Tumgik
minatomishiro · 4 years
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他者理解モデル
仮想の他者モデルとは
「人間は他者をどう見ているか」の解釈についての、私の中の暫定解を記す。少々ダラダラと書いてしまうが、良ければ辛抱強く最後まで読んでほしい。
AがBという人間と会話しているとする。この時、AはBの反応を計算しながら話している筈だ(無論「相手を利用してやろう」という計算ではなく「相手を喜ばせるにはどうするか」「傷付けないようにするにはどうするか」という計算のことだが)。
かかる計算を行うためには「Bがどんな人間か」を把握する必要がある。具体的に言えば「Bの思考回路・価値観・感情の動き方・論理性などを知る」ということだ。これらを把握することでAはBを理解し得るのだ……というのが一般論だが、私はそうは思わない。Aが行っているのは「自分の脳内に、仮想のBという人格を組み立てる」という行為に過ぎないのではないか?というのが私の考えだ。
以下、この「仮想のB」をbと記す。 また、このモデルを勝手に「仮想の他者モデル」と呼ぶことにする(誰かが既に別の名前を付けているかも知れないが……)。
この「仮想の他者モデル」は、様々な人間関係の諍いをうまく解釈し、解決策を提示してくれるように思う。例を見てみよう。
「どうして解ってくれないの?!」という喧嘩
相手が自分のことを理解してくれなくて歯痒い気持ちになることはある。出会ったばかりの人間だけではなく、家族のように長い時間を共に過ごした人でさえ起こることだ。 本モデルを用いれば、かかる状態は「Bとbの乖離があまりに大きいことにBが怒っている」と表現出来そうだ。
そもそも、完全にB=bとなることは原理的にあり得ない。 bの定義を思い出してみよう。bは「Aが自分の脳内に組み立てた仮想のB」である。コンピュータの仮想化を想起していただければ話は早いが、bがAの脳みそ以上の働きをすることは出来ない。Aが知らないのにbが知っている知識がある筈がないし、Aが逃れられない先入観は自ずとbにも引き継がれることになる。 どれだけAがBのことを深く知っていたとしても、Bとbの間にはかかる差異が生まれることは避けられないのである。
勿論「B≠b」をきちんと認識し、ありのままのBと対話が出来るのであれば問題はない。しかしAが自分の中のbに固執してしまった場合、Bからすれば「私のこと解ってそうなツラしてやがるけど、全然解ってねえじゃねえか」となる訳だ。
では、このトラブルをどう収めるか? 要は「ズレたbに固執してしまうこと」が問題なのだから、解決策は次の2点に絞れよう。
①bをBに近付けるために、日々アップデートを怠らないこと ②Bその人の意見を聞き、あくまでそれに基づいて諸判断を行うこと
イデオロギーを異にする人々の平行線な議論
Twitterで頻繁に目にする光景だ。かかる醜劇も、本モデルで良い具合に分析出来るのではないか……と夢想しているが、まだ分析を始めていない。
「高度に洗練された『他人に興味のない人』」は「優しい人」と区別が付かない、という言説について
最近Twitterで目にしたツイートが、私の喉の奥に魚の骨の如く刺さったまま抜けない。うまく嚥下出来ないので、このモデルを用いて消化してしまいたいところだが、これもまだ分析を始めていない。
まとめ
「なんか使えそうなモデルやろなあ」ってこと以外、なあんにも判ってないです。おしまい。
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minatomishiro · 4 years
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サラリーライター
私の職業は「webライター」である。中小企業の代表者やら小さい歯科医院の院長やら、怪しげなサロンのオーナーやらに「ホームページ作ってけろ」と依頼され、そのクライアントの指定のままにホームページ用の原稿を書いている。朝から晩まで計8時間、ただひたすらにキーボードを打ち続けるだけの簡単なお仕事だ。
