Tumgik
shisui2021 · 2 months
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2024.02.16
2024.02.16
理論は乗り物で,自分で作った乗り物でどこまで遠くに行けるか試している。
この1年で,乗り物の形が定まってきた。そう簡単には壊れない強さも手に入れた。どこへ向かうのかも見えてきた。私の乗り物を知ってくれる人も増えた。あっという間の1年だった。なんにもできていないと思った。常に右往左往していた。もっとできたことがあった。それでも,私を遠くまで運んでくれそうな乗り物ができた。この先のまだ見ぬ景色に想いを馳せてはワクワクしている。
修論を書くにあたって、卒論を見返していた。てっきり書いていたと思っていたことは記されておらず,乗り物は乗り物としての形をちっとも保っていなかった。どうやら乗り物は,M1の間に組み立て始めたもののようだった。もう長いこと,これと格闘しているような気分だったが,その実,まだ1年半ほどしか経っていないらしい。気づかぬうちにずいぶんと遠くまで来ていたんだな,と思った。
目に見えた成果もなければ,学会の発表も一度しかせず,憧れていた研究生活なんてろくに過ごすことができなかった2年間だった。大学院に入学してすぐに,私がアカデミックに打ち込むなど身の丈に合わない幻想だと思い知らされた。言いたいこともうまく言えなくて,そのうち言いたいことすらなくなって,何にもないと思った。副指導教員と面談をして,いかに自分が空っぽであり,それに向き合っていないのかを諭され,誰もいない院生室で静かに泣いた6月だった。頑張ればなんとかなると思ったけれど,そもそも力不足なのだと気づいて,それを認めるまでに時間がかかった。優秀な周囲を見て焦り,空回りして,次第に諦めを伴いながら受け入れていった。
10月,初めて乗り物を形にして発表した時,年上の同輩が,わかるよ,面白いねと言ってくれたことが嬉しかった。他の人にも乗り物の形が見えたことが嬉しかった。一人じゃないんだなと思えた。同じ頃に翌年の進退が決まった。降ってわいた未来のことなのに,もうとっくに知っている気がした。あぁそうだよな,と思った。いつかこんな日が来ることは知っていた。それだとわかるまでこんなに月日を要した。それが決まってからは,瞬くように日々が過ぎ去っていった。
3月,もう一度乗り物について話をした。わかってくれそうな人たちばかりだった。だからかもしれない。質問が飛ぶたびに,乗り物のパーツは簡単に崩れ去り,バラバラと空中分解していった。原型を留めていない部品たちの前で,ヘラヘラと言葉を濁すしかできなかった。そこからずっと,乗り物のことを考えたくなくて,考える余裕すらなかった。目の前のことを言い訳に研究から逃げていた。このままじゃこの先闘えないことはわかっていた。わかっていたけれど,プライドが邪魔して向き合うことも,負けを認めることもできずにいた。 7月にいやいや重い腰を上げて,無理やり乗り物を動かした。どうせどこにも行けないけれど,走らせなくちゃという義務感だけがあった。いざやってみると,乗り物は私に新しい景色を垣間見せた。何気ない一言だけで,こんな所へ辿り着けるのかとびっくりした。私一人が動かすものだと思っていた乗り物は,他者と共有することで,まだ見ぬ旅路を進むことができるようだった。このことを知ってから,ようやく諦めがついた。焦らずじっくりやってみてもいいのかもしれないと思えるようになった。
11月には,学会で旅のことについて発表した。発表は死ぬほど嫌で,直前まで二度と出ない思っていた。また3月みたいに,空中分解するのが目に見えていたからだった。また振り出しに戻りたくなかった。何にもないと思い知らされるのが怖かった。ところが,終わってみると,乗り物はその形をなんとか保ったまま,旅を伝えてくれた。その呆気なさに拍子抜けした。褒めてくれた人もいて,なんだか狐に摘まれたような気分だった。楽しかったと思ってしまう自分が何より悔しかった。乗り物が崩れなかった代わりに,今度は伝わらなさが滲み出てきた。その形は見えても,どう動くのか,どこへ行けるのかは見えていないようだった。そうじゃないよ,こう乗るんだよ,こんなところまで行けるんだよ,もっと言葉を尽くせばよかった,もっとできることがあったはずだ,と後悔がぽつりぽつりと浮かんできた。でも,3月のように悲しくはなかった。逃げずに向き合いたいと思えた。
その直後,ものすごい景色に出会った。こんなタイミングで,こんなところで,生まれるものがあるのかと目を見張った。それは,乗り物を強くするためにとっても重要で,一人じゃ到底見つけられないものだった。あなたたちとの旅だから見えるものだった。それが嬉しくって面白くって,ようやく研究が楽しくなった。
12月になんとかもう一度乗り物で旅をする計画を立てた。計画までしか修論には書けなかったけれど,組み上げながら,どんどんと乗り物の形が確かになっていく様が面白かった。発見の連続で,点と点が線でつながりそういうことだったのか,と光が弾けるようだった。長い長い旅だった。教授陣には,「新しいカード」と言われた。乗り物の形とその意義がようやく届いたようだった。この先を明るく照らす言葉ばかりで,不思議と不安はなかった。新しく始まる旅が楽しみだった。
今週から,彼らと乗り物で旅を始めている。もう私だけのものじゃない。みんなを乗せられる乗り物だ。その証拠は彼らの言葉にある。生き生きと言葉を紡ぐその様子,その顔,そうだもっと続きを聞かせてほしい。その先を教えてほしい。私もずっと同じことを思っていたよ。一人で考えていたよ。でも君たちとなら,その先を一緒に見られるはずだ。どこまででもいける乗り物はここにある。だから,一人じゃいけない場所へみんなで旅をしよう。
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shisui2021 · 5 months
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今、すごく遠回りしている気分になっているけれど、それでもきっと、勉強し続ける楽しさ���すぐそばにあるのだと思います。真正面からぶつかっていて、なんにも見えなくなっているけれど、きっと何かを掴んでいるのだと思います。でも、いつも、途方もなさに目の前をふさがれて、立ち上がれなくなってしまうから、この言葉を信じていいですか。遠回りしても、休憩しても、いいですか。
