Tumgik
shinayakani · 27 days
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240401 春の不穏さ
《船乗りの長い体験談というやつは実に単純なもので、胡桃の実が殻の中に入っているように、意味は話の中にきちんとおさまっている。だがマーロウは、そんな船乗りの典型から外れているのだ(といっても長々と体験談を聴かせること自体は好きなのだが)。彼の場合、話の意味は、胡桃の実のように殻の中にあるのではなく、外にある。強い光のまわりに靄のような光が生じるように、意味は話から滲み出して、その話を外側から包む。ちょうど月が幽霊のようにおぼろに霞む時、ぼうっとした暈がその周囲を包むように。》
 ――コンラッド『闇の奥』
 ようやく過ごしやすい天候になって、春の匂いを花粉ごと嗅いでいる。ここで二月の上旬に駄文を長々と書き続けていたはいいが、どうやら途中で書くのにうんざりしてしまったようで、そのまま下書きに放置されていた。根気はおろか、なぜそんなことを書こうとしたのか記憶すら失っているありさまなので、もちろんその続きは書けない(→ 破棄した文章)。
 不吉なことを言うようだが、待ち望んでいた春の訪れを寿いでいた矢先に、冬のあいだ何とか耐えながら溜め込んでいた心身の悪い部分が一気に雪崩れ込んでくる(今季は降雪が少なくて、外に積もっていた雪はもうだいぶ前に融けきっているが)ことが、どうかするとありそうだ。幸いにもその不穏さをはっきりと感じることがないまま過ごしていたとしても、長閑さのなかにありながらどこか変調している身体に対応した言葉もまた、不意に口をついて出てくる。
 冬の夜々、寝床で読もうとして手に取った書物は、いつも氷のように冷たくなっていた(自室の暖房をぶっ壊れたまま何年も放置していたせいなのだが)。暖かい季節になればすっかり忘れ去っていくだろう、支える両手の中でいつまでたっても温まらない、その本の冷えた感触が、春先のうちは未だ残っている。いま振り返ってみると、微かに灯る明かりの中で、あさましい速さで眺めた字面からは、ほとんど意味をとらえ切れぬままに、ただ凍えた冬の印象だけを受け取っていたかのようだ。そうなると内容などあったものではない。
 いっそうきれぎれになった思考のままに、書物の一節を目で追いながらそのまま進んで行けば、当然のように先の意味や内容が徐々に剥がれ落ちていく。読み終える頃には、さて、いったいどういうものだったか、と思い返せば、そこには具体的な内容というよりは、ただ不可解な時間を潜り抜けた言葉たちの動きと流れの痕跡だけが、かろうじて残っている。誰か他の人間によって書かれた言葉、ということを思い返すならば、それが彼や彼女の「文体 style」と言えるものなのかもしれない。もちろん「作家の身体」と文体を直ちに短絡することはできないのだが、ひとつの身体によって書かれた言葉の運動(身振り)を、物質としての書物の凍てついた感触とともに、わが身に受け取っていた――冬から春へ季節が移り変わるちょうど今頃、いくぶんかの不穏さが入り混じった喜びのなかで、どうにか立ち直ろうとしているこの身体においては、彼/彼女から受け取った身振りの痕跡もまた潜在している。どの季節に限った話でもないだろうが、身心に堪える冬のうんざりする寒さや停滞を思い返すと、春にはそれが如実に感じられる。しかしもしかすると、潜在するそれらの痕跡こそが、当の曰く言い難い心騒ぎをまさに形作っているものだとしたら、どうだろう。
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shinayakani · 4 months
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240111 状況と言葉(断層のただ中で)
 さて何から書いていこうか、などと書き出せるのならまだいいものの、書きたいことが全く見当たらない。年末年始にまで至る数ヶ月の間は雑事に追われていたこともあるが、持ち前の怠惰が遺憾なく発揮されていた(能動的な怠惰って何?)と、弁明せずに言えばそれに尽きる。しかしそれとは別に、私が言葉を綴ったところで、その言葉たちがどんなものであっても、現実と対峙するにはおそろしく安直で愚劣なものにしか映らなくなってしまうような出来事が、現在進行形で起こっている。いや、そもそも何十年もの間ずっと起こり続けていた。
《教えてください。/非暴力で訴えても世界が耳を貸さないのだとしたら、銃を取る以外に、ガザの人たちに他にどのような方法があったでしょうか。反語疑問ではありません。純粋な疑問です。教えてください。》――岡真理『ガザとは何か』
 国際法は機能していない。「暴力が支配するところ、暴力だけが助けとなる」。おそらく。私はそんな世界で生きていたくないし、人間は生き続けることができない。しかしまた、あからさまな暴力や不正が行われ続けているにもかかわらず、あたかも何事もないかのように隠蔽され取り繕われた日常を生きることが、どこまでできるだろうか。一つの固有名、パレスチナ――これまでの「歴史」が一気に凝縮されたかのような土地の、名――を避けるようにして、それどころかあたかも存在すらしていない/いなかったかのように書かれる言葉の欺瞞。私もその欺瞞を共有している。遠く離れた土地での出来事だって? いまでは訳知り顔で「恥辱」という言葉を使うことも、自身を省みて「ヒューマニティー」を易々と鼓舞することすらも耐え難い。だがそれでいて、沈黙することは許されていない。苦境を生きる者(当事者、マイノリティ…)や傍観者(非当事者、マジョリティ…)というお馴染みになった区別は、出来事を語る際にただ自身の安全を担保して距離をとるための手段になってしまうのなら、適切なものとは言えない。そして長く続くこの惨状に関して、外地への収奪によって駆動し続けた末に現在まで至った「近代」の歴史を少しでも顧みれば、発言する者の複数の立場などというものは、もはや存在しえるのだろうか。現在の虐殺を、いまに至る占領を止めさせること以外に。
(240104)
《ツィフェル「ちょっといっておきたいことがある。民衆が権力を奪取するのは、ぎりぎりの窮地に追いつめられたときだけだよ。このことは、概して人間はぎりぎりの窮地に追いつめられたときにだけ思考する、ということと関連がある。首筋まで水に漬かったときだけなんだ。ひとびとはカオスを、革命を恐怖する」
カレ「それを恐怖するばっかりに、とどのつまりは地下壕のなかに、頭上には爆撃の音を聞き、背後にはSS隊員の拳銃を感じながら、う��くまることになるんだ」
ツィフェル「そして腹のなかはからっぽになり、子どもの埋葬に外へ出ることもできなくなるんだな。しかし秩序は厳然と支配していて、ひとびとにはほとんど、ものを考える必要がなくなるだろう」
〔…〕
ツィフェル「きみに誤解されないように付け加えておくと、ぼくはひとびとを批判してはいない。批判するどころか、その逆だ。尖鋭な思考は苦しいもので、それをできる限り避けるほうが、理性的なんだ。ぼくが知っている国々のように、異常なまでの思考を余儀なくさせる国々では、ほんとの話し、とても生活は不可能だよ。不可能だよ、ぼくが生活と名づけるものは」》
 ――ブレヒト『亡命者の対話』ⅩⅣ章
 戦時中に異国の地を転々としていたブレヒトによって書き継がれていた本のなかで、上に掲げた対話は「革命と思考とにたいする恐怖について」と題された章で交わされる。私が住んでいる国においてはとりわけ、誰もその内実を知らない「革命」というものを、何も性急にぶち上げたい訳ではない(念のため。政治に関して言えば、その言葉が特に空疎なものに響くというよりは、私たちにはもっと最低限な認識すら欠けているのが現状だろう)。ここで気になるのは、「革命」と「思考」と呼ばれるものが、互いに密接に関係するものとして言われていることだ――《概して人間はぎりぎりの窮地に追いつめられたときにだけ思考する、ということと関連がある》。
 人が何事かを思考しはじるのは、それを不可能にする事態に直面した時だけだとするならば、普段の生活において行っているものは、どこまで思考と呼べるものなのか。文中《厳然と支配していて》と言わるほど圧制的なものではないにしても、秩序は存在している。その中でそれなりの生活を享受している私たちは、一時的に「カオス」から守られもするだろうが、はっきりと目に見えてやって来る外部からの衝撃、またはそれまで(確実に存在していながら)眼前に一瞬だけ過るものにすぎなかった内部の破れ目から漏れ出したものによって、いつの間にか、これまでの自動的な習慣を取り繕いながら維持し続けることは不可能なものになって行く。そこにおいてこそ思考が発生する余地があると言うこと――だが、それ自体も「カオス」の領野に属するものを、受動性においてもなお引き受けなければならないというのは、困難な要請ではないか。何よりも身体が直接的な暴力(戦争、窮乏、災害、病い…)に曝されている状況にあっては、なおさら「思考」などと安穏に言ってはいられない。
 なるほど、人は自分自身が耐え難い災厄に遭遇してみないかぎりは、他者の苦痛を、よくても「想像を絶するもの」と片付けるだけで、それについての思慮を能動的に働かせるには及ばないのかもしれない。現在の生が、自分たちの安全が、維持されているかぎりは……。そんな風に呟きながら行き着く先が、偽装された政治的言説にお決まりの賢しらなニヒリズムに陥るか、道徳教師よろしく訓戒を垂れるだけならば、もっと救いがない。西欧流のヒューマニズムの復権なんてもうとっくに擦り切れていて、場合によってはそれが発言する者の利害に関わっているものにすぎないようにも思われる。しかし、そういった気分もまた、ともすれば単にシニカルな認識をもたらすだけならば、共犯的な愚かさだ。
 たとえ自身の罪悪感や無力さから出発したもの(ヒューマニズム?)であったとしても、人々を、どんな形であれ現状に抗する行動と思考に駆り立てる動機となるならば。狂気一歩手前で、「われらの正気を生き延びる道を教えよ」。兆候となる自発的な行動と、やって来るはずの未だ形を成していない思考が、これまでのヒューマニティとは異質の次元を切り開くものとなるならば……。
(240109)
 政治的な発言をする時、曖昧な言葉を繰り返し口に出すだけならば、それは有効な力を一切持たない。私の言葉は優柔不断なものに見えるのと同時に、読み返す気がまったく湧かないほどに、ひどく固まって動きのないもののように思えて、息苦しい。ここでいつも似たような言葉を書き綴っていたことにも言えるが、その度に経験と知識が足りないことを痛感させられる。言葉は、その意味が了解可能なものになり、さらに手垢に塗れた使用��慣れたものとなった時、すでにその役目を終えてしまう(言うまでもなく、政治的な性質を帯びた言葉に限った話ではない)。それに比べると、上に引いたブレヒトの言葉からは何度読み返しても不思議な魅力を感じる。事態は切迫していて、現実に彼の政治的な立場は明確なものであったと思うが、彼が書く言葉にはいつも奇妙な揺れがある。曖昧さとも異なる、この距離感と軽やかな(?)動きは、いったい何なのだろう。
 この本を読んでいたのは昨年の九月だったようだが、そもそもブレヒトを読みたくなったのは、同じ頃に久しぶりに手に取った『彼自身によるロラン・バルト』で度々言及されていたのがきっかけだった。
〈R・Bはいつも政治を《限定し》たがっているように見える。彼は知らないのだろうか? ブレヒトがわざわざ彼のために書いてくれたと思われる考えかたを。/「私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどというのは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるかというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。」(『政治・社会論集』)〉――「ブレヒトからR・Bへの非難」
 バルトが上に引いている警句にも、どこか奇異な言葉の揺れ動きがある。そしてバルトは同断章の末に、政治的な言葉が反復されずにすむ(手垢に塗れ固定したものにならずにすむ)、まれな条件を三つ上げている。その中の二つ目はブレヒトに関わる場合(それも「控えめな場合」)として、こう言及する――〈著述者が、ことばづかいというものについて単に《知的理解》さえもっているなら――みずからの生む効果についての知識によって――厳密でありながら同時に自由な政治的テクストを生みだせばいい。そういうテクストは、すでに言われていることをあらためて発明し変容させるかのように働き、自身の美的な特異性のしるしについて責任をもつことになる〉。さらにまた、以下は別の断章で詳述されているもの。
〈ブレヒトの場合、イデオロギー批判は、《直接的に》おこなわれているのではない(さもなければ、それはまたしても、しつこい、同義語反復的な、戦闘主義の言述を生み出す結果となっていただろう)。それは、美的な中継を経ておこなわれる。反イデオロギーが、ある虚構の下に身をひそめるわけだ。リアリズムの虚構ではなく、《適正な》虚構にたよるのだ。たぶん、ここにこそ私たちの社会において《美的なもの、美学》の演ずる役わりがあるのだろう。《間接的でしかも他動詞的な〔現実に働きかける〕》言述のための規則を提供する、という役わりである(そういう言述は言語活動を変形することはあるけれども、みずからの支配力、みずからの善意を掲示したりはしない)。〉――「イデオロギーと美学」
 《美的なもの、美学》? 危機が切迫している現状において、それは慎ましいもの、どころか全く呑気で欺瞞的なものに響くだろうか? たしかに、あたかも外部の喧騒から逃れることができるかのように自律性を誇示するだけの言葉を書くだけならば、そうだろう。しかし、言葉を読む/書くという思考の次元というものがあるとするならば、それは、実際に身体が生きている現実から影響をつねに被り続けながらも、現実の生に対して謎めいたずれや断層を幾重にも孕んでいるものだ。言葉は現実そのもの(出来事やそれぞれの生)に対して、直ちに結び付くことはない――「早すぎる、遅すぎる」。ましてやそれが、当然のように久しく繰り返されてきた愚劣を打ち破るために、現在に介入しようと試みる言葉であるならば。もちろん、短絡的に大多数の人々に動員を促すことは、つねに心許ない。その意味で思考、言葉にできることは、あまりに慎ましいものだ。
(240110)
