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makikoakiyama710 · 1 month
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ウェブマガジン、Jewelry Journal の連載「コンテンポラリージュエリーことはじめ」の第12回が公開されました。今回のテーマは「領域を超える」です。
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makikoakiyama710 · 4 months
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note に新しい文章を投稿しました。現代美術作家、加賀美健さんの缶バッジシリーズについて書きました。加賀美さんが作るものだから働く、身につけるものになった時の力学の構造を解き明かす試みです。
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makikoakiyama710 · 5 months
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コンテンポラリージュエリー+現代工芸のウェブプラットフォーム Klimt02 に寄稿しました。今年春に行われた回顧展を軸に、ヘアメイクアップアーティストの加茂克也さんの仕事について書きました。日英併記。
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makikoakiyama710 · 5 months
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note に新しい文章を投稿しました。2023年8月18日から9月3日まで横浜の BankART KAIKO で行われた「BEZEL CONTEMPORARY JEWELRY」展について書きました。
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makikoakiyama710 · 8 months
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note に新しい文章を投稿しました。芸人で手芸作家の光浦靖子さんの仕事について書きました。
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makikoakiyama710 · 8 months
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ウェブマガジン、Jewelry Journal の連載「コンテンポラリージュエリーことはじめ」の第11回が公開されました。今回のテーマは「原点回帰」です。
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makikoakiyama710 · 8 months
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Fashion Tech News のリレーコラムに記事が掲載されました。コンテンポラリージュエリーにおけるジュエリー×テクノロジーへの取り組みやそれに対する私感など書き綴りました。
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makikoakiyama710 · 1 year
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お知らせ
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note で「ジュエリーと批評(仮)」と題してマガジンを始めました。ひとつめのテキストは「ジュエリーと批評」です。tumblr とのすみ分けについては決めていませんが、文章の投稿先はしばらくのあいだ note がメインになると思います。よろしければフォローなどしてくださるとうれしいです。記事の掲載情報などについては引き続き tumblr にも上げていきます。
https://note.com/akiyamam710/m/mdb19bde1e9e7
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makikoakiyama710 · 1 year
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フールナイト:ディストピアの装飾文様