ことばたち
2018.10.27 幸福な呪いをかけてもらった。シャッターで切り取ったように、その瞬間が、彼彼女たちの姿が、柔らかで甘やかなことばたちがまぶたの裏で明滅する。夢ではないのだこれは。苦しみ、絶望に身を宿し、凡庸に従属しようとしている私が生み出た幻聴でも幻想でもないのだ。それならばこの呪いがとけるまで、また呪いをかけてもらうその時まで、まだここで闘ってゆけるように思えた。
「うちの学部が君みたいな学生ばっかりだったらいいのにな」 「読んだら感想下さい」 「皆早く絶望すればいいんだ」 「勉強は楽しいよ、あのね、遠回りしたっていいんだよ、休憩してもいいんだよ、でもね、勉強し続けるっていうのはとっても楽しいことだから」 「しすいさん、ちょっと来てよ いや、就職で笑」 「どうする?君らの頃には働くんじゃなくて働かされるんだよ」 「是非、来てください 待ってますから」 「3年生か4年生かと思うような話し方だったから 僕の母校の1年生とは全く違うよ」 「特に秀でていたり優れている人はどうしても浮いてしまうから」 「馴染めてるんですか?浮いてたりしない?」 「もう窮屈に感じるんじゃないの?これで後期やっていったら大学辞めちゃいやしないかと思って もっと自由なところに行きたい〜って」 「ちょっと〇〇さん、しすいさんの事引きとめておいてよ、大学辞めさせないようにしといて」 「あなたが受けてきた教育は特別なものであったし、それはもっと周りの皆に話して教えてあげるべきだと思うよ」
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shisui2021 · 5 months
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2023.11.20
いつだって早く逃げ出したい。だけど,私がどこかへ行っても,私である限り,何も変わらないと思うから,大いなる何かに貫かれて,ぽっかりとしたうろになりたい。うろは空虚だ。うろは無だ。うろは無という有だ。
喉の奥に不甲斐なさと憎しみを飼っている。口を開くと忌まわしい言葉が飛び出しそうだ。噛み締めすぎた奥歯はとっくのとうにすり減っている。口をつぐむたびに喰む癖のあるくちびるはいつも傷だらけだ。
それならばいっそ,私の中心を空洞にしてほしい。何にもなくなっていいから,何にもなかったことにしてほしい。枯れゆく木でいい。実りはいらないから,虚を刻みたい。そうして中空を風が吹き抜けて,薄闇の中,霧の向こうで微かに響く船の汽笛のような音を立てていてほしい。
神さま,見ているんでしょ。わかっていて。
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shisui2021 · 6 months
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2023.10.28
間隙に落ちる。
日々,あらゆるところに間隙は潜んでいて,私を飲み込むのを今か今かと待ち望んでいる。ふとした瞬間に,足元の暗闇が広がって,吸い込まれる。落ち始めると,その加速度に応じて,不安が私を追い立てるようにして全身を駆け巡る。些細なこと,つまらないこと,どうでもいいこと,取るに足らないこと,あらゆることが,私の首を絞めにかかる。世界それ自体が呪いとなって押しつぶされる。心臓から腐食が始まり,毒が身体へ回るように絶望は隅々まで行き渡る。致死である。遅死である。
深く暗い闇の中から光のある地上へ這い上がるには何より時間を必要とする。ただじっと手負いの獣のように傷が癒えるまで耐え忍ばねばならない。非常に根気のいる営みで,でも,それでしか回復できないことを心は知っている。だから,心は辛抱強く待とうとするが,身体の時間はそれを許さない。今日の次は明日で明日の次は明後日で,永遠に今日を続けていいわけではない。このちぐはぐさが歯痒い。身体の時間の割合が増えてしまったのも問題だが,人として生きるには心と身体の時間のズレを適度に飲み込み,調節しなくてはならないのだろう。そんな「当たり前」が上手にできない。
間隙は下手くそな私に存外寛容で,それもあってよく飲み込まれる。いや,私の方から飛び込んでいるのかもしれない。地上の光に嫌気がさすから,湿った闇の温もりが恋しいのかもしれない。そんなわけで今日も身体と心は別々の時間を生きている。上方に微かに見える乾いた光が目にさわる。間隙にて。
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shisui2021 · 6 months
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2023.10.22
山が恋しくなる。あの大きさに圧倒されたくなる。私が何者かなどどうでもよくて,ただただ目の前に厳然とそびえ立つ山と対峙するだけの時間に身を置きたい。
東京は山が見えない。平野だからちまちまとしたビルを超え果てしなく広々とした空が広がっていて,そのあっけらかんとした風景に懐かしさを覚えた。中央線の窓に流れる景色は,底抜けに明るくてどこまでも行けそうで,だから,ここがどこだかわからなくなりそうだった。すがるものがない不安を覚えた。限りなく自由なのに不自由だと思った。
昔は海に行きたかった。東京は育った町で,何でもあるのは知っていたけれど,何にもできなくて,苦しくて,もっとずっと遠く訳のわからないところまで私をさらっていって欲しかった。ここじゃダメなのはわかっていたけれど,どこにも行けなかったから,よせては返す波を見つめて,心を沖へ流していた。
二度目の東京は豊かで自由で広くて何でもできて,だから,何でもやらなきゃいけなくて,真っ直ぐ歩いているはずなのに少しずつずれていて,ずっと少し調子が悪い。元の道に戻りたいけれど,ここがどこで,そもそも元の道がどれなのかすらわからない。座標軸を見失って迷子のまま歩く日々だ。