 ブレヒト=バルトの教え。リアリズムではない《適正な》虚構が、具体的にどのようなものであるかは、引用したバルトの文章からはそれ以上詳述されていないが、彼によれば《間接的でしかも他動詞的な》言葉は、読む者の言語活動を変形させる。さらにまた、その言葉によって語られる物事は、反復され自明視されたものとしてではなく、つねに奇異なものとして示し出される(再発見される)。出来事は、つまり、変容可能性に開かれたもの(変化の兆し)として見出される。
 おそらく、美的なものは、あらかじめ自律的なものとして創造されるのではなく、まず第一に外との折衝がなければ生み出されえない。どこまでも「政治的な」現実に対峙しながらも、現状を掻い潜るように揺れ動き、読む者の言語活動(思考の動き)を変形すべく働く言葉――現実に働きかける「問い」となる言葉を、いかにして書くことができるか。
 ここでふたたび、書く身体と読む身体の問題に帰ってくる。
《僕は一体的な作品群〔body of work〕を作り上げたいと考えたことは一度もない。ただ、僕らの体〔body〕――息をする、説明の付かない存在――を作品の中に保存したいとは思う。》
《偉大な本は政治的なものから自らを“解き放ち”、差異という障壁を“乗り越えて”、普遍的真理に向けて人々を一つにする、と人は言うだろう。それはとりわけ、技巧を通して成し遂げられる、と。では、その方法を具体的に見てみましょう、と人は言う――まるで、そうして組み立てられるものが、それを作った衝動とは切り離されるかのように。まるで人間の姿形を考慮することなしに、最初の椅子がこの世に現われたかのように。》
 ――オーシャン・ヴオン『地上で僕らはつかの間きらめく』
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shinayakani · 7 months
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230917 変化(へ)の知覚
 目立った変化の乏しい生活を送っていると、日常のなかで生じる些細な綻びが実際の規模以上に拡大して見えてきて、はては「まだ起こっていない(起こるはずのない)惨事」のイメージに繋がっていき、神経質にそれに捕らえられてしまう。それからしばらくは何も手につかなくなる――精神的に不安的な時期は大抵そうなるんだよね、と以前友人に話していた。いったい何を恐れているのかと言えば、「惨事」と書いたからにはもちろん、それなりに平穏だった日常が何らかの出来事によって突如一変してしまうことだろう。しかし、自分が能動的な状態(身体と精神がともに「健康的な」状態)にあるときは、「それなりに平穏な」日常のことなど全く頭に上らないし、むしろそれに類する言葉で生きている場を捉えようとすることを、私は軽蔑するはずだ(そんな日々を生きたためしが本当にあったのかい?)。
 変化を拒んでいるために不安定な状態(それから過剰に受動的になってしまう状態)に置かれることになるのか、不安定な状態に投げ出されることによって変化への回路を閉ざしてしまうのか、自分でもはっきりしないことの方が多い。ただし実感としては、変化それ自体(誘因となる出来事がどれほどの規模のもので、またどのような結果をひき起こすものであっても)に対する過度な警戒によって事態がさらに悪化していく、という方が印象に適っている。しかし、変化を引き起こす偶発事を恐れているとき、実際には何を「保守」しようとしているのだろう。自己保存の欲求(本能、とか何と呼ぼうと勝手だが)があることを否定できないとしても、卑小な予見の範囲内で生を送ることに耐え難くなり、そのままでは悪循環に囚われていくことにも気がついているではないか。あらゆるものが流れていく、そして個々人もただ受動的に流されていく(しかし〈時間〉は流れていない……?)、そんな幾度も繰り返されてきた無常の嘆き節には聞き飽きている。
(230913)
 こんなことを書いていると、自身で袋小路をせっせと拵えているように思えてくるが、そんなときにはまた、かつて読んで印象的だった言葉がどこからか曖昧なままに脳裏に過ることがある。今となっては随分昔のことのようだが、私が Twitter のアカウントを持っていた頃、劇場で見た映画について日々書き続けている女性がいた(その方はコロナの時期になってすぐにアカウントを削除してしまったようで、それ以降は消息が全く分からない)。半ば日常的な言葉を使いながらも、具体的なショットについて本質(そして倫理!)を逃さず捉える書きっぷりに、私は敬意や憧れを持っていた(そんな風に思って読んでいた人が、きっと私以外にも多くいたはず)。
 映画を見ること。出来事によって登場人物(俳優)が刻々と変化していくさま、その身体のふるまいを、まざまざと目撃すること。ひとりの人間が変化していく、まさにそのとき、そのただなかで放たれる圧倒的な「エロさ」。
 例によって私が曖昧なまま杜撰な文に再生したものだが、おそらく『散歩する侵略者』について書いていた際に、些事のように書き添えられていた何気ない言葉だったと思う。「エロ」という言葉が使われていたことは確かだと思うが、もちろんそれは(単なるイメージとしての)セクシュアルな面にのみ関わるものではない――ここでどうでもいい話に逸れる。何気なく発する言葉や立ち振る舞いから、その人のこれまで生きてきたありよう(生き様、という言葉は大袈裟に思えてしまうからこう書く)がまざまざと伝わってくると、私はいつも「色気」という言葉がまず頭に浮かぶ。別にセクシュアルなものだけを特に強調したいわけではないし、単にこの言葉の響きが好きなだけなのかもしれないが(日常の会話でこの言葉を使ってしまったときに、知人に誤解されたことがある)。
 偶発事に対して受動的であるだけでなく、そこから能動的なリアクション(身振りや言葉)を引き出すことによって、ひとりの人間が変化し続けていくこと。そのとき私は特定の人物に魅せられているというだけでなく、ひとりの人間が出来事に触発され変化していくこと、それ自体に魅了されている。作り出された虚構のなかで示される出来事は、「現実」と比べれば劇的で仰々しいものかもしれない。しかし、アクターたちの振る舞いとともにあくまでも強調されているのは、一つの生が出来事に促されどこまでも変化が連鎖していくこと、生を構成しているのはまさにその変化そのものであるということだ。そして、たとえ一つのフィクション(作品)によって示されるものが、変化の途上で連鎖が塞がれ挫折してしまった生、また現実では看過し難い「誤った」生であったとしても、作品が閉じられたその後に、一連の(それでいて迷路のような)時間を通して生成された問いが残る……変化の知覚へ向けられた問い。
(230915)
 そんなわけで(?)相変わらず本を読んでいないのだが、今年は宇野邦一の集大成的な著作『非有機的生』と、何と言っても廣瀬純の8年越しの時評集『新空位時代の政治哲学』が出たのだから、しばらくはもうこの二冊を集中して読んでいればそれで良いではないか、という気分になっている。
 時代を経て資本主義のパラダイムがどのように変化しようと、資本は「〔必ずしも地理的に限定されない外部としての〕南」への剥き出しの収奪抜きに延命することはできない。廣瀬さんの新著では、パラダイムが変化しつつある「空位期」の現代において見出される資本制の「病的現象」に対して、オペライズモ(あるいはアウトノミア)派直系の理論的な分析がなされている。そして、著者が理論的分析と分かち難く結びついているものとして報告し続けているのは、欧州どころか南米、イランやパレスチナなどの中東地域をはじめとする世界各地の民衆闘争(実践の現場)だ。資本(と結託した国家)に抗する民衆闘争の最前線には、女性たちや先住民族のマイノリティがいる。本書は、世界各地の人々に「マイノリティ性への生成変化」を促そうとする彼女ら彼らアクターたちに触発されることによって、書かれたものだという。
 それぞれの文章について具体的に触れることは追々やるつもりだが(例えば現在進行中の「世界大戦」に対するいわばマクロ的な状況分析は、他では読むことのできない論点を提供してくれる)、いまはあとがきの末尾に書き添えられていた言葉を引いておこう。曰く――《今日の日本でよく読まれている哲学書や思想書の大半は「倫理」の書であると言っていい。日本に暮らす多くの人が日々の社会生活のなかで倫理を求めているからだろう。これに対して、本書は、いかにして資本主義に絶対的限界を突き付けるかを「状況の下で思考すること」(L・アルチュセール)へと誘う「政治哲学」の書である。〔…〕日本でも、20世紀には、国外の同時代的な状況も広く視野に入れて書かれた政治哲学書や政治思想書が多数発表され広範な読者を得ていた時代があった。世界各地での革命過程の再開とともに、倫理的転回を経験して久しい日本の哲学・思想環境が再び大きく政治化することを期待する》。
 本邦の言葉たちの多くは、上記の「倫理的転回」の下で、ある意味では自閉してしまった状態にあるのではないか。それら行き場を塞がれた言葉たちに対して、世界各地の民衆による身体的な試行錯誤(実践)に触発されることによって生み出された本書の言葉たち(理論)は、新鮮な〈外〉の風を吹き込もうとしている。ところで、この文中で消極的な意味合いで言われている「倫理」とは、いったい何だろうか。またしても話が逸れて行ってしまいそうだが、ここでこうして抽象的なことを書き綴っていると、これでは倫理の皮を被った自己啓発風の人生訓を滔々と述べ続けているだけではないのか、と私自身不信に思うことが常々だ。倫理まがいのものを要請することによって、そのときいったい何が得られる(守られる)というのか。しかし、特定の誰かに向けて書いているのではないとして、それでいて自分自身のために書くというのも実感として当たっているとは言い難い。それならば、変化へ向けて書くというのはどうか――同時代のこの地上で身を曝して実践を続けるアクターたちからの触発によって創出されるものであり、そして翻っては潜在的な力(それは人々のものだろうか、出来事のものだろうか?)に働きかけようとする言葉を。そのとき願わくば、書き手自身もまた変化するアクターとなるように。
《68年5月は、社会民主主義的環境をすでに安定的に享受し、利害闘争をもはや必要としない「市民」たち、あるいは、彼らの構成する「社会」が、「消費社会」や「権威主義」、「帝国主義」などを、おのれ自身の「耐え難い」存在様態として見出し、この自己知覚に押されて、それらとは異なる自己の新たな存在様態の可能性を見出す現象だった。これが新たな「主観性〔身体、性、時間、環境、文化、労働などとの関係〕」の創出だと言われるのは、世界と関係するその仕方自体、世界との関係において自己を知覚するその仕方自体のいわば「コペルニクス的転回」が問題となっているからだ。ドゥルーズは1980年代末制作のテレビ番組『アベセデール』のなかで、「左翼」とは何かという問いに対し、「知覚」の形式だと答えている。左翼ではないということが、自己の享受する環境の持続をあくまでも担保し、自己を起点に世界を知覚することであるのに対して(天動説)、左翼になるとは、世界全体の知覚から始めること、すなわち、まず「地平」を知覚し、次いでその地平において自己を含むすべてを知覚すること(地動説)だと。》
 ――廣瀬純「68年5月は今日もなお存続している」
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shinayakani · 8 months
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230901 記憶喪失の夏
 どういうことなんだ。もう八月も終わりだというのに、それにしても暑すぎる。今朝「一年で唯一好きだった9月も、ここ数年の暑さのせいでついに嫌いになってしまう。今年はもう終わりだ」とだけ LINE が飛んできた。どちらかと言えば私は幼少の頃から九月はあまり好きな月ではなかったし、夏が好きだった。ガキは案外、夏好きだからね。市営プールからの帰り、夕方になってもまだ明るい日に照らされた、緑の木の葉一枚一枚が静かに風に吹かれている。公園の日陰にあった錆びた青いブランコが揺れている。投げ出していた両手両足を蚊に刺されすぎた。夏休みが終わってしまい学校に行くことが(子どもの頃から根っからの怠け者ゆえ)本当に嫌だと思いながらも、ただ流れていく時間を無意識に感じ取っているみたいに、日々のそれら風景のなかでぼけっと過ごしていた。それでいて前日の記憶はいつも曖昧だった。いまではそんな風に時間を感じることができないだろう。当たり前のように年をとったから、いや、あの頃と比べて毎日こうも暑いからじゃないの。
(230830)
 盆休みに姉が東京から帰省してきた。転職するとかで長期有休を取ったらしく、珍らしく一週間も「こんな何もないところ(これぞ地方の常套句)」で過ごしていた。全国で比較的には名の知れたところなのかもしれないが、私が戻ってきてからも人口はますます減少する一途をたどり続けていて、文化的にも色んな意味で不毛地帯(最寄りの映画館まで片道1時間半以上かかる。oh~)と化している。そんなところなのだから、休日に帰ってきても動画配信を流しながら酒を飲むかものを食うかくらいしかやることがない。それが極まってきたからなのか、日が燃えている午後の炎天下にもかかわらず、仕方ないから散歩でもしに行こうとなる(正気ではない)。後から聞くと全く意味が分からないのだが(私も酔っていて記憶なし)、誰かが急にミスドを食べたいと言い出し、おつかいがてらということだったらしい。人の出入りがまだわりと多い駅前まで向かってから、古い町並みが保存されたまま改築された建物が並ぶ観光客向けの通りを歩き、二人とも子どもの頃から馴染のある商店街に入っていく。どの時期でもこの商店街はもうすっかり閑散としていて、空きテナントが目立っている。
 歩きながらぼんやり話していると、地元で過ごした高校を卒業するまでのことを、お互い大して覚えていないことに気づく。私が地元に戻ってから生活しているなかで不意に思い出す印象的な出来事(良きにつけ悪しきにつけ)のほとんどは、東京で暮らしていた頃のことばかりだ。姉の場合は、私と正反対の性格だし、地元にそこまで嫌な思い出があるわけでもないはずで、その頃の記憶を積極的に忘れようとはしていないと勝手に思うけれど、どうなのだろう。思春期の記憶は大部分が碌なものではないと決まっているが(?)、子どもの頃のことをほとんどよく思い出せないのは、何だか虚しい気がする。しかし、過去の記憶のほとんどが意識できる心的なものだけに限ったものではないとするならば、記憶は意識されることのないままに身体そのものに存続しているのではないか、と根拠もなく考えてみたくなる。「無意識」という言葉からは身体的な意味合いが強く感じられる。そもそも身体による/への作用が伴わない限り、心的なものは働きえないし、その両者の絡み合いや拮抗、浸透や離反が、生を形作っていく……なんて当たり前のことをここで繰り返し書く必要はないか。いまだに「記憶」という言葉を心的なものとして捉えてしまうことが多いけれど、あくまでも潜在的なものは身体の領分にあるのだ。