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青々と茂る草木に色とりどりのかぐわしい花々。それらは生命維持に必要な酸素を供給してくれるだけでなく、その姿形によって私たちの目を楽しませてくれる。冬になると葉を落とし春になると芽吹くサイクルは、主に生命の賛歌としてさまざまな形で表現されてきた。
安田佳澄による漫画作品『フールナイト』に登場する植物はそれらとは性格を異にする。舞台は24世紀。厚い雲が地球を覆うようになって100年が経ち、ほとんどの植物が死に絶えた世界で、人間は自らを植物に「転花」させて酸素をまかなう究極の自給自足を強いられている。転花に志願した者は、対価として国から支給される大金で人としての短い余生を好きに過ごすことができる。当然、志願者は余命いくばくもない者や貧困にあえぐ者だ。
主人公は神谷トーシローという若者で、病の母を抱えギリギリの生活を送る彼は、失職を機に転花の意志を固める。その処置を請け負う「転花院」で出会ったのは幼なじみの蓬莱ヨミコである。ヨミコはそこの職員となって人々を転花させることを生業としていた。仲良しのふたりの関係は、持たざる者が持てる者に命を差し出す残酷な社会を縮図している。
手術を終えたトーシローはなぜか���人が転花した植物=霊花の声を聞き取れるようになっていた。この特殊能力のおかげで転花院の職にありつけはしたものの、大小さまざまなトラブルにも巻き込まれていく。トーシローをはじめ、登場人物たちの周りには常に植物が生い茂っている。
作品の設定世界における植物は元人間なのだから、まともな神経の持ち主なら草花を無邪気に愛でることはできないだろう。では、それらをかたどった柄や文様ならばどうだろう。純粋な装飾として楽しめるものだろうか。実際、この物語には文様や装飾がたびたび登場する。そのほとんどは話の筋と無関係だが背景の一部として片付けるにはあまりにも強い存在感を備えている。それらについてああだこうだ類推するのがこのテキストである。
『フールナイト』の大きな魅力のひとつが手描き表現の緻密なディテールであることは間違いない。だから装飾文様もそのひとつだと言ってしまえばそれまでだが、装飾好きの筆者としては強引な見方になるのを承知で本作における装飾や文様の意味を深読みしてみたい。
たとえば主人公たちが勤める転花院や食堂、個人宅などの場面には、床のタイルや壁のパターンとして幾何学やアラベスク調の模様が幾度となく出てくる(インテリア全体がしゃれており、建築やデザインに対する作者の偏愛や趣味がうかがえる)。手描きによる緻密な描写もあいまって、それらの装飾はそれ自体で魅力的だ。
だが登場人物がこれらの凝った装飾を気にかける様子はない。当たり前といえば当たり前だ。その世界の住人にとっては日々目にする光景に過ぎず、見慣れてしまえば何の感情も湧き起らなくなる。同時に、読者の目を引くに足る装飾に囲まれながらそれらに対してまるで無関心なその姿は、彼らが生きる現実がいかに厳しく殺伐としたものであるかを表しているようにも見える。
同時に、多くの装飾は元をたどれば植物をはじめとする自然界の造形が抽象化されたものであることを思うと、人の手によって人工物の形に押し込められた自然が、装飾の姿をとって四方八方から人間を取り囲み、じわじわと追い詰めているように見えなくもない。
純粋な鑑賞対象としての装飾もひとつだけ登場する。第5巻収録の「ジオメトリック金魚」である。ジオメトリック金魚は体表に幾何学模様が浮き出るようゲノム編集された金魚で、この回ではメインキャラのひとりである八束アキラが新種のマラケシュ柄に執心する様子が描かれている。
エリートで口が悪く、感性の鋭いアキラは、ロゼッタ柄のネクタイがトレードマークのおしゃれな青年だ。毎日を生きるのでやっとのトーシローには理解したくとも理解できない「心の豊かさ」を地で行くのがアキラである。つまり彼は、装飾を愛でる余裕のある環境で育つことができた一握りの人間なのだ。装飾に対する彼の態度はそのまま、トーシローとの格差を物語っている。
こと金魚について言えば、私たちが目にする鑑賞用の金魚だって品種改良の賜物なのだから現代だってやっていることに大差はない。だが、未来のディストピアにおけるジオメトリック金魚の風流は、現代のそれとはきっと違う。アキラは夏を感じたいから金魚を愛でるというが、四季が失われた世界では季節感ですら過去の遺物である。だとすると、未来の風流はノスタルジーや憧れ交じりのせつなさを帯びたものとして想像できる。
トーシローは霊花に耳を傾ける時、うんと意識を集中させる。とりわけ真剣な時の彼は、頭がうずまき管になった姿で描かれている。そのトーシローによって聞き取られる霊花の代表格が連続殺人鬼であるアイヴィーで、全身がとぐろ状のツル性植物(カギカズラ)でできている。つまりうずまき管とらせん状の植物という違いはあれど、トーシローもアイヴィーも渦巻の造形として表現されている。
