Tumgik
sekitoh · 4 months
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写真
 先日、ひょんなことから、写真家の友人に私がずっと愛している男を会わせる機会があった。  友人との待ち合わせ場所に男を同伴して赴いたのは、きっとその写真家がわたしたちふたりの姿を撮ってくれるだろうという淡い期待があったためだ。  世界に二人きりであることをひたすら求めて関係してきたわたしたちにはついぞ「公」をやる機会がなく、数年来、頑なに「二人きり」を行使してきた。しかしここにきてどうしてか、このところわれわれは公に現れたくて仕方ない。その衝動の一環として、他者に二人を撮ってもらう客観的な一枚を渇望していた。何かしら、愛の証拠を残しておきたかったのだろう。二人の成し遂げた、類稀な愛の、その証拠を。  「二人の写真」。われわれを捉えるそれは傑作であるべきだった。美しいものであるべきだった。われわれが、心底から納得できるものであるべきだった。それがゆえに、軽々しくは撮らせられないのだった。この愛を、何も知らない者に撮らせるわけにはいかない。少なくとも私の文章を解する者でなくては。私は偶発性への賭けに出たのだった。  写真家の友人は私がことわりなく人を引き連れてきたことの異常性を察知し、瞬時におのれのなすべきことを把握した。待ち合わせた交差点で軽やかに、何の準備も指示もなく、彼は私が愛する男と私のツーショットを撮った。愛する男は私を愛しているし、写真家の友人も私に対して友愛をもっている。彼がシャッターを押し、彼がレンズに映る、その一瞬は私のために捧げられた一瞬だった。
 後日届いた二人の写真を見ると、互いがまるで別の世界を生きているような、まったく異なる筆致をしていた。  つるりとした顔の私、複雑に入り組んだ顔の彼。モノクロームに加工された二人の姿の、あなたの顔はおそろしく暗い。私の顔は、反して、白く輝いている。腕を抱えて寄り添いながらも、わたしたちはまったく違う地獄を生きている。写真とは残酷なものだ。ありありと、二人の形而下での隔たりを示してしまうのだから。それでも、わたしたちが別の地獄を生きていることもまた、わたしたちの関係を深める糧となっていることを双方ともに理解している。生を共にするとは、本質的にそういうことだった。おためごかしでもなりゆきでもない、そんな真に迫るかたちで共にあれる人が現れてくれることを私はずっと切望していた。現れ、意志でもって関わり、道行きを共に歩む。この実現は生の奇跡であった。
 *
 「もしかすると気を悪くしてしまうかもしれないんだけど」  交差点での出来事のひと月後、写真家と飲みに行ったところ、例の写真の話題になった。撮ってくれてありがとう、嬉しかった、と伝えたら、何やら神妙な顔をするので少し驚いた。私はその友人の品性を信用していて、むやみなことは言わないとよく知っているので、気を悪くするわけはないよと続きを促す。  「写真を整えていて、思ったんだ。その、彼の目が、狂気を孕んでいてさ……」  だん、と音がするほどに荒々しくジョッキを机に置いて、「そう」と叫んだ。  そうなのだ。叫びながら、私は悶えた。どうしてか、誰もあの目の孕む狂気に気づかない。あの異常性に。世界で私だけが気づいている、恐ろしい輝き。ようやく気づいてくれる人が現れて高揚する。カメラマンというのはずばぬけた観察眼を持っているのだなと思う。あの一瞬で、よくも。  そんなふうに話すと、写真家は少し謙遜して、付け加えた。  「会って話していてもわからなかったことも、撮るとわかるんだよ。写真の明度を調整している時に、ああこの目は、と思った。あなたが彼をミューズとしたのはよくわかる。あの男は異常だよ」  写真家が彼を評するその言葉のすべてに頷く。よくぞ見抜いてくれた。私は彼のその異常性に恋しているのだから。  「そうでしょう、そうなの。にこやかに社交をこなしている彼の目がまったく笑っていないことに気づいた時、本当にぞっとした。そして恐ろしく惹かれた。その狂気を徹底して表に出してこない、人間離れした抑制。あれを飼い慣らす知性の強度。本人ですら、自分が何を制御しているのか気づいていないのではないかと思った。そして、私はそれをどうしても暴きたくなってしまった」  写真家は苦笑して、「あんなのに会ってしまったらもう、仕方ない。苦しむからやめとけだなんて、おいそれと言えないよ」と言う。  「写真を撮るとき、人にカメラを向けると誰しもかならず身構えるんだよ。撮られたい顔を模索したり、少なからず萎縮したり、恥じ入ったりする。でも、彼にはそれが一切なかった。怖じるということが。撮られ慣れているとかそういうことじゃない、世界におのれの身を投げ出してしまっている人の無頓着と言うべきか、あるいは……。正直、こちらが一瞬怯んでしまったよ。悔しいなあ」