(230831、最高気温37.5℃)
 その帰り道、通っていた小学校の手前にある横断歩道で信号待ちしていると、校門の近くに植えられた木の前に女の子が一人立っていた。木のすぐそばにある花壇の囲いのブロックには男の子と女の子が座っていたが、三人とも何も話さずに黙っている。すると、木をじっと見ていた女の子(背が高くて、長い髪に楽天イーグルスのキャップを被っている)がさっと手を伸ばして、太い幹から何か掴み取った。座っている二人の前に来てまた素早く地面にそれを置く。クワガタだった。見ていた私は「すごっ」と声を上げてしまったが、そのとき三人の子どもたちと目が合った。こちらを一瞥するとすぐに視線を地べたに落として、何も言わずにじっとクワガタの様子を見ている。日に焼けた男の子は暑さで少し疲れているようで、隣に座っているハンディ扇風機を首から下げた女の子はガリガリ君を食べていた。三人とも小学3、4年生くらいの子たちだろうか。姉どころか私も、何かの間違いで(!)親にでもなっていたら、今頃はそんな年齢の子がいたとしても別におかしくないんだよな、とか働かない頭で適当に話していた。結局、駅前のミスドに寄っていくことなんてもちろん忘れていたが、コンビニで氷結と煙草だけ買って帰って来たことは覚えている。
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shinayakani · 9 months
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230809 「日記らしきもの」の効用
 先月からここ最近、web上で日記を書く人がまた増えてきたように思う。Twitterの様子がおかしくなったらしいことが原因なのかどうかは分からない。何人かの方の日記を週に一度読むことが習慣になってきた。それにしても、皆ほとんど毎日とか毎週書いているし、内容もちゃんと面白いからすごい。自分のために書くのが第一としても、webで公開する以上はどんなにクローズドな媒体であっても他人に読まれることがいくらか前提とされている。だからこそと言ったらいいのか、書き手がどんなモチベーションであっても書き続けていること、そしてどこかの他人が読んでも面白いものになっていることに、素直に感嘆してしまう。私に日記を書く習慣がないからそう思うだけかもしれない。どんな形式であれ大したものを書いてはいないだろうに、私はまだ誰かに読まれることを意識しすぎている。
 本を読んでいると書かずにはいられなくなってしまい、書かないでただ読んでいるだけだと落ち着かなくなってしまう、というようなことを、すこし前に知人とお互いに話していた。その逆もあって、もう下手に何かを書こうなんてあさましい(?)思いを一切捨ててしまって、ただ読んでいるだけでいいのでは、という時期も頻繁にあるよね、とも。ただ、彼が書かずにはいられなくなるのは、その本に関すること(読書メモや感想、大袈裟に言えば批評)とは限らなくて、何でもいいからただただ書きたくなることの方が多いと言う。そんな落ち着かない気持ちを抑えるために、二年くらい前から「日記らしきもの」をできるだけ書くようになったらしい。
 はじめはその日にあったことの身辺雑記のようなものを書いたり、読んだ本や見た映画についての雑感を書いていた。だんだんそれにも飽きてくると、その日交わした他人との会話や読んでいた本の一節から思い出した過去の出来事について書くことが中心になる。それからしばらくすると、その日にあったことから想起される、ありもしない過去の「思い出」を書くようになった。今では、仕事に行ったり休日を無為に過ごすありきたりな日々を書くのが面倒になったようで、ありもしないその日の出来事を書いている、と言う。ところどころには読んでいる本からの引用があったり、その日の出来事を淡々と綴っている日も、あるにはある。しかし最近の日記には、圧倒的に「うその」出来事ばかりで占められている……。ブログと大学ノートに書かれた長短様々な文章を少しだけ読ませてもらったけれど、ここでもまた私は感心してしまうだけで、ある意味では書くことのハードルがさらに上がってしまった。ただし書いた日の日付だけはつねに忠実に書かれている――日記って本来そういうものなんだと思う、とも彼は言っていた。
 日記について考えていると、ベアトリス・ディディエという人が書いた『日記論』の言葉をよく思い出す。《一般的に日記は監獄的状況から生まれやすい》。実際にはある文章に引用されていたこの一節を読んだだけで、この本にどんなことが書かれているか詳しくは分からない。しかし、監獄的状況なんて言葉で大袈裟に考えなくても、たえず過ぎ去ってしまう時間のなかで、原因は何であれ日常に閉塞が感じられたとき、人は「日記らしきもの」を書きはじめる。後から自分で読み返してみると妙に白々しくも感じられる、そのとき書かれた言葉たちは、ほんとうは備忘のための記録として書かれたものではないのかもしれない。事実だけが慎ましく書き続けられたものであれ、出来事に伴って生まれる印象や思考の萌芽が書かれているものであれ、そしてもちろん「うその」記述に溢れたものでさえ、どんなものであっても。ある具体的な日付の下に書かれた言葉たちは、流れ去っていく時間と一体になるべくして書かれている。そのとき効用があるとすれば、閉塞を突き破るほどのものではないが、流れることなく留まっていた時間の澱のようなものがいくらかとり除かれることではないか。そして書かれた言葉は、ただ時間の痕跡のようなものとしてだけ手元に残る。
(230808)
《約束することのできる動物を育成すること――これこそが、自然が人間についてみずからに課した逆説的な課題そのものではないだろうか。これこそがほんらいの問題ではないだろうか?……この問題がすでにかなりの程度まで解決されているということは、忘れっぽさという反対の力の大きさを重くみている者には、きわめて驚くべきことに違いない。忘れっぽさとは、浅薄な人々が考えているような、たんなる習慣の力ではない。これはむしろ能動的で、厳密な意味で積極的な抑止能力である。この能力のおかげで、わたしたちがこれまで体験し、経験し、自分のうちに取りいれたものが熟れるまでは(「精神に同化」されるまでは、と言い換えることもできるだろう)、意識にのぼらないですむのである。それはわたしたちの身体にとって栄養となるものが「身体に同化」される無数のプロセスが、意識にのぼらないのと同じことである。  この能動的な忘れっぽさというものの効用とは、意識の戸口と窓を一時的に閉ざすことであり、われわれの神経にしたがって機能するさまざまな器官が意識下においてたがいに協力し、競争しながら働いている騒ぎと闘いに煩わされずにいることであり、意識のしばしの静寂、しばしの白紙状態を確保して、新しいものをうけいれるべき場所を作りだすこと、とくに高尚な機能と器官が働く余地を作りだして、統制し、予測し、予定を立てられるようにすることである(…)――それがすでに述べたように、能動的な忘れっぽさの効用であり、精神的な秩序、平穏、礼儀作法の門番であり、維持者であるこの忘れっぽさの効用である。そのことから直ちに洞察できるのは、この忘れっぽさなしでは、いかなる幸福も、明朗さも、希望も、誇りももてないし、いかなる現在もありえないということである。》
 ――ニーチェ『道徳の系譜学』(中山元訳)
 かりに日記が監獄的状況から生まれるものだとして、その逆に、むしろ書くこと(そして、読むこと)こそが、時間の停滞や閉塞を作り出す原因にもなりうる。内面の牢獄……。しかし、そもそも書く行為それ自体は、内的な動機がどんなものであっても、まず第一に身体的な要因なしには駆動されえないもののはずだ。ここでニーチェによって能動的な(つまりは身体の?)力だと言われている《忘れっぽさ》を、日記を書く行為に重ね合わせてみたくなる。忘れるために日記を書くこと。一般的に言えばそれは、全く矛盾した言い方だろう。言うまでもなく、意識を閉ざして日記を書くことなどできない。だが、具体的な日付を記すことで時間をどこかで意識しながら書くこと、その行為自体は、流れ去る時間の影響なしには行われえない身体的な実践である。つまり日記とは第一に、書き手がその時間(書いているまさにその時)に身を任せるようにして綴られた文章であり、そして流れ去る時間は忘却の作用を持ち合わせている。
 ニーチェは引用した文章に続けて、一方で人間は《忘れっぽさ》に対抗する正反対な能動的な力である《記憶》をも育てあげた、と述べている。具体的な日付の下で日記を書くことはまた、忘却をもたらす時間の流れのなかで、積極的に記憶の防波堤を作ろうとすることだ。忘れることと記憶すること――閉塞した状況のなかで身体的な要請によって、「日記らしきもの」が書かれるその場においては、二つの正反対の能動的な力が、それと見分けられない形で働いている。書かれた内容が実際にあった出来事の集積であれ、作り出された偽りの記憶であるにしろ、それら二つの力の痕跡が、残された言葉たちにおいて如実に示されることはあるのだろうか。そして、その力の痕跡とは、きのう唐突に書いていた「時間の痕跡のようなもの」と同じものなのだろうか。……今日の日付が刻まれた言葉たちもまた、こうして曖昧なまま唐突に途切れる。
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shinayakani · 10 months
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230621 言葉の亀裂と「泣き女」
 もともと日記を書くつもりでタイトルに日付を記していたのだけど、数ヶ月前に書いた自分の文章を読み返してみると、最近読んだ本について書き続けているだけで、しかも内容は延々と抽象的なものに終始している。日記を書く時は、具体的な出来事とか、それに伴って浮かぶ自分の印象とかを切り取っていくのが一般的なのだろうけど、自分にはそういったことが全くできないのだな、といつものように思う。すでにここまでの数行で、「抽象的なもの」とか「具体的な出来事」とか書いていることからも、またしても安易に「抽象的な」話題に浸かっていこうとしている。ずっと前から書こうと思っていたこともそういったテーマのもの(言葉と出来事それ自体との間にある、絡み合いや拮抗関係)で、自分の関心が向っているのは確かだけれど、それだけでは退屈に感じてしまう時があるし、息苦しくもなる。
 閉塞が感じられるのなら、いまの自分の生活を少しでも変えてしまわなくては、と人並みに(?)考えてはいる。生活が変わっていくにつれて、知覚のあり様とそれに伴って生まれる言葉も、当然徐々に変化していく。ある具体的な出来事との折衝があってはじめて、それに促されるようにして新しい言葉が生まれる。慌ただしい日々、もしくは繰り返される単調な生活――しかし、何らかの表現をする際には、日々の営みにまつわるこういった紋切り型は、言い訳にならないだろう(その行為のただ中では、何のために表現をするのかとか、行為の規模の大小なんて考慮される必要がないことと同じように)。閉塞した状況から身を逸らすために、自身の習慣や生きている環境を変えなければいけない――その通りだとしても、実際に生活のなかでは、試行錯誤をしながら(あるいは知ってか知らずか関係なしに)何らかの行為が行われている。ひと先ず良い方にも悪い方にも向かっていくし、それを繰り返していくしかない。ただそのとき、具体的な行為や出来事の営みと、それに伴ってたえず生まれる言葉は、いったいどういう関係にあるのだろう。具体的な出来事と、言葉(とりあえず「抽象的な」と形容しておく)は、結び合っているように見えながら、それと同時に、つねに互いにずれ続けている。言葉は遅れてやって来る……しかも意味合いは出来事を捉えきれない、というよりそれとはほとんど別物になっている。そのずれの、断層のようなものに、私は悩まされることが多いし、おもしろさを感じてもいる。
 ……書かないでいる言い訳でも書こうかと思っていたけれど、抽象的な言葉に引きずられて、いつも繰り返し書いているようなことをまただらだらと書き連ねてしまいそうだ。実際には、書かないでいる理由なんて、本をじっくり読む時間がなかったからと言えば足りる些細なものだ。もともと私には自発的に何かを書きたいという欲求(というより書くべき必然性のようなもの)がほとんどないから、他者の言葉に触れて、その言葉に促されることによってのみ書きはじめることができる。ここ最近は、偶然のようにやって来た言葉に触発されて、偶然のように書きはじめることに、慣れていきたいと思っていた(SNS に親和的になりすぎてしまう危惧はあるけれど)。日々が硬直して停滞したものに感じられるなら、なおさらに。そしてこんな仏頂面した文章ともおさらばしたいね。
(230620)
 ある方の note の記事を読み返していて知ったことだが、晩年のドゥルーズは、「もし私が哲学者ではなかったら、女として生まれていたとしたら、泣き女(嘆き悲しむ女)になりたかったでしょう」(『アベセデール』Joie 喜び)と語っていたという。私はこの一節から、なぜか、むかしある女性と会話をしているとき、その人がふと語った印象深い一言を思い出した――「男はいいよね、何かあるとすぐに他人のせいにするか、自分のせいにできたりして」。
(どんな文脈でこんなことを言ったのだろう。今となっては思い出せない。ちなみにその人とは、もう6、7年くらい前の一時期に数回だけ会って話したことがあるくらいで、それ以来は一度も連絡を取っていない。そもそも、SNS 上で知り合いになったとしても、なぜ会うことになったのかはお互い不確かなまま、新宿の喫茶店(タイムズとか珈琲西武かな?)で話をしている感じだった。その曖昧さだけが記憶に残っている。)
 その時は半ば冗談みたいにその人が話していたので、私も「たしかに!」とか言って笑っていた。私の安直さは、彼女にそれ以上詳しく聞かなかったことからも分かる。それにしても、「何か(耐えがたい状況、破局)」に身を置いたときに、そこで語られている「男」、ではない者は、いったいどんな態度を取ることを強いられるのだろう。「泣き女(嘆き悲しむ女)」になること……どこにも行き着くことができず、はては祈ることすら放棄されているかもしれない状態……?
