Tumgik
lucaacul38 · 22 days
Text
返信
こんばんは。2年前に手紙をくれた『あたし』へ
お久しぶりです。あなたがこの手紙をネットの海に流してから、そこそこ長い月日が経ったみたい。先程、もらった手紙を開封し、その場ですべて読みました。ありがとう。沢山考えてくれて。そして、私たちの(私の)身体をこれまで維持してきてくれて。
読みながら思い返していました。確かに数年前まで、私たちは完全に乖離することもできず、かといって完全に一貫した性格、挙動の女の子を形成することもできず、苦しんでいた。 私たち自身にどうすればいいか答えが無いから、当然周囲を戸惑わせる場面もあり、その場面を私たちは、それぞれの性格から客観的に見ようと試みてしまう。そして、それぞれの性格における表現の仕方で落ち込むことを繰り返す。まるで救急車のサイレンのドップラー効果のように、同じ事象に対する感情が、いびつな波形を描きながら近づいたり遠のいたり。頭がおかしくなったと感じることさえあった。元は同じ波形のはずなのに、第3者視点で観測しようとするほど、元の形を認識できたと思える時間は短くなってゆく。そんな混乱の具合でした。
時間の流れはやっぱり最強で、あんなに苦しんでいたのに、私はいつのまにか、たった一人の『私』という女の子を形成して、知らないような、懐かしいような自我の砂浜に流れ着いていました。
ここは、月と太陽がとても綺麗に見えます。いつか見た、南西の孤島の海辺を思い出します。こんなに静かで、穏やかで、美しい場所に『私』として辿りつけたこと。奇跡もあり、努力もあり。決して綺麗事だけピックアップはしないけれど、幼い頃に夢見た安心できる居場所が、ここには常にあると確信しています。
あなたは手紙で聞いていたね。『あなたに必要な癒しって、なんなんだろう。』
なんだろうね。わからないけど、きっと私たちにはどうにもできないこと。時間が経つことだけが、足りていなかったのかもしれない。パズルの最後のピースみたいに。しょうもなくて有りがちな答え。でも確実に、一つの身体の中で半壊している人格にとって、何の手の施しようもないもの。たとえ一貫した人格の成人でも、自身の過去、現在、未来の整理がついている人なんてそうそういないしね。一つの人格の中での、時間軸の制御。だれだってショッキングな出来事があれば、小さな子どものように反応することがあるように、人格の成り立ちが複雑かどうかにかかわらず、どうにもできないことだった。そう思う。
いつか会えると期待した人。いつか手に入ると思っていた家族像。いつか辿り着けると思っていた、心から安心できる家。心から安心できる友達。ほんの少しの刺激的なこと。熟慮の結果、続けないことを選択した交友関係。暗黙の了解のまま、未成立の相互の性欲を自然消滅させること。約30年分の轍を振り返ると、まぁまぁ大回りの円を描いて、最初の場所に戻ってこれたかのような。そんな軌跡だと感じます。
私はこれから、『こんな風に生きてみたい』と思うことがあります。自分のわがままを徹底的に実現してあげたいと思っています。 わがままというか、やりたいと思ったこと…どんな些細なことでも、聞き流さずに、腰をかがめて、目線を合わせて、目を見て微笑んで、しっかりと聞いてあげたい。彼女が最後まで、きっと恥ずかしがりながらも、吃りながらも、自分の言葉で『私』に伝え終わるまで。足を止めて。待っているから言ってごらん、って。
結局、私が必要としていた人は、大人に成長した私自身の姿だった。そして彼女が、幼い『私』に優しく接してくれることだった。 だから時間のx軸が、十二分に延びた状態で必要だった。その時点でやっと自分の情緒の核が安定するっていう、私自身の過程。
それは、誰と比べるものでもないこと。過程は自身でしか認識できないし、本人の解釈がその時々の人格を形作り、他人が見られるのはその外面化した一面のみ。過程そのもの(過去という事実の累積)を自由に閲覧できるのは、自分という権限者だけ。閲覧した内容の解釈の結果しか、他人は見ることができない。けれど、他人はきっと相手の過程を漠然と感受することはできて、それと表面化した人格の一面を無意識のうちに併せ見る。そして相手に対する『印象』が形づくられるのだろう。その印象は一度固まると、一定以上の会わない期間でもできない限りは、中々覆らなかったりする。逆を言えば、会わない期間に自らの過程に対する解釈を変えることで、以前の他人からの印象をも、ある程度その解釈の差分(以前とは変えたいと思い、実際に解釈を変えた部分)に沿って変えてゆくことができる。
そうか。私はこの結論を欲していたらしい。求めているものが何かわからないままに。この、希望のもてる帰結を。
これからも、明るくて穏やかな、美しい場所で生きていきましょう。友達と一緒に。あるいは、新しい家族たちと共に。
さようなら。ありがとう。
1 note · View note
lucaacul38 · 2 years
Text
手紙
 ご無沙汰しております。過去の私へ、変わり無くお過ごしでしょうか。 私は、相変わらず元気に楽しい毎日です。  もちろん、ただ楽しいだけというわけではありません。日々の業務に慣れたかと思えば、しょうもないケアレスミスで先輩や上司に 若干 呆れられたりしています。それでも、可愛がられているのは明白なので、結論としては万事順調と言っていいでしょう。あなたの頃の私と比べてみれば、今はもう何もかもが順風満帆に思えます。あなたならわかるでしょう。きっと誰よりも理解できることでしょう。今のあたしがどれ程、精神的に回復したかを。
 精神科に通うのは、もう止めにしました。なぜって、だってあの先生は今のあたしには合わないと思ったから。確信したからです。たぶんあの先生は、スタンスとしてずっと一貫したサポートをしたかったのだと思う。一方で、患者のあたしは、もう何度か先生と会わない期間に、自分の中で不可逆の変化を遂げてしまった。私の環境変化や予算の問題もあったけれど、とにかく、お互いに可能な範囲で関わりを続けた結果、先生のやりたいサポートと私が欲しいサポートが丸っきり食い違った。先生は自覚がなかったみたいだから、最後メールで教えてあげた。もういいですよねって。納得はいってない感じだったのかな、返事のメールはタイトルと冒頭だけ少し読んで、嫌になってすぐに閉じて消去したからわからない。そのあと来てた料金の支払いについてのメールも削除。こちらはまったく読んでない。もういいやって思って。一通目のメールを少し読んだ時点で、全然あたしの言いたいことが伝わってないし、最後のカウンセリングの料金は踏み倒してやろうと思ってた。だから今も特に何もせず、そのまま。これでいいと思う。
 ねぇ、こうやってネカフェで何かをつまみながら、過去の出来事の総体としてのあなたと対峙していると、数年前を思い出すよ。具体的には3年前かな。当時の私的には、大胆ではないけれど確実な変化が少しづつ積み重なって、それが大波小波のように、断続的に心の在り様に影響を与えているのを感じていた。その結果をどこかに吐き出したくて、pcと重いトランクを引きずりながら、元旦の誰もいない、なにもやってない東京や横浜を宛もなく歩いたりしてたんだと思う。たぶん。今となってはこういう個人的なことさえ不確かなのだけれど。不思議ね。