東京のはじっこに行った時,夕焼けの向こうにうっすらと山並みが見えた。あぁこれだ,と思った。ニシにいた頃は毎日のように山に囲まれていて,それが当たり前だった。山があって,私がいて,そうしてはじまる生活だった。山が指標となっていた。そこにいてくれるだけでいい。山はただそこにあるだけでいい。そこにあるから,私が私を見つけられる。狂った座標を修正し,歩み直すために,山に会いたい。
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shisui2021 · 7 months
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2023.09.26
自分でノックしたドアがようやく開いたのだから,もう,覚悟を決めて中へ入らなくてはならない。向こう側に何があるかは皆目見当がつかないけれど,もう,引き返すことはできない。彼方はかすみ,ifの空間はあちこちがほどけ始めている。もう,どこか,へは行けない。
いつでも逃げられるなんてifはただのお守りでしかなくなる。求人ボックスにあの地名を打ち込んで,吐き出される求人情報を眺めるのもやめなくてはいけない。ずっと妄想の中で逃避行を繰り返すだけだ。もうとっくにそんなことわかっていたのかもしれない。でも,現実が思ったより早く追いついてきたな,という感じがする。いつもだったらもっと後からやってきていた。あぁそういうことだったのか,という深く静かな納得を引き連れて。
今は鋭いナイフを喉元に突きつけられているようだ。なんだかずっと取り返しのつかないことをしているような気分で落ち着かない。去年の今頃は確信にも似た安心感で満ち溢れていたのに。選択をするという意味では同じなのに,何がこんなにも違うのだろう。何度も考えてこれが現状一番いい選択だと思ったが,それでも何か間違えている気がする。かといって,これ以外の方法を私は取ることができないだろう。
私の中で誰かが死んでいくようだ。私の過ちのために。けれど,私が必要以上に悲しまないために言っておくが,きっと如何なる選択をしたとしても,結果として数多の私のうちの誰かは息を引き取るのだろう。これは代償だ。私が「私」として生きるために生まれた犠牲であり,どんなに最善を尽くしたとしても彼女はいなくなるのだ。失ったものの重みを感じながらも,扉の向こうの世界に歩み出さなければならない。見たことのない景色があるはずで,新たに出会う私がいるはずだ。
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shisui2021 · 7 months
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2023.09.19
立ち止まると過去のことや未来のことが津波のように押し寄せてきて,動けなくなる。今が遠くへ押し流されて行方知れずだ。どこでもない場所にさらわれるけれど,明日は正しい時間を刻むから迷子になる。正しい速度で走ろうとすればするほど,足並みが合わなくて,から回っている。置いてけぼりにされているようでその実,勝手に見当違いのところへ走り出しているのかも知れない。全部がきゅうくつに感じて逃れようともがくけれど,それが一番自分の首を絞めているのだと思う。やりたいことと,なすべきことと,そうであってほしいことがうまく重なり合わない。私が一人で苦しむのは勝手だが,周りの人間までもを巻き込んでいいわけがない。
早く一人になりたい。二人でいると一人になった時に己の痴態がよみがえる。たくさん傷つけて,たくさん時間を奪って,たくさん失望させたんじゃないかと思う。人の中にいるといつの間にか傷ついたり,余計な荷物を背負わせられたりする。相手に悪気はなくて,ただ,私には鋭すぎたり,重たすぎたりするだけだけれど,心に石が静かに積まれていく。早く誰かに話せばいいのだけれど,言葉は何も出てこなくて,差し込むいとますらない。抱えこんでいるものが多すぎる。全てを適切に愛することは今の私ではできなくて,それぞれが中途半端になっていて,それに耐えられないからこんなに苦しくて,一人になりたい。これが一生続くのかもしれないと思うと目の前が真っ暗になって余計に迷子だ。
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shisui2021 · 8 months
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2023.08.26
特効薬などなくて,夏の終わりをすり減らして生きている。
透明なガラス板に阻まれて,身動きが取れない。苦しい。助けて欲しいけれど,全て己がまいた種から生まれた不幸なので,呪詛を飲み込んで自家中毒を繰り返している。
早く,どこかに行きたい。誰でもなくなりたい。つま先から,耳たぶから,まつげから,腐り落ちて欲しい。地にかえりたい。肉色の着ぐるみをかぶって人間のふりをするのは,つかれた。
数字が嫌いで,ことばも飲み込めない。深緑で塗りつぶしたい。大地と一つになりたい。来世は植物がいい。光と水と酸素で光合成の日々。新幹線から見えた水田はきれいだったな。青々とした稲穂が風に揺れて笑っていた。その1束になりたい。魂だけになって自然に宿りたい。苦しい。たすけてくれよ,人じゃない誰か。
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shisui2021 · 8 months
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大好きだよ
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こんなになってしまった つまらない人間つまらない大人、それを分かっていて迎合することに命をかける
怒られたくない、嫌われたくない、もう誰ともぶつかりたくないあまりに私は無理やり年老いた
爪の先の魔法は使い果たした メルヘンランドのうさぎたちが身投げする 私がひとつポエムを殺すたび、むこうでは一話の青い鳥が焼き鳥になっているらしい しらんがな しらんがな 知っていたいのに。 壁のぼこぼこひとつひとつに古代文明があるならば カレンダーの四角ひとつひとつが誰かの部屋ならば?...?
