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sansounimoku · 3 years
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雨は緑を濃くする。
前回の投稿のつづき。
まず最近の出来事として、死の恐怖から自分の本当の願望を思い出す過程を経て、
自分が心地よくご機嫌さんでいることで、周りも元気になる。という使命を思い出してから数日が経っていた。
とにかくわたしはご機嫌でいるだけでいい。
まずはそこだけを意識していた。
そこを決めたら、早速向き合うべきことが目の前に現れてきた。
不思議。
それはお金のことが、問題のような形で浮上してきた。
隣に住んでるじぃちゃんが、6万5千円貸してくれと言ってきた。
じぃちゃんには、わたしが幼いころからお世話になっている。
ばぁちゃんが痴呆になってからは熱心に介護をしてくれた。
去年ばぁちゃんは、無事施設に入ることができたのだが、コロナの影響もあって会うことができなくなってしまった。
そしてじぃちゃんには時間ができたわけだけれども、なにか無気力になってしまっていた。
そして、ずっとしていた畑作業もほとんど手をつけなくなり、次にばぁちゃんと面会できる日だけを考えて、日々を消費しているようであった。
もちろん働く気力もなく、毎月の年金も使い果たしてしまう。つまり、お金を貸したらほぼ返ってこないだろう。ということがわかった。
そしてじぃちゃんの性格は、やや、というか
かなり気難しいかった。
こちらの言うことや、アドバイスさえも一切聞く気がないし、むしろ逆ギレしてくることさえよくあった。
そんな状況のため、お金を貸すことはかなり、めっちゃ、めちゃくちゃ抵抗があった。
しかし貸すことはもはや確定であったため、自分の気持ちをどうにかするしかなかった。
そこで、いやだ!という気持ちを全部紙に書き出してみた。
するとその問題から芋づる式に、お金に関する観念やそこに基づくトラウマのようなものも出てきた。
結論、わたしはお金を自分で完全にコントロールしたいという気持ちが強かった。
コントロール不能な状態になることが、怖いし、そうさせる相手が憎くてしょうがなかった。
これは他者、特に自分が大切な人に対しても出してしまうわたし闇の欲求であった。
しかし、人間、大好きな彼氏、もしくは自分自身でもよいのだが、コントロールされることを喜ぶ人などいないだろう。
そう、わたしはこのお金をコントロールしたい、もとい、全てにおけるコントロール欲求を手放すチャンスが来ていた。
と捉えることができた。
それと同時に、わたしは古本屋さん兼ギャラリーを作りたい。と以前から思っていたことをふっと思い出した。
さらに、本から出るパワーの話や、パワースポットを各地に作る。といったような情報を見聞きするようになっており、
そうだった。わたしがしたいのはそれだった。と思うようになっていた。
さらにじぃちゃんとばぁちゃんはかなりの数の本を所有していた。しかし、ブックオフではほとんど値段のつかないような専門書や古書が多かった。
また私の好みの、芸術や文学、民族などの本もかなりあった。
それらの本を置いている一室は独立した家になっており、リノベーションさえできれば、そのまま古本屋兼ギャラリーとして、十分に機能することに気づいた。
そしてその夢をじぃちゃんに話した。
じぃちゃんは明らかに目を輝かせて、やってみようか。といってくれた。
なんと!初期投資6万5千円で、夢の古本屋兼ギャラリーができてしまう可能性をゲットした!
