Tumgik
eau25 · 1 year
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お父さんとお母さんと暮らしていたとき、わたしにはお気に入りがたくさんあった。手放すときが来るなんて考えず、好きと思ったものを集められる幸せ。あのころの私は幸福だったのだ。……お父さんとお母さんと私の3人で、愛をこめて作り上げた家。
わたしは、どうか文が幸せでありますようにと願っている。文の記憶の中で、わかしは不快な存在になっているだろうけれど、なのに、それでも、文の心の中から消し去られるのは嫌だった。度し難いと思いながら、今日も問いを投げている。―ねえ文、わたしのことを覚えてる?
わたしは、気づかないふりをされてるんだ。一番恐れていた答えだった。更紗という名前まで知ったのに、文の接客態度にはなんの変化もない。ぼくはあなたを知りません、という強烈ば拒絶。店にくるなと言われるほうが百倍マシだった。わたしは文の人生から消されたのだ。嫌悪や憎悪をぶつけることすら放棄されたのだ。
わたしはずっと文が幸せでありますようにと願っていたから、今、心から安堵している。なのにたまらなく寂しい。どこにも居場所がなくて、だからしっかりと手をつないでいた19歳の文はもうどこにもいない。あれは終わったおとぎ話なのだと、改めて思い知らされた。
記憶は共有する相手がいてこそ強化される。私はこれから、たったひとりであの二か月間を抱えていくことになる。幸せなほど重みを増すそれに、わたしは耐えられるだろうか
わたしは文が好きだ。あの女の人といるのを見たとき、大事ななにかを失った気がしたけれど、それは恋とか愛とか、そういう名前を付けられ場所にはない。どうしても何かに喩えるならば、聖域、という言葉が一番近い。
葡萄としかいいようのない、でも葡萄ではないまがいものの匂い。愛情もそうなのかもしれない。世の中に「本物の愛」なんてどれくらいある?よく似ていて、でも少し違うもののほうが多いんじゃない?みんなうっすら気づいていて、でもこれは本物じゃないからと捨てたりしない。本物なんてそうそう世の中に転がっていない。だから自分が手にしたものを愛と定めて、そこに殉じようと心を決める。それが結婚かもしれない。
愛とよく似ているけれど、愛ではない。亮くんは自分の空洞を満たしてくれる誰かを欲しているだけだ。わたしも似たようなもので、それが今夜露わになった。
手を出す男って、暴れたあとすごく反省するんだよね。世にも哀れに謝ってくんの。でも信用しちゃだめだよ。あいつらはスイッチがあってさ、そこ押されるともう止まんないのよ。押されちゃったらジ・エンド。あいつらの意思は関係ない。病気なの
けれど、あえて言ってしまおう。それがどれほどのことだ、と。
わたしと亮くんの間にするすると線が引かれていく。これは踏み越えられない。はっきりとわかる。
あの二か月のことは、わたしと文だけが知っている。それを誰かにわかってほしいと願ったこともあったけれど、もう、いい。どれだけ心や言葉をつくしても、わかり合えないことはたくさんある。手放すことで楽になれることは、もっとたくさんある。わたしはひとりになったけれど、それがなにほどのことだ。誰かと一緒にいても、わたしはずっとひとりだったじゃないか。
わたしのそういうところが亮くんを傷つけたのだ。
少なくとも、わたしは拒絶されていないのだ。それだけでわたしはどこまでもいけるし、なんでもできる気がする。壁越しに漏れてくる声を聞きながら、文が今、楽しい時間を過ごせていますようにと願った。
わたしたちは親子ではなく、夫婦でもなく、友達というのもなんとなくちがう。わたしたちの間には、言葉にできるようなわかりやすいつながりはなく、なににも守られておらず、それぞれひとりで、けれどそれが互いをとても近く感じさせている。わたしは、これを、なんと呼べばいいのかわからない。
「じゃあ両想いじゃん。つきあっちゃいなよ」「そういうのとは違うの。もっと切実に好きなの」「セツジツって?」「わたしがわたしでいるために、なくてはならないもの、みたいな」
これ以上なく切実に必要としていても、わたしは文とキスをしたいとは思わないし、ましてや寝たくなど絶対にない。文とはただ一緒にいたいだけだ。そういう気持ちにつけられる名前がみつからない。