《さて、今度はひとりの人物が、日常的であれ異常なものであれ、とにかくあらゆる行動を超えてしまう、あるいはその人物としては反応しようがない、そんな状況に置かれたと仮定してみましょう。どうにもならない、あるいは苦しすぎる、美しすぎる……。このような状況では感覚と運動のつながりが断ち切られてしまいます。そのとき人物は感覚運動的状況をはなれ、純粋に光学的かつ音声的な状況に置かれる。こうして従来とは違う映像のタイプが生まれるのです。たとえば『ストロンボリ』に出てくる外国人女性は、マグロ漁とマグロの断末魔をへて、つぎに火山の噴火を経験する。彼女は反応することができないし、どう対処していいのかわからない。あまりにも強烈で、「私はもう駄目、怖いわ、なんて不思議なの。なんて美しいの、ああ神さま」と叫ぶしかないわけです。あるいは『ヨーロッパ一九五一年』に出てくる中産階級の婦人も、工場の前で同じような述懐をしています。「死刑囚を見ているような気がしたわ……。」(…)つまり状況に作用を及ぼしたり、状況に反応したりする可能性をあまり信じていない、しかしけっして受け身の姿勢をとることなく、なんの変哲もない日常からも許しがたいこと、耐えがたいことを読みとったり、それをあばいたりする積極性。ネオ・レアリズモは「見者」の映画なのです。(…)純粋に光学的かつ音声的な状況に身を置くと、行動が崩壊し、したがって物語��崩壊するだけでなく、さらには知覚と情動の質も変化していく。……》
 こうして手前勝手の思い付きで『記号と事件』(宮林寛訳)から『シネマ』をめぐるインタビューの発言を抜き出してきたわけだが、ドゥルーズの言葉を書き写していると、さっきまで「抽象」とか「具体」とか延々と書いていたことが馬鹿らしくなってくるね。ここで語られていることは、そんな粗雑な「抽象/具体」といった概念の使用に、亀裂を入れるもののようにも思える。
 耐えがたい出来事に遭遇し、その渦中にあるとき、人はどこまでその状況に、文字通り「耐える」ことができるのだろう。そのとき「男」は、それに耐えきれずに、何らかの既成の身ぶりや言葉を手繰り寄せてきては、《知覚と情動の質》の変化を閉ざしている反動的な存在な���かもしれない。また、そのことは、一つの(具体的な)出来事が、一般化された(抽象的な)言葉へ容易に仮託して語られてしまうこととも、何か関係があるのかもしれない。それに対して、「男」ではない者は、《感覚と運動のつながりが断ち切られて》いる状況に身を置き、耐えがたいものを「見る者」(≒「泣き女」)となる。もちろん、耐えがたい状況に身を置き続けることは、喜ばしいことであるはずがない。しかしそれでも「見者」は、その破局に身を置きながらも、ただ《受け身の姿勢をとる》のではなくて、《知覚と情動の質》の変化に向って開かれてもいる。そのとき、身ぶりと言葉は自ずと、別の主観性を帯びたものに、既成の言葉のカテゴリーに亀裂を入れるものになりうる。
 ここまで書いてきて、そういえば、ヴァージニア・ウルフを好きだと言っていた彼女は(そのとき私はまだウルフを読んだことがなかった)、またこんなことを言っていたのも思い出した。うろ覚えだから、私が勝手に歪曲しているかもしれない……「わたしは年をとるにつれて、ますます言葉を失くしていってるように思っていたんです。知り合う人と話せば話すほど、それを実感する。でも、それは間違いで、はじめからそんなもの持っていなかったんだって、最近になって気づいた」。
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shinayakani · 1 year
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230411 差し迫る破局のなかで問われているもの
《八五年頃の危機は、つながりの危機であり、排除という言葉にその十全な意味を与えるものであった。それは、不幸と心的外傷〔トラウマ〕という概念にまぎれもない転換をもたらし、その動揺の広がりを私たちは今ようやく測り始めているところである。失業者、ホームレス、心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しむ患者、重度の鬱病者、自然災害の犠牲者、こうした人々の全てが、互いに似たような存在となってきた。私が『新たなる傷つきし者』でその相貌を描こうとした、新たな越境的同盟〔インターナショナル〕が生まれようとしている。ジジェクが言うように、心的外傷後の主体の形は、同一性の空虚と放棄というこれまでに見たことのない人間の姿を示しており、それはほとんどのセラピー、とりわけ精神分析の手には負えないのである。  こうした状況のなかで生活すること――だが、つきつめて言えば人は常にそのような状況のなかにあるのではないだろうか――は、外部の不在の経験に行き着くものであり、それは同時に内部の不在である。そこから逃れることは不可能で、ただその場で変貌を遂げるしかない。世界の内も外も存在しない。変化はより一層根源的で、暴力的にならざるをえない。それだけに、必ず〔存在の〕断片化が生じる。主体の主体自身に対する不和が最も亢進した場合、その葛藤が最も深刻な場合には、もはや悲劇的な像すら構成しない。それは、逆説的にも、無関心と冷淡さによって特徴づけられるのである。》
 ……カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論』(鈴木智之訳)
 カトリーヌ・マラブーによれば、人間には、予期せぬ破局(偶発事)の到来によって、ある日突然これまでの同一性とは全く繋がりを持たない別の人間に生まれ変わる「破壊的可塑性」が備わっているという。認知症などの病いによって、また引用した文章にある様々な外的要因(文中では社会的要因が強調されている)によって、そして漸進的にではなく突如やってくる老いによって、人は別人のように変貌してしまう。そのとき、ひとりの人間の《自分自身に対する別れ》が、《死ではなく、生の生に対する無関心として、生のなかで生み出される》。マラブーは、この変容を「破壊的可塑性」として概念付け注視することによって、《主体性の解体》がひとりの人間(主体)にとってより根源的なものであると見なしている――《破壊的可塑性の認識は、同一性の構成それ自体の中核に、これを無化する能力が潜んでいることを明らかにする》。
 「破壊的可塑性」という概念は、それまでの同一性とは無縁な主体を発生させる特異な可塑性が人間(の脳)に備わっていることを示唆する。しかし、これまでの形而上学の伝統では、目まぐるしく姿形を変化させようと、また主体が解体されたものとして示されるとしても、それでもなお主体の同一性が前提にされている。例えば文学の変身譚においても、人間がどれだけ異形なものに姿を変えてもその内部の本質(実体)は変わることがないかのように描かれる(本文ではカフカの『変身』すら例に挙げられている――《おそらく私たちは、自らの変容にまったく無関心な、そのことに関わりをもたないグレゴールを想像してみることもできる。そこにはまったく別の物語が語られるだろう》)。そして、同一性を前提とするこれまでの形而上学の存在論を一変させてしまうような存在様態を「破壊的可塑性」として見出すことは、《暴力の現代的相貌を理解するための解釈装備として、必要不可欠》なものであると、マラブーは言う。無防備なまま偶発事に曝されている人間の存在論は、遭遇する破局が外的な要因によるものであれ、(老いや病いなどの)内的な要因によるものであれ、現代ではいっそう、これまでの同一性を前提とした議論では語りがたいものに見えるからだ。
《しかしながら、病いを同一性の破局と見るここまでの読み方は、病いの経験に関する一定数の証言と一致するとしても、まだ十分ではない。このような見方は、「同一性の核」の存在を問い直すことなく前提に置いているからである。しばしば、主体の真の同一性が存在するのだと見なされ、病いが身体的ないし心理的な試練によってこれを変形、または消失させるのだと考えられている。しかし、この初発の同一性、「本来の」同一性とはいかなるものだろうか。単純にそれは存在するのだろうか。それとも、病いによって自己を見失ってしまったと考える人の回顧的な幻想、ノスタルジックな表現にすぎないのだろうか。主体は失われてしまったのだろうか、それとも、その存在の剝き出しの姿において発見されたのだろうか、と問うことができる。主体は、習慣の覆いの力が病いによって一掃されてしまったあとに、特性も資格もないもの(特性の欠如に苦しむ存在)として見いだされるのかもしれない。この時、病いの内に、主体を破壊する力を見るべきだろうか。それとも、自己とは深く根づいた習慣によって織り上げられたもので、強い暴力が経験されればたちまち表層的虚構として姿を表すのだということを明らかにする、啓示的な存在論的経験を見るべきなのだろうか。後者であるとすれば、私たちの「真の同一性」とは、さまざまな習慣的思考や姿勢の身体化や内面化の帰結にすぎず、本性ではなく、生活の習慣でしかないことになるだろう。病いが示すもの、それはおそらく、私たちの存在様式の内に不動のものはひとつもないということなのである。それを根こそぎ覆そうする力に完全に抵抗することができるほど強固なものは、何ひとつないのだ。》
 ……クレール・マラン『病い、内なる破局』(鈴木智之訳)
 破局が近づく予感にとり憑かれている切迫した情勢のなかで、存在論のハードコアを追求するマラブーの議論はとても魅力的だ。その一方で、自身も自己免疫疾患という病いを生きる哲学者クレール・マランは、マラブーの議論を共有しつつも、想定不可能な偶発事の破局に遭遇した人間は、ほんとうにかつての同一性を完全に消失させてしまうのだろうか、と疑問を呈する。病いという「内なる破局」であれ、偶発事の破局に見舞われた人々は、マラブーの言うように、たとえ自分自身(かつての?)に対して《無関心と冷淡さ》を示しているにしても、同時にそのあり方に苦痛を感じてもいるだろう。この本のなかでマランは、病いの経験を、それまで自身の同一性を織り上げていた「習慣」が破局に曝される試練として定義する。それはまた、上に引いた文章で述べられているような「習慣」に支えられた同一性を、幾度も問い直す経験になりうる――《病いは、自分の体と思考を変形させ、それらを支え導く内なる構造の再配置を強いる。それには、非意志的なものの新たな形の創出、主体の深みに埋め込まれた暗黙の力の組織化された全体の創出が必要になる》。
 主体の同一性は、これまでの「習慣」によってかろうじて支えられている。そして、偶然やって来る破局に遭遇したとき、主体に備わる「破壊的可塑性」ゆえに、突如その同一性は変貌してしまう。しかし、それでもなおまだ問うべきことは、《この初発の同一性、「本来の」同一性とはいかなるものだろうか》ということ、つまり、《モンテーニュが言うように「私たちの行為というのは寄せ集めの断片でしかない」のだとしても、やはり何がそれらの断片をひとつにまとめているのか》ということではないか。マランは、自身の病いという「内なる破局」の経験をもとに書かれたこの本によって、一つの主体における《「本来の」同一性》の脆さと捉え難さを示そうとしている。そして、マラブーが、危機の時代を生きる人間の形象から「破壊的可塑性」を浮かび上がらせたことも、同一性についての議論のあり方を問い直すためのものだろう。
 たしかに、人間の同一性について、それが確固としたものではなく脆弱なものであるということは、これまでにも頻繁に語られてきた。しかし、ふだんの生活のなかで、私たちはそのことをあまり意識せずに生きている。たとえ破局に直面した他者を眼前にしても、実際にその状況に立たされていなければ、自分自身の連続性を保っている同一性の感覚を疑わしいものには思わない。危機の時代に現れた存在様態を、どこまでも否定的なもの(既成の言説に容易に回収されえないもの)として追及するマラブー。破局の試練を、それまでの自己の同一性を問い直すことで「新しい皮膚」を纏いうる《混沌の両義的な経験》と定義するマラン。現代に差し迫った破局――それが外部から突如やって来るものであっても、内に秘められたものであっても、私たちの存在様態がいかなるも���であるのか、いかなるものに変わりつつあるのかが、つねに問われ続けている。そして、破局の渦中にいる他者とともに、いかに生き直すことができるのか、ということも。
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shinayakani · 1 year
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230325 囀りと時のざわめき
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  《時間を狙う芸術。それと言うのも、芸術家は、時間を通して対象を追い求めると同様に、対象を通して時間を追い求めることも出来るからだ。その奇異な運動のうちには、われわれの接近を逃れ去るとらえがたいさまざまな形態の漂流を見てとることが出来るのだが、この運動は、このような逃れ去る動きそのものをその対象としている。そこに引出された事物と同様に、この漂流、この流出を描いているのだ。手のふるえ、形態に見られるふるえは、ふるえの形態でもある。ボナールのあの最後の絵のなかで、燃えあがり、消え去るのは、花咲く巴旦杏の木であると同時に、時間そのものにほかならない。突風、稲妻、燐光、これらは、皺や亀裂や蜂窩織炎と同じ程度に、時間である。この不安定な、崩れた静物は、すももや、貝殻以上に、時間なのである。手は、形態を通して時間に出会ったことによって、――形態を啓示する鼓動する心臓としての時間に出会ったことによって――もはや、時間しか識らず、時間と結びつき、時間をその身に負う。へだたりであり障害であった時間が、今や対象と化するのだ。》ガエタン・ピコン『素晴しき時の震え』(粟津則雄訳)
《わたしの願いは、自分のことを語るのではなく、時代のあとを辿り、時のざわめきとその芽ぶきを辿ることだ。わたしの記憶は、あらゆる個人的なものを憎む。もし思いのままになるなら、わたしは過去を紐解きながら、ただ顔を顰めるだけだろう。(…)私の記憶は、愛情ではなく、憎しみにみちており、過去を甦らすためではなく、過去を遠ざけるために働くのだ。(…)そしてわたしと時代とのあいだには、時のざわめきに充たされた深淵、深い裂け目が口を開けている。それは、家族と、家庭的な古文書にあてがわれた場所だ。だがわたしの家族が、何を言いたいと願っただろう? わたしは知らない。それは生れつき舌たらずだった。だが実際には、彼らには言うべきことがあったのだ。わたしとわたしの同時代人の多くが、生れながらの舌たらずに苛まれている。われわれは、話すことではなく、囀ることを教わった。そして、しだいに高まりゆく時のざわめきに耳をかたむけ、その波頭の泡に白く洗われて、やっとわれわれは言葉を手にいれたのだ。》マンデリシュターム『時のざわめき』(安井侑子訳)
