Tumgik
hiruzenmegata · 2 years
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ピーター・パンと額について
2022年6月2日 
 大学院生のころの絵は、パネルの側面が荒かった。そもそも、絵を描くためには、準備としてパネルに加工をする。木製パネルにノリをぬり、薄い布を張って、その上からさらに塗料をぬって下地をつくる。ぼくはこの工程を、はっきり露出させていた。(オーソドックスなやり方では、側面にも、描画する面と同様、隅々まで塗料をぬる。木肌や布がみえることはない)また、描いている途中で、絵の具が偶然付着してしまうことも珍しくなく、これも含めて、パネルの側面はずいぶん荒々しい見た目をしていた。しっかりと言葉で説明することはできないのだけれど、そうあるべきだ、と信じていたから、そうしていた。絵を描いたパネルを、その上から紙やすりでけずってしまうのも、同じような信念で行っていて、これもやっぱり、言葉で説明することが難しい。絵というのは、たまたまなにかが描きつけられただけの、ただの物体なんだ、ということを、体で感じることで、描いている情景へ没入することを自分に防ぎたかったのだ。いまはそう信じている。  ところが、ここ数年間の絵は側面をなるべくきれいにしてやろうと気を付けている。塗料は側面の隅まで塗って、かわいたらマスキングテープを貼る。描画作業の影響を防ぐためだ。絵を描いているうちにマステ=側面は汚れていく。絵が描けたかな、と思うと、マスキングテープをはがす。真っ白い側面がでてくると気持ちがいい。マスキングテープをはがすことで、絵が「よそゆき」になる。
 ちかごろ、無声映画のピーター・パンをみる機会があった。活弁士の活弁を聞きながらの上映会だった。1924年、大正時代の映画で、アカデミー賞が開始されるよりも古い作品だ。第二回キネマ旬報ベスト・テンに選出されている。  なぞの少年ピーター・パンは、ネバー・ランドという島に、さらってきた子供たちと暮らしている。お話を動かすのはウェンディという少女で、彼女もネバー・ランドにさらわれるのだけど、そこにいる子供たちのなかでははじめての女の子で、「おかあさん役」を任され、子供たちの人気を得る。ピーターのそばにいる妖精のティンカー・ベルは、ウェンディが悔しい。ネバー・ランドを取り囲んでいる海には海賊がいて、ピーターを目の敵にしている。  ティンカー・ベルが死にそうになるシーンで、ピーターは突然カメラ目線になる。そして観客に呼びかける。「妖精を信じる子供たちの拍手があれば、ティンクは生き返るんだ!みんな!お願いだ!拍手をして!」あおられて、われわれは拍手を送る。もっとも、「みんな!もっと!もっと拍手をして!」とわれわれに呼びかけるその声は、活弁士のものなのだけど。
 ネバー・ランドはひろい海にぽつんと孤立している島だが、ウェンディたちは、空を飛んでネバー・ランドと行き来をする。つまり海は、「現実の世界」と「おとぎの世界」のあいだに位置するのではなくて、あくまで「おとぎの世界」のなかにある。  ピーターたちにとって海賊が脅威であるというのは、どういうことだろうか。(そういえば、子供たちの集団のなかのピーターの立ち位置と、海賊団のなかのフック船長の立ち位置は驚くほどよく似ている)ピーターたちが海賊と敵対しているのはまるで、「境界線のむこうにいる相手ではなくて、境界線そのものが脅威なのである」ということを示唆しているように思われて仕方がなかった。あちらとこちらの間に横たわる分断こそが敵なのだ、というような。
 ティンカー・ベルは、基本的にはきらきら光っているのだけど、死にそうになると光が弱くなる。観客(妖精を信じる子供たち)の拍手がおこると、ふたたび光りはじめる。古い映画だ。「映画の命」はやはり、投光にあるのだ、ということも、わざわざ考えついてしまう。  映画の世界は、スクリーンのなかにある。観客であるわれわれはそれを覗いている、という仕組みではあるけれども、没頭しているときにはそのあたりの境界はあいまいになる。活弁士の存在は没頭の邪魔にはならない。しかし、われわれとスクリーンの間に立ち、観客に対して水先案内人の役目を負うべくして物理的に明確に存在している活弁士は、構造的には、いわば「海賊」であるようにも思われる。境界そのものであり、かつ、おとぎの世界の側にいる。
 観光が下品なのは、「ものを見る」ということが、そもそも暴力的であることに由来する。事故現場を見物するのでも、咲いた花を眺めるのでも同じだ。自分という「特別な存在」が、自分の外側のなにかを観察し、裁き、判断し、感想を持つ。自分にとって、自分というやつは、常に特権的である。まったく何様のつもりだ。(あまりにひどい扱いをうけると、ときに人は記憶をなくす。あるいは、そのときの記憶は、ひどい扱いを受けている自分を、外から眺めている視点からのイメージになる場合もある。まなざしというやつは、場合によっては、とうの自分自身を突き放してまでして、冷笑的に観察を続ける)  旅行は楽しい。主人公意識が高まる。自分が、まなざしの特権に見合った、特別な存在であるような気がする。旅行者らはみんな主人公意識が高まっていて浮かれている。(観光地に生まれ育ち、そこで仕事をしている人々の多くは、そいつらに媚び、厚遇し歓待し、まさにわたしたちの土地、を踏みにじらせることで経済をまわしている。だとすると、浮かれた旅行者に対してスリを働いて口に糊をするのは、痛快だろうな、と思う。)
 十六歳の冬、ドヤ街と呼ばれる、日雇い労働者の町にいった。都会の一等地にある中高一貫の私立学校に通い、決してまったく貧乏ではないものの、家庭は安全基地としての機能をまるで果たしていなくて、こだわる部活や友人関係もない思春期の少年が、生活や人生に対しての歯ごたえのなさ、実感のなさに悩んだ結果だった。十六歳なりの切実さで、そうと自覚せずに物見遊山をしにいって、 「にいちゃんさっきからなにしてんだよ、ばかにしてんのかよ」  激しく怒られて、逃げた。恥ずかしくなった。  ばかにしているつもりはなかったが、そこにいるおっちゃんらがばかにされていると感じるのに無理はない。なぜなら、おれのやった行為はどう考えても、人をばかにする行為だ。だから、さ、ばかにしてんだよ、要するに。守られた生活のなかにいる少年が、そこでただ暮らしているだけの人たちを、まるで映画でもみるみたく参照し、見物する。映画はいいよね、こちらが、まなざしという暴力を(作品世界へ)ふるっていることを、忘れて、安全圏にとどまっていられるもんね、しかし構造は同じだ。映画の物語世界を観客としてながめるまなざしは特権的で、だって物語世界のなかにいる登場人物たちは誰も、作品世界を観客のように一望できない。  とはいえ、なにかを眺めることなくしては暮らせない。生きていくことは、まなざしの暴力をふるい続けることでもある。まなざしや認識といった、一方向的な槍をふるって過ごさざるを得ないわけだから、そのような暴力性を自分が持っているというのをなるべく忘れないようにする、というのが、苦し紛れの可能性、残された倫理か。倫理っていうか、理性っていうか、このエッセイでの用語を用いるならば、自分と周囲の境界=海賊を意識する、という話。わたしが世界を眺める際、その水先案内をしてくれる活弁士。これは絵でいうと額なんじゃないのか。
 境界線があるなあ、という、ただそれだけのことを、ピーター・パンや思い出や、絵のことを通してあらためて確認している。そういう意味では、なにか新しい論が展開されるようなエッセイではない。しかし、まあ、エッセイですから、たいしたことがないことは棚にあげる。
 一般に、「現代」の絵画には額がない。一方、古い絵には額があるし、立派な彫刻の施されたものも多い。「現代」以前の、大仰にすら思われる立派な額は、見る者に、「このフレームの内側、別の世界なんですよ~」ということをわかりやすく教えてくれる。目立つ境界線によってもたらされる明確な分断が、鑑賞者に「別の世界へわたり、観光しにいく」という導線を、はっきり与えてくれる。    「現代」に「 」をつけているのは、「現代」に対する定義づけが、文脈や人によって違うので、たんに「おおざっぱないいかたですよ」とアピールするため、へんなアクセントをつけている(つまり「 」で額装している)のだが、この「現代」の絵画が額を捨て、抜け出したのには理由がある(とされる)。絵というものが、①ひとまずたんに物体であること ②それは現実の世界のうちに存在すること  を、大きな声で主張するためでもあったという。ところが。  僕は木製のパネルに塗料を塗って、そのうえに絵を描いているが、ここ数年間、その側面をなるべくきれいにしてやろうと気を付けている。側面の隅々まで塗料を塗り、マスキングテープを貼って、絵の具の付着を防いで作業をする。描きあがってから、マスキングテープをはがし、エッジの鋭い、真っ白い側面があらわれる瞬間、絵が「よそゆき」になる。作業という「日常のがわの世界」から、真っ白な側面は境界線として立ちあがり、画面は「むこうがわ」として、こちらがわから独立し、われわれは分断される。  これは、額を装着しているのと同じなのかもしれない。結局のところ。  ここに立ち上がってくるのは、めちゃくちゃ細かい話かもしれない。だって、「マステはがす瞬間に、額装してる気がしちゃう」なんてい���主観的かつ感覚的な「額」は、立派な額でしっかり装飾された絵画を前にしたとき明らかに実在している「額」と存在の質が違いすぎる。「額装体験」と「明らかに額がある」は同じじゃない。額には、コトとしての額と、モノとしての額、のふたつがあるのかもしれない。 「マステはがす瞬間に額装を連想する」という、超主観的なコメントは、僕でないほかの誰かが聞いたときには「なにいってんだかわからんなあ」となるだろうとおもう。ところで、僕の体はこれまでずっとだらしがないから、マッチョな肉体の仕上がりを眺めることはできても、自分の体を鍛えていくことで自分の肉体が筋肉という装飾をまとう瞬間を実感のなかでつかまえること、についてはまったく連想がはたらかない。連想がはたらかないから、正解かどうか、判断しようがないけれど、「なにいってんだかわからんなあ」の疑似体験にはなるかもしれない。
 ネバー・ランドで、ウェンディは子供たちに提案をする。「ねえ、みんなでわたしたちのおうちにこない? ベッドさえ運びこめば、みんな眠れるわ。ねえ、そうしましょうよ!」  というのは、ウェンディは「おかあさん役」にくたびれてきているし、ほかの子供らは「役」じゃないおかあさんを思いはじめてきたからだ。子供たちは賛同する。しかし、ピーターだけは首を振る。現実の世界の、ウェンディのおうちにはいきたくないらしい。理由は、「大人になんかなりたくないんだ。子供のままがいいんだもの」  このシーンをみたとき、現実の世界に「地に足をつけて」暮らすことを「大人になる」といっている、とは、思えなかった。そうではなくて、「大人になる」というのは、「一度ふり捨て、抜けだした、飛び出した、逃げた、否定した(いわば)実家に、(比喩的な意味で)戻ること」なんじゃないのかと思った。  そしてまた、こうも思った。映画の主役であるピーター・パンの嫌がる、「現実の世界からは切り離された世界に、わざわざせっかくやってきて、なのに、現実の世界に復帰する」というのは、映画館を出ることでもある、と。  ピーターはずっと、映画の世界にいたいのだ。映画を終わらせたくない。
 上映終了後に「劇場をでる」という体験ができるのは、映画館だけだ。映画館を出るという体験のもたらすよろこびは、それ独自のものとして、ある。  映画は劇場から、家のなかのテレビ、手におさまる機器のモニターへと、活動圏域をひろげてきた。生活との距離が侵され、身体との距離が侵されてきたわけだ。ところが、というか、だからこそ、映画館、という「わざわざ行って、で帰ってくる」をする空間の特殊さは、そこで流される映像の内容とは別個のものとして考えやすいのではないだろうか。(ところで僕の好きな美術館のひとつに豊田市美術館というのがあって、この美術館は、展示室同士が階段や狭い廊下で分断されているから、ある空間にはいって、それから、出る、という体験を何度もすることになる。この導線が、美術館のよさの根拠のひとつになっているのかもしれない)
 映画という体験はいつはじまっていつ終わるんだろうか。「STOP!映画泥棒!」や「上映中のマナー」のあと、急に静かになって、本編の配給会社クレジットがはじまるタイミングで映画の時間がはじまる気もする。あ、けど、遅刻して劇場にはいると、席着いたときからもう気持ちは準備できてる気もするな。反対に、映画の終わりはどうだろう。エンドクレジットの手前で心が切れるときもあるし、劇場を出るときの高揚も映画の一部かもしれない。昔見た、心に残る映画の時間を、いまなお過ごし続けている気もする。ともかく、プログラムにのっている「上映時間」と、心の感じる「映画の時間」は、少しずれている気がする。これは、「コトとしての額/モノとしての額」の話と少しばかり重なるのではないだろうか。
 古い絵を飾る立派な額は、「このウチガワ、別の世界なんですよ~」ということをわかりやすく教えてくれる。現実の世界と絵の世界が額というぶっとい境界線で区切られているために、鑑賞者は「別の世界へわたり、観光しにいく」という導線をはっきり与えられる。「行って帰ってくる」という経験は日常を活性化する。だってほら、「お祭りのときだけ食べる食材」とか「特別なときにだけお酒を飲む」といったルールも薄れ、たいていのものなら各自の好きなタイミングで買えばすぐ飲食できるようになったら張り合いがなくなった。張り合いがなくなったからこそ、「特別な記念日!」をつくってみたり���するのだけど。  私が夏、ひとりで素麺を茹でて食べていることを伝えたら、友人のIくんが驚いていた。それも、ただごとでない驚き方で。「素麺って、普通に売ってるんだ!」と叫ぶのである。というのは、Iくんの認識している素麺は、「お盆に親戚で集まったときにだけ出てくるもの」だったから。 「じゃあほかに、たとえば、年末年始とか、特別なメニューあるの?」ためしに質問すると、「年末は、家でしゃぶしゃぶするのが恒例だね」という。私はたいへん驚きました。しゃぶしゃぶ食べたことない、ていうか、しゃぶしゃぶを家でやるという発想/家でできるものだという認識がそもそもなかったから。  素麺は普通に売っているけれど、「素麺は特別なもの」と信じていれば、現実の世界のなかには(滅多に)登場しない。海賊たちにディフェンスされているから、登場の際には「海からやってきたぞ!」の驚きがある。  現代という言葉に「 」をつけたけれど、そうしなくても、言葉という象徴/記号を使用している時点で乱暴にいえば額装はしている。指示対象がある、というのはそういうことだ。自分がなにかをまなざすことすべてに加害の可能性が含まれているのを知るように、絵がある以上、絵の内外を区切る境界を取り除くことはできないし、言葉の意味と同様に、境界線が厳密にどこに横たわっているのを知ることはできない。泉の源を取り出すことはできない。  まなざしは、とうの自分から遊離することがあった。とはいえ、その自分ってやつは、まなざしの所有者という特権階級の主人公のことでもあった。海賊はあくまでピーター・パンには脅威であるけれども、あくまで「おとぎの世界」の側の存在なのである。白い壁の前にリンゴがあるとする。網膜という平面に、その情景がうつっているとする。つまりリンゴが見えている状態。目は立体の半分しか見れない(リンゴの裏側は見えない)から、リンゴのうち、見ることのできる範囲ギリギリを少しでもはずれれば、リンゴの表面は見えなくなる。そのかわりに背景の壁がみえる。網膜上で、リンゴの「範囲ギリギリ」と白い壁が隣接する。そして結果的に境界線ができる。が、この境界線は「リンゴの」輪郭だ、というふうに、ふつう一般は信じられている。    妖精を信じる子供たちが、現実世界とは切り離されたシアター空間のなか、目の前に投げ出された光に溺れ、同時通訳者のようにその存在感が透過されている活弁士の声にあおられて手をたたく。体を動かして、音を出して、それをみんなでやって、みんなおんなじ方向をむいていて、おんなじことを祈っていて、高揚していて、興奮していて。なんだか軍大会に参加する青年たちの姿が浮かんできます。そう、この瞬間、劇場の子供たちは、ネバー・ランドの子供たちと同じように、ピーターの指揮下にまんまと誘い込まれ、転がされている。子供たち、ピーターのもとを去りなさい。映画の光のなかで一生を過ごしてはいけない。劇場を出て、おうちに帰りなさい。なぜなら映画館とは、劇場を出て、おうちに帰るためにあるのだから。  クリスチャンでもある遠藤周作が著書『私のイエス』で、「神がいるのか、いないのか、わからない、迷っている、疑いを捨てることができない」と悩んでいた。ところで、サンタさんを「信じてる」子供はいない。子供にとってサンタは「信じてる」じゃなくて、「いる」、だ。「信じる」というのは、期待通りにはいかない可能性があると知ったうえで、それでもそこに賭ける、ということなのかもしれない。どうだろうね。
(おしまい)
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hiruzenmegata · 2 years
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20220201 覚書 そして告知
「生活」がわからない。「泊まる」「過ごす」はどういうことを言っている言葉なのか見当がつくが、「住む」や「暮らす」は、結局どういうことを指しているんだろう。それがうまくつかまえられない。「自分の部屋」はわかる。その言葉で示される意味の感覚的な輪郭をまだ観察できる。所有とナワバリ意識の話だろうと思う。ところが、これが「家」になるとわからない。結局なんのことをいっているのか。「家」って、どういう意味なんですか?