 *
 話しながら、男の目を思い出す。  写真家はその眼光の鋭さを指摘していたが、私が見ていたのは、彼の目に何の感情も宿っていないことの異常さだった。表情は微笑みを絶やさないのに、目だけはたえず無を湛えていた。生まれて初めて、これほどまでに世界から乖離している人を見た。あの目が光る瞬間を見てみたくなった。彼の目が光る時、その光が私に向けられているべきだと思った。  撮ってもらった写真のなかの男の目は、改めて見ると、少なからず威嚇の表情を帯びている。おそらく思い上がりではないだろう、「この人はわたしのものだから、くれぐれも丁重に」ということを言っている。私が友人として親しんでいる写真家の存在を尊重しつつ、自分の所有物である私を傷つけたら殺す、と言っている。  他者に暴力を向けることを徹底して避けてきた男が、殺す、という目をする。わたしの大事なものを傷つけたら殺す、と。私があの目を光らせたのだ。欲望によって。本質的には何事にも無関心であった男の目を私だけが光らせた。私がその狂気を剥き出しにした。そうして今ようやく、あの目の異常な輝きが第三者の手によって写し取られ、顕現したのだった。私を見つめるあの目の獰猛な輝きが、私の視界にのみ映っていたあの輝きが、ついに表象された。
 男がひた隠しにしていた狂気をあますことなく引き出し、そのすべてを自分に浴びせる。その愉楽に酔いしれて日々を過ごすことの、なんという甘さ。なんという痛々しさ。痺れるような快感に耽って、私も男も、かつては備えていた厳格な統制機能を放棄してしまった。生きることに淫している。共に生きることに。道行きを行くことに。
 *
 かつて、「ファム・ファタール」というタイトルで、男について書いた。ファム・ファタールとはフランス語で「運命の女」を指す。女が男たちの文学の題材として易々と死なされてきたことを批難し、そのような文学作品たちへの復讐のためには男たちこそが私の文学のために死ぬべきであると語った記事だった。  実際に、これまで私はほとんど書くためだけに男たちの性を搾取し、愛することもせずに暴虐の限りを尽くしてきたつもりだったが、その運動は奏功しなかったのかもしれない。それが、ついには一人の男に忠誠を誓ってしまったことで露呈した。計画を頓挫させ、忠誠を誓った相手が、この眼光の男だ。ファム・ファタールを題材として筆を走らせてきたような男どもはけっして一人の女に忠誠を誓わなかった。私の計画は、一人の男に忠誠を誓うことで瓦解した。  その瓦解を引き起こした当人である私の男はこれを読んで、「ファム・ファタールはあなただろう」と笑っていた。いつまでも笑っていた。理知的な人なので、けっして男性強権的な価値観のもとにそう言っているわけではない。ただ、現実的な状況に鑑みて、自分がファム・ファタールと呼ばれることにどうしても納得がいかないらしい。  出会い、惹かれあい、関わり、生殺与奪の権まで預けた女。何十年にもわたって敷いてきたおのれの統御を巧みにほどき、押し込めて潜めていた狂気をあられもなく暴いた、たった一人の女。いわゆる伝統的なファム・ファタールを演じている当の本人が、自身のやったことを差し置いて男の側をファム・ファタールと呼んで嗤おうとする。男は、その手のひら返しをある種の裏切りだと感じたのかもしれない。
 指摘されるとおりなのだ。私は確かにあなたのファム・ファタールで、本当は、あなたは私の「ミューズ」。私にものを書かせる女神。ミューズという概念もまた、搾取の文脈を逃れ得ないものかもしれないが、「あなたを描かせてくれ」と一方的に恋い縋っているだけまだよいだろう。そもそもの位相が違う。あなたはファム・ファタールである私によって快楽とともに人生を狂わされる。私はミューズであるあなたを描いて人生を至上の美しさに仕立て上げる。  写真がとらえたわたしたちの顔が白と黒のソラリゼーションをなしていたことが、この位相の相違をよく示していた。そここそに私はあなたと私の対等を見出す。  あなたは私のミューズで、あなたが私に向ける狂気を糧に、私はものを書き続ける。ファム・ファタールを抱えてしまったあなたは、あなたをミューズとして追い縋っている私に、一方的に運命を翻弄され続ける。私はあなたのために書く。あなたは私のために死ぬ。これがわたしたちの対等で、わたしたちにとっての「共に生きる」ことなのだ。共に歩み、共に死ぬことなのだ。
