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real-sail · 1 month
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果たしてわたしが送ってきたのは「挫折のない人生」だったのか
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人より少し長くかかった学生時代を終えようとしている。しかし文系博士課程としては長くも短くもない平凡な修業年数だと思う。幼い頃より「20代いっぱいは好きなだけ勉強に費やしたらいい」と言ってくれる両親の存在があり、自分の人生に博士課程進学という選択肢が浮かんだときもわたしの中では特に違和感も驚きもなかった。
これがどれだけ特権性を孕んだ考えであろう。博士課程に駒を進めるまで「学問の自由を阻まれること」がなかったのだ。わたしは地方公立中学校から国立大附属高校(藝大附属音楽高校・以下藝高)、第一志望単願で国立である東京藝術大学(国立大附属高校にはエスカレーター進学がない)、そしてロンドン大学(英国王立音楽院)の修士に博士とストレートで来た。人はこれを「挫折のない人生」と呼ぶ。
でもそう言われるたび、わたしは内心思う。果たしてわたしが送ってきたのは「挫折のない人生」だったのか?
――
「真帆ちゃんの初めての挫折だね」
藝大の大学院入試に落ちたとき、家族にそう言われた。わたしはそれは違うと思った。発表された数字の群れの中に自分の番号がないことは、コンクールで経験があった。この気持ちの因子は知っている、サイズが違うだけで。
世間一般を見渡せば、大学院入試に失敗するなんて話は珍しいことではないし、それは「就活がうまくいかなくて」というのと同じ程度の温度で受け止められる話題だと思う。ところがこと藝大生の院入試に関しては、その合否がまるで(キャリアの)生死を分かつかのような悲壮感を持って語られている。藝大生って、ひとつの本番に悲痛なほど「何かを懸けて」いることがある。最近は「これってヘルシーじゃないな」と思うが、当時はわたしも例に漏れず、落ちた時にはこの世の終わりのような気分になった。でも先述の通り、それ以前にも「この世の終わり」ごっこは経験しているので、院試の結果だけがことさら特別に腫れもの扱いされるのは不思議に思った。
幼い頃よりヴァイオリンに勤しんだわたしは、小学生のうちから「藝高合格」を目標としていた。中学生になると生活のほとんど全てを藝高受験のために懸けた。それだけの情熱と労力をかけた目標が報われたとき、わたしはぼんやりと考えた。次の目標がいるな、と。
目下のミッションとして3年後の藝大受験はあれど、もっと未来を見据えた目標が必要だと思った。そんな折、藝高に教育実習生がやってくる。藝高卒業生でもある大学4年生の先輩たちの中には、大学院進学をすると言う人がいた。なるほど音大にも大学院があるのか。もし演奏家として論文を書くことができたらどんなにおもしろいだろうと思った。
その後の高校・大学時代の演奏家としての業績は決して華々しいものではなく、どちらかといえば苦い記憶も多い。学校から駅までの上野公園の道のりで何度も唇を噛み続けた。コンクールやオーディションは落ちたもののほうが当然多い。学業成績は皮肉なほど良かったが実技の成績がトップに躍り出ることはない。それでも専攻の勉強にフルコミットできる環境を楽しむ気持ちもあり、この年月でたくさんの挫折と努力と学ぶ喜びを重ねながら目一杯のことを経験して、わたしは藝大4年生になる春から修士課程を目指して大学院入試の準備を始めた。
とはいえ、このときわたしは大学院で研究したいテーマがまだなかった。しかし入試では面接がないのでそこを問われる機会はない。反対にこの有り余る研究へのモチベーションを伝える術もなく、実技試験の出来次第である。かつては学年の一部の人しか出願しなかった大学院入試、気がついたら半数以上の人が受けるようになっていて、自分の学年のときも結局たくさんの人が受験した。そしてわたしは落ちた。青天の霹靂だった気もするし、あるあたりから覚悟していた気もする。
わたしの頃は、多数の人が受験するわりに、その意思を公言するのが憚られた。ほとんど受けるということは必ず誰かが落ちるからだ。最近は受験することを公表したり、落ちたことをもSNSで明かす人がいて、隔世の感がある。でも今考えると隠す必要も特になかったと思う。ただわたしにとって「大学院に落ちた」ことは、長いこと表で言えないほど深い深い傷だった。数年の間は、誰かの「院試受かった」の文言にズキズキさせられた。
誰より早くから大学院を志していたのに。「院生はティーチングアシスタントも求められるから仕事ができる人が有利」なんて言い出したの、誰? その噂ゆえに、はらだの合格は堅いだろうと目されていたのに。逆に初めからわたしは落ちると踏んで、顔を合わせればわたしの自信を奪うようなことを言う大人もいた。そういった大人の中には、わたしを指導する立場にある人もいた。あいつは絶対受かると言われることも、あんたは絶対落ちると言われ続けることも、どちらもわたしを強く揺さぶった。院試準備期間は、なんだか周囲の言うことに対して過敏になっていた気がする。わたしにとって院試が深いトラウマであるのは、受験に落ちたこと自体よりも、受験の前後の周囲の反応に振り回されてしまったことが影響しているように思う。
実を言うと、「自信」に自信がなかったわたしは院試に備えてありとあらゆる対策を講じ、人生の中で一番心穏やかに、冷静に演奏することができたのが院試の当日だった。あの日のベートーヴェンの協奏曲は、自分のベートーヴェン史上一番良い演奏をしたと思った。もっと言えば、バッハを弾いている最中に指がもつれた。でも全体的には形をまとめたので、あの日あれ以上の演奏をするのは無理だった。だから院試本体には“気が済んだ”という感覚がある。審査する立場を想像すればそのミス1点を理由に落とすことはないと思うので総合的に力不足だったと見るのが自然だが、審査の仕組み上演奏に点数をつけるため、ただでさえ僅差の戦いの中で数字化したときにそのミスが尾を引いた可能性はあったと思う。
落ちたとわかってからは不思議と開放感もあって、環境を変える理由ができたと思った。そこにしがみつくように受験したくせに、不思議な話である。いや、可能な限りこの学府にしがみつくことが「正解」だと思っていたわたしは、「正解を外れる理由」を不合格でしか自分に用意できなかった。それほどがんじがらめになっていた。
院試の結果を受けて、家族から何度目かわからない「音楽なんて辞めれば」を喰らっ���。今までにも聞かされた、それまでの人生ごと否定されるような感覚になるその言葉は、21歳で聞くと10代の頃よりも重く響くようでもあったし、藝大生に向かってよくも言えるなと思う冷静な自分もいた。後者の自分がうまく立ち回って、結局留学の可能性を探ることになった。結果的に家族は留学に関して全面サポートをしてくれたわけで、どえらい恵まれた環境なのだが、わたしは常に才能を期待されているプレッシャーがあった。言うなれば「わたしの初めての挫折」というよりは、受験において「初めて”親が期待する結果”に届かなかった」のが院試だった。
その後の学部最後の学期のいろいろなイベントは、留学先の受験やその後の渡航準備と常に並行していた。卒業試験はもはや捨て身の感もあって気負わずに弾いたら、成績上位者として受賞できることになった。このときの録音を使っていろいろな奨学金に応募したがことごとく落ちた。本当にことごとく落ちた。藝大で成績上位になった演奏なのに! やっぱり学年一位レベルじゃない自分はダメなんだ! またはそもそも応募できないものも多数あって、それらは「留学時に日本の学校に学籍があること」という条件があった。学部を終えたら、わたしは日本国内に所属がない。こうした場面で院試落ちというスティグマが疼いた。このスティグマから逃れるのは実に困難で、誰に言われたわけでもないのに、人前に立てば「どうせわたしは院試落ち」という意識がついて回る状態が何年も続いた。
結局、そのスティグマが本当の意味で気にならなくなったのは、わたしの場合は博士課程に進学してからだった。クラシック音楽におけるジェンダー論というテーマを見つけて論文を書くと決心してみると、研究や論文を成り立たせるには適切な環境と指導教官が必要であるとわかる。もしあのとき藝大の修士に進学できていたら、そのときは嬉しかっただろうが、このテーマを勉強する機会はなかっただろう。
わたしの視点から見ると、この道のりに「挫折がない」と言われることは耐え難いが、絶望の深度がまだ浅いと言われたら何も返せない。多かれ少なかれ、音楽家だったら、留学生だったら、大学院を出た人だったら似たような苦労はしているだろうし、そもそもこの苦労に遭遇することすら特権階級的であることは否めない。全てのことは、わたしが“ヴァイオリンを弾ける環境になかったら”起こっていないことだ。だからといって、苦労が美徳とも思わない。
なぜこんなことをブログにしたためているのかと言うと、あの頃の「院試に落ちて絶望しているわたし」を励ますためだ。今はまだ胸が痛んで仕方ないだろうけれど、あなたは博士号取るよ、しかも英語で。演奏家として論文を書く環境としては、かなり良いところに身を置ける。観光レベルの語学力からスタートして必死に英語を勉強して、ヴァイオリンももっとうまくなって、ジェンダースタディーという学問に出会って、いろいろなことができるようになる。別に論文やら語学力やら目ぼしい成果がなかろうが、院試の結果でそのように思い悩む必要はないけれど、あなたのその胸の傷は未来でちゃんと癒えるからね。
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real-sail · 3 months
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年始の野望2024
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「年始の野望」と称して、「その年に達成したいこと」を新年に投稿したり、しなかったりしています。
「今年の野望」は文字通り、その1年に成し遂げたいことを書いてきましたが、試しに今年も書いてみるかと思ってPCに向かって構えたものの、つい「今年のうちに叶いそうな範囲」に収めてしまって、書き上がったものが、まあおもしろみがない。
この機会に過去の野望を見返してみると、「何年も前に書いたこと」が「忘れた頃に叶っていた」、そして「そのことにあとから気づいた」パターンが思いがけずいくつかあるな、と思いました。
だったら、突拍子がなくたって、何かわくわくすることを書いたほうがいいやと開き直りました。「今年掲げる」野望だから、今年中に叶わなくったっていいさ。
これを踏まえて、野望2024いきます。
野望2024篇
学会発表とジャーナル投稿 ▷これは応募することに関しては自分で努力できる部分が大きいので数打ってがんばる。採用されるかどうかは知らん。
フルリサイタルを日本とイギリスで ▷論文とか体調不良とかあって2023は全然ソロの本番はできずに録音メインだったから、今年は対面で生身のお客さんに会いたい。がっつりヴァイオリン・ソナタをいきたい気分だな〜! エイミー・ビーチは押さえておかなきゃって思うし、あとイモーゲン・ホルストめっちゃ気になってる、音源すら出会ってないので、譜面にお目見えしてみたい。
コミュニティをつくりたい ▷クラシック音楽のジェンダースタディについて、前向きに学べる場がほしいなってずっと思っているのだけど、なんか待ってないで自分から場所作んないとなーって思い始めた最近。カジュアルな定期ミーティングを持ちつつ、ちょっとした講座や演奏会なんかもできたらいいなって思う。  理想は「放課後に家の玄関に荷物放り投げてから駆け込むくもん教室」くらいの気軽さで入れるコミュニティ。教室によると思うけど、わたしが行っていたところは入退室の時間が自由で、好きな場所に座って好きな分量だけ教材解いて、先生とおしゃべりして。教室の蔵書を手に取って親御さんの迎えを待っている子とかが寝っ転がってたりしてね。「ここに居て良い」って保証があることの圧倒的安心感があった。  いきなり物理の場所は難しいだろうけど、まずはオンラインから、そんな「安心して勉強してくつろげる」場所を作りたいな。もしキッチンとオーブンがあればスコーンを焼くんだがな。
生き方のメリハリを ▷休むことが下手。休み方が下手だから、休んでも疲れが取りきれなくて中途半端な感じがする。「だらだらする休日」みたいなものに圧倒的罪悪感があるせいで、それが人付き合いにも悪影響な気がする。ていうかスリルがないと生きられないタチなんだと気づいた。これまでの人生、ずっと高い目標を見上げて生きてきたから、挑戦するものがわからなくなったときに生きがいがわからなくなりそう。それはちょっとマチズモみがあるし、少しずつシフトチェンジしないと長い人生もたないよ。
「ぽんこつ」を思い出したい ▷いや普段からぽんこつなんだけど。なんか「下手だけど楽しいな」って習い事に通ったことがなくて。習いに行くならガチになっちゃうっていうか、下手だからやめよってなっちゃうっていうか。それってある意味「できない自分を受容していない」気がしたんだよね。ちょっとそういう経験してみてもいいかもなって思った。なんだろうね、自分が圧倒的に下手なものと言えば運動全般なんだけど…苦手を克服ってよりは「ゆるく楽しい」って状態を経験してみたいな。
今年はこんな感じかな。もしこの記事を読んだ方で一緒に何かおもしろいことを協働できそうって方がいらしたらぜひご連絡ください。
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real-sail · 4 months