「三度の飯より活字が好き人間」である私は、脳を大して働かせずに文章を紡ぎ出すのが得意である。ゆえに現在の仕事はラクであるし、ホワイト企業なので自分の時間も十分に確保できる。休日は寸毫も仕事のことを考えなくてよいのは、前職と比較すれば遥かに素晴らしい環境だ(巷ではそれが当たり前なのかも知れないが)。
にも拘わらず、私は自分の仕事に誇りを持っていない。それは何故か。
その答えは実に明々白々。「使い捨て用の文章しか書いていない」、この一言にすべての理由が集約される。
私が自らの意思で書いている所謂「小説」は、人に味わってもらうこと、人に愉楽を得てもらうこと、人を泣かせることを前提として書かれている。かかる行為は、自分の小説家としての価値を測られることでもあるから、それはもう真剣に考え、何度も推したり敲いたりして最善のものを作り上げる。その果てに自分の文が評価されたとすれば、それは小説家としての価値が認められたということになるし、逆の場合は、自分の人間としての存在価値が否定されたことになる(なぜなら私は筆を執ることでしか自分のraison d’êtreを示せないからだ)。要は「命を懸けた行為」と考えて差し支えない行為であるから、色々なものを擦り減らすし、仮に他の誰かが作者を僭称しようものなら、私は其奴を揚げ物油の中にでも沈めてくれたい気持ちになる。
しかし、職業としている「コンテンツライティング」は、そうではない。理由を列挙してみよう。①完全前金であり、原稿の出来何如によって余分にお金が貰えるわけではない。②クライアントが集客に成功しても、別に嬉しくも何ともない(中には廃業してほしいクライアントすらいる)。③クライアントの意味の解らない一存で勝手に文章を変えられることがある(≒著作物として認められていない)。こんな仕事で、誰が誇りなんぞ持てようか。こんな状況で、誰が傑作を生み出してやろうなんぞと思おうものか。
……とまぁ、このTumblrを書くのすら面倒になってきたので、筆を置く。取り敢えず今の仕事は「誰かに怒られない程度のクオリティと最低限のいろいろを守りつつ、その範囲内でテキトーに駄文とも良文ともつかないファストフード的文字列を生み出す仕事」だとしか思っていない。生計を立てるのにギリギリ困らない程度のお給金が貰えるから別に良いが。
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minatomishiro · 5 years
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「生む苦しみ」とやらに就いて
私には、1週間に1回のペースで執筆している小説が有る。書くべきペースに則れば、昨日はキーボードに向かって孜孜忽忽と書き進めなければいけなかったのだが、それが出来なかった。出来る気分ではなかった。それは一体何故か。
一言で述べれば、これは私の飽き性が原因である。一つの物事が長く続かない、あちこちにすぐ目移りしてしまう性分が、私を定期執筆から遠ざけているのだ。長続きさせる唯一の方法は「自分を強制すること」であり、「毎週末には執筆する」という誓いの如き決意がその役割を果たしていたのだが、脆くも3週間でそれは崩れ去った。
「飽き性」は、私に「何でもひととおり知っている」「ジェネラリスト」というアドバンテージを与えた。しかし代償として「自信を持てる分野」との縁を断ち切り続けてきた。この絶縁は非常に都合が悪い。というのも、健全な愛情を知らずに「他人に勝つことが自分の価値」と思い込まされている自分にとって、「人より優れている分野が無い」ことは即ち「自分の価値を認められない」ことを意味するからだ。
先日、著名な小説家の言葉から、私は絶望を得た。詳しい文句は忘れたが、概ね「小説を書くというのは、長期間にわたり自分で文章を綴るという面倒なことを引き受けることだ」とった意味だったと記憶している。……小説は自分にとって数少ない「人より優れているかも知れないと思える分野」なのだが、まさかそれが「面倒なこと」という自分にとって最悪な性質を帯びているとは。
私は小説が書きたい。自分の大切な要素を世に知らしめるためにも、コンテンツツーリズムの一環として海の魅力を広めるためにも、書かなければいけない。……のだが、どうやらそれは茨の道であるようだ。
