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#本人はビックリしてきっとアタフタ
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昨日のこと。。。 自転車で出掛けたTR(写真手前)が、パスアップ(自動三輪トゥクトゥク)に乗って戻って来たので…?🤔 話しを聞くと。。。 自転車🚴‍♀️に乗っていたら、前のカゴに入れていた薄手のレインコートが風にフワッと浮いたと思ったら、自転車の後ろの方に飛んで来て後輪に絡まって動かなくなったとか😱 ちょっと考えられない状況が起きてしまったようです。 3人がかりで、後輪に絡んだビニール製のレインコートを取り除きました。 突然のことに本人はビックリしてきっとアタフタヽ( ̄д ̄;)ノ=3=3=3したかと思いますが、事故になることもなく守られてよかった!😅です。 #昨日のこと #自転車で出掛けた #パスアップに乗って戻って来た #話しを聞くと #前のカゴに入れていた #薄手のレインコート #風にフワッと浮いた #自転車の後ろの方に飛んできて #後輪に絡まって #ちょっと考えられない状況 #3人がかり #絡んだビニール製のレインコート #突然のこと #本人はビックリしてきっとアタフタ #事故になることもなく #守られてよかった #カンボジア #孤児院 https://www.instagram.com/p/Cnd2tuCp0bH/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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0okick · 3 years
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日本の認知症カフェを自分視点で考えてみた
■本人視点での認知症カフェ
 今有る認知症力フェの殆んどは、認知症特化型介護サロンだと思う。
そんな場所を認知症カフェとした名で呼んで表記してきた過去から、認知症本人は介護している家族に連れられていく場所になっている。
デイサービスが毎日行けるわけではないから、そのデイサービスの無い日に本人を連れていく場所とした感覚が多いとご家族の話からは伺えます。その関係で、認知症カフェでは本人はデイサービスと同じ事をして、時間を過ごしてもらう。その間に家族は、お茶やお菓子を食べながら楽しい会話であったり、介護による悩みであったりそんな話をする場所になっている。本人が施設入所やデイサービスで手が離れた隙に、カフェで寛ぎに来ているんだと言った方があるくらいなので、認知症カフェと言われている場所は、介護家族がゆったりのんびりできる場所だと思います。
◆【認知症カフェのイメージ】
 私は診断された当初に読んだ本の中の、認知症カフェやアルツハイマーと診断された方々の行くカフェは、そこが街の中のカフェであり、そのお店の中で寛いで楽しく話をしている人たちが、ただ認知症と診断を受けた方々で、そのカフェでは、自分の好みにあった飲み物やランチをいただき1日を過ごしています。と言ったことが語られていた。そんなイメージが今もある。カフェの関係者も、そんな方々の出来ないことだけを手伝い、医療的な相談や他の相談に乗ってもらう事が可能な場所であり、そんなカフェが街の中に何箇所もあると言った話だった様にイメージとして残っている。
 そんなイメージから、日本でも認知症の人達が相談できるカフェがあると何かで読み、2015年当時に図書館や本屋さんの棚にあるような本を読むよりも、本人に話を聞きたいと思うようになり、認知症カフェと言われる場所に参加する様になった。しかし時すでに遅くて、本人が参加出来ない方ばかりで、介護家族だけなカフェが殆どでした。
 そんなカフェでは、介護で疲弊した家族の話が多くて、中には弄便の話やひとり歩き、気が狂ってしまいバケモノがそこに居る!と発狂してしまった!と言ったハナシが多かったですね。とても認知症の入口に入ったばかりな方が、平常心では聴いていられない内容の話ばかりでした。事実診断されて間もないご家族さんが一度来られても、二度と来られることが無いほどな会話の数々でした。私はこの先進行した時にそんな状態になるかもしれない、そんな状態になった時に、ビックリしてアタフタしなくても良いように記録して準備する事にしてました。
 そんな介護家族と話をする事が普通となり過ぎてしまい、本人としての想いが甘えという分類になってしまい、迷惑をかける側なのだから、迷惑をかけられる側へ意見をするべきでは無いと言った暗黙の了解が私の中で大きくなっているのだと思います。
◆【考えてみてください。あなたがカフェに行くのはどんな時ですか?】
・プレゼンやレポートを作る。
・マスターと話をする。
・マンガや週刊誌、小説等本を読む。
・友達とおしゃべりをしながら、自分の好みにあった美味しいものを食べる。
・デートコースとして。
・お腹を満たすため。
・商談や相談、ミーティング。
・寛ぎの時間を過ごす。
こんな感じではないでしょうか?