 *
 写真家は言う。「いつかもう一度、彼を撮ってみたい」と。  ミューズを持つ生がどれほど美しかろうと、彼を書くことによって明らかに命を削られている私は思う。あなたもあの狂気に魅入られないといいけれど、と。
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sekitoh · 6 months
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sekitoh · 7 months
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無題
9/24 12:41
sacaiの服を買った。フェイクスウェードのブルゾン。税込192,500円也。初めて衣服に20万近く支払った。高い買い物には人生のギアを無理やりにでも上げる力がある。俺は人生の契機に、しばしば今の自分よりも少しだけ背伸びした服を買う。その背伸び分だけ服が自分を少し先へと引っ張ってくれるような気がするのだ。それにしても今回は背伸びにしてはいささか伸び過ぎている気もしないではないが……。因みにプロパーで現行のコレクションを買うのも初めてだ。
もちろん背伸びとはいえ、オシャレですね〜と言われることが増え、自分としても自分なりのスタイルが分かってきて、そろそろ一流のいい服に挑んでもいいのではないか?という気持ちもあったところでの出会い。先般の散財の甲斐もあって良い具合に財布の紐も緩んでいた。何より始���で店に向かっても買えなかった、件のsacaiとCarharttコラボのミシガンジャケットを上回る魅力。全ての符号が一致した今を逃せば次はない。
取り急ぎこの衝動を確かめるべく店に赴いて試着をしようと思い、先日始発で向かった店へ、休日に再び向かった。希望のサイズが最初は店頭になかったので、一つ大きなサイズのものと、店内で気になったコートを試してみた。前者はやはり少し大きい。後者は着てみるとしっくりこない。
折よく店員さんが店外の倉庫から俺が当初探していたサイズのものを見つけてきてくれた。最善の提案に務めてくれることへの信頼度よ!ワクワクしながら袖を通すと自分のイメージと一致どころか、ゆうに期待を上回る仕上がりに鏡の前で何度もくるくると回ってしまった。フェイクスエードの上品な質感と異素材のミックス。ブランド特有のフロントのステッチ。フロントから見てもバックから見ても美しいシルエット。服を眺めながらいくらでも酒が飲めそうなくらい素晴らしいデザイン。ひとしきりディティールを堪能したのち、購入の意を伝えた。
帰宅して改めて鏡の前で袖を通してパシャパシャと写真を撮った。それでは飽き足らず、ハンガーにかけてそれを眺めながら一杯やった。まさか服を見ることを肴に酒を飲む日が来るとは。
ようやく夜に少し肌寒さを感じるようになってきた。鏡の前ではなく、外で袖を通す日もそう遠くなさそうである。
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sekitoh · 8 months
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9/6 0:19
sacaiとCarharttのコラボラインが今日から販売開始と聞いていたので、帰りの電車で待ち構えていたが、日付が変わってもサイトが更新される気配がなく、おや?と思って情報を探したところ朝の10:00〜の販売開始のようだった。まずい。その時間は仕事の就業開始時間とちょうど被っている。
俺のような感度の低いアンテナの服好きにもキャッチされるような素晴らしさなのだから、おおかた争奪戦になるだろう。参った。いや、逆にハイソな人間は大衆が気付くようなものはむしろ意図的に避けていくだろうか。大衆に気づかれたから避ける、というのはむしろ踊っているようで踊らされているように感じるが。
いずれにせよ、自分が“良い”と思ったのであれば、それがたとえ社会的にどう評価されていようが、その直観には従うべきだと思う。自分の価値観に社会的視線が尺度として入り込むことはあれど、社会的視線や常識といったものは人間の直観までは忍び込めない。はずである。
以前からTwitterをフォローしていたがブログまでは読んでいなかった槙野さやか氏のブログをなんとなしに読んでみたところ、読み進める手が止まらなくなった。
人間の直観は欺瞞といかほどの距離があるだろうか?