人と人が一緒にいることにすら、目に見えないルールのようなものがあって、わたしと文は出会ったときから、そこからはじき出されている。いつも居場所がない気分というのはひどく疲れる。わたしはソーダバーをなめながら空を見上げた。
事実と真実の間には、月と地球ほどの隔たりがある。
どれだけ強くつかんでも、この手は離れる。わかっているのにつかんだ。幼いわたしの手を、文はしっかりとにぎってくれた。この世界のどこかに、わたしをつかんで放さないでいてくれた人がいる。それは15年間、わたしを支え続けてくれた。
どうか幸せでいてほしい。
ぼく自身が愛情に飢えていたのだ。誰かにやさしく名前を呼ばれたかったのだ。今日や明日の天気など、なんでもない話がしたかったのだ。谷さんに心からの感謝を捧げながら、そういう自分を心から卑しいと思っていた。
わたしと文の関係を表す適切な、世間が納得する名前はなにもない
事実と真実は違う。そのことを、ぼくという当事者以外でわかってくれる人がふたりもいる。もういいだろう?これ以上、なにを望むことがある?腹の底から、ぼくはそう思えたのだ。
人と人が一緒にいることすら、ルールみたいなのがあって、「ただ一緒にいる」ということをやるには、それなりの、何というか、努力とか覚悟とかが必要になってしまう世界なのであることには変わりないのだと思った。
最後、作者紹介の欄で「BL作品を精力的に刊行し」とあってえっ、と思った。でもだからこそ、名前のない関係について書いてくれたのかしら、とも。
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eau25 · 1 year
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自分の心を見つめているうちはな。でも、それを美しい物語に昇華させ、多くの人に喜んでもらえた時、君自身も、癒やされるのだ。
漫画家を…やめたら良いと…思います。
人間は強いぞ。大丈夫や
人生に曇りの日が増える。私の人生を晴らしたい
一番おめでとうと言ってほしい人に言ってもらえてないことに気づきました
スズメ、人間ちゅうのはな、大人になんかならへんぞ。
スズメは、リツくんの「何でも言えよ」を抱きしめて寝ました。
これからも、パパって呼んだら、なぁに、かんちゃん、って返事してる
これがずっと悲しい
死んでしまった人たちは、いなくなったわけではない。ここにいる。
再会しすぎでしょ、って突っ込みたくなるくらい再会する。5年後、2年後、もう何年後、と、年単位で会っていなくても、再会する。そして、形を変えながら、でも何も変わっていないかのように、再び始まる。そばにいたい、幸せにしたいという夢。その後の2人は、、耳をすませばと同じ問い。
夢見る力、希望を持つこと
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eau25 · 2 years
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今年もやってきました。
改まった手紙の書き始めに「風薫る季節となりました…」という言い方がある。いざ使うのは気恥ずかしいと思っていたけど、いま、私は言いたくて仕方がない。風が薫っている。薫りまくっている。
季節になると風に乗ってふわっと甘い香りがすること、小っちゃい花びらが集まっていることなどから、昨年あたりからライラックは北国のキンモクセイ説を唱えていた。キンモクセイへの憧れをこじらせたと思っていたけど、この前、大通り公園のライラックを嗅ぎまくっていたら足元のプレートに「ライラック モクセイ科」と表記があった。え・・ライラックはキンモクセイ説、証明された・・
調べて見ると、モクセイ科はキンモクセイ、ライラック、ジャスミンが仲間らしい。なんということでしょう。花は芳香を放つ、とある。そうだよね。キンモクセイとかジャスミンの香水、あるもんね。ライラックの香水あったら必ず手に入れてしまうわ。
キンモクセイは秋に香るから、言いようのないさみしさと相まって、エモく感じるのだろうけど、 ライラックは香るのが春だから、うきうきしてしまうね。それもいいと思う。ライラックを嗅いでうきうきする道民の人生もいいじゃない。
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eau25 · 2 years