自分がつくったものには、そういった疑念が反映されている気がしてならない。
人は、「わたしがいまここにいる」という状況を常に続けているわけだが、ぼく自身の実感のなかに「わたしがいまここにいる」という確信がどうも薄い。「ほんとうに「わたし」なんてものがいるんでしょうか、どこにいるんでしょう。わたしがいる「ここ」と「わたし」に、いったいどんな関係があるというのか」というような疑念に、昔からずっと、からめとられ続けている。いつもそうだ。自作のすべてに、その疑念は共通していると思う。学生時代から、離人感とか、浮遊感とか、疎外感とか、そういう言葉をキーワードにし、自作をプレゼンすることが多かった。もちろん、どう受け取ってもらっても構わないのだけど。
いま思い出すのは高校生の頃、通学路に発見したあるアパートのこと。なぜか施錠がされていない空室があって、たまにそこに忍び込んでいた。なにもない部屋に寝転んで過ごしていた。自分がいるのは、誰もいるはずのない場所なのだ。行方不明の快感です。
具体的で特定的なものであると同時に、匿名的で、ほかのなにかと区別することが難しいもの。そういった両義性・しっかりしたフラジリティをかたちにしようとしているのではないか。自分の制作を反省するときに、最近はそんなふうに思っています。
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具体的であると同時に匿名の空間にぼんやり目をむけている・・・みたいなシチュエーションの絵が集まることになりそうです。絵描きとしては、絵ってなんなんだろう、みたいな、素朴でラディカルな問いを掘っているつもりでもありますが。
LandはSeaと対になる言葉です。Ground(Skyと対になります)が、その地面にまさに立っている人からみえる地面のことであるのに比べると、Landをみている視点人物はLandの外におり、浮遊しています。
「わたし」が立っている場所にとって、「わたし」はいつも、よそものでしかありません。つまり「わたし」は、「わたし」がいる場所の外にいます。いつもそうです。
わたしがいる、ということをその外側から眺めることにつながる眺めを集めた場所になればな、と思います。
--------------------------------------------------- 蒜山目賀田 個展 「LAND」 会期 2022/2/11(金)-2/20(日)[会期中休廊なし] 時間 12:00-19:00 会場 数寄和(西荻窪駅最寄り) 〒167-0042 東京都杉並区西荻窪3丁目42−17 詳細 https://sukiwa.net/ ---------------------------------------------------
◎    ステートメント文をつくろうと思ってそうはならなかった、という文章
「です・ます調」は丁寧な言葉ではない。喧嘩してるときにだって使う。なぜかというと、これが「距離」を示す言い回しだからだ。喧嘩してるときは、「私とあなたは対立しています」を強調するために「です・ます」が用いられる。「です・ます調」が丁寧な調子のように思われるのは、距離を示す言い回しが丁寧な響きになる場面が多くあるからだ。というのは、日本語の世界観では、控えめで、距離をとったような態度こそが、丁寧で、品の良いものとされているということ。このことと関係があるのかまではわからないが、誰にも、他人の「人間としての存在感」が生々しく感じられるとストレスになる傾向があるように思う。街中ででくわす他者には、ぜひとも透明で匿名で、人間としての重みがない記号であっていただきたい。ここに生々しい存在感はいらない。電車内での通話とか、化粧とか、駅でカップルがいちゃいちゃしてるとか、そういうのが「マナー違反」なのは、どうやらこのあたりにヒントがありそうだなあと思う。
私の友達に、知人の性愛についての話を心底聞きたくない、という人がいます。嫌悪感の程度は、話のグロテスクさと関係がない。単純に、友人に、恋愛する動物としての存在感を示さないでほしいらしい。友人として気持ちのいい距離を侵犯されるから不快になる、ということのなのかな、と勝手に想像している。
恋愛関係はじめ「親密さ」の関係は、標準的な距離感の侵犯が起こっているという状況ともいえる。もっといえば、「好き」「仲良くなりたい」って気持ちは、侵犯を起こしたい、という欲求なのかもしれない。
透明な記号としての人間は清潔で、すべすべしている。社会的/個人的に程度は違うものの、自分と他人との間には常に、ある一定の距離が保持されているのが安全である。距離がきちんと保たれているかをチェックするアンテナを我々つねに張り巡らせているようで、それが機能して共同体ってのがあり得ているのかも。( 虫や鳥や魚、いろいろな動物が群れを成して動くとき、その動きは、ほんのいくつかのルールに基づいている。4種類だっけ。「ルール?展」でみました。 )
ところで、欲望というものは、禁止されることによってよりあおられ、高められる。注意がなけりゃやろうと思わないことでも、やめろ!といわれるとやりたくなる。・・・一定の距離を保たなければならないという抑制があればあるほど、目の前によりぶ厚く膜をはる他者性を突き破りたくなる?
(「性愛」についても「親密さ」についても、めちゃくちゃな多面体であるのは承知のうえでだけども、)以上の考えによって、私は人類共通のタブーの理由を自分なりに少しつかんだ気になりました。つまり近親相姦と人肉食です。なんでタブーなのか、よくわからないというか、もやもやしてたんですよね。人肉食も、客観的にひいた視点でどうのこうのいうことはできるけど、それよりも、「自分」の範囲の中に「他者の存在感」がはいりこんでる「感じ」がしすぎるから、食べると「自分」が壊れちゃう。だからあやうい、こわい、きもい、ということなのかも。
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hiruzenmegata · 3 years
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2021 10/26 お知らせと日記
まずお知らせです
西荻の数寄和という場にてグループ展に参加します。話はさっそく、このグループ展から離れますが、ここは額や筆など、絵の具以外の画材を取り扱うお店の本社事務所でもあり、夏に「ギャラリーに行こう」というタイトルの公募グループ展をしています。この公募グループ展は毎年夏の恒例イベントです。若手らを中心に発表の機会を、そしてお客さんには作品を買ってみるというのをご案内する(たくさんの多様な小品が並んでおりますので)狙いもあっての、作家活動サポート企画でもあり、わたしは昨年と今年と連続で参加させていただきました。今年はとくに、「数寄和賞」という賞をいただきました。じつは恒例企画「ギャラリーに行こう」では、会期終了後に1名へこの賞を授与し、副賞として数寄和での個展開催を贈っている。で、今年それをいただいたわけです。ですので近く、数寄和さんで個展をします。まだ話はお知らせをできるほどかたまっていませんけれども、できれば来冬に行えれば、というつもりで制作をすすめておりますよ。
それはそうと、直近の開催となるグループ展のお知らせをいたします。
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「音楽を表現」と書かれています。
どういうグループ展なのかわたしなりに紹介をしてみます。っていうかDM画像に書いてあるまんまなんだけどね。要するに、「音楽をインスピレーション源とする」をルールに、レコードのサイズの作品を制作する、という企画になっております。参加者はアバウト同年代、美大出身者ばかりですが、学科でいうと油絵学科も日本画学科も。
インスピレーション源とする「音楽」は特定の楽曲でも、アルバムでも、アーティストでも、あるいは架空のミュージックでも、数寄和さんとしてそこに縛りはないのですが、わたしは特定のアルバムを念頭において3枚の新作を描きました。
「これをもとに絵を描くぞ!」って下心ありきで音楽アルバムを探すと、どうしても変にりきんでしまうだろう。そう思ったので、友人にこう頼みました。「音楽で絵を描く企画に参加するんだけど、「お題」みたいな感じでさ、なんかてきとうにアルバム3枚紹介しておくれよ、音源送っておくれよ」
んで3枚の、きいたことのないアルバムの音源を渡してもらいました。自分なりにこのアルバムのジャケットを描くぞ!ってなモチベーションで取り組んでみました。
10/29-11/7 12時から19時 (30日土曜のみ17時までだそうです)
ということで何卒よろしくお願いいたします。
なんだか最近忙しいです。忙しいし、ちょっとしたポカが増えてきており、しかもそのひとつひとつにそこそこ凹んでしまう、ダメージをくらってしまう。そうでなくてもなんだか人肌恋しいし、なんとなく元気が出ない、カラっとしない。よくよく考えると、これはもしや、これが、秋ということなのか。秋だからなんじゃないのか。「秋を味わうぞ」みたくこっちから働きかけていることはないはずなのに、秋がおれをとらえて、潜入してくるんだ… 部屋のなか小忙しく過ごすうちにも季節の干渉をうけ、気分がすっかりコントロールされてしまうなんてこと、ほかの季節にはあっただろうか。ほかの季節のことを思い出そう。
たとえば去年の春。コロナへのおそれが世間的にも非常に高かったし、いわゆる自粛というのもしっかり行われていた印象で、無職の自分は急遽開催することにしたオンライン展覧会のため、開場時間にはウェブ会場の接続を有効にし、閉場時間にはアクセスを不可能な状態に戻し、翌日の開場までのあいだにWEBページのレイアウトや作品コンテンツを変更し、更新する、ということを連日やっておった。春を感じないが、春ではあったらしい。人にみられることがなくても、春には花が咲いている。人がそれを味わうことがないとしても、春がこないことなんてない。そう思うことには無常さ・残酷さ・酷薄さと同時に、なにか赦しがあるなあ。死を思うことにも似ている。人はいずれ死ぬ、すべては平等にいなくなる。けどこんな解像度でのかみしめ方をするときは、目の前にない死を思うときだね。葬式に参加してまでそんなフラットな感じになることはそうないね。大往生みたいな死じゃなければまずはそうはならないんじゃないか。
今年の夏には、近所に住む友人Aと友人Bと公園で花火をした。国分寺市は公園花火オッケーなので。また、友人Aとは西荻にかき氷を食べにいった。「花火とかき氷」だなんて、かなり「夏」を満喫したような気がする。いや、「夏のイベント」項目をスタンプラリーしただけで、季節そのものを味わってはいないのかも。自信ないな。これ書いてて夏が恋しくなってきた。(色だけ鮮やかで、けどどうしてもぼーっとしてしまう草むらを眺めながら、垂れていく汗の筋を感じるだけで首のどこに道をつくっているのか想像できる。健康な発熱をする肌とTシャツのあいだにわだかまる暑けた空気にあんがい少年っぽい匂いの気配がひそむ)はあ、いいなあ夏。いま、気づくと友人Aと友人Bは恋人同士になっていて、ぼくはAともBとも遊びづらくなってしまいました。ここ最近のメランコリック、必ずしも秋だけのせいじゃないかも知らんな・・・
数寄和に通うこともあり、今年はよく西荻にいく。友人Aとも、かき氷よりも前、6月くらいかな、そのときにも西荻にいきました。たまたま見つけた古本屋にびっくりしました。わたしが高校生のとき、学芸大学や都立大学の古本屋によく行っておったのですが、これらの古本屋の系列店だったんです、西荻にあったやつ。こんなところで、懐かしいこの感じ!と驚いて、思わず飛び入りましたがいい店です。棚の分け方と並びが独特なんです。「ミステリー」「時代小説」とかではわかれてない。「ハードボイルド刑事もの」「医療ミステリー」とか、ちょっと細かいのよ。んで、エロ本とカメラ雑誌、「エピステーメー」や「銀花」、少女漫画と「山と渓谷」、ひとつの廊下を構成する棚にさまざまなジャンルのものがひしめいている。さらに、そうだな、たとえば「開高健(かいこう・たけし)」というインデックスに並べられた文庫らの背をみるとそこに並んでいる本の著者は開高じゃない。里見惇、内田春菊、古井由吉、北杜夫、とかが並んでいて、めちゃくちゃなんですよ。
つまりさ、いろんな本があるんだよなあ~っていうのがひと目にはいってくる店内であり、思いもよらなかった本に出会う「事故」の可能性が高い場所でもあるってわけで、これが楽しくてよく通っていたものです。
ここにかつて書いたことがあったかどうか。姉がいるのですが、彼女は非常にかき氷が好きで、かき氷マニア、かき氷オタクで、聞くところによると平日には毎日モンスターを飲み、週末にかき氷を7杯ほど食し、んでもってそのときに撮りためたかき氷写真を一日一枚切り崩しながらの毎日更新かき氷インスタグラマーとしての活動(?)をしている。友人Aと花火のかえり、 「もうちょっと、あとひといき、夏を味わいましょう!」話してかき氷というワードがでてきましたから、わたしは久々姉に連絡をいれ、その結果西荻の店を紹介されました。hanakoとかいうお店で、味のある民家が店スペース、むかしのiPodシャッフルからDEPAPEPEが流れていました。DEPAPEPEが演奏するマイケルジャクソンの「スリラー」を背に、コーヒー味のかき氷を食べる。後日報告した姉からは、「おすすめした味のやつ選んでないのウケる」ときました。 
友人A、高校生くらいのとき雑誌かなんか読みこみつづけることで、まったく聞いたことはないのに、そのときどきではやってる曲とアーティスト名だけ覚えてて、口から固有名詞がよくでるもんだから、「めっちゃ音楽聞いてる、詳しい人」として自分を偽っていた、らしい。こんな話じゃなかったかもな。まあいっか。あ、あと東京事変の話もした気はする。まあ無理に音楽によせなくていいか。
あうそうそ、音楽に寄せられるぞ。
えっと、まあひとまず続けるか。友人Aと西荻hanakoをでて、それから吉祥寺、そして三鷹へと散歩をしました。三鷹駅で電車に乗って立川までいき、立川で焼肉を食べて帰りました。吉祥寺に、さっき消火されたばかり、みたいな生々しい黒焦げの建物があって、その前を通りがかったときの友人A「クロウカードのしわざかもしれない」と急にカードキャプターさくらみたいなことを、おれに聞かせるでもなく呟いていて、こわかった。お前はカードキャプターじゃないぞ。立川でセミかカブトムシか、おおきめの虫が飛んできたとき、ビビったわたしが「あっおおきめの虫ですっ!」と路上で叫んだら、友人A「おおきめの虫です?」と、 おれに聞かせるでもなく小声でわたしの言葉を繰り返していた。文句がよ、あんのかよ。
あれはもう4年も5年も前のこと。D君という、まあそれはそれは品のよい美少年と知り合いまして、多少仲良くなったために、ごはんでも食べようちゅって西荻にいったことがありました。西荻でうろうろし、でけえ木のある公園にいき、湖のある公園にいき、それはD君の希望でいったんじゃなかったかしら。彼は音楽やっていて、当時は(いまもつづけている)バンドの立ち上げのときだったんじゃなかろうか。僕は音楽をしているわけではないけれども、まあ、いうたら「ヤング・アーティスト」をしているので、そんなわけで買いかぶりの多い一種の憧れみたいなので仲良くしてくれてたんじゃなかろうか。西荻で昼食を食べたあと、吉祥寺へと散歩をしました。途中、明らかに民家でしかない建物に、オール小文字での「hanako」という看板がでているのを見つけ「ケッ! いかにもまあ、中央線 高円寺・阿佐ヶ谷~吉祥寺 のかんじ!!」と印象を受けました。まさか姉にすすめられ行くことになるとは。D君との散歩は夏、とても暑い日で、わたしは汗だくになり、自分がくさくないかを気にしている。
吉祥寺について、喫茶店にはいる。美少年D君は「ちょっとお手洗いに」と席をたち、少し経って帰ってくると、便器が和式だったことにはじまり、「いまうんこをしてきた」という話をしっかりしてくれました。ちょっとだけ、ひいちゃった。ひいちゃったっていうか、戸惑った。その、そんな人、はじめてだったので・・・。
※音楽の話ができる!って思ったのだけど、D君の環境や、彼自身のやっている音楽のことに言及すると、かなり個人が特定できるのでできませんでした。
かき氷大好きねえちゃんとはそんなに会わない。連絡もそうない。ぼくが久しぶりに声をかけたこと、しかもその内容が彼女の大好きなかき氷についての質問だったこと、それなりにうれしく思ってくれた���しい。さて、つい先日、母方の祖母が亡くなったため葬式にいきました。95歳の大往生で、とても「いい式」だった。そこで久々に姉に会い、さらに葬式のあと、姉と一緒に下北沢にいきました。んで、姉の彼氏と会いました。これは当日いきなり決められ、巻き込まれたイベントで、わたしのみならず姉の彼氏としても突然の流れだった。先に下北沢で待っている姉の彼氏は、恋人たるわたしの姉に対し「青と白のストライプのシャツです」と初対面待ち合わせみたいなメッセージを送っていた。俺との初対面がちらつくので出てきた言い方なんだろうかな。弟さんのことはたびたび話にきいてます、とにこやかな彼の口からも、西荻のかき氷屋を教えて!って連絡によろこんでいたとの言質をいただきました。
姉は猫と暮らしている。ちかごろ、ディープラーニングを活用した「猫語翻訳アプリ」というのがある。ジョークグッズなのではなくて、ほんとうに、それなりに、信用のできる情報処理アルゴリズム、だそうです。猫の声や訛りではなく、周波数というか、まあ、知らんけどね、どういうニュアンスの言葉なのか、というデータを蓄積しまくって、それを活用し、かつまたデータ収集もしてる、というアプリ。
姉が暮らす猫は、ちょん、ちょん、ってつついてきたりはするけど、体あんまし触らせてくれない。そんなクールな猫ちゃんの言葉をこのアプリで翻訳してみると、画面には「愛しい人!」「こっちをみて」「かまって」「愛してる」「大好き!」「わたしはここよ」など、かなりヘヴィな愛の言葉ばかりが並んだ。姉は胸を甘酸っぱくときめかす。なんということでしょう! んで、逆の発想を思いつく。自分が猫をあやすときにときおり口にしてる猫の鳴きまねが、どういうニュアンスで猫に伝わっているのか、興味をもった。ためしに、いろんなイントネーションでの「にゃ~~」をアプリに話しかけてみた。すると、「おい!かかってこい!」「喧嘩だ!」「喧嘩の時間だ!」など、すべて攻撃的な文言になったという。「もう猫の鳴きまねで話しかけない」と決意したという。