というようなことを考えた。直観だと思ったことが欺瞞だったとしたら?背筋の凍るような想像だ。
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sekitoh · 8 months
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sekitoh · 8 months
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9/2 0:52
8月が終わった。8月は終ぞ一度もTumblrに文字を書かなかった。TwitterとTumblrの合いの子くらいの長さの文章を書けるThreadsという第三勢力が突如現れ、主にそちらで文字を書くようにし始めたからという理由もあるが、単純に7月があまりに忙しく、8月はそこからの回復に費やしたからというのもある。今も回復しているか?と言われるとイエスと言い切れない。常に摩耗しているのが情けない。
7月の記憶はとうに曖昧で、パートナーと別れたのが7月の下旬頃だったような記憶があるのみで、それ以外は忙殺されて終わった気がする。本当に全ての事象が嵐のようだった。あと大学の先輩と美味いシンガポール料理を食べたのは7月だったはず。あれが唯一の晴れ間だったかもしれない。あれから次にいつあそこにまた行こうかと機を狙い続けている。緑野菜の炒めものがとにかく美味しかった覚えがあるが、肝心の野菜の名前がサッパリ思い出せない。
8月はあまりにも一瞬過ぎて殆ど覚えていない。上旬に友人たちと伊勢に旅行に行ったのと、中旬に『君たちはどう生きるか』を2回観たのと、高校の頃からずっと好きだったバンドの来日公演を観に行くことができたのと、下旬に財布の紐が緩むどころか木っ端微塵になってほしいものを片っ端から買って大満足したくらいか。
7月か6月かに得た気づきを経て、生活だけは崩すまいと最低限の水準は引き続きなんとか保てていると思う。
10月に久々にライブをすることになったので、定期的にスタジオに入っている。それに伴いギターを触る時間もだいぶ増えた。やはりギターが今のところ1番自分の時間感覚を消失させてくれる。大学生の時はほとんど一日中スタジオにいることもあったし、家でも8時間以上ぶっ続けでギターを弾くようなこともあった。先日はドラムでスタジオにも入った。ドラムもギターに負けず劣らず没入できる。
9月は人と会う約束が既に沢山ある。人と関わらないと失っていくものがなんと多いことか。物欲は止まるところを知らず、SacaiとCarhartt WIPのコラボジャケットを何としてでも買いたいと息巻いている。そこで一旦は区切りをつけたいと思っているが、果たしてどうなるか。実はバッグもほしいと思っているが、見て見ぬふりをしたい。
7月に食べた緑色の野菜を思い出した!空芯菜だ。シャキシャキとした歯ごたえとほどよい塩味の味付けがとても美味だった。
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sekitoh · 10 months
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7/2 13:05
「社会はつねに、生産の効果という点から見た、自然に対する人間の規則的・実利主 義的な力の統制によって発展しながらも、そのなかに、生産を支えている労働の概念とはいちじるしく背反するような、あえて言えば純粋消費的・暴力的な反社会性の契機をふくんでいるのではあるまいか。そしてそれこそ、あらゆる芸術衝動をふくめたエロティシズムの原理であり、消費の価値がふかく人間の実存と相渉るところではなかろうか」
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sekitoh · 10 months
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無題
7/1 9:31
6月が終わった。まばたきしている間に……なんて優しいものではなく、まばたきすらする間もなく1年を折り返してしまった。
「折り返してしまった」とは言うものの、ただ徒に時間を過ごしたという認識は振り返ってみるとあまりない。そんな自省すらも許さない濁流の中でただただ沈ま��いように泳ぐことで精一杯だったような気もするし、頑張る時は頑張って、頑張ることができない時は素直に諦めて頑張らないようにしていた気もする。
そんなあまりの忙しさにセルフネグレクトと言っても過言ではない生活環境で一年近く生活していたことに先日気がついた。
もちろん自分の生活がグズグズになっていることはこれまでも自覚していたが、それはあくまで主観的な認識で、客観的に捉えられていなかったというか、真に腑に落ちたものではなかったように思う。