と言うような感じで、わたしのパワースポット兼古本屋兼ギャラリー計画が動き出した。
それ専用のsnsアカウントも作り、これから起動にのせていこう。
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sansounimoku · 3 years
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喪失について考える。
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こちらは買い損ねた、USJ20周年限定のETのぬいぐるみ。
買うつもりでいたのに、買う気満々だったのに、少し気持ちを温めているうちに売り切れてしまっていた。
そうなると余計に欲しくてしょうがなくて、売り切れてからもしばらく執着していた。
今はもうその時の気持ちは落ち着いて、考える時間はほとんどなくなった。
1ミリでも対象に思い入れがあると、それは執着となる。
過ごした時間が長ければ長いほどそうであろう。
それがこの三次元に生きるということ。
人との関係の中では、思い入れはさらに強固になりやすいだろう。
ワンネスが腑に落ちていなければ、この思い入れというものを手放すのは困難だ。
おそらくそのために、この次元には時間が用意されている。
しかし、強固な思い入れを手放すのに、いったいどれだけの時間が必要なのだろう。
わたしは、家族や大切な人と一緒に居られなくなる喪失感について考えていた。
身近にそれによって気力を失っている人がいる。これはきっと誰にでもあり得ること。
例え他に友人がいても、なにかのコミュニティに属していたとしても、埋められない穴。
替えが効かない存在の喪失。
すべては繋がっていることが腹落ちしていなければ対処できないように感じてしまう。
もし自分がそうなったとき、
どうしてもらいたいだろうか。
呼吸をするようにごく当たり前に、いつも困った時にそばに居てくれて、些細な愚痴を聞いてくれたり、一緒にご飯を食べたり、笑いあったり、ケンカしたり。
その毎日の積み重ねがふっと、無くなること。
物凄く寂しいどころではない。
生きているうちにどうこうできることでもない。
まだ答えは出せずにいる。
世界がわたしに問いを投げかけている。
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sansounimoku · 3 years
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わたし自身が"ご機嫌さん"でいることの最重要性。
ここ最近ずーーーっと途方に暮れていた。
というより、闇の中を彷徨っていた。という方が近いかもしれない。
自分の魂が望む、本来の自分というものの願望が見えなくなっていた。
寧ろ、そんな本来の自分の願望があったとしても、そんなの叶えてはいけない、叶うのが怖い。わたしが願望を叶えていいわけない。というような感情が押し寄せてきていた。
それは懺悔にも似た、なにか十字架を背負った人のような感情。絶望感にも近かった。
自分が幸せになれば、だれかが不幸せになり、結果やっぱりわたしは幸せにならない。という謎の、極めて謎の、強固な観念。
これはかなりしんどい。
こんなの腹の中に持ってたなんて、よくぞ表面(感情)に出てきてくれました。
ありがとう。ナイスタイミング👍
ということで燃やしてみた。笑
文字通り、「自分100%で自由に生きて、願望もすべて叶う」ことに対して思うことをどんどん書き上げて、最終的に燃やすワークに取り組んだ。
結果出てきたのは、恐怖100%+母への想い。笑
ここでは詳しくか書かないけど、笑っちゃうくらい全然関係ないのに、自分の中ではなるほどなと思える繋がり方をしていた。
それはうっかり繋がっちゃった間違った観念なので、今気づけてよかったね〜〜と、燃やしてスッキリし、物質化してから光に変えてもらいました。
ありがとう。シェイシェイ。
そして、観たい映画を観て、行きたかった温泉に行った。
雨の中の露天風呂。
龍のいる🐉変わった温泉♨️
そこでさらに気づきをもらった。
わたしは自分自身がパワースポットみたいな人間でいること。が魂の願望であったことに気づいた。(これはワークの後の思考の書き換え中に気づいた)
で、わたしがいつもご機嫌さんでいて、会う人たちに笑顔を向けるだけで、その人たちは癒されて、元気になっちゃうのが、わたしの想い描くパワースポット人間。
だから、わたしがいつもいい波動で、やりたいことをやって、元気でご機嫌さんでいることが役割であり、それで周りの人に会うことがもはや奉仕である。と。
なんと!なんとありがたいことだ。
頑張らなくてよかった。
極論、わたしはご機嫌さんで人に会うだけでいい!笑
オカンや周りの人が私に会って喜んでくれたり、笑顔になったり、癒されるのは、相性がいいとか、マッサージしてあげた、とか何か買ってあげたとかじゃなくて、わたしがパワースポット人間だったから。
これ読んだ人で、は?ってなる人もいるかもしれないけど、とにかく腑に落ちたんだからいいでしょう。笑
だから、今までにわたしに会えた人はラッキー🤞よかったね♡ってすごく思ってる、今。爆
わたしがやるべきことがあるとすれば、自分を癒して、やりたいことやって、とにかくご機嫌さんで、人に会うこと!それだけでいい🤣
なんだそれ!めっちゃいいじゃん!