 思えば、2019年はこれまでの私(あなた)にとっても、これからのあたし(私)にとっても、かなり特別な年だった。転換点だったと思う。今、会社の人たちとある程度普通に世間話が通じるのは、確実に当時の彼氏のおかげだし。別れ方は個人的に最悪の形で、一番モヤったし信頼しようとしてた分沢山傷ついたけれど、逆に別れてからは友達を頼るのが上手くなった。やっぱり信頼できるのは、男でも血縁者でもなくて、一緒の時間を共にしてきた友達だよねってなって。(笑)  そう、だから、付き合って、一緒に過ごして(改めて思い返すとかなりたくさんの時間)、本当に信頼してみようと思って、そこで別れちゃったから辛かったけど、その後のあたしに繋がるための最重要ステップというか、絶対に外せない過程に彼が居て、そして去っていったんだなぁと思う。二度と会わないし、気まず過ぎるから会いたくもないけど、私の預かり知らぬところでぜひ、それなりに幸せに日々を送って欲しい。私の預かり知らぬところで。
 会社の先輩には今のところ可愛がってもらえてて、同期も仲良くしてて、やっと所属できた会社がここで本当によかったと思ってる。今のところはね。これからあたしが能無し認定されるような事象が起きて、取り返しのつかないことになったりするかもしれないし、その時は当然クビだろうし、クビじゃなくても自主的に辞職とかしないと収まらない今後が無理みたいなことも全然起きるかもしれないから、これからのことは何とも言えないけど。なるべく穏便に過ごしたいから、すべてがなるべく滞りなく進みますようにって毎日どこかで祈ってる(そうもいかない時もある)。
 配属先の先輩たちももちろん優しくて好きなんだけど、本社(もうお盆明けには別の配属先かな)の先輩がとっても可愛らしくて、正直言って好きだった。だったというのは、もう終わりってこと。別にお互い告白とかしてないし、サシ飲みも行ってないし、なんならプライベートの連絡先も知らないけど、とにかく色々調べたり考えたりした結果、いくら気が合いそうだからって、社内恋愛に一歩踏み出すにはそれなりの覚悟をしなくちゃならない。やっとありつけた就職先で、こんなにいい会社で、配属先でもまぁまぁ馴染めてきてるこのタイミングというのもある。私にはそんな覚悟ないし、下手にサシに誘って軽い女に見られたくもない。結構社内の上層部に社員のことを言う人だから、私がそういう評価を社内で下されかねないし。こういった色々なリスクを鑑みて、早くも諦めたってわけ。もったいないよね。だからセフレとずるずるラインして、会う約束が自分でもしたいんだかしたくないんだか分からないっていう中途半端な状態が続いてる。
 セフレがお盆に旅行に行って来て、お土産を渡しに行こうかとか言ってきたのは正直結構嬉しかった。でもそれは、私に惚れるはずのないレベルのタメのイケメン絶倫男が、彼女と旅行か知らないけど、遠出した先でまさかの私にお土産を本当に買ってきていて(適当に買ってきてと言っておいたのは私だが)、それを帰りにわざわざ届けてくれる??良さあるわぁ~という、いかにもなセカンドワイフ的思考であり、あくまでイケメンが私に旅先で選んできたお土産を渡しに来てくれるという、シチュエーションに対する嬉しさだったことは自覚しなきゃならない。そして案の定、私が空いてる日を伝えると、その日はまた他の地に行くのだと言う。今度はセフレの女にでも会いに行くのだろう。もともと一般名称の女が好きなタイプであって、彼にとって女と会うのは一種のレジャーなんだと思う。だから多少なり遠くてもフッ軽だし、容姿がそれほど一般的に美しいわけではない私にも甘い言葉をささやいてくれるのだ。  そうして利用してくるなら、こちらもあなたの存在をステイタスとして利用してやるわよと、社会人の女として、アラサー女として箔を付けたい機会に、奥の奥の手くらいの話題で彼との情事を話すことにしている。お互い様にしょうもない。
 大体、人間関係の近況はこんな感じ。驚いた?だって当時のあたしからは想像もできないくらい、がんばってそれなりに社会に所属できてるでしょう。私なりに努力はしたつもりだし、そこそこ欲しかった結果はついてきてると思う。あなたはどうですか?まだ少し元気ないよね。知ってる。たまにあたしの身体ごと無気力になるでしょう、今でも。
 それだけ大きな精神的損傷を受けてきたってことだと思う。 あたし達は今となってはほぼ完全に乖離しちゃってるけど、でももとは同じ身体にたった一つの精神だった。損傷があまりに激しい部分を差し置いて、あたしだけで社会をやって、いかにも健康なふりをして、あなたをないがしろにしてきたかもしれない。でもこの身体を生かすのに他に道はなかった。少なくとも、あたしにできる選択肢としては他にできそうなことはやり尽くしていた。周りの大人に頼るのも、友だちに頼るのも、専門家に頼るのも、自分の表現に代えてなにかアウトプットしてみるのも、逆にビジネスチックな企画でそこそこ成功して、満足感や達成感を得てみようとしたこともあるし。でも全部ことごとく欲しい自分の姿じゃなくて。手に入らなくて。あたし達の乖離が進んでいるのかも、停滞しているのかも、一体化してきてるのかもわからない。  判断がつかなくなってた。方位磁針が全く使い物にならないのに、陸地がどこにも見えなくて、とりあえず舵を取らなきゃ沈んじゃう、みたいな感じ。完全に遭難してた。
 いま、仕事があって本当にありがたい。やっぱりもっと早く定職に就いていれば、と思うことが何度かあった。経済的に自立していることの安定感、安心由来の自由、解放感、落ち着いて過去と向き合える心の余裕、精神衛生面に限ってもこれだけいい作用がある。  でも、きっとあなたの心の傷を本当に癒すには、そういうところじゃないんだよね。頭のどこかで理解はしている。どんなにいい環境だって、必ずしも万能薬じゃない。あなたに必要な癒しって、なんなんだろう。
1 note · View note
lucaacul38 · 2 years
Text
26th birthday
 2021年の私へ。お疲れ様。2022年を迎えた私より。スケジュール帳、後半はあまり使わなくなってたね。新しいの、まだビニールの封を開けてない。もう1月上旬が終わるのにね。25歳を終えた日に書いてた日記、読んじゃった。書いたことは覚えてたけど、内容は全然覚えてなかった。結構面白かったから、こっちにも残しておこうと思って。読みながら、そんなこと考えてたんだ。って思った。  今年の年越しは、友だち4人で集まりました。昔の私だったら直視できないくらい、自然体で楽しく朝まで過ごして、今はこっちが現実なんだなぁって思ったよ。色んなことに整理をつけていく年だったね。本当にこれまで頑張ってくれてた。やっと私たち、たった一人の人格として存在できるんじゃないかしら。----- 半年後の私より。たった半年なのにね。こんな風に年をとるのね。
7/3 朝一番に吸った電子煙草がやけに美味しくて不思議だった。誕生日の朝に他人の家で一人起きて、適当に顔を洗い身支度を整え、その人のサンダルをベランダに運び、煙草の部品を装着して外へ出る。昨日の晩、あんなに酷い雨だったのにと思う。台風一過のような強い日差しの晴天に少し戸惑ったが、この部屋は建物の3階にあり、眺望は爽快だった。ベランダに出る前に日焼け止めを塗ってきて正解だった。
 昨晩のセックスは目の前の相手ではなく、二日前の朝まで寝ていた別の人のことを考える機会が多かった。この部屋の主が事を終えてすぐに寝付いた後、私は全く眠れずに二日前の彼の言動を部屋の主のそれと徹底的に比較して不満を募らせた。それでも幾度かは浅い眠りを繰り返したのだろうか?いつのまにか、部屋の主が予め言ったように、六時になってテレビが自動で起動した。目覚まし代わりらしかった。しかし部屋の主は全く起きる気配がなかった。私は彼を起こさないようにそっとベッドを降り、借りていた部屋着を洗濯槽に放り込んで煙草が吸いたいと思った。外は思いのほか涼しく、日差しだけが肌に熱を与えた。