けど言葉の意味って固定した1対1対応のものじゃなく、むしろ使用のなかでどんどんかわっていくものだから、毒蝮三太夫の「クソババア」みたく、姉の鳴きまねの「喧嘩だ!」も、「この人はこういう愛情表現なのね」と、猫側がそう解釈を更新していってくれる可能性はある。
これは思い出じゃなくてまさにいま、まさにいまのおれのこと。部屋にいる。朝の四時です。ベッドにブルーシートしいて、そこにパネルならべて、塗料ぬって、乾かしてる。いま朝の4時の前。さむい。寝るに寝れない。さむいね、さみしいなあ。
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hiruzenmegata · 3 years
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2021 0522 展示告知
①息をしているうちは、いつでも窒息する可能性がある。いつだって窒息できます。 ②「事故りかけた」瞬間、おののいたあとで胸をなでおろし、 幸運を感じる。 「九死に一生」なんて言葉もある。けれどたとえば、これまで外を歩いてきた時間の、漏らさずすべてのタイミングに交通事故の可能性はあったし、いまこの瞬間だって、地震や血栓の可能性をかいくぐり続けることに成功している結果、まぐれの帰結だったりする。 ③誰の視界にも「視界の端」はある。いつもある。けれどそれが「端」である以上、注視されることは決してない。
長いことこのようなことを考えてますから、それでこの展示名です。
蒜山目賀田 個展
「窒息のチャンス」
2021.06.08(火)〜06.13(日) 12:00〜19:00 金曜20:00まで 最終日06.13(日)は16:00まで JINEN GALLERY web : http://www.jinen-gallery.com/
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hiruzenmegata · 3 years
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0517 目と絵のむきのこと
 縦長の絵を描くように気をつけている。  たとえばいわゆる人物画みたく明らかな主人公がいる絵の場合、縦長の構図で描かれることが多い。反対に、風景画は横長のものがおおい。自分の描く絵は、いちおうは空間を描いており、かつ、主人公的なモチーフをしっかり設定していない。だから横長のほうが描きやすい。いざ縦長のものを描こうと考えてみると、なかなか骨が折れる。このことに気がついてから、その苦労を選んで、なるべく縦長の絵を描くように気をつけている。  気をつける以前は、横長ばっかりだったけれども、もともと横長の絵を描こう!と意識的・積極的に選んできたわけではなく、結果的に、自然とそうなっていたのだった。
 それはひとつに写真の影響もある。小学生のころから、数か月に一度、インスタントカメラを買って、持ち歩いて遊んでいた。写真として切り取れるシーンがどこかにないかと探す欲望と一緒に過ごすのが楽しかった。大学生のとき、制作とは無関係な事柄で、個人的にかなり追い詰められている時期があった。自分が誰かに頼ったりすることは許されず、ばかりか気丈に振る舞うことが強いられ、不都合な事態や心ない軽口に囲まれるなかで、制作の成果を提出しなければ単純に単位をもらえない。アカデミックな技術、素養、知識、「センス」そういったものがまったくないという劣等感にあわせて、実際に技術や知識(つまり完成度をはかる基準)も不足しており、「とにかくヘンテコなことをしなければならない」という強迫観念もあった。無駄に焦って、しょっぺえものをつくって空回りするだけのつまらん学生だった。そうなのだけど、そのときばかりは、無駄なあがきができるような余裕がなかった。それで、子供の頃インスタントカメラで撮影していた写真をひっぱりだしてきて、単純に絵に描き起こしてみていた。  子供の目がとらえた、たとえばマンション団地の一画とかの写真を、あまりに拙い技術で描き起こすことは、自分自身について冷静に向き合うような時間にもなった。このステップが結局いまに繋がっているんでよかったです。が、話したいのはそこじゃなくて。  インスタントカメラは横向きに構えやすいつくりをしている。「スナップショット」の登場を支えたカメラ(ライカとか)も横向きが持ちやすい。人間は、ただ周囲をみるとき、横長の構図でものを見ている。人間の視野は基本的に横長である。LANDSCAPEを、素朴に素直にとらえたら、きっと横長になる。横向きに持つカメラと、歩きながらふと引っ掛かった情景を写しとる行為の相性は悪くない。  なにかを注視するときにはこの限りではない。写したいモノそれだけをメインに据える場合、たいていは縦長のほうが撮りやすい。人物しかり、酒瓶しかり。いまのケイタイ・スマホのカメラ機能は特にそうで、人やなにかを撮りたいときに、横長で撮ったら、余計なものが映り込みすぎてしまう。映画は横長だけど、いろんなものが映り込む余地があるという点こそがおもしろいのだろう。  以上の、「注視したいモノがあるなら、目の前の光景を縦長に切り取ったほうが効果的だ」を逆むきに辿ってもおもしろいかもしれない。すなわち「縦長のものは、注視を促す」と。モノリスに足が止まるのは、縦長だからなのではないか。縦長の前では、画面の中心と、それを見る体の中心をあわせたくなる。シンプルに、巨大な城壁よりも、巨大な塔のほうが「みやすい」。
 特別な注視はせず、ただ外部環境を眺めているときの視野が横長なのは、左右の目が、横並びについているからだろう。いきものが海からやってきたのであれば、それは納得しようがある気がする。  海は深いが、深さによって水温や水圧が変わるから、生息域は水平方向の層に区分けされているんじゃないかと思う。ほかの層よりも、自分の暮らす層の情報を汲み取れたほうが賢い。光を感知する「第三の目」たる視覚細胞さえ上方をむいていれば、下のことはサーチしなくてもいいだろうし、そしたら自分の層のあたりに食べるものとか、同種の仲間とか、どうせ水の中の視覚なんてそう頼りにならないだろうからこそ、せっかくの感覚器官で探る方角は水平方向のほうがいいんじゃないか。けどこれは、このあいだの記事で、昆虫のさなぎについての話で書いたようにただの思い違い、思い込みかもしれない。海の世界のことはわからない。
 どうであれ、左右のならびで目がついているから、生息域が緯度経度・鉛直方向に区分けさて生きる陸の生き物たちにも風景は横長に見えている。人は特にものを見るのが好きなので、しっかり横長にみている。空間や風景をとらえることとのつながりを思えば、横長のほうが風景画に適しているのは当然のこと ……とも言い切れない。掛け軸のことがある。掛け軸はじめ、屏風絵や絵巻物、パノラマが視野のそとにあった。目の前の光景を素朴に画面に置き換えるつもりでも、「絵にする」以上は切り取って編集しているし、そうやって作業したものを設置する物理的なスペースと文化的な居場所があってはじめて「絵」が成り立つ。だから、「構図の方向性」と「目の使い方」とに直接橋をわたすような発想の方法は短絡的にすぎるのだった。
 話は横道にそれるが、高橋由一の「鮭」は掛け軸を意識しているから縦に長い。工部美術学校で教鞭をとっていたイタリア人彫刻家ラグーザと結婚し、自身も画家であったラグーザ玉(1861-1939)の自叙伝にこんな言葉があるようだ。「油絵が、横では、床の間に掛けるわけにも参りません。そこで柱に掛けるやうに、あの頃は、よく細長い板に書いたものです。」
 構図の方向性と、目の使い方に直接橋をわたすような発想の方法はどこからやってきたのか。絵=キャンバスによるタブローという思い込みもあるだろうし、視覚を探る問いの多くをタブロー的な矩形画面(西洋絵画のほか、映画のスクリーンなども含む)に負いすぎてきたからだろうか。大きさの変わらない、壁に掛けられた四角形の内側を、周囲と独立した世界の表示された全体としてみる、というセッティングに慣れすぎているのか。  というか、要するに遠近法からきているのではないか。  遠近法を下支えするのは、画面全体を眺めるための「正しい」観測地点の想定である。この「画面全体を眺めるための「正しい」観測地点」は、そのままカメラの位置でもある。実際には人は、二つの眼球を細かく動かしながらピントを調整し続け、意識をかたむけたり、意識的にみないようにしたり、無意識のうちに無視してたり、それだけですでになかなかやっかいな視覚面のなかにさらに、意味や見覚えを読み込んで解釈しながらものを見ている。だから遠近法を支えている「唯一の視点」のごときものは、人間がものをみる、ということの実際とは違っている。ところが、われわれは、もはやすっかり、「リアルさ」および、光学的直接性によって、カメラのうつした写真が記憶や証拠のよりどころと頼りきるクセの染みついた以降の時代に生きている。もはやその視覚観の外側にいくことができそうにない。(特に結論とかはないです)
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hiruzenmegata · 3 years
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近さの / なかに / はいる
※この記事はnoteに書いたものをそのまままとめて移植したものです
→もとの記事(初回)https://note.com/megata/n/n47f8d146b717
[1]
花になるなら、飾らず、まっすぐに伸びるヒマワリがいい。モードが言う。対してハロルドは、一面に咲くヒナギクを見下ろしながら、自分はこの花がいいと言う。あの花この花の区別なく、たくさん横並びで生えている、どれでも変わりないようななかのひと花でありたい、と。そんなふうにヒナギクを評するハロルドに対し、同じ花なんてないとモードは意見する。それから、こんなこともいう。世の中の不幸のほとんどは、他人と同じように扱われることに不満を持たない人々が生み出している、と。
ところが、「どこにでもいるやつなんて どこにもいない」式のことを述べたてるモードは、とてもとても極端な人物なのだ。名もなき雑草のひと花ひと花に愛情深い態度を示すような、落ち着いた穏やかな人格ではない。独善的で身勝手な狂老女、とみなされても不思議ではない。
ラブコメというジャンルはどのような構造で組み立てられているか、という話のなかで話題にのぼり、紹介された映画『ハロルドとモード』を実際にみてみた。とはいえこの映画は、いわゆるラブコメというジャンル映画ではないように思われる。家人の目につくところで自殺を演じ続ける少年ハロルドだが、ハロルドの母は、息子が首を吊ろうと手首を切ろうと銃で頭を撃ちぬこうと、まったく相手にしない。「いつものいたずらね」ということで軽く流し、かわりに精神科に通わせたり、軍人の叔父に預けようとしたりする。ただし同伴・同席はしない。ハロルドは一人で精神科や、叔父のオフィスに通わされる。 ハロルドはいつものように、知らない人の葬儀に勝手に参列する。そこで知り合った79歳の老女・モードもまた、赤の他人の葬式に参加するシュミがあった。二人は巡りあう。 モードは常に人の車を運転する。公道の街路樹を引き抜き、人の車にのせ、料金を払わず高速道路をぶっ飛ばし、白バイ警官をまいて、山に勝手に植えにいく。シャベルだって当然盗品である。しかしあっけらかんとしていて、罪の意識はない。法を犯していることぐらい理解しているだろうけど、罪を犯している自責はかけらもない。めちゃくちゃである。 惹かれ合った二人が、きちんと一夜を共にする描写(朝になって、裸の少年と老女がおなじベッドで目覚めるシーン)があるのがとてもよかったです。 「ラブコメ」のジャンル映画ではなさそうだったし、それに「恋愛」を描いているようにも思われなかった。おもしろい映画だったけどね。さあ「恋愛」ってなにか。
このごろ読んでいた嘉村磯多の「途上」という自伝小説のなかに、露骨な切れ味の描写があってハッとさせられた。中学校のなか、からかわれたり後輩をいびったり、勉学に励みつつ田舎出身を恥じらい、色が黒いことをバカにされたり先生に気に入られたり、下宿先の家族に気を使いすぎたりして、なんやかんやで学校を中退して、実家に戻ってきた。ぶらぶらしていると、近所にいる年少の少女に目が留まる。いつか一度、話したことがあるきりだが、やたらと彼女が気にかかる。そこにこの一文があらわれる:「これが恋だと自分に判った。」 そんなふうにはっきり書かれてしまうと弱い。「はいそうですか」と飲み込むほかない。 けれど、恋愛を描いている(とされるもの)に、「これが恋」って「判った」だなんて明確に言及・説明を入れ込むことは、どうなんだろう。少なくとも当たり前な、お約束なやり口ではないと思うけど。 世の中には、「恋」「愛」「恋愛」という単語の意味するところがなんであるのか今一度問い直す手続きを踏まえずに、じつにカジュアルに言葉を使っているケースばかりがある。そうすると、その場その場で「恋」の意味が変わっていくことになる。その「恋」が意味しているものは単に一夜のセックスで、「恋多き」という形容詞がその実、「ぱっと見の印象がイケてた人と手当たり次第やりまくってきた」って内容でしかないときも少なくない。 まあけど、それがなんなのかを追究するのはやめましょう。というか、いったんわきに置いておきます。
さて『ハロルドとモード』の紹介された雑談のトピック:「ジャンルとしてのラブコメ」ですが、これは単に、「イニシアチブを奪い合うゲーム」であるらしい。そういう視点で構築されている。要するにラブコメは、恋愛感情の描写とか、恋とは何かを問い直すとかじゃなくて、主導権や発言権を握るのは誰か?というゲームの展開に主眼がある。気持ちの物語ではないのだ。描かれるのは、ボールを奪い合う様子。欲しがらせ、勧誘し、迷い、交渉する。デパートのなかで商品を迷うように。路上の客引きの口車にそれなりになびいたうえで、「ほか見てからだめだったらまた来ます」って断りを入れて、次の客引きに、「さっき別の店の人こういってたんですよね」とこちら側から提示するように。 イニシアチブの奪い合い、というゲームさえ展開できればいいので、気持ちとかいらない。ゲームが展開できるのであれば、主体性もいらない。ラブコメの「ラブ」は心理的な機微や葛藤の「ラブ」ではない。奪い合っているボールの呼び名でしかない。(つまり奪い合い=おっかけっこ、が、「コメ(ディ)」ってワケ)
浮気はドラマを盛り上げる。人が死ぬのも、まさに「劇的」なハプニングだ。雨に濡れて泣きながら走り、ようやく辿りついたアパートの部屋はもぬけの殻、ただテーブルにひとことの書き置き「フランスに行きます」みたいな、そんな派手な出来事で試合はいよいよ白熱する。ところが、心理的な機微や葛藤というのはいつだってモノローグ的だので、気持ちの面での「ラブ」を描きたいなら、このような出来事たちはむしろいらない。うるさすぎる。もっとささやかで、短歌的な味わいのものがふさわしい。ひとりでいるときに、マフラーの巻き方を真似しようと試みて途中でやめたり、チェーンの喫茶店の安コーヒーの味が思い出でおいしくなったり、そういうのでいい。出しっぱなしのゴミ勝手に片づけたの、ちょっとおせっかいすぎたかなってくよくよ悩む、とかでいい。
恋愛の感情・心理がよく描写されているように感じられる物語の登場人物は、内面的な葛藤に閉じこもらざるを得ないシチュエーションに押し込められている場合が多い気がする。「ひとには秘密にしてないといけない」「誰にも言えない」という制約のある環境。仕組みとして、宗教の違いや人種や年齢の断絶、同性愛など、自分の思いを簡単にひとに打ち明けられないセッティングの話のほうが、「イニシアチブ奪いあいゲーム」からは遠ざかる。(それに、そんなようなセッティングだと、「世間の常識」が要求してくるジェンダーロールを無視して鑑賞しやすい場合も多い。)
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[2]
成功した実業家の息子であるハロルドは、経済的にも肉体的にも不自由なく暮らしている。が、なんだか欠落を抱えている。自殺遊びや他人の葬式への参加など、死に接しているときが最も楽しい。老女モードは、そんなハロルドの世界観を一変させることになる。彼女はかなりアナーキーな存在で、逮捕されるようなことばかり繰り返している。けれど悪びれない。自らの行為を、自分らしい人生を過ごしている実感を与えてくれる刺激として肯定している。
J.G.バラードに『コカイン・ナイト』という小説があって、この頃これを読みました。あ、そもそもこの記事は、最近読んだものや見たものについて、できるだけ網羅的に言及できないかと願いつつ当てずっぽうで書き出した文章です。できることなら人とのやりとりや、自分の過ごした日常についても記したいが、それがうまくできるかどうか。
『コカイン・ナイト』の主人公はチャールズで、世界中を飛び回っている旅行記者です。退屈について、カリスマについて、刺激について。さまざまな切り口から鋭い洞察が重ねられたこの名作の入り口は、ミステリーのかたちをしている。 スペインの南、ハイパーセレブたちのリゾート地で働いているはずの弟が窮地にたたされているから助けにいかなきゃ! という目的で、チャールズは物語の舞台にやってきます。弟の状況はよく知らないけど、あいつのことだし、そこまで深刻じゃないだろう。そう高を括ってやってきました。ところがどっこい、弟、かなりやばい状況でした。 大邸宅が放火により全焼し、五人が焼け死んだ。弟にその容疑がかけられている。捕まって、留置されている。裁判を待っている。けれども、誰も、弟が犯人であるとは信じていない。警察だって例外じゃない。明らかに、弟の犯行ではないのだ。それでも弟は、自分がやったと自白しており、嘘の自白を繰り返すばかりで取り下げない。いったいなにが起こっているのか。どういうことなのか。 地域の人らはすべて疑わしい、なにかを隠しているような気がする。チャールズは素人ながら探偵のまねごとをしはじめ、地域の人々から疎んじられはじめる。チャールズにとって、地域の人々の態度と距離感はますます疑わしいものに思えてくる。そして実際、普通には考えにくい、歪んだ事態を数々目撃することになる。余暇時間を持て余したハイパーセレブたちは、事故を起こして炎上するボートを楽しそうに見つめていた。拍手さえあがる。