そしたら、自分のホロスコープ見てもらって言われたこととめっちゃ辻褄あうのよ!だから!だからこれで間違いないのだーー!
よっしゃーー!笑
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sansounimoku · 3 years
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学ぶことがない。という言葉に傲慢さを感じたことについて考えてみた。
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うちの周辺の自然。
桜のシーズンにたまたまこのスポットを見つけて、とても気に入ったのでたまにここら辺を散歩している。
尊敬するというか、いいなぁ、素敵だなぁと思う人々が、習慣として散歩をしているということを聴いて、わたしの中での散歩の価値が上がっている今日この頃。
この場所は、車道からは見えない、隠れたひっそりとした場所にあり、この空間に入った瞬間、全然空気感が変わるというか、エネルギーが違う場所である。
車道まで出れば、家も車も人通りもたくさんあるので、ここを散歩をしていたり、ジョギングしたりする人にもちょこちょこ遭遇するが、人の気配がなくなると一瞬にして自然のエネルギーに包まれる、どこか少し怖くもある神秘的な場所である。
またここら辺はウォーキングロードとされいるいて、沢山の小道に分かれており、散策ができるようになっている。
普段行かない小道に入ってみたところ、少し木々に囲まれて薄暗い場所に、お地蔵さんが祀られていることに気づいた。
正直とても怖かった。
なにかとても独特の雰囲気であった。
そこは挨拶してそそくさと立ち去り、開けたコースに戻った。
しかし歩いていると、木々や流れる水からも生命やエネルギーのようなものを感じることに気づく。
そして人間以外のエネルギーというのは、純粋であるがゆえに、畏怖の念を感じざるおえない。木々も水もお地蔵さんもみな同じなのだろうと思う。
そんなことを教えてもらった。
そこでやっと冒頭の話だが、何か配信されている動画やらコンテンツやら人との交流のなかで、学ぶことはなにもなかった。やら、無駄な時間だった。と言う人がいる。
わたしも昔そんなことを言った覚えがある。
その発言は、どうしても傲慢に聴こえてならない。
学ぶことがあるかないかは、完全に自分次第だと思うからである。
学ぶことを受け取れなかったのを、他者のせいにしてはならない。言い方がわかりづらかった。や、その内容には同意できなかった。というのならわかるのだが。
そして、わたしは何故その言葉に憤るのか。
たぶん、自然の中に身を置いて、なにも語らない自然からでも汲み取ろうとすれば学びは無数に存在している。
学ぶとは、積極的に何かを取りに行くような行為であり、対象はきっかけに過ぎない。
自分の中で、やってきた情報を繋げ合わせる能動的な行為がないと、学びはないに決まっている。
もしすでに学んでいて、わかっていることを、別の人が自分の言葉で自分の解釈を話している場合、自分の学びとその人の学びが繋がるだけでわたしはワクワクする。
それはわたしにとってとてもいい体験なのだが、同じものを見て学びがなかった。と一蹴されてしまうことに、同時にわたし自身も否定されたような気分になるのだろう。
しかし、それを強要してはならない。と戒めの気持ちを込めて、あまり見る人のいないであろうこの記事に残して浄化することにする。
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sansounimoku · 3 years
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この前、ものすごい天気雷雨に遭遇した。
この日は珍しく全国的に、急な雷雨の日だった模様。
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そんな不思議な日を過ぎて。
わたしは何故かものすごい罪悪感に襲われた。
誰かが、罪悪感は他人軸に生きてる人が抱きやすいですね。というなことを仰っていた。
それも一理ある。
しかし、それはほんの一部分に過ぎず、生きる気力をも奪うほどの強烈な罪悪感は、他人軸云々では済まなかった。
確かに、誰かに対して申し訳なく感じるのが罪悪感なのだが。
もう亡くなってしまったものたちへの懺悔。
取り返しがつかない絶望感。
そしてそれはきっと生きている以上、どうしても防ぐ事ができないとわかっている恐怖。
それが一気に押し寄せてきて、文字のごとく生きる気力を失った。
喜んではいけないし、望んではいけない。という感情が強くなった。
では、どうやって抜けたか。
実際は抜け切っていない。
しかし、少し浮上しつつある。
恐怖を真正面から受け止めて見つめたことが大きかったと思う。この恐ろしく不快な感情を無理に消そうとはしなかった。というか、そんな気力もなくなっていた。
怖い、と申し訳ない、が交互に押し寄せてきた。
どうしようもなくそんな状態から抜け出せぬまま、仕事に行かなければならないのは苦痛であった。