水流や銀河の構造、草木など自然界のそこここに見つけることのできる渦巻き模様は、もっとも古い装飾のひとつといわれる。そして装飾とは、無秩序な世界を秩序立てて理解するための手立てだ。理解しようと耳を傾ける者、理解されるものとして傾聴される者、ふたりが初源の装飾の形をしていることは必然の一致のように思われてならない、と言ったらさすがに大袈裟すぎるだろうか。
最後に、筆者の専門分野である装身具について触れておく。とはいえ、本作には装身具の類はほと���ど出てこない。ファッションにうるさそうなアキラも光りモノには興味がないらしい。そのほかのメインキャラも似たりよったりで、ピアノコンサートに行くヨミコが花のコサージュをつけている場面があるものの、これはドレスアップの記号にすぎず特別な意味があるようには見えない。
いつも決まってジュエリーをつけているのは、アキラの叔母で警部の八束ミネで、正三角形のメタルプレートをいつも耳から下げている。その描き方が独特で面白い。留め具や金具が省かれており耳下で宙に浮いている。現実世界ではありえないこのミステリアスな浮遊感は、二次元ならではジュエリーの表徴といえよう(まったくの余談だが、この思い切った省略表現は、くるぶしから下をまるまる省略したジュリアン・オピーの人物画を思い起こさせた)。
またこの三角形は常に「面」で描かれており、側面である断面が見えることはない。立体物を面に服従させるというこのテクニックは、平面作品においてありがちといえばありがちな手法ではあるものの、この作者の手にかかると二次元的な装飾への偏愛にも見えてくるから不思議である。
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makikoakiyama710 · 1 year
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ダニエル・クルーガー、ブローチ、1995、素材:ゴールド、真珠、サンゴ、エメラルド、10 x 10 cm、収蔵:プライベート・コレクション(スイス)、撮影:Thilo Härdtlein、©ダニエル・クルーガー
ウェブマガジン、Jewelry Journal の連載「コンテンポラリージュエリーことはじめ」の第10回が公開されました。今回のテーマは「装飾の復活と伝統との関係」です。
https://www.jewelryjournal.jp/blog/31243/?fbclid=IwAR1D8gzCkmnj7EOQG2jJyUDvtvCzOrfZULEX1Etxl1cJOEyrE7cPyaxdm_0
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makikoakiyama710 · 1 year
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蠢く予感のありか  西永和輝「巣食ウ装飾」展
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意志をもたぬはずのものに意志を持っているかのようにふるまわれると背筋がひやりとする。そのことじたいは当然であるにしても、その恐れの正体はいったい何なのだろうか。
2022年12月13日から18日にGallery美の舎で行われた西永和輝の個展《巣食ウ装飾》には、その問いに応答するかのような作品が並んだ。本展の主役ともいえる《Rampant on a frame》のシリーズは、アルミフレームの随所に石膏装飾を施した作品で、表面には手でなすりつけたような作業跡が生々しく残されている。ここにはふつう装飾とその対象とのあいだに期待されるような調和は存在せず、アルミと石膏の奏ではむしろ不協和音といった方がふさわしい。
モダニズムは装飾を快楽や未開の象徴とみなし、合理性と知性によって超克されるべきものとして忌み嫌い、切り捨てた。《Rampant on a frame》では、そのようなモダニズムと装飾の関係が表現されている。
出品作のひとつである《Linear crawler No.1》も、同じようにアルミフレームに石膏装飾が施されているが、こちらにはレールの上をスライドするレンズが取り付けられている。この装置のおかげで石膏の表面を拡大して見られるようになっているのだが、単焦点のレンズのため焦点が合わない部分も生じてしまう。このことは、視覚の限界、ひいては視覚偏重的な性格を持つモダニズムの限界を示唆している。
装飾の目的のひとつは対象物を引き立てることにある。しかし、西永の作品における石膏装飾にはそのようなところは感じられず、むしろ対象をのっとって別人格を植え付けようとしているかのように見える。そもそも装飾対象のアルミフレームからしてモダニズムの象徴である他は何者でもないといってよく、装飾のための支持体に徹しており、その役回りは絵画における画布と大きく変わらない。また石膏装飾の方にも、装飾を象徴する装飾という特異な性格が与えられている。この一般のそれとは大きく質を異にする支持体対内容の関係性からは、過去のある美術運動が思い起こされる。パターン&デコレーション運動である。
