Tumgik
straydgbw · 3 months
Photo
Tumblr media
小学4年生でこれはセンスありすぎる… https://t.co/uiegG2FTl5
562 notes · View notes
straydgbw · 5 months
Text
でも本当の悟りはこんな単純なものではないはずです。お釈迦さまは、深山幽谷の山奥の洞窟の中で霞を食いながら一日瞑想するのが悟りへの道だとは言っていません。市井の欲望の中にいて、そこで欲望への執着から離れて生きてこそ本当の悟りに達し、真の覚者になると言っています。断捨離したから悟ったと思うのは勘違いで、まだ悟りには達していないのです。欲望や執着の対象物を目の前にしながら、それから自由になるのが真の悟りだということです。一方、断捨離はかゆい所を誰かに掻いてもらって気持がいいだけの話です。だからインスタント悟りだというのです。ヒッピーのドラッグと同じです。
断捨離は「インスタント悟り」に過ぎない 横尾忠則が考える、本当の心の断捨離とは(全文) | デイリー新潮
24 notes · View notes
straydgbw · 2 years
Photo
Tumblr media
高橋書店 17th 手帳大賞受賞者決定(名言・格言)
947 notes · View notes
straydgbw · 2 years
Quote
たぬき:ナンセンスを出発点に、平田オリザ~岩松了~チェーホフ~別役実~中上健次~青山真治などなど、宮沢章夫は節操無くいろんなものから影響を受けて来たけれど、いずれにも共通してるのは、どれもこれもあまりに表面的なカブれ方にすぎなくて、彼が影響を受けたものを元から知る人間にはネタが割れすぎてつまらないものばかりであること。 ぽわん:ふうん。たとえば? たぬき:90年代半ばは平田オリザの影響をモロに受けて多重会話とかやってたし、ドラマの核心をわざと回避する岩松了の方法論も真似してたし、すぐに「三人姉妹」と「かもめ」の構図を借りてくるし、会話のずらし方は別役だし。勿論そのどれもがオリジネイターたちには遠く及ばないし(大概中途半端な模倣なんだよね)、模倣し折衷することによって「演劇の可能性」が広がったりする訳でもない。だって、要するに場当たりを狙ってるだけなんだから。いつも「あーこの場面、作り手はキメてみせたつもりだろうけど役者体も言葉も薄っぺらいから演劇空間として全然成立してないよ」みたいなのばかり。彼の薄っぺらさが幸運にもある種の同時代性を帯びることができたのは、ほんの数年間の出来事だと思う。 ぽわん:その数年て言うのはラジカル・ガジベリビンバ・システムの時代? たぬき:うん。あと、薄っぺらさがある種のリアリティを持っていたという点では、オウムと阪神大震災の年である95年以前の2、3年を加えてもいいかもしれないね。  いずれにせよ、今回も昔話と歌舞伎を表面的になぞってみただけ。こういうやり方で宮沢が今までやって来られたことに関しては、作り手側の浅薄なカブれっぷりを自分たちへの知的な(?)目配せと取り違え、ナイーヴに称賛してきた評論家にも大いに責任がある。彼らも反省してほしい。
2013年09月13日
第一回ABKAIに見る、限界あれこれ
0 notes
straydgbw · 2 years
Quote
ぽわん:まあ今更だけど演劇ってやっぱり難しいもので、観劇歴をある程度重ねると、良いものや、いまひとつなものもわかってくるけど、若いころから作り手であり続けてきた長塚には、それを知るだけの時間や実行する技量を育む余裕がなかったんじゃないか。経験において無駄をはぶくのが、伝承とか継承とかだと思うけど、日本には演出家の養成機関はないし、いまや新劇の劇団の影響力は見る影がない有様だし。彼をはじめ、今の演劇界の才能たちには、演出とはどういうものか、近代劇とはどんなものであるか、きちんと学ぶ機会がなかった。アンチ~として意識することすらなかった。でも、こういうこと言うと煙たがられるんだろうけど、やっぱり土台なくして成長なしというか、飛躍に限界があるんだよね。その意味では、長塚も可哀想ではある。でも、そういう舞台を見せられる観客も可哀想だよね! そして、もし長塚がそのことに気づいていないんだとしたら、誰かが言っ���あげなくちゃいけない。だから、こんな場所ではあるけど、我々も敢えてうるさく言ってるわけだけど。