 電子煙草の煙は匂いが無く、あっさりと空気に溶ける。私はいつもより深く肺に煙を取り込むことに集中した。階下に私の自転車が赤く光っていた。恐らく昨晩の水滴で光っているのだと思う。この赤い自転車は近所の友人から譲り受けたもので、この友人もまた別の人から譲り受け使っていたものだったらしい。カゴに荷物を置くと、カゴの赤色が荷物に付くことがある。いわゆるママチャリだが、ギアチェンジができ、そこそこ速い。
 部屋の主は昨晩、(俺のことが)好きなん、と行為中に聞いた。そんなことは全く無く、ただ私も大雨の中わざわざ傘差し運転をして西大路をくだってきたのは相応の理由がある。私もセックスがしたかったからだ。彼から連絡があるまでは非常に鬱々とした気分だったので、セックスすれば気が紛れるのに、と思っていたところだった。彼は家に来たがっていたが一度も許したことはない。これからも家に上げるつもりはない。一度でも上げてしまうと中々面倒な生き物だからだ。男性というのは。  彼がバイクを持っていると言うので、雨の中最寄り駅まで迎えに来れないかと打診したが、彼が私の家に来る案は私が却下していたため、傘チャリで来ればいいじゃん、と受諾してくれなかった。さすがにそこまでこちらに都合よく動いてはくれないか、と納得して、私は自転車を漕いだ。  彼の家に来るのは二度目で、セックスも二度目だったが、今回は随分と早漏だったように思う。まるでオナホールにでもなった気分で彼の絶頂を手伝ってやり、抱き寄せたりピロートークもせずスンと眠った彼を信じられない思いで睨みながら、私も目を閉じて寝ようと試みた。  二日前に寝た別の彼のことを思い出すと、どれだけ努力してくれていたかが身に染みる気がした。何もしなくてもそうしたいからそうしてくれていると思って、特に感謝もせず身を任せていたが、あの優しさや気遣いや愛情(があるのかはわからないが)の表現や、強く抱き締められることや、お互いの内面を知ろうとする姿勢は、全く努力なしにできることではなかったのだろう。前につき合っていた彼氏も同じようにしてくれていたが、当然のように思���て何も感想を抱かなかったが、この部屋の主の言動と比べると一目瞭然だった。同時に、私は以前の彼や二日前の彼に愛情表現をこんなにも受けていたんだと知り、何も理解していなくて申し訳なかったという気持ちになった。
 26歳の誕生日は、そうして始まった。10時に美容室を予約していたので、一旦帰宅して朝食をとり、溜まっていた洗い物を済ませ、再度身支度をして向かった。帰りに近くのフルーツパーラーに寄った。初来店だったし、フルーツパーラー自体初めてだった。ママさんが就職がうまくいくようにと、手作りのビーズの腕輪をくれた。45年店をやっていて、はじめは八百屋だったそうだ。江戸川乱歩を勧めてくれた。話好きの可愛い老婦だった。  彼女のくれたビーズの腕輪は、晴天の鴨川で陽を受けて、キラキラと光った。鴨川の中州に生い茂るススキやらが、昨日の激しい雨のせいか全て下流に向けて倒れていた。動物の毛並みのようで美しいと思った。
 そのあとは、好きなカフェを巡って好きなものを注文し、持参していた本を読み、ゆったりと過ごした。本は「爪と目」という、友人に去年勧められたものの一つだった。その友人はプロのカメラマンをしていて、それ以来直接は会っていない。たまにSNSにDMが来ることはあったが、それも随分前だ。とても良い小説で、もっと早く読むべきだったかもしれないと思った。
 カフェに寄る途中、そういえば本屋が入っていたな、と思い立ち、自転車を停めていた中規模のショッピングモールの中に入り、一冊買って出た。「停電の夜に」という本で、海外文学の棚から見つけた。作者はロンドン生まれのアメリカ育ちで、両親がベンガル人だと紹介されていた。帰宅した後、お風呂に浸かりながら本と同じタイトルの短編を読み終えた。なぜか、こんな話が書いてあるような気がしていた。タイトルに惹かれて想像した景色が、読み進めていくうちに焦点が明瞭になり、一枚の絵が完成したような感覚だった。人は本を選ぶとき、一体どこから何を感じ取っているのだろうと思った。
 寝る前に水回りの掃除をした。この二週間ほど、へたしたらそれ以上放置して使っていたから、汚かった。浴槽は使い差しの歯ブラシで、前から気になっていた細かい部分の赤カビを除いた。随分とスッキリした気持ちで寝た。そういえば今日は二日ぶりの自分の布団なのだと気が付いて、変な感じがした。とてもよく眠れた。  この日一日中、これまでの25年間がリセットされたような気がしていた。
1 note · View note
lucaacul38 · 3 years
Text
あの子
 まるで子どもか恋人みたいに、あの子は私の左半身にぴったりと絡みついて大きめの寝息を立てる。私は姿勢を仰向けのまま動かさずに、体で圧迫されていない方の腕をこの子の頭に、たまにまわしてやる。一応シングルサイズの布団に寝ているので、かなり密着度が高く、お互いの熱や汗、息がこもって暑苦しい。正直まったく快適ではない。むしろ相当不快の域にさえ達しているのだが、「今この子には必要なことだから。」と浅過ぎる眠気と意識の覚醒を往復しながら自分に言い聞かせる。
 まったくお人好しも物好きも、度が過ぎるのではないか。自分が床に就いてから、少なくとも5時間近く、眠気と覚醒の狭間で意識が袋小路に陥っている。深い眠りに入る直前、顔周りの感覚が一気に研ぎ澄まされる瞬間があるのだが、この子の少し大きな寝息や鼻息、夕餉の時に一緒に飲んだ蒸留酒と炭酸の強い臭い、たまに身体の一部を掻く音、私の肩周辺や腰のあたりにまわされる腕の圧迫感等々。すべてが一度機に感受されてしまうので、否が応でも入眠に至れない。おまけに自業自得だが、本来は持病の早期回復のため禁酒の身であることを棚に上げ、この子が手土産に下げてきたハイボールを一缶空けてしまった。案の定、疾病のある腸周りが超多量のガスを夜中生産し続けている。私は内と外の両側から多面的な圧迫攻撃を受けながら、それらすべてを受け流して早期入眠を試みていた。当然、失敗に失敗を重ねている。二十代も後半になると、ストレスや睡眠不足といった生活のちょっとした乱れは、あまりにも素直に大きなニキビを作り出す。さらに言えば、明日は朝早くに大事な予定がある。だからこそこの子よりも早めに床に就いたのに、私はそのアドバンテージを全く活かせないまま現在に至る。
 なぜそんなにまでして。私もそう思う。だけど、これは自分で決めたことだ。そして、自覚がありつつ他人の人生に出現してしまったブラックホールに足を踏み入れることは、その後この風穴を本人自身が閉じるエネルギーを得るまでの間、しばらくは「共生する」状態を維持する、という契約を進んで受諾しに行くことに等しい。それをわかっていて途中で共生関係を放棄することは、風穴の持ち主を限りなく死の近くに追いやってしまうだろう。そういうこともすべてわかったうえで、この子の「今現在」に少しだけ手を貸したくなった。なぜなら、今のこの子にとって、私が唯一それが可能な人間だと思ったから。