パターン&デコレーションは、1970年代半ばにモダニズム(とりわけミニマリズム)のカウンターとして立ち上がった運動で、男性中心・欧米中心の厳格で閉鎖的な美術界に異議を唱え、それを��品で表現したことから、フェミニズムアートやプルーラリズムの先駆けとも言われている。この運動の特徴はその名のとおり、パターン尽くし、装飾尽くしという点にあり、イスラム美術などにインスピレーションを授かった祝祭的な熱気に満ちたパターンや装飾は、作品の縁を超え、展示空間さえ超えて、その先に広がる途方もない世界を見る者に想像させようとした。
海野弘は1973年刊行の『装飾空間論』において「装飾は絵画や彫刻の作品とちがって、それ自体において完結しているというよりは、開かれており、全体へのつながりを明らかに示している」(p73) と述べているが、パターン&デコレーション運動は、この点を熟知したうえでパターンや装飾を絵画化することによって、閉鎖的な美術界に外の世界へ思いをはせることを促した。
同運動の仕事の多くは、もっと大きな装飾やパターンを切り取ったかのような見せ方をすることで作品の縁や枠の先を想像させるのに対し、西永の作品における石膏装飾は生まれたてで、これから増殖がはじまりそうな気配に満ちている。
自然界の成長や進化の過程を装飾に重ね合わせる試みは、西永が2019年に執筆したテキスト「Ornament as Absurd」にも、オットー・ケーニヒなどの例を通じて登場し、西永がモダニズムによる装飾観の見直しを通じて現代における装飾の意義を探るうえで、重要な位置づけを占めている。
増殖する装飾というフレーズにはこちらの想像力をくすぐる響きがある。それに興じて想像を膨らませてみると、その仕方はさまざまに考えられる。たとえば、パターンならば表面を覆いつくすから被覆型、装身具の類ならば装着する部位が点在しているからピンポイント型といったところだろうか。見ようによっては、前者はじんましんで後者はイボか何かのように思えてこなくもない。このアナロジーに沿って考えるなら、装飾は、外部的な付け足しではなく内面から現れ出た己の一部ということになる。
モダニズムが装飾を排除しようとした理由も、おそらくきっとここにある。つまりモダニズムは、得体のしれない未知の存在だから装飾を忌み嫌ったのではなく、自分たちが克服し、過去のものにしたと信じ切っていた自分たちの一部をまざまざと見せつけるものだからこそ、装飾を排除しなければならかったのだ。
先ほど、支持体と装飾の関係性という共通点を呼び水にパターン&デコレーション運動を引き合いに出したが、同運動で目指されたのがモダニズムによって切り捨てられた存在をすくい上げることなのだとしたら、西永の作品においては、モダニズムがなぜ装飾を忌避したのかという理由への肉薄が試みられている。
先の論文の結びで西永は、この複雑な世界において人の手によって作られながら人の手には負えなくなってしまった数々の問題と、装飾が持つ性質とを重ね合わせ、それと向き合うための言語として装飾がある、という結論を導き出している。それを踏まえて西永の作品を見返してみると、その装飾は、世界が抱える不合理のようにも、その不合理に向き合おうとする意志のようにも見えてくる。それはまた、自分ひとりの力ではどうにもできない世界に途方に暮れながらも、己のうちにもまた制御のきかない蠢きを抱えた私たち自身の姿でもある。
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付記: 増殖の意志を感じさせる装飾という点では、アメリカの作家、ポリー・アプフェルバウムも挙げられる。アプフェルバウムはパターン&デコレーション運動の系譜に連なる作家と目され、カラフルな色づかいによる装飾的な作風を特徴とする。代表作の《fallen paintings(落下した絵画)》シリーズでは、小さく切り抜いた手染めのテキスタイルを離れ小島のように展示空間の床に敷き、絵画とも彫刻ともインスターレーションともつかない形式を採ることで、美術作品における縁や枠の概念を解体した。
同シリーズの興味深いところは、パターン&デコレーションの作家たちが思い描いた理想の後日譚に見えるところで、色の集積が作る風景はまるで、同運動の作家たちが夢見た外の世界が展示空間の中になだれ込んできたかのようである。とはいえ、アプフェルバウム自身、美術とハンドクラフトとの境界の解体を標榜してはいる��のの、《fallen paintings》における色の集積は混沌未分としており、パターン&デコレーション運動の装飾の用法に比べるとあいまいで、はたして装飾と呼んでよいものか迷ってしまう。
もちろんアプフェルバウムのように長いキャリアを持つ作家について、たったひとつのシリーズを取り出して、その仕事全体の質を結論づけるような物言いをするのはフェアではない。それでもなお《fallen paintings》における色の集積と、西永の作品における装飾の用法を比較検討することには、何がパターンで何が装飾か、ひいては何が装飾を装飾たらしめるのかを探るうえで重要なヒントが隠されているような気がして興味を引かれる。だが、それをいま深堀りするのは手に余るため、ここでは付記として言い及ぶにとどめたい。