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minatomishiro · 5 years
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駆け出し小説家の嘔気
私は「小説投稿サイト」が苦手だ。
自分でも利用しているし、何ならつい先刻、ライトノベルテイストの小説を投稿し、2000文字弱くらい奴らのサーバーを圧迫してやった。
だが、出来ることなら小説投稿サイトは利用したくない。いや、正確に述べるならば「他の人の作品がアップロードされているのを見たくない」という感情だろうか。
有名な小説投稿サイトであれば、そこからプロ作家になれる道も有ろう。実際「なろう初」だか何だかいう帯がラノベに引っ付いているのを見たことが有る。だが、そんなものは一握り、一つまみ、いや、顕微鏡で見ないと判らないくらいの微小な存在だ。近似してしまえばゼロに等しいような稀有な存在だ。
実に玉石混淆然とした様々な文字列を眺めることが出来るのであるが、その割合は「石石石石…(砂浜の砂の数よりも大量の石)…石石玉石石…(字句通り山のような石)…石石」といったものだろう。
その「石」共がひしめき合っている地獄絵図が、私にはどうにも耐えられないのだ。
無論、面白いかもしれぬ、と思えなくもない作品に遭遇することも皆無ではなかった。個人的にはグレブナー基底に興味を持った妹が云々、という話は比較的好きである。
だが、そうではない糟粕共が「書きました!」とアピールし、自身のTwitterで殊更に宣伝し、「互いに読みあってPVを稼ぎましょう」だなどと愚かしい足掻きを為している。うっかり中を見てみようものなら、私は後悔のどん底に落とされる。最初の数行を読んだだけで、彼らの自己顕示欲と無謀な夢への挑戦(などと書くと綺麗かも知れないが、才能の無い者共がぴいぴい喚いているだけ)がありありと此方に伝わってくる。冗談抜きに、私は嘔気に襲われる。
私が極度の才能主義者だから、こういった有象無象が嫌いなのかも知れない。或いは単に同族嫌悪を起こしているだけかも知れない。
最後に、誤解を生まないように一言付しておく。上の乱文駄文を見れば明々白々なように、私の小説は糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかりにて御座候。
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minatomishiro · 5 years
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「見る、或いは、見える」
以下、「却下」のPNで文芸同人誌『あみめでぃあ』に寄稿した原稿です。嘗ての自分を見つめ直す為には些か勇気が要りますが……。尚、本来ルビとして漢字の上に存在していた文字が、括弧と共に横に出っ張っています。「元々は其処にルビが有ったのだろうな」と脳内補完しながらお読みください。
↓↓↓↓
愛するS嬢へ
   前略
  貴女がこれを読む頃には、私は既に何処かに旅立っていることでしょう。
 ……いえ、御安心ください。かねがね見たいと思っていたドイツの新白鳥石(ノイシュヴァンシュタイン)城あたりを旅しているだけです。ひょっとしたら中国の万里の長城かもしれませんし、アメリカの自由の女神かもしれませんが、詳しい所在地は私の知るところではありません。ともあれ、旅が終われば必ずや貴女のもとに戻って参ります。
  旅支度も全て終わってしまい、出立の時刻までかなり手持無沙汰ですので、私がどのような訳で貴女に「同じ日に同じ場所で死のう」と心中を持ちかけたのかを説明し申し上げよう、と筆を執りました。先日は断られてしまいましたが、この遺書を最後まで読んでいただければ屹度、受け容れていただけると信じております。
 なにぶん筆不精ですし、普段読んでいる本も偏りが激しいので、読みづらい点が多々在るかと思いますが、お許しください。
   却説(さて)、何処からお話し致しましょうか。……矢張り、私がこの世に辟易する理由から始めるのが妥当でしょう。
 では先ず、問いましょう。貴女は、「見る」ことや「見える」ことに就いて、どう思われますか?