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とある専門家に取材を申し込んだら、「私のことを取材するなんて10年早いわよ。これでも読んでから出直しなさい」(意訳)と返信が来た。まずは彼女の著作や論文を読んでから連絡をよこせというのだ。とてもいやな気分になったが、すぐに諦めるのもよくないと思い、耐えた。3カ月後(遅すぎ)、彼女が論文を寄せたらしいその雑誌はすでにバックナンバーになっていたので、読むためには図書館までいかなければならなかった。思いついた時は仕事中だったが、期日もないし、天気がよかったので図書館に行っていいかとキャップに尋ねると「俺はこれから耳鼻科に行く」と当たり前のように言うので、気兼ねせずに行った。
すぐ戻りますと言って出て行ったが、目当ての雑誌を見つけると、私の興味ど真ん中の内容ばかりで目が離せなくなった。件の論文をコピーした後は、気になる記事をぺらぺらとめくった。そのうち一つの記事は、何となく目が離せなくてその場で読み進めた。誰なのか全く知らない人が書いているけど、分かりやすく、勉強になり、考え方が共感できた。そして終盤にさしかかり、このフレーズにぶつかる。「先生がやめる気��がないから本音を言った」。……ん?…これ…あ!
思わず閲覧席でふきだした。ほんのこの間、私にこのフレーズを送ってくれた人がいた。見返すと、その人が送ってくれた新聞記事には、この雑誌を引用したと明記してあった。私はその雑誌名を全く忘れていて、知らず知らずのうちに、原典に当たっていたわけだ。結局、原典も素晴らしかった。
ぼんやり考えていることがあって、この先、再び別れが来るとして、そのあと、私は私のままで生きていくにはどうしたらいいだろう(スピッツ)ということだ。私のいいところを、どんなに社会に適合できなくても、言葉にしてほめてくれたり、変わっていく私を叱ってくれる(ユーミン)人はもういないだろう。では何を指針に生きていくべきか。こんな問いを立てる時点で、笑える話である。「それ以前」の私だって何とか生きてきたじゃないか。
行き着くところ、自分がこれだと思う方向へ動いていくこと、その分野を勉強していくことしかないのだろうと、最近思い始めている。仕事が忙しくても、いやいやこなす場面があっても、自分の心が求めるものが分かってきたのだから、それに正直に動く。行動してみる。そしたら、少なくとも、自分がいやだと思う人間像になったり、ぐずぐずと同じ場所に留まって訳が分からなったりすることもないだろう。自分で評価して、自分で進む。
自分が求める方向に進んで、その方向が似ていれば、別々の道を歩いていても、同じフレーズに当たってしまうみたいに、また出会ってしまうと思っている。そうしていれば、同じ感動や悩みをまた分かち合うことはきっとできる。年を重ねるほど「会おうとしなければもう会えない」人が増えていくのは一つの真実だけど、再会の訪れはそれだけではないと思う。もしずっと訪れなくても、私は、私のままでいられたと思えるように生きていたい。
別れが来たとしても、その先は真っ黒ではなく、また別のお話が生まれるのだと、10代から思っている。痛々しいけれど、本気で思っている。
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eau25 · 2 years
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自分で言ってて笑ってしまうんだけど、仕事中、ポータブルヒーターを机の下に潜り込ませて、こたつの原理で足元だけをあっためると、仕事してる姿勢を保ったままスヤァ…と寝てしまう。はっ、いかんいかん、と思ってヒーターを消すが、また寒くなって電源を点けるとどんなに忙しくてもスヤァ…と寝てしまう。
どんなに言っても休まない上司のことは説得するのを諦めてとことん付き合うことにした。こちとら限界ギリギリで働いているというのに、こちらの様子を見て気遣うどころか「おれよりきっと体力あるよね、ほら、バレー部だったからさ」って真顔で言ってくる。天然なのかな。男女間での体力の違いとかって存在しないのかな。しないですよね。ジェンダーレス社会ですもんね。