みんなで脳トレをする為?みんなで風船バレーをする為?みんなで時間から時間までの間、その場から離れる事を許されず、座り続ける為?デイサービスの入所体験会?決められたカリキュラムに沿った行動をする為?
朝車が迎えに来て、施設に入り、時間まで過ごす、10時におやつ、お昼ご飯、15時におやつをいただき、帰りの時間まで過ごし家に送っていっていただく。(施設系デイサービス型認知症カフェの一例です)
パチンコが好きだった人は、今でもパチンコしたいでしょうね。
カラオケが好きな人はカラオケの伴奏で唄いたいでしょうね。
昔私が小さい頃は、村の中には小さい商店があり、そのお店には毎日のように村のお年寄りさんがおやつを食べながらおしゃべりを楽しんでました。
縁側や庭や畑の側で、おしゃべりをしている御年寄さんがいる。その側では子供が遊んでたりしてました。そんな景色が当たり前でしたが、今の時代ではそんな景色を観ることは出来ませんね。
◆【こんな風な考え方を持っていました。】
月一回でいい、毎月その日(曜日)に開催している、固定された場所、そこに行けば仲間に会う事ができる。そこに行く事ができれば、話ができる。そんな場所を作って欲しい。動けるものが動く!南部から北部に移動することは絶対的に困難だ!だから南部に作っていただけば良い!
・毎月第◯週目、◯曜日に開催する
・時間は◯時~
・場所は固定された場所
・対象を認知症の本人
・家族及びサポーターの方々は別テーブルとする
この様にすれば、時間と移動を考えるだけで参加する方向で策を練る事が可能であると思っていた。
兵庫県はとても広く、神戸から姫路へ行くのは結構ハードルが高く、北部から南部へ行くのは自動車を使用しないと時間の融通が効かない。と言ったハードルがある。鉄道の路線の無い地域もある。
 現在コロナ禍な関係で、私が移動する事によるご迷惑をかけてはいけないという思いがあり、本人の会ピアのオフラインが開催できてない。オンライン開催に於いては、双方のサポーターや家族含め都合の調整が難しく開催出来てないのが現状です。
◆【集めるカフェと集まるカフェ】
モデレーター研修としたアルツハイマーカフェとはこうあるべきとした動きが有る。認知症特化型介護サロンとデイサービス型介護サロンが頭打ちになり、新規参加者が無いのが現状で、認知症は老化の過程の中で、仕方のないものという事実がある中で、認知症というキーワードが現実的に考えないといけなくなり、そんな方々を取り込むための秘策として、アルツハイマーカフェを日本は取り組んでいるのが現状かな🙄だから、アルツハイマーカフェのモデレーター研修でこうあるべき!として教えていただいているが、教えられている側が、新規顧客誘致策として考えている限り、認知症予防を表に出したただのイベントになっちゃってると思うんだ。
今まで色んな会場で、大学の教授や病院の医師が講演会されているのを聞いていても、皆さん同じ説明をされてます。何度も聞いたからもう良いや!って方があると思います。有名大学や大手病院の肩書きを客寄せパンダに、参加者が毎回違うなら、毎回認知症とはこんな病気!と言った説明や、認知症介護の歴史云々もありかもしれない。その先にはいつまで経っても進めないけどね!でもそんな日本のカフェに来られる介護者の多くは、日頃の介護の知恵を求めて来られる方が多いと思うのだから、そんな介護の知恵の講師さんを呼んだ方が役に立つと思うんだ。認知症そのものを理解する勉強会だけでは、理想と現実の差が大きくて、介護する側はそんな対応できません!そんな余裕有りません!と言われて終わってるよ!認知症に良いからと体操などするけれど、健康に良いことだよね、フレイル予防のためにやってることばかりだよね。「フレイル予防をしませんか?」と、案内出しても、健康を維持して、自分の足でいつまでも歩きましょう!と言っても、そんな事が出来てればメタボや成人病になってない訳だからwそれが出来ないからと、認知症という単語を利用した事で脳裏に認知症という文字を認知させたんでしょ!政府ですら、認知症予防を商売道具として利用する程に認知症予防を大きく取り上げている訳だよね。
まあだから、日本の認知症カフェは、デイサービス型と認知症特化型介護サロンで良いんじゃないかな。本人が来てくれないと悩むだけ無駄と考えなおせば良いじゃん!
アルツハイマーカフェとすると、一般人に認知症を理解してもらう場所!介護者が専門家に相談したり、介護の知恵をもらう場所!本人を連れて行き休憩出来る場所!で良いんじゃないかな。
 だって昔からよく知った人に久しぶりに会って、その人が誰もがいずれなる病気が認知症だから、先輩!よろしくね!って昔同様に付き合ってくれる訳じゃなければ、そんなカフェで顔合わせて久しぶり!って言えないじゃん!