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メアリー・ポピンズになれない
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なぜか忘れられない感覚のひとつに、ある冬の日の光景がある。ロンドンの閑静な住宅街の真ん中で、とっくに日が暮れてしまい、まばらな街灯と、吹き荒ぶ冬の風の中で佇んでいる記憶。その日、その前後に何があったかは覚えていない。でもその街に住っている人のお宅に、家庭教師としてヴァイオリンを教えに行っていたこと、そのお宅と契約したときにレッスン代を値切られたこと、そしてほんの数回だけ通ったあとに、より安く済むよそのグループレッスンに切り替えると宣告されたことは記憶している。
あの頃はわたしもまだ不慣れだった。そのお宅とはただただ前提がすれ違っていた気がする。経験の浅いわたしは、風邪で休まれたときの対応がわからなかった。レッスンは都度約束するものだと思っていたし、いつ治るかわからないので、レッスンを休みますとだけ言われた段階で翌週は保証しないものだと思っていた。でも相手からすれば、毎週何曜日で頼んでいるのだから、言わなくてもその曜日その時間はうちのために確保されているもんだ、と思っていたのだろう。結果として、当日になって「今日はレッスンお願いします」と言われて、すでにほかの予定を入れてしまっていたわたしは対応できずに、レッスンが1回分、宙に浮いた。
その後いろいろなケースを経験した中で、人によって前提が大きく違うことを痛いほど思い知った。雇っているのは生徒側だから、講師はリクエスト通りにサービス提供しろ、という圧を感じることもあった。ヴァイオリンの優先順位がひたすら低くて、何かあると当日でもあっさりキャンセルされたこともある。自分が育った環境では、先生の言うことが絶対で、先生の予定が最優先で、生徒側がキャンセルするのはインフルエンザくらいよほどのことがないと起こり得なかった。まさに『ベルサイユのばら』のオスカルが貧しいロザリーの家で当然のこととして食前のショコラを求めたことに似て、わたしは「先生」になれば当たり前に尊重されるもんだ、とどこかで思っていたのかもしれない。
そうした「貴族」の感覚は捨てるべきなんだろうと理解した一方、あまりに軽んじられるのは困る。当日になってまで無理な時間変更を要求されると、ほかの仕事に支障をきたす。レッスンをキャンセルされると、見込んでいた収入がまるっと飛ぶ。このあたりは、サラリー、すなわち月収で生きている人と歩合で生きている人との間に感覚の違いがありそうだ。ある程度のところで線を引いて、ここまではできる・できないを自分のなかで明確にしておかないと、自他境界が曖昧になって、消耗してしまう。
もうひとつの大きな感覚のギャップに、レッスン中のコミュニケーションがある。わたしの生徒は「言い訳」をすることに遠慮がない。英国流の日常会話を踏まえると「言い訳」は会話の潤滑油なのだが、「これをやってみて」と言ったときに、あからさまに嫌な顔をする者も、「できない」とはっきり言ってくる者もいる。わたしたちが生徒だった頃は、先生に対して「口ごたえ」をしようもんなら、親が血相を変えてすっ飛んできた。イギリスだって恐らくそうだった。でもそれは、時代背景も、またわたしたちが専門家を目指していたという背景も多分に影響する。余暇の楽しみとして、または知育のひとつとしてヴァイオリンに取り組む人に「言い訳するな」は酷である。
事実「言い訳」には指導のヒントが隠れていることが多いので、生徒のレベルを問わず、その口を封じるよりもどんどん引き出して「できない理由」探しに役立てたほうが有益だ。されども、これも講師の心身の余裕によっては受け止めきれないことがある。前の予定を何とか終えてギリギリで生徒宅にたどり着いた先で、一生懸命工夫を凝らして指導をした上で、もし「えーやりたくない」と一言言われたら、心も折れるのである。しかし、レッスン以外の場で講師の身に起こったことを、生徒が知る由もないし、考慮する筋合いもない。ただただ、こちらの都合に過ぎないのだ。
もうひとつの忘れられない景色は2月の終わりのターミナル駅のバス停。夕方の5時ごろで、前の週まで真っ暗だった空が、その日はまだ紫色だった。変わらず寒くはあったが、春に向かう一筋の希望が感じられた。そのバスは電車が好きな5歳さんのもとに向かう路線だった。初めは心を開いてもらえずにコミュニケーションに苦慮したけれど、「電車が好き」というわたしとの共通項が見つかってからは、たくさん話してくれるようになった。いろいろな都合があって、レッスンに通った時間は長くなかったし、わたしが弾けるようにしてあげられた曲は多くなかった。だから自分のやり方が正解だったのかどうかはわからないが、でも「良い音が出たね」と声をかけたときに、こちらを振り向いて見せてくれた笑顔が強く記憶に残っている。
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real-sail · 9 months
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日曜日午後2時、電波越しの達郎
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山下達郎がずっと嫌いで、好きだった。山下達郎(以下、達郎)は両親が好きな歌手で、わたしの理解では、あまり好みがオーバーラップしない両親ふたりにとっては珍しく共通の趣味のひとつとして楽しめるのが達郎の歌だった。それでも片方が好きで片方が嫌いな歌も存在するので、家族でのドライブのときにかけられるナンバーはかなり限られる。ゆえにわたしは「達郎のいろいろな曲を知っている」というよりは��「いくつかの限られた曲を聴き込んでいる」という嗜み方だ。でもそうしたわけで、幼い頃から達郎の歌声には親しんでいた、もうそれは否応なく。
嫌いだった理由はふたつある。ひとつに、その継ぎ目のないシームレスな声が、幼いわたしにはサイレンを彷彿とさせて怖かったのだ。そもそも町の防災サイレンが苦手な子どもで、火災予防週間になると余分に多く鳴るサイレンに耳を塞いで布団に潜り込んでいたくらい、わたしは「ぬるっと迫り来る音」が怖かった。すなわち達郎の歌声の繋ぎ目のなさは、わたしにとって人間離れしているもののように感じられた。それはすごい声を持っているからだということはのちに理解した。
もうひとつの理由は、両親が好きなものだから、同じものを好きになるまいとするある種の生存本能だと思う。エビデンスなしに書くけれど、ほら、自分と遠いDNAの人を人間は嗅ぎ分けられる、なんて言うじゃない。あれみたいなことだと思うのだが、子供の頃のわたしには両親が好きなものをたまにあえて避けたくなる機能が働くことがあった。
でも大人になってみると、達郎の歌はあまりにもわたしの耳にこびりついていることに気づく。何より、達郎の音楽をかけたり、達郎の日曜のラジオを聞きながら家族でドライブに行く図は、のちのち楽しい思い出として脳裏で再生された。一方で、自分の周りでは達郎を同じ濃度で聞いている友人がいなかった。高校、大学、または大学院での友人の中には自分たちの親世代に人気の歌手を好んで聞く人が何人かいて、それぞれの人が別の歌手のコアなファンだった。それにやや憧れて、わたしは達郎の曲が好きで聞くよ、なんてアイデンティティのように言うこともあった。
実際アイデンティティのひとつではある。両親はわたしの名前のインスピレーションを達郎の曲から得たらしい。国際ヨットレースのために書かれた曲を聞いて、帆を張ってさわやかな風を受けて海を進むヨットの図を思い浮かべたところから真帆という単語(何を隠そうこれは名前以前に船のとある状態を示す名詞なのである)に行き着いたと聞いている。
そう知って実際の曲『Blow』をCDプレイヤーでかけてひとりで視聴したときに、わたしは曲の渋さにびっくりしてしまった。それまでも耳に��ていたがタイトルと中身が一致していなかった。この曲のことだったのか。『ドーナツ・ソング』のようなポップなほうをイメージしていたら、どちらかというと湿度が高いほうの曲。メジャーではなくマイナー。クラシックで言うところのレチタティーヴォのような感じ、というのは、まるで言葉を話すように歌われる曲で、文章にちょっと抑揚を強めに付けたら結果的に音程がついた旋律に聞こえる、そういう作りの曲だ。達郎の声のシームレスっぷりが遺憾無く発揮される。
そのときすでにヴァイオリンを弾いていたわたし、すなわち器楽奏者のわたしにとっては、レチは掴みづらくて苦手だった。もっとリズムがはっきりしていてほしかった。聴音能力もまだ未熟で、あまりに言葉然としている旋律は、絶対音感がありながら音高がわからなくなるくらいだった。器楽の人間ゆえに、今もそうだが、歌詞を聞き取る能力が弱い。言葉を単語としてではなく音として捉えてしまうので、言葉の存在感が強いと、わたしの耳はバグを起こしてしまうのだ。その曲はそれ以前から何度も聞いていたにも関わらず、わたしは達郎が何を言っているのかひとつもわからないでいた。
実際には普通に4拍子だし音高も楽譜にきっちり起こせるほうの曲だが、当時のわたしは、自分の知っている拍子と音高に明瞭に当てはまらない旋律にいらいらした。でも、両親はこの曲に良い印象を抱いたからこそ、大切な曲として聞き続けているのだと思うと、その愛を受け止めたかった。そしてわたしはヴァイオリンのお稽古の中で経験していた ― 第一印象で好きになれない曲も、根気強く付き合うと好きになれることがある、という現象を。きっとこの曲の良さがわからないのはわたしがまだ幼いからだろう、この良さがわかるまで何度も咀嚼していこう、とわたしは思ったのだった。
しかし達郎の歌の歌詞が聞き取りにくいというのは、一種の共通認識らしい。達郎のラジオ『サンデーソングブック』の中で忘れ難いエピソードがある。ある日のリスナーからのお便りで、「『LOVE GOES ON(その瞳は女神)』の歌詞の一部が空耳でどうしても『あけみ』に聞こえるけれど、それだと脈絡がないので絶対に違うはず、なんと言っているのですか」というものがあった。結局本来の歌詞は「アルケミー」のはずなのに「あけみ」という名前のように聞こえて仕方ないというオチだったはずだ。ちょうど、ひとりの女性への想いを歌い上げる曲なので、その女性が「あけみ」だという想像まで伴うところに可笑しさがあった。
このお便りを読み上げた達郎は、おもしろがっている様子だったが、答えを絶対に言わなかった。しつこくらい何度も「正解は歌詞カードを見てください」を繰り返して、答えを言わない達郎を、小学生のわたしは「意地悪な人だなあ」と思った。確かに、当時は音楽を聴くと言ったら必ずCDを買っていたはずだから、歌詞カードはそこにある。よほどお便りを出すより簡単に歌詞はわかっただろう。リスナーの人はそれでもお便りを出す手間をかけたのは、達郎との交流がほしかったわけで。ただ達郎のラジオを聞いてお便りするような人なら、そうした「意地悪さ」も嬉しがったかもしれない。そもそも、お便りが取り上げられただけでクジを当てたようなものだもんな。
でもわたしは、答えをその場で発表したほうがみんな楽しめるのに、と思った。わたしはそのあと曲がかかるまで該当箇所が思い浮かばなかったので、お便りへのコメントを聞いている間、すごくフラストレーションが溜まった。でも達郎流に言うなら、それで思い浮かばない人にまで親切にする義理はないのだろう。そういう人に“僕の音楽は必要ない”のかもしれない。
ちなみにその後しばらく空耳に関するお便りがいくつか続いた記憶がある。リスナーたちは「実は聞き取れない歌詞あるよね」と共感したのだろう。達郎はやっぱり、歌詞カードを見ろとしか言わなかった。ちなみにわたしは「高気圧ガール」をいつも「高気圧ケロロン」と空耳する。
嫌いだったはずなのに、すでにここまでで2500字以上も達郎の思い出を語っている。掘ればまだ出てくる。『新・東京ラプソディー』に準えて、母からはわたしに対して、自転車は国道246号線でしか乗らないでほしい、しかもおしゃれな緑色の自転車で、というかなり限定的なリクエストがあった話とか、中学時代の担任の先生が『クリスマス・イブ』を授業中に歌い出した時に、わたしはその曲の先の展開を知っているがゆえに「oh~yeah」という素人が真似をすると事故になりそうな部分で先生がどうするのか先回りして心配になってしまう話とか(先生は達郎風をやりきって教室は静まり返った)。それだけ達郎の歌はわたしに染み付いている。
そうして音楽が染み付いていることで、音楽を作った人の思想も無意識のうちにインストールしているのではないかという気がしてきて、恐ろしくなってしまったのが、先日のあの『サンデーソングブック』の発言だった。名前にもまとった達郎の影に、わたしは恐れ慄いた。もし両親が達郎のことを擁護したら、わたしは両親に絶望してしまうとも思ったし、もし両親が達郎の発言を知らないとしたら、知らないままでいるほうが家族の幸せかもしれないとも考えた。でも ― その数日後に両親と顔を合わせたときに、両親のほうから言及があった。達郎の件の発言にものすごくがっかりして、冷めてしまったこと。これまで何十年も楽しんできた時間を、台無しにされた気分になったこと。実際のラジオを聞いて、その語り口にもがっかりさせられたこと。
わたしは考えた。確かに真帆という名前のインスピレーションは達郎の歌から得たものだった。でもその歌の歌詞には全く出てこない言葉で、それは両親が見つけてあつらえてくれたものだ。こうして一緒に達郎にがっかりしたと言える両親が選んでくれたものであり、何より、ここまでおおよそ30年は、わたし自身がこの名前に自分の生き様を刻みつけてきた。この名前が司る人格は、誰のものでもない、わたしが形作ったものだ。むしろ達郎なんかに影響されて、この大好きな名前に残念なイメージを持たせられて堪るか、とも思った。