「私がおかしいんですかね」と吐き捨ててしまった深夜1時の帰り道、タクシーのおじさんに「いま帰りですか?ひえ〜お疲れさまですぅ」と言われて後部座席でぼろぼろ泣いた。帰宅しても収まらず、リュックを投げつけて、勝手にしろ、ばかやろう、しんじまえと叫んだ。私は悪くない。間違ってない。さんざん悪態をついてベッドに潜った時に、でも、この会社にいる限り、波はあれど、この長時間労働の光景はなくならないことに気がついた。すごく冷静になった。職権を持ってそうな大人2人に相談したのに、何も事態は変わらなかったんだから。「見てらんないな」と天井を見ながら思った。
来年度か再来年度やめる。やめるやめる詐欺の一環になってしまうかもしれないけど。この波が終わったら、自分の思うようにやろう。後悔しない、楽しんでやるという合い言葉は同じくして、手段は自由にやります。
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eau25 · 2 years
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お祝いしたい人の誕生日には、遠く離れていても、そこに本人がいなくても、勝手にケーキ食べている人の姿を見て、私もそうしてみようかなと思った。どっちがめでたいのか分からないし。本人も、気づいたらちょっとうれしいし。お誕生日おめでとう。
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eau25 · 3 years
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30も目前になって、「体に良い」というキーワードに釣られるようになってしまった。
22歳から働いて7年がたち、変わったことと言えば、無理をしないようになったことだ。最初のほうは、頑張っていたら周りが見ててくれる!と思い、多少の無理はご愛嬌だった。自分を追い込んでこそ美徳という意識も学生時代からすり込まれていたので、そういう姿勢が評価されることで満足していた。途中からは、それくらいのレベルで働くのがデフォになり、何とも思わないでやってこれた。
でも今年の3月、1カ月に3回お腹が痛くて救急に行った。仕事との因果関係は分からないけど、長時間労働をすることにものすごく抵抗を抱くようになった。普通に、体力的にもたない。
無理のきかない歳になりましたな~、くらいに思うのがちょうどいいのかもしれない。けど正直、毎日23時まで働くのがきつい。できない。できるけど、自分の人生なのにどうして、やりたいと心から思えない仕事に捧げないといけないんだろう、と思う。丸1日、仕事以外なんにもできない。
この前言われて確かにな、と思ったけど、私がもし、働き過ぎて倒れても、誰も喜ばないし悲しまない。「えっ、倒れたんだ~気の毒だね」「どうしてだろうね」「後任誰?」くらいの反応だろう。最悪「倒れるほど仕事してた?」とか言われるんじゃないか。「倒れるほど頑張ったんだね、えらいえらい」とは決して言われないし別に私も言われたくもない。これまでの過労死事例を見ていたらなんとなく感じるけど、会社側は基本的に仕事が原因で倒れたとは認めない。ていうか、仮に労災認定おりても誰か喜ぶのかな。喜ばないだろうな。
何にも考えないで23時や0時まで働けていたころに戻りたい。目の前の人が頑張りすぎていてもう頑張れないって思ってしまうのは初めてだ。
お願いだから誰かこいつを止めてくれ、と思う。もう無理だよこんな働き方。正直見てるのしんどいです。プレッシャーです。これくらいの時間をかけないとできない仕事なら、私にはもとからできません。 与えられた仕事があなたの想像しているスピードで終わりません。 俺と同等の時間をかけていないからだ、努力が足りないんだと言われるんだったら、もうそれは反論しません。私は求められる努力ができませんでした。
あなた以前、「俺は人より時間をかけないとできないから…」と言っていたけど、もし今のあなたが優秀で仕事ができて周りからの評価も高いのだとしたら、言っておきますけど、それは人より時間をかけて仕事をしているからという理由ではありませんからね。人より時間をかけて仕事しているけど、それがあなたの価値ではありませんからね。
もしあなたが倒れたら責任を取って仕事を辞めようと思っています。責任うんぬんじゃなくて、誰かの大切な人を奪った(縁起でもない)仕事を続けてられません。そんなの、あなたが一番分かってるじゃないですか。とは言えないけど。
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eau25 · 3 years
