Tumgik
noisesearch2022 · 2 years
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岩波書店「路上を子どもたちに返す」という虚妄
 岩波書店『世界』2022年2月号に「路上を子どもたちに返す」という記事が掲載されていた。端的に言えば、道路は自動車が通過する場所ではなく子どもたちが遊んだりする「広場」的な性質を持たせるべきという内容である。この手の「道路で子供たちを遊ばせろ」という主張は手を変え品を変え繰り返されてきている。この記事も「昔はよかった」的な保守層が好きなノスタルジー的言説と、ヨーロッパ諸国を持ち上げ日本を批判するリベラルが好きな言説が結合していたというのは興味深かったが、内容自体に新規性は特になかった。記事の内容に関しても首肯できるものではないし、因果と相関の区別の甘さや海外事例を雑に敷衍するなど首を傾げるような記述も多々あった。はっきり言ってコロナワクチンや米国大統領選に関する陰謀論と同レベルの有害無益な議論であるが、大手出版社の岩波書店がそういう記事を掲載したということは批判されてしかるべきだろうし、それを無邪気に肯定した記事を掲載した『朝日新聞』の見識も疑われる。
 さて、この記事の最大の問題点だが、道路遊びによる騒音被害に一切触れていないことである。インターネット上で道路遊びによる被害を告発する人が目立ちつつあるが、道路遊びによる被害として特に目立つのは騒音被害である。子供が遊ぶ中で大声を発し、それが自宅など生活空間に闖入することで、場合によっては心身症などの健康被害が引き起こされる。もちろん子供が大声を出せる空間は必要かもしれないが、一方でそういう音が健康被害などを誘発しないよう、音の生活空間への闖入を避けるよう配慮しなければならない。例えば保育園や公園など「子供が遊ぶことが前提となっている場所」においては、行政や事業者などが近隣の住宅などに届く音の量を減らすよう施設運営や設計を行う必要がある。
 一方、道路は本来車両や人が往来することを前提として形作られた空間である。幹線道路ならまだしも、住宅街の生活道路においては音の生活空間の闖入を避けるような工夫はなされていない。それは生活道路においては人や車の往来は短時間で終わるため、幹線道路と比べて道路から発せられる音が少ないということも考えられる。そこでは長時間反復して続く音の抑制については一切考慮されていない。子供が遊ぶことで発生する音は短時間で終わるわけではなく、比較的長時間続き、しかもそれが反復して続くが、住宅街の道路ではそういう音を抑制するための設備がないため、生活空間に音が闖入することによる被害が発生すると考えられる。
 こういう議論をすると「子供の発する音が騒音なのは心が狭い」という主張をする人が出てくるが、少なくとも環境基準を超過した音は人間の心身を痛めつけるという点においてある種の暴力である。戦闘機が発する音だろうが子どものはしゃぎ声だろうが、環境基準を超えた時点でそれは暴力になる。人がどのような音に耐えられ、どのような音に耐えられないかについては千差万別であるが、環境基準はそういった問題を客観的に把握・解決するためのものさしである。「子供の声が騒音ではない」と主張する人の主観では、子供の声は不快ではないのだろう。一方で子供の声が苦手な人も存在している。そういう人同士で発生した軋轢を解消するために環境基準がある。確かにすべての音は暴力的側面を持つが、音を一切出さないということはほぼ不可能である。環境基準を超えない範囲の音は受忍する必要があるが、一方でそれを超過した音に対しては人に与える害が大きいため暴力と同等に扱う必要があるといった、ある種の切り分けが必要となる。保育園から環境基準を超過する騒音が漏えいしていた事例から判断すると、道路遊びにおいても子供の声が環境基準を超過することも発生する可能性は高い。
 こういった騒音被害者をバッシングする議論が出てくる背景には、音が暴力であるという認識の薄さがあると考えられる。数年前、石破茂が「デモはテロ」と発言し物議をかもした。むろんデモの形態は複雑に分化しており、すべてのデモをテロと扱うことは雑駁に過ぎる。一方で「サウンドデモ」とよばれる、大きな音を出して相手を脅すデモに関しては、大きな音という暴力を用い政治的主張を通そうとするという点においてテロの定義を満たす。したがって「デモはテロ」という言説は粗雑だが、デモ行為がテロの要件を満たすことがあるという点においては「あたらずと雖も遠からず」といったところである。この発言に対しては、特にリベラル派からの非難が集中したが、果たしてその中に音の暴力性に自覚的だった人がどれだけいるのか疑問である。ほかにも灯油の移動販売や廃品回収車など拡声器を用いた商売が規制されることなく野放しにされているどころか、それを擁護する人が多いということも実例としてあげられる。そういう音に対し「寛容になれ」という主張もあるが、暴力に寛容になるというのは倒錯でしかないし、そういう優しいようで実は無責任な議論に対しては眉に唾を付ける必要がある。どの音が暴力かに関しては、環境基準を用い判断するしかないし、当然子供の声も暴力になりうる。
 環境基準を超過した子供の声が道路遊びで発生し、それが周辺住民に被害を与えるという観点に触れることなく、無邪気に道路遊びの正当性を訴える人は、結局暴力に無頓着なだけである。そういう無頓着さに目も向けない議論に正当性があるかどうかは大きな疑問である。音は暴力であるということは一人一人が常に意識しなければならない。
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