2012年04月03日
演劇界の裸の王様!? 長塚圭史演出『ガラスの動物園』のどこがダメか
0 notes
straydgbw · 2 years
Quote
たぬき:歴史劇じゃなくて、現代を直接扱う場合なんだけど、坂手的な告発劇の衝撃度が落ちてきてるとするなら、やっぱり永井愛とか渡辺えりみたいに、身近な怒りに端を発しつつもそれを1本の娯楽劇に仕立てるってやつがいちばん、社会的な訴えかけとして有効、ってことになるのかな。「制度=悪」という斎藤憐的大風呂敷じゃなくて、「考えれば考えるほどコレって問題だよね」みたいな、やや射程距離の短いタイプ。 ぽわん:それをたとえば、今の若い世代がやるとしたらどうなるかな? 今年のフェスティバル/トーキョーの公募アワードを受賞した捩子ぴじんなんかは、コンビニでアルバイトする自分というものを描いたけど、まんま過ぎて演劇としてどうか?という議論も。もちろん例外もあるけど、今評価されている作家のおおまかな傾向として、外はどうでもいいから自分の世界だけをひたすら構築したいっていうタイプと、ひねりがなさ過ぎと言われるくらいにそのままずばりなタイプと、分かれている気もする。若い作家の力量からすると、なかなか歴史的な文脈も踏まえ、政治的な批判や社会への鋭い眼差しも感じさせつつ、フィクションとして豊かなものを作るっていうのは、端的に言って難しいのだろうけれども。 たぬき:年齢は少しいっちゃうけど、松田正隆なんかは堂々たる前衛仕立てで健在だし、確かに若い人のドキュメンタリー風味の今様報告劇みたいなのは増えてきたねえ。でもさ、根本的には社会劇って、マスに届いてはじめて機能する訳で、そういう意味でも、斎藤憐が自負してたウェルメイドな職人芸アプローチってやっぱり大事じゃない?
2011年12月29日
斎藤憐の死をきっかけに社会劇の今後を考える
0 notes
straydgbw · 2 years
Quote
たぬき:えーと、彼はもっぱら歴史劇という形で社会問題にアプローチした劇作家だから、まずその線で考えてみよう。鄭義信とか青木豪とかの自伝ベースの芝居は、昭和という時代を笑いあり涙ありで描いたという点では、井上ひさし=斎藤憐ラインにつながるようにも見える。けどやっぱり違う、というかどこか食い足りない。それはつまり、井上戯曲で言えば「諸悪の根源は天皇制だ!!」斎藤戯曲なら「制度は抑圧だ、自由万歳!!」に相当する、切実な叫びがないからなんだよね。やっぱり、共感するしないとは全く無関係に、観客って何らかの強烈なメッセージを受け取りたい訳。家族愛とか人間讃歌で終始されても物足りないんだよ。 ぽわん:まあ、鄭にしても青木にしても愛や讃歌だけじゃないと思うけど、悪や批判も個人史的な感じで、普遍的な広がりがない感じだからね。 たぬき:うん。例えば、バブル経済とその崩壊なんかも、いい加減劇作家個人の体験の延長線上なんかじゃなくて、もっと深い、あるいは広いパースペクティヴを持った歴史劇として取り上げるべきなんじゃない? だって、東京裁判の速記録を元に構成された木下順二の「審判」第一部が上演されたのが、裁判終結から数えて22年後。もうすぐ終わろうとしてる今年2011年も、プラザ合意から26年、総量規制から数えてすら早21年なんだからね。
2011年12月29日
斎藤憐の死をきっかけに社会劇の今後を考える
0 notes
straydgbw · 2 years
Quote