『ホット・ファズ~俺たちスーパーポリスメン~』という映画があって、平和な村=表向きには犯罪のない村を舞台にした話でした。「表向きには」犯罪はない、というのはつまり、法に反した行為があったとしても、届け出や検挙がなければ統計にはあらわれない、ということを示しています。
世の中にはあたまのかたい人というのがたくさんいて、俺もその一人なんだが、すべてのルールは事後的に構築されたものなのに、これを絶対の物差しだと勘違いしている場合がある。法律を破ったのだから悪い人だ、みたいな感覚を、まっとうなものだと信じて疑わない人がたくさんいる。身近に悪いやつ、いやなやつ、いませんか。自分のなかにも「悪」はありませんか。それと「被告人」「容疑者」はぜんぜん別のことではないですか。 陰謀論がささやかれている。「悪いやつがいる、たくさんいる、てのひらで人を転がしているやつと、愚かにも転がされているやつがいる、自分はその被害者でもある」そう発想する立場に対し、逆の立場に立たされている不安を訴える声もありえる。「知らず知らずのうちに、自分は、陰謀に加担しているのではないか。なんならむしろ積極的に参加しているのではないか」あんなふうになってしまうなんてこと思いもよらなかった、ってあとで口走っても遅い。
『コカイン・ナイト』の主人公チャールズは旅行記者で、世界中を飛び回っているから定住地はない。 どこかに行くと、「自分にとって、ここが本当の場所だ」と感じられる旅先に巡り合うことがある。けれどその段階を越えたむこうに、「自分にとって、世界はすべて異郷である。どこにいても、自分は単なる旅人以上の��のではありえない」その境地がある、というようなことを池澤夏樹が言っていたかもしれない。言ってないかもしれない。ともかくチャールズは定住地がない。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』には、 遊動の暮らしをやめて定住するようになったとき、人類は、財産や文明を手にするようになった。貧富の差が生じ、法が生じ、退屈が生じた。時代が下って便利になればなるほど、退屈は大問題になってくる。 というようなことが書かれていた。遊動の暮らし云々については資料がない話だから、この本がどれほど学問的に厳密なのかはわからないけど、発想としてはおもしろいと思ったので覚えています。記憶だから、読み返すとそんな話してないかもしれないけどね。 けどまあ、ともかく、遊動し続けていたチャールズは、退屈がまさに大問題になっている地域に巻き込まれるかたちで取り込まれていく。はじめは弟の部屋を使っていたチャールズも、その地域を牛耳っているやつが用意してくれた部屋にうつるときがやってくる。その部屋にはじめて足を踏み入れたチャールズに、こういった言葉がかけられる。「チャールズ、君は家に帰ってきたんだ……」 「今の気分を大いに楽しみたまえ。見知らぬ場所という感覚は、自分にとって、常日頃考えているよりも、もっと近しいものなんだよ」
この記事は当てずっぽうで書き出した日記ではあるけれど、記事のタイトルははじめから決めている。「近さの/なかに/はいる」 ようやく、「近さ」というキーワードを登場させられました。よかった。距離についての話を引き続き。
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[3]
いつか「ア・ホロイ」というグループ展で映像作品の発表をしたときに(おれのみヘッポコな)対談イベントの相手として巻き込んだ太田充胤(医師・ダンサー・批評家)が、ちょうどその当時スタートさせていたのが『LOCUST』という雑誌だった。Magazine for travel and criticism|旅と批評のクロスポイント。 執筆者たちはみんなで旅行をしにいく。そしてその場所についての文章を書く。これを集めて雑誌にしている。参加者は批評家だけではないが、肩書は別になんでもよい。いわゆる観光ガイドでもなく、かといって思想ムックでもない。地域と時事に結びついた、批評癖のある人らの旅行界隈記集で、最近、この第三号を買いました。三号の特集地は岐阜県美濃地方。
この本、千葉市美術館で買った。千葉市美術館ではいま、「大・タイガー立石展」が開催されている。立石紘一=立石大河亞=タイガー立石という作家については、これは子供のころ、好きで好きでしかたなかった絵本のひとつの作者として知りました。親近感、懐かしさがある。 60年代、日本のなか美術作家として活動、のちイタリアに渡り、そこで油絵もヒットしますが、同時にデザイナー・イラストレーターとしても、漫画家としても活躍。日本に戻り、絵本の仕事も手掛けるようになります。陶も捏ねます。 ナンセンス、毒々しくも軽妙で、湿度は高いんだけどしつこくない。筆運び色選びモチーフ選び影の黒さははっきりシュールレアリズム由来で、反逆児のフリをしつつジャンルの枠組みは壊さず、荒唐無稽なフリをしつつ不穏当で思わせぶり、祝祭的=黙示録的、派手好みのくせに辛気臭くすら感じられるガロ感がいつまでも抜けない。という印象。個人的には。
懇意にしている友人の家、友人なのかな、友人なんでしょうか。一緒にいる居心地はいいんだけど、話題が狭く、政治的な話も教養的な話もしない。あるのは惰眠と食卓で、生理的で予測可能なよろこびしかない。安心安全で退屈な時間を過ごす人。おれは人のことをバカにして生きてる。まあいいかそれはいま。ともかく、友人、そう友人の家を出て、千葉中央駅に到着すると、急に大雨が降りはじめた。美術館まで徒歩にしてほんの10分の距離ですけど雨はものすごい。駅ビル内のダイソーで傘を買って足を濡らして10分歩くなら値段的にもそう変わらないと判断し、駅前でタクシーに乗り込みました。「市立美術館まで」と注文します。「市立?」聞き返した運転手はメーターをつけずに発車、すぐに着いて、料金として500円を払う。車運転させておきながら500円玉1枚だけ払って降車するのは後ろめたい。ちょっと照れくさくもある。 タイガー立石の絵はいわゆるコピペっぽさというか、表面的なトレースが多い。ピカソの泣く女やゲルニカ、ダリの溶けた時計、ルソーの自画像、タンギーのうねうね、そんなものがはっきり登場する。作品によっては、モチーフらは一枚の画面にただ雑然と並んでいる。ライブハウスのトイレの壁みたく、全体のなかに中心のない、みるべきメインの仕組まれていない羅列面。 ずっと好きではあったけれど、とはいえどっぷりハマりこんだ覚えのある作家でもない。距離感としては「シュークリーム」とか「揚げ出し豆腐」みたいな。それでも、さすが小さなころからの付き合いだけあって、自分のなかに、あるいはタイガー立石をみる自分のなかに、自分自身の制作態度の原型をみるようで居心地が悪く、やはりちょっと照れくさくもあった。
もちろんカタログを買う。そのために美術館併設の書店に立ち寄った。そこで『LOCUST vol.3』を見つけたので一緒に買ったのだった。太田充胤が、「おいしい、と、おいしそう、のあいだにどんなものが横たわっているのかを考えた原稿を vol.3に載せた」と言っていた覚えがあったためだ。なんだそれ、気になる。そう思っていたところだった。 ぜんぶで7つのパートにわかれたその原稿の、はじめの3つを、ざっくばらんに要約する。 1・はじめの話題は日本の食肉史から。肉を食べることは力をつけることと結び付けられもしてきた。禁じられた時代、忌避された時代もあった。食肉への距離感っていろいろある。 2・野生動物の肉を食うことが一種のブームになっている。都市部でもジビエは扱われている。ただ、大義たる「駆除される害獣をせっかくだから食べる」というシステムは、都市部では説得力がうすい。都市部のジビエは「珍しいもの」としてよろこばれている? 舶来品の価値、「遠いものだから」という価値? 3・身近に暮らす野生動物と生活が接しているかどうかで、(動物の)肉というものへの距離感は変わる。都市部の居酒屋で供される鹿の肉と、裏山にかかってたから屠って食卓に登場する鹿の肉は、そりゃ肉としては同じ鹿肉であっても、心理的な距離の質は同じではない。
イモムシが蝶になる手前、さなぎに変態してしばらくじっとしている。さなぎの中身はどろどろで、イモムシがいったんとろけた汁であり、神話の日本の誕生よろしく、ここから形状があらわれ、蝶になるのだと、子供のころ誰に教えられたわけでもないのに「知って」いた。それは間違いだった。イモムシの背中を裂くと、皮膚のすぐ裏側に羽が用意されている。蝶の体つきは、さなぎになるよりずっと前から、体のなかに収納されている。さなぎはただ、大一番な脱皮状態を身構えてるだけの形態で、さなぎの中がどろどろなのは、イモムシや成体の蝶の体内がどろどろなのとまったく同じことだった。日高敏隆の本で知った。大学院生のころ、ひとの自作解説を聞いていたら、「イモムシがいったんその体の形状をナシにして、さなぎの中でイチから再編成しなおして蝶になるように」という言い方をしている人があった。同じ勘違いだ。 この勘違いはどうして起こり、どうして疑いなく信じ続けられるんだろう。だって、イチから再編成されるなんて、めちゃくちゃじゃないか。めちゃくちゃ不思議なことがあっても、それが「生命の神秘」や「昆虫の不思議さ」に結びついて納得されてしまえば、「ね、不思議だよね、すごいよね」で済む話になるのか。<現代人・大人たちが昆虫を嫌うのは、家の中で虫を見なくなってきたからだ>という論文を先日みつけました。隣近所の人とあいさつをするかどうかで生活の心やすさは大きく変わる。知らない人の物音は騒音でも、知っている人の物音はそんなに不愉快じゃなかったりする。「面識」のあるなしは非常に重要だから、背が伸びてもなお、公園や野原で昆虫と親しみ続ける人生を送っていれば、虫嫌いにはなっていかないだろう。けれど、そういう人生を送っていたとしても、いったん誤解した「さなぎ状態への理解」が誤りだったと、自然に気づけるものだろうか。
岐阜で供されたジビエ肉についての原稿をLOCUSTに執筆した太田充胤は高校の同級生で、とはいえ仲良しだったわけではない。今も別に、特別仲良しとかではない。なんかやってんなあ、おもろそうなこと書いてるなあ、と、ぼんやり眺めて、でも別にわざわざ連絡はしない。卒業後10年、やりとりはなかった。数年前、これを引き合わせた人がいて、あわせて三人で再会したのは新宿三丁目にある居酒屋だった。ダチョウやカンガルー、ワニやイノシシの肉を食べた。それこそ高校の頃に手にとって、ブンガクの世界に惹かれる強烈な一打になったモブ・ノリオの作品に『食肉の歴史』というタイトルのものがあったな、と急に思いついたけれどこれはさすがにこじつけがすぎるだろう。あ、 ああ、自分の話を書くことはみっともなく、辛気臭いからしたくないんだった。「強烈な一打」たるモブ・ノリオの『介護入門』なんてまさに「自分の話」なわけだが、他人の私小説のおもしろさはOK けど、自分がまさに自分のことを語るのは自分にゆるせない。それはひとつに、タイガー立石はじめ、幼少時に楽しんだ絵本の世界のナンセンスさ、ドライさへの憧れがこじれているからだ。 まとまりがなく、学のなさ集中力のなさ、蓄積のなさまであからさまな作文を「小説」と称して���き散らかし、それでもしつこくやり続けることでなんとか形をなしてきて、振り返ると10年も経ってしまった。作文活動をしてきた自負だけ育っても、結果も経歴もないに等しい。はじまりの頃に持っていたこだわりのほとんどは忘れてしまった。それでも、いまだに、自分のことについて書くのは、なんだか、情けをひこうとしているようで恥ずかしい気がする。と、このように書くことで、矛盾が生じているわけだけど、それをわかって書けちゃってるのはなぜか。 それは、書き手の目論見は誤読されるものだし、「私小説/私小説的」というものには、ものすごい幅があるということを、この10年、自分にわかってきたからでもある。むしろ自分のことをしっかり素材にして書いてみてもおもろいかもしれない、などと思いはじめてさえいる。(素材はよいほうがそりゃもちろんいいけど)結局のところ、なんであっても、おもしろく書ければおもしろくなるのだ。
こないだ週末、なぜだか急に、笙野頼子作品が読みたくなった。『二百回忌』じゃなきゃだめだった。久しぶりに引っ張り出して、あわてて読んだ。おもしろかった。モブ・ノリオ『介護入門』に接し衝撃を受けた高校生のころ、とりあえず、その時代の日本のブンガクを手あたり次第漁っていた。そのなかで出会い、一番ひっかかっておきながら、一番味わえていない実感のある作家が笙野頼子だった。当時読んだのは『二百回忌』のほか『タイムスリップ・コンビナート』『居場所もなかった』『なにもしてない』『夢の死体』『極楽・大祭』『時ノアゲアシ取リ』。冊数は少なくないが、「ようわからんなあ、歯ごたえだけめっちゃあるけど、噛むのに手一杯になってしまってよう味わわん」とばかり思っていた。 新潮文庫版『二百回忌』に収録されているのは4作品。いずれも、作家自身が作家自身の故郷や家族(など)に対して抱いているものを、フィクションという膜を張ることで可能になる語り方で語っているものだ。
『大地の黴』: 生まれ故郷に帰ってきた主人公が、故郷での暮らしを回想する。かつて墓場で拾い、そして失くしてしまった龍の骨が、いまや巨大に成長し、墓場を取り囲み、そして鳴る。小さなころ、その土地に居ついている、黴のような茶色いふわふわが見えていた。地元の人の足元にまとわりついていた。いま墓の底から見上げる、よく育った龍の骨たちのまわりにもいる。
『二百回忌』: 二百回忌のために帰省する。親とは険悪で、その意味では帰省したくない。しかし、二百回忌は珍しい行事だし、すでに死んだ者もたくさん参加する祝祭時空間らしいから、ぜひとも行ってみたい。肉親はじめ自分の人生と直接のかかわりをもったことのある地元の顔ぶれは嫌だけど二百回忌には出向く。死者もあらわれる行事だから華々しいし、時間はいろんなところでよじれ、ねじれる。
『アケボノの帯』: うんこを漏らした同級生が、うんこを漏らしたことに開き直って恥ずかしがらない。そればかりか、自分の行いを正当化ないし神��化し、排泄の精霊として育つ。(漏らしたことで精霊になったから、その同級生には苗字がなくなった!)自分のうんこの話をするのははばかられるけれど、精霊が語る排泄は肥料(豊かさ)や循環の象徴であるからリッパである。
『ふるえるふるさと』: 帰省したらふるさとの土地が微動している、どうやら時間もねじれている。いろいろな過去の出来事が出来していく。
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[4]
『LOCUST』の第三号の特集は岐阜で、おれの祖父母の実家は岐阜にある。大垣にあったはずで、いまどうなっているかは知らない。 父方の祖母が一年ほど前に亡くなった。おれの祖父=おれの父からすれば実父は施設で暮らしはじめた。住む者のなくなった、父の実家は取り壊された。父は仏壇や墓のことを考えはじめ、折からの歴史好きも手伝って、寺を巡っては話をきいてまわるようになった。寺の住職はすごい。自分とこにある墓の来歴ならしっかり把握しており、急に訪れた父が「うちの母のはいった墓は、いつ、誰がもってきたもので、誰がはいっているのか」と尋ねればすらすらと教えてくれる。 つい数代前、滋賀の彦根から、京都の寺に運んできたとのことだ。ところが運んだ者がアバウトで、京都の寺は彦根の寺と宗派が違う。それもあって、一族代々の墓ではなくて、数代のうち、そのアバウトさに異を唱えなかった人らが結果的におさまっているらしい。よう知らんけど。 続いて調査に乗り出した、母方、つまり岐阜の大垣にあった家の墓の来歴についても、どうやらごまかしが多い。ひとりの「かわりもの」のために、墓の行き先がなくなる事態があったらしい。 昭和のなかごろ、青年らは単身で都会へと引っ越しはじめ、田舎に残してきた墓をそのままにしてると数十年のちに誰か死ぬ。次は誰の番だろうかと悩むころには、あれこれ調べて動かす余裕がない。嫁ぎ先の墓にはいるとか、別の墓をたてるとか、戦死してうやむやになってるとか、ややこしいからウチは墓を継ぎたくないとか、もはやふるさとはないから墓ごと引っ越したいけど親戚全員への連絡の手立てがないのでできる範囲だけを整理して仕切り直すだとか、そういうごたごたを探査するのがおもしろいらしい。 父から送られてきた、一緒に夕食を食べることを誘うメールには、「うちの墓についての話をしたい」と書いてあって、おれはてっきり、「墓を継げ!」というような説教をくらうのかと身構えていたのだけど、全然そうじゃなかった。墓の来歴からみえてきた、数代前のずさんさ、てきとうさから、果ては戦国時代の仏教戦争まで、わがこととしての眺望が可能になった歴史物語を一席ぶちたかっただけだったみたいだ。よかった。