 ……絵画や彫刻を解するのに必要不可欠な行為……ええ、それも然りです。作品に触れて鑑賞する方法も在るらしいですが、国宝や重要文化財等は気軽に触れることができませんからね。
 ……言語習得に非常に便利なもの……そうですね、それも亦た然りです。新しい文字を学ぶには目が有った方が遥かに便利でしょう。
 ですが、弱冠まで生きてきた私の答えは違います。「見る」「見える」ことの本質は「苦しみの元凶」です。それ以外にはあり得ません。
   貴女には馴染みが無いかもしれませんが、少々、仏教で説明されるところの「見る」行為に就いて触れてみます。尤も、私とて専門的に仏教を学んだわけではありませんから、私の解説の中には間違っていることがあるかもしれません。怪しいな、と思われた場合にはどうぞ御遠慮無く、この部屋の書棚から仏教の辞典を探し、御覧ください。本棚の上から二段目、右端に在る筈です。
  人間が、世界に存在するものを其の儘に知覚することは、全く不可能である、ということは、簡単に了解していただけるかと思います。そして、かかる発想は、仏教の思想にも登場してきます。
 仏教では、世界に存在する物を「色(しき)」と呼ぶそう��す(尚、サンスクリット語ではルーパと云うそうです)。これを人間が目で捉え、脳内で「想(サンジュニャー)」と呼ばれるイメージを形成します。この想を通して人間は、色の正体を「犬だ」「猫だ」と認識します。この認識を「識(ヴィジュニャーナ)」と呼びます。当然ですが、この「想」「識」は、「色」と全く同様に形成される筈はありません。ここには、記憶や知識などの「行(ぎょう)(サンスカーラ)」が影響します。
 例えば、貴女は昨日、「友人Rを見つけた!」と仰って、あろうことか私の手を離してまで、駅のホームで走り出しました。ですが其の男性が偶然にも振り向くと、実は全く知らない青年でしたね。この場合、謎の青年が「色」にあたります。そして貴女の脳内に生まれた「想」及び「識」は友人Rです。そして恐らく、「友人Rに会いたい」とかいう気持ちか何かが貴女の中に在って、それが貴女の認識を歪めた「行」だったのでしょう。
 仏教では、何かを見て想や識が生まれることを「名言(みょうごん)が生じる」と云うそうです。人間は、禅行の訓練をしない限りは、必ず名言が生じてしまい、更にあれこれ連想してしまい、悩みが生じることになります。したがって、「物を見ることは苦しみを生じる」と結論付けて差支え無いことになります。
 
  唯本棚の端っこの辞書から、かかる記載を見つけただけで、私はすっかり生きる希望を失ってしまいました。ですが、私の話には少々続きがあります。
 ……キッチンの戸棚に、貴女の好きな銘柄のワインを買っておきました。グラスに一杯分注いで、復たこの部屋に戻ってきてください。この遺書は、格別、集中して読むべき大層なものでもありませんから、口を潤しながら先へ進まれると宜しいでしょう。多少変わった味がするかもしれませんが、ワインが悪くなってしまっているのではありません。私から貴女への愛だと思って、気味悪く思わずにどうぞ気にせず召し上がってください。
   閑話休題(それはさておき)。
 人間が何かを見る時には、知識などの「行」が影響する、という話は致しましたね。この知識というのが、非常に厄介なのです。決して逃れ得ぬ、完全なる悪なのです。私の人生を破滅させた犯人なのです。
  知識を付ければ付ける程、人間は不幸になります。例えば、貴女が小学生の頃を思い出してみてください。或いは、貴女の家の近くに在る公園で、無邪気に遊ぶ子供たちを見てもよいでしょう。彼らは暗鬱な未来を考えることも無く、世界の不条理を嘆く必要も無い。実に明るく生きています。そして、見るもの聞くこと全てに感動し、彼らにとっては世界は完全に輝いて見えています。……ところがどうでしょう、今では我々は、将来を憂い、理不尽な世を恨み、余裕も無くあくせくと生きています。「大人になったからには一人で生きていかねばならぬ、其の為には万事己で考えねばならぬ」という理由も在りましょうが、決してそれだけではありません。憖(なまじ)知識があるために、世の中の綻びが数え切れないくらいに見えてしまっているからです。人の醜い感情も、誰が誰を本当に好いて、誰を密かに疎んでいるかということも、見たくもないものが全て、大人になるにつれて見えてきてしまうからです。