西永和輝 個展「巣食ウ装飾」 企画:原田雄(SYP GALLERY)    キュレーション:飯盛希(TAV GALLERY) 会期:2022年12月13日 - 2022年12月18日 会場:Gallery 美の舎(東京都台東区谷中1-3-3 カサセレナ101)
作家ウェブサイト:https://kazuki-nishinaga.jimdofree.com/
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makikoakiyama710 · 1 year
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イベント情報
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Women Jewelers Japan 主催でウェビナーを企画していただきました。 コンテンポラリージュエリーの歩みをポイントを押さえてお話しします。
Zoom ウェビナー 「コンテンポラリージュエリーの発展:黎明期から現代まで」
開催日:2023年2月14日(火)20:00- 主催:Women Jewelers Japan (WJJ) 費用:WJJ メンバー無料、ビジター 2,000円
詳細は Peatix でご確認ください。
https://wjj20230214mtg.peatix.com/view
画像の作品:カール・フリッチ、素材:14K、2012、 ©カール・フリッチ
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makikoakiyama710 · 1 year
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業をまとう 高橋鮎子「Kalavinka」展
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ジュエリーを専門分野としているせいか、装飾や装身具をテーマにした展覧会があると聞くとどうしても食指が動く。高橋鮎子の「Kalavinka」展もそのひとつである。
2022年10月14日(金)から10月29日(土)まで西麻布の TAV GALLERY で行われたこの展覧会には、作家の過去作4点と、新作にあたるスカーフの作品が4点並んだ。ここでは主に展覧会タイトルにもなっているこのスカーフの作品に焦点を当てる。
これらのスカーフ作品は一見すると無害そのもので、よくあるスカーフの様式をそのまま踏襲しているかのように見えるが図柄は不穏だ。宝石は烈火にさらされ、ゴージャスな蝶結びのリボンの正体はメジャーの集合体。その周囲にはカラフルな水玉が散らばっているのかと思いきや錠剤が飛ぶ。同心円状の繊細なループ模様にはハサミやメス、薬瓶が潜み、前景には手鏡が配されている。タイトルの「Kalavinka」は「梵語で「美しい声」を意味し、仏教における極楽浄土に住む半人半鳥の生物「迦陵頻伽」(かりょうびんが)に由来」(註1)するという。一見無害な図柄は、美容、ファッション、ダイエットなど、美に惑わされた者の行きつく果てをほのめかしている(註2)。
随所に配された炎や雲(?)は仏教画風のタッチにも見え展示タイトルへの目配せが感じられると同時に、複雑な画面構成を織りなす効果的な要素にもなっている。配色や意匠の巧みさは、作家のスカーフデザイナー(という職業があるかどうかはわからないが)としての優れた手腕を語っているのはある意味皮肉といえるのだろうか。
展示方法も重要で、エルメスのスカーフを室内装飾として楽しむための機能であるハンギングシステムを踏襲し、さらにはその周囲には額縁状のフレームがめぐらされ、スカーフを吊る機構そのものが鑑賞の対象であることが強調されている。
余談になるが、このハンギングシステムが持つ、実用品を鑑賞物化するという倒錯の異様さは、このシステムが日常の生活空間(要は誰かの自宅)に設置されているのをネットで見たときの方が強く感じることができた。これはきっと、実用品であるスカーフにとって本拠地であるはずの生活空間で、鑑賞物という場違いな役割を演じさせられていることが、よりいっそう鮮明になって見えるからだろう。
ここで起きていることは、工芸作品のように技巧性や芸術性ゆえに実用品が鑑賞物化するのとも、ギャラリーなどで芸術作品を買って家に飾るのともわけが違う。ハンギングシステムには展示の制度だけが生活空間に侵入しているような妙な気持ち悪さがある。高橋鮎子によるハンギングシステムのよくできたパロディは、鑑賞物化するための飛躍や変容なしに実用品が鑑賞物として祭り上げられることの奇妙さと、己の虚栄心そのものを飾って喜ぶというハンギングシステムの倒錯を浮かび上がらせている。