思い出は色褪せた。そこに流れる達郎の曲を、わたしたちは今は楽しめない。でもそこにあった家族の団らんまで色褪せさせて堪るもんか。わたしはこれからも思い出を大事に抱えていく。でも、そこにあった音楽を愛せなくなる出来事があったことも、忘れない。
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real-sail · 1 year
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心に刺さるものが名物とは限らないよね
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先月、初めてベルリンに行ったんですけれど。それはそれ、今日は旅の余談のほうを綴りたく。
個人的にドイツ圏自体10年ぶり。6年以上もイギリスに住んでいながら、ドイツには降り立ったこともなかった。毎度、フランクフルト空港のトランジットばかり。
10年前と言うのも、オーストリアはザルツブルクに行くためにフランクフルトでトランジットしただけなのだが、ザルツブルクへの便を待ちながらフランクフルト空港で食べたサンドイッチのおいしさが心に刺さった。
それは、穀物がごろごろと入った硬めのパンで、バジルとトマトとモツァレラを挟んだもの。日本のサンドイッチからするとかなりずっしりとしていた。
ザルツブルク滞在中も、近所のスーパーで購入したサンドイッチのパンが図らずもよく似て感じられて、2週間の滞在の間に惜しむように何度も食べた。
日本へ帰る道すがら、再びのフランクフルト空港で搭乗前にダメ押しで買って機内で食べた。
なんなら、ザルツブルクのスーパーでいくつかパンを買ってスーツケースに忍ばせて、日本で家族と一緒に食べたのが、本当に最後のダメ押しだった。
そして2012年のそれ以来のことだったのである、このサンドイッチとの邂逅が。もう2023年だよ。
あれよりあとに、フランクフルト空港を経由したことは、2017年と2019年と2度あった、そのときだってサンドイッチを狙っていたのだ、ワクワクしていたのだ、でもあろうことか、到着便の遅延やら、ターミナル移動用のトラムの緊急停止やら、時間の余裕を失って買い損ねたのだ、2度とも。
2023年の旅は、初めてちゃんとドイツに降り立ったわけだけれども、ぼんやりと「あのパンが食べられるかな」と想像はしていたが、ほかに達成したいことに紛れて帰るそのときまでにパンのことを考えるのを忘れてしまっていた。
しかしベルリン=ブランデンブルク空港でチェックインを済ませて帰りの便を待っていたそのときに見つけたのだ、カフェで売られている、ドイツパンのサンドイッチ! ちゃんと、トマトとモツァレラとバジルだ。
イギリス便ゆえEU外への渡航なので、パスポートコントロールを通らねばならず、空港での買い物は慎重を期した。パスポートコントロール以前と以後、どちらにどれだけの店舗があるか、初めての空港ではわからなかったからだ。パスポートコントロールは一度越えたらもう戻れない。
サンドイッチのようなデリケートなものは運搬に苦慮するので、できれば搭乗口付近で座って落ち着いて食べたい。しかしパスポートコントロール後にこのサンドイッチが売られている場所があるかわからない。ここで食べて行っても良いが、知らない空港なのでできれば飲食はパスポートコントロールを済ませてから、時間の計算ができる状態になってからのほうが心が穏やかだ。
悩んだ結果、これまでの経験の中で「あああそこが購入のラストチャンスだった!」と空港で後悔したことは何度かあるので、サンドイッチはその場で買って、それを大事に抱いてパスポートコントロールを通ることにした。パスポート出すときに手元がゴタゴタするの嫌なんだけど、背に腹はかえられない。
結局それが正解だった。ブランデンブルク空港が新しいゆえに、パスポートコントロールのあとはまだほとんど店舗が整っていない、絶賛工事中だったのだ。何なら唯一水を売っていた店が、わたしがふらふらと歩いている間に閉まったのでゾッとした。水を買い損ねた。サンドイッチと一緒に水も買うべきだった。
しかし手にはサンドイッチがある。わたしは慎重に食べ始めた。水がないので喉に詰まらせないように、少しずつ。香ばしいパン、ああこれだ。どうしてここまでこのサンドイッチを食べることを忘れていたのか? 最後に食べられて良かった。硬いパンをしみじみと噛み締めた。
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2012年の旅はわたしにとってはじめての海外、ヨーロッパだった。あの旅で印象深い味は、そのサンドイッチと、ザルツブルクの朝ご飯にしていたミューズリ、そしてザルツブルクの前に梯子したイギリスで食べた本物のフルイングリッシュブレックファースト。
幸い、今はイギリスに住んでいるので、イングリッシュブレックファーストの好きな具材を好きなだけ、いつでも食べられる。だからこそ、サンドイッチとミューズリは非常に懐かしく感じられた。
そう、すなわちミューズリも買って帰ってきたのよ。
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ドイツの名物と言ったら、やれカリーヴルストとか、プレッツェルとか、そういったものがメジャーであろうが、わたしにとってはどうしてもミューズリだったし、どうしてもサンドイッチだった。
でもカリーヴルストも食べたよ。ソーセージ好きなので、ついに食べることができて良かった。
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そして今回の旅で新たに記憶に刻まれた味は、友人が教えてくれたエクレア。
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東京でもロンドンでも、こんなエクレアは食べたことがない。忘れ難いおいしさであった。次のベルリンチャンスでも必ずや詣でたい味だ。
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real-sail · 1 year
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「おけいこニスト」第一世代として
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ちょっと書いておこうと思ったのですがね。
93年生まれのわたくし、ちょうど学校教育にパソコンが導入されるのをこの目で見ていた世代でして、小学校低学年のときにわたしの学校にパソコン室ができて、ときおりパソコン室で授業をするコマが設けられました。2年生のときにはふたりで1台、3年生になるとひとり1台のデスクトップを使っておりました。
家庭用パソコンというのが一般家庭に普及し始めたのも同時期かと思いまして、98年に初代iMacを迎え入れた我が家というのは、「おうちのパソコン」の導入が早いほうだったと思うのですが、何が世にパソコンを広めたって、 Windows 95, 98 あたりですよね。
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それで、今日書きたいのは、90年代生まれの音楽家にとっての、「ネットの書き込み」についてなんですけれど。このあたりの感覚は、先輩方の感覚とは少しギャップがあるような気がして、わたしたちの世代特有のものがあるかもしれないと思い、ブログに書いてみました。
そのためには少し、子ども時代のインターネットの関わりから振り返る必要があります。
インターネットがどんどん普及する中で育ったわたしたちは、小学校の中学年高学年あたりから、「掲示板」というものに注意するように、と全校集会や学級通信で言われるようになりました。インターネットで知らない人と話すのは良くないことです、なんて言葉と共にね。早い人だと4年生あたりでケータイを持っていました。時代ですから、折りたたみのアレです。
その頃になると「学校裏サイト」というものが現れて、どんな町の小さな学校でも、学校名で検索すれば見つかると言われておりました。全国的にそれは問題となっていて、裏サイトで悪口を言われていじめがエスカレートするなんていう事例も珍しくありませんでした。確か、わたしがちょうど6年生のときに放送された、小学6年生の教室が舞台になっていた連続ドラマ『女王の教室』でも、そんなシーンなかったっけ。
中学生になったのは2006年ですが、携帯を持つことが禁止されていたうちの中学のようなところですら、主に卒業生と、一部の隠れて携帯を持つ在校生が、匿名で人の悪口を書いている掲示板があるから、闇雲に触れるんじゃないと言われたものでした。当時はBBSや掲示板がいくつもあったけれども、2ちゃんねるが普及したのはこの頃ですか? 調べたら、『電車男』が2005年、なるほど全盛期だ。
ここからが本題、これらの「ネットの書き込み」が音楽家にいかなる影響を及ぼしたのか、という話です。
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00年代後半、わたしは東京藝術大学という学校の附属音楽高等学校を志してヴァイオリン練習に励む一介の中学生でしたが、練習をときおりサボっては、パソコンでネットサーフィンをするようなことがありました。ヴァイオリンのおけいこ勢がまず出会うのは「ビバ!おけいこヴァイオリン」以下「ビバおけ」というサイト。いろいろなコンクール情報やら、コンクールを聞いた感想やら、おけいこを指南する内容など、個人のブログながらものすごい情報量でした。そこでは我々のような存在が「おけいこニスト」と呼ばれていました。あのブログはいつ開設されたのだろう、でもブログという形態自体がゼロ年代にブームを迎えたことを考えると、言うなればわたしたちは「おけいこニスト」第一世代なのでしょうか。
また当時の2ちゃんねるには、「全日本学生音楽コンクール」について語るスレッドなんかがありましてね。そのコンクールは世の「おけいこニスト」がこぞって出場するもので、ここで優勝すれば日本一うまいと言われたりします。そしてスレッドには予選通過者の名前が書き込まれたりするわけです。いつかは出場して、入賞などしてみたいコンクール。そうしたら自ずと、本選進出したら、先人たちのようにここに名前が載るんだなって思うじゃないですか、中学生は。
わたしは中3でかのコンクールに初出場を果たし、ビギナーズラックで最初の予選を通過したのですが、自分の名前が「ビバおけ」やスレッドに載って、ちょっと嬉しくなっちゃう。スレッド上では、入賞実績が多い人の、これまでの成績とかが語られたりしていてました。わたしはポッと出だから、通過者の速報以降は話題に上らない。ここでもし来場者の人が「あの子の演奏が良かった」なんて書き込んでくれたりしないかな、なんて夢見るわけですよ。そんなことを思えば、定期的にスレッド覗きにいくじゃんね。
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めでたく晴れて志望高校に入学して「藝高生」と呼ばれる存在になったら、入学式のしおりに載っていた新入生全員の名前を翌日までに全部ググっているような親御さんが何人もいましたけれど、入賞歴とかのリソースって、そういう個人ブログや2ちゃんねるじゃんっていう。しかも今度は、2ちゃんねるに「藝高」を語るスレッドを見つけちゃうんですよ。同級生の名前が伏せ字で書き込まれたりしていました。書き手は今で言う「音大おじさん」だったんじゃないかなあ、要は在校生よりは部外者のほうが多そうな感触でしたが、結局匿名だったからよくわかりません。
そして先述の「ビバおけ」は、藝高に入ってみたら、ヴァイオリンの子はみんな知っていました。ブログ主の「イグラーユ」さんって一体何者なんだろうね、と言いつつも、みんな見てたし、在校生が言及されていたらなんかもう笑うしかないというか。笑って「載ってたね」と言えるときと、まあわざわざ言及せんでもええなってときとあったけど(というのはコンクールに落選しても名前を出されることがあるので)、あそこに書かれたことは、自分らもだけど、自分ら以上に親たちが知っていました。とにかくみんな見てた。
突然の昔語りをしたのは、わたしたちの世代では、10代の頃から、ネットで名前を晒されて、落とされたり貶されたりは当たり前の経験としてそこにあったということを書きたかったから。当たり前だったけれどそれは、どこか自分から切り離されたもののようでもありました。だって現実味がないから。なんか言われてら、的な。決して良い気分のするものではない、でも見てしまう、恐ろしいもの。だってそこで良いこと言われてることなんてほとんどなかったから。でももし自分の名前があったら、自分で確認したい、あるいは知っている人の名前も、やっぱり確認したい。そう思って見てしまうのです。
だから、ちょっとコンクールで賞を取ろうもんならネットで言及されることは当たり前だったけれど、でも「当たり前に」貶されて良いわけなんかなかった。立場変われば、それは落選した傷を抉ってくるものでもあったし、何より相手が誰だかわからないのが恐ろしかった。
それを体感で知っているから、結果や実績を乗せた自分の名前がネットで知れ渡っていくことを、ただ愉快なことだとは思えないのです。
ところでこのブログを書くためにふと、そういえば今も「ビバおけ」ってあるのかしらと思って検索してみました。すると、やはりわたしが高校生のときに目にしたことがあった、おけいこ関連情報をいち早く載せる別のブログ「文化的な日々」に、2020年11月の日付で、「ビバおけ」がリンク切れになっていると書いてありました。もう少し検索したら、別サイトの匿名のスレッドに「本心を言うと」というタイトルで「情報源としては良い面もありましたが、親をあおる感じがあったので、なくなってよかったと思います」という書き込みを見ました。ごめんわかる、わたしも思わず口角が上がってしまった。もう解放されたんだって思っちゃった。