京都で父は祖父、父からすれば実父と、たまにあそんで暮らしている。祖母なきいま、90近い祖父と話をできるのはあとどれくらいかと思いを馳せるとき、父はふと、戦争の頃のことを聞いておこうと思い立った。いままでぶつけていなかった質問をした。 「お父ちゃん、戦争のときなにしとったん?」 祖父は15歳だった。日本軍はくたびれていた。戦局はひどい。余裕がない。15歳だった祖父は、予科練にはいった。 「軍にはいれば、ご飯が食べられるから」と祖父は笑って話したそうだ。けれど理由の真ん中は本当はそこじゃない。どうせだめになるのだ、負けるのだ。自分の兄、つまり一家の長子を死なすわけにはいかない。兄=長男に家は任そう。長男が無理やり徴収される前に、次男である自分が身を投げうとう。 きっと必要になるから、と考えて、英和辞書を隠し持って予科練にはいった。敵の言葉の辞書を軍に持ち込んでこっそり勉強するなんて、見つかったらえらいことになる。 その頃、12歳だった祖母は、呉の軍需工場で働いていた。 生前の祖母、というか、祖父と出会ったばかりだった祖母は、祖父が、長男に代わって死ぬつもりで、自ら志願して予科練にはいっていたことを聞いて泣いたという。 おれの父親は、おれの祖父からそんなような話を引き出していたそうだ。父としても、はじめて聞く話だった。 90近くなった自分の父親が、目の前で話をする。自分の身に起きたこと、戦争時代の思い出話をする。子供の前で語ってこなかった話を語る。なんだか瀬戸内寂聴みたいな見た目になってきている。極端な福耳で、頭の長さの半分が耳である。 本人は平気な顔をして、ただ、思い出を話しているだけなのである。それでも、「大井川で、戦地へ赴く特攻隊を見送った。最後に飛び立つ隊長機は空でくるりと旋回したあと、見送る人々に敬礼をした。」と、この目で見た、体験した出来事についての記憶を、まさに目の前にいる、親しみ深い人物が回想し話しているのに接して、おれの父は号泣したという。これは「裏山にかかってたから屠って食卓に登場する鹿の肉」なのだ。
戦争への思いのあらわれた涙ではない。あわれみや悲しみでもない。伝え聞いていたという意味では「知って」いたはずの戦争だが、身近な存在たる父親が直接の当事者であったことがふいに示されて、戦争が急激に近くなる。父親が急激に遠くなる。目の前で話されていることと、話している人との距離感が急激に揺さぶられた。このショックが、号泣として反応されたのではないか。食事中、口にする豚肉を「ロースだよ」と教えてくるような調子でふいに、「この豚は雌だよ」とささやかれて受けるショックと同質の、「近さ」についての涙なのではないか。感情の涙ではなくて、刺激への反応としての落涙。 これでひとまず、自分の描く分を切り上げる。思えばいろいろなトピックに立ち寄ったものです。ラブコメにはじまり、犯罪的行為と共同体の紐帯の話、内的な事件「恋」の取り扱い方、ジビエを食べること、故郷についてのマジックリアリズム。 散らかすだけ散らかしておいて、まとめるとか、なにかの主張に収束するということもない。中心がない。さながらライブハウスのトイレの壁みたく、みるべきメインの仕組まれていない羅列面。 この羅列面に対して連想されるもの、付け足したくなったものがあれば、各々が好き勝手に続きを書いてください。うまく繁茂すれば、この世のすべてを素材・引用元とした雑文になるはずです。や、ほんとのことをいえば、すでにテキストというものはそういうものなんですけど。
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hiruzenmegata · 3 years
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20210426 猿
[1]
はじめのパラグラフには、意思疎通の難しくなった家族の発した「とぼけた一言」に、その場にいあわせたみんなが笑った。その言葉を発した本人もつられて笑った、というようなことが書いてある。その次に、ある精神療法についての説明が載っている。
精神病者が、重い症状におそわれたときに、開始されるものらしい。危機の機会におちいっているという訴えに対し、医療者や家族が集まって、そしてそこでみんなで話をしはじめる。そこでなされることは対話であって、対処、治療、分析、投薬などの、いわゆる「医療行為」として発想されやすいケアではないのである。そうではなくて、話をする。患者に、症状にまつわること、困りごとなどを話してもらう。それを聞いた人々からも意見が出てくる。どうやらそのような手順を踏むらしいこの療法の、説明文が書かれてある。このなかに、「神話」や「儀式」という単語も登場する。
以上、ふたつのブロックによって構成された文章が、A4サイズの紙1枚の片面にプリントされている。裏面にはイラストが印刷されてる。4行×3列のマス目がひかれており、マスひとつひとつに、たとえばさるのかお、パンツ、はっぱ、などが描かれている。絵付きのタイルを並べているような具合だ。
会場となる空間の入り口側の壁面は一面ガラス張りだが、内側にカーテンが引かれているので、外から内部を覗けない。そのかわりというか、ガラス壁とカーテンの間には、たくさんの写真が貼りつけられたホワイトボードが置かれている。また、このガラス壁には直接に絵が、ペンかなにかで描かれている。その会場にはいり、カーテンをくぐると、芳名帳の置かれた机がある。ここに上述のA4用紙が用意されている。
その会場で行われたパフォーマンスの映像が壁面にプロジェクター投影されている。はじめのパラグラフで紹介される、「とぼけた一言」のエピソードに触発されたのであろうパフォーマンスである。
パフォーマンスで用いられた小道具や照明、パフォーマンスによってつけられた痕跡はそのまま残されている。長くない映像は、いくつものカットにわかれ、映画的に編集されている。とはいえ物語的なものがうかがえるのは後半で、前半は荒唐無稽もしくは意味深な、ある種の神事や儀式を彷彿とさせる動作をとらえた映像だ。前半/後半と言ったが、チャプターにわかれているわけでもなければ、映像のぱっと見の印象もおおきく変わらない。 映像の後半で動きの種類が変質するだけともいえる。同じ場所で同じ人が同じ格好で、ひと続きに演じているものだから、「別々の映像が組み合わさったもの」にはまったくみえない。儀式めいた動きが繰り返されたあとの映像のなか、「とぼけた一言」のエピソードをあきらかに引用したセリフが口にされる。
作家はこの前半の「儀式めいた」動きについて、「憑依」という言葉を使って解説をした。いや、解説、というワードチョイスはちょっと、違うかもしれない。
 [2]
A4の用紙の文章の内容に戻ろう。
はじめのパラグラフに紹介されたエピソードと、「精神医療現場で行われる対話的環境の場」につながりがあるのだとすれば、対話的環境が開かれるきっかけ、つまり「危機の機会」とは、「とぼけた一言」のエピソードでいうとなんのことか。患った家族がいる、ということだろうか。その人が言葉を発した、ということだろうか。いやそうではない。この場合、「危機の機会」に相当するものは、「みんなが笑った」ということなのではないか。
「笑い」は暴力的である。価値や秩序や境界を無化する。イジメっぽいニュアンスの笑いであれ、慈しみの込められた笑いであれ、笑いの瞬間にはニュアンスや思いやりなんて、体はぜんぜん感じない。笑いの瞬間、よくも悪くも、肩に入れていた力が抜けて、直前までその中にはまり込んでいた路地から急に飛び上がって鳥になる。この無秩序な時間は、つまりジェットコースターによって肉体のくらう物理的な刺激は同じでも人によってそれが快にも不快にもなるように/同じ曲で鼓膜を揺らしても人によってそれが快にも不快にもなるように、「笑い」という一見ポジティブに思われるアウトプットと、「危機の機会」は表裏一体、じつは同じものなのではないか。「自分」が、「自分」の範囲が不確かな飛行状態にさらされる無秩序の混乱が賑やかさとなるか、恐慌になるか���
わたしがなにかを考えたり思ったりして、わたしは、わたしがなにかを考えたり思ったりしていると思う。けれどよくよく確かめると、わたし、という一人称は、一般に考えられているような意味の「わたし」ではないのではないか。わたしただひとり、を意味しているわけじゃないのではないか。少なくとも、思考するとき、話すときの一人称主語の「わたし」というのは。この「わたし」は、共同体的なものを想定してしか用いられないものなのではないか。わかりますか? うまくいえないけど、「わたし」という主語の裏には、「誰」というのがはっきりあるわけじゃない「われわれ」が想定されている。まさにこの肉体に限定されている「わたし」と、思考する主語としての「わたし」はちょっと違う。仮想の他者たちを含みこんだ「われわれ」である。
仮想の他者を含みこむことに対して、よりあけっぴろげになって、肉体的な「わたし」の存在感を相対的に弱める素振りが「憑依」ないし「儀式」につながるのかもしれない。
笑いによって捏造された一体感に溺れる家族の話に続いて、(「儀式」のひと単語が織り込まれつつ紹介される)対話という「癒す手口」についての文章を読んだあと、憑依的な素振りがパフォーム=表演される。
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https://twitter.com/qoonyan22/status/1385088393063718919?s=20
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hiruzenmegata · 3 years
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1203展示告知【憶測の温床II】
こんばんは
ほんとうはいろいろと書いていたのだが
・あまりに長すぎる
・ながいと、知らせたい情報が届かなくなる
ために、諦めました。いまはただ、ゲンキンにお知らせだけごめんなさいね。
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展覧会をします、ウェブ限定です。水曜と木曜がおやすみなので、それ以外でしかアクセスできません。
4月の展示のリベンジというか続編というか、そういうものとして行いますのでタイトルは
  憶測の温床II
会期 12/4-29 水木やすみ(金曜00時より火曜24時まで) 
会場 https://medium-for-abduction.com (開場日時以外はアクセス不可)
というところで行いますのでぜひともなにとぞよしなになにとぞ
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hiruzenmegata · 4 years
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1012自分をはげます
 制作活動に限らず、なにかを考えたり、じっと観察することをやりすぎて、それがクセになってしまうということは、「いじわるな人間になる」ということと非常によく似ていると思う。悪意をもって積極的に人を攻撃するような「いじわるな人間」とは違うにしても、常に一定の距離を保って、なにか対象について冷めた視線を自覚的に、意識的に持ち続けるよう自分を調教した人間が、しかも視座が多ければ多いほうがよかろうという批判精神を大切にしてさえいる。……このようにして、「いじわる」という言葉の響きの幼さ、素朴さにむしろ肯定的なにおいを嗅ぎつけたうえで、そのうえでいいますが、観察癖のある人間のいじわるさはすてきだし、いじわるな作品に出会うとうれしい。ソフィ・カルとかやばない?
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(五年前に拾った手紙)
 そうそう、ソフィ・カルに限らず、写真をつかったアート作品はなにかと、「絵画」とか「カメラ」の構造や制度について自己言及的・自己批判的・メタ的なふるまいをすることが多い。(ジェフ・ウォールかっこいい)メタ的な視点を持つこと(それをこうしてピックアップしちゃう注意力が身についていること)は、コーゾーシュギっちゅう時代の趨勢の残響のなかに生きているからこそかもしれんし、まあ平たくいってそういう視点にすぐ立てる身のこなしを得意とする人のこと「頭がいい」なんて表現したりするけど、ともかく、「メタ視点」への移動を可能にするのも「いじわるさ」な気がする。「ある種のいじわるさ」じゃなくて、むしろそれこそが「いじわるさ」のど真ん中な気がする。
「気がする」連呼しているのは「いじわるさ」への自信がないからで、それは裏を返せば、「いじわるになりたい」って考えているって話。いじわるになりたいし、いたずら、迷惑行為や犯罪行為、意味や主張のあることではなく、いたずら、がしたい。とは思うんだけど、「自分なりの条件にあてはまるいたずら行為をやりたい、というのがまず先にある」状態でなにをしても、それは「自分なりの条件」からはずれてしまう。いたずらができない。
 蛭子能収さんが、単行本のタイトルを相談した編集者の提案「私はバカになりたい」を「まるでオイが天才みたいやからいいね」つっておおよろこびしたて話を思い出しましたけど、わたしはね、いじわるになりたいなあ、いじわるになりたい。意地が悪くなってみたいもんだよ。
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 わたしは嫌いなやつを自作の小説のなかに登場させ、そいつを殺したことがあるんですが、そういえば蛭子能収さんも、学歴の自慢をしてきた編集者を漫画に登場させて殺していた。これはこの記事を書いていて思い出したこと。蛭子さんと共通点が複数あること、あまりうれしくない。(漫画は好き)
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さて前回の記事の最後に書いていた、友人と中華街を歩いた話から続けて日記を書きます。
彼は甥っ子がとにかく大好きで、仕事帰りにはいつも甥っ子の動画像をみたいのだけど、電車のなかでみてしまうとニコニコのニヤニヤになってしまうからそれが恥ずかしくて悩んでいる。ところがこの半年以上、甥っ子に会えていない。ということを、ほんとうにさみしそうにそう語る。「小さい子の半年は長いからね、もう忘れられてるかもね、誰にでもなつっこい時期や、誰にでも人見知りする時期が子供にはあるというし、いま会いに行っても相手してくれないかもね」追い打ちをかけておれは、ニコニコのニヤニヤでいじめます。数日後、連休を見つけた彼は突発的に帰省していました。「久々の甥っ子どうだった?忘れられてなかった?」と訊いたら、「そんなことはなかった!」とうれしそう。久しぶりのおじさんによろこんでくれた甥っ子に「絵本読んで!!!」とねだられて、いいよいいよって応えたら、甥っ子の持ってきたのはおもちゃのカタログだったそうです。トミカが欲しいらしい。それか仮面ライダーのなにか。このおじちゃんは甥っ子にはなんでも買ってしまう。甥っ子はそれをわかっている。話すテンポはゆっくりじゃないけど、「かわいい」という言葉だけすごくタメて言う(〇〇は〇〇ですよね、〇〇だったりして〇〇って〇〇じゃない? 〇〇みたい。ははっ、か~~~わ~~~い~~~い~~~~~)人だから、甥っ子の話のときは滞空時間が増える。
その友人、もちろん好きですけど、どこが好きかというと、きちんとしていなくても構わないっていう部分については徹底的にぼんやりしているところ。めちゃくちゃ隙がある。見た目はむしろちょっといかついくらいなはずなのだけど、ひとりで都心にでると四回に一回は必ず宗教勧誘を受ける。それでも善人なので、たとえばちょっと困ってそうな人がいると自分から声をかけて手助けすることもある。夏には、新宿で荷物を運んであげたおじいさんから日本酒が二瓶送られてきていた。けどそんな「いい話」はとても珍しく、たいていは何らかの勧誘につながっている。みなさん!都心で急に「このへんで、いいラーメン屋知りませんか?」と話しかけられたら要注意ですよ。
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赤レンガ倉庫でビールをあけて、「このあいだ話」に興じます。彼の鼻の穴に血の乾いたあとがあるのを見つけました。今朝がた鼻血をだしたのかもしれない。
ワールドポーターズをぬけてコスモワールドの方向へ。固有名詞というか、ローカル名詞ばっかですみません、桜木町駅にむかって移動しているということです。ワールドポーターズっていうのはショッピングモールで、丸見えになるポイントがあるとは知らないんであろう場所でそこそこの年齢の男女が、エレベーターを待っているにしてはやりすぎなスキンシップをしているさまをふたり見下ろして、ちょっとひいたあと、露出狂というか、野外で性的な行為に及ぶ自分を人に見て欲しいというタイプの人がインターネット上にアップロードしていた、横浜の夜景をバックにはしたない姿になっている自分自身の写真がかなりきれいな写真で、画質もそうだが横浜の夜景がきれいで、あまりの美しさに笑ってしまった、みたいな話をしていました。ビールはあけたけどお互いひと缶ずつだけだし、とっても穏やかな調子で話しています。「おもしろ」になるかと思って書いているだけですが、この話の強烈さが印象つよくて、ほかの話題は思い出せないな。僕はそのとき、去年末にまた別の友人とワールドポーターズ通り抜けてたときのことを思い出したりしていた。そのときは、椎名林檎の文体はほかの人がつかうとクソ寒くなるよねって話をした。その話をしているとき、わたしは「無罪モラトリアム」のバンドスコアの質感を思い出していた。それから、カラオケで福山雅治をいれる人がきらい、みたいなことを(話し相手が)していた。大森靖子さんやパフュームやあいみょんの話がされていた気がします。これはなんの伏線でもない。
 時空を戻す。甥っ子大好きぼんやり人間の彼と歩く横浜、桜木町駅の近く、「日本丸(日本丸メモリアルパーク)」のところでアイドルっぽい人らが握手会っぽいことをしていた。ファンっぽい人たちが群れてたので近寄ってみたけど、ポスターのひとつも掲示されていない。あとで「横浜 握手会」などでツイッターを検索したら、NON STYLEみたいな名前のアイドルさんらが握手会してたみたい。
それを見送って道を渡ると、ショッピングビルの中庭的広場で大道芸人が「最後の大技」をしていました。机や椅子を重ねた上に立ち、火を飲んだりしていました。
横浜美術館の外観(トリエンナーレ仕様になっている)すらみずにランドマークタワーのあたりのビルにはいる。ジェラート屋さんの列で子供が走りまわる。彼はハンディアイロンと一般的なアイロンと、両方持っているがあまり使わない。今日着ているディーゼルの上着にはアイロンをかけている。高かったから。彼は翌日の予定を面倒がる。忙しさの波が激しい職場で、かなりヒマなとき机に突っ伏して寝る先輩がいる。「海上散歩」を読み間違えて「陸上散歩一時間800円だって」と看板を音読する。桜木町駅前を、彼は写真に撮る。兄が「ゆず」のファンだから、ゆずの聖地に立ち寄ったという自慢をしたいらしい。けれど、駅を知っている人はわかると思うが桜木町駅前って別に写真に撮ってわかりやすいような感じじゃない。桜木町駅にきたことのない人が写真だけぱっとみて「あ!あそこね!」ってなるようなものじゃない。まあ、わたしの知ったことではない。