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この作家は2021年にも個展を行っており「no exit」と題されたその展示では、美術批評家の飯盛希の言葉を借りれば出口のないルッキズムの地獄を表現したというが(註3)、「Kalavinka」展も無間の地獄を感じさせる(ただし、今回の展示ではどちらかというとルッキズムを要請する社会の側より、虚栄心に潜む闇に重点的に焦点が当てられているように思う。とはいえ、虚栄心に溺れる理由のひとつは見た目重視の風潮であることは忘れてはならないだろう。自分も含め誰しも多かれ少なかれこの風潮に踊らされている)。
その作品を前に私が思ったことのひとつは、このスカーフを着けて歩いたらどんな感じがするだろう、ということだった。ヒリつくような痛みだろうか。胸のすくような爽快感だろうか。それとも武器を忍ばせて人混みを歩くような緊張感だろうか。そういうふうに想像をめぐらせることは、作品の意図に反する不謹慎なことにも思えて少し気が引けた。
だがこうも思う。自己の業に傷つき悩む人がそれを受け入れるためにこのスカーフをまとったとしたら、そのことはその人が自分と折り合いをつけるひとつの契機になりはしないだろうか、と。地獄に出口がないのならその地獄の中を胸を張って歩くよりほかない。だとしたら己の業に見て見ぬふりをするより、それを直視し身にまとい人目にさらすぐらいの方がいっそすがすがしいように思えてしまうのだ。
そういうふうに言えてしまうのは自分が地獄と呼べるほどの執着にからめとられていないからなのかもしれない。この作品が描き出す人の業が虚栄心や執着であるのならば、それによって映し出された私の業はおそらく、人様が地獄に溺れるさまを前に高みの見物を決め込む悪趣味な冷酷さにあるのだろう。これもまた、作家の手によってあぶりだされた装飾をめぐる人の業だろうか。
註1:展覧会告知文を引用(https://tavgallery.com/kalavinka/) 註2:個々の作品に描かれたモチーフの詳細とその丁寧な読み解きは Online Art Journal「感想 高橋鮎子 個展「Kalavinka」」を参照していただくのがよいと思う(https://www.onlineartjournal.com/20221025-takahashiayuko-kalavinka/) 註3:『アートコレクターズ』No. 151(2021年10月号)高橋鮎子 展「no exit」レビュー「ルッキズムの地獄に出口はあるか」を参照
高橋鮎子 個展「Kalavinka」 会期:2022年10月14日 - 2022年10月29日 会場:TAV GALLERY(東京都港区西麻布2-7-5 ハウス西麻布4F)/ https://tavgallery.com/
作家ウェブサイト:https://ayukotakahashi.com/
*画像は作家の許可を得て掲載しています。
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makikoakiyama710 · 1 year
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メディア掲載
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ジュエリーブランド、Terra のオンラインジャーナル Bibliothèque に取材していただきました。手持ちのジュエリーも何点か紹介しています。
https://terra1012.com/blogs/bibliotheque/221118
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makikoakiyama710 · 1 year
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メディア掲載
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装身具&文化を扱う中国のウェブ媒体「三声(Third Voice)」にインタビューを掲載していただきました。アジア圏におけるジュエリー分野の動向を探るシリーズ記事のひとつで、東京代表として選んでいただきました。同じシリーズでは北京、台北、香港、杭州の四都市で活動するギャラリスト、教授、作家がそれぞれ取材に答えているそうです。ジュエリーの批評と美術批評との違い、日本におけるコンテンポラリージュエリーの歩みなど包括的に答えました。
https://mp.weixin.qq.com/s/4XScfr92msjV-FRUxDJ68g
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makikoakiyama710 · 2 years
