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shokubu2kai · 4 years
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試される「ユーモア」:勝手に読む『デカメロン』下巻
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ルカス・クラーナハ(父)『不釣り合いなカップル 老人と若い女』 1522年/油彩・ブナ材/ブダペスト国立西洋美術館 (C) Museum of Fine Arts,Budapest - Hungarian National Gallery, 2019
はじめて読む『デカメロン』をめくりながら、いっこうに進まない頁にいらいらした。
そこにあるのは日常だった。
たとえば、買い物をする。
手を洗う。食事の支度をする。小言を言われる。言い返す。
重い身体をひきずって仕事に出る。商売は金を借りて返しての繰り返しだ。
断れない誘いをどうにかあしらおうと頭をひねる。相談する。ためしてみる。
奢ったり、奢られたりし、覚えのないことについてくどくど説教される。
空想や思い出に逃避する。
女とか。男とか。
自分はどうしてこうなのかと思う。あいつはどうしてああなのかと思う。
日が暮れる。夜が更ける。
 ・・・これ、思てたんと違うな。
もっと突き放されるような世界を想像していたのに、荒唐無稽な描写から背景に目をむけると、そこには日常が積み重ねてある。
積み重ねた表面には煮詰まった価値観がぬりたくられている。
それは例えばこんなふうだ。
 「法律というものは万事において公共の福祉を尊重いたしますが、また慣習というか世の習いとかいうものは非常に強力で、大事に尊重せねばなりません(中略)
自然はこうした事をわたくしどもにまぎれもない事実としてはっきりと教えてくれています。(中略)自然や掟や慣習が要求する通りに、気持ちが優しく、慈悲深く、従順であるのが女の道で、それに従わないような、女の道を踏み外した女すべてに対しては、苛烈な厳罰をもって臨むべきでございます。」
(p.274-275第九日第9話)
 これを前置きとして続くのは、金持ちの男たちが伝説の賢王ソロモンに助言を受ける話である。内容をまとめてしまうと、こんな感じだ。
 ふたりの男は遠路はるばるソロモン王を訪ね、それぞれにごく簡単な助言を授かる。
その指すところは、
妻がじゃじゃ馬だと嘆く男には「妻のやりたいままにさせず、言うことを聞かせたいならぶん殴って罰しろ」、
金持ちで皆に尽くしているが誰にも好かれないと嘆く男には「愛されたければお前から愛せ」、であった。
 
 むちゃくちゃである。
700年も経っているのに、DVを正当化する話法になんの進化もみられない。
もし仮にこれが現代性と呼ばれるならば、なんとむなしいことだろう。
自分の言うとおりにしないからといって無抵抗の相手を暴力によって服従させるのは何ものであれ人間として終わっている。
単純にドン引きである。
しかも、この話を聞いた残り9人の反応もきちんと書かれている。
女たちはくちぐちに議論し、男たちは笑ったというのである。
 これはいったいどういうわけか。
作中の男たちがへらへら笑っているのがむかつくではないか。
私の苛立ちの矛先は語り手に向かった。
ソロモンに助言を求める2人の男の話をしたのはエミーリアという女性である。
彼女は前日の第8日、しつこく言い寄る司祭をいなした未亡人と小間使の話をした。前日の爽快ぶりとは打って変わった女性論をやりはじめたから、2人の男の話が余計にむちゃくちゃだと感じられたらしい。
その第八日第4話をまとめてみよう。
 誰にも不快感を与えるほど自惚れ屋で高慢な司祭がいた。
彼はある未亡人に恋し、自分が愛すように愛し返してくれと求めたが、未亡人は心底から司祭を嫌っていたので、貞潔を守るべきであるとお互いの立場を諭して丁寧に断った。
しかし、しつこく何度も求愛された未亡人は、ついに家へ司祭を手引きして寝室に入ることを許す。司祭は事を終えて眠っているところを未亡人の弟たちが招いた司教に見つかる。だが彼が腕に抱いていたのは、未亡人ではなく、彼女のメイドの女であった。
彼女がもつ強烈な身体的特徴のために、誰も彼女をセックスの相手としては選ばない。いっぽうで頭がよく悪さの心得もあり、たくらみ事の相棒とするのに向いていた。未亡人は新品の服と引き換えに自分の身代わりを依頼し、メイドは請け負ったのである。