「ビバおけ」や「文化的日々」の影響が薫る、現役「おけいこニスト」の保護者が主と思しきブログには、2016年の日付で、こんな言及がありました。学生音楽コンクール側が、コンクール会場で有料販売したパンフレットの情報を、インターネット上で公開してくれるなと「ビバおけ」に対して注意喚起したらしいこと、それはFacebookアカウントの投稿上で何かしらのやりとりが発生していたこと。そのブログにリンクされていたFacebookのポストはリンク切れで確認できませんでしたが、恐らく「ビバおけ」のポストだったのではないかと推測されます。「ビバおけ」はサイト消失と共にFacebookもTwitterも姉妹サイトも消えたので。やっぱり度が過ぎていたよ、あのブログ。
そこに書かれた情報の影響力があまりにでかいから、あそこで悪く書かれたら厄介だ、という思いが強くて、表で声を上げる人はなかなかいませんでした。相手にしないのが良いとか、何にも賞歴がなければ名前すら挙がらないから言及してもらえるのは名誉じゃんとか、まあいろいろな言葉のおかげで、ブログたちや2ちゃんねるは存在を許されてきたのです。
でもわたし、言うね。
ああいうの全部全部、ずっと、最初から、大っ嫌いだったよ。
よくも我々をコンテンツにしてくれたな。知らないだろうね、あなたたちに振り回された側の気持ちなんて。親たちが目を血眼にして「同級生の誰さんはコンクールで優勝したんだってよ、で、あなたは?」と自分の子どもたちにプレッシャーをかけていたけれど、その燃料はおたくらの書き込みだよ。コンクール公式から淡々と結果が告げられるだけなら、親御さんたちもあんなに目を血走らせることはなかったと思うよ。
自分は姿も名前も見せないで、こちらの名前や所属や結果を晒して、場合によってはもっとパーソナルな情報も流していた。日本のしがらみから逃れて海外コンクールに行っても、アルファベットの中からちゃーんと名前を見つけてきては晒し上げてさ。教育虐待への加担とも言えるのかもしれない。人のこと煽って、おもしろかったか?
もう目に入れたくないから調べないけれど、もし5ちゃんねるとかに、今もそういうスレッドがあるのだとしたら、みんな書き込んじゃダメだ。よそさまのことをネタにしてないで、ちゃんと自分を生きろ。あんなもの、平成に置いてきてくれ。
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real-sail · 1 year
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3年ぶりの、年始の野望
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「年始の野望」と称して、「その年に達成したいこと」を新年に投稿していた時期がありました。最後にそれを投稿したのは2020年、そう、まだパンデミックを知らない頃です。
今年は3年ぶりに野望を認めようかという気持ちになったので、まずは3年前に並べた野望の自己採点からおこないます。この3年間で結果的に達成したものもあるし、叶わなかったこともあります。
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Crockett & Jones のあの靴を買う ▷ John Lobb のヴィンテージを手に入れたで良し
ロンドンでリサイタルをおこなう ▷2022年に達成、願わくば今年も?
英語のプレゼンをおこなう ▷2021年秋に実施、今年も機会持ちたい
IELTS再受験 ▷してないが英語レッスン受けたで良し
行ったことがない国を訪れる ▶︎これは今年かなあ?
Aquascutum の古着で膝下ステンカラーを見つける ▷ Soeur のコート買ったで良し
そろそろツイードのジャケットほしいな ▷2つほど揃った
現在25種の茶葉があるマイ紅茶棚をベスト5に絞る ▷絞った
マイベストコーヒー豆を見つける ▷今んとこ Monsoon Malabar
イザイの無伴奏ソナタ5番の譜読み ▶︎してない、今年こそ!
5年親しんだ形式の手帳を変える ▷これ以降 Rollbahn
ワードローブを本当のスタメンだけにする ▷これはまあまあ実行できた
イギリス英語の発音力向上キャンペーン ▷発音レッスン受けたら、ほんと変わった
香水を発売元の勧め通り1年で使い切りまた買う ▷やはり1年では使い切れないが2本目使ってる
日本でもコンサートを行う願わくばバッハ ▶︎これはまだなかなか難しいところあるよね
でもロマン派のソナタもどこかで弾きたいなぁ ▷去年はちょこちょこ弾けた
来年度は(固���メンバーで)室内楽��やりたいなぁ ▶︎これはコロナで叶わなかったな
ツイッターのフォロワー目指せ3000人 ▶︎今2000、でももう数は求めなくなった
インスタグラムのフォロワー目指せ1000人 ▶︎とはいえインスタもう少しで1000
英語のブログもちょこちょこ更新するぞ ▶︎したようなしてないような
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だいたい3分の2くらいは達成できたみたい。3年たったらどうでも良くなっていることもちらほら。変化はあるよね。では今年の野望をば。
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博論提出 ▷野望とかじゃなくてマスト、ミッション
バッハを何度でも ▷教会で録音をしたいと思っていて、YouTubeに「無伴奏ヴァイオリンのための3つのソナタと3つのパルティータ」全曲揃えたい、現状半分程度は公開してあるので、残りの曲を埋める(シャコンヌとか、ソナタ1番のフーガとか)
ものを減らす ▷3年間で結構減らしたけどまだまだ、本当のお気に入りだけにする、量より質、身軽になる
もっと書く ▷紙でもデジタルでも、もっと書く、書くことは「言葉を探す」こと、何かを思考して言語化することをやめない(5月以降の書き仕事大歓迎です)
研究者であれ ▷論文を出したあとでも、研究者でいられるように、環境を整えたい、博論出してはい終わり、にしたくない
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ほかにレクチャーコンサートしたいなとか、講習会やりたいなとかアイデアはありつつ、書きながら、それは野望とか言ってないでもうやれば手をつければ? と思いました。企画書作ろう。
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real-sail · 1 year
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言葉を学んだら音楽を知った
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2021年の暮れから一念発起して英語のレッスンを受け始めた。28歳になって、イギリスに住んで6年目を迎えて、改めて受ける「英語のレッスン」である。大人になってから何かを学ぼうとすると、見栄やプライド、羞恥心が邪魔をする。見え隠れする「それら」をどうにか取り除きながら、時に振り回されながら、改めて英語に向き合った。
とりわけイントネーションとリズムの矯正に注力した結果、1年前の自分とは明らかに違う。街で英語を聞き返される回数は減り、人に話しかける心理的ハードルは大幅に下がった。
そうした勉強の成果は嬉しい反面、同じ文章を話すにも、イントネーションが異なるだけでこれほどまでに相手の反応が変わるというのは、恐ろしいことでもあった。博士論文で「アンコンシャスバイアス」を扱う以上、「Languagism」について考えずにはいられない。それでいて、意識して話し方を直したところで、未だ、咄嗟に出る音は日本語的な響きを伴っている。もしこの高い言葉の壁を超えられたとき、人類はふたつめのバベルの塔を作ってしまうのだろうか。
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英語のイントネーションを完全に習得したとは言えないが、ヨーロッパ言語のそれを学んだことによって、己の本業である「西洋クラシック音楽」の理解が進んだことは嬉しい副産物であった。自分の中で、抑揚と拍子について腑に落ちるところがあり、音楽のひらめきは翻って再び英語学習に還元され、相乗効果があったと言える。
仮に音声学の知識がなくとも、人はアナウンサーの話し方などに聞かれるような淀みのない話し方を感知できるように、聞こえるイントネーションの違和感のほうも同様に検知できる。すなわちそれは、旋律の「淀み」もまた、聞き手の耳に違和感として残るのだ。己の英語を見直したところ、結果的に「より自然な音楽」を探求することにもなった。
これまでクラシック音楽ばかりを聴いて生きてきたが、今年はいわゆる J-pop や、あるいはロックなどのジャンルに触れてみることで、ジャンルを超えて「表現」に共通するものを探していた。歌詞の抑揚に合わせて声のボリュームを自在に絞る様は、音楽の種類や言葉を同じくしなくても、共有できる技のように思う。
西洋音楽を演奏するならば、西洋の言語を理解したほうが良いとは長らく言われてきた。しかしこうして「英語」が音のひとつとして相対化されてみると、「日本語」で真に「音楽的に」すなわち「自然な旋律」を表現できる人は、西洋の言語や西洋クラシック音楽の理論を知らずとも、よほど「音楽」の何たるかを体得しているように聞こえてくる。
音そのものが持つベクトルであったり、その質量と重力を感じることができれば、音が向かう方向は自ずと決まる。もしそうだとすれば、どんな言語の感覚を持っていようとも、音の本質を正確に掴むことができる人は、音の連なりを「自然」な形でアウトプットできるのではないか。そんな仮説を立てると、日本語話者は西洋の和声感を表せないという疑念は、わたしの思い込みであったかもしれないと思えてくる。
こうした考えに至ったのは英語を改めて勉強したおかげだが、しかしそれはきっかけであって、もし日本語の音に対してより解像度の高い耳を持っていたら、とっくに気づいていたことかもしれない。
わたしは自分の YouTube チャンネルに喋っている動画を投稿するもので、動画を編集していると、自分の話す日本語を何度も聞くことになる。すると、話し方の癖もわかってきた。聞こえるのは訛りや澱みだけではない、どこで息を継ぐか、それによって話が下手にも上手にも聞こえる。
これが、長い間ヴァイオリンのレッスンで言われてきた「フレーズを意識する」ということか、と、ようやく理解した気がする。話の主となる単語ははっきり聞きたいし、修飾語のほうが目立っていたり、本題までに息切れが多いと、話が見えてこない。わかった気になっていたが、どこか自分の納得まで落とし込めていなかった。
今度は、理解したそれを自分が描いた通りにアウトプットするために、ひとつひとつの音を形作るテクニックを磨く必要があるわけで、その技を伴って音作りを自在にできたとき、それを体得したと言えるのだと思う。その道のりはまだ長い。
こと英語に関して言えば、社会学を少し学ぶ身としては、英国のエリートの英語をあまりにしっかり身につけてしまうと、英国の社会階層も引き受けることになって、ひいては構造的差別の助長になりかねない、とも想像する。西欧中心主義への抵抗として自国語訛りの英語を誇り高く使う人たちもいる。一方で、マイノリティがものを言う時に、マジョリティーにわかる言語を用いるのは、ひとつの有効な方法になる場合もある。願わくば両方を器用に使い分けられたら便利だが、そうなるとうっかり特権性に無自覚になっても怖い。
ひとまず、4年かけている論文の締め切りが迫ってきて、英語学習にじっくり時間を割く気持ちの余裕がいよいよなくなったので、レッスンをちょうど12か月受講したところで休会とした。何かを始めるのも、止めるのも、同じくらい大切な決断なのである。
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real-sail · 2 years
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21か月ぶりに立った舞台
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ヴァイオリンを3歳で弾き始めてから、こんなに舞台に立たなかったことはありません。子どもの頃はお教室の発表会があったおかげですが、それも年に一度か、1年半に一度の開催だったので、舞台がこんなに遠のくことは、わたしにとって初めてのことでした。
最初にロックダウンになったとき、これは長くかかりそうだ、自分が人前で演奏できる日まで、どうしたら本番の感覚を忘れずに、腕を落とさずにいられるだろうかと考えた時に、かねてから解説していた、でもあまり活発ではなかった YouTube チャンネルを活用しようと思い立ちました。YouTube に投稿するためだけに、新しい曲の譜読みをし、暗譜もして、カメラの前で心を決めて曲を通すという時間を定期的に設けるようにしました。
ついでにチャンネル登録者数が増えて収益化できれば、経済的な助けにもなると考えて、結局演奏のみならず Vlog のような動画も交えて、毎週1投稿を掲げて2021年を過ごしてきました。なかなか思うように演奏機会を持てない中で、それでも腐らずにいられたのは、YouTube の動画を作るという大義名分があったからです。
