよ、とだるそうに返された。そもそもあれ古かったしな。しかし何して壊れたんだ? そんな風に聞かれて、いや、ちょっとはしゃぎすぎて、としか返せなかった俺は多分悪くない。
まあそんな感じで、俺は捨てて新しいのを買いたいんだけども、真ちゃんは全然そんなつもりがないらしく、バネはいつまでも飛び出したままだった。最初は王様のように見えたそいつもずっと見てると腹立たしくなってくる。案外間抜けな感じじゃないか。何年の歴史があるんだか知らないが、お前の時代はもう終わったんだ。
っていうか普通に危ない。怪我をしたらいけないからと説得したら、真ちゃんはしばらく考えたあげく、部屋からぬいぐるみを一つ持ってきてぶっさそうとしたので慌てて止めた。なんで目の前でいきなりスプラッタを見なくちゃいけないんだ。お前の男らしさはそんなところで発揮されるべきじゃないだろう。っていうか、そもそもお前はそういう物を大事にする奴だと思ってたんだけど。一通り止めた後、不審そうな顔で、「お前は何を言ってる。これはパペット人形だ」って、最初から手を通すために空いてる穴を見せられて思わず脱力。そんな訳であのソフアには蛙がど真ん中に堂々と立っている。バネは見えなくなったが、今度はこいつがウザイ。心底腹が立つ。っていうかこの蛙の居場所のためだけに、俺たちの生活スペースが侵食されてるんですけど! 真ちゃん!
「これは」
俺とお前が、初めて、一緒に選んだものだろう。
そうですね。
 「は? それで結局お前らそれどうしたわけ?」
「いや、やっぱ普通に不便だし無理なんで、新しいの買いました」
「そりゃそうだよな」
「んで、あのソファは真ちゃんの部屋に運び込まれて、今大量のラッキーアイテムのぬいぐるみが置かれています」
「あっそ」
久しぶりに宮地さんと差しで飲んでいる時に、ふとその話題になった。いや、俺が、ソファに座ってこの前真ちゃんとテレビ見てたら、って言ったんだっけ。結構酔いが回ってるらしい。覚えてない。
「つか、お前らが一緒に選んだってなに。あれ、俺がゆずったやつだけど」
「いや、実は真ちゃん、あれ宮地さんの部屋にある時から気に入ってたみたいで、俺も結構欲しかったんで、宮地さん家に行った時にそれとなくねだろうって事前に打ち合わせしてて……あたっ」
笑顔の宮地さんに叩かれたが、まあこれは仕方がない。引越し祝いに下さいとねだったら案外あっさりくれたんだし、そんなに怒らないでくださいよ。愛する後輩の、かわいいおねだりじゃないですか。やっぱり世界は愛が回してるんですよ。あのソファは、俺と真ちゃんと、あと多分宮地さんとか、宮地さんの前に使ってた人とか、それより前に使った人とか、その前の人とか、その前の前の人とか、作った人とかの愛がこもってるんですよ。だからやっぱり、捨てれなかったんですよ。そういうことなんですよ。決して、真ちゃんの我が儘に付き合った訳じゃないんです。
「嘘つけ」
そうっすね。嘘ですでも嘘じゃないんですよ。だってこれも俺の愛の形で、あれも真ちゃんの愛の形。世界は愛でできてるんです。愛こそ全て! 飲みましょう!
Love is life, Love is all.
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abcboiler · 4 years
Text
【黒バス】no day but today/只今日已ガ或
2017/01/29 発行コピー本web再録
明日も明日も明日も来ずとも
今日と今日と今日が在ります
   明日も明日も明日も死すとも
今日と今日と今日を逝きます
         「先生、センセ、どこにいるんですか」
「もう見つけている癖にわざとらしい。さっさと来い」
 四月の頭は春の狂乱。薄青い空は、桜花の気配を反射して柔らかく香る。春の季節は花よりも短い命だ。先生はこの季節が一等お好きなので、常日頃閉じこもる部屋から、この時ばかりは、あちらこちらへと、凧より不確かに、童より落ち着き無く彷徨っている。
 春。あらゆる芽生え。美しき目覚め。
「たまには、先生の方からお越し頂いても良いと思うんですけどね」
 サテ、どのようにあんな所へ登られたのかしらん、と丁寧に手入れされた庭をぐうるり見渡せば、咲き終えた桃の木の陰に梯子が立てかけられている。どれだけお誘いしても動こうとしない偏屈な男は、こんな時ばかり行動をするのでこちらとしても苦笑いを浮かべるより他に無い。初めて雪に出会った犬が、気でも違ったかのように走り回るように、初めての衝撃は人を狂わせるものだ。先生は、何年を過ぎても、春に初めて出会う獣だ。所々の釘に緑青が浮き出た屋根の上、黙ったまま遠吠えをする。
「先生、今月の原稿」
「そこにある」
 高台にある先生の屋敷の屋根からは、東京の平屋が見渡せる。えいやらこいやと屋根を登った功労者を労わることもなく、先生は眼下の街を指差した。否、指したのは、己の書斎の、黒檀の書斎机なのだろう。目を閉じるまでも無く、あの沈黙に包まれた部屋で沈黙を守る原稿が見えた。
「なんというか、これは、アレだ」
「なんだ」
「優秀過ぎてつまらないなあ」
 緑間先生が、〆切を過ぎたことは一度も無い。俺が先生附きになってから、本日まで。三度目の春を迎えても尚。
 何を馬鹿なことを、という目で先生は俺を見た。この国には珍しい、否否、恐らく唯一であろう、明るい若葉の瞳が俺を写して瞬きをする。それ以上言葉を接ぐのは億劫になったのか、先生は花に霞む橙色の街を見ながら呟いた。
 春は五月蝿いな。春ばかりは、こうも五月蝿い。
   *
「なんと言いますか、編集になったら、というか、他の輩はね、先生の原稿を追っかけ東奔西走、京都の旅館で芸妓さんと戯れてる所をとっ捕まえ、陸奥の炉利端で魚焼いてる所をとっ捕まえ、浅草で芸妓と戯れ等してるのをとっ捕まえね、必死に連れ戻しちゃあ見張って、追い立て、原稿を取り立てているんですよ」
「芸妓ばかりか」
「そうですね、真ちゃん以外はね」
 半時ほど屋根の上で黙りこくっていた先生は、突如立ち上がると俺に一言も告げずに、その大きな身体に見合わぬ機敏な動作でひょういひょいと梯子を降りて屋敷の中へ戻っていってしまった。慌てて追いかければ、台所でじいっと鉄瓶を沸かしている。思考の一つもその原動力も解らないけれど、何故だか先生の原稿だけは西洋の錬金術かと紛うばかりの不可解さでもって、〆切までに現れている。そうしてまた、尚の事不可思議を極めることに、この原稿がまた読みやすく、人の情緒に潜り込むのである。
「その呼び方はやめろと何度も言っているだろう、高尾」
「はいはい」
 実際の生活に於いて、人の心など微塵も解するつもりの無い先生は、二人分沸いた湯でもって、己の分の茶だけを点てた。矢張りその侭、俺を無視して部屋へ戻るので、こちらも此の呼び方を変えるつもりはない。というのも、元はと云えば、冬だから酔わねば為らぬ、付き合えと突如言い出した先生が、存分にしこたま酒を喰らい、湯水のように酒を煽り、泥酔の挙句、飲んだ酒の分だけ語り、笑い、己でこの愛嬌ある呼び名を漏らしたのが悪いのである。
 高尾、お前は己がまだ罪悪に目覚めていなかった頃を覚えているか。幼い頃? それは幾つだ? 五つか六つ? 馬鹿を言うものじゃない。子供など罪悪の根源なのだよ。悪辣の化身よ。それより以前だ。尤も最たる無罪は生まれた瞬間だ。その時だけが赦されている。はは、ははは、俺もその頃は、先生等という、何者でも無い呼び名など無かったが、ふん、今や名前に意味など無いな。お前もそうだろう? お前の名前は『文芸青い森』氏だろう。人など、どうせ記号と象徴に消えて逝くだけだ。足掻いてもがいて縋らなくては、己の名前など、母しか知らん物になる。何だ其の顔は。俺にも母くらい居るに決まっているだろう。お前は珠に俺を神か悪魔かと勘違いしている。母だけが俺の名前を知っている。ははは、真ちゃんとしか呼ばれなかったがな。ははははは。笑い声は母の連なりだ。はははは。
 翌日、記憶を無くさなかった真ちゃんが、悪鬼も裸足で逃げ出す形相で、昨晩は忘れろと迫ってきたのも懐かしい。
「真ちゃんは面白いなあ」
「そうか。お前は大概失礼な奴なのだよ」
 曲がりなりにも、文士と編集という関係で、そこまで砕ける奴がいるか、と、そう言いながら真ちゃんは原稿を投げて寄越す。俺の無作法を許容しているのだから、なかなかどうして、そちらも同じ穴の狢と思う。原稿の枚数だけを確認して鞄にしまいこんだ。まだ日にちは有るので、ゆっくり線を引けば良い。つくづく、人間性は置いておいて、優秀すぎる男だった。
「そもそも、文を書くため文を書き、文に殉じて文士になったのに、何故書かない? その時点で理解に苦しむな」
「学生になったからって、勉学に励む奴ばかりとは限らないでしょ?」
「ああ。確かに居るな。ふむ、懐かしい。赤司なんかは、貴方達に教わることなど無いと、教授を片端から論破して、後は圖書館に引き篭るか、どこかへ流れてばかりいたし」
「そうじゃあない。そんな飛び出した奴のことじゃない」
 赤司といえば、恐ろしく有名な華族の一派だと思うが、まさかそこの嫡子のことではないだろう。先の戦争でいち早く物流に目を付けて、いざ火薬が飛び交う頃には全ての武器から薬剤、食料、布、それらの元締めを押さえていたという恐ろしい先見の一族。緑間という苗字も相当名の知れた家であることは間違いないのだが、赤司と繋がりがあるというのなら、それは兵器と身内ということだ。その経歴から只者ではないことは知っていたが、この男は想定を簡単に超える。
「そもそも、何故、作家になぞなろうと思ったかね」
「何度も話しただろう。生きる意味だ」
「何度も聞いたけど、全く解りませんね」
「わからなくていい。お前とは考え方が違う。お前もそう思っているのなら、お前は作家になっている」
 高尾、俺はな、人として生まれたからには、何かを残さねばならないと信じているのだよ、と真ちゃんは説く。何かを生まねば、生まれてきた甲斐が無い、と。
「俺は、今しか信じない」
 此処に存在するものが全てで、此処で己が感じたものが全てで、それ以外は存在していないのだと。故にその存在を残すのが、己が役目だと彼は信じている。
「未来などなくていい。永遠に訪れないものになど興味は無い。俺は今生きていればそれでいい。今、生きているのだから、人として生きた証を残せればそれでいい。それが、俺が死んだ未来も残るというのなら面白い。それだけだ」
「そんな生き方、苦しくねえの」
「明日は死ぬかもしれないが、昨日は既に夜かもしれないが、何、どうせ生きるのは今日だけなのだよ。何を気負うことがある」
 縁側で茶をすする姿は、一見して平穏の象徴のようだ。陽射しが反射して黄金に降り注ぐ庭は赤詰草が地面を覆い尽くし、小さな丸い花を細かくつけている。桃の木の下には薄紫の碇草、垣通。黄色い鬼田平子は縁側から飛び出すように伸びているし、廂の下には烏柄杓が弦を巻いている。
 春は目覚めで、春は狂乱だ。緑に埋もれて、緑の人は、静かに目を細めている。その中身が烈火よりも尚熱いことを、どれほどが知るだろう。迂闊に触れれば火傷どころか、その覚悟の前に骨から燃やし尽くされることを。
「…………それじゃあ今回も完璧な完成原稿をありがとうございました」
「はい、お粗末さまでした」
「今、何を考えてるの?」
「春は五月蝿いなということを」
 この五月蝿さは、どうすれば伝わるのだろうな、という真ちゃんの目には、静寂ばかりが見える。
   *
「仕事を寄越せ」
「先生が仕事人すぎて俺は本当に怖い」
 一週間ぶりに真ちゃんの書斎を訪れれば、原稿用紙およそ三百枚の束を押し付けられながら、淡々とそんなことを言われるので思わず頬が引き攣るのを感じる。物量はそのまま圧力である。質量保存は精神に及ぶ。たった二枚半の書評を書くのに三ヶ月先延ばしにし��いる作家もいる中で、この男は一週間でこれを書き上げ、次を求める。先生の全集の編集作業だけはやりたくない。
「っていうか、そもそも俺、こんな原稿依頼してたっけ」
「自主的に書いただけだ」
「嘘だろ」
「別に載せろというつもりはない。が、一応渡しておく」
「『春について』か。まんまだね」
「己でまとめられそうに無いから三百で書いた。捨ててもいいし、どこぞの穴埋めにしても良い。使う時の許可もいらん。ただ、使うなら半分は削れ。この話に三百は無駄だ。削る場所はお前が決めていい」
「珍しいね、真ちゃんが最後を人に任せるなんて」
「まだ俺には早かったんだろうな」
 欠伸をしている所を見ると、どうやら完成したばかりらしい。人間として規則正しい生活が最も原稿を進めるのに適していると信じているこの人は、朝は必ず六時に目覚め、夜は十一時に床につく。お役所の方だって、ここまで時計に忠実には動くまいという正確さだ。ただし、どうも先生の中では、最終の区切れ目があるらしく、その一線を超えると、後は書き終えるまで一睡もしない。それが例え残り三枚であろうが、五十枚であろうが、関係なく。それはただ彼の心の中にのみ存在する線であるので、俺から調節することは不可能だ。今回は、どうやらその線を随分と早く踏み越えたようだった。
 興味本位でぱらぱらと原稿をめくる��、几帳面な文字が整然と並び、所々自身で入れている赤ですら、列を成して整っている。いつも通りの、緑間先生の完成稿である。性分とはいっても、これはあまりに厳格が過ぎる。
「真ちゃんの原稿、誤字脱字なぞは勿論あるけどさ、全部自分で赤入れてあるから、それ以外の、つまり、真ちゃんも気づいていない誤字、一度として、見つけられたことが無いんだよなあ」
「当たり前だ。読み直した時に気がつくだろう」
「普通は見落とすんだよ。普通はね」
 この、自主的に書いたという、いうなれば仕事でも何でもない手遊びの原稿だって、どうせ一文字も狂いが無いに決まっているのだった。
 とはいえど、俺の担当している文芸でこれ以上真ちゃんの頁を増やした日には、雑誌の名前を『月間緑間』に変える必要が出てしまう。一度も原稿を落とさないから、重宝されているのだ。重宝しすぎた。一人だけ、連載のように一定の頁を持っているから、完全にうちの紙面は緑間で成り立っている。成り立ちすぎて、緑間専用誌にならぬように編集長まで確認しているくらいなのだ。どこか別の所で、今月穴を開けそうな所はあったかと皮算用している俺に、真ちゃんは淡々と繰り返した。それで、仕事はないか。
「真ちゃん、うちで長期の連載もあるし、随筆も持ってるし、他誌でも連載してるし、珠に寄稿なんかもして、若手の同人の書評もしてるでしょう」
「別にそれくらいだろう」
「それのどこがそれくらいなのか教えてくれ」
 間違いなく、今、真ちゃん以上に書いている輩などいない。あまりに節操なしに手当たり次第に書くものだから、批判的な所からは「飢えたハイエナ」「そこにあるものは全て食らおうとする卑しさが見える」とか好き勝手言われているほどである。実際は超上流階級特権階級育ちの、血統でいうならこの日本でも十には入る一族の嫡男なのだが。