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あったかいは正義の話。
オンライン全社説明会で、手を挙げようと決めた瞬間から、心臓が縮こまり、吐き気を覚え、手が冷たいのに汗が止まらなくなり、座っているのに膝が震え始めた。
そのうち、腹痛がやってくる気配がした。経験を詰みすぎて腹痛の足音が聞こえるようになっている。こういうのは先手必勝と思い、まだ痛くなっていないが常備薬を内服した。
ここで、引き出しにブランケット(もふもふ)をしまっていたことを思い出した。手足は恐ろしく冷え切っている。全身くるまりたいが、画面越しになめられてはいけないので、主に腰から下をくるむ。下半身がじんわりあったまると、無事に手を挙げるボタンを押すことができた。ブランケット(もふもふ)がなかったら無理だった。
それくらい、あったかいことは私にとって重要な要素であり安心材料、秘伝の奥義である。自分のツイッターなんかを見返してみたら、ことあるごとに自分で用意したあったかい布団やあったかいココアに救われている。落ち込んだ時は太陽の熱を求めている。つらそうな人には早く家に帰ってあったかくするよう促している。あったかい味噌汁、あったかいオムライスに心を動かされ、牛乳をチンして飲む。労働後のチャーメンもあったかい。たまご粥で人を許す。暖房のついたディーゼル車の座席でおしりを火傷しそうになっているが、まんざらではない。しあわせフードはおでんと肉まんとホットココアで、ホッカイロは愛だと豪語している。忘れがたい思い出はあったかいとともにあった。
緊張や不安でどうしようもない時は、とりあえず手や足、お腹と背中をあっためることを勧める。疲れ切って何も考えられない時は、とりあえずあったかいお風呂かお布団に入ってほしい。何も考えなくていい。とりあえずあっためてほしい。
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eau25 · 3 years
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2021上半期ヒット曲CDTV、トップ3がいっきょくも分からなかった。 2021上半期は旬の食べ物とかにしか興味がなかった。
「かわいい」と言うと自動的に「かわいくない人」が生まれるし「仲良い」というと「仲良くない人」が生まれる。だから言わないようにしていたんだけど、気づいたら言わないようにしている言葉が多すぎて大人数でのコミュニケーションが苦手になってしまった気がする。1対1であれば、そういうことは気にしないで済むのになぁ。
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eau25 · 3 years
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夜の公園でブランコに乗って長話をした。仕事帰りにチャリを押しながらバスセンターの周りを5週した。どちらの夜も、いい夏の夜だった。お互いの顔はよく見えなくて、生ぬるい風が心地よくて、今なら何でも話せるという雰囲気だった。
ブランコに揺られながら、私の中でいちばん大事なことを、言おうとした。言いたかったし、言える空気だったけど、言わなかった。本当のことは1人にしか言いたくないのだと気づいた。もう誰にも言えないじゃないか。
恋バナが苦手で、10代のころから余りしたことがない。それでも、迷うことはあって、かなり昔に一度、信頼できる友だちに相談したことがあった。私たち二人にあった一連のことを話すと、話した途端、とっても「たいしたことのないもの」に見えてしまった。私の中では切実な気持ちだったのに、口にした瞬間に安っぽいものに思えてならなかった。友だちはきっと真摯に受け止めようとしてくれたけど、私の方が日和って、ふざけた感じで言ってしまった。ただのありふれた色恋沙汰。その友だちがどんな顔して聞いていたのかさえ、覚えていない。
社内のアンケートで好きな本は何ですか?と聞かれて本当に好きなものは答えないように、大切なことは大切な人にしか言わないでしょう。だから、そういうことなんでしょう。
今年の夏はずぅっと晴れていて、紫陽花があまり咲かなかった。コロナになってから、マスクをしているのに、季節に敏感になっている。季節の移ろいや旬の食べ物くらいしか楽しみがないということかね。