 又た、知識が有るが故に見えなくなってしまうものもあります。時々、貴女をお連れして美術館に行きますよね。其処で、私は特に日本画や仏像を好んで鑑賞しますが、最近はめっきり面白くなくなってしまいました。というのも、昔はただぼーっと眺めて、なんとなく「あ、いいなぁ」と沁々感じることが出来たのですが、鑑賞の為の知識を付けてしまったために、「構図が云々」「掘り具合が云々」などと考えてしまい、どうしても分析めいたことをしてしまうのです。細かな雰囲気、小さな違いが見えなくなり、頭でっかちに作品と向かい合ってしまう。不幸極まりないことです。
   しかも、知識というものは滅多なことでは小さくなってくれません(忘れることはあるかもしれませんが、大抵都合の悪い知識は脳に残ってしまうものです)。知ってしまったら忘れられない、不可逆な苦しみなのです。
  先週の金曜でしたか、雨が降ってしまった為にデートが延期になり、私の家で、何をするともなく一緒にぼーっと過ごした日がありましたね。あの夜のテレビ番組で、以下のような実験が在ったのを、貴女は覚えていらっしゃいますか?
 ……番組視聴者は、或る静止画を見せられます。この静止画は、実は徐々に或る部分が変わっているのです。壁紙の色だったり、人物の髪型だったり。それを見つけることができると、人間の脳に良い刺激が走り、脳が活性化される。又た、どうしても分からなくても、答えを聞いて再度「静止画」を眺めて変化を納得できれば、同等の刺激を得られる……。
 私は、確か1問目と3問目は分かったのですが、2問目だけは分からず、答えを見てしまいました。すると何のことは無い、「空を飛んでいた風船が消えていた」が正解でした。答えを知った後に「静止画」を見ると、確かに、風船が次第に透明になり、空が透けてゆき、消えてゆくのが分かりました。静止画は、いとも簡単に動画になってしまいました。
 丁度あの時、番組を録画していたので(詳しい理由は忘れましたが、確か、何処かの男性が殺害されたというニュースを録画しようとして失敗したのだと思います)、先程もう一度、件の「静止画」を見てみました。……どうしても、何処に注目してみても、風船が消えてゆくのがはっきり分かってしまい、「動画」にしか見えなくなっていました。山の稜線を凝視しても、遊ぶ子供たちの目を見つめてみても、風船の変化を私の脳は無視できませんでした。先週、あれほど変化が分からず悩んだ筈なのに、今日は寧ろ静止画に見えずに悩む羽目に陥ってしまいました。
  答えを知ってしまい、知らなかった頃に戻れなくなる。例に挙げた番組は、風船が消えようと消えまいと些細な問題ですが、嫌な思い出やトラウマも同様です。一度得てしまったものは、易々とは消えてくれません。知識は、脳や目にこびりついて、死ぬまで我々を苦しめ続けるのです。
  且つ、知識は麻薬です。知らないことがあると悔しく、それを知ろうと躍起になります。そして新しい知識を得ると、その周辺にも手を伸ばしてみたくなります。かくして知識欲には歯止めがかからず、投与量が増えてゆきます。
 知識を多く得ることで、知識同士のぶつかり合いも生じますね。或る観点からすればXは真なのに、別の或る観点からするとXは偽である、というように。屹度双方の主張を止揚(アウフヘーベン)した「真実の知識」が在る、と期待して、苦しみながらも更に知識を求めますが、それこそ奴らの思う壺なれ。幻想を求めて、底無し沼に沈むのを、奴らは嘲笑して見ているに違いありません。……いっそ、「食われて死ぬ」という結末が約束されている蟻地獄の方が、余程良心的ではありませんか。
   視覚は、人間が生きている中で得る情報の8割を担っている、と、何処かで聞きました。時と場合に依って割合は前後するようですが、視覚が知識の大部分を作り上げていると考えて宜しいかと思います。
 したがって、私はかく断言するのです。「見ること、見えることは、苦しみの元凶に他ならない」と。
  長々と書き過ぎました。そろそろ、貴女の手元のワイングラスも空になり、だいぶ酔われてきたことかと思いますので、このあたりで筆を置きます。ワインはきちんと飲み干していただけましたか?