「書かせろ。何でもいい」
 確かにこの欲求は、そう評されても仕方が無い程過激である。というより、そんな事を適当に並べ立てる彼らの中の誰も、緑間真太郎がここまでの基地外じみた文字狂いとは思っていないだろう。文字を食らって、文字を吐いて呼吸しているような人だ。その姿勢を知っているひと握りは、こと緑間真太郎に対しては口をつぐむ。触れたくないのだ。その真摯さは、その一途すぎる情熱は、少しでもその道に足を踏み入れたことがある者からすれば恐怖の対象である。
「真ちゃんは、もう少しばかり、遊びっていうものを覚えてもいいんじゃないの?」
「遊び?」
「うーん、座敷遊びとか」
「お前、経費で行きたいだけだろう」
「そんなことありませんよ」
 本当だ。真ちゃんと一緒にそこに行って、面白いとは思えない。いいや、綺麗な人の形をした花に囲まれて、ずっと物騒な顔をしているこの男を見るのは面白いかもしれないが、それは花遊びではないのだ。どうせなら俺は花を愛でたい。日向の庭に咲く小さな明かりではなく、夜の行灯の下で賑やかに艶やかに咲く方をね。まかり間違っても、この男ではない。
 この男を見るのは楽しいが、夜の花と一緒に愛でる、ものでは、無い。
「興味が無いな。そんなことに時間を割くなら、一文字でも多く書くし、一つでも多く学ぶだけだ」
「でも、世界が広がるかもよ?」
「何だと?」
 今まで全く反応を示さなかった真ちゃんは、ぴくり、と眉をあげた。この男は、兎角、視野だとか世界だとかの広さを気にする。見えなければ書けない、俺は見たことが無いものを書く事はできない、というのが口癖だ。そもそも、俺がこの偏屈に最初に認められたのも、俺の視野の広さによるものなのだから。徹底しているといえば徹底している。
「そういった、遊びだとかに興味が無いって云うのはさ、其れ等のものに命を賭けている人や、それに関わる物事を無視してるってことだろう? 人間の命題の一つとして、堕落だって書かないといけないんじゃあないの?」
「もう堕落を題材にした話は書いたのだよ」
「そうでした」
 半年前の原稿を思い出して肩を落とす。あらゆる堕落の果てに辿りついた人生のどん底で、男が周囲を恨み妬みながら、次第にその気力すら無くしていく話。最後は真冬の酒場の前で、真っ白な雪に埋もれて息絶える。読んでいるだけで、こんな人間の屑がいるものかと呆れ果てたし、其の男と己の共通点を、読み進めるほどに見つけ出してしまって苦しくなっていった記憶。
「何で真ちゃんは或れが書けたんだ……」
「周囲に堕落している人間が多かったからな」
 見たことがあるものは書けると言っているだろう、という真ちゃんは、何を思っているのだか、暫く難しい顔で考え込んでいた。
「しかし、お前の言うことも一理ある」
「お?」
「そういった遊びも、知識として必要なのかもしれん」
「いいねいいね」
「黄瀬にでも連絡をとって」
「却下」
 突然出てきた名前に慄きながら、俺は咄嗟に真ちゃんの肩を掴んだ。不満げな顔が俺を見下ろすが、今、俺はお前の心の大事な、こう、柔らかい部分を守ろうとしているのだ。少女が一人物騒な夜道を歩こうとするのを引き止めるのと同じ理である。そんな顔をされる筋合いは無い。
「黄瀬クンは止めよう」
「何故」
「何で先生は突然そう、段階をすっとばすかな!」
「こと遊興にかけて、あいつに適う者はいないだろう」
「いないよ。いませんけどね? いきなり上級者の最高級品にいってどうするのって話」
「どうせなら最高のものを体験したほうがいいに決まっているだろう?」
「先生は本当に頭が良いのか、俺は突然わからなくなる」
 黄瀬といえば今、帝国劇場で押しも押されぬ一の役者だが、その分、女遊びも派手なことで有名だ。というより、女の方から寄っては散り、寄っては散りしているのだろう。一度だけ、真ちゃんに連れて行かれて楽屋まで行ったが、あれは他人に興味など全くない類の人種だった。というより、懐いた人間以外、全て同じに見える、という、素直すぎる男である。この世は好きか無関心。
 あらゆる人間の細かな差異に、いちいち目くじらを立て腹を立て、文句を言うような真ちゃんとは真逆に位置しているのだろう。故に、思考は合わないが相性は良い。好かれた人間にのみ構って欲しがる男と、誰にでも平等に構うが、一見ではその意味に気がつけない男。
 だからこそ、黄瀬は、誰彼構わず、請われるがままに適当に相手をし、そして何彼問わず、適当に流してあらゆるものをやってのけるのだ。そんな男に任せたら、間違いなく戻って来られないような世界に案内される。それも善意で。黄瀬にできるあらゆる接待で歓待するのだろう。
「高尾?」
「赤司といい黄瀬といい、どうして他者巻き込み破滅型の人間が真ちゃんの周りには多いんだ……? 普通作家自身がそうであるものじゃないのか……? それともやっぱり真ちゃんが実は破滅型で、類は友を呼んで……?」
「高尾、聞いているのか」
「はい、すみませんなんでしょう」
「それならお前が連れて行ってくれるのか?」
「はい?」
「お前もなかなか遊び慣れていそうではある」
「何ソレ。真ちゃん、そんな風に俺のこと思ってたの?」
「違うのか?」
「若い頃は色々やりました」
「だろうと思っていたのだよ」
 黄瀬と比べるべくもないが、しかし周りと比べれば、どうだろう、なかなか俺も堕落した人生を過ごしていたことには違いなかった。金になるならと闇まがいのこともしたし、その辺の店で得体の知れぬ使いっぱしりをしたり、野菜をかっぱらったり、適当な女の家に厄介になったり、まあ、それなりに。嗜みとして。
「俺は若い頃に何もできなかったからな」
 そう、しみじみと漏らす真ちゃんは、まるでもう寿命を終えるような口ぶりで話す。まだ二十も半ば、男の盛だというのに。まだ世間では若いと言われるような歳で、真ちゃんが振り返る過去は学生の頃のことなのだろう。
「家のことだけだ。言われるがままに言われたことをこなしただけだった。俺自身のものなど何も無い」
「それも十分立派だと思うけどね」
「そうだな。悪くない。それは決して悪いことではない。俺は赤司の生き方を否定はしない。家を守り、家に殉じ、家を遺す生き方は誠実であるだろう。だが俺は我が儘なのだよ」
「存じ上げていますけどね」
「俺が遺したかったのは緑間の家ではなく、『緑間真太郎』という存在だったからな。フン、ついぞ理解されなかったが、仕方が無い。誰も間違っていないのならば、そこにはただ違いが残るだけだ」
「しかしまあ、よく出してもらえたよな」
「というより、作家になると言ったら絶縁されたからな、なんとも気楽な自由の身なのだよ。最高だ」
「最高とか言うなよ。周囲から見たら驚きの凋落だわ」
「そうか? 誰だって自由には憧れるものだろう? 俺ほど羨ましがられる人間は他にいるまい」
「その自信も凄いけどね」
 それで、お前はどこに連れて行ってくれるんだ、と言う真ちゃんの中で、もうどこかへ遊びに連れて行かれることは確定しているらしい。何で俺が、と思わなくもないが、何せ言いだしっぺが此方なので、何とも断りにくかった。かといって、彼と花街には行きたくない。絶対に。絶対にだ。ならば残る選択肢は少なかった。
「……すき焼きでも食べに行く?」
「すき焼き」
「食べたことある? 流行りだして店も増えているけど」
「無い。うまいのか」
「まあ、うまいね。牛肉をね、こう、甘っからく煮て、そこに生卵をかけてね、白米かなんかと一緒にかっこむの」
「行く」
「先生は、案外、食に対して貪欲だよなあ」
   *
 最近は晴れてばかりの陽気だから、地面は乾いて歩きやすい。乾きすぎて土煙が上がっているくらいだ。真ちゃんは歩く時、あまり音を立てないが、そのあまりに高い上背と、緑の出で立ちは人目を引く。俺も背は高い方だけれど、真ちゃんの隣では子供のようだ。
 人目を引くから外に出たくない訳ではなく、単純に不精なだけの真ちゃんは、先程からすれ違う女生徒達の一種の欲を秘めた瞳にも全く気がつかないらしい。やれやれ。どれだけ若くても女は女。そして朴念仁は朴念仁らしかった。
「真ちゃんは、だれかとお見合いとかしないの」
「何故見合いなんだ」
「真ちゃんが自主的に自ずから恋に落ちると思えない」
「失礼だな」
「恋に落ちるの?」
「女とそんな関係になったことはないな」
 あっさりとそんなことを言ってのける、この男の作品の中には、男女間の恋愛を描いたものもそれなりにあった筈だが、当の本人はこの言い草だ。恋は目に見えない。彼にとって、堕落を知るのが周囲の人間を介してであるように、恋愛も、周囲を介して学んでいるのだろう。
 あまりにも人間としては不適当だが、それが文壇にて脚光を浴びるのだから世も末である。
「しかしまあ、見合いも無いな。家からはもう一切の連絡が来ないし、たいした関係も無い輩から持ってこられても断るだけだ。かといって、世話になった人からそういった話が来るとも思わんしな」
「何で」
「お前は、見合いの相手として俺を紹介したいと思うか」
「思わない」
「そういうことだ」
それは自分で言って悲しくなりやしませんか、と思うのだが、真ちゃんからすれば、それはただの事実、の一言らしい。客観が過ぎるのも考え物だと思う。簡単に言えば、可愛げがない。指摘されて慌てふためく姿に人は愛嬌を覚えるのであって、開き直られたのでは腹が立つだけである。彼は圧倒的に後者だった。それも、特別に質が悪い。
「真ちゃんが誰かとお見合いなんてすることになったら、真っ先に教えてくれよ」
「何故」
「真ちゃんの悪口を百個くらい言って、期待の度合いを下げておいてあげるからさ」
「迷惑極まりないな」
花の香りと砂交じりの風に巻かれながら辿り着いたのは、最近このあたりにできたばかりのすき焼き屋。幟が風にはためいて、白く抜かれた文字が裏返っている。
 俺の隣にいた真ちゃんは、「ここだよ」と指し示す俺を追い抜かすように暖簾をくぐりながら、
「そもそも俺は、女に対してそういった欲求を抱いたことがない」
「え?」
 そんな意味深長なことを言って俺を困惑させるのだった。
 暖簾は紺で、緑はとっくに女中の案内を受けている。
   *
「うまい」
「良かった」
「これは良いな。良いものが来た。良いものが現れた。これは残るぞ。これは残る」
「意外だな。真ちゃんは、こういうハイカラな物は嫌いだと思ってたけどね」
「嫌いなことがあるものか。新しいというのは、それだけで意味があることだ」
 すき焼きが出てきた瞬間、眼鏡の奥の瞳がきらめいたと思えば、そこからは一言も喋らず淡々と箸を進めるだけだったので、これは気に入ったのだろうなあと眺めていたら、締めの雑炊まで食べ終わって、真ちゃんはやっと満足げな息を漏らした。そしてこの言いざまである。どうやら相当に、お気に召したことは間違いなかった。
「あんまり、新しいものが好きっていう印象は持っていなかったけど」
「新しい文化はいつだって迫害される。迫害され、追いやられ、蹴落とされても残ったものは本物だ。ただそれを待てばいい。自ら追いかけるほど暇ではない」
 本物は残る。本物はいずれ耳に届く。お前が俺をこの店に連れてきたようにな、と続ける姿は、堂々としていていっそ小憎らしい。俺が一度ここに来ていて、ここなら出汁も効いているし、真ちゃんも好きだろうなあと、思ったことまで見透かされているようで猶更である。
「それにしても、そんなに新しいものに興味はないだろ」
「ただ、俺は新しいものに自分の調子を崩されるのが嫌いなだけなのだよ」
「それって結局嫌いなんじゃん」
「そうかもな」
 新しくなくなればいいのだから、時は偉大なのだよ、と言う、真ちゃんは手元に運ばれてきた茶碗を確認している。藤色に瑪瑙のような緑色。今までこんな色の茶碗を見たことは無かったけれど、これも西洋の文化と共に流れてきたのだろう。まるで俺の考えていることがわかるかのように、真ちゃんは呟く。新しいな。これは新しいものだ。
「新しいものがどんどん流入してくる」
「そうね」
「悪いことではない。ことここにいたって、日本の遅れは目に余る。日清で勝ったからといって、この浮かれ様はなんだろうな。皆、心の奥にある不安を、黙って見過ごすこともできず、話を恐れて、綺麗に話題を避けた結果がこれだ。戦に勝った。日本は選ばれた。馬鹿馬鹿しい。一時の盛況は未来の浪費だ。自分の意見が無いというのは、迷惑をかけないという意味ではない。むしろ真逆だ。全ての罪悪は相手由来になる。新しいものを手にしなければ時代に取り残されるが、ただ流すのでは、いずれどこかでしっぺ返しを食う。それだけのことなのだよ」
「次の話の題はそれ?」
「『古き悪しきもの、新しき良きもの、愚か者』か? 語られ尽くしたという感は強いがな」
 すき焼きの話から、また真ちゃんの好きな原稿の話になってしまった。なってしまったというか、俺がそうさせてしまった。どうもつい、俺は彼の仕事癖に呆れている反面、先生にはこうであって欲しいという気持ちがある。どうしても。書いていて欲しい。何もかも。全て。
   *
「それで真ちゃん、すき焼きで何か学べた?」
「うまかったな」
「真ちゃん結局それしか感想言ってないけど」
「何だ? あそこのすき焼きの店でエッセイでも書けと? それならばそうと言え」
「違う。何で先生にそんな大衆雑誌の穴埋めみたいなもの書かせないといけないの」
「大衆誌は偉大だろう。結局、聖書を除けば一番読まれているのは新聞なのだから。大衆こそ国で、大衆こそ世界だ。大衆向けに作られているものは強い」
 何だかんだと食後のお茶までして、真ちゃんの家へと戻る道は、もう夕暮れの終わりだった。空は赤紫と濃紺の間で、複雑に折り重なっている。太陽はいくつもの細かい線になって、折り重なり絡み合い、木々の隙間を通り抜ける。家々は、夜より一足早く、軒先に行灯を下げていた。がらがらと、手水の水を捨てる音。豆腐屋の喇叭がどこかから木霊して、小石が小さく反射している。
 あたりが丸くぼんやりと光る中を、男二人でぽちりぽちりと歩いていく。
「そういえば、官能小説のようなものには、手を出していなかったな」
「何を突然」
「お前が言ったのだろう。花街に行くのも勉強だと。お前の所に、これ以上俺の話を載せるのは、紙幅の関係上無理であろうことは分かるし、他誌にも限界がある。しかし、俺はその分野には一切手を出していないからな。参入の余地はあるだろう?」
「何でそこに参入の余地を見出したんですかね」
 まるでさも名案を思いついたと言わんばかりの顔で、密やかに頷くものだから脱力してしまう。参入の余地があっても、入るべきでない場所は沢山ある。
 貴方は麻薬の密売の人手が足りないからといって薬を売りさばくだろうか? いや、別に官能小説が麻薬と言っている訳では無いけれど。けれど似たようなものだろう。
「今日は行かなかったが、次回、行ってもいいかもしれん」
「何でいきなりそんな乗り気なんですか」