 以上のように事細かに、「話題はなんであったか」「どのような言い間違いがあったか」「どのような仕草があったか」「そのとき、なにを思い出していたか」などを書き留めてしまうのは、自分がなんらかの時間を過ごしたという歯ごたえに「この人と一緒にどこどこにいきました」という情報だけでは不満足が残るからだ。はっきりくっきり、どうでもいい情報をこそ記しておかなければならない。という焦りを持っているためです。とはいえ、律儀に書き残すことを近年ほとんどしていないのだけど。相手のプロフィールなど、つまり出身地や家族構成、勉強していたことや部活について、あるいは恋愛歴や読書歴は、なるべくメモするようにしている。見返すこともないのだけど。
 桜木町から乗る電車はそのまんま和光市までゆく、東横線と副都心線のつながったやつ。車内で彼は、甥っ子が遊園地の、パンダの乗り物に乗っている動画をみてニコニコしています。わたしは、NON STYLEが好きという彼のその振る舞いをみながら、姪っ子のことになると涙腺がもろくなりすぎてしまうオードリーの春日さんのことを連想していました。
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わたしはいま、映像作品をふたつ作っています。そのうちのひとつは、さまざまな人へインタビュー取材をさせていただき、収集したものを編集する、というもの。この制作のためのインタビューを撮らせていただくため、中華街の翌日、出演者の人に会いに行きました。場所は自由が丘です。ロケ場所が自由が丘であるということがわかるショットが欲しかったのですが、駅前では謎のイベントをしており、この音がうるさい。だから駅前を撮影しても都合が悪い。八代亜紀さんの新曲が云々、という声が聞こえたので一瞬、「え!八代亜紀さんがきているの!??うそ??」と期待しましたが、うそでした。駅前で、電波にのせずにラジオをやっているような状態。大音量でただ曲を流す。曲と曲の間に司会者によるトークがはいる。「去年は誰々さんをスペシャルゲストとして呼ばせていただいておりました!しかし台風のために中止になりました。それで、フィナーレを迎えることができませんでした!それでは次の曲です!」つって阿部真央的な感じの曲が鳴り響いていました。
AマッソのTシャツを着た出演者からたっぷりインタビューを搾りだし、小雨から逃げつつオムライスを食べて夜に解散。どのようなことをして、どのような話を聞いたのか、これは作品に関わることですしあまり書きませんが、それはそうとこの「作品」をどうしたものか。発表のアテがないのでふわふわ、はらはら、しています。この映像はいったいなんなのか。
 しかしこの週末の日曜日にも、やはり同じ作品のためのインタビュー撮影を行った。ZOOMを利用しての録画です。というか、出演者8名のなか、7名はZOOMでの録画であります。自由が丘までロケしにいったのはかなり特別なシーン。背景や、写っているひとの胴体が動く映像が欲しかったのです、ZOOM録画映像だけだと視覚的にあまりに単調なのでね。とはいえこの日曜の録画は特別であった。なぜならインタビュー出演者は映像制作に携わっている人だから知識がある、それ以上に、部屋に機材がある。ほんでもってバッキバキにキマった画面になるってえワケ。
 発表のあてのない作品制作を重ね、僻みでしかない被害妄想を膨らませ、自分の制作活動を呪いつつ、まあどうせいつか死ぬからいっか、と自分に言い聞かせてすごしています。ほんとうは金沢21世紀美術館に展覧会をみにいった話まで書きたかったんだけど分量的にこれでおしまい。お元気で。
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hiruzenmegata · 4 years
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1003 展示[維持と探索]から
事後報告になるのが非常に心苦しい。謝るような相手はいないし、結局自分の話だからいずれにせよ誰に迷惑をかけるという話じゃないのだけど、ずぼらな自分のせいで窮屈な気持ちです。展示をやってました。絵の展示です。お世話になります三年目です、JINEN Galleryさんにて、すなわち実空間における個展の開催をしていて、これは「維持と探索」というタイトルでしたが、今回は展示名についての質問は一度も受けませんでした。とはいえ6日間の会期のうち3日しかおれませんでしたし、あまりたくさんの方とお話もできなかったのですが、しかしすてきな、うれしいこともあるもので、非常におおざっぱな言い方ですがやってよかったなあ、もっと展示やりたいなあ、と感じております。
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絵のタイトルについては「なんで?」「どういうこと?」「どうやってつけてるの?」とわりと多く聞かれた印象でしたが、決して悪い意味での質問、それが気になっちゃうせいで絵をみるのが邪魔されるという含意のものではなかった、というとらえかたをしていますがどうだったのか。
絵はだいぶすっきり変わったはずです。縦の構図が多くなったし、色も幅広くなったし、登場する要素も少なくなったし、なんだか去年よりだいぶ動いた印象です。自分の絵に明らかなレベルでの変化が起こるのにだいぶ時間がかかってしまった。
 展示期間中は気持ちがいつもと違うためか、その期間が終わると心身、とりわけ心の調子が少しく乱れてしまい、バイト先ではぐずぐずぼんやりと過ごすしかなくなって、ただでさえ厳しい環境であるのにより一層、強い調子で注意を受けるような状況に陥ってしまうのだが、そもそもぼくは結構すぐ委縮するというか、頭まっしろになりがちというか、そっちのスイッチに入ってしまうと急降下での循環に自分で自分を巻き込んでいきがちなので、これはまずいぞ、と気合を入れなおして、展示二週間後からやたらにやる気を出したらいますごく調子がよくなり、一日に注意を受ける回数が一度や二度で済むようになってきたので一安心ですがそれでも厳しい環境には間違いがないから半年ぐらいしたら辞めちゃおうかな。けど社会勉強という点ではかなりご指導ご鞭撻いただいております。ありがとうございます。おれはふつうに顧客からの電話を「もしもし」つってとってしまう男。
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 最終日は搬出、撤収をしたその足で浅草に飲みにいきました。大学時代の友人たち五人でテキーラ屋さんにいき、のんびりとタコスなどを食べていました。展示前にも浅草には行ったんですが、それは単に友人とたまたま、無目的に行っただけで無目的だったからすることがない。浅草にきてもすることがなくて、どうしようね、と話していたら池袋行きのバスがきたので、することないからバスに乗ろうかっつってバスに乗って一時間、バスの揺れのうえで仲良くぐっすりと眠り、気づくと池袋に到着していました。友人はトイレを借りたいと言い、そのためだけに検温、消毒をしてラウンドワンに入場しました。友人のトイレを待っている私の目の前に、UFOキャッチャーでゲットしたポチャッコやポムポムプリンなど、多数のサンリオキャラクターぬいぐるみキーホルダーを握った大学のゼミの後輩(学年的にはっていうだけ)Mくんがおり、さらに新しくぬいぐるみキーホルダーをゲットしてよろこぶ彼と、まるでゴールキックを決めたチームメイト同士のようにハグを交わしあいました。「なんでいるんですか、個展直前にラウンドワンって、はは、余裕ありますねえ」そういうことじゃあないんだよ、と一応言い訳してみましたが通じたかどうか。
じつは春先の、急遽オンライン展示という形式でのみ展示発表することになった個展(けど実空間での設営はした)の開催の直前にも、友人とあそんでいるところをMくんに見つかったのでした。しかもMくんはゼミの担当教授とふたりで歩いてたんです。新宿をです。どうやらゼミの数人で食事会かなにかをするその前にこっそり落ち合っていたみたいです。そのときぼくが一緒にいた友人は大学とまったく関係がないので、しっかり立ち話をするわけにもいかずすぐに別れ別れになりました。それから数時間、ぼくもぼくで友人と夕食をとりました。草枕というカレー屋さんで、隣の席の男女はどうやらモデル事務所かなにかにいる「ギョーカイ人」らしく、人の美醜と仕事量をからめた、わりと残酷な話をしていました。カレー屋さんは前の夏にOくんに連れて行ってもらって知った。それ以来でしたが、かなりさらさら汁っぽくしっかり玉ねぎの感じ、オーガニック!スパイシー!みたいな、まあカレーなんてどこで食べてもスパイシーなんでしょうけど、それにしてもカレーってどういう味のものなのかいまいちまだつかめていないから、おいしさ、楽しみ方、好みなど、わかりません。
カレー屋を出て友人と別れる。別れ際、熱海土産のプリンをいただきました。ありがとう。プリンをもらってひとりで歩いていると、通りに面した韓国料理屋、窓ガラスから覗くむこう側、お店のなかに知った顔、Mくんはじめ出身ゼミの人々の食事会がそこで開かれており、びっくりしてなぜかわたしこわくて逃げました。(これ過去に書いてなかったっけ)
 展示のこと、お知らせもしていなかったが、せめてどうだったのかってことだけでもブログに残しておこうと思ったのはそうなのだけど、それだけじゃなくて、最近の日記というか、そういうようなものも書き残しておきたいと思ってキーボードに向かっているのに、どうして春先の出来事に字数を費やすのか。もっと最近のことを書きます。
 展示の最終日、9/6の日曜日、10日ほどぶりの浅草で映画の話をしながらテキーラを飲み、おうちにかえって翌日はずっと家にいました。本を読んだ。その次の日には少し家を出ます。郵便ポストに、いつ届いたのかわからない手���がはいっていて、とてもよい手紙でした。八年近く一緒にいた過去のパートナーからの手紙、言葉を届けられたのは二年ぶりでしょうか。そういや「東京ラブストーリー」なんかの名脚本家・坂元裕二さんを好きな人だったが、非常にかっこいい、おもしろい、すごい手紙でした。いまも生活しているんだなあという実感が得られてよかった。返事書いてないけどね。
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それから、近所の古本屋に本を売りにいきました。帰りにケーキ屋でケーキを食べました。翌日も家でじっとして、ぼんやり過ごし、あるいは絵を描いたりして、木曜になってようやく外出、というか賃労働、賃労働をしたのち、夜の電車で、展示直前に浅草から池袋までバスに乗った友人の家へゆきました。アイドルの動画を流したまま座椅子でうつらうつらする友人(動物の子供のようにすぐに寝る人でして)を横目にベッドを独り占めし、眠くなるまで本をめくっていました。その時に携帯していたうちの一冊は椎名誠の「インドでわしも考えた」で、椎名誠という人の本ははじめて読んだのだが文体のクセが懐かしいような、おもしろいような、なんだか気になる落ち着かなさがあり、かつてよく書き写したりして呼吸をつかもうとしていた開高健のそれを形成したものと似たようななにかが底に流れている気配を感じました。仕事にゆく友人と別れ、わたしはひとり東京都現代美術館へ、そして六本木でギャラリーをいくつもまわり、森美術館のSTARSをみて家に帰りました。そんな金曜日。次、土曜は賃労働です。おわってから、隔週土曜にテレビ通話を利用して行われている読書会に参加して、これで展示終了一週間。展示期間とおなじだけの時が流れているのに、なんだかまだ「展示直後」の気分。べつに、ちゃんと休んでるのに。
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 翌週つまり9月の第3週、20日の日曜日まではまったく特筆事項はありません。爆笑問題のラジオを聞き、楽天銀行の口座をつくり、夜に注いだ水を冷蔵庫にしまうと翌朝キンキンに冷えた水をごくごくと飲めることに気づいたら一週間過ぎてしまいました。生活状況的に祝日もなんも関係ないですので、そこがシルバーウィークと呼ばれる期間だということは知らない。月曜日、21日、一年半ほどぶりに横浜の中華街にゆきました。そこそこ涼しいだろうと踏んで、下着のうえに長袖の、そこそこしっかりした厚みのある服を着て出かけましたがやたらと暑い。中華街を何周もし、元町のほうに足をのばし、港の見える丘公園にのぼってから山下公園をぬけ、あまりにも暑いので服をぱたぱたしていた。大さん橋国際客船ターミナルを歩いるとき、自分の選んだ下着がヒートテックだということに気がついた。行楽客、家族連れが多い。いまどきの子供ってえのはあれだな、写真を撮られることにすごく慣れている、のりのりである。自分は照れや決まりのわるさ、気取った感じへの反感など、とにかくカメラを向けられるのは苦手でしたが、のりのりにポージングする子供はすごい、しかもポーズが何種類もある。プリンターの宣伝用の写真でも撮っているのかと錯覚してしまうほど。
中華街まで遊びに行く、というのがいちおうメインの用事で、元気がむいたら横浜トリエンナーレにいこうという話でした。わたしは身体障害者手帳を持っているので、美術館などの「予約制」をすりぬけられるのだけど、恩恵を受けていながらにして悪いようには言いたくはないが、料金が安くなったり無料になるのは確かに外出のハードルが下がるからいいけど、「予約制」を優待されるのはなんか、それでいいんだろうか。や、恩恵受けてますけど。あと先にいうと結局この日トリエンナーレはみなかった。
障害者を障碍者とか障がい者とか表記するのはつまり、障害者本人と「障害」のイメージがセットになっている感覚があり、障害のある、完全ではない人、みたいなニュアンスをその表記に感じ取ってしまう感性のせいかという気がするんですけど、ほんとうにそうなんでしょうか。健常者というか、マジョリティというか、大多数の「しょうがいしゃではない」人たちのつくる世間のなかに溶け込むのに困難がある、という意味での「障害」なのかもしれない。つまり当事者個人に付帯する属性としての障害なのではなくて、当事者個人がとめおかれている社会的な立ち位置が直面させられている段差のことを障害と呼んでいるのではないか。ここでいう「障害」というやつは、本人の心身の診断結果ではなくて、環境的な状況が生んでいるものなのではないか。盲導犬つれてるから行けないところがあるってえのは → 行けないところがあるという「障害がある」んであって、目が悪いのがイコール障害なんじゃない。いくら強い度数が必須であっても、眼鏡さえしてりゃ普通に暮らせるなら障害者じゃないのは、目の悪さ=障害 ではないからなんじゃないのでは。「障害」っていうんなら、それは目の悪さのために生じる過ごしづらさのことなのでは。
まあそれはさておき、
就活のとき、夜の、営業の時間が終わったあとの中華街に一度はいったことがあるだけという友人とホラー映画の話をしながらでっかい豚まんを食べた。『残穢』や『ヘレディタリー』の話をしました。あとなんの話したっけな。マンションの七階に住んでるっていってました。あと、25階以上あるとタワマンって呼んでるっていう個人ルールも教えてもらった。まあその場その場にあるものや看板や通行人や売り物にケチをつけてニコニコしている。北京ダックってえモンが屋台で売っていたので買ってみて、二人ともはじめてだったのもあるし、ひとつもコメントがでてこなくて、おいしいとかまずいとかじゃなくてわからない。どういうものか知らないし、楽しみ方がわからない。棒たくさんはいった筒をしゃかしゃかやる占いがあったらされてみたい、というので、なにを占われたいのかうかがうと、とりついていないかどうかを調べてほしい、と言っていました。それは占いとかなのか。というか「占ってもらうこと」のインデックスって、仕事とかお金とか恋愛とか、そういうあれなんじゃないのか。本人はしかし、イオンにいた占い師に「恋愛は無理です」って占ってもらったことがあるから!恋愛運とかは大丈夫だからさっつって楽しそう。中華街から道を一本はさんだむこう、元町は打って変わってハイソな町で、いじわるな意味で、おれは横浜のこういうところが大好き。タイが好きなのもちょっと似ているかもしれません。高校生のときに石川町のドヤ街にいってそこにいるおじさんにたしなめられたのが非常によかった。かなりのご指導ご鞭撻いただきました。ありがとうございます。元町の「特価!店頭ワゴンセール」の値段は一万円。
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外人墓地のほうへ歩きます。道に池があって、立派な鯉がたくさん泳いでおりましたから、元町を乱すと鯉の餌にされる、みたいな話をしていた。思い出せる話題がこれなんだから、よほどくだらないことを喋ってるに違いない。墓石に書いてあることをいちいち音読して港の見える丘公園へ。港に背を向け『JR駅に流れている多機能トイレのアナウンス音声、内容に注意をむけるより以前から、なぜか勝手に「滝のおトイレ」って変換で聞き馴染みを得ていたために、そういうもんだとして受け止めてしまっていて、ようやくはじめて内容を意識的に追った際、自分が脳内で変換ミスをしていた可能性は一切想定せずに「滝のおトイレってなに?この駅が名物みたいにしてプッシュしてる、京都のローソンみたいな、蕎麦屋みたいな、そういう内装に凝ったトイレがあるってこと?けどこのアナウンスちょくちょく聞くし、そのわりにそんなトイレみたことないよな」と激しい疑問に襲われ、思わず大学の(そのとき大学三年生でした)同級生に「駅のアナウンスで流れてる「滝のおトイレ」ってなんなの?」って聞いたら「あたしもずっとそれ不思議に思ってた!」って返された』っていう笑い話をするつもりで「駅に多機能トイレってあるじゃんか」と話しかけたら「え? 滝? おトイレ?」と返されました。(つづく?)