きっかけは、仕事の休憩中にしばしば通っている定食屋のご飯を、普段注文していた大盛りから普通盛りに変えてみたことろ、普通盛りでも十分な満足感を得られたことに端を発する。そこから普通盛りを半割りに変えてみてもこれまた十分な満足感を得られた。更に意識的に咀嚼する回数を増やしたところ、なんなら大盛りでご飯を食べていた時よりも大きな満足感を得られた。
忙しい、という気持ちが先行しすぎて、まともにご飯を味わっていなかった、碌に噛まずに流し込むように食事を済ませていたのだということに言いようのない哀しさを覚え、まずは日々の食事を丁寧に味わうことに決めた。
自分は決して少食ではないと思っていたが、いざしっかり咀嚼してみると、上述の通り今までの半分程度の量の食事で十分だったので、どうやら少食といっても差し支え無さそうである。
そこから日々の生活を徐々に見直し始めてみると、この1年で無くしてしまったことが非常に多いことに気づいた。朝ご飯を食べる習慣や、部屋の掃除の頻度、挙げ始めればキリがないが、日々の暮らしを良くする小さなことひとつひとつを取りこぼし続けて、いつの間にか随分とやせ細った暮らしになってしまっていた。今後忙しさが落ち着いたとして、もし後に残ったものがこんな生活だったとしたら、きっとその時にはとてつもない虚無感で今度こそ叩きのめされてしまう予感がした。それはなかなかに恐ろしいイメージだ。
まずは食生活から取り返そうと、丁寧に食事をすることと、また朝ご飯を食べるようにし始めた。
朝に食べるパンのために、コメダ珈琲の小倉トースト用のあんこペーストを買った。これを食べるのが最近の朝の楽しみになった。
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sekitoh · 10 months
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6/24 17:18
昨夜、帰路の電車の中で隣に座っていた初老の方の挙動が酷く気に障ってしまった。他人の挙動に気分を害した自分にまた気分を害した。今思えばスッと席を立てばよかったものを、なぜかフラストレーションをいたずらに大きくする行動をしてしまっていた。
環境を変えてしまえば解決する問題は少なくないが、その解決方法が(自分の中で)採択されないのは、環境を変えることにかかるエネルギーがこれまた小さくないからだ。ジリ貧でいずれくるかもしれない終わりを待つのか、明確に消耗することが分かった上で終わりをこちら側に手早く手繰り寄せるのか。
俺が直面する問題はいつもこんな調子のものばかりだなと思った。
溜め込んでしまったフラストレーションは、最寄駅に着いてから、自転車で1時間ほどあてもなくサイクリングをすることで落ち着けて帰宅した。落ち着かない時はこれに限る。
Their / They’re / There というマスロックバンドの来日情報をキャッチして、久々に聴き直したところあまりにカッコ良すぎて、すぐさまレコードを探して注文した。地元のマスロックバンドに撃ち抜かれてから色々とマスロックを聴き始めた中でとりわけ刺さったバンドだった。初めて彼らの音楽を耳にしてから10年以上経って、まさか実際に観に行けるチャンスがやってくるなんて思いもしなかった。人生何があるか分からない。
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sekitoh · 11 months
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6/2(金)9:37
昨夜知り合いがマネージメントしているバンドの演奏を観に行った。トラブルがありつつも、セットリストを変更しつつ柔軟にステージをこなし、あくまで音楽を主体にすることを第一としたバンドのフィーリングに非常に好感を持った。
その他の出演バンドでも良いプレイが見られて非常に良かった。
昨今のシティポップリバイバルはあくまで世界での出来事であり、日本ではさほどなのか?と思っていたが、出演バンドの2/3がシティポップ直系サウンドで、全くそんなことはなかった。
ともすれば金太郎飴的なお決まりのサウンドに終始しがちなシティポップだが、今日出演していたバンドたちは、ヒップホップのテイストを取り込んでみたり、シューゲイザーのテイストを取り込んでみたりと���学反応を果敢に試していて面白かった。
帰りによく行っていたラーメン屋に足を運んだ。数ヶ月ぶりだったが、つけ麺の味がかなり変わっていた。諸行無常。
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sekitoh · 1 year