「食欲性欲睡眠欲は、人類の三大欲求だろう。人類から性欲が無くなれば、それは滅びの時だ。逆に、性欲について傑作が書ければ、それは永遠になるのではないか?」
「先生は本当に馬鹿だなあ」
「何だと」
 鼻白んだ様子で真ちゃんが俺の顔を見やった時、��度真ちゃんは屋敷の門を開けようとしていた。夜は徐々に深まっているとはいえ、まだ宵の始まりだ。行こうと思えばこれからだって、街にもう一度繰り出せるだろう。繰り出せる。俺たちは遊興に行けるだろう。
「嫌です」
「何故。遊べと言ったのはお前だろう」
「否、そうだけど、然様ですけど、真ちゃんと行っても、楽しくなさそうだし」
「別に、お前は帰るか、別の店にでも行くかすればいいだろう。というより、同じ場所にいることは無いと思うが」
「いやいや、それでも」
 真ちゃんと一緒に行って、真ちゃんを、見るのは、面白いだろうと、思う。思うが、俺は、どうせなら花を愛でたい。日向の庭に咲く小さな明かりではなく、夜の行灯の下で賑やかに艶やかに咲く方を。まかり間違っても、此の男ではない。此の、人では、無い。
「俺、先生のこと好きなんですよ」
「そうか」
 此の人では、無いと思うのに、此の人が、女を抱いている所を想像したく無かった。それが嫉妬でなくば何だろう。
この様な形で自覚をするのは、自分としても御免被りたかったのだが、しかし己の思うままに己が動いてくれるのならば、人が過ちを犯すことなど無いのだった。
「だから、先生のこと連れて行きたくないです」
「そうか」
 俺は此の人に世界を見て欲しいと望むが、その世界に俺がいないことが耐え難い。其の我が儘な感情を、俺は知っている。恋だ。これは紛うこと無き愚かな恋だ。周囲を巻き込んで、破滅していく、はた迷惑な恋なのだ。
「……それで、何だ高尾その顔は」
「なんか、思いのほかあっさりと受け入れられてびっくりしてる顔ですね」
「何を言う。お前は俺をどんな朴念仁だと思っているのか知らんが、曲がりなりにも作家だぞ。人の気持ちが繊細なものであることはわかっている」
「真ちゃん……」
 淡々と告げる瞳に、侮蔑や嫌悪は見えない。本当に、真ちゃんは気にしていないのだろう。周囲が暗くなっていく中、まだ明かりを灯さない緑間宅の前は一層と暗い。ただ緑の光だけが、爛爛と輝いている。
「此れはあれだろう? 俺がお前からの告白を勘違いした所、『友達としてに決まっている』と言われ、恥ずかしい思いをするという」
「ちげえよ馬鹿! お前に期待したのが馬鹿だった! っていうか逆だろそれ!」
「はあ?」
 真ちゃんは突然罵倒されて意味がわからないのか、一人で首を傾げているが、俺からすればその思考がわからない。何故だ。今のは話の流れでわかるだろう。返す返すも、何故ここまで人の心が読めない男が、作家などをやっているのか理解に苦しむ。
 その作品に雷鳴を撃たれ、こうして編集にまでなって追いかけている俺だって、他所から見れば、理解に苦しむのだろうけれど。
「恋愛として! 好きだって言ってんの!」
「は?」
 これだけ直截的に伝えているにも関わらず、全く理解が追いついていない様子なので、却って此方の方が落ち着いてきてしまった。開け放たれた門を挟んで、一人と一人。
「もういっかい言います?」
「頼む」
「恋愛的に、恋愛として、性的欲求の対象として、真ちゃんが好きです。だから真ちゃんを花街に連れて行くのは嫌なのでお断りします」
 しばしの沈黙。これは間違えたかと思ったけれど、真ちゃんは体中の錆び付いた螺子をぎしぎしと動かして、掠れた声で呟いた。
「帰れ」
「え?」
「かえれ。かえれかえれかえれ」
 門が唸りをあげて、あらゆる軋みを訴えながら勢いよく閉じられる。がしゃん、という音が地球の裏まで響き渡って、俺は少しはみ出していた脚を強く打ち付ける羽目になった。脛である。人体の急所である。
「原稿は来週の水曜日には仕上げておく!」
 その叫びは、家の中へと走り込みながら発されたのであろう。俺が顔をあげた時に、後に残るは舞い上がった砂と哀れな男、則ち、俺のみであった。
「逃げ足、早すぎるだろ……」
 ああ言われてしまえば、俺は来週の水曜以降に訪れることしかできない。基本的に、困難には拳で立ち向かっていくような男だと思っていたのだけれど、流石に同性に告白されて、尚立ち向かうことは出来なかったか。
 しかしそれにしても、ハテ、「俺がお前の告白を勘違いする」というのは、どういう意味なのだろう。
 勘違いの仕様が、無いではないか。勘違いする筈が無いのである。何故って、「高尾和成が緑間真太郎のことを友情として好きである」或いは「恋愛として好きである」のどちらの解釈をしたとしても、それを「勘違い」と、真ちゃんが思う筈が無いのだ。「『高尾和成が緑間真太郎を恋愛として好きである』という『勘違い』をしてしまう」ためには、それには、つまり、真ちゃんが、俺のことを、好きでなくては、いけないじゃないか。そうでなくては成立しない。己の内に秘めた恋心に、迂闊に触れられそうになった時、「勘違いしてはいけない」と、人は己を守るのだろう。
 真ちゃんが、俺のことを好きで、好きだから、俺からの告白を「これは友情の告白なのだから勘違いしてはいけない」と解釈したの、だと、すれば。
「ええ……」
 顔が、首から段階を踏んで熱くなっていく。今すぐこの門を乗り越えて会いに行きたいのだけれど、恐らくそんなことをすればあの先生は本当に拳で殴ってくるに違いないので、此度は大人しく退散するより他に無い。
    *
「二科展に行く」
「珍しい」
「どうしても野暮用でな」
 覚悟をして出向いた水曜日、出不精である筈の男が珍しく外套などを着て、今にも発たんや、と謂わん���かりの出で立ちで門を開けてくるので、すわこれはまた逃げられるのか、と思いきや、どうやら本当に用事らしい。珍しい。
「紫原の作品が出ているらしい」
「紫原ってあの?」
「あのがどのかは知らないが、そうなんじゃないか」
 紫原といえば、これもまた古くからある名家の一つである。一つであるが、最近はそこの嫡男が、春季賞を二期連続で受賞したと新聞に載り、そちらの方が有名である。
「俺の家の茶器は全てあいつのものだぞ」
「やめてやめて知りたくありません。俺、普通に脚で押したりしていた」
「茶菓子が好きだったから、それが高じてそこまで行き着いたらしいが、詳細は知らん」
「知らないのかよ」
「黄瀬と青峰が話をしていたのを聞いただけだからな」
「今、日本国軍陸軍長官の家名が聞こえた気がするのは無視させて頂きますよ俺は」
 玄関先の立ち話で、出すような名前では無い。つくづく、目の前の男は、圧倒的な権力の知己が多過ぎる。数える程しか友人などいない癖に。
「真ちゃんの交友関係が恐ろしいのだよな、俺は」
「そうか?」
「あらゆる世界のトップと繋がっているだろう」
「腐れ縁だ」
「腐れ縁って」
「初等部の時に同じ組だった」
「恐ろしい場所だなそれは」
 別に、五歳だか六歳だかの子供に、何が出来たということも無いのだよ。肩をすくめながら、真ちゃんは奥の書斎へと消えていく。原稿は案の定仕上がっているらしい。このままここで待ちぼうけても良いのだが、何とはなしに落ち着かず、後を追いかけて書斎へ入った。途端、投げて寄越された原稿用紙の束。
「『改題、春の目覚め』?」
「以前お前に『春について』を渡しただろう。まだどこにも出していないな? あれは捨てておけ。こちらに差し替えろ。書き直した」
「あゝ、自分で削ったのか」
「そうだな、それに、少々足した」
 以前の原稿は既に下読みを終えてあるが、半分削るというのはそう簡単に出来る作業でもなく、未だどこにも出されず俺の机に眠っている。最初の数ページを読めば、出だしから既に変わっていたので、これは削ったというよりほぼ書き直しに近いのであろう。
「今回の原稿」
「何だ」
「珍しく、こう、表現が柔らかいというか、迷っているというか、これはこれで人間味があって俺は好きなんだけど、真ちゃんらしくないというか」
「五月蝿い」
「これってもしかして俺のせい?」
「五月蝿いと言っている」
 俺を無理矢理押しのけて、真ちゃんは出かけようとする。構いはしない。どうせこの家に戻ってくるのだろうし、緑間真太郎は書かずにはいられない。それを載せるのは俺の仕事だ。けれどしかしまあ、成程。知っていなければ書けないと、真ちゃんは何度も繰り返し言っていたが、他人から聞いていたものが、いざ自分のものとなると、文章はここまで変わるものだろうか。
「認めちゃいなよ。俺のこと好きでしょ、先生」
「うるさいうるさい黙れ死ね」
 春はうるさい、と真ちゃんは叫ぶ。もう既に桜は殆ど散り終えて、木には濃い紅の萼を残すばかりだ。それでも空気は柔らかく、庭の雑草は軒並み空に向かって体を伸ばしている。春。春。この世の春。
「世界も広がるんじゃないの。今までに無い恋愛体験、禁断の恋、参入の余地が」
「…………それでどういう話を書けというんだ」
「ううん、そうだなあ。お話にするなら悲恋? 考えようによってはね、相当の悲劇を演じられるとは思うけど」
「周囲に理解されず心中?」
「そうそう、そんなの」
「つまらないな。つまらない話だ。そんなもの」
「ありゃ」
 ばっさりと、切って捨てられ俺は思わず笑ってしまう。まあ、己の告白を悲恋に昇華しろというのもノンセンスな話ではあった。門を開けば、悲劇など起こりそうに無い、春の一途。
「俺はな、人間が強いという話を書きたいのだよ。どれだけ脆かろうが弱かろうが、最後には立ち上がり、己が道を掴むという話だ。俺はそれが好きだ」
「俺には好きって言ってくれない癖に」
「馬鹿だな。たった今、お前が好きだと言ったのに」
 読解力を養った方が良いんじゃないか、とおもしろそうに笑って、真ちゃんは俺を置き去りに、馬車を呼び止めて乗り込んでいってしまった。滝のような言葉に、俺はただ呆然と立ち尽くしている。春が五月蝿いと文句を言っていた男は、それこそ、その象徴のような嵐であった。
 門の内側に取り残された俺は、彼が帰ってくるまで、良い子に留守番などしていないといけないのだろう。手の中に残された原稿を、めくる。改題、春の目覚め。もともとは三百枚あった原稿は、随分と薄くなっており、俺はあっという間に半分以上読み進めてしまう。
 「……あ、誤字」
  皆が浮かれて騒ぎ立てる、春は今、目覚めたばかり。
   ―――春の陽気を長閑等と形容する者も居るが、私にはどうもそれが理解し難く感ぜられる。先ず、目を開けた瞬間の眩しさがいけない。冬などは慎ましく、夜明けは暗闇からじわじわと染み入って来るものを、春に成った途端、光は遠慮無しに襖の紙を透かして部屋の中を踊ってゐる。それではと硝子戸を開けてみれば、庭には繁縷や鬼田平子が我先にと手を延ばし、虫の羽音や近所の子供の数え歌、此方は一人だというのに、彼方からも其方からも、やれ花の香りだ絹の空気だと、全身に春を訴えて来る。之を如何に長閑と形容しよう。私は春に対し五月蝿いとしか思わない。穏やかと云う優しさは、冬にこそ已、赦される可きで或る。冷たく密やかに息づいていた心は、有無を言わさず起出され、其処ら中を跳ね回って、己が物とは思えぬ程掴み難く辟易する。口は勝手に賛美歌を歌い、足は気が付けば屋根へと登る。其れ等全て、春の成す業で或る。春の所業で或る。此れを五月蝿いと形容せず如何に成ろう。私はこの五月蝿さを、愛してゐるに違い無いのだから。
緑間真太郎著『春の目覚め』より抜粋
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abcboiler · 4 years
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【黒バス】高緑がサンライズビルに来た話(高緑が隣に引っ越してきた番外編)
2014/11/09 発行コピー本web再録
誰も私の名前なんか知らなくていいのだが、私の近所、というか、私のアパートの隣に住む人の名前は是非覚えてもらいたい。そうじゃないと話がなにも進まないからだ。繰り返して言おう、私の名前なんかどうだっていいが、私の、隣に住む、二人のイケメンの名前だけは、今すぐに覚えて欲しい。
そのイケメンの一人の名前は高尾和成といい、もう一人の名前は緑間真太郎という。
覚えてもらえただろうか? 高尾和成、と、緑間真太郎である。人間記憶できるのは見たものの六十二%だという話もあるくらいだから、あと三度ほど繰り返して言おう。
高尾和成と、緑間真太郎、高尾和成と、緑間真太郎、高尾和成と、緑間真太郎���ある。よろしいだろうか。
さて、じゃあ、少々お時間を頂戴して、私はこの二人のイケメンについての話をさせてもらおう。私が何故かうっかり休日にこの二人に出会い、何故かストーカーまがいの行為をする羽目になり、貴重な貴重な一週間の日曜日を潰した話をしよう。
ちなみ、言い忘れたけれど、こいつらはホモだ。
   *
人間誰しも美味い魚が食べたくなる瞬間というのが日常の中のふとした瞬間に訪れるものである。ああ、そうだ、美味い刺身が食べたい。ウニのどんぶりが食べたい。生牡蠣をすすってもいいし、タコの刺身を口の中で鳴らしてもいい。とにもかくにも頭の中が水族館のようになってしまって、スーパーに寄っても湿気た本当にマグロなんだか判らない赤身の魚が鎮座しているのを冷たい目で見るしかなくなる、そういう瞬間が来るものである。
私の場合それが今週の木曜日で、その日の帰りにはコンビニでおにぎりを買いながら、絶対に日曜日には美味い魚食ってやると決意したのだ。
だから一人で築地まで来たんです。
友達はどいつもこいつもデートと合コンと飲み会で予定が埋まっていた日曜日、お前たちは生魚を貪りたくないのか? と思いつつ、若干の敗北感は海鮮丼で蹴飛ばしてやろうと私は意気揚々、築地の狭い道を歩く。目指すは事前にリサーチした海鮮丼の店である。
ただでさえ狭い築地の路地の更に裏、店の中に通路があって、そこをぐいぐい折れて中に入っていくと、そこはウニが山ほど乗った海鮮丼の店である。お値段二千五百円。高い。高いがウニのためだ。ウニにはそれだけの価値があるのだ。そしてそれを食す私は二千五百円以上の価値がある人間なのだ。そういうことにしておいてください。時給二千五百円ももらってないけどな。その半分あるかなしやくらいだけどな。社会人なんて。
お一人様はお一人様らしくカウンター席に座る。注文を済ませ、さあいざゆかんと身構えた、その瞬間である。
「ひゃー、こんなわかりにくい場所にあんのに混んでんだな」
「それだけ人気なのだろう」
「そりゃわかるけどね。あ、すんませーん二人でっす」
聞き覚えがある声がするなあと思った。より正確に言えば、聞き覚えがあるホモの声がするなあと思った。
振り返ることは決してしない。それをした瞬間に負けると思った。そして別に振り返らなくても、私の視界の右端には、ちらちらと緑色の影が見えた。