 オシップ・E・マンデリシュターム『時のざわめき』は、ロシア革命前後の混沌とした時代を生きた詩人(彼自身も革命後の粛清によって逮捕され、非業の死を遂げている)による、自伝的散文集だ。自伝的とは言っても、この本に描かれている過去の姿は、《一貫した繋がりを欠いた、寸断され、解体された人生のモメントにすぎない》(訳者解説より)。それぞれの散文、そしてその中で描き出される詩人が見た出来事や人・事物たちが、脈略が不明瞭なままのイマージュとして立ち現われる。しかし、それら一つ一つの間に開いた裂け目からは、時のざわめきが芽ぶいている。彼が《わたしと時代とのあいだ》にあるという《時のざわめきに充たされた深淵》とは、いったい何なのだろう。
 私は、引用した文章にある二つのフレーズ――《わたしとわたしの同時代人の多くが、生れながらの舌たらずに苛まれている》《われわれは、話すことではなく、囀ることを教わった》――を読みながら、現代を生きている私自身について、否応なく言い当てられたような気分になった。卑近な例に漏れることはないが、《囀る》という言葉から Twitter(「呟き」)を連想したからだ。しかし、私にとっては、特段 Twitter をはじめとする SNS を例に挙げて語る必要もないことに気づく。SNS から距離を取るようになっても、私は相変わらず舌たらずのまま、きれぎれに囀り続けている。つまり、私の知覚の問題は、それまでの自身の習慣と、生きている時代の状況に当然左右されざるをえないのだから、そう簡単に変わることはないのだろう。たとえ外部から離れ、被る影響を最小限に留めたところで、それほど効果があるとも思えない。また、そのように自閉するとき拠って立つべき諸々の規範は、いずれも過去に属しているものなのだが、現在ではほとんどがそのまま無批判に拵えることができないほどに、すでに軽薄なものとなっている。
 そして、舌たらずのまま、きれぎれになった言葉を囀りながら生きる私に対応する時間は、過去から現在、そして未来へと同一性を保ちながら流れて行くようなものではなく、もはや《一貫した繋がりを欠いた、寸断され、解体された》時間だ。ネットに溢れている言葉は、一見すると、留まることのない饒舌さで隙間なく流れ続けているようだ。しかし、しばしば私は��れらの言葉たちを、脈絡を欠いた不明瞭なもののままに受け取り続ける。どれだけそこに一貫した繋がりをもたせようとしても、受容するスピードには際限がない。私が舌たらずなのは、《生れつき》なのか、それともこの徹底した受動性のためなのか。いずれにせよ、生きられる時間は解体されている。流れて行くことをやめ、寸断された時間が、ざわめき続けている。
 しかしまた、絶え間なく饒舌に「呟かれる」言葉たちは、ほんとうに脈絡を欠いたものなのだろうか。むしろ真逆に、その言葉たちが、徹底して状況や文脈に依存するものなのだとしたら。《しだいに高まりゆく時のざわめきに耳をかたむけ、(…)やっとわれわれは言葉を手にいれた》と、マンデリシュタームは書いている。私たちは、もはや過去へ戻ることはおろか、そこにいったい何があったのかも不確かなまま、《話すことではなく、囀ることを教わった》。時間は、《わたしと時代とのあいだ》で、ばらばらになった言葉たちの間隙の深淵で、つねにざわめいている。私たちがこのざわめきを聞き取るためには、よりいっそう断絶された言葉を《囀る》必要があるのかもしれない。そして、断絶された言葉たちの間隙、この裂け目から時のざわめきに耳を澄ますとき、ようやく新たな言葉と主観性を手にすることができる。
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shinayakani · 1 year
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230301 言葉を一つの〈生〉にまで高めること
 坂口ふみ『〈個〉の誕生』は、古代末期(4世紀~6世紀)のキリスト教教義論��における、三位一体論やキリスト論(全く人であることと全く神であること、両者が自己を失わず差異を保ちながら、かつ同時に一つに結合しているという逆説的な存在であるキリスト)を丹念に辿って行くことを通じて、時を経て現代まで連綿と続く「個の概念・個の思想」の起源に立ち会う。未聞の教義論争の歴史的な推移の下、当時すでに隆盛していたギリシア由来の概念と、聖書由来のキリスト教教理とが複雑に絡み合うなかで、個(かけがえのない、それこそ特異なもの)の思想が形作られるさまが、著者の瑞々しい文章で描き出されている。そしてまた読者にとって何より忘れがたいのは、そんなダイナミックな思想の流れを追った壮大なドキュメントとも言えるこの本が、著者の亡き親友・アンナと過ごした日々を巡る言葉にはじまり、彼女へ宛てた言葉で終わっていることだろう。
《「しかし、アンナ、私が書きたかったのは、あなたが知りすぎるほど知っていたことだ。つまり、いちばん私的で、個人的で、いきいきと真実なこと、したがってまたとらえようもなく繊細で無定形なもの、そういったものへの感覚だけが、ほんとうの普遍、つまりほんとうのことば、通念、組織、制度を生むことができるということを。そしてもちろん、そういう繊細で無定形なものたちは、普遍に支えをもとめるのだが、普遍なものはいつでも両刃の剣だということを。それは生命を抑え、殺す傾向をつねにもっている。その二つのたえまないあらがいの中で私たちは生きるしかないのだし、その中で普遍のつくるかたちにできるだけ生命を与え、またはつくりかえるのが私たちみんなのなすべきことなのだろう。あなたはどうしてこの戦いから、そんなに早く身をひいてしまったのか?」》
 確固とした概念による理論付けによって、本性つまり「普遍」を捉えようとする(ギリシア由来の)思想。もう一方には、「とらえようもなく繊細で無定形なもの」への感覚に向けられた(イエスの言葉と振舞いが深く根を張る、キリスト教由来の)思想がある。個の思想は、両者の「たえまないあらがいの中で」生まれる。そして、一人ひとりの個人は、「二つのたえまないあらがい」を通じて思想が生成されてゆくという、そのプロセス自体によって、特異的な、まさしくかけがえのない〈個〉を形成する。これはしかし、哲学の営みがいかに慎ましいものであるかということを言い表すに留まってはいないだろう。いつの時代の歴史を振り返ってみても、思想が形作られる動機はつねに激しいものではなかったか。
《人はたしかにさまざまな価値を求めねばならない。ある価値をたて、それに合わぬものを裁き、つねにさらに高い価値を探求し、世界を分割し、分類し、そうやって理解し対応しうるものとし、秩序を見いだし、人びとの間にも序列と階層と秩序を造り――それらはかがやかしい人間の理性の業績である。ギリシアの文化には、そのような方途をはじめて見いだし、探求する人びとのみずみずしい感激があって、私たちをこよなくひきつける。しかし、それらがひとたび固定し、絶対化してくると、それは人の生命を圧迫しはじめる。そこにはいつも逆方向のせめぎ合いがある。知は流動する現実のうちに真実を捉え、明瞭に固定することを求め、秩序は人びとの間の争いや非効率な動きを、統一と安全と生産へと形づくる。それは偉大な業績である。しかし、所詮人の見いだしたものにすぎないそれらの真実や秩序につきまとう見落としと欠陥は、つねに声をあげて叫び続ける。  あらゆるカテゴリー、価値基準、階層、能力、貧富などを度外視した、人のうちの核のようなもの、個人がかけがえない個人として存在するその場所にこそ光をあてることを説く教えが意味を持つのは、そういう場においてである。それは、より本質的なものを生かすために、文化と秩序の所産すべてを疑問視する。ヨーロッパの初期の歴史の中で、その役目を果たしてきたのはやはりキリスト教であった。そのインパクトは、既成のキリスト教自身をも破壊するものとして、後代に伝えられた。》
 「序章 カテゴリー」から引いた。つねに眼前には、ある価値によって分類され秩序付けられた複数の制度がある。しかしそれら自体は、はっきり感じとれる形をもって外部にあるものとは限らない。輪郭を刻々と変化させるその境界は、むしろそれこそ「とらえようもなく(…)無定形なもの」のように、ひとりの人間の内部に撓まれていく。秩序付けられたカテゴリーや制度を抜きにして生きることができない人間は、しかし何よりも、それらに対する「あらがい」なしに生きることはできない。時として、外の世界に声をあげることも、ただ音のない叫びが内にこだまし続けることも、兆しや発端、原因が曖昧なままにはじまる。
 それならば、概念化や理論化という行いの手前には、思考と行動を触発させるその「はじまり」には、いったい何があるのだろうか。例えばそこには、この本を書きはじめた著者にとってのアンナのように、具体的な他者(たち)が発した身ぶりや表情、そして言葉があるのだろう。しかしまた、思考と身体を断絶させるような傷を負わせる出来事すらも。ひとりの人間が他者や出来事にさらされる経験、その「たえまないあらがいの中で」言葉を紡ぎ、新たな概念をつくり出そうとすること――それこそが〈個〉の思想の内実であり、生きられた一つの生そのものであるように。
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shinayakani · 1 year
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230203 いつでも人民が欠けている
 先月は日本人の著者のものしか読んでいないようだが、ほとんどすべて、著者が異国の地に滞在した経験を基にして書かれたものだった。そのうちの一冊、大嶋仁『精神分析の都――ブエノス・アイレス幻視』には、80年代末の数年間に、当時精神分析のメッカだったブエノスアイレスで生活し、著者自身が長期にわたって専門家との分析を体験した模様が詳細に綴られている。大嶋が分析体験を通して得た、精神分析の効用だけでなくその限界や批判的な知見も書かれているから、ある意味では精神分析への特異な入門書として興味深いエッセイだ。ただそれ以上に、分析医と被分析経験者の数が世界的に最大だというブエノスアイレスに生きる人々の生態と、この都市で出会った匿名の哲学者集団や無名の画家たち、そして郊外で暮らす若者たちと著者が交わす会話のやり取りがいちいち魅力的に描かれている。
《ポルテーニョ〔ブエノス・アイレス市民、「港の民」の意〕は、単に文化的アイデンティティーの不明に悩んでいるだけではない。私に言わせれば、彼らの自己というものは膨張し過ぎていて、自分自身で容易にその正体がつかめないのである。我々の自己が社会の関数である限り、社会を離れた個人はあり得ない。その点、社会的絆の脆弱なブエノス・アイレスのようなところでは、自己はタガのはずれた浮遊物になりやすい。広い空間に勝手に投げ出され、勝手に振る舞う個人の群れ。いかにも自由に見えるが、個人としての限界あるいは境界線が見定まりがたく、自己が勝手に膨張し、容易に狂気に陥るのである。 〔…〕  自己が膨張し過ぎるとき、自己は外部世界に対して防御できない。核がなくなってしまい、いくつもの断片に分解してしまうのである。新大陸への移民は、故国の文化の幻影を断片的に引きずっており、同時に新天地に適応できずに、虚構の自己を捏造する。彼らの自己は最初から解体されていると言えよう。そのような自己は、時として言い知れぬ憂愁に見舞われずにいられない。その憂愁が、たとえば有名になった映画『タンゴ、ガルデルの亡霊(El exilio de Gardel)』に表現されているのである。  ソラナス(Solanas)監督の作であるこの映画は、軍事政権時代にパリに亡命したポルテーニョたちの自己解体の過程を描いたものだ。だが、この自己解体はドラマになり得ない。それというのも、登場人物一人一人の内部に解体があるように、彼らを結ぶはずの連帯もまた、解体しているからである。そのことを、登場するポルテーニョたちは体験的に知っている。そして、奇妙なことに、この連帯の欠如が、彼らを目に見えぬ糸で結びとめているのだ。》
 「難聴と記憶喪失」をわずらっているとも言われるこの都市では、《記憶が集団化されないといっても、幻想は集団化される》。そして、この幻想、社会的なものは悪であり、個人的なものは善であるという「アルゼンチン的共同幻想」の中で、《個人は一面できわめて大きな自由を享受するが、社会機能の極端な低下が個人の生の不安を増大させるので、結局一人一人の立場は悪くなってしまう》。この本はすでに30年以上前に書かれたものであるが、現在においては、引用した文章にある「ブエノス・アイレス」を別の都市や地域の名に置き換えてみても、特に違和感なく読める(もちろん、歴史的な背景とそれに連なる固有名詞の内実はそれぞれ全く異なるものだとしても)。ひとりひとりがひび割れ解体した内部を抱えていて、だからそんな人間たちに連帯などはなから望むべくもないだろう……それならば、皆がより大きなものに、一つのものに統合されてしかるべきだ……という、ともすれば反動的な言説に容易に導かれてしまいそうでもある。「社会」だって? しかし、引用文の最後にある《奇妙なことに、この連帯の欠如が、彼らを目に見えぬ糸で結びとめている》という言葉が示唆するものを、もっと突き詰めていくことはできないだろうか。
 精神分析の試みは、自身の内面における未知の領域(大嶋はたしか、この「無意識」の領域こそをそのまま「精神 Psyche」と呼んでいた)に潜り込み、 その核心に言葉をもって徐々に接近し迫ろうとする。その試みがネガティブなものにもなり得ることは、本書でも度々指摘されている。密室で行われる分析体験を通して、それこそ個人を内面の領域に閉じ込めてしまい、ますます外に向かう通路は塞がれてしまう、と分析を経験した多くの人々が言う。また、内部の未知の領域に向かうにしろ、既知の概念装置に自足してしまったら、いつまでもその牢獄の中に閉じ込められ、あとは内部を循環し続ける以外にないということか。しかし、未知の領域に潜り込み、その度につ��み取ってきた言葉が、個人の内面にのみかかわるものとは限らない。つまり、初めからばらばらに解体された自己が、最終的には何らかの統一されたイメージの片鱗を見出していくその過程で、形作られていくものは、ほんとうに(ただひとりの)私なのか。ドラマにはなり得ない、自己解体を抱えた人々と、欠落している連帯。一人の個人のひび割れた内面からかろうじて紡ぎ出された言葉は、同じように解体に曝されている他者たちにもどこかで秘かに通じている。何にせよ、言葉を紡ぎ出す端緒となるのは、解体された個人の内面の諸相と、「連帯」という言葉がイメージするものを問い直すことだろう。
《〔大嶋〕「そうかも知れない。……ポスト・モダニズムは脱歴史主義だけど、日本でポスト・モダンが受けるのも、もともと歴史を尊重する土壌がないからかも知れない。敗戦のことを終戦と言い換えたり、一事が万事、歴史の否認または忘却なんだ。あたかも何も起こらなかったかのごとく生きよ、然らずんば死ねってわけさ」