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境界と愛のかたち 山内祥太「愛とユーモア」展を見て
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山内祥太の個展「愛とユーモア」に行ってきた。この作家の仕事を見るのは昨年に代々木の GALLERY10 (TOH) で行われた「第二のテクスチュア(感触)」以来のことだ。そのときの展示には映像や彫刻など複数の媒体による作品が並んでいた。なかでもとくに、映像と小説が印象に残っている。映像は《カオ1》と題されており、上を向いた作家の顔が大写しになっているところからはじまり、その上にレイヤーが1枚ずつ積み重なっていき���やがて顔の特徴(凹凸)がわからなくなっていく。それぞれのレイヤーの表面には風景や歴史上の有名な絵画を模したような図像など、ありとあらゆるイメージが描かれている。
小説の方は、諸星大二郎の漫画「カオカオ様が通る」にインスピレーションを受けて書かれた短編で「第二のテクスチュア(感触)」展じたいがこの小説を下敷きに構成されたものであるらしい。物語には、作家と同名の祥太という主人公が登場し、彼が住む世界では顔=カオを洋服感覚でとっかえひっかえできるのだが(実際、この小説には主人公がユニクロでカオを買おうとする描写が出てくる)、彼氏とおそろいのカオをつけて出かけた姉を尾行した主人公を待ち受ける悲劇と混沌がユーモラスに書かれている。
小説の表紙には、皮膚のクロースアップを思わせる色と質感をした紙が使われている。そこにはタイトルが縦書きで「第二の(感触)」と印刷され(感触)のとなりに「テクスチュア」のルビがふられている。この表記のしかたは、丸カッコであらわした境界=皮膚に覆われた主体がテクスチュアに接触し、そこからなんらかの感じを受け取るという感触の体験そのものが視覚化されているようにも見える。
今回行ってきた「愛とユーモア」展ではなんといっても《Tina》が強烈だった。この作品は、映像と彫刻のふたつがあり、基本はどちらも同じ人物像なのだが大きな違いもある。彫刻の Tina は、ファーを張り巡らせた台座の上に体育座りしていてもちろん動かない。首から下はしなびて硬くなったように見え、体の末端にいくほど茶色味を増していき、老化というより木化しているように見える。太ももの裏の肉はだらしなく垂れ下がり、そのまま地面に届いて根をはってしまいそうだ。動物の時間と植物の時間の奇妙なマリアージュ。両肩から生える長い毛は、床の上で Tina の体を取り巻くようにカーブを描き、背中側から見ると退化した翼のようにも見えた。
映像の Tina は CG で、暗闇にぽつんとたたずんでいる。最初は丸裸だが、自分で自分の体表に触れると、そこから極彩色の毛が生えはじめ、それが徐々に首から下を覆っていく。こちらには木化現象は見られずみずみずしさが保たれているが、デフォルメされたプロポーションと、笑っているようにも見える無表情な顔などのせいか、常人でなさが半端ない。
彫刻と映像、どちらの Tina も安っぽいピンク色の爪をしている。その人工的な色味からしてマニキュアを塗っているものと思われるが、美容やファッションに疎い私でも、この色が最新流行やモードの類とは縁がなさそうなことはわかる。だがこの絶妙に低俗なピンク色がかえって超然とした風格を醸し出すのに一役買っているようにも見えた。それくらいこのピンクは雄弁である。Tina はこの爪の色をのぞけば、衣服や装身具などもつけていないし頭髪も生えておらず、趣味性を感じさせるものが何もない。その点をふまえても Tina は、社会的記号を必要としない絶対の存在ということになる。というか、Tina 自身がひとつの記号というべきか。
作家は近年、愛をテーマに制作しているそうで、今回の展示の案内文によれば Tina もまた愛の表現だという。そこにおいて体毛の存在感が大きい点は気になるところだ。映像の Tina を見ていると、求愛のダンスと愛撫の恍惚が、あたかもひとりの人物のなかで同時進行しているようだった。その動きに合わせて、触れる方と触れられる方、両方の触角を刺激するものとして揺れる体毛は、動物的な愛や官能の象徴にも見える。彫刻の方は、そうした激しい求めあいから長い時間を経たあとの、精神的な愛の段階を表しているということなのだろうか。Youtube に上がっているインタビュー映像でこの作家は、人類の体毛の喪失と美の関係性について語っていた。だとすると Tina の体毛も、人と美について何かを語るものであるはずだが、真意についてはわからない。
顔の描写も謎めいている。すでに書いたとおり、彫刻の Tina と映像の Tina はさまざまな違いがある。とくに首から下の違いは顕著であり、映像の Tina から彫刻の Tina のあいだには、長い時間の経過を感じさせる。だが顔だけは、映像か彫刻かという表現媒体の違いからくる差を別にすれば、基本的に変わらない。