 はじめは、なんの嗅覚が利いたわけでもなかった。単に、お洒落な子がいると思っただけだ。そして友達が多そうで、楽しそうにしてて良いなと思った。趣味も合いそうだし、少し仲良くなってみようかと思って声をかけた。すぐに遊びの予定が入ったことには少し驚いたが、それくらいだった。当日、喫茶店で落ち合った時、あの子は1時間以上遅刻していて、前の日に友達の家で飲み過ぎてしまったと最初に謝られた。ちょっと、いろいろ重いんで。そう続いて、そのままあの子の身の上話を聞く流れになった。詳しくはもちろん書かないが、この子が今現在、どれだけ寄る辺の無い思いを抱えているのか、私は自分の古傷の場所をふいに暴かれたような気分になった。
 私は自分が危険な判断を下しそうになっていることに気が付いた。普段の生活では入念に表面化しないように隠している古傷が明確な声量をもって発した。『この子は私だ。』目の前の子の話を聞きながら、努めて冷静になるように内なる声を制した。『この子はこの子自身であって、単純に過去の私を投影して感情移入すべきではない。』
 こういう時、この瞬間がもっとも難しい。古傷が尋常でない熱を持ち、目の前の同胞を掻き抱き、共に復讐したい、運命を分かち合いたいなどと大仰なことを叫ぶ中、真にこの子の人生の「一助」となるために私がとるべき言動を慎重に選択する。今まで幾度か失敗してきた。同胞を見つけたと思っては互いにひどく傷つけあってしまったり、次第に無関心になったりあえて距離をおきたいと思うようになってしまったり。すべて中途半端だったように思う。たとえ、いままでの子が、少なくない影響を私から受けて現在に至っているとしても。「今」の私が、今現れたこの子にどうすべきか。
 ここ最近は、といっても一週間くらいだが、まるで子育てをしているような気持ちだ。可笑しな気分だ。育てているのは赤の他人であるが、過去の私自身でもある。既に、精神的な意味での自分の母親代わりは自分でしてきたつもりだったが、これまではあくまで一人称の一人二役だった。実在の人間に像を映すことで過去の自分が二人称として眼前に居ると思えるのは、変な環境だ。そして他人に自分の主観を投影することの危険度も、常に最高潮。あらゆる危機感の中で、電流イライラ棒のように言葉を選び、紡いでいく。一方で、この子が突然私の家にやってくるとき、サッと出した夕餉や朝餉をぺろりと平らげてくれること、私の知らない若者世代の流行りや、共通の趣味の話を聞くことは気軽で自由だ。逆に、私の昔の話をすることもある。学生時代の初期の状態から今に至るまでのプロセスをいろいろなテーマで聞かれる。心理状態であったり、家族関係、友人関係の変化や、恋人がいた頃などのプライベート、ジェンダーの変遷、趣味のこと等々。振り返るとなんでも良い思い出に感じそうになるけど、細かく思い出せば当然そうでもない。最終的に現在の自分自身を気に入っているから、すべて過ぎたこと、単に経験してきたこととして受け入れられてるだけだ。この子にもいつかそうやって楽になって欲しいと思う。背中の大荷物は、背負って運んでいるときはすべての重みが身体の一部のような気がしてしまうものだ。降ろせる日が来れば、身体は自分の神経が行きわたっている必要最小限の範囲であり、羽のように軽いと気が付く。
 結局、この子の一助となることは、私の自己救済も兼ねており、そのことは本人にも今日話した。一方的な善意を差し出してくれている、心とお金に余裕がある人かと言えば、私はそういうわけでもない。こうやって、この子の見る私像を少しずつリアルに、この子自身が手の届く範囲に近づけていく。そしていつかすっかりあの子が「あの子自身」になれた時、今度はあの子ができる範囲で同胞の人生に手を貸してやれればいい。
 同胞にしかできないことがあり、してあげられないことがある。これは私たちのある種の役割なのだ。
1 note · View note
lucaacul38 · 3 years
Text
:psychoesday
 毎週火曜日の夕方に、カウンセラーの面談を受けている。昨日で14回目だそうだ。11回目までは手帳のカレンダーに記録していたの��が、今月に入ってから、手帳に予定を書き込むこと自体サボっていた。白紙の6月のページを手繰ると、もう3週間も過ぎてしまったのかと驚く。まだ中旬なのに。
 カウンセリングを担当する先生は一人に決まっていて、あらゆる個人情報は秘匿されることが最初に約束される。はじめは近所の精神科を訪ねたのだが、そこの先生は、医者というよりも同情的な経営者という風であった。初回は30分ほどの時間が約束され、一通りここに来るまでの経緯などを先生の質問に沿って話していくのだが、話の最後に念を押されるように言われたのは、患者の回転率の都合で二回目以降の診療時間は10分程度であることだった。加えて、薬の処方を前提とすること、次回の予約は改めて自分で電話するようにとの注意事項を受け、私は受け付けで3千円ほどを支払い、帰路についた。
 途中にあるコメダ珈琲に入ろうか迷ったが、やめにしてそのまま帰宅した。精神科医から投げられた糸の中で、唯一手応えがありそうだったのは、「心理学部のある大学や大学院生が運営するサポートルームのような所なら、あなたの受けたがっている心理検査も安く受けられるだろう」という情報だった。精神科医はどこまでも他人事で、具体的にここ、という風に僕からは紹介はできないから、自分でネットとかで調べて受けて来てくださいね、と言って診察を終えた。仕方なくネットサーフィンをして心理学部のある大学を当たっていく。
 大学という場所は最後まで馴染めなかった、ということは今でも思うのだが、その時は今よりもずっと気持ちが沈んでいたものだから、かなり億劫な作業だった。結局、自分の在籍している大学で無料で検査を受けられることがわかったので、大嫌いな自分の学部のキャンパスに週一で通うことになった。受けるつもりだった心理検査については、結局保留となり、今はもう受けなくてもいいかと思っているし、おそらく受けないと思う。元々は自分の脳に異常があるんじゃないかとか、具体的な精神疾患が見受けられるなら、それを数値で認めて詳しく知りたいとか、何かしら現状を抜け出す動機を得るつもりで検査を希望していた。でも、傾聴の専門家にただ言葉を垂れ流すだけで、現状は随分と変化した。
 昨日の話に戻る。カウンセラーの先生は、控えめな音量で言った。欲しがることを。贅沢だと思っているみたい。ですね。私は相槌を打つのがあまり上手くないので、いつも同じ返答になる。そう。かもしれないです。そして下を向いて黙ってしまう。こういった機械的で抑揚のない返答は、おそらく先生を多少なり不安にさせているだろうなと思う。しかし、ここは人間関係の場ではなく、私がカウンセリングされる側で、相手はその道のプロフェッショナルなのだから、と意識することで、日常生活では避けている自分の暗く淀んだ姿をさらけ出し続ける。ある意味での徒労はあるが、カウンセリングの場さえも取り繕っていては、最大限の現状の変化が叶わなくなる。
 他にもいろいろと示唆はあったけれど、ここでは割愛する。とても書ききれないし。ここに残しておこうと思うのは、なぜ私が、欲しがることを、贅沢だと思うようになったのか。思い出したくもない記憶を逡巡した結果、その由来にはっきりと行き当たった気がしたからだ。