揶揄なんて空想の散弾銃で蜂の巣にすればよかった 名前なんて立場なんて社会性なんてパンに塗って食べて消化して排泄して下水道に流せばよかった あの日私がつけた机の傷 削れた木材が今もどこかで私を見ているのかもしれない
ジャガーの目 あの日、私の知る由もないあの日、誰かが吐いた夢想は私の中にきっと宿っている 誰かの血に塗れて新宿の交差点、もう知らなかったことなんて何ひとつなかったね 衣擦れの音 私以外の生命体 出て行け
どこにも行けなくなって新しい魂をいくつもインストールしてデバッグを記録した もうこの体は器でしかないがこうして無意識の垂れ流しは可能である 通り過ぎていったいくつもの魂が後悔を助長する 生きていてよかった
初めての愛は誰もきっと虚しい あなたの 思い出すだけで気が狂うようなその話を 好きなだけ落としてもらえる沼になろう
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shisui2021 · 8 months
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脳内心中
2023.08.25
全てを捨てていくには私をわかってくれる人が多すぎる。
あらゆることが嫌になってクーラーの効いた部屋にうずくまり,生命線をボールペンでなぞり書いている。ぐりぐりと描き伸ばしている。生産的な自傷行為だ。長ければいいというものでもないらしい。それでも二股に分かれた先を少しでも長く太く確かなものにしたくて,やみくもにインクを擦り付けている。
わかってしまう人がいるから,逃げられなくなる。誰も私のことをわかれなくて,誰も私の心の中に住んでいなかったら,とっくにどこかへ行っていた。なんでもないような顔をして,ふらっと散歩へ行くような気軽さで,崩れそうな私の輪郭を撫でて,さっと背中を向けて立ち去るから,生きていかなきゃいけない。この世にとどまる理由がまた一つ増える。心の住人がまた一人増える。
一度住み着いた住人はなかなか退去してくれない。空っぽの部屋にはじわりと墨汁を垂らしたように,亡霊が立ち現れて,結局新しい住人が住み始める。自分に都合の良い夢ばかり見る。昼間でも夢を見る。夢と現実の見分けがつかなくなる。本物が言ったことなのか,住人が私にささやいたことなのかわからなくなる。わからなくてもいいのかもしれない。
私がいなくなったら,この住民たちも一緒に消えてくれるのだと思う。どうだろう,そうだろうか。亡霊は宿を無くして彷徨うのではないか。後悔と妄執と願望で煮詰めたあれらが野に放たれたら,どうなるのだろう。亡霊は,本物を殺し,魂を奪い,その座に居座るだろう。偽は真となる。その日を一日でも遅らせるために,ボールペンで延命措置をとっている。脳内で彼らとどこかへ行く練習をしている。
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shisui2021 · 8 months
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2023.08.21
景色は遠く,夏は青い。
約束をするということは,ひとつ,大人に近づくことなのかもしれない。こうして人の形を手にしてゆく。他者と縛りを交わすことで,己の輪郭がなぞられる。ひとつ,戻れなくなった。 なんでもわかっているような口の利き方をするから,つい勘違いしてしまう。うっかり,傷つけてしまう。わかって欲しいことはわからなくて,知らないことをわかっている。齟齬を見て見ぬふりしてでたらめに歩いているうちに踏みつぶしてしまう。
願いは今初めて言葉をまとう。その形を捉えて,まっすぐに振り上げて断ち切る。しっかり受け止めて,目を逸らさずに振り落とす。あなたを傷つけているようで,その実,あなたの瞳に映った私を殺したのかもしれない。神さまにはなれなくてごめんね。人間のままで永遠を手にしたい。
ヤマユリは,ハマユリにもウミユリにもなれない。それはもう,ヤマユリと呼べない。野に咲く花のままで,海と暮らすには進化が必要だ。そのための3年間だと思った。降って湧いたその3という数字は,いつしか私の中で意味を持ち始め,渚でも枯れないための時間となっていた。
遠くで雷鳴が響く。夏の空は瞬く間に表情を変える。狐の嫁入りだと笑うあなたのことを大事にしたい。ささめくように光る青田波を見て思う。どこまでも飛べそうな青空と雲を見て思う。幾重に連なりグレーにかすむ山並みを見て思う。
ここに渚を重ねよう。ここに波を,ここに浜辺を,水平線を重ねよう。混じり合うことのない景色をここに見よう。野山は海辺となり,木漏れ日はさざなみとなる。
私にはそのための力がある。それを見るだけの眼を持っている。遠く離れた景色を重ねて透かす。ヤマユリのままで渚に暮らす。あなたも私も等しく息の吸える世界をここに見る。そのための3年だ。
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shisui2021 · 9 months
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2023.08.08