結果、司祭は姦淫の罰として苦行を受けさせられ、未亡人は厄介払いをし、メイドは特別手当を得ることができたのだった。 
ここに描かれているのは、女ふたりが持つ現実をみる目であり、問題を解決する知恵であり、知恵を実行するしたたかさであり、仕事と報酬の原則である。
そしてもう一歩解釈をすすめれば、メイドはトリックスター的役割をになっていることがわかる。
メイドは自身のハンディキャップを逆手にとって、「特殊業務」をまっとうした。彼女が未亡人と入れ替わることで、不貞は女の側から司祭の側の不名誉へ移った。
また、高慢な司祭は老人として、未亡人は若くて美しいと描写されている。クラナハ(父)の作で有名な【不釣り合いなカップル】と称される寓意画を連想するのはたやすいだろう。ただ、【不釣り合いなカップル】に込められているといわれる寓意 - 愛は金で買うことはできない - を、ここではさらにひねっている。
うぬぼれ屋の司祭は未亡人に金すら払わずに済まそうとして、聖職者でありながら女と寝たために社会的立場も失う。いっぽうでメイドは合意の上で事を済まし、対価を得ている。それは特殊業務に対する報酬としての現物(服)であり、主人の思惑を遂行したことについて得る信頼である。
二重写しのカップルが見せてくれるのは、支配関係の天秤が揺れ動くさまであり、結果として権力者が泣きを見、メイドがスッキリニッコリなピカレスク的結末のカタルシスだ。
と、こんなに面白い話をしていたエミーリアが、こともあろうに自分が��ストたる女王役の日に、坊さんのような口ぶりで女性の美徳を説き、DV男とナイーブ成金を擁護するような小話をしている。
これは、ボッカッチョ的に許容範囲なのだろうか?
翻訳者の平川は、ボッカッチョはキャラクターの書き分けをあまり意識していない場面があると解説している。しかし10人も登場させて、わざわざ個人名をつけておいて、意識していないなどということがあるものだろうか?
 仮定として、エミーリアの長広舌は、笑いの定法における「フリ」であるとすればどうか。真顔でとうとうと述べられるほどに不条理コントのようなブラックさが出てくるだろう。
くそ真面目な口ぶりでまくしたてる内容は、まるでペストのように日常を支配する、凝縮された価値観で塗りこめられている。
それは女ひとりの力では転覆させることなど不可能に思われるほど強固な支配だ。
ボッカッチョはエミーリアの口をして、第八日では知恵と連帯によって、不当な主張をする者に罰を受けさせられることを語った。そして第九日では、ペスト下の自身とのアナロジーにさえ無自覚な者を描いた。
 『デカメロン』はユーモアにあふれている。
お前はどんなつもりで笑うのかと、試されているような気もする。
 読んだ本:『デカメロン 下』、ボッカッチョ、平川祐(示へんに右)弘 訳、河出書房新社、2017 
written by芝
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shokubu2kai · 4 years
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逃げるが勝ち:『デカメロン』から学ぶこと
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コロナウイルスによって、今まで日常だと思っていたことに変化が起こっている。身の回りのことで言えば、トイレットペーパーやマスク、生鮮食品が町中から消えたり、外出自粛が推奨され、お店が軒並み店じまいしている光景が見られる。東日本大震災でも似たようなことはあったが、人に会えない、外出できないとなると今までになかった経験である。
生活を切り盛りしている身としてはスーパーから物がなくなるたびに日常の危機を感じ、初めての出来事にあたふたするばかり。飲食店や小売店で閉店や破産したという話も聞こえてきた。精神的にも、先の見えない状況でどこかふわふわとした落ち着かなさが続いている。
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 現代と同じように、疫病が流行った時期に書かれた小説の1つにデカメロンがある。デカメロンは、中世ヨーロッパを襲った黒死病から逃げるために田舎に移ってきた10人の男女が決められたテーマごとに順番に物語を語って10日間の暇をつぶそうという設定の元、彼らが語ったとされる100話の短編が納められたイタリアの物語だ。