 確か小学校高学年のクリスマスの朝だった。私たちは3人姉弟で、全員のプレゼントを買うには時間が要ったのか、欲しいものを三日前くらいには紙に書いて、サンタへの手紙という形でツリーの下に置いておくことになっていた。  小学生も高学年になれば、サンタのほほえましいカラクリに気が付くというものだ。サンタから、という体裁であれば、普段恥ずかしくて両親に言えないものもプレゼントしてもらえるのじゃないかと、とてもワクワクしながら当日の朝を迎えた記憶がある。細かい表現までは定かじゃないが、「女の子らしいけど私に似合う冬用の上着をください」というようなことを書いた気がする。まぁわかりづらい表現ではある。要は、12歳の女の子にしてはガタイが良かった私は女の子らしい服が着たいけれども似合わない、という状況を気にしており、それが打開できるような服をください、というお願いだった。  直接的に、たとえばファー付きのものが欲しいとか、胡桃ボタンのものが可愛い、とかいう語彙が出てくればよかったのだが、世代の流行を追うようなファッション雑誌やエンタメ番組を遠ざける教育方針のために、残念ながらこのサンタ宛の手紙に具体性は皆無だった。おそらく両親も困ったのだろう。クリスマス当日、ツリーの下に置かれた包みを緊張交じりの興奮と共に開けた私は、挙動に出るほどひどく落胆した。そもそも、包みがユニクロだった時点で予感はしていた。私たち姉弟の服は、いつもユニクロの「メンズ」だった。中から出てきたのは、防犯パトロールに役立ちそうな、強い発色の蛍光オレンジ色の長袖のダウンジャケットで、全体的に羽毛が入っていて、ソファや枕の裁縫のようなステッチが遠目から見るとまるで鍛え上げた筋肉のように見えた。肩幅のあるわたしが着ると、さらにその傾向が強まることは着なくてもわかったし、実際そうだった。ここまでは私の語彙不足と、両親の買い物の習慣の食い違いでしかないが、私の明らかに不服そうな様子に、母はなにかしら喜ぶように働きかけてきた。どのようにかは正直覚えていない。ただ、おそらくこの服を選んできたであろう母の機嫌を、著しく損ねてしまった、と思って、頑張ってありがとう、沢山着るね…というようなことを言って、なんとかこの場を丸く収めようとしたことだけ記憶にこびりついている。
 よく、両親から「あなた達は恵まれているのだから」と言われて育った。「もっとどうしようもない環境で生きていくしかない人はいる」「うちはお金もあるし、習い事もこれだけさせられている」「努力が報われない人もいるけど、うちにはお金も家もあるんだから、大学まで行かせられる」「お前たちは五体も満足だし、才能に恵まれた家系のハイブリッドで、努力次第で何にだってなれる」「これだけ恵まれた環境に居るのに、努力しなくちゃもったいない」「普通の、平の家庭とは格が違う」、、、挙げれば切りがない。
 私たちは『幸福であることが前提だった』。共働きでお金に困らない家、両親が揃っており一人っ子ではない家庭、姉弟三人とも五体に不足がないこと、田舎ではあれそこそこ歴史のある旧家に生まれたこと、努力、才能、環境、教育、、、、、
 その環境にあって、与えられるもので満足しないのはおかしい。そういうことだったのだと思う。特によく母からは、「あなたおかしいよ」と言われた。「人の気持ちがわからないのね」とも。こんなに恵まれた環境を与えて、さらに実用的だったり、高価だったりするモノを追加的に与え続けてあげてるのに、あなた達は感謝の言葉もないのね、というような皮肉も日常的に繰り返し言われた。あまりに何度も言われてきたので、いまだに耳にこびりついているし、これを書いているときも涙や鼻水が勝手に垂れてくる。きっと、すごく悲しかったんだと思う。言われるたびに。人の心がわからないのねとはこっちの台詞だと、一方的に言われ放題になる状況になるたびに母を、助けてくれずに知らんぷりして、あとからちゃんと機嫌取らなきゃとか平気な顔で言ってくる父を、恨めしく、恨めしく、恨めしく、うらめしく思った。大人になって家族以外の人と家族以上に濃い時間を過ごした結果、彼らは人の心がわからないというよりは、「自分の子どもを『人』だと思っていない」ということだった。与えられるものに対する不満や不足の表現は、ストレートにすればするほど、彼等に対する「攻撃」だと受け取られる。たとえ、単に些細な好みの問題だとしても。  私たちは『喜ばなければならなかった』。与えられたものには『必ず』。そうでなければ、喜ぶ素振りを見せるまで、何度でも、いつまででも、両親という本来自分の庇護者である存在から、否定され、皮肉を言って嘲笑され、言葉と態度の暴力が繰り返される。私たちがそれを欲しいか、欲しくないかは彼等にとって関係がなかった。『彼等が』、与えたいか、与えたくないかだった。  私たちはいつでも、『幸せでいなければならなかった』し、現状に不平を言う、注文を新たに付ける権利は最初からないものとして扱われた。文句を言わず、与えられたものに喜ぶことだけが許され、言うことには従うのが当たり前で、そうでなければ時に暴力や暴言も厭わない。私たちはそれを愛情だと呼ばされて、有難いものだと教えられてきたのだということ。現在の両親は当時と同じではないが、自覚していなかった重傷が暴露するたびに悔しい。愛情がわからない原因が自分自身で選べない環境にあったと認識するたびに、悔しい。
 
 きっとそれだから、私には欲しがることが、罪悪に思えるのだろう。表面的に「○○が欲しい~」と言えるようになって、男性に買ってもらったりすることにも慣れて、自分で買い物も楽しめるようにはなったが、私の本当に心の底で欲しているものには手が出ない。声が出せないでいる。むしろ、何が欲しいのか、本当のところに関しては、私は私の切実な願望を知らんぷりしている。無かったことにしている。その方が気分が楽だから。その一見延命のような措置が、単純に自爆のタイマーを急がせているだけだということは、充分にわかっているのに。
 だから贅沢だと感じるのだろう。気兼ねなく、本当に欲しいものに目を向けて、それを欲しがることができる態度が。具体的に言ってしまえば、おそらく自分に対する自分からの愛情と、他人からの愛情と、家族からの愛情と、3方向からの愛情を感じたいのだろう。そしてその愛情に対し、疑心暗鬼するのではなく、素直に懐に抱かれてみたいのだろう。その気持ちを、擬似恋愛のような形で求めてしまう側面があるのだろう。第三者からみれば自傷しているようにしか見えなくても。
 欲しがるという行為にはなんとなく醜い、見苦しい、卑しいというイメージを持ってしまいがちなのだが、それもきっと自分が欲しがることをしないための滑り止めのような役割をしているだけなのだろう。
 いつもカウンセリングが終わると、こうして先生からもらった言葉や表現を逡巡して、来週はこういうことを話してみよう、と思うのだが、なかなかその通りにはいかない。1週間も経てば心の状態は簡単に変わるし、面談で言葉を垂れ流している合間に、先生の質問に触発されて思いも寄らない自分の姿を外に出してしまったりもする。ワァワァと言いたいことを言った後に、自分がわからないんです。と零したら、あなたは、愛情がわからないんですね。と返されて、完全に虚をつかれたようになった後、自分の身体が完全に脳の制御を離れたみたいに、野生動物のように10分間ほどひたすら呻きながら泣いた時もある。
 毎週火曜の夜は、だから少し憂鬱なことが多い。それでもこうして、見たくない部分とも向き合っていった先に、自分の本来の自然な在り方が見えてくるのなら、私はそれを見てみたいと思う。自分の自然な姿に、なるべく早く辿り着きたい。
0 notes
lucaacul38 · 3 years
Text
彼等の居る場所
 男の子ばかりと仲が良かったから、てっきり自分は恋愛なんか経験しないのだ、と早々に決めつけていた。年齢の割に、心の怪我に対する恐れがしっかり育っていたように思う。その後十余年の間に、何人かの様々なタイプの男性とある程度深い関係を持っていくのだが、途中途中考えていたのは、もう二度と会わないであろう彼等の現在を、自分は今後どう受け止めていったらいいのか、ということだった。