9月7日追記:ブランコに乗っていたとき何を言いたかったのか、思い出そうとしても思い出せなくなってしまった。こうやって人は変わっていくんだな
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eau25 · 3 years
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性暴力被害の実情を特集したクロ現を見てなぜか泣いてしまった。
感動したのでも、感情移入したのでも、かわいそうと思ったのでもない。
カンファレンスを開く支援者たちを見て「いいなぁ」と思ったのだ。
震える手を握りしめた人の話をきいて、何がつらいのか、トラウマの症状の程度はどれくらいかを話し合ってうなずきあって、弁護士や医者を紹介したりしていた。
こうした被害にあった人の話は取材したことがあった。テレビを見ながら、私は本当はどうしたいかと考えた。「伝えたい」ではなかった。「助けたい」だった。
本当は、決死の思いで話してくれた人の切実な話を、10分の1以下に圧縮したくない。1段落で消費したくない。事実が大事、とか言って言葉の端々を切り落としたくない。
本当は、その人が今後どうしたら回復していけるのか一緒に考えたい。これまでは自分に人を助ける力はないと諦めていたけど、それは確かに難しくても、支援者の集まりがあるなら、できるかもしれない。そこに私も加わりたい。
取材で特定妊婦2人に話を聞いて、紙面ではかなり圧縮せざるを得なかったけど、電子版を自由に書かせてくれて本当にうれしかった。2人の話を都合良く丸めず、書けるだけ書いた。新聞では書けない内容だけど、デスクもキャップもよく書けていると言ってくれた。当事者にとっては何の助けにもならないかもしれないけど、これで何人かの人が、彼女たちへの理解を深めたり、共感したり、あるいは彼女たち自身が心境を振り返る機会になればいいと思った。
被害者心理の専門家の先生に取材している時もすごくうれしかった。知りたいことがたくさんあった。もっと知りたいんだ。私は人間の心についてもっと知りたいんだ。どうすれば救うことができるのか、時間があるならもっとそっちに使いたい。抜く抜かれるの朝周りや、経済の勉強や、犯罪の構成要件なんかに時間を使いたくない。これまでやってきたけど、さっき、そう思った。
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eau25 · 3 years
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正しさとは何なのだろうか?守るということは、どういうことなんだろうか?「読者」という顔の見えない世論へ整合性を優先させ、社員の人生を深く考えたとはさらさら思えないうわべだけの持論を繰り返し、何が「当該社員を守る」だ?取り返しのつかない大きな精神的、社会的損害を与えておいて、何を何から守るつもりなの?バッカじゃないの。
ダブルスダンダードを避けるためがそんなに大義になるのか?「私の責任で決めた」と言えば許されるとでも思っているのか?あなたが引責すれば彼女が救われるとでも?「批判があることは承知している」というのはどういう意味なのか全く分からない。社員が甚大な精神的苦痛を負うことを分かっていて、それでも正しいほうを選んだということ?バッカじゃないのか。それで何から守ることができるというのですか?すでにネット上では目もあてられないようなリンチの状態になっているんですよ。ネット空間の危険性に全く敏感ではない昭和に取り残された方々が電子版記事など流すからこうなる。想定していなかった結果になりはじめたからビビって取り下げたんですよね?なのに何がスタンダードだよ。ねぼけてんじゃねぇぞ。
本人には言えないけどこれで将来に絶望したって仕方ないと思う。右も左も分からない健気な社員が上司に行けと言われたから行ったのに、逮捕されて取り囲まれ、1人で薄暗いところに連れて行かれる。その孤独感たるや。紙面には自分1人の実名だけが載り、容疑者として呼称され、上司の指示という弁解も満足にできないなか、ネット中に広がる。ただでさえ嫌われている業界なのだから炎上することだって目に見えているでしょう。もし最悪の事態になったら誰がどうやって責任取るんだ?責任の取りようもないですよね。想定していなかったとでも言うんですか?