生活している地域の方々の中に本人が行きたい!と思えなければ、アルツハイマーカフェが本人が行きたい場所って言えないじゃん!
それが出来てるならば、地域の集まりで、認知症と診断された方が普通に暮らしてる街って事だから、改まってそんなアルツハイマーカフェって必要無いんじゃないかな!と私は思うんですが?
 D-カフェはDカフェで良いと思うんだ。おれんじドアだってそのままで良いと思うんだ!だってそこは本人が自ら行きたい、行って話がしたいから行ってくるね!連れて行ってください!って場所になってるんだから!もうそんな場所って、日本のアルツハイマーカフェでもないんだよね
だって、アルツハイマーカフェだから行ってるんじゃないもんね!
◆【想いのギャップ】
カフェ担当者別熱意の差
場所の固定が出来ると良いけど、広い兵庫県内移動の問題から固定せず動ける側が動く様にと考えた。場所が固定出来ると予定が立てやすくなる。日時が決まっていると予定出来る。
その日その時にその場所に行けば、話が出来る!それが大事!来客がない時は、作戦会議の日としてスタッフで話し合う日とする。
【スタッフ側が楽しくないと感じるカフェ】
今まで認知症のある人は、介護を受けるヒトという括りだったので、まるでモノのような感覚で、本人を横に置いたままでも、(本人として)目を覆いたくなるような言動を家族が参加者に平気で公言されてきました。それが認知症カフェの現状です。
認知症のある人も人であるので、人権があるのは当然な話ですよね。
特養等施設内で職員に管理されているモノではないということを明確に感じていただきながら、お付き合いしていただければ、良いと思います。
介護者も同様に介護職から見れば、モンスターかもしれませんが、そんな介護家族の悩みを聞き、ヒントとした思いを話していただくことで、日々の介護の知恵を持って帰ってもらうように職員が対応出来れば、単にお客さんに楽しんでもらっているだけのカフェなんざ!いらねぇ!とした仲間内の会話にはならないと感じます。
良いモノを作れば、真似をする人が出来るのは仕方がない事だけど、そんな簡単にマネ出来るもんじゃないと思います。
真似する側は、そのカフェが自分が楽しい!行きたい!と感じたから真似をして、そんな楽しい場所を提供するんだ!として作って行けると良いカフェにきっとなると思います。
後は、広報だけですよね。
◆【認知症カフェとの出会い】
 私は診断された当初に読んだ本の中の、認知症カフェやアルツハイマーと診断された方々の行くカフェは、そこが街の中のカフェであり、そのお店の中で寛いで楽しく話をしている人たちが、ただ認知症と診断を受けた方々で、そのカフェでは、自分の好みにあった飲み物やランチをいただき1日を過ごしています。と言ったことが語られていた。そんなイメージが今もある。カフェの関係者も、そんな方々の出来ないことだけを手伝い、医療的な相談や他の相談に乗ってもらう事が可能な場所であり、そんなカフェが街の中に何箇所もあると言った話だった様にイメージとして残っている。
そんなイメージから、日本でも認知症の人達が相談できるカフェがあると何かで読み、2015年当時に図書館や本屋さんの棚にあるような本を読むよりも、本人に話を聞きたいと思うようになり、認知症カフェと言われる場所に参加する様になった。しかし時すでに遅くて、本人が参加出来ない方ばかりで、介護家族だけなカフェが殆どでした。
そんなカフェに通っている時に、カフェひまわりの代表を交えた話の中から、こんな想いが出てきました。
・介護相談だけではない。
・今、認知症と診断されて悩んでいる人の力になりたい。
・当事者と一緒になって出来ることできないこともできるように一緒に考えることも大事なこと。
・既存のカフェでは参加出来ない人にも参加できるように、もっと楽しい場所が欲しい。
そんな気持ちを話し合っていたら、参加していたカフェの立上げスタッフから、御主人の介護を経験したあなたが始めなさい。あなたがしたいと思うカフェをあなたの思うように始めなさい。私も他のスタッフもお手伝いします。その話を夢にしないで現実にしましょう。と言ってくださり、そんな声に押され、カフェを自ら開催する決心を持ちました。開催場所は豊岡社会福祉協議会のボランティアセンターをお借りすることができて、そんな社協の担当課長さんも交えた会議が、翌日の別の認知症カフェの場で話し合いを持ち、日時・提供するもの・スタッフ・広報・書類と言った話し合いがあり、そんな話を聞いていた私に、広報するためのチラシや案内等の作成を頼まれた事で、認知症カフェひまわりの立上げスタッフのひとりに加わりました。
◆*この認知症カフェの設立時の想い*
それは⋯
『ただひとりの居場所を創る』です。
始めてみると、長く介護されている介護者さんの憩いの場所となっています。
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gunosy-news · 3 years
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マナーをとるか安全をとるか…運転時の「サンキューハザード」に賛否両論の声
集計期間:2020年10月20日~10月22日 回答数:17081
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「サンキューハザード」とは車の運転中、狭い車間に割り込みさせてもらったときなどにハザードランプをごく短時間点滅させ、相手に謝意を伝える行為のことです。
道交法で明確に定められているわけではないですが、マナーとして行う人が多い一方「ハザードを点灯させようとして脇見運転になり、事故につながる」という意見も。
そこで今回は「サンキューハザードの是非」についてアンケート調査を行いました。
運転時の「サンキューハザード」必要だと思いますか?