 深い仲といっても、別に必ずしもセックスをしたわけではなく、単に絆を感じるような瞬間が何度かあった、とか。あるいはセックスは拒否したけど添い寝はたまにしていた、キスはしていた、二週間に一度くらいの頻度で長電話をするだけとか。具体例を出せば各々とのまばらな関係が淡々とあるだけなのだが、それぞれの個性が反応し合った結果全部違う色になった、という感じで、個人的には、たまに見返したくなる大事なパレットとして保存しておきたいと思ってしまう。それで、ついつい執着心が芽を出してしまう。きっとこうやって記録しがちなことも含めて、私の懐古主義な執着心が機能しているのだろう。
 自分の中にいつまでも彼等との関係を愛でていたい欲があるのは事実で、そのことに幼いかつての私の残存部分が、少なからぬ衝撃を受けているのも事実だ。心というのは唯一4次元の空間(?)であって、予期せぬ時に過去の自分が現在の意識に浮上する一瞬をたまに経験する。心理学的にはインナーチャイルドというのかもしれないが、どちらかというと幼い自分の感情の発露が激しく起こるのではなく、幼いなりに持っていた理性や自己定義の部分が、ピリピリと緊張感を放ってくる感じだ。無言というか、ある意味、沈黙による感情の発露なのだろうか、これは。
 そうして幼い自意識との微妙なせめぎ合いが起きる中で、相対的に自分が女であることを一番納得することができる。おそらくこれは自我の芽生えのタイミングが、身体と精神でズレていたことの証左だ。結果論的に性が一致したので特にここについて悩みはない。ただ、彼等との思い出をこれまでに散々思い返し、これからも再生産していくことに関しては、大人としての理性の部分がかなり抵抗感を示している。欲に正直になってしまえば、そういう関係の個人的な積み重ねを繰り返して、地層を眺めるように見返しては悦に入る、その瞬間に高揚する「女である」自意識、その繰り返しによる女の自分の肯定、という一連のコードを、実行してしまいたい。そうすればより楽に、自分の女としての一面を肯定できる気がするし、対外的にも一人の女として軽んじられることが少なくなるのではないか、そんな自分の一部分の声高な主張を聞く。
 要は、自意識のより深い場所に「女」というタグを何個も埋め込んでしまいたい、という衝動。そのために男女関係未満、友人以上のような関係を利用することへの抵抗感。そんなところだろうか。普通の友人以上に心の紐帯を感じる時点で、自分にとって貴重で、代え難い相手であることは変わりない。そんな相手との関係を破壊するまでの過程、しかももっとそれが多く重なっていかなくては自分の「女」が上がらない、完成しないと衝動的には思っている。少しヒステリックな願望を自分の中に感じている。
 そんな風に一人ずつとの人間関係を犠牲にしなくても、他の部分で人間的な魅力はついてくるはず、それを恋愛的に捉えてくれる人もいるはず。理性の部分ではそう主張する声も聞こえてくるのだが、それは恋愛としては長続きしない、結局はより多くのストーリーを完結させていくことが成長であり洗練なのだ、と即反論が飛んでくる。それに対し、性的に見られたいわけではない、単に豊かな人間関係を築けていけたらいいというだけの話なのに、そんな風に使い捨ての関係のようにこれから出会う人たちのことも考えていていいのか、と怒号も飛ぶ。まるで私の心の中は討議場である。私は延々と議事録を付け続け、そして最終的な判断は「場合による」としか声明を出せないでいる。現実の世界ではどんどん時間が進み、記憶の中にしかいない彼等は美化されていき、現在でも接点のある彼等とは相変わらず曖昧さを楽しんでいく。大人をやるということは、人間をやるということは、なかなか難儀なものである。いつかそのうち、彼等の居場所が気にならなくなればいい。人だけでなく、思い出さえ大切にし過ぎるのかもしれない。
0 notes
lucaacul38 · 3 years
Text
ふたつめの誕生日
 その日、”私” が生まれたのだと知った。本来の顔と声と身体つきを伴って。
 ずっとずっと違和感を抱いていた。鏡を見る度になぜか「これは私の顔じゃない」「私の身体じゃない」と強い反発心に気圧される。だから高校を卒業して一人になるまで、なるべく鏡を見ないようにして生きてきた。まるで分厚い他人の着ぐるみを生まれた時から着ているかのよう。身体は覚えている限りいつも重く、いい笑顔だねと褒められることが多いのに、自分の笑った顔のことが全然好きになれなかった。写真に写るのが嫌だった。自分のことを醜いと素で思ってしまう瞬間に自分で深く傷ついてしまうから。私はあまりにも精神面でひ弱だった。みんなと同じになりたくて必死なのに、必死な姿を悟られたくなくて本格的に動くことを避けていた。私には関係ないという振りをしていた。他の女の子たちから「同じ土俵に居ない存在」だと認識させることができれば、こちらのもの。彼女たちの目の敵にもされず、かといって蔑みの標的にもされない、完全に「女子の世界」からは蚊帳の外の存在。そのスタイルでいる方が楽だ。なぜなら、思春期の敏感なアンテナを張ったままでルッキズムのリングに上がり、深手を負って退場させられるリスクも限りなくゼロに近い。当時の私は最初から、他人と関わり影響を与え合い、自分自身も変化に富む社会の一員であることに逃げ腰だった。できる限り徹底して傷つくリスク、自分が予定外の変化を迫られるリスクを回避し、常に他人に対して予防線を張ることを忘れない。とにかく傷つきたくない、傷つけられたくない。精神的負担がかかり得る状況に少々過敏に脅えながら、脅える自分を過剰に保護しながら、思春期を生きていたように思う。人によって思春期の過ごし方は様々だが、ざっくりと陰と陽で振り分けるとすれば、私は陰の思春期にほぼ全体重を預けていたと言っていい。とにかく透明人間になりたがっていた気がする。人の目に私が映らなければいいのに、と常に思っていたから、たまに気を利かせたクラスメイトの女の子が一人机に突っ伏している私を「見つけてしまい」、声をかけてくる事態が発生すると、妙に挙動不審になったりしたものだ。わりとこういうのは陰の思春期経験者ならだれでも通ってきた道なのではないかと思う。(そうあって欲しい願望も入り混じっている。)
 我ながら奇妙だと思っていたのは、特に自分の声色がまったく定まらないことだった。そう思っていただけなのかもしれない。勘違いかもしれない。何度も納得しようとしたが、自分の声域がどこからどこまでなのかがわからない。背が高くて(相対的に)男の子っぽいと言われることが多かったから、単純に「��ゃあ自分の声は低いんだろう。」と思い込んでいたけれど、無意識にか意識的にか、低くしようとしすぎたのか、喋っているのに声が出ていない、相手にまったく会話として聞こえていないような瞬間を何度か経験した。もしかしたら思っていたより自分は声が高いのか?と前提を疑い始めたのは、既に20代も中盤に差し掛かる頃だった。