実名報道というのは報道の使命に基づき、災害時や重大事件・事故報道の正確性、記録性を担保する趣旨のものだ。容疑者の実名は社会的制裁そのものだ。それを与えるかどうかが俗人的になってはいけないから厳格な掲載基準というものをみんな血眼になって作っている。その基準から外れてはいけないことは理解できる。でも今回は微罪中の微罪、そして常人逮捕、犯意もない。現場では、基準になくてもたとえば軽微な虐待事案の被疑者、性犯罪の被疑者とか、身内の事件の場合は匿名にしていたりする。そもそも学校なんて公共の建物だし普通は逮捕される案件ではない。今回は管理権の問題でしょ?ていうか基準なんてものはあくまでも基準でしかなく、事案の質によって検討することが大前提だと教わってきましたよ。上司の指示があったこともすでに伝わっていたはずだよ。それなのになぜ1人だけ実名で出す?「ダブルスタンダードを避けるため」ふざけんなよ。
なんか私の言っていることも支離滅裂かもしれないけど正しいことなんかより社員の将来を守ってほしかっただけです。匿名にしたって整合性をとる理論を組み立てることはいくらでもできたと思う。本当にあり得ない。おかしい。結果論かもしれないけど、なぜあんなに大勢で紙面を組んでいるのに誰も止められなかった?そういう会社ということなのか。
もちろん怒り狂う過程で、私だってこれまで何人の容疑者の実名を世に出してしまったのだろうかと考えた。数え切れない人たちが「人生終わった」と思っただろう。それを振り返って、犯意のない身内は守るけど、明確な犯意があって犯罪を犯している人たちは社会的制裁があって当然だとすんなり思ってしまった自分に吐き気を覚えた。われわれの「さじ加減」で人の人生を左右しているということだ。私たちは何がえらくてそんなことをしているのか。何様なのか。
でもだから、その怖さや罪を認識して実名か匿名かを判断してきた。現場はみんな分かっている。その怖さを、えらいおじさんたちは本当に分かって議論したのか全く信用できない。きっと絶対に分かっていない。ダブルスタンダードを避けるという至上命題しか頭にないんだと思う。バッカじゃないの。
本当にかわいそう。でも身内じゃなければ、こんなに心えぐられるほどの感情にはならなかった。考えていたつもりでも分かっていなかったんだ。本当に自分に嫌気がさす。
折しもまた2歳児の死亡事件が発生している。母親は虐待などしていない。なのにメディアは「虐待の有無を捜査」とか「監禁」とかセンセーショナルな見出しを取りたがる。虐待なんてしていない。一番の宝物だった。たたいたのは初めて。死んだのは事故だった。だったとしてもメディアは新要素でニュースを出さないといけなくて、背景ガン無視の犯行態様ネタを続々出す。もちろん実名。真実が明らかになっていないのに。 世間は虐待親として認識する。児童虐待への世間の忌避感は異常につよい。 逮捕され実名報道されれば、実際、人生をやり直すことが本当に困難になる。「そんなことする人とは思えない」。「そんなこと」って何だよ?!何もしていないんだよ???監禁って何だよ。ただの罪名だよ。
もうもうこんな人の人生を狂わせたりする仕事はうんざりだ。耐えられない。こんなことがしたいんじゃないんだよ。
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eau25 · 3 years
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道警のボックスにトラウマがあるのではなく、深夜に一人きりという状況が怖くておなか痛くなっているのかもしれないね。道警夜勤もそうだし、一人で残業していると不安になって集中できないしおなか痛い帰りたいってなる。それを指摘されて「お食事おじさんを思い出しているのかも」と思って、悲しくなった。でも不思議なことにそれに気づいたら少し楽になったかも。こういう無意識の苦しみってあるんだろうか。
自分が何に苦しんでるか、何がトラウマになっているのかに気づいたら、そこで8割、9割がた解決しているのかもしれない。
その話をしてたのに急にHDMI端子の話に変わったので、また悲しくなって泣いた。その後、優しくしてくれた。悪気はない。
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eau25 · 3 years
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厳しいことを言うようだけど