〔パブロ〕「なるほど、そうだったのか。そうやって毎日の生に死を調合しているわけですね。……それも分かるような気がするな。僕だって、歴史というものは重荷であるし、一種の虚構だと思っています。だけど、やっぱり過去を忘却のなかに葬り去るわけにはいかないんだ。したくても、そんなことできませんよ。もしそれが日本人にできるのなら、ある意味で幸せじゃありませんか」
〔フェルナンド〕「日本人が歴史を尊重していないってことは、子供時代が幸福だということを意味するではないんですか? 普通は、子供時代の心の傷が歴史意識の母胎になるわけでしょう? 子供時代が幸福だと、いつまでも夢見ることが可能だと、何かで読んだことがある」
〔大嶋〕「フェルナンド、君の言っていることは分かるけれど、問題は、幸福な子供時代が幸福な大人の生活を保証しないことだよ。とくに、現代の世界では、それが不可能に近いんだ。僕だって、歴史は近代西欧の神話には違いないと思うし、それぞれの民族は歴史について独自の態度決定をする権利があると思っている。でも、現実には世界の大勢というものがあって、それに対応しなくてはならないんだ。いつまでも、子供のように夢を見てはいられないんだよ」
〔パブロ〕「それはきついな。思想がモードとか商品とかになってしまうということは今の僕には堪えられないけど、歴史のイデオロギーは嘘ばかりで、これはもっと堪えられない。今あなたは世界の大勢と言ったけど、その大勢は誰がつくってるんですか? アメリカとか、先進国とか、ソビエトではないのですか?……僕は、人間は大人にならなくちゃいけないという考え自体に疑問を感ずる……」
 パブロの言う立場と私の立場は、見かけほど正反対ではないように思った。というより私自身が、時にパブロ的な立場に傾くことがあるのだ。それで、やっと次のように釈明した。
「この問題について、僕自身分からないんだ。今聞きながら思ったんだけど、僕は歴史とか近代化ということについて、アンビヴァレントな感情を持っているんだよ」
 今度は、フェルナンドからため息が漏れた。
「それにしても、何という違いだろう。思想を生活のなかでどう表現しようかと僕らは考えているのに、思想がモードとなって売れるなんて……。後進国の特権かな、僕らがいろいろなことをやっていられるのは」》
 著者とブエノスアイレス郊外の地方に暮らす二人の青年の会話。彼らはかつて都市で左翼運動に参加していたが、社会に向かって運動が掲げるイデオロギー的な要求と、自身の内面の欲求との乖離に気づき、都市から離れることにしたという。それからは田舎町で働き生活しながら、地元の人々と協力して図書館を運営したり、様々な文化事業を企画したりして、オルタナティブな運動の形を模索している。そんな彼らと交わす会話の中で、80年代末当時の日本の有り様を憂えている著者の指摘は、今となっては何度も繰り返されてきたありふれたものなのかもしれない(それだけ進展していないことも変わらない)。ただ、《思想を生活のなかでどう表現しようか》と模索している三人の言葉は、私にとっては新鮮に響くし、こんな会話を交わせること自体羨ましいとすら思ってしまう。当時青年だった彼らは、いまどこで何をしているのだろう。
 それにしても、現代のラテンアメリカは文化的なものだけでなくて、政治的・社会的な情勢(つねに巻き起こる無数の社会運動と、またそれらに対する悲惨なバックラッシュ)においても、その先端性はしばしば指摘されているけれど、まだまだ私は知らないことが多すぎる。この本で素描されて以降の、アルゼンチンをはじめとするラテンアメリカのダイナミックな社会運動の流れは、廣瀬純の『闘争のアサンブレア』に詳しいのだろう(こちらの方の書評が参考になる)。ここ数年の廣瀬さんは、ラテンアメリカ各地で沸き起こっているフェミニズム運動について報告し続けている。
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shinayakani · 1 year
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230109 新年早々、ストア派風(?)に
《一般に、破壊あるいは解体が単一の特異的原因で起こりうるのに対して、回復は、無数の非特異的因子がしだいに好ましい方向に働く結果、全体として“地力”がついてくるとしか表現しえないような事態であることが多い。(…)回復過程は、一般に把握しがたく、追跡しがたいものであり、それは回復ということの本性の一部であると私は思う。それに対して破壊的過程は相対的に明快であるため、過大評価され、原因追及がなされ、過剰対応が行われやすい。したがって、われわれは、絶えず楽観論へと軌道修正しないと事を誤ると思う。しかも、悲観論は、治療の場合、自己実現性予言である。悲観的予言は、予言それ自体が生みだす作用によって悪化を招き寄せる。そのために予言は正しいことになり、誤謬は意識されがたいのである。  おそらく、治療の基本原則の一つには、患者の示すものの中に建設的な意味を読みとり、それを活用しようとすることがあるであろう。何か積極的な意味はないかと問いなおすことは、しばしば、思いがけない新しい局面を開いてくれる。二つの理論が競合する時には、積極的な意味のほうを採用し、治療者、患者あるいは家族にとって多少とも楽観論を増すような理論によって事態を解釈するのがよいと私は思う。これは「やす請け合い」や「ひいきの引き倒し」とはまったく異なる。こちらのほうは願望思考による根なし草である。したがって、初診の際あるいは重要な機会を捉えて、「ひいきの引き倒しはしない」と患者あるいは家族に向かって明言することがしばしば必要であり、また意味があったと思っている。》中井久夫「統合失調症の精神療法」
 時代の凋落は、昨年から日々を追うごとにますます誰の目にも明らかになったように思える。そんなこと、今にはじまったことではないし、いつの時代もそうだったではないか、と言われればそれまでなのだが。こう書き出しながら、大袈裟に「時代」なんかを主語にして、患者との具体的な治療経験に根ざした中井の臨床知を引き合いに出すこと自体、問題があるかもしれない。ただ、いつどこで生まれようと、その時代を生きる個人の精神は、その趨勢に左右され影響を被らざるをえない。私だろうが他の誰かであろうが、精神が不安定であるとか狂っているとか言われようと、そんなこと知ったことではないのだが、状況によって過剰な悲観論にとり憑かれてしまうことは多々ある。
 白日に曝された破壊や解体は、たしかに、その明らかさゆえに人々に恐怖感を与えて不安を増幅させては、有効かどうかの判断をまたずに分かりやすい対処法を促す。その前後に生まれる悲観論は、まったく貧困な破局のイメージのパッチワークでしかないのだが、いつしかそれを《自己実現性予言》によってあたかも望まれている破局のように語り出してしまったら、いっそう救いがない。時代の凋落などと語りたくもなる大きなものにしろ、日々の営みの中で個人の精神に起きる小さな綻びにしろ、粗雑な悲観論に由来するこの予言に対しては警戒していきたいところだ。《予言は、一般に、限界と対策を併せ教える予言である必要がある》と、中井は言う。
 回復は、把握しがたい《無数の非特異的因子》が互いに触発し合って働く過程そのものであると言える。しかし、《単一の特異的原因》に由来するとされる破壊や解体も、実際には、破局が起こる直前まで原因を特定できないような、無数の要素が絡まり合ったところで発生するものだろう。つまり、どんなものであろうと、出来事それ自体は、把握しがたい《無数の非特異的因子》が働くことによって生じる。問題は、それが自明と思われるにしても、あらゆる出来事を《単一の特異的原因》の中に閉じ込めてしまうことにある。絶えることない失墜の感覚の中で、個人が「正気」を生きるには、出来事の《無数の非特異的因子》を見据え続ける必要があるのではないか。たとえ、自身の意思によってだけでは、自由に振る舞うどころか、それらを把握し追跡することすらままならないということが、明らかであるとしても――そうして手繰り寄せられたものが、どれだけわずかなものであったとしても。
 中井久夫はこの文章にあるような慧眼を、患者たちとの臨床体験の中で研ぎ澄ませていった。それにしても、どのようにすれば、ひとりの個人が(ここで記されている具体的な医者と患者の相互性、具体的な他者との関係性をひとまず抜きにして)、悲観論とその《自己実現性予言》に陥ることなく、出来事の《無数の非特異的因子》を見出すことができるのだろうか。
 例えば、「生活」を書くことによって……?
《そうなのだ。「生活」はどうだろう。生活の本質は反復、それが安定であり、安心をもたらす。ところがいざ生活(日常)について記そうとするとき、人は反復を回避する。どうしても「発見」と「事件」(非日常)が中心となる。それが文学的都合。ページごとに発見と事件の記憶が刻みこまれてゆくとき、読む人は「すばらしい生活記だなあ」と感心することだろう。けれども、と、ぼくはつぶやく。生活だよ、いいかい、生活の話をしてるんだよ。そんなに毎日毎日、発見があったのか、事件があったのか?(…)ひどい生活記も、よく書けている生活記も、生活時間の大部分をしめるありきたりな反復の時間をあっさり忘却し、おもしろおかしくスリリングに話をまとめようとする。「生活」が、きれいにさばかれ、陳列用の肉塊になる。そして「記」が生まれる。  生活につきものの反復とか、試行錯誤とか、やりなおしや再出発とか、それでも日々のもたつきの中に忍びこむ小さな発見を、そのまま書くことができたなら。単に日記という形式を採用するだけでは足りない。文そのものを変貌させたい。それはたぶん、ひどく読みにくくまとまりのない、(…)破壊されたシンタックスのつらなりになるのかもしれない。けれどもそれが、逆に「生活」に迫ることもあるだろう。生活の真実をうかがわせることもあるだろう。そんな文章を書くことは夢想にすぎないかもしれないが、その焦れったい夢想の影で、生活はいつもすでにはじまっているのだった。》管啓次郎『斜線の旅』
 退屈な反復が繰り返されるように見える「生活」そのものがあり、これまた何のために書かれるのか曖昧なままに綴られる言葉がある。しかし、そうやって綴られていった言葉は、いつしか「生活」からも、書き手自身の意思からも徐々に逸れて行く。「時代の凋落」だろうと、とるに足りない個人の「生活」だろうと、それら大小の出来事の《無数の非特異的因子》の群れに促されるかのように、言葉たちは書かれるのか。それとも、書かれた言葉は、出来事のただ中に忍びこみ、その《無数の非特異的因子》に働きかけようとしているのか。そして、こんな風に書かれた文もまた、いったいどこへ向かうのだろう。
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shinayakani · 1 year
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221230 「労働の拒否はどこいっちゃったの!?」
《すべてこのような考察からひきだせる結果として、わたしは決して市民社会にふさわしい人間ではなかったと言える。市民社会にあってはすべてが拘束となり、義理となり、義務となる。そして、わたしの不羈独立を好む天性は、人々とともに生きようとする者にとって必要な屈従にたえることをいつもできなくしてしまったのだ。(…)わたしは、人間の自由というものはその欲するところを行なうことにあるなどと考えたことは決してない。それは欲しないことは決して行なわないことにあると考えていたし、それこそわたしがもとめてやまなかった自由、しばしばまもりとおした自由なのであり、また、なによりもそのために同時代人を憤慨させることになったのだ。というのは、かれらは、活動的で騒々しく、野心に満ちて、他人が自由であることを憎み、自分たちも自由など欲しないで、ただときに自分たちの意志を実行できさえすればよい、いなむしろ他人の意志を支配することができればよいと思っているかれらは、一生自分たちの気に染まないことをして身を苦しめ、他人に命令するためにはどんな卑劣なこともしかねない連中だからである。》ルソー『孤独な散歩者の夢想』(今野一雄訳)
 先月読み返していたゼーバルトの『鄙の宿』に取り上げられていたルソーの本を読んだ(その関連で読んだ『ヴァルザーの小さな世界』も良かった)。ゼーバルトが書いていた通り、世を遁れて散歩をしながらルソーの想念に浮かび上がる、サン・ピエール島で過ごした短い期間をめぐる追憶や、晩年の彼が傾倒した植物学についての記述はとりわけ印象的だった。ただ一方で、文字になって延々と綴られている彼の自意識の不安定な漂白は、もはや「散歩」や「夢想」といういずれの言葉のイメージからも、だいぶかけ離れていってしまうようだ。それが、彼の元来の自意識や振る舞いのゆえにしろ、言論界から社会に至るまで締め出されていた彼の当時の状況がそうさせたのかにしろ。絶えず他人や社会(とその通念)を引きあいに出して何かを語らずをえなくなってしまうことは、彼が「孤独」であることを浮かび上がらせる。しかし同時に、閉じられたように見える自意識はどこまでもひび割れていて、安定することは決してない。《こうしてわたしは地上でたったひとりになってしまった》。だが、いつのどこの誰とも知らない人間が、こうして彼の言葉を読んでいる。
 目に留まった一段落を上に抜き出してみたのは、ただ恣意的なもので、以前見た『アセンブリ』の書評会で廣瀬純が言っていた「労働の拒否はどこいっちゃったの!?」という批判を思い出したからに過ぎない。ルソーがここで言う「自由」は、一見すると消極的なもののようでもあるが、社会から迫害され、ひび割れた自意識を抱えた彼からすれば、いっそう切迫したものだったはずだ。そもそも、いつの時代のどこの場所で生きていようと、自分が欲しない行いを拒否することは困難なものだろう。社会に隈なく張り巡らされた権力の作用が、主体に対して、当人自身があたかもそれを欲することであるかのようにその行動を起こさせることを目標に定めているならば、なおさらに。それを拒否する身振りは、積極的なものになって立ち現れざるをえない。
 しかし、そんなよく知られている権力の作用云々よりも、私たちが消耗しているのは、もはや自分が欲しないことを欲しないままに、それでも振る舞い、思考している現状ではないか。そんなことはわざわざ口に出して言う必要もない、生きていくためにはそうせざるをえないから(カネが必要だ)、という理由で。そこではいったい何が本当に困難なのか。それすらも、権力の作用が主体を向かわせる欲望の選択肢の一つにすぎないのだろうが、では、そんな「生」とはいったい何なのだろう。