私の人生の中で、私の知る限り、緑色の髪をした男なんてのは、渋谷と原宿にはいても築地にはいない。もしもいるとしたら、それはきっと、信じがたいかもしれないが、きっと、その男の自毛なのだろう。そして私の人生の中で、驚くべきことに、自毛が緑色の人間というものがたった一人存在しているのである。
「真ちゃん椅子狭くねえ?」
「いつものことだ」
「そりゃそーだわ。ぶっは、家のソファはキングサイズで買ってあるからあんま意識したことなかったけど、やっぱ改めてこうしてみると、ぶっふ、でっか、真ちゃん」
「恐ろしく今更なのだよ。というかこの店が全体的にこじんまりしているだけだ」
「真ちゃんどんだけ足がはみ出してんのさ。ってか、足、机にぶつかってねえ?」
「そうだな。お前と違って足の比率が大きいからそうもなる」
「俺は平均ですー」
「そうかそうか。ところで高尾、俺とお前の身長差は何センチだったかな。こうして座っているとあまり差が無いように思える。もしかして身長がのびたのか?」
「ぶっとばすぞこの野郎」
「椅子に座るとお前と目線が合いやすくて俺としては嬉しい限りなのだよ」
「デレと見せかけてけなすの禁止!」
「ふん」
「楽しそうに笑うのも禁止!」
「笑うのも駄目なのか」
「なんか妬ける」
ハイ分かってました確定しましたありがとうございましたこいつらは間違いなく私の家の隣に住むホモ、略してトナホモのお二人でいらっしゃいますー。頭文字ならWTSH、ワタシの家のトナリにスムホモ。マジかよ。どんな確率だよ。すげえ確率だよ。なんと私は家の外に出てもこのホモに出会ってしまう運命らしい。じゃあもう家の隣のホモじゃないじゃん。私の隣のホモじゃん。何ソレ。隣のホモモ……やめようどこから訴えられるか判らない。
「ま、俺としても目線が同じだと真ちゃんの表情が見やすくていいんだけどね」
「そうだな。俺も普段お前のつむじしか見ていないから、そろそろお前の顔がつむじになりそうだったのだよ」
「なんだかんだ言って俺の顔好きなくせに」
「…………」
「お、図星?」
いやーすげえウニはまだかなー。なんで私は休日の昼間っからホモのいちゃこらついた会話なんか聞いてるんだろうなー。ていうか周りの人たちは何も思わないのか? 思わないんだろうな。だってみんな目の前の海鮮丼か自分のおしゃべりに夢中なのだ。私のようにまだ海鮮丼も来てなくて、一緒にしゃべる相手もいない人間だけがホモの会話を敏感に拾い上げている。
っていうかね、あんたらもね、ホモなんだからね、こう、ちょっとくらいは節度っていうかね、なんかこう、隠れてる感出しなさいよ。外で会話をする時は友人同士のように、触れ合わず、馴れ合わず……みたいななんか、そういう葛藤みたいなの無いんですか。無いんですね。
いやあったらあったでそれはそれで可哀想というか、男女のカップルは外で堂々といちゃつけるのにホモは駄目ってそれって差別なんじゃないのとか難しいこと色々考えなきゃいけなくなって面倒なんだけど。面倒なんですけど。
だからこんな怒る筋合いも無いんですけどね。なんででしょうね。多分男と男がくっつくことによって、私のようにあぶれる女が出現することへの怒りってやつでしょうかね。本当に。
この高尾くんも緑間くんもイケメンで性格も(恐らくとても)良いだろう二人がくっつかれたら女の行き場ってどこよ。どこにもないわよ。こんな築地のカウンターに一人追いやられるだけよ。ええい、いっそ殺せ。
「真ちゃんどれにすんの?」
「これだな」
「えっウニ乗ってないじゃん」
「そうだな」
「ここウニでめっちゃ有名なのにいいの?」
「構わん」
緑間くんの発言は本当に必要最低限なのに、高尾くんがとてもわかりやすく解説してくれるおかげで会話をきくことしかできない私にも状況がわかる。高尾くんは将来レポーターにでもなればいいんじゃないだろうか? 取り敢えず緑間くんがウニに興味が無いというアンビリーバボーな人種であることは理解したけれど本当にじゃあなんでこの店に来たんだ。言っとくけどウニ以外の取り揃えはあんまり無いぞここ。
「うーん。真ちゃんがそれでいいならいいけど。俺はこれな! ウニ特盛ウニ丼な!」
「テレビで見た時からずっと騒いでいたのだからそれ以外を頼んだら逆に驚きなのだよ」
「へへへ。いやー、ほら、なんかさ、もう頭の中が海鮮一色になっちゃう時ってあるじゃん。あ、もう駄目だ今週中に魚食わないと死ぬわ俺、みたいな」
「その程度で死ぬな」
「気持ちの問題だよ。真ちゃんだっておしるこ飲めなくなったら」
「お前を殺す」
「嘘だろとんでもない八つ当たりじゃねえか」
ほんとにな。でも多分わかったけど、いや全然わからないけど何となくわかったけど、これ緑間くんの方はもしかして全然海鮮気分じゃないんじゃないか?
もしかしたらウニが嫌いな可能性すら存在する。でもどうしても海鮮が食べたい彼氏のために何も言わずに付いてきたっていう……今彼氏っていう言葉を使ったことに自分で酷いダメージをくらっている……でも間違いなく夜の営みでは緑間くんが高尾くんを、えー、その、なんだ、受け入れている、側(婉曲表現)の筈なので多分これで合っている。
昨晩もお楽しみのようでしたからね。めっちゃ声私の家まで響いてましたからね。
『ね、真ちゃん、きこえてる?』
『ん、あ、っは、たか、お?』
『あー、ほとんどトんじゃってるか……。ねえ、ゲームしようよ。先にイった方が負け』
『や、め、そこ、奥、も、むり、っだ、ぁ』
『負けたら勝った人の言うこと何でも一つ聞いてね』
『っぁ、ぁあ!』
つまらぬ物を思い出してしまって真昼間からそっと真顔を晒してしまった。あ? もしかして今日ウニ食べに来てるのってこの罰ゲームの一環なのか? なんかそんな気がしてきた。凄いな。どんどんホモのデート事情に詳しくなっていくな。私。
ようやく私の前に運ばれてきた海鮮丼は彩りも美しく、橙色の照明をゆっくりとはじくイクラが美しい。米もひと粒ひと粒立っていて、丁寧に切られたマグロの刺身とタコと調和している。そして何よりも、ウニ。丼の半分近くを覆うようなこの重厚感。あー、ありがてえ。これでようやくホモの会話をシャットダウンできる。ありがとうウニ。ありがとう母なる海。ありがとう地球。うめぇ。
   *
さてさて、わざわざ休日に築地にまで出てきたのだから折角だから女子力の高いことをしておきたい。というか、会社に行って休日何してたの? とか聞かれた時に「アッ一人で築地に行って海鮮丼食べて帰ってきました~」とか絶対に言えない。そんな時の強い味方。買い物だ。ショッピングだ。「ちょっと秋物のお洋服が見たくて~買い物しに遠出したんですよぉ~お洋服選ぶのって凄く悩んじゃうから、ひとりじゃないと行けなくって~」。これだ。とっても正解だ。「お昼にお腹空いちゃったんで築地まで足を伸ばしておいしい海鮮丼も食べてきちゃいました! え? あ、私あんまり一人とか気にならないタイプなんです~」とか言えばちょっと個性的な私アピールもできるけどそれはやめとこう。そんな訳で私は築地から首都高速を超えて銀座まで歩く。いやー本当に、あの雑多な築地とレディの街銀座がこんな徒歩十分みたいな距離にあるのは未だに納得がいかない。
あと何が納得いかないってここでまたあのホモに遭遇するのが納得いかない。
何故だ。何故銀座三越のデパ地下にお前たちがいるんだ。私もなんで洋服じゃなくてデパ地下で惣菜見てるんだ。マジで失敗した。
「しんちゃーん、まだ決まらねえの?」
「まだだ」
「そんなに悩むなら好きなの全部買っちまえば? どうせ金あるんだろ?」
「馬鹿か。全て買うのはもう決まっているのだよ。何箱ずつ買うかだ」
「そこは一つにしとけ」
そうだよね。買い物するのに凄い迷っちゃって凄い時間かかっちゃっても、それに付き合ってくれる彼氏がいるなら一緒に行くよね。わか��てたよ。大丈夫。私知ってた。
「俺的にはこれが気になるかな」
「じゃあそれも買うのだよ」
「もしかして、買おうと思って無かった系? そしたら別にいいんだけど」
「いや、元々買うつもりだったが三箱にする」
「いやいやいやいや、それはおかしい俺の取り分がどれくらいなのかも判らないけど間違いなく俺はひと箱分も一人で食べない」
「俺がふた箱食べたいのだよ」
「じゃあやっぱ俺がひと箱じゃん」
「お前はひと切れで良いだろう。残りは俺が食べる」
「じゃあ真ちゃんそれほぼ三箱一人でくってんじゃん!」
緑間くんがじいっと見てるのは老舗和菓子屋のディスプレイである。最近は和菓子もどんどんお洒落な包装がされてパッと見和菓子だとわからないような物も増えているが、はてさてこの緑間くんが見つめているのは昔ながらの和紙に包まれたしとやかな羊羹。私知ってるけどこういうのってだいたい高い。っていうか羊羹ってドカ買いするものじゃなくない? そんな全種箱買いとかするのじゃなくない?
「真ちゃんさー、マジでそんなに食ったら絶対に太るよ」
「いつも俺にもっと太れもっと太れと言うのはお前だろう」
「だってお前、こう、ぐるっと腕まわした時にさ……あれ? 薄くね? って不安になんだもんよ」
「それでもお前よりは太い筈だが」
「真ちゃん、身長差、身長差、びーえむあいってやつ」
「だから糖分を摂って太ったとしても何ら問題は」
「健康に問題しかねえわ。やだよ俺糖尿病の世話とか」
あ、でも世話するんだー、とか、そっかそっか腕回して抱き合うことに何の恥ずかしさも覚えないんだー、とか、色々思うところはありました。ありましたので私はそっと煎餅をひと箱買いました。荷物になりますが仕方ありません。このやるせない気持ちをバリボリと家で噛み砕いてやろうと思ったのです。本当に。
「すみません、これとこれとこれとこれとこれ、全部二つずつください、これだけ三つ」
「俺のアドバイス一切受け入れなかったね真ちゃん!」
「あ、宅配で」
宅配とかお前天才かよ。とちょっと思いましたがそれよりもぶっ飛ばしたいの方が上回りました。セレブかよ。あとやっぱり高尾くんが気になってる奴は三箱買うんですね。はいはいはい。そうですか。そのことに高尾くんはつっこまないんですか。そうですかそうですか。怒り。
「えー、俺もそしたらキムチ買うわ。全種類」
「やめろ。キムチはくさい」
「すっげー横暴じゃね」
「明太子なら許してやる」
「高えよ! 馬鹿!」
ほんとにな(二回目)。
今度こそ洋服を見に行こう。洋服ならフロアが別れてる。メンズとレディースで別れてる。大丈夫。わたし、ホモ、会わない、絶対。
そうして買い物を終えた私がちょっと休憩がてらに入った和菓子屋でまたこのホモ二人に出会うことになったのであった。もしかして皆さんわかってた? ちなみに私はわかりたくなかった。
「真ちゃんおいしい?」
「ああ」
「そっか、良かった」
「お前はいいのか、抹茶だけで」
「うん」
あーあーあー、あー、はい、はいはい。お昼は高尾くんに合わせたからお茶は緑間くんに合わせたのね。成程ね。私そろそろホモ検定準一級とか取れるんじゃないだろうか。
   *
徒歩エリアを移動するからよくないのでは、と気がついた私はこの惨状から離脱をはかる。何が悲しくてひとりっきりの休日に充実ホモデートを見せつけられなくてはいけないのか? 果てしなく疑問である。
さて、とすると電車で移動するしかないわけだが、銀座からの選択肢といえば限られている。東京か有楽町か日本橋。恐らくそのあたりだ。
そのあたりって、次にホモが移動しそうな場所である。
東京に出て皇居とかでのんびりしたり丸ビルで買い物したり……或いは有楽町に出て映画もありだ……有楽町の映画館は結構マニアックなのとか重たい映画をやっていたりするから緑間くんなんか結構好きなんじゃないだろうか……日本橋は最近コレドが出来てから注目が増えている……が、しかし銀座からは一番遠い……正解は日本橋か? 私は日本橋に出ればいいのか? 間違いはないか? よし、日本橋、行こう。
そしてホモに出会う。
   *
全くもってやれやれなのだが、私の目の前にはどう見ても二人の男、すなわちホモとホモ、別名緑間くんと高尾くんが、かわいいインテリアショップの中で真剣に商品を吟味している。
まあ待てよと言いたい。
なんでこのビルにいるのかと問いたい。真剣に問いかけたい。どう見たって中に入っている店舗はほぼ全て女性物のファッションブランドとコスメなのに。何故お前らはその中で堂々とインテリアを見ているんだ。超浮いてる。超みんなちらちら見てる。でも多分イケメンだからみんな見てる。イケメンだからかわいいリスのぬいぐるみを真剣な顔して選んでても許されてる。
「どちらがより真剣な顔をしていると思う、高尾」
「俺のホークアイには両方とも同じにしか見えない」
「お前のホークアイは空間認識能力であって識別能力ではないだろう。今は関係無い」
「そーですね」
「お前の率直な意見が聞きたいのだよ」
「じゃあ率直に言うけど正直どっちも真剣な顔には見えない」
「なんだと?」
「世の中の人間が全てドングリにみえますっていう感じの顔してる」
「このリスの目には人間すらも捕食対象に見えるというのか……」
んなわけないだろう。どう考えても緑間さんはからかわれているし高尾くんは暇つぶしにからかっている。っていうか何で緑間くんは真剣な顔のリスなんて選んでいるんだ? 彼女へのプレゼントだろうか、なんて普通なら思うのかもしれないが、どっこいこいつらはホモである。私今日一日で何回ホモっていう言葉を発したんだろう……心が苦しい……。今、世界で瞬間最高ホモ速をたたき出しているのが恐らく私であろうというのが凄く悲しい……。
「フランス製の真剣な顔をしたリスのぬいぐるみでなくては意味がないのだよ」
「相変わらずおは朝の指定はなんでそんな細かいわけ? リスのぬいぐるみでよくねえ?」
「細かいほうが難易度が上がってご利益も高まりそうだろう」
「何その『強い敵を倒せばいっぱいレベルアップ』みたいな一昔前のゲーム理論」
「しかしそうか。こいつらは真剣な顔はしていないのか」
「いや、まあ考えようによっちゃあ、食事って生きるために必須の行為だし、特に野生動物にとっちゃあ生死の分け目じゃん? そういう意味では、常に人間がドングリに見えるこいつらは常に生きることを考えてるとも言えるし、ってことはこのリス達はそれだけ真剣な顔をしてるとも言えるんじゃないかな?」
「成程」
今のどこに成程の要素があったのだろう。私には何にもわからなかったし果たして喋っていた高尾さんですらわかっていたかどうか怪しいレベルだったのだが、緑間さんはこれで納得したらしい。嘘だろ。何が嘘だろって、結局この二人が無事にリスのぬいぐるみを買い終わるまで物陰でそっと見守ってしまった自分に嘘だろって感じだ。なんなの。これはもしかして親心ってやつなの。駄目じゃん。偶然でここまで出会ってきているのに、それをこっそり見守ってちゃそれはただのストーカーじゃん。やめやめやめ。そういうのやめよう。
リスを買った緑間さんはとてもご満悦な表情をしていて、それを見守る高尾さんもとても幸せそうな顔をしていたことを思い出して私は怒りという感情を呼び起こす。ええい二度と関わるものか。関わるものか!