また己の不注意で大事なものを踏み潰してしまう。ぐしゃり,という足の裏の感触は,何より自分が知っているはずなのに,それがわからなくて,傷つけてしまったことが怖くて,もう二度と笑い返してくれないんじゃないかと,自分のためにばかり怯えている。 未だに大切にすることができていない。大切にするということがどういうことかわかっていない。他者を大事にするということは,翻って,相対する自分も大事にするということだ。それはわかってきた。けれども,自分のことばかりかまけて相手のことを慮っていないのは間違ってる。この壁がなかなか越えられない。 この前,私越しの自分しか見えていないやつは嫌いだとのたまったばかりだが,それは紛れもなくお前自身のことである。結局,あの人の瞳に映る自分の姿が一番かわいいのだ。愚か者め。丸ごと愛せよ。これだから人間という生き物はひどく難しい。
うだるような暑さ,昼過ぎのつけ麺屋で「どっちを取るかだね」などと言われたせいで,静かに雨がふる仙台駅を一人歩きながら,もしかしたら,こうやって仙台に行くのも,これが最後になることだってあるのかもしれないな,などと思った。思ってしまった。イメージとは不思議なもので,降りてきて欲しくない時ほど,新鮮に,はっきりと,鮮やかに心にその根を張る。感覚こそが一番私を裏切らないのはずっと前から知っている。だからこそ,絶望した。思い切り被りを振って,幻影を振り払った。なかったことにしたかった。答え合わせは急がなくていい。どんなに逃げたところで後からついてくるのだ。
先日の電話で,ついに,「言うべきことじゃないんですけど」と前置きをして,どちらかを選ばなくてはならないと何人かから言われたこと,そんなことないんじゃないかと思っていること,けれども私だけの問題でもなくなっていること,を話した。だから,「一緒に,これからのこと,考えてください」と。今まで,「一緒に考えることだよ」と言われたことはあっても,自分から言ったことはなかった。どうしてか言っていなかった。「うん」としか返事をしていなかった。どうしてそう言えるようになったのかもわからない。
あれから「で,どうするか決めたの?」などとほざくものだから,「逆に決められます?」と聞き返した。「僕だったらってこと?まぁ,今はまだ決めないかな。正規で採用されることになったら決めるんじゃない?」と言われ「うーん,そうですよね…。なんか,上手い方法はないかな,とずっと思ってるんですけど」と返した。「そう考えるくらいいい人ってことでしょ」「それは,そう」 横並びの席は,顔を見なくていいから,言うつもりのないことまで言ってしまいそうで怖い。
「上手い方法」の第一歩としての,「一緒に考える」なのかもしれない。今までは単に慰めの言葉だと思っていたけれど,いつかを確かにするためには,そろそろ動き出さなくてはいけないのかもしれない。それは,他者が描くやり方ではなく,私の,私たちの,やり方でいいはずだ。
途切れ途切れで紡いだお願いに対して,返ってきたのは,「そうだね。そろそろ,これからどうするか,考えなくちゃね」という言葉で,想定してよりもずっと重たい口調だった。もっと明るく励ましながらこの先を語ってくれるかと思っていたので,驚いた。驚くと共に,あのお願いがあの人にどう響いたのかを今でも考えあぐねている。もしかしたら,取り返しのつかないことをしているのかもしれない。だとしても,もう引き返せないところにきている。これもひとつの「決める」ことなのだと思う。誰に対しても誠実に進むしかない。
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shisui2021 · 9 months
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2023.08.03
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足利市立美術館に「顕神の夢ー霊性の表現者ー超越的なもののおとずれ」を見に行った。 元々JRの,のんびりホリデーパスを使い倒したいという願望があり,丁度端っこにある足利で展覧会をやっていることに気づき,数日前から通い始めた都立図書館の休館日に合わせて,急遽予定を組み立てた次第である。 何度かTwitterで見て興味はあったものの,足利ってどこだ,というくらいの認識で,なかなか行けそうには思っていなかった。けれども,私の住まう町から2時間半もあれば,到着してしまうことが判明し,東京ー広島間の4時間半に耐えた身としては,臍で茶を沸かすようなものだった。結局,修論も,見えないけれどある世界,と,どう対峙していくか,ということになりそうだし,逃れられないところに来ている。
降り立った町足利は,沼津にも似た地方都市で,基本的に駅の目の前は栄えていないことがわかった。街を歩いていると,古いものと新しいものが共存する姿は鳥取にも似ていて,面白さを感じる。街が造られた時代もあるのかもしれない。 事前情報では知っていたものの,足利市立美術館は,美術館の上にマンションタイプの住宅がある。いざ,目の前にしてみると,なかなかに奇妙な光景である。「足利市立美術館」と掲げられた文字の下に,団地のような佇まいの家々があり,その下にはガラス張りの美術館がある。それらは,平坦な足利市街からは,飛び出していて,より一層奇怪さを醸し出している。 平日の,開館から30分位しか経っていない時間なのに,会場にはそこそこの人がいて,面食らうとともに安心した。生物群さんのtweet(https://twitter.com/kmngr/status/1685286401242447872?s=20)にもあったが,”場の歪み”を感じた。あ,やばいところにきた,という感じで,鳥肌が立った。ここに一人で取り残されたらいてもたってもいられなくなるだろうな,という感じがした。