11月になって急遽、冒頭で触れた演奏会への出演依頼をいただいて、これがわたしのロックダウン後最初の本番となりました。しかもプログラムはバッハの無伴奏、ヴァイオリン一挺での演奏です。ただでさえ無伴奏は緊張感が高いのに、ましてやブランク明け。果たして自分は大丈夫だろうか、一体当日はどんな状態で迎えるのだろう、とメンタル面への不安が絶えませんでした。
もちろん自分のできうる最大限のパフォーマンスをしたいとは思いましたが、一方で、21か月もブランクがあるのだから、まずは本番に向けて曲を仕上げること、そして本番の舞台に立つこと、この2点を達成できたらよしとしよう、多少のミスがあろうとも仕方なしと受け止めよう、と思うことで、メンタルの不安を和らげようともしました。本番でどれだけ緊張するか、それは当日舞台に出てみるまで予想できません。
でもいざ時を迎えて舞台袖から踏み出してみたら、ほどよい緊張感はありながら、落ち着いた気持ちでした。それもそれで予想できなかったコンディションで、どうせものすごく緊張して足が震えてしまうだろうな、と想定してシミュレーションしていただけに、かえって驚いてしまいましたが、無理なく最初の音に踏み込めた気がします。
特にその日はお客さまの雰囲気が良くて、ロックダウン中に生音を恋しく思った人が多かったせいもあるかもしれませんが、集中力高く耳を傾けてくださるのを肌で感じました。この空気だったらいける、と思って、「究極の p (ピアノ=小さい音)」に挑んだのはすばらしい瞬間でした。会場がとても美しい響きを持った教会で、しかもほかの楽器がいない無伴奏だからこそ出せる、うんと小さな音。しかも集中力の高いお客さまだからこそ出せた音。聞こえるか聞こえないかのぎりぎりを攻めましたが、それはじっと聞き取ってくれたお客さまがあってこそ成り立つ「p」です。
こういった音はリハーサルで多少試しはするものの、実際に本番で使うかどうかは舞台に立つときまで決めずに臨みます。いくつかの好条件が重ならないと、この音を「楽しむ」ことは難しいからです。しかもこれはアコースティックでないと実現できないもので、マイクは高性能が故に、小さな音も"実際より大きく"拾ってしまいますし、配信は視聴者側の環境で音量が変わってしまいます。
そうした一瞬の判断をするためには、自分の感覚を研ぎ澄ます必要があります。だから本番のブランクがあると、舞台に立つのが怖いと感じるのです。カメラ相手でのパフォーマンスは、そういったフィードバックを得られることはないけれども、本番のような緊張感の中で自分の音の聞こえ方を考えるという訓練にはなったようです。
YouTube を投稿し続けるというのもなかなか簡単ではなく、人目に触れることなので、恥ずかしさもあれば、難しいコメントがつくこともあり、チャンネル運営をし続けるのは必ずしも楽しいこととは言えません。それでも YouTube を活用していたおかげで、この本番に落ち着いて臨めたのだと思いました。腐らずにやってきてよかったと思いました。舞台に戻れてよかったと思いました。
とはいえ、またいつコロナの状況が変わるか知れず、次の本番の予定も立っていません。このあとも少しブランクができてしまう恐れもあるけれど、YouTube の活用は有効だとわかったし、次の機会まで、また腐らずに淡々と己を磨いていきたいと気持ちを新たにしました。
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real-sail · 3 years
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過去から投げ込まれた問い
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長い長いブログを書きたいと思いましてね。
ブログを始めた2014年当時は、だいたい続かないだろう、飽きたら途切れてしまうだろうと思っていましたが、思いがけず1,2年続いたので、あるとき整備をしましてね。初めてのぞいてくださった方にもわかりやすいように、ひとつだけ未来の日付の記事を作って、そこにわたしの略歴やらHPやら、簡単にリンク集を設置しました。未来の日付なので、常に"一番新しい記事"として最初に表示されていたわけです。
その日付は、2020年11月22日でした。
ついにその日が来たんだ、とその日思いました。その設定をした当時、近すぎる日付だとすぐ埋もれてしまうし、ちょっとありえないような数字がいいと思って、西暦の十の位が変わるところを設定しました。十の位がひとつ違うだけで、なぜでしょう、すごく遠い未来のような気がするじゃないですか。
すなわち、そんな頃までブログは続いているかしら? という疑問符込みだったのです。未来に投げかけた問い、ええ、今ぞお答えしましょう、続いています。本来であればその日に何か投稿をこしらえるべきだったのですが、それには間に合いませんでした。なぜならわたしはその頃、"SNS断捨離"に勤しんでいたのです。これに思いがけず時間がかかりました。
わたしが今回行ったのは、主に「長らく使っていないサービスの退会」及び「過去の投稿の修正/掲載終了」です。
一度は登録したものの生かしきれずにしばし触っていないアカウントなどを掘り返しては退会する作業、まずはログインのためにパスワードを思い出さねばならず何度も記憶の海に潜りました。中には退会手続きをするまでもなく終了していたサービスもあり、時の流れを感じます。退会手続き完了、またのご利用をお待ちしています、という画面には、思わず「お世話になりました」と返していました。
そして過去の投稿の整理、つたない投稿を見返す時間は、懐かしくもあり、恥ずかしくもあり、時には耐えきれずひとりで顔を覆う始末でした。このブログに関しては、約700記事全てに目を通しました。
このブログの初期にあたる2014年2015年というのは、短文でもオチがなくても本数を打つ、という方法が世間の主流でした。それはそれで、実際に自分で試してみた時があってこそ、自分のペースを見つけるに至ったので後悔はありませんが、今となってはそういった記事を手に取ってみてもあまり価値は感じられませんでした。
しかし思い出としては興味深かったので削除するには忍びなく、今回はその手の記事をまとめて非公開にしました。
また同じタイミングで、note や medium に書き連ねた"ジェンダー論"関連のものも確認して、まず note に関しては退会、medium のアカウントは継続という判断をしましたが、投稿は博士進学以前or1年目に書いたものが多く、不勉強ゆえに内容に間違いなども多く見受けられたので、該当記事は削除しました。全ての投稿は自分のドラフトとして保管していますが、それらを精査して、リライトできそうなものは追々直していきたいと思います。
そういったわけで、かなりさっぱりしました。
一応書き分けとしては、ここは日常なり音楽の話題なり、衝動で書く感じの文章を、 medium には自分の研究にまつわるものを書く、という扱いです。こちらは「書きたい」「気持ちの整理をしたい」という意欲が湧いたときに書くので、より粗削りで、感覚的な文章だと思います。
未だに「すごい家の話」が話題にのぼるので、このブログではよほどその記事が読まれているのだろうし、臨場感もあったのでしょう。切迫感や悲壮感もありますね。読まれている記事がそれで良いのか、とも思いますが、あれはあのときリアルタイムで書いていたからこそ訴えかけるものがあったのでしょう、今になってあの時の話を書いたとしても、このように強いメッセージ性を持たせるのは難しいように思います。そんなリアリティが残るのは、ブログならではかもしれません。
それでもやっぱり書けなかった、去年の今頃の話。今では the first lockdown と呼んで、秋の second 冬の third と書き分けます。なお我々は未だ the third lockdown の最中にいます。わたしのドラフトボックスには、あの頃書いた断片がいくつかあります。でもどれも、ブログに仕立てることはできませんでした。書き残さなければという使命感とは裏腹に、苦しい部分はいっそ忘れてしまいたいと願ったのかもしれません。
今もってなお、ブログいつまで続くのかしら、と、5年前と同じ気持ちでおりますが、次のマイルストーンは、もしかして開設10年でしょうか。2024年、何しているかなぁ。10年やります! なんて強気なことは言えませんが、続く限りは、その時その時のリアリティを残していきたいと思います。
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real-sail · 3 years
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長い冬眠のような年の終わりに
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ウイルスとの闘いはあっという間に世界中を巻き込んで、わたしたちは社会的距離というものを取ることが日常になった。意思の疎通は五感のうち視覚と聴覚に頼るものが増えて、意思の表明は空気の振動よりも電気信号に寄るところが多くなった。しかし、触覚が、嗅覚が、味覚が担った間(あわい)を失い、骨と皮をまとって外界と接することを許されなくなった魂は、かえって電脳社会に剥き出しのままで晒されている。
それが1と0の数列で作られた、ただの薄っぺらい情報の表れであったにしても、誰かの温度を感じることを広く遠くまで可能にしたインターネットには感謝せざるをえない。手のひらの端末から出てわたしの鼓膜を揺らす周波数は確かにあの人のものだし、目に刺さるようなブルーライトの中に浮かぶ文字の羅列は、確かにあの人とわたしの化学反応だ。
自分の手の内にあるカードを効果的に切っていくことだけが心身を助く。自分の持ち札を誇示するでもなく、持たない札を憂うでもなく、今手にあるものを愛でる。足るを知るの意味を、今までの自分は熟考する必要すらなかった。蟄居は内省を促す。いくら手狭な部屋と言えども、果たして持ち物それ全てを最大限に生かしているかといえば否、先ず隗より始めよとはこのことである。
何かを成したいと思い立ったときに、人は得てして「足す」ことに努めるのだが、まずは今ある手札に目を向けたほうが良い。自分の浅学を嘆く暇があるなら、書棚にある未読の本をひとつでも片付けるべきなのだ。そうして初めて、本当に「足す」べきものが何であるか、わかるように思う。
もちろん一刻も早くもとのように暮らしたいと願って止まないし、もとい「いつかはもとのように暮らせる」という希望的観測を捨てられないわけであるが、そもそもいざ平時の暮らしから逸脱してみれば、その日を安全運転で凌ぐことが何より最優先で、それ以上の意識を持つのはとても難しい。この時間を停滞にしてはいけないという焦燥感の反面、衰退していないことを寿ぎたいくらいだ。この長い冬眠から覚めるまでに、どんな夢を見られるだろう。
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real-sail · 3 years
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二度目のロックダウン
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目覚ましの音に気づいて瞼を開けると、窓からの光が視界をつんざく。ロンドンは秋の雨季にあって、その日はすっきりとした快晴だった。二度目のロックダウンの前日の話だ。
昨晩はメールの返信を打ちながらキーボードに頭を突っ込むようにして寝ていた。夜中の1時過ぎになって意識を取り戻して、そこから寝支度をしたことを思い出す。半端なうたた寝を挟んだあとで迎える朝の目覚めは正直良くないが、時間にしては充分に寝ている。マグカップに牛乳を汲んで、沸かしたお湯を茶葉にくぐらせる。おととい焼いて積んでおいたスコーンを手にとってラズベリージャムを乗せ、寝ぼけ眼のまま口に詰め込む。傍らに残る紅茶をだらだらとすすりながら、朝のメールチェックをし、着替えて、10時からのオンラインのミーティングをこなす。1時間半弱で通話を終えると、遅ればせながらシャワーを浴びて出かける支度をする。何を思ったかせっかくだからと、この秋に新しく買ったジンジャー色のツイードの古着のジャケットを羽織った。
論文を書くために借りていた本の1冊に、返却期限の知らせが来ていたのはきのうの話、昨今は本を借りるにもあらかじめすべての書物をオンラインで予約し、受け取りも返却も日時を指定してスロットを確保してからでないと行かれない。学校の図書館に着くと、水曜日と書かれた大きな荷物カゴに本を入れるよう指示を受けた。この箱で3日過ごすのが、借りられた本たちの"自主隔離"である。去り際に見た校舎の前面に注ぐ日差しが、いかにも秋晴れらしい、静かな美しさを湛えていた。
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ロックダウン前にせめて食べておきたいと心を決めて近くのサンドイッチ店に向かうと、今回のロックダウンでは持ち帰りのみで営業を続けるという看板を見つけて安堵する。アクリルのバリア越しに注文すると、受けてくれた女性に「Take away, isn’t it?(持ち帰りだよね?)」と言われて、いい加減に顔を覚えられたことを知る。いつも同じものを頼むアジア人だから覚えやすかったかもしれない。コロネーションチキンのサンドイッチとアールグレイを頼み、お茶係のお兄さんに「ティーバッグは入れておく?出す?」と聞かれたり、「手持ちだとちょっと熱いかも、まあ大丈夫かな」と言われたりした。