「やー、しかしまあ買えてよかったわ」
「ああ」
「思いのほかあっさり見つかったから、時間ちょっと余ってんだよなあ。真ちゃん他にどっか行きたいとこある?」
「日本橋か」
「多少移動してもいいけど」
なんと。このホモ二人はこのまま移動するらしい。ならばもう少し盗み聞き、もとい、えー、風の便り(苦しい曖昧表現)に耳を澄ませて違う所へ行けば私の安寧は約束されたものだ。さあ、どこへ移動する。今度こそ東京か? 有楽町か? それとも神田神保町?
「ならば七福神巡りがしたいのだよ」
なんでお前そんなちょっと面白そうなの言い出すかな。
   *
緑間さん曰く、少し歩いた所に七福神のそれぞれを祀った神社が密集している場所があるらしい。なんでそんなの知ってんのって感じだが、どうも先ほどの占い云々からして彼はそういった運命とか神様とかそういうの結構信じているタイプのようだ。イケメンじゃなかったら許されない趣味である。だがイケメンだから許そう。私は寛大だ。
寛大だ、じゃねえよ許されないのは私だよこれじゃ本当にストーカーじゃねえか。おい。
しかし時間が余っていたのに加え、なんとなく七福神巡りなんて面白そうな言葉を聞いてしまったからには私もやってみたい。というかもう神頼みするレベルで彼氏が欲しいし寿退社してもうなんの不自由もなく家の中で主婦やってたい。神様に頼んで叶うなら七人の神様くらいいくらでも巡ってやろうじゃないか。
せめて同じ道は歩くまいと高尾さんと緑間さんとは別ののルートを探し、携帯で調べながら歩いていく。こんな場所に来るのなんておじいさんおばあさんだけだろうとタカをくくっていたのだが、なんだか若い女性の姿が多くて私は少しびっくりしてしまう。いや、え、マジで多い。キャリーケースを引いている人もいれば普通に鞄だけの人もいるし、一人の人もいれば団体の人もいるがしかし驚く程みんな女性だ。何かこの近くで女性向けのセミナーとかあったんだろうか。旅行者か? ってくらいの荷物の人もいるんだけど、まさか旅行でこんな場所来ないよなあ。年齢も服装もバラバラで、セミナーって自分で言った言葉も全然信じられない。ただどの人も楽しそうなので、まあ、よくわかんないけどきっと私の知らないどこかで楽しい女性の会があったんだろう。タカミ、とかなんとかいう言葉が頻繁に聞こえたので、もしかしたらそういうアイドルのライブとかあったのかもしれない。
私がホモと一緒に飯食って買い物を眺めわびしい思いをしている間にこの地球上ではこんなにも楽しそうにしている人がいることに嫉妬と祝福を覚えつつ私は神社に向かう。小綱神社、茶の木神社、水天宮、松島神社、までは順調にきた。
そして末廣神社でホモに出会う。いや、流石に七個も同じ行き先巡ってたらそりゃどっかでは会うわ。これに関しちゃ私が悪いわ。
   *
「七福神って結構あっさりいるもんなんだな」
「神様をあっさりいるなどというな」
「いやー、だってこんな都会のど真ん中でひっそり密集してるとか思わないじゃん。普通に」
「普通の使い方がわからん」
「あと、正直どの神社も一緒に見える」
「バチが当たれ」
「命令形かよ」
お賽銭を投げ終わったのか喋りながら境内の砂利道を歩く二人を見つけた時、咄嗟に木の陰に隠れた私はもはや完璧なストーカーとしての体を整えている。何も疚しいことなど無いはずなのに何故私はここまでしているのか。わからない。わからないが仕方がないのだ。ああ、流石にもうそろそろ日が暮れるから、木の陰も大きくなって隠れやすいことこの上ない。十一月の太陽は、落ちる時は一瞬だ。
「おい、高尾、おみくじを引くぞ」
「またかよ! 全部の神社で引いてくつもり?」
「当たり前だ」
「いや別にそりゃ引くのは勝手なんだけどさ、全部の神社で大吉出されると、お前の運の良さ知ってる俺でも多少ひくよね」
「ひくとはなんだ。おみくじをか」
「わかってる癖にすっとぼけないで真ちゃん」
大吉しかひかない人間なんてこの世の中にいるのか。それはもう何が楽しくておみくじをひいているのだろう。絶対に楽しくないと思うのだが、どうなんだ。高尾さんもそれは疑問に思ったのか、そんなにひいて楽しいの? と至極真っ当な質問を私の代わりにしてくれる。
「楽しい楽しくないでやっていないのだよ」
「真ちゃんがそう言う時は大体楽しくて仕方無いっていうの俺もう知ってるからね」
「努力の結果が形になっているだけだ。試験と一緒だと思え。毎回ゼロ点のテストと、百点のテスト、どちらが嬉しい。百点だろう。そして百点を取ったから試験に飽きる、ということもないだろう。同じなのだよ」
「絶対におかしいけどうまく言い返せない自分が悔しい」
諦めるな高尾さん! 冷静に考えればツッコミどころは沢山あるぞ!
まずそもそもテストで百点を取った経験なんてあまりないのだが、どうやら緑間さんの口ぶりからすると、努力すればテストで百点は当たり前だし、おみくじで大吉も当たり前らしい。運って努力でどうにかなるものなの? 私には全くわからないが、緑間さんの荷物から顔だけ飛び出しているリスと目が合ったような気がして額を押さえた。努力の結果があのぬいぐるみ。きっと。
「わかったらさっさとひいて次に行くぞ」
「へいへい」
「へいは三回までだ」
「HEYHEYHEY! ……って、真ちゃんこの前テレビでこのネタ見てから、しょっちゅう俺にフるのやめてくれる?」
「似合っているのだよ」
「お前にお笑い番組は似合わないけどな」
「お前が最初に見だしたんだろう」
「ま、そりゃおっしゃるとーり」
合間合間にのろけを挟まなくちゃ会話できないのか? 私の疑問は尽きないが、二人にとってはこれが日常会話なのだろう。高尾さんはつっこみを入れなかったし、緑間さんは恐らくまた大吉を出したらしく、おみくじを枝に結ぶことなくしまった。次は笠間稲荷だな、という声が聞こえて私は目的地を変更。
っていうか、今更だけど、この七福神巡り、調べてみたら神社八ヶ所あったんだけどそんな適当でいいのか?
   *
全てを巡り終わるまで、遂にホモたちには出会わなかった。良かった。とても良かった。清々しい気持ちだ。ついでに夕飯も済ませようと思って、暫く悩んだ挙句にファミレスに入った。お一人様ファミリーレストランに怯えるような歳では無い。そして恐らくあの二人はこれだけしっかりデートしてるんだからちゃんとした所予約してる筈、という私の予想は見事に当たり、店内には目立つ緑髪もその隣の黒髪も見当たらなかった。多分今こそ銀座とか有楽町で飯食ってるよあいつら。多分。
私はそろそろホモ検定一級を名乗ってもいいかもしれない。
   *
さて、家に戻ってテレビ見て、風呂に入って出たあたりで、アパートの廊下から少し抑えられた話し声が聞こえてきた。高尾さんと、緑間さんのものだろう。もしかしたらまだお話してなかったかもしれないが、私の住むアパートの壁というのは法律スレスレに薄いのである。廊下の話し声とかめっちゃ聞こえるし隣の家のテレビの音だってその気になれば聞こえる。
喘ぎ声だってね。
バタン、という隣のドアが閉まる音。それからドタドタ、とでっかい物音がして、静かになった。何か物落としたんだろうな、と思うがここで警報が鳴る。ホモ検定一級の本能が訴え掛ける。
玄関で聞こえた物音は、移動しただろうか?
何度だって言う。人間の記憶は六十二%、ってこの話はもうしたんだ。まあいい。大事なことだから繰り返し言うけれど、このアパートの壁は薄い。テレビの音だって聞こえてくるくらいだから、男二人の話し声なんて、内容までは聞き取れなくても、『何かをしゃべっている』くらいは常にわかるのだ。
今、廊下を、抑えた声で話していた二人が、玄関から、一言も喋らずに移動するなんてことあるだろうか。
玄関で、大きい物音が聞こえたけれど、もしも何か物を落としたら、普通何がしかの会話が発生するものじゃないだろうか。
つまりこうだ、私は今自分の想像が当たらないことを祈っているが、その、なんだ、これは、あの、あれだ。
あの二人は、玄関からまだ移動していないんじゃないか?
どっと冷や汗が出た。ホモの男二人が大きな物音を立ててから、会話もせずに玄関に居座り続ける理由ってなんだ。ナニしか思いつかない。
ナニってナニだ。
これ以上は喋らせないでくれ。
ええ、ちょっと、ねえ、マジで?
ちなみに私は今凄くトイレに行きたいし、トイレットペーパーは切れてるし、その予備は玄関のスペースに置いてある。警報がまだ頭の中で鳴っている。だがそろそろ膀胱も悲鳴をあげ始めた。人としての尊厳を捨てる訳にはいかない。
そっと玄関へ向かう。頼むから何も聞こえませんようにと祈りながら向かう。となりは驚くほど静かだ。そうして私が玄関の暗闇に鎮座するトイレットペーパーを見つけた瞬間に、また大きな物音がした。
例えるならそれは、人が倒れ込んだ時のような。
ジーザス。いいや、今日の私は七福神か。そういえば七福神って宗派とかあるの?南無妙法蓮華経とか行っておけば大丈夫? 隣から、がさごそと音がする。暴れるような、いいや、絡み合うような? そう、玄関で。
『……ぁつ、た、……め……んっ』
『しん……なあ……そ…あばれ……』
オッケーオッケー聞こえてきた聞こえてきた。これは今晩も盛り上がってきそうじゃないですか。盛り上がってきそうですね。私、明日、仕事なんですけどね。月曜日ですからね。週の始めですからね、でもきっと、彼らには関係ないんでしょうね。いいんじゃないですか。もう。
トイレットペーパーを抱えてトイレに引きこもる。彼らはあのまま玄関でどこまでヤる気なのだろう。まあ寝室から遠ざかっているお陰で、逆に私が寝る場所からは物音が一切聞こえないというのはありがたい話だ。いやでも待って、私にはわからないが、玄関で一発ヤってそのまま満足するものだろうか? 確実にしないだろう。性欲が有り余っているであろう若い男子は必ず次に行くだろう。その時は多分、普通に、ベッドとかに行くだろう。多分だけど。
トイレから出て、もう一度玄関に向かう。
『んっ、ぁあ、……っふ、ぅ……そん……』
『い…から……だま……』
あー、オッケー。やっぱり夢じゃないことを確認して、多分恐らくまず間違いなく訪れるであろう第二ラウンドを予感して、私は寝室にそっとメリーさんの羊を流す。知っているだろうか。都市伝説。携帯電話に、メリーさんとかなんとか名乗る人物から電話だかメールだかが入ってくるのだ。私メリーさん、今あなたの街にいるの、私メリーさん、あなたの家の前にいるの、私めりーさん、今あなたの部屋の前にいるの。そういう調子で近づいて、最後には殺されてしまう、みたいなよくある話。
今の私の気分がまさにソレ。
私ホモの隣人。今ホモが玄関でセックスしてるの。私ホモの隣人。今ホモが一ラウンド終えて廊下を移動してるみたいなの。私ホモの隣人、ホモが寝室に入ってきたみたい。
ホモ検定師範代の名を欲しいままにする私はそんな想像をしながら眠る。頼むから私がノンレム睡眠してる間にホモたちが過ぎ去ってくれますように。
 まあ、こんなところで今日一日の私の話は終わりだ。明日会社で何を話そう。一人で築地に行ってたらホモに出会って、買い物してたらホモに出会って、お茶飲んでたらホモに出会って、何故かちょっとホモをストーキングして、最終的にホモの喘ぎ声に怯えながら寝ました。なんて、言えるわけないじゃないか。
夢の中で私は友達とウニを食べながら笑っていた。その友達というのは私の全然知らない人たちで、みんな全然特徴が違って、服の趣味も派手な人から地味な人までいるし、キャリーバッグを持っている人たちもいたし普通の鞄の人もいるし、年齢だってばらばらだし、そうしてみんな一様に楽しそうにタカミという人について語っていた。何がそんなに楽しいのかはわからないけれど、その人たちがあんまりにも幸せそうなので、よく知らない人たちなのに私は何故か友達だと認識していて、一緒に楽しそうに笑って喋っているのだ。
私と見知らぬ人たちはみんな楽しそうだった。だからなんかもう、それでいいような気がしたのだ。私の家の隣にはホモが住んでいるし、私はそんなこと、口が裂けても言えやしないのだけれども。
あーあ、こんな風に友達と一緒に行っていたら、最初からホモに気がつかない一日を過ごせていたかもしれないのにね。
目が覚めたら明日が始まっている。世界のどこかで見知らぬ人たちが楽しそうに生きているし、私の家の隣でホモも楽しく生きているだろう。勿論私も、ぐちぐち仕事に文句を言いながらそれなりに生きていくのだ。
まあ何にせよ、夢の中でもウニはおいしかった。ありがとうウニ。ありがとう母なる海。ありがとう地球。ありがとう世界。きっと明日も晴れだろう。
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abcboiler · 4 years
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【黒バス】Bye bye by Bye bye
2016/05/03発行コピー本web再録
封された手紙と一緒にお渡ししておりました。
手紙の中身の一文は最後に入れておきます。
 この感情に色をつける。そうすると、俺は何色の絵の具を手に取れば良いのだろう。
 悲しみはブルーで、イエローはハッピーだ。恋だったらピンクで、情熱レッド? いいや情熱はバイオレットかもしれない。『危険信号』は赤と黄色で、緑は『癒し』。或いは運命。
 いつの間にか、俺たちの感情は、大昔に誰かが塗り分けた姿をそのまま使わされていることに気づく。まるで神様みたいだよな。一番最初に、空を青に塗ったみたいに、夕焼けを橙に染めたみたいに、夜を闇色にしたみたいに、俺たちは決められた色で動いている。赤は止まれ。緑は進め!