《日没後、かれら〔ニュージーランドの温かい地域に棲息する小型ペンギン(ブルー・ペンギン)の群れ〕の上陸を見物に行った。楽しい見ものだった。特別に作られた海岸の観客席で、日が暮れるのを待つ。暗くなり、野球場みたいな照明だけが輝く中、やがて群れの上陸がはじまる。十五羽から二十五羽のグループにわかれ、打ち寄せる波に体をまかせて、ざっぷんと打ち上げられる。一回目はそのまま波にひき戻されて、海に帰ってゆく。二度目の波で、こんどは着実に足の届くところまで上がり、ざわざわと濡れた体と翼をふるわせながら一斉に上陸し、まっしぐらに海岸の藪へとよちよち歩いてゆくのだ。観客は、うれしくて大笑い。腹は白く、青い翼は濡れて黒く見える。数分の間隔をおいてそんな上陸の波が、いくつもいくつもつづいた。  かれらが見せてくれるものは、悠久であり、進化の時間であり、太陽と月の巡りであり、潮の交替だった。見ていると、生命の糸の何かがそこにあらわになっていることを思う。そこには何か、さびしい感動がある。そしてそんなかれらの日々の上陸を(また多くの他の野生生物たちの恒久を)維持するために、ここらでヒトという種が滅びを選ぶのもいいんじゃないか、とさえ思えてくるのだ。》管啓次郎『斜線の旅』
 こんな風に、年末年始にかけてゆっくり読もうと思っていた本から管啓次郎の颯爽とした言葉を抜き出したのも、またしても恣意的なことで、数日前に寝床でぼんやり流し聞いていた『非暴力の力』の書評会(佐藤さんは毎度動画を上げてくれて助かる!)末尾での、これまた廣瀬さんのコメントが頭に過ったからだった。気候変動や vulnerable の問題に関して、「はっきり言って人類一般が滅びようがどうしようが何の問題もない」「はるか昔に恐竜が絶滅しようが何の問題もなかったほどに〈地球〉の、〈生〉の力は強い」「《資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい》なんて下らない発言は〈生〉の力を馬鹿にしているとしか言いようがない」と言っているのを聞いて、爆笑しながら元気づけられたのだった。しかし真の問題は、と廣瀬は続ける、その人類の絶滅の中に「順番」があることだ――のうのうと生きている自分たちマジョリティのために、一方的に生を収奪され死に曝されているマイノリティがいる。つまり、この「順番」に対して抗うような、〈生〉の地平からの知覚が必要だということ。ありがちな反動的なニヒリズムに陥らない、〈生の破局〉の思考(と呼ばれるべきもの)へと人を駆り立てる出発点の一つが、ここにあるはずだ。
 来年は、読んでいる本から一節を手前勝手に取り出して来ては、こうやってとりとめのないことを書いていく量をもっと増やしていけたらいいな、と思う。  とりあえず、今のところ(相変わらず?)私はそんな書き方しかできないので。
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shinayakani · 2 years
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時間の目まい、複数の過去の重層性
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  《究極的には、人間の肉体を思い浮かべてみるまでもなく、私はこの圧縮された「時間」の目まいを感ずる。一八五〇年、オーギュスト・サルツマンはエルサレムの近くで、ベツレヘム(…)への道を撮影した。その写真には、ただ石ころだらけの道と数本のオリーブの木しか写っていないが、しかし三種類の時間が私の意識を動転させる。私の現在時と、イエスの時間と、写真の時間、それがいずれも《現実》の審級に属するものとして示されているのだ――虚構のテクストや詩的テクストの構築作用を通して示されているわけではない。テクストはと言えば、決して根元まで信用できるものではないのである。》
 ロラン・バルト『明るい部屋』のよく知られている「プンクトゥムとしての『時間』」の章から引用。この章については、若き死刑囚ルイス・ペインの肖像写真についての記述 (「彼は死のうとしている」……) がとりわけ注目されてきたが、その記述の次の段落に引用した文章が続いている。
 この章では、プンクトゥムとは細部に刻まれたもの(形式)であるだけではなく、《強度という範疇に属する》時間であると語られていた。バルトは人物が写った写真から、「それはかつてあった」という過去と「それはそうなるだろう」という未来を同時に読み取る――《死が賭けられている過去となった未来を恐怖をこめて見まも》り、《すでに起こってしまった破局に戦慄する》。この《過去と未来の等価関係》が、写真の本質と結び付けられる。つまり、《写真はすべてそうした破局を示す》と言われているように、 写真の本質はこの「時間の破局」にあると言える。人物の写真をめぐる記述は、「それはかつてあった」は「それはすでに死んでしまった」に、「それはそうなるだろう」は「それはこれから死ぬ」に、というように何よりも写真に写った人物の「死」に結び付けて書かれているからだ。人物写真は「それはかつてあった」という過去の自明性を示すがゆえに、写った人物の「平板な死」をも感じさせる。もちろん、母の死と、母の写真を見つけたことが、バルトにこの本を書かかせるきっかけになったのだから、本書全体にその影が落ちていることは間違いないだろう。
 しかし、上に引用した風景写真についての記述には、人物が写った写真が示すものとは違った《圧縮された「時間」》の様相が記されているように思える。究極的には対象がどんなものであっても、その写真を見る者は、写真がもたらす《圧縮された「時間」の目まい》を感じるだろうが、風景写真の場合は人物写真と比べて、複数の時間(複数の過去)が顕著に示されることになり、それらが見る者に目まいをもたらすのだ。ベツレヘムの写真について語られている《イエスの時間》とは、歴史上で語られ続けている過去の時間である。さらには《写真の時間》つまりその写真が撮られた時間(1850年と年号が付けられている)があり、またその写真を見ているバルトの現在時がある。この風景写真には、ただ過ぎ去ってしまったという「時間の破局」を示すことよりも、風景(土地)の中にある複数の過去の重層性を見る者に喚起させることに、その本質があるのではないか。人物が写った写真には死と結びつけられていた写真の明証性が、ここでは複数の時間の重層性(複層性)へと開かれたものになっている。
 本書には掲載されていないオーギュスト・サルツマンの写真が気になって検索をかけてみると、それらしき写真を何枚か見つけることができた。バルトがこの本を執筆していた時に見ていた写真――いまや彼の「現在時」も過去の時間に属している。再び私がその文章を読むことで、複数の時間(複数の過去)はさらに重層性の厚みを増していくかのようだ。それら過去の《圧縮された「時間」の目まい》を感じるために、私はこの本を読み続けているのかもしれない。そして、本書で探求された写真の本質と分かち難く結び付いた「時間の秘密」は、形を変えてはいるが、どんなものにも(書物、映画、絵画……それぞれの明証性とともに)見出されるものではないか。ただ、こんな風に書くことも、プンクトゥムにではなくストゥディウムの次元に属することなのかも知れないけれど。
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shinayakani · 2 years
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アルチュール・ランボーの SOLDE
 ランボーの詩をまた読み返している。彼は二十歳そこそこで詩を書くことを放棄してしまったが、私は彼の詩をそのくらいの年齢の時にはじめて読んだし、また歳を重ねるごとにますます魅了されている。疾走する煌くイメージの群れの渦、しかし同時に、彼はその詩のただ中でそれらのイメージを清算しようとする。自らの身体と言葉を酷使してその身振りを至るところで繰り返しては、ついにはイメージの群れを突き抜けてしまったかのようだ。残されたのは、イメージの群れと身振りの痕跡としての詩と、ただ謎だけ――「というのも〈私〉とは一個の他者であるからです」。
 『イリュミナシオン』の中の一篇「売り出し SOLDE」に惹かれるようになったのは、宇野邦一『〈兆候〉の哲学』の��Marchand 商人」というエッセイを読んだのがきっかけだったと思う。宇野はこの文章の中で、欲望の問題を取り上げながら、ランボーの詩とマルクスの『資本論草稿』の一説との共振を見出している。《富は、先行する歴史的発展だけを前提として、人間の創造的素質を絶対的に表出することでなくてなんであろう》《そしてこの歴史的発展は、発展のこのような総体性を、すなわち、既存の尺度でははかれないような、あらゆる人間的な力そのものの発展の総体性を、その自己目的にしているのではないか。そこでは人間は、自分をなんらかの規定性において再生産するのではなく、自分の総体性を生産するのではないか》《そこで人間は、なにか既成のものに留まろうとするのではなく、生成の絶対的運動の渦中にあるのではないか》(マルクス)。しかし、彼らが生きた時代以上にあらゆるものが「商品」そのものになった世界で、このような「富」は一体どこにあるのだろう。そして、それらの生産に不可欠な欲望はと言えば、「ほとんど何も欲望することなく、欲望自体を欲望するというような悪循環に入っている」――もはや「欲望」という言葉の内実を知らないこと自体が、私たちがこの「悪循環」の中にいる何よりも証左なのかもしれない。
 宇野邦一がランボーの「売り出し」について書いたエッセイはもう一つある。今から三十年ほど前に書かれた「なぜ詩は清算されたか」(『物語と非知』所収)は、この詩の一連ずつを翻訳しながら簡潔な注釈を入れていくように書かれている。ここではとりわけ示唆的な文章の末尾を引いておく。
《詩的な価値は、どんな商品価値とも交換できず、ただ情動とだけ交換(交歓)されるものではないか。けれども、商品の価値は、情動がまったく不在の、欲望のない次元で、どうして価値になることができよう。商品の価値そのものが、詩的(情動的)な価値に支えられているのではないか。詩は商品となる。そのとき詩が商品に屈したことになるのか。それとも、商品が詩に吸収されたことになるのか。詩を清算する、ということは、この両義性のなかで、詩の死と商品の死を対面させることである。詩は崩壊し、商品もそこに自分の剥き出しの運動を鏡のように見て凍りつく。》
 この詩からシニカルな要素は微塵も感じられない。《『イルミナシオン』のこの作品は、おそらくどんな作品にもまして、ランボーの詩の可能性と不可能性、その夢と完成、始まりと終わりを示している》。そして、詩を捨て去ったランボーの実存の謎とともにあるように見えるこれらの清算は、ただ単に詩(言葉)の次元でなされたものにすぎないのか。「生きた貨幣」としての詩的身体を纏った彼の清算は、あらゆるものが商品となる資本主義の錯綜した装置の中に置かれている現在の私たちの生の存在論とは、はたして無縁なものなのだろうか。
「大安売り」(宇野邦一訳)
 売りに出したよ、ユダヤ人も売ったことのないもの、貴族も罪人も味わったことのないもの、呪われた愛も大衆の地獄堕ちの正直も知らないもの、時代も科学も認めないもの。  よみがえった声たち、コーラスとオーケストラのあらゆる力の、友情にみちた目覚めとその即時の適用。われわれの感覚を解放するたった一度の機会。  売りに出したよ、値段のつかない体、どんな人種にも、世界にも、性にも、血筋にも属さない! 一歩歩くごとに富は迸る! ダイアモンドの安売り大放出!  売りに出したよ、大衆のための無政府。すぐれたアマチュアのための、おさえきれない満足。崇拝者、恋人たちには、残酷な死!  売りに出したよ、定住も移民も、スポーツ、夢物語、完全な安逸も、そして騒音、運動、そしてこれらのもたらす未来も!  売りに出したよ、数式の応用、聞いたこともないハーモニーの飛躍、意想外な発見や用語、即座の所有!  見えない光輝への、感じがたい悦楽への、途方もない果てしない高揚、――そして、一つ一つの悪徳には物狂おしい秘密――群衆にはおそるべき歓喜。  売りに出したよ、たくさんの身体と声、疑いようもない膨大な富、決して人が売らないもの。売り子がいつまで売ってもつきない。行商人はあわてて手数料を払わなくていい。
「大安売り」(鈴木創士訳)
 売ります、ユダヤ人たちが売らなかったものを、高貴さも犯罪も味わわなかったものを、大衆の呪われた愛とどうしようもない実直さが知らずにいるものを、時代も科学も認める必要のないものを。  復元された幾つもの「声」、合唱とオーケストラのすべてのエネルギーの友愛に満ちた目覚め、およびそれらの瞬時の適用を。俺たちの五感を解放する唯一の機会を!  売ります、あらゆる人種、あらゆる世界、あらゆる性、あらゆる血統から外れた、値段のつかない「肉体」を! 一歩踏み出すごとに迸り出る豊かさ! 検証印なしのダイヤモンドの大安売りだ!  売ります、大衆向きの無政府状態を、高尚な愛好家向きの抑えられない満足を、信者と恋人向きのむごたらしい死を!  売ります、居住と移住を、スポーツとおとぎの国と完璧な安楽、それに騒音と運動、そしてそれらがつくり出す未来を!  売ります、計算の応用とハーモニーの前代未聞の飛躍を。掘り出し物と予想のつかなかった言い回しを、直接的所有、  不可視の壮麗さへの、感覚し得ない喜びへの、気違いじみた無限の躍動、――そしてそれぞれの悪徳向きの、人を動顚させるその秘密を――そして群衆向きのぞっとするようなその陽気さを。  売ります、いろんな「肉体」や、いろんな声や、問題にし得ないほど途方もない贅沢を、けっして人が売ることのないだろうものを。売り手が品切れになることなんかない! 行商人たちはそんなに早く手数料を返さなくていいのだ!
「売り出し」(宇佐美斉訳)
 売り物だ。ユダヤ人の売らなかったもの、貴族も罪人も味わったことのないもの、大衆の呪われた愛も耐えがたいまでの誠実もともに知らないでいるもの、時間も科学も認める必要のないもの。  構成し直された声。合唱やオーケストラのあらゆるエネルギーの友愛的な目覚めと、そしてその即座の適用。私たちの感覚を解き放つ、まさに得難い機会だ!  売り物だ。ありとあらゆる人種、世界、性、血統を超越した、値のつけようもない肉体! 試みるごとに迸り出る富! ダイヤモンドの無制限な売り出しだ!  売り物だ。大衆向きの無秩序。高尚な愛好家向きのこたえられない満足。信者や恋人向きの残忍な死!  売り物だ。居住と移住、スポーツ、夢幻、完璧な設備、騒音と運動、そしてそれらが作りだす未来!  売り物だ。計算の応用とハーモニーの途方もない飛躍。斬新なアイディアや思いもかけなかった用語の数々、お望みしだい引き渡しだ、  眼には見えない壮麗への、感覚では捉えられない悦楽への、常軌を逸した果てしのない跳躍、――どのような悪徳をも逆上させるその衝撃的な秘密の数々――大衆をおびえさせるそのすさまじい陽気さ――  売り物だ。肉体と、声と、そして疑問をはさむ余地のない莫大な富、決して売りに出されることのないものだ。売り手のほうが品切れになることはない! 行商人たちは、そんなにあわてて任務を返上することはないのだ!