ふらふらとベンチを探して歩いた。お昼時で近くの公園はたくさんの学生が集っていて落ち着かなかったので、結局学校の近くまで戻ってリージェンツパークのベンチに腰掛ける。ふいに鳩がベンチにやってきて、わたしの膝頭に乗って首を傾げる。野生動物に餌を与えてはいけない。知っていながら、でも明日からロックダウンだし、という関係のない理由を持ち出して、具の色が付いていないパンの耳を、膝から降りた鳩にめがけて放った。すると想像だにしない速さで何十羽もの鳩が駆けつけてきて恐怖を覚えた。7年間通学時に歩いた上野公園で毎朝聞いていたはずの「公園内の、ハトにエサを与えないでください」というアナウンスが、何ら学習効果を生まないことを知る。すると今度はその群れが一斉に飛び立つので、二度恐怖を覚えた。安心して続きを食べ始めたらじわじわと鳩が戻ってきて、ベンチの周りを包囲する。中には背もたれやわたしの膝に寄ってくるものもいた。じっと正面から見つめるとやがて去っていくけれど、しばらくびくびくとしながら、でも動くのも面倒だと思って食べ続けていたら、鳩たちは諦めて��た群れで飛んでいった。
日差しを浴びながら紅茶をすすり、ぼんやりとメール���SNSを見た。もう何通目かわからないライブ配信のスカウトのメールを開いて、一旦目を通すも、特に目新しいことはなく、消すでもなく、返信するでもなく画面を戻す。SNSには、今日も誰かの旅先の写真と、誰かの食事と、誰かの演奏の動画が並んでいた。自分はしばし投稿をこしらえていなかったが、それだって10日くらいのことだ。米国大統領選の開票の経過も、ちょうど届き始めていた。まだどちらとも言えなかった。ベンチから立ち上がって紅茶を飲み干して、スーパーマーケットに向かう。この数日を過ごすための買い置きは月曜日に済んでいたけれど、家の近くのスーパーでは売っていないものをちょこっと買い足したくて、 Waitrose に入った。前回のロックダウンの時と違って、極端に品薄なものはない。パスタも小麦粉もあった。店内も落ち着いている。でも会計を済ませて店を出た時には入店制限がかかっていて、待機の列ができていた。
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朝からやや貧血気味で、立ったり座ったりするたびにクラクラとしていたせいで、スーパーを出て歩く道すがらも、ちょっと地に足がついていない感じがした。最近はまっている『勝手にしやがれ』の歌詞「お前がフラフラ行くのが見える」を思い出す。平日の午後にしてはなぜか人が多かった。もしかしたら、ロックダウン前の最後の邂逅を楽しむ人たちだったのだろうか。屋外でなら誰とでも会うことを許されていた世界が、明日からはより絞られて、屋外でも決まったひとりにしか会えないらしい。それがどういうケースに対応するためのひとりなのか未だによくわかっていないけれど、そのルールがあることで救われる人がいるのだろう。一旦家に荷物を置きに戻ると、部屋に飾った小さなラッパスイセンと目があった。本当の春はまだ遠い。
結局いまいち貧血気味のままで移動が辛かったので、そのままUberを呼んで家庭教師をしている生徒宅に向かう。まだ16時台だからラッシュ前かと思いきや恐ろしく道路が混んでいて、運転手がややいらいらしていた。わたしに詫びながらUターンや細い裏道を駆使してくれて有り難い反面、運転中にいらいらする人を見るのはあまり心地よくないとも思った。でもその努力には感謝したいので降車時に1ポンドのチップを上乗せした。最後に交わした「Have a nice evening.」「Thanks, you, too.」というあいさつが、儀礼的なものであるのは知りながら、この期に及んで nice evening って何だろうという疑問は頭を掠める。ロックダウン下でもタクシーは人を運ぶだろうが、運転手にとって明日からはどんな日々なのだろうか。
とはいえ、電車のほうが早く着いただろうな、裏目に出たな、と思いながら、遅刻を詫びつつ今日の宿題を確認する。子供の口からも出てくる、明日からロックダウンという言葉。でも子供たちは明日からも学校に変わらず通う。政府のガイドラインだと大学はオンラインの割合を増やすことを推奨しているので、わたしは家にいる時間が増えるだろう。ロックダウンは結局何かと言えば、緊急性の低い物を取り扱う商店は閉めなければいけないわけで、そうなるとさすがに何かが恋しくなるかもしれないと思ったが、お昼ご飯を買うときにブティック街を通過したにも関わらず、何も買わなかった。ヤケ買いするほどの気力もなければ、買って気分を高揚させようと思うほどのモチベーションも特にない。強いて言えば Dyptique の前で蝋燭を買おうか悩んだが、そういえばマッチを持っていないことを思い出して、やめた。どこのブティックも、暇そうに店番をする人たちが目に入った。いつもより通りで物乞いをするホームレスも多い。キャッシュレス生活でなけなしの小銭しかなかったが、ブランケットに包まるやや若い男性の前を一度通り過ぎてから、思い直して紙コップにいくらか入れた。その道の先で別のホームレスに、わたしとまったく同じ行動を取った女性を見かけた。
あるいは飲食店が持ち帰りしかできなくなることもあって、道々のレストランでは最後の外食を楽しむ人がかなり多く見受けられ、わたしも本当はちょっとだけ、自分では作れないこってりラーメンを食べて帰りたい気持ちが芽生えたけれど、いかんせん直近に大陸側で起こったことも考慮してきのうからテロ警戒レベルが引き上げられていたので、用事を終えたらまっすぐ帰るが吉と見て、すっかり日暮れが早くなった街で、一路に家を目指した。特に何ほどのことはない、何でもない1日ではあった。それでもどこかずっとのしかかってくるものがあって、上の空とも違うけれど、半ば目の前に意識がなかったような気がする。明日からどうやって過ごそう、いや、別に自分の生活はそもそも通常営業ではなかったから何を今さら、と思いつつ、やっぱり、メンタルのケアをしていく必要は高そうだと思わずにはいられない。やっとやっと、コンサートなんかもできるようになりつつあった10月だった。そこから悪夢の Second Lockdown までの急降下はあっけなかった。前回だって、まずは2週間くらいを目処に始めたロックダウンだったし、結果3か月強続いた。少なく見積もったところで今回も同じだけの時間はかかるだろう。
たまには、たとえ不急でも、お気に入りのサンドイッチを買いに行っても良いだろうか。お店が潰れるところは見たくない。そんな文字を打つ間、わたしの耳は街角で上げられている花火の音を捉える。ハロウィンの名残か、あるいは本来だったら明日は Bon Fire Night ガイフォークス・デーだから、どさくさに紛れてふざけた市民が上げていることは想像に難くない。褒めはしないけれど、どうにか発散したい気持ちはわからないわけではない。どうか、そんなあなたも、ホームレスの人も、タクシーの運転手さんも、サンドイッチ屋さんも、図書館の司書さんも、ブティックで暇そうにしていた皆さんも、どうかどうか、みんな無事でいてほしい。
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real-sail · 4 years
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手のひらに残された幸を
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もう6年前のことだ。7月のある暑い日に、わたしは個人ブログを始めた。最初は Livedoor ブログで書いていて、特に開設してすぐの頃は量より数を担保したくて、ごくごく些細なことでも、オチがなくても、何でもいいから1日1本は書こうとしていた。
それを3,4年たってから読み返した時には、内容の薄さが恥ずかしくて仕方なかったけれど、今となっては当時の努力が我ながらかわいらしい。5年以上の時を経て、当時の自分は、自分であって、自分でないような感覚なのだ。客観的に眺めたときに、電車の中で1日の出来事を振り返ってはネタをこしらえて、小さなガラケーの画面に命を刻みつけた日々はもはや懐かしいと思うにも遠くて、ただただ、20歳のわたしなりにがんばっていたなあという感想だけが心に浮かびあがる。
ブログをつける頻度が減ったのは、生活スタイルの変化が一番の理由と言うに相応しい。主に投稿をこしらえていたのは大学帰りの電車の中だったから、学部を卒業して、東京栃木を往復する習慣がなくなって、しかも渡英して、主にバス通学をするようになったわたしに、ブログを更新する習慣を癖付ける良い隙間が見つからなかった。 そうこうしているうちに、2年、3年と時が過ぎ、2回ほど引っ越した。通学はバスよりも歩くことが増えて、ついに今の家からは完全に徒歩通学。40分の新幹線の中で画面を睨んでいたわたしは、今、いや、今現在は通学していないがあえて今と言おう、今では片道30分、公園の中を歩くヘルシーっぷり。もはや手放したくない習慣はブログ更新よりも日々のウォーキングのほうで、ロックダウンが起こって通学がふっとんだあとも、週に1,2回は1時間の散歩に出かけるくらいだった。 何をもって好ましいと言えるかは、そのとき置かれた状況によって変わる。やがてわたしは携帯の画面に長文を打ち込むことが苦痛に変わって、今となってはちょっとしたメールの返信にすらパソコンを開くほうを好む。でも長距離通学をしている頃は特に、日中は都内で過ごすことが大半だったから、動き回る日々の中でも隙間で省スペースに原稿執筆やメールの作成ができる便利さに依存した。 果たして、わたし自身がこれだけ暮らしの変化を遂げたこの6年間の間に、ブログを読んでくれる人にはどんな変化があったのだろうか。そもそも初期に読んでくれていた人と今読んでくれる人がずいぶん変わったろうとも思うし、もしずっと読んでくれているような稀有な人がいたとして、その人自身、特に今年は、暮らしの変化を余儀なくされたとお察しする。 わたしのブログだからわたしのことを言わせてもらえば、わたしはこの伝染病にまつわる禍いの中で、命に別条はないが、それなりに堪えることもいくつかあった。でもそれを今語るつもりはないし、誰かのせいにする気もない。 人によって置かれている状況は違うのだということを、今年はすでに強く思い知らされた。その人から見える都合不都合、それをひとつひとつ否定せずに踏み潰さずに拾い上げることはむつかしいが、それが他者理解への一歩である。それでいて、自分の事情を他者から踏みにじられないように、守りたいとただ抱え込んでしまうことは、あまりに繊細だろうか。 ブログ7年目おめでとう、と、自分のブログを祝福するつもりで立ち上げたはずの画面にしては、いくぶんシリアスなものができあがってしまったが、これもこれでいいや。 6月の終わり、ロンドンは急に30度を超すような日が2,3日続いて、暑くて暑くて仕方ないときがあった。その真ん中の日だったと思う。4時過ぎには明るい朝の中でもうふたたび目を閉じることができなくなって、服だけを着替えたら何も持たずに公園に出てしまった。それはほとんど衝動で、水も飲んでいなかったけれど、それも待てないくらいのことだった。
すでに暑いことは暑かったけれど、じっとしていれば風を感じられるくらいには耐えられた。ロンドン随一の公園の丘の中腹にたたずんで、草の上に腰掛けて、まだジョギング族しかいない朝の公園を焦点が合わない裸眼で眺めながら、ただただ泣いた。
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不安も不満も、みな一様に抱えている。それでも、ウイルスを患った人たちを目の当たりにしながら、あの人もこの人も自分も生きててよかった、と思うあたりに、そもそも自分の初期設定は「生きたい」ほうにベクトルがあることに安心を覚える。考えてもわからないことは先の自分に託して、まずは手の届く未来を、ひとまず今日を良くすることが、わたしの手の中にある幸運なのだ。
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real-sail · 4 years
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年始の野望2020
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クリスマス休暇を惰性的に過ごしたつもりもありませんでしたが、全ての時間を勉学に費やしていたかと言えば否。新学期初日である6日朝に教授からのメールを受け取って襟を正した次第ですが、いきなりトップギアを出すとすぐさま故障しますので、リハビリテーションも必要です。今日は年末年始の考え事をまとめて放出する日にいたしました。
ちなみにイギリスにも新年の目標を発表する文化は存在するようで、元日、ホストファザーに「Do you make a resolution?」と訊かれました。New Year’s Resolution が日本語で言うところの新年の抱負なのでしょう。ホストファミリーに客人があったので、みんなで食卓を囲んでぱぱさんの司会のもと発表会が行われていました。ぱぱさんは断酒するそうです。
ここ数年、わたくしは年始のブログで「今年の野望」なるものを綴ることにしています。まずは前年の野望を見返して採点するのですが、はて、今になって2019年の野望を見ると、なんだか"野望"と言うほどの野心が感じられません。ところで野心ってなんだっけ? 疑問を持ったわたしは、会う方会う方に「来年の野望あります?」と尋ねました。
インタビューを重ねた結果、わたしは「野望とはちょっぴり勇気のいること」と定義しました。 やっと本題、今年のわたしの野望を、以下つらつらっと書いてみます。なぜあえて人目に晒すかといえば、自分を奮起する意味もありますし、誰か夢のお手伝いをしてくれたらいいな!という下心もありつつ、兎にも角にも新学期に向けて、PCに文字を打つ作業のリハビリ代わりに綴ります。そう、最近長時間机に向かえなくなってるの!