 別にそれに、文句を言う訳じゃない。ただ、教えて欲しいだけなんだ。正解があるなら、正解であるに越したことは無い。一度色を塗ってしまったら、上塗りできる保証なんて、どこにもないだろう。
 なあ、俺って今、何色なんだ?
 一番最初のピカソでも、モネでもダリでも、或いはエジプトの壁画を描いたような古代人でもなんでもいい。誰か教えてくれないか。俺のこの感情は、果たして何と呼ばれるものなのか。
 なあ、お前だったら、俺を何色に塗ってくれるんだ?
   *
「真ちゃんさあ、これ���画の授業ってわかってんの」
「もちろんだ」
「版画ってさあ、こう、なんかさ、ざっくり線をとってさ、大まかな形を表現してさ、そんで自由に色を塗るようなもんだなって、俺、思ってたんだけど」
「そうか」
 こんなやり取り、前にもした気がする。した気がする、というか、間違いなく、したんだよな。覚えてるし。あれはいつのことだったっけ。確か、校庭のど真ん中で、俺とコイツは並んで絵を描いていた。油彩の授業だったんだ。空から鳥の糞が落ちてきて、真ちゃんは嫌そうな顔したんだっけ。青空と、強い風。何処かから飛んで来たコンビニのビニール袋が、夢みたいに空を舞い踊っていた。
 写真みたいに覚えているのに、細かい所がぼやけている。
 まあ、過去は過去だ。今は今。油彩じゃなくて、今学期の課題は版画。風のない教室の、後ろの方に陣取って、俺は緑の頭越しに、どう贔屓目に見ても版画には見えない風景画を覗き込んでいる。
 美術の授業は大概自由だ。思いっきり大声で喋っていても、席を移動しても、なんなら、他の教科の宿題をやっていても怒られやしない。自由な感性が自由な作品を生む、だとか、なんとか。そういうポリシーらしい。ホントか? ただまあ、そうは言っても秀徳高校、自由には責任がつきまとう、ということで、提出期限が一日でも遅れれば落第、中身が酷ければ容赦なく赤点、泣きつけば減点。恐ろしい世界。
「お前、下絵の段階でその細かさで、どうやって彫る気よ? マジで一生かかっても終わんねえだろ」
「馬鹿が。誰がこれを彫ると言った」
「いや、え?」
 戸惑う俺を他所に、真ちゃんは淡々と、教室の風景を白いキャンパスに写し取っている。写すとは言っても、動き回っている生徒たちは軒並み存在を消されて、そこに描かれているのは、がらんどうの教室だ。がやがやと、ざわざわと鼓膜を揺らすあらゆる感情のお喋りと、面前のキャンパスの静けさが噛み合わなくて違和感しかない。精密な筆致のせいで、余計に奇妙に見える。机の上の落書きも、汚れたままの黒板もそのままなのに、それを生み出した筈の人間がいない。いやでも視界に映る、沢山の制服と喧騒、その全てが排除された白黒の教室。
「え、じゃあお前、何描いてんの」
「見たままだが」
 お前の目には邪魔な生徒は映ってねえのかよ。怖ぇよ。
 というのは、まあ冗談として、見たまま、見たままね。じいっと見つめる俺など知らん顔で、テーピングされた左手は着々と教室を完成させていく。鉛筆の粉がこぼれて、指先が僅かに黒ずんでいるのを、俺は黙って見過ごしている。
「いや……版画の下絵じゃねえの?」
「彫刻刀など、一歩間違えれば手を傷つけるようなもの、使うわけが無いだろう」
「いや、それは、まあ、ちょっと思ったけどさ、いやでも、彫らずに版画とか無理だろ」
「お前が代わりに彫ってくれるんだろう?」
「絶対にお断りだわ! どんな苦行だよ!」
 冗談だ、と真ちゃんは嘯くが、ここで俺が「やってやるよ」などと言っていたら、マジでやらされていた気がするので油断ならない。真ちゃんは案外、目的のために手段を選ばないずるい男なのだ。ホントの話ね。その目的のほとんどが、まあ一般的には害のないものなので、あまり周囲に伝わらないだけである。こわい奴だよ。
 今だって、真ちゃんの目的はこの風景画を完成させることにあるので、さっきから話をしている俺のほうへ振り向いてもくれないのだ。あーあ。優先順位がはっきりしてやがる。
 こっち向いてよ。見ればわかると思うけど、お前の隣には今、俺がいるんです。
「教師には、版画は絶対にやらないと言ってある。例え成績評価で最下点を付けられようが、なんだろうがな。とはいっても、授業中に何もしない訳にもいかないだろう。美術の授業なのだから、美術的なことを行うべきだ。代わりとして、油彩とレポート提出で代替評価としてもらうよう交渉した」
「はあ……そんなことできんの」
「監督に我が儘二十一回分で」
「マー坊に謝れや! いや二十一回分って、すげえんだか、そうじゃないんだかもよくわかんねえけどな!」
「授業の回数なのだよ」
「一回につき一ワガママかよ。節約してんじゃねえよ」
 言ってしまえば、こんなの授業のボイコットだ。授業一回につき三ワガママくらいは使われて然るべきだろ。等価交換とは言わないが、最低限の仁義っつーか。なんつーか。
「だから水曜は二回しかワガママが使えん」
「なんで不満げなんだよ。二回も使えることに感謝しろよ。一般ピープルはゼロ回だからな」
 まあ、真ちゃんの手を傷つけたくないのはバスケ部の総意だ。どんなに腹立たしくても、こいつの手が毎週水曜四限に傷ついてたんじゃ話にならない。というか、それこそ俺が見ていられなくて代わりに彫ってしまいそうだ。奴隷根性極まれりってか。手を止めて消しゴムを探しているらしき瞳に、俺はそのへんに転がっていた消しゴムを放り投げる。こうやって、言葉にされる前に甘やかしてしまうからいけない。わかってんだけどなあ。
 マー坊も苦渋の決断だったろうな。そんで、なんで美術の教師はオッケーしたんだよ。普通に考えたらありえねーだろ。自由か。これも自由の一環だっていうのか。
「うっわ、緑間、ナニやってんの」
「真ちゃんさあ、彫刻刀使わねえかわりに油彩なんだってよ」
「うーわ、相変わらずだなお前」
「うるさい。これが人事を尽くすということなのだよ」
 立って騒いでいた三村が、真ちゃんのキャンパスが目に入ったのか、ずかずか近づいて悲鳴をあげた。そりゃな。版画でこれやろうと思ったら気が狂うよな。でもちげーんだよ。こいつは既に先生に交渉済で、何故か一人だけ油彩をやるんだよ。高校生が、教師の作ったカリキュラムに逆らうって、なかなかどうして、普通できねえもんだけどな。
 三村は、どへぇ、だか、うひゃあ、だか、意味の無い雄叫びをあげて真ちゃんの絵を見ている。真ちゃんはもう会話は終わったといわんばかりに、黙って己の作業を進めている。そうして、窓の外は青い。昔のように青い。覗き込めば、校庭で馬鹿みたいに笑ってる俺がいそうな気がする。
 気がつけば、三村はもう元の位置に戻って騒ぎを広げていた。机が揺れる音、椅子が床をこする音、笑い声、叫び声、どうでもいいお喋りと、低く聞こえてくる誰かの愚痴。誰かが空気を震わせるたびに、そこが色づいていく。黄色い声、赤い叫び、緑の音、青い響き。多分世界中で、ここがいま、一番雑多にうるさいんだろうな。
「ってかさあ、真ちゃんクラスメイトも書こうよ」
「何故」
「何故って、これ風景画だろ?」
「あんな動き回る喋り倒す輩を、一人一人描いていたら、それこそ終わらないのだよ。風景画だからこそ、人を配置する必要性は無いだろう」
「まあ、そりゃそうかもしんねえけど」
 教卓の歪みも、窓の外の街並みも正確なのに、生徒たちがいないだけで全く違う教室だ。段々と完成されていく世界があんまりモノクロなので、俺は何故か不安になる。白と黒の線だけの世界は、ちょっとぞっとするほど冷たい。
「お前だけ描いてやろうか」
「えっ」
「この課題が終わるまで、一ミリも動かずに静止して黙っていられるならな」
「死ねって言ってる?」
「親切心だ」
 お前も、人のばかり見ていないで、自分の課題をやったらどうだ。
 そう顎で示された先は、今日の授業開始からほとんど進んでいない俺の下絵だった。そもそも何を描いているんだ、と言う真ちゃんには、俺の半分も進んでいない下絵じゃ何も伝わらないらしい。テーマ? テーマはね、体育館。いっぱい見てるし、床と壁しかねえから楽かと思って。ちなみに、バスケのゴールリングは省略してある。ゴールは描くために存在してるわけじゃないから、いいんだよ。
「遅れれば落第」
「あー! あーもう分かってるよ! くっそ、油彩の奴には負けたくねえ。油彩で合格して版画で落ちるのは勘弁」
 もういっそ、下絵なしに彫ってみたら、味のある絵になるんじゃねえ? そう思って、試しに適当な所に刃を入れてみたら、木の欠片だけが無意味に散った。ぱらぱらと、木屑が落ちる。強くやりすぎたのか、深く抉れて、一箇所だけ穴があいたようだ。三角形の、あなぼこ。
「おい、高尾、飛ばすな。木屑があたってるのだよ」
「うるせー」
 がりがりと、彫る。がりがりと。がりがり、がりり。意味のわからない奇妙な曲線が生まれて、俺もなんだか���思議な気分だ。楽しいような、気持ちいいような、妬ましいような、何か。体育館の床が、丸く抉れていく。
「勢いよく、いきすぎじゃないか」
「いーんだよ、こんくらいで」
「後戻りできないのに、よくやるな」
 後戻りできないのにね。ホントにな。俺は彫っていく。体育館? いいや、目に見えない、俺の中の何かの景色を。
 多分、今期の美術、評価ヤバイな、これ。
   *
 バッシュの靴紐は右から結ぶ。俺じゃあなくて、真ちゃんの話。真ちゃんの、結び目は、とても綺麗だ。性格出るよな。右と左が綺麗に対称になっていて、紐は長すぎず短すぎず、バランスを保って鎮座している。なんだろう。あるべき姿として、おさまってるんだ。紐ひとつに言い過ぎかもしれないが、こいつの場合は一事が万事これなのだ。鉛筆は絶対に芯が尖っているし、ハンカチはいつも縦に二回、横に二回畳まれてポケットに入っている。
 俺はといえば、シャー芯は使い切る前に無くすし、ハンカチなんて持ってりゃ御の字、鞄の底で無限に折れ曲がっている。靴紐は何故か滅茶苦茶右上がりになるんだよな。自分でわかっちゃいるが、わかっただけで綺麗に結べりゃ問題無い。
「高尾交代! 多野上はいれ!」
「ハイ!」
「スリーメン五本、バック走三、残りケーオージャンプ五十、先頭水城、はじめ!」
「はい!」
 喉に細かい罅が入ったような熱がある。それでも体育館中に響くような大声で、俺は必死に数を数える。
 イチ、ニ、サン、ニ、ニ、サン、サン、ニ、サン、ヨン、ニ、サン。五回目、飛んだ瞬間に汗で滑って、顔が引きつった。下手な転び方しても、着地しくっても、すぐに捻挫だ。必死に体制を立て直しながら、俺は声を出し続ける。ロク、ニ、サン。
 コートから出て、一瞬も休ませてもらえない。練習なんて、地獄の代名詞。至るところの筋肉が悲鳴をあげている。脛が剥がれ落ちそうだ。上げっぱなしの腕は震えて、そろそろ感覚が無い。血流が、必死に酸素を運んでいるのがわかる。指先から、脳みそのてっぺんまで、どくりどくりと脈動している。口の中に血の味がする。真っ赤な世界。
「そこまで! 一分後ランニング十周、そのままAB分かれて一ゲームだ。水分忘れるな!」
 水飲んだら吐くけど、飲まなかったら死ぬな、って、冷静なところで考えた。体は今にも体育館に倒れこみそう。倒れたらもう、今日は試合に出させてもらえないだろうから、必死にふんじばっている。下を向いたら吐くから上を見上げている。体育館の照明が目を焼いた。視界の端には、緑色した頭がよぎる。視線をそのままスライドさせれば、そいつは浴びるように水を飲んでいた。マジかよ。バケモン。
「真ちゃん、さあ、そんな一気に飲んで、腹、やばくねえの」
「問題無い。飲まない方が死ぬだろう。恐らくマラソンのあと、水分補給の時間はないぞ」
「うそだろ……、いや、そっかマー坊言ってねえわ、くっそ」
「高尾、靴紐」
「あ?」
「あぶない」
 近寄りながら、わざわざ指で指し示されたのは、俺のバッシュの右側。いつの間にか紐が解けて広がっている。もしかして、さっき滑った時に踏んづけたか? このままじゃ間違いなく転ぶ。自分が転ぶだけならまだしも、他の奴まで転ぶだろう。
 結び直さないといけない。わかってる。当たり前だ。わかってる。
「ちょい待って……」
「何を待つのだよ。さっさと結べ。他の奴の邪魔だ」
「わーってる。わーってるけど、今しゃがんで、下向いたら、間違いなくヤバイ。リバース確実」
「……そういうことか」
 呆れたような溜息に、心臓にまで罅が入る音がした。軋みをあげて唸っている。どくりどくりと流れていた血が、そこからじわじわ染み出していく。悪かったな。お前とは違う。情けねえ。動けねえ。畜生。
「全く、だからお前は駄目なのだよ」
「うっせ……」
 ただ上を見ることしか出来ない俺に、覆いかぶさるように緑色の影が刺す。俺を見下ろす瞳は、逆光になっていてよく見えなかった。どつかれるか、冷たく諦めろと言われるか、どっちだろうな。腹を殴られて強制退場すらありえる。そんなことを俺が考えているなんて露知らず、溜息と一緒に、真ちゃんは、ふっと、しゃがみこんだ。
「は? え?」
「こっちを見るなよ。下を向いたら吐くんだろう。俺の頭にかけたら許さないからな」
「や、えっ、真ちゃん、俺」
「もう休憩が終わる。待ってられるか」
 ごついバッシュに神経など通ってやしないが、気配だけで、真ちゃんが何をしているのかなどすぐわかる。しゅるしゅると、擦れる音、足首に、僅かな刺激。俺の靴紐を結んでいる。こいつが。緑間真太郎が。