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回答者17081名のうち、運転時のサンキューハザードは「必要」と答えた方が全体の約7割を占めるという結果になりました。
ここからは双方の意見を見ていきましょう。
必要
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<譲ってもらったのだから挨拶はするべき>
・当たり前!前に入れてもらったり譲ってもらったりしたら挨拶は必要でしょ。私は親から教えてもらったけど最近は教習所で教えてくれないので教えた方が良いと思う!!
・渋滞時などに、合流地点だと分かりきっているのにギリギリまでウインカーを出さず、最後の最後に無理矢理入って来たりする車などが時々います。形式的なものかも知れないけれど、挨拶くらいしなさいよと言う気持ちになりますね。
<わかりやすい・気持ちがいい>
・合図があった方がわかりやすい
・分かりやすく感謝の気持ちを伝えられるかなぁと思い。
・運転しながらする余裕があるのであればちょっとした挨拶の様にできるのは気持ちが良いと思います。絶対しなきゃ!とは思いませんが素敵な習慣だと感じています
・ほんのひと手間で、ちょっとしたコミュニケーションになるし、思いやりがあって心がなごむ。
・譲ったときにハザードがあると、譲ってよかったと思うから。
・教習所なとで習わない運転する上で必要のないものだけど、こちらの善意に気付いてくれたと分かるのでやってくれた時は嬉しい
・ありがとうのサインなのでしてもらえると嬉しい。パトカーもしてくれた
・強引に入って来ても、それだけで「まあ、いいか」と思えてしまいます。絶対に必要とは言いませんが、運転手さんの人間性が出ているようで、気持ちがなごみます。
・ハザードされると、次も人に親切にしたくなる
<ハザードを点灯させないと、トラブルの元に?>
・個人的にはさほど気にしないが、少なくとも必要と感じる人が一定以上いるならそれは必要。ハザードの挨拶がなかったと感じる人もいそうだし、あおり運転等危険行為につながる可能性があるから。
・それがあるから譲り合いが出来るのだと思う。渋滞中に脇から入られたらムッとするけど、ありがとうハザードをつけられると許せる気持ちになる。一番には煽り運転の抑制にも少しはなっていると思う。
<譲ったのに反応がないと腹が立つ>
・手を挙げる、お辞儀する、ハザード、何もなかったら、腹が立つ。譲り合いでも挨拶は大事よ。
・されないと、あれ?ってなる。善意の押し付けではないが、会釈程度のあいさつとして必要だと思う。
・譲った時にハザードがあるのとないのとでは気持ちが違います。譲る際に手をあげたりして挨拶くれる人ならいいですが、挨拶もハザードもないとお礼も言えない人に譲った後に少し後悔します。
<ハザード以外の方法を求める声も>
・『Thank you』の文字が表示される電光掲示板があればいいのに
・必要と回答したがケースバイケースで煽りと勘違いされそうだからいっそ車にいいね!サムズアップボタンやらありがとうすみませんボタンつけたら?