本を読んでいてまず感じるのは、物語を語っている10人の逃避生活の優雅さである。彼らのご飯は召使いが作ってくれるし、ご飯が済んだら踊ったり昼寝をしたり庭を眺めたりし、時間になると集まって物語を語り始める。読み手であるこちら側が、黒死病が流行っている世の中であることをすっかり忘れてしまうほどである。彼らは食料がなくなったらどうしようだとか、そんなことなど一切気にしない。まるで嫌な日常を忘れ、楽しい別世界へ行ってしまったかのようである。
また彼らが語る内容といえば、主に恋愛の話なのだが、物語の編集形式を確立させた作品といわれているだけあってリアリティを追及しているというよりかはおとぎ話のような設定やあらすじが多い。笑い話や悲しい話などバリエーションは様々だが、どの話も形式として親しみやすく、一貫してそこにはカラッとした明るさがあって、あっという間に話に引き込まれていく。
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このようにみてみると、デカメロンはコロナウイルスという現実を一時的にでも忘れさせてくれる工夫がたくさんある本であると考えられる。本の中ではウイルスにかかるかもしれないという、どうすることもできない現実に触れながら、そこで生きている人々をウイルスのない場所まで逃避させたり、恋愛の話を展開することによってその存在をあらゆる手で一時的になかったことにしてくれるのだ。
最近心理学で注目されており、今回のコロナウイルス状況下でも盛んに議論されている能力にレジリエンスというものがある。様々な論が展開されているようだが共通しているレジリエンスの定義とは、外的なストレスに対して心が折れることなく精神的健康を維持することができる能力といわれている。育てることができるため、高める方法も議論されている。その1つとして、出来事の認知的評価を悲観的に見積もらないようし、ポジティブに考えることがあげられている。
最初から客観的に、また楽観的に物事を見ることができるのならばよいけれども、1回でもネガティブな気持ちになってしまうとなかなかそこから抜け出すことは難しい。だからそんな時は、デカメロンがもつ明るさや自然と疫病から遠ざける流れに身を任せて強制的に一回「コロナウイルス」について考えてしまうその環境から脱してみる。そして、現実へ戻って状況を見てみると気持ちがリセットした状態で物事を見ることができ、レジリエンスがすこし高まるのではないかと思う。
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心が揺れ動き不安になった時には思い切り逃避していいんだよと教えてくれる本作は、この時期に読んでみると一時的にでも現実の暗いニュースや出来事から距離を置くことができ、少しだけでも心の不安が解消されるかもしれない。
 翻訳家の平川氏によるとデカメロンが書かれていたのは、黒死病が流行っていた時期だったらしい。デカメロンが発行された時は、黒死病を恐れていた人々が読んでいたはずである。彼らが本書を読みながらどのように生き抜いたのかを、異なるけれども似たような状況下にある我々が考えてみるのも楽しい。そうやって我々もまた現実から逃避することを肯定しながらこの非日常を過ごしていくのである。
読んだ本:『デカメロン 中』、ボッカッチョ、平川祐(示へんに右)弘 訳、河出書房新社、2017
written by菊
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shokubu2kai · 4 years
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はじめに
  はじめまして。
「キノコと名乗ったからには籠に入れ」を訪問して頂き、ありがとうございます。
文学・美術・思想・心理等を愛好するメンバーが、面白いことを共有したいという思いから、ささやかに始めることにしました。 
本サイトでは月1ペースでの記事連載を予定しております。
メンバー一同はじめて行う試みということもあり、模索しながらの更新になりますので、暖かく見守ってくださるとうれしいです。
これからよろしくお願いいたします。
植物会
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