「そもそも最初の結び目がゆるいんじゃないか? 結ぶの下手だろう、お前」
「うっせーよ……てか、余計なお世話だわ」
「そうか」
 なら、次からは余計な世話をかけるなよ。
 そう言いながら立ち上がったこいつは、確かに、かすかに笑っていた。ムカつく。悔しい。心臓が大きく動いて、血が染み出すどころか溢れ出ている。けど、それだけじゃない。顔に熱が集まっている。嬉しい。照れくさい。恥ずかしい。お礼を言うのも変な感じがして、茶化そうにも言葉が無かった。口だけを馬鹿みたいに開けて、餌を待ってる雛鳥かよ。俺が何も言えない間に、ホイッスルが空間を切り裂いた。
「これでマラソン中にへばったら、笑ってやるのだよ」
「うっせー、ぜってーに負けねえ。お前こそ疲れたへろへろシュート撃って外すんじゃねえぞ」
「誰に言ってる」
 走る。怒声に応えるように、走る。走って、走って、もつれた足で、走る。下は見ない。腕を振れば、体は勝手に前に出る。床なんか見なくても、俺は足つけて走っていられる。顔をあげて、先頭をひた走る緑色の弾丸を睨みつけた。
「やめ! ゲームするぞ! 別れろ! チンタラするな! 走れ!」
 才能を軸に、努力を装置に、意思を燃料に変えて、誰より早くひた走る、一つの、弾丸。高く高く撃ち上がる、ミサイル。天井すれすれから、地面を穿つように叩きつけられる、兵器にも似た何か。
 あれはお前だ、お前のエネルギーそのものだ。お前の感情を、一つの球体に詰め込んで、お前はそれを撃ち上げる。
 呼吸だってままならないような汗の中で、俺はそれを必死に見届ける。本当に、もう、一歩も動けない。声だって出せない。ブザーの音と、床に転がったままのボール。いつかあれが爆発したら、きっと世界は終わるだろう。誰も逃げられやしないんだ。いつか、あのボールが爆発したら、俺にトドメを刺すだろう。今はまだ、俺は、ブッ倒れそうな体を必死に地面に突き刺している。
「……っ、ふ、倒れなかったじゃ、ないか」
「ぁ、っはぁ、はぁつ、っ、は、あ、たりめー、っしょ……」
 整列に並びに行くのも、もう無理だ。そう思ったら、強く腕をひかれた。今度こそ思いっきり転びそうになるけれど、転ぶだけの足すらもう動いてない。引きずられている。腕が動けば、体は前に出る。腕を動かされれば、体は前に、進まされる。力技すぎんだろ。
「や、っめ、ろ、おい、はなせっ、て」
「整列だ。待てない」
「あるけっ、から」
「嘘をつけ」
 靴紐、解けなかったろう。そう言ってこいつが楽しそうに笑うので、俺は思わず下を見る。綺麗な蝶々が、俺の右足にだけ止まっていた。左側の、なんと不格好なこと。笑っちまうね。笑っちまうが、下を見たのは、本当に失敗だった。
   *
「お、高尾きた」
「あっれ、どうしたの酒井」
 雨だった。そして俺は弁当を忘れていた。四限が終わった瞬間にダッシュかけた俺は、目的の焼きそばパンとカレーパン、あとキムチおにぎりをゲットすることに成功。授業が時間ぴったりに終わってくれたことが、今回の勝因といえるだろう。気分が良いのでおしるこでもついでに買ってやろうかと思ったが、冷静に考えて多分あいつは今日の分をもう持ってる。朝一で買ってたもんな。
 戦利品を抱え、割と朗らかな気持ちで教室に舞い戻ったら、俺の席には酒井がいた。
「いやマジ聞けよ。緑間ガチうけんだけど」
「おい、やめろ」
「えー、なになに」
「いやそれが」
「やめろと言っているだろう」
 俺が購買にパンを買いに走っている間に何が起こったんだ? 窓際一番後ろ、真ちゃんの席。そのひとつ前、俺の席。俺が昼飯を買ってくるのを一人待っている筈の場所に、酒井が座って爆笑している。いや、そこ俺の席だから。
 緑間がマジうける、のは今に始まったことじゃない。だけど、真ちゃんがその内容を喋らせようとしないのは珍しい。基本的に己の信念と欲求に正直に生きている男だから、なんというか、恥じらいというものが無いのだ。
 何を恥ずかしがることがある、人事を尽くした結果なのだよ。俺の生き様に、恥ずべきことなど何も無い。
 恐ろしいスタンスだ。己の信念を裏切らなければ、何をしても良いと思っていやがる。まあ、ラッキーアイテムとか、説明するまでもねえけど。
 普通の人なら恥ずかしくて出来ないようなことを、こいつは平気でやってのけて、それを一つも隠さないのだ。おかしいだろう。
「酒井、言ったらはっ倒すのだよ」
「や、緑間ってそんなキャラだっけ? こええ!」
「五月蝿い。さっさと消えろ」
 蠅を追い払うようにして、真ちゃんは酒井を追っ払った。けたけた笑いながら退散する背中を、俺は見送る。真ちゃん、酒井と仲良かったっけ。そういや、この前サッカーのチーム分け一緒になってたな。そん時は、真ちゃん倒すのに燃えすぎてよく見てなかったけど、どうやら、真ちゃん、イコール、面白い奴��定、は広まったらしい。そりゃな。嫌でも一緒にいりゃわかるよな。一緒にいて分かんないんだったら、そいつの目はレンコンかなんかなんだろう。
「真ちゃん、どーかしたの」
「いや、別に」
「ふーん」
 がさり、と音をたてて、ビニールに入った昼食を真ちゃんの机に置く。俺の分だけ半分スペースをあけて弁当を広げていた真ちゃんは、こちらの準備が整うのを黙って待っている。チャイムが鳴って、何にも言わずに走り出したのに、待っててくれるんだから、こいつも大分まるくなったというか、なんというか。餌付けに成功したらこんな気持ちなんだろうな。それは、ちょっとだけ俺の心を満たす。
「酒井と何話してたのさー」
「別に、と言っただろう。お前には関係ないのだよ」
 でしょうね。そうだろうよ。多分、本当に、どうでもいいことなんだろう。真ちゃんが毎日ナイトキャップかぶって寝てるとか、ラッキーアイテム保管用の部屋があるだとか、案外AVは女教師ものが好きとか、そういう感じの。多分、俺も知ってるような、或いは、知らなくても何も問題ないようなこと。知っても仕方がないこと。
「気になるなー気になっちゃうなー」
「しつこい。さっさと食べるぞ」
「へいへい」
 誰も知らなくても問題ないようなことで、人間って出来上がってる。高尾和成が、何を好きだろうが、嫌いだろうが、家で何してようが、関係ない。幼い頃の初恋の先生の名前だとか、未だに捨てられないBB弾が入った、缶からの存在だとか、そういうの。そういうものの、寄せ集めで、俺の体は出来上がってる。きっと誰だって、そうだろう。
 だけど、俺は、何だかいたたまれない気持ちになる。俺の知らない緑間真太郎がいることに。俺は知らないのに、俺じゃない誰かが知っている、緑間真太郎が存在していることが。
「聞いてよ真ちゃん。俺本当に今日勝ち組でさ」
「何が」
「焼きそばパンとカレーパンダブルでゲットし��」
「何だと? どんな裏技を使った」
「いや走っただけなんだけどさ」
 だから俺は、馬鹿みたいに喋り倒す。どうでもいいこと。知らなくていいこと。知ってほしい、こと。
 くだらない、どうでもいいものが組みあがって出来上がった、俺のカラダと血肉を、お前には知っていて欲しい。
 雨がざんざか降っている。俺は結構、窓越しに聞くこの音が好きなんだけれど、お前は果たしてどうだろう。どうでもいい、知らなくていいことを、俺は何故だか、知りたくなる。灰色の雨が降っている。
   *
「お兄ちゃんはさ」
「うん?」
「誰かになんかあげたいとか、思ったことないの?」
「なんじゃそりゃ」
 夜、リビングのソファでテレビつけながらゴロついていたら、何やら妹ちゃんが不審な動きで台所に立っていた。普段料理なんて、てんでしないくせに。がさごそと、音を立てて動き回っている。台所は、料理をする場所だ。まさか包丁探して誰か殺しに行くわけでもあるまいし。とすると、へえ、なんか作って持っていくのか。
 でもバレンタインって結構最近終わったばっか。ていうかコイツ、バレンタインに友チョコとかする可愛げも無かった気すんだけど。マジでどうしたんだろうな。
「彼女いないの」
「あ? そういう話? 彼女ができたらちゃんとプレゼントしろってこと?」
「違うよお、まあ、それはそれで、そうなんだけどさ」
 起き上がりもせずに声だけを寄越す俺に、妹ちゃんも淡々と、姿のない声だけを返す。
「私が彼女だったら、イベント及び記念日ごとにプレゼントを所望するね。そんでもって、他の人と遊びに行くときは必ず報告するようにしてもらう」
 顔が思わず引き攣るのを感じる。単純に怖い。何が怖いって、俺の妹は、なんというか、割と俺に似て、人生楽しんだもん勝ちというか、あまり何かに執着しないタチなのだ。
 周りの空気を壊さない程度には合わせるけれど、自分の好きなことだけをやってるタイプ。それがこんな、こと恋愛になると、束縛型というか、なんというか、女って怖い。
「えー……と、つまり、お前彼氏できたってこと?」
「出来てない。片思い。多分」
「多分って」
「脈なしじゃ無いと思うんだけど、なんか、人のことは分かっても自分ってなると、分かんないよね」
「ああ、成程」
 台所で、恐らく調理器具を探していたのであろう音がひと段落して、今度はガシャガシャとボウルの音が聞こえてきた。普段料理の音なんて意識したこと無いけど、こうして聞くと、料理の音って、メシ作るのとお菓子作るので全然違うんだな。いや、お菓子とは限らねえのか。なんか勝手に、誰かに渡すんならお菓子って、そう思ってた。
「友達だったらさー、『それ絶対に脈アリだよ、長本くんも待ってるって、コクっちゃいなよー』とか言えるけど、自分となると、自意識過剰なんじゃないかとか、いやそうやって謙遜してる方が逆に変じゃないか、どう見ても私のこと好きじゃないかとか、ぐるぐるしちゃうよね」
「自覚してんのは良いけど、長本誰だよ」
「サッカー部のフツメン」
「イケメンじゃねえのか」
「お兄ちゃんよりカッコよくない」
「んー? それ俺のこと褒めてんの? けなしてんの?」
「事実。お兄ちゃんはフツメンの上」
 あんまりにもな言い草に、思わず笑ってしまう。正直かよ。テレビでげらげらと、作りこまれた笑い声がする。別にテレビなんて見ていない。頭の中を空っぽにしたいだけだ。何だか最近、色んなことを考えすぎてお疲れの俺。学校楽しい、バスケ楽しい、生きてて楽しい。でも何か苦しい。たまに、ひどく、呼吸しにくい。心は簡単に体を裏切って、勝手に俺を息苦しくする。名前の無い、色も形も得体のしれないエネルギーが、俺の中でとぐろを巻く。
「そんで? なんかクッキーでも焼くの」
「大正解」
「わかりやすいな」
「わかりやすいから良いんじゃん。好きでも無い人にクッキー渡さないでしょ。しかもこんな時期に」
「成程。明快だな」
 誕生日でも記念日でもない日に、突然付き合ってもいない奴からクッキー渡されたら、勘違いする方が難しい。俺もお菓子って、勝手に思ったくらいだし。だからこそ、渡すのは結構勇気いると思うけどな。
「迷ったんだけどね」
「何が? クッキー渡すか?」
「それもだし、何を渡すかっていうか。別にクッキーあげたいわけじゃないんだよね」
「うん? よくわかんねえな」
 ガシャガシャと、音は続いている。クッキーって、こんなにずっと、何かをかき混ぜているもんなのか。ずっと、少し荒っぽい、音がする。恋をして、ウキウキしたリズムではなく、やるせない、大雨のような音だ。あらゆる感情をかき混ぜて、種を埋め込んでいる、音。
「何でもいいんだよ。ていうか、なんかさ、自分の持ってるもの全部あげたくなっちゃうの」
「お前そんなボランティアキャラだっけ?」
「うっさいなあ。そうじゃなくて、その人にはってこと。その人には、自分の持ってるもの、全部あげたくってさ」
「おお、恋してんな」
「恋だよ。これはマジで恋だよ。だってさ、あげたいだけじゃなくって、全部欲しいんだよ。意味わかんくない?」
「ソレ、分かるのか分からないのか、どっちなんだよ」
「そういう感じなんだよ」
 分かんねえよ。あまりにもアホらしい会話に、考える方が馬鹿らしくなってくる。勢いと感覚だけで話しすぎ。コイツはどんな顔してこんな話してんのかと、ソファから起き上がって台所に向かった俺はちょっと後悔した。
「見返りが欲しいんだよね」
 想像していたより、三百倍くらい、真剣な顔をしていた。全然楽しそうじゃなかった。むしろ、嫌そうな顔をしていた。手元でクリーム色になっている何かは、もう十分に混ぜ合わさっているのに、コイツは手を止めない。俺は何故だか、この遣る瀬無い物体を見て、バスケットボールを思い出す。感情の坩堝。あらゆる衝動を詰め込んだ、一つの爆弾。
「不純すぎねえ」
「だよねえ」
 このクッキーは、あのボールと同じなのだ。爆発したら、死んでしまう。誰も逃げられない、致死性の爆弾だ。それを必死に溶かして、かき混ぜて、一つの形に、閉じ込めている。
 誰かはそれを、信念と呼ぶかもしれないし、執念と恐れるかもしれない。大切な気持ちをありったけ詰め込んだけれど、どうでもいい物だって、一緒に沢山入れてしまった。
 それは、俺の、或いは誰かの、全てなのだ。
「自分のものあげるのなんてさ、勝手じゃん。あげればって感じ。相手が欲しくなかったら捨てるだろうしさ、はいどーぞ、はいどーもって感じで、終わりじゃん。でもさ、欲しいんだよね。相手の全部知ってなくちゃ嫌だし、自分が知らないとこ出されると、ムカつくし不安になるし、でも全部なんて無理ってわかってるから、もやもやするしさ」