 家で一人でいるときにいろいろな声の出し方を試してみた。やろうと思えば案外どんな声も出せるものだ。ただし、会話で自然に使える音域で、且つ相手にも不自然さを抱かせることは避けたい。アバターの設定画面を操作しているかのような奇妙な感覚だった。もちろん一日でおいそれとは決まらない。私は一人暮らしを始めてから「正しい歩き方」をグーグルで検索したときのことを思い出していた。私の足は偏平足の外反母趾だった。加えて反り腰がひどいせいで前腿や腰回りにやたらと目立つ筋肉や脂肪や浮腫みが集まる体型だったことはもっと後に知った。小学生の頃からなんとなく歩き方がわからないとは思っていたのだが、まさか二十歳を過ぎてから自分で検索をかけて知ることになるとは思わなかった。こういうのって、生活してく内に自然と誰もが身につけるものだと思っていたし、自分もそうやっていつか自然と体得するのだと信じていたけれど、私の場合はどうやらその手の会得が順当にはいかないらしい。
 それは目の開け方も同様だったらしい。20代になっても目がなかなか縦に開かず、目を開けているのに瞼が視界の上下に映るのが邪魔だったのだが、最近になって著しく調子がいい。目を開けるときあれだけ「重い」と感じ続けていたのにも関わらず、今は奥二重がせり出して二重に昇格しそうな朝さえある。これが単に、年を取って自然に長年の浮腫みや脂肪が取れたからだというのも全然うなずける。だが、目を開けて周囲を見る、という行動を避け、なるべく下を向いて人と目を合わせる機会を減らし、どうしてもの時は愛想笑いで目を細めることで物理的にこちらがどこを見ているかわからないようにする、という習性でこの二十余年生活していたことを思うと、筋肉の動かし方という意味で目の開き方がわからなくなっていたのではないかという説も否定できない。
 幸い、呼吸の仕方について迷ったことはないが、自分自身に対する思い込みや性格に由来する習性というものは、まわりまわってその人の生活範囲や関わる人間、他人から見た印象、延いては職種や人生経験にまで影響してしまうのだなということを思った。結論としては、私は自分で思っていたよりも(そして育てられた環境で言われていたよりも)ずっとずっと普通の、一般的な女の子だったということを初めて自覚した。
 セクシャリティを悩んだこともあるが、それは「周りから男っぽいと言われることが多いから」であって、別にそれまで男の子から好意を示されたことがないわけでもなかったし、特に女の子を抱きたいと思うことがあったわけでもない。男の子っぽいファッションは弟2人と共用するための両親の実用的な事情だったし、むしろ私はずっと自分に似合う女らしい服、女に見られる服を探し続けてきたのではなかったか。そういう一つ一つの「自分のベクトルがどこに向いていたのか」をはっきりさせていくと、私は結局、ちょっと背が高いだけの、至って他は平均的な普通の女の子だという結論に行き着くことができた。
 そのように認めてしまえば、あとは簡単だ。自分の望む自分の姿になればいい。一気に好みの服を揃えることはできないし、靴もアクセも髪もメイクも、コーディネートをまわせるくらいに一式手に入れるとなれば、それはもはや個人的なインフラ工事に等しい。だから、思いついた瞬間の何倍もの時間やお金を、実際には投下していくことになるけれど。
 人並み以上に悩みまくった末、ここまでたどり着いて一つ言えるのは、「自分自身で居れることは楽しい」ということだった。これだけは確実。世の女性が、(今の時代女性に限らないが)どうして自分の身体のケアや装飾に大きく時間と労力を割くのか、この年にしてやっと理解した。
 こうして周回遅れは解消できたのだろうか?気が付けば、繁華街を闊歩する華やかなカップルや若くお洒落な女の子たち、学生服にバチバチの化粧をキメて食べ歩きする学生たちとすれ違っても劣等感諸々の混濁した気持ちに押し潰されるようなことはなくなっていた。というか、すっかり忘れていたことに最近気が付いたのだった。ようやっと自分の人生を生きられるのかもしれないという気がしている。いま現在、新しく整えられた私に出会った旧友は一人もいない。なので、まだ誰も”私” とは知り合っていないことになる。まぁ、他の人からしたら、気が付かないような違いでしかないのかもしれないけど。
0 notes
lucaacul38 · 3 years
Text
海の見えない町
 この土地に来たばかりの頃、海の見える街に憧れていた。阪急線に乗り、用事もないのに神戸の港まで何かと通ったものだった。あるいは、京丹後の静かな湾に憧れ、金欠の中どうにかギリギリ確保した旅費と宿泊費で、一人ぶらりと湾岸の小さな漁師町を散策したものだ。とにかく水平線を目で辿ること、潮風独特の匂いを嗅ぎ取る瞬間に魅了されていたように思う。夜の海の色気はまた格別で、言葉の通り、打ち返す波間の一瞬の白泡に危うく身体ごと持っていかれそうな気持ちになる。水平線は夜は見えない。ただのっぺりとした闇夜の裾野が、すぐ足元まで延ばされている。次元がそこだけ削れたような、不可思議な黒色の魔法だった。命の一部を刈り取られそうな、迫真の静寂から醸し出される妖艶な魅力は、未熟な生娘を簡単に虜にし、何度も足を運ばせた。
 海に対して、そこまで駆り立てるような欲望を感じなくなったのはいつ頃だろう。
 関東平野のただ中に育った田舎娘も、心の経年変化によって海への渇望を卒業することができたらしい。目前にすればもちろん心躍るのだが、海と対面していない時も常に水平線の景色を欲しているという状態ではなくなった。将来的には海の見える街で暮らしたいものだ、などと思っていたが、ジブリの歌を偶然聞いた時にそのことを思い出すくらいである。
 この町は、今住んでいる町は繁華街というわけでもなし、近くに山川が見当たるわけでもなし、一般的な駅や道路に区画された住宅地の一角に過ぎない。万人に特別だと感じさせるような要素は持たないが、住み心地にかけては、ここ以上の町を私は想像することができない。現在の家は少し手狭なので引っ越しはしたいが、費用節約も兼ねて、暇を見つけては今の家から徒歩圏内の物件を物色している。何より気に入っているのは、生活雑貨の揃えやすさと食費の抑えやすさ、その日の気分に合わせて多様な一日の過ごし方が可能なこと、内外に出やすい交通の便の良さ、その中でも、特に気に入りの喫茶店ができたことが大きい。
 その2店舗があることによって、外部要因により精神が大きく乱された時も、己が力で安定した軸足を取り戻すことができる。一つは路面電車の駅の目の前にある。人が少ないテーブル席から入口のガラス戸を向いて座ると、定期的に数両しかない電車が視界に現れる。踏切の音も然り、線路周辺を行き交う人やモノの音が、ガラスを隔てて心地よい音量で耳に入ってくる。店内のBGMは至ってクラシカルなジャズやその派生音楽で、いまどき変化球を狙った店が多い中、非常に落ち着いた気持ちになれる。個人的に、音楽面で好感度が高いことは、サードプレイスとして利用するのにかなり重要な要素になる。内装もシンプルに漆喰と煉瓦造りで、カウンターはバーのように店内を直線に横断している。同世代と流行りの店に行くと、内装がどうにも落ち着かないことが多く、あまり足繁く通う気にならないものだが、なるほどこの店の壁には、やたらと都会的モダニズムやレトロ洒落乙感をアピールするような下品な装飾はなにもない。あるのはビンテージの壁掛け時計(若干分針がずれている)、大きめの短冊に一品目ずつ手書きし、リスト上にわかりやすく分類し貼られている日本語のメニュー表(筆記体の上にカタカナでルビが振ってあるような演出がないことが素晴らしい)、これのみである。さらに素晴らしいのが、テーブル席の椅子と食卓の造形が内装から全く浮くことなく完全に調和している。店内の灯りは赤色ランプだが、ほんのりと薄暗い壁際に、控えめな光沢を放つ線の細い黒の椅子と卓が置かれているのである。加えて灰皿などの小物までそれに倣った造りのものを設置してあり、初めて店内を見まわした時は少し感動してしまった。