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Crockett&Jones のあの靴を買う:レディースは英国でないと買えないし何より一目惚れのあの靴を次の冬の帰国時に買って帰って靴磨きチャンピオン石見豪さんのお店(TWTG)でプレメンテしてもらうことをモチベーションに1年がんばれそうな勢い
ロンドンでリサイタルを開催する:英国で以前リサイタルをさせていただいたのももう2年前かつ去年は東京で初の無伴奏リサイタルを敢行することができたので今年の実績としてロンドンでの演奏会を企画したいしホストファミリーやそのお友達にも聞いてほしい
英語のプレゼンをおこなう:これはもう上半期だけで2回はおこなうことが決まっているのだけどそこで何か結果を残して最終学年になる9月からの新年度で別の発表を得る機会に繋げたい狙うはシベリウス音楽院との共同ゼミでの発表
IELTS再受験:渡英時に取り組んだ語学試験に2年前再挑戦した時は渡英前と比べて成績が伸びてなくてがっかりしたので今年はしっかり勉強して博士課程なら持っていたい数字7.0を目指す
行ったことがない国を訪れる:昨年はスウェーデンとスペインへの初上陸を果たしたので今年はハマスホイの美術館がありかつわたしの初代のフルサイズ・ヴァイオリンが売られていたと言われるデンマークはコペンハーゲンがひとつ目標
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あと細かい目標のようなものは多々あります
Aquascutum の古着で膝下ステンカラーを見つける
そろそろツイードのジャケットほしいな
現在25種の茶葉があるマイ紅茶棚をベスト5に絞る
マイベストコーヒー豆を見つける
イザイの無伴奏ソナタ5番の譜読み
5年親しんだ形式の手帳を変える(実行中!)
ワードローブを本当のスタメンだけにする
イギリス英語の発音力向上キャンペーン
香水を発売元の勧め通り1年で使い切りまた買う
日本でもコンサートを行う願わくばバッハ
でもロマン派のソナタもどこかで弾きたいなぁ
来年度は室内楽をやりたいなぁ
ツイッターのフォロワー目指せ3000人
インスタグラムのフォロワー目指せ1000人
英語のブログもちょこちょこ更新するぞ
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今年は、これは野望だと胸を張って言える気がします。昨年の野望の採点は個人的に行いましたし、もはや載せるために読み返すのがダルいので掲載は割愛します。わたしのブログを読んで、昨年同じように野望を打ち立ててくれた友人たちにおかれましては、やはりぜひ採点もセットで行われることをおすすめします。それで野望をちっぽけに思えたら、もしかしてそれって大成功なのかもしれません。
カフェにランチを求めがてら、ニュースやメールチェックをしながらこの最終稿を仕上げていたら、2時間も経ってしまったみたいです。晴れていたのに、雨が降って、止んで、まだ夕方4時半だというのに外は真っ暗になってしまいました。これからもう少しだけメールを捌いたら、野望を叶える一歩を踏み出したいと思います。
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real-sail · 4 years
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帰京して、冬 2019
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この12月ははじめの半月だけ日本に戻って、まさに駆け抜けるように過ごした。
うっかり赤信号を渡りそうになった。東京を歩いていたはずなのに、どんな小さい交差点もスクランブル式の、ロンドンでの習慣が顔を出す。目の端に映った歩行者信号が青くなったのを見て渡ろうとしたら、目の前の信号は赤かった。ロンドンで暮らし始めた頃は信号の仕組みに戸惑って、横断歩道ひとつ渡るにも、真ん中の安全地帯で何度か青信号を見送ることも少なくなかった。
自分がその扉を開けたものだから、ドアを引いたまま後ろにいた人に先を譲ったら、とても驚かれてしまった。ジェントルマンの国で、基本的にはレディーファーストが根付いていると言えど、現代のロンドンでは女性も男性も問わずに道を譲り合うことが多い。でもそんな国を知ったあとで戻った日本では、道を譲るという行為がむしろずっと珍しいことのように思った。
鼻をすする音は許されて、思い切り鼻をかむと視線を食らう日本。鼻をかむのは問題ないのに、すすっていると失礼とされるイギリス。レストランで食事が済んだら、席を立ってレジに向かう日本と、庶民的な店ですら席で会計をするイギリス。いくらでもペットボトルで緑茶を買える日本。どこでもミルク入りの紅茶を買えるイギリス。犬も歩けばコンビニに当たる東京。猫も杓子も公衆Wi-Fiに至るロンドン。
そんな、些細なところで、自分の中の「日本」と「イギリス」を見出していく。
きれいに髪を巻いて銀座の裏通りを歩いたら、これから同伴ですかと言われた、スカウトマンだったのだろうか。ソーホーやカムデンでナンパされることはあっても、水商売のスカウトはさすがに経験がない。東京なら安全って思っていたけれど、そんなの嘘だと思った。ロンドンに戻ってすぐのある日、夜11時の家路で、道端の車から降りてきた男の人を咄嗟に警戒した自分に気づく。日本の女性たちがどれだけ無意識に防衛本能を起動していることか、それは東京しか知らなければ、本人すら気づく術がない。
飲食店でのサービスが極めて整っている日本から見れば、ロンドンに驚かされることもたくさんある。ロンドンでは、グラスから飲み物がこぼれに溢れて外側がベタベタで渡されさても、怒ってはいけない。店員がテーブルを拭くという習慣だってちゃんとあるのだけど、日本の掃除のクオリティにはかなわない。カフェで自分が使った食器を自分で戻すのは日本だけ。空いている席に前の人の食器が残っていても、気分を悪くするほどのこともないのがヨーロッパ。
いろんな色がついた薄い酒を永遠に重ねる日本。一発きりっとエールかワインを決めるロンドン。東京の女の子はスカートにパンプスにブランドもののハンドバッグ。ロンドンの女の子はスキニーにショートブーツと革のサッチェル。デートは男の子がおごるのがステータスな日本。食事代はきっちり割り勘か交互に持つイギリス。
どっちも良くて、どっちも悪い。わたしの心の中の天秤は、揺れに揺れる。
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クリスマスの午後、わたしはプリムローズ・ヒルまで散歩に出かけた。この丘はロンドンの街を一望できる場所で、ロンドンっ子の休日の定番スポットだが、近年ではインスタグラマーや観光客のものになりつつある。朝から���ひとつない快晴の穏やかな日で、わたしは空いたベンチに座って冬の締まった空気を楽しみながら書き物をしていた。ほどなくして、わたしの座るベンチに日本人3人組が座り合わせてきた。
同じくらいの年頃と思しき男性が「お〜ここ空いてる、水たまりで何か汚ねぇけどいいかな?」と一緒の女性2人に呼びかると、わたしに断ることもなく座って、携帯でクリスマスの音楽を爆音で流しながらお酒を飲み始めた。わたしに退いてほしいんだろうと思ったけど、先に座ったのはわたしだし、と思ってしばらく書き物を続けた。男は電話がかかってきて席を外して、女子2人の会話がしばし流れる。
10分20分たって男が電話を終えて帰ってきた頃、わたしはあらかじめ決めていた帰る時間になったので、あくまで自分のペースでPCをしまって立ち上がった瞬間、男性が秒速で「おっしゃ空いたぜ広がろうぜ!」と大きな声で言った。遠ざかりつつ、あまりの速さに辟易したところで、女性たちが「あの人、日本人じゃない?」と話すのが聞こえる。男性も「え、今の日本人だった?」と繰り返す。
3人の挙動に、ちょうどわたしが思う日本の嫌いな部分が全部詰まっていた。
あなたがたは、この公園静かでめっちゃ好きー!と言ったけれど、あなたたちがうるさいのよ。ベンチで相席になるときには、声をかけるなり、目配せするのが英国式だ。女子2人の会話は、パブでナンパしてもらって彼氏を作りたい話、日本は治安が良くて酔っ払っても大丈夫という話。はて、最近だと諸外国において、日本に旅行する人々に対して’飲み物に薬を盛られる被害に気をつけろ’と注意喚起が聞かれるくらいなのに、のんきなものだ。そして、あなたがたの見立て通りわたしは日本人だけれども、だったら何なのか。
でも日本にだって、たとえば新幹線で隣の席に座ってもよいかと声をかけてくれる人はいる。彼女たちを見て、どこにいるかじゃない、自分がどうあるかなんだな、と思った。環境が人に及ぼす影響も大きいけれど、とはいえ、東京にいる、ロンドンにいるってだけで、人は変わらない。東京で、何を見るのか。ロンドンで、何を思うのか。
ロンドン生活も4年目、と言っても、わたしは今まで定期的に一時帰国を挟んでいて、これまでだったら信号機を見誤るようなことはなく、日本に戻れば瞬時にモードを切り替えられたもので、はたまたロンドンに戻ってもすぐにはギアチェンジをできずに異邦人の感を持ったものだった。でも今回初めて、すぐには東京に適応できなくて、ロンドンには瞬時に馴染める自分が現れた。そこまで来ると今度は、ロンドンという街に嫌気がさす日だって来るだろう。
たとえどこにいようとも、自分がどうありたいか、それを大事にしようと強く思った。
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real-sail · 5 years
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わたしの勇敢なともだち
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わたしには勇敢な友人がいます 小学生の頃から、わたしが誰かに傷つけられたと言って泣けば代わりに相手を怒ってくれるような子で、間違っていることは間違っていると、先生に向かっても、大勢の前でも、きちんと言える人でした
そんな彼女が先日、わたしが今住んでいるロンドンに旅行に来ていて、滞在最終日には一緒に過ごして、ロンドンの街全体を見渡せる名物観覧車・ロンドンアイに乗ってから空港へ向かいました
わたしが空港に同行したのには理由があります 彼女は旅の途中で、復路の便が先の巨大台風の影響で欠航になったというメールを受け取っていたのです、そこで航空会社の対応窓口に電話をかけましたが、恐らく同じ状況の人で問い合わせが殺到したのでしょう、とても繋がる気配がありませんでした そのためこれは直接空港のカウンターに行くしかないと判断し、彼女は英語を話せないので、わたしは一緒に行くことにしたのです
午後4時頃、空港のカウンターに着いたと��には窓口に少し列ができていて、わたしたちもそこに並ぶよう促されました 確か先頭から6番目か7番目だったと記憶しています
わたしたちの後にも続々と、同じ状況の人が並び始めました
でも気がついたら、並び始めてから1時間近く経っても、2つしかないデスクには、それぞれわたしたちが到着した時にいた人たちがずっと変わらずに立っていました、つまり列が進んでいなかったのです
漏れ聞こえてきたことには代替便の候補がかなり厳しくて、当日中に出発したいとリスエストをした場合には、2回くらい乗り換えたり、日本の別の都市の空港に着くという話も出てきました
そりゃあ、より良い条件はないのかと尋ねたくなる気持ちもわかります、交渉に時間がかかるわけです
その列にいた人はほとんどが日本への直航便を予約していた人たちなので、乗り換えは厳しいなあ、でも覚悟せねばいけないんだなあという気持ちを抱いていたと思います
列の少し脇には既に交渉を終えた若いヤンキーチームがいて、それにも関わらずマネージャーと軽い口論になっていたため、困難な状況が伺えました
そして並び始めて1時間を過ぎた頃、ひとつのデスクが対応していた3人組のサラリーマンがついにそこを離れました 列の先頭にいたお兄さんが、腰掛けていたスーツケースからよっこいしょと立ち上がり、多くの人も列が少し動くことに希望を持ったそのとき、もうひとつのデスクに詰め寄っていた旅行会社の添乗員4人組が分裂して、お兄さんの前に滑り込むようにして空いたデスクに座る航空会社の職員に交渉を始めました
なんという華麗な割り込み! お兄さんはへなへなとスーツケースに再び腰掛けました、もちろん後に続いていたわたしたちも愕然とします お兄さんの様子を見ていた人たち同士で目があったりして、わたしたちはコミュニケーションを取り始めました わたしは思わずそのお兄さんに、今自分の番だって期待しましたよね、と声をかけました
列が前後した人たち同士で話し始めたら、だんだんと、それぞれの人が小耳に挟んだ会話から得た情報が集まって、添乗員さんたちが団体の席の交渉をするのに、団体をばらさずに乗せる方法を模索していることがわかりました 当日振替はまず無理、できたとしても2回乗り換え、直航便なら2,3日待つしかないと言われているこの状況で、です!