展示は出口なおの自動書記から始まり,次々と続いていく。最初に出口なおを持ってくるあたり,やってんな,と思う。字も書けない農家の一般女性が,神がかりにあった途端,神の言葉が書けるようになるなんて,なかなかどうして信じ難い。でも,彼女の筆跡は「かみさま」の「ま」だけ,どの字も大きく張り出していて,その緻密さが,歪で異常だった。 見えないものが見えるとは,こういうことか,と感心させられる。私が見えていないだけで,世界は存外広く豊かなものだと痛感させられる。宮川隆の絵が好きだった。人間の顔がみな仏の顔をしていて,あぁ見えちゃったんだな,と笑ってしまった。京都の三十三間堂を思い出した。どこかに自分の知ってる顔の仏様がいる。線がとても良い。今川宇宙ちゃんが昔よく描いていた,イラストの線によく似ている。どこかで同じなのかもしれない。 花沢忍も良かった。図録に書かれていた,おばさんが夢に出てくる話はよく知っていることだった。私もそういう夢を見たから。だからこそ,そのことを,向こう側との垣根のなさに捉えているのが嬉しかった。おんなじように世界を捉えようとしている人がいることを知れて嬉しくなった。 あとは,全般的に解説が,「無いとされているもの」に対して寛容で,けれどもあちら側には行かず,その存在を認めた上で,こちら側に立って話をしてくれているのが良かった。彼らのことをフラットに手渡してくれる書きぶりに好感が持てた。 眺めていると,視線が気になった。作品に描かれている人,自画像であっても,どの人も眼差しが強い。見られている,という感覚に陥る。看取られている。見透かされている。その眼差しの異様さに怯えてしまう。 道中に読んでいたデイヴィッド・アーモンドの『肩甲骨は翼のなごり』を思い出す。ウィリアム・ブレイクをこよなく愛する母子の眼はとても強く,あらゆることを見通すような眼差しだった。そういうことか。見えている人特有の眼があるのだ。彼らはみな無意識かどうかその眼を知っているのだ。その眼は日常とは異なっているから,ズレが生まれるのだ。不思議なところでつながりが生まれるから,どうしたって世界に触れることは面白い。今まで話したことを全て覚えている彼女に「強い眼をしている」と言われた私はどうだろう。何が見えているんだろう。 エネルギーが吸い取られるのを感じながら,図録を買おうか迷いミュージアムショップへ向かう。宮川隆の作品集『みやこ』を発見したため,即購入する。出会うべき時に出会った本は,ただちに買う。
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ぶらりと入った喫茶店でカレーを食べ,チャイを飲みながら机に齧り付くようにして宮川隆の作品集を読む。隣の席には上品な車椅子のおばあさんと息子夫婦と思しきグループがいて,チラチラと様子を伺ってしまった。 その後,炎天下の中足利学校と鑁阿寺(ばんなじ)に行き,フラフラになりながら渡瀬川を見にいく。暑さのせいであまり記憶がないが,一人でものびのび行動できる自分に戻ってきた。そこから佐野に移動し,フラフラと佐野厄除け大師に向かう。一応寺院なのに,間違えて拍手をして参拝してしまった。方位厄であることが発覚し,お守りを買おうかどうか閉場ギリギリまで迷っているとアリに足を噛まれたので,買えと言うことか,と思い,諦めて900円の方位よけを買う。高かった。水子供養の大きな塔があり,水子にお供えを!などというお菓子の自販機もあり,少し背筋が寒くなった。自分が妙齢の女性であることに気付かされる。何もなければ良い。 せっかく佐野に来たのだから佐野ラーメンでも食べるか,と思い,近くでGoogleマップの評価が良さそうな店に行く。店先で長髪の男性が佇んでおり,すわタバコを吸いに出た客かと思うが,あにはからんや店主であった。「お食事ですか?」「あ,いいですか?」「中へどうぞ」と言われ店内に入る。休憩中だったのであれば申し訳ないことをしたな,と思い,気まずさを隠しきれないまま,店の隅で小さく座る。とっとと食べて出て行こうと思った。佐野ラーメンはあっさりしていて美味しかった。いよいよ食べ終わる段になって,「ここ,地元の人ですか?」と聞かれ,店主と話をする。意外と話好きなようで,今日の美術館のこと,足利市が山姥切りを買ったこと,佐野市の美術館のこと,自分の息子のことなどを話してくれた。久々に人とこういう形で会話をしたので,その新鮮さに感動していた。帰り際にさのまるの話をすると,マンホールカードをくれた。お前はこういうところがあるから気をつけなくてはいけない。
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ゆらゆらと列車を乗り継いで帰る。小山ー大宮間で見た夕焼けがひどく綺麗だった。紺と橙のあわいが空に溶けていて,いい旅をしたと思った。車窓の左端はもう夜になっていて,右側だけがまだ微かに昼の明るさを残していた。まさに越境だった。いい絵だと思った。
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shisui2021 · 9 months
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Maybe Angel
2023.07.29
天使だったのかもしれない。