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無題
4/25 8:58
日付と時間まで打ち込んだあと、気力が尽きてそのままにしてしまうことがある。上の時刻も本当は4/24 0:20と書いているはずだった。
「不寛容に対する不寛容」が俺の中で頭をもたげてくることが増えた。行��過ぎた善性である。他者が他者に対して不寛容である状況を目にした時にこの不寛容に対する不寛容を感じることが多いものの、原因を辿ってみれば、自分が他者に対して寛容であろうと努めている一方で、自分自身が不寛容な扱いを受けている……という不均衡な認識の匂いに釣られて、それは忍び寄って来ているのだろう。いわゆる「なんで自分だけ」という病である。
この治療にはカタルシスが不可欠だが、残念ながらそれを経験できるのは本人だけであり、他者がカタルシスを感じ得るように仕向けることはかなり難しいし、その病に侵されている自分自身が、他者からカタルシスを求め、与えてもらうこともまた難しい。結局己でもがいて己でどうにかするしかない。もちろんそのきっかけは他者にあることも大いに有り得るので、ひとりで閉じ籠ってしまうのも得策ではないが。
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sekitoh · 1 year
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無題
4/20 10:14
昨日、THE NOVEMBERSのツアー「かなしみがかわいたら」を仕事終わりに観に行った。
仕事を終わらせきれずに、一曲目を聴き逃した。チクショウ。諦めの気持ちで先に物販コーナーに赴き、必ず買うと決めていた歌詞集と、前々回のツアーの際に買い逃したライヴ音源を買った。歌詞集は重厚感のある装丁で、工業製品としての記号を極限まで削ぎ落としたデザイン。THE NOVEMBERSのスタンスに沿っている。ライヴ音源は前々回のツアーの際にパートナーと足を運んで物販コーナーで買おうとしたのだが、パートナーの「あなた、それもう持ってなかったっけ?」という言葉に疑念を抱きつつも、自身の記憶力の乏しさとパートナーの記憶力の強固さ、どちらに対しても揺るぎない信頼があったため、一旦持ち越したものだった。結局のところその音源は持ち合わせていなかったことが帰り道に判明した。
今になって思えば、記憶力に乏しい俺だが、同じCDや同じ本をうっかり買ったことはまだ一度もない。紛失してしまい買い直すことはあれど。サブスクリプションで聴いた音楽は記憶から薄れがちだが、物理的な質量を経由して聴いた音楽は、表層的な記憶からは薄れたとしても、その片鱗が確実に自分の中に残っている。物理的質量が与える触覚や、購入に伴う歩行、金銭授受、プレーヤーに円盤を入れ再生を行い、そして自室のライブラリに作品を収納する、といった体験は、昨今の時代ではなかなかに得難い。いずれ時代が進歩すれば、触覚をはじめとしたありとあらゆる感覚体験すらも電子の海で行えるようになるのだろうが、少なくとも現代の市井の人間にはまだ得られない。
話が逸れたが、畢竟自分の感覚を信じればよかったのだという、学びの話だ。
余談だが、後でSNSを辿ったところ、俺が聴き逃した一曲目は「Harem」だったらしい。二曲目からは聴くことができた。「ブルックリン最終出口」。いっとう好きな曲だ。
俺は自分のギターの音がとにかく好きで、自分が演ったライヴの音源なんかは他のミュージシャンの音楽と同じくらいの頻度で聴き直す。それはライヴの段階で、誰のためでもなく、自分が気持ちいいと思う音を捕まえて、ブチかましている、つまりはオーダーメイドの快楽がそこにあるから、ということに尽きる。もちろんバンドで演奏するということは聴衆の存在も含めて社会的な行為なので、一緒に演奏するメンバーとの音的間合いや、聴衆への配慮といったことはしっかりと考えた上での話である。
音的間合い、ということに関して、先ほど、敬愛する先輩の結婚式の披露宴にてOasisの「Champagne Supernova」を演奏した動画を観ていた。一緒に演奏したギターの友人とは大学の入学式で初めて顔を合わせてから、なんやかんやずっと一緒にいたのだが、実は同じバンドの中でギターを弾いたことはなかった。最初にスタジオに入った時に彼も話していたが、不思議な感慨があった。
お互いの音を認識し、対話ーこれは非言語的対話も含むーできるギタリストと一緒に演奏ができることはとても気持ちが良い。良い意味での緊張関係が発生する。どう相手の音が立ち上がるのか、どう自分の音を立ち上げるのか。弦がブリッジとナットの間で張り詰めるように、こちらとあちらの揺れを互いに見極め、気持ちが良い場所を探っていく。言葉以前の人と人のコミュニケーションの原風景がそこにあるような気がする。