 どれだけ内装が好みに添っていても、肝心の軽食が疲れた心を癒すに足るだけではなく、満ち足りた気持ちにまで持っていってくれるかどうかは別の話だ。しかしこの店で食べたアップルパイと紅茶のセットは、その期待にさえ応えてくれた。私は特にグルメではないが、たとえば某チェーン喫茶で出てきた季節限定の紅茶味のケーキは、食べ始めから食べ終わりまで甘味どころか塩味しか残らず、見た目や断面もいかにも食紅を食べています、といった風で食べない方がマシなくらいだ、と思ってサッサと口に入れ、せっかく別料金で付けた紅茶で流し込んだ経験くらいはある。ケーキは手作りかどうかが問題ではなく、どのような状態で出され、どのような感想をもって食べ終えられるかが肝要だと思っている。その点、この店で出されたアップルパイはほんのり温め直されており、フォークを入れれば中から予想以上にたっぷりの林檎片が元気よく飛び出してくる。林檎片は決して薄すぎず、しっかりした歯ごたえと弾力と共に砂糖、林檎の順に後味を整えてくれる。パイ生地はしっとりとしていることから温め直されたことがわかるが、その状態がむしろ林檎片と調和し、満足のいく食感を持続させてくれる。紅茶はふわりと豊かに香り立ちつつ、口に含めばすっきりとした飲み口。舌に滞るような茶葉の苦みや風味のえぐ味はなく、これぞ一杯に何百円も出す価値があるというものだった。(感想がけち臭くてお店に申し訳ない)
 二つ目の店は、中規模ショッピングモールを少し外れた小道にある。外見は普通の民家だが、入り口になっているガラス張りの引き戸をよく見ると、小さくメニュー表諸々が貼ってあったり、掛けてあったりする。ここは店内に照明がほとんどない代わりに、店の奥と入口が全面ガラス張りになっていて、暗色の壁に自然採光を取り入れる空間デザインとなっている。混んでいなければ二人用に設置されている壁向かいの席を一人で使うのが好きだが、回数的に座ることが多いのは一番入口側のこじんまりしたテーブル席だ。ここのアッサムティーはたっぷりと大容量。なんといっても渋く重厚な焼き色の陶器のマグカップで出てくるのが良い。このマグは保温機能がかなりしっかりしているから、ケーキにゆったり時間をかけるもよし、本を持ち込んだり、他の席の会話に耳を傾けるもよし。冷めてしまうから飲み切っちゃおう、としなくていいところが安心できる。ケーキにはかならず生クリームのホイップが付いてくるので、どのケーキセットを頼んでも舌が味の重さでもたれることがない。ここで出されるケーキはどれも小麦粉をしっかりと使った、どっしり重量のあるものが多い気がするけど、案外パクパクと食べ進められてしまうのは巧妙な戦術にハメられているのかもしれない。この店はレジ前で手作りの洋菓子を個包装で売っており、店内で食べることもできるし、持ち帰ることもできる。今日、はじめてその中の一つを買って持ち帰ってみた。三角型にカットされ、富士山の雪化粧のようにオフホワイトのアイシングが惜しみなく掛けられている。店長は気さくな人で、店内も特に決まったBGMはない様子だ。静寂な店内に、店長が慌ただしく、しかし正確に計量をしたり、洗い物をしたり、食材の配達を受け取ったりする声や音が響いている。その客側と従業員側との世界のアンバランスさがなぜかそんなに嫌ではない。気になることは気になるのだが、客側の居心地にはいい意味で関係がないと思わせてくれる配慮があるような、ないような。とにかく、お互いマイペースでいいですよね、と暗に言われているような、アットホームな雰囲気が落ち着く理由の一つかもしれない。
 この二つの喫茶店が徒歩圏内にあることで、個人的にかなり救われている面がある。誰でも、ゆるく他人と袖振り合える空間があって欲しい時がある。そういう時に、じゃああそこ行こうか、とすぐに向かえる場所があるのがいい。こうしてその場に居なくても、まるで今いるかのように落ち着ける空間をもってしまったこと自体が小さな幸運で、この町の暮らしを手放したくないなぁと単純に思わせてくれる動機だ。海の近くに行きたいと思うときは、自然と独りでいることを選択していたように思う。いまは袖振り合うゆるい繋がりが心の拠り所だ。生まれたままの姿勢とは、また違う姿で今現在を生きている。
1 note · View note
lucaacul38 · 3 years
Text
モノクローム
 遮光カーテンが、朝陽からすべての色彩を剥ぎ取ってしまう。彩度の追い剥ぎに出合い頭、光は、その陰に明度だけを残して部屋を出て行ってしまう。
 一体どれだけの間、ここに居ただろう。
 以前の出来事、ここに来るずっと前のことが頭の中から勝手に溢れ、床に零れ落ち、身体を上から押さえつけて一日中の動作に苦労する。そういったことは無くなっている。代わりに、目の前のことに視界が遮られているような感覚。自分の眼は、顔の一面にしか付いていないのだということを、思い知る。  いつだか。私はここを出て行く時、今の瞬間や今に連なる思い出を呼び起こして、懐かしむ時間を経験する。時間が鮮度を失うのはすぐだ。光の速さで、あっという間に蓄積していく過去の積載量と遠ざかっていく現在。現在は光と唯一同時進行の時間。私たちが光と並走できる元気を維持できるのは、いつまでだろう。未熟さだけが。青々しく居られる時だけが、いつまでも我あらんと美しさを独占している。
 わかりやすい未熟さは今の時代、エモーショナルの称号を受けて、燦然と輝いているかのようにあしらわれている。御膳立てされた”いー感じ”に身をくるみ、社会に滞りなく包摂されることの安堵。隣の人と肩を寄せ合い、現在と並走することは青春と呼ばれている。その価値は不動のものとされ、様々な人が過去の積載の中にそれを見つけようとする。見つからなければ、他人の創作にそれを追随する。あらゆる人の時間の残像が需要と供給の曲線に乗せられ、価値あるものとして現在の時間軸に再生産される。それはカルチャーと呼ばれ、繰り返され、模倣される。まるで遺伝子の複製のように。
 優しくいられる人なんてただのラッキーで、優しいという属性は環境によっては良心の無限の搾取を助長するし、そこから抜け出そうと試行錯誤すれば、最終的には優しさを手放す結論に行き着くのは自然だし。でもそうやって厳しくなった人を「優しくない」と糾弾するのは、いつも蛾のように搾取しに群がってきた人達で。���会う人1人ずつを深く知る機会もそうそうなく、そんな機会をわざわざ作る人も稀。優しかった人の優しさ。優しかった人に優しさを返す人の存在の価値は隠されて、人は勝手に言いたい放題を言い、結果論的に孤独な人が生まれてしまう。望まれた遺伝子複製の輪からはみ出して、優しかった人の放浪はいつのまにか始まってしまう。なんの準備もないのに。
 ありとあらゆる称賛される美しさや価値による砲火から逃れて、現在を走る人を避けながら、懐かしむ思い出もなく、自虐的な態度で身を固め、肩をすくませつつ1人進む。進んでいるのか。戻っているのか。似たような人を見つけては心の中で見下し。そうしてやって来た離れ島だと思っていたのに、無人島なんてこの時代にあるわけがない。人からは、遺伝の連鎖からは、結局逃れようがない。遺伝子の螺旋構造の美しさは、おそらく真理なのだろう。
 光の残像は、明暗。青々とした極彩色が追い剥ぎに遭い、残されたのは明度。遮光カーテンが取りこぼした日光が、やたらと白く感じる。ここは眩しい。そして明るい。色はまだ見えない。
0 notes