夏が来ると、神さまに恋い焦がれた日々が記憶の水底で明滅する。人ではなかった頃に見えていた世界の色がまぶたの裏にうつりこむ。レースのカーテン越しに覗く日差しの透明な光や、さざなみを立ててきらめく輝きが乱反射する。あれら一つ一つの色のない色を見ることができていたあの頃、私は天使だったのかもしれない。
すっか��人間になってしまってからは、飛ぶための助走すらままならなくなってしまった。あんなに白くしなやかだった翼は、足の裏でざらつく地の感触を味わうための代償に、いつの間にやら奪われていた。多分、どこかで大事な約束をしたのだろう。人となった今は何も覚えていないけれど。
今は肩甲骨だけが翼の名残りで、見えなくなった翼を懐かしんでは過去を懐古する。かつては飛べていたのだ、どこまでも高く遠くはるかな空をめざして。その事実に苦しめられていたこともあったが、今となっては愛おしい幻影に過ぎない。
人間として生きるのもそう悪くはない。そう思えるようになったのはここ数年のことだ。
神さまになれない自分のことで泣いたことはあっても、地上を不格好に歩く人間のことで泣いたことはなかった。人の形にはまだ足りない自分の輪郭を知るたびに、悲しくなると共にワクワクした。人間はこんなことで悩めるのだ、こんなことで心が動かされるのだ。人になるということはとても新鮮で、真新しい糊のきいた本のページを1枚1枚開いていくようだった。
私が,逃げ出さず,諦めず, 一人の人間として日々を生き抜いていくことで,新たな世界が見えてくることに気づいてしまった。神さまになって,みんなとは遠く離れたところからあらゆる人類を平等に救いたいと思っていたけれど,それよりも,自分を生きることで出会える景色の鮮烈さに心を奪われてしまった。そのせいで救いたかった人間を傷つけることがあったとしても。
だから,神さまになることは諦めた。人間になるために,翼も輪っかも全部なくした。歩くことに慣れていない足の裏はすぐに血に染まった。これが人になることなのだと思い知った。雨の日も,雪の日も,灼熱のアスファルトも,沈み込む砂漠も,草の根がくすぐったい草原も,凍てつく水面も,たくさんの場所を歩いてきた。いろんな私がいた。どんどんと人間になっていった。歩くたび,足の裏の皮膚は硬くなり,刺激に鈍くなる。どんどんとわからなくなる。それでもまだ足りなくて歩き続ける。まだ人間になれない。
傷つける覚悟もできたはずなのに,どうしても神さまになりたかったあの頃の私が,こちらを覗くことがある。その瞬間,数多の地面を踏み締めてきた足は痛み,ただれ,血を流す。もう二度と歩けないんじゃないかと思う。傷付けた人間のこと,救えなかった人間のこと,神さまになれなかった私のことが亡霊のように目の前に立ちふさがり,動けなくなる。無数のifがからみつき,息ができない。生きられない。全てを投げ捨てたい,遠く誰も追い付かない果てまで飛んでゆきたいと思うが,もう今の私には空へゆくための輪っかも,飛ぶための翼も何もない。今はただ,愚かに一歩ずつ前へ進むための足しかない。もう天使じゃない。人なのだ。人間なのだ。
突きつけられる事実に絶望しながら,それでも,この苦しみも,人であるから知る地獄なのだろうと知っている。天使は地獄を知らない。せっかく人間になったのだ。地獄をも旅すればいい。煉獄の炎に焼かれればいい。その都度苦しめばいい。亡霊に怯えながら,人であることを噛み締めるがいい。どこへだってこの足でいける。その先で見える世界がある。出会える私がいる。
そのために,今は,かつてここにあった真っ白な翼のことを,銀色に淡く輝く光の輪のことを,忘れずにいよう。寝返りを打つたび触れる肩甲骨は過去と今を,今とこの先をつなぐ証だ。神さまに恋焦がれた夏と,天使だった日々と,悪夢の中で,人間の私が出会いなおそう。
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shisui2021 · 9 months
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2023.07.25
要するに,さみしいという感情に敏感な人なのだとわかった。
博論の執筆期間,家の中であっても奥さんの居場所が知りたい,という発言が,論文と同様にものの居場所をはっきりさせたい,という理由を聞いてもよくわからなかった。その手の感情が自分にもないわけではなかったが,それ以上に他者を縛ることで,自分も縛られるのが嫌だった。それに,私のような人間は,そんなことをしたら戻れなくなるところへ行きそうだと思った。
「「俺の友達にそんな人はいない」って言うけど,Kとかがそうだよ」と言った女の子がいて,結局その女の子とそういうことになった話をしていた。この話が彼自身から語られたことが一番端的に彼を表していた。もっとずっと前に教授が「この人は人たらしだから」と言っていたことがリフレインする。いや,そもそもとして,少年のようだ,という私の直感が一番ふさわしいのかもしれない。つまり悪意がないのだ。悪気も企みもよこしまさもなく,ただただ純粋に人が好きなのだと思う。人恋しく人さみしい。その感情に素直なのだ。