 ガシャン、と一際大きな音を立てて、調理器具は洗い場に放り込まれた。
「何で無理って分かってんのに欲しがるんだろうね?何で無茶って分かってんのにやろうとすんだろうね? そんで、そこまで分かってるくせに、なんで心のどっかで期待してんだろうね?」
 溜息と一緒にチョコチップが放り込まれていく。この一粒が、コイツの感情で、あの一粒が、コイツの感情だ。そうやって、感情を消化している。
「むなしいわ。むなしいけど、何もしないのも耐えらんないから、クッキー。本当は、全部ぶん投げたいし、全部欲しいけど、どうしようもないから、クッキー」
 あー、もー、やだやだ。そう言って笑う顔は、俺によく似ていた。本当に、馬鹿だなあ。俺もお前も。
「やっぱお前って俺の妹だわ」
「はあ? 何当然のこと言ってんの」
「欲張りで、嫉妬深くて、でもへんに計算できるから上手いこと傍目には帳尻合わせて、その癖頑固だから自分の意思は曲げれずに、最終的に勢い任せに突っ走ってる感じが」
「あー、そりゃ、私だわ」
「だろ? ちなみに俺もだ」
「じゃあ、お兄ちゃんも恋してんの」
「してるね。こりゃ」
 ほんと、やだやだって感じだよ。参っちゃうね。こんな所で、こんな形で、自覚する羽目になるなんて、な。妹ちゃん、お前のその爆弾は、思わぬところに被害を及ぼしているぞ。
「じゃあ、これあげるよ」
 無造作に放り出されていた、透明な袋を一つ取って、俺の心臓に押し付けたこの爆弾魔は、やけに楽しそうな顔で笑っている。仲間ができたのが嬉しいらしい。
「十五枚セットしかなかったからそれ買っちゃったけど、別に十五回もクッキーあげる予定ないし」
 まさかお兄ちゃんも恋する乙女だったとはね。それで、何か、あげればいいんじゃないの。
  俺の中ではね、恋って、ハッピーピンクなイメージだったわけ。女の子がね、きゃいきゃい夢見て、男はそれにそわそわしてる。彼女欲しい、エロいことしてえって叫んで白い目で見られてさ、それ見てけたけた黄色く笑うみたいな。そう言う感じ。まあ別に何色でも良いんだ。なんかこう、しんみりした夕焼け色でも構わない。
 けど、まさか、こんな戦場みたいな、沼地みたいな、何にも掬い取れない代わりに、全部に足を絡め取られるようなモンだとは思ってなかった。爆弾は俺の心臓に眠っている。
「高尾!」
「うっわ、びっくりした!」
「さっきから呼んでいるのに、お前が返事をしないからだ」
「へっ、マジ?」
「本当にどうした? 彫るのも進んでいないし、話しかけてもこないどころか、こちらが話しても気づいていないし」
「あ、あー、ごめんごめん。考え事。ぼんやりしてた」
 お前のこと考えてたよ、なんて言える筈もなく、戦争と平和について考えてた、と言ったら怪訝な顔をされた。そんな顔を見れたことでさえ、なんだか嬉しくなってしまう。
 全部知りたいし、全部知ってほしい。構って欲しいし、構いたい。驚く程今までの俺のアレコレは恋だったし、今だってそれの真っ最中だ。
「お前……本当に間に合わないぞ」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ、な、筈」
 俺って鈍感だったんだろうか。いや、気づいては、いたと思う。俺の、この、不可解な熱に。ただそれに、恋という名前を付けるのを渋ってただけなのだ。友情ってタグを付けて、カテゴリ分けしていればよかった。その中で、親友とか、相棒とか、好き勝手なラベル貼り付けて、満足できるハズだったんだ。俺の心の中じゃ、俺が神様。俺の気持ちは、俺が決められる。それなのに、このザマ、笑っちまうね。
「ってか、真ちゃん進んだね……」
「当たり前だ。作業していたのだから」
 覗き込んだキャンパスは、相変わらず、誰もいない教室。だけど、白黒から段々と色を重ねられた景色の印象は随分と違った。窓の外は青い、教室は陽が差し込んで暖かい。机の影だって、僅かに揺れて緩んでいるようだ。お前に見えている景色は、きっと、誰かが想像するより、優しい。
「あれ? 真ちゃん、ここ塗るの失敗したの?」
「ん? ああ」
 画面の端、青空にはみ出して僅かに一筆塗られた橙色を指させば、真ちゃんは不本意そうな顔をした。失敗したらしい。
「端にお前を描こうと思ったんだが」
「へっ?」
「冷静に考えると、お前はいつも隣にいるから、この視界には写らないのだよ。それでやめた」
「えっ、と」
「弁当やら他の授業の時は正面にいるがな。今更この画面のど真ん中にお前を配置するのは流石に無理があるし」
「俺、描こうとしてくれたの」
「? 言わなかったか?」
「……言ってた」
 冗談だろうなって、思ってたよ。
 喉がからからに乾いていく。今すぐ水を飲まないといけない。水を飲まないと死んでしまう。だけど、飲んだら、吐いてしまいそうだ。俺の感情。俺の爆弾。お前は本当に、俺を殺すのがうまい。
「…………それで、失敗しちゃったんだ」
「そうだな。まあ、いいだろう、別に」
「いいの?」
「塗り直せばいいだけの話だ。油彩なのだし」
 失敗したら、やり直せばいい。正解するまで、それだけの話なのだよ。
 淡々と、そう言う真ちゃんは、きっと躊躇いもなく、一筆分の俺を、青空で塗りつぶすだろう。それでいい。それが正解だ。正しいものがあるなら、それに越したことはない。
 俺は、後戻りできない穴を見つめて、笑っている。三角形に、深くえぐれた、穴ぼこ。俺の爆心地。
  そういえば、リボン渡すの忘れてたよ。それだけ言って、妹ちゃんは部屋から出ていった。クッキーの結末は聞いてない。ちなみにおこぼれにも預かってない。
 透明な袋と、きらきらしたリボンを蛍光灯に翳して考える。光が反射して、ちかちかする。そうだ。恋って、こんなイメージだった。
 全部あげたいけど、無理だから、クッキー。
 我が妹ながら聡明だ。それは酷く正しかった。そうして愚かな兄は、何もあげるものが見つからなかった。
 おしるこ? ラッキーアイテム? 参考書? NBAのDVD? あいつが喜びそうなものはいくつも思いつくけれど、それは別に、俺があげたいものとは違う。
 全部あげたい。その見返りに、全部欲しい。
 信じられない強欲だ。俺は、俺そのものを与えたいのだ。あいつそのものが欲しいのだ。そんな小っ恥ずかしいことを考えて突っ伏した。信じらんねえ。自覚って怖い。恋って怖い。やばい、俺、絶対に、誰とどこに行くとか、めっちゃ聞いちゃうよ。休日の予定とか、いちいち確認しちゃうよ。俺ってもしかして、結構粘着質な束縛タイプだったのか。
  どうしようにも行き詰まって、溢れたそれを持て余して、俺は、すっからかんのビニール袋に、何にもいれずにリボンを結んだ。
 全部あげたい。全部欲しい。お前が好きだ。恋をしている。そんなの、言える筈も無かった。クッキーなんて、渡せてたまるか。全部が手に入らないなら、いっそ、何にも無い方がマシだ。嘘。何も無いなんて無理。だから、ラベルはお前が貼ってくれ。友情でも、相棒でも、下僕でも、まあいいや。
 その透明な爆弾を、下駄箱に、誰もいない隙に、放り込んだ、空っぽの袋。名前もない、中身もないこれを、お前はただのイタズラだと思って、捨てるだろう。
   *
「高尾」
「んあ、どーしたの真ちゃん」
「見ろ」
「っ、ええ!? で、ジャンボヤキソバオムレツパン!」
「人事を尽くした結果なのだよ」
「いやいや、えっ、それ限定五個のやつじゃねえの! どんな裏技使ったんだよ!」
「走った」
「や、やっぱそれかー!」
 階段を登るのに三段飛ばし出来るのは、やはりアドバンテージとして強いな。そんなことを悠々と言うこいつは、本日昼飯を忘れたらしい。お前でも忘れることあるんだなって言ったら、忘れたのは母だ、とぶっきらぼうに返された。いや、鞄の中持ってんじゃん。勝手に手を伸ばしても、真ちゃんは止めなかった。やけに軽い感触と、何の反動もなく開いた蓋。
「ぶっは、えっ、うそ、こんな漫画みてえなことあんの」
「あるのだよ。目の前に」
「やっべ、中身入れ忘れるって、真ちゃんのママさんも、結構、天然っつーか、なんつーか」
「受け取った時に軽いことを指摘すれば良かったのだよ……俺のミスだ」
 いや別にこれにミスとかねーだろ。そう言って笑う俺の心は穏やかだ。透明な、俺の爆弾をぶち込んだ、次の日。真ちゃんから何か言ってくることは無かった。まあ、そりゃ、当然だろう。そもそも俺からだと、わかる筈もないし。そうして、勝手に目に見えない感情を押し付けた俺は、ホンの少し、すっきりしている。
「そういや、俺多分あと二週間くらいで終わるわ、版画」
「なんだと。抜けがけか」
「抜けがけってなんだよ」
 名前をつけられなかったこの日々を、俺は気に入っている。
 「あ、お兄ちゃん、おかえり」
「んあ、どーしたんわざわざ」
「いや、帰ってきたらさ、封筒あったんだけど、なんかどこにも名前がなくて。間違いなのかな。でも、切手も貼ってないから、直接ウチのポスト入れたと思うんだよね。だから、お兄ちゃん、心あたり、ないかと思って」
 リビングの机の上に、ひとつだけぽつりと置かれた、名前も無い、宛名も無い、緑色の封筒。緑色。緑は癒し。或いは、運命。俺の中で、緑色は一人しかいない。
「あー、もうあけた?」
「開けてない。心当たりあったら、悪いと思って」
 心臓が、うるさい。あの日、黙って下駄箱にぶち込んだ筈の爆弾が、俺の胸で鳴っている。
「あ、あー、多分俺だわ。サンキュ」
「うん」
 それ以上、何も聞かれなかった。俺がクッキーのこと、何にも聞かなかった、お返しとでも思っているのかもしれない。
 心臓が痛い。呼吸が苦しい。
 部屋に戻って、少し震える手で、開けた。中に何か、が、
入っている。
 読みたくなかったけれど、見ないでいることは出来なかった。俺はもう、確信している。これは、あいつからだ。
 さあ、覚悟を決めろ。
 勢いのままに開けば、予想に反して、それは手紙では、なかった。いいや、手紙、なのだろうか。たった一言。見慣れた文字で、書いてあるそれは、一瞬で視界に飛び込んできた。
 脳みそが処理しきれずに、その一言を、何度も何度も、読み返す。想像していた全ての言葉と違うその一言を、理解するのに、しばらく時間がかかった。
 そうして、理解して、俺は思わず、笑ってしまう。
 なんだよそれ、そんなの、ずるい。いいや、ずるいのは、俺だって同じだ。名前も無い、中身もない、リボンだけをかけた、空っぽの袋。宛名も無い、差出人も無い、たった一言だけの手紙。
 そうだな、分からない筈が、無かった。伝わらない筈が、無かった。だって、俺とお前は、ずっと隣で、下らない話を、していた。
「ちょっと出かけてくる!」
 走って飛び出す。今すぐに、伝えに行こう。
          この胸��爆弾が、俺を急かす。走れ! 今にも爆発して、世界を終わらせそうな、高鳴りよ!
          どうしてやろうかと思った。
 まさか、バレないとでも、思ったのだろうか。俺に分かるはずが無いと、思ったのだろうか。いいや、確かに、分かる方が、おかしいのかもしれない。けれど、俺には分かる。
 パスが通った時に、シュートが決まった時に、目が合った時に、或いは、教室で、下らない話を、している時に。
 俺とお前が抱えていたのは、全く同じ、ものではなかったか。お前の、その自慢の目には、見えていなかったとでも、言うつもりだろうか。
 いいや、違う。分かっていただろう。俺に分かったように、お前だって、知っていた筈だ。それをこんな、回りくどい手段で、俺に決めさせようというのなら、お前がずるい。
 お前は本当に、ずるい男だ。
 無視してやったって、よかった。むしろ、その方が簡単だ。名前も無い、中身もない空っぽの袋に、俺は好きな名前をつけることができる。名前をつけないでいることができる。
 けれど、俺は案外、みっともない男なのだ。あいつがどう思っているのかはしらないが、俺は、目的のためには、手段を選ばない。大切なものが、両手をあげて飛び込んできたら、みっともなくとも、そのまま掴み取るだろう。
 掴み取ってやる。後悔などしない。俺は俺に、恥じることなど一つもないのだ。
 しかし、実際、どちらが我が儘だという話だ。こうやって、言葉にされる前に、甘やかしてしまうから、よくない。悟って、理解して、動いてしまう。下らないことばかりを喋る口で、お前は肝心のことを言おうとしないのだ。
 そうはいくか、と、思う。
 俺だけに決定権を委ねて、終わらせるなど、言語道断だ。お前の抱える感情には、お前が自分で名前をつけろ。俺は俺に、決着をつけるので手一杯なのだから。
 暫く考えて、手近な便箋を手にとった。長々と、書いてやるのもにくらしい。そもそも、そう、伝わらないと、思っていることが、腹立たしい。気がつかれないと、思われていることが、腹立たしい。お前が俺を見ていたように、俺だって、お前を見ていたのだと、何故、気がつかない。大馬鹿者。
 一言だけ書いた。宛名も差出人も、つけなかった。明日の帰りにでも、直接郵便受けにいれてやろう。別に、他の誰に開けられて、困るようなことは書いていない。あいつだけが、分かればいい。あいつだけが、分かることを、書いた。
 さあ、この愚かな戦争に、別れを告げよう。
「お前は、リボンを結ぶのが下手くそだ」
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