 若し、私が申し上げた通りの手順で、貴女が一杯のワインをすっかり飲み切られたならば、次に貴女と私が何処かで再び見(まみ)えることができるのは、8月23日あたりになるでしょう。それまでは暫し、お別れです。
 ですが、私の肉体は今でも貴女と共に在ります。紙にして200枚程の隙間から、最早閉じることさえ能わぬ眼で、じっと貴女を見守っております。「同じ日に同じ場所で死のう」という約束を違(たが)えるつもりは、私には寸毫も無いのですから。……そうそう、どうでもよいことですが、仏教の辞典は、きちんと本棚に戻しておいてくださいね。決して目を逸らさず、確実に、元在った場所に、お願いします。
   ……おっと、これは失敬、私がこの世に絶望した理由をお伝えし忘れていましたね。尤も、貴女には屹度お心当たりがあろうかと思いますし、手紙末尾のこの文を読むまで貴女がまともな理性や視力を保ってらっしゃるか分かりませんが……。
 ヒントをひとつだけ差し上げましょう。……三日前の夜、仕事帰りの私は偶然、隣の駅の歓楽街で、私も未だ見たことの無いくらいに綺麗な貴女が「見えた」のです。「友人」に手を引かれながら建物から出ていらした、宵闇に満開に咲いた貴女を。
 草々
 2016.7.6 貴女の親友、却下
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minatomishiro · 5 years
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プロフィールめいたもの
ごく簡単に自己紹介。
 ①水門瀛白と謂います。「みなと・えいはく」 or「みなと・みしろ」と呼んでand読んでください。截然とした区別は有りませんが、自分の中では「漢詩を作る時はエイハク」「それ以外ではみしろ」という何となくの使い分けが存在します。尚、書く時は「海白」という簡易表記も可です。
②自分のことは「漢詩人」として認識しています。自己紹介するとしたら「漢詩を作るのが趣味です」と言うでしょう。
③Twitter( https://twitter.com/3710346EM )で漢詩を投稿しています。Tumblrを始めたのは「小説を投稿する時は流石に140字制限が足枷になる」と感じたからです。正しくは筆枷ですかね。
④上記のような言葉遊びが好きです。大学時代に和歌を一番勉強していたからでしょうか。しかも卒業論文のテーマが藤原定家ですから、そりゃあ言葉遊び好き人間に成長するのも必定というものです。
⑤好きな漢詩人は白楽天。好きな日本人は中島敦と夢野久作。本当はもっと挙げられますがキリが無いので、上の3人だけ書いておきます。
⑥PNが未だ「 水門瀛白 」じゃなく「却下」だった時に、文芸同人誌に小説を寄稿しました。概念を見つめ直す文芸同人誌『あみめでぃあ』第四号です。書簡体小説を通して「見る」「見える」という概念を分析しました。2016年初版のものなので入手困難ですが、ご希望が有ればデータをお見せします。……いっそ此処に投稿しましょうかね。
⑦基本的には厭世主義者、懐疑主義者です。��し恋をすると途端に浪漫チストに変貌します。
⑧先述の小説以外に、和歌、作詞もします。作曲や写真にも手を出したいと思っています。というのも、あらゆる角度や切り口から自分の見えている世界や見たい世界を表現したいからです。でも絵のセンスは壊滅的なので絵画工作はできませんandやる気も起きません。
⑨語学が好きだったり、物理学が好きだったり、哲学が好きだったり、古典中国語を細々研究していたりしますが、詳細は書かずにおきます。此処は飽く迄「創作の足跡を残す為のブログ」Nami Noteですから。要る時に逐次ちょこんと添えておきます。
⑩此処の名前「Nami Note」は「並ノート」と「波の音」の意を有しています。
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