それは交渉に時間がかかるわけだし、ただえさえ無茶な要求をしているのに、たった2つしかないデスクを占領しているなんて、かなりひどいことです はじめはその状況をなんとかイライラせずにやり過ごそうと思って、わたしと友人でユーモアを最大にいかして、さっきのヤンキーはマネージャーの様子を動画に撮っていたから、きっとこの場にいたらこれも写真に収めたよね、ヤンキーここに呼んでこようか、なんて冗談を言っていたのですが、デスクを占拠されて30分ほどたっても状況が変わらないので、だんだんに列の人たちは怒りが湧いてきました これは声を上げたほうがいいのだろうか、という迷いが生じてきます
そして立ち上がったのはわたしの勇敢な友人でした
「わたし、今すごい言いたい、もう言ってくる」
添乗員に占領をやめさせるべく颯爽とデスクに向かう彼女をわたしも追います 彼女は添乗員チームの間に割って入り「すいません」と言いました
「あの、みなさん同じ会社の方ですよね? だったら1つのデスクにまとまってもらえませんか?」
すると添乗員さんチームが口々に、これまでずっと4人で頭を寄せ合って行動していたにも関わらず、自分たちが2つのデスクを使うことがいかに正当であるか主張し始めました
自分たちは別の担当を持っているんだ、同僚の後ろで待っていたんだ、何時から並んでいる、といった言葉です
友人は、待っているのはみなさん一緒です、と言ってから、添乗員には見切りをつけて、航空会社の人に向き直ってこう言いました
「航空会社さんのほうでも、団体と個人は受付を分けて対応するとか、していただけないんですか」
するとデスクでパソコンに向かっていたお兄さんは慌てたように、自分はそういうことはほかの職員がやっていると思っていたからと口籠ります そのときお兄さんは一旦団体をひとつのデスクにまとめようとしたように見えました、自分が向かい合っていた添乗員さんに、今自分がおこなった作業を一度改めて、隣のデスクに移してもいいですか、とまで言いかけたのに、添乗員さんは睨んでそのセリフを最後まで言わせませんでした 
そこでお兄さんは、他の職員に団体と個人を分ける対応をやってくれるように伝えてきます、と立ち上がったものの、でも自分がそれをすると振替の手続きがもっと遅くなるけれどいいですか、と言い出したので、わたしは友人の後ろから「だったらこちらがほかの人に言えばいいんですか」と言いました 頷いた航空会社の人を見て、わたしは列の先頭で待つお兄さんに「荷物見ててください!」と言い残し、その足で友人を伴ってフロアを暇そうに漂っていた同じ会社の職員さんたちに声をかけに行きました
そこにいたのは現地スタッフばかりで英語が必要だったので、わたしが要望を伝えました でもその職員さんたちにできることがないのもすぐわかりました、希望を伝えたら上の人上の人に伝えていくばかり、さらにはわたしたちをただなだめようとする人に突き当たったので、その人と話しても不毛と思い適当に切り上げました
少し諦めた気持ちで列に戻ると、わたしたちの後ろに並んでいた現地在住の日本人マダムが、今ここに航空会社のマネージャーを呼んだから、と言いました 現場でこういうことが起きているのを、マネージャーは把握して整備する責任がある、とマダムは言います、マダムもわたしと同じように、ロンドンを訪れていたご友人の予約便の欠航にあって英語の補助をしようと空港にやってきた方でした
ほどなくやってきたマネージャーは、完全にクレーマーの処理をしにきたという体で、来るなり淀みのない謝罪の言葉の数々を口にし始めました、まるでそれは英会話指南本の謝罪のページのよう そのあまりに不誠実な態度にマダムは怒り心頭、マネージャーの声に被せてでも希望を伝えようとしましたが、マダムが何を言おうとしても言葉を遮って一言も聞かずにただただ大きな声で謝罪を口にするので、マダムはやがて「あんたの話なんて聞きたくない!」とそっぽを向くそぶりを見せました
その様子が見るに堪えず、わたしも思わず口を開いていました
「Excuse me, sir. わたしたちは台風の被害が大きいことなんてよくわかっているし、お宅が欠航したことを責めたいんじゃない、今ここで、お宅の職員が誰も列の進行を気に留めてないことが問題なんです、いいですか、わたしたちの要求はひとつです、団体と個人の窓口を分けてください!」
「団体だって個人の集まりです、わたしたちは個人をないがしろにしません!」
「でもあの団体はひとまとまりに座ろうとしているんですよ! そんなの個人じゃない!」
マネージャーはカウンターは長く待たせることが見込まれていたから、ホームページに「電話を推奨する」と書いているんだと言いました いやいや電話が繋がらないから来たんだよとマダムとわたしが幕したら、わたしの隣にいた現地人の女性が「だったら今ここでかけてみたら良いの?」と訊いたところ、マネージャーは「でも電話窓口は15分前に閉まりました」と返します
その女性が続けて、わたしはホームページで定刻運行という情報を見て来たんだけど、と問えば、あなたが見ているのはコードシェアをしている会社のもので、そこまでうちは管理していないし、うちは正しい情報を出した、とマネージャー 結局女性はカウンターに見切りをつけて、その場で別の航空会社の便を自腹で購入し、それは4日後のものだったそうですが、予約していた便をキャンセルすると言って列を離れました
背後の状況にさすがに恐れをなしたか、気がついたら添乗員チームは再び合体してひとつのデスクにまとまっていました しかしマネージャーはこちらがもはや聞きたくないと言っているのに延々謝罪を怒鳴るため、マダムとわたしとマネージャーの闘いはこのあとも少し続いて、その様子を添乗員チームはせせら笑いながら見ていました
マネージャーが何の利益も残さずにやっと立ち去り、わたしたちが並び始めてから2時間近くたって、ようやく添乗員チームはデスクを離れました 後ろの人たちに一言でも詫びがあれば見直したところですが、こちらをちらちらとうかがいながら、しれっと去って行きました
そのあとの経過はまあまあです、先頭のお兄さんが去り、そのあとにいたご夫婦は一旦提示された案に苦笑いで頭を抱え別の選択肢も検討している様子でした 少しずつ流れるようになった列の中で、マダムとわたしはお互いを労い、お互いのゲストの幸運を祈り合いました
マダムとそのご友人は、我が友に、あなたが初めに声を上げてくれたから、旅行会社は占領をやめて、列が動くようになったと言いました 結局わたしたちは旅行会社が無茶な要求をするのをやめさせることも、航空会社に団体と個人の窓口を分けてもらう希望を叶えたわけでもないので、心から謙遜しましたが、マダムは、こういう勇気のある若い人がいてくれるのは希望だわ、と言ってくれました
そして我が友人の番が来て、担当が英語話者のお兄さんだったのでわたしが通訳しつつ、翌日朝のフライトを得ることができて、彼女のターンはものの5分ほどで終わりました マダムのゲストと場所を入れ替えながら、マダムに彼女が得たフライトの報告をすると、マダムは英国式にグッドラックと言うので、わたしも、そちらもグッドラック、と言って別れました
彼女はのちのち、わたしの「荷物見ててください!」と「そちらもグッドラック」がおもしろかったと言いました 英国生活4年目、わたしもかなりかぶれてきたようです
でもわたしは、添乗員に向かっていった彼女の姿を見て、あの田舎の小さな町にひとつだけある中学校の教室で、おでこにできたにきびをからかわれて泣いていたわたしに「誰がそんなこと言ったの、わたし言ってくるから!」と言い残して彼女が見せた背中を思い出し、友人の変わらなぬまっすぐな勇敢さに感銘を受けました
中学時代に何度も、彼女のそういうまっすぐさにハッとさせられて、わたしは彼女を尊敬して、見習いたいと思っていたはずでした 最近でもたまに彼女がわたしのために立ち向かってくれたシーンを思い出すことはあったけれど、不正を前にした彼女の、媚びも迷いもない真っ直ぐさにじかに触れて、どんな状況でも恐れずに守るべき正義のようなものを、わたしは忘れていたように思いました
無論今のわたしもどちらかといえば媚びないほうの人間ですが、そのルーツはここにあったんだな、ということにも気づきました
この文章はコーヒー屋さんで書いていますが、たった今、隣の女性に、トイレに行く間カバンやパソコンを見ていてください、と頼まれました わたしはあの日空港で、お兄さんに日本語で勢いよくそのセリフを言い残したシーンを思い出しながら、もちろん!と笑顔を返しました
勇敢なともだちに、乾杯 そしてわたしもそんな友達に見合う自分であろう、大事なときに立ち上がれる人間であろうと思いながら、冷めたコーヒーをすするのでした
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real-sail · 5 years
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引っ越さなかった夏
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突然の猫は、ホームステイ先の、ホストキャットのローラでございます
今のホームステイ先に入居してちょうど1年が経ちました
半月ほど前に日本への帰省から研鑽の地ロンドンへと戻ったものの、ホストファミリーがバカンス中につきおうちにいたメンバーは猫のみ…
まあわたしとしてはローラ独り占めも幸せですけども(実は結構彼女とうまくやってる)
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ご家族それぞれに旅仕事などもあり、先ほどやっと全員に帰倫の挨拶を済ませました
実にほとんど2か月ぶりにままさんに会って熱烈ハグを受けて胸熱なわたくし、そこにぱぱさんもいたので
「今日でちょうどここに越してから1年経ったって気づいたの」
と言ったら、ままさんがお祝いしなきゃ!と言って港町ライで拾ってきたという貝殻をふたつくれました
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ぱぱさんはいつもわたしをクレイジーなまほと呼びますが、今日もままさんに
「クレイジーなまほが住んで1年だって!」
と言うのでわたしはあははと流していたらままさん
「この家に住むにはクレイジーが必要だからね」
と続けるので
「クレイジーなら好物だよ」
と答えておきました
ブリティッシュジョーク、ちょっとわかりにくいでしょ
でも今となってはそんなブリティッシュユーモアがないと調子が出ません
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