・お礼はマナーだと思うし、ないと煽りの原因にもなりかねない。ただし本来の使い方ではないので別のお礼を伝える方法が浸透するならすぐにやめるべきと思う
・やっぱり譲ってスルーだとあまり気分良くはない。でも不慣れだと運転に精一杯で押せない時あるから押しやすい位置にボタンが欲しい
・手で合図しても、わからない可能性があるから。合流だと後ろの車に挨拶する時、ほかに方法がない。ただ、最近はそれがパッシングだと勘違いする人がいるので困る
<ハザードならではの利点も>
・夜の運転だったら ありがとうと頭を下げてもわからないけど ハザードランプだったら暗くても伝えやすい。
・お辞儀が見えなかっただろうなぁという時にはハザードでありがとうを伝えています。クラクションは近隣にうるさいし、他に謝意を伝える手段がないし…
・正直、タイミングがギリギリで挨拶してる余裕がない時にハザードつければ感謝の気持ちが伝わるので助かる。される分にはどちらでもいいが、親が入れてあげた車がしないと怒っている姿を見るので、、私もするように気をつけている。
<サンキューハザードという言葉を初めて知った人も>
・恥ずかしながら最近覚えました。いい歳をして何ですが、今まで運転する機会が少く、運転をしても「とにかく運転のみに集中」という感じで、心に余裕が全くなく、親切にして頂いても心の中でありがとうと!と思いまくるだけでした。ですが最近は少しだけ余裕が生まれるようになり、サンキューハザードがようやく出来るようになり、嬉しく思っていた所なので、習慣がなくなってしまったら、謝意を示す方法がなくなり、非常に悲しいです。今までできなかった分、これでもかとたくさん押したいです。
不要
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<ハザード以外の方法でいい>
・軽く挙手でいい
・やれる人はやってもいいが、自分は左手に障害があってハザードのスイッチが押せないので批判されると辛いかな。スイッチ押すためにハンドルから右手を離す方が危険。
・ハザードボタン操作する余裕がないときだと、事故の原因になりかねない。声でコマンド出せたらいいのにな。
・私は列に入れてもらうときには、入れてもらう直前に手を上げたり頭を軽く下げたりの礼をするのでサンキューハザードはしないタイプです。相手を列に入れるときもその程度の礼で充分と思っているので必要なし。逆に目の前で急にハザードを出されるとビックリしてしまう。
<かえって危険?>
・新車や、免許取り立ての時はアタフタしてしまうので、かえって危険
・運転になれてないのでそんな余裕はない。
・前方で、点灯され、急ブレーキをかけたことがある。
・ハザードならまだしも、サンキュークラクションは、歩行者からしたら迷惑。音の大きさにビビってしまう。
・やれる人はやってもいいが、自分は左手に障害があってハザードのスイッチが押せないので批判されると辛いかな。スイッチ押すためにハンドルから右手を離す方が危険。
・緊急事態なのかどうか、ややこしくなるので、一向にない方がいいです。
・サンキュー事故を招くくらいなら、運転に集中して欲しい
・下手くそな奴はハザード出す前にさっさと先に進め!!ハザードを出す為に速度が遅くなったり、ふらついたり危なっかしい!!
<あってもいいがルールにするべきではない>
・ありがとうを伝えたい人は使えば良い。ただ、譲ってあげたのにサンキューハザードもしない。と怒るようであれば本末転倒になる。譲り合いの精神やありがたいと思う心を根付かせる為の1つの手段ではあるが、文化やルールとして定着させ相手に求めるものであってはならない。
・操作に不慣れだ��た頃、危ないと思ったので。できなかったのをしなかったと思われて不快な思いをされるかもと気になるし、するのが当たり前という習慣は無くなったほうが良い。
・手をあげるなど他にも感謝の意を示す方法はある。また、ハザードを含め相手に感謝する心は持つべきものであるが、「サンキューハザードを必ずしなければならない」と決めると形式だけハザードをつける人が増えるように思う。「必要」ではなく自発的に感謝を伝えることが重要である。
<ハザードの使い方として間違っている>
・気持ちは大事だけれども、ハザードランプはそのための物では無いので…。
・ハザードの使い方を間違っているので、絶対不要
・軽く会釈する方が良いと思う
・そのために脇見運転になれば問題だと思う。クラクション もビックリするからやめてほしい。
・もともとはありがとうではなく、トラック協会が推奨した、後続車に車間取れの合図だったというから、感謝の意味でハザードは不要
<そもそも譲り合うのは当然>
・みんなが当たり前に譲り合う気持ちで運転できればいいと思うので不要だと思う。
・交通安全の為には譲り合うのが当然で、特段の便宜をはかってもらう訳でもないのに、いちいち謝意を表する必要も無い。増して、その為にわざわざ余分な機械操作をしてハザードを点けることはない。
・自分はやっているが、なくてもいいと思う。お礼がなくても別になんとも思わない。無理やり前に入ってくる車がハザード炊いても嬉しくもないし、むしろ危ない入り方をしないでくれとしか思わない。
・無理やり割り込んでハザードを出す。それで許されると思っている。あおり運転誘発してると思ってない。最悪。
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