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sekitoh · 1 year
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無題
4/8 14:12
休日。天候が目まぐるしい。電車が一駅動けば曇天で、一駅動けば雨で、また一駅動けば日差しが痛いほどに晴れている。
気づけば桜は雨が続いて速度を増した川の流れの速さを可視化していて、葉桜と青い匂いが早くも茹だる季節の予兆を突きつけてくる。
休日に出勤する回数が減った。良くも悪くも諦めがつくようになった。今日も仕事の連絡がぽつりぽつりとあるが。
半年分の通勤定期を買うたびに、果たしてこの定期券が切れてしまうまで自分は生きているのだろうか?と思う。来月で半年分の定期が切れる。騙し騙し過ごしている毎日の中では180日も先のことを考えるなんて途方もない。残念ながらそんなに遠くが見えるほど目が良くない。
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sekitoh · 1 year
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4/1 17:55
月が変わって休日早々、SNS上で繰り広げられるエイプリルフールに駆り立てられたユーモアに胃もたれしながら、デヴィッド・ボウイ『ムーンエイジ・デイドリーム』を観るために昼前に家を出た。
哲人、というイメージの強いデヴィッド・ボウイだったが、映画内での本人の語りを聞いていくうちに、理性的なものと同時に、いやそれ以上に情動もしっかりと見据えていることが伺えた。より多角的にデヴィッド・ボウイという存在を捉えることができた。
帰りに遺作である『★』のレコードが欲しくなったので、中古レコード屋を何軒か巡ったが、残念ながら巡り会えず、CDでなんとか見つけた『★』と、たまたま店内で流れていて琴線に触れたボズ・スキャッグスのLPを買った。ミドルマンのイメージが強かったが、ダウン・トゥ・ザ・レフト、なかなかいいアルバムだ。
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sekitoh · 1 year
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3/30 18:19
書いていないから書く、という動機でもいいのだろう。始点はどうでもよく、そこから進めた筆の美しさと終点の位置、そうして意味付けられた全てを俯瞰して初めて意味を成す、と思えば気が楽な気が、若干ある。
休日にしようと思ったことをリストアップして、何一つしない。今のところ俺の休日の生活の責任の放棄による弊害はは俺にしか降りかからない。
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sekitoh · 1 year
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sekitoh · 1 year
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無題
3/24 11:04
忙殺に次ぐ忙殺にかまけて文字を書くことを忘れ、文字を書くことを忘れたことで言語化することを忘れてしまった。
再び言語化能力を獲得するため、とりあえず書いていくことを再開しようと思い立った。取り止めのないことでもこまめに文字に表していく。
なぜ今改めて言語化能力を獲得しようと思ったかというと、最近の俺を取り巻く環境において色々と思うことがあり、メモにつらつらとまとめていたのだが、これが一向に自分に“ハマらなかった”ことに危機感を覚えたからだ。
“ハマらなかった”というのは、“しっくりこない”とも言い換えることができる。要は自分自身の見方や意思を文章という形で表象したつもりが、当初自分が表象しようとした本質から逸脱してしまったということだ(自分の描きたいことを十全に表象できることはそもそもないのだが、それにしてもこれまでに比べて逸脱っぷりが大きかった)。
思えば、である。昨年の良かったアルバムをまとめている時から違和感は感じていたのだ。
自分の思うように意思を言語によって描写できないことは、自分自身、ひいては世界を正確に認識できないことに直結する。それはいただけない。
美味しく…とはいかずとも、悪くないくらいまでにはいただける状態にリハビリしていく。
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