「厳しいことを言うようだけど」を言う人の心理。
驚くべきことがある。「厳しいことを言うようだけど」の後、何を言われたのか一切覚えていない。「厳しいことを言うようだけど」は普通、叱られている場面でしか出てこない言葉だ。私は叱られたのは確かだ。しかし、「厳しいことを言うようだけど」にひっかかってしまい、いったい何について叱られたのか…覚えていない。叱っている彼にとっては、ここまで前置きをしているんだから、相当重要なことを言ったはずだ。
いや、重要ではなかったということか?勉強になる話だったら私だって覚えているはずだもんな。きっと、「厳しいことを言うようだけど」は「今からあなたの甘ったれた姿勢を正しますよ」の合図だ。私は日頃から自分に厳しいから(自分で言うな)、大体のことは自分で自分に言ったことがあるのだ。今さら心に刺さる言葉などそうない。
「厳しいことを言うようだけど」と言う人は、①相手が自分自身に厳しくないと思っている。「俺が厳しく指導しないといけない」と責任感を感じるのだろう。だって逆に、いつも自らを追い詰めている相手には言わないでしょう。そして、②自分は普段は優しいと思っている。本来なら何の前置きもせず思ったことを言えば良い。「厳しいことを言うようだけど」とわざわざ前置きする理由は、いつもは優しくしているという自覚があるからだ。いくつか言いたいことを我慢していて、前置きの後の指摘は一つではないことが多い。本当は厳しいこと言いたくないけど、社会はそう甘くないから、成長してほしくて言うのだ。最後に、③自分の言っていることが正しいと思っている。大前提として、「厳しいことを言うようだけど」に続く言葉は正論でないと格好がつかない。自分のやってきたことに自信があり、姿勢や考え方にも一切の迷いがなければ発せない言葉だ。
厳しいこと言わなくてもよくないですか?分からない人には具体的に教えてあげればいいんじゃないですか??????優しい人は無理せず優しく言ってくれ!!!!!!!厳しいことは言わないでくれ!!!!!!!!
あなたが自分に厳しくて他人に優しい人間なのはもう分かりましたから。お願いします。
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eau25 · 3 years
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ライラックって、すごくいい匂いがするんだよ。
今年初めて気づいたんだけど、道を歩いているだけで、風に乗って香るの。緑がぐんぐん生い茂って、湿気が増えた空気の中に、ふわっといい香りがする。多分、花の蜜の香りだと思う。
これって周知の事実なのかなぁ。大通り公園が通勤ルートだったらすごくいい気分なんじゃないかなぁ。鼻を近づけて、深呼吸したくなる。マスクなどしてる場合ではないよ。 でも、いい匂いに気づいたのはマスクしてる今年なんだよ。不思議だよね。
それでね、思ったんだけど、「道ばたを歩いているとふわっと香り、季節を感じる」という点で…あの、キンモクセイと同じじゃない?キンモクセイって夏が終わって、日に日に秋の成分が濃くなる中で、ふとした瞬間に香って、小さい頃の記憶と結びついていたりして、もの悲しい気分になっちゃうんでしょ。実物は嗅いだことないから、知らないんだけど。
まぁ言いたいのは、北海道はキンモクセイ咲かないけど、ライラックは咲くじゃん。よく見ると見た目もちょっと似てるじゃん。つまり、われわれ北に生まれし者たちのノスタルジーはライラックにあるんじゃない?キンモクセイはライラックなんじゃない?
いやどんだけお前はキンモクセイに憧れているんだと。もはやキンモクセイを知らない人生へのコンプレックス。でもきっと本州の人はライラックが香るの知らないと思うんだよね。ていうか札幌の6月ってこんなに緑生い茂ってたっけ?生命力強すぎてウッてなるんだけど。ていう、話がしたいだけなんだよね。
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eau25 · 3 years
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ネオ・こんぺいとう
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eau25 · 3 years
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