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hiruzenmegata · 4 years
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0919色から絵についての覚書
絵を描いているので、色のことを気にします、「この絵のこの部分、どんな色にしようかな、どんな絵の具を用意しようかな」って。そんなふうに、画面全体のうちのほんの一部に置く絵の具の色について注意をむけることがあります。
けれど、そんなふうに「色」を切り分け、取り出すことって、たぶん「ふつう」なことではないという気がします。「色」ってきっと、一部分のための絵の具の混ぜ方を考えるような捉え方で把握されるものではない。「描きたい全体をつくるために用意する要素」として意識されるようなものではないからだ。
つまり、ある全体感のなかに成り立っている秩序のうちに存在している任意の物体について、この秩序のなかでどのような立ち位置にあるのかを表明するための座標として「色の名前」があるのではないか。(色の名前がそのまま、ある色を指しているわけではないんじゃないか。)
ぼくは、絵の具を混ぜて、つくりたい色をつくるときに、たとえば「ネギの青いところ」とか「ナスみたいな色」とか、「肌に浮かぶ静脈色」とか「ゆで豚の色」とか、そんなふうに、とても具体的な言い方に変換したものを呼び名にして考えます。それのほうがわかりやすいし、親しみを持てるからです。あと、絵の具は、おいしそうなほうがよいと思っているからでもあります。(けれどもぼくの絵の絵の具はぜんぜんおいしそうではないから、これは今後、取り組んでいく、とても大きな課題です。)
 で、話を「色」に戻します。どういうことか。
「青」という絵の具が「青」という色を提供してくれる、ということは、言葉の流れとしてはとても理路整然としているようにみえるけれど、人間が色を認識する筋道とは全然違う。つまりたとえば「青さ」なら、これは、「青以外の色の青じゃなさ」に支えられて、はじめて輪郭をもっているんじゃないか。「ネギの青さ」が「ネギの青くないところ、と比べたら、青いところ」の「青」であるように、すべての色は、言及される名称の色彩を取り囲む周囲の視覚的な状況での比較のなかでインデックスにされているだけなのだ。ネギの青さは、青という色を説明する青ではなく、ネギのある情景を秩序づける色のレイアウトのなかで、「青」と表現される座標におかれているためにそう描写される「青」なのではないか。
まあ当たり前なんだけども、あらためてそう気がついたんです最近。そういえば昔から、童話のなかにでてくる「赤い顔」の赤さや、「赤く沈む夕日」の赤さが、教室で与えられる絵の具の「赤色」とは違う色じゃんかよ!っていう疑いはあった。(また一方で、「そらいろ」や「はだいろ」への疑いがあった)
「青色ではなく緑色なのに、それでも「青信号」と呼ばれるのは、日本語の「青」が、英語でいうgreenも含んだ、つまり草の色をも含んだ感覚だからだ」という言い方はよく聞いてきたけれど、それに納得できない可能性はある。青信号の「青」はただ「もう一極の色との関係性に照らし合わせての名称」なだけで、その色が「青」なのか「緑」なのかという話なのではないんじゃないか。
 ところでさっき、絵を描く立場から考える「色」の捉え方って「ふつう」のことではない、という言い方をした。そもそも絵に限らず、立場によって変わるのが「ふつう」っていうものだ。「ふつう」の「ふつう」さっていうのは、かなり不安定である、しかし「ふつう」とは、措定された安定のことである。
このあいだ読んだ、深澤直人さんの「ふつう」というエッセイ本には、いろんな「ふつう」について書かれていたんだけれども、ざっくりまとめれば、「ふつうじゃないもの」=刺激的で、おもしろく、話題になるような、ぱっと目を引くようなもの、に、疲れたときに戻ってくる場所としての「ふつう」をデザインすることについて書かれていた。深澤さんはデザイナーです。
本にも触れられていたけれども、「コロナ禍」ということになって、「ふつう」の種類が増えたり、感じ方が増えたりしたかもしれない。
「ふつう」がクローズアップされているのは、ぼくのように、地味な絵を描いている人間にとっては、ちょっとほっとするような出来事でした。なぜなら、目立って求められがちな「特別なもの」の対極にあるもの、「いろいろ言いたいよぉ~」っていう勢いを起爆する賑やかなものの激しさから離れたときに佇んでいる、ノーマルなもの、地道なもののうれしさとたくましさを褒めてもらったように感じたからでした。
おなじこと言います。
「ふつう」がなにか、というのは、これは無視します、なんなら深澤さんの本でも読んでみてください。それよりいま言いたいのは、たとえばSNS上で話題になるような、批評文脈的に、時事的に、ヒステリックなタイムラインのなかでがっつりメンチ切れてしまうほどに「強い」ナウい「エモい」作品のおもしろさが、唯一の正義としてのおもしろさではない、という当たり前が、きちんと指摘される。それが「ふつう」に着目することなのではないか。なんだか、そんな気がして安心したのです。そのような狂騒的な、賑やかな特別さにしんどくなったところに、しかし慣習的なインテリアとしてではなく、もっとマイペースに見つめることのできるものとしてあるペインティング、というのはどうだろう。
 象や猿が描く、動物園のショーアップするものと、部屋の電気を消して描いたというサイ・トォンボリーを並べて考えてみるとき、気がつくことがある。絵を絵として成立させるのは、それを絵としてみる目があるかどうかだ。手を動かした痕跡が残ることは絵をつくることではなくて、それを絵としてみなす目があるから絵がある。「人はなぜ絵を描くのか」というタイトルの本はたくさんあるけれども、本来問うべきなのは「人はなぜ「絵」を見るのか」なのだ。
 以上!胸のなかで続きます。
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hiruzenmegata · 4 years
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リラックスしろ
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こんにちは
いつもは、日記的なパートを書いたあとで宣伝、という流れを目指してきました。が、今日は逆です。
西荻窪の「数寄和」というお店に絵を置いてもらってます。
ギャラリースペースのある、額装や和紙のお店、です。
リンク→ 「ギャラリーへ行こう 2020」 
出展は3枚、けど会期中の入れ替えもあるみたい まあ、あいかわらず「きて!外出して!!!」とはいえない状況です。でも、上に貼ったリンクから作品画像はみれます。 写真すっごいよくてびっくりしちゃった。
この分量が画像で並ぶと、かえって、サイズ感や素材の感じっていうのは、やっぱ実物にはかなわないなあ、というのも浮き彫りになりますねえ 自分の作品画像ばっかだけみててもピンとこないけど。
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「ギャラリーへ行こう」という公募の入選展(販売あり)になります。 応募動機は、数寄和さんを訪れるような人、そしてほかの多くの入選者に知ってもらう機会になれば、という純粋な気持ちですが、もっと直接的な下心もあります。 というのは9月に絵の展示を予定しているので、数寄和さんきっかけでこの展示が宣伝できたら嬉しいからです。
とはいえ、やはりまだまだ、無事開催できるか、および、「きてね!!!」大声でそう宣伝できるか、なかなか読めませんが、予定では9月の1日からの一週間、 一昨年と去年に引き続き、小伝馬町~馬喰町にあります「JINEN Gallery」にて絵の個展をします。開催したい。
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(2018年の様子)
4月の個展「憶測の温床」では、会場に作品設営をしたうえで、急遽バーチャル会場を設営、開場日時を守りながら会期中バーチャル空間をいじり続ける、 というようなムーブをして、自分ではテンパっていたこともあり「やった感」はあったものの、 なにせ鑑賞者がみえないから徒労感もハンパなく、と、いうような消息はこないだの記事に書いたかな。
でも、まあ、とにかくそういう「燃え残ってる感」が苦しいゆえ、9月はぜひちゃんと展示したいですね。したいですけど、まあ、どきどきして待つしかない、か。 できなかったらできなかったで(お笑い的なニュアンスで)おもしろいかもだけど・・・・
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(会期中の実空間会場入り口)
発表の機会に恵まれるかどうかはさておき、絵を描いたりしてなんと浅い呼吸をしている、ことを残すために、最近インスタグラムをがんばっています。 がんばっている、というのはつまり、一週間に一枚程度の頻度で、新しい作品を(中心に)アップロードしるのです。いつまで続くか・・・
https://www.instagram.com/hiruzenmegata/
こういった感じです。絵、変わってきているのでは・・・??
前回おそらく「元気がなくなったのでホドロフスキーの映画をみたら元気になったよ」みたいな日記を書いたはずなんですが、その流れでホドロフスキーの自伝を読みました。 その本「リアリティのダンス」は、 “映画製作も含め、人を救済することを芸術の使命だと信じ、瞑想や占いなど、さまざまなものを試みてきたホドロフスキーの辿り着いた療法「サイコマジック」とはなんなのか。どのように辿り着いたのか。” という内容でした。
まだ自我や意識さえはっきりしない小さな小さな頃から人は、生育環境や親族関係に由来する「型」みたいなものを刷り込まれている。そしてそれは、そのままその後の人生に、一種の「呪い」のように働きつづけてしまう。性格や心の基本的な特徴、ひいては人生そのものに深い影響を及ぼす。
しかし心やなんやらを形成するのに必要な呪いでもあるから、消去することはできない。自覚し、乗り越え、飼い慣らすほかない。自覚するためには対象化しなければならない、乗り越えるためには無意識に働きかけるしかない。
相談者の話をきいて、問題の根を見つけ出すのがセラピスト・ホドロフスキーの仕事、そのあとで彼は「レシピ」を処方する。 そして相談者は、処方された指示に従って自ら行動する。与えられた言葉の意味を納得するっていうレベルではなく、もっと芯から納得する水準で「セラピー」を受け入れるために、行為をおこなう。 っていうことなんですって。「サイコ・マジック」って。
「無意識に働きかける」って、たとえば「踏み絵」の罪悪感、みたいなレベルの話で、そこまでド・スピリチュアルじゃないと私は思いました。
去年の「あいちトリエンナーレ」でもこの「ホドロフスキーのサイコマジック」は展示されてましたし知ってる人は知ってるかと思うんですが、 本人は「気を付けてる」とはいうものの、やっぱりホドロフスキー大先生が宗教的カリスマのごとく君臨してしまうんですよね組み立て方的に仕方ないっちゃ仕方ないんだけど。
まあでもとにかく、自伝は自伝でおもしろくて、映画との異同を確認するのも楽しいし、ごちゃごちゃしてるし、賑やかでよかったです。 そんなに珍しい観点でもないかもなんですが、個人的には以下の二点 が印象的でした。 ・抱えてきたストレスが、なんらかの症状としてあらわれたとき、「なぜ体は、ほかの症状ではなく"その症状"を選んだのか」を考えるとよい ・変化はこわいことだから、どうにかしたくてしょうがなかったはずの症候を、どこかでどうしても手放したくないと感じてる場合が多い
それとはまた別の本で、医師の執筆した本も読みました。偶然、内容が重なった。 書いた医師は(文学好きな)内科医。喘息やなんやらをたっくさん診てきて、患者の話をたっくさん聞いてきて、子供の頃の体験、両親との関係のあり方が、なんらかの症候として体に刻まれている場合があるのではないか、と推察し、子供時代の過ごし方を考察しはじめた。
意志的に排便できないわけじゃないのにトイレトレーニングがうまくいかないと��、指しゃぶり、夜驚症、あるいは吃音など、案外、周囲との緊張関係や不安感が根っこのひとつになっているのかもしれませんね、という内容。
いわゆる教育学(子供をどう育てるかのハウツー研究)のはじまった頃の子供は死にやすい。子供ってやつをどう生かすか、が起点だった。だから「育て方の学問」って、あんがい子供の心理的な安心感はおろそかにしてきてるよね、みたいな。(古い本ですからね)
いらだって癇癪を起すように、体の使い方と気分のコントロールはつながってるもんね。おなかすくと悲しいし、おなか痛いと悲しいし。「頭のなかはいつも、おなかのことでいっぱい」って言ってたのはあれは誰だったっけか。
深呼吸してリラックスできる(リラックスすることが、深呼吸という運動によってもたらされる) これは、深呼吸ではない呼吸、つまり"いつもの呼吸"さえ、いつだってどこかしらで、いくぶんかの緊張(=リラックスの逆)を伴っているっていうことの証拠だよねえ、みたいな。 そうか心配事とかあるとため息つくのは緊張をやわらげたいんだな。ため息が癖になってるときは、「吐ききる」っていうのが単純にきもちいことだからだろうな。
岡田尊司さんの「回避性愛着障害」っていう新書、家庭環境みたいなことを思うときいつも思い出される本で(あと山崎まさよしの「セロリ」の冒頭も連想される)、なんかまあ、そういうようなことに思いを馳せて過ごしていますよ。
ではでは、もろもろよしなに・・・
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hiruzenmegata · 4 years
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活動近況
会期終了からひと月経とうとしていますが、個展「憶測の温床」おしまいになりました。ありがとうございました。
最終週の展示空間は、ちょっとした迷路にしていました。 そういう内容の作品をあつめた展示だし、せっかくのヴァーチャル空間を利用したい気持ち=実空間だと構成できない会場のありかたで遊んでみたい気持ちもある。それで、鑑賞者が迷子になるように工夫してみました。(展示のアーカイブがむつかしい)
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ただ、どのくらいの人がどういうふうに探検してくれたのか、まったくうかがい知れないのが残念で、もしかしたら友達しかみにきてないのかもな、とやるせなくなってしまうときもある。(というこのタンブラーは知ってる人しかみにきてないと思うけど笑)
どこどこのコマーシャルギャラリーに所属したい、とか、あるいはもっと素朴に「有名になりたい!」とか、そういう欲がはっきりしてるわけじゃないとは思うんだが、自粛でぜーんぜん人と接さなくなったこともあわさって、活動の規模感についてちょっと苦しくなってしまった4月末。
自分がなにかをすることで、自分の周囲に、ある種の抵抗感を感じることができる、それを感じたい。だけど予見しうる抵抗感だと満足のいく刺激としては足りない。みたいな。そういう部分がわたしにはあるし、みんなもちょっとは思ってるんじゃないかな。(「有名になりたい!」みたくハッキリした欲があったほうが、評価基準も設定しやすければ、なにをすべきなのか策略を練っていきやすいような気がする)
特に目賀田さんはアーティスト・ネームですから、活動しない限り実体化しないのでだいたい半透明で、そんな不安感を拭うために、大好きな映画をみなおしてみました。
アレハンドロ・ホドロフスキーの映画すべて好きだが、そのなかの一本「エンドレス・ポエトリー」です。
監督自らの半生を映画化しているものパート2なんですが、若き日の自分を、自分の息子や孫に演じさせている。そして、未来の自分として、90歳になる監督本人が登場する。
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これは監督・ホドロフスキーが急に画面に登場して、実の息子の演じる若き日の自分を励ますシーン。詩人として生きていくとは言ったものの、いろいろあって迷っているとき。 未来のホドロフスキーが背後に登場し、肩をつかむ。「死ぬのが怖いんじゃない、生きるのが怖いんだ。だが自分の人生を生きることは恥ではない。生きろ!生きろ!」
これはね、元気をいただきましたよ。こんなんなんぼあってもいいですからね。 やっぱこう、情報量が多くてがっちゃがっちゃしてわけわかんないことになってる話が大好きだなあ。意味とか気持ちが込もりすぎてて逆に荒唐無稽になってる、みたいな。
さてひとつお知らせをさせていただきます。 2年前の「ポエトリー・イン・ダンジョン」というグループ展で共同制作をさせていただいたこともある、詩人のそらしといろさんが新しい詩集「もうずっと静かな嵐だ」を刊行されました! そして光栄なことに、この詩集の装画を担当させていただきました。
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中身の詩もすごくいいですが、この本のサイズ感や手触りもとてもよいので、ぜひ手に取って確かめていただきたい所存
(出版社サイト https://furansudo.ocnk.net/product/2654 )
『もうずっと静かな嵐だ』そらしといろ(著/文) 発行:ふらんす堂 B6変型判  並製 価格 1,500円+税 ISBN978-4-7814-1256-6
(記事の内容けっこうきれいにまとまったからうれしい)
(いまホームページをつくりなおしています)
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hiruzenmegata · 4 years
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「憶測の温床」途中経過
コロナでいよいよかなりはっきり形を持ちはじめた政権と市民の力関係の民主的じゃなさに経済的な不安感、もちろん単純にニュー流行感冒への心配に時勢が超みだれている現況を、職探しに一生懸命にならなくてもいい言い訳として利用してしまっているフシもあって、かなりのんびり過ごしています。ご自愛しています。(ご自愛って言葉、僕らいっつもひ��に向けてばかりですけど、自分にむけてもいいみたいです)
職がないので、在宅での会議や遠隔講義なんかに使われるテレビ電話的なもの(ZOOMやDISCORDあとLINEも)完全にリモート飲み会のツールとしてのみ活用していますが、あれは時間制限がないし、飲むペースも完全に自分任せになるし、あぶないですね・・・・なんならネット上でやりとりしているだけだった、会ったことのない人とふたり、ヴァーチャルの初対面をしちゃったりして。(6時間くらい飲んでた…)