これを見て、以前ある漫画を読んでいて印象に残った誇張表現のことを思いだした。その作品では、同一人物であっても、意地の悪いことや邪なことを考えているときは顔が醜くゆがみ、誇りを取り戻すと凛とした美しい顔になる。その背後にあるのは、美醜と性格の良し悪しは比例する、という主張よりもむしろ、両者のあいだには何の相関関係もないという考えだろう。これはあくまでひとつの誇張表現であり、もっといえばきっと、そういうふうに描く人にはきっと、そういうふうに見えているのだ。つまり、その人がどう見えるかは、必ずしも顔の造作だけの問題ではなく、見る側の問題でもある。
だとすると、Tina の顔だけが変わらないということは、Tina を思うだれかの視線を反映しているということなのだろうか。ではそれを見る私、つまり鑑賞者はいったいだれなのだろう。ここには「第二のテクスチュア(感触)」の小説で描かれていたような、顔をめぐる混沌が広がっている。この小説のクライマックスで(以下ネタバレ)主人公の姉は、なりたいカオとの相性が合わなかったことから化け物となり、主人公と読者の前からあっさりと姿を消してしまう。
そのときこの姉は、ついさっきまで彼氏と同じカオかどうかで一喜一憂していたとは思えないほど冷静で、化け物になった自分をあっさりと受け入れ瞬時に客体化する。それは化け物になった直後に出てくる「でも察するにあなたたちの価値観からすると私はお化けよね」という発言からも明らかだ。この潔いほどの変わり身の早さは、姉と主人公、姉と読者のあいだに秒速で距離を生み、姉は理解の及ばない存在として私たちからの歩み寄りを拒絶しているかのようだ。
このはばまれの感覚はこの作家の映像作品にも見られ「愛とユーモア」展にも出品されていた《SASUKE》や《コンドルは飛んでゆく》の場合もそうだった。一見すると映像の中に登場する作家はリアルとバーチャルを自由に行き来しているように見えるのだが、突破によってもたらされる爽快感は一瞬で過ぎ去り、境界の向こうにはユートピアではなく、脱力感のあるカオスや不条理の世界が広がっていて、侵入者を優しく受け入れてくれはしない。
顔=境界の変貌によってはばまれる理解と、境界突破の先に待ちうける不条理。どちらにおいても直面している本人は疎外されたまま。境界は、乗り越えるべき理解の壁ではなくもうひとつの不可解な世界の入り口にすぎないのかもしれない。
境界とはまた、それを意識した者にそれがそこにあることを嫌というほど感じさせ、その向こうにどんな世界が広がっているのかを想像させるものだ。この作家の作品において、人の境界面である皮膚がしばしば強調されているのは、他者はそもそも理解の及ばない存在であること、でも関心を持たないわけにはいかず、理解したいと思わせる存在であることの表れなのだろうか。
理解不能なものを手探りで理解しようとすること。それは愛の第一歩である。だとすると山内祥太の「愛」というテーマへの取り組みかたは至極まっとうなもののように見える。まずはまだ見ることのできていない《舞姫》を見に、ワタリウム美術館に行ってこようと思う。この作品においては、境界=皮膚とその先に対する、また別のアプローチがとられているように見える。
「愛とユーモア」展 会期:2022年7月16日 - 2022年8月12日 会場:EUKARYOE 東京都渋谷区神宮前3-41-3
「第二のテクスチュア(感触)」 会期:2021年1月10日 - 2021年1月30日 会場:Gallery 10 (TOH) 東京都渋谷区千駄ヶ谷5-20-11 第一シルバービル1B
*画像は作家の許可を得て掲載しています。
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makikoakiyama710 · 2 years
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イベント情報
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Jewelry Artists of Japan主催でトークイベントを企画していただきました。
過去の文献を踏まえつつ、現在の装いをとりまく環境などもからめながら、作品としてのジュエリーの「鑑賞」「つける」「装う」についてお話しします。
トークイベント:「つける」と「装う」の微妙な関係:コンテンポラリージュエリーと日常の接近
開催日:2022年7月8日(金)19:00- 会場:渋谷区文化総合センター大和田 前売:一般1500円、学生1000円、後日配信800円 ���催:Jewelry Artists of Japan
詳細は Peatix でご確認ください。
https://jaj20220708.peatix.com/
画像の作品:嶺脇美貴子、ネックレス、素材:プラスチック製の玩具や人形各種、2008-2015?、 © 嶺脇美貴子
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