「バーゲン」(鈴村和成訳)
 売り払え、ユダヤ人も売ったことのないもの、貴族も罪人も味わったことのないもの、群衆の呪われた愛、地獄の廉直も知らないもの、時間も科学も認識しえないものだ。  声の再構成だ。合唱とオーケストラの全エネルギーによる友愛の覚醒、その即座の適用だ。我らの感覚を解き放つ、唯一無二のチャンスだよ!  売り払え、値段のつかない肉体だ、あらゆる民族、あらゆる世界、あらゆる性、あらゆる系統の外にある肉体だ! 歩みにつれて富は迸る! 無鑑査ダイヤのバーゲンだ!  売り払え、マッスのためにはアナーキーを、卓越したアマチュアには抑制しがたい満足を、信者と愛人には無惨な死を!  売り払え、居住と移住を、スポーツ、夢幻、完璧な慰安を、それの生み出す響きと運動、その未来を!  売り払え、計算の応用、前代未聞のハーモニーの跳躍を。思いもよらない掘出物と支払い期限、即刻只今の所有だよ、  気違いじみた無限の跳躍だ、目には見えない素晴らしさ、感覚できない甘美さだ、――各人の悪事のためなら、たまげるような秘密もあるよ――さらにまた群衆のためになら、恐るべき悦楽だ――  ――売り払え、体だ、声だ、問題外の途方もない贅沢だ。二度と売りには出ない代物だ。品切れになるなんてことはまずないよ! 旅行者の皆さん、そんなに急いで手付を置くには及ばない!
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shinayakani · 2 years
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220711 耐え難いもの
《社会的再生産の最も抑圧的、屈辱的な形態も、欲望によって生産され、欲望から出現する組織において生産される。この組織がどのような条件において出現するかを、まさに私たちは分析しなければならないだろう。だからこそ、政治哲学の根本問題とは、スピノザがかつて提起したものと同じなのだ(ライヒはそれを再発見した)。すなわち「人々はなぜ、あたかもそれが自らの救済であるかのように、自らの隷属を求めて闘うのか」。人々はなぜ、より多くの課税を、より少ないパンを、と叫ぶのか。〔…〕人々はなぜ数世紀もの間、搾取、屈辱、奴隷状態に耐え、それらを他人にだけでなく自分自身にも望んできたのか。ライヒは、ファシズムの成功を説明しようとする際に、大衆の誤解や錯覚をその原因として引き合いに出すことを拒否し、欲望の観点から、欲望の言葉で説明することを要求しているが、このときほどライヒが偉大な思想家であったことはない。大衆は、一定のとき、一定の状況においてファシズムを欲望していたのであり、まさにこのこと、群集心理的欲望のこの倒錯こそを説明しなければならない、とライヒは述べたのだ。》D=G『アンチ・オイディプス』
 このスピノザの問いが根本的な問題として、相も変わらず何度も提起されなければならない現状にはいささかうんざりさせられる。何よりうんざ���しているのは、ただ意識しただけでは自身が自動的にそのシステムに組み込まれたまま生きざるを得ないというこの恥辱に、未だ対峙できていないことだ。
 歴史の茶番、茶番の歴史? だが、冷静なふりをしていても、馬鹿なふりをしていても、この動揺を抑えることはできない。もとより論理的な思考ができるような人間ではなかったが、ますます言葉はきれぎれになっていく。長い付き合いの友人と久しぶりに通話をして、幾分かは助けられてとても感謝している。ただその時も、きっと私の言葉はきれぎれになっていたに違いない。一人で考えている時にはなおさら、言葉たちが結び合わされていくことはなかった。不安定な断片的なイメージが浮かんではさらにばらばらに砕かれ、そしてどこかへ流れていく。ただ思考の無能力を突き付けられ、かろうじてその認識だけが――それはいったい誰のものだろう?――あとに残っているようだった。
 つねに私たちは耐え難いものに立ち会っているはずなのだ。メディアの報道の偏向は言い尽くされている。累々と言説が散らばるSNSからある程度距離を取るようになっても、耐え難いものは絶えず目に飛び込んでくる。それでも映像のクリシェと伝達される指令の連鎖地獄(!)に慣れ切ってしまうことはない。
《人民は思考者のうちにある。思考者は「人民になる」からだ。しかし同時に人民のうちにも思考者がある。人民もまた無際限な「~なる」(生成)に溢れているからだ。芸術家や哲学者には人民を創造することなどできない。彼らにできるのは全力で人民に呼びかけることだけだ。人民が創造されるのは忌まわしい苦痛のなかだけでのことであり、芸術や哲学に勤しむ余裕などいっさいない場合に限られる。しかし、どんな哲学書も、どんな芸術作品も、それら自体で想像を絶するほどの苦痛を含んでおり、これによって人民の到来を予感させるのだ。哲学書や芸術作品に共通するのは抵抗するということ、すなわち、死に抵抗し、隷属に抵抗し、耐え難いものに抵抗し、恥辱に抵抗し、現在に抵抗するということである。》D=G『哲学とは何か』
 言葉はずっと震えている。そして、傍らには置き去りにされた身体があった。では、身体が震え出した時、言葉は?
 ほんとうは、身体もずっと震え続けているではないか。言葉と物、理論と実践のすれ違い、いや、それらよりもっと卑俗なところで。思考と身体は、互いに切り離し得ない見えない絆で結ばれているが、同時にそれらには互いの境界を分かつかのような傷(裂け目)がある。しかし、あくまでこの傷がどちらに属すものなのかは分からない。自身の折り畳まれた内部にも、自身から開かれた外部にもある、この間隙を注視すること。この裂け目に抵抗の契機が孕まれているはず��から。
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shinayakani · 2 years
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The time is out of joint. まるで成熟の時計が壊れてしまったみたい
《経験の欠乏――このことを、あたかも人間が新たな経験を切望しているかのように理解してはならない。そうではない、人間は経験から放免されることを切望している。自分たちの貧困(外的な貧困、そして最終的には内的な貧困も)の力をそのまま発揮することができ、その結果、立派なものがそこから生じるような世界を、人間は切望しているのだ。人間はまた、必ずしも無知であるとか経験が乏しいわけでもない。しばしばそれとは反対のこともいえるだろう。人間たちはそういったものすべて、「文化」も「人間」も「喰らい」つくし、そういったものにはすっかり飽き飽きしてうんざりしているのだと。〔…〕うんざりした気持ちのあとには眠りが続く。》ベンヤミン「経験と貧困」(山口裕之訳)
 年が明けて、いつの間にか早々と三月ほど時が経っている。いつの間にか、と口に出しているのも、いつものことのようだ。この二年の間に物事がすっかり変わってしまった、と多くの人は思っているだろうけれど、それと同時に、ずっと同じ場所にとり残されているような感覚を持っているようにも見える。私もこの数年の間に生きている環境がだいぶ変わったことは確かだし、当然のように心境も刻々と変化しているには違いない。しかし一方ではそれを打ち消すように、まったく何も変わっていない、それどころか、長い間ずっと(本当はそれはいつからだったろう?)変わることを留められているかのような気分にもなる。 それはまた、時の流れの実感を持つことができなくなっている、と言ったらいいのか。  成熟、という言葉が頻繁に頭に過るようになった。この言葉に漂う男臭さに辟易していたのだが(ほぼ私の偏見によるが、今でもその印象は少なからず消えない)、気鋭の批評家・西村紗知の「椎名林檎における母性の問題」を読んでからというもの、切実なものとして受け止めるようになった。例えば、西村の別の論考ではこのようなパラグラフがある。 《時間という言葉で考えてみよう。際限のない持続と刹那とで満たされた時間。空間のように揺るぎない時間。それは文化産業が人々を庇護するようにして提供するイリュージョンだ。その時間において、あらゆるプロセスにいかなる主体は随伴し切れない。文化産業の脈絡もなく切り刻むように生み出す時間を、個人は自分の時間としてつくれない。それは、人間のいない生のままの時間とそれほど変わらないのかもしれない。あるいは、脈絡もなく切り刻むように生み出された時間を生きる人間は、自動的に解離した状態にならざるを得ないのかもしれない。》西村紗知「グレン・グールドに一番近い場所」  椎名林檎論において、精緻な楽曲分析から進んでさらに切り返されるのは、母性原理型社会の中で、快楽の海にひたすら溺れている私たちの世代自身だ。《他者とともに生きているうちに必然的に生じる権威との格闘をずるずる先延ばしにする人間というのは、まごうことなきリアリティをもって現前する》……。《少年よりももっと前の段階の、嬰児》たる私たち……。「母性原理」と言っても、私たちはその具体的な存在としての「母」の顔を知らない。《母はどこにいるのだろう。インターネットの海原のことかもしれない。あるいは、我々の知らない決定を日々下し続けている、無数のAIたち》、そしてそれらと一体となった上記の「文化産業」だろうか。  もちろん具体的な家族問題も依然としてあり、また西村は何より現代の家父長制との対決姿勢を崩さない。そもそも「母性」――どこまでも抽象的な願望が投影された形式でありながら、具体的な女性の身体に覆い被さる――とは、資本主義と接続している家父長制が発明し、つねに必要としたものではないか。女性の解放なしに資本主義からの解放はない、というスローガンは今もって正しい。しかし、資本制が社会を隈なく包摂したように、今や母性はミクロな次元にある私たちの身体と思考につねに覆い被さっている。  また「母性原理型社会」という言葉によって現代の事態を説明すること自体が、その装置に私たちの行動と思考が一様に搦め捕られてしまう危険性に満ちている(例えば私が「家父長制」と書いた時も同様で、それがあたかも資本主義に対する具体的な分析抜きで思考が成り立つと思うならば、批判的な有効性は皆無と言っていい)。西村の文章で特に触発されたのは、椎名やグールドの楽曲や演奏についての具体的な分析からさらに進んで、現代を生きる私たちの世代へと切り返される言葉が暗闇から手繰り寄せられるときの、その文章の「すわりの悪さ」だった(これは最大限の賛辞だ。この時代において、いったい誰が整理された客観的な分析ができ、いったい誰がそんなものを読みたいと思うのだろう)。その文体から、彼女の思考と身体が、すべてを包摂するかのように見える「母性原理型社会」という言葉そのものと派生する事態に、衝突し抗う身振りとして立ち現れる。それは、二元論的世界において一瞬放たれる椎名の身体的な「不穏な悲鳴」との、あるいは《文化産業の空虚な時間のなかで、ひとり、清算の最中、境界画定的に耐える》グールドの演奏する身体との、共振だろうか。  以下で引用するのもまた、グールド論から。 《自分の一挙一動から権力の片鱗を自覚し取り除くなりして、なんらかの方策を取らねばなるまい。「聴かされるものと、耳を澄ますことの軋轢」を取り返さなくてはならない。言葉によって外から批判することの軋轢、なのではない。それはコミュニケーション上の契機ですぐにシステムに回収されるだろう。そうではない。一瞬の軋轢に、抑圧されたものの顕現に、感じ入らないのであればどれほど美しいよく出来た音楽でも現実の騒擾と同じだ。コミュニケーションではなく事柄そのものに、軋轢のモメントを認めるにはどうすればよいのか。事柄に則した、回収されない軋轢……。それは、認識や身体を軋轢の方に向けていかないことには、コミュニケーションの次元で埋め尽くされた現実にはもう実在しようがないのではないか。》
《われわれは乏しくなってしまった。人類の遺産を、われわれは一つずつ手放してゆき、かわりに「現在の〔アクチュアル〕」ものという小銭を差し出してもらうために、もとの価値の百分の一の値で質に入れなければならなかった。戸口には経済危機が待ちかまえており、そのうしろには一つの影が、到来しつつある戦争が控えている。ものごとをしっかりとつかまえておく、ということは、今日では少数の権力者たちの仕事となっている。彼らが、多数者よりも人間的だなどということはあるわけがない。たいていは、より野蛮である。しかも、いい意味においてではなく。それ以外の者たちは、新たにわずかなものでやりくりしていかなければならない。》ベンヤミン、同上  年始はベンヤミンのいくつかの文章を読み返していた。つねにアクチュアルで魅力的な洞察がなされていることは言うまでもないけれど、今それらをどのように読み直し、そこから思考を繋げていくことができるのだろう。集団(大衆)の両義性が賭けられている、複製技術論をはじめとしてこのエッセイにおいても、現代ではいかにもネガティヴな側面のみが顕在化しているように見え、彼の分析は楽観的にも見えるかもしれない。しかし、その両義性のただ中には様々な葛藤や軋轢が存在しているだろう。両義性と、ただ中にあるこの身体の軋轢、そして識別不可能な時間の結晶……。
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shinayakani · 5 years
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孤高 Les hautes solitudes (1974)
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 ふだん私たちが人間の顔を見、その表情から何かしらの感情を読み取ろうとする時、その行為自体に特別な迷いや躊躇いが生じることはあまりない。喜び、哀しみ、怒り、恐れ等々、想像から推測された手垢に塗れたイメージ……。または、美しさや正しさ、醜さと嫌悪を、見る者に感じさせる顔……。  しかし、暗がりの中で、向こうからは彼女たちの声も、何の音も聞こえないままに、彼女たちの顔を見つめる私たちは、次第にその習慣を頓挫させられる。モノクロのスクリーンに映し出される顔は、たしかに、彼が憧れ愛した女性たちのもののはずだ。映し出された顔が流れ、ある感情のイメージを形成する、と思ったら、また流れていき、別のイメージに混成していく。彼女たちが何を思っているのか、何を見つめているのか(本当にこちらを、何かを目差しているのだろうか?)、分からなくなってしまう。  そこには、彼の「愛している」という信心さえも、飲み込まれてしまいそうな危うさがある。  ただこの危うさの中でだけ、その愛を知ることができる《秘密》がある。
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