帰る旨を伝えると,「帰っちゃうの?泊まってけばいいのに」と至極当たり前のように言う。眠そうに目を細めた顔は,いつものように余裕を浮かべた薄笑いの顔とはまた違っていた。このままここにいることは自分にとっても相手にとっても良いことだとは思えず,また,うまく立ち回れる気もしなかったため,何回か「帰ります」「布団あるしシャワー貸すし」「やだやだ」と押し問答を続け,読みかけの本を一冊だけ借りていった。「そこまで行くから」と言って,パジャマのまま家を出た彼を追った。エレベーターを待つ間,ふと口が滑り「そんなに私に帰って欲しくないんですか」と聞いた。「うん,しすいさん帰っちゃうのさみしい」と言うので,何だか面白くて「へぇ〜」と返すしかできなかった。行きは使わなかったエレベーターを使い,通らなかったエントランスを通りマンションを出る。
しばらく歩き,最初の曲がり角の前で,「もう道わかる?」と聞かれたので,「わかります,こう行って曲がって真っ直ぐですよね」と返す。と,その時,「ほんとに帰っちゃうの?」とゆるく手首をつかまれた。こちらを見つめる顔がひどく悲しそうで,大人が,私よりも八つも上のくせをして,大人が,子どものような顔をするから,一瞬,面食らいつつぐらっときてしまった。こういうところが「人たらし」の所以であり,「Kとかがそうだよ」と言われるところなのだろうな,と思った。「帰りますって」と言いながら手首を返すと,思ったよりも簡単に振り解け,あっさりと「そっか,じゃあおやすみ」と言い,来た道を戻っていった。
駅へと向かいながらつかまれた手首のことを考えていた。その時の手の感触がやけに軽く乾いていて,あの人の手とは随分と違っていた。今思えば,さみしい人の手とはこういうものなのかもしれない。なるほどな,と思いながら,今までわからなかったことが少しだけわかったような気になりながら,夜の道を歩いた。
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shisui2021 · 10 months
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2023.06.22
引越しの片付けをしていると母親から「うちは引っ越しばかりだったから,ずっと自分が住んできた家じゃなくて,新しい家が実家になってるけれどどう思っているの?」と聞かれた。今更なにを,とも思ったが,ようやくそこに辿り着いたか,とも思った。かつての私ならば,その質問の残酷さに苦しみ,やはりあなたは何もわかっていやしないのだ,わかろうとしてこなかったのだ,と悔しさと悲しさと虚しさをないまぜにした感情に圧倒され,散々に彼女をなじろうとしただろう。けれども,今は一歩引いたところから眺める視点を持っている。彼女はこうして何度目かの引越しの準備をしている中で,はたと気づいたのだ。自分の実家がこの春に取り壊され,生まれ育った地元には帰るが,あの家ではなく新しい家で新しい生活を始めようとしているこの時になってようやっと,あるけれどもない,という立場を知ったのだ。
人も少しずつ���わるのだと思う。大人になっても,変わることはあるのだと思う。教授は,大人になればなるほど変わるのは難しいと言っていた。その言葉は真実であるし,変化が私の望む形をとるとは限らない。けれども,眺めるという視点を手に入れた今は,ほんの少しの小さな変化であっても,新鮮に感じられるようになった。私のことをわかってもらえた訳ではないし,わかってもらえるようになる訳でもない。そういう彼女もいる,ということを知ることができただけだ。ただ,そのことが私が私として生きる上での支えになる。
全てをぶちまけそうになるのを堪えて「夢の中で見る家はいつも,一つ前に住んでいたあの家か,おばあちゃん家だね。もう帰ることはできないけれど」と返した。
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shisui2021 · 11 months
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2023.06.18
東京の夏は暑い。
5年ぶりの東京の6月は,まとわりつくような蒸し暑さと,あっけらかんとした青空が交互におしよせていて,コントラストの強さに眩暈がしている。
ようやく気づいたが,どうやら6月に調子を崩しやすいらしい。考えてみれば,一昨年の不眠は6月の1ヶ月間の出来事だった。聞こえもしない寺の鐘の音に始まり,明け方に目が覚め,寝付けなくなり,夏が来た辺りで憑き物が落ちたかのように眠れるようになった。眠くなるまで,と思い安部公房の『幽霊がいる』を読み始めたところ,最後まで読み切ってしまったことを思い出す。食べ物が喉を通らなくなるのも大抵この時期で,いつもは食欲を制御するのに躍起になっているのに残すということを始める。高3の初夏は,会ったこともない人間のために人助けに勤しんでいたら,変な風邪のひきかたをして声が出なくなった。高2の頃は風邪を拗らせたのか,咳が止まらなくなった。早く誰かに心配して欲しかったが,望んだ結果にはならずに顰蹙を買っただけだった。
毎回今度こそ終わりだと思った。今までなんとか誤魔化してきたけれど,ついに「大丈夫じゃなく」なったのだと。それは大丈夫の終わりであると同時に,大丈夫のフリをすることの終わりでもあった。ようやく苦しいと言う権利を得たと思った。皆,そうだったんだねと頷いてくれるだろうと思った。
けれども実際はその一歩が踏み出せないまま夏が始まり,なんとか誤魔化してやっていける日々に戻ってしまった。夏が大嫌いで大好きだから,結局夏に生かされてしまう。
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