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設営した実空間会場の開場をとりやめ、急遽設営したインターネット展のみオープンさせる、というやり口で「無事」開催のはこびとなりました6度目の個展「憶測の温床」まだ途中ですがいろいろ書いてみます。
展示告知ポストでも述べたとおり、これまで開催していた「絵での個展」からガラリと形態を変え、絵ではない作品たちだけで展示をつくってみました。制作の軸は変わらないし、絵もいつも通り制作してはいるんですが。
所在なさといいますか、目の前にあるモノに対して安心を抱けない状況、みたいなものに興味があるといまは自分の制作の真ん中についてそう思っていて、その「モノ」っていうのの指す範囲には絵もあるんですが。(1枚1枚の絵そのものの雰囲気についても、もっと抽象的に、イメージが描かれているということの不思議についても、「なにかが描かれている物体である」ということの当たり前じゃなさについても、すべてです)
ですが今回はそれを映像とか、そういうので扱ってみて、これらに加え、展覧会全体で提示しているイメージと等価な作品としてのエッセイをととのえて、展示アーカイブの意味も込めての作品言及もあわせた小冊子をつくりました。
そして設営し、開場をとりやめて、で、オンライン版です。
「ポートフォリオサイト」ではなく「展示」ですから、開場日時以外にはアクセスできません。
またウェブ版ゆえ、展示空間の数や大きさを会期中に改変できる。
というような特徴があります。
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仮想的な空間が時間的な制約をきちんと受けていて、おなじアドレスでも表示されるページの様相が変化する、というのは、これはかなり展示主旨ときちんと重なっている。(入場こそできないものの、設営されている実空間も同時に、同時期に存在している。)
上の画像は2週目のトップページです。
2週目は、1週目に展示していた作品はぜんぶ片付け、部屋の数も1部屋から2部屋に変えてみてました。
2週目の設置品は「ユアホームタウン(2018)」の本編と、新作の「新宿音声案内」、それと本展によせたテキスト作品の一部も公開していました。以下に説明を。
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「ユアホームタウン」は何度もポストしているものですが、個人的な思い出を、個人的な思い出のない場所と結び付けてかたっていってもらった映像でできています。
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「新宿音声案内」は発表ははじめてのもので、さまざまな人にうかがった新宿についてのちょっとした話をまとめてひとりでディクテーションした音声をバックに、ライブカメラや無料素材など、その視界の中心点・主人公が空白になっている動画像も駆使しつつ新宿(等)の風景を流しているものです。
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テキストは抄略版の冒頭をここにものせてみますが、だいたいがこういう、断片的なもので組みあがっているものです。原稿用紙だと35枚分くらいの分量。
むしろ当初の予定通り、実空間でのみの展示をしていた場合よりもしっかりしてる感さえあります。ただ、実際に誰かが展示にやってきて、作品をみてくれて、というのをまったく実感できないのでとても不思議ではあるんですが・・・
「閉じていることがうれしい」との感想をいただきました。
「閉じています!のページ」が表示されるのではなく、ただシンプルに接続できないところがおもしろいという声もいただきました。
日頃、ウェブサイトに感じることのないあやしい気配を作り出してしまったようです。
ただ痛いのが、先述の小冊子についてです。
これを片手に鑑賞していただくことで、実空間とは別の方角への奥行がたちあがり、そうすることで展覧会が完成する!という狙いでつくったもので���たので、会場に置いたサンプルを手に取ってもらうつもりだったのです。要は、買う買わない関係なく、冊子あわせての展覧会!と思って書いたんだけど、買ってもらわないと手元に渡せない状況になってしまったって話。
で、買え!買え!圧も違和感があるが、しかし読んでほしさもあるし、ただ通販ってことは配達人を働かすっていうことになるし、と、複雑です。
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落ち着いた(落ち着くのか?)あとの希望的な空想として、最近こんなものを夢見ています。 オリンピックの予定なんかもあわせ、取り壊しが決定している、よいビルをおさえて、いまの時期に展示をするつもりだったけど流れちゃった/やるにはやったけど…っていうような同世代の作家たち(最低条件として、なんのグループにも属しておらず、グラフィティやストリート系の流れも汲まないひとたち)何人かで集まってグループ展をうちたいなあ、となんとなく思っていたりします。ま、思いつきですけど。。。
さて木曜日から再開します。最終週です。 引き続きよろしくお願いいたします。
“憶測の温床” ヴァーチャルヴァージョン 会期:4月2日-20日(火,水曜 アクセス不可)    12:00-20:00 会場: https://medium-for-abduction.com
※会期以外の日時ではアクセスできません。 ※SHOP: https://medium-for-abduction.stores.jp/
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hiruzenmegata · 4 years
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展示の変更のお知らせ
今月あたまに、個展の開催告知をさせていただきました。 4/2から20日まで、高円寺のpockeというスペースで行われる、という展示です。
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ところがコロナです。
ということで!!
高円寺pocke、開場は取りやめることにしました。
いついらしてもpockeには入場できません!
直前のお知らせを申し訳ありません。
強くお伝えしたいのが
わたしの展示のための外出なんてしないで!!
そしてもう一点、
外出を必要としない形式での個展も開催します!!
じつは、今回の展覧会のためだけに、パンフレットを作成したんです。
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ここには、設置品すべてについてのテキスト および、それらとはまた別の、独立したテキスト作品(13566字)が収録されています。
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(目次部分のスキャン・ぶれててこわい・・・)
そこで、まず、この冊子の通信販売を行うことにしました。 署名・エディション入りで700円、じょうぶな紙30ページに白黒です。
これを片手に鑑賞していただくことで、実空間とは別の方角への奥行がたちあがり、そうすることで展覧会が完成する!
…という狙いでつくったもので、自由に手にとれるよう、実会場に設置しておくつもりでした。
つまり買う買わない関係なく、冊子あわせての展覧会!と思って書いて、つくったんだけど、買ってもらわないと手元に渡せない状況になってしまった・・・
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インターネット上でヴァーチャル版の展覧会を開催します。
このヴァーチャル展覧会会場はどなたでもご入場できますが、 先述のパンフレットをご購入いただき、これを片手にサイトを閲覧されますと、 より鮮明に鑑賞していただけますこと請け合いです。
ということであらためて、告知します
個展をやります。 「憶測の温床 ヴァーチャルヴァージョン」
会期 4/2-20(火・水やすみ)
開場時間はちょっとのばして、全日12:00-20:00
会場
https://www.medium-for-abduction.com/
 
※オープン日時以外ではアクセスできません
よろしくお願いいたします。
通販ページ→ https://medium-for-abduction.stores.jp/
高円寺pockeで、誰も立ち入れない個展も同時開催中なんです。かっこよくない?
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(スキャナに顔をくっつけてみました。こわい・・・)
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hiruzenmegata · 4 years
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展示の開催のおしらせ
※開催形式を変更しました。この記事はただのアーカイブです。
更新するたびにおもうのだけど、更新ぜんぜんしていませんね・・・ 絵も、(かつてよりペースは落ち着いているとはいえ)描いているのだが、これもなかなかアップロードまでいかない。 というよりそもそも、描いた絵の管理・監督ができなくなっています。かつてはしていた。が、いまやその意欲はまったくない。飽きやすい性格なので、几帳面なことはできない。むしろ、三年ほど続いていたということのほうがすごい。作業内容としては、描いた絵に番号をふり、目録ノートにすべて登録していました。描いた絵の似顔絵というか、ラフ版みたいなやつに登録番号とサイズ、タイトルと保管場所などをあわせていました。どうだ、えらいだろ、すごいなあ、すごい。 それをまったくサボるようになったので、いけないね。このような作業は一度サボっちゃうともうそれでおしまいになります。おしまいです。
せっかく久しぶりに更新しているのに、できていないことを並びたてるのはよくない。もっと前向きになります。 前向きな話をお知らせするために更新したので。知らせます。 個展やります。
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場所は高円寺、pockeというスペースでだいたい一ヶ月です。 4/2(木曜)から20(月曜)まで、火曜水曜やすみで、平日は14時から、土日は12時から、いずれも20時までオープン という予定ではありますが、前もってお知らせいただければ、指定されたときに開けておく、可能かと思います。(tel: 080-3094-7335)
展示タイトルは「憶測の温床」 展示内容との関係が(いままでより)みえやすいタイトルになってたらいいな~と思います。
これまで個展というと、絵を中心にして展示をつくってきましたが、今回はちょっとそうじゃないふうにしようと画策しています。絵を中��にしては伝わりづらかった角度で視線が刺せるよう、絵をとりはらい、ほかのアプローチで個展をつくってみようかな、と思っています。
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ということで、期間長いですし、よければあそびにきてやってください。 高円寺というと古着屋や飲み屋が多いですが、展示スペースだとナオナカムラとかFAITH、吉野純���蜂蜜店やSpace33、ライブハウスだと無力無善寺やJIROKICHI、HIGH、あとはなんだろうな、純情商店街の奥、すでにあげた「吉野純粋蜂蜜店」のもっと先にある「サンカク山」という古本屋、古本屋でいちばんすきです。 おれは正直あんまり詳しくなくて、これで手札出し切ってしまっているんだが、きっといろいろあっておもしろい街ですからぶらぶらしにきてみてください。
高円寺pockeのページ: http://pocke.jp/
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これは数年前、卒業式をやっている某学校の構内でひろった手紙。これをひろったときにとった写真です。
さて、宣伝をいくつかつけておきます。
特にポリシーを持ってやってるわけでもないのですが、いちおう、作家名SNSがあります。 twitter: https://twitter.com/hiruzen_megata instagram: http://instagram.com/hiruzenmegata/
ユニクロに服を作らせてあそんでいます https://utme.uniqlo.com/jp/front/mkt/show?id=283742&locale=ja
LINEスタンプをつくってあそんでいます https://line.me/S/sticker/10299314
https://line.me/S/sticker/10323510
Bandcampでゴミ音楽を撒いています
https://pocket-mon-water-hamstar.bandcamp.com/album/probability-of-failure
https://pocket-mon-water-hamstar.bandcamp.com/album/our-state-nara
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これは「武器人間」という映画の(予告編の)キャプチャ画像です。
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hiruzenmegata · 4 years
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掌編小説
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ポルターガイスト
  通り雨の音のおおきさで、ベランダ扉が閉まっていないことに気がついた。カーテンを押しひらいて、ガラス扉を閉めるとき、ベランダの柵、手すりの一部分が、泥でひどく汚れているのがみえた。
  オートロックを解除し、ポストが並んでいる空間に足を踏み入れる。一番上の段のポストの上に割れたマグカップがひとつある。五階の部屋のポストを覗くと、地域広報誌とガス代の知らせ、証券会社からの封筒がはいっている。
エレベーターに乗り、階数ボタンを押す。五階に到着し、扉が閉まる音を背中に聞く。部屋を目指し廊下を進む。いきなり、ドラム缶を叩いたような音が響く。マンション全体にこだまする。吹き抜けを見下ろすと、さっき乗っていたエレベーターが三階と四階のあいだで止まっていて、ちょっとすると異常を知らせるサイレン音が鳴りだす。
  買ったばかりの紅茶ポットで紅茶をいれた。ダイニングのローテーブルには雑誌、それと、もらいもののクッキーも置いてあった。お気に入りのマグカップが見あたらないので、いつか引き出物でもらったセットもののカップの、薄ピンクのほうを用意する。ローテーブルにポットを運んでソファに腰掛けた。ところが突然、風呂場から音があがり、見にいくと、きちんと閉めていなかった洗面台の鏡の扉の裏側の、棚から歯磨き粉チューブが落下していた。しまいなおし、ダイニングに戻る。予定より濃くなった紅茶を注ぎ、雑誌を手に取るが、驚いてすぐ手を引っこめた。雑誌の表紙が冷たく濡れていた。
  どこかの部屋から、赤ん坊の泣き声がする。マンションは回廊状になっていて、五階から見下ろす吹き抜け、一階部分には植栽がある。どちらかというと和風で、竹もある。
サイレンは勝手に止んで、ちょっとすると、エレベーターもまた動き出す。エレベーター昇降のためにある長細い直方体はガラス張りで、エレベーター自体もそうだから、個室内が無人であることは明らかである。動き出したエレベーターは滑らかに上昇し、五階で停止する。扉の開く音が確認される。気を取り直し、また歩きはじめる。
部屋に近づく。ポケットを探すが、合鍵が見あたらない。足をとめ、鞄のなかをあさるが、やはり見つからない。もう一度ポケット、もう一度鞄。しかしどこにもない。もしかしたら落としたのかもしれない。きた道を戻ったほうがいいかもしれない。とりあえずはエレベーターホールまででも。
  テレビを眺めてクッキーを食べた。紅茶の味なんてあまりよくわからない。通り雨はやんでいる。おやつの時間をすませると、しなきゃいけないことがあるような気がしてきて、とりあえずあわててテレビを消した。どこかの家の洗濯機が遠く聞こえ、雨あがりをよろこぶ鳥の声もわずかだが聞こえてきた。ソファから起き上がり、ふかふかした焦げ茶色のスリッパに足をさしいれて、通知を確かめようと携帯をさわるが、メッセージはきていなかった。ドアのチャイムが鳴り顔をあげた。戸惑う。マンション玄関のインターホンとの、オートロック開錠のやりとりはしていない。
  鍵がない。五階に戻ってきていたエレベーターに乗り、一階まで戻り、ポストのあたりをうろつくが、やっぱり合鍵はなかった。不安な足取りで、しかし再びエレベーターに乗って五階までいき、エレベーターホールを丹念に眺めまわす。廊下を眺めまわす。しかし、やはり、ない。恨みがましい目を部屋の前にむけると、部屋の前の廊下になにかがあった。もしやと思って近づく。合鍵だ。身を屈め手に取り、とりつけられたキーホルダーを観察する。間違いない。
 鍵穴にさしいれ、ひねる。ドアノブをつかむ。玄関にはいり、靴をぬいで家にあがる。足音をたてないようにそろそろと廊下を進む。風呂場のほうから音があがる。覗くと脱衣所の洗面台が泥だらけだ。あわててダイニングに向かうと、ベランダの扉があきっぱなしで、吹き込んだ雨で部屋の床が濡れている。濡れて重くなったカーテンが強い風にあおられて動いている。顔をしかめ、靴下を濡らしながらベランダ扉を閉めると玄関チャイムが鳴った。ベランダ扉を閉めたまま冷たいアルミから動かしていない手は、腕は、サッシやカーテンに遊ばれ冷たく濡れている。顔だけ玄関のほうを向いてじっとしていると、ばたん! 玄関の扉が強い力で閉められる音がする。重く、怒りに満ちた足音がどんどんこちらにやってきて、ダイニングに到達した瞬間、ばりんとなにか割れる音がする。どんな姿も見えない。急に眠くなる。とてつもなく眠くなる。そのままソファに横になる。
耳に息がかかる不快感でじっくりと目覚めていく。耳元の息は荒く、機嫌が悪い。目を開けると部屋は暗い。涙が頬を伝っている。時計をみると深夜の三時すこし前だ。すべて濃い青に沈んでいる。冷蔵庫の唸りだけが呼吸している。すぐには頭がはたらかない。目の前のローテーブルの上をぼんやり眺める。目で形を追い、ゆっくりゆっくり時間をかけて、ローテーブルの上で青い冷たい光を受け、片側だけおとなしい白っぽさで輝いているものが、風呂掃除をするときのゴムの靴だと理解していく。光の反射はやわらかく、まるで空間にむかいゆっくり蒸散しているみたいだ。靴は片方だけで、もともとオーバーな形状だし、右のやつか左のやつかを判断できるほど頭はまだはっきりしていなかった。見つめていると、片方だけのゴム靴は不意に、音もなくテーブルの上を五センチほど横に、滑るように動いた。
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