たぬき:あと、最優秀演出家賞の蜷川幸雄にも異を唱えておきたい。ここ数年の彼の演出は悪い意味での出たとこ勝負というか、グランドデザインを欠いていて、部分部分のヴィジュアル的な工夫とか個々の役者を面白がるぐらいしか楽しみがない。だから、キャスティングと演目を耳にした瞬間に、どの程度の舞台成果が上がるか予想できてしまう。そして「これは面白くなりそうだ」と思える組み合わせは、割合で言ったら2割程度なんじゃないかね。彼の舞台を観るたびに思うんだけど、壮年期の蜷川が今の自分の仕事を見たら口を極めて罵るか、少なくとも引退勧告を突きつけるね。かつて自分自身が年長者を罵ったように。 ぽわん:かといって、蜷川がいない演劇界が活況を呈するかというと、不安なところもあるなあ。それに、若手の劇団さいたまネクスト・シアター『美しきものの伝説』���けっこう良かったよ。この公演には高齢者演劇集団のさいたまゴールド・シアターの人たちも出て来たんだけど、ネクストとゴールドの両輪を動かすことができるのは蜷川でこそだし、そこを評価したっていう面もあるのかな。
2011年02月05日
読売演劇大賞にもの申す
0 notes
straydgbw · 2 years
Quote
たぬき:まったくだね。わたしことたぬきが『ザ・キャラクター』を駄作だと言い切る理由は簡単で、「なぜ書道教室がサリンを撒くに至ったのか」というプロセスの解明、つまりオウム真理教事件に対する考察が一切なかったからなんだ。教祖への盲信だの集団内での足の引っ張り合いだのといった一般論、あるいは「幻」が「幼」かったからだのといった小手先で目くらましできるような問題じゃないからね、「なぜオウムはサリンを撒くに至ったのか」ということは。ほら、ブレヒトの『アルトゥロ・ウィの興隆』とかイヨネスコの『犀』っていうのは、劇作家それぞれによる「なぜファシズムは起きてしまったのか」という問題に対する考察な訳じゃない? オウム事件を題材にするのなら、一般論にも言葉遊びにも「逃げ」ちゃいけない。じゃないと(もう一つの下敷きである)ギリシャ神話同様に、「遠い昔に起きた出来事」を構造として借りただけになってしまう。『ザ・キャラクター』は、ギリシャ神話とかオウム事件とかに筋だけ乗っかりつつ、登場人物たちが何の効力も無いアフォリズムだの言葉遊びだのをぶちまけているだけだったもん。 ぽわん:野田は、その言葉遊びの意外な効果っていうのを作るのが得意な人だったと思うんだけど、もう観ている側の想像力を喚起しないんだよね。才能が枯渇したのかな。 たぬき:そうだね。アングラ・小劇場以降の劇作家は、こういう言い方をするとミもフタもないけど基礎が出来てないというか、基礎を作ること自体を否定してしまったから、自分のモチーフが枯渇した後は出がらしになるしかないさ。まあ、昔から「劇作家10年説」ってのがあって、劇作家という職業はどんなに頑張っても10年で才能が枯渇することになってるらしいけど。
2011年02月05日
読売演劇大賞にもの申す
0 notes
straydgbw · 2 years
Photo
Tumblr media
雨緑🍀さんはTwitterを使っています 「@mg2b5 https://t.co/jx7U0u9ujk」 / Twitter
238 notes · View notes
straydgbw · 2 years
Quote
自分を騙さない事ほど難しい事はない。(1938)
ウィトゲンシュタイン (via reretlet, nozma) (via quote-over100notes-jp)
157 notes · View notes
straydgbw · 2 years
Quote
どういうことなのかというと、アキバには、メディアが誇張して伝えている 姿に、自らを近づけようとしているみたいなところがあって、そこのところ がほかの街とは違っている感じがする、と、そういうことだ。 実際、アキバにメイドが現れ始めた頃、メイドさんたちは、ほんの限られた 地域に、ごく少数生息しているのみだった。それが、取材され、報道され、 有名になり、誇張されて記事化されているうちに、メイドは本当に増殖し、 目立つようになり、マジでアキバ中を闊歩するようになった。つまり、 この街の風景は、メディアの誇張を裏書きするカタチで、現実化している のである。 「萌えキャラ」の弾幕も、パフォーマーも同様。はじめは「ネタ」だった ものが、じきに現実化し、当初はマニアの暴走に過ぎなかった所作が、 常識化してしまっている。 今後、アキバはどうなるのだろう? アキバは、ある時期に、そこに集まる人間の妄想を実体化する術を身に つけたのだと思う。だから、闇市からバッタ屋を経て無線街になり、家電 からパソコンに手を伸ばし、萌えフィギュアポリスにまで成長したのだと 思う。今後は、ますますタチの悪い街になって行くと思う。仕方がない よ。タチの悪い人たちがよってたかって勝手な絵を描いて行くんだから。