しかし、会社に来てみて、いろんな人たちが忙しなく働いている中に身を置いて自分も淡々と仕事をしているなかで、一人一人の生きるエネルギーみたいなのがわずかに感じられた。
つまり、他者の生命力を分けてもらって、なんとなく力が戻ってきた感じがした。
さらに翌日ふと、他者の言動にイラッとした瞬間、自分に生命力が戻ったんだと感じた。
この恐怖と罪悪感とはもう少し向き合っていこうと思う。
ずっと根底にあったものが、感情として爆発的に表面に出てきてくれていることは、この上ないチャンスだと思う。
なぜなら手放すタイミングが来ているから。
すべて繋がっていて、自分で決めたタイミングで起こっているのだから、安心して受け止めようと思えた。
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sansounimoku · 3 years
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創ったものの終わらせ方について考えている話。
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陶作をするにあたって、いつも納得のいくものができるわけではない。
むしろ、「こりゃどうしようも無い」というものができてしまうことは多々ある。
そんなモノたちが部屋を埋め尽くしてきたとき、思い切って捨てることにした。
陶器は粗大ゴミにあたる。
うちの地域は月に2回ほど回収日があるので、袋いっぱいの陶器を回収場所に持っていった。
回収場所には、箪笥や布団や玩具など、大小さまざまな生活用品がきっちり分類されて置かれていた。
陶器・ガラス類はあっちね。といわれて持っていくと、大きな木箱に大量の陶器やガラスが入れられていた。
そして担当の人が定期的に長い鉄の棒で叩き割ってそれらの体積を小さくしていた。
そのときに感じた。
ああ、わたしは粗大ゴミを創っている。誰かにとっての創作物は誰かにとっての粗大ゴミだ。と。
それから自分の創り出してしまったものの終わらせ方が気になり考えるようになった。
陶器は土に戻せない。釉薬を剥がせて、細かく粉砕などの処理ができれば、材料に戻せるかもしれないが、個人でできるレベルではない。
今のところは、修復、再利用しか思いつかない。
日本には金継ぎの技術がある。
割れた陶器を漆で繋げて金などの金属粉で装飾するリメイク技術である。
これは本当に素晴らしい思想であり、技術だと思う。
こうやって割れてしまってもリメイクして使い方続けることはできる。
そして、こりゃどうしようも無いものを創ってしまったときの後処理としては
例えば割って、材料のパーツとしてなにかアートワークに使う程度で、一旦なにか別のものに利用して気を休めることぐらいしか思いつかない。
それでも最終的にはゴミになる。
とにかく、自分が創ったものがゴミになることは、一生付き纏うテーマであり、考え続けなければならない。
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sansounimoku · 4 years
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メメント・モリ
絵を買った。
陰と陽。
生と死。
光と影。
入口と出口。
別に無くても生きていけるものが
何か大切なことを教えてくれたり、
生きる意味になることもある。
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sansounimoku · 4 years
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三草二木です。
可愛い植物。
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ソフォラミクロフィア
昔上手く育てられなくて挫折した植物。
今なら大丈夫かなぁと、もう1度勇気を出して手に取ってみた。
これからの成長が楽しみ。
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sansounimoku · 4 years
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三草二木です。
こちらは2019年4月のサンスベリア三兄弟。
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現在は左手前の子だけが残りました。
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丸々1年経ち、会社の陽当たりの良い場所で、沢山��人に愛でられたり、水を与えられたり、ツンツンされたり、キュッキュされたりした結果、こんなに大きく育ちました。
植物は人間からの興味の目が多ければ多いほど大きく元気に育つ。という一つの仮説が生まれました。
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