こちら文芸&学芸書籍編集部 (via otsune) (via quote-over100notes-jp)
263 notes · View notes
straydgbw · 2 years
Photo
Tumblr media
この 3D 手順書は、HoloLens 2 独自のナビゲーション機能と Dynamics 365 Guides ガイド作成アプリケーションの 3D ツールキットに含まれる 3D ホログラムを活用しています。3D 手順書は新入社員向けに作成され、手順の中で特定のタスクを行うべき場所を「点線」や「矢印」、「手の形の 3D モデル」等で作業者に示します。
1 note · View note
straydgbw · 2 years
Quote
会社の同僚が自宅マンションで死んだ 浴室の照明を付け替えようとして小型の脚立に乗ったところ 脚部の接地面が滑って、転倒 頭部をバスタブに強打したのだ 季節は初夏、ベランダの戸は開いており、浴室のドアも開いたままだった 無断欠勤が数日間続き、別の同僚が彼の自宅を訪ねて、死体を発見したのだが 開いた窓から入ってきたカラスによって、死体はついばまれていた 眼球はなく、頭蓋骨の陥没箇所から、脳もほとんど食われていたという 実はこれら詳細を知ったのは、後になってから死んだ同僚から熱烈なアプローチを受けて困っていた女子社員から悩み相談を受けた 実家の一戸建てに、ご家族と住む彼女、このところ家の周囲にカラスが多くて気味が悪いという その辺にいるだけなら無視もしようが、二階の彼女の部屋の窓越しにじっとこちらを凝視したり窓をくちばしでつついたりするというのだ 「ああ、それはきっと死んだ××の、脳食ったカラスだよ」 事情を知る社員からその言葉を聞き、その時はじめて死んだ同僚の死の様子を知ったのである 「○○(女子社員)のことで頭がいっぱいだった××の脳味噌食ったんだから、カラスに××の気持ちが 乗り移ったんじゃねーのw」 趣味の悪い冗談だな、とは思ったが、女子社員はそれどころではすまず、気のふれたような悲鳴を上げその場で昏倒してしまった(気絶した人間というのははじめて見た) 以後彼女は会社を休みがちになり、自宅周辺を空気銃を持って徘徊する、あぶない人になってしまった これは聞いた話だが、一羽だけ空気銃を命中させたカラスは路上に落ちたところを、彼女によって 原型をとどめぬまでにぐしゃぐしゃに踏みにじられたそうである よほどのこと嫌われていたと見える
8 (via kazukij)
828 notes · View notes
straydgbw · 2 years
Text
Tumblr media
51 notes · View notes
straydgbw · 3 years
Photo
「そう見える」こと、またそれを補完することばが、いかに人間に影響するかを感じさせる、いい事例。
Tumblr media
(1) SmileさんはTwitterを使っています 「佳子さまのハグ、すごくいい(*/´∀`)/ 皇室のエレガントなハグは見かけるけど、こういう気持ちのままのハグはあまり見かけないから佳子さますごくいい🙆 結婚のこと姉妹でいろいろ話し合ったのかな。お姉ちゃんの葛藤を誰よりも知ってる妹なのかな。姉妹の絆を見た感じがする。 #眞子さまおめでとう https://t.co/jzf4iUaLg5」 / Twitter
53 notes · View notes
straydgbw · 3 years
Photo
Tumblr media
こういう誤植すごい好きなんですけど他に持ってる人いませんか?ww
10 notes · View notes